2019年08月31日

「震災バブルの怪物たち」を読んで 補償金で原発避難区域はモラルが崩壊した


「震災バブルの怪物たち」を読んで

補償金で原発避難区域はモラルが崩壊した

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この本は今までプログで自分が書いてきたとダブル、8割が自分自身が言ってきたことだった
ただ場所がいわき市ということでそこに2万人近くの人が避難して家を建てたことが違っていた、それで地元の人と軋轢がひどくなり嫌がらせとか事件になった
補償金の額が多すぎた結果としてもらえる人ともらえない人の差が大きすぎたのである
いわき市の津波の被害者は何ももらえない、でも原発避難者は特に双葉とか大熊地域は一億円とか普通にもらっている
浪江町でも財産がある人はもらっている、仮設住宅とかに入ってもいわき市と近くに住んでもその差が大きするぎのでうまくいかなかった
それは南相馬市だと原町区までは30キロ圏内でそれなりにもらった
小高は避難区域になったのだから多くもらった
それで仮設住宅に隣り合わせになったが付き合わなかったと小高の人が言っていたのも当然である
今でも補償金の後遺症があり復興と言っても南相馬市では協力しにくいのである

いわき市の人たちの間では一部の原発避難者の生活を見て「レクサス、焼き肉、スシ、ソープ」揶揄されたこともある
高級車に乗ってうまいものを食い、女を抱くという意味である

この本に書いてあるがそういう小高の人を知っている、もちろん全部ではない、今日聞いた話でもそうである

小高の人だから金をもっているとおもったがもうない

フィリピン女につぎこんで仙台に店を出させたかということでなくなったというから頭に来る、ほかでもそういう人が小高にもいたのである
そして腹ただしかったのは仮設には毎日のようにボランティアが来て援助していた
だからかわいそうな被害者として来ているから補償金もらうことも援助されることも当然でありなぜ鹿島の人は不満なのだと協力できなくなったのである

そしてNHKでもマスコミも原発避難者側について放送した
NHKでは相馬市のトマト農家が飯館村の人を雇わずに津波被害者を雇ったということで暗にこの農家を批判していた
冷たい農家だと批判していた、でも実際はそれは極人間として当然のことだったのである飯館村の人は被害者であることはまちがいない、でも現実に飯館村の補償金も他より多い一億とかもらったとなれば人間どうなるのか?
何かここに外からも誤解があり内部でも補償金で分断されたのである
それがいわき市だと極端なものとして現れたからそれにじかに接した不動産の仕事をしている人が報告したのである
ただこういうことは私がプログで報告してきたことであった

そして小高の若い人が自分のことを「傷口に塩ぬって楽しいか」と攻撃してきた
この小高の人はおそらく補償金をもらい何もしていない、補償金暮らしになっていたのだろう
この本でもあまりにも多額の補償金をもらい若者も働かなくなってあそびほうけていると報告しているからだ
他からはニートは得したなとかとも言われた

何が荒廃したのか?補償金はもらえる、かわいそうだと全国から思われて援助される
そうなると原発避難者様という意識になり何かそれに文句言うとお前は同情もしないのか?それで人間なのかとまで言われる、それを後押ししたのがNHKとかマスコミとかボランティアは悪くないにしろそういうことに加担したとなる

この辺で複雑なのは原発避難者と津波被害者は根本的に違っていた
その差があまりに大きすぎたのである、でも同一に扱われた
現実は隣の仮設では一億円もらっていても津波被害者ほぼゼロだったとなる
そうしたらもう隣同士口をきかないとなるのは当然である
そしてそうして原発避難者は周りの人に気配りをしない、なぜなら俺たち被害者であり原発避難者様とされたからである
それを批判すればNHKをはじめとしてマスコミで許さない、NHKでマスコミでこう言っているのになぜお前は原発避難者様を批判するのだとなっていたのである
だからマスコミの力が今までは強すぎた結果としてこういう問題がここでも起きた
報道するとなるマスコミになるからである
ただインタ−ネットができて別な見方もあるのだと知った人はいる
ただ仮説を去るにあたって周りに餅を配ったというとき何かしら配慮があった、そういうものを最後に感じたとなる

そして今になって遊び女につぎこんで金がなくなった助けてくれとかなればふざけんなよとなる、そんな奴らとつきあえるのか?
そして復興のことを考えても無駄だともなる、その人は一部にしてもそういう人こそ糾弾すべきなのに私のように復興を考える人はなんで原発避難者を批判するのだとなる
だからこの辺は原発事故前から補償金がもらえていた
特に双葉とか大熊地域はそうである、飯館村などは違っていた
でもその後の補償金で経済感覚が狂ってしまってモラルが崩壊したのである
もう頭には補償金のことしかなくなったのである
何か地域を元に復興しようとかなくなった、もちろん放射能汚染とかあるがその前に心が復興するということがなくなったのである
また協力するという絆も消失したのである 

そこに元から住んでいる人はもう金しかないのである、金の亡者となり補償金をいくら東電からふんだくるしかない、それを見ている若者でも補償金でも遊び暮らしていればいいとしかならなくなる
そして何か相手を批判することには被害者だとしてたけてくる
それは沖縄と韓国と一面共通しているのである、常に被害者だということで賠償を要求してくるからである
そして現実はその金で遊び何にも復興のことなど考えないししないのである
補償金で仙台で大きな家を建ててアパートの経営までした人がいたしそういう外に出て復興した人がまた多いのである
つまり故郷のことより家族が復興すればいいのである
それは場所を選ばない、それだけ今は広域社会であり金さえあれば優遇される社会だからである
だからこの辺でも外部から入った人たちが本当に多い、その人たちは立派な家を建てた
それはいわき市と規模が違っていても同じだった

こうしてそもそも復興とは何なのか?
それすらわからなくなった、復興とは補償金をもらい各自自由に移動しても生活することだとなる、あとはさらに東電であれ補償金を積み増しさせるかとかである
浪江町でも一か月35万を東電に要求した、それは実際は20万くらいになればいいとしている、一人一か月20万であり5人家族だと百万になる
この辺では小高の人が家族か多いので一か月150万になっていた人も現実にいたのである、だから億の金をもらった人は普通にいるのである

とにかく鹿島の貧乏人は本当に避難区域に住んでいたらと思っているだろう
その人は明日食うものもないからである、避難区域になったらそこに住むことなど関係ないのである、それで普通の生活ができるとなったからである
別に避難区域に住む必要はない、南相馬市内でも相馬市でも仙台でも住めるとなるからである、老人でも別に南相馬市だったらどこに住んでいいからである 

結局補償金で復興も協力もなくなった、絆もなくなったというとき水俣病でも補償金でだめになったという、ここでも補償金闘争になりだめになった
ここも同じだったのである、モラルは多額な補償金で崩壊したし協力して復興することもなくなったのである
その一番の荒廃が補償金を外国人の女にとかシニアとかがつぎこんで遊んでいたということである、そういう所に最大の暗黒が現れたのである
その人にとって故郷は何だったのか?そんなことなんの関係もないのである
金さえもらえればどこに住んでもかまわない、補償金もらって遊べるから良かったとしかなかったのである
それで一方で外部から来て復興に尽くす人がいるのだからそういう人は外に出るべきである、そんな人いたって何もならないからである、かえって邪魔になるだけなのである
真面目に復興に尽くしている人にとってはまた外部からでもそんな人に援助する気になるだろうか?

要するに補償金でモラルが崩壊して復興できなくなった

これは水俣病で補償金でだめなになったと同じだったのである
だからつくづく人間とはわからないものだと思った

例えは浪江町の津島とかでは戦後開墾に入った人たちがいて苦労した、この辺では特にそういう人たちの割合が多い、でもそうして苦労したから結束が強いというのもわかる
その時何もない貧乏な時だったからである
でも今回のように多額の金が入ったときみんなそれで良かったのか?
協力したのかとなるとかえって反目しいがみあいまた多額の補償金でかえって故郷を出てその補償金で200坪の家を仙台に建ててアパート経営までしたというやり手の人もいたのである
その人にとっても故郷の復興など関係ないのである

つまりこの人だけではないそういう人の方が多かったのである
だから復興はもう不可能だとなる、逆に浪江でも小高でも飯館村だって自分は賛成できないが放置する他ないとまでなる、それで飯館村では一億円以上もらって外に住むべきだという人と菅野村長は残るべきだ住むべきだと二つに分かれて争うことになった
村長が村に住むべきだとしているのはそこで村長の職を維持して金にするためだともなるからだ
現実にはもう故郷を放棄してそれぞれが補償金でどこでもいいから自立した方がいいとなる、自分自身はむしろ昔のように飯館村に人が住んでもらいたい

でも現実は補償金のためにできなくなっいる
多額の補償金でそういう気持ちにさせたのであり補償金でだめになったという水俣病被害と同じになったのである 
つくづく金は恐ろしい、そうういことを自分の家で起きたので延々と書いてきた
もう借金している人から金のない人から盗まれるだけならいい殺される目にあったからである
最近の事件で塗装会社の経営者が従業員を養子にして保険金をかけて殺された
その社長も私的なものに女とかに金をつぎ込んでいたとかが動機だった
原発避難者でも思わぬ金が入って金銭感覚が狂った、レクサスとか一番この辺では売れた、いわき市では特にそれが目立った
これとは違っても金に狂った異様な世界がこの辺でも現実化したのである  

いづれにしろ何かモラルが喪失してこの辺は荒廃した、金の恐ろしさがこの辺ではまざまざと悪いものとして現実化した
もちろん補償金は必要である、ただ額が多すぎたしいくらでもまた要求するという欲が生まれた
それは株とかと同じである、自分自身が株とか投資信託が人間の欲を刺激するのである
結果的には地銀にすすめられて損した、何かそれで株とか投資信託も怖いなと経験で知った
この辺でも補償金でも交渉すればもっともらえるとかなる、欲を刺激されるのである
そしてもう復興とか地道なことはしたくなくなる、働きたくなくなる
後はギャンブルたと女で遊んでいればいいとなった、全部ではないにしろそういう暗黒が生まれた
それは一部だとしてもそういう人を知ったら復興に協力するのも馬鹿らしいとなってしまうのである  


1次産業と工場が支えだったのが、漁業は壊滅、農業は落ち目、工場の雇用は細々。貧しくても助け合ってきた村はなくなった。水俣病のせいで村が潰れたわけじゃない。補償金で潰れたんです。

 命や健康は返らない。補償金を取るしかない。でも今度はカネで村が破滅する。公害は起こしたらおしまいということです。 
 これが人間の性(さが)なのだと思います。

 埋め立てなどで漁業権を売り渡して多額の補償金をもらった漁民でも同じことが起きたようです

こういうことがここでも起きたのである、だから人間のことは地域に関係なく時代に関係なく同じようなことが起きるのである
漁業権については何度も私のプログで書いてきたことだったからである 


posted by 天華 at 12:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2019年08月30日

地方の自然破壊は高度成長時代から始まっていた (飯館村の自然破壊の歴史から未来を見る―真野ダムができる前の大倉の映像)


地方の自然破壊は高度成長時代から始まっていた

(飯館村の自然破壊の歴史から未来を見る―真野ダムができる前の大倉の映像)


大倉村はダムができる前は本当に秘境だった、真野川の上流にあり家が固まってあった
それがダムに沈んだとき家が高台のみになり失われた
葉山祭りという古い祭りも失われた、ダムというのも自然を破壊して村を破壊していた
ただダムとなるとこれに反対する人はあまりいなかった
やはり効用があるからそうなった、それで大倉ダムがダムの底に沈んだときこの時多額の補償金が出たのだ、それで立派な家を街の方に建てた人が結構いて話題になったのであるそれで山でぱダムができれば金になるということで期待する人が全国でいたのである

それはもう50年前とかであり日本がという国は高度成長時代になり大規模な自然破壊が始まっていたのである、その最初がダムだったのである
これによってなんらか川の流れなども自然の状態ではなくなった
ただダムについては危険視する人は騒ぐ人はいなかった
ただダムも自然破壊だったことは確かである

そして気づいていないかもしれないが飯館村の木戸木から新しい道ができたけど七曲りの坂ではない道ができたけどあそこに道がないときは細い流れがあり森につつまれていた
そこは人が入らない神秘的な道だった、歩いていたのは10軒くらいあった開拓部落の人たちだけだった、その流れは長く清流であり森につつまれていた
一つの秘境だったのである
自分はそこに良く行っていたのである
でもそれもなくなったのが残念だった、でもそのことで誰も騒がない、むしろ道路を作ることが進められた、車社会だからそうなったのである
七曲りの道は車だと危険にもなるからだ
新しくできた道でも本当に必要だったかどうかわからない、なぜならそこを通る車はまれだからである

要するにここだけではない戦後は自然破壊が全国的に大規模に行われたのである
道路を作ることも地方では公共事業として進めれた、だからダムでも道路でも過剰に作られた、農道まで舗装されたとかまた水路でもコンクリートの水路になり自然の小川もなくなりメダカとかどじょうだとか生息できなくなったのである

文明が発達するということは必然的に自然が確実に破壊される、それは止めようがないのである、ただエジプト文明とかなるとこれは古いとするが自然と調和する文明だったのである、そこでは動物が崇拝された、アニミズム信仰ともなるがそれだけ動物が崇拝されることは自然と調和していたということなのである
そういう文明がピラミッドを作る大規模公共事業を成したということも不思議である
現代のような技術力があった、でも自然と調和した文明だったのである
普通だったら科学技術はどうしても自然を破壊する
それも科学技術の力が大きくなると大規模な破壊が生じる
人間の技術の力が弱小な時は自然破壊は大規模にはできないからだ 

現代は科学技術の力によって自然は地球が大規模に破壊された時代だとなる
アマゾンが大火事になって消失するとか問題になる
それも原因は何なのかわからないにしても何か大規模に自然が消失してゆく
それが現代文明社会の最大の特徴でありそういうことが起きたのかとなる
そして地球が大規模に汚染されてゆく
原発がまさにそういうものだった、この辺のように人が住めなくなるのだ

要するにやがて地球に人が住めなくなる

このことを暗示したのが今回の原発事故だったともなる、空気であれ水と土でも汚染された住めなくなる、そういうことが地球規模で起きてくる
中国などは広いにしてもそういうことが大規模に起きている
原発の数も多いし増やしているからだ、そういうことでいつかこの辺のように大規模な汚染が生まれて人が住めなくなる
文明によって人は地球に住めなくなる、これを暗示している
そして人間の文明そのものが滅亡してゆく、自滅してゆく
それは人間自身の技が発達して災い(わざわい)となり自滅自壊してゆく

それはあくまでも人間側の問題であり神の知恵で創造したものとは違うからである
生態系は神が創ったものだが科学技術は人間の知恵と技で作り出したものだからである
それによってまた人間が滅びるのもカルマだとなり自滅自壊がすでに定められていたとなる
それで火を盗んだプロメテウスが神から厳しい罰を与えられたことでそのことはすでに神話で暗示されていた、それが20世紀になり科学技術の発達で現実化してきたのである
何か現代はグロ−バル経済でも資本主義システムでも限界にきている
それは結局強欲資本主義でありあくなき人間の欲望を是認するものだからである
それで今の若いものは欲がない、欲をもてというのも変なのである
断捨離とかミニマム経済とかになるのはやはり時代なのである
拡大成長一辺倒の経済は地球規模で限界に来たからそうなっているのだ

ともかく一地域を見ても本当に自然破壊の歴史だったことをふりかえる
今度は飯館村に風力発電ができるという、これもまた自然破壊だったのである
ソーラーパネルも草野にしきつめられたが今度は肝心の森につつまれた飯館村が風力発電でその本来の自然が破壊される
一見ソーラーパネルとか風力発電は自然を利用した自然を破壊しないものとして作られたしかし実際は違っている、やはり何かしら人間の作り出す技は自然を破壊するように宿命づけられている
確実に風力発電でも森を破壊する、人口の風を起こすことでそうなる、また景観も乱す
つまりソーラーパネルでも風力発電も自然のエネルギーを奪う行為でありそれはプロメテウスが火を盗んだのと同じなのである
風力発電でも自然の風ではない、自然の風を奪う行為だからそこに必ず自然破壊が生じて森が破壊される
それで科学者の武田邦彦氏がそのことを指摘している

そして未来とは何なんだったのか?それは山尾三省とかが言うには未来とは新しい科学技術のことである
今でもそうである、AIとか自動運転が世界を変えるとか核融合のエネルギーができるとか寿命はまだまだ長くなるとか科学技術が未来なのである
でもそれが未来だとして本当に人間の未来なのか?

科学技術への過信は危険

むしろ生態系の維持とか接続可能社会とかが最近話題になるのもそのためである
私は極端にしろこうして自然が破壊されることに耐えられない
もうそういう社会には生きたくないともなる、クルマ社会でもいいものとは必ずしも言えない、だから自転車にのっているともなる
車も自然を破壊するものなのである、クルマ社会だからこそ飯館村の神秘的な小川が喪失したのである、ただそれに注目した人は一人もいない、飯館村の人でもいない
自分一人だったとなる、つまり別に飯館村に住んでいるからとして自分のように自然を見ている人はいない、そういうふうに強いられたからそういう生活をしていたのである
それで多額の補償金が入った結果として飯館村を出ていく人が多いことでもわかる
金の力がそれだけ強くなったからそうなるのである
実際外から見ていれば自然がありそういう村がいいと言えるのはそこで暮らしていないからである
でも未来は何なのか?未来に残すべきは何なのか?

未来に残すべきは自然だった!

これから生きる未来に生きる子供たちに残すべきは何だったったのか?
それは自然だったのである、その自然が破壊されたとき暗黒になる
もう人も住めなくなったのである
住むべき自然が残されなかったのである
その責任は今の世代にあり文明自体を作った人たちにもあった
ただそれはここだけではなく世界全体グロ−バルに起きたことなのである
ただ未来とは確実にすべて科学技術こそ未来を作るということで一致していることは世界で共通しているのである
でもそれがここではそうではないことを現実に示したのである
放射能の被害は何代もつづき人は住めなくなった、これこそ最悪だったのである
貧乏でも住めるならいい、住めないということは最悪だったのである

自分たちの世代はもう消えてゆく、でもではこれから生きる子供たちとか世代はどうなるのか?それをう考える時自然が破壊されて残されていないとなるとそこに幸福がありうるのか?まず次の世代まで考えて生きている人はほとんどいない
今が良ければいいとしかない、そのことによって次の世代が苦しむ
カルマとなって次の世代にのしかかる、そもそも幸福とは何かというときそのこと自体の価値観の過ちがこういう結果を生んだともなる
限りない欲望の拡大しかないのである、もう金のためなら何でもする
自然破壊もそのためにはやむをえないとなるとか無関心となる

そもそも人間は景観を見て感動するより飯の種にならなかったらそういうものは美はいらないとなっているからだ、それが人間の醜悪さとしてある
だからこそ東京のような怪物都市とかニュヨークでもそこに美がなくても生きていられるのである、その人間こそが異常なのである
そういう異常性に気づいていないのである、ただ経済だけを見ている
美を価値として見ていないのである
だから東京に住んでいた山尾三省があれほど田舎に執着してまるで田舎に命を捧げるほどになったのは逆説だったとなる 

第一田舎の人こそ東京の人と変わりないしむしろ東京の人より価値観では同じであり強いともなる、いい家が欲しい、いい食べ物を食べたい、いい車が欲しいとかもうきりないのである、借金してもそうしているのが現実なのである
田舎があって自然があってその価値観に生きている人はいないのである
だからこそ原発は積極的に誘致されたのである、原発は金の成る木だったからである
だからなんらかそうした都会の価値観とか文明の価値観を否定しないかぎりそもそもまた同じことが起きて住めなくなる、その価値観を変えなければならないのだがそれがもう簡単にはできない、それがみんな望むことでありそれを一人が反対してもどうにもならない

その一つがクルマ社会が変えられないのはみんなが車がなくては暮らしていけないと思っているからだ、だからわずかでも減らすこともできないのである
そして自転車を邪魔扱いしている、そういうこと自体いかにもう変えることが不可能かわかる
自然などどうでもいい、美などどうでもいい、それより便利さでありあくなき欲望の充足である、山なんかはげ山になってもいいとか森がなくなってもいいとかそれより電気だとか贅沢な暮らしだとなる、そういう価値観を変えられないのだから根本的には変えることはできず同じことが起きる、その未来も同じだとなる
そこに最終的に人類文明の崩壊が起きるという暗いものになる
それより人間の文明が神によって滅ぼされるともなる未来が見えてくるのである  

ただではどうするのか、炭焼きの時代にもどるのか?森が活用されなくなったとき木材が外材となり利用されなくなったとき森が無用のものとなり人の手がは入れらずに荒廃した、つまり炭焼きでも入会の共同の山でも森でも利用していたとき自然も活きていたのである、いくら景観をどうのこうのといっても現実の実利として自然と結びつかないと自然も維持できないのである
だからどうしても自然保護だけとなえているときれいごとだけになり結局自然は維持できなくなる
でも本当にこの辺は原発事故でどういう生活があるべきなのか?山尾三省は極端にしてもそれほどまでに自然との合一した生活を修行者として自然への殉教者のように実践して早めに死んだといことは何だったのだろうと問うのである

実際は全く田舎であれ地方であれむしろ都会人より欲望は深く都会人志向であった
だからこそ原発は積極的にむしろ地域で豊かになるために奪い合うようにして誘致していたのである
この辺では反対した人は一人もいない、それがこの辺の特徴だったと思う
そして残すべき自然は破壊された、未来に生きるものは放射性物質と遺伝子の恐怖に延々とおびえるというより住めなくなったのである、子供たちでも飯館村には住んでいない、将来も住まないのである
それは飯館村の責任でもない、原発によって自然は奪われて住むことができなくなったのである   



真野ダムができる前の大倉村の真野川の映像

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大倉がダムになる前のビデオ映像が残っていた
ただこれも30年前であり画質が相当に悪い、でも真野川が大倉を流れていた
急流ともなって岩を打ち流れていた、その真野川にそって家が結構あった、一部落を形成していた
ダムに沈んだとき高台の方の家は今に残っている
これは貴重な映像である、他にも30年前のビデオの映像が残っているのでそれを記録してプログに出す予定である




posted by 天華 at 16:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2019年08月29日

今日午後から虹が出る(約束の虹に実り)


今日午後から虹が出る(約束の虹に実り)

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約束の地に実りや虹かかる

「あなたたちならびにあなたたちと共にいるすべての生き物と、 代々とこしえにわたしが立てる契約のしるしはこれである。 13すなわち、わたしは雲の中にわたしの虹を置く。 これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。 14わたしが地の上に雲を湧き起こらせ、雲の中に虹が現れると、 15わたしは、わたしとあなたたちならびにすべての生き物、すべての肉なるものとの間に立てた契約に心を留める。 水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない。 16雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべての肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める。」  17神はノアに言われた。
 「これが、わたしと地上のすべての肉なるものとの間に立てた契約のしるしである。」(創世記9章12節‐17節)

約束ではなく契約の虹だった、契約というのが日本だとなじめない、約束と訳すとなじめる
そこに言葉の問題がある


今日午後から虹が出た、大きな虹ではない、半分くらいの虹だった
でもはっきりとした虹だった、この頃あまり虹は出ていなかったからめずらしかった
それを見たのはいつも行っている畑の道だった 
虹は夏の季語だけど今日は暑いから夏だともなる、秋の虹だったら秋の虹としなければならないからだ、まだ残暑であり夏だとなる

そこにはいろいろな問題がありそれを語れどきりがない、実りがあるとしても余りにも
様々な問題がありすぎたのである
ただキュウリだけは太いのがとれた、それは柔らかく売っているのよりうまいのである
でもそのキュウリは売れない、もらう人さえいないのである

ただ自分はそこで畑で野菜を作る人の話を聞くことで金を払っているとなる
農業をじかにしるために金を払っている
何かそれが情報社会なのかもしれない、農業を知ることはなかなか田舎でも直接かかわらないものはわからないからである
田舎だと確かに農業は田畑があり身近だけど実際に農業している人としない人の差はこれも大きいのである
そして今では農家でも農業しているわけではない、たいがい農地を貸しているだけだとなる、だから農家の人でも会社員であり農業をしていないのである

虹は聖書では約束を示している、契約の虹なのである
その天国には本当の実りがある、ただこの世ではその実りは本当の実りとならない
ともかくそこで野菜を作る人の苦労を考えると嫌になるからだ
田舎の嫌な面が延々と出てくるのである

つまり畑でもそれは孤立してはできない、隣がありその隣もまたうるさいのである
だからいつも隣の畑の人が嫌だと言って最近死んだが喜んでいたのである
そして近くに団地がありその四階からいつも見て何やかやいう人がいると嫌がるのである田舎では見ていないようでも誰かが見ていて監視しているのである

田舎の問題はこうして人なのである、この人にうんざりしているのである
それは自分だけではない、みんなそうなのである
そうはいっても田舎で人と関わらないでぱ生きていけないのである
私は家族がいたとき田舎に住んでも人と関わらずに生きていたのである
それも不思議だったとなる、家族がみんな死んだ結果田舎の人とかかわって生きざるを得なくなったのである
そこで田舎の人のまた今の人間の金しか求めない醜悪さに直接触れるようになったのである

ともかく自分の生活は普通ではありえない生活だった、そこで変な方向にも行って失敗したのである、こんなふうになったのもいいにしろ悪いにしろ家族がそうさせたともなる
ともかくどんなにしてもこの世に本当の実りは実現しない
この辺が津波や原発事故でがたがたになって混乱したようにもう原発事故で放射能汚染で住めなくなったように本当に地獄化したのである
結局この世は災いの地だったのである、この世が天国になることは絶対にない
この世は滅ぶべき場所であることは間違いない
ただ約束の虹があるよう本当の実りはこの世にはなく天国にある
神の備えし天国にある、それが希望なのであ

人間何のために働くのか? (金を払う方でもなぜ金を払うのかと考える)


人間何のために働くのか?

