2019年06月30日

先人の知的遺産を活かす (古典になるものは熟読すべし)


先人の知的遺産を活かす

(古典になるものは熟読すべし)

この世に膨大な知的遺産がある、それをどう活かすのか?
第一林秀彦について知らなかった、林秀彦とプログで発言して死んだ都筑詠一の発言は似ていた、ということは林秀彦から学んでいたとなる
つまりなんらか知的なものでも必ず先人がいて学んでいる
その人の独創的なものとなると意外と少ないということもある
だから類似なものが生まれる、でもそうした先人の膨大なもの活かすことはむずかしい
つまり引用が数行で従になることがむずかしいのである
自分自身が主にならなければ引用できないからだ
ただ引用しているだけではその人のものがないということになるからだ

ただつくづく内容あるものは理解するのに時間がかかると思った
この年になってやっと理解したとか自分自身のものとして理解したとかなる
なんか私は何でも本を読んでも理解するのが遅すぎたのである
でも人間は死ぬ間際になると誰でも必ず見えてくるものがある
もう死ぬのかとなる時、見えてくるもの、今まで漠然として見ていたものが明らかに見えるようになる、そういうふうに末期の目で自然でも社会でも人間でも見ていれば良かったとなる
何か俗謡なものでも諺でもそれがなぜ深い意味をもっているのか?
それは人間が長い間に生きてきた結果として生まれた言葉だからである
それは個人の一生でも長く生きて人生をふりかえると理解できるのである

さよならだけが人生だ

これも本当に人生の終わりに感じる、一体この世で出会うということは何なのか?
みんな家族でも死んだとか、あれほど争っていたものも死んでいなくなったとかなる
みんな結局この世で出会っても分かれるだけだとなるのは別に悟ったわけでもない、ただ現実として示されてわかるのである
人生は本当にliveとはlieve(去る)なのである、去って行く場所でありいつまでもいられる場所ではない、そうなるとき何か気楽になる
ただ一時的にいる場所にすぎないからである

この世で永遠に生きろとなったら地獄だからである、地獄に永遠に生きるとなったらこれほどの罰はない、もしこの世がまともならいい、犯罪は毎日あるし回りの人間だって油断できないとかまたいつ何か災いが自然でもなんでもあるとするとこの世に生きつづけるほど恐怖なことはないからだ
そういう恐怖を自ら受けて書いてきた、弱肉強食の世界なのがこの世だからである
食うか食われるかの世界に生きることは地獄だからである

とにかく先人の残した物を自分の物としてどう活かすのかそれが知的な分野では大事になる、ただまねるだけではない、自らの物として自分の文脈をもち活かすのである
だかから評論は結構むずかしい、その作品でも人物でも知りぬいていないとできないからである
そして今の人は相手にしない方がいい、過去の古典となっているのも熟読していた方がいい、それは汲めど尽くせぬ泉なのである
ニーチェのツアストラなどがそうである、超人は否定しても何か自分の追求した自然との一体感があるからだ、彼も世間を避けて自然の中に身をおいて社会を人間を見たからだ
つまり社会に適合できずにそうなったからである

文明否定になったアウトサイダーなのである、それは60まで引きこもっていた自分と同じだったとなる、ただ彼は天才であり自分は普通の人間だったという違いがあった
でも共通したものがあった
彼の思想は社会を文明を拒否した自然の中で形成されて自然をアイディンティティとしたことで共通していたのである
ただ彼には社会性がなく逸脱してしまった人間である、何か社会の中で働いたこともないし社会で苦労したとか家族で苦労したとかもないように見えるからだ
ただ実際にニーチェを理解することは至難である、そこに凡人の及ばぬものがあるとなるからだ    

「森と岩とは、君と一緒に高い品位を保って沈黙することを心得ている
君は君の愛する木と、あの大枝を広げる木と一体となれ」

孤独がなくなる所、そこに市場がはじまる、そこに大俳優たちの喧騒と毒ある蠅どものうなりがはじまる」

まさに木とか岩とか石と一体化する、アイディンティティしてきたのが自分である
そして「大俳優たちの喧騒と毒ある蠅どものうなりがはじまる」これが林秀彦のいうテレビの害毒なのである
そして大衆はこの害毒にそまり大俳優とは歴史ではヒットラーとかになる
でもそれは空恐ろしいものだったのである、今でもカルト教団が社会を席巻しているのを見ればわかる、その教祖が大俳優なのである
社会が大衆がその大俳優にひきずられてゆく、それが現代の文明なのである
何か政治家はそうした大俳優である、虚構でもいいから大げさに演じるものなのである
それを象徴しているのがトランプ大統領である、本当に俳優なのである

ともかくニーチェとか世界でも数えるほどのアウトサイダーになると昇華することがむずかしくなる、でもそれには文明を糾弾してやまない劇薬がある
ただそれに触れる時凡人は吹き飛ばされる恐怖がある
大芸術家が狂気になるのが多い、ヘルダーリンでもそうだった、いくら文明を批判しても社会性を無くすと危険だったということもふりかえるからである
それを自分自身が家族の介護とか自分自身の病気で嫌というほど味わったからである

立っているいる、立っている、社の大杉
稲妻ひらめく嵐の中でも 大雨しのつく真闇の夜でも
たゆまず、挫けず千年 万年

立っている 立っている 朝日の御旗は
大砲小銃はためく中でも 地の波さかまく屍の中でも
ひるまず 騒がず 光にあふれて
立ってろ 立ってろ 日本子供よ
貧しく生きる父母亡くとも ひもじく悲しい涙のときにも
弱る菜、負けるな 希望を抱いて 西条八十


社会性というとき私自身が一本の木というのを詩にしたけどここにあげた詩は何か違っている、子供に与えた詩でもあるからまた違っている
ここには社会性がある、社会に生きるための教訓としてある
自分自身の一本の木は社会から孤立している木なのである
ただどうしても戦争と大杉が結びつかないのである 
福島県の岩代に杉沢の大杉というのがある、これは社の大杉なのである、それは別に今では戦争と結びつかない、戦争中は何でも戦争と結びついていたのである、だから社会性というとき戦争が社会と密接に結びついていた、何かそこに違和感があるが林秀彦は戦争を否定していない、讃歌している、そういう時代の人だったとなる
今ならとてもその杉を見て戦争とは結びつかいない、平和な暮らしの中で社の中にある大杉は村の要として村に定着して生きる望みともなり戦争とは結びつかないのである

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杉沢の大杉

そこが現代的である、社会の中で昇華されないものとしての一本の木となる
ニーチェの場合もそうなる、社会から離脱した自然の中の園を創造して作り出したのである、だからそこに真面目に働く人などいない働くことは否定されているからである
そこで普通の人はついていけないともなる
真面目な木というとき社会的には真面目に働くということにも通じているからである
社会との一体感もそこに追求している詩として私は書いたからである
ただ自分自身も20代で底辺労働者だったけどその後は働かず旅ばかりしていた
だから社会性が欠如して小人閑居して不善を成すとなった
どうしても普通の人がひきこもりとかなるとそうなるのである
非常に危険なことになる、それだけの力量がないからである
あなたは何をしてもいいです、自由に生きてくださいと言うとき、実際はとまどうのうが普通の人間だからである、社会というのはやはり人間を磨く場所でもあるからだ
それでささいなことだけど駅でボランティアの案内をしたことでも社会性が多少身についたとなるのである