2019年06月18日

相馬市新田寺田に元禄の碑 (松川浦に接した大塚神社の謎)


相馬市新田寺田に元禄の碑 (松川浦に接した大塚神社の謎)

shintamura1.jpg
クリック拡大
ootukassss111.jpg


genroku432121.jpg

genroku123321.jpg


suwajinjyakofun1.jpg

クリック拡大

諏訪神社と地の内古墳

ここまでは津波が来なかった、でもそれなりに近くまで来た


●大塚神社{稲荷神社)の謎

空が光り輝き、轟音と共に萱原に光るものが落ち、当時、郷士であった志賀家など数家の主が、恐る恐る鎧、兜で身を固め何者かと恐れながらも槍を持って近づいてみると金の御幣束であったといいます。それを大塚権現のご神体として祠を建てて祀ったといわれています。
また、境内にあった公会堂は、籠り堂で、藩政時代は備蓄米を納めていた郷倉を移転したもので、破損が激しく建て替え公会堂にしたものですが、今は基礎だけとなりました。

地名の由来となった大塚古墳と大塚稲荷社のあったところなのだけれど 

古墳だらけの谷端川・小石川流域。


清和源氏の始祖・清和天皇が、この地を訪れた時に冠を忘れ、それを守っていた村民が天皇崩御後、冠を祀り社殿を造ったのが大塚小神社の始まりとされる。また建武2年(1335年)にこの地を大洪水が襲い、その際に仏像が出現。恵慶なる僧が勧請し、祀ったのが大塚神社の由来とされる 

高槻市大塚町

大塚の地名伝承は、大塚神社の説明板によると
 「平安時代後期(9世紀中頃)、清和天皇が皇子の陽成天皇に譲位した後、日本諸国をめぐったという、そして当地の「松ケ崎」に立ち寄り、小松原で休憩をとり淀川の風景を楽しんだ。
 そのとき天皇は松の木に冠をかけたまま帰国され、気づいた村人はその王冠を埋めて「王塚」と名付けた。
天皇の没後、社殿を設けて清和天皇の霊を祀った。
これが現在の大塚小神社「大塚殿」にあたる。」とあり


この神社は常磐自動車道・関本PAの南西約1.2km、神社から高速道路が良く見える、水田地帯の中の小高い丘に鎮座しています。今では鬱蒼とした樹木に覆われ、研究者にしかその存在は分からないかと思われますが、この丘は古より大塚と呼ばれた前方後円墳です 



新田村に寺田とあるのはそこに寺があったからである、寺の田があった、その寺の領域内にたくさんの碑と墓が捨てられたようにあるそこはもともと寺の中にあった、だから寺田なのである
他にも寺が廃止されて墓だけ残されているのがやはり相馬市の山上の奥の金谷村もそうである、墓だけが残されているのだ
つまり寺は墓を守る場所だがその寺がなくなってしまったのである
おそらくこれからも寺がなくなり墓だけが残されることが多くなる、ただ寺がなくなったのは最近のことではない
いつかわからないが寺が江戸時代からあり寺田となっていたことは確かである
まず地名となると江戸時代までにしかさかのぼれないだろう、明治から地名化しているのは北海道くらいだろう。
北海道は新しいからである

地名からみると新田と程田と飯豊(いいで)があるが飯豊は飯豊天皇とかいて古代にさかのぼる地名である
程田も古いのかもしれない、もともと程(ほど)という地名がありそこが田になったのかもしれない
程(ほど)はホトであり女性の陰部となっているがそこはそういう地形ではない
要するにほどほどという言葉があるようにほどほどの田とかの意味かもしれない
新田ははっきりしている、元禄時代に新しく開拓して田にされた地域である

松川浦に近く湿地帯であり広い地域である、でも中村に城が移されときか慶長地震津波のすぐあとでありそれから元禄になり開拓された、意外と早いしまず元禄の碑はこの辺にはほとんどない、幕末が多いのである
明暦と元禄の碑があったのは葛尾村の落合だったというのも不思議だった
他に元禄の碑を見ていないからだ、だからあれは貴重だと思う
そして柏崎には日吉神社があっても古いと思えない、柏崎に人が住んだのは元禄以降かもしれない
飯豊とか程田は古く新田でも元禄であり新田ができて人が増えて柏アの方に人が住むようになった

あの辺をみると日下石でも古墳が小さくてもある、平地に古くから人が住んでいた
そこは今回の津波が来た地点に近いかった、そこに神社もあった、そこまでは津波が来なかった
謎なのは大塚神社と稲荷神社である、大塚神社の由来は良くわからない、それがなぜ松川浦の近くにあったのか?
その辺は湿地帯になっていたはずである、だからそれほど古くないのか?
でも樹齢何百年かの太い杉が残っていた、でも江戸時代でも300年と400年になる 
他にも大塚神社は全国にありたいだい大塚町とあり古墳があったところにある
だから古墳に由来していることがわかる、大塚が王塚ということにもなっている
王が埋められているからそう名付けられたともなる   

この神社の謎は慶長津波の時にあったのか?
烏崎の津神社はあそこは移されたのである、前は別な所にあった、その場所は烏崎村の家が立て込んでいた所なのか?
どこにあったのかわからないが後であそこに移された、でもいつの時代に移されたのかはわからない
神社は歴史を語る証拠としてある、その場所と時代がわかればいいのだが時代が神社が意外とわからないのである  

