2018年07月02日

団塊の世代の親が死に同世代も死んでゆく (一人暮らしが増えてゆく)


団塊の世代の親が死に同世代も死んでゆく

(一人暮らしが増えてゆく)

その人は子供の時から家の近くに住んでいた、その親も知っていた
ただその後は言葉も交わさない、でも自分の親が介護になったとき
その人が同じ病院で親を介護していたのである。
脳卒中だった、だからこれから介護が長いなと見ていた
でも今日スーパ−であったら親も88歳で死んで妻も68歳で死んだという
その人も一人暮らしになったのである。
そこにまたいたのが近くの一回脳梗塞で足がマヒした人だった
それは同世代でありその人も親が死んだ、その人の親とは自分の親は親しかった
その人は一人だけで原町に弟がいて一週間に一回見にきている
でもう。まくいってないとこぼししていた
何か世話するのが嫌なのかもしれない

子供の時から知っている人が死ぬとやはりあの人も死んだのかとなる
親戚も多い人は毎月お悔みが増える、それが田舎では大変なのである。
自分はほとんどつきあいがなしお悔みも断った
そのお返しとかめんどうになるのである、葬儀もしないうというとき一人でやるのがめんどうになるからだ、介護でもそうだが一人は家事でも全部やらなければならないから負担なのである。
子供の時知っているということは一応他人でも無関心とはならない
ただ今日スーパ−で会った人は役所に勤めていたことは知っている
ずっとこの地に住んでいたのである
近くの人でここに最近移ってきた人は子供の時からいないから向かいの人が死んでも知らなかった、組にも入っていなかったからだろう
ただおばさんとかいてそっちの方の組に入っていたのだろう
そういう人は死んだことも知らないのである。

ともかく68歳で妻が死ぬということもある、そして一人暮らしになる
近くの子供の時から知っている女性も夫が60代で癌で死んだ
そして大きな家に一人暮らしなのである。
このように一人暮らしが増えてくる、これはどこでもそうだろう
団塊の世代の親でも次々に死んでゆく、向かいの女性は85歳だった
その人の親は88歳だった、姉は85歳で死んだ母は百歳で死んだ、脳梗塞で足が悪い人の母親は93歳くらいで死んだ
やはり85辺りになると死ぬ人が女性でも多いと思った
やはり寿命なのだろう

とにかくこんなに次々に知っている人でも死んでゆく、死の世代だともなる
2025年問題が騒がれているけど実感した、今度は親を介護して看取った団塊の世代が大量に病気になったりする、その数が多いからもう国ではめんどうみきれない、財政的にもめんどうみれないとなる、それが2025年問題である
古い家の郷土史をやはり研究している同級生も脳卒中になったが自転車で運動している
でも一回脳卒中になるとまたなるとか見ると弱って見える
この年だとみんな弱ってくる、そして一人だと心細くなる
ただみんな兄弟とか娘とか息子がいるのとは違ってくる
でも娘が東京にいるとか聞く人が二人いた、必ずしも田舎に住んではいないのである。
それもだから介護になったりすると問題である。
妻でも60代でも死ぬ人がいる、夫でも死ぬ人がいる,するとそこで一人になる人が多いのである

このことで問題にして本を出した人がいた、コンパクトシティを作るべきだというのもわかる、介護にしても福祉にしても離れていると一軒一軒回るのでも手間になるからだ
ともかく親でも知っている人でも次々に死んでゆく
死が日常的に感じる世代になった、そして同世代でも死んでいる人もいるし大量に死んでゆく時代になるのだ、その時都会では火葬場すら満員で利用できないとかの問題も起きている、数が多いからそんなことまで起きているのである。

利権ばかり追求する巨大組織会社により歪められる (権利はrightであり日本にも中国にもその意味はない)

  利権ばかり追求する巨大組織会社により歪められる

 (権利はrightであり日本にも中国にもその意味はない)

権利という言葉を意味する西洋語は「権利≒法」として用いられており、そこに「正しさ」を意味する点で「権利」という言葉とは決定的に異なっているようです。

権利という訳は何か本来の意味とは違っていた、権とは力ずくで得るという漢字に由来しているというときもこの漢字をもってきたことは問題があった
ただ訳しようがないのでこの訳にした
権利は権理とも訳されていた、ここにresonableという意味が入れば本来の意味に近づくともなる

