2019年06月22日

日本語を見直す作業が必要な時代 (言葉はその国や地域の風土歴史があり生まれた)


日本語を見直す作業が必要な時代

(言葉はその国や地域の風土歴史があり生まれた)

日本語は日常的に使っているけどその意味を深くたずねることがない
でも言葉にはその背景にその国の風土と歴史とか密接に結びついて生まれている
言葉が文化の最たるものであり外国語が理解できないのはその国の風土や文化や歴史が理解できないからなのである
何気なく使っている言葉にその国の風土や歴史や文化が内蔵されて伝えられている
ただその意味がわからなくなったのである
それで本居宣長が漢語と大和言葉を分けて日本人の日本人たる所以を解き明かしたのである

もののあわれというときそうである、この言葉に日本の風土や文化や歴史が凝集されていることを示したのである
もののあわれとは何なのか?ものとあるときものとはただの物なのか?
ものとは生命全般でありただの物ではない、モノにもすべて命がありあわれだとなる
それは植物にも動物にも及ぶ仏教的なものもふくまれている
あわれと慈悲の心だからである
日本では敵でも一旦争い終わると死んだ人を敵味方塚として弔うのは死んだ者は敵であれあわれだと思ったからである、こういうことは外国にはない、外国では異民族が熾烈な争いとなり中国では死んだ者の墓を暴いても罰するのである
またみな殺しにもするのである、それだけ過酷なのである
だからアメリカで日本に原爆を落としたのもそういう歴史をひきづっているからだともなる、敵に容赦はしないということである

日本語もその言葉ができた背景をたずねれば切りなくなる、その深い意味も不明になっている、そもそもどうしてそういう言葉が生まれたのかとなる
それは日本の風土と歴史から切り離されず生まれている
それはどこの国の言葉でもそうである、それでどうしても明治になったとき日本語に訳しても訳せない、なぜならその言葉の背景となっている風土とか歴史が違うから訳せないのである、ただ漢字で訳したという時、漢字には何か世界的な普遍性が内臓していたから漢字でヨ−ロッパの言葉を訳したとなる、ひらがなでは無理なものが多かったとなる

言葉というのはどうしても外国語になると本当は訳せない、外国語では訴えることができない、通じ合うことができない、ここに文化がグロ−バル化できないものがある
モノのやりとりは自由にできる、でも言葉はできない、そこにグロ−バル化する大きな壁がある、では世界共通語として英語にしろとなる
すると日本人の心も失われて日本自体が消失してしまう、言葉はまたその国の精神であるからそうなる
言葉にはそれぞれに味わいがある、それは日本人にしか通じないのである

味というときこの味(あじ)はどこからきたのか?それは芦が味になったのである
芦原瑞穂の国が日本がの原風景だったからである
ではなぜ芦(あし)が味になったのか?

これも良くわからないが

福島県会津若松と九州の宮崎椎葉村、この遠く離れた二つの場所から、ある、共通す 
るものが発見されました。

実は、つい最近の昭和年代まで国が直接「味耜高日子根神」を祀る神社が、会津若松 
のすぐ近くにありました。東白川郡棚倉町の「都々古別神社」です。

現在食べている米は、遙か な古代、熱帯ジャポニカと温帯ジャポニカの交配に依って「早生」「中生」「晩生」 という様々な品種が作り上げられ、今に至ったのです。その南の国から来た原種の稲の種を持って、一体誰が、遙か離れた、それぞれの場所へ、米を植えたのでしょう。 
血縁で結ばれた民族が、どんな人を中心に動き、どの様に生きたのでしょう。背後に 
」が見え隠れしていることを否定する事が出来ません。

アジとはアヂスキタカヒコネのアジ(ヂ)なのである
アジは鴨だという韓国語由来にしているがこれは芦(あし)から来ていることは間違いない、なぜでは芦が味となったのか?
それは芦原瑞穂の国として日本がありいたるところ芦だらけだったのである
その芦原を水田にして米をとれるようにしたからである
芦が味となったのは米がとれるようになってその味となった、味がいいとなった
味をしめるとかにもなった
とにかく米には種類が多いから味が違うのである、味というときまず米の味だったことは間違いない、縄文人は米を食べていないから、味のはじまりは米だったともなる
そして味真野とかいうと味鋺(あじま)というのは芦の間のことなのである
それが味真野になった、芦の間から見える野が真野のの意味なのである
それで真野の草原の真野をたどるとそこまでわかる
アヂスキタカヒコネとはスキで芦を切り水田にした神だとなる

