2019年04月30日

元号が変わるけどもうグロ−バル化の時代に合わない (天皇の存在は是非は多数決で国民の総意で決められるのか?)


元号が変わるけどもうグロ−バル化の時代に合わない

(天皇の存在は是非は多数決で国民の総意で決められるのか?)

第一条
天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。

●元号は明治と大正までは時代を現していた

平成から令和に変わるけど何か元号自体が時代にあわなくなっているのではないか?
明治とか大正までは元号が活きていた、それは私の父は明治生まれであり母は大正生まれだからである、そこに元号に親しみを感じる
明治は大きな時代だった、大正はもうひとつ特徴がないが何かそれでも時代の雰囲気を感じる、昭和になると戦争であり戦後は高度成長時代になる
昭和も大きな時代である

ではなぜ元号というのが今時代に合わなくなったのか?
それはこれだけグローバル化ししていると世界的に同時代的に世界の人が生きるようになったからである、元号だとそれは日本だけのことである
天皇と言っても日本だけの歴史の中で活きるものであり世界には通用しない
だからアジアでも天皇が戦争のことで批判されるのである

つまり太平洋戦争で天皇の権威は失墜したのである、それはグローバル化の結果だったのである、元号が変わるということでお祭り騒ぎしているけど何か私自身はそんな時代が変わることを意識しない、平成をふりかえることでも平成がインタ−ネットネットがスマホが普及した時代だというときそれは日本だけの現象ではない世界的なものである
すると平成がインタ−ネットの時代というより世界がインタ−ネットの時代になったとなる、だから元号だけでその時代をみることはできなくなった     

●江戸時代までは元号は活きていた

私は郷土史をみるときどうしても常に古い碑を見て元号をみているから元号に親しみがある、最近では宝暦の碑を相馬市の辻の塩嘗地蔵で発見した、ここが意外と古い場所だと発見した、宝暦の碑は日立木の薬師堂にもある、そこが浜街道であり松並木を通り過ぎた所にある、そこには南無阿弥陀仏の碑がある、宝暦にも飢饉がありそこで餓死した人たちを供養したものかとも思う、南無阿弥陀仏の碑が他にもありそれは餓死なのか死んだ人を供養したものである、何を供養したのかわからないものもある
つまり歴史には膨大な人たちが闇に消えたのである
それで相馬藩で津波の記録で二行だけ溺死者700人いたというのがわかった
それも全く忘れられていた、津波があって発見されたのである
そういう人たちも忘れられて闇に消えていたのである

江戸時代なら元号に意味がある、世界とかかわりがないからである
日本国内のことであり世界の歴史とは関係なく生きていたからである
現代はグロ−バル化して世界と密にかかわっている
するとどうしても国内だけの元号には違和感があるし世界的に通用しないのである
平成でも令和でも何か元号の重みがない、元号が重みがあったのは昭和までかもしれない昭和でも戦前と戦後ではまるで違っているから昭和で統一できないのである
元号でも大同とかというと東北では相当に歴史的に重い意味をもっている
その時蝦夷征服で坂上田村麿が活躍したときであるからだ
大同というのは時代的に日本にとって日本を統一した時代をの元号だからである

ただ元号と天皇は密接に結びついている、特に逆に明治時代には天皇の一世一元が元号になったから逆戻りである、江戸時代は元号を何か大きな災害があるとか変えていたのであるだから明治以後の方が元号は古い天皇の時代に戻っている
明治に天皇をより神格化して日本を統一したとなる、それが太平洋戦争に通じていたのである
天皇の是非は現代のグロ−バル化した世界にはもうあわない、世界とこれだけ密接にかかわるとき日本だけが二つの歴を使用するのはめんどうになる
元号は江戸時代のような日本だけで生活しているようだったら合っていた
これだけグロ−バル化しているのに元号を使用するのは合わなくなった
天皇は日本国民の総意でなり日本国民の象徴だというとき元号も国民の総意で決めるともなるがそうなっていない、秘密のベールの中で決められた  

●天皇が廃止されると全国の神社は維持できなくなる

とにかく天皇の是非は別にして何か元号は時代に合わなくなったのである
だから元号が変わるとしても何かそれで何か変わるとも思えないのである
そういう感覚が時代的に消失している、国民の総意でもそうでくなっている
テレビでは天皇が変わることで煽っているけど本当に国民の総意なのか?
天皇自体がもう国民の総意に合っているのかどうか?
天皇とは国民の象徴ではなくて、日本文化とかの象徴ではないのか?
日本の伝統を担う人ではないのか?

ただもし天皇が廃止されるとどうなるのか?
無数の日本の神社が維持できなくる、なぜなら由来がわからないにしろ神社と天皇は結びつく
だからこそ明治になった時廃仏毀釈がおこなわれて仏教勢力は排除された
それも当然だったのだ、江戸時代に幕府によって優遇されたのは寺であり神社ではなかったからである
天皇は全国神社の代表のようなものでありそこにこそ天皇の重みがあるとなる
天皇が総元締めのようになっているからだ
神社には必ず忠魂碑があることでもわかる、それは戦死者の霊を祭るものである
そこにまた神社の意味がある
神社でも子安神社とかあれば国家とか天皇とは全然関係ない、子供が安らかに育つようにとの願いの神社だからである
神社にはいろいろあっても国家と天皇と結びつくものが多いのである

天皇の是非は簡単には語られない、それは二千年の日本の歴史と関係しているからである
元号もまた天皇と関係しているが江戸時代は必ずしも関係していない、天皇の一世を元号にしていない
何か災害があったり悪いことがあったりすると元号を変えているからだ
それは天皇の一世元号とは違うからである、そういうことは国民の総意でもある
なぜなら災いとか悪いことを起きてくれるなというのは国民の総意だからである
それは支配者だけではないみんなの総意だからである 

●令和はグロ−バル化の中で天皇の役割を模索する時代へ

いづれにしろ次の天皇は令和の時代をどう築くのか?
夫婦で留学して国際派だというときそのことでもグロ−バル化した中での天皇がどうあるべきか模索するようになる
だから平成の天皇とは違ったものになる、代が変われば家でも会社でも自治体でも市長が変われば変わる

グロ−バル化の中で天皇はどうあるべきか?

これが令和の時代の課題だとなる
平成天皇は昭和天皇の反動として国民と同等となり膝をつき国民と対話した、それは昭和天皇との大きな相違だった
昭和天皇は戦前の現人神(あらひとかみ)の感覚がまだ残っていたからである
またもう天皇を受け継ぐ人が皇族が減少していなくなるからもう天皇制は維持できないとも言われる
天皇制を維持する体制自体が消失しているからもう維持できないともいわれる
だから今度の令和の天皇が最後の天皇であり元号もこれで終わりになるというのも現実的である
そういう状況にすでに追い込まれているのである
そして大統領制に向かってゆくのが次の時代だとなる
結局騒いでいるのは官製化したテレビだけだともなる、国民はそんなに天皇というのを重く見ていないだろう
天皇を重く見ていたのは明治から戦前までくらいである、戦後生れでも天皇は一平民のようにすら見ている
何か特別なものとして見ていない、つまり戦争に負けた結果、天皇のカリスマ性みたいなものが消失したのである
それに不満で三島由紀夫は自決した
憑き物がとれた感じになったのである

そもそも戦前は戦争の時は政教一致だったから政教分離になった、それは天皇が神だとしたら戦争に負けるわけがないからである
それは創価とかカルト宗教団体でもそうである、選挙に勝つか負けるかが仏法で決まるとしたらもし選挙で負けたら仏が負けたとなるからだ、現実に天皇が戦争に負けてその宗教的権威も喪失したからである
天皇は政教分離して国民の象徴となり政治には直接かかわらないようにしたのである
それは戦前の過ちをくりかえさないためである、政教分離にしたのである
でも創価などやカルトは政教一致であり憲法に違反している、選挙は仏法による戦いなのである、勝てば仏法の勝利であり負ければではどうなるのか?仏法の敗北かとなるからカルトなのである
日蓮宗団体は国家と一体化しやすいのである、現実に教義では仏法が国法り国より上だとしているからだ

それは近代国家では違法なのだけどカルトなのだけど容認されている、天皇にもそうした神格化の危険がつきまとっている
国民の総意で別に戦争にも総意になる、すべて国民の総意で決定されることも危険なのである
つまり根底になにがあるのか?それを歴史的に経験したのがナチスだったのである
国民の総意ほど危険なことはないことはを証明したのである、国民の総意には何ら根拠がないのである
数が多ければ何でも通るというだけなのである、選挙に勝てばすべてが通る、国民の総意だからだとなる
それが全体主義ファシズムになる、数さえ集めればすべて通るとなるからだ
だから天皇が国民の総意でどうにでもなるとしたら国民投票でその是非を決めればいいとなるのである
それが民主主義だとなる、国民の総意というのが絶対的になるのが正しいのか?
これも疑問なのである
posted by 天華 at 20:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

江戸時代の飢饉の歴史 (歴史の闇に消えた膨大な人たちを知るべき)


江戸時代の飢饉の歴史

(歴史の闇に消えた膨大な人たちを知るべき)



1755年〜1757年(宝暦5年〜7年) 宝暦の大飢饉

東北地方は7万4千俵の減収であったが、蓄えがなかったために大飢饉となる。
餓死者6万余人、死馬2万頭にのぼる。
岩手、志和郡が1万7864 人(人口の30.5 %)、三戸郡が1万2681 人(人口の55
%)、鹿角郡が3241 人(人口の20.8 %)、二戸郡が5446 人(人口の19 %)



秋田県由利本荘市(宝暦の飢饉)

矢島御領分にては御毛引26,000俵なり。新荘村にては251俵、坂ノ下村にては540俵なり。乞食村里に満ち、餓死人路の辺にたおるもの実に多し。御上にては舞杉に大いなる穴を堀り、餓死人を埋む。或は兄弟妻子別れ去り、家をあけて他所へ出る者多し。百宅、直根に別して多し。家を離れて他所へ出る者は多く餓死せりという。この冬大雪にてとろろ、わらびの根など堀ることならず、餓死人いよいよ多し。御上にては、毎日かゆをにて飢人を救う。山寺に非人小屋をかける。ありがたきことなり。家財諸道具売りに出ることおびただし、盗人大いに起こる。」とある。又別の記録には「直根、笹子、中奥の沢方面の餓死実に多く、餓死人御領分にて三千余人。」と記されてある。その惨状は推して知ることができよう。


天明のの飢饉 

秋田方面への流民が発生し出した。「藤田権左衛門家記」(資料近世2No.五五)によると、碇ヶ関関所から三万人を越える飢民が通過し、逃散を差し止める藩の指示も無力で、関所も解放され領外への移動は勝手次第という状態だった。また、大間越の関所からも数千人が逃亡していった。老人や少年で歩行ができない者は打ち捨て、妻子・兄弟も散り散りになるという混乱がみられた。しかし、北奥一帯が飢饉状態にある以上、たとえ他領に逃散しても状況はあまり変わらなかった。同書は「関所の外に出た段階で皆餓死してしまったという」と結んでいる。

この間、他領へ逃散していた飢民も多く連れ戻され、非人小屋に収容された。江戸詰の藩士添嶋源八郎は国元へ帰る道すがら、他領へ逃散していた者四六〇人を連れ戻したので、非人たちはことのほか源八郎を恨んだという。このころになると収容者も再び増加し、千五、六百人になった。藩は再び管理が困難になり、十月九日にも希望者に手当を与え、九四二人を帰村させたという。

弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍 


天明の飢饉は有名だけど宝暦に東北地方にヤマセの影響であった
宝暦というとき日立木の薬師堂に宝暦の碑がありそこに南無阿弥陀仏の碑がある
それは飢饉で死んだ人の供養だった、宝暦というとき相馬市の塩嘗地蔵の所にも宝暦の碑がある、相馬市の城下町であれは相当に古いものとなる、街中には古いものがかえってないからである、松川浦に近い所に新田には元禄の碑があった

江戸時代の最大の災厄は餓死だった、その数は膨大なものになる、それがまさに江戸時代の暗黒面だったのである、歴史という時、そうして無念に死んだ人が膨大なのである
最近でも3百万人が戦争で死んだという時そうだった
そういう暗黒面の歴史があるしそれを知らねばならないのである

なぜか?人間はとにかく過去を忘れやすい、現代のように贅沢な暮らしをしているともう餓死ということ自体イメージすらできないだろう
もちろん現代は日本でも貧困化が深刻な問題であり数人は餓死している
でも江戸時代の飢饉は何十万の単位で餓死しているのである
だから例えば日立木の薬師堂で宝暦の碑を見つけたとして念仏で供養されているとして
その背後にこうした事実があることが忘れている
歴史の闇に消えてしまった人が膨大なのである
だから相馬藩で700人溺死というのはこうした餓死者とかと比べると死者の数が少ないから余計に忘れられていたのである、政治でもそれに対して何もしていないのである

とにかく宝暦でも天明でも天保にも飢饉があった、飢饉は常にありそれで年号となると飢饉をイメージするのである、天明はまさに飢饉の年でありそれはあまりにも悲惨だったから語り継がれているのである、でも宝暦とかなると何か明確ではない、でも被害は大きかった
歴史とは何なのか?それは膨大な人が歴史の闇に消えた消されたとういことである、それが津波の被害にあって相馬藩内で700に溺死という記録があり見直されたのである、ただそれも二行だけであり津波が来て初めてその二行を発見したのである

そういうふうに歴史には膨大な人が闇に消されているのである、だからそういうふうに歴史の闇に消えた人たちをその事実を掘り起こして検討することが大事になる
それが供養だとなる、それは先の戦争で死んだ人たちだけのことではない
飢饉で死んだ人達でもそうである、逃散というのもありそれは江戸時代なら藩から出れないがどうにもならず出て行った、でも他藩でもそういう人たちを受け入れることはできないから戻されたのである、そういう中で死んだ人たちがいた
それは決死の移民でヨ−ロッパとかで死んでいるのと似ている
それに比べると原発避難民も大量に逃散したがその先では新しい家を建てたりして地元の人からうらやましがられて反感をかったのである
それだけの時代の差があったということである 

ともかく一つの古い碑でもそこに膨大な人が餓死してそれを供養している
そういうことをイメージしないとただここに一つ古い碑があるだけだとなってしまう
そこに無数の歴史の闇に埋もれた無念の霊が眠っているということ知らねばならない
歴史には個々人でもそうだが無念の死が無数にある、それは今でも家族とか身近な世界でもそうである、戦前だと若くして啄木のように肺病で死んだ人も無数にいる
そうした暗黒が歴史でもある、一つの古い碑があったとしてその背景にはその当時の時代背景がありそれをイメージできるかなのである

posted by 天華 at 17:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 江戸時代

野馬追いが残ったのはなぜなのか? (相馬藩に郷士が多かったせいなのかー野馬追は軍事パレードだった)


野馬追いが残ったのはなぜなのか?

(相馬藩に郷士が多かったせいなのかー野馬追は軍事パレードだった)

なぜ野馬追いが相馬藩で残っていたのか?これも謎である
6万石の小藩なのに未だにあのような華麗な侍の行列が見られる
伊達藩は60万石であり他の大藩でもそうしたものが残されていないのである
今でも相馬市の城跡は何もない、貧弱なのである
会津とかでも大藩であり常に歴史が語られている、でも野馬追いのような行列はないのである、ここにしか侍がそのまま行列になるのは見られない不思議である

野馬追いとはそもそも何であったのか?

それは良く北朝鮮と中国でも軍事パレードをする、あれとにている
国の武力を誇示するものである
戦国時代なら余計にそうである、それで映画にしろ常に信長が美濃の斎藤道三に向けて行列して対面した
その行列は軍事パレードでありどれだけの装備があるから道三は見ていた
それで槍隊とか鉄砲隊とかを見ていた、そしてそれに目を見張って侮れないと見たのである

つまりこうした行列は軍事パレードであり国の力を誇示するものである
野馬追いもそれなのである、相馬藩は小藩であったが大藩の伊達と隣り合っていたから常に驚異にさらされていたのである
するとそれに対抗するには軍事力を見せつけないと対抗できない
そういう伝統がありまた津波のことで書いたように相馬藩には郷士が非常に多い藩だった18パーセントもいたということは多いのである
それも相馬藩の特殊な事情なのである、軍事力を高めるためにそうしたとなる
それは北朝鮮とかとにているのである、軍事国家として核をもち威嚇していないと他国に大国に責められるという恐怖がありそうしているからだ

相馬藩が伊達藩のような大藩に責められても支配されなかったのは軍事力だった
それももともと相馬氏は馬を調教する、馬をもってのしあがった一族である
馬は強力な兵器でもありそれが野馬追いの基である
モンゴルを見ればわかる、馬によって世界を征服したともなるからだ

本当に原町への長い街道を500騎の馬が行列するのは圧巻だった
そういう光景を実物として見れるのはここにしかないのである
でも戦国時代とかは参勤交代でもやはり藩の力を示す示威行為である
軍事パレードなのである、ただ平和の時代になりそれが祭りのようになったのである
でも参勤交代の行列も明らかに野馬追いの行列とにているのである
それは軍事パレードで藩の力を誇示するものだからである
それは戦国時代のつづきとして継続されていたのである 


posted by 天華 at 10:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 野馬追い関係

2019年04月29日

相馬藩の郷士の研究から判明した恐るべき事実 (25390人がか死亡逃散している―津波で700人溺死はとるにたりなかった!!!!)


相馬藩の郷士の研究から判明した恐るべき事実

(25390人がか死亡逃散している―津波で700人溺死はとるにたりなかった!!!!)