(金を払う方でもなぜ金を払うのかと考える)

youtubeのlove and freedomの40くらいの人がなぜ自分が働いているのかわからないという
ただ毎日とにかく食べるために働いている
それも日銭稼ぎでありただ日々生きているだけだとなりなぜ生きているのかもわからないとなる
もし家族があったら家族のために働くとなりそこに生きがいもできるから結婚したいとなる
働く理由はまず最低限の衣食住の確保のために働くことが強いられている
でももし最低限の衣食住が保証されていたら働かなくなる人が多くなることは確かであるなぜなら労働自体に今生きがいを見出している人はいないからだ
文明社会は複雑化して無数のパーツになっている 

だからどういうふうに関連して働くことに意義が見出されるのかとなるとわからなくなるみんな巨大な文明社会の部品に過ぎないのである
それはどんな優秀な人でもそうなる、
何か発明でも科学者でも昔のようにニュートンとか天才が出ないというときもそねうなのだろう、何か一人ではもう複雑化した科学でもそこで傑出したものとはなりえなくなったノーベル賞でも何か昔の天才のように傑出したものではないという
確かにそれは地道な基礎研究であり何か世界観まで変えるような発明はないと科学に弱くても見る

働くという時、それは例えば雇う人がいる、働かせる上司がいる、幹部がいて資本家がいる、金を出す方がいてもらう方がいる
給料を出す方でもなぜこの人に金を出すのか?そういうふうに考える
それ相応に見合ったものが得られから給料を払うのである
それで別に効率化するには人間でなくてもいい、AI化したロボットがいいとなり無人化した店になり鉄道だと無人駅が増えてくる
それは雇う人が給料を払いたくないからコストでそうなっているのである

ところが別に人を雇う方でもその働く意義とか理由を与えない、ただ雇われる人は金が欲しいだけだとしか考えない、だから雇う方も金のことしか考えない
働く理由とか意義などは考えないのである
そもそも何か理由とか意義とか意味を考えるのは人間だけである
一体地球が何で存在しているのか?宇宙が何で存在しているのか?
そんなことを問うのは人間だけである
動物なら毎日今日の食べ物しか頭にない、植物でもなぜ自分があるのかなど考えない
木がなぜここに立っているのかなど考えないのである
つまり人間が自然でもその存在意義を考え価値を与えているのである
人間こそが宇宙であれ地球であれ自然の木であれ石であれ花であれ意味を与えるのであるすでに名前をつけること自体なにかしらの意味を与えている

なぜ現代は働くことに意味を感じないのか?ただ金の量だけで計られるのか?
そして金を使う方に重点があり金を使うことが生きがいになるのか?
それで原発避難者が補償金をもらってかえって仮設に住んでいたのに威張っていたのである、「私たちはここで消費して助けているのよね」と言っていた
これが現代人なのである、金のある者が王様であり金をもって消費する方が王様になっている、としたら働く方に価値がないとなってしまうのである
こう言った人が変わった人でもなんでもない、そういう社会に住んでいるからそう言ったしそれが常態化しているからそう言ったに過ぎないのである
つまりいくら労働しても感謝されるということは医者くらいでありほとんどないのである医者だけは命にかかわるから過剰にその労働が評価されて感謝されているのである

今私が金を払う立場にある、別に働いていもらっているからではない

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親(介護されるひと)−息子(施設に一部金を払う)−母親(私か金を払う)

青森の施設に入れても他にいろいろな介護に使うものがあり金を払っている
息子は建築現場で働いている、親は自力で生活できない、年でもある
でもなぜ私がこの人たちに金を払わねばならないのか?
でも払っているから母親のために息子のためにその親のために払うとなるとなぜその人たちに払う必要があるのか意味が価値があるのか?
それを問うことにもなる、それは金は誰しも無償で払いたくないからそうなる
なぜ金を払わねばならないのか?逆になぜ働かねばならいのかということもあるが何もしてもらわないのになぜこの人たちに金を払う意味と価値があるのかとなる

家族だったら自分の場合は特別良くしてもらったのだから介護することも当然であり意味と価値があった、今になると介護して世話して良かったとつくづく思った
恩返しができたとなり何か良心的に救われたのである
もし何もしなかったら後悔していた、なぜならそれだけ自分の場合は60まで世話してくれたからである、その特殊な事情で少しでも恩返したことで死んでから死者と話したり通じることができる、もしそれがなかったら死者とも通じ合えなくなることがあったと思うあなたは何もしてくれなかったとなると良心がいたむからである

でも赤の他人の介護のためになぜ金を払うのか、直接払っていなくても払っているとなるそれは福祉で世話になるとかでもそういうことが起きている
直接払っていなくても間接的に税金を払っているからである
その人に払う価値があるのかとなることはぬきに強制的に介護保険とかで払っているのである、でもその介護される人が介護される価値と意味があるのかとなるとわからないのである、そういうことは問わないが私的に間接的でも金を払うとなるとその価値とか意味を問うことになる

いづれにしろ何で働くのかということもあるが何で金を払うのかということも必ずある
何かしら価値と意味を見出すから金を払っている
みんな簡単に金を払わないからである、特に情報関係では日本人は金を払わない
情報は無料だと思っているからだ、でも情報提供する方でも苦労があり手間がある
するとなんらかその情報に対して金がは払われるべきだともなる
たたインタ−ネットだとプログだと発信するにしても手間がかかってもほとんど無料だということでしているのである

人間はパンのために生きるにあらずというとき何か必ずその意味と価値とかを追求しているのである、現代では働く意味も価値を見出せないという時資本主義とかの危機となる
モラルの崩壊でありそこで資本主義も崩壊してゆく
なぜなら資本主義がキリスト教の奉仕するということで修道院から始まったというウェーバーの説がある、その時は消費することではない働くこと自体に意味と価値を宗教的なものとして追求していたからである
それがなくなったときすでに資本主義のモラルが崩壊して金融資本主義とかギャンブル資本主義のようになりもう意味も価値もない、強欲資本主義となりモラルもなにもなくなるただ金を得て消費だけすればいい、消費する者が王様だとなってしまう

それでこの辺では何かそういうことで露骨なもの極端なものとして現象化したのである
いわき市では二万人が避難して多額の補償金をもらい飲み屋で札びらを切ったとか家を次々に建てた、この辺でも新しい街が二つくらいできたように次々に家が建ったのである
それも立派な家も多いのである
それで地元の人と軋轢が生まれたこともわかる
つまり消費者が王様であり金をもっているものが上になる、周りの事情など関係ないとなる、金が横暴に力をふるったからそうなったのである
第一家は地元の大工さんなど関係ないからである
ハウス会社が二週間くらいで組み立てるだけの家だからである
地元だ自分の家でも三か月以上建てるのにかかっていたが今は即席に建てられるし地元の大工とは関係ない、外から来た人が即席に建てるからである

そして社会がグロ−バル化して広域化すると金の力がますます強くなる
広域社会でありどこにでも金があれば住める、もし金がなければ慣れ親しんだ所でも住めない、だから避難区域に若い世代は帰らないのである
一億円やるからどこに住んでもいいよとなればみんな故郷でも出ていくのが現代である
そしてどこでも金がある人が威張ることができる、消費者は王様ごとなるからである
そういうことでこの辺では人々の絆は切れた
和合できなくなった、まだ補償金をいくらもらったとかでもめていてその後遺症がありうまくいかないのである
外との絆があってもいづれもう今はない、すると残されたのは昔から住んだ人たちでありその人たちで絆を作っていかねばならないとしてもできない
後遺症があり簡単にできないのである 

そして新しく入ってきて住んでいる人たちが金をもっているから威張っているということが依然として起きているのである
そういうことはグロ−バル化広域化社会で起きたことなのである
それで復興を考えるには広域化して考えねばならないという時そうなる
現実は今や原発事故で避難した人たちが仙台辺りまで広域化して住んでいるからである
残された老人にしても南相馬市とか相馬市とかに新地でも住んでいて若い世代は仙台の方に住んでいるからである
それで老人はかえって避難区域に住まわせるより原町とかに集めた方がいいともなる
分散すると世話しにくいからである
コンパクトシティ化するということである、広域化社会だからかえって人を集中させて維持させるとなる





posted by 天華 at 16:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

抽象画の不思議 (the wonder about abstract painting)


 抽象画の不思議 (the wonder about abstract painting)

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NORTH FOREST

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GREAT RUIN

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TRAIN GO UNDER THE SEA
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この山は私がソフトで変化させても不思議だった
何か私の作っているものはただ変化させていてコピーしたように見られるかもしれない
しかし不思議なのはこの山は変化させたオリジナルのものとは違ったものでありコピーではないのだ
だから著作権違反にならない、別なものになっているしこんなふうになるとはその写真であれ撮った人でも想像もつかないからだ
ただ著作権違反として微妙なものがあることは確かである
でも私が作っている抽象画が全部著作権違反とはならないと思う
やはりそこには創造的なものがあり創作品として見せられるものがある


This mountain was strange even if I changed it softly
Something I'm making may just seem to change and copy
But what's strange is that this mountain is different from the original, changed, not a copy.
That's why it doesn't violate copyright, it's a different thing, and it's because you can't even imagine the person who took the photo.
There is no doubt that there is a subtle breach of copyright.
But I don't think all the abstract paintings I make are violating copyright
After all there is something creative that can be shown as a creative work

2019年08月28日

海は誰の者かー漁業権を東電に売り渡した組合 (生態系が原発で破壊されて住めなくなったことが最悪)


海は誰の者かー漁業権を東電に売り渡した組合

(生態系が原発で破壊されて住めなくなったことが最悪)

 高級魚を密漁したとして、長崎県警が指定暴力団山口組系組長の男(51)(長崎市)や組員ら6人を漁業法違反などの疑いで逮捕し、長崎区検は26日、組長らを同法違反などで長崎簡裁に略式起訴した。密漁した魚は組長の親族が実質的に経営する飲食店でワンコインの海鮮丼などとして提供。年間約3000万円を売り上げていたという。

 県警幹部によると、組長らは数年前からオオモンハタやスジアラなどの密漁を繰り返していたとみられ、海鮮丼を売りにするJR長崎駅前の飲食店で提供。500円の海鮮丼もあり、周辺の相場の半額ほどの安さで、観光客や地元のサラリーマンらに人気だった。

そもそも国民共通の財産である海岸をなぜ特定の漁師だけが独占してるの? 
むかしからエラい疑問。 
稚魚を放流してるから密漁されたら損害だとか、そんなん知らねーよ 
勝手に公共の海に放流してるおめーらの都合だろうがと。 

なぜこんな意味不明な制度になってんのか、まったく理解できん。 
海の家もそうだけど、既得権すぎるだろ。

外国とか協会なり団体が漁業権持ってて、それを各人に振り分けてる感じ 
日本は個々人が持ってる 
団体が持つと、個人個人で取り分巡って殺し合いがあったから 
漁師=ヤクザだから 
個人から漁業権取り上げて現代風にしたほうがいい

密漁ってことは他の漁師が割食うわけだからよくないことだけど 
実はこの値段で出せるのにボロ儲けしてるやつがいるのを日の目に出したのはよかった

個人の釣りでも逮捕されねーよw 
釣った魚は個人で販売もできる 
漁業権ってのは養殖とか網漁ができたり、指定の魚介類(たことか貝とかエビとか)の漁が解禁されるやつ 
要は>>1のように漁業を生業にするレベルで獲る人以外には漁業権なんてほぼ無関係なんだよ

人手不足で困ってるのになぜ漁業権をもっとオープンにしないのか? 

跡継ぎがいない漁師が漁業権を譲りたいと知り合いに話を持ち掛け、知り合いもその気になって手続き勧めてたら 
そこの漁師組合ほぼ全員(正確な数字は忘れた)の承諾がいると言われ、初めに挨拶に行った漁師に反対され 
譲ってもらう話が即終了した話思い出したわ 

閉鎖的すぎるんだよ

魚の消費量が落ちているから漁師増やして儲け減らしたくないってのもある 

漁業権って事故や災害や(港湾)工事の漁業保証で利権発生するから(派閥)対立等も絡めて面倒臭いぞ 
*北九州では利権で工藤会が2〜3年前に発砲事件起こした 

漁業権欲しいなら手離す人見付けて買い取るか養子が早い 
*暴力団組員とかは買い取っても無効


日本の農業政策は、国(農水省)が経営者で、農協が中間管理職、農家は労働者だとの位置づけで、“上に従え”という論理です。本来ならば、市場メカニズムで新陳代謝が進むべきところを   

農政利権の歪んだ視点

これは農業でも同じだった、日本の農業は競争力があるが政府とか農協とかによって牛耳られて利権化している、つまり漁業組合とか農協は利権団体化する
それだけではない民主主義といっても団体民主主義であり団体が組合が組織がなければ政治は動かない、そもそも人間は利を追求しているのであり利権化するのをとめられない
選挙でも一票など何の価値もない、そこに数を集めなければならない、すると必ず利権団体が組織化するしそこに政治化は頼り優遇することになる
それで票が得られて政治家になれるからである 

それはあらゆるものが利権団体化する、宗教でも創価の利権団体化して票を集めて力をもつ、そこにまとまった票があるから政治家が頼る
前は自民党は農家の票を頼っていたのである、それは農協が利権化して農家を牛耳り票を集めることで成り立つからである
ここではそうした政府ー農協によって自由な競争がばばまれ利権化してかえって利益が個々人の農家にまわらない、そこで収益が吸い上げられていることを指摘している
つまり中間搾取されている、それが政府がかかわってくると強力になるから政治を変えないと変わらない、それで民主党時代に個々人の農家に直接に補助金を配ったことをここでは評価している

漁業権のことを私はプログで追及してきた、それは原発と深く関係していたことが原発事故で判明したからである
海が資源保護とかではない利権化して海を東電に売り渡したからだ
資源保護などということは無関係に海自体が利権化して東電に漁業権を売り渡した
そこで船主などは原発御殿を建てたとか回りでうらやましがっていた
事故後も補償金が確実に入るから裕福なのである、だから真っ先に立派な家を建てたのは船主だったのである
第一海が放射せ物質で汚染されたからと漁業組合が交渉してもっと補償金を出せというのも変であり矛盾である
漁業権を東電に売り渡したのだからそんなことを言えないのである
あなたたちから私たちは{東電)は海を買ったのです、それで海を汚しても文句言えますかとせなる
そもそも海は誰の者なのか?漁業権は漁師たちだけの漁業組合のものなのかとういときそうではなかった
あくまでも資源の保護とかのもののために漁業権は与えられているのであり東電に売り渡すために与えられていなかったのである

暴力団が密漁したときそれは漁業組合を無視してとって安く売ったからだとなる
つまり漁業組合が実は暴力団でもあった
俺たちの許可なしで魚をとってはならない、海は俺たちのものだから勝手にとることは許されないとなっていた
それは資源保護の名のものとにそうなっていたのである
でも現実はこの辺では海は利権化して漁業組合のものになっていた

それで魚は消費者のものだという漁師がいた、海の魚は海は漁師だけのものではない
そこを利権化して漁業組合のものだとするとき矛盾が生まれた
それは自然自体が実は農業者のものでも林業者のものでも漁業者のものでもない
土地でも山でも海でもまず自然の景観として成り立っているし生態系として成り立っている、またそこをそうした人たちの利権化したものとして所有すると山でも山林が荒れるとか農業でも土地を勝手に宅地とかソーラーパネルとかにされると困ることがあり管理されている
海とか山とか土地でもそれは神によってというか漁師に農民にキコリとかに委託されたものであり所有して勝手にできるものではなかった
だから山林でも入会権がなくなり無数に私的所有が明治以降認められたとき山を管理できなくなった、そこで山は荒れて宅地造成が勝手にされて大雨で被害を受けたことが広島であった、海と大地とか山は生態系に属していて誰が私的に所有することはできない
その生態系が破壊されると今回のように原発事故で住めなくなるからである
そこに住んでいる人たちが海でも大地でも山林でも関係している

ただ都会の人は東京とかではそうした海とか大地とか山とか関係ないように生活している生態系から隔離されたようにしして生活している
でもその水源の山でも放射性物質で汚染されたら水も飲めなくなったのである
食料でも日本から得られなくなることもあった
だから人間は生態系から離れて生きられない、何か文明が発達しすぎて生態系のことがわからなくなっている、実感できなくなっている
電気が太陽替わりにでもなるように錯覚される、そういうことはありえないのだけであまりに文明が発達してそう錯覚するようになる
そこに文明の危険性が落とし穴があった、それが原発事故で証明されたのである

原発事故で田畑が荒地になったとき蛙が消えた、蛙の鳴き声が聞こえなくなった
そしてそれと同時に鷺も消えた
でも田畑が特に田んぼが回復したとき蛙がもどってきて鳴いた
その蛙の鳴く声を聞いたときなごんだのである
田畑は自然と一体化したものであり生態系の一部だったことを知った
ただ無惨だったのは松原が根こそぎ津波で消失したことである
それもまた自然だともなる、それで八沢浦が元の美しい入江にもどったと報告した時顰蹙をかった、そこでは人が死んで幼児でも泥から掘り出されていたからである

でも現実は本当にあそこが入江にもどったとき波がきらきらと太陽の光で光っているとき奇跡のうように思えたのである
その後でも湿地帯になり釧路湿原のようになったのである
津波も自然の作用だったのである、それはあまりにも大きいからどう理解していいかわからないものだった、でも津波は明らかに一つの自然の作用である
地震でもそうである、だから天を恨んでもどうにもならないということである
それで縄文時代だったらそうした危険な場所には住んでいないから津波の被害には会わなかったと思った

とにかく文明人はここでは生態系より原発を神のように崇めていた、科学者を神官として崇めていたのである
なぜなら常に漁業でも農業でも林業でも生態系に依存するものが金にならないと否定されてきたからである、原発は金のなる木でありそれに市町村が依存するようになったのである、結果的に原発事故になりその土地に住むことさえできなくなった
住むことがてきないということは最悪だったのである
たとえ貧乏でも生態系に依存して生活していれば一応なんとか住むことはできた
それが住むことさえできない悲劇になった

津波や原発事故が問うたものは何なのか?
それを追求してきた、それは津波とかなぜこんな災いを人間をにもたらしたのか?
それが不可解だともなるが原発事故だとこれは人間がもたらしたものであることは確かである、自然がもたらしたものではない災いだったのである
だからそれはとめることはできた、津波は自然の作用だからとめることはできない、地震でもそうである、ただ耐震建築とか何か防ぐ手段を備えることはできる
だからいくら自然の作用でも人間は無力とはならない

原発がなくても人間は死なないその土地に住めないことはない、それで山尾三省が言っているように最低限のもの、水とか土とか空気があれば生きられるということもできる
その最低限のものが原発事故で失われたから住めなくなったのである
もちろん電気もなにもない原始時代に還れというのは飛躍である
別に原発無しでも人は生きられる、その被害が余りにも大きかったからそういう反省になったのである
ただ東京とかなるとまず生態系とか意識されない、そういう文明が果たして維持できるのか?何か大きな災害がきてもう東京でも住めなくなるのではないか?
それがどういうふうにして来るのは予想できない、大都会となるとどうしても生態系から遊離しているから何か大災害があるともうそこも住めなくなる
そういう恐怖が常にのしかかっているのが東京のような大都会なのである
その東京に電気を供給するために地方がフクシマが犠牲になったともいえる
その巨大な大都会を維持するためにそうなったともなるからだ

posted by 天華 at 10:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2019年08月27日

地方(大倉村)の小さな碑が語る歴史の重い事実 (神社は国家神道となり戦勝を祈る場となった)


地方(大倉村)の小さな碑が語る歴史の重い事実

(神社は国家神道となり戦勝を祈る場となった)
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大倉の山津見神社


