2019年07月31日

認知症の謎ー忘れるのはなぜなのか? (ただの暗記ではない、理解して覚えたものは忘れない!)

認知症の謎ー忘れるのはなぜなのか?

(ただの暗記ではない、理解して覚えたものは忘れない!)

アルツハイマー病治療薬の開発は「連戦連敗」を続けています。ウォール・ストリート・ジャーナルの記事によれば、過去10年間に世界中で行われたアルツハイマー病の薬の試験のうち99.6%が失敗しているということです

これだけ認知症の患者が世界的にも多いのだからなんとか直そうとしている
薬も発明しようとしているができない、何か絶望的なのである
結局それだけ脳があまりにも複雑すぎるのである
それは神の領域にもなる、脳が一番複雑なのは精神と一体化しているからである
第一精神は目に見えないものとして意識する
ところがこの世にあるものは目に見えるものとして人間は意識させる
原子がアトムは目に見えないけど精密に数式化して化学式にして目に見えるものとして
現す、脳でも目に見えるものとしてとらえようとしている

だから海馬が一時記憶する場所としてありそれが老化で確実に衰える
自分自身でも老化していることがわかる
つまり名前が覚えられないのである、新しい人の名前が覚えられない
でも昔覚えた人の名前は覚えているのである
これも海馬の機能が衰えたからだともなる
芸能人の名前でも昔の人は覚えているのである
でも今の人の名前とかどういう人なのかは皆目わからない、また見ていないせいもある

「理解して覚える」ということである。「なるほど、だからこうなるのか」というように理屈で覚えたことは、長期保存庫に移って忘れにくくなる。それに対して、意味も分からず丸暗記したことは、たとえその場では覚えたつもりになっていても長期保存庫に移行しないためすぐ忘れてしまう

記憶することは最初は丸暗記である、その意味もわからないのに暗記する
それは英語の単語とかには有効かもしれない、でも算数とか数学では暗算のように覚えても忘れてしまうことがある
そこで分数とか掛け算とかは何かを理解する、ただ暗算するのではない、その意味を理解するのである、例えば15×12は(10+5)×12であり10×12+5×12であり120+60となり180となる、何かこうすれば暗記として計算するのではなく数の性質を理解して解いたとなる、でもこれを計算機でするともうもし計算機がないと暗記したものを忘れるとできないのである
実際には私は数学が苦手だからこれを計算できない、でも理屈として数を分解するとわかりやすくなりできるとなる

「なるほど、だからこうなるのか」というとき理解するのである

とにかく認知症は薬でも直せない、医者に行っても実際は直せない、医者自体が認知症のことを知っている人が少ないのである
一番知っているのは直接介護した人なのである
海馬が損傷して衰えて記憶できない、そこから感情的になり激怒するようになる
海馬と感情を司る偏桃体が結びついていることも影響している

そもそもなぜ認知症になると数の計算ができなくなるのか?
それは数というものがどういうものか理解できなくなる、理屈として理解できなくなるからではないか?つまりただ暗記したものは忘れるのである

だから今の教育は受験勉強など暗記ばかりに励むのは実際は算数でも数学でも理解していないから忘れるということがある
別に忘れても数がこういうものだと理解していれば数をわかりふぃすい単位に分解して理解できるともなる
私自身の経験としてこうして算数でも数学でも自ら考えて考察したことがなかったのである、またそのように教えてもらえないことがあった
ただ暗記ばかりが勉強になっていた、そして高度になると本当はじっくりわかるまで自分の理解できる範囲で理解することが必要だった
それができないので数学が苦手となり数式を見ることも嫌になったのである
これは考えることの訓練なのである、数学も考えることの訓練としてやれば面白かったし理解できたとなるかもしれない

要するになぜ認知症の人が計算ができないのか?
それはただ無闇に暗記していることは忘れる、それがある
教育の方法が悪いと実際は勉強にも興味がもてないのである、数学でも能力がなくても
何か手法というか数の原理というかそういうものを知れば興味を覚えて忘れないともなるそれで英語にしても文法が数学とにていて数式のようになっているから原理として覚えてそれに単語を付け加えて覚える
そういう作業が必要だったのだと思う
ただ認知症の人はそうして合理的な理解力もなくなっている、ただ数学の先生でも認知症になっているからその人が数学の理解力をまだ保っているのか?それも興味がある

教育ということに私自身興味を持っていた、教育とはただ暗記させることではない、
算数でも数学でも考えさせるもはのとしてある、そういうふうなものと学べば能力がなくても何かまず興味を覚えたとはなる
つまり天才でもないものはそうしてすぐに理解できないから理解する方法が必要だったともなる
だから教育には創造的教育が必要でありまた自ら創造的に学ぶことが必要なのである
ただ正直あらゆることに人は通じることはできない、そこに教育の限界がある

ただ絵の才能が全くない自分がなぜ抽象画を描けているのか?
ソフトで描けているか不思議だった、それが大量生産できるのはただ数式のように同じ手順でソフトを使い作りだしているのである
それは自分自身が絵の才能が全くないのに絵を描いている感じになるのが不思議なのである、だから生まれ持った才能だけではすべて決まるわけではないと今さらながら思ったのである
暗記させる教育は教育ではない、英語の単語などはしかたないにしろ算数とか数学はそういうものではない、ただそれはあくまでも数学が苦手な人のためのものである
別に数学の得意な人はたちまち理解するとなるからだ

いづれにしろ認知症というとき脳が老化によって退化することでもある
誰でも新しい人の名前を覚えられなくなるのである、それは共通しているからである
海馬の能力が衰えるのである、でも理解する能力は増してくる
なぜなら知識でも理解力でも今まで貯えたものが活きてくるからである
それはあくまでも暗記したものではない、理解して記憶したものだともなる
とにかく老人になると理解力が高まる、それで評論が向くようになる
評論は一段と高い視点から本でも読むことだし社会でも見ることになる
こういうことは若い時はできないからだ、とても本を読んでもそれを評価することができないのである、本はそれだけなんでも内容があるからそうなる
ただ別にインタ−ネット上にあるものでも理解できないのである

理解して覚えるということが忘れないという一文を読んで自分も共感したのでこうして書けたからである、自分の論をこの一文を引用して展開できたのである
だから引用してもそれはただの引用ではない、それを自分なりに独創的に展開したとなるのである
そして理解するには文章を書くことだと思った
確かにyoutubeでは話すことが主体となっている
でもそこでは深い理解につながらないのである、文章を自ら書いてみると理解することがある
それはインタ−ネットで自らこれだけのものを大量に書いた結果わかったことである
話を聞いてもそれは上辺だけのものとなり深い理解に通じない場合がある
だから文章にすべきであり本を読むべきだともなる、ただ知識は無限であり理解の限界がある
そして時間だけがまたたくまに過ぎてしまうのである
人間が理解できるのは極わずかだったとなって終わるのである


あとがき

私は何でも理解することが遅かった、学校にも適応できない劣等性だった、集団生活が苦手だった
でも人間に大事なのは自ら考えることであり理解しようとすることである
それはただ暗記していてはだめである、それは忘れてしまい役にたたないのである
理解して覚えるということである、それはあらゆる分野でそうである
あらゆることになぜなのだろうという疑問をもつべきである
それが科学にもあらゆる学問にも社会の理解にも通じるのである

何でも理解しようとする態度をもち耳を傾けることが大事

原発はむずかしいから理解できないとして専門家にまかせると専門家の言う通りになりわからないということで責任をとらされる、銀行でも株のことでも投資信託でもめんどうだから勝手にされて手数料だけとられて損する
専門家の言うままになり損する、その専門家が何でも知っているかと思ったら知らなかったのである
銀行員は株の事でも投資信託のことも素人と同じだったのである
そんな人にまかせたら損することはわかりきっていたのである
でも私自身が知ろうとしないとか時間がないのでまかせたのである

宗教にしてもそれをただ単純に信じればいいとかなるとヒットラーのナチスのようになる
それは人々が全く考えないことから起きた、ハイルヒットラーとなって盲従することから起きた
人間は弱い存在である、でも考える芦であるというのもそうである
自ら考えることができるものが人間の要件なのである

これまで天才のことなど考察した、それを教育のカテゴリーに移す、まとめる、教育はただまねるだけではだめである
自ら考えて想像する、創造することが理解することがないと身につかないのである

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冬の道、晩年の道


posted by 天華 at 17:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育心理学など

公務員の退職金も減らされている、給料も減っている (田舎の価値は金だけでは計れない、安定した職業も必要)


公務員の退職金も減らされている、給料も減っている

(田舎の価値は金だけでは計れない、安定した職業も必要)


公務員も苦しいとかやはり日本全体が落ち込んでいる
公務員でも正社員でなく臨時とかでも多くしている、その給料ではやっていけない
公務員はAI化しやすい事務的なものが多いからそういうことでも減らされる
公務員も安泰でなくなっている
この辺では原発事故で避難区域になった所では浪江とかでは激務でやめたいというのもわかる、こうなると公務員も楽な仕事ではないのである

公務員に興味をがあるのは家族が公務員だったからである、役所に勤めていたからであるそれで高度成長時期に退職した、その時2300万など退職金をもらっていない
一千万くらいだった、でもその退職金が貯金しただけで倍以上になっていた
7パーセントとか利子がついているからそうなったのである
その頃貯金していた人は本当に得だった、十年くらいで倍になったからである
今は銀行に貯金すると投資信託とかすすめられて利子をとられる
財産を奪われる、それはゆうちょでも同じだった
保険で金が奪われていたのである
こういうことは今までありえなかったのである
郵便局とか銀行は地域で最も信頼されていたからだ
公務員とにたようなものだった、公務員と郵便局と銀行と農協が地方で安定した職業だったのである

今例え2300万もらったとしても貯金してもその価値はない、価値が減ってくる
だから相当もらっているようでももらっていないのである
金の価値は時価であり物価とかいろいろな状況で変わっているからである
それて積立式の年金はだめだというとき今いくら金を積んでも年金をもらうとき数十年後には物価が違って金の価値もなくなる
100万積んでも30万とかなったりする、だから積立式の年金はだめだというのがわかる

公務員というとき年金は最初18万もらっていたから高かった、地方では最も高い
でもやがて16万になったからそれほどでもなくなったのである
ただ公務員は何かと得する仕組みがあったのである
それは高度成長時代は公務員ても民間が良ければ公務員もその水準になるからいいのである、もう今はこういう状態だと公務員もやはり民間と同じようになる
安泰ではなくなったということである

日本は本当に貧困化している、やがて発展途上国並みになるとも言われる
そしてまともに福祉サービスも受けられなくなる
老人ばかり増えてそうなる、それで衰退国家となってゆく恐怖がある
地方の就職先でもこうした安定した場所が奪われるとどうなるのか?。
何か地方で落ち着いて生活できなくなる

地方とは田舎の役割は何なのか?食料生産基地なのか?

地方は田舎は自然との共生の場であり例え米が売れなくても金にならなくてもそういう生業(なりわい)維持すべき所なのである
だから矛盾していたのは東電に生業(なりわい)を返せと裁判化したことである
でもこの辺では漁業者でも農民でも東電にその生業を売り渡したのである
生業というときその土地に生まれたときからある仕事のことであり受け継がれる仕事である、それは自然と共生として長い間千年以上つづけられてきたものである

それで田んぼがなくなったとき蛙もいなくなった、そして鷺もいなくなった

この時田んぼは米をとる場所だけではなく、蛙も鷺も活かす共に生きる場所だと自覚したつまり蛙も鷺も田んぼがあって餌となる場があって生きていたことを知ったのである
だから蛙の鳴き声が田舎の夜空に木霊した時、復興したと感じたのである
そういう場所が田舎なのである、それは食料とか生産するだけではない、金にならないとしても田畑が荒れるとそこは荒廃してしまう
現代はすべて金で価値を計るが金だけですべての価値は計れないのである
すべて金で価値を計ると原発でもなんでもいいとなってしまう
結果的にこの辺が生業でも自然との共生も自然も汚染されたとういことでそのことが現実になった、あまりにも原発に電気に価値を置き過ぎた結果だともなる
                                                              
公務員の役割はなになのか?
実はその住んでいる場所全体、自然にもかかわる仕事だったともなる
漁業でも農業でも林業でもそういう自然とかかわることも仕事だったのかとなる
何か全体のバランスを計るというのも公務員の仕事だったのかもしれない
だからこそ民間のように利益第一主義ではないものを追求できるとなるからだ

ともかく都会の人だと東京でも食料は外国から入ればいいという
だから日本の地方はいらない、田舎はいらない、金がかかるだけだとなる
地方交付税でも東京の人が払っているからだとかなる
これは暴論である、日本の国土形成からした全く日本の自然でも無視した危険なものとなる、そして原発は本当は東京に造ることが一番向いていたのである
でも事故になると困るからフクシマに離れた場所に造り安全を計ったのである
そして地方では自然と共生するものが漁業でも農業でも林業でもだめになり原発は歓迎されたのである

そしてまた地方の田舎の価値は経済的なものだけではない、精神的なものとして地方が田舎がはぐくむものがある、文化が生まれるのは都会のように見えて地方なのである
ヨ−ロッパでは地方都市が国家となりそこが栄えてルネサンスとか生まれたことでもわかる、小規模の地方都市が文化をはぐくむにはいいのである
cultureはcultivate(耕す)である、地方でこそ田舎でこそ文化が育まれるのである
何か最近銀行員が農業の育成にかかわるというのも苦しいけど農業にかかわり余った金を投資して地方を活性化するというのはいいことである
でも農業は金にならないのである、でも農業にはそれだけではない付加価値が大きいのである、でもそれは金として評価されないことが問題なのである
東京とかの人にすれば安いいい食料が入ればいいとしかないからである

例えば価値とはいろいろありストリーも価値となる、アセリプトを発明した人の話はそうだった、あんなに苦労して作り出したものだと知る時価値あるものとして意識するからだでもスーパーに並ぶ食料を刈っても安いかの高いのかとしか意識しないのである
そうなれば外国産でもいいとなってしまう
価値を計る尺度を変えることも必要である、金で計れない価値にこそかえって大きな価値がある、例えば景観などがそうである、それは金にならなけどその景観がなかったら索漠としたものになる、それが都会のビルの谷間で暮らしている人なのである
そこになごみも美もないからである
とにかく田舎の価値は食料基地だけではないのである

だから何か地方は田舎は安定した職業が必要だとも思う、あまりにも競争にさらされると地方の田舎の良さが奪われるのである、そして原発事故は田舎の良さを本来の価値を根こそぎ奪ったのである、生業を奪ったのである
私の場合は芸術的に田舎の価値を追求してきたのである
ただ私の問題は畑があるとする、すると畑の野菜とかに注目しないで花が咲いていていいなとか見ている、でも現実に野菜を作るとなると毎日草取りであり汚い仕事にもなる

でも花だけを見ていいなと見ていると都会人的だともなる
都会の人が田舎に来ていいと思うのは自然があり花が咲いていていいなとなるからであるでもそこで農業するとなるともうやっていけないとなっていたのである
それは農業とかの価値が食料にだけあると見ているからなのである
それ以外の景観とか自然の共生とかは省かれて野菜の値段とか米の値段ですべてを計っているからそうなる
ジントルマンというとき田舎に住んでいる貴族だった、田舎こそ文化を育むジントルマンが住む場所だったのである、ただ矛盾しているのはそのジントルマンも都会にロンドンとかに住まいがあり田舎と行き来していたのである
ただ田舎を本拠地として生活していたのである

人間生きるというとき何らかの価値を追求しているのである、その価値をすべて金で計ることはできない
金を得るにしても金を使うにしても価値を追求している、その価値が何なのか?
本当にそこに金を得るために使うための価値があるのか?
だからこそ東京とかには田舎と比べて価値は無だとさえなる、そこに自然の美とかが全くないとしたらそうなるのである







posted by 天華 at 09:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2019年07月30日

NHKの杉本八郎氏の逆転人生「認知症治療薬の開発秘話」を見る (認知症が直る薬が生まれるのかーその謎はあまりに深い?)


NHKの杉本八郎氏の逆転人生「認知症治療薬の開発秘話」を見る

(認知症が直る薬が生まれるのかーその謎はあまりに深い?)


認知症の薬のアセリプトを開発した人の人生である、最初高校卒で研究所に入るのかと思った、その後大学に入り研究者になれた
認知症にはじめて効く薬が発明された意義は大きい
認知症の治療とか介護に苦しんでいる人が多いからである
ただ杉本氏は母親がひどい認知症になってそれに心痛めて薬を開発することに熱心だったのである、そこに強い動機があったことで成功したのかとなる
動機は大事である
そもそも官僚になっている人は志がほとんどない、東大出たらいい暮らしができるとか
自分の利益しか考えないからだめなのだと東大出の人が言っているのだからそうなのかとなる

団塊の世代でも数が多いから熾烈な受験戦争であり志など皆無である
要するに他者を蹴落としてまでも点数をあげて得する立場になれということである
そこに動機としては自分のことしかない、自分か良ければ自分がいい暮らしできればあとは関係ないという世界である
だから東大に入ればそれで官僚になり財務省にでも入ればそこでいい暮らしができる
何か国のためにはか国民のためにかはないというときそれはそういう教育しか受けていないのが戦後の団塊の世代だったからである
その前の世代、例えば小学校でも戦争の時育った人たちは団塊の世代とは違っている
国民意識国家意識が強いのである、そういう教育を戦争とともに受けたからである
それは戦後否定されたにしても何かそれが全部必ずしも悪いとはなっていないのである
それで林秀彦の本を読んで日本語を見直すということで興味をもったのである

戦後の教育というそもそも教育がなくなっていたのである
何が教育なのかわからなくなってしまったのである
日教組が極端な左寄りとかなりそれも日本人としての教育ではない
左翼が風靡したとしてもそれは教育にならなかった
つまり何ら指標となる教育はなく、知識の詰め込みと受験戦争でいい大学に入りいい暮らしをするということしかなかったのである
ただ高度成長時代になりそれがかなえられたのである

教育というのは自分自身で一人で作りだされるものではない、社会自体に道徳とか規範とかあってできるものである、そういうものがなくなったとき誰も教育できなくなったのである、まねるものがなくなったのである、でも新しいものを造りだすこともできない
そこでただ民主主義とかマルクス主義とかそうした実のないうわべだけのものを言葉だけを取り入れたのが戦後だったのである
だからいかに伝統が大事だったかともなる、なぜならそもそもそうして歴史的伝統的に作られてきた民族の文化の骨格を否定する、でもそうなると新しいものを作る時なるとき作れないのである

だから宗教でもカルト宗教団体が戦後跋扈したのである、それも御利益宗教である高度成長時代にマッチしていかに得していい暮らしをするしかなかったのである
日本から教育がなくなった、道徳すらなくなった、宗教もカルトになった
そうしたら何を見本にするのか?
ただこういうことは文明自体の問題として世界中で共通していたということはある
宗教の力がなくなり物質的欲望を追求のことで共通していたからである

ともかくアセリプトを発明した人は強い動機があったことが成功へと導いたのかもしれない、それから各人に自由に開発させた、各人の能力を引き出すように指導したとかある
でも8年とかそれ以上時間がかかった、二回も挫折して研究は停止したとかある
それだけ一つの薬を発明するのに苦労したのだなと見た
そうなればその薬はありがたいなともなる
その薬が奇跡のように生まれたわけではなかったからである

ただ正直この薬にしても認知症は直すことはできない、ただ若干症状を遅らせるだけでありまた人によっては効かない、かえって副作用が出る
だからこれで認知症が直るというのではない、ただはじめて認知症に若干でも効く薬が発明された意義は大きい
認知症というのは謎である、だから別に医者でなくても対処療法があり心理的に対応する方法がある、それは医者でなくてもできる
それをこれまで私は書いてきたのである

認知症という病気を良く理解することである、それは化学的に体をみること脳をみることではない、だから別に医者のように知識もなくてもできるのである
ただ認知症がどういう症状がでてそれにどういうふうに対処するかがある
それも個々人で対処することがむずかしい病気なのである
だから認知症の介護できる人はずっと一緒に生活している人である
例え親子でも離れて暮らしていると自分の子供すらわからなくなるのだ
それで杉本氏の母親が自分の子供なのにわからなくなったというのはなぜか、そのことがわからなかった
一緒に生活していればそうはならないはずだからである、離れて暮らしているとそうなりやすいのである

まず認知症ほど謎めいた病気はない、なぜなら正気を失った、馬鹿になったとなるが必ず正気にもどる時がある、まず死ぬ前に一か月前とかに正気にもどる
これはなぜなのか?これも不思議だった、二人の認知症を介護したけど二人とも最後に正気にもどった瞬間があった、それで私は懸命に介護したので報われたともなる
だから生まれつきの知能の障害者とも違っていたなとふりかえる
要するに本当に謎が深い病気なのである、この病気は果たして化学的にとか薬で直るとかあるのか?
それが疑問なのである、だって脳となれば精神が影響しているだろう

では認知症は海馬が損傷してそうなったのか?脳の一部の障害なのか?
ただ人間であり人間として認められる、感情もある、喜んだり悲しんだりする
それで感情があれば人間なのか?何かそうしたことを考えさせられるものだった
だからこれは精神病とか心理学とか何かそうした人間の心の分野と関係もしてくるから
ただ化学的体だけからみただけでは解決しないのではないのか?

