2018年06月30日

2004年9月30日の俳句日記を読んでふりかえる (向かいの人の死で死を考える)


2004年9月30日の俳句日記を読んでふりかえる

(向かいの人の死で死を考える)

窓開けて隣に古き柿のなる

この辺は前も書いたがまるっきり昔の面影がない町になった。唯一残ったのが隣の古い柿の木である。これは自分の子供時代からあった。ほかは何もなくなった。その隣の家の人が最近死んだ。呆気なく死んだ。時々この窓から見ていたので死ぬとは思っていなかった話すこともなかった。東京の方へでて帰ってきた人だった。おくさんは東京の人だったがそれでもすでにここに長い、でも一言も話すことなく死んでしまった。ただこの柿の木は結局人間の寿命より長い、木の命は人間より長いから人間が死んでも残るのだ。人間がいなくなっても木は昔と同じように存在して柿が今年もなった。

2014−2015年 俳句日記より

隣の家は空家になっている、今は一時的に家を建てるための人が移り住んでいる
その人には息子か娘の夫婦がいて孫がいる
でも家が建ったらまた空家になる
その人の家は夫はこの町の生まれの人だった、嫁は東京の人だった
だから子供の時から知る人ではない、でも長くその家にいて自分の窓からその庭が見えた古い柿の木があり柿が実っていた、犬もいたが最後の三日くらい吠え続けて死んだ
犬も死ぬのが嫌だったのだろう
その女性は体が弱り買い物などを頼んでいたが遂に歩けなくなりいわき市の施設に息子夫婦が入れた、一か月18万とか高いことを言っていた、施設は実際そのくらい金がないと入れないのである。

何か過去をふりかえると不思議である。俳句日記を読んでも忘れている、その時のことが思い出せなくなり日記を読んで記憶をよみがえらす、2005年までは自分の姉は認知症になっていなかった、2006年から認知症になり介護生活がはじまった
その時は自分の家は平和だったのだ
そして自分は以前として家に引きこもっていて隣の家の庭を見ていたのである。
ふりかえると自分の生活は異常だった,なぜこうした生活ができたのか、それは特殊な家の環境のためにそうなったのだ、60年も家にひきこもった生活をしているのは異常だったし普通はできない、最近ニートとかいるから今はめずらしくない
ただ自分の場合は50歳から海外旅行していたからニートとはまた違っていた

この辺は変化はあまりにも激しかった、津波や原発事故の前でも住宅整備があり裏の畑や田んぼは整地されて住宅地になったからだ、その変化も大きかった
子供の時は真野川から水をひく水路がありそこで洗濯もしていたのだから信じられないとなる
人間はこんなに変わるものなのか、特に姉が認知症になりそれからは塗炭の苦しみが延々とつづいた、そのことは今度はプログに書いてきた
そしてなぜまたここに引用して書いたかというと数日前向かいの子供の時から知っている女性が死んだ、一週間前ほどに姿を見かけたので死ぬとは思わなかった
歩ける人が死ぬと思えなかったからだ、でも肺が悪くて血を吐いて死んだのである。

何かそのことが気にかかる、最後に言葉をかければよかったなとつくづく思う
そして近隣の人の死は何なのだろうと考える
何といっていいかわからないのだが死んだ人が何か言いたかった、そしてこの辺をまだ彷徨っていとなる、ただ向かいの人の夫婦は姿も見たこともないから関係ないとなる
でも死んだ女性のことは知っていた、その死が何か気にかかるのだ
家族の死でもないのになぜ気にかかるのか?

おそらく昔の死は村で共有していた、村の中でその死は孤立したものではなく死んでも共有されるものがあった、それで村人みんなで供養したりしたのだろう
そこに寺があり長く供養していた,寺は嫌だがそうして村の共同体が成り立っていた
その村の共同体がなくなると死は個々の死であり家族内とかの死であり近隣ですら関係ないものとなる、孤独死とか無縁社会というのも死者でもそれは近隣でも無縁化した死となる、死には個々の死がある、死ぬということは別に共同体とか社会と関係ないものとしてある、人間が死ぬ、そして灰になり消える,その衝撃は人間が生まれてから変わらないからである。その克服は別に共同体とも関係ないのである。
なぜならもう強固な共同体があったら死をまねがれるということでもないからである。