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郷士は在郷武士として苗字帯刀を許されながら農村に住んでいたが、京都奉町行所の例では、家ではなく、当主本人個人に免許され、子息も別に免許が必要とされた[7]。

享保のころから、帯刀が身分特権として確立すると帯刀権へのあこがれが生まれ、様々な由緒などを言い立て、役儀や非常時や儀式など非通常の帯刀権限を免許され、違反と常時化や子息や従者にまで拡大・延長する動きが起こり、


郷士研究の第一人者である木村礎は、郷士とは以下の特徴を併せ持っている場合が多いとした。

存続している藩(或いは知行地を持つ旗本・御家人)の家臣として正式に承認されている
城内で勤務する一般藩士とは明確に区別され、基本的に在郷している
所持地の全部または一部の領有を「知行」として認められ、その管理維持を生活の中心とする(地頭)
軍役については場合により異なる
従って事情により在郷任務を与えられているというだけで立場は一般藩士である者(薩摩藩の「中宿」や柳川藩の「在宅」)、陪臣にして在郷している者、上記で言及した名字帯刀は許されているが士分株は購入・譲渡していない者などは、郷士とは異なる存在に分類される。


江戸時代中期以降、財政厳しい水戸藩の状況を改めるため、献金により郷士に登用する、いわゆる献金郷士といわれる層が台頭した。菊池氏、緑川氏などがその例である。このように、藩の武力ないし財政力を支える目的で、様々な郷士登用の形、あるいは郷士身分の運用方法が生まれた。それら水戸藩郷士は、戦闘員たる郷士として特置郷士、救済郷士、非戦闘員たる郷士として旧族郷士、登用郷士に分けられ、藩の地方行政を支えるための身分層として用いられた



蔵地と給地があり給地はいうまでもなく無税地でこれを耕作する時は武士として苗字名を附して取り扱われる

18世紀に入ると封建社会の封建社会の構造に経済的破綻が生じ、その結果武家社会に現れるのは二男、三男の浪人化と武士身分の売却慣習である

そのため米沢藩では彼らを郷村に放って郷士とした、相馬藩に置ける郷士取り立ては新田開発によって給地したのであるがこれは藩庫収入を目的としている

右田は海側に開拓して作られた村である、だから比較的新しいのである、それから明治になって八沢浦がやはり失職した侍が開いた土地だったから明治以降でも新田開発はされていたのである)

農家対郷士は8498戸対1388戸、人口に対して52674人に対して9370人が郷士である
かかる多数の村落支配をもって取り締まりを徹底したから他藩にあって百姓一揆の頻発している時その発生は皆無であった、わずかに逃散があり主として餓死を待つ他なかった

つまり宝暦10年農家戸数8965戸、人口61114人だった、明暦では戸数7860戸であった
郷士は18パーセントいた
そして人口35785人で25390人が死亡逃散している

藩主ー家中ー本百姓
                                            
(相馬藩)

藩主ー家中ー給人ー本百姓ー(水呑百姓)

鈴木啓著ー「福島の歴史と考古」



これは何を語っているのか?何か重大な相馬藩の歴史の事実を語っている
やはり事実と統計的数がその実態を具体的に露わにしたのである
相馬藩は郷士が多い、郷士とは今でいう警官とか兵士の役目も担っていた
そういう人たちが農民に混じって暮らしていた、そうしたらとても一揆などできない
すぐに上の者に通報されるからである
つまり相馬藩では一揆がないから武士と庶民はうまく平和を保っていたというのではないのだ、それは他より多すぎた郷士によっておさえつけられていたのである
それは北朝鮮を見ればわかる、兵士の数が多すぎる、あれだけ貧乏なのに10人に1人くらいが兵士なのである、そういう人たちが農民とか庶民に交じっているからあれだけ不満があって飢餓になっても反抗できないのである、体制が維持されているのである

これからわかるように相馬藩の支配は郷士によって徹底されていたとなる

人口35785人で25390人が死亡逃散している!

これが事実てのだすうか?事実だとしたら空恐ろしいとならないか?
2539人の間違いとかこの本を読んで思ったがそうではない
でもこの事実は確認できるのか?

これから今回の津波のことを追求してきたが700人溺死とか相馬藩政記に記されていたがこれはとるにたらない数なのである
その時も津波前と津波後では収穫高が激減しているのだ
これは統計的数字の事実だから偽ることがてきない

つまりこれは何を意味しているのか?

津波の被害などは政治的にとるたりないものであり騒ぐこともなかったのである
何ら相馬藩ではそのために津波の被害に対して何もしていなかった
その時は戦国時代でありまだ戦乱があり政治が安定しないこともありただ二行しか記されなかったがそれくらいの事件であり相馬藩全体としてはとるにたらない災害であった
だからそれ以外なんら津波に関して記されていないしわからないのである
このことがまた後に今になっても大きな政治の失政として見直された
たとえ700人死んでとるにたらないでも津浪に関してもっと記しておけばそういう津波が来て700人死んだということで警戒したからである

つまりこれは江戸時代を賛美していたがその暗黒を数字が如実に語っている

そしてこの機に乗じて富商、町人のごときは士分を買収する有様であった
従って農民にとっては餓死の一歩手前に代官、富商、村落支配者を襲うことによって生命を保つ可能性は十分にあった

このように鈴木氏は指摘している、それでもこれだけ郷士が農民に相馬藩ではまじっていたので反抗できなかったのである、そのためにあえなく餓死してまた逃散する他なかったのである
これこそまさに歴史の事実であり真実である、そこに人間の過酷さ江戸時代の過酷さが如実に示されているのだ
私自身も病気になり弱った時、大金を盗まれたり事業に失敗した人が借金をかえすために金の要求をしてきて脅迫すらしてきた
それは相手も苦しいからでありまさにこの世の現実は弱肉強食であり身をもって経験したのである、津波の被害者いてその弱味につけこむ、それが現実である

この事実から比べると原発避難民などは本当にかえって得したともなる
これを言うと批判されるけどなぜ浪江に住んでいる人はあんなに楽天的なのか?
老後の金をもらってかえってみんな喜んでいるとかなっているのか?
それはこうした江戸時代の過酷な事実から比べれば理解できるのである 


あとがき

宝暦の飢饉はあまり語られない、天明の飢饉では相馬藩は人口が三分の一に減った、宝暦の飢饉はそれほどの被害がなかったというのか?
これは事実なのかどうか疑うとなる、だから鈴木氏の研究が正しいのかどうかわからない、こういう事実があったとしたら大事件だからである

おそらく逃散はあったがそれは一時的抗議としての逃散であり領内から出て帰らないことではなかった
死亡した人がいたというがこの数は一時的逃散なのだろう、天明の飢饉は本当に三分の一が逃散とか死亡したことは歴史的事実である宝暦の飢饉はここまでの記録は残っていないからだ

次の大正時代の古い論文が参考になる、でもこれだけの人が相馬藩内で逃散したとしたら死んでいる人もかなりいた
その数はわからないが津波で溺死した700人というのはたいした数ではなかったということが当時の状況を見れば信じられるのである   一時的な逃散は数が膨大になっているからだ、そんなに逃散して帰ってこなかったらもう村自体が藩自体がつぶれる
事情は違うにしろ原発事故で避難してゴーストタウンになったのと同じである  

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コ川時代の農民逃散 Author(s) 黒正, 巖 Citation 經濟論叢 (1927), 24(1): 68-83 Issue Date 1927-01-01 URL https://doi.org/10.14989/128496 



posted by 天華 at 22:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波水害関係

野馬追いに出て東京の大井競馬場で働いていた右田の人


野馬追いに出て東京の大井競馬場で働いていた右田の人

街内の自分の家の墓がある公園に座っている人がいた
あそこにはいつも右田の人がいる、復興住宅に入っているからだ
その人は一人で座っていた、そしたらその人は東京から帰ってきた人だった
東京に住んでいた人だった、親を残しているから来たという、連休で来たのだろう
津浪で家は流されなかったが家の半分が水につかり住めない土地となり親は復興住宅に住んでいる

その人は東京の大井競馬場で働いていた、それで有名な騎手のことも知っていた
一緒に働いていたという、それもめずらしいと思った
その人は野馬追いにも出ていて旗取りで旗をとったという
だから古い家の出なのである
何でも仲間に酒を飲ませたり野馬追にでるにはいろいろ金がかかると言っていた
それはみんなが言っている、とにかく馬を野馬追に出るために飼っている人がいるがそれだけで相当な金がかかるのである

その人は江戸時代に姓がなかったという、名しかなかった
後で姓を得るようになったとか言っていた
でも侍だったら普通姓がある、ではなぜなかったのか?
この辺では郷士が多く農民を普通はして暮らしていた、だから野馬追にでるのは農家の人が多いのである
すると姓がないということはどういうことなのか?
郷士には姓がもらえない人がいたのか?
そういう身分だったか野馬追に出れるようになった?
そういう人もいたということなのか?それは謎である
私はいつもも野馬追いの旗と姓が出ている侍の家を調べる
旗と姓を合わせているからだ、だから姓がない人も野馬追に出れたのかとなる
ただ郷士に格上げされて姓をもらったともなる、侍だったら姓がないことはありえないからだ

そもそもその人がなぜ大井競馬場で働くことになったのか?
それはやはり自分自身が野馬追いに出たりして馬のことを知っているし馬が縁で馬に関係する仕事についたのかもしれない、野馬追いと競馬は一番関係している
今馬が活きている場所は競馬だからである

競馬のことで長年馬を調教して育て馬がいてその調教した人が愛馬に乗って晴れの舞台で競争してみたいと言っていたのに実際に有名な賞を争う競馬では武豊が乗ったのである
そのことが良くわからなかった、でも競争にたけているからそうなったともいう
その人自体が騎手をめざしていたときがあったという
体重とかいろいろめんどうだとは言っていた、その人は小柄で細身の体をしていた
だから確かに騎手に向いた体だったのである

この前は仙台から学生を野馬追に出る馬を飼っている小屋に案内した
そこには皐月賞をとった馬がいた、それをしげしげと何度も見ていたのである
よほど馬が好きなのである
学生なのにそんなに馬が好きになるのが不思議だった
第一今は馬と接する機会がほとんどない、馬のことは競馬でしかわからないのである

いづれにしろその人はここでは野馬追いがあるかそういう馬に関係した所に就職したのかとなる、東京から親を心配で来る人は多いかもしれない
みんな子供が地元に住んでいるわけではない、また同世代でも子供が東京に住んでいる夫婦も多い、それはすでに自分の世代なのである

いづれにしろここは野馬追いと関係している、だから馬と縁がある
でも地元に住んでいても意外と野馬追いに出る人と会わないのである
それは実際は500騎出るとしても全体の人口からするとわずかなのである
そして誰でも出れない、出れる家は侍だった家であり決まっているからだ
野馬追いは文化財の保護の祭りでもあるからだ
それで地元の人はもっと盛り上げるためにみんな参加するようにすべきだというが
それができない
それは伝統保存のためにできない、でも野馬追いの後に何か自由参加の踊りでもすればいいともなるがそれも野馬追いの伝統を守るために断れるのである
それも是非があるがやはり地元の人にすれば不満だとなる
みんなが参加できないからつまらないとなる、青森のねぶた祭りのハネトは誰でも参加できるからである

ともかく10連休であり里帰りする人や旅行に来る人も多い、年になるといろいな経験している人と出会う、その話を聞くのも興味深いとなる
その人は野馬追いに出ていたということでやはり土地の人でありそれが大井競馬場につながっていたのである

posted by 天華 at 10:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 野馬追い関係

2019年04月28日

八重桜(相馬市から日立木の街道帰るー田町は新しくしたが昔の情緒が失われた)

                                            
八重桜(相馬市から日立木の街道帰るー田町は新しくしたが昔の情緒が失われた)

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日立木(薬師堂ー町場橋)


猫柳に万寿菊さし供養する

八重桜影なす道や常の道

八重桜に山吹き咲くや季(とき)移る

八重桜に菜の花映ゆやなごむかな

八重桜心温む女とあれ

城跡や花散る後にたずねけり

小泉川渡る小橋や落椿

(日立木町場橋)

日永きや我が通り行く町場橋

町場橋薬師堂や夕桜

街道のなお行き来かな夕燕

こうもりの街道に飛ぶ日の長し



(塩嘗地蔵)

街の辻塩嘗め地蔵の古りにしを枝垂桜に行き交う人かな

宝暦の碑のある辻の地蔵かな枝垂桜や小橋渡りぬ


小泉川を渡って橋の右の袂、桜の木の下に塩嘗地蔵がある。塩嘗地蔵は、海から発見されたというのでこの名が付いた。


桜は散り八重桜の季節になった、八重桜に山吹が咲いているのも今の時期らしい
ただ今日も寒いから季節的には変である
八重桜は心温まる感覚になる、それは母のような感覚にもなる
この花は桜とは対象的である、桜は一時美しく咲いて散ってゆく、散るために咲いている感じになる、八重桜は心から温まるように咲くのである
どちらの花がいいというより違った性質の花なのである
桜が散った後に八重桜咲くのもふさわしい、一時の華やかな桜は散ってほのぼのとあたたかい八重桜が咲く、ほのぼのと心温まる花である

その花に山吹とか菜の花でも合う、花はなんでも調和するのである
人間は絶対に調和しない、それが不幸なのである、女性が二人いたらすでに調和しない
そういう中で自分が育ったから異常な家族で育ったから骨身にしみてわかっている
花は不思議に必ず生け花でも一緒にさせば調和している、そこに美を産みだすのである
猫柳と万寿菊を挿すとそれも合っている、万寿菊という名がいいのである
これは長く咲いているからだ

桜が散ったあとも何かしんみりと情緒感じる、桜は一時夢のように咲いてはかなく散って何もない、それが桜らしいとなる
相馬市で感じたことは城下町なのだが情緒がある所は小泉川の小さい橋を渡る塩嘗め地蔵がある辻である
そこの石碑に宝暦とあった、これは天明より前であり古い、日立木の薬師堂にも宝暦とあった、宝暦時代はかなり古い、馬頭観世音があったがこれはたいがい新しいのである
明治だと古く大正とか昭和でもある、戦前は馬を運搬でも農耕にも使っていたからであるこの馬頭観世音は江戸時代のものだと思う、年号は読めないが読む方法があるらしい

とにかく何かあそこが江戸時代らしい情緒を感じる
小さな川があり小さな橋がある、それを渡る、それは江戸でも時代劇で良く出てくる風景だからだ、そこちは必ず柳があり柳橋とか名がついている
それが江戸時代の情緒だったのである
そしてこれで感じたことは田町は新しくしたのはいいのだが古い情緒が失われたのであるこれもなんか変だった、新しい方がいいと普通は思う、自分もそう思っていたのである
でもこの塩嘗め地蔵に来ると昔にもどった感覚になる
そこに何か昔を伝えるものが残っているからそう感じたのである
新しくなった田町通りには昔を感じないからである
だから街作りというとき新しいものにするのはいいのだが情緒が失われることがあるなと見た
城だって新しい城は博物館のように見えるのである、実際に博物館になっている
だからそこに何か本当に昔の侍が暮らしていたという感覚が喪失しているのである

相馬市は城下町だというとき辻を曲がって細い路地とかあるからそれを感じる
城跡にはせ何もないにしてもやはり城があったとも意識する、でも石垣しかないからもう一つ城があったのかなとイメージできないことがある
でも一応城下町なのである、でも野馬追い祭の華やかさか比べると城跡は貧弱すぎるのである、だから外から来た人は何なのだろうと思う
あんなに華やかな行列の割には城跡は貧弱だからである

相馬市は城下町風の入母屋作りにして街を統一しているのはいいと思う
原町だと最近駅前のマルヤで十階建てのホテルを作る工事していたのには驚いた
それができると十階からだと海が見える、南相馬市立病院はこの辺で一番高い建物であり屋上から海が見えたからである
十階となると病院が五階くらいだから凄い高いなと見た
そんな高い建物はこの辺にはない、それが駅前にできると目立つと思った
相馬市は城下町の雰囲気を出すためにそうした高い建物はない入母屋作りにしている
だから相馬市と原町は違った街なのである

帰りは日立木の薬師堂の町場橋を渡り帰る、町場橋というのは何なのか?
町場なのか、何かそこが町になっていたのか?そういう名残がある
とにかく昔の街道には何かそうした情緒が残っているのだ
それは歴史が作り出したものなのである
浜街道は歴史の道だったからである、そこが六号線とかの道とは違っているのである

2019年04月27日

みちのくの真野の草原(かやはら)は気候の境界線 (照葉樹林の南限の地点)


みちのくの真野の草原(かやはら)は気候の境界線

(照葉樹林の南限の地点)




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4月に寒気がおりてきたがそれがやはりみちのくの真野が境になっている
寒気はここまでしかおりないから照葉樹林でありえた
これ以上寒くなると温帯の生物は植物でも維持できないからだ

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これも森林植生で南と北の境目が真野の草原の地点なのである

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これも真野の地点が境目になっている

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これも温度の境目でありそれが真野の地点になっている

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海の水温でも真野の草原の地点が境目である
あたたかいのである
黒潮の関係でそうなっている

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原町の多珂神社の近くのスダシイである、これも照葉樹林帯なのである

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みちのくの真野の草原遠けれど面影にしてみというものを 笠女郎

この歌の真野の草原を考察してきたが石巻の真野の萱原が江戸時代まではこの歌の地点だとなっていた、それは地名があったからそうなったのである
ただそこはあまりにも遠いからありえないとなった
ただこれまで考察したようにそれなりの根拠があった
真野氏が産鉄族でありその木簡も発見されているし鰐山というとき和邇(ワニ)氏の一族に真野氏がいたからである、だからそこが全く根拠がないものではない

ここで考察するのは真野という地域が何か気候の境界になっている
それは南相馬市の鹿島区の海老村がマルハシャリンバイの南限の地として自生する場所となっているからだ
つまりここは暖かいから奄美大島に自生しているマルハシャリンバイの種がが黒潮にのって流れ着いたとなる
でも気候に影響されるから温かくなければ育たないのである
その限界地点が真野の草原の地点だとみる
草原(かやはら)は萱(かや)とは関係ない、一つの地名である、それは追求してきた

縄文海進とかありさらに古生代になるとフタバスズキ竜が海をお泳いでいたという時暖かい地域としてあった、また黒潮と親潮の境目でもあった
海の温度でも地図をみると丁度この地点が境目になっている

森林分布でも温暖地帯にある照葉樹林帯にありそれら中国と連なり同じ文化圏にあるという指摘でもそうである、人間にとって生物にとっても気候の影響が大きいのである
だからその気候によって植生も違ってくる
ただ現代から過去をみるとき気候も違っている、縄文海進時代は相当に今より暖かい時代だったのである、だからこそ海が奥までは入りこんでいた
この辺では塩崎に船着とあるようにあそこまで実際に今回の津波で海になったことでもわかる、船着とあるのはまさにあそこまで船が来ていたことを津波が証明したのである
この地名は化石地名のようになっていたのである、それだけ地名は古いのである  

真野の草原の地点が南系統の照葉樹林と亜寒帯の樹林帯の境目になっていることは地図から明確

真野の草原の石巻説があるが気候から地質学的に見たときここが有力だとなる証拠なのである
橲原とか真野川の奥にサンゴの化石とかいわき方面でアンモナイトの化石とか久ノ浜から奥で発見されていてそこで保存されている
フタバスズキ竜でも暖かいから生きられたのである
ともかく郷土史は総合的な学問でありそこには地質学からあらゆる学問が関係しているのである
ただそうなると一人の手には負えないとなる

この裏付けが地質学とか気候から何か科学的証拠となっている、それでこの裏付けは科学が関係しているから信じられるとなる
やはり歴史でも科学的裏付けがないと今はなかなか証拠となりにくい、その辺は苦手だがこういうふうに地図でもそろえてゆくと
何か具体的に見えてくるのもがある

なぜこれほど真野の草原の地点と一致しているのか?

これはただの偶然なのか?そうではない、それがこの地点が真野の草原が南と北の境目にありそれが真野の草原を示す地点だという有力な裏付けとなるのである
  
綾の照葉樹林帯

固定観念を破らないと生きていけなくなる (変化に対応できない者は生きていけない?)


固定観念を破らないと生きていけなくなる

(変化に対応できない者は生きていけない?)

