2018年07月19日

すべてがグローバル経済に巻き込まれる (麦が輸入されて癌になる、サンマがとれなくなる)


 すべてがグローバル経済に巻き込まれる

 (麦が輸入されて癌になる、サンマがとれなくなる)

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日刊現代−7月19日号

小さな畑がある、そこでとれたものを近くの農協がかかわる販売店で売ろうとする
すると農協から肥料とか薬を買えと強制され金をとられるという
売るほどのものがとれないのに農薬代とか肥料代とか種代で金がなくなる
その金をまた自分に要求されるのは困る
趣味でやる畑は自分でとさたものを食べるかとか回りの人にくれるとかでいい
とてもそれを売るとなるとハードルが急に高くなる
そこでは全国の競争にさらされグロ−バル経済もかかわってくる
野菜でもアスパラガスなどでもメキシコからと入ってきたからである

農業は全国的にも世界的にも競争にさらされている、すると昔のような自給自足のような農業は成り立たない、米だって全国規模になりブライド米として売れないと成り立たないトマトでもまず種類が多いし安くなっていた、それだけ全国的にもトマトを栽培している農家が多いからである。トマトはそれだけ売れればもうかるからそうなる

現代文明とはグロ−バル経済だというとき輸送文明なのである。輸送力が格段に発展した社会である。それで外国からも食料でも野菜でも入ってくる社会である
だから田舎でトラック運転手が意外と多いというときそうして東京とかに運ぶ輸送を担っているからである、そしてトラック運転手な過酷な労働が問題になる
一分でも遅れないように輸送を強いられているのである。
市場のせりにまにあうためとか九州からでも東京の市場に運ぶのである

それで今日の日刊現代の記事に興味をもった、麦を運ぶのに薬を使っている、船で運ぶにしても時間がかかるから腐敗しないように薬を使う、それが癌の原因になるという
つまりそれだけ食料となると運ぶということで問題が起きる
それだけ遠くから食料などを運ぶことは無理がある、でもその無理を克服して技術力があるからそうするようになった,それでもそうした問題が起きているのである。

基本的に人間の社会は日本だったら戦前まで地産地消だった
その土地でとれたもので生活していた、第一そんなに遠くに運ぶ技術がなかったからだ
冷凍して魚を運ぶとか新鮮なものを運ぶとなると容易ではないしコストがかかるからだ
だから東京なら江戸前であり新鮮な魚は江戸の前の海でとれたものなのである。
江戸前とはまさに百万都市の江戸でも新鮮な魚が食べられた象徴した言葉だったのであるこの辺でも新鮮な魚が食べられていた、港がありそれが豊かさだった
漁師の人は二三日過ぎたら魚を食べないとなっていたのだ、魚は新鮮さが勝負なのである江戸というとき東京をイメージするが江戸前は今はない、全国から食料は運ばれて一千万人の胃袋を満たしているのである。だからそのエネルギーは膨大なものとなる
そのために運ぶためにトラック運転手が苦しみ一分争って運んでいるのである。
だから東京一極集中は異常な世界なのである。
福島に原発を作ったのも東京にエネルギーを供給するためだったのである
別に原発は東京に作れたのである。その方が効率的だったのである。

江戸だったら練馬大根でも回りが農家であり野菜も近くから供給されていた
ただ米だけは地方から特に東北の伊達藩では江戸の米の三分の一を運んでいたという
江戸ではいつも白米を食べれるということで贅沢だとなっていたが脚気になった
でも麦飯と粟飯でも五穀を食べていた人はならなかったのである。
それで脚気は江戸患いとなっていた、江戸に生活して白米を食べているとなった病気だったのである。
これもやはり本来なら白米だけを食べない、雑穀を食べる、食べ物でも一つの種類だけに特化して食べることは危険だとなる
なぜそうなったのか?
それは船で米を輸送する技術が生まれたためにそうなったのである。

グローバル経済というとき世界的株式市場のことのように思い関係ないともみる
でも現実はまず食料からしてグロ−バル化しているし巻き込まれている
石油があがればトマトを作るハウスでも石油を使うから値段を上げるとかなる
農業も石油と関係しているし電気とも関係しているようになった
食料自体が工業製品のようにもなるし農機具を使うので機械化もする
そして常に世界的競争にもさらされているのである

例えば漁業でもサンマが今年はとれないから一匹400円とか500円とかもっと高くなるといかいうときどうしてそうなるのか?
その原因は不明でも台湾や中国の大型船が日本の排他的領海より外で大量にとるためだともしている、これまでは中国ではサンマは食べる習慣がなかったが日本で食べるようになりそれまねて食べるようになった、サンマは旬で食べるのがいいのだが中国などではそうした文化はなくまだ成長しないうちからとって食べるという
つまりサンマを食べる習慣は文化はなかったが最近日本をまねて食べるようになったのである。
そうすると中国の人口は多いから魚だって獲りつくされる恐怖がある
それも結局グロ−バル経済の結果なのである

地産地消の経済が言われるけどもともと自給自足の経済であり地元でとれたものは地元で食べてそんな遠くから来たものは入ってこなかったのである。
自分の家でも店をしていたとき野菜は近隣の農家から買って売っていたのである。
遠くから来るものは少なかったのである。
卵でも農家から売って買っていた,子供の時卵を買いに行かされたからである。
その時自転車でありその自転車もいい自転車ではなかった、だから必ず糠に入れた卵が割れていたのである。
野菜でも姉が自転車で運んでいた、大きな箱を後ろの荷台につけて野菜を朝に運んでいたのである。それは相当に大きいから持ち上げるのに運ぶにも力がないとできない
でも姉は力持ちだからできたのである。車などないからそうなった
梨農家では相馬まで前の中村までリヤカーで運んだという、後はまだ馬車の時代であり運ぶに苦労したのである。