ただ死には共同体とかかわり社会的な死がある、人間は社会の中で死ぬのである
家族の中で死ぬのである。家族も社会とかかわりあり死がある
何か今回の向かいの人の死が自分にとって何なの考えさせられた
何か言い残したいことがあったのかなと思う、死の謎は個としての死と社会的な死があることは確かである。300万人の死は国家としての社会としての死であり個々の死ではなく社会的死としての問題なのである。

人間がそこに長く住むということは死を共有することになる、村というのは代々つづいているからだ、そこに先祖がいるといか感覚になる、先祖と結ばれるということはそこには村のような共同体があってこそそう感じる,それは理屈でなく一つの宗教にもなる
先祖崇拝がどこの民族でも起きていたからである。

でも現代のように生活が複雑化してそれぞれが孤立化したような社会になると共通の先祖を認識できるだろうか?
春になると御先祖様が山から下りてくるという思想は農業から生まれたのである。
葉(羽、端)山信仰もそうである。山から水が流れてきて春になると田植えがありそれで先祖が里におりてくるというときそれは農耕社会だから起きてきたことである
なぜなら農業社会だとみんな同じような生活をしていたからである
そこに共有するものが実際の生活でもあり精神的にある
そういう社会は死も共有していた、自然と抵抗なく共有できた
村では共同して農業をしていたからである。

だから墓友達などと今は同じ墓地に葬れられたいというけどなかなかなりにくい、つまり生の延長として死もあるからだ、社会的死というときもそうである。
だから現代は田舎でもみんなで死を共有して弔うということがない
葬儀屋にまかせるとはいうのも何か社会的死を専門化させてかたづけるとなるからだ
ただ正直村社会になると葬儀とかが本当にめんどうになるしそこに寺がかかわってきたらさらに金もかかるしめんどうになる、そもそも江戸時代のような社会とはあまりにも変化してそれもそぐほなくなったからだ
ただ死には社会的死がある、それは死というのが個としての死があっても社会的死となるのが人間だからである。動物だったら仲間が死んでも無関心だからである。

いづれにろ現代社会は死も共有できなくなった、その時先祖もなくなる、共通の先祖もなくなる、天皇が稲作の神であり大嘗祭をしていたときは共通の先祖として認識されていたのである。現代のような工業社会ではもう天皇でも共通の先祖として認識できなくなる
その時何が起きるのか?
国家や民族や街や村の解体が起きるのではないか?

津波や原発事故でこの辺が避難して町でも村でも人が住めなくなりもぬけの殻のようになったようになるのではないか?
死が共有できないことは先祖も共有できないことなのである。
つまり現代文明社会は便利さを追求してきたが様々なものを破壊してきた
それは何か目に目見えないものとして心の絆としてあったものも破壊した
金さえあればいいんだということが極端化して共同体でも破壊してきたのである。
それで死にすら意義を与えられなくなった、ただ個として孤立した死となる
孤独死とか無縁化というのは別に特殊な人ではなく社会全般の問題なのである。

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日本社会はすでに壊れているのではないか?
かえって遅れた国だと人と人のつながりが濃くなる
江戸時代がそうだった,長屋とかでもそうだった
ただメキシコが遅れた国とするとき孤立しているのか?
ヨ−ロッパでは先進国でも孤立していなのはなぜか?
宗教のためのなのか?でも宗教は否定されてきたのである。
ただ日本の状態は社会が壊れている、共同体が戦後は高度成長で経済第一主義となり金が第一主義となり破壊された、金があまりにも力をもちすぎた
社会があって金があるのではない、金があって社会があるとなってしまった

だから社会の絆もなくなり解体してゆく、金持ちが外国に貯金して何かあったら日本から出てゆくというときすでに金持ちは責任もなにも自覚していない
ただ金さえあれば世界のどこでも生活すればいいとなる
金だけの社会はそうなる,この辺でももともと一億円もらったら田舎なんか出てゆくのになと若い人が言う時そうだった、そして原発事故で避難民になって多額の補償金をもらったときいち早く出てゆき外に家を建てたのである
共同体の絆もなくなりそれが容易になっていたからではないか?
こんな簡単に村とか町が放射線が怖いとしても簡単になくなってしまうことが理解できないのである


