2018年07月31日

雲の峰(俳句十句)


雲の峰(俳句十句)

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大いなる空の広きや雲の峰

みるみるに高くなりにき雲の峰

燕飛び見ぬ間に高く雲の峰

真昼間や日射しの強く雲の峰

形変えみるみる高き雲の峰

畑仕事太りし婦(おんな)にカンナかな

新たなる宅地またふえ雲の峰

今日もまた同じ木陰に休むかな

カンナ咲き夏の雲湧く白さかな

暑き日を吸い込み一日雲の峰

雲の峰二つ割れて山を成す                            


この道の行く人知りぬここに立つ木の影濃くも後に人なし


今日は暑いけどからっとしている、ここは32度くらいかもしれない、そのくらいだと耐えられる、晴れ渡り雲の峯がぐんぐんと高くなる
それが気持ちがいい、夏らしいなとつくづく思う
名都を楽しむには34度とか35度になったらもう無理である
熱中症になる、日本は季節の変化がありそれで俳句ができた
夏は夏らしいとなる

太った女性はどこにあっているのか?それは畑にいるときあっている
根っからの農民なのである、生まれも育ちもそうだからである
人間は何かそこにふさわしいとなる場がある
自然の中で人間も映えるから農民や漁師や林業でもそういうところで働く人は自然とかかわり自然と一体となる、ただハウスとかなるとそれは別なものになる
働いている人が見えないからである

でももうハウスでなければ農業は成り立たない、それは不自然に見えても今はそうしないと成り立たない、でもトマトでも露地ものがうまかったということはある
それはたっぷりと自然の光を吸ったからだともなる
現実としてはもう畑といってもそれを維持することの苦労を聞けばもうやりたくないともなる、いろいろと金がかかる、それをこっちで支払うのも苦しいとなる
趣味の畑は金にならない、かえって金がかかる

それでもその女性は畑にいる時カンナのように映えている,そこにふさわしいとなる
それは生まれつきであり育ちもそうであり体つきでも農民だという感じなのである
人間はやはりその人にふさわしいものがありその時その人は生きる価値があるともなる
ただ正直それは外から見ている時そうなるのである。
現実に農業するものは違う、だからなぜ原発事故のあと耕作放棄地が増えたのか?
誰も耕さないのか?それは手間であり金にもならないとなり高齢化して放棄したのである
雲の峯は変化する、雲の峰を見ていると気持ちがいい、そこに自由な力も感じる
自然の雄大さを感じる、この辺には高い山がないから本当に山のように見る
駅前通りにも映えたが降りる人が一人とか少なかった
野馬追いが終わり閑散としている、駅前通りはにぎわっていたが今はどこもにぎわいがないのがさみしい、ただ駅からおりてこの雲の峰を見ればきもちいいとなる

小高の不思議は人が通るのがまれである、車も他よりずっと少ない、すると江戸時代のような雰囲気になっていた、車がないと江戸時代に還る
人が一人道を歩く、その人を道は記憶している、そして木の影が濃く道をおおいその後を一日行く人もないともなる
車がなければ江戸時代は戦前でもそういう風景だったのである
江戸時代にもどりたかったら小高とか浪江でそれをある程度経験できるともなる
夜だって暗くなり江戸時代にもどったようになるからだ
江戸時代を体験するとかの観光さえありうる、そんなことを言うとまたしかられる不謹慎だとなるが「江戸時代にもどった町」とかで人が来るかもしれない
ただそうはいってもやはり駅前通りが活気がないように自然でも街でも活気があるとき自然が映えるとういことがある、都会では自然がないから逆に人の活気だけになるからつまらないともなるのだ
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外国の理解は言葉だけではできない (言葉の前に地理とか天候を知るにはその地を踏まないとわからない)

  
外国の理解は言葉だけではできない

(言葉の前に地理とか天候を知るにはその地を踏まないとわからない)


