野馬追いの旗は分類できない
(どこの家から村から出るのかわからないから)
鹿島(北郷の旗)
鹿島村
屋形村
原町(中の郷の旗)
小高郷の旗
鳩原村
鬼百合や小高よりも野馬追いに
いきりたつ馬4頭や日の強くさして肌光り野馬追い迫る
いづこより野馬追いの旗ひるがえる雲雀が原に会しけるかな
今日は涼しいので小高まで行った,どこの家に旗がたつのか見たいと思ったができなかった、なぜなら野馬追いは500騎出るとしても相馬藩内で人口でも所帯数でも多い
500騎は500所帯なのである。
1000所帯の1パ―セントが10所帯である、一万の一パ―セントが百所帯である
すると5万所帯で500所帯となる時、一パ―セントなのである。
だからそれだけた野馬追いに出る家は少ないのである
何か野馬追いに出る家が多いように見えるが実際は野馬追に出る家を探すこと自体むずかしいとなる
そして野馬追いの旗は種類が多いし数が多いし分類できない
家に立つ旗でも他の村の旗が混じっている、だからわかりにくい、何本か立っていてせ他の村の旗の場合もある、原町では「八」の旗は大内村にもあったからどこの村なのかわからなくなる、津波や原発事故で家自体が移動していてまたわかりにくくなった
小高の人の旗が鹿島に家を建ててそこに旗が立っていたからである
いづれにしろ野馬追いは行列の前に家に旗がたったときからはじまっている
でもその家を見て歩くことはできない、広いしできない、みんな旗を立てているわげでもないからだ
とにかく野馬追いの旗はどこの家から村から出るのかわかりにくい、神旗争奪戦が終わって帰り馬を追って行けばわかる、でもみんなそれぞれ違った方向に行くのだからわからなくなる
鹿島では街中に三軒くらい立った、わかりやすいのは只野氏は霊山から南北朝の争いで逃れた武士の末裔である、只野氏は郡山の多田野村が由来であり杉の紋が旗印である
あとは菊の紋は天皇に由来するから南北朝時代のものである
それはわかりやすいのである。後は本当にわかりにくいのである。
小高の鳩原村には牧場があり馬が四頭いた、白い馬もいた、神馬なのかもしれない。
鳩原村には何軒かで人が住んでいた、前よりは人が住んでいる、もう三年くらい行っていなかった、今日は涼しいので行くことができた
野馬追いは旗祭りなのだけどその旗の由来がわからない、どこの家から出てくるのか?
どこの村から出てくるのがわからない、広いしわからない、それも一年に一回だからほんの一部しかわからない、それが問題なのである。
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