輸送する技術が生まれたときグロ−バル経済が成り立つ、でもその時地産地消のその土地にねづいた文化は失われる,世界の株式市場をいつも四六時中気にしている投資家と同じになる、漁業にしても小規模な漁業は中国や台湾の大型船にかなわないとなる
すると小さな港で地元を地盤にして生活も破壊される
それで漁業でも小規模ではやっていけないとか跡継ぎがいないとかで東電に漁業権を売り渡して補償金で暮らした方がいいとなり現実になったのである。

サンマがとれないというとき高くなると庶民の魚ではなくなり庶民の魚文化も食文化も失われる、つまりグロ−バル化は文化を破壊するのである。
文化というとき食料とか料理も文化だからである。
原発事故でその農業でも漁業でも林業でも一番放射能で汚染された
そうし人が住めなくなった、一番影響したのがそうした自然を基に生活していたものだったのである。
そこでは誰も跡継ぎがないとか金にならないとかでやる気がなくなっていたところに原発事故で壊滅的な被害になったのである

グロ−バル経済は食文化も破壊するとき深刻なものになる
なぜなら本来は日本人は肉と牛肉は本来食べていない。穀物中心の食文化だった
だから日本人は腸が長いのである、牛のように胃袋が四つもあるというとき穀物を消化するためにそうなる、それで不思議なのは欧米人は肉を消化する酵素が日本人より出るというときこれもその食文化は長い間に文化として定着して体まで適合するように作られていたのである。

逆に今日本人の食文化はサシミでもサンマでもスシなも世界に普及した
日本人の食文化は料理は体にいいから長寿なのだとして世界でも普及したのである
これも食のグロ−バル化として起きている
肉食文化より魚と野菜と米中心の食文化が体にいいとなった
実際に癌とかアルツハイマーの原因はわからないにしても食文化が変わるとわからない病気が増えることはありうるのである、やはり食が健康の基だからそうなる

いづれにしろ移民問題にしろ食でもなんでもグロ−バル化した世界がもたらした問題である。そのグロ−バル化に組み入れられて巻き込まれているからそこから離れられない
グロ−バル化からは離れてありえなくなったのである。
グローバル化やエネルギー問題の深刻さはこの辺のように住めなくなることなのである
これほど深刻なことはない、人間はまずその土地に住むことを目的として生きるからである、その土地に住むためにどうするのかということからはじまる
その土地に住めないことはもうすべてが終わりなのである。
現実に街すら廃墟となり放置されて人は住まなくなったからである。
そうしたことは電気は必要だとかいろいろ理由を言ってももうその理由も成り立たない
それで大熊辺りでは蝋燭で家族一緒に生活できた方がいいとか極端なものになったのである。住めないということほど深刻なことはなかったのである。

グロ−バリズムの終焉(経済学的文明から地理的文明へ)
関廣野、藤沢雄一郎著

これは自分が追求してきたものと重なる、地域に根ざして土に生きてきた人だから自分より説得力がある、農業を実践してきたからである
この著者も原発に疑問を抱いて前から原発に反対して運動していたのである。
ただ左翼関係かもしれないが原発に関しては別に右左はないのである

この本では著者は住むことを一番大事にしている、住めための経済学である
貿易とかにも疑問をもっているし銀行でも支配者のためにあり金持ちのためにある金融支配のものだと批判している,確かに銀行は何しているかわからないのである
株とか投資信託でもうけるとなるともう証券会社であり地銀の役割はになっていないからだ

ただこれだけグロ−バル化とか資本主義とかが世界を支配するときそれを否定して生きることは不可能に近いともなる、エネルギーにしても炭を使って木炭で車を動かすとなると百年前にもどるのかとなるからだ、ただこの本は自分の思想と一致するので深く検討する必要がある

posted by 老鶯 at 17:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

山の立体性の追求 (幾何学的に分解できる山)( geometrically Mountains)

山の立体性の追求

(幾何学的に分解できる山)

abstract pictures about solid body

( geometrically Mountains)

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隠された山−hidden mountains

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twined stones in the sea

●立体の追求

●色の追求

●流動性の追求(水とか風)

絵画は基本的に立体の追記稀有とと色の追求と流動性の追求がある
立体というとき山がその象徴でありそれを分解すると立体的な幾何学的な構築物として分解できる、ピラミッドのように山を現せる
分解すると山は幾何学的な立体なのである

山とはまた精神的に意志である、強い強固な意志を示している,それは山頂を形成する
立体的であることは建築的なのである。
山は一つの強固な自然の建築物であり建築なのである

私は写真を変形して作ったりしているが建築物を作っているような気分になる
自然は人間から見るとき幾何学的構成として見れると思った
いづれにしろ絵画はこの三つの作用でできていることは確かである


● Pursuit of solid body

● pursuit of color

● Pursuit of liquidity (water and wind)

Paintings basically have rare additions to solids and pursuit of color and pursuit of liquidity
When a solid is called a mountain is its symbol and when it breaks down it can be broken down as a three-dimensional geometric construct, it can show a mountain like a pyramid
When decomposing the mountain is a geometric solid

Mountains are also mentally willing to show strong strong will,
 it forms a summit
Three-dimensional is architectural.
The mountain is a strong natural building and architecture
I am deforming photos and making it but it makes me feel 
like building a building
I thought nature could be seen as a geometric composition 
when viewed from humans
It is certain that paintings are made of these three actions in any case