「こうするのが当たり前」と思っていることが実は当たり前ではない、ということはよくあります。
私たちはそれぞれに異なる過去を辿ってきました。
そうした異なる過去で身に着けた常識、それにこだわることを固定観念と呼びましょう。

人間はなぜ固定観念化するのか?

●地理
●時代
●家庭環境ー生い立ち  

基本的にはこの三つの影響が大きい、まず地理のことを再三語ってきたけど地理は一番わかりにくい、それは地図を見たってわからない、グーグルで山があるとしてその山がどれだけ深い森が延々とつづいているかなど表示できない、それは経験しないかぎりできない近くでも山は延々と森で覆われて出口もなかったのである

地理が何か一番固定観念を作り安い、だから人間は狭い場所で生活しているからその小さい世界で一つの世界観が生まれる、国単位なら日本は島国の世界観が生まれる
そして島国でも様々な地域の風土があり地勢がありそこで世界を見る
太平洋側だと海から太陽が昇るとなり山に沈むというのをいつも見ている
すると世界はそういうものだと固定観念が自然と作られる
でも日本でも日本海になると海に太陽は沈むし山から太陽が昇り山に沈む地域も多いのである、日本がには盆地が多いからである
それで旅行すると全く違った世界を地理から知るのである
固定観念がそこで破られるのである

また時代が違うとそこで経験することはまるで違ったものになる
江戸時代に生きた者と明治以降に生きたものとはまるで違った世界を生きているのである戦前を生きた者と戦後を生きたものでもそうである
だから江戸時代から明治を生きた者はその時代に適応するのに苦労する
侍は侍でなくなり威張っていられないとかいろいろ激しい変化があり戸惑うのである
何か人間の社会も70年サイクルで急激に変化する
明治維新から70年で太平洋戦争があり戦争が終わり高度成長時代に向かった
それが団塊の世代だった
そして70年過ぎてまた大きな変革の時代を迎えている
日本はおそらくそういう変革の時代に再びあるのだがそれがまだ意識されていないのだろう、でも否応なく変革は迫られてそれに適応できないものは滅びてゆくとなる

銀行なども特に地銀とかゆうちょとかなると地域に根ざしたものであり信頼されていた
それは時代がそうしたのである、確実に利子がついている時代は銀行は信頼されていた
銀行が潰れるなどありえないことだった、でもバブルとかで銀行が潰れたことがあった
銀行もつぶれるのてある
最近は銀行は半分に減るとか存亡の危機になっている
それでも地銀とかが投資信託を売りに来ておばあちゃんが一千万とか損したが
それでも銀行を信用していたということでもわかる
老人はこれまで生きてきた経験から固定観念がありそれで判断するからである
自分自身もそうだったのである、銀行は信用できるという固定観念を植え付けられていただから地銀の人が投資信託をすすめたとき信用したのである
株でも投資信託でも証券のことなど自分は知らなかった
でも銀行員を信用していたのである、それが根本的に間違いだったのである
時代が変わっていたことを知らなかった、時代は急速に変わることがあるからだ

AIとかが良く語られる時代になりベーシックインカムが空想ではなく現実問題として語られる、現実にベーシックインカムを実行した国もある
そうして人間は働かずみんな芸術家になるとか言うのも本当に理解できない
なぜなら高度成長時代は団塊の世代は企業戦士として猛烈に働いたからである
その時自分自身は働いていない、ただその時ニートなどはいない
引きこもりもいない、いたとしてもほんのわずかでありそんな人はいたこともわからないのである
でも今になるとニートとか引きこもりの数が多くなったから話題になる

働くということは別に江戸時代から明治時代から戦後でも強力な否定できない価値観だったのである、働かざる者食うべからずだったのである
大正生まれの私の母は働くことしかない、それで花とかに興味もないし一切趣味もない
働くことだけしかなかったのである、これも異常だった
そういう環境にあったということも影響した、貧乏だから趣味などもてなかったのであるだから本当に時代が変わると価値観ががらりと変わることに驚くのである

アリとキリギリスの話があるけどキリギリスは常に否定されてきた、蟻のように働いて貯えろというのが普通の常識だったのである
でもみんなAIと機械化でアーティストになるというときキリギリスになれとはいうことなのである、キリギリスになれない者は歌を歌いないとか何か趣味もないとか個性を表現できないとかできない人は価値がない、蟻はいらない、それはAIや機械がするとなるからだそういう変化にもみんなが気づいているわけではない、そうなると今までの生活全般、教育でもなんでも見直すことになるからだ
今までの固定観念から判断できないからである 

固定観念というとき家庭環境とか生い立ちも影響してくる、みんな同じようで育った環境とか生い立ちが違うから人はみんな違っている、何か自分は普通でない家庭環境で育ったから正常な家庭でないから奇妙なものとなった
家庭環境がやはりいつもそこで生活しているのだから影響が大きい
自分自身は働くことを強制されなかった、だから働かないし自由に旅行していただけだとなる、それもとがめられることもなかったのである、その結果として介護とか自分自身の病気とかで塗炭の苦しみを受けたのである
それは今のニートが40代以上とかなり親が老いて死んだりすると自分と同じような結果になる
それは想像もつかない厳しい状態に追い込まれることは眼に見えているのだ
誰もその時助けないからである、お前は遊んでいただけだからともなる
つまり人間はなにかしらなんであれカルマを積んでいない人はいないのである
その清算が60以降に必ず強いられる、逃れることができないのである
人間の生い立ちというとき家族でも兄弟でも姉妹でもまるで違った運命をたどることが普通にある
家族ですらそうなら他人になるとさらに生い立ちとか家庭環境が違うと理解しにくくなるのである

なぜなら自分の育った環境とか生い立ちが固定観念となる、異常な家族でもそれがその人にとってはそうして育ったのだから普通になる、家族とは異常でもそういうものだったと固定観念が作られるのである
固定観念はこうして強固に植え付けられるからこれから脱することは容易ではないのだ
それは例えばカルト宗教団体でもそこに入ったものはそこは異常でもそれが正常となる、その異常性に気づかないのである
そこに固定観念が強固に作られるからだ、だから外部の意見など聞かなくなる、批判すると集団的に罰当たるとか威嚇するようになるのである
科学でも固定観念を破ることは容易ではなかった、地動説から天動説を唱えたり様々な科学の発見でもそうである
それは強固に固定観念が作られているからだ、それを脱することができないからである
また固定観念を破らない限り新しい時代は生まれないし作れないのである

この辺で津波とか原発事故で起きたことでもそうである、田畑があり街があるとかそれは固定観念として変わらないものだと思っていた、それが田畑が荒地化して村や街が津波で消失するとかなるとそのあまりの変化に対応できないのである
そこで何か今まで違ったものを作れといっても簡単にはできないのである
第一田んぼにしたって千年とかの単位であったものでありそれがなくなるとういことは田舎ではイメージすらできなかったからであるそれでデザインとはザイン(在る)ものをdは否定する言葉の由来がある
デザインは今まで在るものを否定することから始まる、それは固定観念を破ることから始まるとなる
だから今までの街作りではなく新しいデザインで街でも村でも作るとなる
そうしなければ復興はない、流出した若い人も故郷に戻ってこないともなっている
それで小高のマルシェは新しいデザインで街中に憩いの場を作ったのであれは良かったなと思ったのである
それは今までにないものとして作られたからである  

めぐり 逢 ひ て   見 し や それとも   わか ぬ 間 に 雲隠れ に し   夜半 の 月かな      

月は常に満ち欠けして変化している、月は変化の象徴である
だからもともと暦は旧暦は月の変化を基に作られた、太陰歴である、外国は太陽暦である
日本文化の特徴として四季でも変化がはっきりしている、季節の変化が激しいのである
この歌は人間の出会いも次々に変わることを示唆している
自分自身の経験でもそうだった、家族がみんな死んで次々に人間関係も変わったからである
親戚関係は全部切れた、この世の人のめぐり会いもめまぐるしく変わるのである
無常の世界なのである、この辺では津波原発事故で信じられない無常を経験したのである

最近は特に暑くなったり寒くなったりする、今日はもう夏になるのに寒いのである
日本人は本質的に風土的に変化に適応しやすいのかもしれない、それはこうした気候の変化でも激しい風土から生まれているのかとなる
一方で北極星とかは不動であり変化しないもの定点にあり位置を知るのに信仰までになった
妙見信仰がそうである、この世は変化するものがありまた変化しないものも求めている
変化しないものにも価値がある、AI化でも見直されるのはかえって人間的なもの情的なものや人間の感性だとかなるとそれはもともと人間にあったものでありそれが見直されるとういこともある、ただかえってそうしてもともと人間にあったものが見直されるのでありすべてが変わるということでもないのである 





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2019年04月25日

「高齢ドライバー」の運転を止められないのか (老人でも今までしてきたことは簡単にやめられない)


「高齢ドライバー」の運転を止められないのか

(老人でも今までしてきたことは簡単にやめられない)
  

高齢者がなぜ車の運転をやめられないのか?
車社会だからやめられない、車社会用ように社会ができているからだ
もし車を運転できなくなると社会的弱者に転落する、社会から置き去りにされる
どういうわけか私は車を運転できないから自転車に乗っているから自転車の人とは話が合い仲間になりやすいのである
駅でトラック運転手だった人が足を怪我して運転できないので自転車に乗って遠くに行くその人は60代であり70なのかわからないが結構相馬市とか松川浦とか行っている
15キロとかなるとかなり遠くなる、それも電動自転車ではないのである
まずその人が車を運転していたら話もしないのである
自転車を通じて話をするようになったのである
その人が言うには車を運転できないのは何か問題があり能力的にも問題があり社会的劣等者に見られると言っていた
そういうことは確かにある、そして自転車は車に嫌われる、突然横切ったりするからである、自転車は車にとって特に目障りなのである

高齢者でも車を運転できないことは夫婦だと女性も今は普通に運転しているが運転できないと妻を乗せられないとかなり頼りにされなくなったりする
田舎では特にそうである、買い物でも街内に住んでいない人が多い、するとどうしても車が必要であり一人一台とかでももっているのだ
第一男が車をもっていないと女性だってついてこない、車に女性を乗せられることで一人前の男だと今はなっているからだ
そういうことが車社会なのである
それは江戸時代辺りだったら馬をもっているのが侍であり馬を持たないものが庶民階級だとなる、それで馬を飼うための専用の家来をもつのが侍である
そして徒町(かちまち)があるがこれは徒歩で歩く人の町だと区別されたともなる
御徒歩(おかちまち)とかがそうである、そこにも馬を持つものと持たない者の差があった、それが車社会になれば車をもたないものは足軽のようなものになる

現代で車をもたないことは実際に私自身経験している、モスバーガーは車専用だとばかり思っていた、それでそこで中が喫茶店のうよになっていて休める場所と思っていなかったのである、それは車を利用していないからそうなったのである
それも20年間くらいわからなかったのである
つまり車を持っていなものは社会のこともわからなくなる、なぜなら車社会だからであるそういうことはパソコンとかスマホとかでもそうである
情報社会でインタ−ネットをしていないものは時代に乗り遅れるのである
インタ−ネット社会になっているからインタ−ネットから情報を得たり発信しないものは遅れるのである、ただこれはまだ車社会とは違っている
車社会では社会全体で生活するのに不可欠になっている、だからこそシャッター商店街が生まれたとき駐車する場所がないということが要因でそうなった
車社会になっていることは駐車場がないことは致命的だからである

それで鹿島駅で案内などのボランティアをしていて自転車の駐輪場が前は広く両側に置くことができたのに狭くしたのである
それは車が八台駐車するためのスペースをとるためにそうしたのである
なぜなら駅には駐車する場がないからである
地元の人が駐車しているのは契約して場所を確保しているから外部の人は駐車できない
それから駅前は一時的にしか駐車できない
その八台分は商工会の観光協会に連絡して金を払うと長くとめられる
それは前々からわかっていた、鉄道を利用しなくても車で駅に来る人がいたからだ
道の駅がここにないので街の中心が駅と思い車で来る人がいたからである
駅でも車が遠くから来た人でも駐車できる場があれば駅周辺も活性化するとなる
鉄道だけでは今は活性化しないからである

いづれにしろ高齢化で車の運転をやめるという人に免許を返上したという人に何人かあった、それは80くらいの人である、男性もいたし女性もいた
そして鉄道を利用していたのである、そういう人は電車の乗り方さえわからなくなっているのである、でもそういう人か高齢化社会で増えているからこれから交通の問題が生まれる、田舎で老人でも車を利用できなくなったらどうするのかとなるからだ
そうなるとバスとか他の交通手段の整備が必要になってくるのである

老人の習性として今までしていたことを同じように続けようとする
それは自分でもそうだった、今までしていたことをやめられないのである
年寄りの冷や水というけど今までしていたことは依然としてできると思いやる
それで74歳でもバイクに乗っていた人がいた
ハーレーダビッドソンに乗っていたのである、それは双葉の人である
補償金で金が入ったから買ったのだろう
何か自分でも病気とか介護から解放されたら登山しようとか新しいザックを買ったりしたでもそれも利用していない、ビデオカメラもしていたから買ったが利用していない
ビデオカメラは格段に進歩していたから小型のものでもデジタルカメラでも良かった
10年くらいしたら技術が格段に進歩して買い物すらできない状態になっていたのである

とにかく老人は今までしてきたことやめられない、それはあらゆる面でそうなのである
肉体の快楽でもそうである、それも老人になると異常化している人がいたというのも納得する、性の快楽などでもやはり一旦味わった快楽をさらに追及しよとつづけようとするのである
つまり老人になったからと言って淡泊になったりしない、また車の運転が危険になってもやはり運転しようとする、また登山でも体力がなくなってもしようとする

それが年寄りの冷や水なのである、年取ったんだからそれ相応に隠居して楽しているということでもない、今までしてきたことを簡単にやめたり継続している生を断絶することはできないのである
だから車の運転もやめられない、死ぬまでセックスとか週刊誌であおる
それは個人差があっても人間は今までしてきたことを簡単にやめられないのである
90歳になってもやはり車の運転を使用とするし今までしていたからそうなる
第一車だと体力はいらないから老人にとって車に乗れないことは行動範囲が狭くなり視野も狭くなる、そして鉄道とかバスなどは不便であり利用できないから余計にそうなるのである

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駅前の自転車置場が車の駐車のスペースを作るために狭くさせられたのである
前は広かったのに車の駐車のために狭くさせられたのである
ただここには外からの人が長く駐車する場がないからこうさせられたのである


人間が一番のコスト (機械化、AI化は必然的に起きたー「一人で会社を経営しろ」もわかる)


人間が一番のコスト

(機械化、AI化は必然的に起きたー「一人で会社を経営しろ」もわかる)

人を雇うことは雇われる人より雇う人の方が大変なのである
そのことを雇われる人は理解していない
ただ雇われる人は不満だけなのである
これくらいの金でやっていられねえよとかだけなる
例えば家で手伝ってもらうにしても何もしたくない
そこに主がいるとしても家族でもないし夫でもないし働くのはただ金のためだの動機しかないのである、それは江戸時代とか身分制社会なら主人に仕えるということがモラルとしてある、そういう社会では主人に仕えることは金のためだけではない
一つの共同体を維持するとかあったとなる
それが現代では全くないのである、金しか働く動機がないのである

すると手伝いに来る人はどうなるのか? 

金しか動機がないから主人でも物色して金がないかと探して現実に金が盗まれたとなる
極端化すればその家に来る動機が金しかないとしたら当然そうなるのである
そういう人を雇うことは危険極まりないとなる
だから雇わない方がいいとなるのだ

皿洗いにしても    

●家族のためにやる

●しかたないからやる

●金になるからやる

家族のためにやるというときそこに動機がある、一人暮らしだと汚れたままにしていられないからしかたがないからやるとなる
外部の人にしてもらうとその人はそもそも動機が金しかないのである
そこに危険が生まれる
だからしかたがないとか他者に手伝ってもらうと危険とかなり一番いいのは機械化なのである、皿洗いの自動化であり家事の機械化自動化がすすめられる
他人の家で働く動機が金しかないとなるとそれは危険だからである

最近出た本で「会社は一人で経営しろ」というのが拾い読みしたが面白いようだ
人を雇うことがコストになりそれが搾取になるというとき一人でした方がいいとなる
そのためには外注とか機械化とかAIに頼るとなる
人間を雇うということは一番コストだからである
それで外国人労働者でも安くこき使うことができなくなるのは当然である
福祉とか給料でも日本人並みにしなければもう働かないとなる、日本には来ないとなる

働くということは何か動機が必要なのである
端(はた)を楽にするがはたらくだというときそれは身近な家族でも苦しんで働いているから楽にしてやりたいと自然と湧きあがるものがありそれが動機になっていたのである
介護だってやはり他人になれば介護施設でも働く動機が金だけになりどうしても家族のようにはできない、むしろ金持ちに使われるのが嫌だとなる

機械化AI化すると何かいろいろな分野で一人でできる社会になるのかもしれない
インタ−ネットを利用すればすでに一人で雑誌でも出せるとかなる
現実に自分のしていることでもそうである、一人で多様なことを書いているから小雑誌になっている、それは一人でできるのである、これを本にしていたり販売したりになると出版社が必要になる、なんらか雇う人が必要になるからだ
ところがインタ−ネットだったら即座に送信できるから販売がなくなる
ただ誤字とか脱字がありこれは自分でもわかっているのだがなかなかできない
それも相当手間になるからだ

「一人で会社を経営しろ」というときそういう社会になりつつあるからだろう
機械化AI化するとそうなる、インタ−ネット上で即座に書いて送信していること自体そうである
ただ雇うにしてもその人に金だけの動機ではないものがあれば雇ってもいいのである
でも誰も皿洗いなどしたくない、それは自分自身でもそうだし家族でもそうである
でもどうしても家事はしなければならないからしかたなくしているとなる
その人は今は何もしていない、ただ一週間に一二度見回りして畑のことを話すだけであるその人は畑はいろいろ不満を言ってもしたいのである
畑をやりたいという動機がある、農業が好きであり生きがいにもなる
でも皿洗いとか他人の家事などしたくないのである
でも畑にしてもそれに金を払ってもキュウリ二三本で一万とかなる
ほとんどとれていないからである
だからその人は金の援助がなければ畑もできないのである
しかしその人のしたいことは畑での仕事なのである

これからの社会はベーシックインカムとかなればしたくないことはしない
自分のしたいことをする、そしてしたくないことは機械にAIにさせるとなる社会になるから一人で会社を経営しろということも現実化している
大勢でなくても一人でする方が効率的だとなるからそうなる
雇われる人の問題は動機がないことなのだ、ただ金しかない、そして金の不満だけになるもし動機があれば別なのである、自分にしてもプログでもこんなに書いているのはそこに生きがいとなり無料でも働く動機があるからだとなる
自分の個性を出せる仕事だからやるとなる
実際自分にしても金くれるから仕事しろとしてもしたくない、動機がなかったらしたくないからである
だから金のためにだけ働く人間は雇いたくない、それ自体が問題なのである
でもまた金のために働いている人が多すぎるのである、そこに俺は社畜なんだよなとかいう人が多いという時、そういう人を雇う方もただ搾取されているとか見られるだけになるから嫌になる、それなら一人で会社を経営できるならその方がいいとなってしまうのである

