2019年03月31日

新元号は何になるのか (元号の意味とは何なのか)


新元号は何になるのか

(元号の意味とは何なのか)

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日本の元号の意味は何なのか?その歴史は天皇の歴史とともに始まっている
だから日本の歴史は万世一系の天皇の歴史だとなり特殊だとなる
元号というとき私は郷土史を知るために必ず墓を見て歩いてきた
今日も大内村の隠された墓地を発見した
そこに墓誌があり元禄からの先祖が記されていたのである
元禄までたどることはなかなかこの辺ではむずかしいし記されていない
だから墓でも必ず江戸時代のものがあるのか、古い碑でも江戸時代のものがあるのか
必ず見ている、ただその元号でもわからなくなっているのがある
一番多いのは天保から明治にかけての幕末である
その辺の元号は細分化されている、だから元号というのはわかりにくいのである
元号からその時代をイメージすることがむずかしい

ただ何か元号でもその時代に特筆するものがあれば覚えやすい
元禄というとき何か日本が新田開拓で米が多くとれるようになって豊かになった時代になったとかある
その時代の代表的人物として芭蕉が存在した、俳句が庶民のものとなるとき裕福になった商人がいて俳句を作るようになった、芭蕉はそうした俳句をたしなむ裕福な商人の家に泊めてもらったりしていた、そこで俳句を指導していたのである
元禄というとそうした華やかな時代をイメージはする
ところが葛尾村の落合という所に墓が夏草に埋もれてあった
そこは山の中でありこんなところになぜ元禄の碑があるのかと不思議だった
そこには明暦とも刻まれていた、それは新田開発した記念の碑だったかもしれない
そんな山の中に元禄の碑があるのかとなる
それから相馬市の松川浦に近い新田にも元禄の碑があった
そこは津波が来た所である、それほど被害はなかったが津波の被害があった

その他で何か元号はわかりにくい、でも元禄の前なのか後なのかで区切りがある
それから天明は飢饉の時代だからその前と後では区別する
そして最近では良く津波があって慶長地震のことが盛んに言われ津波のことも言われるから慶長時代で区切ることになった
ただ文禄慶長の役があり朝鮮征伐とかが秀吉の時代にありその文禄の碑を新地の神社で発見されたことは新鮮だった、なぜなら相馬藩より伊達藩の歴史が古いから文禄が発見された、でも相馬藩では文禄の碑を見たことがないからだ
そしてただその碑には文禄とだけ記されていた
何か葛尾村の元禄の碑も検地がありその記念でありこの文禄の碑も検地が行われてその記念として建てたのかもしれない。

文化ぶんか1804/02/111818/04/21
文政ぶんせい1818/04/221830/12/09
天保てんぽう1830/12/101844/12/01天保の改革
弘化こうか1844/12/021848/02/27
嘉永かえい1848/02/281854/11/26
安政あんせい1854/11/271860/03/17安政の大獄、安政の大地震
万延まんえん1860/03/181861/02/18
文久ぶんきゅう1861/02/191864/02/19
元治げんじ1864/02/201865/04/06
慶応けいおう1865/04/071868/09/07慶応の改革  

この辺は一括して幕末になる、なぜなら天保というとき明治になって新島襄などが天保生まれだからである、幕末がこのように細分化された元号になっていることがわかりにくくしている
この時代は昭和のように幕末として一つの元号にした方がわかりやすかったとなる
それで昭和になって天皇一代で一つの元号化することが法制化された

年号とは何なのかとなるとめんどうになる、ただ年号のいい面がある
西暦にすると数字化すると無機質的になる、ただその方が世界史を学ぶとすると世界共通になるからわかりやすいのである
元号とは日本が天皇の歴史を国の歴史としているからありえた
でもそれがグローバル化した世界で通じるのかとなる

ただベトナムが越南と呼ばれて大正という元号が使用されていたことはベトナムが一時
中国の漢字圏にあり日本と共通していた、中国周辺国家として歴史を共有していたことになる、それでベトナムに親近感を覚える、韓国は漢字がないことで何か共通の歴史と文化を継いでいるという感じがなくなる、今はベトナムはもう漢字は全く使っていない
漢字は中国と日本でしか使っていないのである

元号というとき明治があるがこれは明確に時代を画したので明治というときその時代を彷彿とするものがイメージできる
それで「降る雪や明治は遠くなりにけり 中村草田男」がありえた
そして大正はあまりに短かった、でも私にとっては大正はなじみがある

明治 父親が酒屋で丁稚奉公
大正 母と姉が生まれる
昭和(前)母は原町紡績で糸取り 姉は従軍看護婦でシンガポールに四年
昭和(後)高度成長時代
平成 バブル崩壊 停滞の時代

私にとって明治とか大正でもなじみがある、それは家族が両親がその時代の生まれだからである、まず祖父の時代までは一つの時代を生きた感じになるからだ
そして明治の前になると江戸時代になるともう時代を共有していない
それで元号の不思議は幕末の安政があるとする、でも慶安(けいあん)1648/02/15とかありそれより前だったのかとか勘違いする
つまり元号は江戸時代になるとその順序を間違うのである、だから変なのことになるのである
それは明治と大正を逆にして時代を間違うことは今ならありえないからである
大正―明治とみる人はいない、でも江戸時代だとそれがあいまいとなり間違うのである
するとその時代に起きたことでも何か時代を間違えてみることになる、そうすると歴史が混乱するのである

昭和にしても昭和前と後では全く時代が変わっているのに同じ昭和ということで違和感を感じる
いづれにしろ元号とは何なのか?それがやはりこれだけグローバル化しているから問われる  
戦後30年くらいまではやはり高度成長の時代であり活気があった時代として見る
でもその後は何かバブル崩壊とか日本の経済は停滞に入った
それが平成の時代だったとなる
ではその次の時代は何になるのか?
どのような元号になるのかいいのか?
これもむずかしい、それは合併して市町村の名前が変わった時そうだった、何か美里というありふれた名前にしたのもいいとは思えなかった、この辺は南相馬市になったがこれは単なる方角地名で良かったのか今でも問われる
結局南相馬市と相馬市が合併して相馬市になるための布石だったという人もいる

江戸時代の元号をみるとなぜ文とつくのが多いのだろうか?
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これも新地にあり伊達藩内だった


            
あや
【文・綾】

物の表面に現れたいろいろの形・色彩。模様。特に、線が斜めに交わった模様。 「―織」

文化とはなぜつけられたのか?これも文字通り文化なのか?文化興隆の時代だからか?
文の意味は文化の時代だからか?その意味が良くわからない

人気のものとして 

 明治、大正、昭和、平成の頭文字をアルファベットにしたM・T・S・Hと重ならないよう配慮したのか、「安」「永」「和」などの漢字の人気が高い 

この三文字が使われるのか? ただ次の時代を象徴するものとして何がいいのか?
私は文和とか啓和をあげた、これはまだ使用されていないし前の明治大正昭和とも重ならない
安と永は江戸時代の年号に良く使われている、でも今の時代にふさわしいのか?
何かどうしても元号は古臭いものとして古典に基づくからそうなりやすい、斬新なものが作れないのである
  
文和とするとき文は文化交流の時代であり文化でもって世界的に和を結ぶとなる  

啓和とすると 


閉じたものをあける。未知のものを明らかにする。教えみちびく。みちびく。 「啓示・啓発・啓蒙(けいもう)・啓開」

これだと現代に合っているかもしれない、つまりこれからの時代はインタ−ネットの社会が成熟してくる
ネット社会でグローバル化することはさけられない、つまり知識の時代が加速して成熟してくる
それはグローバルインテリジェンスの時代になる、知識は庶民にまで拡大浸透してくるのである
それは文化の時代にもなる、ハードの物の生産からソフトなネットワークの知識社会になる
日本はそれに乗り遅れたのである、中国の方に先を越されたのである
それは日本人はどうしても何かインタ−ネットのことがその世界のことが何を意味しているかわからなかったからだろう
それは良質な物を作るというのと次元が違ったものでありそれが理解できないためだったともなる

日本人には苦手な分野だったともなる、そういう時代に適応できなかったためだともなる
それで銀行もなくなるとか何かこれまで安定したものが崩壊してゆく危機にさらされている
それはインタ−ネットというもののコンセプトが何なのか理解できなかったからだともなる
それは新しいネットワークを世界的に結ぶものだったということが理解できなかったからだとなる
そうしてブロックチェーンとかの技術が生まれたりするともう貨幣はなくなる
インタ−ネットの中で世界中でビットコインのように流通して金が直接支払われる、銀行を介さなくてもいいのである
それは私にはわからないにしても何かそうしたネットワークがインタ−ネットの技術にあることが理解できないのである

まさに閉じたものをあける、未知のものを明らかにする、それがたりなかったとなる
だから啓和というのがふさわしいともなりまた文和もこれからの時代にあったとものとなる
そして国風文化が日本にまた起こるということを私は言ってきたのは奈良時代の漢字化した中国文化した時代から平安時代になりかなが発明された時代とにているからだ
西欧文明とかアメリカ文明の時代は終焉して新しい時代の啓和の時代が来るともなる
ただ昭和とか平成の元号が時代にあっていたかどうかは疑問である
明治とかは明確に一時代をイメージする、大正でも短くても親が生まれた時代だからなじみが団塊の世代にはある
でも昭和というのは和の時代でもない戦争があったから何か合っていない
平成でも何か平凡でありどういう時代だったのかただ平凡であり日本の停滞の時代だったとなる

でもこれからどういう時代になるのか、また作っていくのか?
元号は次の時代を現すまたは象徴するものとなるのか?ただ私自身はもう団塊の世代でありその時代を生きることはむずかしい
それでも人生百年時代となるとまだまだともなる
第一次の天皇になる人が59になっていることに驚くのだ
それはたいして自分とも変わりないのかとも思ってしまうからである
現代の年齢感覚はかなり違っている、人生百年となると60は50前であり10年以上差し引く必要があるからだ
60代はみんな現役として生きる時代だからである
長生きの時代として永の字を使うのもありかなとも思う、永和とかなると何か平凡なのである
これは明日のお楽しみではある

我が父は明治生まれや母姉は大正生まれ死にてふりかえる

ともかくまだ平成となるとこうした歴史とはならない、昭和はなりつつある、戦前はの昭和は歴史であるしすでに戦後の昭和も高度成長も過去のものとなり歴史となりつつある、元号というのはやはりそうした歴史として重みをもつかどうかにある
西暦の数字だと無機質であり無味乾燥ともなる、元号は天皇に由来するから人間を基準にしているから人間味があるともなる
ただ天皇象徴制が日本でいつまでつづくのか?
政党名でも民が多い、福島民報とか民友でもそうである、民主主義の時代だからそうなったのである
だから民という字は必要だともなるがなかなか江戸時代の過去の年号をみると入れにくいのである
とにかく元号でも地名でも市町村名でもそれが長く使用するから変な合わないものをつけるといつまでも影響することが問題なのである、美里などどこにでもありあまりにも特徴がなさすぎるのである、でもそれを使用つづけなければならないことに問題がある
まず地名は古代からあり変えられないからである
元号は変えられるが地名は変えられないものだからである、そこに元号と地名の相違がある

posted by 老鶯 at 23:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

春の雷ー燕来る (原町ー川子ー大内を回る―川子の溜池で釣り、大内の隠された墓地)


春の雷ー燕来る
(原町ー川子ー大内を回る―川子の溜池で釣り、大内の隠された墓地)


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原町の街中の畑

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家の跡の池と墓地への道

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元禄までたどる先祖

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春の雷蘇えるかななお生きむ

十羽ほど交差し群れてつばめ来る

三色の花活け外に燕来る

隠されし墓地を見つぬけ落椿

さえづりや姿を隠し林中


街中の畑やピンクのチューリップあまたふくらむ原町に来る


今日は晴れ間が見えたので原町まで行った、道の駅の食堂は200人は昼間来ていた
十人が働いていたからそれでも人件費にかかる  
日曜日は稼ぎ時である、結局人件費が一番かかるから経営する方にしては機械化したりAI化したりするのである、とにかく人間を働かせるほど難儀なことないのである
雇う方が雇われるより凄いエネルギーが必要なことは確かである
雇うとなるとその家族のことや必ず人間は病気とかにもなるしさまざまなことを考慮すると人間を雇うコストは高くつくのである
だから一見外国人労働者を入れるのはいいがそのコストがかえって高くつく場合がある

今日は鹿島にも燕が川の上を10羽飛んだ、燕が来たから本格的に春になる
雲って寒いが燕を見たら何か本当に春が来たなと感じた
それで新しい自転車で遠くに行きたくなった
今度の自転車は快速である、平坦な地でも坂でも楽なのである
だからこれは本当に半分バイクに乗っている感じなのだ
それで今日もいろんな方面に行った
                                        
川子の溜池で釣りをする人がいた、あそこではいつも釣りする人がいた釣れるのは何かと言ったらブラックバスだという、それから鯉とかだという、

ブラックバスは、北米原産の淡水魚で、全長50センチ(最大70センチ)にも達し、、魚はもちろん、エビ、カニ、カエル、イモリ、ネズミ、鳥など、動くものなら何でも食べる肉食魚だ。バス釣りのマニュアル本には、「大きなバケツのような口は、小魚を追い、食いまくるフィッシュ・イーター」と書かれている。さらに、外敵からオスが卵を守るなど、極めて繁殖力も強い。

5月の連休ともなれば、県外のバスファンで連日満員御礼の盛況ぶり。右は、夫婦、子供、家族そろってバス釣りを楽しむバス釣り風景。今やバス釣り人口は300万人に膨れ上がった。八郎湖には、ボートが飛び交い、バシャ、バシャとヨシの中で騒いでいるのは全てバスばかり。この変わり果てた八郎湖に、かつての生態系は確実に破壊されている現実があった。                        

ブラックバスブームにのって大繁殖

ブラックバスは日本で繁殖した、それが釣りする人には人気になった
釣り道具やではわざと放したとかも言っている
これも釣り道具屋にすると今や遊びとしての釣りでありブラックバスでも釣れるとなると釣り道具やも繁盛するとなる
何かこうした歪みが現代文明には多いのである
いらない薬でも飲まされるしいらないものでも買わされる、でも商売だからと金儲けのためにそうなる、それが釣り商売の人にも起きていたのである
私は釣りをしないが釣りに興味があるのはそれが自然と深く関係しているからである
だからパチンコとかギャンブルやるよりいいと見ている

原町の蔵をる家の畑は広い、そこにチャーリップが飢えてった、ピンクのチャーリップだった、街中の家でありまだ農家だった所である
そこから大内の方へ回った
大内の坂を上るとそこは家の跡でありそこに池があった
これは自然の池ではない、この家の池だったのである
その家がなくなったことで墓地への道が見えた
その墓地は隠されていたのでわからなかった
意外と墓地はこうして隠された場所にあるからわからないのである
そこに大内という姓の墓誌には元禄までたどれる祖先を記されていた
元禄までたどるとなると相当に古いのである

大内村は後ろの高い所に住んだ人たちが古い、下の平地に住んだ人は後から住んだ人たちであり津波の被害にあった
だからもともと高い所に住んだ人たちは古い家であり津波の被害にあわなかったのである湿地帯を田にしても高台に住んでいたのである
そこは急な高台ではなく人が住める場所だったのである
そこから海が見えて沖に船が行くのが見えた
おそらく松原が津波で流されて遠くからもこの辺では海が見えるようになった
それは新しい景観であり悪いともいえない
松原にさえぎられて海が見えないから浜通りでも海が鉄道に乗っても見えなかったのである

とにかくに三日前には春の雷が鳴った、春の雷は二回くらいしか鳴らない
そして今日は燕が群れをなして飛んできた
今年もこれで春が本格して何か新しく始動する感じになる
ただ今日も寒いのである、すでに磐城では桜が咲いている
この辺はまだまだなのか?後一週間くらい後に開花になるのか?
いよいよまた桜の季節になる

AIは芸術でも俳句でも短歌でも抽象画を創作しても選ぶことができない


AIは芸術でも俳句でも短歌でも抽象画を創作しても選ぶことができない

AI can not select art, haiku, tanka, or create abstracts

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今テレビでAIは俳句でも短歌でも何千と作れる、でもどれがいい俳句なのか短歌なのか選べない、その能力がないと数学者が言った
それも本当なのか?俳句と短歌となると短いからそういうことができる、AIが小説まで作った、だからできないことはないのだろう

そして私のしている抽象画も全くこれと同じだった
無数の抽象画を作っているのは実際はAIである、コンピュターのソフトである
ではその中から選ぶ能力はこれが森だとか川だと選ぶ能力はコンピュターにはAIにはないのである

だからAIには芸術を鑑賞する能力がないのである、またAIには感情がない、人が死んで悲しいとか別れて悲しいとか様々な情緒をもたらしている感情がない
人間は悲しむ者が幸いだとキリストが言う時、感情をもつことによって人間になるということがある、赤ん坊は泣いて生まれてくるのもそうしてすでに感情をもっているからだともなる

そして無人駅のことを書いてきたが確かに人はいなくても機能する、でもそこに何か欠けている、人間の情が欠けている、情が通わない駅になる
でも駅には出会いと別れがあり人間が生きる場を演出する場でもある
それは病院とかでもそうである、そこにはただ病院という建物と機械だけに囲まれてそして死ぬ、その時機械は何の感情もない、人が死んだとしても機械はAIはそれが何か理解できないからだ

ただ現実に今や社会はそうして自動化機械化している、病院だってそこは無機質的空間である人が死んでも早くかたづけてくださいとか物扱いなのである
だから病因では誰も死にたくないのである
そういうAIとか機械化自動化の社会が果たして人間を幸せにするのか?
人間は便利なものをどこまでも追求してきた
しかしそれで人間が幸福になったのか?
原発事故は最先端の技術で最悪の結果を最大の不幸を人間にもたらしたからだ
それは原爆ですでに経験済みだったのである


AI can not select art, haiku, tanka, or create abstracts


Now that AI can make thousands of haiku and tanka on TV, but he can not choose which haiku or tanka is good, said mathematicians without that ability

Is that true? Haiku and tanka can do such things because it is short, AI made even novels, so there is nothing we can not do

And the abstract I'm doing was exactly the same as this
It is the software of the computer that is actually AI that is making innumerable abstracts
Then there is no ability in AI to choose the ability to choose among them that this is a forest or a river

So AI has no ability to appreciate art, AI has no emotions, there are no emotions that cause people to die and be sad or break away and bring sadness or various emotions
When Christ says that human beings are fortunate to be blessed with emotions they are to become human beings, because babies are born crying and thus are already feeling.

