2019年07月31日

認知症の謎ー忘れるのはなぜなのか? (ただの暗記ではない、理解して覚えたものは忘れない!)

認知症の謎ー忘れるのはなぜなのか?

(ただの暗記ではない、理解して覚えたものは忘れない!)

アルツハイマー病治療薬の開発は「連戦連敗」を続けています。ウォール・ストリート・ジャーナルの記事によれば、過去10年間に世界中で行われたアルツハイマー病の薬の試験のうち99.6%が失敗しているということです

これだけ認知症の患者が世界的にも多いのだからなんとか直そうとしている
薬も発明しようとしているができない、何か絶望的なのである
結局それだけ脳があまりにも複雑すぎるのである
それは神の領域にもなる、脳が一番複雑なのは精神と一体化しているからである
第一精神は目に見えないものとして意識する
ところがこの世にあるものは目に見えるものとして人間は意識させる
原子がアトムは目に見えないけど精密に数式化して化学式にして目に見えるものとして
現す、脳でも目に見えるものとしてとらえようとしている

だから海馬が一時記憶する場所としてありそれが老化で確実に衰える
自分自身でも老化していることがわかる
つまり名前が覚えられないのである、新しい人の名前が覚えられない
でも昔覚えた人の名前は覚えているのである
これも海馬の機能が衰えたからだともなる
芸能人の名前でも昔の人は覚えているのである
でも今の人の名前とかどういう人なのかは皆目わからない、また見ていないせいもある

「理解して覚える」ということである。「なるほど、だからこうなるのか」というように理屈で覚えたことは、長期保存庫に移って忘れにくくなる。それに対して、意味も分からず丸暗記したことは、たとえその場では覚えたつもりになっていても長期保存庫に移行しないためすぐ忘れてしまう

記憶することは最初は丸暗記である、その意味もわからないのに暗記する
それは英語の単語とかには有効かもしれない、でも算数とか数学では暗算のように覚えても忘れてしまうことがある
そこで分数とか掛け算とかは何かを理解する、ただ暗算するのではない、その意味を理解するのである、例えば15×12は(10+5)×12であり10×12+5×12であり120+60となり180となる、何かこうすれば暗記として計算するのではなく数の性質を理解して解いたとなる、でもこれを計算機でするともうもし計算機がないと暗記したものを忘れるとできないのである
実際には私は数学が苦手だからこれを計算できない、でも理屈として数を分解するとわかりやすくなりできるとなる

「なるほど、だからこうなるのか」というとき理解するのである

とにかく認知症は薬でも直せない、医者に行っても実際は直せない、医者自体が認知症のことを知っている人が少ないのである
一番知っているのは直接介護した人なのである
海馬が損傷して衰えて記憶できない、そこから感情的になり激怒するようになる
海馬と感情を司る偏桃体が結びついていることも影響している

そもそもなぜ認知症になると数の計算ができなくなるのか?
それは数というものがどういうものか理解できなくなる、理屈として理解できなくなるからではないか?つまりただ暗記したものは忘れるのである

だから今の教育は受験勉強など暗記ばかりに励むのは実際は算数でも数学でも理解していないから忘れるということがある
別に忘れても数がこういうものだと理解していれば数をわかりふぃすい単位に分解して理解できるともなる
私自身の経験としてこうして算数でも数学でも自ら考えて考察したことがなかったのである、またそのように教えてもらえないことがあった
ただ暗記ばかりが勉強になっていた、そして高度になると本当はじっくりわかるまで自分の理解できる範囲で理解することが必要だった
それができないので数学が苦手となり数式を見ることも嫌になったのである
これは考えることの訓練なのである、数学も考えることの訓練としてやれば面白かったし理解できたとなるかもしれない

要するになぜ認知症の人が計算ができないのか?
それはただ無闇に暗記していることは忘れる、それがある
教育の方法が悪いと実際は勉強にも興味がもてないのである、数学でも能力がなくても
何か手法というか数の原理というかそういうものを知れば興味を覚えて忘れないともなるそれで英語にしても文法が数学とにていて数式のようになっているから原理として覚えてそれに単語を付け加えて覚える
そういう作業が必要だったのだと思う
ただ認知症の人はそうして合理的な理解力もなくなっている、ただ数学の先生でも認知症になっているからその人が数学の理解力をまだ保っているのか?それも興味がある