でも認知症を直す薬が生まれのだろうか?
それが生まれたらすごい、海馬が損傷するとしてそこを直せば全体も回復したりするのかとにかく認知症だけは謎が深い、それは直接介護してみないとわからない病気だったのである
医学でも科学でも何か今は限界がないとみられる
でも本当にそうなのか?
原発事故のように限界がある、ただ限界がないように常に発見があり発明があり科学が解決すると期待されるのである
でも医学でも科学で限界が生じる、それは人間の限界なのである
もし限界がないとしたら遂に人間自体が神となり解決しないものはないとなるからだ

とにかくその人をみるときその人の成したことをみるとき動機が何かを見ることは大事である、神は人の心を見ている時、その動機が良くなければいかに成功したとしても成功したとは言えないのである
そうして成功したとして金持ちなったとしても成功したといえるのか?
俺は優秀だからその優秀さをみせるために事業を起こした、それも田舎では金をもっている人がいないから都会の人を相手にする、何かこんな動機で事業を起こした人がいる

そもそも動機がそんなふうでは成功したとしてもますますその人は増長するだけであり
人を見下すようになるだけである
自分の親が認知症になりそれをなんとかしたいというのとはあまりにも違うからである
ただ成功と失敗もか一重なのかもしれない、もうそういうぎりぎりのせめぎ合いで偶然新人が入ってきてその人が実験して成功したともなる
そしてもし成功しなかったら時間の無駄になり金の無駄になり何にも得られないとなる
そうなることだってありえたしその方が確立が高かったとなる
それだけ薬の開発がいかに容易ではないかわかった番組だったのである


エーザイ新薬治験で健康男性死亡 極めてまれ、厚労省が調査

世界大手も尻込みする認知症新薬開発

エーザイのようにアルツハイマー型認知症新薬を開発する製薬企業に対する期待は否が応にも高くなる反面、開発が不調となれば、失望も極大化してしまう。師走のエーザイの株価急落は、まさにそのことを端的に示している。


厚生労働省は9日、免疫の仕組みを利用したがん治療薬「オプジーボ」を投与された患者11人が、副作用とみられる脳の機能障害を発症し、うち1人が死亡したとして、製造元の小野薬品工業(大阪市)に、薬の添付文書に重大な副作用として追記するよう指示した。 

薬は必ず副作用がある、アセリプトにもある、エーザイは杉本氏が勤めていた会社である
やはり一連のニュースとして注目するものがある
ニュースも自分用に編集する時代なのである
でもこれだと時間がかかるのである
だから仕事している人はやはり情報がいくらっても目を通すことはむずかしい
インタ−ネットは相当暇でないとできないのである
ただいつもアクセスするところを情報源とする
それでもインタ−ネットだと情報が多すぎるから編集するにしても時間がかかりすぎるのである

2019年07月29日

小型のモンゴル馬の話 (鵯(ひよどり)越えの馬はモンゴル馬だった)


小型のモンゴル馬の話

(鵯(ひよどり)越えの馬はモンゴル馬だった)

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昼夜の寒暖の差も激しく、冬はマイナス50℃の世界です。そういう中で、生き残るには小さいサイズの方がいいというのが遊牧民の知恵です。ゴージャスな配合飼料なんてもちろんありませんから放置です。ちなみに、馬というのははサイズが一寸超える毎に飼料代が倍になるそうです。


モンゴルの馬は屈強で俊足だったが、体格は小型であった。モンゴルの戦士はその馬に両脚をさんで乗り、片側にぶら下り、馬の身体を盾にして、その腹の下から矢を射ることができた。モンゴル兵士は、昼夜も続けて馬を走らせた。彼らは鞍の上で眠り、馬の首を僅かに切って、そこから馬の血を吸って栄養を補給した

チンキケスは、ホラサーンとギリシャに向かった。そこでジュノサイドという言葉でしか表現できない残酷極まる所業を働いた。ニューシャープールを襲撃したモンゴル軍は犬や猫まで皆殺しにした。犠牲者は174万7000人に達したという。モンゴル軍は畑を燃やし作物を台無にし農民から暮らしの糧をすっかり奪った。臆面もなく、己の謀略行為をことさら喧宣した。

鵯越の馬は小型のモンゴル馬

 昭和28(1953)年、神奈川県鎌倉市の建設現場から、500体以上の人骨と100本以上の馬の骨が見つかった。これは、正慶2(1333)年に新田義貞が「鎌倉攻め」をした時の戦死者とみられるが、馬の体高を復元したところ、結果は平均130センチだったという。


天馬徠兮 從西極 (天馬来たりぬ 西極より)
經萬里兮 歸有徳 (万里を経て 有徳に帰せり)
承靈威兮 降外國 (霊威をうけて 外国をくだす)
渉流沙兮 四夷服 (流沙を渉りて 四夷は服しぬ)

前漢の武帝が、西域のかなたより良馬を得た喜びを歌った歌である。シルクロードは、一般に張騫の西域遠征を以って始まりとする
馬に乗りながらヒツジやヤギの群を管理する騎馬遊牧の習慣が草原地帯に広まったのは、紀元前1000年前後とされる。馬に乗って放牧を行う場合、徒歩による場合とは比較にならない規模の家畜を管理できるようになる

「河西水草美しく、放牧の基地となす。畜産滋息し、馬二百余万匹にいたる」
と記されている。

そして6世紀、この牧場の馬の数は10万頭にも及んだといわれている。
当時、軍馬は今でいうならば、戦車1台にも匹敵する位置にあり、
時の権力者は、漢の武帝以後も馬の繁殖だけでなく、馬種の改良にも力を入れたのである。
そして「胡種を雑ふれば馬益々壮んなり」(『新唐書』兵士)の伝統は、今でも続いている。

広大で勇壮 天馬を育てる山丹軍馬場 シルクロード2万キロひとり旅113

 
ここのプログは写真がきれいで推奨できる、それにしても10万頭には驚く

野馬追いは馬の祭りである、しかし馬のことがわからなくなった、競馬だけが馬を知る手がかりになる、でも馬が歴史に果たした役割は大きかった
それは第二次世界大戦までつづいていたのである、そこまで馬を利用していたからである仙台近くの岩切に戦場で死んだ馬を供養する碑があった、それは第二次世界大戦のものだったのである、日本兵が馬に乗り南京城に入場する写真があったりその時まだ馬は戦場で活躍していたのである

現代のサラブレッドは、源平合戦時代の日本には1頭もいなかった。サラブレッドが日本に初めて持ち込まれたのは江戸時代の後期で、当時の徳川幕府を支援していたフランスから献上されたといわれている。  

昭和28(1953)年、神奈川県鎌倉市の建設現場から、500体以上の人骨と100本以上の馬の骨が見つかった。これは、正慶2(1333)年に新田義貞が「鎌倉攻め」をした時の戦死者とみられるが、馬の体高を復元したところ、結果は平均130センチだったという。

源平合戦時代の武将が乗っていた馬は、ポニーのような小型馬であり、現代の私たちがイメージするサラブレッドとはかけ離れた姿だったのだ



これは意外である、その頃の馬はモンゴル馬の種類だったのである
そうでなければとても鵯声(ひよどり)で馬を担いで下ったとかありえないからである
小型の馬だと餌もサラブレットのような大型の馬より半分ですむというのも有利である
そして草は草原で遠征中に補給できる、草原の草を食べて馬が進撃できる
それも有利だったのである
とにかく馬があって広大なモンゴル帝国が生まれた、その馬は耐久性があり省エネの小型馬だったのである
険峻な山の中に万里の長城が延々とつづいている、そこにもモンゴルが馬で攻めてきた
すると大型の馬だと上りにくいから小型のモンゴル馬が適していたともなる
何かすべて大型のものが強いとは限らない、小型でも有利に働くことがいろいろある

いづれにしろ馬が今も活きているのはモンゴルである、ただ中国に内モンゴルがあり中国もモンゴルのつづきであり遊牧民の文化が入ってきている
例えば相馬氏の紋所が北斗七星というときこれは星が方向の目印になるから遊牧民から生まれた信仰でもある、それが韓半島を通じて日本にもたらされて妙見信仰になった

とにかく兵馬俑をみればわかる、その騎馬軍団圧倒させられる、その騎馬軍団を擁して
始皇帝が中国を統一したのである
鎌倉も平将門から馬を使うことで騎馬軍団が強く西の平家に勝ったのである
その末裔が相馬氏でありそれで野馬追いが残されていたとなる

野馬追いというとき馬の祭りでもある、だから競馬とかモンゴルとかに行くと馬がまだ活きているから実地に知ることができる
そして現実にそのモンゴルのゲルで一年暮らした人がいた
それは羊を飼うことを習うためにいたという、それでそこに一年間いた人が冬になると一回りやせたという、それだけ冬は厳しい場所なのである
その人が大学で農学部でそういうことを習っていた、それで今度は北海道で羊を飼い観光客を呼び寄せる、それはテレビで写されていたので驚いた

そんな人がいたということも驚きだが日本人は今はどこにでもいる
テレビでモンゴルの遊牧民と結婚してゲルで生活している女性もいたからである
インドのバラナシでもインド人と結婚した女性がいたことにも驚いた
そういんうテレビ番組かあったがどこかに今や日本人が実際に外国で暮らしている
でもその生活は相当に厳しいのである、だからそんな厳しい場所に良く嫁いだとなる
とても軟弱ではそんなところで暮らせないからである

モンゴルへ行き遊牧民の暮らしを体験できるツアーがあったり今なら世界のどこでも行ける、私は車で内モンゴルに行ったがそこは相当に標高が高い、高い場所にあることが車で行ってわかった、でも飛行機とかで行くとその標高差がわからなくなる
つまり標高が高いということは寒い地帯だということである
だから冬は氷点下50度Cにもるとしたらもう耐えられないともなる
それでその体験をした若者は一回りやせたというのもわかる
その人は体力は相当ある人に見えた、そういう経験も凄いと思った
その話は帰りの船で聞いたのである

野馬追い祭りがあるとしてこの辺ではこうして馬に興味をもつ、馬の文化にも興味をもつ場所である、ただ馬というものはなかなか今ではわかりにくいのである
馬と直接触れる機会がないからである
競馬しか馬を見ないからである、そこでもっと馬に接するとなると乗馬とかなるがこれも金がかかるとか庶民的ではないのである
ただモンゴル馬だと一日で乗れる、落馬もしにくいのである、足がつくくらいに低いからである、サラブレットだと倍の高さになり落馬したら危険である
落馬して死んだとか記録されているがそれはいつのことだったのか?
江戸時代にもあるからその時はもうモンゴル馬ではなかったのかもしれない
この辺も今の馬を見ていると誤解しやすいのである

インタ−ネットではいろいろ馬のことが出ている、それで自分の体験をまじえて馬のことを書いてみたのである  



千里疾走する天馬   

全身に血潮みなぎり健やかなる時

草原の果てしなく悍馬は千里を疾走する

疲れを知らずどこまでもどこまでも疾走する

北斗七星、妙見菩薩や馬は天をも駆ける

神の巧みに天性の足と筋肉は疾走すべく作られる

草原は果てしなく悍馬は走りたらざれ

アレキサンダ−大王を乗せし名馬よ

そも世界制覇は成らず途上に果てぬ

鳥は休むときも飛んでいる

馬は休むときも走っている

魚は眠るときも泳いでいる

思いがけぬ遠くに駆け抜ける馬よ

草原ははてしなく広がり

その果て知らじも・・・・


アレキサンダーの乗った馬はモンゴル馬のような小型ではない、サラブレットだったのだろう、ヨ−ロッパの方の馬はまた違っている
唐の陵墓にペガサスの馬が飾られていたということはギリシャとも関係していたのである
ギリシャの海の神がポセイドンが馬になっているのも不思議である、遊牧民が海にでて航海の民になったという説もある  

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 参道には石像がずらりと並んでいます。
そのひとつ、ペルシャから伝わった
翼のある馬ペガサス




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祭り(祀り)の起源は死者の供養であり怨霊供養 (神への畏れを無くした現代人の危険)


祭り(祀り)の起源は死者の供養であり怨霊供養

(神への畏れを無くした現代人の危険)


「まつり」や「まつる」という古語が先であり、その後、漢字の流入により「祭り」・「奉り」・「祀り」・「政り」・「纏り」などの文字が充てられた。現在は「祭りと祀り」が同義で「祀りと奉り」が同義ともいわれるが、漢字の由来とともに意味も分かれているので下記に記す。

「祀り」は、神・尊(みこと)に祈ること、またはその儀式を指すものである。これは祀りが、祈りに通じることから神職やそれに順ずる者(福男・福娘や弓矢の神事の矢取り)などが行う「祈祷」や「神との交信の結果としての占い」などであり、いわゆる「神社神道」の本質としての祀りでもある。この祀りは神楽(かぐら)などの巫女の舞や太神楽などの曲芸や獅子舞などであり、広く親しまれるものとして恵比寿講などがある。その起源は古神道などの日本の民間信仰にもあり、古くは神和ぎ(かんなぎ)といい「そこに宿る魂や命が、荒ぶる神にならぬよう」にと祈ることであり、それらが、道祖神や地蔵や祠や塚や供養塔としての建立や、手を合わせ日々の感謝を祈ることであり、また神社神道の神社にて祈願祈念することも同様である。


例えばこの図は1887年頃の大阪の市街地と周辺の村々です。 それぞれに神社や祭りがあります。 他の地域からはあまり祭りを見に来ませんが、 一生懸命祭りをやっています。


祭りとなるとそれは村ごとにあり多様だとなる
とにかく日本にはなぜこれほど祭りがあるのか?
それは共同体が無数に分かれてあった、村単位で生活していたからだとなる
その村村に祭りがあったとなる

祭るとは神を祀るからきている、日本ではその神とは何かとなると先祖になっているのが多い、また死者である、死者が神となってゆく
そのことは各自の家でも家族が死ぬと最初は悲しいと喪に服したとしてもそれが時間たつと家族であっても何か抽象的な存在になる、そしてカミとなり祭りとなる
だから死者を祀りそれが発展して祭りとなった

そのことを象徴しているのが死んだ人がもし怨霊とかなり祟るということを畏れた

「そこに宿る魂や命が、荒ぶる神にならぬよう」にと祈ることであり、

これは本当にそういうことがある、例えば戦死者がそうである、3百万にもの日本人が死んだというときそれをどうしたらいいのか?
それで靖国神社が靖(やす)かれとして慰霊して祀っているのである
だから祭りは基本的に死者を祀ることだとなる
また不遇に死んだ人もこの世に多いからそういう人が荒ぶる神にならないように祈るのである

実際に家族でもそういうことがある、ある人は私に最後に親戚の人が「ひどい娘だわ」と電話で言ってすぐに死んだのである
その家族のことは私の家ともうまくいかず私自身も何十年も関係していないから事情がわからなくなっていた
その事情を語ると長くなるからここでは省くにしろこの母親は実の母親ではなくても一番世話した女性だったことは確かなのである
その母親が病気になったときめんどうもみなかった、でも介護もなにもされなくて白血病ですぐに死んだのである
ただ最後に自分は関係ないと思ったが電話で「ひどい娘だわ」と言い残して死んだのである、それが自分の耳に残っているのだ

それがまたなぜなのかというと私の家の母親はその実家から出ているからだ
そしてその娘は私の母親のところに介護しているとききて
「おばあちゃんは金があるんだから金でめんどうみろ」と血相変えて去って行ったのである、そこまで言えるのか?
ただ5歳まで一緒にいた実の親がいて施設に入っている、認知症になっている
何の情もないのだが金があるから施設に入れているだけなのである
これもだから悲惨だなと思う、そういうことがあり私もその女性を呪うということまである、ただそうされてもしかたがないというか、そういう面があったからあまり恨まない
でもその女性を世話した母親はそうではない、だからこそ悔しいとなり「ひどい娘だわ」と言って死んだのである、本当に信じられないひどい娘だったのである

なぜか不思議なのはこの女性は三人の母親がいてみんな最後は不幸になっている
一番世話になった母親にはそういうことがないと思った、いろいろあってもそこまではありえないと思った、もう60近くになればそんなことありえていと思った
でもその女性はいろいろな事情とは別に異常人格者になっていたのである
何か奇怪な夫婦となっていたのである
なんらか家族でもいろいろありそこに暗い物語が隠されている
それで墓には「怨霊供養」という小さな碑が立っているのを見かけるのである

いづれにしろ祭りとはいろいろあっても基本的に死者を祀ることから来ている
死者を恐れたから祀りがあり祭りと発展した
死者の供養が怨霊を鎮める祭りだともなる、死者を恐れたために供養するためにそうなった
ただ祭りとなると世界中でもあるが特に日本では多い、それは日本では村ごとに祭りがあるからそうなる、それでフランスの人が日本の祭りを全国を旅して見て歩いていたのである、日本の文化の特徴として祭りがあることは確かである
日本ではそれだけ古いものが残されているのである

面白いのは高校野球も一種の祭りとなっているという、日本的な祭りであり儀式だというその見方もやはり野球が単なるスポーツではなく夏の一大祭りであり儀式だとするとき何か高校野球だけは他のスポーツと違っている
勝ち負けがあってもどれだけ誠心誠意戦ったかを評価する
そこで犠牲も要求される、危険なスライディングとか何かそれは犠牲的精神なのである
無駄でもする、特攻とにている、そして投手でも極限まで投げさせる
それで今度大船渡の佐々木投手は体を痛めるからやめさせたのである
それは一つの大きな決断だったとなる
ただ高校野球は儀式だとして祭りの要素があるものとして見ると納得がいく
甲子園はその聖なる場所なのである、そこには穢れがあってはならないのである
それで穢れが拒否される場所であり犠牲がある場だともなる
そうなると何か単なるスポーツで勝敗を決めるものとも違っているのである

ただ必ず世界中で祭りがある、犠牲というとき牛が関係して牛を殺して神に捧げたからである、家畜を羊もでも殺して捧げた、豚でも捧げた、そういうことは世界中である
神に犠牲をささげるのが祭りだったということがある
それは日本でもそういうことから始まっている、神は犠牲を要求してきた
それで聖書ではアブラハムのイサクが神に犠牲として捧げることを命じられたが羊が代わりに犠牲として捧げられたのである
他でも必ず神に犠牲として捧げられる儀式はどこでもあった
それでマヤ文明なのか、そこでもスポーツの競争が走る競争が行われていた
そこで一番早く走ったものは神に犠牲として捧げられた、そうなると普通は参加すらしたくないとなるが競って参加したという
そして競争に勝ちの望んで犠牲になった、それは名誉だったのである
だからその競争に勝つものは強健なものである者であり選ぶ基準だったのである  

宗教とはそもそもこうした神に捧げる犠牲から始まっている
キリスト自体が神に捧げる犠牲だったのである、それで神を和らげるともなる、そうでないと神からの怒りがあり人の世に大きな災いが起きるとなるからだ
何か津波とか原発事故にはそうした神への畏れが科学技術が神のようになり喪失したためかもしれないとも考察した
そもそも海は誰の者なのか?、それは万物は神によって作られたものである。
故にすべては神のものである、漁業者のものでもなかったのである、だから漁業権を東電に売り渡すことなどできないものだった
なぜなら海は神のものであり山でもそうだがあくまでも神のものとしてあるべきものだったからである
とにかく津波とか原発事故には神の祟りがあったのかとまで思うのはあまりにも大きな災いだったからである
神のタブーを破った結果としてこれだけの災いが生まれたと思うからである

いづれにしろ野馬追いも祭りである、これは歴史の再現の祭りである、これもやはり死者をよみがえらせる行事としてある、歴史の再現である
そして怨霊を鎮めるものとしての祀り祭りがある、これも祭りの起源だったことは間違えない、祭りは祀りであり死者と深く関係しているのである

2019年07月28日

野馬追い(雲雀か原へ―写真)


 野馬追い(雲雀か原へ―写真)



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首のところにも飾りがある
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この菊の紋の旗は小高である
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こんな旗印があるのか?
勝手に旗印は作れないのだからこういうものもあったのか?
それにしても変だと見る

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これは大きな角である


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この二つの丸の旗は深野(ふこうの)で見た

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軍配の旗がある、これは金沢で見た
でも下高平として出ていた



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雲雀が原に入る

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未来の騎馬武者

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集まりて馬もいななきいきりたつ人馬一体に打ち進むかな

雲雀が原到着の声高らかに打ちつづきける旗の波かな

相馬武士旗に誇りや気合入れ雲雀が原に集結するかな

真日さして旗あざやかに入りまじり雲雀が原に参りけるかな


今日は暑かった、前の原高があったところに馬が集まり雲雀が原まで行列になる
そして行列の一番最高潮になるのが雲雀が原に入る時である
この時騎馬武者が興奮して気合を入れて口上する
これは見ていても興奮する場所である

