2018年07月21日

養う(やしなう)という言葉の意味 (原発であれ今は会社や科学技術が養っている)


養う(やしなう)という言葉の意味

(原発であれ今は会社や科学技術が養っている)

養う(やしなう)とは社(やしろ)のやしからきている、養うとは狭い社を範囲にして養うということが生まれたのかもしれない
日本人の世界観は村が起源になっている、だから狭い範囲で生きてきたからそうなった
働くという言葉も端を楽にするということは家族単位から生まれた言葉なのである
なぜ養うということを問題にしたかというと村で暮らすときその周りのものを活かしていくほかにそこに住むことはできない、人間は村でありそこで住むことがまず優先されたのである、そこに住むためにいろいろと苦労してきたのである。

そこに住むためにはその土地にある資源をすべて活用しない限り生きていけない
だからその土地にあるものなら何でも利用することになる
肥料がないから糞尿を利用するとかもそうである、それは江戸時代なら江戸でもそうだったのである、あらゆるものを捨てないで利用していた、そこでもったないという言葉が日本から生まれたのである。

海でも平地でも森でも山でもそこにとれるものを何でも利用する、すると人間はどういう感覚になるのか?
その土地に住みその土地のもので生きるとなれば海で魚がとれれば海に感謝する、山で木材をとり炭を作れば山に感謝する、平地で米がとれれば感謝する、神にそうした恵みがあることを感謝する、つまりその土地に養われていたからこそ社(やしろ)中心の生活となり養う(やしなう)になったのである。養われるという感覚になったのである。

そういうふうにして生きていた時どうしてもそこに今の感覚とは相当に違っている
つまり今をそうした時代と比較すると今は何に養われているのか?
その時の感覚では魚がとれれば貝でもとれれば海に感謝していた、平地でコメがとれれば米がとれて生きられるとなり米がとれてその土地で生きる養われるという感覚になっていた、山でとれるものでもそうである。すると山に感謝していたのである。

それが現代になるとどうなったのか?
グロ−バル化経済になるとどうなったのか?
みんな田舎であれ金に養われているという感覚になる
日々の生活は買う生活なのである。自分自身も一人で家事をするとき毎日何を買うかが問題なのである。その種類が多いからわからないのである。
何を買うかを知ることが日々の糧を得ることである、糧(かて)という感じでも米の量となっているが米と密接に結びついていた

そして買うということは金が必要になる、今はみんな金に養われているという感覚になるそれだけグロ−バル化して世界の商品が入ってくるからである。
その土地のもので生活している人は田舎でもわずかなのである。
膨大な商品を買う生活なのである。そのためには金が必要だとなる
そこで金の比重が増大化してゆく、みんな金が一番大事なものであり金に養われているという感覚になる
本当は米なしでは生活できないとなるのだがその前に金なしでは生活できないとなっているのが現代なのである
ただそういう感覚は現代になってから極端化したのである

村の社に祈る時それはその土地のもので養われるから祈っていたのである。
今はそう思っている人は田舎でも農家でもいない
例えば漁民でも本当は海に養われているとなっていた
でも魚は取るだけでは生活できないとなり東電に漁業権を売り渡した
養うのは海ではなく東電という大企業なのである
他でも農家は農業だけではやっていけないから田舎でもみんな会社員になっている
すると会社に養われているのであり村の社とは関係ないのである。

田舎でも何が生活の糧になっているのかとみると農業ではない、土木建築関係の会社に雇われるものも多い、すると田舎で養われるものはそうした会社であり農業ではないとなるそこが現金収入を得る場だからそうなる
田舎でもやはり収入がないと現金を得ないと生きていけないからそうなる

自分自身の一身上の利害を度外視してもし村長とか町長とか市長の立場で考えると
この市町村をどうしてここに人を住むようにできるか?
何をもって養うことができるのか?
それを考えると農業では金にならないから土木建築関係で金を得る、そのためには仕事が必要である、それで国に公共事業の費用をだしてもらい道路などを作りすぎたのが現実なのである。それは金にならないと田舎でも生きていけないからである。

