2019年05月10日

藤の花、菖蒲の季節(相馬市には藤の花が合っている)


藤の花、菖蒲の季節(相馬市には藤の花が合っている)

fujishoubuuu111.jpg

tamagoyaa1.jpg

玉子屋


藤の花垂れにし下に休む人その後我も休むかな

八重桜に菜の花映え街中や玉子屋にそ働く人あり

玉子屋に働く女やあわれかな墓に入りしも花をささげぬ

紫と白の藤咲く相馬市に奥ゆかしくも住み人のあれ

路地を入り白菖蒲咲くを我見つけ知られざりしもあわれ深まる

人生の移り変わりの激しかな津波に病杖つく人かな  

若葉に風のそよぎて鳥飛ぶや藤の陰にし人は休みぬ


藤が咲き菖蒲の季節になった、相馬市は城下町であれ入母屋作りで公共の建物は統一している
それが原町とは違う、原町の駅前の丸屋には十階の建物がホテルが建つとうから驚く
とにかくこの辺は震災以後ホテルが建てられつづけている
こんなにホテルがあっていいのかとなる、まだ原発の廃炉作業がつづくから需要があるともなる

その村とか街にあった花がある、相馬市は藤の花である、城跡の中村神社に藤の木があるからだ
そして白い藤も咲いている、城下町としてしんみりとして合っているのである
ただあそこで城下町を意識するかというと外から来ても意識されないだろう
細い路地があるからそれで城下町を意識することはあるが他に何か意識しにくいのである

原町はひまわりの花があっている、明治以降常磐線の機関区としてそこから街が発展したからである
つまり鉄道の駅中心に街が整備されたからである
それまでは浜街道沿いの宿場町だったとなるからだ
そこは相馬市との大きな相違である、だから今になっても駅前に十階ものホテルが建つことでもそうなのである

でも相馬市にはそういうビルが建つと景観がそこなわれる、何か低い家並みがあるのが素朴な感じがするからだ
それで原町と相馬市では違っているのである
それぞれの街で町でも村でもなんらか特徴がある、でも有名でない所はわかりにくいとなる

鹿島には玉子屋は有名であり街中に工場がある、そこに八重桜と菜の花が咲いていたのも合っていた
そこで働いていた女性も死んで今は墓の中である、その墓がすぐ近くにある
そこは自分の家の墓でもある
そこに津波の被害者が主に右田の人たちが復興住宅地の団地にいる
その公園でいつも休んでいる、そこには藤棚があり藤が咲いている

それにしても復興団地があそこにできると思わなかった、前は幼稚園があったがそれもなくなった
こんなに変わるとは思いもよらなかった
人生は本当に有為転変である、烏崎村の人と土手の道で語ったけどその人も津波の被害にあった人だった
そして脳卒中になり杖ついている
病気になっている人も多いのである、それは自分自身もそうだった、家族はみんな死んだとかなりただ茫然としているだけだった
人生とはこんなに変わるものかとただその無常に驚くだけである
もともとそういうことが人生だったともなる、なぜなら70年前は戦争であり三百万人死んでいるからである
長い人生のなかではそうして変化することを知った

路地は入ったら白菖蒲が咲いていた、あそこに咲いているのは気づかない
街中の畑にも菖蒲が咲いていたこともあったが今は荒地になっているのも淋しい
畑でもそうだが荒地になっていると良くないのだ
そこで花でも植えているだけでほっとする、そこに美が作り出されるからだ
ただそうするのにも手間がかかり金がかかるからできないのである
何かそういうことをNPOでしてもらいたいともなる
駅の見守りなど本当に必要なのかどうか疑問だからである、いれば安心感があるにしろ駅の業務をしないというのも変ったからである

今日は暑い、暑いともう自転車で出かけられなくなる、自転車は日ざしをまともに受けるから困るのである
それで去年は熱中症になったから怖くなったのである



なぜ会社から退職すると居場所もなくなり孤立化するのか? (生産共同体(会社)から排除されたため)


 なぜ会社から退職すると居場所もなくなり孤立化するのか?

