2019年05月31日

人間は「灯台下暗し」が必ずある (これも人間の弱点、盲点である―原町の新しいいか焼店を見逃していた)


人間は「灯台下暗し」が必ずある

(これも人間の弱点、盲点である―原町の新しいいか焼店を見逃していた)

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ここでコーヒーが50円で飲めるのは驚いた、別に普通のコーヒーなのである
ただ座る場所は少ない、持ち帰りする人が多いのかもしれない



この店は去年からはじまっていた、必ずあそこは通っていた
でも向かい側を通っていたからわからなかった
たいがい新しい店は見ているし行っている
どうしてしも外食しているから注意する
でもなぜ去年に開店していたのに知らなかったというか見てなかったのが不思議だとなるそれは前にもモスバーガーを10年以上とかそこにあるのは知っていた
でもそこで休んで食べられると思っていなかった
車がよってそこで弁当のように車で食べる場所だと思っていた
それは車がないからわからないことだった
車がない人は今の社会では社会のことがわからなくなることが結構あるのだ
それはインタ−ネットがわからない人が何か情報的にわからなくなるのと同じである
インタ−ネットをしてないとテレビとか新聞とかが情報源になりそれで洗脳されてしまうようになる

なぜならテレビは企業の宣伝費で成り立っているなんでも企業側のいいようにしか報道しないからである
マスコミの報道は中立ではないのである
それがはっきりしたのは原発事故でわかった
莫大な宣伝費がテレビとかマスコミに入っていたのである
それは東電だけではない電事連という電気関係の組合からも入っていた
そこは組合だから野党関係だともなる
企業といっても東電であれ電気関係でもそこに働いている人がいるのだからその人たちの収入は電気の仕事から得ているのだから原発でも反対にはならないのである

とにかく近くでもわからないことがある、何か近くでも盲点になってわからない所があるたいがいレストランとか食堂ならあの辺は行きやすいから一回くらいなら試しに入っていたからである、でも500円の海鮮丼の店はやめたという
500円だと安い、でもその店はさらに安かったのである
それも驚きだが何か安くないと売れないのかもしれない
みんな貧乏になっているからである
あそこは500円以下であり350だった、それなりのものといえばそうである
それでも安すぎるとなる

インフレになるとか言うけどこんなに安い店が出るのもデフレにもなっている
逆に安い店が必要になっているからだともなる
この辺では地方では都会のように金持ち相手の商売は成り立たない、第一いないからである、すると安くしないと売れないとなる
ユニクロで安売りしていたら行列していたかある
また新しく始まった鳥のから揚げ屋も並んでいたから売れている
とにかく原町は都会だからいろいろな店ができてもまたやめているとかなる
でも新しい店ができるのはそれなりの需要があるからだ

鹿島では弁当屋さえなくなったのが痛い、安く昼食がとれない、スーパーの弁当はいつも同じでありあきるからだ、何か外食は飽きやすいのが問題なのである

いづれにしろ近くのことが意外とわからないということが問題である
丸森のソーラーパネルの敷き詰められたところは眺望が抜群だった
でもあそに一度も行っていないということも盲点だった
ただ丸森は遠いのでそんなに行けないことはあった
でもあんなに眺望がいいなら自分ならそういう所を探しているから行けたはずなのである自分の場合わからないというとき車がないということも影響している
どうしても遠くになるとそんなに行けないからである
あそこまで相馬市から坂を上るのが大変だったからだ

灯台下暗しで起こることは直接自分の生活にひびくから問題なのである
それがささいなことでも近くのことをまず知らないと何かしら直接影響してくる
それが原発だったのである、近くにあっても無関心だった
小高に東北電力で原発の工事が始まるところだった、それが原発事故が起きて中止になったのである
その時家に来ていた小高の大工さんが原発できるらから景気良くなると言っていた
その時も無関心だったのである、原発がもう20キロ圏内にできるのでも無関心だった
普通だったら原町は人口も多いしいろんな人が知識人でもいるし騒いでいいはずだか
そんな声も聞こえていなかったしマスコミでも騒がないのである
ただプルサーマルでは新聞でも騒いでいたのでそんなことがあるかとか多少は興味をもっていた、でもそれもほとんど関心がなかったのである

何か人間は直接自分に利害及ぼしたらよほど危険を感じないと関心がもていなのである
また関心を喚起されないことも問題なのである
その役目が報道機関とかマスコミにあったのだがその危険性は指摘されなかった
「政経東北」などでも「ふくしま財界」とかでも指摘されていないだろう
なぜなら「政経東北」は渡部恒三が良く紙面に出ていたからである
「ふくしま財界」では最初は原発の危険性を指摘したが何か東電とかから広告費をもらっていからは指摘しなくなったとか言うものがいた
その真偽せわからないにしてもそういうことはありうる

とにかくやはり地元だからいろいろなことに日ごろから関心を持つ必要がある
地元のことでも喚起されるものがないとまた無関心になる
つまり利害が直接及ばないと関心をもたないのが人間の盲点であり弱点なのである 
そして川崎登戸殺人のようにあのような大事件にならないとまずあんな引きこもりはいくらでもいるからそもそも関心などもたないのである
そんな奴はしょせんどうでもいい、何か責めることしかないのである、それがあんな人でも関心をもつべきだったとか言うようになるそれも変なのである、ニートとか引きこもりは社会のクズだ、いらないから早く死ぬ方がいいとか言っていたからである
人間の無関心が問題なのだが今のような情報社会になると情報がありすぎてとてもあらゆることに関心がもていないのである
でも近くなら地元なら関心をもつべきであるが意外と「灯台下暗し」なのである

そして現代は情報の洪水であり外国に関心をもって隣に関心をもたない
隣に困った人、困窮した人がいても外国の困った苦しんでいる人に援助しているのである
これも矛盾だけど何か外国に援助している人は偉いとなるが近くの困った人に関心がないのである
まず近くから住んでいる場所を知ることが順序なのである
外国のことが詳しくて日本のことを知らない人も普通にいる、その人は外国人に日本のことを説明できないのである
特に今は何でもグロ−バル化しているからそうなりやすいのである

posted by 老鶯 at 16:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

Mysterious hidden mountain


Mysterious hidden mountain

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no copyright violation

これは全く著作権に違反しない
全く別のものだからである

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half copyright violation

これは半分著作権違反である
だから公にはできないとこやがある
インタ−ネットだと注意されないし利益も得ていないから出している
注意があればすぐに消します

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崇高な山が奥深く隠されて聳えている
雪に覆われて厳しく聳えている
まだ誰も見たこともない山
それが神々しく厳しく聳えている

Mysterious hidden mountain(poem)

Sublime mountains are hidden deep and scared
I'm scared of being covered in snow
A mountain that no one has ever seen
It's godly and harshly scared


この山も偶然にソフトを操作してできた、我ながら不思議に思う
別に頭の中にイメージして作れたのではない、偶然に作れたのである
第一自分自身には全く絵の才能がないからである
でも何かこれは絵らしくなっているのが不思議なのである
こういう芸術が今までになかったことは確かである
コンピュターがAIが作り出す芸術でありそういうものが他にも生まれてくる時代なのである、AIが小説まで作っていことでもわかる
AIが補助役として創造するものがかなり出てくることをこれも示唆しているのであるThis

I have happened to create this mysterious mountain by a software
It was not created by imaging in my brain, it was created by chance
The first reason is that there is no drawing ability at all
But it is strange that this is a picture
It is certain that such art has never been
Computer is art created by AI, and such is the time when other things are born, it is understood that AI is making even novels
This also suggests that what AI creates as a supporting role comes out quite a lot




2019年05月30日

カルマが返せないとどうなる (いつまでもカルマに苦しめられる―借金と同じ)


カルマが返せないとどうなる

(いつまでもカルマに苦しめられる―借金と同じ)


積んでしまったカルマ(業念)は、返済するまでは、
神様は決して許してくれない

カルマの謎は例えばある人から十万盗む、また百万盗む、千万盗むとする
そるとその分のカルマを背負うことである
そして百万でももう返したくないとなる、十万ならしかたがないとかなりなんとか替え返そうとするが額が大きくなるとできない
だからカルマは軽い内返した方が楽なのである
江戸時代なら十両盗んだら首が飛んだ、額によって罰が決められた

このサイトで借金に例えてカルマを説明しているからわかりやすい、カルマは借金なのである、それを返さないといつまでもカルマを解消できないのである
借金したから自己破産すればいいやとか考えてもそうはいかないのである
一旦カルマとして背負ったものは返すことを要求される

だからもし百万であれ一千万盗んだとすると盗んだ人が額が大きいから返したくなくなるまたそういう人は貧乏なのだから返せなくなくなる
するとカルマをかかえたままカルマを背負ったままになる
でもその人はそんなこを思わない、ただ得したと思う
しかし怖いのはカルマが返せなくなることである
一見得したように見えてカルマはもう返せなくなる
それはその人にとっては額が大きすぎたからである

ただカルマというのは金をもっている人にもある
だからこそ盗まれたということもある、つまり不正をしてとか社会でたいして貢献しないのに金が入る人がいる、そういう地位とか何か金が入る人がいる
そういう人も実はカルマを背負っている
だからそのカルマの故に大金を盗まれたともなる
要するに双方にカルマがあったからそうなったともなる
何か犯罪とは偶然に起こるのか?何か互いのカルマがあって起きてくるのか?
世の中にもしかしたら偶然というのはないのかもしれない
ただ偶然に見えても必然だったともなる

いづれにしろカルマは借金である
神はカルマについては厳しくそれから逃れることを許さない
そうなるとこの世の中に神がいて神が采配しているともなる
神の目を逃れることはできない
神は人の心を見ているというときその行為も見ている、そしてカルマを課すのである
何かごまかして生きれるように思っているが実際はごまかすことができない

そうして現代の資本主義は世界の富を数パーセントの人に収奪されているというとき
そのような人がどうなるのか?そんな莫大な金を集めてそれを有効に使えるのか?
その金で戦争に使うとかしたらどうなるのか?
それは悪魔的なものとなりその家であれ人であれ維持できなくなる
そこには災いのみがある呪われた家となる、そんなカルマを背負いるのかともなるからだだからフランス革命とか中国でも革命が起きて金持ちは無惨に殺されたのである
それは富を有効に利用できなかったからである

大きな犯罪を犯した人はどうなるのか?今回のような川崎登戸殺人事件の犯人はどうなるのか?そのカルマはとてつもなく重いものとなりとても返せないから自殺したとなる
自殺を覚悟でしして自分自身が苦しむのを断ったとなる
でもそのカルマは今世で終わらず来世にもちこまれる
そこでカルマを払わされるかもしれない、それがどういうものになるかわからないのである
余りにも重いカルマになるとそれをどう返すのか見当もつかないともなる

カルマというとき他罰的になるのではない、結局人間は自業自得だよということになる
他人をいろいろせめても自業自得だ、自分のカルマだとして背負う、他人のせいでもないし社会のせいでもない、自分のカルマだとして背負うことになり自分のカルマを自分が苦しみ解消するほか返すほかないと悟ることである
でもまた社会の上級国民でもカルマを背負っているのである
だから今回の事件のようなことになるのかともなる
ただここにカルマがどう作用したのか?とても犯人を許す気にはなれないだろう
つまりこのカルマを返す本人は死んだ、もうカルマは返せないとなるのか?
それとも犯人は来世でまたは今の世でも生まれ代わりカルマを払わされるのか?
そしたら空恐ろしいものとなる

いづれにしろ人間は大きなカルマを背負うと返せなくなる、返せないとどうなるのか?
延々と苦しみから逃れられない、神は許しはしないからだとなる
シーシュポスのように岩をもちあげてはまた一からもちあげて永遠に終わらない罰を与えられる
永劫の罰が与えられるのかとなる
それも恐ろしいとなる、永遠にそのカルマから労苦から逃れられないとなるからだ

ともかく人間はこうしてカルマを背負わないように気をつけるべきである
その時はいいと思っても後で重いカルマとなって返せないカルマとなって永遠に苦しむともなるからだ、カルマを返すことは執拗に迫られるとなればそうである、それは借金とりとにているのだ
カルマは今回の原発事故のようにプルトニウムの毒が2万5千年消えないとか信じられないカルマとなる、カルマはそれだけの年月がたたないと解消できなともなったからだ
そこに原発の罪深さがあった、永劫の罰となったら本当に怖い
原発事故によってそれだけのカルマをこの辺では背負わされたのである
この地域はそうした重いカルマを背負ってしまったのである

そしてカルマは親からも先祖からも受け継ぐのである、つまり一代ではカルマは消滅しないとなる
そこにカルマの怖さがある、ある家でも何か大きなカルマを背負っていて災いがつづくとかある
家は明らかにそれぞれのカルマを背負っているからだ
その中にいいものを受け継いでいるが一般的にカルマというと悪いことを受け継ぐことなのである
だから長男と長女はその家のカルマをいいにし悪いにしろ受けづくのである
そういう宿命にあるのだ、自分自身がそうだったからである



川崎登戸殺人の事件の切っ掛けが叔父叔母の介護のため (介護になると引きこもり、ニートは地獄になる)


川崎登戸殺人の事件の切っ掛けが叔父叔母の介護のため

(介護になると引きこもり、ニートは地獄になる)


なにかこれも自分の状況とにている、60から介護になり社会とかかわるようになったのが自分だったからである
そのことで苦しんだことをプログで書いてきた、一人は認知症になりもう一人も介護になった、そうして10年間塗炭の苦しみを受けた
その時、誰も助けないし同情もしない、社会性がないから対処に他の人より苦しむ
親戚はなくその遠い親戚は事業に失敗していたからかえって借金とか要求されたし
手伝いさんとかに大金を奪われた
その時自分が病気になって入院二回した、病院では身寄りがなく虐待された
このようにニートとかひきこもりは親の介護になると悲惨なものになる
金があってもそうして一人にされて援助もなくなるからだ
金だけは欲しいという人しか来ないからである
だから金だけでは介護は解決しないのである
そしてもちろん金もなかったらさらなるどん底の地獄になる
そういう人が50-80問題としてこれから起きる、その始まりの事件だったのかともなる

自分の場合は自業自得して納得していた、だからひどいめにあったが他者を恨んでいない結局あまりにも恵まれた結果だとして恨んでいない
ただそれにしても自分のところに来た人たちは異常だったと思う
狂気的だと思う、むしろその人たちの不満が異常に大きかったのである
一人は異常性格者になっていた
その人には情もなにもなくなっていた、その人は前に書いたけど三人の母親に育てられたそして最も長く最後まで育てられた母親を捨てたのである
その人が「ひどい娘だわ」と私に最後に電話かけてきてその後すぐ死んだのである
病人になってもその人はなんの世話もしなかったがあっけなく死んだのである
まずその人は介護などできないから救われたとなる
今一人の実の親はわからないが施設にいるけど認知症である
その親は金があるのでそれしか関心がないのである
だからこの人の三人の親はみんな悲惨な結果になったことを書いた

とにかく今回の事件も親となっていた人の介護がきっかけとなり犯行になったと分析している、介護になるといろいろと社会とか人とかかわる、それで社会性がないと対処できなくなる、この事件を起こした人は親代わりの叔父叔母夫婦と何かコミ二ケーションもなくなっていたということも問題であった
もし親身になって世話していれば自分のようにとにかく世話しようと自ずとなるからだ
自分の場合は必死になって認知症でも世話した、それは特別自分は良くされたからであるそれは自然とそうなっていた、強制されたものではないのである

こういう事件が起きると社会でどう対処すべきとかどうかとか言う
しかし社会が他人がそんなふうに思っているのか?
それは自分が経験したことでもわかる、むしろこういう人は働かないとか怠けていたとか責められるだけになる、それを実際に経験したのが自分だったのである
それも私の場合はカルマだとして受け入れて恨まない
一人のぞいて生活が追い詰められていたからまず他者のことに思うことなどできない人たちだったのである
今度はそんなとき津波や原発事故があった、そして小高の人たちなどが仮設として移り住んだのである、その時その人たちは常にボランティアがきて世話していた
かわいそうだと世話していた、それでうらやましくなったのである

私の家に来た人はただ責めるだけの人だったからである、借金で苦しみなんとか自分から弱った時金を借りようとするだけである
それが脅迫にもなる、その人たちは別に何もしないというわけではないが一週間に一回買った弁当をもってくるとかしていない
そして借金で毎日パチンコ屋の掃除をしていたのである
そのパチンコ屋に小高の仮設に入った人たちが大勢通っていたのである
そしてボランティアが来てかわいそうだと働いてくれていたのである
これも矛盾だったのである、ボランティアが悪いというのではない
正直あまりにも原発避難者は手厚くされていた
介護でも優先で厚遇されていたのである

とにかく私が経験したこと本当に異常なことだった、誰一人として親身になってくれる人はいなかった、それも自業自得だとしてカルマだとして納得していた
だから他者を恨まない、でも今回の事件の犯人はやはり介護から何か事件に突入することになったのか?
それを解説していたが介護になり今度は叔父叔母夫婦を世話する立場になったとき何か問題が起きたのか?
その事情は良くわからない、ただそれがきっかけにはなったみたいだ
そこに経済的問題も生じたのか?何かその変はわからない
ただこういう問題は序の口でありこれからもありうる
それから非正規の問題も深刻になる、その苦境を毎日訴えている人がyoutubeで見たからである
そういう人たちもヤケになり事件を起こすかもしれない、何か爆発してもいいような心境になっていることが汲み取れたからである

ただすべての事件が社会のせいにすることはできない、いつの世でも理不尽なことはあり苦しいことはあるからだ
感心するのと戦前の大正生まれの人たちは苦労が多く忍耐強かったことである
今から比べると貧乏でもなんでも文句言わないのである
ひたすら耐えて働いてきた、遊ぶこともない世代だったのである
現代は遊びの時代でもある、若い女性がバイクでロシアの方まで行ってキャンプしているあんなことできるのか?そういうことが普通の時代でもある
働きづめの世代とはあまりにも違うからである


「8050問題」「7040問題」という言葉がある。80代の親と50代のひきこもりの子、70代の親と40代のひきこもりの子を指すのだが、ひきこもりが中高年に達し、親の高齢問題と併せて、ここにきて深刻な社会問題として浮上している。
posted by 老鶯 at 10:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2019年05月29日

川崎登戸殺人事件の犯人は51才引きこもり? (不遇な生い立ちと謎の空白ー「小人閑居して不善をなす」)


川崎登戸殺人事件の犯人は51才引きこもり?

(不遇な生い立ちと謎の空白ー「小人閑居して不善をなす」)


なぜこの人に私が興味をもったのか?それは自分自身が引きこもりとにたような状態で社会からはずれて暮らしていたからである
結婚もしないし20代では底辺で働いたが30以降は一切働いていないからだ
ニートとか引きこもりににていたのである
そういう人はどうなるのか?
それが一つのテーマとしてある、団塊の世代ではニートとか引きこもりとかそんなものはいない、本当にまれでありみんな企業戦士となっていたからだ
その頃みんな必死に働いていたのである
だからふりかえるとなぜ自分だけが働かないでいられたのか不思議になる
それは特殊な家族環境でそうなっていたのである
一時はもめてもその後働かなくても何も言われないのである
旅に行くというとかえってすすめられたし帰ると喜んで迎えてくれたのである
食事は常に用意されているしまるで殿様のようにして暮らしていたのである
こんなことは普通の家庭ではありえない、それは説明しにくいけど特殊な家庭環境でそうなったのである

この無差別殺人の犯人の生い立ちは家庭環境はまた過酷だったらしい
親の愛情にも恵まれず叔父夫婦の元で育てられたが愛情はなかったとか
その姉がカリタス学園に通っていたとか何かの因果関係があった
全く関係ない無差別殺人でなかった
ただ不思議なのは20代とかすぎて何か50まで何をしていたのかわからない
そこが謎なのである、空白期間が長いとなる
ところが自分自身も社会とかかわらず30年とか長いのである
そういう人は今ニートとか引きこもりで普通にいるからめずらしくない

そういう人はどうなるのか?