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他の稲荷神社

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アマテラスやコトシロヌシといった人格神から始まったわけではない。「場所」の特定が最初だった。神社は、そこに神籬(ひもろぎ)や榊(境木)や標縄(しめなわ)などを示し、「ヤシロ」(屋代)という神のエージェントともいうべき「代」を設定することから発生した。
 やがてこの「場所」をめぐって自然信仰や穀霊信仰や祖霊信仰などが加わり、さらに部族や豪族の思い出や出自をめぐる信仰がかぶさって、しだいに神社としての様態をあらわしていったのだと思われる。

 神仏集合


神社の起源は複雑で多様でわかりにくい、例えばなぜ相馬地方に綿津見神社と山津見神社がこれほど多いのか?
それは松川浦に山津見という地名があり山津見だから山と関係しているとはならない
綿津見神社と山津見神社は対になって伝えられた
それは海から移住してきた安曇族の神だったとしている
安曇族が大和国家形成の前に日本を移動して子孫を増やした
それで長野県の安曇にその名を残してそこでは船の祭りをしている
船と関係しているのは船を操作するのにたけていた海洋民族だったからである

その安曇族が相馬地方では海からやってきて飯館村の山津見神社を祀らせた
つまり安曇族の子孫の神である、ただわからないのは安曇族というのは何かはっきりしない、その痕跡も残っていないが綿津見神社と山津見神社がこれだけ多いのはその子孫がここに定着して住んだからだとなる
そして古事記でも国造りでもそうしした海洋民族が作った神話として理解される
国産み神話では海洋民族の特色が色濃いからである
そして死までも佐渡島まで国産み神話で生まれたという時そこまで安曇族などの海洋民族が移動したことを示しているのである

とにかく神社とは何か?それはこの解説のように場所と深く関係して生まれたのである
それで自分自身が場のことをアイディンティティ化して詩にしているのと通じている
人間の生はその場と一体として文化も作られてきた、だから世界でも文化はcutivate-cultureなのである
何かその土地で神聖な場所に社を建てたとなる
その感覚は今でも人間として生きる限り変わらないのである
人間はその土地と一体化してゆく、その土地とアイディンティティ化して一体化してゆくそのことで私は詩を作って来た、その土地の山であり石であり岩であれ樹であれアイディンティティ化して一体化してゆく
それは外国でもそうである、ギリシャにあれだけ神々がるあるのともにているのだ
それはその土地と不可分に結びついている
ゼウスが住んだというオリンポス山は春に行ったみたら雪に覆われて本当に神々しいものだったのである、ギリシャは海と山が迫り島が多く日本の地形とにていたのである
だから自然の中に八百万の神が宿る日本とにていたのである

私は常に墓とか古い碑に関心をもっていた、江戸時代の碑があるとそこに注目してしげしげと見る、ただ明治以降になるとあまり関心がないのである
例えば身近でも意外と古いものがある、近くの神社に天明の碑があったり鹿島神社の脇に暗唱せよという小さな碑があったりしてこれは寺子屋があった証拠である
そして鹿島神社は建御雷(たけみかづち)の神を祀るものである
これは武の神なのである、その脇に墓地がありそこは元は鹿島神社の領域でありそこに寺が作られた、神仏習合の寺であり神宮寺とあればそれである
だからこういう小さな忘れられた碑が歴史を語っているのだ

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これは僧侶の名だろう、ここに暗唱せよというのが記されている


不詩(文)朗謡-朗詠

朗謡-朗詠・・・暗唱
詩に文にせず暗唱せよ
謡(うた)いなさい

自分の家の墓地に江戸時代の碑

佐須村より多いのは真野ダムの前には戸数も人口も多かったからである
村の中心部がダムに沈んだためである、また官林の面積が広くそこで山林事業で財をなした山持ちがいたためである

それで今回発見したのが大倉の墓地がある所に忘れられたように石段も崩れてある山津見神社の入り口の狛犬の台に
国威宣揚、武運長久とか記されていた
これは太平洋戦争時代に記されたものである
この時こうした村の小社まで国家神道化して戦勝祈願していた
つまり大倉村など本当に小さな村なのだ、所帯数にしてもわずかである
そこには平地がない、でも山持ちで金持ちがいて相馬市の前は中村市の女学校に通っていたというばあちゃんがいたのである
相馬の女学校に通っていたとなるとこの辺ではエリートであり相当な金持ちしか行けなかったのである
私の姉は頭が良かったけど女学校に行けなかったと悔しかったと言っていたからだ

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そしてなぜこんなと小さな村の小社にまで戦争の痕跡があったことに驚いた
ここでもこうして戦争に狩りだされて戦争に参加した人がいた
それは全国でもそうである、そして今なお戦死者名を記している原町区の馬場の綿津見神社神社にあった、神社と戦争は不可分な関係にあり「忠魂碑」未だにどこの神社でもある、それは天皇が現人神(あらひはかみ)となり戦争に兵士として小さな村からも満遍なく集められたからである
それで映画があり戦争が終わって村に英霊となり帰ってくる幽霊を写していた
村に英霊となり亡霊となり村の社に帰ってくるのである

ある日、清作さんは、村の子供たちをつれて、帰ったら、かならずいこうと思おもっていた、源吉さんのお墓へお詣まいりをしました。そこは小高い山やまでありました。
「さあ、これが話をした源吉さんのお墓だ。お国のためにつくした村の勇士しだ。みんなよくお礼れいをいって拝おがみなさい。」
 子供こどもたちは、お墓はかの前まえにならんで、手てを合あわせて頭あたまを下さげました。

 村へ帰った傷兵 小川未明

この時日本全国が戦争一色になっていた、だからこんな小さな村にもそうした痕跡が残されていた、第一この狛犬の台座にこうした言葉を記すというのも違和感を感じる
それは戦勝祈願だからである
もちろん戦争には今でもいろいろな見方がある、それを全部を否定できない
でも戦争というとアジアからアメリカイギリスもかかわり世界的になる
でもこの一部落がこんな小社が戦争に関係づけられたということの事実である
その当時はこの小社でも戦勝祈願の社となっていたのである
国家神道化されていたのである
戦争という時、姉が従軍看護婦としてシンガポールの向かい側のジョホールバルの赤十字病院で地獄の苦しみのなかで働いたことを延々と聞かされた
遂に認知症になってもそのことを千回も聞かされた、だから戦争は身近にもなる

ただ70年も過ぎると忘れられてゆく、そしてこのように当時のことも忘れられていたがその狛犬の台座に当時のことが生々しく記されていたのだ
歴史とはこうして忘れられるのである、そして残された碑でも忘れられてゆく
注目もしなくなるのである
ただ自分にとってこれは衝撃だった、こんな忘れられような小さな部落に戦争を伝えるものが残っていたということがショックだったとなる
ここから当時をふりかえることになる
戦争という時戦後でも相馬地方で山に開墾に入った人たちが多い、15パーセントくらいいるとなるとその数は多いのである  

私は小池に引揚者で入った人がいることを知っている
そこに玉子買いにやらされていたからである
それから飯館村でも大倉から坂を上って木戸木には十軒くらいの開墾部落があった
そこは本当に辺鄙な場所なのである、そんなところでどういう生活をしていたのか不思議だとなる
浪江の山の方へ放射線被害が大きかた津島の方だとそこも多かった
それで苦労して開墾して住んだから強い絆があるというのもわかる
それがそこには住めなくなったのである
つまり戦争から戦後となるとすでに戦後でもその時は子供時代でも団塊の世代は戦争とかかわる時代だったのである

とにかく人間は常に時代が変わり忘れられてゆくのが早いのである
だからこの狛犬の台座に記されている字で戦争がここにも色濃く反映して影響して会ったことを知ったのである、歴史というのはこうして忘れられてわずかのものから回想することになる、それが大きな事実でも忘れられて小さな碑のわずかな文字が昔を語るだけだとなる、戦争も70年過ぎるとそうなってゆくのである




夢 (映画)黒沢明
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トンネル


敗戦後、ひとり復員した陸軍将校が部下達の遺族を訪ねるべく、人気のない山道を歩いてトンネルに差し掛かると、中から奇妙な犬が走り出てきて威嚇してきた。

追われるように駆け込んだトンネルの暗闇で私は、戦死させてしまった小隊の亡霊と向き合うことになる。自らの覚悟を語り、彷徨うことの詮無さを説いて部下達を見送った私はトンネルを出るが、またあの犬が現れ、吠えかかってきた。

私はただ、戸惑うしか無かった

戦死者が亡霊となって故郷へ帰ってくる、トンネルを出てくる
それを返すのだがそれが何か生々しいのである
戦死者の亡霊は小さな村の社から出征して帰ってくるがそれが亡霊となっていたのである未だに戦死者の亡霊は実際は日本中で彷徨っている
posted by 天華 at 14:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2019年08月26日

芙蓉が似合う飯館村 (新涼に訪ねるー人が住まないと建物も自然も活かされない)


芙蓉が似合う飯館村

(新涼に訪ねるー人が住まないと建物も自然も活かされない)

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ここは栃窪でありこの石碑は明治時代が多い

ところが上の方に行くと金毘羅の碑が多く江戸時代の碑なのである

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山津見神社

綿津見神社も飯館にあり対になってこの辺では本当に多い

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文化という時代である、この石碑は倒れていた
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大倉村の主要部分はダムに沈んだ
ダムになる前に行ったことがある、そこはまさに秘境だったのである

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芙蓉がいたる所に咲いていたーここは新しくできたふれ愛館である

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石がその土地に根付いて離れない

そんな感じの大きな石



蔵に映ゆ木槿や農家ここに古る

栃窪に古碑の並ぶや実りかな
                                                        

草深くフジクロセンノウ咲きにけり飯館に我がたずねきたるも

大倉の墓地またたずね人気なき秋の蝉の声ひびき静まる

大倉に我は休みぬ秋の蝉ここに鳴きにつ誰か住みなむ

夏草にうもれし碑かな大黒天その碑倒るも直す人なし

ひぐらしの森の奥よりひびきけり大倉暮れて我が帰るかな

ゆったりと赤と白との芙蓉咲き客を迎えむ飯館村かな

この石の土地に根づきて離れざり虫の音聴きて夕暮るるかな




芙蓉が似合う飯館村

峠越えて新涼の山の村
悠長なる時の流れて
赤と白との芙蓉咲き
二つの花の愛のそそがる
至福なる日の我にあり
ここに心安らかに客を迎えむ
広々とした所に
一軒一軒森に包まれた家
その花の大らかにふくよかに
山間の空を仰ぎ咲く
ここを訪ねし者よ
疲れし者よ、癒されむ
去りてもそが心に深く
その花の写し残さむ 




今日は涼しい感じだから飯館村まで行った、途中大倉により墓地とか古い碑を見た
江戸時代のものがあった、大倉は古い村なのである
葉山(羽山)祭りというのが残されていてそれは古いものなのである
この辺では葉山信仰が盛んなのである
ただ墓地にあったのは山津見神社である
これは栃窪村にもある、その本山が佐須にある山津見神社であり飯館村には綿津見神社もある、これは二つがセットになった神なのである
安曇族のもたらした神だとされている、とにくかこの神社は相馬地方に本当に多いのである、それはなぜなのかとなる

大倉村には人が住んでいる、少ないにしろ住んでいる、だから蝉の声を聴くときやはり人が住んいるのと住んでいないのでは大きな差がある
またそこに暮らしがあるとないのでも大きな差がある
人が住んでいれば蝉の声でも人をイメージする、秋の蝉の声がひびけばやはりその村自体が山村に住む人たちの秋を感じるのである
つまりそこに村があり人の暮らしがあるのとないのとはまるで違ったものに感じる
人が住んでいてければ原始的な森になる、そこから人をイメージできなくなる
そこに人が住んで暮らしがあれば季節の移り変わりがあり人のことを思うのである

飯館村にはなぜ秋の蝉が鳴くころ行っているのかとなるとやはり暑いと自転車では行きにくいからである、特に最近日ざしに弱くなり熱中症になったから怖くなる
今日は新涼であり気持ち良かった
だから楽に飯館村まで行けた
途中会ったのが新幹線で郡山まできて三春からこっちの方に自転車で来た東京の人だった新幹線は輪行できた、これはいい方法である、景色のいいところを回れるからである
そして二三日だとそれほど疲れないからである
東京から自転車できたら大変だからである
いい景色の所を回るには途中下車で輪行するのがいい
飯館村のキコリの宿は泊まれるようになった
ただ食事は出ないからそこは気をつけた方がいい、コンビニがあり弁当は買える

飯館村はいたる所に芙蓉が咲いていた、道の辻でもまでい館でもまた新しい交流館でも
芙蓉が咲いていた
飯館の花はひまわりの里としているが芙蓉の里である
ひまわりは他でもあり飯館村は芙蓉があっている
花というのもその土地にあったものがある
相馬市だと神社に古い藤の木があり藤の花である
鹿島だと草深く咲く月見草とかなり原町だとひまわりがにあっている
何かにあう花がある、飯館村は前から草深く森深く花が映える
フジクロセンノウというのも草深く咲いていた、これも飯館村にあっている
飯館村の不思議は花が他より純粋に美しく見えるのである
高山植物のようにも見えるのである

ただ正直そこが放射線物質のフレコンバッグが積まれていたり荒地になっているので荒涼とする、ただ花を植えたりはしている、でも荒れ果てたという感じになる
それは小高でもそうである、田んぼが草ぼうぼうになり荒地になっているのだ
それが嫌なのである、田んぼというのは自分も気づかなかったが田んぼが荒地になり草ぼうぼうになったとき蛙が消えてその鳴き声を聞こえなくなり鷺も消えたのである
だから田んぼというのは米を作るだけではない、生態系を維持するものとしてもあった
景観を維持するものとしてもあった、それに気づかなかった
その効用に気づかなかったのである、だから農業をただ食料をとれるだけのものとして見ることは間違っている、自然を生態系を維持するための機能があった
それは金にならないにしても自然と一体化してあった
蛙の鳴き声が聞こえず鷺でも見れないとしたら淋しいとなるからだ 

景観(自然)と生業と暮らしが宝だった!

飯館村というときまさにこれがあったとき宝だった、それが全体として価値を作っていたのである
ただそこは貧乏にしても外から来た時でもなんともいえぬ味わいを出していたのである
そもそもそういう価値は全体が作り出すのでありそれが破壊されたとき失われたのである
それが原発事故の罪深さでありそれが飯館村に一番象徴的に現れたのである
多額の補償金をもらって外の便利な街に移り住んで良かったという人も現実にいる
外からただその暮らしの現実を見ないで理想化するのは問題だということもある
畑を趣味でしいてもそれがいかに苦しいものか理解している
畑仕事はブヨにくわれた、キジに野菜が食われた、ネズミに食われた、盗まれた、種が高い、肥料が高い・・・
様々な問題があり外から見ているだけなのとは現実は違っているからだ
ただ旅人のように訪れる時そうした苦労も人間の嫌な面も見ないですむからいいのである
それでツキデウスの人間の暮らしを神が隠したというとき自然の中に隠されるように人間の暮らしがあるときそこは桃源郷のようにいいものとなったのである、でもこの世に桃源郷などないのである、それはありえないから桃源郷なのである

までい館でアスパラガスと大きなトマトを買った
それは飯館村で作ったものである
そこでは放射線量を計っている人がいた
放射線量は量に作用される、多く食べれば体に蓄積される、少なければそうではない
それも確かである、相当の量を食べないと蓄積されないだろう
飯館村に住んでいた老人が山菜をキノコでも食べていた、その人は70以上とか80とかなっているから放射線は関係ないとして食べていたのである
その人は外から派遣された人ではなかった、飯館村の人だったのである
真野川の水質検査している人は中央から派遣されている人である
この前は農水省の人とあった、まだそういう人がこの辺には派遣されている
トラックが放射性物質を運んでいるのだろう
道路が狭いから危険なところがあった

までい館の前は住宅地化して家が建つ、その前の古い農家ではその土地を売って補償金でも多くもらったから新しい家になっていた
何か飯館村では補償金の額が大きかったから外に出る人も多く残る人と残らない人でもめたとかあった
現実に交流館とか他に学校でも建物は立派なのである
でもそこに住む人がいないことが致命的なのである
子供すら外から通っているのであり住んでいないからである
村長の孫とかでも通っているのである、それもは矛盾である
なぜなら村長自体が住まないのだからその他の人も住まないとなるからだ
帰ったのは二割弱というから少ない、そのことで人が住まない牛を飼うことなどの暮らしがないということで前に来たような感覚になれないのである

やはり人間は建物でもそこに人が住んでいないければ活きてこない
施設を立派にしても活かされないのである
それで立派な施設が南相馬市にあってもそこで働く介護士などいないから青森にこの辺では介護者が移されているのである
つまり立派な施設が建物がなくても人がいれば活きるということがある
人がまずいなければ建物でもなんでも活かされないのである
前に着たときも芙蓉が咲いているのが印象に残っていた
でも何か前の印象とは違うのである、それが残念なのである 

ともかくようやく涼しくなり自転車で遠くに出かけられた、暑い時はぐったりと疲れて寝ることが多かった、秋になれば遠出ができる

posted by 天華 at 21:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

津波や原発事故以後仙台市に移り住んだ人が多い


津波や原発事故以後仙台市に移り住んだ人が多い

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若い世代がこれだけ流出している

総務省が28日まとめた2012年の住民基本台帳人口移動報告で、仙台市の人口集中が鮮明になった。東日本大震災の避難者らが流入している仙台市の転入超過は9284人となり、東京23区に次いで全国で2番目に多かった。


福島県は人口流出が縮小したが、転出超過が多かった全国の上位20位に郡山、福島、いわき、南相馬の各市が入った。宮城県と東京都に各2000人以上が転出した。 


昨日シシドスーパーの前で話した人は小高の人であり家族が多い、7人とかいたと言っていた、それで小高の家を30坪くらいのが売れたと喜んでいた
30坪では狭すぎる、でも何か田舎に住みたいという人に売ったという
ただそんな狭い家で7人もいたのか?
土地持ちとか農家ではない、財産をもっているという人ではない
ただ7人とかなると一人でいくらと補償金をもらえるからかなしりもらったとみる
10人もいた人は一か月百万以上もらったと言っていたからである
まだそうして田舎では大家族で暮らしている人が多いのがいるからそうなる

その人は今は相馬市に住んでいる、家族は仙台に住んでいる
この辺では人口が相当に移動した、その移動先が仙台市が多いのである
ある人は名取に移り住んだときいた
そこで小高に残っている親に部屋も用意したから住んでくれと言われているがいかない
名取というときすでに仙台市のつづきなのである

とにかく人口が移動しているというとき南相馬市でも小高の人がかなり住んでいる
知っている人が帰ったのかと思ったら小高に住んでいたのである
南相馬市では小高意外の原町、鹿島に移り住む人が多い、また相馬市でもそうである
新地でも山元町にも移動している
山元町に土地を買って農業をはじめた人もいる、山元町の被害が大きかったからである

とにかく仙台市に人が集中する、他県から東北でも移る人が多い
青森の津軽鉄道の終点の中里でタクシーに乗ったらその人の息子は仙台に住んでいるという、仙台市となると図のように山形の人口が減り仙台市に移住する人も増える
そして私の家のユニットバスを百万で作った人の家は面白山とかの手前に住んでいた
そこでは春だったが雪が残っていると言っていた

もともとここは仙台は鉄道でも近い、仙台中心になりふすい地域だったのである
福島市はクルマでしか行けないから不便なのである
それず病院でも仙台へ行く人が多かったのである、今でもそうである
震災以後今度はさらに仙台へ人口が移動した

現代は広域社会であり人が移動しやすい、仙台だと遠く感じない、日帰りでも普通に行き来できる距離なのである、東京になると遠いから行き来できなくなる
それで仙台だと故郷から遠く離れた感じがなくなる、移動しやすいのである

ただなぜ福島市とかいわき市で転出が多いのか?
転入が多いはずだが転出が多いのか?この理由がわからない
いわき市には双葉とか大熊辺りから二万人移動して家を建てたとかあった
そこで軋轢がありもめた、ここでも小高の原発避難者と津波の被害者は口もきかなかったというのはわかる、津波の被害者は補償金はもらえなかったからである
一時は転入者が多かったが逆に転出者が増えている
南相馬市では老人は南相馬市内と相馬市とかに移住している
そして若い世代は仙台に移住している
老人はやはり故郷の近くにいたとなりそうなっていることはわかる
つまり小高の人は原町とか鹿島でも相馬市でも移住して住んでいる
それも老人が多いのである

いづれにしろ広域社会になるとその住む範囲が広くなり移動もする
仙台市となるともう仙台圏になり南相馬市でもそういう圏内に入る
だから仙台とゆ行き来は盛んであり移住も多いとなる
常磐高速ができた結果、ユニットバスの会社も工事をしにきていたとなる
仙台市のような大きな都市は拡張し肥大化してゆく、その周辺をまきこんでそうなる
そして周辺地域は山形のように人口が減り吸収されてゆくのが現代なのである




posted by 天華 at 08:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2019年08月25日

蝉に虫の音 (夏から秋へ)


蝉に虫の音 (夏から秋へ)

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蝉鳴くや6号線を朝走る

集まりぬでで虫あまた田舎かな

庭に咲く芙蓉の余裕客迎ゆ

夜に鳴く虫の音聴きぬ隅の石


朝目覚めあまた昼顔咲くを見ゆすずめ来たりて一日はじまる

畑にそカンナの映えて朝の蝉盛んに今し鳴きにけるかな


今は夏と秋が混交している、蝉の声は夏である、季節的には秋になるのがまだ暑い
でも秋と感じることもある、虫の音や芙蓉は秋である

カンナは夏である、畑にカンナが咲いているのはあっている
でもその畑でわずかのものを作っている女性がいてその話を聞くともう嫌になる
キジに食われたとかブヨにさされたとか蛇がでてくるとかちょっと手を入れないと草ぼうぼうになっていた
その草を勝手に草刈機で刈った人がいて金を要求されたとかまた金を払わされる
金に窮しているから頼まれないのにも草をかって金を要求する

そもそもその畑をもっている人は金がないのだから要求しても無理なのである
そして自分がいつも払わされている
その畑どれるものはほとんどないのである、キュウリは固くなくてうまいけど他は何もとれないのである
だからキュウリ一本が一万もしているのである、これは嘘ではない、それだけ畑は趣味でも金がかかるし手間もかかるだけなのである
ただ荒地にしておくよりはいいとして援助しているが困っている

芙蓉が庭に咲いている、芙蓉はなにか大らかである、それで客を迎える
客を迎えるには余裕が必要だった、自分は介護十年してそれからも何か余裕がなかったのである、家の中もかたづかなかった
それでかたづけたりして余裕がでた、何か余裕がないのでお茶も出せないということがあった、それよりも自分は今までそんなふうにして客を迎えたことがなかったのである
今になり一人になったからそうなったのである