教育ということに私自身興味を持っていた、教育とはただ暗記させることではない、
算数でも数学でも考えさせるもはのとしてある、そういうふうなものと学べば能力がなくても何かまず興味を覚えたとはなる
つまり天才でもないものはそうしてすぐに理解できないから理解する方法が必要だったともなる
だから教育には創造的教育が必要でありまた自ら創造的に学ぶことが必要なのである
ただ正直あらゆることに人は通じることはできない、そこに教育の限界がある

ただ絵の才能が全くない自分がなぜ抽象画を描けているのか?
ソフトで描けているか不思議だった、それが大量生産できるのはただ数式のように同じ手順でソフトを使い作りだしているのである
それは自分自身が絵の才能が全くないのに絵を描いている感じになるのが不思議なのである、だから生まれ持った才能だけではすべて決まるわけではないと今さらながら思ったのである
暗記させる教育は教育ではない、英語の単語などはしかたないにしろ算数とか数学はそういうものではない、ただそれはあくまでも数学が苦手な人のためのものである
別に数学の得意な人はたちまち理解するとなるからだ

いづれにしろ認知症というとき脳が老化によって退化することでもある
誰でも新しい人の名前を覚えられなくなるのである、それは共通しているからである
海馬の能力が衰えるのである、でも理解する能力は増してくる
なぜなら知識でも理解力でも今まで貯えたものが活きてくるからである
それはあくまでも暗記したものではない、理解して記憶したものだともなる
とにかく老人になると理解力が高まる、それで評論が向くようになる
評論は一段と高い視点から本でも読むことだし社会でも見ることになる
こういうことは若い時はできないからだ、とても本を読んでもそれを評価することができないのである、本はそれだけなんでも内容があるからそうなる
ただ別にインタ−ネット上にあるものでも理解できないのである

理解して覚えるということが忘れないという一文を読んで自分も共感したのでこうして書けたからである、自分の論をこの一文を引用して展開できたのである
だから引用してもそれはただの引用ではない、それを自分なりに独創的に展開したとなるのである
そして理解するには文章を書くことだと思った
確かにyoutubeでは話すことが主体となっている
でもそこでは深い理解につながらないのである、文章を自ら書いてみると理解することがある
それはインタ−ネットで自らこれだけのものを大量に書いた結果わかったことである
話を聞いてもそれは上辺だけのものとなり深い理解に通じない場合がある
だから文章にすべきであり本を読むべきだともなる、ただ知識は無限であり理解の限界がある
そして時間だけがまたたくまに過ぎてしまうのである
人間が理解できるのは極わずかだったとなって終わるのである


あとがき

私は何でも理解することが遅かった、学校にも適応できない劣等性だった、集団生活が苦手だった
でも人間に大事なのは自ら考えることであり理解しようとすることである
それはただ暗記していてはだめである、それは忘れてしまい役にたたないのである
理解して覚えるということである、それはあらゆる分野でそうである
あらゆることになぜなのだろうという疑問をもつべきである
それが科学にもあらゆる学問にも社会の理解にも通じるのである

何でも理解しようとする態度をもち耳を傾けることが大事

原発はむずかしいから理解できないとして専門家にまかせると専門家の言う通りになりわからないということで責任をとらされる、銀行でも株のことでも投資信託でもめんどうだから勝手にされて手数料だけとられて損する
専門家の言うままになり損する、その専門家が何でも知っているかと思ったら知らなかったのである
銀行員は株の事でも投資信託のことも素人と同じだったのである
そんな人にまかせたら損することはわかりきっていたのである
でも私自身が知ろうとしないとか時間がないのでまかせたのである

宗教にしてもそれをただ単純に信じればいいとかなるとヒットラーのナチスのようになる
それは人々が全く考えないことから起きた、ハイルヒットラーとなって盲従することから起きた
人間は弱い存在である、でも考える芦であるというのもそうである
自ら考えることができるものが人間の要件なのである