建武2年(1335年)にこの地を大洪水が襲い、その際に仏像が出現。恵慶なる僧が勧請し、祀ったのが大塚神社の由来とされる 

慶長津波地震の後にこういうことがあったのか?大洪水があったというとき仏像が流れてきて霊験があり神社がここでは建てた?
ただ松川浦に近すぎるのである、慶長津波の前荷ぁたとした確実に津波の被害を受けた
それも完全に破壊される強い津波である、そういう記録もなかいからわからないとなる
あそこに古墳はありえない、湿地帯になっていたからである

郷土史では時代を特定することが大事である
それで村の新旧を知ることが大事になり必ず碑を見て年号を見ている、でもなかなかわかりにくいのがある
だからあそこの元禄の碑がはっきりとわかったから印象に残ったのである
時代と場所が神社では歴史でも大事になる、だから直接その場に立ちその土地の人とわずかでも話すと歴史の実感が増
すのである、そこには寺がありましたと聞くだけでヒントになるからである
そして地図を調べてインタ−ネットで調べる、すると郷土史でも何かてがかりがあり知の連携ができてくるのである

これが図書館ではできない、調べるのに時間がかかりすぎるのである
それで今は家事も全部しているので忙しいから図書館には行っていないのである
手元に郷土史の本を用意しておく必要もある、ただ高いから全部は用意できないのである



posted by 老鶯 at 19:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 江戸時代

野馬追い近し(女性の騎手が馬に乗っている写真)


野馬追い近し(女性の騎手が馬に乗っている写真)

夏菊や女性の乗りて馬を引く   

野馬追いの近しと馬に女性かな萱浜広く夏の夕暮

horsewoman1232.jpg
クリック拡大



この馬に乗っている人は女性である、女性でも馬に乗る人はいる
こういう光景を見ているとこの辺は野馬追いがあり馬に親しむ
それが一つのこの辺の景色となってる
今は本当に馬というのは日常では見ないのである
競馬だけが馬を見る機会になる
でも競馬に興味がなければ馬を見ないのである
馬と親しむ機会がないのである
ただ北海道辺りでは競走馬を飼っているから馬と親しむことがある
やはりこの辺で野馬追いがあるので馬と親しむことがある
野馬追いというとき野馬追いの祭りの本番の前から始まっている
ほら貝がひびいたりするからである
野馬追いで雲雀が原での旗取りが終わっても帰り馬とか迎えるからつづいている

ともかく馬と親しむことがないのも何か淋しいのである
車社会を批判してきたが馬がもっと利用されてもいいともなる
何か馬でも動物でも人間と一緒に生活しているときうるおいがあった
それを感じたのは田んぼに蛙が帰ってきて鳴いた時だった
つまり田んぼと蛙は一体としてあったのだ
この辺では原発事故で田んぼまで一時なくなったし今でも回復していない地域がある
だから田んぼが回復して復興になると田舎では思った
いくらロボット工場ができたとしても田舎だ田んぼとか畑がないと復興したとように見えないのである
田畑はその景観が人間と一体となり千年とかつづいているから切り離せないのである
ただ馬が生活に活かされない、でもこの辺ではあちこちに小さい牧場があり馬を飼っているから馬と親しむことがある
ただ北海道のようには広くないからものたりないとはなる
posted by 老鶯 at 13:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 野馬追い関係

こ線橋の工事 (駅の見守り役に駅の業務はしないと契約したのはJRで金をはらいたくないため)


こ線橋の工事

(駅の見守り役に駅の業務はしないと契約したのはJRで金をはらいたくないため)

kosenklyoo1.jpg

kosennn1.jpg
これも相当に古い、屋根が錆びついていた



こ線橋の屋根の修理である、写真でし見たら錆びていた
ここに注目している人はいない
ただ写真をとって見たら気づいた
これも相当古くなっていたのである

とにかく鉄道は毎日の用地ユニオンなどが点検している何か仕事しているのである
そういう人に金を払うからJRでは金を使う
それだけ鉄道というのは金がかかる、そのインフラを維持するのに金がかかる
道路よりかかるのかもしれない、電気系統もあるからかかる

それでわかったことは

なぜJRでは駅の見守り役に駅の業務をしないとして南相馬市が委託したNPOと契約したのか?

これがわからないことだったがやはりJRとしては節約して金を払いたくないからだった
業務を委託すれば金を払わざるを得ないからだ
駅前の自転車屋に駅の前で頼むにはいいとしても金を払うのが嫌で頼まないのかともなるただ商工会には掃除を頼んでいるからJRで金を払っているのである
それはやむをえずそうしているとなる

鉄道はとにかく整備するだけで金がかかる、今の利用数では維持できないとなる
昼間などを見れば本当に乗っている人が少ないからである
その割には鉄道を維持するには金がかかりすぎるのである

常磐高速のSAだと掃除する人だけで二人の女性を雇っていることでもわかる
それだけの差がある、駅前のトイレの掃除はあさがおが障害者施設の人が毎日掃除している、それも市の方で払っている、そうしないと駅自体が維持できないのである

前の駐車場は一台だけが遠くの人が泊まる場だが後はそこにとめるのは契約した人だったらしい、遠くから来てとめる人は少ないからかもしれない、でも一台でまにあうのかともなる

いづれにしろ今は昼間は遠くから来た人の案内はたまにすることがあるが地元の案内はしない、地元でわかっているからである
それで駅に来たのではないが駅前に車が来てあそこの豆腐がうまかったからその豆腐屋はどこかと聞いてきた、それは30年前とかの話である
その豆腐屋は知っていたから教えたけどなんでそんなことのために聞いたのか来たのか良くわからなかった、ただ駅前にはこうして鉄道を利用しない人が結構来るのである
やはりこの街の中心と思うから来ている、それで案内が必要になるときがある