And I wrote about the unmanned station, but it certainly works even if there are no people, but there is something missing, there is a lack of human feeling, it becomes an unfriendly station
But there are encounters and partings at the station, and it is also a place where people live.
It's a hospital and so on, there is only a hospital building and a machine, and it's surrounded by the machine and dies, when the machine has no emotion, even if a person dies, the machine can't understand what it is Body

However, in reality, society is now doing automation in that way, even in hospitals, there are mineral spaces where people should die quickly, even if they die.
So no one wants to die in etiology
Does a society of such AI or mechanized automation make people happy?
Humans have pursued anything useful
But has it made people happy?
The nuclear accident is the most advanced technology that brings the worst results to people with the greatest misery
It was already experienced at the atomic bomb

2019年03月30日

万葉集の真野の草原の草は鉄の意味だった! (松川浦の飯豊と津(つのみつ)神社の関係)


万葉集の真野の草原の草は鉄の意味だった!

(松川浦の飯豊と津(つのみつ)神社の関係)

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福島県白河市に「飯豊比売神社」があり、御祭神が飯豊比売神である。
福井県大飯郡高浜町の「青海神社」には、飯豊女王が禊をしたという池があり、伝承にまつわる神事が伝わる。

奈良県葛城市の「角刺神社」は飯豊女王の跡と伝えられ境内に飯豊王女が鏡として使ったという池がある。

上記の福島県の飯豊山には「飯豊山神社」がある。
宮城県加美郡加美町の「飯豊神社」は巨石を御神体とする。
福島県田村郡小野町の「飯豊神社」は秋祭の11月3日に獅子舞が奉納される。

関連項目
        
 卑弥呼・・・神功皇后
 壱与・・・飯豊皇女

 卑弥呼の後を継いで邪馬台国の女王となった壱与(いよ)については台与(とよ)という説

つまり邪馬台国までさかのぼる歴史が東北にも伝播したのである、「角刺宮」とは伽耶国の王子のツノガノアラシトを祭ったものなのである、確かにそこは新羅の渡来人のことが記されているがその前に伽耶国の王子のツノガノアラシトが最初に来たからこそその宮が生まれた、そして飛鳥には伽耶国の人たちがほとんどだったというときそこは伽耶国でもあったとなるのである
ただこの伽耶国は日本と一体化していて日本でもあったというとき天皇が伽耶国から出たというとき鉄の生産があり鉄によって力をもち権力をもち日本国が誕生したともなる、その時綿津見神を奉じる
安曇氏とか海洋民が国造りに深くかかわっていたのである 

松川浦の津波をまねがれた津神社はツノミツ神社でありツ一字では言わない、他でも津神社とあればツ一字では呼ばない、つの神社なのである
それはツノガノアラシトのことなのである、ここがまぎらわしいのである、なぜなら伽耶国とか安曇氏とか物部氏は大和王権が生まれたとき消されたからである、でもそれが地名とか神社に残されている、その地名にしても何か伽耶国とかをイメージできないものになっていたのであ

 
 「大泊瀬皇子(後の雄略)は、10月に押磐皇子を近江の蚊屋野
かやの、現在の滋賀県蒲生郡日野町鎌掛付近か)へ狩猟に誘い出し、
「猪がいる」と偽って皇子を射殺した。」

「蚊屋野」は、萱の鹿野姫でね?
「猪がいる」は、白猪にのった鹿野姫が想像される。

つまり、封じられてきた勿来とは、物部氏、葛城氏、刑部氏や佐伯部(忌部氏も?)
などの、部民の人達である。その中心にいた女性は、母系社会として位置づけられ、
「草」を用いた祈祷(たすきのようにして祈祷していた)「トベ」たちの風習による。  

タタラ場が流行り草から鉄へ。

その鉄のたすきを金連注(かなじめ)というが、それを体中に巻きつけて、
祈祷をしたのは、名取老女だった。

鹿野姫は、草や野の精霊というのは、その意味があって。
要するに、絹の養蚕ではなく、麻の植物。
だから、青麻神社の青は、飯豊青皇女の青と同じ意味があると思う。

 秩父、仙台、まほろばの道

ここのサイトは相当に東北の神社巡りをして詳しい、参考になる  

「草」を用いた祈祷(たすきのようにして祈祷していた)「トベ」たちの風習による。
タタラ場が流行り草から鉄へ。
その鉄のたすきを金連注(かなじめ)というが、それを体中に巻きつけて、
祈祷をしたのは、名取老女だった。

砂鉄を中心とした鉄の生産は古代真野郷で盛んであった、今の東北電力のある所で一大鉄の生産地が発掘された 
                                                                                      
真金吹く 丹生の真朱の 色に出て 言はなくのみそ 吾が恋ふらくは   万葉集14-3560

謎の真吹郷の所在地が初めて明らかになったのは昭和63年である。南相馬市原町区(古代行方郡)新田川 鹿島真野川の間にあるその名も金沢地区の小高い丘陵地一帯が当時日本一の製鉄所群があったのです。なんとその数発見されてだけで製鉄炉123基、木炭窯149基、竪穴式住居133軒、掘立柱建物29棟の一大製鉄工場群なのです。
恐らくその夜空をを焦がす真っ赤な炎は大化の改新頃から約200年に渡り燃えつずけたのでしょう。つまり古代製鉄のメッカだったのです。それが都でも噂になったのは ここに行方郡衙(泉廃寺跡)とゆう国の役所がおかれ、且つ行方軍団なる当時約1000名の駐屯地まであったからだ。その為都との人的往来は相当ありその燃える炎と灼熱の色が噂の種になってもおかしくない。だからこそ言いたくても言いだせない灼熱の恋の炎でわが胸を焦がすこの恋の歌に詠まれたのも至極当然な事なのである。でき、生かす人が少ないのは残念なことではある。
 (平成14年4月1日)(参考 東北電力パンフ・白河市史資料編・ 律令国家の対蝦夷政策相馬の製鉄遺跡群 新泉社 相馬双葉の歴史株文泉閣)    

  蝦夷陸奥歌枕

真野郷というこういう場所だったというときとても真野の草原が萱が茂っている場とはイメージすらできないのである
そこは萱が茂っている北海道のような淋しい場所ではないのである、それで錯覚していたのである 

岩手県一関の舞草(もうくさ)は古鍛冶の舞草刀の発祥地として
知られているが舞草の「草」は砂鉄を意味する

真野の草原に萱ではなく草をあてたのはなぜだろうか?
他でも大草郷とかがある、草とは砂鉄のことなのである、自然の草とか萱ではないのだ
だから石巻が真野の萱原だというのは疑問なのである
なぜなら万葉集では草原となっいるからだ、それがまぎらわしいのである

ただ石巻はその背景となるものが残っている
鰐山があるとすると鰐は和邇であり和邇氏一族に小野真野氏がいたからである
石巻には真野と記された木簡もと発見されたからである
さらに真野氏一族は鉄を求めて北上川を渡り登米にまで移動していた
そこに行方(なめかた)という木簡が発見されたからである
行方とは相馬地方の古代の郡である、行方郡である  

この草原(かやはら)は何か錯覚しやすいのである、カヤをどう発音していたのか?
その当時の発音はわからない、だからそこに漢字をあてたとき北海道のようなアイヌ語地名のようになる
それで漢字というのには音だけではない、意味がある
草とあてれば草をイメージする、萱をあてれば萱草をイメージする、

 諫早市多良見町(喜々津村、大草村、伊木力村が合併)の喜々津には面白い地名の字(あざ)が存在する。多良見町で最も人口の多い地区である「化屋」である。最初から「ケヤ」と正確に読める人は稀有であり、大方は「バケヤ」と読んでしまう

化屋の由来について

カヤはケヤとかにもなる、草とか萱は漢字をあてたものでありこの化屋もそうである、だから真野の草原(かやはら)をどう発音していたかは不明なのである
ここのサイトでは安曇氏などの海人族の綿津見神についても考察している、九州の安曇族が伽耶国の王子のツノガノアラシトと関係して東北に移住してきたのである、つまりそういう渡来人の移住が相当数あったから綿津見神社が多いのである



2019年03月29日

死者が残した物 (残された物から昔を偲ぶ詩)


死者が残した物  (残された物から昔を偲ぶ)

家には何かここに生きた者のの
記憶が隠されている
死者はもう何も語らない
その代りに残された物が語る
なぜ手鏡が二つ棚の奥から出て来たのか?
ここに住んだ女性は死んで歳月がすぎた
でもその鏡を手に取って見ていた時があった
でもその鏡にはもう顔は映らない
人は死ぬと忘れられるのが早い
死んだ後に家や物や墓が残る
なぜずいぶん死んでから月日が過ぎて
何かその人が愛用したものがひょっこり出てくる
それはなぜだろう
それは死者がその物に霊のように憑いているからなのか
だから物が憑くとなる
何か私を忘れないでねと
その物を通じて語っているのかもしれない
忘れな草は春に咲いている
その忘れな草のように忘れないでねと今は言う
でも死者を訪ねてくる人もいない
人はたちまち死ぬと忘れられる
その人がいたのかどうかすら不明にすらなる
それでも忘れないで思い出してと
家の中の奥からその人の愛用したものが出てきたりする
それでまた故人を偲ぶのである  


 

誰かの煙草入れ

山の中のなのか
どこなのか
一服して仕事を休む
この煙草入れはずいぶん使った
これをもっていた人は
ずいぶんと働いた
何かそれがこの煙草入れからにじみでている
ぷかぷかとタバコをキセルで吸う
その時一時安堵がある
一休みしたからまた働くか
そしてこの煙草入れを下げて働きはじめる
それは山の中なのか
山の中で腰をおろして吸っていたのか
何かそこに男の体臭を感じる
それはすりきれるほど使ったもの
人は死んでも何かを残す
この煙草入れでもその人の体臭が染みついている
この物に人の記憶がしみついている
だからただの物ではない
人間の残すものには心が宿る
物は物ではない、物と心は一体なのである  

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人間は何か物を残す、その物が何かを語る、この煙草入れはリサイクル店で買った、一万以上したから高かったとなる
銅製か鉄製で錆びたりして鏡として顔を映すのは結構むずかしかったとある
ここから何か江戸時代のことがイメージできる、旅するとなると明かりが必要である、火も必要である、蝋燭も必要である
そして火打石のようなものも持ち運びしていた、何かこの物から江戸時代がイメージされる
時代劇だと現実のものではない、この物は江戸時代の人が確かに使っていたものなのである
こんなふうにして旅していたのである、これらのものは結構高いもので誰ももてるものでもなかった
  
江戸時代の旅の小道具

携帯用に工夫された燭台とかもあり手鏡もあるがガラスではない、 何かこういうものを使っていたのが不思議である
真っ暗闇のなかで携帯用の蝋燭がゆらゆらと燃えてその明かりで矢立で字を書いている
その時江戸時代だから車の音もなにもしないのである、不気味なほど静かなのである
何か東京とか都会に興味がもてなくなったし人ごみの中に入るのも嫌になった
まず今は旅に向いていない、外人ばかりが多いからである、日本人がゆっくり旅できなくなったのである
それはなぜか?日本人が観光で稼ぐほかなくなった貧乏になったのである  

日本がすでに安価な旅先として選ばれているというようになった
そして日本人がのんびり旅すらできないとなったのである
それは外国の貧乏な国ではそうだったのである、観光立国などとなればそれは貧乏な国が目指すことである
カジノなどでもそうである、金持ち呼び込んで金を得る
つまり日本はすでにかなり落ちぶれた国になっているのである
そしてますますその傾向は強くなってゆく
だから観光客が何千万とか増えたからと喜んでいいものかとなる  

京都辺りでは観光客のためにバスさえ乗ることに難儀していることでもわかる
それでも観光客を来るなとは言えない、それは貧乏になったからである
白馬村でも旅館のおばちゃんが外人にまた来てくれと抱きついているのを見たらそうなる
それが嫌でも外国人観光客に媚びなければならないのである
そういう国はもう発展途上国並みになっているとも見れるのである
ともかく私は旅を60までしてきたけど何かしたくない、私はいい時代に旅したとなる
日本人がゆっくり旅できない、泊まる所もないというのはなんかがっかりする
それでも貧乏国になればそれをやめることはできないのである



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家は記憶の貯蔵庫 (何か隠れたものが出てくる)


家は記憶の貯蔵庫

(何か隠れたものが出てくる)

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家の棚の奥にあったもの



家の不思議を追求してきた、家は何かというとそれはただの寝起きするとか食事するとかだけではない、そこにはその家族の記憶が貯蔵されている場所なのである
それでいろいろなものが捨てられないという時、その物には思い出が染みついている場合があるからだ
ただそれは他人にとっては何の価値もないものとなる
別にその人にとっては便利に使うだけものだからである

よく蔵に何があるとか番組があるけど古い家だと江戸時代のものでもさらに古い物でも貯蔵してある、それは忘れられていたものである
だから蔵の機能はそうして記憶の貯蔵庫ともなっていたのである
人間は死ぬとその人間自体が消えるのだから思い出すにしてもできなくなる
遺影を見たりして思い出したりするが残された物からも思い出す、記憶するのである

歴史でも考古学がありそれは人間は骨となって消えるし骨すら残っていない
古墳が墓だとするときそこにモノが残っていてそれでその歴史をたどる
それから物語が残っていてそこからも過去をたどってゆく
それは個々人でも同じなのである、家があるときはその家が継続していればそれは生きたその家の記憶の貯蔵庫となっているのだ

物には単なる物ではなく物語がある、物語がヒストリーが歴史である
ただモノにしてもいつまでもあるわけではない、モノでもいつまでも残されない
やがては埋もれ消えてゆく、人間が死ぬと去る者は日々に疎しとなる
それは家族でもどうにもならない、この世は無常なのである
常なき世の中なのであるそれは変わっていない、死んでしまうと日にちがすぎてそんな人がいたのかとすらなる

とにかく不思議なのは死んでから何かその人の思い出になるものが家から出やすいのである、それは忘れられていたがふいと家をかたづけていると掃除していると出てきたりするそれはつまらないものであってもそこにその家の記憶が家族の記憶がその人の生の思い出が残っている
認知症になると何かつまらないものを肌身離さず持ち歩いていた
それを私の家でも経験した、戦争で生死をともにした戦友が送ってくれた手作りのバッグを宝物ののように大事にしていたのである
それは映画でも放送していたから同じだった
つまり何かつまらないものでもそこには人生の思いでがしみついているからそうなったのである

だからなかなか捨てようとしても捨てられない、それも困るのだがそうなる
家には記憶の貯蔵庫なのである、だから家がなくなると個々人とかでも家族とかでもその記憶が失われるのである
例えば老人ホームに入った老人が「家に帰りたい、帰りたい」というときその家が実はなくなっているのである、ただ家族と一緒に暮らした昔にもどりたいということなのであるつまりもうその人にとって記憶の中の家であり家族になっているのである
老人は思い出と記憶の中に生きているのである
だからなかなか断捨離とかあっても老人は物を捨てきれないのである
そのモノには人生の記憶がしみついている、それを捨てることは何か人生そのものを捨てる感じにもなるからである  

手鏡の隠され残るあわれかなその面影を映すことなし

この手鏡は何なのか?何か使ったようには見えない、ただ買っただけなのか?
そういうものもある、ただ女性ということで残していたとなる

posted by 老鶯 at 09:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 福祉医療−老人問題

2019年03月28日

鹿島駅の高校生のNPOの見守りは三人交代でしている (一人は相馬市の人だった―情報には知的なものと情的なものがある)


鹿島駅の高校生のNPOの見守りは三人交代でしている

(一人は相馬市の人だった―情報には知的なものと情的なものがある)

その人がなぜ昼間に駅にいたのか?
制服を着ているからすぐにわかる
昼間も何かあるから見てこいと言われたという
でも奇妙なのは駅の業務にかかわらないという契約で南相馬市でNPOに頼んで人を置いたのである

そこの人はなるべく乗客とはかかわらないと言っていた
めんどうなことになると嫌だからとかかわらないとしている
それは私自身が何かおせっかいでかかわりそんなこと知っているとか地元の人に言われたからである、迷惑がられたし警察がきて怪しいと職務質問もされた
それからJRの人にもかかわるなとか何か嫌がられている

でも何か変なのである、駅の業務にかかわらないとしたらそこになぜいるのか?
ただ高校生の見守りだけ何もしないのである
だからそこにいる人は携帯用のテレビを見ているだけだとなる
それはいるだけでも安心感はある
だから無駄だとはならない、でもいくらもらっているのか?
南相馬市から金は出ているからあそこでその役割がある
つまりもし無料でしいているなら何も市民でも文句など言わない
そこに南相馬市民の税金で多少でも払っているとなるとまた別になるかもしれない
そして相馬市民にも金を払っているということもある

ただ駅で何か案内といってもそんなにはない
地元の人は自動化していることでわかっているからである
それでも遠くから地元の人でないと自動化してもわからないということを書いてきた
そもそも駅の業務にかかわらないとしてJRと南相馬市が契約してはじまった
その理由は何なのか?そのことも理解しかねるがそれを疑問に思う人もいない
それだけ今は駅に関心がないのである

人間はただ何でも機械化自動化してどうなるのか?何かそこに欠けるものが生まれてこないか?
実際はスマホとかばかりみているとかSNSでコミ二ケーションしているがそれだけで人間社会が成り立つのかとなると疑問になる
それは自分自身がパソコンで発信しているから否定はできない
ただ今の社会に欠けているのは何か人間が失っているものがある