言葉にはこれだけの由来があるとなる、別な説があるにしても言葉の背景はこれだけ広く深いものがある、そして米の種となる種類は多いのである
だから土地土地によってとれる米の味が違うとなる
最近で人気の米も味が違うから売れている、また狭い範囲でも味が違うのである
それは野菜でも果物でも同じものでも米でも梨でもリンゴでも味が違うのとにている
だから味をしめるということは何か日本的な言葉だとなる
隣村で作る米でも野菜でも味が違う、それより農家ごとによって作る野菜にも味が違うという人もいた
それはその人なり土地の状態とかいろいろそこの土地とか風土が作用してそうなるのである
味はみんな一様ではない、だからこそ文化なのである、cultureはcultivate(たがやす)なのである
その土地土地に違った味がある、料理でもそうだけど風景でも人でも違ってくるのが文化なのである

ところがグロ−バル化社会になると貨幣であらゆるものが交換されて一様化される
料理でもみんなマグドナルドとかコカ・コーラとかなる
それは多国籍企業化するときその国や土地の文化(料理)でも一様化した方がいいとなってしまう、その土地土地の味などと言っていたら多国籍企業のものは売れくなくなるからである
同じ規格化したものを大量に売る方がもうかるからである
つまりグロ−バリゼーションとはそうした国々とか地域の文化を破壊する方がいいからそうなる、その時その土地土地に伝えられた土地の味は破壊される、消失するのである

いづれにしろグロ−バリゼーションはいろいろな弊害をもたらした
確かにいい面もあったがマイナス面が大きくなったのである
それは物質的豊かになってもその土地土地の文化が失われるときかえって貧しくなる
存在するアイディンティティも奪われてしまうのである
するとその国に土地に生きるに値(あたい)しないとまでなってしまうのである
それは国が維持できなくなる危機的状態になる
だから今本居宣長のように自国の文化を見直す作業が言葉の面でも必要になっているのである、日本はこういう国だったのかと再認識することが必要なのである
そこで日本の国に誇りがもてるとなるからだ
そうでないともう日本が日本でなくなり何が日本かもわからずになり日本は消失してしまうのである
明治維新から150年過ぎて奈良時代の国際化から平安時代の国風文化に移行したように今がそういう時代になりつつある
欧米から習うことまねることから日本の独自の国風文化の時代へ移行する時代になる 


あとがき


この秋三軒の隣家から自分の田んぼとれた米を頂戴した
それぞれ味が違うことに驚いた

土が違うのでしょう
種も少し違うかもしれません
作る人によって味が違ってくる

米は作る個人の味がする
彼らはそれぞれ個性的な工夫によって量を求めず質を求めている
日本がは独特な個人主義である、西洋の個人主義とは違う
(この国の終わりー林英彦)

日本がはその土地土地に多様な文化をはぐくんできた、それが三軒の隣同士でも味が違うとなる、とにかく農業はその土地とか水とかに作用されるからみんな違ったものになる
規格化された工業製品のようにならないのである
文化というのはそういうものである、ワインでも土地の名前がつけられるのも味が土地によって違ってくるからである、光の具合とか土地とか水でも違ってくるからである

神田の水で産湯を使い…」「玉川の水で産湯を使い…」とは江戸っ子が啖呵(たんか)をきるときの決まり文句。 実は「神田の水」というのは、神田上水の水ということ。同じく玉川の水は、玉川上水。現在、JRに水道橋という駅がありますが、この「道」が、まさしく、その上水道です。江戸っ子は、川の水や井戸の水などではなく、水道水を使っていることを自慢しているわけで、そうした近代設備のない田舎者を見くだす文句として、この言葉を使ったのです。


下町一帯の神田上水、多摩川上水、千川上水も、みな土中の伏樋を堀り捨てて鉄管にしてからは神田児(かんだっこ)の産湯の水もなくなったわけで江戸っ子と移住人との限界の崩れてきたのも上水によって暗示されているのはおもしろい、(折口信夫) 

ここでも水をとる場所が違っていて水の味が違っていた
それが鉄管にしてから同じ味になった、つまり味が一様化するのが文明なのであるそれはグロ−バル化文明とにていたのである

井戸の話(沢庵和尚の春雨庵から・・・)