回想・大正初期の山村生活誌 (我心の奥の伊奈谷)ー武部善人を読む


回想・大正初期の山村生活誌

(我心の奥の伊奈谷)ー武部善人を読む

1912年(明治45年)生まれだから百歳超えているとしたら今は死んでいるだろう
自分の父親も明治生まれであり葛尾村で生まれ育って双葉の新山の酒屋で丁稚奉公したのである。
山村の暮らしとなるとわかりにくいがここにはその暮らしが実感として書いてあるから訴えるものがある。
学問でも実感が大事である、もちろん文学でも自ら体験しないものは訴えない
人の体験談でも自分が経験していなと共感できないのである。
だから職業を同じにしている人は話が合うのが当然なのである。
そして戦前から戦後十年は農業が主体の経済であり日本人の生活は農民が主体であった

ここで語られているようにまず養蚕が盛んでありこれにかかわらない家はないくらいだった、それで今でも近くでも兜型の屋根の家が多く残っている
二階で養蚕していたからである。
その時代を重ね合わせると自分の母の実家は祖父が機織り工場を経営して失敗しとか母が原町の原紡(原町紡績)で十年間糸取りとして働いたとかある
養蚕や絹織物が主な産業であった、自分の家の裏には桑畑があり麦畑もあった
それが今は住宅地になって何もなくなった、今思うと回りが畑であり田んぼだったということなのだ、街中にいてもそこは田んぼや畑に囲まれていたのである。

現実に街でも農家がいて養蚕をしていたし畑を持っている人はいまでも普通にいる
なんらか農業と関係していたのが田舎なのである。
それは一万くらいの町だからそうなっていた
原町になると大きな紡績工場があったりと多少違っていて農家だけではない
でも六号線近辺は農家だったことが今でもわかる、広い庭があり農地があった
原町では原の町駅が機関区になり引き込み線があった、鉄道と直結して荷が運ばれていたのである。鉄道が運送の主役だったからそうなっていたのだ
伊奈でも紡績工場に行く女工哀史があり肺病になって帰ってきた女性がいたとかなる
でもそこは現金収入になる場であり農村では食べられないものが食べられたとかある
今ではネパ―ルから働きに来ている人とにている
その人は四〇〇〇メートル級の所に住んでいたからだ
そこでしきりボールペンをくれと言われたの覚えている,つまり書くものすらないのである、山だらけでありそれも高いからどうして暮らしているのかと思った
ただにたような山の暮らしが日本にかつてあったのである。

この頃の時代と戦後10年の自分の子供時代はだぶる、だから自分は体験しているから共感する、それは団塊の世代まででありその後は急速に高度成長したから体験がないからわからなくなる、つまり戦後十年は戦前とか大正でも明治でも江戸時代まで生活の基本が連続していた、囲炉裏も街中の生活でもあった、みんな炭を利用していたからだ
電気があったとしても裸電球一つであり道は舗装されていない、輸送は馬車の時代でもあった、馬車のうしろに乗って遊んでいたときがあったからだ
馬車屋というのが普通にあった時代である。
その時水道もなく自分の家では井戸がないから近くから水をもらっていたのである。
ただその水は無料だったのである。

この本では肺病のことが書かれているがその時肺病は国民病と言われていてなる人が多かった、母の実家の墓には25歳で死んだ兄が眠っている、その話を聞いている、何か苦しいからキリスト教に入ったみたいだ、だから戒名はない。
啄木も肺病で27歳で死んだとかこの病気は若い人が死ぬから悲惨だったのである。
現代の国民病はアルツハイマーだというとき高齢化社会を象徴しているのだ
肺病が伝染病だということがその時かわらなかったのである。
病気というとき何か原因がわからなくてなるが原因がわかると直ることがある
戦後に伝染病だとわかり肺病はなくなったのである

天竜川沿いとかこの伊奈谷は山深い、そこで生の魚を食べたことがないとここで書いてある、昭和二年に伊奈電が開通するまでは「陸の孤島」で子供の時に海の生魚を食べたことがない、全部塩辛い、塩の吹いた、かちかちの干し魚であった
イカもタコもかちかちの干しものしか知らなかった、後年生きた実物を見てどうしても信じられなかった
そして蛇、マムシ、赤蛙、蝉、イナゴ、蜂、繭の蛹などを食べた