家庭に、学校に、会社に、社会に、街中に会話をする声が耳に聞こえる事がない。まあ、考えが無いんだよなあ。だから話す事がないんだ。笑ってしまう。 まあ、岐路に来たんだ。欧米の真似をしてきたんで考える必要がなかったんだ。もう、自分で考えなければならないんだ。根底からさ。信じるものまで届くまで考える必要があるんだろうなあ。だから、揺さぶられてしまう。根が深くなければ、ちょっとした風でも倒れてしまう。

これは何を言っているのかわからないけど

家庭に、学校に、会社に、社会に、街中に会話をする声が耳に聞こえる事がない。

これは言える、みんな駅でもスマホを見て人がいても関係ないとなっている
人がうざいのである、だから何か話しかけると嫌がある人が多くなる
でも結構駅ではちょっとでも自分は話したから話するのがみんな嫌だとも見れない
それは人による、でも一般的に現代は会話がない社会である
だからこそ自動化無人化がすすめられる、人がいなくてもいいとみんなが思っているからである、特に駅に鉄道を利用しないから関心がないからである

江戸時代とか戦前とかは何か会話が多い社会だったろう、それは狭い地域で暮らしていたからである、それで田舎ではかえって根掘り葉掘り聞かれて嫌になることがあった
ただ逆に現代は生の面と向かった会話が少ない社会である
そこで一見情報社会で膨大な情報にふれていても何かそれで心が豊かになったとも思えないともなる

情報という感じは情に報えると訳した時何かここに日本人でもそこにただのインホメーションでないものを伝統的にもっていたからこの訳になったのかもしれない
インテリジェンスでも情と訳されていない、インテリジェンスは分析加工とかの意味があり情報にはただ知るだけではないそうした作業が不可欠である、それをテレビではしているがその加工された編集されたものによって偏ったものに必ずなっているのである、インテリジェンスは自分の頭でするものであり他人の頭でするものではないとなる

情報に知的なものがあっても情があって情報があるとなっていないのである
人間が直接かかわるとやはりそこに必ず自ずと情が働くのである
スマホの方が今でも便利である、知的にはそうである
ただそこには情が欠けた空間なのである
一方で情だけでは知的なものではたりなくなる、なぜなら知らない場所に行ってまず正確に丁寧に道を教えたり目的の場所を教える人はいないからである
そうなるとスマホの方が知的にはいいとなり地元の人に聞いたりしないのである
それがただ一方的に今は知的なものだけになっているのが問題だとなる



南相馬市の給料の相馬市との比較 (ラスパイラル指数が低いと福祉とかのサービスが低下)


南相馬市の給料の相馬市との比較

(ラスパイラル指数が低いと福祉とかのサービスが低下)

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ラスパイラル比較



ラスパイラルというのがわからないにしても公務員の給料の比較する目安である
全国平均では99である、南相馬市は意外と低い、94となると低い
その差はどこから生まれているのか?

相馬市の津波の被害が大きかった、だから財政的にも苦しいのかと思った
でもそうではない、あれだけの津波の被害でも全国平均よりうわまっているのはなぜだろうか?
何か津波以後に復興がうまくいったためなのか?
なぜなら松川浦などは港も再整備されて天然ガスのビルが建ったりしている
何かそういう面で税収が増えているからかもしれない
税収が増えなければ給料も上がらないし市全体でサービスも落ちる

南相馬市の財政が相馬市より厳しいのは津浪とか原発事故でそうなったがかえって国からの復興のための支援金が入ってきているから財政的にはいいと思っていた
その補助金も莫大なものだったからである
でも結果的に除染に何兆円も使ったとしてもその費用は東京のゼネコンに流れただけだった、自治体指導でやればその金が入ってきたとも言われる

そして南相馬市のアキレス腱は小高が避難区域となったことで人口が急激に減りそこが老人だけが帰って生産機能が消失したことである
そうなれば税収も入らないからである
そして福祉の予算だけがふくらみそのサービスも落ちる
もともと福祉関係は自治体によって相当に差がある
裕福な自治体は福祉のサービスもいいから東京の人などはそういう都市に移住しようとしているしすでにしている人たちもいる
その差も大きいのである
だから小高の問題は小高だけの問題ではない、それで若い世代が流出して老人だけを残したということが問題なのである
南相馬市全体からすると負担になるからである

それを象徴していたのが小高病院の再開である、入院もさせるということで医師が反対して辞職した、入院はしないで訪問して治療するのがいいとやめた
そう主張したのは入院するとそれだけ負担が増える、その負担をしきれない、看護婦だって不足しているのだからできない
それは財政的にもそうなのである、ただ新しい市長は公約だったからとこだわり小高病院の再開をしようとしている
南相馬市では原町区でも小高では特に補償金がかなり入った
それで何か財政的にはいいのかなと見ていたがそれも一時的なものである
年金のように定期的に入るものではない、でも結果的に補償金頼りであり小高では老人が多いのだから生産しないし税収にもならない
すると南相馬市の財政が苦しいから公務員の給料も減る
福祉とか介護サービスも落ちる
それで葛尾村では馬鹿高い介護保険料を払う羽目になったのである

また福祉施設は立派なものがあるとしてそこで働く介護士とかが不足している
それは福島県全体に言える、それで今は青森県でそういう人たちを引き受けている
青森県では仕事がないから介護関係の仕事をする人が多いからである
そして生活保護でもこの辺は支給するにしても減額される
医療費は補助されても一万しかもらえないとかそれは苦しいとなる
年金だって4万だからそれでは生活できないのである
何かそうして福祉の方にしわ寄せが来ているのである
公務員給料だって低く抑えられるのである

いづれにしろこの辺では浪江町とかでも公務員は過酷になったのである
仕事もそうだし自治体が崩壊するような状態になったら公務員だって今までのような恵まれたものにはならない
ただ日本全体の経済も停滞して低下してゆくとき公務員だって全国的にそうなる
公務員はAIで職を失うとかもいわれる地銀などもそうである
公務員とか地銀とか農協とかは地方では安定して就職先であり地方に生活するならそういう場所しか大卒とかなると就職先がなかったのである
でも時代が変わりこういう職業も安定はなくなった

それより10年で復興の補助金は国から打ち切られるそれも後二年なのである
そうなると南相馬市はさらに財政的に苦しくなりいろんなサービスが削られる
第一小高なら老人だけの街とか福祉を受けるだけの人たちになる
それから隣の浪江町でも双葉町でも大熊町でも広域的社会では経済的影響が大きいのである、自給自足社会で最低のミニマム社会なら影響がないが必ず全体的に影響しあっているから落ち込むのである

そういう社会になるとその中で田舎だと特定のものが金があるとしても豊かには暮らせない、回りが困窮しているとそれがじかに感じるし影響してくるからである
離れていれば別だか常に隣り合い暮らしていればそれが眼に見えて影響してくる
もうそうなると安穏としては暮らしていけなくなるのである
だから南相馬市から南はこれからさらに苦しい状態においこまれとなる
ただ相馬市が財政状況がいいのか?それは救いだともなる
相馬市も南相馬市の隣なのだから影響するからである  




福島県所得ランキング

1位 大熊町 515万5534円
2位 葛尾村 407万5632円
3位 双葉町 369万2776円
4位 富岡町 363万4576円
5位 楢葉町 332万6625円
6位 浪江町 323万8755円
7位 広野町 320万6765円
8位 飯舘村 313万8824円
9位 福島市 310万1910円
10位 南相馬市 310万1328円
11位 郡山市 307万6066円
12位 相馬市 303万2661円
13位 いわき市 302万4302円

一時的に補償金で上がったのである、ただこれが税収となったのか?
それは持続的な税収とはなりえないのである

課税所得

2017371福島県南相馬市854億6332万円310万1328円
2016315福島県南相馬市862億5797万1000円314万7411円
2015361福島県南相馬市816億3359万9000円307万1588円
2014453福島県南相馬市755億5567万8000円293万8080円
2013775福島県南相馬市678億5941万6000円271万3616円
2012995福島県南相馬市555億1948万9000円260万5570円
20111158福島県南相馬市694億5037万1000円253万7648円
20101190福島県南相馬市712億6074万9000円252万5543円

震災前より課税所得も上がっている、平均年収も上がっている
すると税収も増えているはずなのだがどうなっているのか?
ただこの課税所得があったのが震災関係の復興事業のためである
特に建築土木関係は特需になり息を吹き返したのである
でせ復興関係の仕事が減るとまた停滞して低下してゆく

すでに2017年で減り始めている






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2019年03月27日

初燕(近辺の春)


初燕(近辺の春)

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巣箱が二つあった



初つばめ原町に見て電車行く

耕しの婦人二人や春の暮 

若草や新しき家の増えにけり

我が町や古墳の上に草萌ゆる

何を置く巣箱二つや春の暮


昨日に原町で見たのは初燕だった、この初燕はどこで見るかが大事である
その場所が印象的なものになる、原町はふさわしかった
原町はこの辺では相馬市は城下町で古いが新興都市でもあるからだ
明治以降に原ノ町駅が機関区となりそれで発展したのである

旅路来て赤絵町かな初燕

赤絵とか柿右衛門の赤絵は有名であり海外に売り出された、それは伊万里から外国に輸出されたか伊万里焼になった、それが海外でもヨ−ロッパでも珍重されたのである
それが古いヨ−ロッパの城に残されたのを最近発見されたというのもそれだけ輸出された品だったのである

その時九州を旅していたが遠かった、九州は東北からだと一番遠く感じる
北海道より遠い、そこに初燕が飛んだのを見たのは新鮮で印象に残っている
ただあまりにも時間がたちすぎたのである
旅は実際60歳までつづいた、そして介護になり十年はしていない
30年間くらい旅に費やしたのである 

私の住んでいる所は本当に家が増えた、それも新しい家が多いし一つの新しい街ができた感じになる、それは津波と原発事故が重なり移ってきて家を建てた人が多いからである
新しい家が本当に多い、古い農家の家はもう少ないのである

女性が年配の婦人が二人耕している、そこは荒地が多いのである、人間はやはり営みがなくなると荒廃してゆく
でも知っている人の畑の前と隣はやめた、一人は這ってきて車にのせられてきて畑で仕事していたが遂に続かなくなりやめた
もう一人は病気になり死んだ、それでまた荒地になってくる、荒地がこうしてどうしても原発事故以後増えるのである
ただ新しい家は増えたのである

南相馬市の鹿島区で見るとなると古墳なのである、小池に多い、それも隠された場所ちるありわかりにくい、これが古墳なのかと見分けがつかないものもある
なぜ小池にこれだけ多いのか?それはやはりここが古代に人が多く住んだ場所だからとなる
ただ古墳となると原町区の桜井古墳は大きいから目立つしそこが中心だったと外から来た人たちも見る、つまり外から来る人たちに目立つものがないと観光として受けないのである
古墳に草萌えるというのも何かここらしいとはなる
古墳は墓であるがその祖先の墓の上に草萌えて春がやってくるというのも人間の営みである、人間は祖先がいてその祖先の上にまた生活を重ねてゆく
死者を養分として代を重ねて栄えてゆくのがどこでも人間の営みだからである
それが人間の歴史でもある、必ず過去が歴史はそうして代々つづいてきたからである

ゆっさの湯の食堂は奥の方に新しく変えた、そこの方が前よりいい感じになった
食事するにもどうしても環境が影響する、その味も価値なのだが価値にはいろいろな価値がある、景色のいい場所で食事するとやはりうまく感じるからだ
狭いごちゃごちゃしたところで食べたくないのである
だからゆっさの湯は場所としてはいいのである、ただ庭が貧弱なのである
あそこは近いから時々行ける距離にある
気分転換にいろいろな場所で食事したりコーヒー飲んだりするのがいい
場所を変えると気分も変わるからである



2019年03月26日

原発事故でも天の時、地の利、人の和が関係していた (避難して失われた時間はもどってこない)


原発事故でも天の時、地の利、人の和が関係していた

(避難して失われた時間はもどってこない)


津浪と原発事故はいろいろな教訓を残した考えさせるものがあった
それを私は探求してきた
今ふりかえると一番の問題は人生でも天の時だと考察した
それも原発事故で起きていたのである

それはどういうことかというと今になりなんで復興できなくなったきか?
その一番の問題が復興する時を失ったということである
原発事故で避難した人たちは最低で5年とかもう8年過ぎてしまった
その間に何が起こったのか?
復興する時間を失ったということである

例えば時間というのは子供時代とか少年時代とか青春時代とかでその時間の価値が違ってくる
母親でも幼児から子供の時一緒に過ごさないと母親を母親としてみないことが普通に起きている
親戚の人は5歳ころまで母親と一緒にいたがその後は別な母親になった
それでその実の母親が年取って私が実の親だとして合わせてくれとかなった
でももう実際はその子供は大人になっていてその子供すら大人になっている年である
だから今さら私が実の母親ですと言ってもそうはならなくなっていたのだ
ただ不幸なのはその母親が認知症になったことである
金をもっていたからその実の娘はただ施設にあづけている保証人になっているだけなのである、それは金が欲しいだけでそうしているのである
つまり自分の母親だという感覚がないのである
つまりその女性は母親であるべき時間を失っていたのである

これと同じようなことが原発事故で起きた
若い世代は子供と一緒に故郷を出て避難して生活をはじめた
すると8年もたつとどうなるのか?
子供時代の8年間を別な土地で暮らしたのである
小学校でも中学校でも高校でも故郷ではない外で暮らした
そういう子供の時故郷で暮らしていないとどうなるのか?
かえってその8年間でも故郷の外で暮らしたのだからそこが故郷だともなる

つまりその時の時間はとりもどせないのである
その子供たちが過ごした時間は故郷の外で暮らしたから故郷と疎遠になる
そうしてもう故郷にはもどってこないとなり復興できなくなった
残されたのは思い出があるから故郷に残った老人がほとんどだとなった
老人だけでは復興はできないのである

だから失われた時間の問題はそれがとりもどせないのである
空間は別に故郷でもある、荒廃しているが故郷はなくなっていない
それで今度は浪江の高瀬川渓谷に行ってみようかなとなる
確かにそこにあった大堀焼の窯元が軒を連ねた場はなくなった
でも高瀬川自体はやはりこの辺では渓谷として景勝の地としてある
空間は失われていないのである
ただそういう故郷であれ場で過ごした時間が失われたのである

そして不思議なのは地の利でも人の和でも関係していた
地の利というとき原発事故から距離に比例して被害の度合いが大きかったのである
原発立地の町の大熊町とか双葉町は8年過ぎても住めない
浪江でも隣でありほとんど人が住んでいないのである
ただ距離に比例し補償金が配分されたのも地の利が関係していた
30キロ以内は手厚い補償金がもらいたからである

そしてまた人の和も関係していたのである
人の和が内部でも家族でも分断されたのである、家族がばらばらになってしまったのである、若い世代は外部に流出して老人だけが故郷に残された
それから補償金でもめて南相馬市では分断された
人の和が壊されるとこれも復興することがむずかしいのである
人の和がもっとも大事だということも言われるからだ
時を失い人の和も失われたのがこの辺なのである
それが深刻なのは失った時間は特にとりもどせないことなのである

それぞれこがすでに別な土地で過ごしている時間が8年とかなりもう十年とかなる
すると十年一昔とかまでなってしまうのである
その人たちは故郷にもどらない、疎遠となり子供たちでも故郷はその土地で時間を費やした場所だともなるからだ
つまり生まれた場所が故郷ではない、そこで育った時間を過ごした所が故郷なのである
また別に血のつながりがなくても実の母親でなくても一緒に過ごした時間があれば家族であり母親だという感覚をもつのである
ただ親戚の人は育ての親すら捨てた異常人格になっていた
それは何か確執があり異常化したから恐ろしいと思った
近づくのも怖いとなって縁は切れた
こういうことは長年一緒に暮らしていても熟年離婚があるからありうる
でもその一緒に過ごした時間が無駄に帰するのはもったいないとなる
なぜならもうその後に一緒に過ごす時間がないからである
他の人と一緒になっても時間が無くなっているから思い出でも作るのはむずかしくなる
失われた時間は取り戻せないことが深刻なのである

いづれにしろなぜ復興できなくなったのか?それは津波の被害地域でも同じようなことが起きている、被害地の故郷から若い世代が流出したからである
それで復興するのに高台を作るのに土地造成するのに時間がかかり待てないとして別の場所に家を建てたり流出したりしたのである
だから時間がいかに影響していたかふりかえるとわかる
それは個々人の人生でも同じだと書いた
時間が失われると取り戻せないことが深刻なのである
別に故郷という地は空間は荒れても残っているが時間は帰ってこない、とりもどせないから復興でもできないとなったのである   

 天の時 地の利 人の和 (天の時が一番大事だとも思う所以)

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天の時 地の利 人の和 (天の時が一番大事だとも思う所以)


天の時 地の利 人の和

(天の時が一番大事だとも思う所以)

1 天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。 
2 生るるに時があり、死ぬるに時があり、植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、 
3 殺すに時があり、いやすに時があり、こわすに時があり、建てるに時があり、 
4 泣くに時があり、笑うに時があり、悲しむに時があり、踊るに時があり、 
5 石を投げるに時があり、石を集めるに時があり、抱くに時があり、抱くことをやめるに時があり、 
6 捜すに時があり、失うに時があり、保つに時があり、捨てるに時があり、 
7 裂くに時があり、縫うに時があり、黙るに時があり、語るに時があり、 
8 愛するに時があり、憎むに時があり、戦うに時があり、和らぐに時がある。 

聖書の言葉


天の時 地の利 人の和はどこでも働く、季節があるとしてその季節にかなったとものとして種を植えそれを育つのを待つ、その時期が問題なのである
種蒔桜があるとして桜の時期に種をまくとか時節にかなって農業がある
そして実りの時を待たねばならない、実りの時もある
実りを急がすことはできないのである、そうすれば失敗する

天の時というときそれは本当にあらゆる所に人にあてはまるのである
天の時というときその時代があり時代が実はその人の力量に関係なく決める
どんなに才能があっても天才でも時代に恵まれなければ変人で終わる
平賀源内などがそうである、また凡才でも時代に恵まれれば英雄にもなる
吉田松陰などでも志士と言われた人たちもあのように若くて英雄になれたのはただ時代がそうさせたのである
それは江戸時代のような平和な時期にはそうした人が生まれないからである