社会から認識されなくなる、いるのかいないのかわからなくなる
そして突然に事件が起きて認識されたのである
そんな人いたんだとなるのである
確かにもともと隣近所で問題起こしていたとかある、でもニートとか引きこもりとかは存在自体が社会から消えるのが多い、いるのかいないのかもわからなくなるのだ
そうして突然事件となり注目されてなにやかにやと問われ言われのである
つまり社会が逆に異常なほどかかわるのである
それまでは全く無視しているが逆に今度は異常なほどかかわりなにやかにやというのである
そういうふうに社会がかかわらないその存在すら抹殺されていたということで犯罪を犯してそれも凶悪な犯罪をおかして自分の存在を知らせる、そういうことが動機にもなったのかと書いた 

万引きで老人が軽犯罪を犯して刑務所に入ってかまってもらえる、食事も与えられるし介護までしてくれる、でも世間に出たら誰もかまってくれないし生活すらできないとなると軽犯罪でも犯して刑務所に入りたいとなるのもそうである
そういう人は頼るべき家族もいないからである 
奇妙なのは私の家族の一人は公務員で50代で退職した、そしたら後はなにもしない、家事もしない、趣味のようなものをしていてもそれは才能がなかった、そしたらどうなったのか?
社会から忘れられた存在になっていたのである、働いている時はみんなその人を認めていたが退職して何もしなくなってから社会から消えたのである、そして認知症になったとき社会でかかわったのである、迷惑なものとしてかかわったのである
それは軽犯罪で刑務所の人がかかわるのちとにていたのである

いづれにしろ結婚しないとか家族をもたないとか何かニートとか引きこもりは社会的に異常化しやすいのである
実際はそういうふうに社会から外れた人はアウトサイダーとなっていた
それは歴史上に残る人になる、芸術家とか思想家がでもそうである
ニーチェとか何か芸術家でもそういうアウトサイダーになっている
そういう人たちは天才であり平凡な社会生活や家庭生活を送れないのである
それだけの異常なエネルギーがあるからそうなった
でも社会性がなくなり常識からもはずれてゆき遂には狂気にもなった
そうした社会からはずれた人は狂気になりやすいともなる
それは優れた天才の芸術家のことである、ニートとか引きこもりはかえってエネルギーが消失している人たちであるからまた違っている
ただ社会性がなくなり遂には最後に突飛な異常行動になるということにもなる

ただ結婚している人がみんな正常なのか?
私は結婚して公務員で子供いる人の異常性には驚いた
これはなんなのだと思った、これがまともな人間なのか?夫婦なのか?
それは何とも言えない、異常化した夫婦だった
夫婦であれ家庭をもっていてもみんな正常なのか?
それもまた違っている、だから結婚した人がみんなまともだとはならない
それは一般的な話であり確率の話だとなる

ただ一般的には結婚して家庭をもち暮らしている人は社会性がありまともだとみる
結婚しないで50にもなってい一人暮らしは異常だと見られる
でも現代は40でも50でも結婚しない一人暮らしが増えているのである
非正規が増えているのである、だからその人たちがみんな異常だとはならないのである

私が社会からはずれて長く生活して見て感じたことは

「小人閑居して不善をなす」

これである、自分自身でもそうだった、自分自身は天才でもなんでもなかったからであるどうしてもこうなりやすいのである、社会で働いている人は一応社会で機能してそうはなりにくいのである、そこで社会性が育まれるからである
そうなるのは社会から離れて生活していると社会のことが関係なくなる
するとどうなるのか?自然とかに没入するにはいいのである
禅僧のように座禅組んで沈黙の訓練をするとかなる、自分自身が性格もあるが石のように沈黙してい一人こもっていたからである
すると無駄な口もきかないから身と口を収めて心身を修養できるとなったからである
私はそうして石と木とか山とかアイディンティティ化する詩を書いてきたからである
でもそういうことがあった反面どうしても不善を成すということがあった
つまりかえってニートとか引きこもりで身を治めることはむずかしいのである
むしろ社会の中で心身を鍛えた方がいいとなる

とにかくこれだけの事件を犯すというのもやはり限界が来たのだろう
金がないというだけではないらしい、精神的限界が来たのかもしれない
いくら生い立ちが不幸でも50になってそれをひきづり親を責めるのはどうかとも思うからだ、家庭環境は確かに致命的に人間を左右する
でも家庭環境だけがすべてとはならない、家庭環境があまりにも恵まれて放蕩息子になっている人も多くいるからだ
だから結局個々人に差がありわからないとなる

ここでこうしたニートとか引きこもりが膨大なになり何かまた同じような事件が起きるかもしれないということである、50歳になり限界になり「小人閑居して不善をなす」ということが起きやすいのである
なぜならニートとか引きこもりは普通の凡人だからである
天才とかなると別だからである
ただ狂気と正常は紙一重だということもある、結婚していようが普通の家庭で暮らしていようが狂気というのが人間にはある

そしてナチスやカルト教団がこれだけ興隆しているのは人間社会自体が狂気になり安い社会だからである、文明社会自体が実は狂気的なのである
だから狂気的な事件でも社会全体がその狂気にまきこまれるということがある
それがナチスでありカルト教団が社会を支配することである
「個人も狂っているが集団はもっと狂っている」こういってニーチェ狂っては死んだからである、集団が狂っている時は社会ではそれを正常とみているからである
そこに集団化して大衆化群衆化した人たちの恐怖がある
その人たちが狂っているといえばそういう人たちが襲ってくることにもなるからだ
だから人間社会は誰が狂っているのかわからない
ただ「小人閑居して不善をなす」とはアウトサイダーであれニートであれ引きこもりであれ言えるのである
この事件をどうみるかとなるといろいろでありやはり謎にはなる

posted by 老鶯 at 20:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

借金してでも使えの疑問、借金する人は犯罪者と同類 (日本人が貧乏する理由(武田邦彦)


借金してでも使えの疑問、借金する人は犯罪者と同類

(日本人が貧乏する理由(武田邦彦)




武田氏はとにかく見識が広いから参考にして見ている、人間はなかなか正確にわからないし批評はできない、だからコメントするのでも一行二行とかしていてはわからない
こいつは馬鹿かとかなんとか言ってそれで平等化する
それでも何か批判して俺の方がわかっているんだともなるからだ
だから私は一行二行のコメントを歓迎しないし私のプログにはコメントはない
やはりプログでその人なりのものをもっていて批判しないと相手にしたくないのである
ただプログだとどこに書いてあるかわからないから問題なのである

武田邦彦氏は人気がありあれだけ広い見識があるから参考になる
それは直接現代のエリート層とも通じているし外国生活も長いからその経験で違っている第一私は底辺層としかつきあったことがないからである
すると社会のことを底辺からしか見れないのである
そうしたら社会のことはわからないとなる

ただ人間はつくづくその人の生い立ちから住む場所から個性でも違っている、だから人はみんな違っているのである、その人自身の個性を作る条件がみんな違っているからである毎日海を見える場所にいる人と山に囲まれて山ばかりみている人でも何か人間も違ってくる、風土によって違ってくるから世界中てこれだけ文化も違ったものとなるのである

だから人間は自分の経験からいろいろなものを見るのが基本になる
経験しないものはわからないのである、それは本を読んでもわからない
実感がないからわからないのである、例えば戦争でもこれだけは実感することが不可能である、隣にいる人がばたばた死んでゆく、戦友が死んでゆくことなどとても経験しないかぎりわからないのである、だから戦争がどうのこうのというときそういう経験した人こそ戦争を語れるとなるがしない人はわからないから戦争はいいものだとさえなる、恰好いいともなってしまうのである

武田氏は超エリートである、でも貧乏のことを語る時何かずれているなとも見た
なぜなら借金してでも金を使うのが資本主義社会である
そういうことが理解できない、もちろんそこに深い意味があるかもしれないから表面的なことで軽々しくは批判できない
youtubeの欠点は言うことが短いし何か感情的になりふすい、それで非正規の苦しさを訴える人に同情した、声とかが出ると何か感情がでてくるんだなと思った
テレビというメデアは声とか表情が見る人に影響する、それで人の感情をあおる
あいつが悪い奴だとなるとみんなが感情が刺激されてリンチ的になるのである
つまりテレビとかは深く考えさせるメデアではなのである
ただyoutubeを見ていてわかったことはテレビとも違う何か学習機能がある
常にスタディしている、だからテレビのような大衆相手にエンターテインメントになっているのはも違う、とにかくテレビは視聴率がとれればいいのである
youtubeも視聴率が問題になるが百万とかまでは見る人はいない
そして個々の経験に基づいたことを発言しているのである
そこはテレビというマスメデアとの大きな相違だったのである

youtubeでもまだ深くは考えられないメデアである

それを感じた、だから借金してでも使いというとき誤解が生じる
そこだけをきりとって反論すると誤解が生じる、またそこには深い裏付けがないからである
なぜなら武田邦彦氏は果たして借金の意味を深く考えているのか?
まず自分自身が借金をしたことがあるのか?借金で苦しんだことがあるのか?
また他人の借金で苦しんだことがあるのか?
それがあれだけのエリートだとない、そこに借金とは何かわからなくなっているのだ

自分自身も親の介護とか自分の病気とかで苦労しなければ人はみんないい人だとのんきに思っていたのである、社会ともかかわらずに60まで生きていたことが異常だったとなる
だから社会は人はみんないい人だと思っていた
人間とは結局自分の経験から社会でも見る
一旦人から裏切られた人は深刻な人間不信になる、もう人間は信じられなくなるのであるそういう経験を私は介護になってからずっとしてきてそのことプログに書いてきた

人間とはこんな恐ろしいものだとか実感した、誰一人として自分が苦しんでいるとき同情もしない、むしろ相手が弱ったからチャンスだとなり大金は盗まれるわ何かと責められるとか苦しんだ、一切そこに同情すらなかった
それも自分自身がこれまであまりにも楽していた結果でありカルマだったことを知った
だかちそのことで他者をうらまない、でもそれ以来人間観が変わってしまったのである
人間がこんな恐ろしいものだと思わなかったからである
人間は自分が苦しんでいれば相手が死ぬと何であれ何の関係もないのである
だから最底辺で苦しんで老いた人が言う
あそこの土手の道で倒れても誰も助けないというときそのことに共感したのである
その人もこれまでひどい目にあった連続だったからそう思うようになったのである

そして借金してでも使えということがどういう意味なのか?
そんなこと軽々しく言えるのか?
借金した人が私が介護して病気になって来た時どれほどの恐怖を与えたか?
そのことを書いてきた、事業に失敗してかなりの額の借金をした人がきて助けると言うがもう助けるどころではない、その人の頭には借金のことしかない
それも額が多いのである、だからもうその人にとって頭は借金のことしかない
すると自分が苦しんでいてもそんなこと関係ないのである
こいつからなんとか借金しようとしかないのである、だから脅迫もされたのである
その時自分が病気であり介護していてどうにもならなくなっているからそういうふうに借金でも要求しやすくなっていたからだ
その人はなんとか自分の財産を得ようとしていたのである

その人は別に会社にいたときはいい人だったのである
誰もとれない資格をもっていた技術者だったからである
ただ事業をはじめて失敗して借金したのである
その人はまず事業などできない、商売できない人だったと思う
経営者にはなれない人だったと思う、技術をもっていても経営とか商売は違っているからだ、その人はまず私が病気のとき物を持つことさえ嫌がっていた
入院するとき物をもつことさえ嫌がっていた
つまり私のためには何もしたくなかったのである
それはその家族にも言えた、ただ金が欲しいしかなかったのである
そういう人がどうして会社を経営できるのか?
他者になにもしたくない、ただ金をもらいたいというだけなのである
そんな人に仕事でも頼むだろうか?その家族もまたそうだったのである

そして借金している人は怖い、借金しているだけで犯罪者予備軍であり犯罪の動機をみると借金を返すためだとかの動機が本当に多い
だからまずこの人が借金しているかどうかでその人を見るのが常である

だから借金している人は犯罪者である

ここまでなってしまうのである、それほど借金は人間を変えてしまうのである
借金している人はもう人を助けるなど全くできない
また追い詰められている余裕のない人間は人のことなど考えない
会社でもそうだし今の銀行が追い詰められているもう顧客のことなど考える余裕もないのである、会社がもうけをだすためには詐欺的な投資信託でも売りつけるほかないのであるつまり余裕がない人は人を助けるとか考えることすらできないのである

だから借金してまで使いということほどあまりにも浅薄な意見はない
ただ資本主義社会では借金は奨励されるというとき会社とかで事業する人はそうかもしれない、でもその人は事業していたのである
そして多額の借金となり我が家が苦しい時借金を返すために脅迫までするようになったのである
だから借金は人を根本的に変える、善人も借金で簡単に悪人になる
もう借金した時点で悪人となっているのである

だから武田氏の見識の広さには学んでいたがこれはどうかなと反発した
ただその背後には深い意味があるがそれが語られないのかもしれない
でもこれは危険なことである、借金してでも使い、そうなのか?
そんなことで同調して借金して使う人がいたら危険だとなる
結局は人間はその人の限られた経験からしか語られないのである
あらゆることを知り経験することはできない、そこにかたよって見方が生まれる
底辺で生きている者は社会のエリートとして生きている人のことを理解できないのであるまたエリートは底辺の人を理解できないのである

だから格差社会になるとたがいに社会で理解し得なくなり分断されて社会が維持できなくなる、その認識は共通していとなるが借金については個々人ではすべきではない
借金の恐ろしさについて鈍感でありその恐ろしを知らない
借金によって人間のモラルは消失する、ただ借金を返すために借金のために殺人まで普通にするからである、そういう事件はいくらでもあるからだ
ただ正直youtubeでもネットではなかなか深い議論にはならないのが問題なのである


あとかぎ

借金しても使えというとき貯金だけしてもだめだということはある、金をいかに有効に使うか、それが資本主義だということもある
だからそういう意味とかありそれはくみとれる、でも借金しても使えというのは誤解を与えやすい
国単位とかだとそうなのかもしれない、でも個人単位では別だと思う




posted by 老鶯 at 09:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2019年05月28日

川崎登戸無差別殺人の動機は何のか? (犯罪を起こすのなぜかその心理ー格差が原因なのか?)


川崎登戸無差別殺人の動機は何のか?

(犯罪を起こすのなぜかその心理ー格差が原因なのか?)


この無差別殺人のことは今のところわからない、だから何か言うことはむずかしい

ただ一体なぜ犯罪を起こすのか?

これは最初から計画した犯罪であり金目当てでもない、自らも死ぬ覚悟で起こした犯罪である
生きようとするのではなく自らも死ぬことを覚悟した犯罪である
それも壮絶な自死で死んでいる
ではどうしてこんなことを起こしたのか?

犯罪は相手に対してそれは社会でもいい、自分を知ってもらいたい、自分という人間をいることを知ってもらいたい、何かそういうことで犯罪を起こす
これは別に金が欲しいというのでもない、もう人生をあきらめた人が絶望した人がしている
それで道連れ殺人になる

そんなら自殺しろよ

となるがしないのはなぜか?
そうしたらその人のことを誰も知らせることができない、自殺したら誰もその人のことを知り意識する人はいないのである
そんな人いたのとなるだけである
それがその人がどんなに苦しんでいても誰も知らないということがある
何か現代ではそういうことが多いのである
誰にも相談する人がいないとか窮状を訴える相手がいない
そういう人がやがてどうなるのか?自暴自棄になる

何かyoutubeで非正規の底辺労働者が追い詰められている、何かもう聞いているだけで息苦しくなる、でもyoutubeがうっぷん晴らしになり不満のはけ口になる
そういう効果がある、見ている人が聞いている人がそれなりにいるからだ
それで自分自身もそういう人がいるのかと知り意識したのである
特に都会だと人が多いから埋もれてしまうだろう
それはテキストでは感じないものを感じた不思議がある
つまりyoutubeだと声とかによって感情がこめられるからだとも見た

カリタス学園と何なのか、金持ち行く私立なのか東京辺りでそういうことで私立学校がありそれで金持ちのことがわかり差が生まれる
ただ動機はわからなくなったし何が動機なのかはわからない
ただ私立の学校をねらっとなればそこに動機があったのか?

とにかく犯罪は相手に対して意識させる、

俺がいるんだ、俺を知れ、俺を意識しろ

そういうことがある、なぜなら実際にそんなことで子供を殺されたら絶対に一生親は忘れられなくなるからだ、まさに犯人の思うようになるからだ
でなければそんな人がいたのとか何の意識もしない、その人がどんな苦しんでいてもそうである、そんな人知らないよで終わりだからである

ともかく何でもそうだが追い詰められた人は怖い、そこまでするのには何か追い詰められていたのだろうともなる、自死覚悟でしているからである
ただこの本当のところはわからない
でも犯罪を犯す動機は効果は相手に社会でも自分がいる、苦しんでいる自分がいるということを知らせることであり意識させることなのである
それで誰か一人でも訴える人が慰める人がいれば救われるとなる
誰もいないと自分という存在を知らせる意識させるために凶悪な犯罪も犯す
そしてそれだけの犯罪を起こすとなれば自らも死ぬということで決行した
だからそれが精神障害者なのか?そうも見えないしわからない
そこまでの決意があってしたのが何か違っている

こういう犯罪を犯せば社会では大騒ぎになりそいつはなんなのだと延々と問うことになる、でもそうしなければそんな人はいくらでもいて何も知らない、いることさえ知らないし意識しないのである
現代社会は経済的に行き詰まり追い詰められている人が増えてくる
40代50代ではもう絶望する人がふえている、それで底辺労働者が延々とその不満を書いている、その人も非正規で40近くであり50代となってゆく
その人も絶望しかないと毎日youtubeで訴えているのである

現代はとにかく人間の心は非情化している、相互の人間のつながりはなくなっている
そこで非正規とかは孤立している、もし底辺でもそこにまだ人間的つながりがあればそうはてらない、家族もいないとなれば余計にそうなる
現代とは孤立化しやすいのである
それで知っている60代の女性が畑にいて土手の道の方を見てここで倒れても誰も助けないよという
何かその人は田舎でも最底辺で苦労したから非情を身にしみている
田舎でもそういう非情化した時代なんだと思う
自分もそういう目にあったからである、田舎だと何か人の不幸がドラマのように楽しみなのである、刺激がないからそれは一番の刺激だともなる
だから田舎が人情に厚いとかはとっくになくなっているのである

そういう社会は都会でも田舎でも同じだとなるが何か私立などはないからそこに格差が目立ちそうなったのかともなる
南米では格差が激しくて金持ちの人は誘拐されたり常に危険にさらされているからである
いづれにしろ登戸で毎日十何万も乗り降りがあることに驚く、そういうことがこの辺ではイメージしにくい、ただ自分は小田急沿線に大学あり良く登戸というで名前を覚えていた小田急沿線には大学とか学校が多いということがわかる
たた川崎市というとき何かわかりにくいところだった、田畑があったりもするしでも人口密集地帯もある
それももう半世紀前とかなると記憶もおぼろになった
でも登戸でこんな犯罪があったのか?それで注目したともなる

posted by 老鶯 at 14:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2019年05月27日

投資信託はもうからない(追い詰められた銀行の危険)


投資信託はもうからない(追い詰められた銀行の危険)


2017年3月、金融庁は「顧客本位の業務運営に関する原則」を打ち出し、金融事業者に顧客本位の業務運営、いわゆる「フィデューシャリー・デューティー」の確立・定着を求めた。「顧客本位の業務運営」に関する7つの基本原則とは以下の通りだ

【原則1】顧客本位の業務運営に係る方針の策定・公表等
【原則2】顧客の最善の利益の追求
【原則3】利益相反の適切な管理
【原則4】手数料等の明確化
【原則5】重要な情報の分かりやすい提供
【原則6】顧客にふさわしいサービスの提供
【原則7】従業員に対する適切な動機づけの枠組み等


手数料等の明確化
重要な情報の分かりやすい提供

投資信託にはこういうことはない、複雑であり一般人はわからない商品である
株の方がわかりやすい、なぜなら株は上がったりもうかり下がったら損するだけである
だからリーマンショックのとき買った株が上がったから8年過ぎてもうかっていたが
銀行員が来て勝手に投資信託に回して損したとなる
その時説明責任があったが一言説明なく投資信託に回した
ただこれには自分自身の責任もかなりあった、その時の情勢もあるからだ

私は投資のことでもわからない

自分はそもそも地銀ということで信頼していた

時間がないからまかせた

こういうことで地銀を信頼したからまかせたのである
そもそも病気になったらプロである医者にかませるだろう
法律がわからなければ弁護士にまかせる、家建てるにしても素人は建築会社にまかせる
そもそも一人の人間の知識など限られている
だからこそプロがいてまかせるのである
金融のプロが銀行であり証券会社である、株が上がったり下がったりする
それを素人の人は他にも仕事があるから見ていられないのである
だからそういう暇がない人は知識がない人はやるなとなる
銀行にまかせること自体がお前の責任だったとなる
それも言われてもしかたがないとなる、自己責任だとなる

でも金融でもそうだが原発でもそうだったが相手は圧倒的な専門知識がありそれに対抗できないのである
だからこそ「安全神話」が作られたのである、放射能のことを原子核とかなんとかなるともうお手上げだからである
そこに圧倒的な知識の差がありそれと対抗すること自体不可能なのである
それは金融商品でもそうである、まず投資信託について毎月分配型について通暁することは不可能である、仕組みが複雑すぎるからである
それは素人をだますために作られた商品だとも今では思ってしまう
顧客のためではない、そういうふうに複雑にして顧客をだましやすい商品として作られたのである、最初からそういう意図があったのである
そこにすでに悪質性がある、ギャンブルにしても公平性がある
調か半かは確率であり公平だともなる
ところが投資信託にはわかりにくい、株とかFXはもうからないとしてもわかりやすいから素人でも理解できるから公平だったとなる
一時何かアメリカの投資信託で円安になりもうかったがそれもすぐ売って別なものを銀行で買った、そこでまた手数料が入りまた売ったり買ったりするときその額によって銀行が手数料が入る仕組みになっていたのである

結局自分はなぜそういうふうに失敗したのか?

その原因が来た相手はみんな追い詰められた余裕のない人たちだったのである
金がなくて苦しんでいる人が病気と介護のとききて大金を盗まれた
事業に失敗した人が金に苦しんでいて責められて自分自身も苦しんだ
相手を思いやる余裕などないからである
銀行も同じなのである、銀行は今一番追い詰められていたのである
それが今までの感覚で銀行は信頼できると思い込んでいたのである
老人は銀行との付き合いで確実に利子をもらって預金を増やした経験があるから
その経験で銀行を信用している人が老人に多いのである
だから大銀行でもリストラされているとか追い詰められているから2000千万も投資信託で損した老人がいたのである

その最大の原因が銀行がもう生きる死ぬかの瀬戸際にきているからである
特に地銀などはもうなくなるとされている、維持できないのである
そうなって追い詰められた者は何でもする、悪もなにもなくなる
そうして自分は責められ苦しめられてきたのである

追い詰められた人間は会社でも国でも一番怖い

追い詰められれれば人間から善悪は消失する、今日食べるものがないとなればわずかなものでも食べるために人を殺すこともある、それは追い詰められているからである
そういうふうに銀行は今やそれだけ追い詰められているから危険だったのである
はっきりいってももう銀行の仕事はなくなる、福島県で残る銀行は一つだけであり
もう銀行は生き残れないのである
そういう銀行とかかわることはすでに危険だったのである

いづれにしろ追い詰められると人間個人でも会社でも国すら危険なものになる
まず余裕がないから相手のことなど考慮しない、相手の利益など無視する
頭の中は自分のノルマを果たすことか銀行の利益だけしか考えられなくなる
それは個々人の会社員だけではない、銀行員だけではない、会社自体が存亡をかけて
投資信託でももうけるほかないとなっているからである

それでこれから地方が衰退して窮地に追い込まれると田舎でものんびりとはならない
現実に自分自身がそうした人たちに襲われてきたからである
つまり日本経済が縮小して衰退して窮迫してくるとこういうことが起きやすくなるのである、若者でも老人でも生活がぎりぎりだとか銀行でも儲け先がもないとか物を作っても売れないとかいろいろな経済の窮迫状態が起こってくる
それが日本全体を追い詰めてそういうとき戦争にさえもなる
戦争とは何か追い詰められたからなったとなる
なぜなら人間がそんな簡単に戦争に突入するとは思えないからだ
ドイツでナチスが台頭したのも借金漬けであり失業者が膨大に増えた結果だとしている
経済的困窮の結果戦争に突入したのである
日本がもアメリカによっけ経済制裁されて追い詰められたのが原因だともしている

とにかく追い詰められた人でも会社でもそういうのが増えると害になってゆく
もう客のもうけのことなど全く考えられない、いくら手数料をとるしか考えないからである、頭の中はそれしかなくなるのである
会社自体がそうなっているからである、その駒になるのが営業員だとなるからだ

ただそうした会社が繁盛するのか、栄えるのか?
地銀とかなると地元に尽くすから地銀なのである、地元を栄えさせるのが地銀の使命なのである、それができないとしたら地元にとって必要なのだろうか?
もう地銀などいらないとなる、そこにマイナスの感情だけが働く
銀行に金を預けてもなんにもならないという声が大きくなっているからだ
銀行の用がなくなっているのである、そして投資信託のような詐欺的商品をうりつけるだけだとなりその負の感情を受ける

そういうことで会社でも銀行であれ維持できるだろうか?