田舎の一日はこんなふうに始まる、でも田舎だって車がしきりに通るし前の田舎とは違うのである、木陰に休んでいたらそこはクルマが来ないところと見ていたがやはり車が結構きて休めなかった
この辺で損失は右田の松原が津波でなくなったことである
それで木陰なにるところがない、そこではいつも海からの風が吹いて松影の下で休んでいたからである、そうして憩う場所がなくなったことの損失が大きい
かといって津波に文句を言うことはできない、ソーラーパネルはあるだけで暑く感じるのである
ただ山の方には涼しい場所がある、でも自転車で遠いと暑いと最近疲れる
熱中症になることも怖いのである、だから原町辺りまでしか行かないのである

隅の石については「石の涙」の詩で書いた 

隅の石について(石の涙の詩)




2019年08月24日

原町と鹿島の比較 (原町に小高の人が住んでいた、原町も鹿島も復興している)


原町と鹿島の比較

(原町に小高の人が住んでいた、原町も鹿島も復興している)

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原町駅前の丸屋の十階建てのホテル

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サンエイとは相馬市に本店がある海苔店である

隣にそのその店があった

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ここはニトリの家具店になった
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鹿島区の障害者の学校

これは大きいものである




今日は電池で使うデジカメをもっていった、その単三の電池がなくなっていた
それで電池を買おうとコンビニに入った、でも高いと思い百円ショップに行った
そこで単三の電池が四本でアルカリでも百円だった
それを今までダイユーで買っていたので失敗した
400円とかになる、ダイユーの中に百円ショプがあってもわずかのものしか売っていない、こういうところが鹿島では不便である

そしてキクチスーパーで売っているのものが原町のキクチで売れ残ったものなど新鮮でないものを鹿島に置くとか言われる
品ぞろいも鹿島は悪い、前はシシドスーパーがなかったので独占していたから余計に品物が悪いとか高くついていたのである
原町だと競争があるからいいもので安いものを置くとなる
今度大木戸にシシドスーパーができる、新鮮な野菜を置くからこれも便利になる
それから駅前にヨークベニマルが再開する
そして今度廃業したスポーツ店から家具のニトリが8月30日に開業する
だから原町は相当に前の状態に復興している

それから六号線にサンエイ海苔店がありその隣にサンエイという6階建てくらいのホテルができた
ホテルはこの辺でまだ増えている、というのは小高とか特に浪江や双葉大熊の原発事故関係の仕事がありそういう人達が外部から来るからかもしれない
一時はホテルが不足して困っていた、それでプレハブの宿泊所が相当数できた
ホテルと言えば小池にも外部から来る人たちのためのホテルができたことには驚いた
それだけまだ需要があるということなのだろう
そして一番目立ったのはマルヤの駅前の十階建てのホテルである
これもやはり外からまだ来る人が多いためなのか驚く

道の駅で休んでいたら知っている人にあった、小高の人だった
小高に帰らず原町に住んでいたのである、意外と今は原町に住んでいる小高の人が多い
それから浪江の人もあれだけの復興団地があり住んでいる人が多い
原町では人口は小高の部分で減ったが実際は外部から入ってきている人が多いから減っているように見えない、なぜなら浪江町民だと南相馬市民になっていないから人口にならないからである
鹿島でも外から入って来ている人が本当に多い、それはちょっと話すとわかるからである新しい街が二つくらい町の中にできた感じだから当然だとなる

原町だと住むには便利である、一人暮らしでもスーパーも多いし惣菜も多様になるからいい、鹿島では弁当屋さえなくなったからである
外食でも原町だとしやすいのである
ただ別に車をもっている人は関係ない、すぐに原町でも相馬市でも行けるからである
だから私は自転車でしょっちゅう原町に行っている、でもそれにも限界がある

そして思ったことは今の時代はどうしても原町くらいの人口がないと標準の生活ができないと思った、百円ショプがないと高くつくからである
それと原町に住んでいれば車が必要なくなる、自転車で十分に買い物でも用をたせるからである
小高の人は女性だけど車をもっている、でも小高の人でも今はあまり金に余裕がなくなっているみたいだ、今は何の援助もなくなっているからだ
どういう家に住んでいるかはわからないが仮設のように無料ではないから金がかかる
車をもっているとまた金がかかる
その人は仕事で車を使っていたが今は仕事していないから車は必要ないかもしれない
車は金がかかるしこれからさらに年取ると危険になり免許を返納せざるをえなくなったりするからだ
でも原町に住んでいればまず車がなくても生活には困らないのである
遠くに行くのには困るとしても別に原町内で十分用はたせるからである
そこで節約もできるからいいとなる

何か老人は街中に便利な場に集めて暮らさせた方がいいような気がする
駅前とかにコンパクトシティ化して施設も作りそこに老人を集めた市があった
そうなれば別に車も必要がないのである
なぜその女性が小高に帰らないのか?
それは年だし不便だからそうなっている、老人はまず復興の足しにならない
むしろ世話される方になっているからだ
そこで南相馬市は介護士でもいないから青森にみんな介護される人は送られている
看護師だってたりないのである
介護する時一軒一軒田舎だと広いから回ると不便になる
一か所に集めると介護しやすいとなる

とにかくどうししても街作りでも高齢化に適したものが必要になる
高齢者を優遇するというのではなく負担を減らすために必要なのである
でも人口が一万くらいだとそういうコンパクトシティは作れない
原町くらいの人口規模がないとできない、実際に作ったのはもっと大きな都市だからである
社会が広域化するとき広域的に街作りも計画するようになる
ただ小高でも鹿島でもいい面はあった
特に夏は鹿島だと右田の松原は日影になりそこで自分はいつも夏は浜風を受けて休んでいたのである
今は川岸の土手の道が木陰の道になっているのでそこをいつも通っている
一万の規模だとさらに静けさがある、原町は比べると都会になる
だからなんでもいい点と悪い点がある
今思うと右田の松原がなくなったことはショックだった、その損失は大きい
憩う場がなくなったからである

ともかくこの辺では小高とか浪江とかは依然として復興していないのである
ただ原町になるとヨークベニマルでもシシドスーパーも新しくできるとか復興している
それは人口そのものは減っていない、浪江でも外部から入ってきた人たちが多いからである
原町でも鹿島でも復興している、鹿島でも障害者の学校が建設中でありまもなくできる
それが大きいのである、障害者がそれだけ多いということである
全国だと一千万いるとか本当に障害者は多いのである
これも相当に負担だと思った
障害者であれまた介護する人であれかえている人が本当に多い、そういう時代なのであるそれが日本を圧迫しているのである
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若い人はなぜ老人を理解できないのか? 老人の心境(安住する場所)


若い人はなぜ老人を理解できないのか?

老人の心境(安住する場所)



老人は新しいものを受け付けない
これまで形成して組み立てたものの中に生きる
空間でも時間の中でアイディンティティ化したもの
時間軸で生きるようになる
若い時は空間をどこまでも駆け巡る
マ―キューリーのように動き回る
でも老人になると鈍重な土星のようになる
老人は人でも外界でも時間の中で作られたものに生きる
それで今より過去に生きる
だから死者は死んでいない
その人の中で親しく生き続けている
むしろ新しい人を物を老人は取り込めない
今まであったものが親しくその世界を形成している
それは固陋な古い家であり神殿のようでもある
その柱は時間軸の中でともに存在した人でもある
そこに新しい人は入りこめない
時間軸で形成した固定して閉ざされた世界
時間の中でアイディンティティ化した世界
老人はその中に生きている
大きな大地に根を張った古木
時間の中で成長してきたもの
そういうもののなかに安住する
そこに昔からあった石
そこに座り見慣れた風景の中で安住する
長くともに生活した家族は死んでも生きている
だから死者に話しかけて生きつづける
死者が老人には生者より親しいもの
新しい人の名前を覚えることができない
新しい人はその時間軸で形成された空間に入れない
堅く拒んで入れない
老人は過去から今へつながっているものの中に生きている
新しく生成したものは存在しない
固陋な老人のアイディンティティ化した世界は変えられない
それは古木のように大地に根を下ろして変わらない
そこに老人は深く安住して動かない
その建物は完成したものであり新しく変えることはできない
その中に長く一緒に生活を共にした人も生きている
死者は老人の中では死んでいない
むしろ若い人を認識できない
名前も覚えることもできない
老人の中ではそうして新しいものを取り込めない
ただ古い家や神殿のようになっている
一時代に形成されたアイディンティティ化されたものに生きる
新しい時代を拒否して受け入れない
変化できないのが老人の世界
そのために世代の差が埋められないのである

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ソリドゥス金貨(ソリドゥスきんか、Solidus)は、4世紀のローマ皇帝・コンスタンティヌス1世の時代よりローマ帝国・東ローマ帝国で鋳造された金貨の総称。東ローマ帝国では「ノミスマ」(ギリシア語: νフμισμα)と称された。11世紀ころまで高純度を維持し、「中世のドル」として東ローマ帝国の内外で流通した。

中世フランスや南米などで使われた通貨のソル(Sol)、中世イタリアで使われたソルド(soldo)、中世スペインで使われたスエルド(sueldo)はソリドゥスに由来し、ペルーでは現在もヌエボ・ソルという通貨が使われている。

ドル記号$の由来ともされる。また、兵士(ソルジャー、soldier)という語は、「ソリドゥスのために戦う者」という意に由来する。

solidとはまさにこうした純度の高い金貨である
老人は純度の高い精神性を追求して表現するのに適している




人間は意思疎通ができないというとき職業が違ったり住む場所が違ったり男女間でもそうだし特に世代間で意思疎通ができなくなる
若い世代と老人のギャップは大きい、まず若いという時その心は外に向かう
だから空間的に生きる、広い世界を見たいと思う
自分自身にしてもこれだけ旅行したのはそのためである
女性でも若い時は冒険的になり遠くに出る、今なら外国にも普通に行く
そしてインドでもインド人と結婚した日本人女性がいた
それには驚いたが良く話は聞けなかった、そういう余裕もなかった
ただ女性一人で旅行していた人もいたことには驚く

若い人は空間を生きるのである、まだ見ていないものを見たいという欲求が強烈なのである、だから故郷から出たいとなるのが普通である
故郷だったらそこは常に見るものも同じでありあきるからだ
だからむしろ故郷を嫌悪して外にでる
自分自身でも故郷を嫌悪していたから東京の大学に入った
それはどうしても親元から故郷から出たいということが動機となっていたのである
勉強する気持ちもなにもなかったのである
それが自分のような一人っ子のわがままなものには良かったのである
だから東京に行くとか20代は一番冒険的だったのである
これは自分だけではない、みんなそうなのである
私の母は内気な性格であり冒険的なところのない人だった
その人さえ東京に出て女中になり東京の人と結婚したのである
それはその当時相当冒険的なことだったろう
そこで夫が工場で働いていて事故で死んだ故郷に帰ってきたのである

とにかく自分の場合、50代でバックパッカーで外国旅行したからその時も外部志向であり空間を生きていたのである、空間の拡大の中に生きていた
これは他の人にはないし異常だったと思う
50になればたいだい内向きになってくるからだ
ただ外国旅行というときもとから外国に憧れていたからそうなった
私が失敗したのは田舎に友達もいないし何か情報にうとかったからそうなった
ただ外国に対しての強い憧れがありそれで50からでも外国旅行したのである
だから本当に辛い苦しいものとなった
こうしたきついことは若い内にするべきだったのである

いづれにしろなぜ老人のことが理解できないのか?
むしろ老人になると若い人のことを理解している
それはみんな若い時を経験しているからである、ただ子供時代になるとなかなえ理解できなくなる、子供の時代は特別な時代でありその経験はもうできない
そして大人になると子供時代のことを理解できなくなる
でも若い時のこと大人になってからのことは理解できるのである
若い時は若気のいたりがあるというのもわかる
必ずエネルギーがありあまり噴出して過ちを犯すからである
それがその時で終わると思うが実は老人までその時の過ちをひきづる
それが若い時はそれで終わると思っているからそういうことをするのである

不思議なのは若い時は老人のことをなにやかにや言うにしても老人のことを理解できないそしてみんな60くらいで死ぬとか言う、でも実際は今なら百歳まで生きるようになる
若い世代は得にそうなのである、早い内に死ぬからいいとはならない
そして60過ぎても誰も早く死にたいとは思わないのである
そして60とかなると20代からするととてつもなく先のように見えるのである
でも50、60になるとあっというまに過ぎたとなる

ただ年齢をふりかえるともう40になると白髪でてきたりするから老化してくる
それで40は何か人生の分かれ目のようになる
それで結婚しないとか給料が安いとか非正規の底辺労働者が嘆いているがその心境がわかるのである、40はまだ挑戦できる時代だが50になると無理になる
50になるともう初老になってしまうのである、ところが40でも50になるのはすぐなのである
50から外国旅行でバックパッカーしていた自分は普通ではない人間だったのである

とにかく自分は本当に老人になった、体力的にはまだ体に柔軟性があり運動もできる
でも精神的には老人になっている、介護になってから十年は旅行もしない、ただ毎日同じ場所にいる、外に遠くに行くのが億劫になった
仙台にすら今年は一回行ったのかとなる
何かもともとそうだったのが人ごみの中に行くの余計に嫌になったのである
もともと自分自身の性格は山の中で一人石のようにしているのがあっていた
人と会うことや人ごみの中に人と接することが向いていないのである
その気質も異常化する、引きこもりの性格がもともと自分にはあっていたからこうなったのである

なぜ自分が老人になったということを意識したかというとこの詩のように心境がなっているからだ
そして老人の心境を理解したのである
例えば老人は新しいものを受け付けない、新しく接した人の名前を覚えられないのである特に一回切りだとかなると余計に覚えられない、それで認知症になったとき遠くの子供の名前やその人自体を忘れるというのはありうる
それが身近にいないからそうなる、でも身近に暮らしていればそういうことはない
いつも一緒にいた人は覚えているのである

そして気づいたことはいかに長く一緒にいた人がその人に影響して人間を作ったいたかということである
私は結婚もしないし子供もいない、でも親と一緒に60まで暮らしていた
姉ともそうだった、だから他人にとっては嫌かもしれないが姉と母のことをこうしていつも語っているのである、それは夫なら妻のことを妻なら夫のことを語るのと似ているのだいい年して親にこだわるというのもわかる
でも現実がそうなっていたのだからどうしようもないのである
自分にとって一番影響して親しいものは姉と母だったからである

そして死んでわかったことはそれだたけ長く一緒に生活していると死んでも生きているという感覚になるのだ
これも自分だけではない老人の心境なのである
それで認知症になった人が死んだ人と話しているということが理解できる
別に認知症でなくても死んだ人と話しているのである
その時死んだ人は死んでいないのである

今生きている人より死んだ人が老人には親しい

死んだ人の方が生きている人より身近である

こういうことが一般的になっているのが老人なのである
だから死者の方が親しいから死者にいつも話しかけるとなるのである
その時死者は死んではいないのである

そして老人の世界観はこれまでの生きた人生の中で人でも空間でもアイディンティティ化した一つのコスモスを形成している
それは変えられないのである、だから新しいものを受け入れられないのである
固陋な神さびた神殿のようなものを形成してその中に生きているのである
それでそこに若い人は入れないとなる、拒絶されているのである
老人が安住する世界はそうして一緒にともに生きた人がいて人生の中でアイディンティティ化したもののなかに生きることなのである
その時精神が安定するのである
だから原発事故とかで避難した老人が故郷に帰りたいという心境がわかるのである
それはそこで長く生きていたから環境でも人でも一体化して生きていたからそうなる
それがまるで違った環境に移住することは苦痛になるのである
ただ南相馬市だったらその内に移住したらそれほどの違和感がないかもしれない
小高の人が原町に住んでも鹿島に住んでもそれほど変わりないとはなる

老人は空間を生きるより時間軸に生きるようになる、時間軸に生きるということは空間を移動するのではない、一か所に定着して生きることである
そして物事でも深く見る、深く鑑賞するのに向いている
だから本でも深く理解できる、そして鑑賞できる、それで批評家に向いてくるのである
批評はやはり一段と高いところから心境からしかできない
若い人はどうしても人生がわからない、老人が理解できないというとき老人になる経験がないからである
老人は人生をふりかえり誰でも経験しているから若い人のことも理解できる
40の人でも自分があの時代はどうだったとかふりかえり理解できる
何か焦燥感が一番出る年代だということを経験で知っているからである

でも40代の人は60以上の人のことをまだ理解しないのである
60以上になるともう死に向かっている
この世から離脱してゆく年代になる、だから40の時のような焦燥感も何もなくなっている、あきらめにもなる、どうせまもなく死ぬんだとなるといろいろ悩まないのである
むしろこの世から消えるのだから気持ち的には楽なのである
何かを成そうともしない、あとは死ぬだけだとなれば気持ち的に楽になるのである
それも老人にならないとわからない、その老人というのは今なら70以上だと思う
老人はどんな人でもどうしても一種のあきらめになり悟ったようになる
でも別にこの世の欲がすべて消えるわけではない、簡単に欲は消えない
残り火のようにかえって性の欲でもなんでも燃え上がることがある
それだけ人間の欲が強いものであり消えないということも実感する
だから老人がそういうことで問題を起こすことも理解できるのである
ただ老人の心境は詩のようになることは確かなのである



2019年08月23日

「悲しむ者は幸いなり」母は悲しむ人だった (石の涙(詩)−家造りらの捨てた石が隅のかしら石になった」)


「悲しむ者は幸いなり」母は悲しむ人だった

(石の涙(詩)−家造りらの捨てた石が隅のかしら石になった」)


家を建てる者たちが捨てた石。それが要の石となった。これは主がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ』

家造りらの捨てた石が隅のかしら石になった
(マタイ21:44)

イザヤ書28章・・・・・・尊い隅の石
「わたしは一つの石をシオンに据える。これは試みを経た石、固く据えられた礎の、尊い隅の石だ。7」28:16
 
 石の涙 

石が涙を流す
じっと耐えていた
石から涙が流れる
私の中にその石をかかえている
それは死んだ私の母だった
苦労して生きた母だった
目立たぬ母だった
私の中にその母が生きている
百歳まで生きた母だった
人は死んで何を残すのか?
その人生を残す
骨や灰にその人はない
その生きた人生にその人がある
その生はまた誰かの生となる
その人生があなたの力となる
死者は生者の中に生き続ける
死者はあなたを見ている
かくて人はその生をおろそかにできない
人生はあなただけのものではない
必ず周りに後の人に影響する
カルマともなる
あなたは今苦しい
あなたは今悲しい
でも耐えねばならない
ああ 石は涙を流す
しかしその涙は真珠ともなる
「悲しむ者は幸いである」
汝は生きねばならぬ
耐えねばならぬ
苦しみ悲しみ生きた者がいる
その死者があなたを見ている
あなたの生は人生はあなただけのものではない
後の世の人にも影響する
隅の石が後の世の柱となる人生
そして死者はあなたをじっと見ている
安易な生をおくるなかれ
その生はむなしく消える
あなたは恨んではいけない
苦しみと悲しみに生きる生
石の涙を流す人生
その涙が真珠となる人生
そしてあなたは死んでも同じように生き続ける


これは試みを経た石、固く据えられた礎の、尊い隅の石だ

試みを経た石とは人生を悲しみ苦しみ生きた人のことだろう、この世とは楽しむ場所ではなく苦しむ悲しむ場所なのである
だから「悲しむ者は幸いである」という意味を理解できないのである
どうして悲しむ者が幸いなのか?誰もこういうことを望んでいないのである
それは別にキリスト教徒でなくても人生は不可解である、ただ人間は必ずこの世ではいろいろなことで苦しみ悲しむ者としてある
そういうことがさけられないのである
私は楽しみ笑い暮らして人生を終えた、何の苦しみもない悲しみもないという人生があったならどうだろうか?
そういう人生を望むし誰も苦しみ悲しむ人生を送りたくないのである
貧乏な人生だって送りたくないのである

でもこの謎は尊い隅の石だということにある、中心の石ではない、目立つ石ではない、忘れられた石でもある
それがなぜ柱の石となるのか?
つまりこの世では中心となるのは偉い人達であり地位ある人達だと思っている
この世を動かしているのは決して隅の石ではないのである
ところがこの世は実際は大勢の庶民から平民から成り立っている
一部の人ではない、そういう庶民がいてこの社会がありうるのである
だからこそその隅の石が尊い石だとなる、でも現実に常に上級国民がいて下級国民がいて下級国民はただ虐げられるだけだとして不満が大きくなっている。 

高きものが卑(ひく)くされ、卑(ひく)き者が高くされる

これも原発事故であった、「安全神話」を作ったのはみんな高き人たちだったのである
政治家から官僚から科学者から学者からマスコミとか現代社会で権力をもつ人たちだったのである、高級国民だったのである、それが事故でその権威を喪失して卑いものとされたのである、だからこの言葉が現実化したのである

しかしこの世を社会を支えているのは隅の石であり目立たないものでありそれなくして社会はありえないのである
医者がいたとして医者は優遇されているとなるがその下に看護師がいて医者でもありうる
医者だけでは何もできないのである、すると隅の石とは看護師になる
隅の石となって働く人々がいて病院でも成り立つ、病院で掃除する人でもそうである、医者が高級な仕事としてあり掃除などは下級の仕事だとなる、でもやはり病院を支えていることには変わりないのである

明らかなことは経営者とかなるとそうしてただ上に立ち威張るだけではできない、その人は事業を起こしても経営者になっても他者のために物一つを持ちたくない人だったのである
ただ上に立ち威張っていたいだけだった、他者のためにするというより他者より上に立つ優秀なものとして見せたいために事業を起こしたとなる、技術者でもそのこと自体に動機に問題があった
原発事故でもおかしなのは原発が爆発したとき技術者が心配していたのは原子炉でありそこに生活していた人たちではなかった
その時率先してすべきことはそこに住んでいる人たちの安全をすみやかに計ることだったのである
でもそこに住んでいる人たちのことは眼中になかったのである

この世を支える者は隅の石だ

悲しむ者は幸いである

この言葉は理解しにくい、なぜならみんなそんなこと望んでいないからである、ただそういう例が死んだ私の母には言える
それでも母が理想的な人だったかとなるとそうではなかった
苦しみ悲しむ人だったが庭が無駄だと花が無駄だとか一切金にならないものは否定していたのである、そういう生い立ちがありそうなったともなる
働かされつづけていたからである、何か余裕があることをできなかったからである
趣味なども一切ない人だったからである
それも異常化していた、そういう親のもとで育ったらどうなるのか?
この世の美とは関係ない索漠なものとなっていた、だからどうしても苦しみ悲しむだけの人生が肯定できないのである
確実に楽しみ笑う人生も不可欠なのである、もし毎日苦しみと悲しみの人生だったらもう地獄になる
快楽しろというのではない、なんらか健全な楽しみがなかったら人生は息詰まるようなものになる
飲めや歌いやではない、苦しみ悲しむばかりの人生は肯定できないのである 