ただそれは何か歴史的な大きなものでも個々の人生に常に起きている
天の時というときそれは何なのか?
少年時代があり青春時代があり壮年時代があり老年時代がある
そこに人の出会いがありいろいろなことを経験する
ところがこの出会いに一番天の時が関係しているのだ
恋愛であれこれも時節がありそれを逃すと2度とできなくなる
つまり誰と会い恋愛するとか結婚するとかではない
そういう時節がありその時節を逃すとそういう機会はは二度とめぐってこないのである
それはその人の時が時節が決めているのであり人が決めているともならないのである
男女ともそういう時節がありその時を逃すと二度とそういう時はめぐってこないのである
地の利も大事だが天の時もつくづく大事である、だから天の時の方が地の利より大事かもしれない、そして時代は常に変わってゆくからだ

私の家は最初は子供相手の小さな駄菓子屋のようなものだった
でもその時は時代が高度成長に向かって進んでいる時代だったのである
物が置けば売れたのである、別に商才があるとかではない、その時は日本では小さな事業主でも店屋でも成功する確率が高かったのである
つまり天の時があったとなる、その小さな店をするのに資金が必要だったがそれも50万だったか5万だったかわずかな金だったが工面するのに苦労したというだけである
その店で別に商才とか商売に向いていたか成功したのではないのである
ただ地の利があったことは確かである
小さな町でも角にあり地の利があった、人が集まり安い場にあったのである
今でも人が集まり安い場所だと売る物が中味はどうあれ売れることがあるからだ
だから経営でも天の時と地の利と人の和が常に影響しているのである

つくづく人生は時をチャンスを逃したら二度ともどってこない
天の時を逃したら二度とチャンスはもどってこない、何回もチャンスは来ないのである
人生は長いから何度も挑戦するチャンスがあるとはならないのである
求道でも若い時を逃すとできない、老人の宗教は慰めとか別なのである
だから青春時代は大事だとなる、そこで人間の基礎が作られるからである
その時放蕩していたりしたら決して老年になって実りとはならないのである

ただ実りというときこれも人生で急ぐと失敗する、どんな人にも実り時がかならやってくる、それは現代では人生百年という時遅くなるのである
大器晩成というのではなく実りは凡人にでもその時になれば実りの時がくる
それは学問でも芸術でも他の仕事でもそうである
たゆまず精進していれば実りの時が来る
でもその時を急がすことはできないのである、何か私は本を読んでもわからなかった
ただ本を買っただけだとなる、でも今はその本の内容を即座に理解して自分なりに消化できる、これも不思議だと思う
理解できないものが理解できるようになるのはやはり老人になってからだとなる
深い読みができるのは老人だとなる

とにかく人間は時代の子なのである、その時代から脱して生きることはできないのであるだから天の時こそ一番大事だともなる、天の時とはやはり季節とも関係しているからだ
春夏秋冬で第一心でも体も変わるからである
そして天の時の最も大事だという時、その時が時代を生きる時でも個々人でも二度と逃すと戻ってこないということなのである
それが老人になると必ず後悔となり否応なくつきつけられるのである
人生は二度ないということもそうである、そこが天の時が最も大事な所以なのである

学問にしても何か身につけるにしてもそうなのである
若い時から職人として修行したりまた勉強でも留学するのは若い時がいいし海外旅行でもそうである、若い時に見聞を広めた方がいいとなる
またそういう時代に恵まれないとできないこともある
今ならそんなに金がなくても海外旅行でも留学さえできるからだ
だから中国人の高校生が日本人と同じようにしゃべれるということに驚いた
中学から4年くらい日本で暮らしていたからそうなった
若い時は柔軟性があり適応力があるからそうなった
でも語学でも30以上とかになると覚えられなくなるのだ
だからこれも時が大事だとなる 

また時というとき人の出会いでもその人がどういう時にあるのかが問題になる
もしその人が健康で金にも余裕があるというとき困ったら頼めば助けられることがある
でもその人が健康を害していたり金に余裕がない、時間にも余裕がないとなればいくら自分が苦しいから助けてくれと頼んでできない相談なのである
でも私の経験では私が健康的にも介護とかで一番苦しい時、事業に失敗した人が来たり金銭に困る人がづけづけと頼みに来たりまた弱者と化した時、恐喝まがいのことをされたりした、大金を盗まれたりもした
それは確かに弱者化したからそうされやすい時だが自分自身にとっては家族と自分自身の体のことで精一杯なのだから他人の相談にのるとか助けることなどできないのである
今は体にも家族の介護もしていないから余裕ができたから助けることができる
でもそういう時に来たら自分自身が困っているのだから助けてもらいたいのに逆に弱者と化したことをいいことに苦しめられただけだったのである
つまりその人がどいう時なのか?状態なのかで接することが必要なのである
でもそんなことを全く考慮しない、その人も助ける余裕がないからそうなっていたのであるもし余裕ある時だったらこうはならなかったのである

いづれにしろ人間にとって人生でもその時が一番大事なのである
もし人生が永遠につづくならいい、それが余りにも短いからその時が大事になる

老人になって何をみんな後悔しているのか?

なすべき時を逃した!

これなのである、なぜならその時が永遠に戻ってこないからである、やり直すこともできないからである、そのことが否応なく気づかされるのである
そして人生は百年時代でも短いのである
だからこそ時の方が大事だとなるのだ

2019年03月25日

津波が残した教訓 (車が障害物となったのはなぜ?)


津波が残した教訓

(車が障害物となったのはなぜ?)

津浪は早く来るから地震が来たら早く逃げないと助からない、時間の余裕がないのだ
それで山元町の中の浜小学校では地震がきて即座に屋上にみんな避難して助かった
その時校長がとっさに判断したのである
10分後に津波が来たからである、3階まであるとしても3階まで津波が来たのだから助からなかった、屋上に逃げて全員助かったのである
それも危機一発だったのである

そう判断したのはすぐ近くが海であり海が見えるからそうしたともなる
そこに危機感があったともなる
ただ人間即座に判断することはむずかしい
だからこそこれだけの被害があったのである

津波には津波でんでことかとにかくそれぞれがばらばらになっていち早く高台に逃げろというのが教訓になっていた
それは車のない時代だったのである                                   
車社会になったときまた対応が違ったものとなっていた
車だと日ごろ乗っているからそして早いから津波から逃げるのにはいいと思うだろう
でも意外と車というものがどういうものか知らなかったのである

車を見ているとどういうものか日ごろ知る人は少ない考える人も少ない
車の性質を乗っている人がわからないのである
車を見ていると一台一台でありその一台一台が個々人で二三人とかのって走る
車というのは個体なのである、私的個人として占有しているものなのである
車を運転するとき人間は自由を感じる、自分自身が思いのままに操作して運転して自由になる、それが車だという、そこに現代の車の魅力があるという
人間は組織の中で縛られて生きているから余計にそうなるという

例えば鉄道と比べると鉄道は決まったレールの上を忠実に走っている、横路にそれたりすることができないのである
そして電車は一つの車でありその車を運転するのは運転手ではないのである
つまりそこに乗客の自由はない、ただ運転手がいてそれに乗せられるままに決まった所に運んでもらうというだけである
鉄道には意外と自由がないのである

でも津波の時新地では車掌が誘導して全員助かった、そして津波で駅も車両ものみこまれたのである
そうして助かったのは電車は自分で勝手に運転できない、それは鉄道会社が乗客の安全を計り運転している、だから常にレールの安全とか電気系統の安全点検を怠らないのであるそして安全の責任は鉄道会社にある
すると津波の時も安全を計ったというときそこに乗っている人たちではない
津浪だからと勝手に行動しない、車掌の誘導でみんな整然と避難したとなる
山元町の中浜小学校でもそうである、校長が安全を計り全員を避難させたのである

一方で津波との教訓としては津波でんでこというときとにかくてんでんばらばらでもいいからいち早く高台に逃げろということが言われた
そいうことで石巻の大川小学校では一部の生徒が勝手に裏山に避難して間一髪で助かったのである、そしてすぐに避難しないでいた人たちは津波に飲まれたのである
最も津波でも危険な河岸に誘導したりしていた
そして生徒も先生も死んだのである
これは山元町の中浜小学校と対象的になった
もし中浜小学校のように校長がすぐに高い裏山に全員を避難させていたら助かったからである
ただ津波にはいろいろな場面があり違っている、だから一様に考えるわけにはいかない

そして車というのが意外と障害物となったのはなぜなのか?
それは津波でんでこというときそれは個々人が早く歩いてでも走ってでも高台に避難しろということだった、そうして小学生でも助かった人たちがいた
でも津波で車の場合渋滞になって動けなくなり車ごと津波に飲まれて死んだ人も多いのである
それは何を意味しているのか?  

それは車というものがどういうものか日ごろ考えていないしこうした災害のときどうなるかも考えていない、むしろ津波でんでこなら車一台だけでもそれぞれが勝手に運転していち早く高台に逃げれば助かるとなる
それがうまくいかなかったのはなぜなのか?
車は一台一台が面積をとる、百人が車に乗るとして百台が連なることになる
そこで渋滞になる、電車だったら百人のっていても車両としては面積をとらないのであるまたそこで人間がまとまって集中して乗っり合わせているからその人たちを全員うまく誘導すれば助かったとなる
ただうまく誘導しなければ全員死ぬということもあった

とにかく車というのは運転手が自由に操作してどこにでも行けるということで現代人が最も車に乗ると組織で頭をおさえつけられることなく自由を感じるというのはそうかもしれない、現代では人間はなんでも操作されていと感じるからだという、私の場合は運転もしていないのだからその辺の実感がないのでわからない
自転車だってやはりどこにでも運転して行けるとなるからにているからだ
車の場合はどうしてもマイカーになる、私的なものとして自由にできるとなる
でも津波とか災害の場合はそれが渋滞となり車ごと津波に飲まれて死んだ
車だともうそれを誰かが統制したり命令できないものとなっていた

その最大の問題が個々ばらばらであり一台一台が運転手の自由になっていたからだともなる、車というのはそれだけ私的な自由を空間でも主張する道具だったとなる
車は確かに道路の上も猛スピードで走ってくる
それは個々人が私的に所有するものであり交通ルールはあってもそこにいるのは個々人であり個人の自由のままに走る
だから時々横断する自転車は目障りな存在であり危険だからどなりつけられる
つまり自転車は車の運転手にとっては邪魔なのものなのである
歩行者だってそうである、それが車社会なのである
その車社会が裏目に出たのが津波の渋滞による死者だったのである
電車にのって津波の被害にあった人はほとんど聞いていないからだ

それから車の問題はガソリンがこの辺では原発事故で入らなくなり長い行列ができた
ガソリンがないと車は何の役にもたたないのである
それで私は相馬市でスーパーを開いた時、自転車で買い物に行ったのである
その時車はガソリンがないのだから役に立たないのである
そのガソリンを運んだのは鉄道だったのである
それも遠回りして貨車で運んだのである
車の弱点はガソリンが入らなければ何の役にもたたなくなる
ただでは鉄道はどうかとなればこれも短所と長所があるから車が全部悪いとはならない
ただ何か便利なものが凶器にもなる、日常的に使っているものが凶器になる
それが戦争でもそうだが災害でも起きてくるということになる
そして人間は便利なものでもそれがえって命取りになる

それは車だけではない,例えば電気がなくなったら水道がなくなったらどうなるのか?
現実にその時裏山の清水を飲み裏山の木を切って燃料にして米を炊くとした人がいて助かった、だから何か災害があったときガソリンでも水でも電気でもガスでもなくなればお手上げになるのである
放射性物質お汚染で水も飲めないとかなったらもう裏山の清水すら利用できない状態になった、そうなるともう避難する他なくなっていたのである
文明化した便利なものにはそうした危険がつきまとっているけどそれを深く意識したり考えたりしないのである 

だから東京とかで直下型地震とか何か大災害があったら大被害になる
もうそこからいち早く脱出しないと生き延びることができなくなる
しかしその時頼りになる車では脱出できない
なぜなら道が破壊されるしガソリンだって供給されないからである
その時今度ははじめて首都移転とか地方に分散して住むとかを真剣に考えるようになる
でも人間はそうならない限り危機感がないからそこに住んでいるのである
やはり津波であれ災害は必ず教訓を残す、でも人間はまた歳月が過ぎると忘れる
そして問題は何が幸いするのかしないのかわからないのである
車はむしろ早いのだから津浪から早く逃げられると思っていたからである
それが思わぬ渋滞になり死んだのである
それは他のことでも同じ事がおこるのである、それはそうなってみないとわからないからそうなるのである、今回の津波ではそれが示されたということである
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春の日に原町まで自転車で(俳句十句)


春の日に原町まで自転車で(俳句十句)

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新しい高台に墓地ができる
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黄色のはマンサクてはなく蠟梅だったろう

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これは紅梅ではなく桜だろう
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坂越えて隣の市へ春の雲

公園に子供遊ぶや草萌える

東風(こち)吹きて浜街道を旅行かむ

さえづりや春街道の細き道

春の丘新しき視界開きけり

春の日や黄金神社を見つけけり

風そよぎ伸びゆく竹や蕗の薹

広き野や鳴きあいやまぬ夕雲雀

若草や電車の音のひびくかな

近くにそ夕べに濃くも梅にほふ  

風そよぎ流るる水に春の日の反射し光り芽吹きけるかな


原町まで天気がいいので行った、石神の方をぐるっとまわってきた
東風が吹くと春らしい、それは浜街道にふさわしいのである
さえづりもひびき何かまた旅したくなった
相当に10年とか旅していないからだ
今度の電動自転車だと何かスイスイ行けるから気持ちいいのである
前だとこうはならない、やはり機械の影響もつくづく大きい
それで車に乗った人はもう手放すことができなくなる気持ちがわかる

途中に黄金神社が山の中にあった、これは金華山神社だろう
この神社を他にも見たからである
これは比較的新しい、明治以降のもあるからだ

それから石神の方に出たが石神は広いと思う、もともと原町は広い地域である
新しく高台が造成されたのは雲雀が原の近くでそこは墓地だった
相当に広い墓地であり区画して市で売りに出している
おそらく津波の被害で墓を失った人が新しい墓を建てているとも言う
でも津波の被害地でも萱浜でもそうだし海老村でもそうだし烏崎村でもそうだし新地とかでも不思議に墓地だけ残っている不思議があるのだ
それでそこに今も墓参りしているのであるただ流された墓地もあるからどうなのかわからない
墓地は江戸時代の墓があると興味があるが新しい墓には私は興味がない

それから石神のどこなのか?イオンの近くである
これは桜であり梅ではない、それから万作である、なんとも春らしい
梅はこんなふうには咲かないだろう

それから新田川の高松の方に行く所で電車の写真をとった
若草が生えて春らしいとなる、電車はまず待ち構えてとらないといい写真はとれない
大きなカメラだと即座にとるのはむずかしい
だからここが写真をとるにいい場所だとして狙ってとらないといい写真はとれない
でもそうなると自転車ではむずかしいのである
なぜ撮り鉄がいるのかとなるとそれは電車は景色にとけこむのである
車は景色に溶け込まないのである
電車は絵になるのである、それで電車が走らない地域は何か淋しくなるのである

鉄道の効用は歴史が長いのとそこでただ人を乗せるだけではない、人間の生活と景色と一体化している
それで四季の中に鉄道は電車は映える、それで採算がとれないローカル線でも残してほしいというのは何か乗り物としてだけ見ていない、一つのあるべき日常の景色とっなっているからそうなる
だから鉄道がなくなると一段とさびれた地域に見えてしまうのである

とにかく今日は春らしい一日だった、どうしても春になるとぶらぶらしたくなる
そのポタリングでもサイクリングでもこの電動自転車は快適なのである
だからもっと遠くへ行きたいとなったのである
旅もまたできるのかと動いているうちに思った
山元町までは相当に遠かったがそれでも何かまだ行けるなと感じたからである
それだけ乗りやすいのである、だからこの自転車だけは今まで買った自転車で最もいいものだった、やはり楽に走れるからいいのである
今までのどうしても疲れる、そういう走りしかできなかったのである
それで自ずと行動範囲が広がったのである






2019年03月24日

人間の生業から作られていた景観 (それを津波が破壊したのはなぜなのか?)


人間の生業から作られていた景観

(それを津波が破壊したのはなぜなのか?)