何かしら負の感情を従業員であれ消費者であれ受ければそれが栄えるだろうか?
それは国でもそうである、その国がいかに強大であっても回りで負の感情をもたれたら栄えるだろうか?
いづれは衰退してゆくのではないか?共存共栄しなければ負の感情ばかり強くなればとても栄えることはできない
だから銀行はもう必要ないとなり消えるともなる、ただ何か新しい利用価値が生まれれば別である、今のように窮迫して投資信託のようなものを売りつけるとしたらもう維持できない、それも時代の変化で銀行すら消えるということになる
銀行自体今どういう働きを社会でするのかどういうサービスを提供するのか問われている投資信託のようなものを売りつけるだけとなると銀行はもう終わりだと思う
それは最後のあがきなのかもしれない、そのために被害者でる
そして銀行は消えるのかとなる

ただ銀行だけではない、大企業のリストラとかあり日本時代が窮迫してこういうことが起きる、地方も疲弊して追い詰められた人があふれると危険な状態になる
そういう人と出会うことが多くなるからである
余裕がなくなった人たち自分が経験したように襲ってくるからである
遂にはホンジュラスのようにギャングに支配されるとまでなる
そしたら国を脱出するほかなくなるのである
そういう危機すら日本にこれから来るかもしれない、それは経済が衰退して困窮してくる人たちが増えればそうなるのである

それで自分自身がその例なのである
自分が病気になり介護になり弱った時襲われたからである
それは相手も追い詰められていたからそうなったのである
余裕がない人は他人のことなど考慮できない、食うか食われるかになるのである
そういう地獄がこれから日本が困窮してくればなるのである
それが大企業でもリストラが起こり首切られた人たちがブラック企業で働かせられたりと日本は余裕のない社会になってゆく
そういう地獄がこれから起きてくる、戦争状態のようなことが起きてくることもありうるそうなったとき決して富裕な人たちも安閑となどしていられないのである
もういつホンジュラスのように誘拐されるかもしれないし襲われる
そうした地獄のような社会になる、だから経済の窮迫は怖いのである



posted by 老鶯 at 23:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

責任をとれない人には何でもまかせるべきではない (あらゆることに責任がついてまわる)


責任をとれない人には何でもまかせるべきではない

(あらゆることに責任がついてまわる)


この世の中は本当に責任が常に問題になる、だからこそ契約にこまかく責任はとりませんと書いてある、責任を明確にするために契約がある

ある人が組の会費集めとかまかせられた、組長で順番がまわりまかせられた
でもその人にはそもそもその責任を果たすだけのものがなかったのだ
福祉に世話になっているし貯金もなにもない、だから金を盗まれたとかなりそれは3万とかでも払えない、それで私の所に常に頼みに来る
最初から組長などできない、責任がもていない人だったのである
私の組では一人暮らしの人は組長にならなくてもいいか助かる
金があづかるとなるとめんどうになる
数万の金でもない人はないからなにかあったら責任がとれないのである
だから責任がとれない人にはまかせるべきではないのだ
別に断ってもいいのである、そういう事情がありそれを押し付ける方も問題だとなる

とにかく何かこの責任問題をいろいろ自分の一身上でもそうだが問題になった
介護になってからあらゆることで自分は責められる立場になったのである
それから津波や原発事故でも責任が問われた
特に原発事故では責任が重く問われた、「安全神話」で事故は起きないとしていたのに大事故になりとりかえしのつかないものになった
その責任はどうとれるのか?誰もとっていないともなる
もし事故起こしたら切腹してますとか契約にでもあったらまた財産は没収されますとかでまかされたらそれなりに責任とるのだから「安全神話」を信じてもいいのかとみる
実際は誰も責任はとらないのである

地銀にしても

私はプロですからまかせてください

ではどういう責任をとるのですか

株とか投資信託はいろいろなことで変化しますから保証はできません
すべてお客様の責任です

ではなぜプロですからまかせてくださいと言うのですか?

・・・・・・・・・

それならそれで損することもあることを明確に説明すべきです
そうして客に判断をゆだねる
説明責任がアカンタビリティがあるというのは本当である
責任の中に説明責任が明確にある
すべてまかせてくださいとなれば客は何もかかわる必要がないのである

「私は株のことや投資信託は全く知りません、あなたがプロというのでまかせます
私は忙しいしいちいち株のことなど調べることも株の上がり下がりとか投資信託の利益がどうなっていんるのか見ていられないのです
だからプロの方におまかせしたのです」

「そういうことなら私たちプロですからおまかせください」

こういうふうになっても全く地銀でも損しても責任は一切とらない
地銀は百パーセント損することはない、手数料が確実に入るのである
そして何か売り買いするとまた手数料が銀行に入る絶対に損しない責任もとることがない商売だったのである

「もしお客様損するようなことがあればこちらでも分相応の負担はします」

こうでもなっていたら責任を分担してとるということで信用できたし納得できたのであるそもそも何も責任をとらないのだから信用できないとなっていたのである
そしてでは株でもなんでも知らないものはかかわるなともなっていた
素人は怪我するからかかわるなともなっていたのである
そもそも経験も知識もないからである
ただリーマンショックの時もっていた株が上がった時投資信託に回したのも分散投資しておけばいいのに地銀の儲けだけを営業の人はノルマを果たすだけにそうしたのである
でもなんであれこ一切地銀は責任はとらない、だから最初から何の責任も取れない人は信用してなてらないしまかせるべきではなかったのである

なにかこういうことは社会の中で常にあるから保証人問題があり保証人がない人は信用できないとなるし後ろ立てがないものは信用できないとなる
何かまかせるにしてもその人だけを信用していたら金を貸す方でも部屋を貸す方でも大損するからである
だから契約して責任を明確にしていないと後で大けがをする
だから何かと社会は責任を恐れるから契約をする
駅の高校生の見守り役でも駅の業務をしないと契約しているのはJRの方に責任が回ってくることが恐れているためかもしれない、駅の業務をJRが頼んだとなる何かあるとJRに責任が問われるからである
それで私が書いた時刻表でもルールであり何かで問い合わせとか来たりして責任をとらされることが嫌だから断ったとなる

つまり人間社会ささいなことでも常に責任を恐れるのである
それも責任をとらされることを恐れるからそうなっている
ただ責任を明確にして責任をとらないものには任せるべきではない
その任せた方が実は責任が問われているのである
それは原発でもそうである、なんであれ東電と国に原発を建てることで合意してまかせた時点で責任が今度は地元住民と福島県民とかさらに日本国民まで責任をとらされたのである、国民が関係ないとはならない、莫大な廃炉費用が税金として国民からとられるからである、責任は何かあったら広く波及してくるのである

合意したことはどちらにも責任がある  

説明責任→合意→契約→責任

こういうことになる、だから合意には双方が責任があることを明確にしたものだとなるそうしたら簡単に合意はできないともなる
責任が問われるし責任が課せられるからである
だから合意の契約するときは慎重になるしその重みを感じてすることになる
責任をとらされるものとして合意するからである
交渉とかでも説明責任が重要になる
説明したとしても専門的なことだからわからないとかいっても一応説明はされるべきなのである

このシステムには最終的な「説明する責任」がない
日本がで最も力をもっている人たちと、公式に民主主義国家である以上は主権者である普通の人々の間の政治的コミ二ケーションを可能にする機構がない
権力者がある政策について人々にきちんと説明し、人々が別な政策について権力者に一般的な方向付けを与える
官僚たちは何をしているのか、なぜそれをしているのか、人々に伝えず、人々は「公僕」たちが何をすべきか、官僚たちに伝えない、政治家は信用されずその役を果たしていない(
日本を幸福にしない、日本がというシステムーカレル・バアン、ウオルフレン )

民主主義ではめんどうでも説明する責任が重要になる、とにかく相手が素人でも説明はすべきだとなる、そして責任を明確にすべきである
そうしたら投資信託など誰もしなくなる、だからこそ明確な説明はしないししてもわからない仕組みになっているのである
ただそれだってやはり説明責任がある、そしてまかせる客も合意したとなるのだからわからないにしろ責任だけはとらされるのである

だからわからないならやるな、まかせるな!

こうにもなる、責任は必ずとらされる、誰かがとらされる、原発でも合意したから責任は地元の人も故郷に住めなくなる責任をとらされたのである

そして組長をまかせられて金をあつかうとなると責任が生じる、わずかな金でもその人には貯金もないとしたら何かあったらどうするのか?
その責任がまわりにくる、それがいつも自分自身なのである、必ず金を払っているからだそうなるとそんな責任をとらされることはやるなとなる
また周りの人もやらせてはいけないのである
こうして人間は常に何かしら誰かが必ず責任をとらされるのである



posted by 老鶯 at 16:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

なぜ日本が衰退しているのか? (産業構造の変化ができないから?)


なぜ日本が衰退しているのか?

(産業構造の変化ができないから?)


日本ががなぜ貧乏になっているのか?
この解答もいろいろあるがではなぜ高度成長があったのか?
これをふりかえると日本は産業構造を変化させたからだった
それまでは養蚕であり絹織物産業でアメリカに輸出していた
絹織物は今の自動車のようなものだったのである
それで外貨を稼いでいた
私の母親も原町の紡績会社で働いていた、原町は原町機関区であり今のいわき市の平機関区と福島県の常磐線では二つあっては繁栄していた
そして原町紡績会社に引き込み線があり直接鉄道で積みだして運んでいた
それは横浜から船で運ばれていたのである

とにかく養蚕は日本全国でどこでもしていた、必ず兜作りの屋根が今でも残っているからこの家で養蚕していたとわかる、それが本当に多いのである
養蚕は地方に生産拠点がありそれで地方の産業となっていたことが今と違っていた
桑畑が私の家の裏にもあったしどこでもあったからである
養蚕は農業でもあったからそうなった
それで阿武隈高原の町に鉄道が通る時、煙で桑の葉が被害をうけるから反対したとかあった、それだけ養蚕中心の産業構造だからそうなっていた

その時蒸気機関車であり私が原町の高校に通った時もまだ蒸気機関車だったことがふりかえると信じられないのである、どうしても蒸気機関車のことが思い出せないのである
ただトンネルを通った時、煙で顔がすすけたことがあった
でも今どうしてあのようなものが走っていたことが現実に思えないのである
ただその時もし鉄道マニアであったらそのことを思い出すだろう
私は全国の鉄道を乗って旅したからである    

そして蒸気機関車の燃料は石炭だったのである
石炭というときその頃各地に炭鉱があり石炭がエネルギー産業になっていた
だから学校でもストーブを使っていて石炭を使っていたのである
エアコンなどなかったのである
その頃の産業は養蚕であり石炭だったともなる
ただ戦後は養蚕はつづいていてもすぐになくなった
でも戦後十年は炭を使っていた、囲炉裏がどこにでもあった
その生活は本当に江戸時代のつづきだった
水道もないから街内では井戸の水をもらって生活していた
それで子供の時水汲みされたことを思い出す
その時は何もない、飯台一つしかない生活だったしたいがい同じだった
玉子も食べられなかった、農家では食べられたのである
農家の方が裕福だったのである

つまり養蚕や絹織物が石炭が産業だった、それが戦後10年くらいして産業構造が変わった三種の神器といわれた、冷蔵庫、洗濯機、テレビとかが出てきたからだ
この電器産業が輸出ともなり売れたので日本は目覚ましい高度成長時代を築いたのである要するに産業構造が変化したこととグロ−バル化して輸出を日本がになったことで高度成長時代を築いたのである

その高度成長時代を築いた中心がが団塊の世代である、その人たちの話を聞くとわかる
私の家でも駄菓子屋のようなものを始めた、その時別に何のノウハウもない、全くの素人であり商才もなにも関係ない、第一私の家ではそういう商売に向いている人はいなかったのである、でも成功したのは時代だったのである
その時物がないからただ物を置けば売れたのである
ちょうど角に家があり場所が良かった、その頃車もないから場所が関係していたのであるただそれは他でもみんなそうした零細な商売でも繁盛したのである
それは中小企業でも同じである、電器産業になり部品を調達するために中小企業が繁栄した、それで人手不足となり金の卵は地方の中卒が東京などへ集団就職したのである

なぜ日本が今貧乏になり衰退して後進国にすでになっているというとき輸出産業の大手の電器会社がもう終身雇用ができない、45歳でリストラとかなっている
もう電器産業は中国でも韓国でも同じものを作り品質も変わらなくなったからである
パソコンだって中国製品と変わらないとなれば日本の製品は売れないとなる
するとどうなるのか?もう日本で外国に売れるものはない
でも石油とか材料とかを買わざるを得ない、そうなると苦しいとなる
そしてIT産業には乗り遅れてスマホでも中国の方が優れているとなった

だから産業構造を変化しないかぎりもう日本は貧乏国になり発展途上国になる
すでになっている、すると産業構造を変えるにはどうすればいいのか?
それが大問題になる、そして過去をふりかえると日本はグロ−バル化した結果
石油とか外材とかいろいろなものを輸入に頼りすぎたともなる
でもそれがこれからできなくなる、第一売る物がなくなる、車でも中国で電気自動車を自前で生産している、そしたら車さえ売れなくなるのである

ではこれから日本はどうするのか?
国内産業と国内需要にもどることではないか?
国内の資源を活かすとか国内でなるべく生産できるものを生産して外国の物を輸入しないそれより輸入する金がなくなる、輸出するものがなければ金が入ってこないからである
すると江戸時代のように自給自足のような生活にならざるええない
日本には本当に森が70パーセントでありこの資源を利用していない、もう外材を買う金もないとしたらこれだけの資源を放っておくことはできない
日本がにある物でまかなうほかないとなる

何か時代が逆戻りすることが歴史ではあるのかもしれない
日本の人口が減るという時もそれもこうした時代とマッチしてそうなってきている
それだけの人口をもう養う力が日本がにはなくなったからである
そうなれば人口だって減らざるをえない、それをとめることができない
そして日本人の人口の適正規模は8000万くらいなのかもしれない
大正時代で6000千万でありそのくらいの時はかえって自然と調和した社会だったのである東京でも百万くらいだとするとちょうどいい人口だったともなるからだ

つまり時代の変化がありそれをすべて否定的にとらえるのではなく、人口減少でもプラスの面はあるしまた輸出産業がないとしても国内生産と内需にもどるとどうなるのか?
森林資源でも他にも国内の資源が活かされて地方も活性化するとかなる
農業も荒地が多いがもう輸出産業がなくなればそうした荒地でも耕して食料を確保しなければならない、戦後の引揚者がわずかの土地を求めて農業を仕事をしたのと同じになる
でも半分は厳しくてやめた事情はある
活かすものがないとなるとそういう時代になる
すると地方に人が移住して活性化して過疎化も解決するとかなる
いづれにしろ膨大な高度成長時代に生まれた中小企業でももう成り立たなくなっている
何か起業してもうまくいかいない、それは時代だからである
能力があるとか関係ない、高度成長時代では私の家でもそうだが別に能力がなくてもみんな成功していたからである

おそらく今たりないのはこうした時代に適応したマッチした国家的政策、グランドデザインを描くことかもしれない、個々の問題はいろいろあるにしても戦略的思考が必要なのかもしれない、時代に適応した国家的戦略をもちそれに向かって国民が一致協力するとなるネガティブなものがあってもそれをボジッティブなものに変える
かえって地方が活性化して日本全体で自然と調和がとれた社会になるとかのビジョンを出してみる
もちろん時代は逆戻りはしない、でも何かやはり時代は常に過去を歴史をふりかえり進むともなる
つまり日本の産業は国内中心の産業と需要にする、国内の資源を極力活かすとかする
それは江戸時代の逆戻りだとかなるがそれが理にかなっている
何か方法があればいいがないとしたらそういう方向にもってゆくほかないからである

とにかく時代の変わり目でありそこにいろいろな矛盾とか問題が噴出する
戦後70年で大きな根本的変革が要求されているのである
そのグランドデザインが描かれていないのである
つまり個々の問題をいろいろいっても解決しない、日本全体をどうするのかという大きな視点と戦略とビジョンが必要になっている
もしそれができたとき一眼となって日本人がすすむとなるからだ
ただ正直私の言っていることは一つの提案にすぎない
私自身そうした大きな視点とか戦略とかグランドデザインを描けないからである
ただ過去をふりかえるとこういうことがありそこからまた未来を見るということで書いただけである

posted by 老鶯 at 09:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2019年05月26日

夏蝋梅、夏の庭に畑(クリスマスローズの詩)

     
夏蝋梅、夏の庭に畑(クリスマスローズの詩)

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chrisumasrose1.jpg

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涼しきや夏ろう梅の葉陰にそ石の一つの休みけるかな

うつむきてクリスマスローズ石の側長くも咲きて夕日さすかな

黄菖蒲のあまた咲きにし畑にそ笑い声ひびきなお暮れぬかな

夕べなお明るし庭に咲き初めぬ夏蝋梅や道に面して



クリスマスローズ(冬の貴婦人)

石のそばに
クリスマスローズが
いつもうつむき咲いていた
長く咲いていた
この花にそっと誰かふれなむ・・・

この夕べ光りが庭にさし
その花にさした
その花には陰になり
光がささなかったが
今日光がその花にさした

いつもうつむいている花
うなだれている花
石のかたへにひっそりと
冬の貴婦人という名がいい
でも今はもう夏なのに咲いていた

神この花を知りやはり光がさした
それを知ったのは何か月も過ぎてからだった
でも神は見ていて光がさした 

黒揚羽が庭に舞い家に籠る
その石のかたへに神の加護ありて
我は安らかに眠らむ 

Christmas Rose

By the stone
Christmas Rose
It always bloomed
Long bloomed
It feels like someone touches this flower

This evening light is in the garden
I saw the flower
It becomes a shade to the flower
There was no light
Light came to the flower today

A flower that is always depressed
Nodding flower
Secretly to the stone
The name of a winter lady is good
But now it has already bloomed in summer

God knows this flower and the light still came
It was after months since I knew it
But God looked and lighted

God bless you by the stone
I sleep in peace     


これもグーグルの翻訳だけど何か韻を踏んでいる
それは偶然にしてもそうである
ただこうした翻訳した詩とかは外国人に通じるのか?
絵なら抽象画でも通じることがある
でも詩となると相当にむずかしくなる
第一自分自身が外国の詩を訳せないのである
だからグーグルの翻訳は便利である
ただ詩となると限界がある


クリスマスローズは冬の貴婦人であり冬に咲く花である
でも夏になっても咲いていた、長く咲く花である
今日は真夏の感じだったが浜通りは30度は越えない
海からの風が吹くからだ
その花は

耐寒性強い
耐暑性弱い
耐陰性強い

というとき冬にふさわしい花なのである
日陰に向いている花である
だから長く咲いていたのか?
でも本当に長く咲いていたのである、枯れないのが不思議だった
それは日当たりが悪いからかえって良かったのかとなる
場所にあっていたから良かったとなるのか?

花にはいろいろあり性質があり育てるのもむずかしい
私の庭はここは納屋であり土が悪いから花を植えても育たないのが残念である
ただバラは咲く、30輪くらい蕾が出ている
根が深く張るのは育ち花が咲いている
夏ろう?梅でもそうである、これは大きな葉が育ち木陰をなすので夏にふさわしい
本当はもっと花を楽しみたいが庭が狭くて細くて鑑賞できない
第一庭の手入れ自体がめんどうになる、人間一人でそんなにいろいろなことはできない
手伝いさんとかは今はなにもしない、何か金ばかりせびられるので頼みにくい
私は金持ちでもないからである

ただ畑代は払っている、畑をの話を聞くのが興味あるからだ
川端に黄菖蒲が一杯咲いていた、そしたら夕べ木陰の道で休んでいると畑に女性の大きな笑い声が聞こえた、その声になにか陽気な気分になった
なぜなら畑をしている女性から聞くことは憂鬱なことが多いからだ
絶えず周りを気にしている、近くに団地のビルがあるがそこからも見ているという
そんなところから見ている人がいるのかとなる
隣の畑とかでもその人が気になり心が休まらないのである
そしてカンナの花も盗まれたとか必ず盗まれる話になる
この前は組費を集めて盗まれたとか必ずトラブルになるのである
それを自分が払わされるから嫌になるのである
ただ花とか畑に詳しいからそういうことで受け入れているのである

いづれにしろ畑に大きな笑い声がひびいたときは平和が戻ったということを感じた
やはり生業がないとその土地も死ぬのである
原発避難区域の小高であれ浪江であれ草ぼうぼうであり田畑は荒地しかないからだ
するとそこに生業もないから死んだものとなる
活気が生まれてこないのである、それは飯館村でもそうである
そこに生業があり人の手がはいり笑い声でも聞こえればその土地は活きているのである

それで田んぼに満月が映り蛙の声が合唱がひびいた、その時も元に戻ったということを感じた、つまり蛙と田んぼは一体化していたのである
田んぼがなく荒地になっていれば蛙もいないからである、、蛙も生きることができないからである
そもそも田舎は田畑がなければ田舎と感じないからである
ロボットとかドローン工場ができてもそれは田舎にふさわしいとはならないからである
ソーラーパネルでもそうである
そこには何か安らぎがないのである
だからビルばかりの東京とかなるともう精神的に異常化してくる
そこになごむものがないからである





2019年05月25日

原発事故の原因ーその地に住む者と住まない者の差 (責任は住む者に強いられるー東電の人は住んでいないから無責任)


原発事故の原因ーその地に住む者と住まない者の差

(責任は住む者に強いられるー東電の人は住んでいないから無責任)


原発事故の原因とか責任を追及してきた、その原因は一つではないし多様なものがある
だからこれだけの大事故だともう国全体の責任として国民全体の責任として波及したし世界的責任にもなっていた
何故なら海とか大気まで汚染されたからそれは一国とか一地域の問題でなくなっていたからである、原発は日本だけではない世界的な影響があるものとして事故が起きた
それはチェエルノブエリですでに証明されていた、ヨ−ロッパ全土に波及したからである
福島の事故ではそれがなぜ起きたかとなるいろいろ原因はあり追求してきた
人間は住んでいる場所に一番関心があり住んでいる場所を良くしようとする
住んでいる場所が何であれ汚染されたりすると住めなくなったりするから敏感になる
毎日使う水でもなんでも汚染されたら住めなくなるからである

つまり何であれ住んでいればその住んでいることだけで責任を強いられているのである
そういうことは自覚されないが今回のような原発事故とかなるそこに住んでいた人が住めなくなり責任を強いられたのである
だから住んでいること自体責任が課せられていたのである
生れたときすでにその土地に責任をもたされていたともなる
なぜなら親がいて先祖がいて次の代もありうるからである

家だって住んでいると汚れればきれいにしよとかなる、放っておくとゴミ屋敷になってしまう、だからすでに家に住むこと自体家に責任が生じて掃除することを強いられているのである、責任を持たされているのである
何かを所有することは責任をもたされる、土地をもっていればそこを荒地にしていれば土地を有効に使わないとして土地をもつ権利すらなくなる
現実に山でも明治以降無数の権利者がいてその山全体を有効に活用できなくなった
ただ名前だけで土地を所有されているのはもう権利がないと法律もできる