ただもし苦しみ悲しむこともなければ人間は浅薄になる、だから必ず苦しみと悲しみは人間には必要なのである
だから悲しむことが私にはなかったという人がいたらその人は人生をについて人間について何も知らず終わるとなってしまうのであるそしたらどんな宗教でも理解することは不可能だとなる
飲めや歌いやで何の苦しみ悲しみもない人生だったらそれはかえってむなしく消える
家族でも何か苦しみがあり協力するとき家族になる、それは血縁だからともならない
家族の結びつきは夫婦でもそうして苦しい時があり結ばれ真の家族となる
もしそれがないと家族でも強く結ばれない、夫婦でもそうである、それは家族だけではない、何か苦難があった時、そこで協力したとき強い結びつきが生まれる、だから津波や原発事故でもそうである
苦難がありそこで協力して立ち向かう、そこに強い結びつきが生まれる
でも現実はばらばらになって結びつきが破壊されたともなる
こんなところには住みたくない、補償金をもらって楽した方がいいとなったのが大半でありゴートタウン化したのである
結局自分でもそうだが口では言うのは楽でも現実になるとそれだけ厳しいということなのである

夜のふけて虫の音聴きぬ隅の石


2019年08月22日

2019年08月21日

姉の北海道旅行の写真 (姉がいて自分は自由に生きることができた)

姉の北海道旅行の写真

(姉がいて自分は自由に生きることができた)

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コロポックル

この写真がたまたまでてきた、旅行の写真はかなり残っていたが何か貴重なものにはならない、この写真は姉らしいものなので出した
姉はおおらかな陽気な女性だったのである
いつもにこにこ笑っていたのである

だから認知症になって一時自殺したいと言ったとき悲しかった
社交的な女性でも認知症になってから誰も来なくなった
話がまともにできなくなったからだ
話好きだったから本人もがっかりしていた、
話す相手は自分しかなかったからだ
そして戦争の話を千回聞かされたのである

でも時間が過ぎるのが早かった
死んでから8年とかなる、それは津波とか原発事故とかあり余計にその間にごたごたして時間がまたたくまに過ぎたのである
十年がまたたくまに過ぎてしまったのである

ともかく何か死んだら記念になるものを残すといい、それで偲ぶことができる
姉とは子供の時からずっと一緒だった
60年間一緒だった、その長さがやはり忘れられないものとしたのである
もし結婚して他の家に行っていたらこうはならなかったのである

また姉がいたから中学生の時父が死んでも家を維持できたし繁栄できた
私が勉強嫌いだったが大学に行けたのもそうである
あと何もしないで旅行とか自由な生活を送れたのもそうである
私は学校とか会社には適応できない人間だったからだ
そういうことができたのも姉がいたからだとなる

ただこれにもプラスとマイナスの面があった
そのために社会で働かないから社会性がなく介護になってから苦しむ結果となったのである
ともかく学問でも芸術でも追求できたのは姉がいたからだとなる
旅行していても何も言われなかったからである
ただ自由にしていいとなっていたのである
ひきこもりでも別に何も言われないのである
かえって旅行することをすすめられていたのである
だからこういう人生になったのも姉がいたからだとなる


あおり運転の心理(車は人格を変える)−スクランブル1{テレビ朝日)

あおり運転の心理(車は人格を変える)−スクランブル1{テレビ朝日)

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●車の中がじぶんにとってリラックス空間

これはクルマの中が外から遮断された密室となり自分の自由な空間となる
そこには相手がいない、他者がいない、いたとしても親密な人でありそれは気を使う他者ではない
その空間は他者を排除して受け入れない空間なのである
プラベイトな空間である、プライベイトとは奪うという意味であり空間を奪う私的なものとして奪うことなのである

そこにパブリックが欠けるのである
共有する空間という意識がなくなる
専横的的にふるまう空間なのである

電車ならそこは他者がいて気を使うから共有空間である、そこに他者でも情を通うということがある
老人席とかが用意されているのもそのためである
つまり車はこうして極めて私的なものとして相手を無視して暴走する性格を有している
それでハンドルを握ったとき人格が変わることを意識しろとなる
日ごろ穏やかな人でも人格が変わることが怖いのである
そうしてそういう人格は形成されているから車に乗らない場でもそういう性格をひきづるのである

とにかくクルマは他者に対する共感性を喪失する乗り物である
歩いて旅すれば旅は道連れとなる
そこに情が自ずと育まれる、そして別れるときもその後姿をずっと見ている
車は例えばそういう情を育むものが一切ない
瞬間的に別れを惜しむ時間もなく暴走して差ってゆくのである
つまり必ずキレル乗り物なのである

駅だったら待つ時間がありその時間が人間的時間を造りだしている
何かそこで十分でも待つから話したりする
それだけでも何か駅を人間的なものにしている
クルマにはそういう人間的時間とか共有する時間がないのである
プライベイとに暴力的になるものもわかる
自分だけの空間で他者への配慮がなくなる
それであれは極端にしてもなぐりつける

オレの邪魔するな)となる

そこには忍耐心も情もはぐくまれない、それは牛馬とか動物と一緒に生活したとき相手は生き物だからそこに情が育まれた
馬でも牛でも名前を呼び人間のようにも扱ったから情が育まれていたのである
クルマ社会の人間は何か他者への配慮がなくなる、クルマは他者を排除してキレテ暴走するのである
だから現代の人間はこういうクルマ人間になっていることが怖いのである

ハンドルを握ったら人格が変わる

これは林秀彦がテレビが人間どれだけ変えたか自らテレビとかかわってそのことを指摘した
ラジオがナチスを生んだというようにテレビで人間の人格まで変えられていたのである
道具はなんらか人間そのものもを変質させるから怖いのである
それはパソコンでもスマホでもそういうことがある
人間はやはり対面的でないと本当のコミ二ケーションが作りにくいのである

タイムアウトしろというときやはりクルマで走り続けるのではなく中断するということである
一息ついて車から離れることである
ただそれはかなりむずかしい、それで車から解放されるわけではない

いづれにしろこのあおり運転した人は40くらいで普通ではないことはわかる
そしてこの40代が問題を起こしやすいことがわかる
最近の事件でもそうだからある
この人は金に困っていない、マンション経営とかで親の遺産で暮らしているからだ
こういう人は都会にいる、それで外国で会った人が自由に早い時期に外国旅行していたのである
そういう人は本当に恵まれた人だったのである

ただそういう人は自由をもてあます、それで必ず「小人閑居して不善を成す」となる
そういう人が非常に多くなっている
このあおり運転した人も一流会社にキーエンスというAIの会社に就職していたからである
でもすぐにやめて社会性が喪失して遊ぶようになり問題を起こしたのである
そうなりやすいのである、それは自分自身も経験しているからわかる
40頃に何か問題を起こしやすいのである
何かおかしな方向に暴走しやすいのである

あの人は異常でも車に乗るとあれほど暴力的になるのかということをまざまざと感じた
あそこまで普通はしない、それはクルマが人格を変えるということでそうなる
クルマでは忍耐心が養われない
常に渋滞でもいらいらしている、とにかく切れやすい乗り物なのである
それがクルマから乗らなくても人格が変わっているのである
切れやすい性格になり情がない人格になる
だから現代人は人格そのものが変わっている
何か他者を人間とも見ない、物にしか見えない、それはまた資本主義社会で金だけが唯一の力となったこととも関係して
さらに人間は人格が変わったのである

そういう人間に取り囲まれていることは恐怖だとなる
他者に対する同情心も喪失している、第一車だったら道路で怪我していようが死んでいようが見ないで去ってゆくだけである
それで知っている人が道端に人が倒れていても助けないというときクルマ社会で形成された情なき人間になっているからそうなるとも言える、クルマに乗っていれば他者への配慮とかいたわりなど消失するからである
むしろ攻撃的になりあれほどなぐりつけるのも驚く
他者はもう攻撃してクルマで踏みつぶすものだとなってしまうから怖い
自転車でも絶えず邪魔者として怒鳴られる、そこに人間としての交流もなにもないのである
文明人は様々な便利な機械を利用するがそこで人格が変わっているのである
その機械の負の部分を知るべきである、原発でもそうだが機械には必ず負の部分がありそれが大きく影響して社会自体を変えている、人間も変えて非情化しているのである

posted by 天華 at 14:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2019年08月20日

南相馬市鹿島区真野地域(小島田、大内村の歴史ー1300年代の人名が記されていた)


南相馬市鹿島区真野地域(小島田、大内村の歴史ー1300年代の人名が記されていた)

●相馬氏の「一族」「若黨=家人=郎従?」「中間」

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若党(わかとう)      

『貞丈雑記』に「若党と云はわかき侍どもと云事也」とあるように本来は文字通り若き郎党を指したもの[1]であるが、江戸時代には武家に仕える軽輩を指すようになった。その身分は徒士侍と足軽の中間とも足軽以下とも言われた。「若党侍」とも呼ばれるが士分ではなく大小を差し羽織袴を着用して主人の身辺に付き添って雑務や警護を務めた[2]。一季か半季の出替り奉公が多く年俸は3両1人扶持程度であったため俗に「サンピン侍」と呼ばれた。


相馬氏の一族のことで千葉氏のことを詳細に書いているサイトがある
それを分析すると南北朝時代にすでに住んでいた人の名前が記されている
そこで注目したのが小嶋田と姓を名のる人がいた
江多利(江垂)六郎入道と名のる人がいた

仏道修行に入ることだが、とくに出家剃髪していながら在俗の生活をおくる者にいう。それから坊主頭の人を入道というようになり、

その土地の名を名のることは普通にある、それはその土地に土着したことなのである
江多利(江多利(江垂)六郎入道)六郎入道とあれば今の江垂に住む坊主頭の世俗の人だとなる

家人(けにん)とはその家に仕えるものなのか、また妻が夫を家人と呼ぶこともある
身内の人だとなる、侍は一つの家を中心に使う者と仕える者がいた
この表では姓がある者とない者がいる、中間とかなるとない、若党も中間とにていたが姓を持つものがいた、家人でも姓がない人がいた
この表でぱ若党はみんな姓をもっていたからまた別な役割をもっていた、格はは高かったともなるのか?
姓を名のることはよりその一族と一体化した人たちだったとなる

この表に注目したのは1300年とかなるとこの辺では古い、普通は江戸時代以降でようやく人物名が明確になる、その頃すでに姓があり土着して住んでいた人がいた
だから小島田は意外と古い地域だということがわかる、江垂もそうである 

小島田が古い地域であるという時、12年に一度行われる「お浜下り」の祭りで行列が小島田村に入るととき儀式がある、つまり小島田村は重要な村であり昔は境が大事でありそこを通るために許可が必要だとかなりそういうシキタリが残されていたとなる
郷土史では村の新旧を知ることが基本である
小島田村は古いが右田村は江戸時代に開拓されたのだから新しい
海老村は弥生時代の遺跡が津波の跡から発見されたから古いとなる
古墳のある寺内なども古いのである、古墳がある所はわかりやすいとなる
それで日下石に前方後円墳があった、それは津波が近くまで迫っていた地域だったのである  

今回小島田村も津波の被害があった、大きな被害にはならなかったが被害があった
ただ常に言うがこうして南北朝時代から集落があり古いのにこの辺では津波に関する伝承が残っていないのである
慶長津波は江戸時代になるときであり1611年である、1300年にすでに人名が明確にこのように記されて住んでいたのである、でも津波に関しての伝承がないのである
小島田という地名はこの辺が湿地帯であり島のようになって田があったとなる
そういう土地であった、大内の袋村は江戸時代に開拓したが消えたのは海側と河口に近く開拓できなかったのである

いづれにしろ真野という地域は古い、古代にさかのぼりそこは入江であり塩崎に船着という地名があり市庭という地名があり船が行き来していたのである
ただこの船は今の東北電力の火力発電所がある所で大規模に鉄の生産をしていたのでその鉄などを運ぶのに船を利用したと見る
そんなに遠くから古代には船は来ないからである
ただ頻繁に船は行き来していた、大内村に曾我船とある地名は船がさかのぼるということから名付けられた、ということは船が頻繁に来ていたからだとなる
泉かんがあったがそこに運河作られていて船が行き来していた
そうすると短い区間でありそこを船を利用していたのである
なぜそんな短い区間をわざわざ運河を作ったり船で行き来したのか?
それは湿地帯とか道が作られていないとかあり川とか運河でも海でも通行しやすいためである
そして大内村には800年の坂上田村麿の関係する薬師堂がある
これは古代にさかのぼるから大内村は古いとなる

いづれにしろ真野地域は南相馬市の鹿島区では一番古い場所だとなる
それは古代からつづき中館があり真野五郎が住んでいた
そこち南北朝で霊山から逃れた侍が住みついた
古代になると名前が姓があって人物名がないがこの頃になると明らかに人物名がはっきりとして残っている、それは相馬氏一族関係者であり霊山から落ち延びてきた南朝方の侍なのである
ただ霊山から落ち延びて来た桑折氏がいた真野で桑折五郎となのった
その前に土着していた真野五郎がいたとなる、ではなぜ五郎なのか?名前をとったのか?
それも謎なのだが五郎とか八郎とか九朗とかの名前が多いのはそれだけ兄弟が多かったためだろう
今でも八郎となれば八人目の子供だとなるからだ、今はもう子供の数が多いからそういう名前はないのである
次郎太郎とか普通にあったがそれすら今はなくなる時代だからである

鹿島の街内に住む只野氏はその子孫である、只野氏には何か古い資料が残っているとか聞いた、そして謡(うたい)として伝承を伝えていたが個人の家だけなので伝えにくくなったと聞いた、伝承は謡(うたい)として歌として残されていた
もともとは文書ではなく謡(うたい)として残されていた
それが祭りだとなる、でもなかなかその伝承も継承できなくなる
個人だけではやがて消失する、そして祭りを継承する村とか共同体がなくなると個人だげでは継承できなくなる、それで現代は村の祭でも継承できなくなり廃れてゆく
少子高齢化や過疎化で廃れてゆくのである
祭りはやはり共同体があって維持できるからである 



鎌倉時代1185年平氏が滅亡、源頼朝が守護・地頭の任命権を得る(鎌倉幕府の成立)
1192年源頼朝が征夷大将軍となる
1274年元寇、モンゴル帝国の襲来
1333年鎌倉幕府が滅亡
1334年建武の新政が始まる
1336年 室町時代南北朝の動乱
1338年足利尊氏が征夷大将軍となる
1392年南北朝が統一される


千葉氏一族の歴史

ここのサイトから著作権違反を指摘されたことがある
だから引用もむずかしいところがある
ただ一部の表をここに出した
こういうものも指摘されれば出せないとなる
でもそうなると学問的には発展しないとなる
なぜなら学問とは共同研究になるからである
全国になると特に広いからそうなる、そこでインタ−ネットは学問でも素人でも資料とか論文を読めることで参画できるようになった
それであまり著作権を言うと研究も発展しないとなることは確かである




津波原発事故で学問の大事さを知った (学問は未来を知るための過去の知識の整理と分析)


津波原発事故で学問の大事さを知った

(学問は未来を知るための過去の知識の整理と分析)

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【武田邦彦】2019年はこうなる! などとドヤる学者の話を真に受けてはいけない

学問とは何なのか?
私自身別に学問を志した訳でもない、そもそも自分自身が学問を志すほどの能力がなかった、まずおかしなことは学校は学問する場なのである
でもそれを感じている人はまれだろう
いつも試験試験であり点数で優劣を決めるとかしている
だから人間がこうあるべきだとか学問をなぜするのか?
それが現代にはない、ただいい大学に入りいい会社に入るということしかない
現代はただ知識と技術の追求であり何ために学問するのかわからなん
功利的なものであり学問はまた知識欲であり好奇心である

学問は現代では実利的なものと結びつきすぎたのである
学問が実利的であれば社会でも容認するし金もだす
でももし実利的なかったら社会に何の役にたくのかとなり文系はいらないとなる
文系は実利と結びつかいのが多いからである

私が一番学問とは何なのかを感じたのは津波と原発事故だった
これほど学問を必要としたものはなかったのである
この大問題に直面して学問の大事さを知ったのである
それまでは郷土史でも地名とかなんとか好奇心であり学問とは思えないものである
俳句とか短歌を作っても学問とはならない
つまり津波と原発事故は最も学問が必要なものだったのである
それは生死にかかわるものだったからである

学問は生死にかかわる、未来の予知は生死にかかわる

普通の人にとって学問は自分と結びつかないだろう
庶民はただ功利的に生活している、今日の金を稼ぐために毎日仕事している
だから原発が金になるとなれば危険をかえりみず積極的に誘致したのである
でも学問は実利的なもの功利的なものだけではないものを追求している
学問の範囲は広いのである、宇宙の中の星がどうだとか研究してもそれが現実生活にどう反映されるのかそんなこと知って何か利益があるのかともなる
それはただの好奇心であり宇宙のことなど結局人間の知識の範囲外であり絶対にわからないと思うからだ

学問とは何かというときそれは未来を予知することにあることは確かである
未来がどうなるのかとなると実際は予知は不可能だとしている
地震でも予測できないのに予測していることを批判するのもわかる
ただ過去の記録を整理して分析することが学問であり予測はできない
その整理と分析から未来を予測するだけである

それを怠っていたために津波や原発事故で大被害になった
津波では二万人近くが死んだとかなる、それを予測できなかった
でも過去を整理して分析すればある程度予測できたことは言える
でもそれはかなりむずかしくなる

相馬藩政史に津波のことは二行でも記されていた
「生波(いくなみ)で700人溺死」と記されていた、生波とは津波のことである
まだこの時津波という言葉はない、慶長津波以来津波という言葉が定着したのである
この二行だけで凄い記録だった、でも今回の津波で明らかになったのでありそれまで相馬藩内で注目していた人はいなかったのである
郷土史というと何か好事的的なものであり実際の役にはたたないとされていた
でも郷土史という範囲は本当に広いのである
そこに地質学なども全般をトータルに郷土という地域を知ることでありそこには必ず科学的知識も必要なのである
だからとても一人では郷土史でも解明できないのである

学者の使命は未来を予知することである、なぜなら今回のように大被害となり二万人近くも死んだとういことでその被害はあまりにも大きいものだっからである
聖書が予言の書だというとき昔から何か常に大きな被害があり未来を知ることが生死にかかわっていたからそうなった
危険の前に逃げ出さないと死ぬということである
ソドム、ゴモラの滅亡が予知されて逃げた結果助かった、ソドム,ゴモラは神によって壊滅したからである
それは津波のように一瞬のできごとであり少しでも遅れて逃げていれば津波のように死んだのである
ただ未来は予測できない、人間の力では予測できない、未来は神の手の中にある
そこに人間の限界がある
なぜなら何億年の単位とかなるともう人間の知識でも力でも及ばないからである

何か微分積分でもその瞬間的なものでも変化がありそれが未来を予測している
株価の変化を瞬時的な変化から上がるとか下がるとか変化がないことでチャートをみるし予測する、人間の社会は自然でも人事でもは刻々変化しているからである
でも何百年とか何千年とか何億年という変化になるとできなくなるのである

ともかく確かに整理と分析が学問の要諦である、これは地道でもそうだったのである
現実に岡田清氏が過去の事実を整理して分析したことでもそうである

津波の前と後では石高が三分の一に減ったということは事実を整理して分析した結果だったのである
ここに学問の力を感じたのである、それは数字となり具体的になったから訴える力があった、それは過去のことだからできたのである
未来となるとできない、ただ過去のことはこのように学問でわかる
そこから未来はこうであろうということは予測できる、でもそこにはいろんな変数が生じるからあくまでも未来は確かではない、ただ過去の事実とか整理、分析から未来が予測されるのである

だから原発事故でも10数メートルの津波が来ると東電関係の学者が予測していたのである、だから津波対策をするべきだと提言していたのである
そのことにやはり科学者の学問する者の力を感じた
もしそれを大々的に宣伝してみんな知れば津波にだって警戒したのである
そういうことを広く知らされていない、それでこの辺では津波はこない地域として確信になっていたのである
でも学者が予見していたのである、それは占いとかではない、科学者がそうして過去を整理分析して予見していた

ただ津波対策をしなかったとなる、ただ津波の前にすでに配管とか原子炉でも危険な状態になっていたということは今になると説明する人もいる
そのことでも東電はなぜ事故になったかを正確に公表していない
結果的に次の事故でもそうなると起きる、なぜ事故になったかという正確な資料が残されないからである
それは戦争でもそうである、なぜ戦争を起こしたのか?それも日本自体が総括していないだからまた戦争が起きるともなる
いづれにしろ津波とか原発事故をほど学問を必要としていたことを感じことはない
それは結局生死にかかわるものだったからである

いづれにしろ文系は役立たないと言われるが郷土史でもこうして生死にかかわるものがあるということを実際に知った
時事問題の深層に7年前に相馬市の奥まで津波が来ているということがボーリング調査でわかっていたことを書いた
それはスマトラ津波があったときだった
でもそれは貞観津波のことであり400年前の慶長津波のことではなかった
貞観津波となると千年以上前のことだから危機感がない、でも400年前となると相当に危機感をもったはずである
それを科学者が原発に津波が来るということを調査して対策するように提言していたのである
それで裁判で東電は津波が来ることを知っていて対策していなとしてその過失の罪が確定されたのである
それは東電の経営者の責任だったのである、科学者は学者は理論的に危険を提示した

でも実際の対策すべき経営者はコストの関係とかで対策しなかったのである
それは政治家の役割でもあり政治家も何もしなかったのである
それは国との共同責任だったのである、つまり権力のある経営者はそれだけ責任が重かったとなる
それは政治家にも言えたのである、その責任の重さを自覚していなかったのである
そしてこうして経営者でも政治家でも責任はとならないが必ず戦争でも3百万人死んだとか津波とか原発事故でも甚大な被害が出
たように誰かが責任をとらされるのである、その責任から逃れられないのが人間社会なのである

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2019年08月19日

お盆、墓参り、蝉の声(短歌十首)


お盆、墓参り、蝉の声(短歌十首)