今回注目した旗は金沢で見た軍配の旗だった、それから小高から出た菊の紋の旗だった
三種類の菊の紋の旗があった、私の持っている旗帳では色がついていないのでわからなかった、青と黄色と赤があった、赤があるのははじめて見た
これは南北朝のとき天皇が二人になり争った、それで鹿島区の真野に落ち延びた侍の子孫なのである
ただなぜ小高かからこの旗が出ているのか?
それはその後その子孫が移動してそうなった
そういうことは江戸時代300百年もあるのだからあった

村ごとに騎馬武者が出たとしても中ノ郷(原町)は太田神社になっていた
でも石神から出たとか大甕の騎馬隊とか説明があった
私が今回見た金沢の軍配の旗印は下高平として説明されていた
金沢にはそもそもなかったものなのだろう

雲雀が原での旗取りは見なかった、暑いから嫌なのである
ただ今回は外から太鼓を演じる人を呼んだ、そうなると雲雀が原に太鼓の音がひびきわたる、野馬追いと一体となってひびきわたる
だから神旗争奪戦を見た方が良かったとも思った
やはり野馬追いだけではいつも同じであり盛り上がらないから今回は太鼓演奏のプロを呼んだのは良かったとなる
ただ演奏を聞いていないので残念だったなる

ともかくインタ−ネット時代になるとみんな記者になる
それで常に何かを見て写真をとり報告する、その時どういうふうに報告するのかが問題になる
どうしてもいい写真をとるとか何か話題になるものを探すとかなる
一目にひくものを探すのである
今回は太鼓演奏が人目をひいたかもしれない、それを見なかったので報告できなかった
記者になることはただ受動的に見ているのとは違う、積極的にかかわることなのである
そこで一億総記者になったのである

posted by 天華 at 17:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 野馬追い関係

2019年07月27日

真野川の河原で野馬追いの旗取り (野馬追いに参加した数の出身地の分析と津波のこと)


真野川の河原で野馬追いの旗取り

(野馬追いに参加した数の出身地の分析と津波のこと)

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近くにも但野(ただの)氏がいた
とにかく鹿島区では只野、但野・・・が多いのである

真野川の河原での旗取り

御家は小高から移った人の旗印ーこれは新しく作ったのか?
あとは只野氏の杉の紋と天皇の菊の紋は由来がわかっている


今日は真野川の河原で旗取タをしていた、ここに集まるのは鹿島区(北郷)である
でも(御家)とある旗は小高の人なのである
原発事故があり避難して鹿島区に移ってきた、ただ旗帳には見かけない
すると新しく作った旗なのかとなる  


江戸時代に入ると、特定の大名の家臣団あるいは大名を加えた藩全体を「家中」と呼ぶようになった。むしろ、江戸時代の儒学者が中国の封建制度に倣って用い、明治政府の成立後に公式の用語となった土地統治に由来する「藩」よりも、人的結合に由来する「家中」の方がより広く用いられていた。例えば、伊達家によって治められ仙台城を中心とした地域を統治していた藩や藩士のことは、「仙台藩」「仙台藩士」ではなく、主家の名により「伊達家御家中」という表現が用いられ、また国持大名であった伊達家は徳川将軍家から「松平姓」を与えられていたため、「松平陸奥守様御家中」とも称された。ここでいう「松平姓」も、幕藩体制を本来松平氏の惣領でもあった徳川将軍家を惣領とする擬制的な家組織とする観念から与えられたものである。

給人とは、藩主から知行・俸禄を支給された武士を指します。相馬中村藩の給人は2区分され、城下にあって直接藩の用を勤めている府下給人(御家中・麓給人)と、通常百姓をし、戦時に兵役にあたる在郷給人とがあります

藩というときこれは明治以降に用いられた、江戸時代までは御家中である
藩は地理的区分としての藩を意識するが御家中という時は人的結合を意味している
つまり家が発展して城となった、城は家なのである
相馬藩だと今の相馬市の中村村に城を作ったから中村御家中となっていた
だからおそらくこの(御家)は鹿島区に小高から移り住んで侍出の人が新しく作った旗だとなる、なぜなら旗帳に出ていないからである
由緒ある家なので御家という旗を鹿島区に移り住み作ったのかとなる

他は只野氏の杉紋とか前にも書いた、とにかくこの辺では只野の姓が多い
その由来は書いた、南北朝の争いの時霊山城が落城したとき落ち延びてきた末裔が只野の姓なのである
その元は郡山の近くにある多田野村だったのである
それから桑折氏とか菊池氏とかもそうである、その紋は天皇の菊の紋である
南北朝の争いの時二人の天皇をたてて争ったからである
だから鹿島区(北郷)の旗印でこのことはわかっている
そして山王神社とか日吉神社は南北朝の争いで落ち延びてきた侍が護持したものである
鹿島区の江垂(えたり)の小高い山に中館を構えて住んだ
玉野村で鹿島の真野と相馬市に方に行った人が分かれた
それで山上には山王神社があることでわかる
そして野馬追いに参加している地区ごとの人数をみるとわかることがある
                               
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なぜ北郷(鹿島区)と中郷(原町区)がほぼ同数なのだろうか?
それは北郷はもともと相馬氏が入って来る前に在地の勢力としてあった
相馬氏進出の径路で書いたように相馬氏はまず小高から入り城を築いた
その時は行ったのは八重米であり太田神社のある地区であり小高区に入った
原町の場合は海側に泉氏とか在地の勢力が存在しては入れなかった
牛越城の位置は海から遠いからである
そして深野(ふこうの)にも在地の勢力がいては入れなかった
なぜならそこに館とつく地名が二つもあるからだ
館とか盾とつく地名は中世の地名であり城の役割を果たしていた
それで鹿島区(北郷)でも相馬氏は小池から進出して中村(今の相馬市)に進出したのである
海側には入れなかったのである   

そこでなぜ相馬藩で400年前の津波のことが400人溺死としか記されなかったのか
その原因がその時こうして相馬藩が進出するときであり支配下に入っていなかった
まず相馬氏が完全に支配できていなかったのである
その時中村に今の相馬市に城を築いたのである、そこは伊達氏の領域であり海側は在地の勢力圏内だったのである
それで津波のことは詳しく記されなかったのである
そして学者の研究で400年前の慶長三陸津波の前後で米のとれた石高が三分の一くらいに減っていたのである、それが大きな証拠となる
海側に在地の勢力があり海を通して交通もあった、でも津波でその海側の勢力がそがれて相馬氏の進出に有利に働いたのである、つまり津波は相馬氏の支配にとって都合いいものだったのである
他にも津波の影響でそうなった地域があった、戦国時代とかなる敵の不利になることがつけ入ることになっていた    

その後善次病死して棺を出す。時に大原村の森の方より黒雲持ち上がり棺をつかんで
雲中に入る。宝蔵寺の僧これを聞き走り来りり七重の袈裟を雲中に投ず。
声ありて曰く、「おいか」と。

棺おく雲散じ空晴れてこれを葬るという。是の世に希有のことなり。  
知らず「おいか」とは何の言なるか。    

なぜここで大原なのか、海老村と大原は遠い、でも相馬氏が進出したのは八重米坂から太田神社から小高の方である
原町となると海側ではない、大原は相馬市が深野をさけて進出した 
そこから小池を回って中村へ(相馬市)へ進出した、そして柚木が八沢浦と接して宇多郷になっている
その辺に津波の伝説が残っていることが不思議なのである
そしてなぜ海老の大工の善次が

その後善次病死して棺を出す。時に大原村の森の方より黒雲持ち上がり棺をつかんで雲中に入る

大原の方というとき相馬氏が進出した場所だった、何かその時中村に相馬氏が牛越城から移転して城を築くというとき天守を造るというとき大工の善次は相馬氏から要請された、そこで在地の勢力下にあった善次は拒否もできずに苦しんだ
その時津波の被害が海老にあったからだったのかともなる、その怪異は津波の被害を語っているかとも推察した
海老には寺の関係とかで二つの館があった、今でも屋形という地名は残っている、そこは海老ではないにしろ在地の勢力があった地区である

相馬氏より先に岩松氏が鎌倉からきて北郷とか相馬藩内を支配していたからである,相馬氏より岩松氏が先住者として支配していたからである、その岩松氏は鹿島区(北郷)を根拠地としていたから相馬氏と対立していたのである
ただ岩松氏は一家が四天王という家臣に子供まで惨殺されたのは有名である
だから野馬追いに出る人の数が原町と北郷で変わらないという時北郷が大きな力をもった地区だったとなる、小高の倍もあったからだ原町は広い範囲だから今から考えると雲雀が原があり何か力関係では侍の数でも同じだったとは思えないからだ
でも雲雀が原辺りに原町村とありそこから野馬追いに一騎しか出ていないのである、あの辺は広大な野馬追いのための牧であり野馬土手で囲まれていた、人家はほとんどなかった、この野馬追いに出る騎馬の数はそういうことを物語っていたのである
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なぜかわからないけど相馬市の松川浦から諏訪神社が相馬市内に移動しているし磯部の豪族の佐藤氏も鬼越城に移動している
それは慶長津波の前のことである、これも謎なのである、そして相馬市の諏訪神社に津波で舟が流されてきたという伝説が残っていたのである、小泉川を津波がのぼってきたのか?ただボーリングの調査では相馬市の奥まで津波がおしよせた痕跡が砂が発見された
しかしそれは貞観津波のものだったというから津波の唯一の証拠はその前と後で三分の一も石高が激減したことである
それは海側が津波で被害が甚大だったことをの証拠なのである、海側もかなり開拓されて田んぼになっていた
それが根こそぎ今回の津波の被害で大打撃を受けた、ただ田んぼだけではない、それより海上交通がありそれで財を成したともされる

小高には蔵院とかありかなり大規模に海上交通で商業がありそれで財をなして力をもっていたからである
それが津波でそがれてしまったとも推察できる
海側は意外と昔は魚でもまた海上貿易があると栄える素地をもっている、その延長としてこの辺は原発がたち一時は栄えたとなるからだ、海側にはそういうものが作り安い、松川浦とかでも今はガスの輸入の基地となっていることでもわかる
これからの発電はガスだというとき新地はそれで仕事ができて発展が望まれるというのもそのためである  

posted by 天華 at 18:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 野馬追い関係

野馬追行列が鹿島区(北郷)を行く


野馬追行列が鹿島区(北郷)を行く

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先駆けて馬二頭走る青田風

蔵に映え騎馬武者行くや藪甘草

母衣(ほろ)赤く青田に映えて鷺白し

いななきぬ馬の活きにし野馬追に


宇多郷(相馬市)と北郷(鹿島区)が合流するのが海老原氏の家である
そこから本陣の農協の方の広場に集結する
そこで儀式が行われる

だから本陣と海老原氏の間は先駆けて馬が行ったり来たりする
その時馬が走るから青田に映える、だから知っている人はあそこが撮影ポイントなのである
野馬追いは年に一回でありすると写真をとる機会が一回しかないのである
だからいくら来年見れるとしても一回だから写真がうまくとれないのである

今日は昨日松川浦に行って疲れた、やっと行ってきて写真をとった
騎馬武者でも自然の中で映える、街中だとごちゃごちゃするから映えない
時代劇のロケ地のようにあそこが撮影ポイントなのである

今回は蔵がありそれを背景にして騎馬武者が行く、蔵には紋があるふさわしいともなる
古い農家は蔵を必ずある、だから古い家かどうかは蔵があるかで判断する

いづれにしろすぐに行列は終る、それでいい写真がとりにくいのである
今回は山を背景にして撮ろうとしたが自動車会社とか映ってこれもうまくいかなかった
赤い母衣(ほろ)は大将である


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野馬追いの見所(野馬追いは歴史の忠実な再現)


野馬追いの見所(野馬追いは歴史の忠実な再現)

野馬追いは他の祭りとは違っている感じがする、それは歴史の忠実な再現だということである、それで宇多郷(相馬市)と北郷(鹿島区)が合流する、それが儀式となっているのはそういう歴史があるからである
その忠実な再現を見たいと来ていた人は相当に歴史そのものに興味がある人だとなる
祭にはもともと古い謂れがあれその再現だからそういうことはあった
だから祭りとして残っていてもそれが何を意味しているのかもわからないのがある
書類とか言い伝いでわからなくなっても祭りとして残されているのがあるからだ

歴史という時、北郷というときこれは相馬氏がまず小高に入り小高に城を築いたからその小高から見て北になるから北郷になった
だから合併して南相馬市になったとき今度は相馬市に城ができてそこが江戸時代中心になったからその南ということで南相馬市になった
つまり城があるところが中心として意識して方角地名がある
それは歴史的継続だとなる、方角地名は必ず中心があって東西南北が決められるからである

野馬追いの見所はそうした歴史の忠実な再現なのである
なぜどこの家から野馬追いが出るのか、野馬追いに出る家に旗が立つというときそこに注目したのはその旗立つ家は野馬追いに出る家であり古い家だからである
侍の家だったのであり郷士の家だったからその土地で古い家として認識できるからである歴史を知ろうとしたときそこでリアルに感じるからである
でも地元でもどこの家から野馬追いに出るのかわかりにくい、結局十軒くらいしか自分自身はわかっていない、人口が相馬藩内で10万ちかくあってその中で野馬追いに出るのは500騎としても少ないからわからないのである

野馬追いが歴史の忠実な再現だとして野馬追いがあれだけの旗印がある、それは何なのだろうとなる、でもその旗印の由来を知ることができない、その由来は平安時代とかからも始まっているからわからない、由来をたどれば関西の方にまでたずねることになるからだなぜなら関西から関東地方に平家とか源氏でも移住してきたからである
東北は関東の武士団が移住してきて作られた地域である
それは鎌倉時代でありその人たちが先祖になっている
相馬氏もそうである、相馬氏は騎馬軍団で強いからこの地の支配者になったし強大な伊達市と対抗できたとなる

だから野馬追いのもう一つの意義は馬を知ることである
ただこの馬のことがわからなくなっている、馬は今は競馬でしかわからないのだ
それで皐月賞をとった馬がいるとういことでわざわざ見に来た人がいたのである
その人は相当に馬に興味がある、しげしげと馬を見ていたからである
実際にこの辺ではそうした引退した競馬馬を使って野馬追いに出る
また野馬追いに出るために馬を飼っている人もいるからそうなると金がかかるのである

いづれにしろ馬というのが身近な存在ではなくなったとき馬のことがわからないのである実際馬を知るにはモンゴルのような所に行かないと馬の存在感はないだろう
何もない平原地帯でこそ馬が疾走すれば活きた馬を見れるからである
モンゴルの馬にのったときこれが小型なのである
足がつくくらいだった、こんな小型の馬で良くモンゴルが世界を制覇したと思った
ただ山岳地帯とか行くにはいいのだろう、万里の長城のあるところは山岳地帯だからである、結構険しい山岳地帯だすると小型の馬の方が上るにはいいとなるからだ

日本の馬は大型である、だから落馬で相当死んでいた、高いから落ちたら大けがするからだ、馬はとにかくなじみがなくなった、馬が活きる場所は競馬だけになったからである
ただこの辺では馬に親しむ場所として残されている
だから競馬と深く関係しているのである
馬が今現実に活きているのは競馬だからである、そこで馬体を見て馬の良しあしを判断したりしているから馬が活きている場所なのである
その他は馬とほとんど関係していないのである

ただなぜ地元でも野馬追いが盛り上がらないのか?、外から来た人も一回見れば終わりだとなっているのか?。
それはもともと歴史の忠実な再現であり変えられない、現代的に変えればいいじゃないかと言っても変えられないのである
自由に旗印を作って野馬追い行列に参加すればいいじゃないかと言ってもできないのである、野馬追い祭りに参加できるのは10万人いたとして500騎しか参加できない
相馬藩内では極わずかの人たちしか参加できないとなっている
だから何か地元でもただ見るだけであり毎年見ているとあきる
それで地元自体が盛り上がらないとなっている、他の人たちはただ見ているだけだからである、ただ野馬追いに出る人は侍になった気分になるから気分いいとなる
それで野馬追いに金がかかっても出たいなっている

だからこの辺は馬と関係あるのだから馬に親しむ地帯にするということはある
それでこれも問題だが小高とか浪江では田んぼが草ぼうぼうとなって放置されている
すると何に利用するのかとなると牧場にして馬を飼うのがいいかと想像したりする
これもまたありえないとなるがただ歴史的にはそういう場だったから想像する
何か馬を活かす方法があってもいいとなるからだ

posted by 天華 at 09:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 野馬追い関係

2019年07月26日

夕風涼し(松川浦で釣りする人)

                
夕風涼し(松川浦で釣りする人)


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キャンピングカーで4人くらいの家族がいた、そんなに寝る所があるのか?
寝るのはホテルにするのか?そうかもしれない、でもキャンピングカーの旅もいいかもしれない
ある場所に家が移動する感じになるからだ、家のようにどこでもくつろげるとなるからだ
ただ自分とは関係ないものである
釣りするにはいいものだということはわかった


老鶯の朝に鳴く声広間に聞く

鴎飛び夕風涼し釣りの人

遠くから夕風涼し釣りの人



暑いから松川浦の方に行ってきた
釣りをしている人がいた、でも魚とれないとみんな言っていた
キリンピングカーで家族連れで袖が浦から来ている人がいた
あれは釣りするには便利である、釣りは時間がかかる、でもキャンピングカーが家のようになんていて休めばいいからである
魚がつれればそこでオカズにもなる、でも釣れていない、海流の関係なのかどうかわからない、春にはホシカレイを釣った人がいた、あれはめずらしいものだった
時期にもよるのか今は魚はとれない、魚を知ることは相当にむずかしい

もう一人伊達市から来た人だった、伊達市は暑いからここはいいと言っていた

伊達町、梁川町、保原町、霊山町、月舘町が合併して伊達市になった

この辺はみんな行っている、月舘町だとわかりにくいがここも自転車で行っている
領域としては地図で見ると飯館村くらいである
とすると飯館村がいかに広いかわかる

なんでも霊山にさえぎられて伊達市は放射能は高くならなかったとか言っていた
あの山は山脈ではないしそういうことがあったのか?
その前は高かったことは確かである
第一飯館村の佐須を越えると霊山になるから高いことがわかる
なぜなら飯館村の佐須にホットスポットがあり20マイクロシーベルトあった
これには驚いた、あと草むらは5マイクロシーベルとかあった
だからあの辺は高いのである、すぐ近くの霊山だと高いことがわかる
伊達市では補償金10数万もらった、相馬市では6万くらいだったから不満である

私は自然と接することで釣りしている人とは良く話する
海流がどうだとか魚のことを話すことは自然に通じることだからである
だから釣りは自然と関係するから他の趣味とは違っているのである
それで釣りを趣味する人が自然を語り哲学者にもなっているというのもわかる
釣りすることは自然に通じることなのである

今日は朝目覚めたら老鶯が鳴いていた、二階から聞こえた、二階の寝る場所は広いから気持ちいいのである、でも夏になるとクーラーがないし隣の家の屋根が熱くなり二三度暑くなる、もうっとした空気が充満していた
下の部屋にクーラーがある、そこで仕事している

とにかく暑いと外に出たくなる、前は近くの右田浜の松原の日影で休んでいた
それもその松原が全部なくなったことはショックである
そこに風力発電の大きな風車が4基作られた
その前の高台に松などを植えたがこれは前の松原の回復にはならない
風車の風は自然の風ではないから木に影響すると武田邦彦氏が言っている
科学者の言っていることは違うなと思った
風力発電でも自然のようで必ず自然からエネルギーを奪うものだから自然に影響するのだという
だからあそこに松など植えたのは無駄だった、離れた海老辺りは風車がないからいいとなる

今日は風が吹いていてそれほど日ざしも強くなかった、これから日ざしが強くなると紫外線とか危険になる、それで熱中症になりやすくなったから怖くなったのである
ただどうしても私は外に出たくなる、暑いとクーラーも好きでないからだ
かえって動いた方が涼しくなるからだ
相馬市では一軒も野馬追いの旗が立っている家を見つけられなかった
どうしてなのか、相馬市もまた広いからわからないのか?
とにかく日曜日は野馬追いなのである

資本主義が終わりー国々の文化力の再発見開発の時代へ


資本主義が終わりー国々の文化力の再発見開発の時代へ

資本主義では金を増やすことを望む、金を増やすためにはどうするのか?
投資する、投資するとはそこでもうけて利益を増やして金を得ることである
その金を運用するのが銀行であり資本主義の中核としてあった
銀行が金を生み出していたからである
銀行はゼロから貸し付けてその借用書が紙幣になったというとき何もないのに金を増やすことができる
でもその金が増えすぎると使われないと経済は停滞する
でもなぜ今銀行がつぶれるとかいうのだろうか?
銀行には金はある、金が余っている、その金の使い道がない
投資先がないのである