松原遠く消ゆるところ
白帆(しらほ)の影は浮かぶ
干網(ほしあみ)浜に高くして
かもめは低く波に飛ぶ

この歌にしても松原とか白帆の船とか干網(ほしあみ)とかは人間の生業から生まれていた、純粋な原始の自然ではないのである
松原は田を海側に干拓して作るようになりその塩害を防ぐために日本の海岸に松が植えられた、それは人工林だったし田んぼも人間の手によって作られた人工のものである

その人工林が故に松は津波で根こそぎ流された、松は根が強く張らないので津波には弱かったのである、そもそも土地だって砂地なのだから根を土のように強く張れないことがある、それで根こそぎ津波で流された光景はショックだった

もし海岸に松だけではない自然林だったら強く根を張る混成林が形成されていた
自然の林でも森でももともと一種類の木で構成されている所はないのである
人工化することは単一化することなのである
杉林でもそうである、それは木材として利用するために単一化するのである

ブナの木は非常に重く川を流して搬出することが困難なことから、商取引には向かない資材だった[5]。その上、腐りやすい、加工後に曲がって狂いやすいという性質があり、20世紀の後半まで用材としては好まれなかったが、薪のほか、下等品のための需要はあった

橅(ぶな)は無用の木という字があてられた、本当は自然には無駄なものがない、荘子の無用の木のように自然から見れば無駄ではない、でも人間は常に効用から見るから無駄だとなる

松原を自然の景観のように見ていた、それが違っていたことを津波は示したのである
それは人間が作った景観でありでも自然の景観に見えたのである

だから人間というのは必ず自然に逆らうものとしてある
農業自体が実際は大規模な自然破壊になる
焼畑農業が最初の農業になったのは肥料を作るために森を焼き払い灰を作り出したからである
ともかく農業は肥料をどうするかというのが最大の問題だったからである
まず自然状態では野菜でも果物でも大きなものはとれないからである
人間の宿命は自然を破壊しなければ生きていけないのである
もし人間がいなければ大規模な自然破壊は起きないからそれは原始の自然でありそこに荘厳な美がそのまま維持されていたのである

津浪で驚いたのは田になる前の自然状態が再現されたことなのである、縄文海進が再現された、縄文時代の海が再現されたことなのである
海を干拓して田にして塩害を防ぐために防風林として松原を作ったがそれが津波で根こそぎ流されて元の原始状態の海にもどったのである

そもそも松原ができたのと漁業のためではない、農業のためである、稲作で田を作るために人工的に作られたのである
つまり農業の拡大のために松原が作られたのであり漁業関係者にとって松原は別に必要ないものだったのである

文明は人間の技である、その技(わざ)は災い(わざわい)をもたらす宿命にありそれで文明は最後は滅びる運命にある、人間の業(カルマ)だとなる
職業自体が業(カルマ)だというときそうである
人間にはいろいろな職業があるとして必ずそれがいいものとして働くわけではない、何か必ず悪いものとして働くことがある
それはあらゆる職業に言えるのである
別に農業などは悪いものでなくてもそこにも業(カルマ)がある
人間は悪いと思っても食べるために職業をやめるわけにはいかない、それでインドでは仕事をしないことがカルマから脱する道だとなったのかもしれないのである

津波が人間に示したことは何なのか?
なんでこんな非情なことを自然はするのか?
それで天を神を呪った人もいることがわかる
ただそれは人間の業としてカルマとして必然的にそうなったともみる
例えば仙台の若林地区などは仙台市街から住宅地が拡大して無理があった、そこで不動産屋が学者が津波が来るとか警告したとき怒っていたという、地価が下がるからだという
現実に阿武隈川をはさんで岩沼になると一千万地価が高くなるという、それだけの差があったのである

都市化も文明化の拡大であり海側に無防備に住宅地を広げた
それで不思議なのは遠見塚古墳と波分神社があったけどそこまでは津波は来なかった
それも何か人間は自然に逆らって無防備に米を作るために海側を開拓したからだとなる
でもそれは人間の業(カルマ)でありどうにもならないという面があったのだ
人間の業(カルマ)はとめることができない、それで文明も必然的に滅びてゆくとなる
そういうことを津波は人間に示したのかもしれない
それだけ自然の力は人間の技よりはるかにしのぐ想像を絶する強大なものだったのである

つまり今回の津波よりさらに大きな津波が来ないとも限らない
一千年とか二千年とかの単位で見ればそうした巨大な津波が起きているからである
人間の時間単位はあまりにも短すぎるからである
だから人間は自然でも宇宙でも計ることはできない
逆に計られている存在なのである、その小ささを意識すべきだがそれができない、科学技術でもそうである
その力を過信して逆に原発事故のように想定外のことが起きて取り返しのつかないことになった
それはやはり神の力に人間の力が砕かれたとなるのである
科学技術によって人間は神のようになると信仰にもなっているがそれがもろくも砕かれたのである


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遠見塚古墳があり波分神社まで津波は来なかった
海岸深くもともと海が入り込んでいたのである
ただ高速道路が壁となり津波をさえぎったのである
だから高速道路などが津波には効果的だったとなる

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a train go


a train go


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電車がいろいろな風景の中を行く
それは決まったソフトの機能で作られる
そこにはなんら創造的なものがない
ただ機械的作業でできるのである
それはソフトウェア―が AIが作りそれを選んでいると同じである

結果的に写真や絵のビッグデーターがありそれを変化させることによりできる
だから創造するというものではないから変化させるだけだから無限に抽象画できるともなる、頭の中にイメージとして浮かぶのではない
ただ機械がコンピュターのAIが作り出しているからである


The train goes in various landscapes
It is made with fixed software functions
There is nothing creative there
It can only be done by mechanical work
It's the same as software makes and chooses AI

As a result, there is big data of photograph and picture and it can be done by changing it
So it's not something to create, so just changing it makes it possible to abstract infinitely, not as an image in your brain
Just because the machine is AI of computer
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2019年03月23日

慶長奥州地震と相馬中村藩の復興(岡田清一)を読む (石高の極端な変化が数字で示された有力な証拠となる?)


慶長奥州地震と相馬中村藩の復興(岡田清一)を読む   
(石高の極端な変化が数字で示された有力な証拠となる?)


この題名でインタ−ネットでPDFて論文が出ます

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慶長津波の有力な証拠となるとこれだったのか?
宇多郷がなぜこれほど甚大な被害だたのか?
これは石高だから米の被害である
すると宇多郷では今の相馬市ではそれだけの収穫量があったのか?

なぜなら海側だと田は少なくなる、ただ海側に向かって開拓されていたのか?
新田は松川浦に近く開拓された場であり元禄の碑があった
でも元禄時代に広く日本では開拓開墾されて田が増えて米の収穫量も増えた
元禄時代は芭蕉が活躍した時代であった
華やかな時代になった

でもその前となると元和が1620年で終わり元禄時代は1688年にはじまる
その間に60年以上の年月の差がある
ただ慶長時代からすでに開拓開墾は行われていた
でも不思議なのは津波の被害となるのは海側である
つまり海側はそれほど収穫高が高いとも思えないのである
それでも開拓されれば田の面積は広くなるのである

例えば八沢浦とか明治になって開拓されたし小高の井田川浦は大正になって開拓された
そういうふうに海側が開拓されるのには時間がかかっていたのである
北郷が南相馬市の鹿島区が被害が少なかったのか?
それは海側にまだ田が広がらない、開拓されていなかったからなのかとなる
現実に右田となるとそこは人は住んでいなかった、港でもなかった
ただ海老村には弥生時代から人が人が住んでいた
そこは高台になっていたからである
でも今回の津波では壊滅的被害を受けた
そこには港の機能があり漁業もしていたことはわかっている

わからないのは宇多郷の今の相馬市とか松川浦の被害がなぜこれだけ多いのか?
そんなに田があり米が収穫されていたのか?
ただ宇多郷は磯部なども入っていてすでに佐藤氏が支配していて港機能もあった
そして慶長津波の前に波に浸食されたとかで鬼越館に移った
その手前の日下石まで津波は来たのである
そして本当に磯部は村ごと今回の津浪で消滅したのである
つまり田の面積が広いということは相馬氏が支配する前からすでに開拓されて広かったともなる
それと宇多郷は今の相馬市地域は伊達藩の領域となっていた
だから伊達藩のときから開拓されて田の面積が広がっていたともみる
伊達藩の方が相馬藩より古く地力があり技術的にも進んでいたからである
そうでなければなぜ宇多郷だけこんなに石高が減っているのか解せないのである

そして中の郷も南相馬市の原町区の被害も大きい、でもこれもそんなに海側に田が作られていたのか?萱浜(かいはま)などは低湿地帯であり越中などの移民が入って開拓したとあるからその時に田にはなっていないはずである
ただ北泉とか高いと見ていても被害が大きかったからその影響なのか?
それも良くわからない

小高についてはこれも鎌倉時代辺りに今の城のある鉄道の通っている前まで海であり港の機能があったことは知られているし地名でも残っている
それもまた田ではないのだからそれほどの被害があったとは思えない
ただこの数字はやはり被害としては妥当なのかともなる

つまり慶長津波があった時代の田がどの辺まであったのかという研究が必要になる
この数字はやはり有力な証拠になるからだ
この数字からはすでに広く海側に開拓がすすんでいたのだということになる
でも資料があまりにも少ないということで実証できないということは確かである
それで現実に慶長津波が本当にあったのかどうか確証がもてないのである

そしてこの表で最も注意すべきは

宇多郷で慶長津波があったとしてそのあとの元和で6パーセントの石高になったのに
その後の寛永(1639)で二倍にもなっている

北郷では南相馬市の鹿島区では5倍ちかくになっている  

他は津波前の現状回復になっている

つまり北郷では南相馬市鹿島区では慶長津波があったとしてそれほど被害がなかった、そしてその後に飛躍的海側の開拓が進んで石高が5倍近くになっているのだ、それだけ右田などとか大内辺りとか海側に開拓がすすんだとなる
ただ海側だけではない、山側でも開墾されて田が増えたのである
ただ津波があったとして影響を考えると海側への開拓が進んだ結果として石高が増大したとなる

それで小高から相馬氏の城を今の相馬氏の中村へ移転したというのも何か津波と関係していて宇多郷の石高が倍以上に増大したのかもしれない、それで復興のために移転した説が生まれたのかもしれない
城が移転したということは行政の中心が移転したとなるから力が入るからである
ともかくの資料はかなり津波の証拠の資料となるかもしれない
ただその他に資料となるのものがあまりもに少ないから不確定要素が大きすぎるから未だに証明できないのである

ただ今回の津波は相馬藩だけではない伊達藩のことについてもかなり知る必要がある
相馬藩の歴史は伊達と敵対したとしても一体化していることもあるからだ
それは山元町に今回自転車で行って回りわかったのである
古代でも浜通りと相馬藩内の延長としての歴史が記されていたからである

またわからないのはボーリング調査でも不思議に800年代の貞観津波の砂は出てくる
松川浦の奥でボーリング調査したのは今回の津波の7年前でありそこでも出てきた砂は
貞観津波のものだったのである、それから山元町のボーリング調査では弥生時代の津波の砂がでてきた
不思議に慶長津波の砂はボーリング調査ではでてこない
これはなぜだろうともなる、まだ調べ方が足りないからだとなるのか謎である

いづれにしろ私自身も今回の津波を追求しても資料がないということで調べようもないのである
ただここでの石高のこれだけの変化があるということはやはり大きな証拠になる
これはやはり津波の影響だったしか思えないのである

ただ相馬藩政記には生波で700人溺死と二行しか記されていない
その他一切記されていなのはなぜか?
そして戦国時代でありその戦いのことは事細かに記されていた跡継ぎ問題とかも記されている、そして江戸幕府が開設されたとして時代は戦国時代であり政治は安定していなかったのである
相馬藩でも相馬氏が支配したとしても安定していない、いつ反撃があるからわからない時代だったのである、そういう政治状況も影響していて津波のことは詳しく記されなかったとなる
でも依然としてなぜこれだけの被害があったのに資料も残らない、語られないということは謎として残るのである

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原発事故の原因として全体を見れない社会があった (ただ個々人の利益追求と私的権利の追求になった)


原発事故の原因として全体を見れない社会があった

(ただ個々人の利益追求と私的権利の追求になった)


原発事故で起きたことは何なのか?その原因は何なのか?
それは複合的だからそれを解決することは簡単にできない
様々な現代社会の矛盾もそこに現れたからである

現代社会の特徴は何か?それは全体を見れない社会、全体を把握できない社会である
無数のパーツになって社会を構成している、その全体を見れる人は理解する人は一人もいない、そんな人はスーパーマンしかいないのだろう
だから原発でもその全部を知る人などいなかったのである

第一吉田所長が復水器のことを知らなかったのである
それは一番所長ともなればわからなければしもそも所長になれない
トップになれないはずである、でも私は資材の専門であり専門でないからわからないといっていた
他の会社でも私は…専門であり私には会社のことでもその分野はわからないとか社長が言っていた
それは今の社会でどこでも起きていることである

原発でもそうして巨大な複雑化したものでありそれを全部知る人は誰もいない
その時何が起きるのか?
今回の事故のようになったときもう手をつけることもできない
メルトダウンして全体が崩壊してしまうことになる
それはあまりにも巨大であり複雑だからである

そういうことは別に原発だけではない、あらゆるところに起きている
医療関係でも体でも体の一部分の専門家がいる、医者がいる、でも体全体を診れる人は一人もいないのである
でも人間は死ぬとき必ず合併症で死ぬのである、一つの臓器がだめになりそれから他の臓器も悪くなり死に至る、それは人間の体ももともと一つのものとして機能しているからそうなる、でも全体を見れる人は一人もいないのである

そうして現代では江戸時代から明治に変わる時、私的所有権とか私的権利とかを過剰に認めた、結果的に山でも無数に分割されて全体として管理できなくなった
いちいち土地の所有者を確定して管理しなければならないからである
それは他でも津波の後に土地を利用するにも遠くに住んでいたり細分化されて土地の所有者すらわからないとして利用できないのである

それは村が山を共同で入会権として利用していた時代とまるで違った社会になったのである、そういう弊害はいろいろな歪みとして現れたのである
原発事故後の補償金問題でもそうである
みんな個々人が金をもらい個々人が勝手にその金を使い個々人が復興すればいいとなっていたからである
江戸時代なら村全体という志向がある、まず村全体をどうしようかとなる
それは村が一つの自然共同体になっていたからである
個々人だけでは生きられない社会だったからである
入会権でもそこでみんな燃料となる薪でも分け合うということをしなければ生きていけないからである、そこに共同が自ずと生まれていた
全体があって個々人がありえたのである
それはまた自然の生態系に依存していたから小さな村で自給自足していたからそうなったともなる

なぜ原発事故で村でも町でもコミニュティが簡単に崩壊したのか?
それは放射性物質の汚染でそこに住めないからしかたがないとなる
でもそれだけではなく現代社会のコミニュティの脆弱性がありそうなったともみれる
資本主義社会とグローバル社会とかも深く影響している

人は自分自身の安全と利益だけを求めようとする。人が全く意図していなかった目的を達成させようとする見えざる手によって導かれた結果なのである

見えざる手で利己心がかえって社会全体の富をふやしてゆくというアダムスミスの考え方である
つまり利己心は資本主義では奨励されているし競争でも奨励されている

でもそうなると全体というのはコミニュティとかは本当に見えざる手で維持できるのか?それがこの辺で起きた問題である
補償金をもらって個々人で復興すればいい、市町村のことなどどうでもいい、別に金さえあればどこにでも住める、こうして簡単に村でも町でも崩壊したとなる

そもそも日ごろ人間は協力していなければ共同していなければ何か事があったとき協力するだろうか?江戸時代のような村であれば個々人の勝手は許されない社会である
その負の部分は自由がないということである
でも明治以降は自由を与えられてもそれは私的利益と権利の追求になった
個々人が良ければいいのではあり他人は個々人の利益のために犠牲になってもいい蹴落としてもいいという社会になった
そこで全体の志向は失われたのである、だから小高の農家の人は山元町で津波の被害地を安く買って農業をはじめたとなることでもそうである
小高では放射能被害で農業をできないから補償金で山元町の土地を買ってするとなった
肝心の小高では農業をする人もいなくなり老人ばかり残されたのである
何か事あれば今のコミニュティは簡単に崩壊する実例を作ったともなる

十津川部落では政府から援助金をもらったけどそれは村全体のためにもらったのであり
村全体が一致して北海道に移住したのである、それは個々人が勝手にできる金ではなかったのである
だから現代社会には全体という志向がない、個々人の利益と権利の追求がかえって奨励されているのだから今回のようなことがあってもまず個々人の利益や権利が優先される
そして回りでは同じようにいい暮らしをしているとなれば誰も崩壊した村や町に住まないとなるし復興もできないともなる
もちろん原発事故がそうしうたのだともなるが何かそれだけではない現代社会の歪がそうしたのだということもあると思った
現代社会は全体が見えないからいざこのような大事故が起きると市町村自体でも簡単に解体してしまう、全体をどうしようかとか働かないからである

まず自分が自分の家族をどうしよう

これが優先されるのである、ただ不思議なのは戦前だと国家の方がこうした個々人の利益や権利より優先された、それで国家のために3百万人が死んで犠牲になったのである
戦後はそうした国家すらない、ただ個々人の利益と権利のみが過剰に追求されてきたのである、原発事故ではそうした現代社会の矛盾とか脆弱性が露骨に現れたとも見れるのである
posted by 老鶯 at 09:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2019年03月22日

春の日に山元町までの旅の俳句と短歌

  
 春の日に山元町までの旅の俳句と短歌

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亘理まで5里中村へ三里とある

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この石はみ応えがある
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八重垣神社の松は残っていた、ここは海に相当近い
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津波の後に長い高架橋のレールになった

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クリック拡大

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ここは五本松だったが三本になった





朝雲雀六号線を遠くへと

我が家を遠く離れて春の山 

東風(こち)吹くや境を越えて遠くへと

草萌えて電車の来るや海望む

大石に一日におうや庭の梅

正宗の休みし石や落椿

春の闇三本松の浮かぶかな
                                    

新地なる道標(みちしるべ)古り春日さしその道のりや昔思いぬ

正宗の休みし石と吾も休む津波の後の春の磯山 

海霞み島の見えじも船影の二艘進みぬ春の昼かな  

椿咲き松によりにつ正宗の休みし石や沖行く船見ゆ

春の山霞て見えじ島の影二艘の船の沖に行く見ゆ 

(八重垣神社)

津浪にも神社の松の残りしを春の日さして我はやすらふ

山に没る春の夕日や海よりそ満月上る浜街道行く  

春の灯や電車の音に浜街道旅人の行く影のありしも

我がよりぬ坂本宿の古きかな春の満月夕べ昇りぬ 

鹿狼山見えて高きを我が還る6号線の春の夕ぐれ  

松川浦月影さして鷺一羽なお餌漁る春の夜かな  


五本松三本残り支え合う人のごとしも月影さしぬ

五本松三本松のなお残り我が還り来ぬ春の夜かな

三本松変わらずここにあるべしや我が待つ人のなしとて待たむ


相馬市を越えて新地に行くと道標がある、それで坂本まで何里とか記してある
それを見ると何か旅に来たなのという感じになる

大石の庭は前にも見た、あの石がいいのである、そこに梅が匂っていた
それから新地を越えて山元町に入った、ここは行ったことがなかったのである
何百回と仙台に通っていたがこの海岸沿いは行ったことがなかった
実は新地の海岸までは来ていた、でもそこから先は遠いなとなり行かなかった
つまり自転車だとなかなか遠くに行きにくいのである
ここから5キロで温泉かと遠くへ行ってあったが引き返すと10キロになるから遠くなるすると先を急ぐから行けないとなる
ただ電車の中から山下駅からいつか海の方に行ってみようとは思っていたのである
それがこの年までついに行かなかった
人間は近くでも行かない場がある、その間に月日が流れて津波の後に行くことになったのである
人間は意外と灯台下暗しで終わることがあるのだ