母と姉死したるのちも離れざれ我が身にそいてふるさとに住む

残りにし写真一枚に姉思ふおおらかなりしも笑いありしも

月見草草むら深く咲きそめぬ田舎に我はこもり暮らしぬ

常にして飯館村へ峠越え休みし時に秋の蝉鳴く

紫と白槿咲き雨しととふるさとにふり墓参りかな

雨しとと蝉の声聞くあわれかな田舎静かに時はすぎゆく

今ここにひびき聞き入る蝉の声幾時生きむ雨しととふる

我が兄の墓標を建てぬ故郷に娘は捨てしも我は供養す

歳月はたちまちすぎてみな死にぬ年ふりあわれ墓参りかな

我が家にありしも不幸兄なりし今供養するは我のみなりき

また一つ切れにし縁や無常なりカルマはつづくこの世なりしも 

暗雲の流るも光る満月の光り明るしお盆なるかな  

床の間に白菊活けて奥座敷月影さして虫の音を聴く


今日は台風がきて雨風がある、でもそれほどでもない、昨日は暗雲が流れたが満月が皓皓と光っていた、お盆も終わりである
雨しととふる中に蝉の声がひびく、人間はやはり蝉の声を聴くにしても常に今ひびいている蝉の声なのである
今ここにひびいている蝉の声でありその状況とか場所によって違って聞こえる
今日は雨しととふっているから雨の情緒の中で蝉の声を聴く
こころとはここであり常にここが心が働く場所なのである
なぜならまず遠い所だったらもう蝉の声は聞こえないからである
蝉の声を人間の声にしても遠くなると聞こえなくなる
噂すら聞こえない、それでまた一つ親戚の縁がキレた、それもありまにも呆気なかった
こんなに簡単に血縁でも縁が切れるのかと思った

もともと薄い縁だったということもあった、兄が静岡に移り住んだとき遠くなり縁がうすくなっていた、もし近くに住んでいれば行き来があったからこうはならなかったろう、もう付き合うのも限界だったのである
つまり人間は遠くに住むと去る者は日々に疎しになるのである
いくら交通が発達しても通信が発達しても同じである
ただに会わなければ直接会わなければ情も深まらないし助け合うこともできないのである近くだと憎しみにもなるが遠いと憎しみにもならないのである


何か最後はこの世の事の終活があり清算がある
それでいろいろあり縁もキレたがそれでほっとしたともなる
結局この世の縁は重荷にもなるからだ
それで30年間は何もそうした重荷もなくわずらわしさもなく過ごしていたことが奇跡のようにも思えた、何かごたごたに必ず巻き込まれるからである
それは姉と母とがいた結果そうした安住があったのである
だから姉と母との思いは私の場合は消えないのである

ただ兄に関しては私の家の負の部分であり最後は交通事故で40才で死んだ
その時娘が一人残されたがその娘とも縁が切れた
それも十万電車賃を払って墓参りすると待っていたが来なかった
その娘は親にひどい目にあったから親のことをなんとも思っていなかったのが驚きである十万の金が価値があり親の墓参りなどなんの価値もないし親のことなど思っていなかったのである
何か思いがあり墓参りはするからである、それが全然なかった驚きである

蝉の声というとき私はいつも自転車で飯館村へ大倉村から延々と坂を上って行っていた
自転車だからきついしその坂が長いのである
そしてその峠の手前でいつも休んでいた、その時どういうわけか秋の蝉の声がひびいていたのである、それが印象的なものとして心に残っている
これはなんとも不思議なことであり私はいつもその長い坂の峠の手前で休み秋の蝉の声を聴いている感じになる

そもそも蝉の声というとき

静けさや岩にしみいる蝉の声

この芭蕉の句がどうしてできたのか?これは暑い盛りであり今になると秋だからその時相当に蝉が鳴いていた、何か今は8月になってから蝉がなく、

するともう秋なのである
ヒグラシでもそうである、秋の季語である
だからその時は夏でも多くの蝉がいて一斉に鳴いていたとなる
でも不思議なのはこうして蝉の声を岩にしみいるとして聞いているのも旅人なら不思議である、地元に住んでいるならこうなってもわかるが旅人がそ

んなふうにして蝉の声聞くだろうか?じっと岩のようにしているのは地元に住んでいればそうなる
そこに定着していればそうなる
それは結局江戸時代という静寂の環境がそうしたともなる
芭蕉の残した俳句は今でもどうしても作れないものだからである
それは江戸時代という環境があり作れたとなるからである 

人間は最後に人間でも断捨離があり清算が起きてくる、そして最後に残るものは何なのか?
それはこの土地に住んでいるということかもしれない、心はここだからである
遠く離れていれば心が通わない、ここにいなからである
だからそこに誤解が生じるし意思疎通ができなくなる
ただまた逆にここにいることでかえって憎しみとかが深くなるのも人間なのである
遠くだったらかえって日々接することもないから良くみていることがある
それはその人が何をしているかも分からないからである
それは勝手な思いこみでありそこに誤解が生じるし意思疎通ができなくなる
だからこそ「遠くの親戚より近くの他人」になってしまうのである
二年に一回くらい頼りがあってももうその間に何が起きているかわからないからだ
人間は日々変化の中に生きている、人間関係でも変わるからである
ただここはその土地は変わるにしても変わらないから心がここにあるとなる






2019年08月18日

高校野球に求めるのは勝敗だけではない (でも地域性は失われ技を競うだけになった時代)


高校野球に求めるのは勝敗だけではない

(でも地域性は失われ技を競うだけになった時代)

内地から教えを請うのではなく、自分の生まれ育った土地で育み、学び、研鑽し、そのままの姿で勝負して結果を出すこと。それこそが、真のウチナーンチュのあるべき姿なんだと。

甲子園で活躍する強豪チームは他府県の出身者だらけ! 是か非か?

沖縄でも野球留学が盛んになり優秀な選手が流出している
そして沖縄というとざされた島では腕をみがけない、試合も沖縄内に限られる
すると多様なチームと戦いないから相手から学ぶことができない
それで沖縄の優秀な選手は本土に野球留学するという
でもそうなると沖縄の高校が弱体化するので問題になっている

これも高校野球が地元だけでは勝てないとかその出身地で見ることができなくなっているテレビで明石から千葉県に嫁いだ女性が明石商業が活躍しているので応援している
故郷の思いがあるからそうなっている
でも何か今は地元志向がない、野球だったら野球という技を競うのでありその土地とは関係なくなっている
だからこそ

自分の生まれ育った土地で育み、学び、研鑽し、そのままの姿で勝負して結果を出すこと
これはスポーツには適応できない、スポーツはある土地と関係しているとはならないからだ、ただ世界的にグロ−バル化するとオリンピックでも国技としての柔道が普及したようにその国の文化と関係してくる
でもグロ−バル化すると勝敗だけが問題になり本来の柔道は道を究めるという日本独特の精神が消失する、ただわずかの差で勝敗が決められるから本来の趣旨とは違ったものになる、そこにスポーツでも文化が反映しているからそうなる

ただ正直スポーツではこういうことはありえない、その土地と関係して野球が上達することはないのである
ただ文化的な面なら必ずある、その土地土地でもともと風土とか地理とかが違うからそこで育まれる精神も違ってアイディンティティ化されるからである

ただ未だに不思議なのは高校野球をその土地土地の代表だと見ている
それが変わったのにそう見ている、そこに問題がある
もう地域代表ではない、野球という技を競うのに地域は関係なくなっている
だから高校野球自体が社会んの変化とともに変わらざるを得ないのである

それでもなぜ地域にこだわるのか?
それは人間は地域地域で生きていることには変わりない、それで全国から地域代表として甲子園に集まるとき盛り上がるのである
全国の地域が一堂に会すということで盛り上がる
例えば野馬追いでも浪江地区(標葉ーしめは)と原町(中ノ郷)と鹿島区(北郷)と相馬市(宇多郷)が雲雀が原に集結して一体化するとき最高潮に盛り上がるのとにている
そして戦争の時でも日本軍が外国で戦う時、日本全国の兵士が集結して一体化する
その時日本軍が外国軍と戦うということで命をかけて戦うから盛り上がる
戦争は否定されるにしても戦争の時人は命をかけるのだから一番高揚するとなる
つまり外国で日本の兵士として戦う時一番日本を意識して愛国心に燃え上がるのである
オリンピックは世界中の人がその国を背負って戦うから盛り上がるとなる


でもスポーツが地域とか国とか文化とみんなかかわるとかなるとそうはならない
いくら国を代表しているとしてもそこからその土地をイメージして文化的なものを感じないからである、むしろ技と体力の競争なのである
とするとやはり高校野球のようにもう地域性とか国は関係ないともなる
だから高校野球で地域の代表と見ることはもうできないのである
ただ百年もの歴史があるから今もそのように見ているがもう違ったものになっているのだ
多様な地域があって多様な地域が文化を育む、料理にしてもそうでありその土地土地に培うものがある、そういうものがなくなるどこに行ってもハンバーグだとチェーン店の料理だとかなるとそこに豊かさはないのである
要するに高校野球には何かそういう地域性とかを求めている
プロ野球だったら地域性はない、ただ広島だと広島の地域性はある
てもプロ野球は技そのものを競うものであり地域は関係ないのである

でもなぜ高校野球には地域性を求めるのか?
それはみんな地域地域で別れて暮らしているからである
それでも東京だとか大阪になるともともと地域性は希薄である
そういうことで池田高校とかが優勝したときは地域性が特別発揮されたから盛り上がったのである、つまり東京とか大阪の代表に地方の少人数の部員の野球部が勝ったということで盛り上がったのである
今はもうそういうことはない、全国の優秀な選手が地方に散らばり甲子園に来るからである

とにかく校歌でも必ずその土地のことが歌われる、土地に根ざして育まれるものをとりこむ詩になる
でもでは江戸時代の藩校のようなものだったらその土地は深く関係して精神でも育てられたとなる、会津などは山国でそうなっていた
それが明治維新後そうした地域性とか土着的なものが失われるようになった
標準語でもそうである、方言は禁止されて土着性が失われた
それで八戸光星では大阪の選手が野球留学で多い、一人だけ青森県出身者が活躍した
それでその人は大阪弁がしゃべれないので通じるのかと心配した、津軽弁ではないからである、方言は国の訛りであり文化でもあるからそうなる、つまりすでにそこは大阪軍団になっていたのである
地域性はそうして国の訛りがありその国を偲ぶとなるからだ

いづれにしろ現代はグロ−バル化してさらに世界でも地域性が喪失して一様化されやすいのである、日本だって英語にしろとかなるのもそうである
英語にすると世界で言葉でも通じやすいからそうなる
でもその時日本で縄文時代から育まれた言葉は失われて文化が喪失する
すると日本という国すらただ世界の経済の政治の一単位のようになる
グロ−バル経済は何か経済を金で結びつける、あらゆるものが金で計る
でも文化的なものは金で計れないし人間の価値として金で計れないものが多いのである

日本人が高校野球に求めるのがありそれが変わったのだがやはり何か地域と愛郷心とかを求めている、それが現実は変わっているのに郷愁のようにして高校野球を見ているのである、高校野球はそれだけ100年もの歴史がある時一つの文化的なもの精神的なものとなっているからそういうふうに見る、でも現実社会は変わり適合できなくなっている
ただ高校野球に求めるものは普通のスポーツとは違うから日本人は熱狂するのである
プロ野球のようになっていたら熱狂しない、ただ勝敗を覚めてみるだけだとなってしまうのである


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2019年08月17日

親が子を捨てる、子が親を捨てるカルマ (親より今は金が大事な時代)


親が子を捨てる、子が親を捨てるカルマ

(親より今は金が大事な時代)


自宅で男性の遺体の両ひざ部分を包丁で切断しようとした疑いがある。千村容疑者は父親(90)と2人暮らし。16日午前、千村容疑者が昭和区役所に「5日ごろ(父親が)死んだ」と電話し、連絡を受けた区役所が署に通報した。

 千村容疑者は「生活保護費を受給できなくなると困るので、見つからないようにしようと思った」  
  
この事件は生活保護と親と子が関係して起きた
親が死ぬと生活保護費がもらえない、それで親が死んだので隠そうとした
でも死んだ親でも親の体を切断するとなるといくら追い詰められてもできるものなのか?ただ人間は追い詰められるとなんでもする
生活保護を打ち切られると食べていけないと包丁をもって役所に行き警察に捕まった人もいる
人間は善悪ではない、もう追い詰められた人間はなんでもする
今日食べるものがなければ人でも殺すようになるから怖い
そういう人と出会ったら怖いとなる

そして今は誰か助けてくれ、今日食べるものをくれとか他人に言えない社会である
だから役所が生活保護が命綱になっている人が多いのである
貧困化する日本ではそういう人たちがますます増えてくる
老人でも増えてくる、生活保護は医療費が無料でもその他なにももらえない人がいる
また田舎と東京とかでは違ってくる、だからみんな生活保護がいいというけど
そういうことはないのである
地方だと東京のように十何万とかもらえないのである
そして最後の頼みの綱が役所になるから命がけで交渉することにもなる

親が子を捨てることなど普通にありふれている、親が子を捨てるというとき例え親がその子に食べ物を与えても子を捨てている人もいるのだ
精神的に子を愛さないし事実上捨てている親も多いのである
親は子供を産んだから親になるわけではない、子供が生まれて愛情もって育てれば親になる、ただ飯を与えただけでも親にはならないのである
だから親としての価値を作る努力を親がしなければならないのである
子がない私も言えたことではないがそういうことが多いのを見ているから言うのである
それは昭かにカルマとなっている

親に苦労させられた子は親を親とも思わない、もうぎりぎりになったら親の死体でも切り刻むともなる、親より金だとなるのも普通だし多いのである
その人は12,3歳ころまでは一人娘で大事に育てられたがその後は両親は離婚したりして親戚にあづけられたとか親にひどい目にあっているから親を親とも思わないとなる
それで私が私の墓のとなりに墓標をたてたから墓参りしてくれと10万電車賃を渡した
でもお盆で来ると言ったが来ずにその関係もキレたのである
その人は貧乏なので10万の方が大事だったのである
親のことを供養するとか頭にない、親はすでに捨てられていた、10万の方だ大事でありそれをもらったから墓参りにも来ないとなったのである
ただ私は本当はめんどうだから関係したくなかったからかえってキレて良かったとなる
親だけではないその人自体に問題ある人だったからである
祖母の遺産を二百万やっても一年足らずで全部使ったとか金使いが荒い、性格がそうだからどうにもならないとなる

本当に親子の問題は延々と繰り返されているカルマだとつくづく思った
親が子を捨てる、子が親を捨てるというカルマは延々はつづいている
子捨てとか親を捨てる姥捨てとかは昔からあったのである
ただ間引きとかは食料がないのだから貧乏なのだからやむをえないことがあった
子供や老人の食い扶持を減らさざるをえなかったからだ
だから子捨て姥捨てにも今とは違った事情があるからそれらが非情だとも言えないのである

現代は食い扶持を減らすというより精神的に子を捨てたり親を捨てたりしているということがある、ただ貧乏になるとやはり昔のように食い扶持を減らすということでてくる
親が子を遊女にしたり丁稚奉公させたりと貧乏であればそういうことがあった
そうせざるをえなかったのである
今の時代はそういうことではなく子に愛情をもたない、精神的虐待が多いのである
それで傷つき正常な人格形成ができなくなっている
これも現代的な子捨てなのである

とにかく人間はみんな子供をもったとしても親としての価値ある親になるとはならない
そのカルマは親を簡単に捨てるとかとなって現れる
知っている人も確かに両親にひどいめにあったとしても今度は自分の子供に同じことをするようになる
とてもその女性はまともでいなからだ、すると経済的にも精神的に子供に負担をかける
親→子→孫とカルマがつづくのである
そのカルマの連鎖が切れないのである、それがカルマの怖さなのである
あなたの行為(カルマ)があなただけで終わらない、その子や孫まで受け継がれるのである、原発事故になると放射能が消えないからいつまでこの地に影響するのか?
孫の代からさらに曾孫からさらに子孫に延々と影響してゆくのが怖いのである
そのカルマを断てなくもなる、遺伝子障害がそうである

いづれにしろ親に捨てられまた結婚して妻に捨てられまた子にも捨てられとその人生は何なのだったのかとなる、それは自分も関与することだからそれは何なのだったとなる
でも特殊な例ではなく親が子を捨て子が親を捨てることなど普通にありふれている
そのカルマは消えることなくこの世ではありつづけるのである
こういう基本的なことでカルマがありまたいろいろなことでカルマがありそれが解消しないのである、人は必ずカルマで苦しむのである
何もないと思ってもいつかカルマが苦しみとなって現れ自覚させられるのである

現代は親より金が大事となり金のために簡単に捨てれる
5歳まで親として育てていてもその後に子に世話になるというのも虫のいい話である
それで施設に入ったがその子はその親の金だけが目当てなのである
愛情など微塵もないのである、ところがその親は認知症になっているから余計に悲惨だとなる
ただこういうことは必ずまたカルマとなりその親でもまた子があり子に捨てられるということが起きてくる
こうなると子がないのもカルマだが子があることもカルマでありどっちにしろカルマから逃れることはできないのである、それが人間の宿命だとなる

今や親が子を捨てる悲惨だけではない、高齢化社会で子が親を捨てることが日常的になる中国でも子が親を捨てている、世話しないのである
それも高齢化社会の暗黒であり世界的に起きているのである
だからその人の価値を作るのは親子関係でもそうであり親として価値あるものとなる努力が必要になるのである
ただ血縁だけでは親となるとはならない、いかに育てるとかで価値ある親になる
人間の価値はなんでも与えられたものではなく作り上げることが要求されているのである



2019年08月16日

百年の高校野球の歴史 (地元出身者ではなくなったからする方も見る方も変わらざるえない)


百年の高校野球の歴史

(地元出身者ではなくなったからする方も見る方も変わらざるえない)

戦前の大阪にはたくさんの丁稚や.奉公人が.関西以西の土地から集まってきていた。彼らは七月のお盆休みはもらえなかった。商いのかきいれどきの時期だからである。それが,八月のお盆になってようやく休暇をもらえた。今と違って,交通が発達していなかったから,彼らは遠い故郷へ帰ることができなかった。せいぜいできることは.甲子園へ野球を見に行って,故郷の代表チームの活躍を応援することであった, 彼らはライスカレーとかち割りをとりながら.故郷もしくは,その周辺の代表チームの勝ちを祈った。しかも.彼らの目の前のグランドで野球をしているのは,彼らと.ほぽおなじ年ごろの少年たちである。彼らは故郷を応援しながら.一方は野球選手として華やかなスタートをきり.自分はしがいない.辛く.苦しみだけ多い丁稚,奉公人におかれていることに,ひとしおの感慨があったのであろう。(虫明 1996)

このように戦前の丁稚や奉公人の立場にある若者や.戦後の高度成長期を担った集団就職で関西地方にやってきた中学卒の若者たちは,自分とは全く違う忠まれた境遇にある選手たちを「個人」として羨むことよりも 故郷を代表する集団と捉えて一体化し.敗れて球場を去るときにかけられる「また来いよ」という甲子園特有の掛け声までも自分へのものへと同化していたのではないだろうか

儀礼論による高校野球の考察
一一宗教的儀礼から相互作用儀礼へ一一

何でも歴史がある、こういうことがあったというのも発見である
丁稚奉公の社会がかつてあった、その時お盆には帰れなかった
故郷に親元に帰りたくても帰れなかった、それで甲子園で野球を見に行って故郷の代表チームを応援することだった、年頃が同じくらいの少年が野球をしていたからである
これもなんとも不思議というか歴史である
つまり高校野球の歴史が百年ということはそれだけのストーリーがすでにあった
ただそこまでふりかえり見ている人はいない

とにかく高校野球は戦後でもずっと熱中して全国民がお祭りのように見ていたのである
最初は地元の生徒だけのチームでありそれで全国を舞台に活躍するとき愛郷心が沸き上がったのである
それを象徴していたのが部員10数人しかいなかった、田舎の池田高校が優勝したときだったのである、そんな田舎で部員もチームを組むのにりぎりぎりなのに優勝できたことが高校野球を盛り上げたのである

それから高校野球は東京とか横浜とか大阪とか大都会の高校が優勝するようになった
なにしろそれだけ数が多いのだから優秀な人が集まる、部員の数も百人以上とか普通である、その中のえりすぐれた人が選手として出れる
そこでPL学園とか宗教団体の代表も数を集められるから有利である
それで桑田とか桑原とかがスターになったのである、何回か優勝したのである
つまり高校野球は地元出身者からなるチームでは勝てなくなった
それで最後に池田高校だけは違っていたから歴史を残したとなる
福島県の磐城高校は福島県では進学校でありそれでも決勝戦に進出したとことが記憶にある

その時は地方の郷土の答えに応じるべき選手は戦った、だからその時は全部郷土出身者が選手だったのである
何かそういう時代から変わっても依然としてそう見ているのが高校野球である
今回でも海星とかあると何か九州なのか長崎なのかとか地域を見る
明石商でも明石城に行ったことがありあの城のあるところだと見る
でも現実にはそうした郷土を背負ったいることはもうないのである

東北勢が強いという時、八戸光星はなんなのだとなるとき八戸がついているから青森だとなる、そもそも青森県というとき八戸とかより弘前とか青森市の方が青森県だとイメージする、だから八戸が青森県の代表に見えないのである
現実に八戸光星は一人しか青森県出身者はいない、でも今回活躍した
選手も地域の代表だとも思っていない、大阪の人が多いから大阪弁であり青森県出身者が津軽弁で通じるのかと不安だったというのもそうである
出身者を見れば大阪であり大阪が数が多いから優秀な選手いて地方に留学しているのである、その人たちは別に郷土愛なども全くないのである
ただ甲子園に出たいために留学しているだけである

東北だと仙台育英でも外人部隊が多い、あのダルビッシュも大阪出身だったのである
だから高校野球も何なのだろうとなる
高校野球は今でも甲子園が聖地なのである、野球の聖地なのである
だからそれは宗教だとか儀式だとかしている
勝敗は別に全力をだしきる、また激しいスチールとかまるで犠牲が奨励される
それは特攻隊にもにているから日本的な集団を美化するものとして教育として奨励される高校野球は商業主義であってはならないのはそのためである
それは日本的宗教となり儀式化したのである

それで負けた時聖地の砂を地元にもってゆくのはそのためなのである
それは一度きりの青春の熱い思いとして砂をもってゆくのである
何かそこに青春の美化がある、青春とういのは実は長くない
たちまち過ぎてゆくのが青春である
でもその青春を賭けて戦う、負けても悔いなく戦うのが高校野球なのである
だからただ勝敗を争うというだけではないのが高校野球でありそこに見る人も魅力を感じるとなる

本当に青春はたちまち過ぎて消える、その青春の一時の輝きが甲子園にあるから選手も出たいとか観る人もそれを感じるから高校野球にはただ普通のスポーツとは違ってみているのである、大げさに言えば人生を見ている、一時の青春の夢のステージを見ている
それは青春がありまにも過ぎ去るのが早いし消えやすいものだからである
その一時が過ぎれば夏が終わり後は永遠にその舞台に立つことはできないのである
青春とはそういうものなのである、だから青春に命を燃焼できた人は幸福だったとなる
そういうスポーツ選手はうらやましいとなる、なぜなら自分でもそうだがみんなそうしたスポーツ選手になれないからである