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2019年04月24日

残る花(林道の山吹など)


残る花(林道の山吹など)

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タンポポに走る人行く朝桜

一斉にタンポポ埋める空地かな 

病院や曇りてあわれ残る花

村と村つなぐ細道スミレかな

山吹や林道つづく森の奥

山吹や岩根露わに森の奥

山吹や林道の奥人入らじ

病院や曇りてあわれ残る花


川岸にコゴミとる人みかけにし何かなごみぬ春も暮れゆく

故郷に残れる花のあわれかな名残り惜しむや明日は散りなむ

夕ぐれに残れる花の散りかそか今日もこの道一人行くかな

新しき家になじみぬ夕暮れに枝垂桜の色を深めぬ


常磐高速道路のSAからトンネルをくぐり小山田の山神の神社のあるところの脇を入って行った
そこはどこまでも森だった、ぬけることができない森だった
高速道路の脇にあんな深い森があると思わなかった
小山田の奥にある森は橲原(じさばら)の方にぬけられるがこの道はぬけられない
どこまでも道がつづいている、遠くから山を見てもそこにこうして深い森があることがわからない、日本では山と森が一体なのであるすでに山吹が咲いていたからそうした奥にふさわしいとなる
でもその森の中に入ってみないと森でも実感できないのである

あそこの奥で見たものはゼンマイなのか、コゴミなのか?わからなかった
似ているから良くみないとわからない
それで川岸の木が切られてそこにコゴミを採っている人がいた
こんなところにコゴミがあるのか?普通は山の奥にあると思っていた
そこは木が生えて隠されていたのである

川岸の水の流れているところにコゴミが生えるというときやはりこんな街中の川でも生えるのかと思った、ここは確かめる必要がある
前は近くでも山菜採りしていた人はいるが放射能騒ぎでしなくなっていた
こうして季節の楽しみを奪ったのも原発事故だったのである

何かこの辺では元から住んでいる人ではない
ハーブだよと匂うよと教えた人も地元の訛りがない、東京弁である
何かこうしてこの辺では外から入って来た人が多いのである
だから新しい家が次々に建ち新しい街ができたともなる
そこの新しい家に枝垂桜がしだれている、それも何回も見ていればなじんでくる

タンポポが六号線の空地に一杯に咲いてうめる
何か空地でも花で埋まってしまうのも気持ちがいい
人間がいなくなってもそこは花野になっていることがある
現実にこの辺は原発事故以後草原化してそこに雲雀が鳴いたときあっていた
つまり雲雀は草原にモンゴルの広い草原に鳴くのがふさわしいと発見したのである
田んぼより草原にふさわしい鳥だったのである

今は残る花でありかそかにまだ散ってゆく     

国土の70パーセントある忘れらた日本の森林 
(小山田の常磐高速のSAの脇に延々と森がつづいていた)




スリランカの複雑な歴史 (人種の宗教のモザイク模様ーその一人と田舎で接した記憶)


スリランカの複雑な歴史

(人種の宗教のモザイク模様ーその一人と田舎で接した記憶)
ポルトガル植民地時代にはムーア人に対する大規模な迫害が行われ、多くの人々が中部高地地帯や東海岸へと逃亡した。これらの地域では、現代でもその末裔が多く居住している。
スリランカは仏教国である、ヒンズー教もあるにしても仏教国である
それはタイとかカンボジアとかチベットとかインドの周辺国が仏教国になった
中国だって韓国とか日本でもそういう文化圏にあった
インドは古来のヒンズー教にとどまったのである
イスラムとかカトリックとかこれは極めて少数者であり一割にもみたない、ほとんどが仏教徒なのである

その少数者である人種の中にムーア人がいた、

シェイクスピアの時代、文学や芝居に登場するムーア人やトルコ人は、憐れみや慈
悲の心を持たない存在、すなわち、キリスト教世界にとっての他者として表象されて
いた。

アフリカのムーア人とかトルコ人は悪魔とされていた、そういう偏見は古いのである
キリスト教とイスラム教の対立はすでに十字軍から始まっている
オスマン帝国でもその対立は最大化した、イスラムの方が先進国だったときが長かったのである、そこは見逃されている、イスラムとういと何かテロとか無謀な野蛮人のように今では見てしまうが歴史的にはキリスト教徒の方が十字軍のように野蛮だったのである
ヨ−ロッパ人の女性がイスラム圏で5ドルくらいで売買されていたという時代があった
イスラムの栄光の時代がありそのためにヨ−ロッパに対して特別の感情をイスラム圏ではもっている、それは韓国と日本でも韓国があれぼと日本に対して特別の感情をもつのとにている、俺たちがもともと日本にいろいろ教えてやった、俺たちが日本より進んでいて教えてやった、もともと日本にあるものは韓国起源だったというのとにている
もちろん中国も日本の戦争で蹂躙されたときもそうだった、中国が文明を日本に伝えたのとなったのである

スリランカはこうして人種と宗教の坩堝である、その少数者としてムーア人とかがいて虐げられているということがある、そもそも生活習慣も違うからそりが合わないのである
そこに根強い対立が生まれる、それは宗教だけではない、宗教はそうした対立を先鋭化しているのである、日常生活で差別されているという不満があればそうなる
それはアメリカとか中国でも多民族国家で起きる、日本では単一民族として世界史的にもありえた、でも世界では人種が混交して歴史が形成されてきたのである
日本がも確かに古代では様々な民族が人種が集まり形成されたととしても同じ民族なのである、何かこうした人種で分けられることはないのである、みんな日本人なのである
だから激烈な争いにならない、戦争がっても敵を皆殺しとか殲滅することはないのであるそれで中国人が敵まで祭っている墓がある明治維新の争いのことでありえないとしているのである、なぜなら中国では敵となったものなら墓を暴いてでも罰してるいるからであるそれほど民族が違えばその争いは容赦がないものとなるのである

世界史では大国となった国はそうした人種の争いとか民族の争いとか宗教の争いとかいろいろ経験している、それで民族同士の融合を計る、そういう歴史の積み重ねがある
日本がには島国でありそういうことがない、でも明治維新から150年過ぎてグロ−バル化で物だげではない、大量の外国人労働者が入ってくることで人種とか民族の混交をはじめて経験しているのである
日本には江戸時代は鎖国だし島国でこんなに大量の外国人と直接国内で交わることはなかったのである、明治に外国人が入ってきたとしてもそれは一部の技術者とか知識人とかであり極わずかだったのである
こんなに大量に一般庶民までが国内に入ってくることはなかったのである

そこで何が起きるのか?

世界史的に大国でも小国でも人種の混交、民族の混交、文化の混交・・・が起きてくる
もしグロ−バル化でも物だけが入るならこうした軋轢は起きないのである
生身の人間が入ってくることとはまるで違ったものになる
だからこそ様々な軋轢が生まれテロになったりする、ニュージランドでキリスト教のテロがありイスラムが報復したというのもそれはやはり十字軍以来のキリスト教とイスラム教の対立が尾をひいている
それはイスラムがキリスト教圏の下位にされていることの不満でもあるのだ
でもそれはテロでは解決できない、イスラムが再びヨ−ロッパとかでも優位にたつ文明形成をしなければできないのである

日本がなぜ太平洋戦争で失敗したのか?
それは日本にはグロ−バル化する思想もないし世界史のなかでこうした人種とか民族の混交した世界を経験していないのである、天皇を神とする皇国史観では世界に通用しないからである、それは一民族の神であり人種を越えた民族を越えた神とはならないからであるそれを越えた世界政治思想がないと対処できないのである
ただ外国人労働者がこれだけ入ってくるとういことは是非はともかく日本ははじめて庶民レベルで人種の混交とか文化の混交とかを経験しているとなる 

一人の外国人が日本に入ってきて働くことはそのこと自体がもう日本一国だげではないグローバル化が政治でも思想でも文化でも迫られることになる
それが日本を破壊するとなると人は入れるべきではないとなる
人は物ではないからグロ−バル化でも全然違ったものとなる
だから日本人と給料でも同じくすべきだとか待遇も同じくすべきだとかなり法律までできる、そうならざるをえないのである、人が直接入ることはそういうことなのである
それは世界的共同性の追求になるからだ
一つの大きな世界的共同体の形成になるからだ
もし日本が世界をリードするというときはそうなる、でもそれができなとなるなら無理ならそうすべきではないとなる、それは大国にまかせて従属すべきだとなる
それは物凄い重荷となるからである、太平洋戦争はそのために300百万人死んだ犠牲だったのである、日本には世界に進出したがそれだけの力がなかったとういことなのである

フェルナンド、ポルトガルの王の名
スリランカより我が田舎の町に来たる人の姓
コロンボに住むキリスト教徒
そはスリランカを語りて
数年ここに住みスリランカに去りぬ
そはこの田舎にありしを記される 

何かこれもふりかえると一つの田舎に記した歴史だともなる
その時私は外国に行ったことがなかった、それから世界旅行をしたのである
ただ私は遅かったのである、外国を知らなかったのである、それが失敗だった
外国を知るにはやはり留学とか住んでみないとわからないことがある
国際性は旅行したくらいでは育まれないのである
その後十年は介護で外国も旅行もしていないのである


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2019年04月23日

宗教はどうなってるのか訳わからん? (スリランカのテロの恐怖―ノートルダム焼ける)


宗教はどうなってるのか訳わからん?

(スリランカのテロの恐怖―ノートルダム焼ける)
                                            

宗教はわかりにくい、なぜ仏教徒が武装集団になっているのか?
日本がにはそんなことがないというけど別に最近でオウムの仏教派があんな怖いテロ集団だった、宗教は歴史的に仏教だって僧兵がいたし武士の起こりは僧兵だったという歴史家もいる
なぜ信長が比叡山の僧侶集団と対立したのか?
それは権力を僧侶集団が握っていたからである
そういうことは今でも日蓮系の組織集団にある、日蓮宗は国粋主義であり武装集団にもなり安いのである
創価などはそもそも組織が軍隊組織であり序列化して臨戦体制にある
戦争の準備すらできているとなる、なぜ参謀などとかいるのか?
それは権力を得るために組織であり武装も辞さないと前はなっていたからである
日蓮系統はそういう過激なのが多いのである

ヨ−ロッパでも宗教は政治化して権力をもったからこそ政教分離が生れた
それでノートルダムが火事でやけたとき今度は市民が寄付された一千億の金を底辺層に回せデモしている、その金は富裕層の税金逃れだとしているのも何なのだろうとなる
普通だったらキリスト教徒が多いという時、それに反対するとは思えないからだ
これもすでにフランス革命はカトリックの政治支配からの脱却のためであったことがあるから宗教に金をかけることに不満だったということもわかる
そして現実にヨ−ロッパでも教会に行く人は相当減ったとなっているからだ

宗教だと対立すると深刻になりめんどうになるから人権主義(ヒューマニズム)になったのである
自由、平等、博愛の博愛とはキリスト教に基づくとしてもあくまでも相手の宗教を問わない博愛、博識というように博とは宗教にこごわらない広いという意味である
今回のテロでもその背景は不明だしスリランカの国の歴史も事情も複雑なのである
おそらくその背景にインドとか中国とかもからんでいるとなると複雑である
そして外国人用の高級ホテルがねらわれたというのもまた宗教だけが原因ではない
スリランカは貧乏であり高級ホテルに泊まる人を良く見ていないことはある
そこにグローバル化で格差を具体的に思い知らされるからである

スリランカの人がこの辺で働いていたけど指を切断した、外国人労働者、技能実習生は機械で良く指を切断している、それは何か共通している、それが悲惨だと見た
最近はネパールとかベトナム人が多い、中国人は今は豊かになっているからなぜ日本に来るのだろうと思う
宗教の前にそうした格差がありそれが引き金となりテロになるとそれを喜ぶ人もいるかもしれない、共感する、イスラムのテロは貧乏がかなり影響している
グローバル社会は格差がまざまざと見せつけられる、グローバル競争に敗れたものはその国民でも奴隷のようにされる、昔のような奴隷でないにしろ実質的に奴隷のようにされる日本がだってインパウンド観光でそうなっている
外国人の方がデパ地下でいい高い弁当を買い日本人はスーパーで夜に安くなる惣菜弁当の奪いなわいになっているという報告でもわかる
つまり外国人をもてなす側になり下僕にされる、今や外国人優先であり金のない日本人はまともにホテルにも泊まれないとなる

こうした宗教テロは宗教だけが原因ではない、背後に大国が動く、インドや中国やアメリカも動いている、そうした小国はそうした大国の影響でずたずたにされる
ベトナムでもそうだし朝鮮でもそうだしシリアでもそうだった
そうして日本がももし小国になると中国とアメリカとロシアによってずたずたにされる
それが敗戦のときにロシアが北海道をとり分断される危機だったのである
だから日本も弱小化してくるからそういう恐怖があるのだ
中国が巨大化してくるとその危機は一層大きくなるのである
明治維新の時も日本が分断される危機だったと日本は国として統一されたのである
スリランカが二千万とかの人口になるとあれだけのテロで死人がてると国の崩壊の危機にもなる、するともともとスリランカは統一国家として維持するのが無理な国だともなる

宗教は純粋に宗教ではない、組織集団化するとそれは一つの権力集団になり他を威圧するようになる、エホバとかでも何の集団なのだろうとかなり統一教会などは韓国系であり政治的団体化する、エホバでも背後にアメリカがかかわりアメリカから資金が流れてきているのかとかんぐる
教会でも資金の流れを見ればアメリカが関係しているかもしれない
宗教とは人間は別に国家と関係なく死があるのは共通している
その死をどうして克服するのかというのは別に国家の問題とは関係ないのである
個々人に共通したものでありその信仰は集団とか組織で解決しないのである
会員になったからといってそれでも解決しない

そうなら楽だからである、それは他人まかせになり他人に従属して奴隷となることなのだ宗教の場合、一億人十億人信者が生まれたから仏国土になると天国になるとか全くない
むしろそうなったときもう本来の宗教はない、俗化した欲を満たすだけの宗教になっているのだ、だから権力を得るために武装でもする、その背景に貧乏がありその不満が富裕な外国人に向けられるのである
それは日本国内だって同じなのである、そういう不満が大きくなれば国自体の平和も保てなくなる、富裕層だって安心できない社会になる
だから中国で共産党幹部が恐れているのは民衆だというのもわかる、いくら幹部が富豪となっても民衆が反逆してきたらたちまちどん底におとされるし殺されたりもするからである

posted by 天華 at 13:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2019年04月22日

国土の70パーセントある忘れらた日本の森林 (小山田の常磐高速のSAの脇に延々と森がつづいていた)


国土の70パーセントある忘れらた日本の森林

(小山田の常磐高速のSAの脇に延々と森がつづいていた)


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人がここを通っていたのはコンクリートで作られたものがあるからわかる
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ゼンマイが奥にあった

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倒れ木がありここから人は入っていない
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ブナ坂とあるからもともとはブナの木が繁茂していたのである

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船が行くのが見える

纏向の 日代宮(ヒシロノミヤ)は 朝日の 日照(ヒデ)る宮 夕日の 日翔る宮 竹の根の 根垂(ネダ)る宮 木(コ)の根の 根延(ネバ)ふ宮 八百土(ヤオニ)よし い杵築(キヅ)きの宮 真木さく 檜(ヒ)の御門 新嘗屋(ニイナエヤ)に 生ひ立てる 百足(モモダ)る 槻(ツキ)が枝は 上枝(ホツエ)は 天(アメ)を覆(オオ)へり 中枝(ナカツエ)は 東(アズマ)を覆(オオ)へり  下枝(シズエ)は 鄙(ヒナ)を覆(オオ)へり 上枝(ホツエ)の 枝の末葉(ウラバ)は 中枝(ナカツエ)に 落ち触らばへ 中枝の 枝の末葉(ウラバ)は 下枝に 落ち触らばへ

日本がの国土が原始時代にどういうものだったのか?
それはこのように森に覆われていた、森の国であり山の国である
山と森は一体であるからだ
この森の感覚は意外と日本人はわからなくなっている、まず都会に住んでいれば森はわからない、森は田舎に住んでいても身近に接していない
ところが不思議なのはこの辺では常磐高速道路ができた
そこのSAには良く行くようになった、そこは実際は山側であり深い森に接していたのである

確かに小山田の奥は森がある、それ以上に高速道路の脇を入っていったら延々と森でありそこではもう出口がないのである
主に杉の林だが近くでもこんなに森が深いのかと驚く、その森はまず尽きることなくつづいたのである、だから気味悪くなることがわかる、それは古代でもそうだったのである
なんらかの物の怪(け)が住んでいるような世界である
森というのは暗いのである、闇の世界である、だから一段と不気味な感覚になる
それが意外とすぐに身近にある、第一高速道路となると文明の世界である
その脇に延々と森がつづいていた、山は遠くから見ているとこの森を感じないのである
山は森の世界でもある

山とはヤマでありヤミ〈闇〉でありヤムの世界である、何かそこで止まってしまう、そこから抜けられない世界である、天の岩戸に神が閉じこもった時真っ暗になったというけど森はそもそも暗い世界なのである
特に交通が発達していないと時代は余計にそうなる
現代でも常磐高速の脇ですらそれだけの森が延々とつづいていたのである
そしてその森は今は活かされていない、戦前までは日本は森がまだ活かされていた
燃料が炭だったからである、木材でも国産であり外材は利用されていないからだ
森は重要な資源だった、だから米沢藩と相馬藩と伊達藩で丸森の木材資源をめぐって争いがあったことは有名である、それは飯館村でも伊達藩と相馬藩で境目で森林資源をめぐり争っていたのである、森は生活で欠かせない資源であったからだ

外国でもforestは原始的な森でありwoodは材木であり資源である
日本でも森は原始的な森であり林になるとハヤスであり人工的に植林する感覚になる
日本が木の文化だというときそもそも70パーセントが森だという時当然なのである
鎮守の杜というときもそうである、その広大な森があり社が杜(もり)になったのである

山守の 里へ通ひし 山道ぞ 茂くなりける 忘れけらしも 

しめ(禁)山の山守は山を下りてこない
里へ通う山道が草で覆われてしまった
わたしのもとへ通う道まで忘れたのかしら

この歌はまた違った意味だが今や山守りもいない、山の森が忘れられている
万葉時代は山守りはしげく山に通っていたのである

いづれにしろ森の国である森をアイディンティティとして国を文化を作って来たのが日本人である、それは日本の国土が森が70パーセントもあり当然そうなった
世界的に見てもゲルマンもドイツも森の国であり鬱蒼とした樅の木でおおわれていた
だからゴシックの大聖堂も森を象ったものなのである
そこに重厚な文化が生まれたのである、森は神殿のひな型でもあった
日本がでも真木柱というときまさに宮の基となることが歌われているのだ

日本の森林が老齢化している、それは戦後植林したのが今成長てしちょうど木材用として切る時期になっているからだ、それで日本の木材が利用される時代にもなったという
日本がこれだけ森があるということでこの森を活かさなければ国土の繁栄はない
真木栄(さ)く檜(ひのき)の裂くは栄えるに通じて咲くに通じている
長野県の佐久という地名もそこから来ているのか? 

