2018年05月14日

春の日短歌十首(飯館村の佐須から霊山から山上へ-南朝滅ぶ歴史の道)


春の日短歌十首(飯館村の佐須から霊山から山上へ-南朝滅ぶ歴史の道)

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ここはひびくよう滝ではなかった

もっと下の方だとひびく滝があった,あそこに桜が咲いていた

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これは山上の谷野原の寺の跡なのである。
これがいつの時代のものかわかりにくかった



この山路誰かすみなめ石一つ春の日さして家の隠りぬ

佐須の村住む人なきやあわれかな墓をたずねて春の日暮れぬ

春なれど住む人なきを悲しみぬ佐須の村に来て花は咲けども

ここにある墓もなしかもいづこへと人は去りにき春となりしも

春となり乳神の碑ある家にきて誰か住みなむ佐須村に来ぬ

南朝の栄一時霊山を落ち延ぶ武士や花の吹き散る

山桜はや散りにしをそのあとに滝の轟き夕暮れにけり

野馬追いの旗にし残る南朝の落ち延ぶ武士やその裔を知るかな

寺の跡古き碑ありぬ春の日や心残りて夕べ去りにき

南朝の裔も交じりつ相馬氏の治めし城や時は経にしも


歴史は時代がありその時代の後先が混同するのが一番の問題である。
郷土史研究でもまず村の新旧を知れというときそうである。
この村はこの家は古いのか新しいのかが最初の問題なのである。
なぜなら日本全国で戦後引揚者が山の奥地まで開墾に入ったからである。
そういう村は新しいのである。
そしてそういう村でも江戸時代からつづいている村なのである。

飯館村の佐須というのは佐須(サス)焼き畑のことである。
だからこの焼き畑地名は本当に多い,街の中でも反(ソリ)とつく焼畑地名だったりするからいたるところ焼畑にした,なぜなら今でも農業で一番苦労しているのが肥料だからである。森でも焼き払って灰を肥料にするのが楽だからそうなった
佐須村も江戸時代からあり古いのである。

あそこに乳神の碑が畑にあった,それは明治のものだった,ということは明治時代でも生活は厳しかった,その時牛など飼っていないから牛乳がとれないからである。
戦後自分が生まれ時戦争が終わった時であり牛乳が欲しかったから父親が並んで買ってきたという,その時極端な物不足になっていたのだ
そういう苦労があって自分も育ったというときそれも歴史を知ることなのである。
だから両親とか祖父母から聞く話がまず歴史なのである。

佐須村では人は住んでいるのもみかけるがほとんど住んでいない,一割にも満たない感じかもしれない,ただ全く人が住んでいないのではない,住んでいる
佐須村の中心部で家が多いところには人は住んでいないみたいだ
もともと人が少ないのだから家が多いところに人が住んでいないようでは淋しいとなる
廃村の風景なのである。

あの辺に墓があったりしたがその墓すらなくなった,つまり人が移住すると墓も移住するからである。
佐須村は別である。墓がなくなったのは佐須村へ来る途中の一軒二軒家があったところである。菅野とかあり飯館村の町長もこの村の出なのである。
何か飯館村も原発事故では有名になったとは言える
自分は必ず墓を訪ねているのである。その墓を見て郷土史に興味をもったとなる
墓は資料とは違う,ここに現実に生きた人が眠っているという感覚になるからだ

霊山への道はこの辺では大きな歴史の道である。南朝の城が霊山にあり十年ほどで炎上してその落武者が逃れた道でありその人たちが相馬市と南相馬市の鹿島区の真野に逃れた
この伝説は明確な歴史であり祭りとして残された
鹿島区の只野氏について書いたが只野という姓は本当に鹿島区で多いのである。

何かを自然でも歴史があると違って見える,霊山は歴史の山でもある
だから相馬市の方へ下るとき滝がありとどろく,そこは桜が散ったあとだったのである。何かそれを山桜が散るというとき南朝の滅びを感じる
それは歴史の道になっているからだ
だからやはり最低限をどこでも歴史があるから歴史を知る必要があるのだ
それを知らないとただ自然の中で山桜が散ったとしかならないのである。

ともかく飯館村でも人が住まなくなるとそうした歴史を偲ぶこともできなくなる
佐須村でも人が住まなければそこはどうなるのか?
歴史の道というのではなく廃墟の道,廃村の道となってしまう。
歴史の道というとき何かそこはただの自然ではない,人間の悲哀とかが自然に折り込まれたものとして見るのである。
そういうものは奈良とか京都では歴史があるから常に歴史的に自然でも見ているのである大坂城の桜でもそうである。そこに散る桜はそこで繰り広げられた人間の戦いの跡であり栄華の跡だからこそなんともいえぬものとなる,それが歴史なのである。
東北では桜でも何かそれだけの歴史がないから感じるものがないともなる

歴史を見るときやはり時代が大事である,新旧が大事である。
相馬の城というけどそれは南朝時代の後なのである。
霊山の南朝が滅びたときは今の相馬市には城がなかったのである。
でも南朝が落ち延びてその一族がやがて相馬氏に吸収されて野馬追いに出るようになった只野氏の杉の旗がそうである。他にも南朝が滅びて霊山を落ち延びたとき桑折氏とかもその一族だったのである。それは鹿島区の真野の中館に屋敷を構えたのである