ヨ−ロッパの文明が入ってきたとき明治維新に日本人はいろいろとまどった
選挙のことでも札入れとかとして理解した、日本にないものだからあるものからイメージするほかなかったからだ
銀行が日本になかったといってもその前進となるもの無尽とか頼母子講とかの相互互助の組織が作られた、それで近くの人の古い家柄なので親立・・・とかの書類が残っていて
その家は信頼される古い家なので親になっていたのである。

だから今の時代は何でも巨大化して本来それがどういうことで成り立ったのか?
どういう趣旨ではじめられたのか?それもわからない、銀行でも証券会社でもそういうものを理解しにくいのである。
そして今や銀行が窮地に追い込まれるときどうするのかというときその成り立ちから考える必要がある,銀行の前進が頼母子講だというときそれは相互扶助の地域の仲間の集まりから生まれたのである。地銀とか信用組合でもそうである。
それはグローバル化で世界の株式市場に参加するときもう理解できないものとなる

つまり現代文明は巨大化であり巨大組織化である、それは世界的に拡大する組織である
その時その意味を理解することが不可能になる
もうそこには人間的な血と情も通わなくなる、金と数字の世界だけになる
統計の世界になり人間のすべては数値化したものとして見るだけになる
世界的貨幣経済になればそうならざるをえない,物でも食料でもいちいちそれがどうしてできたのか、その苦労を語らせたらきりがなくなる

昔の市場だったらこれは苦労して作ったとか栽培したとか語られる
だから高く買ってくれとなる、そういう人間的な場として市があった
そこに市の面白さがあった、今はスーパ−で無数の商品があっても売る人はそれがどうして作られたかなど知らないのである。
ただ生協の人が回ってきてこの豆腐は特別作ったものだか卵も餌を選んで作ったものですよとか言うとき、生協ではそうして作ることを委託しているから説明てきたのである。
スーパーだとそういうことが一切聞けないのである。

江戸時代だとあらゆるものに人間の情とかが通っていた世界である。
もちろん江戸時代を理想化することは危険でもある
つまり過去は理想化される、死者も一旦死ぬと何なのかわからなくなり神格化しやすくなる、それで歴史も誤解が多くなる、たいしたことがない人物でも祭り上げられる
司馬遼太郎は坂本竜馬や吉田松陰を小説で英雄にしたてたのである。
それは史実ではないのだけど一般の人は史実など調べないし興味ないからそれを信じるのである、でも小説でも物語でも真実はふくまれている
良く時代劇で火事で家族が別れ離れになった子供が孤児になったことなどがドラマにするがそれだけ江戸などは火事が多いからありえたことなのである。
焼け焦げた骨格が掘り出されて生々しいものとして見る

権利というとき明治以降に私的所有権が認められたとき無数に個々人の権利が主張されて細分化されて昔の入会権が消失した、その時逆に公共的なものとして山を管理できなくなったのである。土地の私的所有は土地バブルとして一時東京辺りで大問題になった
土地の公有制が失われた私権の権利化したからである
また権利を反対にすれば利権になる、権利はrightより利権として日本では理解したのである。権利を主張することは利権を主張することになった
そのことが戦後の民主主義でもすべてが権利を利権を主張することになったのである。

大組織となるとそこは巨大な利権が動く場であり利権しか見えなくなる
それが原発でもそうなった、それは何十兆円とかの金が動く想像もできない利権だったのである。その利権のために政治家が動き官僚が動きマスコミが動いたのである。
そして安全神話作られたのである。800億円もの金がマスコミに宣伝費として流れた
その利権が莫大なものとしてありそれによって動かされる、right(正しさ)によっては動かない、ただ利権によって動く、それが権利だとなるからだ
そこにすべての歪める基があった、巨大会社は組織は利権によって権利によって動いている、カルト教団が宗教で信仰で動いているというのではない
そこも数を集めて利権をえ得るための団体なのである。
なぜそれほどに数を集めることにどこも奔走しているのか?
それは民主主義が数が権力だからである。田中首相が政治は金と数だといったときまさにそうだった、宗教でも頭数をそろえれば権利を主張できて利権を得ることになる