これまで天才のことなど考察した、それを教育のカテゴリーに移す、まとめる、教育はただまねるだけではだめである
自ら考えて想像する、創造することが理解することがないと身につかないのである

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冬の道、晩年の道


posted by 老鶯 at 17:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育心理学など

公務員の退職金も減らされている、給料も減っている (田舎の価値は金だけでは計れない、安定した職業も必要)


公務員の退職金も減らされている、給料も減っている

(田舎の価値は金だけでは計れない、安定した職業も必要)


公務員も苦しいとかやはり日本全体が落ち込んでいる
公務員でも正社員でなく臨時とかでも多くしている、その給料ではやっていけない
公務員はAI化しやすい事務的なものが多いからそういうことでも減らされる
公務員も安泰でなくなっている
この辺では原発事故で避難区域になった所では浪江とかでは激務でやめたいというのもわかる、こうなると公務員も楽な仕事ではないのである

公務員に興味をがあるのは家族が公務員だったからである、役所に勤めていたからであるそれで高度成長時期に退職した、その時2300万など退職金をもらっていない
一千万くらいだった、でもその退職金が貯金しただけで倍以上になっていた
7パーセントとか利子がついているからそうなったのである
その頃貯金していた人は本当に得だった、十年くらいで倍になったからである
今は銀行に貯金すると投資信託とかすすめられて利子をとられる
財産を奪われる、それはゆうちょでも同じだった
保険で金が奪われていたのである
こういうことは今までありえなかったのである
郵便局とか銀行は地域で最も信頼されていたからだ
公務員とにたようなものだった、公務員と郵便局と銀行と農協が地方で安定した職業だったのである

今例え2300万もらったとしても貯金してもその価値はない、価値が減ってくる
だから相当もらっているようでももらっていないのである
金の価値は時価であり物価とかいろいろな状況で変わっているからである
それて積立式の年金はだめだというとき今いくら金を積んでも年金をもらうとき数十年後には物価が違って金の価値もなくなる
100万積んでも30万とかなったりする、だから積立式の年金はだめだというのがわかる

公務員というとき年金は最初18万もらっていたから高かった、地方では最も高い
でもやがて16万になったからそれほどでもなくなったのである
ただ公務員は何かと得する仕組みがあったのである
それは高度成長時代は公務員ても民間が良ければ公務員もその水準になるからいいのである、もう今はこういう状態だと公務員もやはり民間と同じようになる
安泰ではなくなったということである

日本は本当に貧困化している、やがて発展途上国並みになるとも言われる
そしてまともに福祉サービスも受けられなくなる
老人ばかり増えてそうなる、それで衰退国家となってゆく恐怖がある
地方の就職先でもこうした安定した場所が奪われるとどうなるのか?。
何か地方で落ち着いて生活できなくなる

地方とは田舎の役割は何なのか?食料生産基地なのか?

地方は田舎は自然との共生の場であり例え米が売れなくても金にならなくてもそういう生業(なりわい)維持すべき所なのである
だから矛盾していたのは東電に生業(なりわい)を返せと裁判化したことである
でもこの辺では漁業者でも農民でも東電にその生業を売り渡したのである
生業というときその土地に生まれたときからある仕事のことであり受け継がれる仕事である、それは自然と共生として長い間千年以上つづけられてきたものである

それで田んぼがなくなったとき蛙もいなくなった、そして鷺もいなくなった

この時田んぼは米をとる場所だけではなく、蛙も鷺も活かす共に生きる場所だと自覚したつまり蛙も鷺も田んぼがあって餌となる場があって生きていたことを知ったのである
だから蛙の鳴き声が田舎の夜空に木霊した時、復興したと感じたのである
そういう場所が田舎なのである、それは食料とか生産するだけではない、金にならないとしても田畑が荒れるとそこは荒廃してしまう
現代はすべて金で価値を計るが金だけですべての価値は計れないのである
すべて金で価値を計ると原発でもなんでもいいとなってしまう
結果的にこの辺が生業でも自然との共生も自然も汚染されたとういことでそのことが現実になった、あまりにも原発に電気に価値を置き過ぎた結果だともなる
                                                              