磯ア山でも津波が襲ったが辛うじて被害をまねがれた
そこに正宗が座ったという石があった
そこからの見晴らしはいいが港もあり船もあったが漁には出ていないという
その道はサイクリングにはいい、堤防の上を走ったら気持ちがいいとなる

八重垣神社とは何なのか?海に迫って神社がある、そのことはまた歴史の探求として書いてみよう、ここでは旅として山元町まで行ったことを書く

山元町の街の方に行くと夕暮れになっていた、郷土資料館によった
そこに坂元のことが記された木簡が発見された、坂元願とかの木簡であり古代のものである、坂元宿はそれだけ古いことに驚いた
山元町は古代の歴史として相馬の延長にあることがわかった
これも鉄道だけだと線だけの旅になりわからないと思った
鉄道の旅は日本全国を隈なく乗ったけどそれだけではわからないのである
第一そもそもすぐ近くの山元町のことを知らなかったからである
人間は交通が発達して便利になってもかえっていろいろなものを見逃しているのである
感じなくなっているのである

夕日は山に没しその時満月が出た、坂元駅辺りでかなり暗くなった
でも六号線をひたはしり鹿狼山が見えた、あれはこの辺では一番高いから目印になる
それから相馬市の方に行く道ではなくて松川浦に行く道路を進んだ
そして松川浦に出た、満月であり月の光りが入江に反射していた
写真をとったが夜でうまくとれなかった
鷺が一羽月明りのなかで餌漁っていた

そうして相馬市により食事して例の五本松の所にくる、今は三本松しかない
それも枯れるかもしれない、何か松は枯れやすいのである
春の夜の闇の中に三本松が影となり浮かぶ
その松は人間に見えるのである、松は一番人間に親しいものであり人間に見えるのであるだからこの松が還ってきた自分を待っているというふうに見えるのである
家には誰も待つ人がいなくても松が待っているとなる  

今回は介護とかで旅は10年くらいしていなかった
それで新しい電動自転車で旅した気分になった、やはり旅で見る時の自然でもなんでも違って見えるのである、旅人して見る景色は違って見えるのである
新鮮に見えるのである、だから旅人になる必要があるがそれが今ではしにくい
車でもバイクでも早すぎて旅人とはならない、通り過ぎるモノになっているからだ
電車でさえ旅人としての経験はできない、現実に何百回も仙台に通い山元町を通ったのにそこを知らなかったからだ

旅の問題は自転車だとしても六号線だけを通っていただけではその土地のことはほからないということである
海から山へと横の方面も旅しないとわからない、ただ六号線は遠くに行くにはどうしてしも便利だからそこだけを頼りに通りすぎてゆくのである
寄り道できないことが問題なのである、その時何か大事なものを知らずにただ通り過ぎてゆくだけだとなる
そういうことが現代では多すぎるのである

とにかく旅したな旅人のようにまたなったなとつくづく思った
でも山元町から越えると仙台の方に行くともう日帰りはできないと思った
やはり80キロ行くとして帰りもそうなるから行けない
泊まるとなると結構楽ではない、ただこうして動いていれば体力も筋肉もついてくるかもしれない、ただ一日とか休めば楽なのである、連続して自転車をこぎつづけることは苦しくなる、ただまたさらに遠くへ行ってみよう
そう思うのはどうも去年でも4月5月でも光線が紫外線の影響か日射病に熱中症になってひどいめにあったからまず光線には弱くなっているからだ
夏は全く旅は自転車ではできないと知ったからだ
すると3月から4月がいいとなるから今の内に行った方がいいとなる
ただこの自転車の弱点は荷物がのせられないことなのである
そしてスタンドがないからとめるのに苦労するのである
長距離になると荷物がのせらられないことは苦しい、そこが一番の問題だった












2019年03月21日

春彼岸(満月に梅匂う)


春彼岸(満月に梅匂う)

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今出ている月(19時14分)


家一軒ここに隠され匂う梅

朧月ひそかに棲みて匂う梅

花々や墓地賑いぬ春彼岸

落椿あまたや続々墓参り


誰が知らぬ人花挿して我が墓や死ににし人を一人偲びぬ

せわしなに時は過ぎゆく死す人の忘るは早し彼岸はめぐる

次々に人の変われるこの世かな今日ある人も明日なしかも

梅の花匂い放ちて夕べ散る満月照らし心おきなし

紅梅の匂いに満月美しき盛りの時や幸にめぐまる

月影に浮かびしもあれ死にしもその面影や彼岸となるかな 


彼岸だけは墓地はにぎわう、それにしても人の世は変わりやすい、人自体が次々に変わる
死ぬと忘れられるのも早い、そして時間が過ぎ去るのも早い
家族が二人死んだけど一人は8年過ぎたしこれも早い、一人は三年である
そして残された人もまた生活とかいろいろ追われる
それでこの辺は津波とか原発事故などがありめぐまぐるしく変わった
なにやかにやで自分も一人で暮らすのが3年すぎたのである 

年をとれば今日ある人は明日なしかもとかなる
同世代の人が次々に死んでゆく、有名人でも死んでゆく
するとその死者をいちいち偲ぶことすらできないのだ
なぜなら次々に死ぬ人が知っていても増えてくるからである

昨日は満月でありその後朧月になった
梅の花も十分ににおいを放ちそして満月に照らされる 
私の場合はめぐまれていたが不幸に死んだ人も多い
実家の墓では肺病で25歳で死んだとか記されていると墓参りすると何か苦しくなる、圧迫されるのだ
でも実家の墓には私はもう行かない、300万もらって墓を頼むと親戚が墓参りする
その人は地元に住んでいない、もう会うこともない
何か自分の親戚はもめていたし特に母方はそうである
でも親戚はもともとなかったしすべてその縁も切れたとなる、これも無常である

彼岸には死者を偲ぶことはいいことである、一年に二度でも人間は現実に存在しないと忘れるのである
日々の生活に追われ忘れるのである、死者でも生者でも「去る者は日々に疎し」になる
実際現実に逢わなければ死んでいるとも同じだともなる
この世とは無常の世である、それは老人になると否応なくただ事実として示されるのである
若い内はまだ親か元気だったりするからまた同世代で死ぬ人もいないから感じないのである

ともかく十分に梅のように匂いを放ちそして死ねば恨みは残さないだろう
でも人間はつくづくいくつになっても生に執着するのだ
それは生物の本能だからどうにもならないとなる
生きれるかぎりは生きるとなるからだ

昨日は月影の中をずっと自転車で走ってきた、そして今日は墓参りである
家族が待っているいるわけでもない、一人暮らしにもなれてくることは確かである
要するに人間は何でもなれるということなのは確かである
どんなことでも受け入れざるを得ない、それが現実を生きることなのである




原発避難民の補償金の使い方が間違っていた (小高の人が山元町で土地を買い農業はじめた矛盾)


原発避難民の補償金の使い方が間違っていた

(小高の人が山元町で土地を買い農業はじめた矛盾)


事情は詳しくわからないにしろ昨日山元町の不動産屋の人が言ったいたのは何を意味しているのか?
小高の人が山元町の土地を買いあさって農業をはじめている
その土地は津波の被害にあって売った方がいいと土地をもった人が考えた
津波の被害の土地は海老辺りでも国で買い上げるが安いと言っていた
国に売るよりは高く買ってくれる人に売ったのかもしれない

そこで山元町の土地を売る人の気持ちはどうなるのか?
「もうこの土地では農業はできない、土地をもっていても無駄だ、売る他ない
安くてもしょうがないな・・・・先祖代々受け継いだ土地だけどしょうがないな」
「ここで私たちは農業をはじめる、補償金があるから安くなった土地を買える
小高区はもう放射能汚染で土地は使えない、ここならまだ農業ができる」

こんなふうになったのかもしれない、これも矛盾なのである
だって小高区を復興するために補償金を与えられたのに実際はそうでとなかった

町全体の復興のために補償金は与えられない
個々人の復興のために与えられた
だからその補償金は個々人で自由に使えばいい

こうなっていたのである、だから避難した時点で他に土地を買い家を建てた人も近くにいる、それは個々人に補償金が与えられたからその補償金を使うのは個々人であり小高区とか南相馬市が決めるのではない、そうなれば今の世の中暮らしやすい場所を選ぶ
そういう場避難区域になったところよりいい場所はいくらでもありわざわざ放射能汚染で農業もできない、不便な所に住まなくてもいいとなる
これは時代でありどうにもならない

なぜなら十津川部落が水害で国から金をもらったときその金は北海道移住のために全員が一致して移住するために使われた、個々人の自由に使える金ではなかったのである
その時代は農業中心の時代だから北海道に土地があるから農業できるということで
みんな一致して移住したのである
そこでの暮らしは楽ではないにしろそれを受け入れざるを得なかったのである
それは相馬藩が飢饉のときも越中などの移民が荒廃した土地を与えられるということで
命がけで移住してきたのともにている

何かそういうこととにているのだ、一部が災害で大きな被害になるとかえって外部の人たちが入ってくることがあるのだ
ただここでは小高の人たちが農業をやるために資金があるから津波で安くなった土地を買いあさるとなる、小高の農業の復興のためにはその補償金は使われないのである
これも矛盾なのである、そういう矛盾は船主とか漁業関係者にも生じた
そのことは再三指摘してきた

なぜ復興できないのか?
それは補償金でもすべてが復興のために使われなかった
除染費用が何兆円とあるとしてもそれは東京のゼネコンに流れた
県でその金をもらい独自に除染をしたら良かったということがあったがそれもなかった
つまり金の使い方が悪いのでそうなったのである
そういうことを会社経営している人はしきりに言っていた
そういう人がまたなぜ会社経営に失敗したのかもわからない
ただ部下に仲間に裏切られたということは言っていた

そもそも小高と鹿島区も南相馬市で補償金でもめたからである
でもふりかえるとそのことを指摘すると小高の人は鹿島区の人たちはなんなのだ
かわいそうな俺たちをただ批判するだけなのか?そうして怒ることにもなる
でも内部でもそうした矛盾が生まれてそれも大きいのである
なぜみんな若い世代が出て行って帰らないのか?
それは多額の補償金をもらった結果としてそうなったのである
小高とか原発避難地域の復興には使われなかったのである
それは県単位でもそうだし市町村単位でもそうだったのである
そこになんら自治体の政治力も働かなかったし一体自分たちの住んでいる村でも町でも市でもどうするんだということを協議したこともないのである
ただ国の言うなりになり個々人の自由意志にまかされてそれなら補償金もらって外で生活しようとなってしまったのである

ともかく小高区を例にとればなぜきついことを言うかとなるとそれは南相馬市に住んでいれば当然予算とか税負担があり大きく影響するからである
つまり復興してもらなわないと南相馬市全体で困るからである
それは家族の一人が病気になったような状態になるからである
離れていればそうはならない、でもすでに外に出て家を建て仕事をもち子供も小中学校を高校でも外の学校に行った人は故郷と関係が薄れてしまった
いまさら戻るわけにもいかないととなる
既成事実化してしまったのである、でもそれでは親を残してその負担をどうするのか?
ただ金を払えばいいと言う問題でもない
現実にこの辺では立派な施設があっても働く人がいないから老人ホームでは介護を引き受けない、それで青森の施設に受け入れられた人もいる
それは全国的問題にしろこの辺では極端なものとしてなんでも現れたのである
                                                    

タグ:原発補償金
posted by 老鶯 at 13:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2019年03月20日

山元町の津波の被害 (前にさえぎるものがないと被害が大きくなる)


山元町の津波の被害                         

(前にさえぎるものがないと被害が大きくなる)

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黒く盛り上がる波が怖い

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磯崎山

津波がぶつかってせりあがったようになった
辛うじて御堂は残った

ここしか高い所がない、だから被害が大きくなった

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中浜小学校に残った松
これも海が近いのだから枯れてもいいが枯れていない


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津波の後に残っている松と木

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八重垣神社の松、ここも海が近いから良く枯れずに残っている

山元町郷土資料館

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弥生時代は古い

でも・・・・千軒とか伝説が各地にありそれが消えた、それは津波とかのためだったこともある
南相馬市の鹿島区の海老千軒とかも言っているからである


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白いのが津波の砂の堆積

硝子に自分が映っていた




山元町の磯崎海岸に上ったら土地の人と話できた
その人は毎日散歩のために上っているという
それでいつも港に停泊している船を見ているが漁に出たのを見たことがないという
津浪はこの磯崎海岸も襲ってここも危ない所だった

なぜ山元町の被害が大きかったのか?
津浪は地形の影響が大きかった、山元町を見るとさえぎるものがない
その海岸近くにある家も多かったとすると被害が大きくなった
山下駅の海側にも家が結構建っていた、それをいつも電車から見ていた
仙台に近いから山元町は通勤圏にもなっていた

その人は何か不動産屋らしい、それで阿武隈川を越えて岩沼になると土地が一千万高くなると言っていた
建物の値段は変わらないが土地の値段が高くなると全体的に高くなると言っていた
一千万も高くなるとその差は大きい

それからなんでも小高の人が農業やるために移り住んだという
その人は土地を買いあさって農業をはじめたという
それは補償金を一杯もらったからだと言うとそうかとその人は言った
山元町の土地は安くなっているから買いやすくなっていたのである
ただこんなところにも小高の人が金があるから土地を買っていたとかなる
新地辺りにも小高の人は土地を買って住んでいる
一方で山元町では人口が減っている

死者 637人(遺体未発見の死亡届17人および震災関連死20人を含む)
家屋の被害(平成25年5月24日現在)
全壊 2,217棟(うち流出1,013棟)
大規模半壊 534棟
半壊 551棟
一 部 損 壊 1,138棟

この被害は凄い、全壊が2,217棟というのはそんなに家があったのかとなる
その辺を行ったことはなかったから残念だった、津波の前の状態がわからないからだ
なんでも磯崎山で聞いたのでは三方から津波が来たという
そういう話は聞く、そして渦巻いたりしたということ聞いたから恐ろしい
映像を見ても黒い波が盛り上がり瞬間的に高くなる
その光景は今さらながら空恐ろしいとなる

ただ不思議なのは山元町というとき山元だから山側を中心に発展した町かとも思った
そして山下町でもそうである、そもそも海側にはそんなに人が住んでいなかったのかもしれない、ただ漁港があり江戸時代の神社もあるからそれなりに古いのである
浜吉田だと浜が近いとなる地名なのになぜ山元町なのか?山下駅なのか?
それが不思議に思った、これも単純な疑問ではある
山寺とありそこが宿場町になっていたこの町名が生まれた

郷土資料館には古代のものが展示してあってわかりやすかった
弥生時代に津波が来てその地層で砂がある所が津波が来たためだという
貞観時代の津波も言われるがここでは弥生時代だから相当に古い
ただ津波がかなり奥まで来ていたという証拠である
そして不思議なのはここでも慶長津波については何も語っていないのである
何かこのことがわからないのである

山元町は電車で通り過ぎると海の方にも行ったことがなかった、それが失敗だった
ただ津波の跡は枯れずに残った松とか中浜小学校などに生々しく残っている
本当に海のすぐ側の小学校で屋上に逃れて助かったというのも判断が良かったからだったなぜなら地震から10分後に津波が来たというからだ
この辺では40分後だったのである、それ良くとっさに判断したと思う
やはりあれだけ海が側なのだからそれで判断できたのかもしれない
津浪でもあの小学校は流されないし屋上に逃げた助かったというのも津波の教訓である
ビルのような建物は流されないのである、だから高い所に逃げれば助かるのだ

山元町くらいまでは相馬の続きという感じになる、ただ山元町については調べていないのも失敗だった、ただ電車で通りすぎる町だったのである
ここは浜街道として連続したものとして知るべきだった
結局電車とかバスとかで交通を頼っていると本当にその土地のことがわからないなと思った、その土地に寄ったりもしない、ただ通り過ぎるだけだからそうなっていたのである
仙台には常に用事があって行ってもここには寄らなかったからだ
現代とは交通の便がいいから途中をぬかしてしてしまうのである

posted by 老鶯 at 23:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2019年03月19日

無人駅の日立木駅の待合室が一部壊される (そこで会ったのは中国人の高校生だった)


無人駅の日立木駅の待合室が一部壊される

(そこで会ったのは中国人の高校生だった)

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ここには防犯カメラがなかった



相馬市の道の駅から駅にかかわったので日立木駅に来てみた
そしたら待合室が壊されていた、それは結構損傷が大きい
そしてそこにいたのは中国人の高校生だったのである
その高校生は4年間くらい日本にいたとか普通に日本語がしゃべれる
相馬市の東高校に入学して中退したとか言っていた
一年生でやめたらしい、母親は中国人である

そこで日立木駅の入り口の待合室が一部壊されていた
そのことで話し合っていたら見守り隊のパトロールが来た
それで高校生はスマホを貸してその見守り隊の人が警察に連絡した
私は警察に連絡しろと言ったからである
鹿島駅で落書きをされたとき警察に連絡したからである

とにかく無人駅は特に日立木のように日中だと一人二人くらいしか乗り降りがない
駅前にはなにもない、人の目が全くないとなると荒らされやすい
そしてそこには防犯カメラが一台もなかった
これも不思議である、鹿島駅には4台くらいあるからだ
なぜここはこうして見ている人もいないのに防犯カメラがないのが不思議だった
こういう場所にこそ防犯カメラが必要だからである
おそらく費用の面でとりつけないのかもしれない

まず日立木駅は乗り降りするにも一人か二人しか昼間は見ない
高校生の通学などでは三人四人とかなるかもしれない
それだけ少ないから駅でも人がいることはほとんどないともなる
そういう所は昼間でも誰も見てないから荒される
そういうことは予想していた
それを現実に目にしたのである
ただこれが昼間にしたのかどうかはわからない
鹿島駅ではまず昼間は人の目があるからできない
向かいの自転車屋の人はいつも見ているからである