 (生産共同体(会社)から排除されたため)

cooperate11.jpg

 経済という時、基本として生産と消費がなんでもある、生産する者とまたはサービスを提供するものと消費するものサービスを受ける者がいる
それは資本主義社会では明確に分かれているのである
なぜなら時代をさかのぼればのぼるほど生産と消費は分化していないからである
例えば農業している人は米でも野菜でも生産する、そして村は生産共同体だったと同時に消費する共同体でもあった
つまり自然があり米でも野菜でも生産して消費する、その時消費するというとき自然から神からいただくということで感謝する、それがその土地土地の祭りとなっていた
神社とかにはもともとそういう機能があったとなる
神社はその土地土地に根ざしたものが多いからである
そうして一つのミクロコスモスに生きていたのである

そういう社会では生産と消費は分化しない、今でも小さな畑で野菜を作っている人は生産と消費が分かれていない、しかしそのためには金がかかる、肥料やら種やら道具やら労働力やらと生産するには金もかかるし苦労が多い、だから私がそれを援助してももらったのはキュウリ二三本でありそれも一万もしたともなる
これをスーパーで買えばそんな馬鹿高いものにはならない、だからそんなことをしても無駄だとなり損するだけだとなる

ただその人にとってそれが生きがいになっている、他にも仕事があるとしても家事などしたくない、皿など洗いたくない、その人は庭で花を育てるとかそういうことに熱心なのである、そういうことが苦労があっても好きなのである
皿洗いと掃除とか家事はしたくないのである
だから今は一切していない、なぜそうした農業が生きがいになるのか?
ただの労苦ではないのか?

それは生産と消費が一体化してからである

そして生産共同体というとき生産は共同でする、その人も畑で野菜作るにもいろいろ他でも畑で野菜を作っている人がいるから聞いている
また畑をうなってもらったりしている、その時は金を払っているのである
つまり一旦生産するとなるとサービスを提供する側になると共同体が必要なのである
協調しないとできない、それでどうしても農協などがかかわるようになる
でもそんな小規模なものは金にもならない、農協を通じて売る場所がある
するとそこで農協に金を払うからもうけもなにもなくなってしまうのである
いづれにしろその畑で野菜を作ることは共同があり生産と消費が一体化している
そして現代社会は生産とサービスを提供するものと消費が分離しているのである

消費者が王様だというときもそうである
ではなぜそうなるのか?生産する者からサービスする者から一旦離れてしまうことは社会にとって消費者になる
でも消費共同体などないのである、消費は個々人でしている、だから会社を退職した人は生産共同体(会社)から離れるから社会で孤立する
会社をやめて地域で活動しろといってもそこには生産共同体としてのコミニュティがないのである

生産共同体は会社は共同して働く場だったのである、だから会社で働く人たちは共同体の一員となる、そして仲間意識をもつ、でも一旦そこから離れると仲間ではなくなる
でも農業とかしていた村ではそういうことはないのである
村の共同体の一員として死ぬまであり死んでからも先祖として生きつづけていたのであるそれが村の祭りだったのである

人間は自然から確かになんでも消費する存在である、食べ物でも自然から本質的には得ている、でもまた生産するものでもある、生産することによって自然への神への感謝が生まれ消費するというものではなく賜(たまわ)るのである
資本主義グローバル化社会になるとそういう自然の中での生産と消費の一体化は喪失して分離されるのである、その時自然とか神に感謝する祭りはなくなる
そこに媒介するのは金だけだとなる
だから会社という生産共同体から離れたらその人は消費するだけの人間となる
そうなると消費するためには金がないと存在感がなくなる
消費すれば金を払えば消費者は王様だとなり歓迎されるのである

そしてなぜ会社を退職すると社会で居場所がなくなるのか?孤立するのか?
それは生産共同体から分離されてしまうからである
地域でもし昔の村のように農業でもしていればそういうことはありえないのである
労働の疎外というときマルクスが指摘したことは今も活きている
でもその労働の疎外がどこから起きているのか?
それは生産と消費の分離から起きていたのである

とにかくなぜ一旦会社から分離させられると居場所がなくなり孤立しやすいのである
そしてもう何か社会のために労働したとしてもできない
ボランティアとか意外とめんどうでできないのである
なぜなら会社とは生産共同体として組織化して素人は立ち入れない場所だからである
なにより生産共同体になると個人ではできない、組織化して仲間でするから一旦そういう共同体から離れると消費者になるほかないからである