それは世界的に起きていることである、世界で金が余っている、でももう世界経済が成長しないというとき金余りでありその金が活かされない、投資先がないからである

日本の海外債務が主にアメリカにありドルとして

対外純資産残高は328兆4470億円と3年連続で減少したが、27年連続で「世界最大の対外債権国」という座を維持した。

対外純資産がたくさんあるという事実は、見方を変えれば「日本国内に投資機会がない結果、外に出るしかなかった」ことの裏返しでもあるため、日本を語る上で憂うべき論点も多く含んでいるだろう

民間に米ドル相当の資産が150兆円以上あることも大変な強みだ。国の外貨準備高を合わせて300兆を優に越える。これらは一気に換金するとドルを始めとした通貨が暴落するし日本の信頼性の問題が問われるから実行する事はないものの、いざというときには換金出来る。言うまでもなく米国は世界最強の国家で、ここより安全で安心できる投資先はない。

アメリカの強みは軍事費が世界で突出している、軍事国家なのである
日本は経済国家である、アメリカの信用は軍事国家であることでドルが基軸通貨になっていることである
でもドルが紙屑になるというときそのドルの裏付けのアメリカ経済が弱体化しているからである
つまり金は資本主義での金は常に増大することを望む、金が金を生むことを望むのが資本主義なのである

でも世界経済の成長は頭打ちとなりもう成長しない、とすると金の行き先投資する先がない、だから銀行に預けても利益を生まない、利子が払われないのである

つまり銀行の用がなくなる→銀行はいらない→銀行員の大リストラ

こうなったときもう資本主義は機能しない、投資先がない、それで資本主義が終わりだとされる
その行き詰まりを打開するのに軍事力で突出した軍事産業の占める割合が多いアメリカは戦争を起こす、するとそこで戦争が投資となりアメリカ製の武器が売れる
景気回復するとか怖いことになり実際そういうことが行われてきたとされる
そこで人命も失われたのである

経済が行き詰まる→戦争になりやすい

それはドイツのナチスでも失業者が増えたとかなり戦争に突入した
失業者を戦争が吸収したとなる、日本でもアメリカの経済制裁で追い詰められて戦争に突入したとされる
経済的に追い詰められた国は人間でもわずかの金でも奪うし強盗でもするし人を殺す
借金していると借金を返すために犯罪を起こす、借金が犯罪の動機になっていることが多いのである
そういうことをこれまで嫌とういほど自分自身が経験したので恐怖となった
経済的に追い詰められた人たちが介護とか病気になったとき弱者化したとき襲ってきたからである

今やどこも経済不況とか停滞に陥り危険だとされる
アメリカもそうだし中国も韓国も日本もそうなのである
世界同時不況、世界恐慌前夜のような様相を呈している
つまり資本主義自体が機能しなくなり崩壊しつつある
世界的に経済成長は見込めないのである
それで資本主義の終わりだとみんなが言うようになる

つまり経済成長がない資本主義はありえないのである
だから資本主義は終わりだとなる
では次に来るのは何なのか、経済成長がない投資先がない社会である
だからこういう時代は文化の時代にもなる、文化の価値は物を増やすとか生産するとかとも違う、例えば日本でインパウンドで外国旅行者が増えたというとき旅行は文化的な価値を求めるのでありそれは何か物を生産するとか技術を開発するとかとは違っているのである、その国の文化を見るのが観光だからである

国を見る時確かにGDPとかでみる、でもその中身は技術力でありもう一つは歴史文化力がある、歴史ある国はヨ−ロッパでも中国でもインドでも文化力がある
オーストラリアなどは歴史がないから文化力がない、アメリカでもそうである
資源があり国が広大であり経済力技術力があったとしても文化力に欠けているのである
おそらくこれからの時代は世界で経済成長が望めないとしたら文化力の時代になる

だから一方でこれからますますグロ−バル化するから英語は不可欠だとしている
でも文化力にシフトするとき英語のように商業語だけでいいのか?
そこには文化力がない、確かにそれで経済力を高めることはできる、でも文化力は英語にはない、日本語あって日本の歴史と文化がありその価値が高まる時代になる
明治維新からは開国の時代であり富国強兵とか経済力の時代だった
それは太平洋戦争までつづきその後も経済成長の時代でありそれがバブルで日本は崩壊した
経済成長はあるところで限界にきてとまる、それが今は中国でそうなっている
そして世界的にももう経済成長はできないのである
そして資本主義が機能しなくなる、銀行が不用なることがまさに資本主義の終わりを象徴しているのである

何かだからこれから中世の時代のように内面化する、宗教とか哲学とか芸術の時代になる経済成長は世界的にもうできないからである、するとその国々に住んで文化力を高める時代になる、文化力はその国の風土と歴史から作られる
ただ文化というとき幅広いから必ずしも芸術とは限らないのである
農業に回帰するというとき農業は文化の側面がある
なぜならcultureはcultivate(耕す)から出た言葉だからである

なぜそうなっているのか?
つまり農業はその土地土地の地味に作用されたり風土と密接に結びついているからであるワインでもその土地土地の名がついていたり日本の米でもそうである
味が違ってくるからである、日本酒が世界で売れるという時もそれは日本の風土と歴史で培われたものであり文化力なのである、単なる物の販売ではないのである
とにかく文化とは幅広いものでありそれを風土に根ざして再開発再発見してゆく時代なのである

posted by 天華 at 10:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2019年07月25日

野馬追いの旗立つ(軍配の旗の由来)

                        
野馬追いの旗立つ(軍配の旗の由来)

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真ん中に軍配の旗印
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金沢村に軍配の旗印は旗帳にのっていなかった
でも下高平とか鹿島区の大内村とか右田村にはあった
金沢村は江戸時代に開拓された場所である、それほど広い土地でもなかった
だから旗帳には二つくらいしかのっていない
軍配の旗印はのっていないのである


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原町区金沢村に立った旗印

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この旗印は深野村長野村とかにある


雲晴れて旗立つ家や夏の山

山百合に鬼百合も咲き野馬追いの明後日かな期待高まる  

野馬追いは野馬追に出る家に旗が立つときから始まる、金沢で二軒に旗が立っていた
一軒には三種類の旗が立っていたのはなぜか?
何かここに集結したためか?
ただ旗帳の金沢村には 記されていない、下高平村とかの旗にでている
そこから移動したのでその旗になったのか?。
なんらか家でも移動していることがあるからだ

深野から大原の方へ回ったら一軒だけ旗が立っていた、これは大原村の旗としてある
とにかく野馬追いというとき多くても500騎出るとしても実際は範囲が広いのである
浪江までありそこでの所帯数は何万とかなる、そしたら500所帯は少ないから野馬追いの出る家は特定できない、わからないとなる

鹿島区だと56軒出るのを知っているがそれでも少ないからわからない
鹿島区の特徴は南北朝の争いの時代に霊山から落ち延びた子孫がいる
その家の旗は天皇の菊印なのである、只野姓はその中心にある
その人は街内に住んでいる同級生だった
他に街内に住んでいて菊印の旗がたつ、それは天皇の紋である

只野姓の人の旗印は杉である、只野姓は本当に鹿島区に30人以上とかいるから多いのである、ここの由来はわかっている、その他はまずどこの家に旗が立つか場所がわからない
野馬追いは旗祭りだというとき旗印の意味がわかるといいのだがわからない
そもそもなぜあんなに旗印の数が多いのかとなる、それも不明なのである

軍配(ぐんばい)とは、かつて武将が戦の指揮に用いたうちわ形の道具。現在では相撲の行司が力士の立合いや勝負の判定を指示するのに用いる道具として知られている。

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軍配団扇(ぐんばいうちわ)の略であり、本来「軍配」とは、所謂「軍配術」「軍配兵法」とも呼ばれる、戦に際して方角・日時を見極め、天文を読んで軍陣を適切に配置する法のことである。「軍敗」とも表記される。軍配術を行う者を軍配者という

 団扇紋は、武蔵七党の一つで、その中心勢力であった児玉党の家紋として知られているそして、家紋のなかでももっとも古い紋の一つともされている。
 児玉氏は藤原姓有道氏流で、『源平盛衰記』にも「児玉の党、団扇の印をかかげて」とみえるなど、平安末期には児玉党が旗印として用いていたことが知られる。とはいえ、当時は団扇そのものを印として用いていたようで、それが、やがて家紋として図案化されたものと思われる。

 これは深野とか長野村にあるし大内村とか右田村にもある、その系統が伝播したことがわかる

平安時代からあるのだから旗印は古い由来がある、それは武蔵とかに伝播されて相馬氏の侍の旗印となったのである、このように旗印の由来は古いのでありその起源は関西の方であり奈良とか京都の方だともなる、只野氏の杉紋は三輪山の杉に由来していて万葉集にその歌が残っている


あと三日で28日で野馬追いになるが今日は晴れてきたから晴れるようだ
野馬追いはやはり梅雨明けにはじまり本格的な夏に入ることを告げる祭りなのである
東北では一番先に夏の祭りとしてはじまる 

ちょうど藪甘草が咲き今日は山百合が咲き鬼百合も咲き始めた
野馬追いがはじまるとき咲きはじめるのである

                                                          

posted by 天華 at 19:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 野馬追い関係

ボランティアは偽善であるの議論


 ボランティアは偽善であるの議論


被災地に住んでます ボランティアを見るとイライラします。 
理由→遠くからこんなにたくさんの人が来てるのに地元のあなたはなぜ何もしないの? と怒られました。毎日がれきの中を通学してます 時間も経費も前よりかかってます。津波で流れたアルバイト 新しいところを探しました。勉強も必死にしてます。まだ足りないですか? ボランティアが来てから私はふるさとのために何もしない冷たい人になってしまいました

ボランティア活動というのは「受ける方は深く心から感謝する」そし
てする方は私心がなしでこのような受け手に心から感謝してもらうことで自分自身も喜び
を感じるというお互いが心から喜びあえるところにその本質がある


相手にとって全く役に立たず、かえって手間や害になってしまうことを一方的にやってしまうことかもしれません。

本人は良かれと思ってやっていたとしても、相手にとって必要なことでなければ、お互いが無駄な労力や気遣いをして終わってしまうことになります。



ボランティアは偽善である―キワードで検索したら結構深い議論をしている
それは大学生とかでもそうである、大学生は今だとボランティアをしているからそうなるのだろう

ボランティアに対してなぜ一面こうした偽善だとか批判が大きいのだろうか?
この辺は津波や原発の被害でボランティアがひっきりなしにきていた
原発で避難した仮設に一番来ていた、そこには原発の被害者も津波の被害者もいた
その差も大きいものだった、ただ外から来ると原発避難者と津波の被害者は一緒に見ていたとなる、同じ仮設に入っていたからである

そこにはいろんな人達が来た、宗教団体は多かったろう、それは宣伝のためである
売名行為の芸能人も来ていた、それを批判する人もいる
意外とネットではボランティアを嫌がっていると悪だと断定する人までいるのは意外だった、何か善意の押しつけでありうざいということなのかもしれない
そして何かボランティアは善人でありいいことをしていると見せつける
そして感謝とかでも何か強要する、それを見て嫌な感じになる
いくら無償でも嫌がる人がいる

相手にとって全く役に立たず、かえって手間や害になってしまうことを一方的にやってしまうことかもしれません。

これは確かにある、駅のボランティアでそういうことを経験したからである
別に教えなくてもいいとなる、無人駅でもいいという人がかえって多かったのである
若い人には多い、でも老人はわからないとき教えると素直に感謝している
それは無人駅になってわからないことがあるからだ
若い人はうざいとなる傾向がある
つまり老人は弱者でありそれで教えられると素直にありがたいとなるのである
若い人は弱者ではないからそんなことしてもらわなくてもいいよとなる
つまり若い人には老人とかの弱者の気持ちがわからないのである
それは老人とか弱者にならないとわからないからである

ボランティアで確かにこの辺ではボランティアが働いて肝心の被害者は特に原発避難者は毎日補償金もらってパチンコなどギャンブルに興じていたのである
だから何で働かないのだと怒っていたのである
でも津波の被害者はかえって迷惑にしていたというのも意外だった
震災でも事情が違っていた、まず津波の被害者と原発の避難者は相当に差があった
津波の被害者は家をなくしたり家族が死んだり悲惨だった
でも原発避難者は別に家は損害がないとか家族も死んだりしなかったのである

ただ故郷に住めなくなったということはあった
ただその被害の度合いが相当に違っていたのである
その区別が外から来た人にはできなかったのである
つまりなぜ外から来たボランティアが嫌がられることがあるのかとなるとこうした事情がすぐに呑み込めないからである
するとボランティアでも反感をもつ人がいる
それは自分自身もそうだった、なぜ原発避難者だけが優遇されているのか?
私の住んでいる同じ南相馬市でも避難区域になったところとならない所では補償に差がありすぎたのである、今でも医療費は原町と小高では無料なのである
でも鹿島区だと6か月くらいで打ち切られたのである、この差は大きかったのである
30キロで区切られたこともあるが南相馬市で対策はしなかったこともある
こういう事情は外から来た人にはわからないのである 

何かボランティアというとき善意がうまく合わないことがある
ボランティアが善意でしたことでもそれがそれをされた人には迷惑でさえあるのだ
それは駅で盲人の人の手を引いて電車に乗せたときだった
その人は杖で別に電車の前まで行ける、手をとることを嫌っていたのである
だから電車のドアをあけるボタンをおせばいい、手をとる必要などなかったのである
そういうことは押しつけになっていた、その盲人は自分で行けたからそうなっていたのである
何かボランティアにはそういうことがある、無理やりおしつけて善意をおしつけていい人ぶる、そして強制的に感謝しろとかなる
そういうことを嫌がある人がいるのはわかる、迷惑な場合があるのだ
むしろちゃんと金をもらい働いている人こそほめられるべきだということもある
その人たちは金で報酬を受けていると感謝しないことがある
金が報酬だからである、でもボランティアの報酬は感謝とか善人としてほめられることを望んでいるのである、それが嫌がられるのである
金で払えばいちいち感謝など要求されないからである

だからただより高いものがないというときそれは決まった報酬がないからである
親戚の人が自分が介護で苦しんでいる時そうだった
荷物一つもつのも嫌がっていた、そしてその荷物一つをもったからと無料でしたとなると現実に途方もない金を要求されたようになったからである
その人は金に困っているから暗黙の裡に途方もない金を要求される
普通だったら荷物を運んでもらったからと決まった金をはらってしてくれる方が安心なのである、いくらとられるかわからないとなるからだ
ボランティアなら感謝だけでいいとなればそれは悪いとはならない
でもしてもらう方は決まった金を払ってそれですました方が精神的に楽だとなる
だからこそ現実社会ではすべて金の額で感謝を還元しているのである
その方が楽だからである、つまり無償で無料で何かをしてもらうことはしてもらう方がかなりの負担になるからそうなったのである

ただ道を教えたりするのは別にそういうことはないしそれで何か要求したりしない、
それでもありがとうと言われたときうれしいとなるだけだった
ただ今はスマホを見ているから煩がる人が多い、そこが問題になる
つまり人によって何かを無償ですることを選ぶ必要があったのだ
老人とか障害者とかは弱者であり教えられることを望む、助けられることを望む
でも若い人はそういうことが少ないのである
つまり若い人は傲慢なのである、助けられる必要はないですよとなっている
でも老人とか障害者とか老人は助けてもらいたい人たちなのである

ともかく何か現代はボランティアの時代でもある、だからボランティアは何なのだとなるただ善しあしは経験しないとわからないことがある
人間は何であれ経験しないとわからないのである
私自身がささいなことでも経験したから書いているのである

私と同じことを若い人でも言っているのは感心する

ボランティアは宗教の行為だ

そう書いているプログがあったからである
無償とかなるとそれは宗教の分野だからである、ただ宗教自体がまたほとんど偽善なのである、宗教が一番偽善なのである、なぜならそんな無償の行為ができないからである
それで実際は金儲けだったりするのが普通なのである
そもそもボランティアが宗教だというときもうそんなこと実行できる人はいないとなる
だからいろいろあってもボランティアを容認する心も必要だとなる
ただ嫌がられるということもボランティアで意識する必要がある

だから本当にボランティアはむずかしいと経験から思ったのである
駅では若い人はそういうふうに嫌がっていた、それは助けられなくてもいいとなっているからだ、強者だからである、でも老人とか障害者などはそうではなかった
何か落ち着いて話しもできたのである
だから老人は若者にとって嫌がられるが若者にも嫌な面がある
若いというだけですべて肯定的に見れないと思った
若者は横暴で傲慢なものだからである、そこに深い思慮もないのである 
「俺は助けられなくていい、俺は教えられなくてもいい」とかなると傲慢なのである  

この世はカルマが必ずある

老人をいじめるものはまた老人になりいじめられる

なぜなら若い人でも老人になるからである
つまり因果応報は必ずある、継母で虐待していた老人が死ぬとき悪かったなと悔いた、そしていじめた子供に頼り死んだからである
老人を別に手厚くする必要がないがいじめたりすると必ず今度は老人になったときいじめられる
すぐに誰でも年とる、若いということはほんのわずかの時間でありすぐに過ぎ去るからである
だから若者が無謀になり若きの至りでも必ずそれかあとで後悔する、でも悔いてももうどうにもならない
その時は帰ってこないしその罪は消えないともなるからだ、そしてその報いは必ず受ける
老人になって同じ目にあうカルマとなるのである

ともかくボランティアは無償の無料の行為である

でもただより高いものはない!

無料であり無償だからこそ報酬は実は馬鹿高いものとなる、きりないものとなる
もしそれに見合った金を払えばそれで終わりである、でも無償だということ無料だということは無限に要求されることでもある
だからかえってその仕事に見合った金を払った方が楽だという結論にもなる
つまり人間には無償の行為をすることは一番むずかしいとなる
神は無償で様々なものを与えている、それができるが人間にはできない、人間はそもそも与えることができないものなのかもしれないすべて実際は神に与えられたもので生きているからである
それで何かを無償で与えるということで傲慢になる、実際は人間は与えることはできない存在である
与えたとしてもわずかである、日々生活する中で何か与えているものがあるのか?
食料でも何でも買うとしてもそれは誰かが作ったものであり与えられたものだからである
人間一人で与えるものはほとんどない、そういう謙虚さが必要だとなる
でも何かボランティアは無料で無償で与えているということが全面に出すぎるのである

右の手のしていることを左の手に知られないように
| マタイの福音書

こうはならないから嫌がられるとなる、ただそこまで高尚なものをボランティアに要求することは無理である、聖人にでもなることが要求される
そん要求したら誰もできくなるからだ、ただボランティアのむずかしさは自覚するべきである
俺はボランティアだとして何かおしつけるのは嫌がられるのである、その兼ね合いがむずかしいのである
でもボランティアをこうして否定することは良くない、ただボランティアというだけですべて是認されないことを自覚すべきである
だからボランティアというのは何かむずかしい立場にある、そんなら一層やらない方がいいとかなる、自分自身もして感じた、善意でしてもそれをみんなが受け入れるとは限らないし、それが実際に効果がないときもあるからだ

結論は奇妙だけどボランティアでも金で報酬を与えるべきだともなる、そうすればかえって割り切ってやれるともなる、そうなるとボランティアでなくなるともなるから何か人間のすることは何でもめんどうなのである
そしてどんなことをしても必ず批判がある、ただ批判する人よりボランティアしている人の方がいろいろあっても評価できるともなってしまうのである
ただ現代はボランティアをしたい人が多い、それは高齢化で地域でも生きがいをなくしている人が多いからである
それで正論おじさんとか問題になった、あの人も何か地域に役立ちたいということがあったがかえって迷惑になっていた
その人は司法関係の人でその法律の知識を活かしたいと思ったのだろう、でもそれは迷惑行為だったのである
そういうことがボランティアにはありうる、ただ地域に役に立ちたいという人は多い
でもそれがむずかしいのである


2019年07月24日

利益と金を求めるこの世はサタンが支配する (ボランティアは意味と価値を求める、宗教心があってできる?)


利益と金を求めるこの世はサタンが支配する

(ボランティアは意味と価値を求める、宗教心があってできる?)

