夏の霧(北海道俳句)
(霧に消えた旅人)
夏の霧キタキツネ出て古き沼
夏の霧牧場つつみ夕日かな
旅人の去りて消えにし夏の霧
霧流る襟裳岬に菖蒲かな
霧晴れて都草の一面に
旅をふりかえるとそこがどこかわからなくなる、襟裳岬まで行った、その前に寄ったのがどこだったのか?
ただ海岸でありそこに沼がありキタキツネがでてきた
それは思い出している、そこに宿があり一泊している,何か自転車だったら奇異に見られた、バイクなどがとまるライダー宿ならそういうことはない、そういう宿にも泊まったことがあるからだ、そこは町とかで運営している宿のようだった
そこがどこか思い出せないのである。、牧場の丘があったところであるがそういう風景が北海道ではめずらしくない
その時深く霧がかかっていたことは記憶にあるのでこの句ができた
自分自身すらそこがどこかわからず夏の霧の中に消えたとなる
その時自分は旅人であったからだ
今は旅人になることはむずかしい、車とかバイクでも早すぎるのである。
すると景色に溶け込めないのである。
昔は普通の人でも旅人となっていたのは徒歩の旅でありそれで景色に自然と溶け込むようになっていたのである。
今は何かホテルでも泊まると旅人として何かにあわないのである。
立派なホテルだと何か旅人の宿ではない、そこでくつろぐとかうまいものを食べるとかなってしまう、現代はこれだけ観光旅行していても旅人はいなくなったのである。
だから北海道でテント張って旅したときは旅人となっていたのである
人間は死ぬと不可解な謎になる、もう深い霧につつまれる、その存在はみんな謎になる
北海道が夏にふさわしいというときまさに旅人は夏の霧に消えた、謎となったのである。
襟裳岬では霧が流れていた、そこに菖蒲が咲いていた、そして百人浜に出ると都草が一面に咲いていた、そこにもキタキツネが歩いていた、キタキツネは日常的に出会うのであるただ襟裳岬から百人浜まで行ったことは覚えているがそこからどこに行ったのか覚えていないのである。
ともかく霧は幻想的にする、霧がつづいたので北海道のことを思い出したのである。