読むべき本ー場所の現象学(エドワード・レルフ)
(アイディンティティは場から形成される)
根をおろすということは、おそらくもっとも重要であるけど最もわずかしか認識されていない人間の魂の要求である
人間は誰もが多様な「根元」を必要としている
人間にはその自らの一部を形成している環境を通してその道徳的知的、精神的生活のほとんどを引き出す必要があるのだ
この本はバイブルのような感覚になる、それは自分自身が、追及してきたことだからである、現代文明の現代人の問題は場の喪失、アイディンティティの喪失にある
それはグロ−バル経済とか広域社会とか交通の凄まじい発達とか通信の発達とか外部との交流が飛躍的に増大した、モバイル社会である
ただ反面そのためにアイディンティティが喪失したのである
地球の裏側から物が入って来たとしてもアイディンティティとは関係ないのである
第一果物でも食料でも入ってきてもその土地のことなどわからないし関係ないからである
こういうことは便利さを求めて交通が発達した結果もたらされたのである
そこで物欲は満たされたとしても精神は空虚化したのが現代なのである
現代はみんな故郷喪失者になったのである
人間は物欲に満たされても何か満たされない空虚感につつまれているのである
現代人には文明人は精神の充足感がないのである
みんな精神的に疲れ鬱病が増える、それは何か本来人間のあるべき場の喪失とかアイディンティティの喪失のためである
人々と場所からの疎外、帰るべき場所の喪失、および世界の非現実感と所属先の喪失感をともなう、
そのような観点からは場所は意義ある存在の中心ではありえない
東京とかの怪物都市となるとそれが現実に思えない、何か幻影のように見える
そこでとても人間精神は涵養できるものではない、巨大な異空間の中で人間は言葉を失いまたアイディンティティを失うのである
現代人はアイディンティティをもつ場を失っている
江戸時代とか農村が社会の中心だった時は自ずとその土地と密接に結びついてアイディンティティが形成されていた
それは代々継続される時間がありそこが一つのミクロコスモスとしてアイディンティティをが形成されていた
だから人が死ぬと山に還りそして春になると田植えの時期に先祖がおりてくるというのはまさに時間的空間的にそこに心もあるとういことなのである
それは一代で終わるものではなく営々とつづく、先祖との関係もその場を通じてありつづけるのである
お盆というとき死んだ人を迎える時それは家だったりその土地だったりする、死んだ人もアイディンティティとして生きた場所にありつづけるという日本的信仰にもなる
それは都会ではありえないのである、だからお盆とはそうしたアイディンティティの場所に還るという祭りだともなる
金門田《かなとだ》を 荒垣ま斎《ゆ》み 日が照《と》れば
雨を待《ま》とのす 君をと待とも
〜作者未詳(東歌) 『万葉集』 巻14-3561 相聞歌
門のそばの田が荒れていれば掻いて清め
日照りが続けば雨を待つ
そんな気持ちで貴男をお待ちしているのです
門の前の田とかは重要な田だった、農家では今でも前の田とか畑で農作業している
家続きだから庭のような感覚にもなる、家と仕事場が一体化していたのである
前田となるとそこは草分けの農家が最初に開いた所で重要な村の中心となっていた
とにかく遠くに通って働くということはない、だからこそ余計にその土地と一体化するアイディンティティ化しやすいものがあった
そういうふうに自然と一体化した原始的心性から歌われたのが万葉集である
だから現代ではこういう歌は作りえないのである、他の歌でも自然と密着した心性は失われた、確かに現代でも農業している人はいてもそういう心になれないのである
道の辺《へ》の 茨《うまら》の末《うれ》に 延《は》ほ豆の
からまる君を 別《はか》れか行かむ
〜丈部鳥《はせつかべのとり》 『万葉集』 巻20-4352
道端のイバラの枝先に絡みつく豆のつるのように
別れを悲しんで すがる妻を残して 自分は旅立たねばならない
755(天平勝宝7)年、上総国(千葉県)の防人の歌です。「ノイバラ」を詠んだ歌であるとともに、唯一「豆」を詠んだ歌でもあります
この豆は野生のものであり必ずしも畑で栽培したものとは違うという見解もある
こういう歌もそうである、別れるという時、野生の茨(うまら)がからまってくる君というとき自然と一体化した人間の心情が現れている、今だとどうしてもこういう発想にならないのである