 駅であったフランス人は小学校の先生である、まだ若い
いろいろ文化的なことでも知りたくて日本に来ている
それは先生だからである
日本についての好奇心と探求心がある、だから二回目であり日本語でもしゃべれる
かたことにしてもしゃべれる、まず外国では言葉はまるで自分はわからなかった
ただ英語は習っている、単語でも聞き覚えがあり通じたのである。

だから事前に習わないと言葉は簡単なものでも覚えられない
中国語は発音がわからなくて皆目わからなかったが漢字がわかったので助かった
フランス人は漢字はむずかしいときうそうだろう、見慣れていないからである
漢字は何か謎の絵に見えるだろう、韓国のハングルもそうだった
アルプスベットは見慣れているからわかりやすいのである

フランス語でもは英語と実際は発音でも相当違っている,だからその発音で音の理解ができないので通じないのである。
むしろ文字だったらかえってイメージできるともなる
日本人は外国語でも音ではなく文字から理解している
ところが会話となると音が大事になる、音を聞き取ることが大事になるのだ

言葉とは最初は文字ではない、音なのである、文字は音より高等なものであり文明化して生まれたのである。だからマヤ文明とかインカ文明とかには文字がないのである。
でも高度な文明があった、しかし文字がなかった、日本でも漢字が入るまで文字がなかったが言葉はあった、大和言葉はあった
言葉のない民族はないのである。
アイヌ語は音として残っている、蝦夷の言葉も音として残っている
それで北海道ではアイヌ語を文字化するのに漢字を当てたからおかしなものになった

それは日本語の地名を漢字化したときと同じだった、日本の地名はもともと音で表現されていたのである。それは漢字化した結果そこに誤解が生まれるようになった
漢字を見て意味を感じるからである、でも漢字の意味ともともと音だった意味とは違うのである。
ただ日本語の大和語は音として今日継続している、だから日本人の精神と文化は日本語として継続しているのである。
言葉というとき音の音韻の多様性に注目していない、日本語だと母音が主であり子音は少ない、英語は子音が豊富である、だから日本人は英語の発音が下手なのである
そういう音を聞きなれていないからである、言葉は慣れであありいつも聞いているとその言葉を音から理解する、赤ちゃんは字から理解しているのではない、母親の音から理解している、だからこそ母国語というのである,それはどこの国でも同じなのである。

言葉のグローバル化というとき本当は音からはグローバル化は相当にむずかしい
世界の音としての言葉は理解しにくいのである
でもアルプスベットでも文字ならかえって理解しやすいのである。
ただ漢字になるとヨ−ロッパ人とか他でも理解しにくい,それはエジプトの神聖文字のように謎めいて見えるのである
ここの障害は相当に大きいのである、漢字の表記だと理解しにくいのである
ただ東南アジアでもインドでも文字もなにか謎めいて理解しにくかった
だから文字が必ずしも理解しやすいともならないのだ
日本は英語を文字から読むこととして理解した、会話することもないから音を通じてではなく文字を読み翻訳することで英語を学んだのである

いづれにしろ外国の文化に通じるには言葉が障壁になる、フランスに行っても城があってもその由来などわかりにくい、歴史はわかりにくかった
それは言葉が通じないからである。説明を聞いてもわからないからだ
ただ英語で表記されていればわかるともなる
ともかくグロ−バル化してこれだけ外国人が観光でも来るととうしてコミ二ケーションするのかとなる、それは言葉なら英語しかないのである。
英語なら本当は中学英語を完全にマスターししていれば最低限は通じるのである
観光旅行ならまにあうのである

ともかくこれだけグロ−バル化することは言葉でみんな苦労する
それで共通語になるものが必要になる、それは英語しかないのである
ただ英語だけを共通語とすると他の国や日本でも損なのである。
なぜなら英語を身につけるには日本人はヨ−ロッパ人より何倍の努力が必要になるからだ英語と日本語の共通性がない、英語はヨ−ロッパでは共通性があるからだ
だから英語を理解するししゃべることも比較的に楽にできるのである。
日本は英語で大きなハンデキャッフを負っているのである