ともかくグロ−バル経済は何かそうしたそれぞれがもっていた国土の特徴を歪めたのである、文化を破壊したのである、なぜ地方が田舎が衰退したかという時もそうである
そもそももともと資源として豊富にあった、70パーセントが森の国土でもその森が無用のものとされているのも異常なのである
日本がもしその」その70パーセントの土地が平坦で利用されるとなったら全く違った社会になっていたのである、だから自然環境が風土がその国を作るのである
それがないがしろにしたら日本という国が栄えるのだろうか?
グロ−バル化というのは観光だって今や日本人がゆっくり観光できない状態になっている外国人が金があるから優先されて日本人はゆっくり観光できないのである
これもグロ−バル化の競争によってもたらされたものなのである
それが国土を荒廃させた原因にもなっているのである
石油を輸入しなければ生活できないとかなるが日本には豊富な森林資源があった
でもそれを活かすことはしなかったのである

とにかく人間は国土を実感することが今はむずかしい、交通が便利になってなにか電車でも車でもわかったような感じになるがその身近な所でも知らないのである
なぜならそうした近くの森でも忘れられている、人間がかかわらないと人間の手が入らないと忘れられてしまうのである
そして異常に熱心になったのは科学技術でありそれが国の運命を決めるとなっている
それで原発でありトヨタがなくなったら国が終わりだとなっている
そういう社会が果たしていいものなのか?
日本がの国造りをどうするのか戦後70年で見直すこと時代になっている
日本が衰退するというときそれは常に科学技術分野で衰退するとなっている
反れか国のすべてとなっているからである
そうして原発も不可欠だとなっているのである、原発はただ電気のためにだけ必要なのではない、先端の技術をもつために先進国として必要だからである
原発をもてない国は後進国だとなるからである
何かあまりにも科学技術のみが国のすべてだとなりすぎているのである
だから日本の栄が実は森林が70パーセントあって木材を利用したことから栄があったということを再考すべきなのである

御民我れ 生ける験あり 天地の 栄ゆる時にあへらく思へば  海犬養岡麻呂

日本がの場合は天ではなく森だったのである、大陸になると天なのである
国土の繁栄はその民でもそれぞれの国土に養われているありうる
それが科学技術がすべてとなり原発によって栄えると地元の人でもそう思っていた
それが原発事故でもろくも崩壊したのである
それは原発がない前からグローバル化で天地の栄ゆる時は失われていたのである
もちろん科学技術を全部は否定できない、科学技術とは国土があって制限的に使用されるものであった、自然の法(のり)があり科学技術もそれを越えてはありえない
結果的に原発事故で国土が失われて栄も失ったのである

2019年04月21日

神社は何なのか、何のためにあるのか? (謂れがわからないのが多い)


神社は何なのか、何のためにあるのか?

(謂れがわからないのが多い)

なぜ日本にはこんなに神社があるのか?もう無数にある、それは何を意味しているのか?それは信仰の対象というよりは歴史的遺産として残してある
でもそもそも不思議なのはなんの謂れかもわからないものだとするとそれは何のためにあるのか?
それは相馬市の坪田の都玉神社がある、これは国魂神社のことである
国の魂となる神社という意味なのか?

主祭神は相馬都胤命(そうまくにたねのみこと)。

合祀神は大貴己命(オオナムチノミコト)、相馬昌胤命(そうままさたねのみこと)。
正徳五年(1715年)、第五代藩主・相馬昌胤公の息子・都胤がわずか五歳という年齢で亡くなってしまう。

都胤公を寵愛していた昌胤公は嘆き悲しみ、現在の社殿のある場所の裏山に石室を築き、都胤をそこに埋葬する。

その後、享保三年(1718年)には神社を建立。

都胤の御魂を御祭神として祀ったのだという。

都胤(くにたね)公の御魂(みたま)を祀ったので、『 都玉(くにたま)神社 』と称するようになったのだとか。

さらに、昌胤公の死後、天保十三年(1842年)には昌胤公も合祀される形で都玉神社に祀られている。

このように由来が明確である、だからここにお参りする時は五歳で死んだ相馬都胤命を祭るからその人を供養することになる
由来が明確だからその是非はともかくそこにお参りする理由にある
他にも子安神社などが各地にありそれは子を安らかに産んで育てる願いがあって建てられた神社であり社である、それもわかりやすいのである

ところが神社には何の謂れがあるのかわからないのが多いのである
それでおかしなのは今回の津波で相馬市の松川浦の津神社が津波からまねがれた
そこで言い伝えがあり津波の時にその神社に逃れると助かると伝えられていたという
それで実際に助かった人がいたからここは津波を記念して建てられたのだという人がいたそれで相馬市の城跡で会った歴史の高校教師であった人すらそう言ったのである

ところが津神社というのは「つのみつ)神社と言っていた
津神社となっていてもツ神社とは言わないのである、それは当て字なのである
これがまぎらわしいのはツの神社となるがツノはツできれるのではなく角(つの)なのである
つのみや神社とかも言っているからだ
そして津神社はこの辺で海岸沿いに多いのである
砂鉄を求めて来た渡来人の技術者達が建てた神社だったとなる
原町の雫(しどけ)も高い所に津神社があるがそれもつの神社なのである
烏崎にも津神社があった、その神社はもともと高い所にあったが移されたのである
それもツ一字では読まないはずである
そもそもこうして津神社が多いという時、それが津波のために建てられたものではないのである
津浪に由来する神社は仙台市の波分神社くらいである、そこで津波の波が分かれたというので明確である、実際に今回の津波でもそこまで津波が来ていたのである
他にはほとんどないように思う
津神社はツノガノアラシトのツノなのである
ただそれも大和王権に統一されたとき隠されたのである
そして由来がわからなくなったのである

神社の由来がわからなくなると別にお参りしなくても何のためにあるのだろうとなる
鹿島神社は多いがこれも大和王権に統一される過程で作られたタケミカヅチの神である
武力で制服した神なのである、ただ後で豊作の神とかにされたのである
他に綿津見の神が多いし山津見の神社も多い、これは安曇族など海人が移動してきて建てられた、そういう人たちが入ってきてその人たちの先祖が祭ったとなる
それは歴史的遺産として残っているし残しているとなる

神社でもそうだが何か祭る時、それは何かしら伝えるものがありそれで祭られている
でも何を伝えようとしているのか?それがわからなかったら維持できなくなるのではないか?何かわからないとしたら何のためにお参りしているのかもわからない
祭りでも何の祭りかもわからないのがありそれだけ古いものだからそうなる
でも何の言い伝えが謂れがわからないものをいつまでも維持できるだろうか?
信仰するにしてもそうだろう、何かわからないものにただ祈ることはできない

ただそうでも何かしら歴史を伝えるものではあるから残している
でも相馬市の松川浦の津神社を津波の神社とか真面目に言われ歴史の高校の教師まで信じていた、別に松川浦には他にも神社がありすれすれで津波からまねがれているのである
それは神社が古いからもともと海だった所や湿地帯だった所には低い場所にはないのが多いからである

とにかく神社の問題は何か由来がわからないのが多いから気持ちとしてすっきりしないのである、何か不明な謎としてあるとなりすっきりしない、それでいろいろ調べる人がいるそれは謎だからそうなるのだ
それで都玉(くにたま)神社の謂れはわかりそこにお参りする土地の人が守るというとき五歳で死んだ子供を供養するということになる、また相馬氏の殿様がそこに葬られ祭られたと知る
それは明確でありわかりやすいのである

でも神社には何か由来がわからないのが多すぎるのである
それで安産の神だとか豊作の神だとかに後世にされたが実際はそういうことで建てられものではないものが多いのである
飯館村の山津見神社でも狼を神としているがもともと関係ないのである、それは海人系の綿津見神社と対になった神なのである
後から別なものの神にされているのである
神社というのは確かなことはその土地土地に根付いた先祖がいてその人たちが祭ったことは確かである、それも大和王権が成立する前からのも多いから謎になるのである
ツノガノアラシト系とか韓国系統とか物部系統とか蝦夷として大和王権に征服された人たちの神は祭られているとしても隠されたからその由来がわからなくなっているのである
それは敗者の神だからそうなったのである、でも歴史的遺産として残されているのである



2019年04月20日

駅の高校生の見守り役は何もしない (駅前の自転車屋も怒っていた)


  駅の高校生の見守り役は何もしない
  
  (駅前の自転車屋も怒っていた)
  
駅前の自転車屋はいつも駅を見ている、だから駅のことに一番詳しいのである
それでその人は言っていた

私は自転車置き場を作る時これでは自転車置く場所に困りますよ

そのことを忠告していたのである、現実に駐車場として8台分を置くスペースを作った

でもそこに車を置いたら自転車が置けなくなる!

それが工事するときからわかっていたことだったのである
なんでかえって不便になるようにしたのか?

それは車を止める場所がなかったからだ、これは常に駅の問題だったのである
駅前には一時的に止められても長くは止められない
広いスペースは商工会との契約で金を払って駐車の場所を確保している
だから他の人はとめられないのである

それでそこに遠くから来た人でも長くとめられる駐車する場を作った理由はわかる
駐車する場所がなくて困っていたからである
でもそのために大勢の人が利用する自転車の置き場がせばめられて自転車すら置けない
車があったら自転車を取り出すこともできなくなるような状態になっている

商工会の観光係では予約があると金を払えば止められるらしい
ただまだ一度もそこに車が止まっているを見たことがない
商工会の収入となるのはわかる

それから駅の見守り役は何もしない!

駅前の木が枯れるので水をやっていた、それを見守り役に頼んだらしないという
見守り役は駅の業務でもそうした駅の関係でも何もしない
そういう約束だという、何かもめごととかトラブルに巻き込まれることを異常に恐れているのである、それは人間としての常識もないと自転車屋の人は言っていたことがわかる
自分自身もそれで怒ったからである
私は何もしないように上司に言われていますと言うのである
でも市の方から金はもらっている、何もしないのにもらっているとまでなる

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遠くより来る人あれや駅前の花壇に赤くチューリップ咲く

駅前の花壇に赤くチューリップ朝の光に映えて咲くかな


駅前の花壇には今はチューリップが咲いている、そこで遠くから来る人が来るとそれが映える、駅は内部の地元の人だけではない、外部から来る人とも交わる場なのである
そこに駅がいろいろな人が交わる場になって活気をもたらすのである
内部の人だけだったらこうはならないのである
そういう営みがあって駅は活かされるのである、そこが駅の特徴なのである
街の玄関となっているのが駅なのである
だから木でも枯らせると駅の雰囲気に影響する
ただ駐車場の前にも花が咲いていたがそこも荒れている
駅開設120周年という花文字も枯れてなくなった
どうしても植物は手入れしないと枯れたりしてくる、だから人の手を加えないと荒れるのである

南相馬市の高平の西殿の地名は泉官衙跡に由来するのか? (方角地名はどこが中心で方角が決められるのかが肝心)


南相馬市の高平の西殿の地名は泉官衙跡に由来するのか?

(方角地名はどこが中心で方角が決められるのかが肝心)

●方角地名が世界的にも基本

方角地名が地名でベースになるのは人間にとって見知らぬ土地に行ったとき必ず方角がわからなくなる、それで太陽の昇る方向とか沈む方向とかみる、または星を見る
星がなぜイスラム圏とか大陸で大事になるかというと北極星信仰が生まれたか?
北極星は変わらない定点になっていたからである
それで妙見信仰も生れた、それは北極星信仰であり大陸から入ってきた信仰なのである
遊牧民地帯では常に移動するから目印となるものが必要になる
それが北極星になっていたからイスラムとか砂漠の国や草原とか大陸の国の国旗は星印になる

太陽でも東は日向う(ひゅうが)とからきている、西はイニシで去る方向なのである
それで日立木に日下石」にっけし)があるがそこが西の意味としたときそこが一時津波で海が迫ってきた場だった
ではなぜ海側が西になるのか?それは海から来た人たちがそこに海が迫っていたとき太陽が沈む方向だとして西と名付けたと予測する
なぜならこの辺でなぜこれほど綿津見神社が多いのか?
それは安曇族などの海人族が移動してきたからである、それは海を渡る渡津見の神だったのである、渡ることを海を移動する民だったのである
そういう人たちが来たときそういう名前がついたと予測される
それは一つの説にしてもそういう説明になる

                          
●西殿の起源は泉官衙跡から来ているのか?

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泉官衙(南相馬市に躍動する古代の郡役所ー泉官衙遺跡)より
ここは相当に大きな郡役所だった、ただ方角的に西殿が今の西殿の方面にあたるかどうかはわかりにくい


方角地名で一番の問題はでは南とか北とか東とか西とあるときどこを中心にしてそう決めるのか?それが一番の問題なのである
南相馬市の高平の西殿というのもそうである
もし西殿よりさらに西になれば東殿ともなるからである、現実にそういうことはある


御屋敷、堀、上の坪、中の坪、東殿、西殿、上屋敷、国府殿、四郎殿とな っている 。  宝永 4(1707)年10月14日、紀州沖地擬により 、
大津波が押し寄せ、部落のほとんどが被害をこうむり田畑は砂で埋没したため、年貢米は 5年間赦免されている。 さらに、安政元年 (1854)11月 4日、遠州灘地擬による津波は高さ 10mにも及ぴ、堤防は全壊し部落はほとんど水没した。 しかし、道路が整備され、屋敷囲に根を植えている国府では死人はなく、家屋の被害はすくなかった。国府の歴史は、津波との戦いの歴史ではなかったのではなかろうか。津波の後は、その恐れから、家屋を小高い丘に移し、また便利な平坦地にもどる。その繰り返しをして、部落の移動がたぴたぴ行われていたものと思われる 。

ここに国府があり国府となる所に役所となる建物があり東殿―西殿と地名化した
国府となると正殿がありその東と西に脇殿として建物が建てられた
西脇殿とか東脇殿とかなる


溜池を挟んで東側の台地上にも周囲に土塁を巡らせた城館がある。こちらが西殿という場所であるらしい。60m×80mほどの長方形の郭であるが、所々土塁が分断されている。しかし、旧状を想像することは容易である。溜池側には2段ほどの腰曲輪的な削平地がある。城塁を削っているので、これらの部分も城郭遺構であると思われる。この2つはどちらも、戦国以の初期の居館というイメージである。


つまり原町区の西殿という地名はいつ頃から生まれたのか?
それは鎌倉時代時代以降と推測した、それは相馬氏が古くからが住んだ記録に残るからである
でも泉泉官衙跡が海に近くありそこに古代の役所があった、するとここにあるように国府がありそこに写真のように中心の建物があり西脇殿と東脇殿があってその名があって古代から西殿と名付けられたともなる、ただ西殿はその時は今の地点ではない
これは考古学の発見がありそれを調べないとわからない
ただ西殿とか東殿は戦国時代にもあるがインタ−ネットで調べた城でもあった
だから古代から西殿という名が伝えられたということでもない
国府とか郡衙になるとそういうことがありうる、事実いわき市にはそうした地名が残っている

(根岸郡衙跡)
郡の政治を行う中心の場所です。根岸遺跡では、正殿(せいでん)・東脇殿(ひがしわきでん)・西脇殿(にしわきでん)の三つの建物が中心の広場を囲むように建てられていました。

いわき市にも西殿がある、西殿は殿は古代の政庁跡にある、殿から館になったとき中世に変わったが依然として殿が使われていた

つまり地名の起源は古代にまでさかのぼり古い!

南相馬市原町区高平の五輪の塔の謎 (南北朝に由来して西殿は相馬氏の館があった所)

●なぜ南柚木(みなみゆのき)というのか?
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村の名で検索すると村の領域がグーグルで表示されるから便利

「この辺は何村ですか」
「坪田です」
「なかなかどの辺までは坪田村なのかわかりにくいです」
「坪田があり八幡があり成田がある、八幡は八幡神社があるからだよ」

なぜ村の範囲がわかりにくいのか?それは江戸時代なら村ごとに年貢を納めていたし村が行政の単位であり村ごとに人は結束して生活していた
それがなくなったとき村の範囲はあいまいになったのである

「柚木(ゆぬき)は南柚木と北柚木がある」
「柚木が相馬市でも鹿島のように思う人もいる、まぎらわしい」
「柚木は南柚木と言って北柚木とは言わない」
「方角地名となるとどこが中心かで方角が変わる、相馬藩は小高にまず相馬氏が城を置いた、だから小高から北が北郷になる、相馬市に(中村に)城を移した時、その城が中心になって南になるから南柚木となった、北柚木とは言わない」
「そういうことか」
「それで鹿島は北郷であり北郷と宇多郷が野馬追の時、雲雀が原に出陣するとき一体化して合流して向かうことになった
南相馬市となったのは相馬市の城から南だからそうなった」
「なるほど・・・」  

方角地名で問題なのはどこを中心にして南北朝とか北としているのかである
歴史的にも中心が変わるからである、鹿島区は北郷(きたごう)であるがなぜなのか?
それはもともと小高に相馬氏の城が置かれてそこから北になっていたからなのである
となると歴史を知らないとまた方角地名はわからない、単に南北とあっても歴史によって方角が違ってくる

どこが中心かというとき韓国では日本海は東海なのである、韓国側から見ると東の海になる、それこは韓国中心で見るからである
日本がを中心にして見れば日本海なのである
だからどこを中心にして方角地名が名付けられるのかが問題になる、それは歴史的なものとも関係している
韓国側にすると日本海となれば日本の海だとなりそのことで世界的にそれは違うと訴えて裁判までになる
地名でも国際問題になるのである

南柚木が北柚木と言わないという時、それは相馬市に城がありそこから見て南になるからである
方角地名で大事なのはどこが中心にして東西南北になるかなのである
相馬氏が進出したとき北郷はさけて大原とか小池から相馬市地域、前の中村地域に進出して城を建てた
柚木(ゆぬき)もそうして相馬氏の領地となった、その時北郷は相馬氏の領地にならなかった、支配地にならなかった経緯がある
そういう歴史的経緯があって方角地名が名付けられている、単に南北とかではないのである
だからなぜ南相馬市と合併したのか?
それはすでに相馬市に相馬氏の城がありそこを中心にして名付けられたのである
それで南相馬市はやがて相馬市として合併するとも言われたのである
ただ歴史的北郷(きたごう)は変わらず残っているのである、でもその歴史を知らないと理解できないのである




2019年04月19日

故郷の丘(万葉ふれあいセンター)の桜とスミレ

               
故郷の丘(万葉ふれあいセンター)の桜とスミレ

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故郷の丘にスミレや花の影

満月や栄一時花の散る


故郷の丘にスミレの咲き満ちて朝花散りて光満つかな

桜咲き朝に霞みぬ鹿狼山ここに望みてさえづりひびく


鹿島の桜田山の桜とか万葉植物園は何か死んでいる、来る人もいない
桜の木が枯れているのだ
でもその代わりに整備したのが万葉会館の丘である
あそこは新しく整備して手入れしたから休む場所もあり気持ちいい場所である
あそこから展望できる、ただあそこからは海が見えないのが残念である