ここも水戸管理局内で管理している
水戸管理局の人は水戸から来るのではない、ここに住んでいるのである
ただ管理局が水戸になっているだけなのである
しょちゅう水戸から来ていたらやはり大変だと思ったがそうではなかった

ともかくその中国人の高校生と駅で話してこんな人がいたのかと驚いた
中国人は良く見かける、女性が日本人と結婚した人も知っている
その高校生は日本語では困ることがない、第一高校生なら読み書きだってしているからである
しかしその人は相馬市の東高校に入ったがやめたという、その理由はわからない
それで今度は原町の高校を受験するとか言っていた
それで通うので駅に来たのだという、駅の近くに住んでいたのである
あれだけ日本語ができるということはもう日本人になれると思った

中国人で女性の人が裁縫会社のフクソウに来ているが日本語はしゃべれない
ただ昨日はコンビニで阿武隈信用金庫のカードで金を下ろせないと騒いでいた
それは本当に下せないものだから信用金庫に行って直接聞いてみないとわからないと教えた
中国人はそれなりにいる、ただ中国人は前と違ってそんなに貧乏ではない
むしろ中国人の方が日本人より金持ちが多くなっている時代である
だから日本に来るメリットがそんなにあるとは思えないのである

ハルビンから来たというがこの辺はその方面からの人が多い
名取の空港から飛行機で行くのかと思ったら行けないという
新潟から行くと言っていた、北京から三時間で成田に来た
中国は飛行機だと近いのである、ただ新潟まで行くとしたらちっょとめんどうだなと思った
ただ飛行機で直接ハルビンに行かなくても北京に行ってそれから電車を利用すれば行ける
とにかく今は中国は近いのである

いづれにしろ日立木駅で中国人の高校生と話しするとは思ってもみなかったがそういう時代だともなる、どこに外人がいるかもしれない時代だともなる
東京に行ったら外人だらけだとなる、田舎でもやはり外人がこうして普通にいるからである
あの人はもう日本人であり日本で暮らすのに困らない、でも何か学校でつまづいたのだろう
それは日本人だって学校でつまづち、不登校になる
自分自身も高校は嫌だった、そこで勉強嫌いになったのである
その人が東高校を中退した理由はほからないがやはり何か中国人だからなのか?
他でもそういう人がいたとかテレビで見たからそうなのか?
別に言葉に困らないのだからなしめないとは思えない
言葉が通じなくてなじめないとテレビでは放送していたからである

この人の場合はほとんど言葉では困らないのである
第一また原町の高校に行くということは日本語でもできるからそうなっているのである
中学とか高校で外国に来るとやはり外国に溶け込みやすい、言葉も覚えるのである
だから外国になれるには若い内なのである
人間は何でも時期がありそれを逃すとできなくなるのである
それで自分は50歳で外国旅行して大失敗したからである

綿津見神社と山津見神社 (松川浦からその跡をたどる)


綿津見神社と山津見神社

(松川浦からその跡をたどる)

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山津見神社と和田=綿=綿津見神社


大山祇神社の住所は愛媛県今治市大三島宮浦で主祭神は「和多志の大神」の異名をとる
大山祇(おおやまづみ)神である
この一帯の海賊衆の親分のような神様である                  
一六代仁徳天皇の時代、百済の国から渡ってきた、津の国の御島(大阪府高槻市三島江の式内社三島鴨神社)にはじめいたのだという

古事記にニニギは野間岬で美女に出会う、名を問いば木花之佐久夜毘目売(このはなさくやびめ)で、ニニギは結婚しようともちかけた
すると木花之佐久夜毘目売「父、大山津見神に相談します」
という、大山津見神は姉の岩長比売をそえて差し出したのだった

大阪の三島神社でもそうなのだが「大山祇神」には物部韓国連(ものべからくにのむらじ)が百済から大山祇神を奉斎してきたと伝えられる
東海地方では目を転じれば静岡県三島市には三嶋大社があり大山祇神社祭られている
この一帯の国造は昔物部系の人物が勤めていた
(消えた海洋王国ー吉備物部一族の正体ー関祐二)

飯館村の佐須にある神は狼ともされているが実はもっと古い古代にさかのぼるのである
その由来は古事記にも記されている神であり古いのである
ではなぜこういう神が遠くみちのくにもたらされたのか?
つまりその神を奉じていた祭っていた人たちが移動してきたから神様も一緒に移動してきたのである

なぜ松川浦に和田があるのか?これは綿津見の綿が和田になったのである
その源は大山祇神社の住所は愛媛県今治市大三島宮浦で主祭神は「和多志の大神」なのである
和多志とは渡しであり渡ることかきている、海を渡る人たちだからそうなったのである
渡部の姓でもそうである、渡るからきている、海であれ陸であり運送を生業とする人たちだったのである
三島神社というとき原町にもある、これは百済系なのかとなる
その基はここに記されたものにさかのぼるのである

この大山祇神社神社と綿津見神社は対になっている、瀬戸内海の三島では対になって祭られている、兄弟の神だともなる
大山祇神社というとき山がつくから山をイメージするがこれは海の民の神になっている
一方綿津見神社は海をイメージする、でも二つは海彦と山彦のように一体なのである
だから松川浦にこの二つの神が並んでいることがそれを象徴している
二つは対になりか一体だからこうして並んで痕跡を残している
一方は山津見神社であり一方は綿津見神社でありその綿が和田になったのである

そして神社は綿津見神社神社でも山津見神社でも海から移動してきた、海から入ってきたのである、それで玉野から霊山に行く途中にも山津見の社が岩場をよじのぼったところに祭られていた、それは小さな社であり隠されていてわからない所にあった
それはやはり松川浦から人が移動してきてそこに祭った
そして飯館村の佐須に祭られた、飯館村には綿津見神社もあるからだ 
錯覚しやすいのは佐須に山津見神社がありそこから海の方へ移動したように見ることである
南北朝時代だと霊山の城が炎上して海の方へ落ち延びてきたからその人たちが祭っていた神社も移動した
山王神社とか日吉神社である、でもそれは時代が違うのである

まず日本の国造りは海側からはじまっていたのである
例えば今回の津波で日下石(にっけし)という所まで海になった
ニッケシとはニは西でありそれは海から見たとき西の方向にあったからである
海から見た方向感覚で西となったのである、そこはそもそも山側ではない、海に近い場所なのに西となるのは不自然だからである、海の民は漁師でも船から山を目印とする、そこに山の信仰が起きる
山は海から見たものとして意味があり名付けられるとなる
そこに海の民が最初に日本を支配したともなる、それがヤマトタケルの伝説となったのである
そういう下地を安曇氏とか宗像氏(むなかた)とがが実際に船を操作して移動したからそれがヤマトタケルに受け継がれて神話化したのである 
それで瀬戸内海の要所を抑えて吉備がまたはそれと同系の物部氏が大きな勢力をもっていたというのは理解できるのである

日本武尊(やまとたけるのみこと)、すなわち上総(かみつふさ)よりうつりて、
陸奥(みちのく)の国に入りたまふ。

時に大きなる鏡を王船(みふね)に掛けて、海路(うみつぢ)より……
蝦夷(えみし=大和政権に従わない人々)の境に到る。

蝦夷(えみし)の賊首(ひとごのかみ)、嶋津神(しまつかみ)、
国津神(くにつかみ)、竹水門(たかのみなと)に屯(たむろ)して、防がむとす。

しかるに、遥(はる)かに王船(みふね)を視(み)て、
予(あらかじ)め其(そ)の威勢(いきおい)を怖(お)じて、
心の裏(うち)に、え勝ちまつるまじきことを知りて、

悉(ふつく)に弓矢を捨てて、望み拝みて………
蝦夷(えみし)ども、悉(ふつく)に慄(かしこま)りて、

すなわち裳(きもの)をかかげ、浪を分けて、
自(みずか)ら王船(みふね)を扶(たす)けて岸に着く。

よりて面縛(ゆわ)いて服罪(したが)う。

その罪を免(ゆる)したまう。

よりて、その首師(ひとごのかみ)を俘(とりこ)にして、
従身(みともにつか)えまつらしむ。

蝦夷すでに平(む)けて日高見国より還(かえ)る。   

竹水門(たかのみなと)とは南相馬市の磐城大田地区の多珂神社神社のことなのである
そこから海が見えるしその当時海は深く山側に入っていたからである
相当奥深くまで海だった、それが津波で証明されたからだ
鹿島区の塩崎(しおのさき)の船着まで津波が来たのである、そこは低地だっからそんな奥まで来ていたのである
だから多珂神社のあるところは港のような場所だったともなる

そのヤマトタケルの伝説の基は綿津見神社と山津見神社があるように安曇氏とかは綿津見神社であり山津見神社もついにしてある
宗像氏とか海の民と深く関係していたのである、そういう人たちがここに最初に入ってきたのである
物部氏が吉備氏と一体だという時もそうである
瀬戸内海で交通の要所あり力をもったからである
南相馬市でも物部氏に由来しているものが多いのである、古代の郷では小高に吉名郷があるが物部吉名という人物名があるから具体的にその氏族名と名前があるということは物部氏がヤマトタケルの前にこの地を支配していたのである
それで原町の桜井古墳は物部氏系統のものである、なぜなら東海地方から出てくるものと同じものが古墳から出たとされるからだ
東海地方には物部氏が勢力を持ったところだからである

表からみても東海地方に静岡県に綿津見神社が50とかぬきんでて多いことでもわかる、そして相馬地域に20というのは本当に多い他は少ないからだ、この辺ではとにかく綿津見神社が目立つのである
ただでは安曇氏の痕跡が残っているかというとない、ただ神社だけがその跡を示して残っているとなる
伽耶(かや)とかもその痕跡が消されたように安曇氏の痕跡も大和王権成立して消されたとなる

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静岡に綿津見神社が50あり福島県に20あるがこのほとんどは相馬地域にある
ただこの数は正確なのかどうかわからない、綿津見神社神社はもっと多いように思うからだ



2019年03月18日

春時雨(人間の五感が機械化で失われる―旅もなくなる)

                     
春時雨(人間の五感が機械化で失われる―旅もなくなる)

柔らかに白髪をぬらす春時雨


春時雨というのがある、それは二三日前だった、これもまた帽子をかぶっていると感じないことがある、でも顔をぬらす春時雨だったから感じた
まず車だとこういう自然の変化を感じない、季節感もなくなる
第一風を感じない、車は閉鎖された空間だからである
風を肌で感じられない、今どういう風が吹いているのか感じないのだ
俳句とかだとどうしても季節を感じなかったら作れない
だから今の車社会ではそうして俳句とか季節感をテーマにしたものは作りにくいとなる

最も自然を感じるのは歩くことである、でも私自身ほとんど歩かない、すると歩く感覚が消失しているのだ、歩くことは今や車社会になると最も新鮮な原初的な経験になったのである、だから文明が発達したから人間は進歩するわけでもない
かえって人間の五感は消失してゆく、そうして自然でも感じなくなることは貧しいともなる、物はあふれて機械で便利になっても五感で感じることが消失していることは貧しいとなる

それから便利になると距離感がなくなる、芭蕉が旅したみちのくでも平泉でも新幹線で二時間だとなると何の感懐もなくなるだろう
ただ旅は通り過ぎてゆくだけだとなる、そしたらもう俳句などでも作れない
作ったとしても別なものとなる、距離感を感じること遠いなと感じるかことも一つの人間的感覚である、それが新幹線や飛行機によって奪われるのである
それで千本桜を見に船岡とかに自転車で行ったことがあった
その時その桜はみな散っていたのである
あれだけの桜がもう散っていて残念だったとなるがそれも一つの感懐を生んだのである

はるけくも千本桜を訪ねればみな散りしあと我が帰るかな

あれだけの桜がみんな散ってしまったなと深い感懐が生まれた
それははるばる苦労して自転車で来たからだったのである
その距離の感覚が深い感懐を生んだのである、それは芭蕉でも同じである
はるばる平泉に来たら五月雨の中に光堂が朽ちずに残っていたとなる
それははるばると歩いてようやく訪ねた距離感にあったのだ
その距離感がなくなるとき人間の感懐もなくなる
二時間でみちのくに来たとかなればそこは隣の村に来たと同じである
説きおさの感覚がなくなったのである

だから現代では旅というのは消失している、旅人もいないのである
ただ旅館とかホテルは旅の宿というより何を食べるとかグルメとかなり保養の場なのである、今のホテルは江戸時代のようにまず旅人を受け入れる所ではない
そこで高い金をもらって保養させる場所なのである
江戸時代なら木賃宿であり旅人の宿だったからである、泊まることを優先した場だったのである、だから豪華な保養のホテルがあっても現代では旅人の宿はないのである
旅人は歓迎されない、まして自転車で旅するような人は汚いし受け入れにくいし歓迎されないのである、まず旅人を歓迎しないのがホテルであり観光旅館である
それで私は旅したとしてもそうしたホテルとか観光旅館が多いからそういうものが嫌いだったのである、そういう場所は金持ちしか歓迎しないからである
それはどこでもそうだが江戸時代ならそういうことはないのである
おんな貧乏だから安く旅人を泊めていたのである

結局時代によって失われるものがある、それは絶対に返ってこない、再現できない
時代は再現できない、芭蕉の時代を再現できないから芭蕉のような俳句はもう作れないのである、つまり人間社会は得るものがあっても必ず失うものがある
だから人間の幸不幸など計れないのである、縄文人が不幸だったともいえない
そこで自然に驚嘆して日々生きていたのかもしれない、もちろん苦しんでもいた
ただその時代時代に感じるものが違っていたのである

ともかく現代とは人間の五感が消失してゆく時代である
膨大な映像時代になっているのもそうである、でもその映像を見て本当に人間の五感で感じるものを得られるかとなると得られないのである
その壮大な空間をテレビの画面では4Kでも8Kでも再現できないからである
人間は原始的な感覚をかえって機械化で喪失している
何か写真をとればそれで自然を感じたように錯覚しているのである
それは参考になるにしても五感で感じるものとは違っているのである

そこで現代では俳句とか短歌とかそうした五感で感じるものが衰退している
膨大な映像時代でありそれに圧倒されているからである
映像によって自然でもなんでも感じたとなるからである
でも実際は感じていないのである、感じることができないのである

ただそうはいっても機械をすべて否定はできない、今度買ったE-BIKEは走り自体が違っていた、だから軽快にどこでもすいすい走れる、自転車だと風でも感じるし五感で感じるから世界が広がった感じになったのである
自転車でもやはり遅いとすいすい走らないと行動しにくいのである
でもバイクだとはやすぎるのである、ただ車と違ってバイクは風は感じる

それで霊山から相馬市の方に下ってくると海から吹いてくる東風を感じる
その時山から海に近づくのを肌で感じるのである

東風(こち)吹くや相馬市に向かい山下りぬ

霊山から下りくると東風(こち)を体で感じる、その時相馬市に帰ってきたとなる
海の方に向かっていると感じる、それはいつも海側に住んでいるから余計に感じるのである、海の見えない地域では東風(こち)でもまた違ったものになる

東風(こち)吹かば匂ひおこせよ梅の花 主なしとて春なわすれそ

 右大臣菅原道真の歌でも東風(こち)は山から吹いてくるのである、京都は山に囲まれているからである、東山があるごとくその感覚は海側とはまるで違った感覚になるのである、それで会津は広いし方角がわからなくなった
 それは周りが山に囲まれているからそうなったのである
 ただ日本海になれば海に面していても風は違ってくる、だから風は場所によって違って感じる、だから風土だとなるのである、その土地の風土は土だけでなく風によって感じるのである


認知症は歯が原因でなる? (私の母は60代で総入れ歯になっても95歳まで認知症にならなかった)


認知症は歯が原因でなる?

(私の母は60代で総入れ歯になっても95歳まで認知症にならなかった)

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週刊新潮3月21日号

認知症に関する知見は信用できるのか?専門家でも信用できるのか?
ここでは入れ歯になって認知症になったというが
私の母親は60代総入れ歯になっていた
でも96歳くらいまで認知症になっていない
だから本当に歯が認知症になる原因なのか?
これも実際は実証されていないのである
それは例外だともなるが本当にそうなのか?
つまり認知症の原因がわからないからそうなっているのだ
いろいろなことを言う人が専門家でも多いとなる

例えば趣味も何もない人は頭の働きが悪くなって認知症になるとかもそうである
私の母親は趣味もなにもない、花を庭に植えると無駄だとか一切趣味もなにもない
ただ一生働きづめであり95歳くらいまで台所で仕事していたのである
その趣味もない人がなぜ認知症にならなかったのか?
それは台所で仕事を持ち役割があったということは影響している
そこで家の中で役割があったからである

一方もう一人は姉はひどい認知症になった、役所を退職して以降何もしない
台所仕事もしない、趣味をしたとしてもそれは何の才能もなくただ集まりに参加していたというだけである、もともとそういう方面の才能はなかった
看護婦だから別な方の仕事に向いていたけどそれもしなかった
そして結果的にひどい認知症になった

なぜ認知症になる人とならない人がいるのか?
ただもう90歳以上になると半分は認知症になる
だからこれは脳の老化と関係していることは確かである
95歳以上になると90パーセントはなると思うからだ

ただ認知症と歯の関係となるとそれが認知症の原因だだとはならない
確かに母は生真面目であり食べるのも良くかんでゆっくり食べていた
でも60代で総入れ歯だったのである
だからここで書いている記事には合わないのである
それで認知症に関しては専門家でもまだ解き明かされていないからいろいろなことを言う人がいる、でもそれをすべて鵜呑みにはできないのである
つまり認知症の原因は未だにわからないからそうなっているのだ

おそらくこうした記事をのせると歯医者に行く人が増える
それで歯医者がもうからかなのかともかんぐる
そうでないにしろ何か専門家の言うことを信じやすいからである
でも認知症に関しては原因がわからないのだから信じられないとなるのだ
それだけむずかしい病気だということである
だからまるで確信したように実証されたように言うのは問題である
それは認知症に関してはまだまだみんな仮説なのである
それで勝手にいろいろ言われてもそれを信じることはできない
もし妙薬が発見されたら誰でも信じるがそれができないのだから勝手にいろいろなことを言うと混乱するだけだとなるからだ

タグ:認知症と歯
posted by 老鶯 at 10:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 福祉医療−老人問題

2019年03月17日

人生はなぜ誤算が多いのか? (将来を誰も予測できないから―人生そのものがリスクだ)


人生はなぜ誤算が多いのか?