「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。
  そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」
   マタイによる福音書     
   
「価値と意味をまず求めなさい、そうすればこれらのものはみな加えられる」

「まず利益と金を求めなさい、そうすれば食べ物でもも着るものでも住まいも与えられるだろう」ーサタン{悪魔}の言葉

人間の矛盾は社会の矛盾は一番ここに現れている、これで悩むのである
それは社会全般でどこでも起きている、別にブラック会社だけのもではない
社会はまず利益と金を求めなさい、そうすれば評価されて価値があるとされる

だからそれは医療とかなると医者は精神的に今では一番価値あるものとして尊敬される
価値あるものとされる、でも医者でも薬でもなんでも必要のない薬を飲ませてすすめてもうけるとかしている、何か必要のないことを金になることをする
手術をしたいというときそれが金になるとしたときしなくてもいいのにしたりする
それが怖いことなのである

つまりこういうことはどこの現場でも起きている、銀行になると何かその悪が生々しいとなる
投資するにしてもサラ金きか闇金融とかにも金をだしている
それは自らはしないにしろ裏でしているとなる
それから大きな銀行だと武器会社とか環境破壊企業とかにも金になるということで投資している、ただ投資はわかりにくいから見えないから批判しにくいのである
この世の暗黒はここに一番現れている、そこに働く者の矛盾が一番現れている
会社でも働く人は不本意でも利益を優先しなければならないからだ

それで不思議なのがボランティアなのである

そもそもボランティアは何を求めているのか?

利益を求めていないとしたら金を求めていないとしたら何を求めているのか

何を求めて働くのか?

それが問題になる、みんな利益を出すために必死になっているからだ
でも退職したとかして金に余裕ができた、でも何もしないではつまらないとか生きがいもないとかなる

ボランティアが求めているのはまさに意味あるもの価値あるもの生きがいとかを求めている、だって利益を出さなくてもいいとしたら当然そうなるのである
そして感謝なども求めている、利益にならなくても感謝されたとか社会とか地域のためになったとかなるからである
でも実際はそういうことには必ずしもならない、何ら価値を認められないとか意味を認められないとか感謝もされない、お前は何しているのだと邪魔者にされてできなくなった。別に利益も金を求めたわけではないが何ら認められるものがなかった
ただ外から来た人は案内したときありがとうとか感謝されただけである 
ボランティアとは何か変だけど宗教的善意の行為なのである、だから宗教にかかわる仕事ともなる
ある宗教団体がトイレを掃除させてくださいとか実行した、それは宗教の行為として無償でしたのとにている

そういう楽なものではない戦場に医者が傷ついたものを治療するとかなると命がけになるからだ
そういうことができるのか?そこには意味と価値があっても簡単にはできないのである、まさに犠牲心がないとできない
すると何か軽く考えるボランティとはそれはまた違っているのである
ボランティアはいうとき何か誰からも認められて善人としてほめたたえられるという感覚になる
でも本当のボランティアはこのように犠牲心が要求されると、そしたら誰も簡単にできるものではない
つまりボランティアの問題はまた簡単に周囲から善人としていいものとして認められるからする
そうされると思ってする、そこにまた問題がある、自分なんかも駅でたまたま案内なとしたけどそうだった
でも結局なんら認知されなかった、ただそれは戦場で治療する命がけのものではないから当然だとなる

社会で働くという時働いたら必ず報酬がある、それは金をもらえるということである
だからともかく金をもらうために働く、不満でも働く、それでで社畜だとか言うようになる
一方で金をもらっても不満がある、この仕事には生きがいがないとか常に嘆いている
ただ一番不満なのは給料が安いということなのである
ただその仕事の価値とか意味とか感謝されたいとかはある
それで不満な人も多い、派遣で働ている人は確かに給料が安いから不満になる
でも働くこと自体にも意味と価値を感じられないのである
そこで二重に不満になる、もし給料が安くても働き甲斐がある、意味と価値が仕事にあるとしたらそうはならない、不満にしても何かそこで耐えられるものがある
でも給料は安い、働き甲斐もない、そこに価値と意味が感じられないとなればただ不満だけだとなる

いづれにしろ社会のこの矛盾は変えられないのではないか?

社会とはそういう所でありこの暗黒は消すことはできない、それがこの世に生きるということである
天国だったら神の国だったらそれが成り立つ、この世ではそれが成り立たないからこの世なのである、それは有史以来そうだったのである
この世はサタンに支配されるのであり神の国には決してならないからである
だからこそ神はこの世を滅ぼすというがこの世を天国に変えるとは言っていないのである
要するにこの世で必ずしも価値あること意味あることに労力が費やされるわけではないのである、それを求めてもサタンが支配しているからそうはならない
この世とはそういう場所でありそれが変わることはないとなる
いくら努力してもそうである、それがこの世だからである 
そうした理想が成るのは神の国でありこの世ではないからだ
それは人間にはできないからこそ神の国なのである、神が備えるのが天国なのである
この世ではそうした矛盾のなかで罪の中で生きるほかないとなっている

天国はどこにあるのか、人の心にあるというときもそうである  
「神の国は汝らの 中 ( うち ) に在るなり」内とはその人の心であり社会ではないのである、個々人の心に神が宿るとなるからだ
社会自体が変革して天国は成ることはない、それが共産主義が信じられない地獄になったことでもわかる、社会全体を変えて天国にすることができない証明だったのである
政教分離というとき宗教と一体化したとき社会が神によって理想の社会になるということだがそれはならない、かえって政教一致になるとカトリックのように権力をもって堕落したとなるからだ、宗教と政治が一体化することは政教一致は結局堕落して腐敗して終わるそれは歴史が証明している、なぜそうなるのか?

それは人間が変わらないからである、人間の心は変わらないからである 
政治化するのはこの世の欲望を政治で達成しようとする試みである
御利益をいくら言ってもそれが現実化しないと支持もなくなる、それで政治で御利益を配分しようとする、政治化するのである
そしてなぜ社会が変えられないのか?それはそもそも人間の欲望が消えることがないからである、それでこの世は欲で滅びるとしている、人間から欲が消えないのだから共産主義でも結果は同じだったとなる

いづれにしろボランティアがかえってむずかしいのはなぜなのか?

それは神の国を求めているからかもしれない、利益を求めない、意味と価値だけを求めるとしてもではそれを与えられるのかとなると与えられない
むしろ利益を求めることこそこの世では第一にされるからである
つまりいくらボランティアしようとしても善意でもそれは実らない
なぜならこの世は利益をあげる金にならないものは無駄だとしているからだ
金によってすべての価値が図られているのがこの世だからである 

「この金貨は神のものか、それともカエサル(ローマ皇帝を指す語)のものとして納めるべきか」と問われた時のエピソードは有名である。当時のユダヤ人はローマに支配されていたので、単純に「神のもの」と答えた場合は権力に歯向かうものとして問題が生じる。逆に「カエサルのもの」と答えた場合でも権力に阿って信仰を曲げたとして宗教的指導者としての沽券が傷つく、つまり非常に答えにくい質問であった。これに対してイエスは、金貨の銘がローマ皇帝であったため「神のものは神のものに、カエサルのものはカエサルに返せ」と答えたとされる。

カエサルのものというときそれはこの世のもののことである、神のものというときこの世に属するものではない
意味とか価値を求める時、それは神のものであり神の国を求めることである、神の義を求めることである
義とか価値とか意味なのである、カエサルものというときそこで得られるものは今の世で得られるものである
それは利益であり金で得られるものになる、金で得られないものがまたある、愛とか意味とか価値とかは金だけで得られないのである根本的にこういう矛盾があるときこの世では解決しえないものだとなる
だからこういう矛盾にみんな苦しむことになるのがこの世だとなる

常に人間は矛盾してくるのは例えば宗教を求めて宗教者になったとしてもではどうして暮らすのか?それも布施にたよるとなるとそこに欲が生まれる
それでカトリックでは免罪符を出して金儲けした、それと同じことはカルトでも仏教でも行われている
それで天からの贈り物としての食料でもマナが必要だとなる
それは神から与えられたものだからである、人の手によって与えられたものではないからそれによってけがされないのである
この世では必ず与えられるとしても汚されるからである
結局この世に生きるかぎりこうした矛盾の中に生きることになる
そういうことを人間は繰り返してきたのである
でも結果的にその矛盾は解決されなかった、それは人間の欲望を消すことができなかったからである



2019年07月23日

北海道の花の俳句十句 (パソコンの俳画)


北海道の花の俳句十句 (パソコンの俳画)

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夏菊や洋館坂に望む海

苫小牧ルピナス咲くや船に着く

風荒し駒ヶ岳にそ岩袋  

煙はく樽前山や藪甘草 

一列に菖蒲の畑牛舎かな  

農家ありポプラにこぶし北海道

針葉樹に延齢草や北の森

霧流れ磐にしるしぬ東菊

大雪にエゾコザクラや残る雪

エゾキクや鉄路のつづき北海道

ぼうぼうと紫菖蒲や霧の中

雨にぬるハクサンチドリ宗谷かな

熊の湯やエゾリンドウに羅臼かな

中腹にムシャリンドウや羅臼岳

磯菊や海風強く留萌かな  


北海道は十回行った、だから第二の故郷である北海道だけは日本では異国なのである
空気まで違っている、だから船で苫小牧に来たときすでに空気が違ってることを感じる
そこにルピナスが咲いているのもそうである、この花は普通は本州では自生していないからである、北海道は寒帯の花が咲く、それで宗谷岬にハクサンチドリが咲いていた
これは高山植物だからである  

シラネアオイとかも高山植物だけど平地に咲いている
その他檜扇菖蒲とかも平地に咲いている、北海道は花がきれいにみえる
やはりまだ未開拓の地という感覚あり広いからそうなる
この辺では飯館村に咲く花が何か純粋に見える、草むら深く咲いているからである 

登別の方に行くところに樽前山がありこれは煙をはいている、広い牧場があり藪甘草が咲いていた、それから畑に一列大きな菖蒲が咲いていた、牛舎がありいかにも北海道的である

富良野に自転車で春に行きついた時芦別岳が印象に残った
銀色に雪におおわれていた、そして赤いチューリップが印象的だった
こういう風景に出会うのは電車ではない、ただ正直疲れる旅だった

富良野にそ我が着きにけりチューリップ銀色の雪に芦別岳見ゆ

I have reached at length in Furano by bicycle
And I saw Mt. Ashibetsu covered with silver snow
It was impressive with the red of the tulip

この光景は神秘的だった、ただ旅というのは記憶していないとそこに行ったことすら忘れる、すると行ったことにもならなくなるのである
十年とか二十年とか三十年でもふりかえり記憶していれば旅を回想のなかでできるとなる

富良野から美瑛とかを回りはるかに稚内まで自転車で行った、その時は春であり稚内で桜が咲いていたことには驚いた

アポイ岳は低い山で常に霧がかかっている、その日高線は暴風で高潮で破壊されて不通になっている、いつ再開するのかわからない、見通しが聞かないからだ
その終点の様似からアポイ岳に登った、そこが高山植物の宝庫なのである

アポイ岳は、海岸に近く、特に夏期、海上に発生する濃霧がアポイ岳を覆って日射をさえぎり、気温を低下させ、また、海岸からの強風などが、植物に対し耐寒性を要求することになり、多くの高山植物を生殖させる要因となっている

羅臼はエゾリンドウである、これ太いのである、そして熊の湯という露天風呂があった
その場にふさわしい花がある
樽前山では広い牧場があり牛舎があり大きな菖蒲が一列に畑に咲いていた  

それから日本海側は磯菊が一面に咲いていた、そして留萌とかは風が強い場所だったのである、何か記憶をとびとびになってしまった
だからこれはまた付け加えることがある
記憶をたどりや一つの作品に連作をする、ただ俳句だけでは表現しにくい
そもそも北海道は俳句になじまない、広いからである、俳句はやはり本州から生まれたものだと思った
風土と関係していたのである
詩にもしている、詩はまだほとんど出していないのである、この作品はまだ完成していない、つづきがある   

 圧倒的なスケールの大きさ!北海道の花の名所23選

北海道で花が映えるのは広いからである、本州では北海道のように広い所がないから一面に花咲く光景が作れないのである



posted by 天華 at 20:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 北海道(俳句-短歌-詩)

巨悪が津波で暴かれた原発事故の真相 (原発の巨大利権に群がった人たちの国家の犯罪だった)


巨悪が津波で暴かれた原発事故の真相

(原発の巨大利権に群がった人たちの国家の犯罪だった)

「一号機では津波より前に地震の揺れで圧力容器や配管に損傷があった」と東電で認めた

地震で配管が壊れる、放射能がもれるということがあった
津波だけではない地震で迷路のように配備された配管が壊れるのである
この配管について東電の幹部の人など知らない、知っていたのは現場の労働者だった、
それで上の人にそのことを言うこともできなかった
なぜなら東電の幹部の命令は絶対だったからである
何か言うとやめさせられるから死活問題になり何も言えなかった
事故があったとき1000人もの電気関係者が働いていたのである
その人たちを事故があった時返したので何もできなくなったという

いろいろ検討すると原発は何か危険な割にはずさんなのである
なぜそうなっていたのか?そんな危険なものなのに危機管理がずさんだったのである
第一配管がまず壊れるというのは確実だったからである
このことで広瀬は指摘している

どうしてでは原発が日本に50基も作られたかのか?

●原発利権
●アメリカの軍事的要請(主権なき日本)
●地元の要求


まずなぜ原発が作られたのかとなると最初は読売新聞の正力松太郎がアメリカと掛け合って原発を導入した、テレビ局を作るためにアメリカのCIAの手先となり日本テレビを作ったのである、つまり一人の欲望のために原発が作られた経緯がある
その時あまり原発の危険性は検討されなかった
湯川秀樹博士がまだ原発を作るには時期が早いとしてとめたがすすめたのである
まだ日本は原発の技術が進んでいない、成熟していなからだった

そして科学者も賛成したのはなぜか?

それも利権だったのである、研究費を出してくれるのが政府だから学者も御用学者となり原発を作ることをすすめたのである
どうしてしも原発とかなるとわからないから御用学者のお墨付きが必要になったからである、だから科学者でも危険なものでも利権があれば嘘もつくのである
でも今は専門化社会だというときそこが権力を握っているともなり従うとなる

そして日本はまだ独立した国ではない、アメリカに戦争で負けてアメリカ軍が日本に駐留しているように外国の軍隊が駐留している国は独立国ではないとなると日本は独立国ではなくアメリカの従属国でありアメリカの許可なしでは重要なことはできない

いくら脱原発を言っても米軍基地の問題と同じく日本側だけでは何も決められないようになっている
専門家に言わせるとアメリカ側の了承なしに日本で決めていいのは電気料金だけでだそうです

日本は独立国ではない、戦争に負けたときからアメリカの従属国なのである
なにかここに原発問題の裏の事情がありそれで原発は廃止できない
核武装としてのための原発がその備えとしてあるから廃止できないのである
人間社会は必ず表と裏があり原発となると平和利用だからすすめられた
でもその裏の顔は核武装のための備えとしてある
まさに人間社会はジキルとハイドなのである

そして原発は巨大利権なのである、事故後をみればわかるこんなに国民の税金が使われていいのか?
何十兆円もの金が使われる、除染でも実際は3兆円は無駄な費用だったというとき地元でもそう思う、その金は地元の建設土木会社に流れたことを前に書いた
その額が大きいのである、そして地元で老人が毎月水道とめられたとか電気とめられたとか苦しんでいる人がいる、そういう人には金は回ってこないのである
清水建設でその困窮者の息子は除染で働いたが幹部だけが上の人だけに金がばらまかれたとなる、だから地元でもそういう人が復興に役立つことをするならいいがその利権にあづかるだけだったとなるから腹正しいとなる

それは地元の敵なのだが地元では別に関心がないし何か言うこともないのである
地元でも結局利権に食いつくことに懸命だっただけだともなるからだ
南相馬市では鹿島区が割を食ったから不満なのである
完全に差別されたのである、医療費が原町と小高では今でも無料なのである
鹿島区は半年くらいで打ち切られたのである、最近高速を無料化したのである
これも相当な差別だったのである
それで南相馬市はまとまらなくつなったのである
3兆円も除染費用を無駄にしたのならその分を平等に配るべきだったとなる

原発はなぜ廃止できないのか?            

なぜこんなに国民の税金をかけていいのか?

電気がたりないというのは嘘である、十分にまにあう、またこれからの発電はガスが主流となるとしている、小型化した発電を東電だけではない、普通の企業でできるとしているだから原発はあまりに危険だから廃止すべきなのである
でもできないのは日本がアメリカから独立していない、日本だけで決められないことがそのことを語っている
日本で決められないとしたら独立国ではないからだ
アメリカ軍が駐屯しているのもそうである、それは敗戦国だから70年過ぎてもそうなっているのである、だからここも変わり目なのである
憲法を改正していいかどうかは別にして独立国になるべく日本国民が自覚すべき時が来たとなる、ただそれはまた相当な重荷になるから覚悟が必要だとなる

私自身は別に右でも左でもない、ただ津波の被害とか原発事故の当事者になるからそのことで何なのか知ろうとしてきたし追及し続けてきたのである

知らないことは支配されることである

人間知らないことは支配されることである、しらしめすというのがそうである
知らなければしらしめられる、支配されるのである
政治家でも官僚でもマスコミでも専門家でもそういう人達に支配される
そういう人たちが利権を得る、利権のために魂を売る、それは学者でもそうだし
みんなそうである、地元の人でもマスコミでもそうだった
だからまず知ることが大事になる
また知らせることが報道機関で大事になる、むずかしいにしろそのことを怠っていると今回のように故郷にも住めなくなるのである

地元の人がただ上からおしつけられただけでそうなったともならないことは書いてきた
何しろ地元の人でも3兆円除染で無駄にしたというときその金は地元の建設土木業者に流れたからである、そういうことは他にもあった
それだけ原発はそもそも巨大な利権だった、結果的に国民でも税金で払うのだからその損失は莫大なものであり国民の大損失だったのである
でも国民自体がそのことで騒がないのである
それは原発がアメリカが背後にあり拒否できないとかある
そういう権力構図がありそこでそれに反対する者は排除される

何かここに大きな闇がある、渡部恒三議員などもその原発の利権を最も利用した人だったのである、そういう人が福島県のドンとして君臨していたのである
そのことを原発で明らかにされた、後は福島県の報道機関は新聞でもテレビでも雑誌でもなんにも役立たなかったのである
ただ利権を得たいというだけだったのである

そして地元の個々人でも欲望がふくれあがる、小高に原発ができると大工さんが景気が良くなるとか喜んでいた、それは双葉、大熊でもそうである、競って原発を誘致したからである、それも原発派それだけの利権があり金のなる木だからそうっないたのである
電気がたりないというのではない、別に今はガス発電の時代だというときそうである
電気がたりないといのではない、原発の闇はアメリカとも背後にかかわり大きな国の政治とか防衛の問題もからんでいるから廃止できないのである

いづれにしろ津波とか原発のことを延々と追求していたがその真相はまだ不明である
でも津波とかがその闇を暴いたともなる、悪がそこに露骨に見えてきたとなる
その悪は隠されていたのだけど津波とかが明らかにしたのである
でもその当事者は何ら責任はとっていないのである
国にしても司法とかでも検察でもかかわらない、責任を問わない、それは東電に官僚が天下りしているからである、そこで余裕の金をもらえるからである、その数も多いのである

国家的犯罪は巨悪は罰せられない!

罰するのは神だ!

こうなってしまうのである、誰も罰することがてきないものだったのである
つまりこれはもう国家ぐるみの犯罪だったのである、でも誰も責任は問われないし責任を感じていなのである
官僚でも政治家でも科学者でもマスコミでも責任は問われないのである
それは日本の戦争と同じである、やはり誰も責任は問わない、みんながしたことで終わりであるただ巨悪はこうして見えないのである、資本主義というシステムも崩壊しつつあるその時暴利をむさぼっていた数バーセントの人たちやり玉にあげられて訴追されるかもしれない、いくら巨悪でもいつか暴かれるとういことなのかもしれない
それができたのは津波とかの巨大自然災害が暴いたともなるのである
悪というのは巨悪になると見えない、罰することもできない、でもその巨悪の結果として必ず責任は誰かがとらされる
戦争では3百万人が死んで国民が責任をとらされた、原発事故では故郷に住めなくなったということで責任をとらされた
必ず責任を誰かがとらされるのである
国民の莫大な税金も無駄に使われたということでその責任は税金の徴収として国民に課せられる
電気料金があがるからだ、でも国民自体が真剣にこのことを自覚していないのである
右とか左の争いでもない、党派を越えた国民的課題でありそれに向き合っていないのである

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posted by 天華 at 11:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2019年07月22日

除染では3兆円が無駄だった? (真実を追求していなと国民でも住民でも大被害になる)


除染では3兆円が無駄だった?

(真実を追求していなと国民でも住民でも大被害になる)


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「お金ならなんぼでもある」除染で“利益率”5割超…“国民負担”3兆円の闇

 

  • 役員報酬77億円…従業員100人の除染会社の実態
  • 会社幹部「お金ならなんぼでもある」
  • 元請け幹部と結びつき独占的に1次下請け受注

除染というのは何か効果があったのか?
今でも溜池の除染をしている、でも溜池でも周りからまた放射性物質が流れてくるとしたら効果があるのか?
徒労のような気もする、でも莫大な国の金が使われている
3兆円減らすことができたというのは本当だろう
ゼネコンとか地元の一部の土建会社に流れた
それでその金を湯水のように使ったというのも地元でそれを許せるだろうか?

