追い詰められた人間は一番怖い
(モラルもなにもなくなる)
今日の時代劇である人が子供と旅していて子供が病気になりその時助けられた
金が一両とか与えられて医者に見せられた
その人は名前も言わず去った、助けられた人は名前を言った
これだけだと美談だった
ところがその助けた人がヤクザであり捕らえられて牢屋に入りあと数日とかで獄門打ち首になる予定だった、そして運悪いとなるがその牢番がそのヤクザが助けた人だったのである、そのヤクザは顔を覚えていたし名前も覚えていた
その助けたことを言い牢番に難題をふきかける
それもその牢番に娘がいて仲間に娘を誘拐してとらえて人質にして牢屋から出すことを要求したのである。
こういうことを自分も経験した、これはドラマにしろそれとにたことが今の社会でもある人間社会ではあるのだ、ドラマもそれが江戸時代ならもう現代とは関係ないとなるが人間のやることは同じことをカルマを繰り返すから遠い昔でも理解できるのである
まず借金した人は追い詰められている、なんとか返すことが迫られ金がないからなんでもするともなる、借金している人はすでに犯罪予備軍である
借金することにより追い詰められる、すると金を工面するために何でもすることになる
江戸時代だと娘を女郎として売られたりする、借金のかたにされる
追い詰められた人間は本当に怖い、善悪もなにもなくなる、なぜわずかの金で殺されるのか?その人は明日食べるものがないとすると追い詰められていればそうなる
それはもう善悪の問題ではないのだ、生きるか死ぬかの問題だからである
事件はそうして追い詰められた人が犯すことが多いのである
自分が介護になり病気になったとき来たのがこういうふうに追い詰められた人たちだったのである。だから人を助けることなどできない、余裕も何もないのだ
事業に失敗して借金していたとか何か家族で問題を起こして金がなくて困っていたとか住む場所に苦労していたとかある
そんな人たちが来た時、自分が病気で弱っている、介護で苦しんでいる、そうなるとチャンスとなる、お前を助けてやるから金を出せとあからさまに言わないまでそうなったし犯罪にもあった、こうして家ががたがたになっている所だと弱者化した家は相手の要求をのまざるをえなくなるからだ
それで最初はそうではなかったと思ったが自分を意のままのようにしようとしたのであるそれは自分の金を意のままにしようとした
あからさまに金を全面に出して要求してきたのである
だから病院に入院したときその人を呼ばなかった
ただ結果的には家は荒らされて大金を失った、家の番をしていたのが泥棒だったのである
なにかこういうことがある、三人の不幸な母親のことを書いたが娘は実の母親でも5歳までしか一緒にいないし娘は母親だなと思っていない
なぜならその後に育ての親となって長く住んでいた母親すら病気になっても放置していたそして「ひどい娘だわ」と自分のところに言ってすぐ死んだのである
そういう娘が実の母親を施設に入れたのは金のためである。
その実の母親は金持ちの家に後妻に入ったからである。
それでずっと楽してきたが夫が死んだとかなり一人になって娘を頼ってきたのである
その娘は母親とか思っていない何の情もない、非情な人間と化していた
その実の母親は認知症になっていたのも悲劇である
それは自分も同じだった、自分も泥棒に頼っていたのである。
それも自分のカルマだったのだろう、この時代劇のドラマでも偶然に善意の人に助けられた、その人は名前も言わず消えた
それだけなら美談である、でも相手がヤクザだったのである。
それで最後に本性を現してとんでもないむごい目にあったのである。
しょせんヤクザとかは人は助けられない、一見情あるようでもそうではない
そのことで後でひどいめにあったからである
人間は本当に情とか愛とかいうけどそんなものがあるのかともなる
何か得られれば何かを得る、そうして計算して毎日暮らしてるからだ
無償というのはこの世にありえないのである。
事業に失敗した人は自分のために軽い荷物を一つももちたくなかった
それが態度でわかった、ただ金に困っているからその弱みにつけこんで金が欲しいというだけになっていた、その人も何日かで死刑に獄門打ち首になるのとは違うが追い詰められているからそういうふうにしか人を見なくなったのである。