そこで何が起きてくるのか?すべてが利権で動き権利を主張するとき何が起きてくるのかrightは無視されて社会は歪められる、医療にしても医者とか病院とか薬業界は利権で動く、そして無駄な薬を飲まされる、利権として結びつきそうなる
それはあらゆるところで起きている
利権だけを主張すれば公正な報道はできない、マスコミも利権で動くから原発では公正な報道すらできないし大事なことを報道すらしなかったのである。

権の意味は

いきおい。ちから。「権威」「権力」 Aおもり。はかりの分銅。「権衡」 Bはかる。はかりごと。もくろみ。「権謀」  Dかり。かりそめ。便宜的な処置。「権化(ゴンゲ)」 Eそえ。正に対する副のもの。「権(ゴン)大納言」

権という意味にはrightという意味がないのである。中国の政治的な横暴の意味が強い
巨大な組織は会社でも政治組織でもカルト宗教団体でも権力をもつから権利をもち主張できる、それは医療業界でもそうであり漁業組合でも農協でもそうである
漁業権の問題を論じたが正当なrightはそこになかった
そもそも漁業権はそういう趣旨で与えられていないなかったからである。
ではなぜそれが法律的に許されたのか?
それは政治家が東電が権力を利権をもっていたからである。その権でもって押し通すことができたからである。

もし法律家でも法律でもって正当性をrightを追求したら漁業権はありえない
漁業権は資源の保護とか別な趣旨で与えられていたからである。
それが通ったのは漁業組合が権力をもって要求できたからだとなる
でも法律でrightをreasonを追求したらありえないことだった
それだけではない、なぜ原発が建てられたかというときそれも原発を建てる土地を提供したものと県の権力で命令で建てられたというのも法律的にもありえないことだった
その時そういう法律はなかったから立法なかったから権力があるものが何でも押し通すことができたとなる
法律とはrightを追求する時理由なき権力の横暴を抑制するものとして成立したのではないか?皮肉なことは弁護士でも検察でも今はそれがないという
99パ―セントが有罪になっているとか検察も利権化して出世争いのためにあるとか
天下りの席をえるためとか学者だと御用学者になるとか利権の追求になる

「権利≒法」としてあるときそれはヨ−ロッパの精神の基本にある
法律はもともとrightを追求して成立した、ところが権利と訳したときその意味は失われた、権利が法を作るというとき権力が法を作るとまでなる
力ある者が正しいのでありそれを実行することが法律だとなってしまう
アジアでは中国でもそうして法の精神が養われていないしそういう文化もなかったのである。そもそも法律を作るものが何かを追求してゆけば権力ではない

それで地震研究者は地震を予知できないのに予知できるようなことを言う
そして全く見当はずれの所に地震が起きている
それはなんのためかというと予算が欲しい利権が欲しいからだという武田邦彦氏の意見は参考になる、なぜならあの人は上流階級と支配階級と直接接しているから指摘できる
下層階級しか知らない自分にはそういうことはわかりにくい、一般の庶民でもそういう上流階級支配階級のことはわかりにくいのである。
大金持ちにじかに接し得るのはやはり大金持ちであり資本家であり経営者でありそこで巨額の金が流通されているとなる、そこに役得があり得する仕組みもできているのである。それは田舎の公務員でそうだったのである。それで家族が公務員だったから自分の家でも得していたことを知っているからだ

前にも悪いことをした会社を罰する法律がないから罰することができないということもそうである、それが巨大だからそれを罰することができない
そこで権利が利権のみが主張される、政治家も官僚もマスコミもすべて利権で動くことになる、地元でもそうである。、その利権だけを追求すると今度は原発事故のようにとりかえしのつかない大被害を国を亡ぼすような大被害になる
この辺では町や村が崩壊したように国も崩壊して滅んでしまうのである。
それは利権を権利ばかりを追求するからそうなるのである