そういうことを地元の雑誌でも新聞でもあまり指摘していない
何かそこに土建会社からなどの苦情がくるから記事にしないのかもしれない
地元の会社の悪口は言いにくいのかもしれない
それは船主が東電から多額の補償金をもらって原発御殿を建てていたというときからあった
それを指摘して批判している人はマスコミでも地元でも新聞でも雑誌でもなかった
まずできないのである、漁業組合だって強固な利権団体であり批判できない
何か利権団体に抵触すると必ず抗議がくるからテレビでも放送禁止用語に指定される

板前さんやおまわりさん、運ちゃん、坊主、土建屋、町医者、郵便屋さん、潜水夫、パーマ屋、床屋、散髪屋、日雇いなんてのも放送上適切ではない、放送倫理規定に反する言葉とされます。

この背後に必ず団体とか組合が存在するからその組織団体から苦情がくるから何も言えなくなる
そういうことから今回のような原発事故とかが起きて故郷にも住めなくなったとかの大被害になったのである
まず原発事故前だったら漁業組合が強固だからとても漁業権を東電に売り渡していいのかとか補償金をもらって悠々暮らして豪邸たてていたなど言えない
そしたらどうなるのか?
身の危険に及ぶ、組織とか組合は利権団体は暴力団とは違っていても何か権力をもっているから怖いものなのである

なぜ三兆円も除染で無駄にしたのか?そのことを国会とかでも追及できないのか?
自民党とゼネコンは一体だったからだとなる、利権で結びついていたともなる
そこに公明党も利権として一体化していた、第一国土交通大臣が公明党なのだから利権を得る場にあったからである
そしてもともと大成建設とかと創価は強い結びつきがある、それで選挙の時票をいれてくれと頼まれて大成建設社員が運動していたのである

こうして利権団体があり選挙でも利権で固めちれていて決まるというときもそうである
それは野党にだってある、それが政治だともなるからだ

なぜこれが問題なのか?

それはこの辺の復興に役立たなかったからである、ゼネコンに復興の資金がもっていかれたとなる、地元にはその金が一部の土建会社に流れて全部にはまわらなかった
復興資金として利用されなかったからである
だから地元の人も怒ればいいのだがそれもない
そして結果的に地元が疲弊してゆくのである
この辺で南相馬市では補償金の分配でももめた、それで南相馬市は一体化できなくなっただからそうした金を利用して平等に配分すればそういうこともなかった
そういう政治が成されなかったのである
そして暴力団関係者がここは国でやるからおいしいと言っていた
つまりおいしい所もゼネコンや暴力団にもっていかれたのである

その額が3兆円だった!

ともかくマスコミとか報道の役割はあっても果たせなかった、それはマスコミ自体が一つの利権団体であり営利会社だから損することはしないのである
むしろ利権団体と結びつき利益をあげているのだ
例えば福島民報などは半分が県の出資であり新聞社内では創価の聖教新聞を刷っている
密接にこうして利権団体と結びついて利益をあげている会社なのである
こういう新聞社にもう何か真実を追求するものは皆無である
だから新聞をとって金をはらうこと自体無駄だとなる

何か住民にとって重大なことは報道されない!

東電で津波が13メートル級か襲うということを報告していたがそういうことも新聞でもテレビでも報道していたのか?
何か報道するにも隅の方で目立たなくしている
その結果として

大被害になる、膨大な死者が出た

そのことがすべて原因ではないにしろそういうことがあるから真実を追求していないと怖いということをこの辺では恐ろしい事実で知らされたのである
そういうことはその場所に住んでいる人たちに大きな災いとなってふりかかってくる
だから見逃すことはできないのである
でもそういう意識が住民にあるかとしたらない、それでただ関心もなく見逃していると後で大変なことだと気づいたのである
民主主義では報道の役割が大きいのである、ます知らされなければ知り得ようがないのだから何も言えないからである
でもこうして大事故があり大犠牲があっても遅いとなる
津波で死んだ人の数が膨大であり放射能の被害からも回復できないとなったからである
その前にすべきことがあったが時すでに遅しとなっていたのである 

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鹿島区の二つの公園で放射性物質が埋められた、これは南相馬市内で埋められている
ただ一時的であり後で掘り出すとしている
でもそれがいつになるのか?
この放射性物質をどこで処理するのか問題になる
でも公園とかに捨てられている、それでいいのか?
それで原町の方へ行くとこういう立て札があった
他でも放射性物質が埋められている、それは公園だけでないかもしれない
そういうものが後でどう影響するのか不明なのである

何か知らないうちに危険なことか行われている!

無関心だとそれが今回のように大きな被害として現れるたら怖いのである
何でも無関心なことが危険になるのだ
だから危険を知らせる役目が報道関係にあるのだがそれができていないのである
そういう報道でもそこに住んでいる人が関心もち育てない限りできないからである
でも実際はただ地元の利権団体と一体化して何も危険は知らされない
不正も知らされないとかある、ただなかなか地元に住んでいるとそこで波風がたつから
できないともなる
でも今回のように本当に住めなくなるという危機感をもつべきだったのである

posted by 天華 at 23:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

なぜ金がかかわると不純になるのだろうか? (インタ−ネットでも金稼ぐことのために不純になった)


 なぜ金がかかわると不純になるのだろうか?

 (インタ−ネットでも金稼ぐことのために不純になった)

最近インタ−ネットも現実社会と変わりなくなった、ともかく金を稼ぐことができるかと目の色を変えている
それはプログでもそうである、年収一億とか稼いでいる人がいたとしたらそんな人ありえるのかとなる、youtubeだといる、するとその金にひかれる人間が必ずいる
自分ももうけたいなとプログでもyoutubeでも始める人がいる
そして稼ぐためにインタ−ネットでもyoutubeでもテレビ化する、マスコミ化する
受けを狙う、そこで何かまた本来の趣旨と違ったものとしてインタ−ネットが作用する

youtubeの世界でも企業が人気のあるyoutubeを選んで雇い宣伝に利用しているという
それはマスコミとかテレビと同じになっているのだ
いくら人を集めるか、視聴率をとるかが最優先される
今までは個人で自由に発言していたが企業の宣伝として雇われる
そうなると本来の趣旨からはずれてしまうのである

ただ正直プログでもyoutubeでも何か人に見せるものを作るとなると時間がかかる労力が必要になる、プロのようになると労力と時間がかかる
だから片手間にやれるというものでもなくなる
そこでどうしても維持するために金を稼げないとできない
そもそも動機が金を稼ぐということからはじめる人も増える

何かそこでつくづく人間の矛盾は金がかかわると不純になる
でも金から人間は離れられないのである
だからボランティアというときそれは金にかかわらない自発的動機がありしている
すると不思議に純粋なものとなっている
駅でボランティアすれば動機は純粋であり住んでいる街の人のためだとか鉄道が好きで鉄道を維持したいからとか動機がありしている
結局誰にも認められず排斥されてできなくなったが動機がありその動機に金を稼ぐということもまた認められたいということもなく純粋に鉄道のために町のために自治体のために多少や役にたちたいというだけだった
でも全く認められないとか排除された、でも何かありがとうと外部から来た人には言われた、だから今はここに住んでいる人にはかかわらないが外部から来た人に案内したりする

なぜ人間は金がかかわると不純になるのだろうか?
純粋に何か目的があり別に悪いことでなくても金がかかわると不純になるのである
金が優先されて本来の目的が失われる、そんなことこの世の中に普通にある
だからこれは何なのだろうとなる
インタ−ネットは前はこんなに金がかせぐとかなかったしできなかった
それが今や世間と同じであり利益追求の空間となる
その時何か不純なものとして本来の趣旨からはずれる
とはいってもそもそもこのインタ−ネット空間を維持するものは誰なのか?
それは無料ではないからグーグルとかは宣伝費で維持できるのである
インタ−ネット空間自体を維持するのに莫大な金がかかるのだからそうなる
でもそこでグーグルに独占されるとかなって問題になった

いづれにしろなぜ人間は金がかかわると不純になり本来の目的からはずれるようになるのか?これは人間社会にとって変わらぬ大きな問題だと気づいた
例えば遊びでもそうなのである、遊ぶとは何か子供だったら利益を得たいということでするのではない、純粋な遊びとして追求している
それでチンパージ―に数を教えるとかして遊びとしてやらせたらそれに夢中になった
でも褒美としてバナナを与えたらそのバナナをもらうことに気をとられて純粋に遊びに熱中できなくなったという
これは人間でも同じである、金を稼ぐということが目的になり本来の趣旨とは違ったものになるのである、それはあらゆるところで起きているのだ
医者でも金を稼ぐためにいらない薬を与えたり金を稼ぐことで本来を体を直すということだが金を稼ぐ物として病人を見る
そういうことが社会では当たり前のようにある
でも金を稼ぐということを否定したら食べていけない、生活できないからすべて否定はできないのである

「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。
  そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」
   マタイによる福音書     
   
人間の社会はこうなっていない、まず金を稼ぐことを求めなさい、その目的と動機より金を稼がなければどうにもならない、みんなそうなっていて働いているのである
その働く動機が純粋であり目的がありそれを追求はしていないのである
また追求できないのである、そこに金がかかわると不純なものになるからだ
だから天国とは金にかかわらない、神がその動機が純粋ならその他の物は食料でも住む所でも与えてくれるという世界である

とにかく金を稼ぐということばかり頭にあると本来の目的が達せられないのである
だからある分野では教育とか福祉とか報道とか何か公共的なものでは金を稼ぐためにだけにさせると必ずそこは汚される場所になる
そんなこといってもどうにもならない、それが社会だとはなる
でも不思議なのはその人に働く動機がありその動機の純粋さを保ち目的を遂げるために働くときその人は一番おおげさにいえば神の意にかなっているとなる

だからインタ−ネットの空間は今やあまりにも社会と同じになってしまった
金を稼ぐ場所として追求される
でも金をもらえないと個人的に発信するにしてもできないことがある
それだけの労力と金も必要になるからだ
私の場合は余裕があるから金を稼ぐということにそんなにこだわらない
でも金が欲しいということはある
金から人間は逃れられないのである

ではどうしたらいいのか?
プログでもyoutubeでも見ている人はそれに賛同したりしたらやはり自主的に金を払うという仕組みが必要になる
でも人間はそうした情報に金を払いたくないのである 
私自身毎日見ているプログが一つだけある、でも金を払っていないのである、金を払う仕組みがあるが払っていないのである
でも新聞社とかは金をえなければ情報を提供できない
それで検索するとき必ず日本経済新聞社の記事がでてきて金を払わないと全部は読めないこれも検索に引っかかり安いから効率的ではない
また検索するにしても数が多いから無駄なものが上位にきて探しにくいとなる
いくら検索するにしてもこの検索することはAIでも限界がある
それは人間でしなければできないことがわかった
やはり専門分野の人が集まり情報を整理しないと効率的にできないのである

なぜか今日の一句一首に一週間くらいアクセスが増えた、でもページビューだから訪問者は増えないのである、でもなぜこんなに増えているのか?
相馬郷土史研究とあわせるともし一か月つづけばだか30万くらいになる
一週間くらいつづいていることも不思議なのである
そこまでつづくとなるとはありえないだろう
こんなにアクセスされたことがないのである
ただダブルことがあるから実数はわからない
ただ膨大な記事があるからそうしてページビューが増えても不思議ではないのが自分のプログである
これはロボットが来てそうなったとも思えないのである
ただ様子を見ないとわからないが今までになかったことである
なんとか今まで書いたことを整理しようとしている
それが簡単にはできない、ワードプレスとかやろうとしたがこれもできない
めんどうになる、何か年になるとめんどうなことができなくなる
若かったら挑戦していたからである
どうしたらプログとかホームページでも整理するのが今の自分の課題なのである    

 個人Youtuber全滅の危機!?今後のYoutubeについて思う事

ここでは企業がyoutubeに参入して個人youtubeはやっていけなくなる
企業には勝てない、個人は専門家を集めてやるほかないという
一人では自分もしているが限界を感じるからだ
ただ自分の場合は書くことはいくらでもある、種が尽きることはないのである




日本の選挙は民主主義は崩壊している (自民一党独裁であり政権交代ができない)


日本の選挙は民主主義は崩壊している

(自民一党独裁であり政権交代ができない)


日本の選挙はもう機能していていない、結局何も変わらないとして選挙に行かない
選挙に行く前から決まっているからだ
何か変えたいとしても変わらないとして行かないのである
自民党一党独裁が変わらないのである

消費税はみんな反対

でもなぜ自民党に入れるのか?それはもう国民の意志が政治に反映されない仕組みになっている、その受け皿がないのである、だから投票しても無駄だとなり投票しないのである若者も投票しない、数が少ないから若者が望む政策が作れない、老人は投票に行くから数が多いから変えることができないとして選挙に行かない
つまり選挙に積極的に行く動機がなくなったのである
つまりすでに選挙に行く前から大勢は決まっているのである
浮動票があってもその行く先がないのである
それからすでにどこでも利権で固められていてそうした組織的バックをもてないものは当選できない、もう選挙などしても無駄だとなる
選挙する前に決まっているからである
そして投票率が低いからち組織をもっている公明とかが有利になる、組織をもたないものは不利になり勝てないのである

だから日本の民主主義はもう機能していない、民主主義の基本として政権交代がある
それもない、自民党永久政権のようになっている、批判勢力を吸収する野党がない
日本の野党の問題はあまりにも中国よりになったりして偏りすぎるのである
それは民主党政権でそうなって終始がつかなくなったことでもわかる
つまり日本はアメリカに逆らうことができない、それが大枠としてあるとき野党は共産党のように極端になるからついていけないのである
だからアメリカのように定期的に政権交代する仕組みを作るべきだとなる
それでトランプがでてきたときあんな人が大統領になるのかと誰も思わなかったけどアメリカのことを知っている人は政権交代がアメリカではあるから民主党の次は共和党になると言って当選すると予想した
やはりアメリカで暮らしていたからそういうことがわかっていたのである

それにしてもさくらチャンネルで生放送していたげど1万くらいしか見ていなかった
選挙放送にしても少ないと見た、生放送だからそうなっているのか?
youtubeは生放送はまだなじんでいないのか?
テレビのライブ配信もしているがインタ−ネットではそれほど見ていないのである
選挙ではもう視聴率がとれないからまた芸能人のスキャンダルを放送している
それは結局選挙でも政権が変わるわけではないから興味がないのである
消費税は大問題にしても結局それも阻止したくてもできない
結果的にあきらめムードになり選挙に行かないのである

だから選挙自体もう機能しないとき民主主義も機能しない、それですでに自民党一党独裁化しているのだ、ただ補完政党の公明が半分くらいになればまた自民党で別な党との連携を考える、それもまだなかった
ただ野党でも公明でもそうだが共産党でも65歳の老人が多いというときもう団塊の世代が75以上になるとそういう党はもう維持できないとしている
あらゆるところで高齢化しているのである
そして新陳代謝がなくなり日本自体が疲弊化しているのである
つまり日本は衰退して後進国になり滅びるとか言うのはそのためである
改革できなければ世界から取り残されて衰退して後進国になりやがて滅びてゆく
もう外国人が3割くらいになると日本という国が維持できないとしている
選挙権をもちその外国人が国をのっとることにもなるという
それも本当にリアルなのである、そのことでもう外国人労働者が都会には多くて仲間になっているから日本人は入り込めないとか言っている人がいることでもわかる

そして日本語が通じなくなる!

これも恐怖である、それだけ日本という国が衰退して危機的状態にある
それはあらゆる分野ではそうである、日本という国体が維持できなくなりつつある
そして自民党一党独裁になり日本の民主主義は機能麻痺化している
だからテレビでは芸能スキャンダルを選挙より優先している
ただ戦前のように国の縛りがなくなることはいいことだという人もいる
政治はそれほど社会で重いものとならない、その方がいいという人もいる
でも国が衰退すると全体的に衰退して個々人でも衰退してしまう
それでもう外国人が3割とかなり日本語が通じくなる時日本という国はなくなる
それも恐怖である

いづれにしろ二大政党が政権交代として機能させるために小選挙区制にしても機能しなくなった、一党独裁国家が日本なのである
だから政治改革もできない、選挙にも行かない、そして高齢化して日本は衰退して滅びるとかるのも怖い、常に時代が変わり改革できないと世界から遅れて三流国家に転落する
ただ政治は停滞しても経済の分野では容赦なく改革が迫られる
銀行が大リストラされるのもそううだし会社自体が維持できないからそうなる
そこでは個々人がその責任をとらされるのである
政治家は責任をとらなくても今度は国民が責任をとらされる
貧乏国家となり日々の生活もままならなぬとなってしまうのである
戦後70年でそういう大改革の時でもてきない、それで日本国家自体が崩壊してゆく恐怖である、だから選挙という手段では改革できない、そこで何が起きてくるのか?
何か外圧とか内部でもどうにもならなくなったとき暴力とかが大きなデモでも起きてくるかもしれない、つまり選挙には絶望しているからである
そういう危機的な状態になってくるのが2020年以後である
posted by 天華 at 09:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2019年07月21日

平和な時代から動乱の時代へ (緊迫する韓国情勢をまとめる)

平和な時代から動乱の時代へ

(緊迫する韓国情勢をまとめる)

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2019年7月19日の深夜3時頃に、韓国ソウルの鍾路区にある日本大使館が入居するビルに 
78歳男性が車ごとつっこみ大爆発事故を起こした。 

男性が突っ込んだ車からは、ガソリン入っていた容器が2個、液化石油ガス20個、ライターなどが見つかり焼身自殺をはかったと見られる。 
男性は一命を取り留めたが、重傷を負い病院に搬送された


文大統領も娘家族をタイ王国に送り出したのです。タイは暫定軍事政権ですが、韓国よりもはるかに暮らしやすく、国民性は優しく温和。世界各国から多くの観光客が訪れる安心安全な国です。文大統領の権力は永遠に続くものではありませんから、大事な娘家族は韓国にいては危険だと感じ取っている表れです』と指摘する


韓国情勢は緊迫している、でも日本では日本大使館につっこんだ車のことは放送されない何かかなり緊迫してきている
文大統領が危険を感じて家族をタイに避難させたことでもわかる
何か米中の貿易戦争でもイランとアメリカの対立でも危険になる
2020年とか動乱が起きるとか地震とか津波が南海トラフで起きるとか不穏なことを言う人がいた

そもそも日本でも世界で動乱の時代に入ってきた
それは東日本震災の津波の被害から発火点だったのである
そして今度は外交問題で米中対立で貿易戦争になる

日本と韓国の半導体の争いもアメリカが背後にあり中国に半導体を輸出させないとして日本がアメリカの許可のもとにしかけたとなる
なぜなら中国でも韓国経由で半導体を仕入れていたされるからである
それで中国と対立するアメリカが日本を通じて中国に圧力をかける

【北京=時事】中国国営新華社通信によると、韓国サムスン電子が中国陝西省西安市で建設を進めている半導体工場の2期工事の総投資額が、140億ドル(約1兆5400億円)を超える見通しであることが分かった。2期工事は昨年3月に着工し、今年7月に完成、来年1−3月期の量産開始を予定している。

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中国とアメリカの貿易戦争でこれもアメリカに警戒されて日本がフッ化水素の輸出をとめる、すると中国でもスマホとか通信関係に影響する
つまり徴用工だけの問題ではない、中国もからんだアメリカの圧力があってこうなった
日本だけでしたことではない、だから事が重大なのである
日本だけだったら韓国でも対抗できるが裏にアメリカがかかわっていたらできない
現実にアメリカは仲裁もしないて応援していないからだ

アメリカが北朝鮮主導で統一を図ることを望んでいるというのも意外である
韓国は政治が不安定だから北朝鮮の方がいいとされるのも見方としてある
それで韓国は消滅するとかなる、北朝鮮が消滅するのかと思ったから韓国が先に消滅して北朝鮮によって統一される、それは高句麗の再現だと言う

百済が高句麗と戦い負けた、百済には武寧王陵がありそこを訪ねたことがあった
中国の南朝と結び煉瓦作りの王陵を遺した、そこには銀の匙まであり中国の影響で華麗な生活をしていたのである、そこには男性の王は金の棺に王妃は銀の棺に入れられていた
そしてその棺にコウヤマキが使われていた
それは日本製であり日本がでしかとれないものだったのである
そこに興味をもったのは金銅双魚佩が私の住んでいる近くで古墳から発見されたからである、これは東北ではめずらしいものだったのである
それが武寧王ともつながりがありそこを今調べて書こうとしている

韓半島とは古代からこうして政治的文化的につながりが深いのである
渡来人も大量に来ている、百済と日本は一体だったともなる
そういう歴史があり半導体というとわかりにくいにしても技術的にも深いつながりがあるそこでその技術を廻って争いが起きたことも歴史の継続だとなる
ただここに強大なアメリカが加わったことが古代とは根本的に違う
それがさらに複雑なものとしている