ただ人間はこうして自然から離れ自然に感謝しなくなった、また自然も畏れなくなった
人間を養うのは石油であり電気であり科学技術だと思うようになった
そうなると東電に感謝しろとかなったり科学技術を産みだす科学者が神官となったのである。原発はまさにそうだった、それは石油で動いているのではない
科学技術の力で動いていたからである。
だからその原発が神のごときものとして崇拝するまでになる
そして「安全神話」は作られた、科学者でも技術者でも神のごとくに崇拝されていたからである、医者が今神様のように崇拝されているのともにている
科学技術が養うというときそこには自然はない、海にも山にも人は感謝しないのである。山に木材があっても外材で無用化されて炭にもならずただ無駄なものとしてあるとなる
その時人は山にも感謝しないし羽山信仰なども過去のものであり祈ったりしない

しかしその時何が起きたのか?
原発事故が起きてそうした海のものや大地のもの山のものがみんな汚染されたのである
そして住めなくなったのである。住むということを第一にしていたのが人間である
その住むことができないということはそもそもその土地のもので養われているという社会でなくなっていたからである。
だからこそその土地に愛着することもなくなる、みんな別に農民でもないからである
だから浪江の人は二本松に工場を移転してその人も移住したとなる
つまりその人も会社に養われていたのであり別に故郷のものでその土地のもので生きていたわけではないからそうなった
養っていたのは会社なのである。

そうした社会には実は危険なものがひそんでいた、一旦科学技術の粋を集めた原発でも事故をおこせば壊滅的被害になりその土地にも生きていけなくなることであった
まず住むことを第一にして人はその土地のものを活かして生きる
それがなくなりただ科学技術こそ神となり原発ともなるとき危険があった
人間はもはや原発に養われ電気に養われているとなったからである。
その事故はプルトニウムが二万年消えないとかになってしまったのである。

ただ人間はその土地で生きるということは何か養うものがないかぎり生きていけない
もし市町村の長になればそれをどうするかと強いられる
そこで金がなければ養えない、金を稼がなければ養えないとなる
それは膨大なものを外部から仕入れて買う生活だからそうなっているのである。
そうなればどうしても金を稼ぐことが強いられるからである。
農民でも実際は今は買う生活である。だからみんな金を求める生活となる
糧が米なら米の量によって養われる人数でも決まるとなる
でも米ではない、金があることによって養われるというときその金をいかにして稼ぐのかということが問題になるのである。

ただ養うとは何か日本語として英語とかにはない意味がある
言葉はその国の民族の歴史から生まれているから意味がある
養うとはいい日本語だと思う、養うとは人を養うということとかその土地で養われるとかもともとは社を中心とした村社会から生まれた言葉である
だから養うというとき食料だけではない、その土地で養われることは美的にもそうであるその土地の景観でもそうであり自然に養われるということがある
その時その土地の自然を通じて心も養われるのである。
自分の場合は食料よりそうした自然とか文化的なものに養われるということになった
でも現実問題としてはその土地で養われて住みつき生きることこそ第一でありそれがなくして養われることはありえないのである。

ただ金に養われるということそれで安心なのか?それで住めるのか?
そういう不安はあるだろう、物価が倍になれば金の価値は半減するし金の価値は一定ではない、紙くずにすらなる
だからその土地に住み養われるということは本当は金だけでは不安なのである
それを証明したのか原発事故で現金収入を得ていたのが一挙破壊されてしまったからである。科学技術は金を産みだすがそれも一挙に事故で崩壊したようにそうした科学技術の産物は一時的なものとして消失する危険があるのだ

だから何に養われるのか?それを問い考えることになった、それを追求してきた
でも時代を逆戻りして炭で暮らすわけにはいかいない、その方策は何なのだろうとなる
ただ養うというとき昔だったら一応村という単位で考えていた
今は会社とか工場とか東電のような大企業でありそこで現実に多くの人が働いて金をもらっているのだから養っているのはそうした会社だとなる
だから戦前から江戸時代のように海から魚をとれたり貝をとったりし米を収穫したり山の材木を利用したりして生きている感覚がないから自然に感謝したりしないのである
でも事故が起きたりするとその頼ったものが一挙に崩壊して住めなくなったのである。
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posted by 老鶯 at 10:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連