2019年05月03日

5月に大倉から飯館村まで出会った人 (それなりに前より帰っている家は眼についた)


5月に大倉から飯館村まで出会った人

(それなりに前より帰っている家は眼についた)

manodamm1.jpg
真野ダムは青い線まで水があった

manodam222222.jpg

cycleageman1.jpg

cyclingg11.jpg
5月25日サイクリング大会

iidatesaruuuu1.jpg

猿がいた、クリック拡大

sounouss11.jpg
相馬農業高校の分校
sonouuu12321.jpg
震災以後時計は止まったまま
iidatehouse1.jpg

ここで60代の女性と話した



最初出会ったのが大倉の真野ダムで原町の人でありロードにのっていた
若い人かと思ったら60代と70の人だったのである
60でもそうだが70でロードに乗るのはきついと思った
前から乗っていたにしろ70はきつい、あそこは坂がきついからである
自分はいつでも歩いて上っていたのである
あの年でも坂を上りきることが快感であり電動自転車は使わないという
高齢化でみんな年齢では計れない、体力の差があるし健康の差も大きくなる
病気になった人は弱った、脳梗塞を経験した人は同じ年でも弱ったからである

真野ダムの水位はあんなに低くなると不安になる、なんでも崖のところに水がないと水圧がなくなり崩れという、そういうこともあるのかと思った
大倉にも何軒か帰っているにしろ一軒の店はなくなり自動販売機もなくなったから困ることはある、飲み物を用意していないと困る
サイクリングが5月25日にある、あの辺はサイクリングに向いている

そこから木戸木に行って新しい道を行った、猿が山桜の木に登っていたり渓流にも猿がいた、人間がいなくなると猿とかイノシシは住みやすくなる、警戒しなくなるのだ

までい館が休んだ、あそこには地元で作ったものを置いていないので魅力がない
それもどうしようもない、放射能でとれない、キノコを置いてあっても売れるのか?

次にそのまでい館の前の新しい住宅地におばあちゃんがいたので話した
までい館の前に相馬農業高校の分校があり震災前まで生徒がいたのである
その学校の時計が4時12分で止まっている
それは3月11日に地震があった日の時間でありそれ以来止まったままなのである

「あそこの学校は震災前は生徒がいたんですね」
「あそこはずっと前はみんな集まってにぎやかなときがありましたよ」
「なんか淋しいですね」
「どこからきたの」
「鹿島です、飯館にはしょっちゅう来てました、でもあそこの学校の奥の方に行ったら知らない所だった、いや、本当に飯館は広い、知らない道がありどこに行くのかほからなくなる」

それから放射能のことを話した

「長泥(ながとろ)ではまだ除染しているようですね、私の知っている人の息子も除染の仕事したといいますから」
「だいたい終わったのよ、長泥からは東電の原発の煙突が見えるんですよ」
「ええ、本当ですか?相当遠いはずだけど・・・・」

長泥からとても原発の煙突が見えると思えなかった、長泥という場所に一回くらい行った記憶があるけどそれも相当に遠い場所だったと記憶している

「ところでここに住んでいるのは若い人住んでいますか」
「一軒くらいは住んでいるけど老人が多いよ」
「やっぱり、前の新しく建てた住宅でも老人が多いと言っていましたから」
「放射能でどうにもならないよ、若い人は帰らないよ」
「なんかこの土地は前の農家の土地でその人が土地が売れて金が入り喜んでいました」
「そうですか、私は土地も家もない住宅に住んでいたから」

その女性は確かに飯館に住んでいても家も土地もなかったのである
その前の家は塩の道の通にあり蔵があり古い家だったのである
その家は新しい家を建てたから確かに金が入ったことは言える
一般的に飯館村は補償金は相当にもらった
だから新築の家が多いのである
そしてそれなりに人が帰っている、でも飯館村は広いから草野からはずれた遠くは人は住んでいなのかもしれない、ただ広いからわからないのである

そしてまた帰りに大倉に寄ると東京の練馬から来た人が公園でキャンプのために
テントを張っていた、そして煮炊きもしていた
なんか前にもボランティアで大倉に来ていた、だから知っていたのである
そこはキャンプはしていけなかったが特別許可をもらったらしい
なんでも練馬区から来たと言っていた
環境緑化新聞の記者だとも言った
インタ−ネットで調べたらあった

環境緑化新聞

夫婦ともう一人男性がいた、もう一人の男性は造園関係だと言っていた
東京というとき練馬区ってどこなの?となる
                                           
“都心3区”と呼ばれるのは千代田区、中央区、港区の3つ。
皇居に隣接しているため、昔から商業はもちろん、政治や企業の本社機能などの中心として栄えてきました。

現在も東京駅を中心とした大手町・丸の内などのビジネスエリア、銀座・表参道などの商業エリアとして日本の経済活動の中心となっています。

東京の中でも地価がもっとも高いエリアでもあり、居住者は少なく夜間人口は昼間人口に比べてグッと下がります。

やはり江戸城を中心に見るといいのかもしれない、ただ練馬大根とあると江戸時代だったら農村部だった
今は全然違っている、ただ江戸城からもともと離れた地域だとみるが東京は地理はわからない
わかるのは皇居のある中心部だけである

今回キャンプしている人は遊んでいる人である、前にボランティに来たとしても今は何もすることがない
八戸とか災害地に行っているというが何かする訳ではない室根山に行ったとかも行っていた
車で東北を旅行しているのである、ただキャンピングカーではない、そういう人も今高齢化社会で仕事していな人が多いからいる
めずらしいことではない、ボランティアでも今は何もしない、ただ旅行しているというだけである  

ともかく飯館村ではそれなりに草野辺りから周辺と帰って住んでいる人が前よりかなり多くなっている、ただ老人が多いのだろう
老人は離れられないここに住む他ないと言っていたからである、それは小高でも避難区域ではそうなっているのである
別にそこであった60代の女性でも山菜を食べているという、前もそういう人がいたのである
飯館村では山菜を食べるのが普通だったからである、それができないとなると飯館で暮らすメリットがないのである
ただあれだけの広い地域をどう活かすのか、確かに牛を飼いはじめた人がいたとしても極わずかである
牛を飼うのに良かったのはとにかく土地が広いからである、牧場にできるからである

でも今になるとこれだけ広い地域をどう活かすのだろうとなる、農業は放射能汚染でしにくいからだ
それぞれの地域によって復興は違ってくる、飯館村はとにかく広いのである
その広さをどう活かすのかとなる、小高だったらマルシェのようにな街中心の復興がありえる
飯館村の復興となるとその広さの故にどう活かしていいのかとまどうのである
今回も迷うから遅くなるから早く帰って来た、そこは行ったことがない所だった
道が幾重にも分かれていて入ってゆくと方向がわからなくなった
前にもそうだった、東京から来た人はGPSを備えているというのもわかる
方向がわからなくなる、磁石をつけているがそれでも東と西が何か絶えず変わり方向がわからなくなるのである
次は時間をかけてまた飯館村を探索してみよう

飯館村ではまだ山桜が咲いていた、そのことは今日の一句一首でつづきとして書く

posted by 老鶯 at 21:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村