(将来を誰も予測できないから―人生そのものがリスクだ)


人間個々人でもそうだが社会でも誰も将来を予測できないから誤算になる
こんなはずじゃなかたとみんな人生を終える
そして後悔しない人生はない、誤算がない人生はない
いくら老後に備えても貯金しようがそれで安全にもならないし備えたとはならない
老後にやることなくなり生きがいもなくなり絶望したりする
それから老後にやりたいことをやろうとしてもできなくなる
金はあるが体力がなくなり病気になったとか親の介護で何もできなくなる
そうした誤算が誰にでもあり備えることができない

この辺で津波とか原発事故を誰が予想できたか?
こんなことが起きるなど誰も予測できなかったのである
そうししたことが個々の人生でも社会的にも起きてくる
70年くらいの単位で激変が起きてくる
それにいくら備えようが備えることは不可能なのである

自分の家族をみても一人は突然赤紙が来て4年間従軍看護婦としてシンガポールに行かされて地獄の苦しみの中で生きねばならなかった
それは全く突然なのである、ベ―トベンの運命なのである
一人は東京で結婚したが夫は若くして工場の事故で死んだ
またもう一人は40歳で交通事故で死んだ、そして私の身内は全部死んで残っているのは自分一人になった
なにかしら個々人でも社会的に予測しないことが起きる
もうそれに備えることは不可能である

だから老後を計画しても無駄だともなる、貯金していても病気になったりして何もできなくなる、なにかしたいことがあったら体力あるうちに若いうちに思い切ったことをしろとなる、体力がなくなったら金があっても何もできなくなるからだ
そして時間とたちまちすぎてかえってこないのである
青春はあっというまに過ぎる、そして若い内求道しないものは後はできない
いつでもできると思うができない、せいぜい慰めが宗教になる
だから若い内に神を覚えよとなっていたのである
そのショックは青春が過ぎてしまって後悔するだけだとなっているのである

人間何かいろいろ備えろとか言うがもう人間はリスクから逃れらられない
もう生きていること自体リスクなのだ、株でも何でもリスクがないものはない
私の母は安全志向で冒険などしない人だった
それでも水害にあい、水が来て炬燵の穴に米を運んでいる時落ちて大けがをしたのであるつまり家の中にいても安全はないのである、それは津波でも証明された
この世には安全な場所はどこにもないのだ

だから津波に備えてバカでかい堤防とか高台といろいろ対策したがそんなことでも何が起きるかわらないのである、そういう備えししても今度はそこに住む人がいないとか誤算になったりする、何かも災害でも備えることは不可能である
それで減災という思想が生まれた、なるべく被害を少なくなるする方法である
それは馬鹿でかい堤防とか高台を造成して住むのではなく津波が来たらなるべく早く逃げる算段を日ごろから心がけることである
それも自然災害に備えることであり莫大な金をかけて堤防とか高台を作っても無駄だともなる

要するに人間は何であれ絶対に危険から逃れられられない存在だということを知るべきである、いつの世も火宅の世に生きているのが人間なのだ
だからもう危険を覚悟してあきらめて生きるほかないとなる
運任せだともなる、その方がリスクをかえってさけるということもある
あまりにも戦々恐々として危険を避ける安全策をとっているとかえって危険だったりするかえって危険の中に飛び込んだ方が窮地を逃れることもある
だからといってあえて危険な所に行けというのではない
人間は危険から避けられない存在なのである
それは第一人間は生身の人間でありいつそうした体でも何か壊れやすいからである
つまり人間の体自体が最大のリスクなのである
もう誰でも老化するのが早い、するとみんな病人になるのである

だから人間は備えても必ず思わぬこと予測しないことが起きて誤算になる
でも良い誤算もある、こんな得があったなと良い誤算も起きたりする
どっちかというと普通は悪い誤算でありいくら備えても結局何もならなかったともなる
結局人間はどんなに備えても安全はありえない、リスクは必ずある
あまりにも安全志向の人はかえって危険にもなる
貯金ばかりしていても安全とはならない、現実に今の時代は貯金には利子がつかないから安全ではないからだ
言いたいことはリスクに備えることは不可能だということである

むしろどんな危険にでも備えるとなると信仰しかないのかもれない
あなたが若い内に神を知ればそれでいかなることにも対処できて満足だともなる
それはなぜかとなればどんなに財産があっても津波が来て一瞬にして流されるかもしれないからだ、津波は一瞬にしてすべてを奪い去ったから恐怖だったのだ
そういう人間の手に負えないものに備えること自体不可能だったのである
それは津波だけではないそういうことが何か別のことで起きるかもしれない
70年くらいの周期で時代が激変するからである
それで今頃になってAI化でベーシックインカムで生活するようになる
人間はみんなアーティストなになるとか言っているのか?
みんな日本人は真面目に働くのが勤めだと思っていたのにそんなこと言うこと自体なんなのだとなる、それはニートとか働かないことをすすめていることが信じられないとなるからだ

このように社会の価値観もがらりと変わる、なんで自分は馬鹿真面目に働くばかりだったのだ、その価値を今や否定される、あなたは自由にあなたのしたいことをしなさいと言われてもなにしていいかわからなよとか愕然とする
この社会はある時価値観ががらりと変わる、そして今までしていたことの価値観も否定される、戦争が唯一の国家が唯一の価値だとして命まで捧げたのに何の報奨もない
戦争自体が平和を乱したとか犯罪者のように言われる
戦後はそういう経験をした、そういうことがまた起きる

だから人間はあらゆることに備えることは不可能である
それで若い内に神を知れ永遠の命を知れとなる
そもそもだって死こそ最大のリスクであり別に津波や原発事故でなくてもみんな死んでゆく、人間は死ぬのである、そのことが最大のリスクであり逃れることもできないのであるその死に備えることはいくら財産を貯えてもできない
後は身一つで死んでゆくほかない、財産は何ももってゆこともできないのである
だから地上にいくら財を貯えても無駄だとなるのだ
津波のように一瞬にして流されて消えてしまうとなる
津浪で体育館で身一つで避難したひ人が命だけ助かってもうけものだったということを言っていた、財産に執着して家にもどった人は死んだりした
それもあれだけの災害でそう思ったのである
何もなくても命が助かったということで良かったとなってしまったのである

いづれにしろ人間はあらゆることに備えることは不可能である
必ず誤算に終わる、この世に生きることこそ最大のリスクなのである
壊れやすい体をもって生きていることこそ最大のリスクなのである
たちまち体が老化するということは病気になることでありそして死ぬだけだとなるからだ何もしなくてもどんなに安全を計っても備えても無駄なのである
だからあえて危険の中に飛び込んでゆく方が安全であったともなる
びくびく生きていてもいづれは死ぬからである
人間は死と背中合わせで生きているのである、また生きることを強いられているのであるだから危険を恐れても危険を備えることも無駄だとなる
無謀は良くないにしろ石橋たたいてわたっても無駄だともなる

人間は安全に生きるより命を何かに向かって全身で燃焼させることの方が大事だとなる
それは個々人で時代で何になるかわからない、どっちにしろ短い人生でありいづれはみんな老いて病気になり死ぬ
老人になると毎日死刑台に向かう日を数えているようなものだ
それで最後に大きなことをしたいとか犯罪でも恐れなくなる
有終の美を飾りたいと劇画的に切腹したりする有名人もでてくる
それは老いることを恐れたからである
その心も老人になるとわかる、残されたわずかの人生をどうするかとなるとなんか社会がどうだこうだとか批判などどうでもいい、どうせ死ぬんだからともなるのである



a train go

a train go


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snow wall in spring

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sea life

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star flower


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万葉集の「遠妻し、多珂にありせば・・」の歌から多珂神社の謎に迫る


万葉集の「遠妻し、多珂にありせば・・」の歌から多珂神社の謎に迫る

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「遠妻し、多珂にありせば、知らずとも、手綱の浜の尋ね来なまし」

 この歌の意味を訳すと、「遠くに居る妻が、せめてこの多珂の里の付近にでもおったならば、道はよく訣らないでも(知らなくても)、手綱の浜で、尋ねて来ようものを」(折口信夫訳)

 多珂にありせばの多珂である。奈良時代(723年頃)にできた「常陸風土記」によると、大化改新(645年)以前の常陸(現在の茨城)は、新治、筑波、茨城、那賀(伸)、久慈(久自)、多珂(高)の6つの国に分けられており、それぞれの国に、朝延から地方の国を統治する役人「国造」(くにのみやっこ)が配置されていた。

 また、これより古い書物「国造本記」に、大倭国に始まり、その後の約130の国造を任命した記録があり、国の設置年代が記されている。これによる今の茨城県の国は、下総、新治、筑波、茨城、仲、久自、高となっている。ここに出てくる国名の久慈(久自)は、現在の日立地方で、多珂(高)の国ば、現在の日立市北部から十王町、高萩市、北茨城市を含む範囲にあった。この多珂(高)の国の中に、「手綱」という地名のあるのは高萩市であり、他にない。

 
ここに多珂という字になっている、なぜこの字をあてたのか?
それがなぞなのだけど常陸の国から行方郡(なめかた)であり郡が移動している
真野里すらあった、この辺の古代で氏族名が明確なのは真野氏だけである
それで真野郷となった、それは石巻からも真野と記された木簡が発見されていて真野という地名があり北上川をさかのぼった登米にも行方と真野と記されたものが出ている
だから真野氏というのはこの辺では氏族名として残しているのである

高神社 
京都府綴喜郡井手町多賀天王山1

元明天皇の和銅4年(西暦711年)東村宮として多賀明神社が字川辺に建立され、次いで神亀2年(西暦725年)字西畑に久保村宮が、神亀3年(西暦726年)字綾の木に谷村宮が、それぞれ建立されました。聖武天皇の天平3年(西暦731年)勅願により高御産日神の名より「高」の字を採って「多賀神社」を「高神社」に「多賀村」を「高村」と名称が変更されました

式内社である石勝神社は御朱印地を持った神社として
有名で、祭神は天石勝命である。社伝によると神亀二年
(七二五)に創建され、

社伝によると、聖武天皇神亀二年の創建。
上古、大和よりこの地に移住してきた春日族が
その祖神を祀ったものであるという。

染羽国造 Simefa   標葉郡  福島県双葉郡浪江町苅宿     標葉神社、標葉郷

染羽成務阿岐国造同祖10世孫足彦命(たらしひこのみこと)
陸奥標葉.志賀高穴穂の帝(成務天皇)の御世に阿岐国造の先祖の十世の孫の足彦命を国造に定められた


多珂神社というのはもともとは多賀神社由来であったことは確かである
多賀神社は近江にあり伊勢神社より前には一番参拝客も多い神社だったのである
つまり多賀神社は伊勢神宮より古い神社である、伊勢神社は新興勢力なのである

浪江の染羽(標葉)はシメハでありここに連なっているのである

ともかく行方郡が置かれたのは常陸から軍団が移動したのである
郡とはもともと軍の意味だからである、軍が支配したからそうなる
その行方郡内に真野郷があり多珂郷があるということはこれも常陸から移動してきたからである
万葉集にも多珂郷があることでもわかる、遠くにいる妻とは奈良から移動してきた官人だとするとその妻をはるか離れた常陸の地で偲んでいることになる

では綿津見神社は何を語っているのか?
安曇氏が奉じた神だとしても安曇氏というのはこの辺にはほとんど浮かばない
地名化しているのは近江と長野県の安曇である、そこでは船の祭りが残っていて安曇氏が船を操作する海人だったことを伝えている
伽耶の王子のツノガノアラシトはツノとしてその地名を残している
津神社とは松川浦でも津(ツ)一字ではいわない、ツノミツ神社とかツノミヤ神社なのである、ツノガノアラシトのツノなのである
それから相馬地方に荒(あら)という姓が多いのかということを尋ねる人がいる
その荒とはツノガノアラシトのアラなのである
だから地名化しているとかなるとその痕跡は残している
でも安曇氏はただ綿津見神社というのがそうだとしてもそうした痕跡がないのである
ただ相馬地域でなぜこれほど綿津見神社が多いのか?
多珂神社の近くにもあるしこの神社が一番相馬地域では目立つのである

ウィキペディア(Wikipedia)の多珂神社の説明では多珂を鷹として伝説を伝えている
それは高倉でもそうである、でも鷹と何の関係があるのか?
これは地名伝説が後から創作が多いように作られたものが多いと同じでそうなったのか?多珂神社とは多賀神社に由来していて鷹とは関係ないからである
高倉も多珂郷がありそれが波及して名付けられたのだろうとなる

それにしても多珂神社は立派である、式内神社として指定されたことでもわかる
鹿島神社とかも立派だかそれに劣らず立派だし大きいのである
だからそこも何かこの地域で古代に中心的な役割を果たした場なのかとなる
磐城大田の駅の近くであり電車からいつもあの鳥居を見ていたのだがそこに多珂神社があることを知らなかったのである
灯台下暗しとなるのが郷土史でも多い、それと私は自転車だから坂を避けていて行かなかったということはある、最近買った電動自転車は坂でも上りやすいのと機動力があり行動範囲が広がったのである、ただ年で疲れるのは同じである
でもそれを補うものがこの電動自転車にはあったから行けたとなる

2019年03月16日

春の日に多珂神社近辺をたずねる


春の日に多珂神社近辺をたずねる


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多珂神社

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紅梅の朝に匂いて鳥の来ぬ近くに椿赤く映えにき

日々ここを通りて匂う梅の花さらに匂いのましにけるかな

参道の苔むし静か春日さし狛犬久しく守りいぬかも

綿津見の神社のありて海望む春の日さしぬ丘の上を行く

羊歯生えてここに根ずきぬ古木かな南方の木なり春の日さしぬ

隠されて古き墓あり林中今日我たずね春の日暮れぬ

木の切られその根の残るこの家の古きにあれや椿の散りぬ


多珂神社の近くに綿津見神社がある、とにかくこの辺では綿津見神社がなぜこれほど多いのかというのが謎なのである
多珂神社は近江にある多賀神社由来だというのはわかる
綿津見神社は安曇氏の神だとしても安曇氏という名前も聞かないから不可解なのである

綿津見神社となれば海に望む場がふさわしい、でも飯館村にも綿津見神社はある
海から山へと移動している、神社とは移動するのである
例えば山の神社が海の方にも移動する、山津見という地名が松川浦にあるからだ

いづれにしろスダシイの森があったがそれも南限の地として南方系の木がここに繁茂していた、それは車輪梅が南限の地として海老村に自生していたことでもこの辺が気候的に南方系の植物が自生する限界の地だったのである
それで真野の草原(かやはら)はそうした境界線として奈良の都の人たちに意識された場所だったのである
                 
何かこの辺では放射能汚染の関係で木が切られている、それも大きな木が切られている
家の周りの木が切られている、何かそれも残念に思う
屋敷林ある家は古いからである 

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この説明の碑は何なのだろうか?こうなると記念碑である
看護婦になった動機がここに記されている
墓とは記念碑なのか?そもそも墓が何なのかわからないことがあるのだ
記念碑となればこうして記しておく、でも記念碑として残されるのは何か特別にその土地でもどこでも功績のあった人であり普通の人はこうして記念碑を建てない
そもそも墓が記念碑なのかとなるとこれもわからないからだ
記念碑となれば記念碑だらけになってしまうからだ
そもそも墓参りするのはその家のものとかその家系に連なるものである
一般の人は他人の墓参りなどしない、私が墓を見るのはそれは土地の歴史を知るためである、ここが江戸時代からあったのかと知るためなのである






2019年03月15日

綿津見神社の謎(言葉の起源の小話)


綿津見神社の謎(言葉の起源の小話)

神社を子供が訪ねてその由来をたずねる

「何かこの辺で綿津見神社が多いですがなぜですか」
「それは時代をずっとさかのぼる、日本の国がまだできていない時のことじゃ」
「綿は何の意味ですか、ただの綿なのかな」

こんな疑問を子供が思うのは当然である
綿とは綿のことではない、大洋をわたという、それでこういう話になった

「あなたはどこから来たのですか」
「わたしは渡ってきたものです」
「どこからですか」
「呉(くれ)の国からです」
「それはどこにあるのですか」
「その国は太陽の沈む方です」
「なるほど暮れる方角にある国ですか」
「そうです」

この渡ってきた人たちが来たのでその地に祭られたのが綿津見神社じんである
綿は渡ることである、わたしとは渡ってきた人が言った言葉である
つまり渡来人のことである

綿津見神社は多い、それは日本の国が成立する前に海を越えて渡ってきた人たちが多いからである、そしてその人たちがその土地の先祖となった故にその人たちを記念する神社が多い、綿津見神社とは大洋をおおわたというごとく海を現すがその海は渡る海として意識していたからそうなった

そして綿津見はワタツミでありワタのツミはツノガノアラシトという韓国系の渡来人のことである、津神社とあるがそれはツノミヤとかツノミツとか言い一字でツとは言わないからである
つまり中国の呉から渡ってきた安曇族とかと韓国系のツノガノアラシトが合体した神社なのだ

綿がなぜこの字になったのか?

沙弥満誓、綿を詠む歌一首

しらぬひ筑紫の綿は身に付けていまだは着ねど暖けく見ゆ(万3-336)

万葉集にあるように綿とは韓国からの輸入品だったのである、当時は韓国はカラの国と呼ばれていた、それは伽耶の国でもあった、半島の端の先の国だったのだ
そこは日本の国の一部でもあったのだ、つまり海を渡ってきたものだから綿になったのだ、わたる→綿(わた)となる

そういうことでこの疑問に答えたがまだまだ謎が多いのが歴史である
それはあまりにも古い時代のことだからである

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