原発でもそもそも東電では東京に作るのが筋である、送電線の費用もいらないし合理的だったのである
それを福島にもってきたことが災いになったのである
まず離れているということで無責任になる、東京には300キロ離れているから事故があっても安全だとなる
そこに東電の幹部とか社員が住んでいて福島に一部は住んでも住んでいない
すると住んでいないから無関心になり真剣に原発の安全など考えないのである
だからこそ東京に原発を作ることが安全を守ることだったのである
なぜならそうなればすぐ近くにあるのだからもう絶えず監視して安全を守るからである
ただそうなると反対勢力が大きくなり原発は建てられなかったとなる

そして事故になった時、離れているから的確な指示を東電の経営者はできなかったのである
そこで吉田所長の肩にその責任がのしかかったのである
実質的に原発の責任者になっていたからである
でも東京と離れているので意思疎通ができなくなっていた
それは東電の幹部でもそこに住んでいないからである

何かそうして離れていると支持もできなくなる、日本の戦争でも満州の陸軍が中央の指示を無視して暴走したとか他でも大帝国になると地方の支配がままならず反乱が起きてくるそれは離れているから中央の指示が通らなくなるためである
何かかならずそこに行き違いとか生じてくる、意志疎通がスムーズにできないのである
そうして大帝国でも崩壊してゆくことがある

そして東電にしても福島原発でも上の人がいて現場をで働く人たち、電気関係者でも千人もいたというのである
その人たちは原発の危険性を現場から見て知っていたが東電には逆らえない、東電の命令は絶対だとなっていてその危険性があっても上の人は聞かないし抑えるだけだったのである
つまり絶大な権力をもてばそうなる、その権力者に逆らうことはできなくなる

こうして東京の幹部と現場の福島の吉田所長などの乖離が起きた
いくら情報がやりとりできるとしても現場との乖離が生まれた
それは住んでいないから危機感がもともとなかったからである
福島原発の回りに住んでいたら危機感が違っていた、そのことから危機感がもともとなく大事故になった
一方で女川原発は東北電力であり地元である
それでその時東北電力の副社長が10メートルの高さに原発を建てようとしたとき15メートルにした結果すれすれで助かったのである
それも危機一髪だった、ただ女川とか三陸地域は津波が明治にもあったからそういう危機意識があったからそうできたともいえる
だからもしかしたら東北電力が原発を建てていれば危機意識があるから違ったものとなっていたかもしれない、東電は東京であり離れているから危機意識を持たなかったからである

いづれにしろそこに住んでいる人は原発がすぐ近くにあるのだから放射線とかのことがわからないにしろ危機意識を自ずともつはずだったのである
毎日原発の煙突を見ていたからである
ただ私の住んでいる所は30キロ離れていたから関心がなかった
それが福島市とか中通りまで影響したのである
福島県民も離れていると思い関心がなかったのである

いづれにしろ人間は住んでいる場所に一番関心があり責任が強いられている
だから駅でも鹿島駅のことを書いてきたが鹿島の人が高校生の見守り役でもかかわるべきだったとなる
なぜなら鹿島に住んでいる人とまた原町に住んでいる人は違うからである
鹿島に住んでいれば鹿島のことに一番関心がありまた責任が強いられるのである
そして一番駅に関心をもっていたのは駅前の自転車屋だったのである
なぜなら四六時中駅を見ているから一番詳しかったのである
私はただ毎日買い物帰りとかに昼間寄っていた、それで関心をもつようになったのであるそこはすく近くで住んでいるからである

ともかく住む場所に一番関心があり責任も強いられる、そうでないものはやはり関心がない、外から来る人でもその駅に継続的に関心はない
一時的であり一回くらいしか寄らないとすれば関心がない
そこで何か駅に要求することもない、でもそこに住んで鉄道を利用するとなると違ってくるのである、日々利用していれば鉄道に関心をもつからである
ただ車時代では鉄道を利用する人が少ないから関心がないのである

グロ−バル経済でも物が入ってきてもその物を作る人に関心などない
そこに住んでいないというより国外なのだから関心をもちえようがないのである
だからそこに住む者と住まない者の差は本当に大きい
関心の持ちようが根本的に違うし責任も強いられる
そうして現実に多数の人が故郷に長年住んだ場所に住めなくなったからである
住めなくなるということが最悪だったのである
住むということがまずできてこそその他のものがありうる、住めなくなるればもうすべて終わりだともなってしまうからである

posted by 老鶯 at 17:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

貨幣に頼ることで生まれた大きな弊害 (グロ−バル経済では投資でも金の流れが見えない)


貨幣に頼ることで生まれた大きな弊害

(グロ−バル経済では投資でも金の流れが見えない)


グロ−バル経済になると金がどう流れているのか?それがわからない、見えないのであるだからいくら世界の富が数パーセントの人に蓄積されているというのもわからないから見えないからその人に怒りをぶつけるわけにもいかない
それは王様がいたらフランス革命のようにギロチンで殺されるとなる
それは明確に格差社会であり階級社会に対する反乱だったからである
それは中国でもそうした金持ちに対して反乱して盗賊の首領が実際に一時的でも王様になったのである、皇帝になったのである
それは攻撃する相手が見えたからそうなったのである
グロ−バル経済ではでは数パーセントの人が富を収奪しているとしてもその人が誰なのかとなり見えないから陰謀論で終わっているのである

金が血液のようなものだというときその金の流れが見えないのである
その金の流れは江戸時代とかだけではない、戦前でも金の流れは狭い経済圏だと見えていたのである、だから巨万の富を得ていればそれが見えるから反乱するということはあった地主と小作は明確にその差がわかる、地主に対して不満を向ける、それで太宰治の家は大地主であり米を収めさせていた、高い塀で囲んでいたのは小作の不満があり攻撃されることがあるからだった、警察も地主の見方だった、今でも金持ちの上級国民の見方が警察でありその構図は変わっていない
なぜなら小作は汗水たらして働いている、そしてその米を地主に与えるから目に見えているのである、すると不満をぶつける相手がいつもはっきり見えているのである
それは江戸時代でも一揆が起きたのはそれが侍が搾取しているとかその対象がはっきり見えているからそうなった
汗水垂らして収穫した米を年貢として納めることでそうなったのである

今の時代はそういうふうに不満をぶつける対象がグロ−バル化しているのだから目に見えない、世界市場は見えざる手によって導かれているというが実はサタンによって導かれているともなる、公平な市場はないのである、そんな世界の富が数パーセントの人が得るということ自体なんであれシステムとしてもう経済は機能していないのである
投資しても世界の株式市場に参加しても実際はそこにこそ株式のプロがいて一般人はカモにされているだけだというとき本当だった
株の上げ下げは巧妙にそうした世界の経済を支配するグロ−プによって世界のエスタブリシュメントによって操作されているとしている
つまり株式市場では一般人が参加してももうけられない仕組みになっていたのである

だから目に見える経済とは狭い世界でしかありえないとなる、エコノミーが家政から始まっているのだから経済という時家政だったのである、それなら手にとるように見えるからである
地域貨幣を作り出そうとしているのも経済を目に見えるにするものであり何か年貢で税金を納めることモノで治めると経済がわかりやすいというときもそうである
なぜなら貨幣になるとそれが便利でも不正もしやすくなるからである

それでグロ−バル経済になり金融資本主義とかただ金を右から左に流して巨利を得る人たちが現れたのである、貨幣というのはもう今は数字なのである
数字を操作するだけで巨万の富が流れ込む仕組みが現代の資本主義である
だからそういうことで貨幣万能主義とか金万能主義に陥ってしまった
それは貨幣自体があまりにも便利であり今は市場はコンピュター化されている
結局タックスヘイブンとか騒いだけどマネーロンダリングでも止めることはできないという、その国に税金を払わない巧妙な方法があり大金持ちは今でもしているという
それも金の流れがグロ−バル経済によって見えないことから起きているのである

何か私はその人に何も働いてもらわないのに金を与えた
その金はその人とその非正規の息子とその女性の前の夫に流れたことが眼に見える
その前の夫は青森の施設に入ったからである
すると金の流れはその困窮した女性に流れ息子に流れ前の夫の施設に入った人に流れた
それからその夫を世話する青森の介護する人に流れた
こういうふうに身近だと金の流れが眼に見えるのである
ではそれが有効に働いた金なのかどうかわからない、ただ困窮した人に流れて息子でもその前の夫でも助かったとはなるし青森の施設に働く人も助かったとはなる

今は金は投資したってグロ−バル経済ではどう流れているかわからない
それでクラウドファンディングとかインタ−ネット上でできるようになった
それは小規模の個人の事業でもインタ−ネットで集められるからである
とても銀行ではそうした個人には金を貸さないからである
そこでもう銀行の役目はなくなりつつあるともなる
金を貸す相手がなくなりつつありそうした個人事業者などに金を貸さないからである
これも金の流れを目に見えるようにするものとして働かせるものなのである

郷土史などというと何かその地域だけの狭い閉ざされた世界の探求だともなるがこれもやはりその土地に根ざして目に見える経済としても探求しようとしている
それが一つの無人駅で報告することがあれほどあったということが自分でも驚きだったのである、となると他でもそうして地域の一部分でも仕事でも報告することがあると思ったただそれが報告されるていてもわからないとかはある

とにかく現代は社会が見えない、その見えないことから原発事故のような危険があったことを自覚する、第一原発はすぐ目の前にあっても誰も中に入ることすらできない
地元の人でもできない、私たちはここに住んでいるからどういうものか知りたいのですが中を見せてくださいとか教えてくださいといってもできないのである
そこは秘密のベールに閉ざされているだけである
国家機密だからできないともなるからだ

そうして目に見えないことから大事故とかが起きてくるのである
金の流れでもそうである、目に見えない知り得ないからそこに不正があり巨額の金が誰もしりえない人たちに集められる、でも抗議もできないとなる
そこにグロ−バル経済の限界がある、そんな広い天文学的金が流れる世界市場では不正が行われても見えない、そこに限界が生まれる
突然リーマンショックのような破綻が生じる、そういう世界的恐慌とか破綻が近づいてるそれは必然的グロ−バル経済は宿命としてなる
資本主義だけではない中国のような共産主義でも同じなのである、やはりグロ−バル経済の中にあるからである
世界的に同時にそうした破綻が起きてくるのである


2019年05月24日

抽象画の建築の変化のデザインの不思議 Wonder of the design of architectural change of abstract paintings

抽象画の建築の変化のデザインの不思議

Wonder of the design of architectural change of abstract paintings



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Japanese architecture

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a hidden port 

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建築と抽象画の関係あるのか?絵画と建築は密接に関係していた
なぜなら絵画は独立していない、もともと建築の一部でありまた音楽でも大聖堂と一体化してあった、つまり建築と一体化してあった
大聖堂の一面にキリスト教の絵画とかが描かれていたし仏教建築でも寺の中に絵が絵がれていたとか城の屏風に絵が描かれていたとか建築と一体化して絵画があったからだ
その後に絵画が建築から離れて独立して存在するようになり売買されるようにもなった
そのように近代化とは何でも分離してゆくことなのである
部分化してゆくのである

不思議だったのは竹中工務店のホームページの写真をきりとり抽象画に変化させる
ここは空港だったのである、すると空港にあったデザインにソフトで変化したのである
それが何か斬新なものとなっていたので不思議なのである
こんなふうに普通はなるとは思えないからだ
でも前にもこうして建築をソフトで変化して作ったものがある
何か建築をデザインしているのかともなる

この私が作る抽象画が自動生成しているから実際はAIが作っているとなる
だから大量に作れるのである、自動生成していればそうなる
それを選んで多少手直しするがそうすると何か不自然にはなる
でもそのままだと著作権違反になる、見本としてこれは著作権違反になるだろうか?

とにかくデザイン分野とこの抽象画の製作は関係しているとなる、デザインとなると建築であれ他の製造物でも関係するとなる
そのデザインにもコンピュターがソフトの製作が深くかかわってきているのである


Is there a relationship between architecture and abstract painting? Painting and architecture were closely related
Because the painting was not independent, it was originally part of the architecture and the music was integrated with the cathedral, ie it was integrated with the architecture

Christian paintings were drawn on one side of the cathedral, and even in Buddhist architecture, pictures were drawn in the temple, or pictures were drawn in the style of a castle, or pictures were integrated with the architecture Body
After that, the paintings were separated from architecture and became independent and became to be sold
As such, modernization is about separating everything
It will be partialized

What was strange is to change the photos of Takenaka's homepage into abstract images
It was an airport, and then it was soft and changed to the design at the airport
It is strange because it was something new
It's because I don't think it's going to be normal like this
But before, there is also something that changed and made architecture this way
It is also possible to design something

Because this abstract image I create is automatically generated, AI actually makes it
So you can make a lot, it will be if you generate automatically
Choose it and make some adjustments, but if you do, it will be unnatural
But if that is the case, it will be a violation of copyright. As a sample, will this become a violation of copyright?

Anyway, the field of design and the production of this abstract will be related, both in design and in architecture and other products
The design of software is deeply involved in computer design as well.

2019年05月23日

なぜ日本の技術はITなどで遅れたのか? (日本の文化(言語)と相性が悪かった?)

                                                        
 なぜ日本の技術はITなどで遅れたのか?

 (日本の文化(言語)と相性が悪かった?)


動詞が文末に来る頻度が高い言語の話者は、陶磁器、光学機器、自動車のように、単体で完結する製品やサービスで強い傾向があり、目的語が文末に来る頻度が高い言語の話者は航空機のような大規模なものを作ったり、PCやスマートフォンのように他のさまざまなものと相互作用をこなすものを作るのに強い傾向があります。


ベストプラクティス、テンプレート、こういったものがないと動けないのが日本人の悪いところだと思うのです。これらは強いていえば、すべてコピペです。日本人はある技術が元々あって、それをより良くする、量産するといった、熟達させることは得意です。匠の技というのも歴史のある技術を熟達させたものを指しますよね。それはそれで日本の素晴らしいところではありますが、0から1を生みだすということに関しては、世界と日本とでは雲泥の差があると思います。これを自分の課題としてしっかり見つめることが重要です

言葉が技術と関係しているのか?詩を書いたりしていると言葉自体に興味をもつ
言葉は一番その国の文化をなのである、言葉が文化のアイディンティティなのである
すると言葉の問題もあってITに日本がは遅れたのかとなる
ここでドイツ語と日本語は語尾に目的語くるというが英語の基はドイツ語だとするとそういうことがあるのか?
ただドイツと日本は物つくりは得意だがITに送れていることでは共通しているという
技術でも何か得意分野がありITはまた他の技術と違っているのである
どうしても英語でプログラムでもコンピュター言語化してソフトでも作るのだから英語圏の人は有利になりインドでは英語圏であり数学も得意だからIT分野の人材が出やすくアメリカでソフト制作を委託されるようになっている

私は技術はわからない、文系だからわからない、でも何かパソコンをしていて抽象画を作っていてITとかAIの技術にかかわっていることを意識した
抽象画はソフトの操作で自動化してできるからである
森であれ川であれ電車が多様なシーンを進む地球を進むシーンを抽象画として作ることができたからである

IT化というとき膨大な情報を処理する能力のことでもあった、AIでもそうである
膨大な写真がインタ−ネット上にありそれを処理する能力である
それはきりなくあるから抽象画もきりなく生産できるのである
写真の加工が基本だとするといくらでもビッグデーターとして写真がインタ−ネット上にあるからそうなる

英語は何か数式とにたものがありそれがインタ−ネットやAIやプログラミングするのに適していた、相性が良かった、日本語であれ漢字であれ相性が良くない
でもなぜ中国ではあれだけIT化してアメリカを追い越すまでになったのか?
となると漢字文化圏であってもITの技術進歩はできるとなる
だから言語だけが関係していたともならないのである
ただ中国人は日本人より英語ができる人が多いのである、しゃべれる人も多いのである
語順が同じだということもあるかもしれない、その理由は良くわからない

「I leave A for B.」「I leave B forC.」「I leave C forD.」 

He left Tokyo for Nagoya(東京をたって名古屋に向かった)

これは何か数式のようになっている、英語は数式的なところがありそれてでITに相性が良かったのか、それとも英語的思考がITを生んだのかともなる

動詞が最後に来るとなると

私は森の中に鳥を見た 

私は鳥を見た森の中に

I look a bird in the forest


その相違があるが動詞が先に来て目的語がつづく
結局絶えず動くものを見ているのが動詞が主語の次にきて前になりやすい
でも最初に景色を見ているものは動詞が後になりやすい
森だったら最初に目に入るのは森だからである
その後に鳥でも動物でも動くものをキャッチする

日本では森が多いしドイツでももともと森でおおわれていた国である
それで共通しているのか?
平原とか砂漠だとまず動くものをキャッチするから動詞が先に来る
目的語も動詞の次にきて文頭に来る、そのバックとなる景色はあとになる 
次々に変化するものとらえるということでその変化に適応できるということで英語が有利だったのかともなる
農耕民的だと定着して一つの物造りに励むとういことがある、その物にこだわり作り上げる
それは農耕民ではない、森の民の縄文人でも縄文土器を作ったからにている
ただこれどういう関係になるのか?今一つ納得がいかない

確かなことは縦書きと横書きの感覚は相当な文化の相違だとみる
縦書きと横書きではかなり違ったものだからである
ところが漢字は縦書きである、でも漢字は横書きでも何か英語のようになる
日本語はまず縦書きでないとかなでも表現しにくい言葉である
ここに精神性と文化の相違が生まれる
縦書きということは上意下達のようになる、日本語で尊敬語が多いのはそのためである
英語だとIとYOUであり人間関係も対等となるのである
言葉でもそうだがアメリカのように現実社会でもそうである、特にクィーンズイングリッシュよりアメリカ英語は庶民的なものとなっているというのもわかる
アメリカ自体がリンカーンから始まった平民の国だからである

いづれにしろ日本語自体にも文化にも何かITに適さない言語でありそれで遅れをとったともなるのか?
日本語はかなもあるしカタカナも混在しているからわかりにくくなる、それはまずプログラミングでは使えないともなる
ただ漢字の方が横書きでも通じるし簡潔化されている、、かなが入る日本語はいい面として機能したとしても何か簡潔さに欠けているし上意下達になった
それが英語のようにプロググラムミングするのに適していなかったのかともなる
物造りだったら言葉が関係していたとも思えない、それはただ物を精進して丹精を尽くして作り上げる職人文化が日本がにもありドイツにもマイスター制度があり似ていたのかとなる

つまりIT化とかAI化とかコンピュター関係とかで日本が技術的に遅れた原因は文化的要因がありそれで遅れて世界から取り残されたともなる
だからそれは日本の文化とも関係しているからそれを変えることができないからむずかしかったともなる
それから日本自体が天才を産みだすシステムがない、文化がない
ヨ−ロッパに多数の天才が生まれたのにも文化があった、地方都市で育まれた経緯がある日本には天才を生む土壌がなかった、教育でも画一的であり同調圧力が強いから個性あるものが敵視されて排除される
そうして様々な要因でIT化で遅れとりそれが経済の衰退となっていった

日本が技術的に優れているとか、頭脳が優秀だとか言われたときは電機製品とかを故障しないものを作ったとかで世界に売れたからである
でもそれは何か発明とは違っていたのである、細部にこだわる文化があり精巧なものを作るという文化が歴史がありそれで一時は成功して日本が技術的に優れているとなり日本人は頭いいとされた、今でも日本の技術は優れいるという感覚をもつ
でも日本の技術はIT化とAIで相当に遅れてしまったのである
それを証明したのが安全神話を作った原発だったのである

日本の技術は優秀だから事故は起きないとしていた

これも奢りだったのである
そこに一時は日本の電器製品が世界一だとしていた奢りがあったことで失敗した
日本人は発明とかは苦手である、ただ精密に細部にこだわり精巧なものを作る物造りにはすぐれていた、それはドイツと共通していたのである、原発でも巨大なものは操作するのはアメリカが優れていた、安全管理も優れていた
そこには技術ても戦略的思考があったからだともなる、日本は個々の細部にこだわっても戦略的思考がないからである
結局日本の高度成長時代で電気製品中心になったのはそれはたまたま幸運だったともなる日本人が優秀だからとは言えなかったのである、現実に今や中国があれだけ技術的にも躍進していることでわかる、中国人の方が優秀だと今ではなっているからである
ここには国自体のスケールの相違とかその他にも原因はある、何でも総合的なものとして働くからである
何か総合力で中国が優ったからだともなる

世界史でも技術的な面でも興亡がある、中国が優れていたときもありイスラムが優れていたときもありやがてヨ−ロッパが主導権を技術的に発揮した
そういう技術面でも興亡を繰りかえすのが人間の歴史である
では日本がそうして技術的面で世界で優れていたのか?特別の発明をしたのか?
品質のいい物つくりはしても発明はなかった、それが今日本の衰退となった
そこに日本の文化が世界的になりえないものがあったとかなる
日本語は民族のアイディンティティの文化の最たるものであってもIT化とかAI化の技術には不適合な言語だったともなる
ただ言語がどのようにIT化とかに影響しているのか正直説明しにくいだろう
明治維新ではヨ−ロッパの文明を紹介する時に日本人は漢字を利用して翻訳した
かなだけでは無理だったからだ、そもそもかな自体が漢字から作ったのが日本がだったのである
英語は横書きであり漢字のように日本語化できなかったこともある、そういうことは確かに影響していたのである

施設で老人が若い介護士に殺される (介護は動機がないとできない、老人の虐待日常的に起きている)


施設で老人が若い介護士に殺される

(介護は動機がないとできない、老人の虐待日常的に起きている)


 勤務先の有料老人ホーム「サニーライフ北品川」(東京都品川区)で入所者の男性(82)を暴行して殺害したとして、警視庁は22日、元介護職員の根本智紀容疑者(28)=東京都新宿区北新宿4丁目=を殺人容疑で逮捕し、発表した


このサニーライフは月の料金が23万とかそれなりにいい施設なのかもしれない
東京だと高くなる、ただ必ずその他にもいろいろ料金がかかり要求される
だから本当は25万くらいになっているかもしれない

なぜこの介護職員が殺人までにいたったのか?

それが知りたいとなる、なにかこういう事件はこれから増えてくる
認知症の介護だったのか?何が原因でそうなったのか?