ニュースは日々変化していろいろあるが意外とテレビではすべて放送されない
するとこうしてニュースを自分なり編集することがわかりやすくなる
でも暇がないとできない、それでテレビで編集されたものを見る
そして肝心なことが報道されないから偏った見方になるのである
何かニュースでも自分なりに編集するなりして消化する、それが情報社会で求められている、ただそうなると時間がかかるから普通はできないのである
そこにいくら情報が大量に出ていても消化しきれないという問題が生まれている
ただこうして自分なり編集して消化したしときやはり見えてくるものがある

いづれにしろ平和な時代が終わったのかと思う、何かもっと大きな動乱が起こり内外が乱れる、もう経済でも銀行はなくなるとかリストラとか平均収入が300百万以下になるのが普通だとか終身雇用がなくなること自体が大動乱なのである
結局戦後70年とか特別恵まれた平和な時代だったとなる
日本では特にそうであった、高度成長が終わり30年くらい停滞したが平和であった
そうした安定した平和の時代は終わり動乱の時代となる
そのきっかけが東日本大震災の津波と原発事故だったのである
そうして自分自身も大動乱を経験して四苦八苦したのである



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2019年07月20日

人間の才能はないのではなく活かされない (Love & Freedomの底辺労働者もそうである)

人間の才能はないのではなく活かされない

(Love & Freedomの底辺労働者もそうである)

人間の才能とは絵を描くとか文章を書くとか数学が得意だとか体力があるとか話がうまいとかいろいろ多様なのである
しかし何かしら才能ある人はいる、それが発見されないとか活かされないのである
Love & Freedomの底辺労働者を語る40くらいの人がそうである
この人の正体はわからないにしても

●しゃべるのがうまい
●精神障害とか犯罪者心理に通じる
●自らの実体験を語ることで訴える
●ニュースなどの解説に向いている

この人はしゃべるのがうまい、わかりやすく説明している、今日聞いたのでは年をとると比例して男はプライドだけが高くなる
そういう心理を説明されれば誰でも納得する
みんなそうであるからだ、10歳違った人がその年齢で判断して下に見るというのもおかしいと思った、何かその人に功績があればだが何もないとしたら年でその人を判断できないはずである
また結婚して子供を育てたとかでそれも社会的自慢になるとも思えない
価値はあるとしてもそれで人の優劣を決めることはできないだろう
ただ何もない者でも男はプライドをもっている、それが年をとるほどプライドが高くなるそれで年下の上司に仕えることができずやめる人が多いというのがわかる
おばさんにはそれほどないから若い人ととうまくやれるというのもわかる
このプライドはやっかいなものである
それが年をとればとるほど高くなる、だからただ年をとっただけでも偉いと尊敬されるべきだとなる、それはこんなに老人が多くなければ自然とそうなっていたのである
これだけ老人が多ければもう老人は何か特別なものがなければ尊敬されることなどないのである、老人はただ税金を使うだけの無駄なものだから早く死んでくれとなる

でも人間の才能は活かされないことが多い
また人間の才能は自ら発見されることも他者から発見されることもなかなかない
芸術分野で不遇な人が多いのはそのためである
天才を理解できる人は天才しかないというときその天才は一時代に数人だとしたらもう理解されない、いくら才能あっても理解されない、ただ次代に天才が出て理解されるとなる天才でなくても才能は活かされにくいし不思議なのは自らの才能を自ら発見されていない開発されてもいないのである
天才は別にしても何か才能でも自ら開発して発見してゆくことが必須なのである
ただ何もしないで天才になり楽器でもひけるとはならないからだ
それには過酷な練習があって才能が開くからである

この人は相当に才能がある、そもそも私立の学校に入り大学でも大学院まで出て臨床心理学士でもある、すると他の人よりその時点でも優れていたとなる
ただ文科系は実際の社会で役に立たない、それで就職できないとかなり自殺した人までいた、つまりそういう人は学者になれない、大学で就職できないとそうなる
実際の社会では必要としないからである
心理学が実際の社会でどう応用されるのか?それはほとんどないだろう
それで一時臨床心理学士として病院で働いていたがやめて底辺労働者になった
最初に歯車が狂うとそうなりやすいのである
20代でだいたい人間が決まってしまうというのはそのためである

ただ思うにこの人は才能があるのだが活かされないのである
ニュースキャスターとか解説者とかに向いている、説明とかしゃべるのがうまいからである、人間の心理とかにも通じているからいろいろな事件の解説に向いている
でもそういう機会が与えられないだけではないか?

機会が与えられず才能は活かされない

結局こういうことが社会には多い、自分自身もそうだった、今プログで作品を出しているが認められない、認める人がいない、ただ今までは発表する場もなかったが今はプログでしている、何か自分ながらいい作品を書けるようになったと思う
もちろんもう死ぬ時期なのだからその作品も高度なものでないとどうにもならない
何か私は何でも理解することでも遅すぎたのである

とにかくこの人はニュースキャスターとか解説者に向いているし才能がある
ただyoutubeとして金を稼ぐようになればその才能は活かされるともなる
だから外国など行って見聞を広めるとかすべきことはある
留学となると無料のがあるとして年齢制限でできないということは問題でも外国旅行は今なら安くできる、そういう点では恵まれている時代である
そして人間は一生学ぶことは終わらないのである
他の仕事でも精進することは終わらない、何でも腕を磨くことがあり終わらない
そういうことでなくても平凡なことでも仕事をもって何か社会のためになることをすべきだとなる
定年になって無用化されると危険なのである、認知症になりやすくなるからである
そういう場がまた与えられないことも現代の問題なのである

この人は大学に今さら行っても無駄だとか留学もできない、何しても無駄だというがそんなことはないのである
それはただ社会で金にならないから無駄だとしている
そもそも人生で学ぶことはいくらでもある、絶えず学ぶことが人生なのである
だからこの人はただ実用的なこと金になること社会で認められことに腐心している
でも別にその人なりの価値を追及する精進することが人生なのである
それは死ぬまで終わりがないのである
だから40になればなにしても無駄だとはならないのである
それは社会的には金にならないとしても人間の価値は金にならないものでも価値としてあるだからそれぞれの価値をの追求は死ぬまで終わらないのである
それでベーシックインカムがいいとなるのはそれぞれの価値を社会では金にならないとか価値にならないとかなっているがそれでもその人なりの価値を追及できるからこそいいのである
そういう時代にもなりつつある、だから40才なればもう何もないというのはおかしいのである

ただこの人は実際は演技しているといときそうなのか?
その辺はわからない、本当は絶望をこれほど言っても絶望していない
一筋の光明を見出そうとしている、それが人間である
女性にもていなというけど本当はもてているのかもしれない
何かそういう演技して共感を呼んでいるのかわからない
ただ40というのは人生の終わりが見える年なのである
だから人生は本当に過ぎるのが早いなとその年になると思う
でももう引き返せない、もう社会からはずれたものはそのままはずれてゆくほかない
でもその人生でも無益だと価値ないとかない
その人なりの価値を追求したものがありそれは充実した人生であったとなる
ただ他者がその価値を認めないだけだったのであ




posted by 天華 at 22:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育心理学など

なぜ選挙に関心を持てないのか? (直接的関係がないと関心がもてない―でも無関心は危険)


なぜ選挙に関心を持てないのか?

(直接的関係がないと関心がもてない―でも無関心は危険)


選挙でもそうだけで現代社会は広域社会でありグロ−バル社会である
そうすると人間の関心は村社会で生きていたような時代とはまるで違ったものになっている、あまりに広いから関心をもつのにもできない
ただ悲惨な事件でも我が身に及ばないならニュースはショーであり娯楽なのである
もしそういうことに関心をもつとしたら何かしなければならないとかなる
だから災害でも少しの金でも寄付すればかかわることができるとはなる
その寄付するにしてもその金がどうなったのかなど皆目わからない
それでその寄付金は寄付金を集める人に流れたとか肝心の被災者に届かなかったとかなっている
金の流れどうなっているのかわからないのである

この図は自分にかかわった人で自分が金をだした人への金の流れである

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困窮者は低年金でとても生活できない、40才くらいの息子がいる
その人は建築土木関係の会社に入っている
非正規とは違うからそれなりに収入はある
でも今南相馬市から青森の施設にあづけた、南相馬市では介護士不足で空き室があっても介護できないからだ、それはここだけの問題ではない、介護士不足は全国で深刻なのである、青森は仕事がない場所だからそういう人を引き受けている
そして40代の息子は独身であり保証人になっているからそこは安いとしてもその他金が請求されている
そして65歳以上の親が息子に金をせずる、前は近くにいたから弁当とか用意していたから食費とかもらっていたから良かった、青森の方に行った結果それがもらえないのであるそれでまたお盆で9日間休みになるとか困ったと言っている
これは非正規とか派遣でもその休みの間に金がもらえないと困るという人達がいた

そして自分がなにもしてもらえいのにその人は何回も食べることすらできないとか電気水道やガスがとめられるとか来る
そしてガス屋なのか張り紙されたとか言う、常に困窮している
それは年金はわずかでありとても生活できないからである
なにか4,5万くらいしか年金をもらっていない人がいる
生活保護がいいというがこれは簡単にもらえないのである
生活保護でも住む場所によって福祉サービスは違っているからもらえるとは限らないのである

このことが選挙と何か関係あるのかとなると関係はある
このことがまさに今の政治の問題としてあるからだ
年金問題、ロスジェネ問題、介護問題とかが深刻だからである
でも私が払った金の流れは見える、どういうふうに金が流れてそれが利用されて活きているか見えるのである
では選挙となると自分の一票がどうなるのかそれがわからない
それは金の流れと同じである

選挙でも争点がいろいろある、どれ優先課題にすべきなのか?
どっちにしろ同じではないか、政治は遠いから選挙に行かないというのもわかる
選挙日々の日常活動から離れていると感じる時、それは広域社会でありグロ−バル社会になるのとにている
あまにりも広い範囲で人を選ぶ、そして日々の関心事と結びつかないし無力感だけがある選挙に行っても何も変わらないとなっている
つまり現代の民主主義は範囲が広すぎるし日々の生活から離れている
議員にしても国政となると日々の生活から離れている、めったに直接会うこともできないだからギリシャのポリスだったら選挙があったとしても一万二万のレベルだったのであり直接民主主義で選んでいたのである
だから国単位になると広く大きくなると関心が薄れてしまうのである
日々の生活で困ることがあるがその生活から離れているから政治は遠いとなる

消費税は上げることは反対

これはわかりやすいからみんなそうである、でもそれだけで選ぶのか?
他にも国際政治問題とかありむずかしくなる
私は無党派だから選挙に行っても何か選ぶのが適当でありわからない
本当は私も選挙に行きたくないのである、どの人を選んでいいのかわからないのである
比例とか全国になると人気投票みたくなるのもわかる
広すぎでその人がどういう人かなどわからないからである

もう選挙を中心として選ぶことが機能しなくなって民主主義の危機だともなっている
ただどこでも日々生活して要望することはある
でもそれは個々で違っている
そして大事なことは関心をもたないことで原発事故のようなもう住んでいた場所に住めなくなるということが生じたから無関心は本当は怖いものなのである
でもあらゆることに関心をもてないのだ、それは関心をもつ範囲が広くなると関心がもてなくなる、それは金の流れでも広域化してグロ−バル化するとわからないのと同じなのである

ある人が関心をもたせることもむずかしい、それで大学生が選挙に行かせるためにボランティアして電話したが苦しいとなる、聞いてくれないとなる
それは自分も駅でボランティアしていたから痛いほどわかる
鉄道にはそもそも関心をみんな持たない、駅はどうでもいいと思っているからだ
別に困らないと思っているからだ
だから関心をもたせることは不可能だとなっている、だから何でも関心をもたせようとすることそれを無視することは危険である

一応話だけでも聞いてやる姿勢が必要である
関心をもたせようと努力する人はやはり何かが社会を良くしようとする善意があってしているからである
ただ何でもすすめるのがいいとはならない、カルト宗教団体などはかえって害になる
でも何でも無関心であることは本当は怖いことになる
それを原発事故でこの辺では痛いほど知った
自分自身全く無関心だったからである

国政選挙の問題はその関心が広すぎることなのである
日常生活から離れている、日々の生活は狭い範囲でしている、だから細部が大事になる
でも国政となるとそうした細部とは関係なくなる
それで一票投じるしもなにもかわらないとなるからだ
現実に駅でも行く先の表示がないとかささいなことでもJRに言ったら表示してくれたとか何か改善されたことがあった
だから何か困ったら言わないと改善できないのである
そしてささいなことでも改善されたら何か主張して言ったことが通ったとなり成果があったともなる
そういうことが政治にはほとんどない、国政選挙になると特にそうである
すでに大勢は決まっているのとかなり無力感だけが残る
若い人が投票しないというとシルバー民主主義となり老人が数で圧倒しているから老人に有利になり無駄だとなるのもそうである
数だけですべてが決められるから不満なのである
だから選挙とか民主主義は行き詰まっている、それで支持政党なしとい政党が生まれたのも時代である、何かここに入れるほかないと自分自身も思ったからである







posted by 天華 at 19:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

京アニ放火事件 (NHKが取材に向かっていた時起きた)


 京アニ放火事件

 (NHKが取材に向かっていた時起きた)


・NHKの取材で主要メンバーが集結 
・通常はカード認識式で一般人は入れない 
・今日は打ち合わせのため警備システムを解除 



これ話題になっているけど偶然の一致にしてはできすぎているとなる
用意している者がおおがかりなのである
だからその日に確実に犯行ができることを事前に知っていて用意した
わざわざ関東から来て犯行できることを確信していてその日に来た

まさかNHKがお膳立てしたとはありえないだろう

ということは情報がどこからかもれたとなる

ではどこからもれたのか?誰からもれたのか?

そこを追求することが大事になる


セキュリティの費用を減らしているというのはわかる
コストがかかるしそこに金をかけても利益をうまない
それは原発事故でも津波のことは13メートル級のものが来ると東電では予測していた
その備えができなかったのは金がかかる、コストの問題だったからである
百年に一度とかのことに備えられないというのもわかる
ただ建物も専門家からみて非常に危険なものだった

とにかくこの事件はなになのか?

41歳の独身で前科があり自暴自棄になったのか?

この年になるとそうなりやすいのである、人生をあきらめる人がでてくる

何かアニメにこだわっていたということも40才にしてはおかしいとなる

それは自分自身も社会からはずれておかしな方向に行ったからこの人はすでに犯罪者であり社会からはずれていたのである
犯罪者であれニートであれ社会から一旦はずれると暴走することもありうる

とにかく今回はNHKが取り上げられるのも何なのだろうとなる
NHKを批判して参議員に立候補した人もいた
NHKとは何かと話題になり批判がある
NHKの言うことはそのまま信じやすいのである
とくにテレビ世代の団塊とかになるとそうである
ネットを知らないそうなりやすい

ただ今はあらゆる雑誌でも新聞でもマスコミでも批判の対象になる
今まではうのみにしていたが批判の対象になる
マスコミとかは必ず偏っているのである
その原因が収入を会社の宣伝に頼っているから偏るのである
宣伝費を出す会社の悪口は書けないからである
そしてこれまではテレビでも新聞でも雑誌だって出すに金がかかっていた
今ならyoutubeでテレビ放送でもできるしインタ−ネットでyoutubeでライブ配信もしている、するとテレビの電波放送も必要なくなると見た

NHKがこの事件にかかわっていることはテレビや新聞やマスコミではわからない
また即時性でもインタ−ネットは早い
そんなことがあったのかと驚くことがある
これはインタ−ネットから拡散する

NHKでなんらか説明が強いられるかもしれない

偶然の一致にしてはできすぎている

現代はインタ−ネットで一億総記者になっている、自分もその一人である
だからこれは隠すことができない、NHKの偏向報道を盛んに言う人がいる
これはNHKにとっては苦しいことになると見た



posted by 天華 at 07:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2019年07月19日

何が異常なのか異常でないのか (金に対する態度の相違)


何が異常なのか異常でないのか

(金に対する態度の相違)


私が接した人間は異常である、自分自身も異常だった
でもなぜその人たが異常だったのか結婚して子供もあり普通の人である
女性でその人はなぜあんなに異常になったのか?
その異常性に気づいていない、なぜ気づかないのか?
異常性を認識できないのか?それは正常なものと対象的に見れないからである
例えば四角の石ばかりあれば四角の石しか認識できない
そこに丸い石が一つあればその石は異質なものとなり異常になる
日本人はそうして同質化しやすい、異民族と接した歴史がないから同質化しやすい
以心伝心でわかるとなるのもそうである

私がかかわった人たちは金がなくて困っていた
その人は金には恵まれていたから金で苦しんでいることはない
母親が三人変わったということが異常性をもたらしたのか?
そういうことはあるにしても60近くになってそれを言うのもどうかと思う
ただ長く直接接していないからその間に変質してしまった

金に関する態度は

おばちゃんは金があるんだから金にめんどうみてもらへ

こう言って血相変えて去って行った

もう一人の人は

私が入院している時家が留守になり大金を盗んだ

もう一人の人は事業に失敗して借金していた

金をよこせ、全財産を要求してきた

その額が大きいのである、こうして自分が病気であり介護しているとき責められて家はがたがたになった、ただそこには金を得ることしかなかったのである
相手のことなど全くかまわないのである
だから殺されるとも思った、金がなくて強盗に入り殺す人も普通にいる
わずかの金でもいる、現実に泥棒にも入られた
頑丈なダイヤル式の金庫が開けられていたのも不思議である
そこには金は入っていなかった、その泥棒が家に入ったとき物音がした
だから誰か入っているのかとも思ったがそのままにしていた
もしその人とあって顔を見たりしたら殺されたかもしれない
そういうことが報道されるからだ、金は盗られても殺されるよりはいいとなる
そんな人と争うべきではないと思った
そういう人は何をするかわからないからだ

奇妙だけど最後に来た人はまともなのか?
実際はまともでないにしろ金を要求するにしろこれまで経験した人たちからするとまともなのか?
とにかく一万とか少額を要求する、でもそれに見合った金である
水道が止められたとか電気がとめられたとかなり生活できなくなって助けてくれとなる
そしてその人は頭を畳にすりつけお願いするのである
それも今日食べるものがないからとお願いするのである

これも変なのだけど前の人たちから比べると正常なのかともなる

家にきて大金を盗むとかまた借金して多額の金を要求するのとは違うからだ
第一事業していた人の金の額は百倍も違うのである
そんな金を要求されて払える人がいるのか?
事業者同士で工面し合うことはあっても普通の人はそんな金都合できない
でもその人にとってはそれが普通なのであり正常なのである

もしこの人でも今日食べるものがないとなればわずかだから援助する
でも百万だとなれば簡単に出せるだろうか?
そういう金を普通に要求する、借金しているからそうなる
でももし今日食べるものがないとか電気がとめられて料理できないとなれば援助する
その人はこれまで贅沢をしてきた、そのレベルの生活をするために必要な金なのである
そんな人と付き合っていたらどうなるのか?
何千万とか普通に要求される、そして事業を成功したと見せるのである
そんなことに援助できるだろうか?
これも異常化した人間でありまともに付き合えない人である
ただその人が金がないとういことは周りで気づかないことがある

とにかく金で一身上でもめた、また回りでも原発事故の補償金でもめた
地獄の沙汰も金次第であり金から人間は逃れられない
これからますます日本は貧困化してゆくとき金のことで苦しむ事件も起こる
それはこれまでは日本はぜいたくな暮らしうしていたからそのレベルを落とせないからそうなる
事業した人でもレベルを落とせない、今日食べるものがないから一万貸してくれとかできないのである、プライドもあるからできない
その人はそうしたプライドがないからできるのである

人間はいくら困っていても今日食べるものがないから金を貸してくださいとかなれば一万くらいなら貸す、でも百万貸せとかなるとそれで終わりではないから付き合えないとなるでも事業して高いレベルの生活をしてきた人はそんな一万とかははした金なのである
そしてそんな金で頭を下げることなどしないのである
自分自身も頭を下げることができないのである
金持ちの姉妹が餓死したというときお嬢さんで育ったから他人の家にいってこんなふうにして頼めないのでそうなったのである

そうして頼み金を貸してもらうというのは盗むというよりはましである
何であれ盗むということは犯罪になる
そうして頭を下げて頼み借りることは犯罪ではないからだ
人間の正常と異常がわからないというときこうして人間を対象的に見るとわかりやすいのである、その人間の異常性が浮き彫りにされる
最後にあった人も最初にあったら異常であり付き合えたくない人である
付き合ってもいないだろう

でも異常な人たちとその前に接した時、この人が一番正常だと見えたのは本当に奇妙だとなる、普通はこういう人とは底辺とは付き合うなというのが普通だからである
異常な人と接してもそれが異常とわからないことがある
何か人間でも対象的に見ないとわからないのである
それは善悪でもそうである、善ばかりの世界だったら善を意識しないのである
悪があって対象的に善を意識するのである、だから何でも相対的に世界をみないとわからないとなる 