鹿狼山(がろう)は見えた、あれは雲雀が原からも見えた、高い山だから目だって見えるでも400メートルくらいなのである、この辺には高い山はないからものたりないのである

丘にはスミレが一杯咲いていた、桜の木はまだ成長していないのもある
あそこは利用したことがない、まず図書館には行かない、ネットで検索しているからだ
ネット最新の学者の論文が読めるのである、それも無料なのである
すると素人でも研究に参加できるとなる
本をとりだして調べるのが手間なのである 

昨日も満月であり今日も満月だった、ただ今日は雲が流れて満月が光っている
花は散っている、でも全部は散らない、半分くらい残っている
まず桜は実際はどこでも日本では咲いているが咲いている期間が短いのでなかなか見れないのである、日本では桜の名所はいくらでもあるからだ  
上野の桜などは見栄えしないのである、やはり都会の桜は見栄えしない
京都と大阪は別である、なぜなら京都とか大阪になるとそこに歴史がありその歴史によって違って見える
大阪城の桜はそうだった、夕日のなかに桜が散って人が絶え間なく来ていた
その夕日の色がなんともいえないものだった、まさに歴史の栄華の大阪城があって
人間の栄枯盛衰があり夕日が大阪城に映えたのである

とにかく桜は一時で散る、満月が輝き散っていた、人間の栄華も一時だったとなる

大阪城の桜

人生百年時代はあせる必要がない (余裕がない人は人を助けることもできない―起業もできない―失敗する)


人生百年時代はあせる必要がない

(余裕がない人は人を助けることもできない―起業もできない―失敗する)


●あせり追われ試験の点数のために勉強する

●あせり早く成功しようとする

●あせり早く成果を出そうとする

●今だけを見て長い先が見れない

●ともかく何するにも余裕がない

私が学校が嫌なのは常に試験試験でありその結果ですべてがみられる
試験の点数がすべてだとなる、そこで自分なりに時間をかけて勉強できない
思考するにも時間がかかるから手っ取り早い解答を出すことで試験の点数をあげる
学校時代から何か常に余裕がなくさせられていたのである
すでに人生は学校時代で学歴で決まるとかいうのもそうである
人生は常に急がされているのである

「忙しい人」は、余裕がないことからその場しのぎの考えで行動することもある

何をするにも起業してもすぐに成功しようとする、成果を出そうとする
そのように追い込まれたりしているから余裕がない
すると起業するにしても十分な資金がなければ余裕がないからつづかない
なぜならすぐに成果をだせない、もうからないとしたらすぐに起業してもやめることになるからだ
でもそれだけの資金の余裕がある人は少ないとなると起業はむずかしいとなる

私が会った人はすべて余裕がなかった

起業した経営者も借金でおいつめられていたからまず自分が苦しんでいることより借金を返すことで頭が一杯だから自分が病気であり介護で苦しんでいてもそんなことに心を配る余裕がないのだ
だからそもそもそんな人は人を助けることはできなかったのである
また手伝いさんでもその人も金に困っている、窮している、すると家に入ってきて物色して金を盗むことしか頭になかったのである
でもそういうふうに手伝いさんとかは金に困った人が多い、余裕ある人はしない
そういう人は遊んでいるのである、金に余裕があるからそんな下働きのようなことをする必要がないからである、それで家に入る人は問題が起きやすいのである
絶えず主人の金をねらっているとなれば安心がなくなる

それから地銀の人でもノルマを課せられているからノルマを果たすことが頭で一杯になっている、成果をだすことで一杯になっている
私は銀行を地銀を信用していた、まかせてくださいというから信用していた
金融のプロだと思っていたのである
でも今や地銀は存続するかどうかの危機であり全く余裕がなくなりもうけることができなくなり投資信託をうりこみ手数料商売になっていたのである
だからリーマンションックの時半分になった株が元にもどり上がり調子の時投資信託に回して損したのである、もしそのままにしていれば相当な利益になったのである

その原因は地銀はもう追い詰められている、余裕がないからである
こうしてそもそも余裕がない人と会社でも接すると危険なことになる
相手のことなどとても考慮できないからである
ただ追い詰められているのだから自分のこと自分の会社のことしか頭になくなるからである
そうして犯罪というのはこうして金でもなんでも余裕がない人が起こすのである
明日食べる金がないとなれば強盗ともなり殺すことまでする、それは余裕がないからである 
余裕がない人と接すること自体が危険なものとなっていたのである

だから余裕というのは何するにも大事である、ただその余裕をもたせられないのが人間なのである、余裕をもって勉強しなさいとか誰も言わないのである
今勉強して試験に受からないとあなたの人生は終わりだとか追われて勉強させられる
何が自分自身のペースでじっくり考え勉強することもあったがそれもできないのである

何するにも人はあせるしあせらされるのである、まず起業してもすぐにもうけをだして成功しなければならないとなる、二三年はそんなにもうからなくても徐々に成果をだしてゆくとかにならないのである、それはそれだけの資金でも余裕がないからである
それは自分自身もそうだった、何かあせりすぐに成果を出そうとして失敗していたのである
人間のすることはなんでも時間がかかる、芸術だって何かすぐには天才でない限り会得できないのである
何か凡才でも俳句とか短歌でもつづけているとそれなりのものができるようになる
私自身がそうだった、20代でも30代でも何か才能があるとみられなかったのである
凡才でも継続は力なのである、何か一つのことでもいろいろな分野が学問的にも実業でもいろいろある、それを継続してゆくものがあればやがて成功する成果が出せるとなる
だからどうしても大器晩成を目指せとなる、早熟なものは花火のように天才でも終わる
成功をせりすぎるのが人間なのである
そして人生百年時代のいい面はそれだけ長い時間の中に成果を出せばいいとなる
あせる必要がないのである、人生50年だったらそんな悠長なことを言っていられないからである                                

余裕がない人はすでに失敗している

日本がの戦争でももう物資が石油でも不足する、するとあせる、追い詰められる、余裕がなくなる、そこで遂にがまんができず暴発する、無理な戦争をして大敗北になった
それは日本には余裕がなかったからである、アメリカには何でも物資でも戦略的にも余裕があった、追い詰められていなかったのである
余裕がないということですでに負けていたのである
すでに余裕がない人でも会社は負けている、そして悪あがきをしてさらに事態を悪化させて失敗して終わる                                     

つまり余裕がない人は会社でもそういう人と接することは危険になる
とても相手のことを考慮できない、ただ手っ取り早く利用することしか頭にない
その人が病気だったらかえってつけこむにいいとなるから怖いのである
また弱者に対してそういうことが通りやすいからである
病気でも薬を売るにしても相手の弱みにつけこむということが常にありいらない薬を医者でもだしているからである、それは一種の脅迫までになり現実に自分は借金して追い詰められている人から脅迫されたのである
だから余裕がない人は危険なのである、でもそういう人が世の中には多いのである

人生百年時代はあせることはない、百年で成果は出せる

こういうふうに人生百年時代のメリットはある、暗黒面も大きいのだが何か人間が成果をだすにはとにかく時間がかかるのである、学問でも芸術などでも本当に時間がかかる
学問となると特に積み重ねだからそうなる
それで〔少年老い易く学成り難し」となっているのは今でも同じなのである

お金のために働く人が、「起業家」に向いていないワケ

これなどはそうだと思う、愛ある人が成功するというときそれは成果をすぐに出せることにはならないからである、愛と言っても余裕がなければ愛もありえないのである
すぐに利益を出すということしか頭になくなるからである

2019年04月18日

新しい自転車置き場に自転車があふれる (車の駐車に場所がなくなったためー車に追いやられる自転車)


新しい自転車置き場に自転車があふれる

(車の駐車に場所がなくなったためー車に追いやられる自転車)

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新しくできた自転車置き場に自転車があふれていた、歩道になっているところが自転車であふれている
それで前の方に置いた自転車を取り出すのに苦労していた
なぜこうなったのか?
前は両側に自転車が置かれていたからこうはならなかった

それは駐車のスペースを確保するためだった!

これもなんか現代を象徴している、前も言ったがどこでも車は駐車する場がないことに困っている、そこで必ず家を壊されると街中では駐車場になる
つまり車は場をとる、占有率が高いのである
それで津波の時は車が道路にあふれ渋滞になり被害になった

何か自転車が百台もあるのかごちゃごちゃとつめこまれてあり
その前に4台くらいの駐車のスペースを新しくとった
そこにまだ車をとめたのを見ていない
まだ契約していないのだろう
ただそれはどうしてそう決めたのかわからない?

なぜ市の方で新しくするのはいいとしてかえって不便にしたのだろうか?

駐車のスペースは商工会も関係しているのか?
あそこは商工会で契約して金をとっていると聞いたからである

とにかくあれを見たとき自転車は隅に追いやられる
自転車は急に飛び出してきたりするから目障りになる
それで車の人は嫌っている
車社会だからそうなる

車の問題は場所をとる、空間占有率が高いのである、それで駐車場が問題になる
そして自転車は住みに追いやられる、それが車社会だからそうなった
ただあそこは高校生などが自転車をあれだけ利用しているのだから問題になる
私自身は利用していない
いづれにしろ歩行者とか自転車は軽視される、すべてが車中心に回っている
そういうことが当たり前だとなり田舎だと車を持っていない人は能力が劣っているとも
変な奴だとも見られるのもおかしいのである

田舎だとチャリ乗ってると不審者扱いなんだろ 

田舎では、車乗ってないやつは障害者扱いなんだな。 
いい大人が、自転車乗ってるだけで職質される

自分自身もこういうことを常に経験している
田舎だとかえって自転車が目立つからである
車だと誰が乗っているかもわからない、変な奴などいくらでもいるがそれが見えないからわからないのである
いづれにしろこんなに車社会になっているのは本当は異常なのかもしれない
ただその異常さに気づかない、それでかえって正常な者が自転車に乗る人や歩行者でも排除される社会なのである

2019年04月17日

桜咲く春の日に原町ー小高ー浪江まで浜街道の旅)


桜咲く春の日に原町―小高ー浪江まで浜街道の旅)
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小高神社


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小高の街中のマルシェ


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六号線桜の映えて望む海

東風吹きて浜街道を遠くへと

沖に船浜街道を旅の人

坂越えて春の山々遠くへと

街道や蛙の鳴きて旅の人  

街道にスミレあまたや歩む人

街道に休むやここに花の影

孟宗竹歩む街道に椿かな 

街道に菜の花匂い歩む道

街道を調ぎりとび歩む道

春の日や喫茶店に昼の月


(小高)

花の影つづきし道を東京より来たりし女歩みけるかな

花覆う小高神社の石段を上りてあわれ古(いにしえ)偲ぶ

海よりの風竹にそよぎ桜かな小高神社に我が参りけり

何残る小高神社に散る椿武士(もののふ)の歌ここに残れり

街中に貴船神社や桜映え海に向き建つ社なるかな 

中庭に憩える広場や我歩む柱廊の道春日さすかな 

(大悲山の磨崖仏)  

千年の杉に昼なお暗きかなみ仏の形磐に残れる

千年の杉に桜明るく真昼間に映えてしばし装(よそお)ふ 

はや桜散りそめにけり光中街道遠くさらに行くかな

変わらざる古き碑三つ並びつつ街道来たりて花の影かな  

幾曲がり街道行くや春の日に誘われ行くや次の宿かな

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(浪江)  

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 右手イチョウの大木の下に檜山延命地蔵堂がある。西台、藤橋、酒田の旧三村境にある
「境地蔵」だそうだ。
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浪江神社では、お目当ては浪江宿北口、すなわちさっきの新町交差点にあったという道標だ。本殿左にずらりと並ぶ石塔群の一番奥の「金毘羅大権現」がそうだ。「右ハせんだい 左ハむろはら おゝほり」と書かれているようだ。浪江駅換線碑もある。安政の大火の後、火伏せの行事として浪江宿の西側の火除地に出羽神社を創建して始められた裸詣(はだかまいり)は、今は浪江神社を出発する。出羽神社がここへ移って浪江神社になっているからだ。



三本の枝垂桜の参道や参る人無く社は荒れぬ

三本の枝垂桜の色濃くも神社に映えて我訪ね暮る

帰らざる人無き後の家の跡春になりしも街の淋しき

一本の銀杏の古りて標かな散りし椿や浪江に入りぬ

散る椿踏みて街道我が来たり浪江に入るや昔の宿かな

知らぬ道来たりてあわれ桜にそ月の光りて行く人もなし

春の夜帰れる道に月影のさして明るし家に着きなむ  


原町の六号線から津波の後に海が見えるようになった、松とかにさえぎられてこれまで見えなかった
浜街道というとき海が見えると思うが見える場はまれであった、電車から見えなかった
それが津波で松原などがなくなり見えるようになった、景観が変わったのである
元の景観に戻ったともなる

奥の細道というとき道が細いということは自然がその道に充ちることになる、道が細ければそうなる
六号線だとそこは車専用の通り道なってしまう、だからそういう道を歩いても自然を感じないことがある
ただ六号線から海が見えて沖に船が行くのを見えた、その景観は良かった

小高について土手の桜の道は長い、そこを東京から来た女性が歩いていた
小高でも浪江でもそういう遠くから来る人はいる、小高の桜は小高神社から土手の道へとずっとつづいている
小高神社から実際に海が見えて海が近いから駅の手前まで津波が来ていたのである

マルシェによったがあそこは回廊のようになっいて中にいろいろに利用できる部屋がある
日本庭園がある中庭もある、その中に食堂と喫茶店もあっていい感じだった
あういうものができるとここに住んでもいいなとなるかもしれない、今まではなかったからである
小高はかなり人がもどって住んでいる

そこから大悲山のまがい仏によった、あの千年の杉は見応えがある、桜がそこに咲いていた
でも散り始めてもいた
そこに三つの碑が並んでいた、何の碑なのかいつの時代なのかわからない
街道にはそうして歴史のあるものが残っているし何か歴史を感じさせるから違っている
福岡からなのか詳しく歩いて写真をだして説明しているサイトがあった
あれも感心する、あんなに外から来た人が昔にあった街道まで探り行く人は地元でもいないからである
自分もめんどうだからそんなことしていないからだ
やはりでもあのように街道では歴史を知らないと本当の旅はできないともなる

小高に入る手前で銀杏の木があり地蔵が祭られている、それは檜山延命地蔵堂がある。西台、藤橋、酒田の旧三村境にある
「境地蔵」だというが街道の目印のようにも見えた、でも浪江の小さい範囲での境だったのである
江戸時代では年貢を村ごとにおさめていたから境にうるさかった、隣の村とでもそうであり争ったりしていた

それから浪江に入り「浪江神社」によった、サイトの説明ではもとは出羽神社であり浪江神社になった
何か古い感じであり枝垂桜が三本咲いていた、それが人がわずかに棲んでいる街にあって社は荒れていた
それも何とも言えぬ淋しさを感じた、人が参らない神社も一段と淋しさを感じる
それは山の中の限界集落では余計にそうだった、人が住まなくなって神社も捨てられた、神様をも捨てられたともなるからだ
浪江では建物がかなり壊されている、そこに新しい家が建つならいいが建たないとなるとそこは空地になり荒地となってしまうから一段と淋しくなるのである

そこには確かにサイトの説明にあるように金毘羅の碑があったし安政の碑があった
そして安政時代に浪江では大火があり街自体が変化した
それでその跡をサイトではたどっている
古いものと新しい道ができたからである
大火事になってもその後も人が住み続けたから今日があったが原発事故では壊滅的被害を受けた
そもそもこうした歴史とかが人が住まなくなれば絶えてしまう、その歴史の消失も重要な課題としてある、神社でも何でも歴史的なものでも人が住んでいれば活きるが住まなければ死物となってしまうからだ
それは先祖を捨てることにも通じているのである

いづれにしろ今回は浪江までだが旅した気分になった、今度の自転車は軽快に走るからいい、倍速になるからかなり遠くまで行っても楽なのである
ただ浪江までであり双葉になるともう行けない、自転車は通行止めだからである
でもいつになったら通れるのか?それもわからない。電車は来年開通する
とにかくいきている内にいわき市まで行けるだろう
ただ体力がなくなってくると行けなくなる、残された時間は後何年かかもしれないという不安があるのだ

桜はどこでも咲いている、帰りは街道ではない知らない道を夕暮れから夜に帰ってきた
その知らない道に月が光り桜が映えて美しかった
今の時期は一番いい時期である、でもすぐに桜は散ってしまう
何か不思議なのははじめて街道を通る気分だった
何か人間は忘れやすい、それで初めてまた通るように新鮮だった
やはり旅は歩くのがいいのだが自転車だと自然と一体化できる
道の辺にスミレが一杯咲いていたのも良かった、その時歩く旅人がいたら絵になっていたのである、自然を感じるにはやはり歩くことがいいのである
車は何か自然を感じない、ただぶっ飛ばして過ぎ去るというだけになるから嫌なのであるともかく短い道のりだったが旅であり旅してきたことを思い出したのである

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浪江町で原発の現場で長年働いていた人の発言の検証 〈その指摘は現場の経験で的を得ていた)

        
浪江町で原発の現場で長年働いていた人の発言の検証

〈その指摘は現場の経験で的を得ていた)


所長が統率をとれず、要員が幹部社員も含めて一気に9割もいなくなった福島第一原発では、対応が難しい課題が次々と噴出した。
 まず、爆発は、2号機でなく、無警戒の4号機で起きていたことがわかった。
 定期検査中で、核燃料が原子炉内でなく燃料プールに入っている4号機の爆発は、原発の仕組みを知る世界の人を驚かせた。

 28時間以上にわたり吉田を聴取した政府事故調すなわち政府がは、このような時間帯に命令違反多くの所員の離脱行動があったのを知りながらことを、報告書でまったく言及していないのは不可解だ。
 東電によると、福島第二原発に退いた所員が戻ってくるのはお昼ごろになってからだという。吉田を含む69人が逃げなかったというのは事実だとして、4基同時の多重災害にその69人でどこまできちんと対応できたのだろうか。政府事故調も東電もほとんど情報を出さないため不明だ。


  仮に、この「GEマーク1」という炉が全電源喪失時には燃料棒破損を起こすとします。その際に、水蒸気爆発を防止するためにベントするとして、同じく全電源喪失時には「排気筒からのベント」が不可能であり、建屋上部に排気するしかない、その建屋上部で水素爆発が起きるのを防止するには「ブローアウトパネル」を開放するしかないが、全電源喪失時にはマニュアル対応となり「決死隊」が必要だとします。仮にそうであれば、この炉は「欠陥炉」ということになります。
 
原発事故はなぜ起きたかー原因と背景にある抜本的問題

小石原健介


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●事故が起こり大量の現場で仕事する人が強制的に退避させられた

浪江の原発で長年働いていた人の指摘は的を得ていた、やはり現場を体験しているからだそのことはインタ−ネットで調べてみてもわかった
なかなか詳細は科学の複雑な知識はないから理解できないと思ったが要点としては理解できるものがあった
この事故は一つの要因ではないから、様々な複合的要因で大事故になったのである

28時間以上にわたり吉田を聴取した政府事故調すなわち政府がは、このような時間帯に命令違反多くの所員の離脱行動があったのを知りながらことを、報告書でまったく言及していないのは不可解だ。
 東電によると、福島第二原発に退いた所員が戻ってくるのはお昼ごろになってからだという。吉田を含む69人が逃げなかったというのは事実だとして、4基同時の多重災害にその69人でどこまできちんと対応できたのだろうか。政府事故調も東電もほとんど情報を出さないため不明だ。

浪江の人は電源が喪失したというけど東北電力の送電線から電気はとることができたという、それがどうなっていたかわかりにくい、でもこういうことが後でかるとそうだったのかともなる
つまり東電で吉田所長と69人が免震棟に残ったというけどそれはその時の事情でそうなったので英雄でもなかったという、それより浪江の人が言うように千人も電気工事関係者がいたが強制的に退避させられた、危機的状況で退避させた結果として他でも人員が不足して事故に対処できなくさせたのである
それは確かのようだ   

ベント作業などの決断あるいは意志の疎通を欠く東電撤退問題や情報寸断され大きな混乱をまねいた
東電がその事故の時肝心の事故処理あたる現場の技術者でも担当者を撤退させた、結果的に事故処理あたる人がいなくなったのである電気工事者が千人もいて電源は東北電力の送電線からとれたということはそういうことだったのかとなる
要するに東電はもう事故処理をあきらめたともなる   

4基同時の多重災害にその69人でどこまできちんと対応できたのだろうか。政府事故調も東電もほとんど情報を出さないため不明だ

●現場技術者を無視した東電の上層部

これは浪江町で現場で働いていた人がそれをしきりに言っていた
その人は科学者ではないにしろ現場のことに通じていた
ずっと現場で働いていたからである
意外と上層部は指揮する人が知らないことが多いのである
駅でもその現場にいないとその現場のことがわからなかったのである
原町行と仙台行きのホームがはじめての人にはわからなかったのである
だから表示てくれと言ったらしてくれたのである
その現場にいないとわからないことがあるのだ
そして原発となるとその現場で働く人は二万人いるとかなるとその現場を全部上の人でも命令する人も知らないのである
そして現場の人の意見など上では取り上げない、東電は特にそうであり上の命令は絶対でありもし逆らうと下請けの会社自体が潰されるから何も言えなかったとなる
このことが甚大な事故につながったのである
東電では事故の後でも調査に応じていない、それだけ絶対的権力を国家権力よりもっていたのである

東電の責任は重かった!