ただ日本というのは確かに観光面とかで会話できない、しかし別に英語であれドイツ語であれ翻訳して自家薬籠中の物にしている
それでヨ−ロッパの文明であれ文化であれ取り入れている、だから別に技術にしてもあらゆる用語でも日本語に訳せるのである、日本語で理解できるのである。
観光とかでは確かに不自由があっても高度な文化文明の移入しているのである
アイヌ語とかのようなものだったらまず技術的なものは翻訳できない、日本は漢字を取り入れることでヨ−ロッパの文明文化を理解した
そして漢字を通じて今度は中国に西欧の文化文明を翻訳して中国に与えたのである
だから日本人が発明した漢字を中国はとりいれているのである。
だから漢字は広範囲に多様に表現できる言葉である
ただ漢字の一字一字に意味があるとしてそれは中国の文化なのである
でも日本人は中国人の解釈ではない日本独自の漢字の理解と応用をしたのである
それがヨ−ロッパ文明を取り入れるとき漢字を新しい意味あるものとして造語したのである。

だから観光で言葉がわからないというときと文明と文化とか大きなもので言葉がわからないことの意味は違っている
もしヨ−ロッパの文化でも文明でも入ってきてそれを理解できないとなれば大問題になるそれにあてはまる言葉がないともなればもう外国の文化でも文明でも技術でも理解できなくなる、技術用語も医療でも他でもあるからだ
とてもアイヌ語のようだったら理解不可能になるからだ
だから日本人は英語ができなくても外国語ができなくてもいいというとき別に高度な分野では理解して文明でも文化でも技術でも取り入れることに成功しているからである。

観光でちょとした言葉がわからないのとこうして大きな分野での言葉の問題とは分けて考えるべきなのだろ、観光で言葉がわからない通じない問題と違ったものとして言葉を考えるべきだからである
別に翻訳してもわかるとしたら翻訳を読めばいいしグーグルでも翻訳して理解すればいいとなるからだ
ただ外国人が直接日本に来るということはまたそうしたて文明文化のレベルとは違った問題として考えるべきだとなる
実際はそのことで日本人は大きく困ることはない、でももしヨ−ロッパの文化文明を翻訳できなかったらあらそる分野で日本はヨ−ロッパに学ぶこともできなかったのである
だから人と人が直接交流するのはせ違ったものとして言葉を考えるべきだとなる

そもそも言葉の前に理解するものがある、日本でも日本の風景でも気候でも知らなければ言葉も理解できない、日本の文学で俳句とか短歌を理解するとしたらまず日本の四季を知らなければ理解できないのである。
それはまず言葉ではない実感の世界なのである。日本に少なくとも一年間住んでみないと日本の四季がかわらない、すると俳句も短歌も理解できないのである。
その小学校の先生は曲水の宴のことを聞いていた
何を言っているかわからなかったがそこで短歌を即興で書くことを言っていた
それがすぐわかったのは説明の写真をもっていて自分に見せたからである
写真だと言葉でわからないものが即座にわかることがある
言葉からイメージするのはかなりの高度なの作業なのである

自分が今回そのフランス人にあって英語で説明ができなかったのは短い時間だったからである,駅で待っている時間しかなかったからである
そこで理解しあうことはできない、でももし長かったらまた会ったりしたら説明もできたそもそも外国を理解するには言葉だけではない、そこに一週間でもいればまた一か月でもいれば理解が深まるのだ
何かを理解することは常に時間がかかる、また人間と人間が信頼関係を築くのにも時間がかかる、だから家族しか信用できないというとき家族は長い時間子供の時から一緒に暮らしているから信頼する、それは時間で作られたものなのである

要するに外国でもある国を理解するにはそこにいる時間とか学ぶ時間で決まるのである
あらゆる国に詳しくなれないがある国を知るために時間を費やせばそれに比例してその国を理解することになる、でもあらゆる国を理解することは不可能だとなる
まず地理とか天候とかはその国に行って長い間住んでいないとわからないからだ
日本の気候は変化が激しい、台風がきて驚いたり地震もある、そういう経験があって理解が深まる、だから外国の本をいくら読んでも理解できないのである。
ただ似た歴史があると理解しやすい、ヨ−ロッパには城が多いし騎士がいるから侍とにているということで説明したのである