だから万葉集の世界は自然と身も心も一体化したものとして歌われたから貴重だとなる
現代は本当にそうした場が失われている、そうした身も心も一体となった所から発想しない、それで抽象的なものとなる、抽象的時空がイメージの中で作られてくる
そして膨大な情報社会になったとき余計にそうなったのである
そしてその情報でも抽象的になり場から離れて膨大な情報にふれる
でも実際はそうした情報は一過性の中で消えてゆく、時間の継続で消化されない
原始社会だと何か事件があったらそれをその部族の中で語りつづける、それが歴史となり継続される、今は次から次と事件を消化しないままに次の事件が起こりただどんな凶悪な事件でも忘れられる、次の凶悪な事件が起きて忘れられるのである
それは場の喪失から起きてくる、記憶する継続する場が失われているからである
何か起きることはtake placeであり場所と関係していたからである
大衆的アイディンティティは集団や個人の経験から発展したというよりも、世論を誘導する者によって与えられ、できあいのアイディンティティを人々に与え、商業広告を代表とするマスメデアを通じて広められる
それは最も表層的な場所のアイディンティティであり感情移入的内側性の余地を全く残さず場所との一体化の基礎を破壊することによって実存的内面性をむしばむ
マスメデアはその受けてが直接に経験できない場所に単純化され選択されたアイディンティティを都合よく与えて偽りの場所の偽りの世界を作り上げようとする
現代の情報社会の問題がここにある、特にマスメデアというときテレビの影響がそうしたのである、その影響はあまりにも大きいものだったのである
その情報の致命的なのはその場を知り得ないことから起きている
なぜならテレビに映し出されたものはその場での時間空間を実際は経験できない
一部を恣意的に切り取られたものを提供されているしとても実際の場に立って得るものとは違うからである
だから不思議に思ったのは私がその土地のものとその生きている場所で話すとき話がはずむ
何か言葉でも生き生きしてくる、言葉が活きてくる、それはその場が具体的に反映してくるからそうなる、それは決してテレビとか見ては感じ得ないものなのである
その場がどういう場所かはその場に立たなければわからないのである
そして現代では交通の発達で車社会になったときその土地土地の場を感じないのである
ただ通り過ぎて行くだけになる、歩いてゆくならその場を感じるものがあるが車で突っ走ればなくなるのである、つまり旅をしてもただ移動するだけだとなる、通過するだけだとなってしまうのである、だから旅しても何か表層の旅であり深くその土地とコンタクトできないのである
まず芭蕉のような旅は現代ではできない、ただ通り過ぎてゆくだけの旅である
かえって便利になりすぎてその土地と交わる経験ができないのである
だから現代の文明は芸術にしても深いものが生まれないし土地とのアイディンティティももてず空虚化しているのである、そこにかえって人間の生が価値あるものとして現れない要するに人間の根とある場をもたないのが現代人である
心とはこころ、ココであり場所のことだったからである、場所から離れて心はありえないのである
そして原発事故の最大の被害は今までそうして住んでいた場が奪われたことである、住めなくなったことである
たしかに補償金はもらったとしても精神的に失われたものは補えないのである
ただそこに住んでいる人も別にこんなことは考えない、そこに生活して自ずから無意識にその場が心となっていた
ただその場が失われたとき何か重要なものが失われたことを自覚したしその価値を知ったのである
そういうことはなかなか自覚しえないものだったのである
そういう精神的なものには値段がつかないし金で売買できるものでもないからである
でもそういう精神的なものこそ生きる拠り所になっていたということを自覚させられのが原発事故だったともなる
ただ実際はそこに生きていた人たちがこんなことを自覚はしていない、便利さを求めて金を求めていただけであり
それが価値あるものとして生きていた訳ではないのである
それで価値とは何かというときそれはすべて金で売買できるものではないのである
それが余りにも金が万能になりすぎたのが現代なのである、そこでアイディンティティが喪失しているのが現代なのである
根無し草になっているのが現代人なのである