介護問題はこれからさらに深刻になる、知っている人も非正規の建築現場で働いているのに親が施設に入った
それもこの辺の近くでは立派な施設があっても介護する人がいないから青森の施設に送られた、この辺では青森に多く送られているのである
つまり介護する人がいないのである 
そして施設に入れば後はみんなやってくれるというがその非正規の息子は施設から別途に金を要求されて払っているのである
つまり施設に入れたからといってそれで終わりではないのである
その人は金持ちではないから最低辺の施設に入れた、それで青森に送られた
青森は仕事がないのでそういう人を受け入れていたのである

介護する人がいないというとき介護の仕事が過酷だからそうなっている
誰もやりたくない、家族でもやりたくない、それで金がある人は施設に入れる
でもそこが介護される人にとっていい場所とかなるとはならない

介護の問題は何かエネルギーが奪われる、肉体的にも精神的にも奪われる
そういう仕事に若い人がつくのは何の生産的なことがないともなる
自分自身10年かしてもう肉体的精神的にエネルギーが奪われた
ただ私の場合は特別親に世話になったから自然と介護を懸命にしたのである
そういう動機が特別あったからである
だから認知症になっても懸命になってしていたのである

では介護施設では若者がそんな動機などないとしたらどうなるのか?
貴重な青春時代のエネルギーを奪われるだけだともなる
ただ別に若者の仕事でも最底辺で非正規で辛い仕事をしている人はいくらでもいる
自分も最底辺の肉体労働をしていたからである
ただそれも一時的でありそれ以後一切仕事はしていない、後は旅していただけだとなる
つまりそういう仕事でも一時的なら救われるのである
それが若い時長くつづきさらにその仕事で何かスキルがつくとか生きがいになればいいがならないとしたら誰もしたくないのである

何か自分は30頃だったとか親戚の人が叔父にあたる人が手術をするので輸血してくれとか頼まれたが断った
その時山登りして非常に疲れてしなかった、つまり自分のしたいことをして老人のために病人のために何もしなかったとなる
このように今なら介護とか病人の世話より若いなら遊びたいとなる
そういう時代であり介護とかなると誰もしたくないのである
自分が家族の介護をしたのは若い時ではない、60以降だったからである
それは特別世話になったから自然と介護に懸命にれたのである
もし若い時そんなことを強いられたら親を恨んだともなるからだ

山登りでも今になると体力がないからできない、すでに40頃から自分は登山をやめた
体力がないのでやめた、それで自転車旅行に切り替えたのである
自転車旅行も若い時はできないとと思っていた、でも実際は40過ぎても自転車旅行はできた、なぜなら疲れれば休めばいいからである
そうして私は旅ばかりしていたとなる
そのプラスマイナスはあった、仕事をしない人間は会社のことを知らない人間は何か欠けたものになる、それで介護では苦労したのである
介護では社会とかかわるからである、それでニートは親に頼っていられるときはいいが親が介護状態になりそれから死ぬと地獄になる
もし金もないとしたら最悪になる、それをプログで書いてきた
誰も同情しない助けない、弱者になった結果困窮した人たちが襲ってきたからである

いづれにしろこれからこういう事件が増える、これがどうして起きたのかわからない
原因がわかないがこういう事件が起きやすくなる
たとえ金持ちが入る施設でも起こる、かえって金持ちに若者が使われているとか不満になっているかもしれないからである
つまり介護には動機が必要だが金だけだったら手厚い介護はできないからである
それで虐待になる、非正規の底辺労働者は身寄りもなくあとは施設に入れられて虐待されて死ぬだけだと恐怖を語っている
身寄りがないとそうなりやすいので恐怖になる、そういう人を自分自身も見ている
病院でも特養に入っている人が虐待されていたからである
自分も病院に入院して虐待された
虐待は日常的にある、ただ殺人までになるとなかなかないが当然殺人までなることがありうるしこれから増えるのである、だから施設とか病院は自分自身が恐怖なのである



サニーライフの評判

ここも悪徳ブラック?

サービス残業や休日返上が当たり前の社風

入社後の離職率が高い。大量採用、大量退職を繰り返している
スタッフがやる気なくして次々と辞職

社長なんかが施設みたいな豪邸に住み、ロールスロイスポルシェベンツマイバッハとかを会社の経費として乗り回して、下は薄給そのものじゃ 
当然、下の人間は(不当な搾取に)あまりにも馬鹿馬鹿しくなり、まともな神経で働かなくなる罠 

ここの支配人の月収は25万円で、土日祝祭日出勤当たり前、残業手当はなし。 
こんなんでモチベーション維持して働いていけますか? 
支配人もそうだけれど社員は消耗品で使い捨てで、潤っているのは経営者一族を 
始めとした一部の人だけなの?これじゃ何かと世界を騒がしているどこかの国と 
変わらないんじゃないか? 

贅沢は言わねえけどそろそろ休みが欲しいよ。 
ベテランはどんどん辞めてくだろ。


やはり離職率が高いからあまりいい評判ではない、働く人が働き安い環境がないと介護はむずかしいということか


posted by 老鶯 at 06:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 福祉医療−老人問題

2019年05月22日

夏野(萱浜をめぐる)


夏野(萱浜をめぐる)

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船遅し菜の花満ちて海藍し

赤と白桜井古墳につつじ咲く

夏菊の庭に咲き満ち海望む

縦横につばめの飛びぬ夏野かな

石一つ古代の跡や夏野かな

隠されし木陰の道の涼しかな


牡丹咲きつつじの映えて朝日さし影のなきかも栄なるかな

我が家に牡丹五輪咲きにつつ栄えありにし跡を継ぐかな

満月の田に映りつつ蛙鳴く声のひびきて平和もどりぬ


写真は瀬戸内海のどこかの島だった、そこに一面に菜の花が咲いていた
そこをゆっくりと船が行く、瀬戸内海だと絶えず船が行くのが見える
その時私は島めぐりしていたのである
それも何十年も過ぎると記憶もなくなる
ただ船にはひかれている、電車もそうだがやはり風景にとけこむからである
そして船を見ていると何か時間がゆっくり進むように思う
車とか電車でも早く過ぎるから時間が早く過ぎてゆくように錯覚するのである
ともかく現代は時間に追われている
そんなふうにのんびりと島から島をめぐっていたというのもふりかえると恵まれていた

それから日本の船はほとんど乗った
一番長かったのは沖縄まで一週間貨物で行ったことだった
東京からはその船しか出ていなかったのである
第一そんな船に乗ること自体がどれだけ暇人だったかとなる
菜の花の季節はと終わった、萱浜は菜の花と海の風景が見られた

牡丹が咲いてこれも散った、どういうわけか庭の牡丹だけは毎年五六輪咲く
牡丹はまさに栄いの花である
隣の庭に咲いていたのは牡丹とつつじである
そこは空家の庭である、塀がないから丸見えになる
主はいなくなっても花だけは咲いているというのも不思議である
ただこの家には人が住むというが未だに住んでいない

萱浜は夏野になっている、田んぼがあることはある、でも原野化しているのが多い
そこに夏の黄色な小さな花が一杯咲いている
新しい電動自転車は悪路でも行けるし平坦な道でも坂道でもすいすい行くから楽である
これに乗ると何かどこまでも行きたくなるのである



古代の泉官衙遺跡の正倉院がある場所を表示した案内を設置した
一葉松の近くでありあんなところだったのかとわかりやすくなった
ずいぶん離れていると思ったが泉官衙遺跡は広い地域だったのである
何かその遺跡の石が発見されて露頭してあったとか案内に書いてあった

ここまで運河があったということが証明されている
それを絵にしたのをパンフレットで出している
何かそんな運河があったのかと見る
湿地帯だったから船でしか行けないということがあったのだろう
古代には船が運送に利用されているのが結構多いのである
陸地は湿地帯とか道がなかったから原始の状態になっていて船で行った方が便利だったとなる

それにしてもあんなところに正倉院があったとは意外だった
つまり泉官衙遺跡は広い地域であり新田川橋の高平の西殿はやはり古代の泉官衙遺跡と関係しているのだろうか?
それだけ広い領域であったのは意外だった
ただ西殿の地名は古代に由来していない、なぜなら沢田館があり西殿と東殿があったからである
でも古代に由来して西殿と名付けられたものはあるから注意すべきである
タグ:夏野 萱浜

2019年05月21日

40歳の焦燥 (人生は30までで骨格は形成される、あきめるには早すぎるから苦しい)


40歳の焦燥

(人生は30までで骨格は形成される、あきめるには早すぎるから苦しい)

Love & Freedom(底辺労働者)の人がなぜ焦燥感に苦しむのか?
それは盛んに自ら言うように40だともう終わりだがそれまでならなんとか未来がまだあると見る
そういう中途半端な年齢だからだろう
でもすでに30を越えて40になると人間はもう決まってしまう
それでもうスキルもなにもないとか苦しむ
一生底辺労働で後は生活保護だとかFXで一発かけて挽回する他ないと悲壮感を漂わせている

人間は何か意外と20代くらいで決まってしまう、40近くになったからもうその一生は見えてくるとなる
「若き時に神を知れ」というのはそのためだった、この深い意味は若い時わからないのである
20代で求道しないものが30過ぎて40過ぎて求道できなくなっている
そんなことがあるのかというときふりかえるとあった
求道は最も命が盛んな時するものであり力が衰えた老年になってすることができなくなる
普通はこういうことを考えない、青春なら欲望のままに若さを発揮して生きればいいとかなる、そんな求道とか関係ないとなる
ただ求道だけではない、ビジネスでも仕事でも20代に骨格が形成されるから30過ぎると無理だとなる
だから人間は30でほぼ人生行路が決まるとまでなる
その20代があっというまに過ぎてしまうのである
やはりその時期が一番大事だったのかとふりかえるとなる

20代というとき何か人生はとてつもなく長いように感じるのである
永遠につづくようにも思う、だから年齢によって感じる時間は相当に違っていた
60とか過ぎると人生が終わるのがアッという間だったとなる
年齢によって青年と老人の差はこの時間感覚にある
人生が限りなく長いと20代では思っていたが過ぎてみればアッという間だった
そして20代でほぼ人生は決まっていたともなる
そしてすでに若い時は青春はとりもどせなくなっているのだ

ただ30までにほぼ決まるとしてもその先は長いこともある
私の場合は30年間旅に費やして終わったとなる
これも普通はありえないことだが正規のルートからはずれたからそのまま外れたルートを最後まで来たということになる
だから一旦正規のルートからはずれるとそのまま最後まではずれたままになる
20代でも正規のルートからはずれるとフリーターとかニートとかなり正規のルートにはもどれなくなる
時代が変わるにしてもそうなっいる

ただ人生百年という時今までと違った時間感覚をもつ必要がある
つまり成果を出すのはかなり遅くなる、60代とか70代になってもいいとなる
その先さらに百年生きるとなるとそうなるのである
だから長期展望ができる時代になっているのだ
何か成果を出すためにあせる必要はないのである
骨格は20代で決まるとしてもそこに肉付けする時間が長くなるのである

いづれにしろ40代の焦燥感はわかる
でもこれが60とか70とかなると消えてしまうのである
あきらめるから焦燥感が消える、なんとかしようとかもがくこともないのである

なんだ、人生は終わりなのか、これぽっちで終わりなのかと驚くのである
そして何か不思議な感覚になる
この人生は何なのか?人の出会いでもさよならだけが人生だとなる
人間は会ったとしても本当は分かれるだけだとなる
あなたとここで会いましたがすぐお別れです、私はあの世に行きます、あなたとは二度と会いませんとなるのも不思議なのである
例えば嫌な人がいようが常に嫁姑で憎み争っていようがその喧嘩していたのもなつかしくさえなるかもしれない、なぜなら二度と会えなくなるからである
現実に家族が全部死んでそうなったからである

この世にいつまでもいられない、人生はliveはleaveであり去ることだったとなる
とかなり次々に変わるのである、常がない、無常なのである
「I leave A for B.」「I leave B forC.」「I leave C forD.」.....
去ることが人生なら重荷もないのである
何かを重く背負うから背負わされるから人生は苦しくなる 

でももうこの世から去るだけだ、この世とはお別れだとなるとそういう重荷も消えるのである、だから60以上でも警備員とか底辺で仕事している人がいるがそういう人はあきらめているからふっきれているから悟りきったようになっているともみる
40のような焦燥感がないのである

人生はこんなもんだ、人生はこんなで終わりなのかと意外に思うのである
つまり若い時とか40でも何かをしなければならない、何かを達成しなければならないとかで苦しいのである
別に今日一日でも生きていれば得だよとか老人だとそうなる
なぜならすぐに死んでこの世とはお別れだからである
だから焦燥感とかはなくなる、ただ後悔は誰でもある
時間を有効に活かせなかった後悔は誰でもある、巨額の金を残した人でもそうである
青春はもどらないし時間がもどらない、人生をやり直すことはできないからだ
だから金より時間が貴重だったとなる

人生は誰でもなにかしら積み重ねがある、それが60以降に活きてくる
自分自身は文学の才能はあったとしても何か何もないとも見られていたのである
でも60以降とかさらにその後に何か今まで積み重ねたものが活きてきたなと思う
また理解できないことを理解できるようにもなったのである
詩でもそうである、相当に書き溜めたがまだ発表していない
なんとか詩集にしようとはしているがなかなかできない


青春でもその後の壮年でも人間には節制とか心を訓練する必要がある
しないと人間は欲望のままになり怠惰になってゆく
つまり心の鍛錬が必要なのである、それはあらゆる面でそうである
芸術でもそうであり他の仕事でも職人でも技を身に着けるのにはそうなる
それで全く絵の才能がないのに私が抽象画を作れたのはただ訓練してそうなったのであるだからすべて才能だけで決まるわけではないのである
何事か常に積み重ねて節制して鍛錬してゆくことが実りとなってゆく
だから人生百年時代は本当は焦る必要はないのである

自分としては酒とか煙草を30過ぎて一切やめたのが良かった
酒は頭を馬鹿にするし認知症にもなるかもしれない、精神を修行するには酒は良くない
なぜなら頭が一時的馬鹿になってしまうからである、脳と精神を麻痺させるのである
その影響は結構大きいのである、むしろ煙草はそんなに影響がないかもしれない
酒は一時的無意識にして馬鹿になる

いづれにしろ精神の修養と修行はしろ、節制はしろ!

これは別に宗教だけではない、あらゆる面で言えたのである
天才でない限り人間は積み重ねなのである
第一膨大な知識を全部知悉することは不可能である
ほんの一部だけであり天才だって知識的にわずかしか知ることができない
つまりある分野に積み重ねれば凡人だって詳しくなれる
そしてその人に埋もれていた才能が開花することはある
だから修行するとか節制するとかが大事になる
自分は社会からはずれて生きてきたけど修行とか節制をしてきたともなる
旅したのも見聞を広めるためであり何か無駄に浪費したのとも違っていたから今になり書くものがある、そして自分自身は節制してきたし雑学のような知識でも積み重ねてきたのである
それで凡人でも今になり何かしら芸術でも実るものがあったと思う
ただ誰も評価してくれないというだけなのである 




メデアが変わると表現方法とか伝わるものが変わる (youtubeを見て感じたこと)


メデアが変わると表現方法とか伝わるものが変わる

(youtubeを見て感じたこと)

昨日は疲れた、ウィルスソフトの体験版をインストールしようとして失敗した
すでに入っているマイクロソフトのdefenderを削除しないとできなかった
途中で中止できたから良かった、へたにするとパソコンの不具合になる
パソコンは今はいいものメーカー品を買わないとあとで困る
富士通のパソコンはいいから買っていて良かった
後は中古品を使っていた、そしたら不具合になった
何かこのパソコンは使い方で苦労する
20年くらい使っていても私は詳しくはないのである
その機械ばかりにこだわっていると肝心の書きたいことに精力をそそげないのである

youtubeは今や小学生でもユウチュバーになりたいとかなっているから新しいメデアなのである
メデアとは媒体のことである、仲介するものとか中間で偏りがないという意味でもある
でもマスメデアとういうときメデアが力をもっていたからメデアを通してしか発言できない、するとメデアを持つものが絶大な権力をもったのである
私に発言させてくださいと言ってもメデアをもっているマスコミを通してしか発言できないのである、それもメデアをもっているマスコミの意向に沿っての発言しか許されないのである
それはNHKでもそうである、でもそうだからこそマスコミは第三の権力となっていたのである
マスコミに顔だけ出てもそれだけ絶大な効果がありその人物など関係なくても名前が知れるから選挙に有利になったのである
それで青島とかなんとかなにかふざけたものでも芸能人でも名前が知れているから都知事になったりする、それはマスメデアのマスコミの影響でそうなったのである

ただこのyoutubeとは何なのか?これは実際はまた違ったメデアだと思った
これまでは写真も出でいたがテキスト中心でありビデオ形式では出ていなかった
つまり今や個人がテレビ局になっていたのである
何かこれが最初違和感がありわからなかった
こういうのは新しいものは老人にはなじめないのである
パソコンを20年とかしていてもそうなのである
ITの世界はいろいろあり複雑なのである、遺伝子情報の解析のようなことウィルスソフトでしている、その複雑さはもう理解できないとなる

このyoutubeで理解したのは最初は武田邦彦氏の放送を見ていた、次にdeepmaxの中国情報を見た、これも中国の裏側がわかって興味深い
何か最近「オスマン帝国外伝愛と欲望のハレム」このドラマを連続して見た
中国の権力闘争は中国のカルマとして繰り返されている、でも権力闘争となるとオスマン帝国でもそうだったしハレムとは江戸時代の大奥だったから同じだった
東西でも人間のやることは共通していたのである
それが人間の業(カルマ)だったのである

最近のyoutubeで面白かったというかこれは何なのだろうと良くわからなかった
Love & Freedomの底辺労働者の訴えである
これがなぜか生々しいものだった、それは底辺労働の非正規の現実を生々しく訴えていたからである、そこで外国人労働と競争する底辺労働者の恐怖を理解した

日本人底辺労働者が外国人労働者に追いやられる!

これもグロ−バリゼーションのためだった、賃金競争で最底辺のネパールとかベトナムと同じ水準化する、その深刻さがここの放送で生々しくわかった
それでこれは個人の窮状をとかを訴えるのには効果的なメデアだと見た
とてもマスコミでは個人でこんなふうに訴えられないし語られないのである
確かに学者とか政治家がマスコミで語るとしてもその当事者が延々とその不満を経験から語ることはできないのである
だからそういう声は抹殺されていたのである
その人の焦燥感が何かyoutubeだと生々しく伝わってきた、これはテキストだとこんなふうに伝わらない、さめたものとして読んでいるからである
だからこれはメデアによって伝わり方が違うと見たのである

この人は何か大学院まで出て臨床心理学とか学んで実際に職にもついたから相当なインテリなのである、だからなぜ底辺労働者になっているのかわからない
でも家族とか恵まれないとかなり身寄りがないとかでそうなった
両親に大学の時なのか捨てられたのである
それに比べると自分は相当に恵まれていた、家族に恵まれてこんな自由な生活ができたと今でも感謝している、だから介護も必死でしたのである
それは強制されるのではない、そういう気持ちに自然になっていたからである

なぜ私がこのyoutubeの放送に惹かれたかとなると自分自身も20代に底辺労働者だった
流れ作業とか建築現場でも働き高いビルから落ちて死ぬところだったが危機一髪助かったのである、自分が働いたという時そういう場所しかなかった
三流大学の文系であれその当時はみんなどこの会社でも人手不足で就職できたが自分はしなかった、だただそういう人は本当に10万人に1人なのかほんのわずかしかいなかったみんな高度成長時代であり企業戦士となっていたのである

その時自分は追及していたのは宗教である、それでカルト教団に入ったのである
これも全く宗教を追求する、求道する場所ではなかった
でもそこで大学時代を費やしたのである、これも無駄と言えば無駄だった
とにかく人間は無駄が多すぎるのである、青春は浪費と放蕩とかで終わるのも多いのである
そして青春はあまりにも短すぎたとなる、あっというまに過ぎて老人になっていたのである

いづれにしろメデアの変化がITで凄まじい時代であった、平成はITの変化の時代でありそれは世界的に共通していたのである
そしてその変化は今も続行中なのである、だから理解できないものがある
私はスマホをしていないからそこで確実に理解できないものが生じている
メデアの変化という時、ソフトで新聞のようなものも雑誌でも作れる
本自体でも作れる、ただ出版のハードルは高い、インタ−ネットだと誰でも即座に発信できる、そのことが大変化だったのである
だんだんテレビでも見なくなる、youtubeが主流にもなるからもしれない
別にテレビ局は一人でも作れるしもしスタッフを何人か集めれば資金があればテレビ局が作れるからだ
それは教育とかでもそうしたテレビ局を作り資金もいらないのである
だからインタ−ネットのメデアを利用することでビジネスもできる
ただyoutubeが何かわからなかったようにまだこのメデアを利用することがどういうことなのかわからないことがあるのだ

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2019年05月20日

津波の被害の原因は俯瞰的に時間的(歴史的)に見れなかったため (人間の弱点は空間と時間を広く長く見ることができないこと)


津波の被害の原因は俯瞰的に時間的(歴史的)に見れなかったため

(人間の弱点は空間と時間を広く長く見ることができないこと)

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相馬市磯部地区では約2000人の住民のうち、251人が大津波の犠牲になった。市全体の死者・行方不明者458人の半数を超える。
 「相馬沖は遠浅だから津波は来ない」。地域の多くの人たちが、そう信じていた。1960年のチリ地震でも津波は防潮堤を越えなかった。経験則があだになった


丸森の方に行って山に登り相馬市を松川浦を見た、そこで感じたのは人間はこうして俯瞰的に見ない、いつも暮らしている場は狭い場所なのである
人間の弱点はこうして俯瞰的にとか広い視野で見ることができない
それから長い時間で見れない、つまり総合的に見れない
そこに盲点があり津波のことでもそれが言えた

高い視点から俯瞰的に松川浦を見たら津波のことをイメージしたらどういうふうに津波が来るか見える、でも住んでいる場所から見えにくい

そもそも磯部は砂州になっていたところであり松川浦は今よりかずっと広かったのであるではなぜ砂州のような所に家が密集したのか?
それは海岸線が漁業するのにいいのと船溜が漁港になっていたことである
つまり磯部は漁港として機能していたのとその後背地は田んぼだったのである
田んぼに家を建てることはできないから砂州に家が密集した 
半農半漁の生活があり家が海岸線に密集した

日本は山が多いために余計に俯瞰的視点が持ちえない
ヨ−ロッパとか中国でも塔が多いのは俯瞰的視点を得るためである
それは平地が多いから有効なのである
日本では山が多いから塔を建てても俯瞰的視点が得にくいのである

津波のことを知るには住んでいる土地を俯瞰的に見ることが必要だったのである
そして津波の被害がどういうふうになるシュミレーションしておくべきだったとなる

そして時間的にも歴史的時間でも津波を経験していないから津波が来ないという確信までになっていた、それで老人が避難しないで犠牲になったというのもいくら老人でも百年生きたとしても400年前のことなど語り得ようがない
そこで大事なのは伝承とか記録になる
「相馬藩政史」は殿様が代替わりしないから相馬藩のことを連続的に記録されているもので貴重であったが二行だけ生波(いくなみ)で700人溺死としか記されていなかったのである
それも津波の後に発見されたのである、それまで津波のことなど誰も知らなかったのである
ただこの二行だけでも発見していれば警告になった

人間の盲点は俯瞰的に見れない、日本は特に山が多いから俯瞰的見れないのである
大陸だと平原とか草原とか砂漠とか広い平坦な土地がどこまでも広がっている
すると俯瞰的にみる、それで大陸では戦略思考が生れる
戦略は広い視点で見て戦略を作る

【連合国の戦略】
揚陸部隊によるドイツ占領下の北西ヨーロッパの奪還

【連合国の戦術】
夜間の落下傘部隊の降下と艦砲射撃や空襲による援護

日本の太平洋戦争は戦略がなかったといわれる、戦術はあったのかもしれない、戦術は個々の戦場で発揮される
でも戦略となると戦争を総合的に大局的にどうすすめるかとなるがそれがなかった
全体の戦略はなかった、だから無闇と戦線を拡大して大敗北となった

いづれにしろ人間の盲点は俯瞰的に見れない、第一地球でも宇宙でも俯瞰的に見れる人はいない
それは神なら見れるが人間には極小の中に生きているから見えないのである   

箱根路をわが越えくれば  伊豆の海や沖の小島に浪の寄る見ゆ   源実朝

こういう大きな空間は古今、新古今の歌には見当らない

そうなのか?古事記などでは日本の国造りを大きな視点で表現していた
日本は国見山が多い、南相馬市の原町にも国見山がありちょうど鹿島ー原町―小高が見えるのである
それで南相馬市が合併したのは地理的に必然性があったとなる
相馬市は視界の外になっていたからである
相馬市を見たのは丸森の高い山の上だったからである、あそこからは蔵王を見えたし亘理の方へ伸びる海岸線も見えたのである
絶景ポイントだったのである

ともかく人間は視点を変えれば見え方が違ってくる、人間の弱点は地理でも常に自分の住んでいる場所が中心になる
するとその視点が固定化されて全体の視点を見誤るのである

いづれにしろ磯部は悲惨だった、2000人も住んでいたのに壊滅して何も残らなかった、これも空恐ろしいものだったとなる


posted by 老鶯 at 14:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2019年05月19日

抽象画は決まったソフトを使う手順でできる (化学実験とにている、だから才能がなくてもできる)


抽象画は決まったソフトを使う手順でできる

(化学実験とにている、だから才能がなくてもできる) 

Abstract painting can be done by using fixed software
(It's a chemical experiment, so it can be done without talent.)