いづれにしろ英語という言葉の前に俳句とか短歌でも理解することはその国の深い理解が必要である、それより例えば俳句でも短歌でも作っていない人と日本でもいるし日本の文化を知らないものがいくら英語ができても説明もできないのである
それは英語力だけではどうにもならないのである。他の科学的なことでもなんでもそうである、まず学問でも日本で深く理解していないものは英語ができても説明しようがないのである。
ただ数学とか科学的なことは世界共通性があり理解しやすいだろう
でも文科系とか文学とかなると本当に理解するのはむずかしい、その国の歴史とも深くかかわっているからだ、そもそも日本人すら理解していないのである。

東北にいたら奈良と大阪と京都とか神戸の違いがほからない、神戸は須磨でありそこは砂浜と漁師の貧しい家があるだけである、塩焼きしていた浜である
でもそこでも現代になるとそうした面影はなくなる、近代化した港にもなればもう須磨として知られた古典でも理解できないのである。
ともかく日本すら理解することがむずかしい、それで英語ができるとしてもそもそもそうした日本の歴史とか文化を理解しないものが伝えようがないのである
外国人が能に興味あるとしてそれを説明できるのか、そもそも日本人自体が能について知る人がどれくらいいるのかともなるからだ

今回駅であった人は日本には二回目であり日本語もわずかだがしゃべれていたし学ぼうとしていた、だからこれから日本通になるのかもしれない、言葉はマンツーマンでないと覚えられないというのはそうだろう
それは母国語が母親との会話のなかで覚えるのとにている
ただそういう機会が日本では特殊な立場の人しか持ちえないのである。
だから英語を学べ時間は無駄だともなる、使う機会がないからである。
ただグ―グル翻訳ではたりないから英語の基本を知っていればいいとはなる
それは学校英語であり実際の会話英語ではないのである。
でも文学とか宗教とか何か歴史とか深いものを知ろうとするとなると外国人でも少ないだろう、これだけ外国旅行が当たり前になるともうそういう人は少数派になっている
それは日本人が円高のとき豊かな時に東南アジアであれヨ−ロッパであれおしよせたのとにているのだ、知識人とかだけが行ったのではないからである

正直外国は歴史でも文化でもわからなかった、ただ地理的に平坦て地が多く長い大きな川があるとかが印象に残った,それでいかに外国人がヨ−ロッパでも他の国でも世界的に川とアイディンティティ化しているかわかる
詩でも川をテーマにしているのが多いこともわかる、それだけ川と人間は血肉のように一体化している歴史があるからそうなる、だから川について考察を深める作業をしている
まず川を知らなければ外国は知りえないのである。
そういう地理的なもの天候はその地でしか知りえない実感できないのである。
それは日本内でも同じなのである。だから世界の理解の基本は言葉の前に地理だともなるのである。

人の生が終わる
様々のことを成さんとして
成しえず終わる
人の生は短い
学ぶべきものは無限
人はただその住む
一地域すら知らずに果てる
無数の人の生があり
それも知りえない
一つの生が終わる
その成すべきことはわずか
ただ無限の知らざる世界が残る

英語だけでも覚えるのは時間がかかる、するともっと他のことに時間を費やしていた方がいいという反省にもなる
それほどまでに勉強しても社会では使わないとなればそうである、外国に旅行に行くときくらいしか使わないとすれば貴重な時間の無駄だとなるのである。それより日本について深く知ることに費やした方がいい、それは英語を覚えることではないからである
第一日本の古典がいろいろあるけどどれだけ読んで理解しているのか?つまり他に理解することが山ほどあるからだ
結局そうなると英語に時間を費やすよりそっちの方に時間を費やした方が実り多いとなる
人間はいかに時間を無駄にするのか、無駄にさせられるのかそれを最後に反省する
英語だけにこんなに時間を費やして何か実りが特別あったのかとなる
英語をいくら流暢に話せてもそもそも日本のことを知らなかったら何の役にも立たないからである。