現代は何か本当に労働自体が疎外されている
その悲惨な例が非正規とか派遣で働いている40くらいの人たちである
夢も希望もない、家族がいない人は何の働く動機もない
ただ金だけであり日々ただ生きがいもなく時間を浪費しているだけだとなる
つまり派遣という労働は毎日ただ仕事の現場に派遣される
会社で働いているのとは違う、会社員とも違う、仕事があれば派遣されるのである
そこでは日給であり正規の会社員として定年まで働くというものではない
だから保証もないし福祉もないとなる

そして何よりそこで働いたからと言って誰かに感謝されることもないのである
家族がいたら家族に感謝される生きがいがあるかもしれないが結婚していない独身者はそういうことがない、ただ一日分の金をもらいあとは食べて寝るだけだとなる
労働する生きがいがないのである
例えば働く語源が端(はた)を楽にするというときそれは家族労働のような狭い範囲から生まれた、家族が働いて苦労しているから楽にさせたいとなるのが語源なのである
そういうとき働くということはやりがいがあるとなる
今の労働はそういうことは全くない、それもグローバル化すれば地球の裏側で働いている人のことなどまるでわからない、つまり働いている人とは関係をもていなのである
ただモノが無数に入ってくるが人とは関係しない、そこに金が媒介となるだけである
そこに結局労働の疎外が起きているのである
ただマルクスの論理はそれで共産主義になったらそうした労働の疎外がなくなるということはないかった、共産主義だってグローバルであり働くという語源のようなものはなくなっている

つまり生産共同体として生産と消費が一体化することが本来の人間の在り方でありそこに自然との融和があり人間の協調があり祭りがあった
だから人間の労働のモラルもなにもなくなったのである
働くことに生きがいが見いだせないのだ、ただ金が欲しいというだけである
それで小さな畑で野菜を作る人は生産と消費が一体化しているからそこに生きがいを見出しているのである
ただそこの矛盾は金がかえってかかるということである
その金を与える者がいなければそもそもできないのである

いづれにしろ生産と消費が分離しているのはあらゆるものがそうだと思う
例えば情報というとき今までは情報を提供する者と消費する者に分離していたのである
情報を提供する者はマスコミだった、新聞とかテレビとか主だった、雑誌でもそうであるそれで情報を提供するものが国民の世論を操作して作っていたとなっていたのである
マスコミが報道するとき必ずマスコミの意にかなったものしかとりあげないからである
ニュースにしても重大なニュースでも報道されないからだ
また個々人では報道できないからである
それがインタ−ネットでyoutubeとかなると一個人がテレビのように報道できる
それは金がかからないからできるようになったのである

それでyoutubeのLove & Freedom底辺労働者)は一つの例としてこんな人がいたのかとなりその人の立場を派遣労働の悲惨な姿を生々しく知ったのである
それは家族もいないから孤立していて労働自体にも共同性もなくただ毎日金をもらい食べて寝るだけの生活なのである
そこで生産共同体という会社にも属していないからない、派遣共同体とかにはないから孤立しているのである
何より家族がいないということが孤立感を深めているのである
それは今になると自分もそうだから同情する、共感するとなる

自分自身も若い時は底辺労働者だった、でもそれは自分にとって必要なものだったのである、何か自分は恵まれていて傲慢な所があったから底辺労働してそういう傲慢さが打ち砕かれたのである、その後も自分は労働は一切していない
旅ばかりしていた、消費しかしていないのである
鉄道の旅をしている時でもそうである、それは消費でありサービスを受ける側しか経験していない、でも資本主義社会では消費者は王様なのである
金さえ払えば鉄道会社でサービスしてくれるのである
それが一旦サービスを提供する側にまわるとボランティアでもいかにむずかしいか無人駅の問題で延々と書いてきたのである
それは自分だけではない退職したら会社という生産共同体から離れたらもう一消費者でしかありえないのである、そこに仲間もいなくなり孤立化して居場所もなくなるのである 、ただ金をもっていれば消費者は王様であり待遇してくれるとはなっているのだ
しかし消費共同体というのはないのである、だからやはり孤立しているともなる
生産共同体なら会社のように共同があるが消費するだけだったらないからである
だから会社から退職した人は一消費者となり居場所がなくなり孤立するのである


posted by 老鶯 at 09:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題