これがやはり山村の生活だった、塩漬けのものの魚を食べていた、でも糸魚川から松本まで長い塩の道があり有名である。牛で塩を運んでいた塩の道である。塩の道は飯館村へもあったから山村では塩は貴重なものだった、ただここはまだ海が近いから松川浦から塩だけではない、生の魚も運ばれたのかとなる、一日くらいで運ばれるから悪くはならないからであり事情が違っていた
ただ塩は山村では貴重なものだった、保存するにも貴重だった
そして何でも食べたというときイナゴはこの辺でも小学校の時、学校でイナゴをとり売っていたのである。みんなでイナゴとりしていたのである。
これは食用にもなっていたから同じだった、こんなこと今はありえないのである。
田植えの時期とか養蚕でも忙しいとき学校が休みになったというときそれは農業中心の社会だからそうなったのである。今は家の仕事が忙しいからと学校を休むことはありえないのである。

この人はまた家で紙漉きをしていた,これは辛い仕事であったことを書いてある
石神で紙漉きしている家に嫁いだ人を知っている、それは戦前までしていた
その家はもともと武家であり野馬追いにも出ていた古い家である
石神では実は紙漉きで有名だったのである。二三〇軒くらい紙漉きをしていた家があったのだ、紙漉きは当時大きな収入源となっていた
ただその様子を知ったらいかに紙が大事なのもか認識したろう
現実にこの著者は紙漉きをしていたからである。でもうまくやれずにいい紙を作れなかったと書いてある 

氷割り楮すすぎて生漉紙(きずきかみ)すく共の手の赤く大きく

冬に紙漉きするから辛い、氷が張っている川でする、伊奈というと寒いからである

いづれにしろこの著者はこうした貧乏な山村が嫌で都会に出た、その事情もわかる
ここには鉄道がまだ通っている、飯田線であり豊橋にでるまで長い,途中何回か乗り換えしたりしてやっとついた、一両の時もあった、相当に辺鄙な山奥である
ただ長篠があり織田信長と武田軍が戦った跡があるから意外と名古屋に近いのである。
飯田までは明治に電車が通ったが伊奈までは通っていなかった
それだけ発展が遅れたのが伊奈だったのである。

ともかく貧乏だった、明治生まれの父は酒の魚でも味噌を焼いたものとかしかない、それは戦後十年はそれだけ何もない貧乏な時代だったからである。
それで病気になりサシミ食えるようになっても食いたくないと言って死んだのである。
この著者は伊奈を出て学者になりあとは贅沢したとなる
戦前生まれは貧乏を体で知っている、ただ団塊の世代は確かに子供時代は貧乏を知っているがその後は豊かな生活であり飽食の時代を経験している
だから骨身に染みる貧乏は経験していないのである

子供時代はみんなそうして貧乏だったのである。だからそこに奇妙だが格差はなかった
なぜなら物自体がないしみんな同じようなもの食べていた
そして自家生産していた農家の方が食べ物に恵まれていたのである。
卵焼きすら食べられない時代だった
強い巨人軍や大鵬、物価の優等生と呼ばれた鶏卵が「時代の象徴」だと冗談で話していたことがきっかけであったという
卵焼きが食べられるようになったのは戦後一四五年くらいだったのである。
これでいかにまともなもの食べていないかわかる,ただ塩びきとかはこの辺では良く食べていた、御馳走だった、この辺の近くでとれる石鰈でも大晦日では食べるのが習わしだったそれは晴れの日にしか食べていないのである。

江戸時代から明治昭和と戦後十年くらいは庶民の暮らしは基本的にそれほど変わっていないのである。鉄道ができたことが大きな変化でもその鉄道を利用するのは貨物輸送のためであり庶民は乗車賃が高いから利用していないのである。
近隣を主体にして生活していたのである。梨農家が相馬市までリヤカーで梨を運んでいたというのも運送には鉄道は利用していないのである。

この著者は母のことも短歌にして残している

この静寂(しじま)生家の部屋に目つむれば憂ひに沈む亡き母の影

囲炉裏に座っている母を偲んでいる、意外と母というのは死んでから偲ぶことが多い
自分も生きているときはうるさいなとか思っていたが死んでから偲ぶようになった
母の存在感が大きいことを知った、人間はありふれてあるものを意識しないのである。
それがなくなったとき意識するのである。
故郷でもそうである、それがなにかわからないし意識しない、でも原発事故で避難したり故郷を離れて帰らないとなると意識するのである。
死後に存在感を増すものがある、失ってみてその大事さを知る
何かこの歌でもずっと母というのは存在している感覚になるのだ
人間は死んでもその存在が消えるものではない、存在し続けるのである。
posted by 天華 at 07:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 明治維新-明治以降