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私の抽象画の製作はソフトの操作でできる
その過程がまるで科学の実験とにている
まずAのソフトを使い次にまた同じソフトでも操作を変え
そして別手ソフトでまた変える
この手順が決まっていることがわかった
それが抽象画になりやすいのである

山の抽象画とか鉄道の電車が走るトンネルの製作がそうだった
決まったソフトの操作でできることがわかった
そこには創作性はない、他人の作ったもの写真でも利用しているからだ
ただそこに著作権違反があるかもしれない
ただまるっきり別なものになっているのが多いからわからないと思う

山とか森とか鉄道のトンネルは決まったソフトの操作でできる
だからその手順がわかれば大量に制作できる
なぜならいくらでもその元となる写真でも絵でもあるからそうなる
これはAI化できる、決まった手順をプログラムすればできるからである


I can create my abstract painting by software operation
The process is like a science experiment
First use A software and then change the operation with the same software again
And change with another soft again
It turned out that this procedure was decided
It is easy to be abstract

The construction of the tunnel where the abstract of the mountain and the train of the railway run is so
It turned out that you can do it by the operation of the fixed software
There is no creativity in it, because it uses photographs made by others
There may be a copyright violation there
I just do not know because there are many things that are completely different

Tunnels in the mountains, forests, or railroads can be operated with fixed software operations
So you can make a lot of it if you know the procedure
Because it is the picture and the picture that is the origin of it

This is because it can be made into AI by programming a fixed procedure

原発事故の責任問題 (責任は地元から周辺から国自体、世界まで波及していた)


原発事故の責任問題

(責任は地元から周辺から国自体、世界まで波及していた)

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原発事故でわかったことはその影響が大きい、影響というとき責任も世界まで拡大していたのである
海が汚染されたことは世界的環境汚染でもあったからだ
一時は東北にはもう人が住めないとか吉田所長が言っていたからそんなに怖いものだとはみんな知らなかった、知らされていなかった

そしてその責任の範囲が原発を誘致した地元にありさらに周辺地域と拡大して日本全国から世界まで拡大するものだったのである
たいだい事故だったら一地域にしか影響しない、火力発電がこの辺では津波の時火事になった、それは原発事故とは違うから騒がなかった
でも原発事故が火災になり爆発したらすぐ近くにあるのだからここも避難させられた
もちろん30キロ圏外でも避難した人が半分いたのである

まずこんなに怖いものだと地元でも認識していなかったしさせられなかったのである
だから「安全神話」が形成されて信じていたのである

普通はそんなに重大な危険があるものは手を出さない、なぜなら事故になったらその責任があまりにも大きくなるからだ、いかに会社でも責任を回避することを第一としている
保険でもなんでも細かく法律で規定しているがそれは責任を逃れるためである
責任はとりませんということで細かく規定している

だからなぜなのかわからないが駅の切符売り場に人を置くようになったが「駅の業務はしません」と張り紙がしているのはなぜだろうと思った
そこにいること自体必ず運行のことやらなにやら聞かれるからだ
駅員のいる場所だから聞かれるのである
だからなぜ駅の業務をしないのだろうと不思議になる
それも責任をとりたくないからそうしているのだろうとなる
また業務委託しているのは信号の操作などでもさせるというときJRに責任がないとしてまかせる、責任は業務委託した人だとしている
つまり大きな会社では責任を意識するからそうなる
もし事故があるとJRがとらされる、そこは大きな会社だから巨額の賠償でも請求できるからである

それで東電は原発はとても東電では責任が負えないから国が責任を負うとういことで原発を作った、国という時、それは国民のことなのである
国民が責任を負うということなのである、国民が許可したからできるのである
それはその時の政府が責任を負うということではじめたことでも国民が投票で自民党なりにまかせたからできたとなる
結果的には原発事故の巨額の賠償は国民が税金として払うことになったのである
でもそこまで国民が意識していたかというとしていない
それまで意識していたとしたら日本のような地震国に原発を作らせなかったからである

とにかく何か社会というのは人間個々人でも常に責任を負わされる立場にある
恋愛だと責任がないが結婚だと責任があり簡単にはできない
恋愛なら嫌になったら別れればいいだけだが結婚はそうはならない、離婚となればめんどうであり責任が生じて金を払わされる
契約自体が責任を明確にして責任をとらせるためにあるともなる

地銀で投資信託をすすめる、私にまかせてくださいと言う
では損した場合の責任はどうなるのですか?

一切責任はとりません、お客様の責任になります
でも手数料だけがいただきます

これもおかしいのである、私はプロですからまかせてくださいと言うからまかせた
そしたら責任が生じている、でも地銀では一切責任はとらないのである
ただ別に株でも上がり下がりがあるのだからすへてが銀行の責任というわけではない

これは原発と同じなのである

「安全神話」で絶対に事故は起こりません、まかせてください

こう地元の人たちに言っていたからである、では責任はどうするのですか?
結果的にはもう責任もとりようがなくなった
放射性物質で汚染された土地はもう30年なのかわからないが元にもどらないとなったからだ、責任は必ず誰かがとらされるのである
日本の戦争だって3百万人も死んだという時、そのことはなぜそうなったのかわからないにしろ責任だけとらされた、国民がとらされた、その責任は今でもあまりにも重すぎたのである、ただ戦争始めたとき誰も3百万人も死ぬと思った人はいないのである
戦争ともなればその責任はあまりにも重いものとなったがそれを自覚しない
そして戦争をどうして起こしたのか?その責任はと言ってもわからない、でも3百万人が死んだということで責任をとらされたのである

その責任はどうするんですか?

そして政府でも東電でも確かに賠償金は払ったとしてももう街とか自然が元にもどらなくもなったからである

ともかく「安全神話」でも地銀でも(私はプロですからまかせてください)とういうとき

責任はどうしますか?損したらどうしますか?

銀行では手数料はもらいますが損してもなにもできません

一切の責任はお客様がとることになります

最初からこういえばわかりやすいのである
そういうものなのかと客でも認識するからである 

原発でも「安全神話」を形成してその危険性を一切教えもしなかったのである
だから原発が爆発した時どうしていいかもわからず混乱するだけだったのである
もともと「安全神話」で事故は絶対に起こらないと言っていたからそうなったのである

ともかく人間は常に責任を課せられている、そして責任から逃れようがないのである
生きてきたことは責任をとる、とらされることであり責任はカルマだともなる
その責任は必ず周りに波及してとらされる

事業を起こして失敗した人が親戚にいたが自分自身は関係ないと思っていた
ところが自分の家が介護になり自分が病気になったとき相手は借金で苦しんでいるから
弱味につけこんで金を要求してきたのである
だから別に自分が関係ないと思っても他者の過失であれなんであれ影響してくる
交通事故などが一番わかりやすい、自分に何の過失もないのに事故を起こされて無惨に死んだ人などいくらでもいるからだ
必ず回りに責任が及んでくる、自分は関係ないと思っていてもそうなのである
世界のことでも遠い国だから関係ないと思っていると戦争に否応なくまきこまれたりもする、つまりこの世の中何であれ連帯責任の中に生きているのかともなる

ただそれが自覚できるのは現実にこうして苦しみがあり被害があったとき意識するのである、そういうことがないと意識できないのである
カルマでもそうである、なぜこんなに苦しむのだというときそこに何かしらのカルマがありそれが現れて苦しみになるとき自覚するのである
何もなければ自覚できないのである



posted by 老鶯 at 09:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2019年05月18日

藻屑蟹 (徳間文庫)赤松利市(kindle版) を読んで (南相馬市などの除染で金が乱れ飛んで荒廃した話)


 藻屑蟹 (徳間文庫)赤松利市(kindle版) を読んで

(南相馬市などの除染で金が乱れ飛んで荒廃した話)


 
  過剰とも思える賠償金の狙いが、原発避難民と一般市民との分断を意図した施策だと考えればどう でしょ う」 「俺たちは、 それに乗せられた、という ことなのか」
   原発避難民に心底から同情を寄せる市民が、どれだけいるでしょうか?」

   ゼロかもしれないと思ったが、口にはできなかっ た。 「おそらく ほとんどいないでしょうね」   
  「莫大な補償金を得ることで、 原発避難民は孤立してしまっ た」

原発避難民の帰還事業が始まった、帰還した避難民への補償金は原則打ち切られます
高額の補償金で持ち上げられるだけ持ち上げておいて、帰還できなるからといきなり梯子をはずした
避難民は当然不平不満を口にします
その声が一般市民に届かない構造が出来上がってしまているのです
本来は避難民は脱原発を身をもって声高に主張できる立場にあったのです
しかし彼らが主張しているのは補償金の継続です
そんな彼らを脱原発派の人間が仲間として認めるのはむずかしい

このことは私も前に書いた、この小説はめずらしく原発避難民のことを非難している
小説だからできたが今でもなかなかできない、原発避難民からの抗議が出てくるからだ
でもこの小説で指摘した

「過剰とも思える賠償金の狙いが、原発避難民と一般市民との分断を意図した施策だと考えればどう でしょ う」 

こんなことを政府とか東電で意図して過剰な補償金を出したのだろうか?
確かに原発避難民は過剰な補償金をもらったし今でも足りない足りないとして裁判にでも訴えている、それはもういくらもらってもたりないとなる
そういうことを延々と要求すると補償金をもらわない人たちはあいつら金の亡者だとか見るようになる、原発を誘致したときも金が欲しいからであり原発事故以後も金をむしりとるだけむしりとる奴らだとかなってしまった

そのことで別に原発と関係ない人たちもいいものとは見ていなかったのである
ネットでは(原発乞食)とか非難されていた、ただマスコミとかではNHKでも常に原発避難民側にたって放送していた、補償金のことは言わなかった
そのことでさらに原発避難民は冗長したともなる
またボランティアでも絶えず仮設にきて応援していたから原発避難民はかわいそうな人たちとして見られていた

ところがその仮設に住む周りの人は補償金を全然もらっていないのが多かったのである
南相馬市だと原町区は30キロ圏内でそれなりにもらっていたが鹿島区は一人70万しかもらっていない、それでももらっているからいいとなる
相馬市になると何にももらっていないのである
別に放射線量は同じなのである
でも相馬市にも相当な原発避難民が仮設に住んでいたのである

そういうことで鹿島区の人たちは不満であったが表立ってはそのことは放送されなかった私がそのことを書いたら「お前は傷口に塩ぬって楽しいか」とか言われた
それだけもう原発避難者の被害者意識はこりかたまっている、それに一言でも批判すればお前らは情もなにもない人間なのかとなっていたのである
それを助長したのは政府とか東電とかマスコミだったのかともなる
それからボランティアすらそうだったともなる、別にボランティアに悪気がないにしろ善意でも原発避難者様にしてしまったのかともなる

でもこうさせたのは政府とか東電とかマスコミとかであり何か別な施策があったのかともなる
でも原発避難民にすれば被害があったのだから金をもらうのは当然だとなり周りの人たちの配慮が全く欠けていたのである
それは俺たち被害者だから当然でありなぜそんなに文句言うのだとなっていたからである
そこで政府や東電の意図したように深刻な分断状態が生まれた

反原発を言える立場でもいくらその人たちが反原発を訴えても聞かれない

あいつら金だけがほしい原発乞食なんだよ

そういうふうに見られる構造ができているから通じなくなったのである
あいつらが欲しいのは金だけだと見られようになったのである
そのことを私は前に書いていた、もしそんなに補償金をもらわなかったら強力な生き証人であり反原発を主張できたのである

そして鹿島区では底辺の人が家族が三人いたから不満が本当に大きいのである
もし小高区のように補償金をもらったら相当に喜んでいた
一人に十万が払われるしその他ももらえるからそんな金をその人は手に入れたことがないからである、そういう底辺層は小高の人に不満を強く言っていたのである
他でも相馬市とかでもそうである、放射線量は変わらないのに補償金はゼロだからであるそれは政府とか東電の分断政策だったのかともなる
それが首尾よく成功して地元では反原発にならず政府とか東電に一致して反原発と反政府とかの勢力にならなかったとなる

だから外から来た人は会社経営していた人は失敗したにしろ個々人に補償金を払うよりその金で市町村の復興に使うべきだといっていたのもわかる
個々人に補償金を払った結果どうなったのか?
その多額な補償金でいち早く他の街に移り家を建てたりしたからである
まずそんなに補償金がもらえなかったらそう簡単に移住はできなかったのである
だから小高などは失敗だった、そもそも30キロ圏内だからは移住させる必要がなかったのである、それは賛否があるにしろそれほど放射線量が高くなかったからである
これも30キロ内で区切られてそうさせられたのである

国を治める時、分断して治めろというときそういうことがここにもあったのか?
何かそれがここでは成功したとなるのか?
本当に怒りをぶつけるものが仲間内であり肝心の政府や東電にはむけられなかった
例え向けられて裁判になったとしても国民からあいつらはただ金が欲しいだけだよと見られるだけだったからである
第一そもそも南相馬市内で小高とか原町とか一致しない
原町の人が鹿島に来て一致して補償金をもらうために戦おうと集まったが原町は三倍ももらっているのだから協力などできなかったのである
もしその時原町と鹿島が同額の補償金をもらうために戦うならできた
それがないからできなかったのである

つまり南相馬市は30キロで区切られて政府とか東電の思惑通りになったとも見れる
何かそこで自治体としての対策があっても良かったが何にもなかった
そしてみんな補償金をもらうために血眼になっていただけだとなる
この小説ではこの辺が多額の補償金で狂わされたらことを書いているのもわかる
それは石巻でもそれと似た状態が起きていたことも書いている
仙台の国分町などが舞台にてるのもわかる
津波の復興事業で作業員が流れてきて金を手にしたから散財したともなるからだ
その中に刑務所に入っていた人もいたとかもわかる
暴力団も入ってきたからである
そして除染では建設業で莫大な金を手にしたとも聞く、それが報道もされたのである
ついまりこの辺では非日常の世界が生まれ田舎ではもらえない金か乱れ飛んでその金で狂ったともなる

でもその熱気がさめたとき金もなくなったとき後はどうなったのか?
復興はすすまず流出した若い世代は帰らずゴーストタウンになったままだともなる
でも何か補償金問題でのしこりがあり一致して残った人でも協力できないとかある
とにかくこの小説はこの辺の現実を書いている
きれいごとではない現実を書いている    

震災後の一年で石巻の人口は一万人以上減少している
故郷を見限った人の気持ちもわかるよな、弔慰金で大金もらって仙台さ住んでいる人もいるけど石巻に残って故郷の復興のために汗流している人間としては地元を見限って安穏と暮らしている人間に一言謝ってほしいよね」

石巻の人に聞いたけど何か保険とか一億円入ったとかでやはりあそこでも大きな金が入った人たちはいたのである
でもその金をもらって仙台に出て行った、だから仙台の人口は増えたのである
とにかく南相馬市辺りでも仙台から親戚でも来る人が多いのである
それだけ仙台と関係深いのである、今の時代はどうしてもこうして移住しやすいから大きな金が入れば出で行ってしまう
故郷に愛着をもたないことはグロ−バル経済のことで書いてきた
広域社会からグロ−バル経済になると故郷に対する意識は希薄になる
小さな畑で作物がとれなくても野菜でも米でもいくらでも買えるじゃないかとなる
金があれば不便な所に住む必要はない、他に移り住めばいいじゃないかという気持ちになっているからだ
そのこと自体が故郷の価値が低下してまたそこに住む人の価値も低下する
仲間意識もコミニュティ意識も田舎だって希薄化しているのである
だからこそ簡単に街自体が分解してゴーストタウンになったとか私は指摘したのである

何かこのことは私も指摘してきた、津波原発とか自分自身の一身上の介護とか病気のこと自体が小説だった、こんなことがあるのかという信じられないことの連続だったからである、小説を書く能力があれば賞ももらえたのかとなる
それだけの体験をしたからである
小説は一般向きの娯楽にもなる、ただ詩となると理解できるのはわずかである
でも小説にはそれほど価値はない場合がある、通俗小説が多いからである
とにかく私が書いたプログは長編の小説にもなるドキュメントだったのである


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田舎と都会の暮らしの相違 (いい面と悪い面がなんでもある)


田舎と都会の暮らしの相違

(いい面と悪い面がなんでもある)


田舎と都会を比べる時いろいろある、田舎でも10万の都市というけど
それが田舎なのか?
10万の都市といっても合併した都市は全然違っている
例えば南相馬市は鹿島と原町と小高が合併してできたから6万以上になっている
原発事故で小高が避難区域になったから一割くらいは人口が減った

ただ10万の都市とかで百万都市とかに住んでいる人は誤解する
合併しているから土地が広いのである
原町はすでに5万とかあったこの辺では都会なのである
だから前から小高とか鹿島は一万くらいの町だから差が大きかったのである

私が今でも一番感じているのは食事がめんどうであり外食したいのだがそれが鹿島とか小高くらいになると極端に少なくなる、弁当屋すらなくなった
原町だととにかく食事するには便利なのである
さまざまなものが提供されている、レストランとか食堂とか弁当屋でも比べると10倍以上の差がある
そしてキクチスーパーが鹿島にもあるが原町に比べると何倍もの差がある
それで鹿島にはキクチスーパーで売れないものと古くなったものとかが置かれているというのも本当なのだろう
品物の種類でもなんでも違うからである
ただ最近シシドスーパーができたので競争が生まれたからそれだけでも良くなったとはなる

だから南相馬市というとみんな市で同じでも住む場所によって全然違っているのである
いわき市などでも30万あるとすると大きな都市と思うがその範囲が広いから住む場所によって相当な差がある、仙台とかのように密集して人が住む都会ではないのである
合併してからそういう都市が増えたからここに誤解が生まれる
だから田舎の都市は原町のような都市部に住む者と周辺部はかなりちがったものとなる
周辺部は買い物でも車がないとできないとなっている

田舎と都会の差はいろいろある、教育でも仕事でもあらゆる面にある
それはいい面と悪い面がありいちがいに語れないしそれを語っているものがインタ−ネットだったらいくらでも今はあるから実情がわかる
田舎の不利な点も相当にあるしいい面もある
だから田舎に向いている人間と向いていない人間があるともなる
また生まれた家によっても左右される
田舎は何か資産がないと生きずらいのである
つまり親がある程度裕福で資産がないと生きずらい
田舎では若い人でも収入が年収でも200万とか低くても親の援助があり家ももっているし車でも家に普通二台はもっている、一人一台もっているのも普通なのである
ただ生れた家で資産がないと何か目立って田舎の底辺になる
そういう人を知っているがたいがい市営住宅に住んでいる
家賃は4000円の人もいたしそれでも三つも部屋があった
それくらでいないと田舎では現金を稼ぐのむずかしいから住めないとなるからだ

ただ田舎と都会の一番の違いはなにか?