ともかく何か高校野球は変わったのだけど長い歴史がありその歴史をひきづっているのである、今は地元出身者が極わずかなのだから地元とは関係ない、郷土愛でもない
するとなんげ全国大会となって選抜しているのか?
別に各県ごとに大会を開き選抜しなくてもいいとなる
みんな外人部隊なのだから地元とは関係ないからである
ただ技を競うものであり地元とは郷土とは関係ないのである
東北に優勝旗を持ち帰るのが悲願なのはわかる、金足農業のような高校野球だったからわかる、八戸光星にはそういうものが全くないのである
だから高校野球自体が社会の変化とともに変えざるを得なくなる
ただ高校野球だけは高野連があり特別なのである  
長い歴史がありそのために変えることができないのである

それでする方にしても観る方にしても現実と乖離して見ている
甲子園に出たいというのは外人部隊にとっては地元と関係ないのである
甲子園という場で個人の力を発揮したいからやるともなる
ただ地方だと甲子園に出やすいから留学するとなる
こうなるといくら東北が優勝していないからと東北に是非優勝旗をもってきてもらいたいといっても現実は外人部隊でありその選手たちも別に地元の人とは関係ないのである
こういう地域主義はもう時代的に終わっている

ただ地域主義というとき文化的には残っている
東北には東北の風土があり依然として文化があるからだ
ただスポーツとなるとそうした地域的なものとは関係ないのである
ある地域によって特別優秀な選手が育まれということでもないからだ
それより大都会で東京とか大阪の方が選手を育て安いのである
ただ甲子園に出るために地方の高校に留学しているだけなのである

とにかく高校野球が武士道と関係して明治に取り入れられたとか何か日本的スポーツ化したのである、犠牲心とか団結心とか・・・何か日本人精神の養成の場になっていたのである、だから宗教とか精神主義が育まれた
勝敗だけではない、全力を死力尽くして戦いとなる戦争のようなものにもなる
特攻隊精神を育むものともなる、それは勝敗ではないからそうなるのである

百年過ぎて高校野球もどうなるのか?
やはりこれも変わらざるを得ない、それはする方でも見る方でもそうである
地元中心主義では見れないからである、そうしたら見る方でも応援する方でも見方を変えざるを得ないのである
もはや東北出身の高校が勝手も特別喜ぶことはできないのである
ただ金足農業とかなるとそうなっていた、でもそういう高校ももう絶滅危惧種になってしまった、それで例え八戸光星が優勝したとしてもそれほどの感慨はないのである
別に東北人でもないし地域とも関係なくなっているからである

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戦前とか戦後十年くらいはこういう社会が残っていた
現代の特徴はこうした長い間アイディンティティ化していたものが消失した
それで墓でも高校野球でもその社会の変化の中で変わらざるをえなくなったのである
posted by 天華 at 21:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

鹿島駅前の花壇に新しい花が咲いていた


鹿島駅前の花壇に新しい花が咲いていた

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ここは一回120年とかの花文字を作ったが枯れて消えた
次にできたのがこの花壇である
小さい花がいろいろ咲いていていい
これを作るのにも手間である、ここは良かった
でもこの花壇を見るのは外から来た人はなかなか見ない
案内板の方を見る

そこにこれより大きな花壇があるかそこくは草が伸びていた
外から来た人は目立つものしか見ない
私もずいぶん旅したが旅すると細部が見れないのである
気付かないのである、そこには時間がないからなのだ
だから何かもったいないと思う
旅では良く見ることができない、次から次と新しいものを見るからそうなる
ただ毎日ここに来ている人は見るのである

私は今でも一日一回は来ている
でも前のように案内などはしない
ただ外から来た人と時折話したり案内をする
それも時間的には短いのである

この前は蔵のある家で観光に利用するとかで女子学生が東京から来た
その人は駅舎を写真にとっていたので話しかけた
鹿島駅の駅舎は古いままなので良く写真をとるのである
そして只野という家に蔵が二つありスマホの写真でみせてくれた
今は農家でも蔵は実際にあまり利用しないだろう
ある人の農家の蔵には孫の写真が飾ってあるだけだった
これももったいないということはいえる

その女子学生は観光会社でインターのようにして働き仕事を学んでいる人だった
とにかく鹿島区には只野という姓が本当に多いのである
いたるところ只野という感じになる
その只野にくいてはプログで書いた
それから末続駅では新妻という姓が多い、墓地でも8割が新妻だったのである
ここから何か歴史がわかる

ただ人口が多くなるといろいろな姓が交じっているからわからなくなる
観光というときどうしても歴史を知ることが欠かせないのである
その土地の歴史を知ることが欠かせない、でもなかなかわかりにくいのである
只野(ただの)ということで蔵を利用して観光に役立てるというとき
まず只野の姓が何を意味しているかここでは知るべきだとなる

そもそも旅でもどういうふうに観光するか?それが問題だった
私の場合でもただ通り過ぎるだけの旅にもなっていた
その土地のことを深く知ることができなかった
それをふりかえるともったいなと思った
今になるとなかなか旅ができなくなっているからだ

今から旅するとするとどこかにいい場所に滞在することである
北海道辺りが一番いいと思う
次から次に場所を変えると印象が薄くなるからだ
それは老人には向かいないからだ
でも私は駅に毎日一応行っているが電車の旅も飽きたのである
むしろ自転車の旅ならもっとしてみたいとなる
見る風景が違うからである、電車だとこれも細部を見れない
大きな景色を見るにはいいが細部はすぐに過ぎ去るから見逃すのである

お盆で遠くから来た人も去った、何か盆踊りしたもの知らず終わった
お盆の終わりには花火を打ち上げたがしなくなった
だからお盆という感じも特になかった
なかなか行事をするにも金がかかるからできないともなる

ともかく駅前の花壇は良かった、ただ案内板のある花壇は草が伸びているのでなんとかしてもらいたいとはなる、それも町の人がしないとできない
すぐにどこでも草ぼうぼうになる
土手の道の草を刈っていた人はボランティアだった、ただ市から頼まれているが道の片側だけであり両側をしているからそれはボランティアだったのである
ボランティアでも草刈りとなると暑い時は疲れる
そうなるとボランティアだって簡単にできないのである
自分はただ一日一回様子見に回るだけである

墓の歴史(家制度は新しく、江戸時代に庶民に姓がなかった―夫婦別姓問題)


墓の歴史(家制度は新しく、江戸時代に庶民に姓がなかった―夫婦別姓問題)

明治期に入って、急激に離婚件数が激減した理由は、1898年(明治31年)に施行された明治民法です。明治民法の最大の特徴は、「家」制度を明確に規定したことにあります。妻は、ある意味「家」を存続させるためのひとつの機能として縛り付けられることとなりました

墓の問題は江戸時代から明治になったときこの家制度が強固に作られた、法律的にも作られた結果、家の墓が生まれた
この家制度は政府によって上から作られたものだった
なぜなら江戸時代の方が離婚も多く再婚も多かった
家に縛られていないのである、明治以降は家と家の結婚なのである
侍は家を重んじた、家を維持することが生計を立てることだったからである
ところが侍の割合は0・8パーセントとか少ないのである
野馬追いでも500騎出るとして相馬藩内の人口からしたらほんのわずかなのである
だから野馬追いに出る家のことを知らないのが多いのである
ほとんどは庶民であり農民だったのである

武家でも結婚しても墓に両家の姓が記されているように実家をひきづっていた
それを認められていた、だから女性が男性の姓に変えることに反対する

【夫婦別姓問題】半数が「夫の姓にしたくない」アンケートから見えた、妻の本音

女性から見るとこれが本音なのだろう、それで夫の墓に入りたくない人が30パーセントかいるのもそのためである
そもそも姓を考えると侍には姓があっても庶民にはなかった
苗字帯刀があり特別功績のあった人にしか姓は与えられなかった
そしたら一家の姓とかはない、ただ名前だけである
だから農民でも庶民でも墓が第一なかった、幕末に経済力がついて農民でも墓を作るようになったのである、それまでは墓は普通ない、墓地は仏方(ほとけっぽ)とかの村の共同墓地に埋められていたのである

そして姓を考える時、日本人の姓がかならずのその由来になったのが村であり村の名が地名が姓になっている、村の共同体が基本として日本にはあった
それが中国とかも違っている、中国に遊牧民系の人たちが入り最初の始皇帝の国家を築いた、遊牧民系だと土地に根ざしていないから血縁が大事になるからだ
それで中国でも今も同じ姓の人を血縁の結びつきを大事になる
それは韓国でもそうである、第一李氏朝鮮とかあると中国の李氏の支配下にある国だとなっているからだ
日本人は土地とのつながりが深いが血縁はそれほどでない、だからこれは世界から見たら特殊なのである、日本の文化は世界のスタンダードから見たら特殊なことがいろいろあるのだ

明治に作られた強固な家制度自体が時代の変化で合わなくなったから墓の問題もある
一家の墓として持続できなくなっているからだ
家の結束とか家族のつながりも薄れている、そして最大の問題は農業中心の社会でなくなったことである、農民だったら土地を資本として継続できる
だから土地こそ大事なものであり土地を受け継ぐ長男が大事にされた
でも誤解しているのは江戸時代が強固な家制度があったというわけではない
それで結婚でも離婚が多くまた再婚も多かったのである
明治になってから離婚が極端に減ったのは家制度が強固に上からおしつけられてた離婚できなくなっていたのである
ということはもともと結婚はむずかいしものであり離婚になりやすいことは変わりなかったのである

結局、家の家族のつながりの希薄化、崩壊、土地とのつながりの希薄化して崩壊

このために墓を維持できなくなってきた、原発事故でもなぜこんな簡単に一つの町自体が一挙にゴーストタウンになったのか?
それは放射能のせいだともなるが何かそれだけではないもの、土地とつながりが希薄化してどこにでも金があれば住めるという広域化社会、グローバル化社会と関係していたと私は考察したのである

ともかく家制度というのは明治以降に法制化されて上から押し付けられたものだった
そこにもともと下からの要望をではないから不自然でもある
女性の姓が結婚すると男性の姓に変わるのもそうである
そもそも第一江戸時代には姓がないのだからそういうこともなかった
ただ名前だけであり姓がないからそんなこともなかったのである
だから新たに姓が与えられてかえってその姓に縛られるようになったのである
それは武家ではそうだったが庶民までそうしたのである

それで墓に「安らかに」とか「和」とか「愛」とか記されているのは姓を記すとその姓に所属するものとしてありでも跡継ぎがいなくなると墓を維持できなくなった
天皇に姓がないのはある一族によって藤原氏となれば藤原氏が支配するとなるからないのである
いづれにしろこうしした歴史的経過があり墓を考える必要がある

村の共同の墓地→個人の墓→夫婦の墓→家の墓

家の墓は古いものではないのである、武家でも個人の墓であり家の墓はないのである
なぜなら死者を偲ぶ時は個人を偲ぶのであり家を偲ぶということはないからだ
その人生もみんな違っているからそうなる
そして不思議なのは今は墓はこの逆行にもなっている
樹木葬とか共同墓地志向が強くなっている、それはもう家の墓が維持できなくなっているからである

自分にしても村の共同墓地とかの方がいい、ただ個人墓となるときそれは特別功績のあっ人だろう、その記念碑みたいものになる
他はたいだい忘れられる、墓は増えてもそれが誰も参るものもなくり墓の墓場ができているのもそのためである、ただ記録して元禄時代のものも西の方であったりするら貴重だとはなる、私は必ず墓の時代をみて江戸時代だと貴重だと思っているからである
それもやはり歴史として貴重な活きた資料ともなっているからである
とにかく団地のような狭い部屋にとじこめられるようにして墓になっているのは嫌だとはなる、それも結局社会が時代の変化で墓の考え方が変わったためなのである


2019年08月15日

なぜ戦争が忘れられるのか? (自分自身が苦しまない限り関心をもたない)


なぜ戦争が忘れられるのか?

(自分自身が苦しまない限り関心をもたない)

戦争は戦後70年とかで忘れられてゆく、遺族会でも維持できない、会津では今年は慰霊祭でもテントを張ったりめんどうなことをしない、できない、みんな年とっているからだそれでそれぞれが勝手に戦死者に祈りをささげることにした、そこには戦死者のお骨が収めている忠霊堂がありそこで祈る
団体として維持できなくなったのである

でもまだ団塊の世代でも親が戦争にかかわった人が多い、私の姉がそうだった、従軍看護婦としてシンガポールの向かい側のジョホールバルの赤十字病院で働いたからである
「マンゴーの樹の下で」というNHKの戦争番組で日本軍が敗戦に至る過程でジャングルに逃げて悲惨な結果になった
そこには食べ物がなかったのである、それで現地の農民から食べ物を奪っていた
その話を良く姉から聞いた、女性だから特に苦しかった
それで死ぬ直前まで認知症になっていたのだが戦争のことは忘れず語り死んだのである
何かあまりに過酷になると人間は忘れられなくなる
トラウマとなりフラッシュバックして思い出すとなる
特に青春時代だったから余計に感受性が強いからそうなったのである

戦争というのは経験しない人にはわからないのである
人が目の前で死んだり殺されたりした光景は普通は経験できない
だからこそいくら語ってもそれが通じないということがある
戦争は悲惨だということを言っても通じなくなる

人間は別に戦争だけではない、何かについて関心を持たせることが本当にむずかしい
原発などでも本当はもっと関心を持つべきものだった

でもなぜ関心をもたなったのか?

関心をもたせる人がいなかった、メデアでもテレビでも新聞でもその危険を報道することはなかった、そして安全神話が作れて誰も何も言えない状態にされていた
それは地元の住民でもそうである、金になればいいから反対したらこの土地に住めなくなることもあった
金になればみんな目の色を変える、そんな人に原発は危険だと言ったらにらまれて肩身の狭い思いをして村八分にされていたろう

だから関心をもたせないようにする

それは新聞でもテレビでも雑誌でもマスコミに危険を言わせない、そして関心をもたせないようにすることなのである
そういうことにしていると関心をもたないと原発は容易に作られる
それを一番証明していたのが小高に東北電力の原発の工事がはじまときだったのである
そんなに近くにあるのに私は知らなかったし知らない人が多かったのである

つまり知らされないままに重大なことが行われる

これだけ戦後民主主義とか常に言っていても肝心な重大なことが知らされなかったのである、今でも重大なニュースが知らされない、報道されないのである
報道されないことは関心をもたないとなるのである

そしてなぜ人間は忘れるのだろうか?
その忘れることだ重大な結果として今回のような津波とか原発事故にもなった
津波は400年前に相馬地方でも生波(津波)で700人溺死として記録されていたが知る人はなかった、津波になってその記録を知ったのである
全く記録もされないから忘れられていたのである
すると津波に関心をもたない、そしてこの辺では津波が来ない場所だと確信するようにもなっていたのである
そして津波の大被害にあいその当時のことをふりかえようとしても記録されたものがないからわからなくなっていた
人間はどんな被害にあってもだんだん歳月が過ぎると忘れてゆく
死者も死んだ時点で影も形もなくなり骨と灰だけになって忘れられてゆく
だんだん歳月が過ぎるとリアリティを失いイメージの世界にもなってしまうのである
人間の大きな弱点は忘れることにあった

戦争でもあれだけ悲惨なことでも3百万人が死んだとしてもだんだん非現実化して忘れられてゆく、その悲惨なことを経験した人もいなくなると余計にそうなる
津波でも戦争でも忘れることが危険なのはまた同じことを繰り返すカルマとなり繰り返すことが怖いのである
ただ人間はカルマをくりかえす、人間の業は尽きることがないからだ
カルマというとき親が子と同じようなことで苦しむ、カルマになることを書いてきた
これは戦争だって同じなのである
やはりまた戦争を繰り返すことがある、悲惨な戦争を経験しても忘れるからである

そして再び戦争になりその過酷な経験をするときはじめて戦争の悲惨さを身をもって知るこれが戦争だったのか?その時親が祖先が戦争で苦しんだことを理解するのである
自ら苦しまない限り人間は理解しないのである
人間は自らの身にふりかからないかぎり無関心である
何かに関心をもたせようとしても「俺には関心がないよ、うるさい」となるだけである
病気にならなければ誰も体に関心をもたない、でも一部でも病気になれば異常なほど関心をもつのである
だから津波や原発にこれほほどみんな関心をもつようになったのである
でもすでに時遅しとなっていたのである
駅でも無人駅になっても誰も関心を持たない、別に車がある人は困らないからである、ただ盲人の団体が抗議しているのは電車を利用して無人駅だと困ることがあるためである、他の人は駅には関心がないのである
でも何か本当に困ることがあれば関心をもつのである

どうしたら人間は忘れないようにできるのか?

これが人間の大きな課題である、重大なことでも人間は時間がたてば忘れる
その忘れることによって今回のような津波でも原発でもまた戦争でも恐ろしい苦しみを受ける、だから忘れることは危険なのである  人間はとにくか他人の苦しみでも自分自身が苦しまないと理解でないのである
貧乏人のことを知らない人は貧乏のことを理解できない、病人でも病気の経験のない人は理解できない、それで同情もしないのである自ら苦しまない限り関心がないし同情もしないし理解できないのである
そのためにカルマは苦しむ時自覚するのである
これだけこの辺では苦しんだからそのカルマを理解したとなるのである
だから神は忘れていてもまた同じカルマを起こして人間を苦しめて理解させるとまでなっているかとも思う
苦しまない限り理解しないからである
戦争のことだって理解できないからまた戦争を起こして戦争で苦しむ時戦争がどういうものか理解するからだ
カルマというのはそういうものだということが個々人でも歴史でもそうだったのである



posted by 天華 at 19:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

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power of a mountain

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one independent mountain

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change of the earth

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mountain under the sea

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rooted rock

2019年08月14日

金のことで縁がみんな切れた (親も子に捨てられる、墓参りすらしない)


金のことで縁がみんな切れた

(親も子に捨てられる、墓参りすらしない)



物心がついた6歳のときから父親の再婚相手である義理の母のもとで育った。愛情は血の繋がっていない弟に向けられていたこともあり、17歳で高校を中退後、古川市(現大崎市)の親戚の家に転がり込んだ。実質的に親を捨てた瞬間だ。

「仮に今、父親の介護を負担していたとすれば、経済的にも精神的にもストレスは計り知れません」

昨年、連絡先を調べた姉が訪ねてきて父親が亡くなったことを知った。1回だけ墓参りに行ったがそれきりだ。自宅マンションには仏壇もない。

方法2. 冠婚葬祭のイベントにも顔を出さない
親族の付き合いは、結婚式や葬式・法事など、どうしても外せないものが多くなります。しかし縁を切りたいなら、徹底して参加しないという決意をしておきましょう。

縁を切ったつもりでも、親族のイベントに出席すれば、どうしても顔を合わせることになってしまいます。顔を合わせればトラブルが再燃しておかしくないのです。


兄のことでいろいろ事情があって私の家の墓の隣に墓標を建てた
それでその娘が墓参りするというので十万電車賃を払った
でも今回は来なかった、それがなぜなのかわからない
そもそも娘でも13歳ころまではかわいがられたが中学で両親が離婚してもめたとか経済的にゆきづまり家を出て住む所がなくなったとかさんざん親のために苦労したので
親といっても親への思いがなかったのだろう
ただ自分の家では兄の家族について離れていたので何をしているのか良くわからなかったのである
それで交通事故で死んだとき残された娘は妻の家族にひきとられた
でも高校生になっていたが卒業して東京に出て来た
金はあったのでそこで一人暮らしして結婚して一人娘をもうけた
でも夫は早い時期に離婚した

とにかく両親もこのように問題があり娘はひどいめにあった
ただではその後のことがすべてこうして両親が悪いからなのか?
それはそうではない、その娘にも問題があったのである
金使いが荒いとか性格的な問題だとかその本人にもいろいろ問題があった
母が認知症になり死ぬ一か月前に二百万やれという遺言を残したのには驚いた
その金を払ったがそれを一年も満たずに使った
兄も金使いが荒い、金があるとぱっぱっと使うのである
そういう性格なのである、それが娘も同じだったのである

だからなぜ父親の墓を作ったとから墓参りしてもらいたいというということで10万払ったが来なかった
向からお盆に来るからと言ったので払った、でも来なかった
つまり父親のことなどどうでも良かったし墓参りのことなどもをとでもよかった
したくなかった、ただ10万という金が欲しくてお盆に来ると言っていたのである
前も来るときは電車賃を払っていたからである
その娘には父親に対する思いがないのである
別に金もかかるわけでもないのだから墓参りくらいできるがしない
ただ十万欲しいというだけであり父親のことはどうでもいいのである
もちろん相手が死んでいるのだから死んだ人は金をくれない
ただ私が金を払うことを知っているからお盆に墓参りに行くと言ったのである
そうすれば金が入るからである

それで死んだ親との縁とも自分の家との縁もキレたと思う
もともと親密な関係でなかったから仕方がないしもうつづくのが限界だったともなる
このように相手が望んでいたのは金しかなかったからである

親族の付き合いは、結婚式や葬式・法事など、どうしても外せないものが多くなります

親戚の関係はこういうことでつづき断りにくいことがある
最後は墓参りとか死者を通じてもつながるからである
でもこうして簡単に10万もらったら後は用はないというのも親にとっては悲しいとならないか?死んでいるからどう感じているかはわからないけど親も死んでも捨てられたとなる、本当は無縁仏になっているのである
だから親でもいろいろあって兄弟でもかわいがられた人なら親を思うがそうでないと思わないのである
だから介護の時、お前は一番かわいがられたから親の介護をしろとなるのである

私の場合は親に対する思いが深いのである、親と言ってもここがわかりにくいのだが
二人いたとなるのだ、姉と母は年齢がさほどかわらないから母と同じだったのである
そうして60まで自分は二人が世話してくれたのである
だからこの歳月が自分にとっては忘れられないのである
その時は気分いいものであり何か殿様のようにして過ごしたともなる

つまりこうして特別良くされたからこそ介護も必死でしたし死んでも供養するし楽した日々が思い出となっているのである
二人がいたから安住したとなる、その後は介護となり死んでいいことがなかった、そのことをプログで書いてきた
外からはわかりにくいにしても

親に良くされた人は親を大切にする、死後も篤く供養する

兄弟でも親に良くされない人はやはり良くしない、介護もしたくないとか墓参りすらしないのである
それは生前からそうなっていたのである、墓参りでも死後でも生前に良くされない人はやはり墓参りすら親でもしないとなるのである
親でも別に血がつながっていなくても養子とかなっていても親が愛して良くしてくれれば子も親を思い良くするのである
それもカルマだとなる、カルマがどこかで返ってくる

何か60年も一緒にいると死んだ人でも依然として家にいるようにな気がするのである
その長い歳月がやはりそうさせている、例えば子供が家から育って遠くに行ったりすると肉親でそうした親密な感情が失われてゆく
それで認知症になったとき遠くに行った子供は忘れても近くで一緒に生活していれば忘れないと思う
私のことは名前でも憶えていたからである、遠くに行った人はいくら血縁でも肉親でも忘れやすいのが人間なのである
それが人間というものである