確かに政府の責任もあった、かえって政府が介入して混乱して東電では的確な指示ができなかったこともある、でも東電の体質は上の命令が絶対であり現場で実際に仕事している人の意見など聞かなかったのである
それは別に技術者でもない、普通に底辺労働している人でもその現場にいる人の方が知っている時があるのだ
無人駅でも風で遅れる、確かにインタ−ネットで連絡はできる
ところが新幹線に乗って帰るのに急いでいる人が日立木まで電車が来ていると間違って聞いたのである、それで私が聞いてみたら山下駅まで来ているとわかったのである
つまりその人はあわてているから間違ったのである
確かにインタ−ネットで連絡はできる、でもそれだけではわからない
だから駅員がいる原町駅に行った方がいいとなり車で連れてきた人は原町駅に行ったのである

このように緊急時はあわてるから的確な指示ができないのである
そしてそういう時は現場に常に仕事している人がわかっているが上の人はわからないのである、吉田所長自体が復水機のこともわからなかったからである
吉田所長自体が的確な指示をできなかったのである
免震棟に69人残ったというけど千人もいた電気工事関係者が退避させられて何もできなくなっていたのである
結果的にその時運よく最悪のメルトダウンはまねがれて10マイクロをあびても30マイクロをあびても体には異常がでなかったのである

ただその時の判断がむずかしかったからすべてを責めることはできない
でも現場で働く人の意見を事故前から全く聞かないのが東電だったしその後も調査しても応じていないのである
それはその現場で事務で書類を担当していた人が東電の言いなりに書類を書いていたと言っているからだ、だから調査しても誰もわからないようになっている
その書類から証明できないから証拠となる者がないからだと言っていたからだ
「安全神話」が作られたのはそうした現場の技術者がかかわりその意見を取り入れていたらこうはならなかった
現実に東電を訴える裁判で東電の科学者が10メートル以上の津波が来ると予想していたでもそのことを東電の幹部は聞き入れなかったのである
つまりそうした様々な人の現場で働く人の意見すら東電では聞かない
絶対的権力をもっていて聞かない体質だったのである
要するに外部でも内部の現場で働く人の意見すら聞かない、そういう経営体質が甚大な事故につながったとなる

●どんなに優秀でも専門家でも一部しか知らない

原発事故は様々な要因で起きた、富岡の第二原発は電源を別系統で確保して辛うじて事故にならなかったとかアメリカのGEのマーク1の原子炉は古いものでありガスをだすブローアウトができなかったとか指摘されている、ベントしてガスを屋根から偶然に出た原発はそれができたからである
だからその原因は複合的であり一つではない、でも東電のあまりにも上の幹部の命令の絶対的なこと権力の集中で下の現場の意見を取り入れられなかったことも致命的だったのである、だから何でもそういう巨大なものは権力集中すると怖いのである
それはナチス的体質とかにもなる、一局に権力が集中して絶対化することになるからだ
そしてそうした権力は誰もそれをとめることはできないからだ
政府からかかわっていても原子力となると専門家が牛耳りわからなくなる
それで政府の保安院でも何の役にたたなかったのである
そこにも現代の複雑化した世界の問題があった、専門家が絶対化して素人でも別な分野の人の意見でも聞かないからである、お前らに原子力のことがわかるかとなり何も聞き入れないからである
でも原発の問題は理系だけではない文系的にもかかわれるものであり人間の総合的な問題として起きたのである

ではこうして事故がありその後の対策をしているのかとなるとそれもまた疑問なのである管理は厳しくしているにしてもこの事故によって根本的なものが変えたかとなるとまた疑問なのである、そもそもまた事故が起きる時は別な要因で起こるかもしれない
だから人間の力では対処できないともなる
神のような万能な人が入れなけれできないともなっている、それが原発だったのである
人間の社会だった今やそれぞれがいくら優秀でも専門家でもほんの一部しか知らないのである
だから東電の幹部は知らないということで下々の現場の仕事をしている人の意見を取り入れる必要もあったが絶対にそれはしなかったと浪江の人が言っているがそのことが甚大な事故につながったことは言える
それで現場で働いた人の言うことには説得力があるとなる
それは例えば現場というとき良く私が地理のことに興味をもって語るがその地理でも近くでもそこの地元に住んでいる人が別に学者でなくても一番そこで日ごろ生活していて知っているのである、地理だけは地図をみても学者でも実地に踏んでみないとわからないからである、その場を踏んでも地理は簡単にわからないからである
そういうことが人間社会には自然でも常にある、つまり人間の知の限界がある
一人の知っていることまた一会社が知っていることでもそれは一部にすぎないからであるそこでどうしても必ず人間社会には事故でも起きる失敗でも起きる原因がある
つまり事故はさけられないから原発のような危険なものは扱わない方が無難だとなるのだ









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2019年04月16日

浪江に住んでいた原発で働いていた人の話 (何の困った様子もないあまりにも楽天的だった)


浪江に住んでいた原発で働いていた人の話

(何の困った様子もないあまりにも楽天的だった) 

●駅前の喫茶店で休み駅で請戸に住んだ人と話す

今日は旧街道を通り小高のマルシェで休み浪江に向かった
小高のマルシェは立派である、食堂と軽食喫茶があり中庭があり子供の遊びとか催し物をする建物がいくつもある、あれは休むのにはいい場所である
何か飯館村でもそうだが建物は立派になっている

そこから浪江に向かった、駅前の新しくできた喫茶店で休んだ
あそこには何もなかったから休む場所ができていい、でも駅前にはあとは何もない
殺風景のままである                              
駅で会ったのは請戸に住んでいていわき市に家を建てた人だった
その人はなまりがない、だからもともと浪江に住んでいた人なのかと見た
まるで東京の人のように見えたからだ

いわき市では土地が5倍くらいに高くなったとか言っていた
二万人とかが移り住んだという時そうなる、ここでも二三倍になった所がある
原発のことで東電では海の方に放射性物質を流そうとしていた
でもその時民主党政権であり官首相が消防隊に水をかけるとかなんとか邪魔してできなかったとか言っていた、何かあのとき官首相が原発のことをわかるようなことをいいそれがかえって東電でも適格な支持を出せなくなったとかあった
確かにベントを早くして放射性物質を海の方に流せば良かった
何かその辺で適格な支持ができずに被害を拡大させた
その人はバスでいわき市に帰った
その人は何か浪江町に愛着があるとか感じない、苦しいとか悩んでいる風にも見えなかった   

2号機からは1〜3号機の中で最も多くの放射性物質が放出されたと推定しています。これは、1, 3号機では、圧力抑制プールの水によってある程度放射性物質を取り除いてから格納容器の外へ気体を放出する「ベント」という操作が成功したことに対し、2号機ではベントのラインを開放することができず、ベントに失敗、格納容器から直接放射性物質を含む気体が漏洩したためと推定しています。

このことを言っていたのだろう

それから裏の路地を回ったら一人歩いている人がいた
その人に話しかけたらその人はいろいろととにかくしゃべる人だった
前にここで書いたが浪江町長が津島に避難した時は爆発した原発の前のことでその時は放射性物質は津島の方に流れていなかった
爆発したのは津島の方に避難してからだった
だから町長の指示は間違っていないと言っていた

その人は原発で長く働いていた、浪江では人口二万は多いと言ったらみんなこの辺は原発の仕事だよ、東電の人も多いしその原発関係者が飲み食いするから店でもはやっていたんだよとか、この辺では4000人も人口があればいい方だよ、なんにもないんだから
そういう人を知っている、原発の掃除など下請けをしている人だった
何らか浪江では原発にかかわっていた、町自体が原発の町になっていた
他に産業がないからである

●原発の現場で働いていた人は知っていた

それからその人は電源がなくなったとき実は電源は東北電力の送電線がありそこから電気をとることができた、電気で仕事する関係者千人くらいいたとかとも言っていた
東電ではその電気関係者を帰したという、そのことをしきり言っていた
電気とれたが東電ではそれをさはなかったという
そして東電の会社というのは上の命令が絶対だったという、それに従わないものは下請けの会社から排除されて潰されたという
その権限が絶大だったのである、だから決して東電には逆らわない、何か現場では不具合があることに気づいたがそれも絶対に上の人には言わない、そうすると東電の仕事をもらえず会社がつぶされるからだとういう

そしてその人は事務のような書類も書いて提出していた、それも東電の都合のいいように書き換えていたという、つまりその提出書類は東電のいいように書き換えられていたのである、それをその人は知っていても何も言えないと言っていた
そうしてそれが証拠となるからそれを指摘して追求できる人は誰もいなかったという

プルサーマルのこともしきりに言っていた、プルサーマルは危険なものでありあれのために被害が大きくなった、プルトニウムと関係していてそれが危険だったのである
それで前の知事の佐藤 栄佐久知事はそのプルサーマルに反対していてもめていたのである
その人は現場で働いているから知識がないにしろ何か外部のものより知っているのである
津波の前に地震で配管が壊れたというのもそうである、津波のせいにしているが地震で配管が壊れてそこから放射性物質がもれることがあった
だから原発は複雑であり大きな地震でも壊れるのである、まず配管は老朽化してくるからである  

プルトニウムはウランに比べ、中性子をよく吸収し、核分裂を起こしやすいなどの性質があります。つまり、ウラン燃料よりも制御が難しく、また、ひとたび事故が起これば、よりたくさんのプルトニウムが環境中に漏れ出す可能性があります。使用済みMOX燃料棒の発熱時間も、超ウランとよばれる寿命の長い放射性物質を含むため、通常の使用済み燃料棒より長くなります。つまり、いったん事故が起こればウラン燃料より暴走しやすい燃料であるといえます

第3号機は実はプルサーマル原子炉である。この原子炉では、ウランとプルトニウムの混合物をMOX燃料と称して、発電に利用しようとして国と東電が近年、強力に推し進めてきたプロジェクトだ。不思議なことに、NHKなどメディアでは、この事実を正しく報道していない。MOX燃料を使用済み核燃料とだけ報道しているのだ。

 たしかに、このプルトニウム239は、ウラン238の原子力発電の過程で生成される人工的な放射性物質なのだが、「京都大学原子炉実験所 小出裕章によれば、プルトニウムは、『人類が初めて作り出した放射性核種』」であり、『かつて人類が遭遇した物質のうちでも最高の毒性』を持つとされる。


この現場で働いていた人はこのことを言っていたのである
とにかくその現場で長年働いていたその人の話には説得力があった
明らかに東電の指示が間違っていて的確な指示が成されなかったのである
だから現場で働いている人はこうすれば良かったのには今は言っている
しかし東電の命令は絶対で逆らえないと言っていた
そして社長とか会長でも原発でもわからないと言っていた、確かに吉田所長すら復水器のことがわからなかったのだから適格な支持は出せなかったのである

みんなその現場でもその担当している場所については詳しかった、それは吉田所長とか東電の上の人より詳しかったがみんな部分部分の担当であり全体はわからなかった
現場というとき私自身が無人駅で案内していてなぜ原町駅と仙台行きのホームのことが外から来た人がわからないのか不思議だった
そのことで駅長に言ったらその表示を出すようになったのである
それは現場でそれを良く外から来た人に聞かれたからそのことに気づいたのである
つまり現場の人が上の人より気づくことがある

だから原発でもそうだったのである、ある部分については現場を担当して人が詳しかったのである、それでなぜ電気が別に東北電力の送電線が近くにありとれたというのに千人とか電気工事関係者が待機していたのにしなかったのか?
これもわからないことである、そして原発には二万なのか三万なのか凄い数の人が働いていたという、これも凄いと思った、それだけの人手が必要なのが原発なのである
5分しか放射線の高い所に入れないとか聞いたからそうなると相当な数が必要になる 

●放射線は5マイクロでも8マイクロでも被害はない、私は現場で10マイクロで働いていたが被害がない ?

それからその人は放射線量のことについて延々と話しした
私は免震棟の前にいた、10マイクロとかで何にも影響はなかった
みんな30マイクロシーベルトの所で働いていたが死んだ人はいなかったよとか言う
だからその人は8マイクロシーベルトでも体に影響がない

ええ、この辺では0・2で騒いでいるのにそんなことがあるのか?
その人はしきりになんの被害もないという

5マイクロでも8マイクロでも被害はない

私は10マイクロの原発で働いていたけど何の被害もないとしきりに言う
他の人は30マイクロの所で働いていたという、でも死んだ人は一人もいないという
その人はそういう現場にいて被害がないからそうしきりに言っていたのである

それにしてもこの辺では0・2でどうだこうだと騒いでいた、今も基準ではそうである
だから飯館村などは0・7とかあると高いな見ていたのである
これもこの人の言い分からすると何なのだろうとなる
この人の言い分は何か基準からはずれすぎているのである
こんなふうに見ている人は普通はいないと思った
ただ実際にサルでもイノシシでも被害がないとするとき人間も被害がない
そのことをしきりに言うのである

放射線の被害は科学者でも誰も人災のことはわからなかった、ただ推測で言っていたのであり何か実証的なものとして言っていたのではない、どう影響するかわからないものだった、それで避難させたが今になるとそんなに被害がないとなったのである

ともかくあの人の言っていることは極端にも思った、でも現実に被害がないということは言える、被害がでているという人もいるにしろ例えば武田邦彦氏の年間一ミリシーベルというのは厳しすぎる、現実に原発の現場で働いていた人が5マイクロでも10マイクロでも被害が出ていない、死んでもいないというからだ
それをあてはめることができないにしてもその基準にあてはめて避難させた結果として町自体を再建できなくなさせたのである
つまり放射線の被害がどうでるかは科学者すらわからなかった、でも強行して避難させた、そのことがとりかえしのつかないことにした、住民の意志を重んじて決めるべきだともしたが政府とかの意向で強行されて避難させられたのである
それはそもそも放射線の被害がどういうものになるかわからなかったからである
別に広島で被爆した人が80でも90でも生きているのである

ただこの人がこう言ったからといってそれを全部鵜呑みにはできない、5マイクロとかでも8マイクロでも大丈夫だと言ったらどうなるのか?除染に費やした何兆円は何だったとなる
その人みんなに配れば良かったという、私もそのことは言ってきた
南相馬市で対立したがそんな除染に何兆円も使うなら金をある程度平等に配れば争うこともなかったからである
飯館村でも裏の森を除染するのに一億円かかったという、それならその金をもらった方が良かったとなる
そう外からだった思うのである、
ただこの人の言うことは本当に現金なのである、まさに金をもらえばそれでいいとしているのだ

そのことを何度問いただしてもまず8マイクロでも5マイクロでも被害はないよ
私は10マイクロで働いていても何でもないよ、誰も死んでもいない
サルでもイノシシでも何の被害もないよ、元気だよ
第一年間一ミリシーベルとかいう基準で避難させる必要もなかったとか何度も言う
そのことは自分も疑問に思っていた                                

なぜ30キロ内で海側では0・5以下なのに避難させたのか?  

それは政府でも科学者でもどう被害がでるかわからないからそうしたとなる 
それはただ混乱をまねきゴーストタウンにして取り返しのつかないことになったからだ

●補償金をもらって老後が保証されてかえって良かった?