多様な選択があるのが都会である
田舎は教育でも仕事でもなんでも選択できない
たいがいコースでも決められている、それは東京のように多様な仕事がそもそもないからである、そうなると多様な職業の人と接することもできない、非常に限られた人としか接することができないから視野が狭くなる
学校でも私立がないから選択できないしあらゆるものでそもそも選択することができないそもそも選択するものがないからである
それで知的には遅れるとか何か才能を活かした職業に従事できないとかある

ただ田舎と都会の底辺を比べると田舎はそれほど苦しいとも見えない、そういうことを語っている人がいる、都会の底辺はyoutubeのLove & Freedom(底辺労働者)のように苦しいのである、追い詰められている
それは親の資産を受け継がないからそうなる
家でも狭いアパートであり東京辺りだと何するにも金になるが底辺だと金がないから何もできないとかなる、だから東京辺りだと底辺は金持ちの奴隷なのかというふうに見える
いろいろサービスが多様にあったとしてもそのサービスをさせられ方とする方に分かれているからだ
それで安く奴隷を使うには金持ちは外国人がいいともなる、つまり都会ではグロ−バリゼーションでも極端なものとして働く、東京辺りだと金持ちも多いが底辺も多いのである
その底辺も田舎の底辺とはかなり違っている
田舎の底辺は家の資産を受け継ぐとか親の援助があり家もあるし車ももっているしと東京辺りの底辺とは違っている
だから底辺を比べれば東京とかは極端化してみじめなのである

ただ田舎だと親からの資産と援助がないと苦しくなる、つまり田舎だと農家でも代々で住んで財を築いてきた家がある、その上に次代のものがある
たいがい家はもっているからである、土地ももっているからそこに資金をかける必要がないのである
そして田舎で住みやすい人はそうして代々住んでいて資産があり社会的地位がある家である、医者とか公務員とか土建業でも社会的地位があり資産があるとなる
農家でも篤農家はそうである、ただ零細な農家はもうやっていけない、果樹と花の栽培とか商品作物になるものを作らないとやっていけない

都会と田舎の相違はいろいろある、そこにいい面と悪い面がある、それを語ったらきりがないとなる
例えば芸術とかになると都会がなんでもあるからいいように見えてもとても自然の中での感受性を磨くことは不可能である
なぜなら毎日見ているのが高層ビルだらけだったり人ばかり見ていることになるからだ
一方で丸森の絶景ポイントから見た蔵王とか海岸線の景色には感動した
それも今までこの年になるまで知らなかったのである
何か田舎に住んでも田舎のことを知らないことがかなりあるのだ
車がないということも影響していたがあんないい場所があるとは知らなかったのである
そういう場所に日常的に行けるとなれば田舎は都会とは比べようがないほどいいとなる
それは価値観の相違があっても高層ビルと人ごみの中にいてそれが幸福なのかとなるからだ

東京辺りだったら散歩する場所もない、サイクリングするにも車の洪水と人ごみを通るから田舎のようにはいかないのである
トラック運転手で足を悪くした人がサインクリングしている、結構遠くに行っている
それが楽しそうなのである、別に安い自転車でもできる
東京では底辺労働者が休みにすることがないというだ田舎だったら自然は親しむことがいくらでもある、別に遠くに行く必要もないのである
だから丸森にあんな景観がいい場所があったとういのもそうである
そういう絶景ポイントはそこに住んでないとわからないことがあるのだ
それもそこで何度も見れるということが違っている

田舎とか都会で情報とか教育格差があるとして情報格差はインタ−ネットで解消したともいえる
まず田舎では本を手に入れることが容易ではなかった、専門的な本はそもそも売っていないからだ
仙台ですら本の量が少ない、それを知ったのはインタ−ネットの通販でこんなに本があったのかという驚きだった
本が手に入らなければそもそも知識を得ること自体不可能だったからその差は大きかった
それが解消したとき何か田舎でも研究者になれるのかとも思った
例えば学者の論文まで読めたことが大きい、それも無料である、自分の古代関係の万葉集の真野の草原について相当に深くわかってきたからだ
これはそもそも学者の論文も読めない本も読めないとなればわかりようがないからだ
こういう点で都会と田舎の格差は解消したことは大きいとはなる


posted by 老鶯 at 10:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2019年05月17日

小さな畑から考えるグロ−バル経済の矛盾 (世界市場を支配するはサタンなのか?祭りがもっていた意味)


小さな畑から考えるグロ−バル経済の矛盾

(世界市場を支配するはサタンなのか?祭りがもっていた意味)


今日は暑かった、畑も乾いている、それでペットボトルで水を運んでいる
今は一人だから自転車で運んでいる
でもそこで一体なにがとれているのかもわからない、茄子を植えたというが花すらまともに咲いていない、そこで何がとれているのかもわからない
実際にもらったのはキュウリ二三本である
第一ほとんど何もとれない、肥料やら種やら道具やらそこにかけた金の十分の一もとれていない、そんなこと普通だったらつづかない
前の畑をしていた人は腎臓病で死んだ、透析をしていた
隣の畑は車に乗せられて這って80過ぎた老人が手入れしていたが今は来ていない
それで草ぼうぼうとなっている
この小さな畑でも一緒にしていた人が糖尿病で病院に二か月も入っている
手術するのに仙台まで行ったからだ
その女性でもその畑の草むしりでも苦労している
しかし収穫がないのだから普通だったやめているのだ

なぜこの小さな畑は別になくてもいいものである
でももしこれが戦前とか江戸時代とかならどうなるのか?
もし日照りになり作物がとれないとしたらどうなるのか?

今は別にここでとれなくても
野菜はいくらでも入ってくるよ、外国からだって入ってくるよ
飢饉のように餓死することなどないよ
それより今は金さえあればいいんだよ

こんな感覚であり日照りで野菜がとれないとしても全国世界規模になれば食料になるものが入ってくるとなる、それがグロ−バル経済であり広域社会に住んでいる者の感覚なのである
もし戦前と江戸時代ならその土地で食料がとれなかったら飢饉となり餓死する、そういうことがかつてあったからだ
だからその小さな畑でも野菜がとれなかったらそこに住んでいる人も困るからなんとか雨がふって野菜が育ってほしいと願うはずである
ところが現代ではそんなことがない、金があればいつでもどこからでも買えるという感覚になっている、そこで大事なのはこの土地でとれる食料ではないのである
その土地に依存して生活しているわけではないからそういう感覚になる

そこで何が起きてくるのか?
土地の人はその土地に無関心になる、その土地のことを真剣に考えない
日照りで困ったと言っても別にここでとれなくても全国からでも世界から食料が入ってくる、それより金があることなんだよとなる
そういう思考になっているのが広域化グロ−バル経済なのである
でも別にそのように広域化グロ−バル化経済だからこそ昔のように飢饉がなくていいじゃないかというのもある
それが悪いことなのか?という意見もある 

その時その土地で働く人の価値とか働く意義も低くされる

つまり地元で食料生産にたづさわてっも地元の人がその人を重視するわけでもないのである、そして地元の米はまずいとなりここでは放射能汚染とかで飼料米になっている

そうなるとそんな米をとっても価値がない→その米を作る人間も価値がない

そうしてその土地土地と人間のつながりも希薄化して原発事故で起きたように簡単にばらばらとなり先祖代々からの土地からも離れて住むようになりゴーストタウンになったのである
問題はその土地に暮らしていてその土地のことを真剣に考えないようになる
そうするとどうなるのか?

そこでその土地で長年つづいてきた祭りなどが失われる
そもそも神社はいろいろあってもその土地にあって豊作をもたらすとために祈る場所だったとかなるからだ、江戸時代だったら雨乞いをして神社で祈るとなるからだ
それより今なら金であり神に祈る必要はないとなるからだ
だからもともと地域にあったものが意味がなくなっている
神社で神に祈ってもどうにもならない、それより金があればいくらでも食料は買える
そういうことがグロ−バル経済では当たり前になっているし疑問もない

そういうことで地域に無関心になっているから原発も金になるからと地元の人が熱心に誘致したのである、そして今度は地域でも故郷でも住めなくなった
でもまた地域に執着しないからばらばらに簡単に分散したのである
そもそもこのように地域のことを真剣に考えて暮らしていないからである
別にここで食料がとれなくもいくらでもは食料が入ってくるではないか?
ここでとれないなら他から金で買えばいい、それができないなら金があるから他に移り住むだけだとなりばらばらになり町からも村からも人がいなくなり廃墟と化したのである

でもそもそも祭りとは何なのか?それはいろいろあるにしても神に祈って恵みを実りを与えてもらうということである、それは自然と人間の間に祭りが生まれたのである
豊作になれば自然であれ神に感謝するという祭りが生じたのである
その祭りもグロ−バル化経済では消失する
なぜならグロ−バル経済という時世界のことであり金さえあれば世界のどこからでも食料が入るのだから神とか自然に祈るとか必要はないとなるからだ
そこにそうした自然とか神というのものが省かれる
そして祭りも消失する、つまりグロ−バル経済では神となっているのは世界市場を操作する者なのである、それが何者か?それがわからないから陰謀論になる

だからグロ−バル経済というのは一見世界で食料でもある所からない所に供給するのだからいいじゃないかとなる
それで飢饉もなくなり世界の人たちにとっていいものである
つまりグロ−バル経済化ではそうした経済原理だけが働きその土地土地に伝えられた祭りは失われる、それは国でも日本だって伝えられてきた祭りがあり天皇がそれを継続している司祭だとなっている
宗教とはいろいろあっても神が存在して神と人とが折り合うためのものであった
そこに至高のもの、神を認めてそれに折り合うために祭りが生まれた
キリスト教が生まれたユダヤ人の聖書でも常に動物が犠牲として神にささげられていたりして神とおりあっていた
なぜなら至高のものなる神が実在している、その神との折り合いがつかないと災いが起きるからである、ノアの洪水も神が起こしたとしている、それは人間の心がみな悪くなったからだとしているからである
そこでなんらか神と折り合うものが必要となり家畜がささげられたり人間までもささでられたりしていたのである

グロ−バル経済ではそうした狭い地域ではない、世界規模になると地域地域の経済とはまるで違っている、そうなると地域の神とかの折り合いは必要なくなる
神社などもその土地土地に結びついた神であり祭りがあったからだ
グロ−バリゼーションとは一体何なのか?
それが現代の最大の課題である、それが人間にどういうふうに影響するのか?
何か人間がもともと継続していた地域地域の祭りでも消失したことは人間にどう影響するのか?
そういうことをもっと知るべきではないか?
すべてが経済とかコストとかそれだけ社会を計っていいのかということである
そこに何か非常に危険なものがあり神の怒りをかうものがあってそれで世界規模の破綻が起きてくる、
グロ−バル経済は世界市場が神の見えざる手によって導かれるというが実は悪魔にサタンによって導かれていたのである
世界の富が数パーセントの人に集まっていることがそのことを如実に示しているからだ
だからこそ絶えず陰謀論が言われるのである

グロ−バリゼーションによって何か本当は人間にとって大事なものを見失った
それは文化的なものでありそれは経済の原則と反するものがある
祭りとかは文化的なものであり人間が何千年とかつづいた歴史の中で継続されたものであり
そこに人間が継続しなければならないものがあった
それは経済のコストとからだけでは計られないものがありそれを見失ったとき人類そのものが危機にさらされる
そういうことで原発事故だって起きる、人類滅亡の危機になる
科学至上主義というのもそうである、科学者が神となることなのである
そこにはすでに神を畏敬する畏れもなくなることなのだ
遺伝子組み換えとか現実にすでに実行されている
そういうことから人類に大きな災いが生まれ原発事故のように取り返しのつかない壊滅的なことが起きてくる

つまり人間が長く継続したものにはなにかしら意味があって継続されてきた
しかしそれすらもう問われることもない、そうして祭りであれ伝えられてきたものが無視されるとき大きな壊滅的な災いが起きる
津浪でもそうである、何か言い伝えが失われた結果として無防備に海岸沿いに家が密集したからである
それで一匹の魚を軽んじた結果、それが大津波となったという伝承もそうだったのである
グロ−バリゼーションとは本当は悪魔的なものでありサタンが支配した結果なのかともなる、世界の富が数パーセントの人たちに集まるというときそれ自体が悪魔的だからであるそして普通の人は投資したとしてももうけられない、一割しかもうからない
もうかるのはと株を操作する世界のエスタブリッシュメントであるとしている
株に投資させられる一般人はカモだとしている、自分もそういう経験をしたからである
つまり経済がギャンブルのようになっている、そして地域地域から国単位でも祭りとかが失われてただコストしか考えられない世界になっている
つまりグロ−バリゼーションとは世界が悪魔がサタンが支配するシステムだともなる
第一世界の株のことなど経済でもわかる人はいない、それは何かしらのきっかけで恐慌とかなり破綻する宿命にあるのだ
悪魔のシステムだから当然そうなってもおかしくないのである  

グロ−バリゼーションをすべては否定はできない、でも今のグロ−バリゼーションは限度を越えている
あくまでも内需主体のドメステック経済が主であるべきなのだ
それはまた地域地域でもそうである、あまりにも広域化するとその地域の価値とか人間の価値まで失われるのである
だから現代は輸送にたずさわる人が多いのである、田舎で会う人がトラック運転手が本当に多いのである
それは広域的にグロ−バルに運ぶ社会だからそうなっているのである
経済とかコストが全面に出てきて何か本来あるべき文化的価値とか人間の本来の価値が無視されてしまったのである 








荘厳な森の詩(丸森町の森からイメージされたもの)


荘厳な森の詩(丸森町の森からイメージされたもの)


荘厳な森の詩

樅の木が忠実なる友とか同士のように
厳かに立ち並び歳月を森に重ねる
まるでゴシック建築の神寂びた石の柱のように
森の奥処に山雀がリズミカルに鳴く
それは森全体にひびき木霊する
つつじが赤く新緑の中に歓び映える
新たな命の再びここに芽生えぬ
藤の花がさわに長々と垂れ咲く
首飾りのように神は木にかける
その美は文明の華美なる濫費にあらじ
清楚にしてつつましきもの
重厚なる厳(いか)つしの森は鎮まり
錚錚と風は鳴りここに樹々は連なる
ここに我らの精神は形成されぬ
力強く樹々は信をもて結ばれる
原始組成の自然(じねん)の紐帯
人はそに付け加えるもののなかるべし
我々は文明の中で真の精神の拠り所を失う
その心はただ物質文明に消耗されぬ
真の自然の声を聞かず形姿を見ない
我々は深遠なる森に還り深く木のごとく根を張り
そのよって立つべきものを心から感得すべし

み吉野の象山(きさやま)の際(ま)の木末(こぬれ)にはここだもさわく鳥の声かも

山部宿禰赤人

丸森は名前のごとく森の国である、樅の木の原生林とかもある、確かに樅の木が多い
それだけ原始の森があった所である、その森は相馬市からつづいていた
ただ樅の木となると丸森とかに多い、松の木も混じっている
そこで聞いた鳥の声がまさにこの万葉の歌だと感じた
樅の木が暗い森からひびきそこに荘厳な樅の木が立っていたからである
そこは森が深い、前にそこに迷い込んで出れなくなった恐怖を書いた
それだけ森が深いとなる、ただ杉の林だとあまり荘厳さを感じない
それが樅の木だと感じる
それはドイツの黒い森に通じるものがあるからだ
しかしドイツに行っても黒い森はほとんど消失している
でもヨ−ロッパはドイツでも樅の木の森におおわれていた
そのゲルマンの深い森からあの荘厳な石のゴシック建築が生まれたのである

万葉集の歌が何なのか感じにくいものがある
それは万葉集には原始的な人間が実際に生活していてできたものだから現代人の感覚ではわかりにくくなる、その自然だって今とはまるで違っていた
神道が日本の原自然から生まれたことでもわかる
ヨ−ロッパでもそうだが中東辺りですらレバノン杉の森があった
それが船の材料とかで切って残っているのは数十本とかになってしまった無惨がある
自然がどれだけは消失したか、破壊されて来たか、それはドイツに行ってみても森が見えない、でもあの平原は黒々として原生の森だったのである

日本では森が70パーセントとか残されたのは牧畜などをしなかったからか山が急峻でできないということもあった、日本語の野(の)は斜面の意味だからである
そこが外国の感覚と地形と違っているからである
それだけ日本は山国でありヤマトなのである

いづれにしろ木暗い、奥深い森にひびく鳥の声はこの歌と同じだった
ここだも騒ぐというとき鳥の声がここに鳴き合い共鳴したということである
それは奥深い原始の森があってこそなのである
そこには樅の木とか松とか杉だけではないものがある森だから感じたともなる
ブナの木の森でも感じるものがあったがブナの木はこの辺ではなくなっている
小山田の奥の森にブナ坂とあったから前はブナがあった
それはどこでも杉の木だけではない、杉の木は木材として作られた林であり本来の森ではないのである
森という時縄文時代が森を住処として生活していた、日本全体が森でおおわれていて縄文人は森で生活していたのである
それで縄文人は前期では満遍なく森に割拠していた、縄文人が争わなっかったというとき農業ではなく森を生活の基盤としていたからである
稲作になると土地をもつものがそれだけ財を貯えるから土地争いとかが起きてくるからだ

いづれにしろ文明人はもう自然と共鳴しない、自然というときそれはただ木材としてしか見ないからである、その収入となるもの金となるものしか価値を見ていないからである
だから容易に森も破壊されてゆく、ただこれは世界的にそうである
グロ−バル経済になればますます森は資源となり金となるものとして伐採されて熱帯林すらなくなっている
その時人間の精神も文化も消失するのである、消失しているのである
鎮守の杜(もり)が日本にあるのはやはりそれだけ日本は森の国だったのである
日本語に森ということばがない、それはもる(盛る)であり盛り上がるとかになりもりではない、ではなぜこれほど森におおわれていたのに森という森林という言葉が日本語にないのか?
それはあまりにも森に覆われていてそれは当たり前であり意識しなかったともなる
一本一本の木は意識しても森全体を意識できなかった、意識できないほど森に日本は覆われていたとなる

いづれにしろ飯館から丸森は森がつづいている、丸森はまだ回らない知らない所がある
飯館でも広いから行っていない場所がある、それだけ森が広いからそうなる
必ず自転車で行くと道に迷ってしまうからである
そして森に迷い込んで森から出れなくなった恐怖を経験したのである   

jyomonmap111.jpg

この地図をみれどわかる、縄文時代は東北地方が人口が増えて関東から長野県地方が東北より増えている
でも西は増えていない、同じままなのである、だから東北地方はそうして人口が一時増えたがそのまま増えない
西は縄文時代は全く増えていない、つまり人口面から見れば東北関東地方が縄文時代は中心地域だったのである
そしひてそこは蝦夷の地域であり出雲に通じていて日本の原型を作っていた
実はここかヤマトの起源であり西から弥生時代に日本が作られたというのは違っているのである
それは征服したものがそういうふうに歴史を記したからそうなっているだけなのである

とにかく最近でも日本は森が多いと思った、山を見ていても森か見えないけど山と森は一体なのである
山全体が森になっているのが日本の自然だったのである、そして今でも70パーセントが日本の国では森なのである
こういう国は大陸と比べると珍しい、ネパールが山だけの国になるが日本は森の国なのである

2019年05月16日

宮沢賢治の中尊寺の詩より (大盗とはグロ−バル経済で起きていることだった)


宮沢賢治の中尊寺の詩より

(大盗とはグロ−バル経済で起きていることだった)   


 中尊寺
            宮沢賢治

七重(じゅう)の舎利の小塔(こたう)に
蓋(がい)なすや緑(りょく)の燐光

大盗は銀のかたびら
おろがむとまづ膝だてば
赭(しゃ)のまなこたゞつぶらにて
もろの肱映(は)えかゞやけり

手触(たふ)れ得ね舎利の宝塔
大盗は礼(らい)して没(き)ゆる


この詩は、簡単に言うと、金色堂に盗みに入った大泥棒も
金色堂の放つ燐光と、その迫力に盗むことが出来ず、
一礼をして、その場を立ち去っていくと言った意味です。

 この大泥棒は、源頼朝を指していると言われていますが、
他にも幾つかの説があるようです。

これも不思議な詩である、詩とかは隠喩がありいろいろに解釈できる
一つの解釈ではない、人によって時代によって解釈が違ってくる
そういう詩がいい詩だともなるしそもそも芸術は鑑賞する方が問われるのである
鑑賞する側も芸術家でありそうした才能も要求されるのである
まず宮沢賢治の詩そのものもか難解であり理解しにくい所がある
法華経に通じないとわからないとかなると余計に難解なのである
こうした難解なものでも後世に残っている
やはり後世になって認められることがある

この詩を私が今に生きて感じたのは解釈したのは何か場違いのような気もするが
この大盗(だいとう)という言葉である
これが何を意味しているのか?
大泥棒の意味なのである、ここでは源頼朝とか鎌倉幕府側のことを言っている
この金色堂の荘厳は盗まれず破壊されず残った
実際は堂塔伽藍は火を放たれて焼失したのである、その跡は忘れていた
そして芭蕉が来た時もその金色堂が残っていたことで「五月雨のふりのこしてや金色堂」の句が作られた、宮沢賢治の詩と通じるものがある
何かその美が尊いものとして残されたとなる 

1453年にコンスタンティノープルがオスマン軍率いるイスラム勢力によって占領されたのです。普通に考えれば、異教の建造物は破壊の対象となるでしょう。しかし、征服したメフメト2世はアヤ・ソフィアの美しさに感銘を受け、聖堂を完全に破壊するのではなく、わずかな改修にとどめてモスクへ転用したのです。

その美の威容に破壊できなかったことでは金色堂とにているかもしれない。
人間は醜いものだと破壊衝動が起きる、だから今の東京とか大都会には美になるのものがないから原子爆弾でも落としてもいいとかなるかもしれない
京都には文化財があったからアメリカ軍が空襲しなかったというのもそのためである
歴史という時、宗教でもそこに荘厳な美が残されて偲んでいることが多い
それはキリスト教圏内で多い、それがルネサンスの芸術に集約されたともなる
仏教でもそこに美があり後世のものが偲んでいるのである
現代文明にはなぜか全体的に美の感覚が消失している
ビルだってビジネスとしての機能性しかないのである、それが世界的なグローバル経済の結果だったのである  

これだけの富が生まれても美が生まれない、その象徴がアメリカ主導のグロ−バル経済からは美が生まれていない、世界の富がアメリカに集まりその数パーセントに金が流れ込んでも何か美は生まれていないし作り出されていなのである
だから美は必ずしも金があるからといって作り出されない、ルネサンスは確かに
メディチ家の繁栄はフィレンツェ・ルネサンス文化の発展につながったということは言える、そこに富豪がいて芸術家のパトロンになり繁栄したとはなる
ではなぜアメリカの一部の投資家などに莫大な富が集積されているのに何か美が創造されていないのはなぜかとなる

確かに金がないと経済的に余裕がないと芸術は生まれないことは言える
個人的にも宮沢賢治のように裕福な家庭だからあれだけの才能を発揮できた
あのころは農民は貧乏でどうにもならない時代だったけど賢治の家は裕福だったからいろいろなことを試すことができたとなる
ただ賢治は天才だったからできたということがある
でも家が裕福で余裕があることが隠された才能を伸ばすことがある
不思議なのは現代は経済的に余裕ある人が多い、第一なぜ働かない人が人口の三分の一もいるのか?