その人は若い人はいい人だったという、その時は事業に失敗していないし追い詰められてもいない、会社では有能な人間として認められていたのである。月給も高かったのであるただ事業に失敗して借金で追い詰められて人間が悪魔のように変貌してしまったのであるこうして追い詰められた人間に偶然でも出会うということは怖いことである。
人間は追い詰められるとモラルを失う、今食べるものがなければ偶然あった人でも殺すとなる、善悪は関係なくなるのである。
だから追い詰められた人間は一番怖いのである。生きるためにはなんでもするからだ
何日かで獄門打ち首になるとすればもう善悪を言っていられない、俺はこれだけ悪いことしたのだからそれも当然だなどと思わないからである。
生きるためにはその時何でもする、善悪は関係なくなるのである
だから人間は別に金に困らないとか何もなければその人はいい人なのである。善人なのである。でも何かによって金でも追い詰められたら悪魔に変貌する
だから人間をそういう立場にさせられたり自らなると最も危険になるのだ
善悪と関係なく恐るべき犯罪でも平気ですることになる、そういう事件が時代に変わらず人間には起きている、
福島県会津美里町の民家で2012年7月、夫婦が殺害されキャッシュカードなどが奪われた事件で、強盗殺人などの罪に問われた無職高橋(旧姓横倉)明彦被告(46)の裁判員裁判の判決が14日、福島地裁郡山支部であり、有賀貞博裁判長は求刑通り死刑を言い渡した。検察側は論告で、 119番の録音記録などをもとに、高橋被告が、被害者を刺して
キャッシュカードの暗証番号を聞き出し、震える声で「お願い」と繰り返した幸代さんを殺害した。
この悲惨な事件もこの犯罪を犯した人がなぜそうなったのか?
やはりわからないが追い詰められていた、金に困っていた、その犠牲になったのが夫妻だった、震える声で「お願い」と繰り返し言ったのに無惨に殺されたのである。
追い詰められた人間は善悪はない、ただ今自分が生き延びるためにそうしている
ただわからないのは非情化するというとき必ずしも金だけではない、育ての親をなぜあれほど非情にしたのか?すでに成人した子供も二人もいるのにそんなことができるのか?
事情があったとこはわかるがそこまで非情になれるものなのか?
その女性は金には困ったことがない、金には恵まれていたのである。
だから必ずしも金だけで人は非情になるとはならない
ただ一般的に追い詰められた人間は善悪もなくなり怖い、そして人はヤクザのように一見情があり良いことをししているようでもそういうことはできない
悪人は悪人であり善いことはできないのではないか?
だからドラマにしろその恩を受けたことで後で恐ろしい目にあったというのも現実の人間社会であることなのだ、つくづくこの世を生きることは恐ろしいことだと自分の経験で知った
ここで恐ろしいものは実の母親が認知症になったが金があっても頼る人がいなくなっていたことなのである。それで自分のように泥棒に頼ったりすることになる
でもこれは老人になると普通に起こりやすいのである。
なぜなら金しか目的がなくなるときいくら金があっても金のことがわからなくなる
すると頼るとしても親戚でも実の子供でも金しか見なくなるからもしれないからだ
弁護士などの後見人に頼んでもその弁護士がその金を着服したり容易にできるからだ
現実にそれで逮捕された弁護士もいる
老人は金を持っていても最後は弱者化する、認知症になる人も多いからだ
つまりそうして弱者化したとき人間の恐ろしい本性が現れる
老人はそうしてもう頼る者がなく遂にはそうした金だけを狙う目的とする人に頼る
だから金だけもっていても安心はできない
いづれにしろこの世が人間がこういうものとして変わらないものであるときこの世に救いも何もない、この世に何か期待しても無駄である。
人間の本性は悪であり恐ろしいものをもっているからだ
この世から去る意外に安心はないのである。この世は火宅の世であり災いの世であり平和は永遠にない、だからこそこの世が神によっていつか滅ぼされるのである。
科学技術が発展してこの世が変わるというのも嘘である、現実にインタ−ネットで10人女性が殺されたとか犯罪の温床にもなる
原発事故だって犯罪的要素があり起きたともなるからだ
科学技術で社会が変わる世の中は変わると言ってもそもそも人間の本性は悪であり変わらないとしたらどうして社会が変わるのか?だから共産主義でも2百万にカンボジアで殺戮があっとたなるのである。
根本的に人間の本性が悪でありそれが変わらないからか科学技術でも変わらないのである
宇宙に進出しても宇宙で戦争するのが映画でなくても現実だからである。