そして除染なんかする必要がなかった、その金は一億でも配れば良かったとか言っていた補償金の話になるとまたこれもその人はまさに現金である
浪江では大堀の方では7百万多くもらっているとか言ってた
それからあんな人も住んでいない浪江町に住んでいて困った様子もない
かえって補償金をもらって老後が保証されてよかったとか言っていた
みんな国民年金くらいでは暮らせないからとか言っていた

あんな店もなにもない浪江町に住んで困った様子もないのも不思議だった
病気になったら困るでしょうと言うと別に今までだって原町の病院にみんな行っていたんだから車で行けば困らないよと言っていた
店だってスーパーができるよ、あんなところにいて何か困ったとならない
何か住みたくないとも言わない、その人は家族三人で住んでいるという
あんなところに住んでいて嫌にならないのかと思うがそうはなっていない
なんとも拍子はずれの言い分に不思議になった
さぞかし不満とかあると見たがそうではない
老後など国民年金もらったてたりない、だからその分くらい補償金もらったんだからかえって良かったんだよとしきりに言う

これはなんとも意外だった、確かに電気がないと水道がないとかにはなっていない
でも店もないあんな人もいない街に住めるのかと思う
淋しくならないのか?そんな素振りは何もないのである
これは飯館村の人と話しした時もそうだった
その人は前の土地が住宅地になりその土地を売ったり補償金で潤ったから蔵を直したとか言ってなにか困ったとか苦しむ様子もなっかのである

それで仮設に入った小高の人を外から来た人たちがホランティアなどで同情して援助したその時実は鹿島の人は小高の人は補償金をもらっていいとしきりに言い仲悪くなったのである、対立するようになったのである
実際確かに仮説は狭くて苦しいこともあった、でもなんか長屋のようになり楽しんでいた女性もいたのである、いつも会えるからいいし絶えずボランティアが来て援助していたからである
だからそのこともおかしいなとも見ていたのである
補償金はもらいボランティアは毎日のように来ているから何なのだろうとなる
それは津波の被害者と比べる時相当な差があったのである
そのことは前にも指摘した、津波の被害者は家族も死んだ人が多い、原発避難者は家族が死んだりした人はいない、確かに関連死とかはあったからそうでもないと言う人もいる
とにかく原発避難民は厚遇されたのである
あらゆる補償を受けたのである、介護でも優先的に厚遇されたのである

このことを考慮すると宮城県など原発の補償がない所は津波の被害者でも悲惨だったみる今の世の中はなにやかにや言っても割りきれば金がないとどうにもならない社会である
それでしっょちゅう電気代がガス代が水道代が払えないと泣きつく人は小高の人が補償金をもらったことを羨ましがっていたのであるそれも当然だったとなる

その人の割り切り方は何か徹底している
浪江町などは全員町に住ませないで別な所に住まわせた方が金がかからなかったとかも言う、そして放射能の被害などないとまで言っていた
だから除染も必要がなかった、8年くらいすぎたら相当に放射線量は下がっていたのである、そういうことも意外であり科学者でもわからなかったからみんな避難させたりして失敗したのだという、それは自分自身も常にそう思っていたのである
なんでこんなに町を荒廃させるような避難をさせたのかわからなかったのである

でも水も地下水からとっていると電気もとまるわけではないとか言うけどそんな人間のいないような所で電気とか水道でも維持するのは金がかかりすぎる、それで限界集落なとでもインフラを維持するのに普通の80倍かかるとかなり東京の人が批判する
それは地方交付税とかを東京の人の税金で払うからそうなる
もしそうでなければ自給自足のような生活をして入れは都会の人も何も言わないのである
いづれにしろ今回の話は意外だった、そんなに金だけ割り切り何の困ることもないかえって良かったというのも理解できなかった
そういう面があったとは見ていたがあれほどまでに金で割り切った人がいるとは思わなかった
店もまともにない所で住んでいて嫌になると思ったからである

ともかくこれはもっと深く検討すべきものである
つまり何が原因で事故になったのかを良く調べたり知らないとまた同じ事故が起きるからである

posted by 天華 at 22:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

貧困化する日本の実態 (外国人観光客より貧乏な日本人)


貧困化する日本の実態

(外国人観光客より貧乏な日本人)

【貧乏・貧困・格差社会の日本】半額弁当や半額惣菜に群がる人たち…


閉店まぎわの半額弁当を半額惣菜に群がる、外国人観光客がデパチカで高い弁当を買っている、半額弁当の取り合い争奪戦になっているという
それは戦後の配給とにているという、アフリカなどで援助物資を奪い合っているという

貧乏のこと今いろいろ言うけどこれは何か生々しい、そんなに日本人が貧乏になっているのか?それがショックである
田舎のスーパーではそういう光景を見かけない、とすると都会の方が数が多いから貧乏人も多いのかとなる
これはもうすでに日本は逆に東南アジアとか中国人の貧乏人のレベルとなったのか?
そういう光景である、外国人観光客を優遇して金を使わせる
それはかつて日本人がそうだった、日本人がパリとかでもブランド品を買い漁っていたのである、その時日本の円高で安く買うことができて海外旅行ブームになったのである
その逆の現象が起きている

これも国レベルのカルマ現象なのかと思う
後進国で貧乏な国で日本人が威張っていたからである
今度は逆に外国人様様になり観光客を優先して地元の人はないがしろにされる
テレビで外国人と旅館のおばちゃんが抱きあっているというのもそうである
日本人が観光客として来ないからそうなっている
貧乏な国は前は外国でもそうだったからでありその時日本人は威張っていたからである

ただそれだってたかだか20年前くらいは日本人の海外旅行ブームだった
でも中国でもそうだが10年過ぎると世の中は急速に変わるということに驚く
あるyoutubeでは外国人労働者を正規の労働者として受け入れることに積極的なので日本人の底辺労働者が追い詰められているともい、それはなぜかというと外国人労働者は若いからである、その若さが会社でも活気を与えるからだという
日本人は中高年が多すぎるからそうなっているという、それもわかる
やはり若いということは価値があり社会にとって活力を与えるのである

なぜ高度成長時代が生れたのか?
戦後の焼け野原から団塊の世代のベビーブームになった、その時子供が膨大に増えたのである、だから良くそんなとき食べ物がないのに子供を育てることができたと感心する
その団塊の世代が労働力となり高度成長時代が生まれたのである
中卒の金の卵とかが東京に行き労働力となったのである
何かその時はふりかえると日本が活力があった時代だったとなる

その団塊の世代ももう70以上になり高齢化して今度は逆に負担になり重荷となり経済でも成長はない、少子高齢化で日本経済は縮小してゆく
そういう貧乏な時代になってきた
それは私の一身上でも経験している、事業に失敗した人が追い詰められた借金を要求してくる、それも自分も病気であり介護でもそんなことをかまっていられない
また手伝いに来た人に大金を盗まれるとか困窮した人が金を貸してくれとくる
その人は必ずガス水道電気がとめられてどうにもならないと泣きついてくるのである
ただ金額が少ないから工面できる

事業に失敗した人は俺は億の財産があると言っていたからそんな人とどうして事業家でもない自分が都合できるのか?借りる金が千万とかまで普通になる
そんな人と付き合えるのかとなる
その人は成功しているとかレベルの高い生活をしてきた、それを落とすことができないのである、それはこれまで高度成長とかバブルを経験した人にも言える
今までの生活のレベル落とせないのである
でもそれを借金で継続していたらどうなるのか?他者にも多大な迷惑をかけることになる
だから貧困化する時代にはそれなりに生き方を変えなければならなくなる
それは日本全体でそうなるからだ、銀行だって金を貸す会社がないとかなり投資信託とかそうした株と投資信託には素人でしかないのに手数料がとれるのですすめる
それも結局日本全体の経済が落ち込んでいて銀行でもどこでも利子をつけられないからである、だから逆に客から貯金している人から利子を与える代わりに投資信託とかで手数料商売にしているのである
日本経済全体の落ち込み衰退の結果なのである

だからこれから生活を根本的に変えねばならない時代に突入したのではないか?
消費が進められても消費税が10パーセントになったら貧困化しているのに消費できるわけがないからだ
すると庶民の防衛策としては消費しない、節約する他ないとなるのである
それは資本主義社会では経済成長をとめるものだとしてもそうならざるをえない
投資など普通の人はもうからない仕組みになっているからだ
するとその対抗策は節約しかないとなる

貧乏という時、本当の貧乏を戦後生まれの人は知らない、また江戸時代の貧乏がどれほど過酷だったかもしらない、もちろん飢えることがどういうことかも知らない
だからそういう時代と比べればまだましだとも考えることができる
それは時代的に合わないとしてもやはりここでも歴史を参考にすることはできる

(徒(かち)町百首俗解に描かれた徒町弥田之進の短歌)
                                                            
徒の町土塀南瓜の霜がれて赤椀する時は来にけり

赤椀をふすともしらで家中人こたつをやたらほりばたの庵(いお)
                            
これもどん底の貧乏である、赤椀をふせるとは炭が買えないから赤椀をふせて炭火の感じをだしていた、炭も変えなかったのか、会津のような寒い場所で炭も買えなかった
そしたらそんな寒い所でどうして過ごせるのかと今なら思う
炭は別に子供の時団塊の世代では使っていたのである
炭だと炬燵でもあたためられるからましだとなる

今になるとこれは貧乏な人がガスとか電気水道をとめられることなのである
なぜならそうなるともう生活できないからである
たいがいそこまで追い詰められてくる
いづれにしろ貧乏な時代をどう生き抜くのか?それが日本人の課題になってきている
でもそれがむずかしいのは高度成長とかバブルとか贅沢を経験しているから生活レベルを落とすことがむずかしいからである
だからどうしても借金することになりそこで追い詰められる
でもそんなことをしていたら首を自ら絞めることになる
では貧乏にどう対処するばいいのか?庶民には節約しかない、ぎりぎりに節約する他なくなってくる、それもむずかしいにしても追い詰められればどうにもならなくなる
ともかく日本が豊かだっか時代の感覚ではもう生活できないことを自覚するべきである

そしてこうして日本人が貧困化する時、それは必ずまだ余裕がある金持ちでも影響する
それが自分自身が体験した、治安は悪くなるしそうした追い詰められた人が多くなれば決して金持ちでも安閑としてはいられない、社会自体が余裕のない不安な暴動寸前のような状態になり金持ちが現実に襲われて殺されたりもする
そういうことが革命にもつながっていたからである
だから日本の貧困化でもそれは一部だけの問題ではない、日本が全般で深刻なものとなってゆくから怖いのである

ただ奇妙なのは老人は節約しやすい、何か贅沢しなければ食べていればいいと考えればたいして金はかからない
でも海外旅行だとかまた何か金をかかることをするとそうはならない
でも何か老人はあまり金を使わない、何か新しい機械を買っても道具を買っても使いこなせないとかある
その点では有利である、使うとしたら医療費用とか介護費用なのである
その他は使わない、だから節約というとき老人はできるかもしれないが若い人はいろいろ自分に投資するから苦しいとなるし
また日本自体の活力が衰えるともなる


posted by 天華 at 09:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2019年04月15日

強風で大幅遅れ (新幹線で帰る人があせって車で原町駅に行く)


強風で大幅遅れ

(新幹線で帰る人があせって車で原町駅に行く)

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今日は強風で遅れた、一時間遅れで電車が二つは出た
その後さらに遅れた、とにかく風が強いから遅れる

そこに来たのが新幹線で帰るという人だった
その人は相当に困っていた、それでインターホンで連絡した
浜吉田で何か飛んできて障害になり遅れたとアナウンスがあった

そしてその人は電車は日立木を出たと私に言ったが電子掲示板には電車が走るマークがでていないのである
それは新地に来ればでるのである、だからもう一回私がインターホンで聞いた
すると山下に来ているという、ただ風で規定があり止まると言っていた

それで山下まで来れば鹿島駅まで来て原町駅で折り返しになるから行けると言った
それでなにやかにやとあった、四人くらいで来ていたのである
ただ新幹線に乗るのは一人だったかもしれない
その人は困った様子だったからである
それで他の人が車で原町駅に行った方がいいとなり原町駅にその人を車に乗せて行った
原町駅だと直接駅員にも聞けると言ったり売店があると教えたからだ

そこにいた高校生の見守り役は何も教えない
なぜなら私は駅の業務をしない、責任を問われるからしないとそう言ったからである
これもおかしいと思う、そこで困っていたら別に教えても問題はない
ただ昨日はホテルを間違って自分が教えた
そういうことがあり責任が問われることがある
でもそもそもJRで教えない、みんな自動化しているからそれで間に合わせろとなっている、それも無責任だと思う
みんな自動化しているから教えなくてもいいとなっているのも変なのである

その時しきりに原町駅だと駅員に直接聞けるからいいとなり原町駅に行ったからである
その人は新幹線で遠くに帰るからあせっていたからだ
風の時は必ずこういうことがあり混乱する
二人は地元の人だったからあわてない、でも遠くから来る人はあわてる
前はタクシーで原町駅まで行った
それからバスが直通のが仙台に出ている、風でも出ている教えた
それは原町駅に行けばわかると教えた

この風の時はやはり遠くから来た人は困る、帰れなくなるということもある
そして鹿島駅にはバスの停留所の案内の紙は貼ってあるが時間がでていない
午後に一回二時ころのが出ている、その時間を出していない
時間を書いておけと言っても書いておかない
前は私がその時刻を書いて張っていたがルールで置かないと取り除かれた
これもおかしなことなのである
ではバスの時間を書いておけばいいのだが書いていないのである

ただ私一人だけではなく何人かJRに訴えればJRではそれに答えるのである
仙台行きと原町行が外から来た人がわからないと言ったら表示してくれたからである
ただ鉄道を利用する人が少ないから関心がないのである

ともかくこれだけ風が強いとルールで泊まるからまた電子掲示板でも時間がさらに遅れるそれで電子掲示板も変わるからそれだけではなくインターホンで聞いてみる必要があるのだ、ただ日立木駅まで来ていたというのは間違っていた
聞き違えたのである、それで私が聞いたら山下駅まで来ているが風で止まることがあり時間的にまだ遅れかもしれないと言ったのである

それで四人ほどで来た人は車を運転して原町駅に行ったのである

タグ:強風で遅れ

小田急で学生が駅員のアルバイト (学生も仕送りがたりず苦しむ時代)


小田急で学生が駅員のアルバイト

(学生も仕送りがたりず苦しむ時代)

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 駅員でもバイトにしているのは金がかかるからである
小田急というとき大学で通って利用していた
だからなじみがある

ここで人身事故があると大学に行けなくなるというのはそこで時間がとられるからなのかよく人身事故ではないが信号機の故障で遅れることは経験している
人身事故もあったから経験している

そもそも何か駅で無人駅でも事故があったら誰が責任がとるのか?

今高校生の見守り役がいるけど駅の業務はしないとしている
朝はいても昼間はいない、自動化した無人駅とかでは誰が責任をとるのか?
これもわからない、日立木駅で待合室の一部が壊された
普通はあそこまでやることはない、鹿島駅だとトイレに落書きされたが日立木駅の被害は駅を壊されたのだからひどい
それはあそこが乗り降りが二三人なのか本当に少ないからである
そして駅前には店もなにもなく見ている人もいないからである
もちろん夜にしたとしてもあそこまでやるのは気がひけるからだ

いづれにしろ人件費を減らすのと今学生の仕送りが8万とかなり苦しい、親の給料があがらないのと学費とか家賃とか生活費は上がっているからだ
学費でも相当に上がっている、私立でも上がっている
安いアパートもなくなっている、だから学生はみんなバイトをしている
そしてバイト中心の生活になり勉強もできないとなる
文系だともともと勉強していない人が多かったからそれも社会勉強なのかともなる
それなら文系はたいして役にたたないから大学に行っても無駄だとなる

40代でもリストラが話題になっているのは人件費が負担になるからである
駅の無人化でもそうである、鹿島駅とかで高校生の見守りは南相馬市で金を出している
相馬市の人も来ていたが南相馬市で金を払っているのである
だから駅の業務をしないのだからJRでは金を出さなくてすんでいる
それがそうした取り決めをした理由である
駅の業務を委託すればJRで金を払う必要が出てくるからだ

駅の無人化と社会で自動化がすすむのは人件費節約のためである
40代のリストラでもそうである
駅にかかわりそこが社会とかかわることだとも思った
案内で間違ってホテルを教えたことでもそうだった
案内でも仕事ととしていれば間違って教えたら大きな問題となる
なぜならもし案内所で間違って教えたら客が困るからである
それで学生が駅員としてアルバイトしてもそこで社会を学ぶことはある
むしろ学校では文系の場合遊んでいるだけだとなるからだ
自分の場合社会経験が足りないから仕事しなかったから結局そこで問題が起きたのである


2019年04月14日

abstract painting (spring forest)


abstract painting (spring forest)

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forest in the morning 

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north forest

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go into the mountains



森が一番定型的に作り安い、ただこれも数が多くなると重なることがある
でもなにかみんな同じではない、違っている
それがAIの創作だとなる、一つのソフトウェアの機能から大量に作り出す
人間にはこんなに大量のものを作ることができないからだ


Forests are the most routinely made, but sometimes they overlap as the number increases
But not everyone is the same, they are different
It will be the creation of AI, create a lot from the functions of one software
It is because human beings can not make so many things
タグ:spring forest

間違ってホテルを教えた (北海道から来てレストパルに泊まった人)


間違ってホテルを教えた

(北海道から来てレストパルに泊まった人)

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今日駅にいたのは消防署の人だった、そこでおりてきた乗客がキップを消防の制服を着ていたので渡そうとした              
その制服が確かに駅員に見えたのである
わからない人はやはり制服で判断する
キップの入れる場所は入り口にあるがそれに気づかない人が多い

そして今日は大失敗だった

レストパルに泊まるという人を案内したのがてっきり小池にあるコモドインのホテルだと思った、ここからホテルだとそれしかないからである
それでそのことを案内して失敗した

レストパルは六号線の金沢にある、そこは大きな食堂があるということでは同じだった
そこは結構立派なホテルだった
いつも通っている所で知っていたが名前を注意して見ていなかったのである
人間はつくづく灯台下暗しである
名前に注意していないのはそこを見ていてもホテルとして利用しないからである
あそこでは食事したこともあるが名前に注意していなかった
それが小池の方のホテルだと思ったのである

つまり地元の人でもこうして知らないことがあり道を教える場合でも勘違いして教えることが良くる、だからスマホとかの方が間違わないことがある
それは私自身が旅して良く経験している
地元の人でも道を丁寧に教える人はいない、適当にあっちだこっちだとか言うだけなのが多いからである
そもそも地理は事前に知っている人でないとわからない、それで相馬藩内でも道とか聞くときもともとある程度知っているからわかるのである

その人は北海道の登別からきた、室蘭だとも言っていた、登別と室蘭は一緒だとも言っていた、そこは行ったことがあるが室蘭と登別の地理はわからなくなっていた
伊達紋別駅ののことをしきりに言っていた

それは伊達市のことであり伊達市は今の亘理から出た伊達藩の侍だと教えた
何か苫小牧から近かかった、それも頭の中でわからなくなっていた
これも地図をみればわかるが頭の中だけではわからなくなる
だからこそスマホで地図を見るのは人の案内より確かなのでいつでも見ているのである
ただそれだけでは案内はできない、人に聞く必要もあるがこれも今回のように地元の人でもあいまいにいい加減に教える人が多いのである

とにかく今回の案内は失敗だった、最近コモドイの食堂にはずっと言っていない
それで鹿島に来てホテルに行くとなるとコモドインだとばかり思っていたのである
レストパルは案内したことがないからである
つまり案内でも常に専門的に案内していればそこで調べたりして正確に案内できる
普通の人は案内人ではないのだから適当になってしまうのである
これは案内する人も気をつけねばならない
タクシーがきて別な方向に行ったので間違ったことに気づいたのである
大きな食堂があるということは同じだったがそれ以外の案内は間違っていた
駅の案内ではホテルのことは良く聞かれるから知っている必要がある
それも意外とわからないことがあるのだ