またニートとか全く働かない人がこれだけ多いのか?
貧乏だったらどんなに苦しくても働かなければ生きていけないからである
戦前はみんなそうだった、するとそうして働かない人は貴族なのかとも見てしまうのである、そこから非正規で苦しんでいる人が生活保護自由時間をもてばしたいことができるとしている、それはおそらく現代的にはベーシックインカムでありそこでしたいことするとなる

ここで言いたいのはグロ−バル経済とは何なのか?これを知らなければ現代を知り得ようがないのである、それはこれまで書いてきたように一万くらいの田舎でもグロ−バル経済の中に組み込まれていて逃れることができないからである
そしてグロ−バル経済とは「大盗」が跋扈して世界から富を集めているのである
それがグローバルな多国籍企業だともなる、国自体も実は歴史的に見て大盗である
ジンギスカンのモンゴル帝国も大盗であり中国国内でも時の権力者に対して反乱を起こして盗賊が皇帝にもなっていたからである
つまり「大盗」になれば英雄なのである
それは現代でも同じである、小盗は厳しく常に罰せられるが大盗は国を盗むのだから罰せられないのである、むしろ国をのっとるとなると英雄になるのである
それは歴史でも戦国時代があり熾烈な権力闘争に勝てば国の富を得るとなる
カルト教団でも国をのっとる、権力を得たいとなり選挙で勝つことを最大の目標としている、そこでその首領が実は大盗賊の親分だともなっているのである

つまり大盗とはグローバル経済になれば国自体であり多国籍企業になる、そもそも世界からグロ−バル経済で数パーセントの人に富が流れていること自体がその人たちこそ世界の富を収奪している大盗なのである
ただそれらの人たちは罰せられることがないのである、むしろ崇められているから陰謀論が生まれる
どういうふうにしてその富がごくわずかの人に集まるのかとなるからだ
でそうはいっても日本自体だってグローバル経済で高度成長が一時は大盗だったともなる
グロ−バリゼーションとはそういうものだともなる

グロ−バル経済というときそれだけの富がごくわずかの人たちに集められているのになぜでは歴史的に富が集中するとそこに美が創造された、でも創造されていない、その莫大な金は何に使われているのかとなる、金の使い道が変わったということもある
その世界から集めた金はどこに投資されているのか?それは科学技術の分野だともなる、ITとかもそうである
その金の使い方は歴史的にはエジプトならピラミッドとかギリシャなら神殿とかその後キリスト教なら大聖堂とかなりルネサンスになる、そこには宗教が関係していたのである、ピラミッドが謎にしても王の墓ではなく当時の宗教的建造物だという見解が出ているからである、そこに民衆の宗教的熱意があって作られたともしているからである

現実にいくら権力者がいても民衆の意向が働く、ローマでは大衆が望むのは「パンとサーカス」でありあの巨大なコロッセウムもサーカスに猛獣と人間の戦いの見世物として作られたというのも矛盾なのである
でもそれは民衆が望んだからだとなる、今でも大衆を望むものがありそれでテレビというマスメデアが大きな力をもったのである
それは大衆が作り出したものであり権力者だけでは作りえないからである
常に視聴率が最大の問題でありそれで会社の宣伝媒体となっているのが現代社会であるからだ

いづれにしろ資本主義であれグロ−バル経済というのが何なのか?
これが理解できなくては今の世界は理解できない、ところがそれが理解しにくいのである
おそらく大盗というときそれが本当に大盗でありかつての富をもつものとは違い美とか文化を創り出さないためなのかとも思う
多国籍企業だと後進国の人たちの安い労働で成り立つ、それは別に日本でもそうして外国の安い労働力に依存していた
逆に今度は外国人労働者が世界から入ってきて非正規の氷河期世代の30後半から40代の人が低賃金に抑えられている
それもグロ−バル経済の結果なのである、そしてもう俺たちは捨てられるという恐怖を語っているのである
それがグロ−バル経済なのである、労働自体が世界的競争にさらされるからそうなる

グロ−バル経済の問題はいろいろある、そもそもグロ−バル経済が何か知ること自体容易ではない
だから常に陰謀論になって終わる、ただ確かなことは歴史的に富が集まれば文化が芸術が美が生まれた
それがグロ−バル経済にはない、かえってグロ−バル経済は国々の地域の文化を破壊しているのである
日本語すらグロ−バル化すれば必要ない、みんな共通の言葉がいいとなり英語を共通語にすればいいとなる
それで非正規の人たちが英語を覚えて外国人労働者をマネジメントする立場になれと訴えている
そしてもう日本人のアイディンティティは保てない、日本語が通じない外国人労働者に日本人は入っていけない、排除されるというのもそうである

それからグロ−バル経済にはかつてのようなキリスト教でありイスラム教であれモラルがないのである
ただモノであれヒトであれ自由に流通する世界である、モラルがないからそこにあるのは金だけが唯一の価値となる
そこで悪魔的に世界の富が世界の数パーセントの人たちに集まる、でもそこには何ら文化的なもの美的なものも創造しないのである
美とモラルとも関係しているからである、だからエジプトでも宗教がありキリスト教でもイスラム教でも仏教でも背後にモラルがあって文明が作られていたのである、それがグロ−バル経済にはないことが最大の問題なのである
そこで世界は精神的に荒廃して退廃してゆく、だからその限界がきて資本主義のグロ−バル経済は崩壊する
では次の時代はどういう時代になるのか?それは何か大きなショック的なものが起きて変わるのか?
世界的恐慌が起きるのか、世界的戦争が再び起きるのか?津波のような大災害が起きるのか?
原発事故のような破局的災害が起きるのか?
何かわからないにしてもそういうことは起きる、そういう変わり目に来ているのである


2019年05月15日

丸森町のメガソーラーで考えたこと (グローバル経済で日本の国土も破壊されてゆく)


丸森町のメガソーラーで考えたこと

(グローバル経済で日本の国土も破壊されてゆく)  


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台風とメガソーラーの危険性

メガソーラーは、無人島のような、人が近所にいない場所にしか設置は許されるべきではないと考える。何かあった際、被災時(特に水害)に重大な危険性があるためだ。

太陽光発電そのものを否定しているわけではないが、人の住環境の近傍に、設置されて良いとは思えない。災害時でなくとも、設備故障・経年劣化・鳥獣被害により、近隣住民を危険に晒す可能性が否定できないからだ。

また山奥などでは、火事の火元となる危険性もある。
山も推奨できるものではない。

海の近くとなれば、塩害により設備が損傷する危険性が高まる。
同様に、推奨できるものではない。
風水害でパネルが海に大量にばら撒かれた場合の汚染リスクもある


丸森のメガソーラーパネルには驚いた、あれだけの量があると災害があったりしたら被害も大きくなる、ソーラーパネルも自然破壊であり公害を生むものだった
原発も津波は地震で大被害になった、科学技術でもこうした自然の影響をまねがれることができないことを知った

ではなぜソーラーパネルがこんなに普及したのか?
農業でも跡継ぎがないとかするとそこが荒地化する、その土地をもっていても何の用もなくなる、税金をとられるだけだとなる、するとその土地を活かす方法はソーラーパネルだとなる
土地さえ提供すればいいから楽である、家を貸すより楽である
そしてそうした金にならない土地が山でも森でも増えすぎたのである

山林でも丸森だったら江戸時代に米沢藩と相馬藩と伊達藩で木材資源で争いがあったように木材が利用されていたからそうなった
実際に相馬から伊達藩の宮城県の丸森まで森がつづいていた、森は相馬藩からも連続してつづいていたのである
戦国時代が入会権から村同士の争いとなったのが原因だったという学者もいる
入会権をめぐって大名が加担してその争いにまきこまれたからだとうい
それだけ木材資源は今の石油のように大事なものだったのである
それがグローバル化経済で石油が燃料となり炭を作る木材も使用されない、後は外材となったとき森は無用の長物となってしまった
それでも日本はまだ森が残っていた、森林が70パーセントもある国だとなる
外国では森林が鉄とか牧畜とかで消失してはげ山になった
ギリシャの山でも羊飼いがいた、外国ではいたる所に羊飼いがいる
それはヨ−ロッパでも同じだし中国でもそうである
それでヨ−ロッパの広大な森林は消失したとなる

とにかく文明と自然破壊、環境破壊は必然的に結びついている
それは人間の宿命のようなものである、人間の業なのである
自然破壊しなければ生きていけないのが人間なのである
焼畑農業でも森林を焼いて灰で肥料にしたとかでも森林の破壊だったからである
だからそういう環境の破壊は人間は現代まで継続してきたのである
原発事故でもそうだった、大規模な環境破壊自然破壊が起こり故郷にすめなくなった
森はもう除染もできない、セシウムは30年とかで半減するとかになるとそれだけの時間を待つほかないのである
プルトニウムは2万年消えないとするともう待つこともできない、人類は滅びるともなる

不思議なのはソーラーパネルが農業と関係ないと見ていたが問題が共通していた
畑だと常に雑草の駆除が強いられる、毎日のように日本では草むしりが仕事だからであるソーラーパネルでも雑草が繁るので草刈りが仕事になる
それから鳥獣の被害もでてくる、鳥の糞とか巣を作られて被害があったとか
また電線なのか何か盗まれたとかの被害もある
畑でも誰も見ていないから作物が盗まれるのが農業である
それからネズミだモグラだキジだとか鳥だとかに常に作物が食われる被害がある
だからそうした自然の影響からまねがれないのがソーラーパネルでもあった
特に台風とかで斜面が崩れてソーラーパネルが落ちるのは怖いと見た
あの丸森のメガソーラーパネルは何かそうなったら麓の人が住んでいる所まで被害が及ぶ

ソーラーパネルは景観を破壊することでも影響が大きい
せっかく絶景ポイントとなっていてもあんなふうになると台無しだともなる
あそこが森だったら蔵王が見えてさらに荘厳な景色となっていたからである
ただあの斜面は日当たりがいいから選ばれたのだろう、もともとゴルフ場だったとなると森林はなかったのか?
すでにゴルフ場の時に森林は破壊されていたのか?
あそこだったら見晴らしがいいからゴルフ場としては最適地となっていたとなる?

そして丸森町にも事情がある、木材資源があっても利用できない、森があれだけあっても木材が利用できない、それで高齢化率がここでも高くなり苦慮しているのはどこでも同じである、農業の後継ぎがないと会社経営にして他からも若い人を呼び込もうとしている
それは日本全国でそうなっている
そういう状況であのメガソーラーができたのである

いづれにしろ飯館村は原発事故で無惨なものとなったし丸森でもメガソーラーで景観が破壊された、それもグロ−バル経済とも関係していたのである
そもそも石油とか木材でも輸入だからである
そして人まで安い賃金で外国から入れて働かせる、でも日本で人手不足かとなるそうではない、氷河期世代の30代後半から40代頃まで膨大に人手がある
でも若い人がいいからは外国人労働者を入れる、するとその人たちの時給でもあがらないし不用にされて捨てられると訴えているのも深刻なのである

なぜ若い外国人を優遇して日本人の氷河期世代は国から捨てられるのかという訴えも最もだと思う
それもグロ−バル経済の結果としてあったのだ
世界的になれば企業でも国のことよりコストが最大の問題になる
いかにコストをおさえるかとなり世界での労働市場に目を向ける、そこで最貧国のネパールとかなら低賃金でも若い人が働くとなるからだ
そして肝心の日本人はいらない、30後半から40ともなるとおっさんでありいらないとなる、これも理不尽でありおかしいのだがそれもグロ−バル経済が作り出した矛盾なのである


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2019年05月14日

丸森町から蔵王と海が見える絶景ポイント (初夏の藤の花と丸森町の俳句と短歌)


丸森町から蔵王と海が見える絶景ポイント

(初夏の藤の花と丸森町の俳句と短歌)

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羽山神社
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松川浦が見える

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ソーラーパネルのヘンスで中に入れずいい写真がとれなかった

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クリック拡大

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鹿狼山(がろう)が見えて亘理の方へ海岸線が伸びている

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この石は大きいから存在感がある

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藤の花が街中の通りに垂れ咲いている

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田んぼに富士の花を写す



正面に蔵王を仰ぎつつじかな

新緑につつじの赤し森深し
      
鳥鳴くやつつじの赤く奥の森

初夏や展望拓く海と山 

海岸線はるかつづけり夏の海

遠大に展(ひろ)がりにけり夏景色

遠望す名も知れぬ山夏霞

夏空に蔵王の高く不動かな

夏山に向かいて我がひた走る

門ありて塀の長くも藤の花


分け入りぬ木の根残りて碑の古りぬ羽山神社や夏の森かな

つづらおり坂を上りて越え来る蔵王を望み夏の海見ゆ

森つつみ奥にそ家のありにしを我がたずねて夏の日暮れぬ

(蔵王)

夏の海広く蔵王の高きかな新緑の森につつじ赤しも

新緑に蔵王の高く松も古りつつじの赤く森の深しも 

初夏に開けし眺望大なりき雄想得べしなお生きむかな

新緑に蔵王の高く雪残り海も望みて神々しかも

国境越えてそ望む大いなる夏の山かななほまた行か

樅の木の重々しくも太しかな奥に山雀の鳴く声ひびく

(藤の花と丸森町)

阿武隈川蛇行し流る夏の日や蔵王の映えて緑豊けし

おばいしの苔むしあわれ夕日さし橋のたもとや藤の花たる

草深く碑も古りにしや丸森に藤の花たれ夕暮れにけり

藤の花シャガの花咲く金山城草の繁りて奥に隠さる

丸森に藤の花房さわにたれ森のつつみて木立古りしも

金山城たずねて相馬へ帰るかな藤の花たれ夕ぐれにけり

夕ぐれに植田に映る藤の花坂越えて我は相馬に帰る

丸森に糧のあれかし植田にそ夏の夕日や山影写しぬ


相馬市から城跡の裏の森を行きさらに丸森へ向かった
あそこの道つつぱおりであり坂がつづく

そこは土取り運ぶトラックが何台も来るので危険!

狭いつづら折りの道を何台もトラックが通るので危険だった
ここは注意すべきである
その坂を上りきったら丸森町の絶景ポイントに出た
蔵王が見えて海岸線が見える本当に雄大な夏景色である
ただそこはソーラーパネルがしきつめられている
それで景観が壊されている、ただ何も土地を利用できない
今は木材でも利用できないから森の木を切ってソーラーパネルにした
でもあれは台風などがきて大雨に成ったら崩れるかもしれない。

この辺では高い山がない、でも蔵王は相馬からでも見える
宮城県側からも見える、つまり福島県と山形県と宮城県から見える
三つの県にまたがり見える

 陸奥みちのくをふたわけざまに聳そびえたまふ蔵王ざわうの山の雲の中に立つ

斎藤茂吉の歌であるが確かに宮城県と山形県を分ける福島県まではそうはならない
ただこの辺では一番高く大きな山だから蔵王が焦点になることは確かである

あそこが絶景ポイントである、あそこは行きにくい場所でもあるしわからない
何かそうした絶景ポイントがある、でもわかりにくいのだ
富士山だって絶景ポイントがあるがそこがわからないのである
蔵王はこの辺では一番映える山である
ただそれを見る場所、絶景ポイントを知るべきだとなる
それを今回発見したのである

丸森は森の町である、初夏で新緑が映えつつじが赤く燃え染めて美しい
蔵王が見えたり阿武隈川が流れ景観がいいのである
市町村があるとしてそれぞれ景観が違っているのである
その景観によって市町村が作られている
だからソーラーパネルとかになるとその景観が破壊されるから問題なのである
かといって江戸時代なら丸森の森の木材資源のために相馬藩と伊達藩と米沢藩が争ったのは有名である
でも今は木材も利用しないとなると収入がないからソーラーパネルになる
ただ森があっていいとしてもそれだけでは生活がなりたたないことが問題なのである

丸森は阿武隈急行があるしとても槻木で乗り換えがありめんどうになる
それで秘境駅があるとかなる、ただ丸森は景観として一番いいかもしれない
飯館村は森につつまれているとしても蔵王のような山や阿武隈川などないからである
ただそれぞれにその土地の姿は違っているのである

金山城は石垣が当時のままに残っている、それが見物である
ただ相当に小さな城でありそこにどんな暮らしがあったのかもわかりにくい
一時は相馬藩でも支配していた城だったのである
歴史的にはそういうこともあり丸森とはつながりがある    

今回は坂をかなり上ったから100キロ行けるヤマハの新しい電動自転車の電池が帰りにきれた
そうなると重くなると思ったが以外とギアを軽くすると走れたので助かった
普通だと重くなって走るのが容易でないことを経験しているからである
だからヤマハの・・は優れものである
それで行動範囲が広がりまた遠くに旅に行けると思った
やはり軽く走るので疲れないことがいいのである
だから意外とまだこの自転車なら遠くにも行けると思った
やはり技術力の影響は大きい、技術力で体力がなくなったことを補えると思った
帰ったのは8時半頃だった、ただ昼間に出かけたのだからこのくらいはかかる
朝にでかけていればもっと遠くに行けた、福島市の方まで行けたのである
まだこの自転車で泊まる旅はしていない
荷物をつけることができないのでそこは一番困った点である
充電器も荷物となるからである

もう自転車では遠くに行けないと思ったがこれなら行ける、バイクではないが楽に行けるからである
坂でも上って疲れないで行ける、そうなるとこれなちら遠くに行けると思った
ただこれも経験してみないとどうなるかわからない
十年以上長い泊まりの旅はしていないからである
70歳でもロードにのってきつい坂を上っていた人がいた、そういう時代でもある
だから自分もまだ行けるのかなとこの自転車に乗って思ったのである


あとがき

写真が絶景のわりにはいいものがとれなかった
ソーラーパネルでいい場所に入れなかった

藤の花は写真でうまくとるのがむずかしかった
記録として出した
写真は記録としてたどるためにもあるからだ

あの絶景はあそに行ってみないとわからない

丸森からも行ける、青葉温泉の方に行くと行ける




2019年05月13日

田舎でもネパール人など外国人が増え一方で老人や病人が増える日本


田舎でもネパール人など外国人が増え一方で老人や病人が増える日本


その女性は福装の裁縫会社で働いていた、そこでは前らか中国人は働いていた
最近見かけたのは黒い顔の女性だった
インド人かと見たし前にスリランカ人がきたからスリランカとも見た
その女性はネパール人だったろう、なぜなら一人のネパール人と会ったからだ
そこで地元でも海外旅行が日本がではじまったときからヨ−ロッパに行っていた人が聞いた、やはりあの人は外人になれていたのである
そういう人が田舎でもいたことは意外だった、それだけもう田舎でも多様な人がいたのである、ただ自分の場合は引きこもりのようになっていて知らなかったとなる

今年の4月から法律が改正されてさらに外国人が入りやすくなった
ベトナム人とネパール人が本当に多いくなった、これはいたるところにいる
田舎でも普通に見かけるようになった
ネパールは一度トレッキングで行った、どうしてあんな高い所で生活できるのか?
ボールペンもなくくれと言われる、ボールペンがないとしたら学校で学ぶこともできない筆記用具とかノートもないともなるからだ

第一あのような高い所での生活の問題は運ぶのが容易ではない、山を上らないければならないからだ、それだけで容易ではない、そして裸足で歩いている人がいたのには驚いた
というよりは靴が買えないないからだともなる
インドでもリキシャの人が裸足だった、暑いのにそうなのである
何か原始的なところがまだある世界だとなる
山の中で畑で何かの獲り入れをしている人を見たらそれが万葉時代の女性のようにも見えた、それだけ原始的なものがまだ残っている所だともなる
ネパールの暮らしは理解できなかった、それは文明的な生活と隔絶されているからでも
ベトナムだと理解できる、なぜなら田んぼがあれば稲作であり米を食べているからであるそして平地が多いからである、二毛作であり一つの場所で田植えして稲刈りをしていた
だから米の量としては日本より倍とれるとはなる
ただ日本では品種改良で良質の米をとるし収穫量も一反からでも多くなった

ネパールは本当に生活でもそうだが気候でも地理でもその土地そのものがわからなかったなぜネパールにジャングルがあるのか?そこにサイがいたしワニもいたしトラもいるという、そのジャングルを象で見て歩く
なぜヒマラヤのうよな雪に閉ざされた山があるのに熱帯のジャングルがあるのか?
私は外国旅行に慣れていなから驚きだった
ネパールの紙幣が象とかトラとかサイが描かれているのもそういうジャングルがあるからなのだ、熱帯の大きな鳥もいたのである
ネパールは旅するには魅力ある国である、原始的なものが生活に残りその自然が多様でありヒマラヤが見れるからである
ただ一回しか行ってないのでちょっとだけ垣間見たとういだけである
海外旅行は深く鑑賞はできない、言葉もわからないしただ垣間見たというだけで終わったそして何かもう二度と年で行けなくなったのである
だから何でも海外旅行でも早い時期にすべきだったとなるのだ

いづれにしろこうして外国人が入ってくることは必ずいい面と悪い面をもたらす
外国人が入ってきて不満なのは40くらいの氷河期世代である
賃金の安い外国人と競争を強いられている
外国人は若いから競争に勝てないとしている、日本語ができなくても仕事はできるものがある、そうしてグローバル化するとそうして底辺国とも競争を強いらるのである
そこでスキルもなんにもない者はさらに最底辺に落ちてゆく恐怖を訴えている
そうしたベトナムであれネパールであれ外国人は生き生きとしているという
なぜなら為替の差で親に仕送りできるし労働する意欲が違っているからだ
日本人の氷河期世代とかは自分自身のことだけで金は使われてなくなる
外国人は賃金が安くても日本で働くメリットがあるからだ

ネパール人は白人のような顔の人もいるし黒い人もいるし本当に人種が混在している
だから見分けがつかない、何か不思議なのはアメリカのサンフランシスコとかで見かけた年配の日本人の女性は見分けられた、日本人のような顔していると見たからである
だから日本人の顔はやはり日本人としての型があるともなる
でもネバールとかなると見分けがつかない、多民族国家だから見分けがつかない

ともかく何であれ女性であれ男性であれ若いということは国に関係なく価値がある
つまり若いというだけ価値がある、そのために40くらいの氷河期世代は若くなくなっているから価値が自ずと低下しているから嘆いているのである
若いという価値は世界共通でありどこの国に行っても価値があるということになる
若いということは適応力とかいろいろ優れているからである
それはどこの国とかではなく世界共通なのである

日本の問題は高齢化である、最近なぜかとなりの60代の人が見かけなくなった
体を悪くしたのか?外に出たのを見たことがないのだ
また一軒となりの子さも60代になったのか?
その人も足をひきづって歩いている、スーパーのレジで働いていたがやめている
この前土手の道であった人は64歳で脳梗塞になり一時はしゃべれなくなった
杖をついて歩いている、その同級生も病気になった      
もう一人近くの同級の人も脳梗塞で足を悪くしてひきづり歩いている
でも車で買い物に来ていた

それから危機一髪で脳梗塞から助かった同級の人がいた、一時痩せ細ったが普通に話しできる、でも無理はできないという、他にも病気の人が多い、高齢化病人社会になっている60過ぎると自分もそうだったが何かしら病気になりやすいのである
ただ70歳でロードに乗っていた人もいたからいろいろである
元気な人は元気なのだが病気の人が目立つとなる
福島県は脳卒中が多い県であり全国で7番目になる、心筋梗塞は一位なのである
そして南相馬市はさらに脳卒中が多い市なのである

こういう社会では外国人は若いから歓迎されるということはある
つまり外国人は日本人の若い人よりもやる気がある、それは賃金が安くても為替の差で仕送りもする、そういうモチベーションがあり違っているからだ
日本はこうして衰退国家になってゆくのだろうか?
なぜなら戦後焼け野原になってもその時団塊の世代が生まれた
なぜそんなときに食べ物もないのに多くの子供が育つことができたのか?

それが不思議なのである、今の経済力でも10倍くらいの差があった
家にあったのは飯台一つだったからである、それはどこでも同じである
そんなときになぜあんなに子供がいたのかという不思議である
貧しくても子供は増えるし育つともなるのか?
その時は逆に今より社会に活気があったとなる、つまり子供が多くまた若い人が多かったからである、つまり日本はその時若い国家だったからだとなる
若い人が子供が多いということはそれだけで国に活気をもたらしていたのである
貧乏でもそうなのである、そういう国ではエネルギーが満ちているともなる

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ネパールの紙幣

現実にサイとかトラとか象がいる国なのである

posted by 老鶯 at 09:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題