公務員の役割はなになのか?
実はその住んでいる場所全体、自然にもかかわる仕事だったともなる
漁業でも農業でも林業でもそういう自然とかかわることも仕事だったのかとなる
何か全体のバランスを計るというのも公務員の仕事だったのかもしれない
だからこそ民間のように利益第一主義ではないものを追求できるとなるからだ

ともかく都会の人だと東京でも食料は外国から入ればいいという
だから日本の地方はいらない、田舎はいらない、金がかかるだけだとなる
地方交付税でも東京の人が払っているからだとかなる
これは暴論である、日本の国土形成からした全く日本の自然でも無視した危険なものとなる、そして原発は本当は東京に造ることが一番向いていたのである
でも事故になると困るからフクシマに離れた場所に造り安全を計ったのである
そして地方では自然と共生するものが漁業でも農業でも林業でもだめになり原発は歓迎されたのである

そしてまた地方の田舎の価値は経済的なものだけではない、精神的なものとして地方が田舎がはぐくむものがある、文化が生まれるのは都会のように見えて地方なのである
ヨ−ロッパでは地方都市が国家となりそこが栄えてルネサンスとか生まれたことでもわかる、小規模の地方都市が文化をはぐくむにはいいのである
cultureはcultivate(耕す)である、地方でこそ田舎でこそ文化が育まれるのである
何か最近銀行員が農業の育成にかかわるというのも苦しいけど農業にかかわり余った金を投資して地方を活性化するというのはいいことである
でも農業は金にならないのである、でも農業にはそれだけではない付加価値が大きいのである、でもそれは金として評価されないことが問題なのである
東京とかの人にすれば安いいい食料が入ればいいとしかないからである

例えば価値とはいろいろありストリーも価値となる、アセリプトを発明した人の話はそうだった、あんなに苦労して作り出したものだと知る時価値あるものとして意識するからだでもスーパーに並ぶ食料を刈っても安いかの高いのかとしか意識しないのである
そうなれば外国産でもいいとなってしまう
価値を計る尺度を変えることも必要である、金で計れない価値にこそかえって大きな価値がある、例えば景観などがそうである、それは金にならなけどその景観がなかったら索漠としたものになる、それが都会のビルの谷間で暮らしている人なのである
そこになごみも美もないからである
とにかく田舎の価値は食料基地だけではないのである

だから何か地方は田舎は安定した職業が必要だとも思う、あまりにも競争にさらされると地方の田舎の良さが奪われるのである、そして原発事故は田舎の良さを本来の価値を根こそぎ奪ったのである、生業を奪ったのである
私の場合は芸術的に田舎の価値を追求してきたのである
ただ私の問題は畑があるとする、すると畑の野菜とかに注目しないで花が咲いていていいなとか見ている、でも現実に野菜を作るとなると毎日草取りであり汚い仕事にもなる

でも花だけを見ていいなと見ていると都会人的だともなる
都会の人が田舎に来ていいと思うのは自然があり花が咲いていていいなとなるからであるでもそこで農業するとなるともうやっていけないとなっていたのである
それは農業とかの価値が食料にだけあると見ているからなのである
それ以外の景観とか自然の共生とかは省かれて野菜の値段とか米の値段ですべてを計っているからそうなる
ジントルマンというとき田舎に住んでいる貴族だった、田舎こそ文化を育むジントルマンが住む場所だったのである、ただ矛盾しているのはそのジントルマンも都会にロンドンとかに住まいがあり田舎と行き来していたのである
ただ田舎を本拠地として生活していたのである

人間生きるというとき何らかの価値を追求しているのである、その価値をすべて金で計ることはできない
金を得るにしても金を使うにしても価値を追求している、その価値が何なのか?
本当にそこに金を得るために使うための価値があるのか?
だからこそ東京とかには田舎と比べて価値は無だとさえなる、そこに自然の美とかが全くないとしたらそうなるのである







posted by 老鶯 at 09:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題