谷野原の寺の跡だったというところには古い碑が集められている
あそこは何か不思議である。江戸時代からあったのだろう
ただ谷野原村というのはない,山上村の一部なのだろう
山上村には山王神社がある,山王の旗が野馬追いに出るがそれが南朝方である。
だから野馬追いの旗では南朝に由来するものは分類できるとなる
一番多いの只野氏の旗なので

春の日に霊山に行く(南朝を偲ぶ- 短歌十首と俳句十句)









中山道の旅初夏十句 (歩く旅は記憶している)


中山道の旅初夏十句

(歩く旅は記憶している)


奈良井宿奥にあわれや藤の花

山吹や中山道に分け入りぬ

武者幟山中行くやひびく川

山吹やしとどにぬれぬ山の道

山吹やしとどにぬれて山伏の碑

初夏や雨に煙りぬ木曽の森

山中に分け入る道や木下闇

岩の渕浦島伝説藤の花

(福島関所)

止められず関所越ゆるや夏燕

妻籠宿ひびき落つ水涼しかな

古りにける妻籠の宿や菖蒲かな

上り行く馬籠の宿や夏の山

確かに旅したのは山吹の咲いているときである。この時は電車の旅だったが途中歩いたりした,その歩いたところが記憶に残る
ただ記憶というのは不思議である。中山道は夏と秋に旅している
それが記憶の中で混乱する,秋に旅したのは自転車だったからである。
記憶たどるたびの不思議は時間的に順序が不明になる
それは例えば江戸時代の年号があってもその年号に何があったか不明であり
年号の順序を間違える,ただ元禄というとき何か目立っている時だからわかるがその他いろいろ年号があってどっちが先なのか後なのかわからなくなる
なにかそれとにていていつ旅したのかその時間の順序がわからなくなる
それは30年とかすぎてみるとわかるのである。

奈良井の宿に泊まったことは覚えている,その部屋の奥に庭があり藤の花が咲いていたことを覚えている,それから奈良井の宿から鳥居峠を上ったとき雨だった
それで深い木曽の杉林が森に煙る景色を覚えている,その時森が深いなと感じた
鳥居峠はさらに奥であり歩いていない
鳥居峠の入り口に山伏の碑があった,山伏の関するものはいろいろ残されている
山伏も旅する人でありその伝説が残されている

電車の旅だからとぎれとぎれに歩いた,最初は山吹が印象に残った
次に妻籠ではここも結構長い道を歩いた,それでその道に菖蒲が咲いていたことを思い出した,その紫の色が心に沁みた,それはなぜか、歩いていたからなのである。
このように歩くことは心に記憶されるのである。
だから旅はまず車だとかバイクだとか自転車ですら記憶に残りにくいのである。
歩くことで記憶に刻まれるのである。
現代の旅は何か電車だとか車だとかバイクだとを利用した旅である
すると記憶に残らないのである。何十年と過ぎたときさらに記憶に残らないのである。
だから旅すらなら歩くべきだと反省する,中山道は歩くにはいい道だからである。
まず東海道などは昔の面影がない,中山道だけは昔の面影が残っているからである。

歩くときはこの辺だと街道を歩くのはいいが六号線を歩いても記憶に残らない
それはどこでもそうである。街道を歩まないと記憶に残らない
何か車の洪水にまぎれ記憶に残らないのである。
現代はまず便利だからその便利な乗り物でも利用すると旅として記憶にも残らないのである。
一区間だけでも昔の旅人のように街道を歩くことである
その効果は意外と大きいのである。旅は計画することと旅を実行しているときとそして意外と後でふりかえる回想することが大事になる
でも記憶するには歩くかしていないと記憶に残らないのである。
芭蕉でもみちのくを歩いて旅したからこそ「奥の細道」ができたのである。

都会とかはほとんど記憶に残らないのはなぜか?
喧騒と雑踏にまぎれて人も景色も記憶に残らないのである。
何か大都会になると蜃気楼のように見えてしまうのである。
それは日々の生活でもそうである。都会の生活はあとでふりかえると記憶に残らないのである。回りの景色でもそうである。
そこに生の充実がありえようがないのである。
でも経済的観点から都会の方が便利でいいとしているのである。
ただ最近若い人が田舎で暮らしたいと移住しているのもわかる
人生を充実させるには田舎であり都会ではないからである。
もちろん田舎にもいろいろな問題がある,嫌なところも多い
ただ何か人生を生きるというとき都会に生きて何が記憶されるのか?
それを思うと都会だと車や雑踏や騒音の中に人生も記憶に残るものがなく消えてしまうともなる

いづれにしろ人間の基本は歩くことにある,武道でも空手でも歩くことを基本にして訓練していた人がいた,歩くことを文明人は奪われたのである。
それは実に脳に相当に影響している,外界を体で感じることができない
人工的空間で五感が衰退したのである。だから文明がいかに発達しても何か失われものは必ずある,ただ時代によって得るものも必ずあるとなるのが人間社会なのである。

俳句というとき一句だけではものたりないから自分は短歌でもそうだか十句十首として連作として作る,すると一句一首ではものたりないものが連作として読むと違ったものになる
奈良井宿辺りでは山吹が目についたが妻籠辺りでは紫の菖蒲が目にしみたとなる
その対象で一連の俳句を鑑賞できるともなる