去る者は日日に疎し

死んだりしたら本当にそもそも本人が影も形もなくなるのだから日々に疎しとなる
どうしても忘れられるのである、それは死んだ時点でその人が消えるのだからすでにそうなる
だからもうこの世にいない死んだ人を延々と思っている人はその人に対しての思いが深いということなのである
だからこそ忘れるからこそ義務的にでもお盆でも一年に一回でも墓参りすることに意義があるとなる、死んだ人を振り返る意義があるとなる
記念日をもうけて何かを振り返ることに意義がある、そうしないと人間は忘れるのである

人間とは本当に忘れやすいのである
プログでも詩でも自分で書いていたものを忘れている、そして自分の作った書いたものを読んで感心しているというのも不思議なのである
それだけ人間とは忘れやすいものだから何か書いておくとかがどうしても必要なのである写真でも残しておくとか何か思い出すもの記憶になるものを記しておく必要がある
墓はそうして死者を忘れないものとしてあるものとして意味があるともなっている
具体的に物としてあるからそれを通じて過去を忘れないようにしているともなる
ただ立派な墓はいらない、なぜなら後継ぐ人がいないと後で邪魔になるからである
墓標のようなものでも十分だとなる、つまり代々墓を維持できなくなっているからだ
墓標のようなものだったら片付けるものも簡単だからである
墓が捨てられ墓の墓場になるのも無常である
結局この世は無常であり誰しも無常から逃れられないのである



人間の縁の不思議(親戚の縁はみんな切れたー遠くの親類より近くの他人)


人間の縁の不思議(親戚の縁はみんな切れたー遠くの親類より近くの他人)


縁というのは何か離れて住むとキレやすい、例えば兄の場合、静岡の方に住んだ
それだ頼りもあまりないと何が起きたかもわからなくなる
ところが何かあると急なことがあり連絡来たりする
するとなぜそうなったのか?
その事情がのみこめなくなりそこで困惑する

交通事故になりそれが離婚して電気水道をとめられて家を出た、それから運送会社に運転手として入った、そこで保険金のことでもめた
子供もいたので混乱した、一時は子供を連れて運転していたらしい
それから児童相談所に行きあづかってもらった
もしこのとき近ければ事情がわかり子供でも一時あづかることができた
ところが静岡となるともう行くだけで容易ではない
兄は静岡の方に行ったときこっちに帰らないとしていたがそれはいいとしてこうして問題が起きたとき困るのである

そのためにこっちに死んだとき連絡が来ても静岡まで行くだけで大変である
そしてその運送会社で何日かいて責められたのである
それは保険金の代理人に運送会社の社長がなりたいということだったと思う
なぜなら骨をここに置いていけとか墓を作ってやるとかいろいろ言っていたからである
ところが私の家ではまず車をもっていなかったから自賠責とか保険のことがわからなかったのである、それでその事情をのみこむことがむずかしかった
その間に連絡していてもたまにしかしていないし何しているのかもわからなくなっていたからだ 

ただ不思議なのは交通事故になる前に運送会社の人と家に寄ったのである
それも不思議な現象だった、死ぬ前に何か親戚でも知己でも友達でも回ってゆくというのは本当である
その時機嫌が良かったのである、その運送会社が悪いというのではなかった
ただ保険金が下りるとなり変わったのだと思う
なんか児童相談所とかその運送会社とか自分の家でもめた
自分の家は母親がいたからそうなった

でもこのことが何なのかのみこめなかった、ただ保険金が金がからんでおかしくなっていた
死体は運送会社に一時もちこまれそこで通夜みたくなっていた
さらに複雑なのはちょうど離婚した後であり妻がかかわってきた
何か金がないということで困っていた、子供はまだ中学生だから子供は母に頼ろうとしていたのである、母はその後病気になったり入院したりした
金がもらえると思い自分の家に来たのである
ここでも金でもめていたのである
人間のもめる一番の原因は金である、もし金が入らなかったらもめなかった
原発事故でももめたの補償金であり金だった、それで兄弟が仲たがいしたとか聞いた
「金の切れ目が縁の切れ目」というのは痛いほど経験した

今回は兄の墓標を隣に作った、でも肝心の娘は来ると言ったが来ない
十万を電車賃として送ったが来ない、だからこれもキレたのだと思う
これも何か離れて連絡をとっていないから事情がわからなくなる
そして突然何かあると連絡されるから困るのである
つまり離れていると相手のことがわからなくなる
また疎遠になって連絡しないとわからなくなる
そこで誤解が生まれたり信じられなくなる
つまり離れていることはこうして互いに疎遠にして不信にもなる
ただ離れているだけでそうなるのである

こちらから連絡しようとしたが携帯の電話番号を書いていたのだがそれが間違ってのか通じない、今自分は携帯をもっていないからだ
すると連絡しようもなくなった、相手も連絡してこないでのキレたのかとなる
ただ父親の墓を作ったので今回は墓の魂入れとかなるので来て欲しかった
でもこうして実際は前からうまくいっていないからキレたのだと思う
こちらにしてもかかわることがめんどうになるのである
それなら一層キレた方がいいともなる
とにかく親戚とかもともと自分にはない、兄弟もいないからキレてもしょうがいなとなっていたのである

でもどうして連絡が来ないのか?それが謎である、10万という金が欲しいだけで連絡して来たのか?何か謎であるのも相手の事情がわからないからである
もともとキレてもいい関係だったから意外でもないとはなる
親戚でも兄弟まででありそれ以上はあまりつづがないだろう
ただ近くの人が甥だった人が叔母を介護するために引き取りにきた人もいた
だから家族でもいろいろありそういう家族もいる
家族の事情はいろいろでありそれを理解できないのである
自分の家族も複雑でありまた親戚関係もうまくいかなっかたからこうなったともなる

それでも兄の墓を作ったしそれで供養する他ない、母の実家の墓には行かない
何かもともともめていて分裂不和の家族であり親戚だったからこうなったともなる
それもしょうがいないとなる
人間は何かこうして協力すること自体むずかしい、だからもう協力できないとしたら関係を断つということした方がいいとなる、問題が起きたとき事情もわからないのに呼ばれたりすると困るからである

いづれにしろ日ごろから協力しない関係では何かあったときも協力し合えない
原発事故の避難区域になったところでもそうである
そこでは内部的にも協力し得ないともなった、そこで外部から入った人たちがいて復興に尽くしている、すると内部で協力しえない人たちより外部の人たちが頼みになるともなるつまりどういうふうにして協力関係を築くかが問題になる
そして協力できないとなったときもうかえって関係しない方がいいとなる
それでも地域だとどうしてもそこで生活しているから関係を切ることはできない
もし切るとしたら他に移るほかないのである
でも協力できないとこうした事態でみんな困っている時はそういう人は迷惑になる
親子でも兄弟でも原発事故ではばらばらになり地域でもばらばらになった
それはなぜなのか?
かえって金をもらった結果ばらばらになった、そして金をもらったら外に出て暮らした方がいいとなり若い世代でも出て行って帰ってこないとなったのである

とにかくお盆は死者のことを先祖のことを思う時である
ただ最後は墓が残るがそれも捨てられる、親子の縁もキレる
ただ無常があるのみだとなる 

とにかく

遠くの親類より近くの他人

この諺はこんなに交通が発達しても変わりないのである、遠くになると事情がわからなくなるのである
それで原発事故でも東電と地元の福島で意思疎通ができなくなっていたのである
それはいくら電話であれインタ−ネットであれ通信でも連絡できたとしてもそうなのである、その現場の事情が伝えられなかったのである
それで吉田所長が独断で決めたとなる、そうせざるをえなかったともなる


2019年08月13日

墓は何であったのか? (もともと個人の死を悼むものであり家族墓は明治以降で新しい)

                    
墓は何であったのか?

(もともと個人の死を悼むものであり家族墓は明治以降で新しい)

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庶民がお墓を立てるようになったのは明治以降だそうです。(庶民が名字を持ったのは明治以降ですから当然かも)
また、それ以前のお墓が個人名であったのに対し、「○○家」の墓という風に「家」の墓になったのは、当時の「家制度」を普及浸透させる社会潮流と合致しています。

妻が夫の姓を名乗るのは明治時代以降のことである。それであるから、妻が死ぬとその遺骸は里方の墓地に葬られることが多かった。夫方の墓地に葬られても、その名は里方のものを記されたのである。


石のお墓を建てられるのは、武士や貴族などの有力者の話で、庶民は共同墓地に土葬されるのが一般的。盛り土をして目印となるような石を置いたり、木を立てたりといった簡単なものでした。その後、檀家制度により葬儀や供養が生活の中に浸透していったことから、庶民の間にも墓石を建てることが広がりました。

またお墓は、もともと個人や夫婦単位のものでした。家単位で作られるようになったのは、江戸時代の檀家制度の普及と、明治時代に入って庶民も名字を持つようになったためといわれています。


墓の歴史は何を語っているのか?
それも歴史だとなる、古墳が墓なのか?ピラミッドが墓なのか?
これも議論がある、中国だと巨大な権勢があり始皇帝のような山のような墓がありその地下まで墓なのである、地下帝国がありそこに王が眠り生きつづけるとまでなる
死後も権勢を誇るとなる

そもそも墓とは死者を葬り死者を記念するものとして墓が生まれた
だから個人墓が最初に生まれた、古墳にしても墓だとすると天皇の墓であり個人の墓なのである
なぜなら死者を悼むというとき個人が死んだとき個人を悼むことだからである
常識的に考えても死者をいたむというときまず個々人が死ぬのだから死んだら個人を悼むのである、その後に家族墓に埋葬されると家族を悼むとなる

そして村の共同体があるときは個々人の墓はない、まず個人が死んだら村人全員で悼み
供養して共同墓地の仏方(ほとけっぽ)に葬る
それが今でもこの辺では地名として残っている、個人の墓はないのである
有力な武士の墓は殿様の墓は残ったとしても農民の墓はないのである
ただ幕末期になると農民の個人墓が生まれた、それは財力がついたので墓を作れるようになったからである、それも個人墓なのである
その個人墓から夫婦墓になった、信士、信女の墓になった
家族墓はないのである、だから家族墓は明治以降できたものであり新しいのである

だから家族墓は実際はなじまないし変わるべきものだったともなる
それで今時代が変わりもう家族墓は維持できなくなったのである
長男とかが家を守る時代ではなくなったからである
戦前でも農業主体だと農民が8割とかなれば土地を受け継ぐということで長男が家を守ることがあった、でも農民が一割にもみたなくなったらもう長男が家を守る時代が終わったそれで兄弟で遺産を平等に分割する時代になり土地まで分割されるようになる
それは農業の時代でなくなったからである

いづれにしろ墓は何なのか?
これもわからないのである、人が死ぬと結局灰になる、私の兄は交通事故で死んで母の実家の墓に骨壺に入れて収めたがその骨壺もなくなり灰も実家の兄弟と親の骨と灰と交わりなにもない、土となっていたのである
するとどうなるのか?実家の親戚ともめたから兄の墓を私の家の墓の隣に墓標として建てた、そこに別に兄の骨も灰もないのである
ただ名前が記されているだけである
死者は骨なのか?それとも名前なのか?何なのか?
それ自体がわからないのである

ただ明確なのことはそもそも墓は人が死んで偲ぶために生まれた

形あるものとして墓を作りそれで死者を供養し偲ぶために生まれた
ここが起源でありだから死者を偲ぶというとき個人を偲ぶのであり家族ではないのであるなぜなら家族でもみんな違った人生を歩んでいるからである
兄弟でもまるで違った人生を歩む残すことになるからである
だから死者を偲ぶというとき個人を偲ぶのであり家族を偲ぶということはないのである
家族は確かに最も深い因縁で結ばれているとしても死んだときは個人を偲び個人がどういう人であったとかどいううい人生を生きたとか何を残したのかと問われる
家族が何を残したかより個人を偲ぶのである

姉はシンガポールの向かい側のジョホールバルの赤十字病院で従軍看護婦として4年間地獄の苦しみを受けて帰ってきた、そのことを死ぬ直前まで語っていた
母は原町紡績で十年間糸取りとして働いた、その後東京で女中して働いた
兄は集団就職で静岡の方に行き交通事故で死んだ
他に母の実家の墓では肺病で25歳で死んだ人がいた、何かそうした人生を個々人が語る家族でもみんなその人生は違っているのである
すると家族を偲ぶというより個人の人生を偲ぶとなるのである

兄の墓標を私の家の墓の隣に建てたときもそうである、その娘が墓参りに来るときもその親である個人を偲ぶとなるのである、それがお盆であり墓参りだとなる
その娘にとっては私の家族のことは必ずしも深い関係にないから家族にお参りするということにはならない、父親の墓参りに来るからである
母親は祖母として私の家族に墓参りすることになるにしてもそうである
だから家族は必ずしも一体というものではなく個々別々なのである
それで家族墓が現代では家族形態が変わると維持できなくなっている
そしてどうしてどこに埋葬していいかもわからなくなる

村のような親密な共同体で生きていればその場所にもアイディンティティがあり人も親しいから村の共同墓地に葬りそこで村人が代々供養できる、でもそういう共同体もないのだからどこに葬り次に誰が供養するのか問題になる
家族にしても途切れてしまうからである
現代は広域社会であり子供でも遠くに嫁ぐし分散して暮らすようになっている
すると土地との縁も関係も薄れる、それで余計に墓の維持もむずかしくなる

だから樹木葬と海に灰をばらまくとかなる、自然に還るとなる
それはもう死ぬ場所もないことの象徴なのである、一見自然に還るというが村で生活していれば本当にその土地の土に還るとなる
でも普通の人はみんな農民ではない、だから自然に還るというのも何か違うのである
そして孤独死とか孤立死が増えるのも現代である
また宗教団体に入るとその人たちが村の土地の一部を占領して自然破壊までになっているそれも死ぬ場所がないことのためにそうなる、村で暮らしていたらその村で死ぬのが自然だからである、都会人はそうして死ぬ場所がないのである

いづれにしろ人間死んでも後で偲んでくれる人はいなくなる、子供でも孫の代までくらいであり後は供養するものがなくなるのが多い
すると立派な墓を作っても維持できないのである
だから墓は簡単な墓標のようなものがいいともなる
それなら簡単に片づけられるしまたそこに死者を葬ることができる
それは村の共同墓地ともにている、永代供養ともなる
ただ今の永代供養は僧侶が金をもらい管理する、村の墓地は村の人たちが供養する永代供養だったのである
それだって時代が変わり村という共同体も変わるとすでにその共同墓地は文化財として歴史として地名として仏方(ほとけっぽ)として記されているだけだとなる

ともかくいろいろあっても人間が死者を供養するとかはならない
ただ墓という形式が変わりなくなるということはある
そして死者を供養することは死者個人を偲ぶことでありその霊を慰めることである
慰霊だともなる、何故なら不幸に死んだ人が多いからである
すると何か祟りがあるとかなり畏れがあるからだ
肺病で若くして死んだとか戦争で死んだとか交通事故で死んだとかいろいろ不幸な死が多いからである、それも墓参り供養の意義だとなる

私は常に墓に注目してきた、墓地でも江戸時代のものがあるとき注目する
ただたいがい墓地あるところは古い場所であり江戸時代からつづいているものが多い
そこは共同墓地だったところだともなる
それが東京とか大都会と違っているのである、土地と結びついているのが田舎なのである土に還るというのはまさにその生まれた土地で生活してその土地の土に還るということなのである、代々そうし農業だと土地に養われて生きてきたのだから自然とそうなったのである、それがもはや土に還るとかありえないのである
東京のような大都会では死後も団地のような狭い場所に箱のような一部屋を墓としているそれも窮屈で嫌だと思う、でもそれも今の生の継続としてそうなったのである
死後でも見晴らしのいい場所にいたいともなる、そんな窮屈な所なら海とかに骨をまいてくれともなるのである 

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これは武内と岸の両家の姓が刻まれている、明治と思うが江戸時代のつづきとしてまだあった
家族の墓とか一家の墓の形式は明治以降であり新しいのである
だから実際はなじみにくいものだったのである、それで嫁ぎ先の墓に入りたくないという嫁が多いのもわかる
もしここに実家の姓を記していればまた別である
嫁でも実家を引きづっていてこの姓から実家を知るからである
明治になって男性の家に嫁ぐということが生まれて姓も男性の姓に女性は変わる
それを今になり嫌がる女性がいるのもわかる、なぜならもともとこうして両姓が記されているからである
家族墓といっても家族は一つになりにくいのである
それで姓がない(安らかに)とか墓に記されているのは姓を記すとその姓に所属する人たちのもになってしまうからである
天皇が姓がないのもそのためである、もし藤原とかなっていれば藤原氏一族が国民を支配するとなってしまうからである


2019年08月12日

家族のカルマで苦しむ (カルマは次の代に受け継がれるから怖い)


家族のカルマで苦しむ

(カルマは次の代に受け継がれるから怖い)


過去に起きた不仲や議論から派生しているこうしたカルマは、原因を見つめ直して和解したり解決すべきであったのに、何世代にもわたりこれまでも無視されたり否定されてきたのであろう。そして次の世代にも同じことが引き継がれて繰り返されてしまうのである。

もし誰かが大きなカルマを抱えていて、その人の人生でカルマを解消し切れない場合は、次の世代へと受け継がれます。

先祖が罪を犯したら、血縁関係がある子供が、その罪を償わなければいけない場合もあるわけです。

兄が交通事故で死んだ、父親が違っていたし私の家にとっては負い目となった兄である
私は大学まで行ったが兄は集団就職で中卒で苦労した
そして結婚したが妻が不倫して離婚して死んだ
その娘がいたが児童相談所とかに一時あづかったとか不幸になった
ただ妻の不倫とか離婚とかになったのは兄の責任もあり私の家の責任に全部はならない
なぜなら別に当時集団就職は多かったからである
その人たちが全部不幸になったわけではないからである

いづれしろなんらかカルマを人は背負う、いい面でも悪い面でもそうである
そして長男長女が家族のカルマを背負うことになる
一応親戚だった人もなぜ今になって夫に苦労しているのか?
それはその母親が夫が若い内から重症の病気になってずっと世話しなせければならなくなったからである
そして娘はいい人と結婚したと思ったのだが夫が事業をはじめて失敗した借金を背負い苦労するようになった
これもだから不思議なのである、なぜなら別に事業など起こす必要もなかったのである
会社では技術者であり資格をもっていたからである
それでいい暮らしをできていたからである
だからそれがわからないし不思議だとなる
結果的に娘も夫で苦しむ結果となったのである

親が夫で苦しむ→娘が夫で苦しむ

まさにこれがカルマなのである

なぜそうなったのか?そうさせられたのか?

それは娘が親と同じ苦しみ負い親の苦しみを体験させるためだとなる?
親が夫のためにどれだけ苦しんだかを自ら体験させられるためにそうなった?
その影響が関係が薄い親戚にも自分にも回ってきたとなる
カルマは必ず波及する、兄弟とかなるともう逃れることはできない
第一事業することは親戚だけではない回りにいいにしろ悪いにしろ影響するから簡単に始めるものではないと思う

ともかく自分自身が自分の家のカルマを背負い介護や病気で十年間苦しんだ
その時助けはない、責められるだけだった
本当に七転八倒してきた、自分一人しかいなかったからだ
つまりそれがカルマだったのである

もう一人の親戚とももともと付き合いがなくうまくいっていなかったからこれもそういう継続で切れた、だから母の実家の墓参りはしない
こうして家族のカルマは必ずなんらか苦しみとなって払わされるのである

例えば金というのもカルマとなる、母の実家の墓を長男にあたる人が墓を守ってくれと
300万円で頼んだ、私は頼まれなかった
それで墓を守ることを頼まれた人はどうなるのか?
その実家の負のカルマも背負うことになったのではないか?
それはわからないにしても私は頼まれなくて良かったとなる

あなたは300万円もらいましたね
その責任を果たしてください

私は金はもらっていません
だから責任はありません

ともかく金もカルマとなり責任となっていたのだ
ドラマだったが金をもらったからとその義理と責任を果たすために殺人をしたヤクザがいたのもそうである
そこまでしなくてもいいがやはり金はわかりやすいカルマとなっているのだ
金とはなんらか具体的なカルマとなる
それは会社単位でもカルマとなる、何かもうけるにしてもそこに正当なものがないとそれがカルマとなり会社はつぶれる
だから地銀などでも苦しくて投資信託など売りつけたり本来の業務から離れてもうけているとカルマとなりそれが会社にかえってきてやがてつぶれるとなる、もうつぶれるようになっているからそうしているともなる

何か母の実家の墓は重いカルマを背負っていたからである
もちろん別に死んだのだからその人が墓を捨てるということもありうる
いづれはそうなるにしろやはりその人になんらかカルマがゆき苦しむとなるかもしれない正直その頼まれた人は異常人格者になっていたので怖くなり母の実家の墓参りもしない
つまり生前に家族でも親戚でもうまくいっていないと死んだ後もうまくいかないということである、その不仲は継続されたカルマとなっていたのである

まずカルマは苦しみとならないかぎり自覚されない、だから私の家族が介護となりその後のいざこざがあり自覚したとなる
そのカルマは過酷なものだったのである

人間は必ず人生でカルマを積んでいる

人間は別に個々人でもカルマを積んでいる、若い時に必ず過ちを犯す、それを軽く見ているが後で後悔する、それだけならいいがそれがカルマとなって現れる
例え法的に罰せられなくても苦しみとなって現れる
カルマの恐ろしさは結婚したりして子供ができるとその子供にカルマが受け継がれることである

カルマは一代で終わらない、子供に次の代に受け継がれる

人間はそれだけ生きることは責任を課せられている、自分だけでそのカルマが終わるならいい、必ず回りに子供にも受け継がれることが怖いのである
それを自覚しないのである、自分だけで終わると思っているのである
でも結局人間のカルマは消滅することはない
遂には人類もそのカルマによって滅びるとまでなる、世界史とはまさに人類のカルマとしかいいようがないからだ
なぜこんなに悲惨な戦争があったのか?それも人間のカルマだったとなる
もうどこの国が正義だなどないのである
アメリカが正義でも何でもないからである、原爆を落としたカルマは必ずアメリカにもいつか回ってくるかもしれない、そういう行為(カルマ)はいつか苦しみとなって現れるからである

ともかく墓をみたら石に赤茶色の垢のようなものをついていた、それを洗い落としたしたりした、唯一親戚となった人が墓参りに来るので一人で用意するのも大変だった
本当はもう切れてもいい親戚だけどやはりなんらかカルマがあり因縁がありつづいているとなるのかもしれない、今では兄の供養するのは自分しかいなくなったからである

お盆にはやはり死んだ人とか結婚した家ののこととかが話題になる
墓のことも話題になる、それがお盆だとなる
私の家は何か複雑すぎたのである、でもなんらか家族にはこうした問題をカルマを背負っていることは確かなのである