外交問題でも韓国は異常でも韓国人の方が正常だと思っているから日本を批判してくる
日本人が異常だとなる、何が異常なのか正常なのかの基準がない、ただ対象的に見ると異常だったとなと人間は気づくのである
家族でもいろいろ複雑な事情があって一様ではない、すると家族でも対象的に見ないとわからないのである
正直自分の家族も異常だった、でもその異常の中で自分は家族が死ぬまで暮らしていたのである
だから自分にとっては正常なのである、もうそれだけ長ければそれが家族なのである



古代の遺跡(a ancient ruin)

古代の遺跡(an ancient ruin)


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enlarge{クリック拡大)

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2019年07月18日

ロスジェネ氷河期世代(40才前後)の苦境 (金がなく結婚もできない、将来に夢も希望もない底辺)


ロスジェネ氷河期世代(40才前後)の苦境

(金がなく結婚もできない、将来に夢も希望もない底辺)

その人は建築関係の会社に勤めている、正社員なのか?派遣とも違う、一つの会社に勤めて現場に派遣される
今は青森に行っている、青森というとこの人の父親が介護のために南相馬市から送られた場所だったのである
その人が嘆いているのは安い施設に入れてもその後にたりない分が要求されることであるでも親だから金を出している
そしてもう一人その母親も困窮している、だから金をせびる
でもその人はそんなに収入がないのである
でも親に金をだしていることで感心するとはなる
自分は介護しても親に働いて金をやったことがないからだ
実際は結婚して子供をもっている兄弟がいるがその人は父親にも母親にもかかわらないのである

この人は40代でありロスジェネとか氷河期世代である
ただこの人は別に建築現場があっているからしている
他のサービス業を嫌っているからである
だから必ずしも不本意にその職業についているわけではないから事情が違う
一方でlove and freedomの「底辺労働者」テーマにして訴えているyoutubeの人は不本意についた職業だから派遣だから不満なのである
貧しくても結婚したいができないとしているからだ
この世代は現代の日本社会のブラックでありそれが社会を歪めている
世代によって運不運が大きいのが人間である
まず戦争中だったら特攻隊で20代で死なねばならなかった
それが嫌でもどうにもならなかったのである

つくづくこのyoutubeに私が関心があるのは人生をふりかえると40才が最後の転機だったことである、自分の人生は参考にはならない
普通の家庭環境では違うし何か特別恵まれていたからである
この人は不幸な家庭環境で育ったからである、でも大学を出ているからインテリなのである、子供の時親に特に母親に承認されない人は一生自信がなく育つというのは本当であるなぜこの世代が問題なのかというと将来60以上になると年金ももらえないとか今のままに貧乏をひきづるからである
そして独身が多いから頼る人がいないで孤独死となる、この人も身寄りがないから同情する、誰も助けてくれないというのは本当である
現代とは情が喪失した社会である、日本人にあった人情などなくなっている
それで金さえあれば未来を開ける、結婚もできると嘆いているのだ

この人がなぜこうした重圧感にあえぐのか?
それは40という年なのである、もう人生は決まったとなり将来がないと見る年代だからである、40というのはその人がもう何でも見える、決まるという年である
その年で結婚していないとか子供もないとかなると会社でも社会でも信用されないとなるこの世からはずれた人ととなる
私が言っているアウトサイダーをあてはめることはできない、それは特殊な才能があり芸術家のことなどをさしているからである
これだけ数が多いということはその人たち普通に暮らしたいのである
結婚して子供をもち貧しくても楽しい我が家をもちたいのである
それができないから絶望的になっている

知っている人も結婚はしたくないというが本音は違っているというのもわかる
結婚したくても金がなくてできないのである
金がないから収入が低いから女性が相手にしないのである
結婚して子供を育てる金銭的余裕がない、経済力がないからである
それだけ日本社会は貧乏になっているとういことである
これはますます深刻になり治安も悪化する

何か今日はアニメ会社で放火があり10人死んだのか大被害が出た

この犯人は41歳だった!

この人も何か40才という年で事件を起こした
何かこの年に問題があったのか?
40歳で人生にキレタのか気になる
まず40才から50歳になったらもう結婚もなにもない、人生終わりだとなる
私の場合は50歳からバックパッカーになっていたから終わっていなかった
そこでやっと見聞を広めることができたのである
だから別に40歳で人生が終わるわけではない
私は60から十年介護してそれからこうして盛んにプログで発表するようになったからだ長寿の時代は鼻開くのは60以降とか70以降にもなる、人生百年となればそうなる
そうはいっても40歳は人生の分かれ目となる
一般社会ではもうその行く先とか評価は決まってしまのである

それで底辺労働者として一生終わり最後は孤独死だとなり夢も希望もないとなる
私の場合は別にそういうことはない、今自分自身の時間は充実している
今まで貯えたものがあり詩などの創作に熱中しているからだ
学問でもそうである、孤独ではあるが最後に実りがあるなとつくづく思う
人によってその時期が違う、早い時期に才能を開花する人も天才もいるからだ
いつづれにしろ40歳前後は社会にとって大きな問題をはらんでいる
これもニートとかと同じように数が多いからそうなるのである
数十人なのかアウトサイダーなどは放っておいても何の問題もない
でも数百万人もいるとなると放っておくわけにはいかないからみんなの問題になるのである

posted by 天華 at 17:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

駅の入り口の自動ドアがしまるので風が入らない (住民が関心がないと何でも改善されない)


駅の入り口の自動ドアがしまるので風が入らない

(住民が関心がないと何でも改善されない)

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この入口のドアが自動化されている、開けると自動的にしまる
それで風が入らない
ただ電気自動ドアではないので簡単にあけたままに誰でもできる
でもJRの許可がないと勝手にはできないのである
おそらくJRに言えばそうしてくれることは確かである
高校生の見守り役にでも言えばJRに言えるからすぐにそうしてくれると思う


今日はむし暑い、それで駅にいたら風が入らないので暑い
入り口を自動ドアにしたからしまっている
開けても閉まるようになっているからだ
これが冬の時はいいが夏になると風が通り抜けないので暑い
改札のところは手動であけてそのままになる
だから風が入ってくるが入り口は入ってこない
風はぬけていかないから暑いのである

ただ入り口を開けておくことは誰でもできる
閉まらないようにできる
ただこれもJRの許可がないとできない
何か言うとまたうるさいとなるし今は見守り役の人がいるからその人が言うべきだとなるただ苦情を言うにしても住民とかは言わない
私が外から来た人にら原町行き仙台行きのホームがわからないから表示するように言ったのである
それがその場にいてそんなことがわからないのかと意外だったが外から来た人には良く聞かれたからそのことを言ったら表示するようになったのである

だから誰かがとにかく言わないと簡単でもできない
高校生の見守り役に言うか、住民が直接JRに言わないとだめである
自分はもう何も言えない、何かうるさがれたり駅長からにらまれているからである
また外から来た人は言えない、そこに住んでいないから言えない
一時的に来る人は言えないのである
不便でもなんでもあきらめるほかない、こんなものだとしてあきらめる
要望するにもいつも使用するわけではないからだ

つくづく何か不便になったり問題があっても住民自体が気づかない時があるし
関心もないなら改善はされない、別に簡単なことでも改善されない
そしてここでも

鉄道は誰の者なのか?

消費者と住民のものである

鉄道というときそれがJRが所有してJRのものだという感覚になる
だから住民でもサービスを受ける側でも乗せてもらっているから何も言えないともなる
でも海は誰の者かということでもと漁師の人が消費者のものだ
そういういって本に出していたことはそうなのかと思った
海は漁業組合のものであり船主のものになっていたからである
だから漁業権があり東電に売って多額の補償金を事故前も事故後ももらっているからだ
これもこの問題と多少にている

鉄道はJRのものだ

消費者のものではない

だから文句は言うな

こうまでなる
でも利用するのは住民であり消費者なのである、その利用する人にも権利がある
でも権利があるとしても利用する人がそれ相応の負担を責任をとっているのかというととっていない、ただ要求するばかりだったらJRでも勝手だとなるからだ
JRでも負担ばかりで損してまでやる義務がないからだ
海は誰の者か、漁業組合と船主のものだ、では権利があるとしてその責任はきれるのか?実際は権利を主張して海を放射性物質げ汚染されたのは漁業権を売った組合や船主にもあった、でもそのことを誰も追求しないのである

何か民主主義は住民が権利があるが責任もある社会である
住民が改善する意志がなければそのままなのである
いくら一人個人がこうしたらいいと主張しても誰も聞かないとしたらそのままなのであるかえってそういんう個人は無関心だったり排除されるのである
それは住民の責任もなるのである

いづれにしろ駅のことは実際はささいなことであり誰も関心がない
だからとやかく言っても無駄だしそのままでいいとなる
ただ駅にかかわったことは一つの経験でありここにも住民自治とか民主主義と関係するものがあったと自覚したのである


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時間に生きる時代 (空間を拡大して生きる何でも増やす時代は終わった)


時間に生きる時代

(空間を拡大して生きる何でも増やす時代は終わった)


時間は謎である、対象的に見る時、時間があれば空間があるとなる
この二つの軸の中で人間は生きている
空間は地球とか宇宙であり空間は物理的にも移動できる
大陸だと全く次元の違った広大な空間がある
果てしない大地が草原が砂漠がある
大陸では空間を生きるというときそれだけの空間があるからだ
空間をどこまでも広げることができる、それで大帝国が生まれる
どこまでも空間を進んでゆくことにより新しい未知の経験ができる
新しいものに触れることができる
だからこそまず大陸を移動する遊牧民が生まれ次に海を移動するようになったという説もわかる
大航海時代が生まれたのはそうしてまず大陸を移動する人たちがいたからである

一方で日本が時間生きるというときそれは島国として閉ざされていたからである
空間が狭いからである、空にしても大陸の空から比べると狭い感覚になる
そういうふうに狭い所で生きていれば時間を生きる
時間の中で意味を求める定着文明になる
空間を拡大することで大陸で国々の興亡があり歴史となった
日本の空間は島国という一つの宇宙であった
それで最果ての感覚が生まれる、どこに行っても海になりそこで世界が尽きるからである
ともかく時間と空間を考察するとき時間を増やしたり時間を貯えたりできないし時間を
拡大することもできない、空間だったら異次元の世界を現実に見ることができる
外国に行けば異次元の世界だからである
時間は例え外国に行っても異次元の時間など経験できないのである
異次元の時間とは過去にもどることだがそれはできないからだ
だから外国に行っても歴史があってもわかりにくいのはそのためである
空間を移動できても時間を移動できないからである

時間の謎は金より時間が大事だということがある
金は増やしたり貯えたり金をもっと得ようとして働いてできる、それが働く動機となる
一億円を得てももっと欲しいとなり安心もない、金があれば安心になるからあればあるほどいいとか使いたくないとかなる

時間は限られている

空間も確かに限られている、地球は限られている空間と認識されるようになった
それまでは地球は未知の無限の空間だったのである
時間は限られているしそれぞれの人の時間はいつか尽きる
時間が尽きたとき死なのである
この世に生きる時間は限られている
そして時間を増やすことはできない、でも時間を無駄にしたとき時間を減らしている
時間を有効に利用した時に時間は活かせることができる
しかし時間の無駄は浪費はなかなか気付かないのである
若い時は時間はいくらでもあると思う、それで退屈で困るとなる
しかし時間はある年になると消失してゆく、時間がなくなってゆくのだ

現代は時間に生きる時代になる、地球の空間の征服は終わったからだ
地球が一つの村になったというのもそうである
メデアの発達によって世界から情報が絶え間なく流れてくるからである
でも実際は空間でも世界は広いからそれを実地に知ることは今でもむずかしい
やはり一生の間で経験できない空間がいくらでもあるからだ

時間に生きるというとき時間を増やすことも貯えることも拡大することもできない
それが空間との大きな相違である
金は増やすことができる、多くの物をもつことができる、でも時間は何かそうした物として得るものとは違う、それでいくら金をもっていても時間の方が大事だったいう時
時間は限られているしその時々でできることをしないとできなくなる
時間を戻すことができないからそうなる
時間は何かをするために与えられている、その時間を失うことが最大の後悔となるのである
時間は何かを成すためにある、そうなるといくら時間があってもたりないのである
一つの作品をしあげるのに何でも時間がかかるからである

空間の時代から時間の時代になるいうとき金を第一として価値あるものから時間が価値あるものへの変換の時代となる
何故なら資本主義だと金をもうけて貯えて投資して増やしてゆくことだからである
時間には増やしたり貯えることができない
時間を節約はできる、時間を貴重なものとして使うことはできる
でも時間は目に見えないし物としてとらえることはできない、でも一番大事なものとして人生の最後に意識されるのである
なぜなら人間は何でも失ってみてその貴重さを知るからである

おそらく地球を空間的に拡大する時代は終わり時間に生きる時代になる
時間に生きるとは何か常に物を増やしたり金をためてまた投資して増やすという資本主義と合わないのである、それで銀行に金をためても投資する先がなくなって銀行が不用になるのは時代なのである
大航海時代から常に投資して富を得て拡大し経済でも常にGDPを増やすことであった
でもそういう経済成長とか拡大の時代は終わった、もう限界になったのである
これ以上経済規模を拡大すると増大すると地球環境の破壊とかなり限界に達したのである
そこで世界も空間を拡大するとか経済規模を増大するとかではない
時間を生きることにシフトするようになる
時間に生きるということは内省する、内面化する、内に向かう時代だともなる
何か増やすことではない、減らすことである
時間を節約して無駄な浪費を減らし内面を充実させることである
だから中世の時代にもどるということが言われるのである
資本主義の金を貯えて資本として増やしてまた投資するということができなくなったのである、その象徴が銀行が用がなくなったことに現れている
投資先がなくなったからである

そして時間に生きる時代となる

物事を深く知り深く感じて多様に見て感じる

そういう世界になる、一定の場所に定着していても物事を事物でも自然でも深く見て感じることができるからである
内面的に充実させることができるのである
それこそ宗教の世界だともなる、そもそもキリスト教はアジアから生まれたし宗教はアジアからオリエントから生まれたものである
西洋化したキリスト教はまた別物だったのである
それでウェバーの言う資本主義がキリスト教から生まれたというときもそうである
神に奉仕するために働き資本を貯えて増やして富を得ることは人を助けることだということがそうである
でも今やそういうことは不可能になったのである、資本主義の思想はもう通用しないのである、だからこそ銀行は不用になったのである

何でも増やす時代の終わり

減らす節約の時代へ

何かもう増やすということに限界が来ている、人口だって世界的に見れば増えすぎた
日本では明治以降4倍になり中国だって4億が三倍になったとかある
工業化時代になり人口が爆発したのである
とすると人口が減るのは自然の摂理かもしれない、もうこれ以上地球に人口を増やして住めないという警告かもしれない、ただ減らす思想というのはなじまない
貧乏になるからだとかあるし日本では少子高齢化で特にそうなる
でも時代が変わったのでありそうせざるええなくなっている
月給も上がらないし経済は30年間成長していないとか世界的にも日本でも増やすことができないのである

するとどうなるのか?
内面に生きるとか内省するとか無用の用に生きるとかになる
それが東洋的アジア的価値観としてもともとあった、老子の思想でもそうである
インドの思想でもそうである、仏教はそういう時間に生きる思想だったのである
思想的にも西から東へと転換する時代になったのである
だから確かに英語がグロ−バル時代で不可欠だというのもわかる
逆に日本語をもっと知るべきだ、自国の文化をもっと知り深める時代だともなる

日本人はこれまで外来のものを明治以降制限なく入れてきた
でもこれからは日本独自のものを文化を作る時代になる
そしたら日本を知らなければできないことである
国風文化の再興にしてもまず日本語でも日本でも知らなければできないのである
それで日本語は世界で独特のものがあり他の言語と違っていると林秀彦が言う時日本語の独自性を知るべきだとなる
言葉は最大の現存する生きている文化だとなるからだ
資本主義の勤勉に働き資本を貯え増やしてまた投資して増大してゆく思想が通用しなくなったのである
むしろ節約して減らす、時間に生きる時代になる
だから何でも拡大して増大してゆくグロ−バリゼーションとか資本主義の思想とは相いれない時代になる、それは限界に来たからである
ITにしても物を増やすことではない、情報を増やすことでありそれは今までの資本主義とも違っているのである
精神的な面での技術革新だともなるからだ



2019年07月17日

野馬追い迫る 〈通りに旗が立つ)


野馬追い迫る  〈通りに旗が立つ)

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白い馬は神の馬となる、これはそうなのか?

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これは南北朝の時霊山から逃れてきた只野氏の旗印である


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これは何なのか?

キノコのようにも見える、何かわからないのが本当に多い

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立葵咲きて野馬追い近しかな

立葵馬に向かいて咲きにけり 

野馬追いの出番を待つや白き馬

野馬追いの旗立つ通りはなやぎぬ

ノウゼンや通りに旗立ちにぎわいぬ

ノウゼンや千騎の旗のなびきけり


赤に白畑に咲きぬ百合の花馬を放ちぬ牧もありしも

御行列古式ゆかしくつつづくかな青田に映えし旗のなびきて



鹿島地区

原町(雲雀が原―神旗争奪戦)


野馬追いの旗が通りに立った、野馬追いの見方として旗印が多くて地元の人でもこれが何を意味しているのか未だにわからないのだ
何か調べようもないのである、なぜこれほど数が多いのだろうか?
そしてなぜこの旗印がわからないのかというと行列を見れるのは短い時間である
一時間とかである、するとすぐに通り過ぎるからゆっくり見れないから写真にもうまくとれないのである
地元の人でもこの行列を見れるのは一年に一回なのである
すると地元の人でもその旗をじっくり検討することができないのである
野馬追いは旗祭りなのだけどその旗が何を意味しているのかわからないのである
私も調べてもほんの一部しかわからないのである

野馬追いの旗は昔から侍の家に伝わったもの

新しく作ることはできない

歴史の保存で新しいものは作れない

野馬追い祭りの特徴は歴史の保存であり歴史に忠実な再現なのである
だから勝手に新しい旗を作って侍の家でないものが出れないのである
そこで地元の人にすると盛り上がらないとなる
勝手に参加できないからである
でも去年は黒いイスラム系の人が野馬追いに出ていた
何か結婚して出たのかもしれない、普通はよそ者は出れない
青森のネブタ祭りは飛び入りで誰でもハネトになれる
それで街中が熱気に満ちるのである

とにかくこの辺では馬を飼っている、牧がある、でも一年に一回の野馬追い祭りのために飼っている、すると金がかかるのである
でも馬のいる風景がここにはある
馬というのは競走馬を飼育しているとかそういう場でしか見れないのである
それで競走馬で皐月賞をとった馬を見に来た人がいた
その人はよほど馬に興味がありしげしげと見ていた

競走馬でも競争に出れないまた引退した馬は殺処分される、それでかわいそうだと生かしている、ただ賞をとった馬は大事にされるが他はされない
馬というのは機械ではないから競走馬でも情が移ってゆくからそうなる
馬と牛とか動物と直接接していると情が移る
それで飯館村で10頭の馬の名前を覚えたいた人がいた
名前を呼んで世話していた、でも肉牛として売られてゆくのである
馬とか牛に直接接していた時代はこうして情がはぐくまれた

クルマのことは書いてきたけど人間の情を断絶せる、キレルのがクルマなのである
そこでクルマ社会が人間社会にどれだけ影響したかそれを重大なものとして考えないのである、便利だから何でもいいものではない、その影響が大きいのである
テレビでドラマ作りしていた脚本家がテレビをあれほど批判しているのはそのためである人格まで変貌させる、クルマでも人格が変貌する
必ず「馬鹿野郎」と叫び交通事故が毎日のようにあるからぴりぴりしているからそうなる
子供の時から馬とか牛に接していた時代は情緒豊かな大人になった
今クルマに乗って育った子供はどうなるのか?
それが現代を見ればわかる、まともな人間に育たないとまでなるから怖いのである

野馬追いが迫りこの時季に咲くのが藪甘草にノウゼンカヅラである
この花が野馬追いににあっっている
これは数多く咲くからである、一日一輪咲いて散りまた咲き覆うからである
そして真夏に野馬追いがあるから熱気で満たされるからこの花があっている

今日はちょっと晴れて暑くなった、それで原町まで行ったけど汗をかいた
それからぐったり疲れた、頭が暑くなった
どうしても最近熱中症の症状がでてくる、それで夏は外に出ることが怖くなったのである
夏の盛りに野馬追いがあるからこれを見ることが危険になる
でも野馬追いは夏の祭りである、夏の雲が湧きあがるとき一番あっている
それで写真をとりたいとなる、でも地元の人でもすぐに行列がすぎさるからいい写真がとれないのである


posted by 天華 at 18:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 野馬追い関係