2019年08月10日

(姓から探る郷土史) (東京の女子学生が只野家の蔵を利用する旅を企画する)

(姓から探る郷土史)

(東京の女子学生が只野家の蔵を利用する旅を企画する)

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野馬追いに出るとなるとこの只野氏は古い



駅で駅舎の写真をとっていた、どこから来たのか尋ねた
東京からだという、鹿島駅の駅舎は古い形が残っているので写真をとる人が多い
その女子学生は旅行会社でインターで働いていて蔵を利用したツアーを企画しているという
その蔵の写真をスマホでみせてもらった、二つの蔵がある家だった
二つ蔵がある家は見かける、その家は只野という姓だという
そこで只野氏の由来を説明した
とにかく鹿島区には只野、但野・・・の姓が本当に多いのである
30とかある、つまり只野氏一族の町だともなる
その由来は郡山市の多田野村に発していて南北朝の戦いのとき霊山城が炎上して逃れて来た武士の子孫なのである
それは由来のはっきりしたものでありこの地はその武士の子孫が多いということなのである、苗字に姓にまつわる話はいろいろある

姓というのは小さい村だと必ず一つの姓がその村とか町に多いのである
それで末次駅の村の墓地を見たら8割だ新妻の姓だったのである
そこは新妻一族の住んでいる村だったのである
それから葛尾村でも松本の姓が三分の一というときこれも信州の長野県から逃れて来た武士の末裔が住んだからそうなったのである
だから姓を苗字をみるとそこで歴史がわかる
ただ住む人が多くなると大きな市とかになるといろいろな人が入り乱れて住むようになるから姓が混在してわかりにくくなる
現代はそういうことが多い、本当に遠くに嫁いだり移り住んでいるからそうなる

相馬藩内では三分の一の人口が天明の飢饉で消失した、逃散した
その穴埋めに越中などからの移民が入ってきた、その人たちの姓は越中などに由来する
古賀とあれば越中に古閑村とかあり他にも越中とかから移民してきた人たちの姓は分類できる、とにかく相馬藩内には三分の一も入って来たのだから多いのである

苗字の中には武蔵にしかないというような特別なものがある
少なくともある一定の地方にのみ起源の求められるものがある
児玉や熊谷はたとえ中国九州にあっても、元はこの国から出た家と見てさしつかえがないこれと同時に逸見とか小笠原とか帯金とか言えば少なくとも最初甲州人であり,波多野とか渋谷とか股野とか言えば仮に国境を越えてまっすぐにやってきたものででは無いまでも相模系の癒えであることは想像し得られる(柳田国男全集ー武蔵野の昔)

相馬藩は相馬氏が千葉県などから移住して相馬氏に支配された地域である
ところが相馬という姓を名乗る人はいない、それは殿様だけが名乗れるものだった
そして相馬市に城跡があるが相馬市は前は中村市だった、中村がありそれはもともとの土地の名だったのである
たいがいもともとの氏姓があっても別な土地に移る時その土地の名を名のるようになる
土着するとそうなる、でも相馬氏の前に相馬藩内を支配した鎌倉から来た岩松氏は土地の名を名乗っていない、そして家臣によってその一族は稚児まで虐殺されたので歴史に残っている、それは500年前とかの話なのである
そして岩松という姓は相馬藩内にないということが歴史の事実を未だに語っているのである

いづれにしろ只野という姓が南相馬市の鹿島区に多いのはその歴史がありそれで多い
ただすべてが只野氏の子孫かというとそうではない、明治以降誰でも苗字を名乗ることが許された、すると由緒ある苗字にあやかり各自が名乗ったからまた増えたともなる
なぜか郡山市の多田野村の近くに小林村がある、これも不思議だとなる
小林村とは他に会津の方にもあるからどうしてそうなったかわからない。
私の父は葛尾村から出ているからだ、祖父は柏原村の出である

姓から歴史を郷土史でも探ることはみんなしている
相馬藩内だと例えば馬場という姓があるとするすると原町に馬場村がありそこから鹿島村に移ってきたのかとなる
不思議なのは大谷(おおがい)村があり栃窪村に大谷の姓に連なる人の姓が多いのである大谷氏一族の墓があるのも知っている、どういうわけか栃窪の大谷氏と私の家は親交があった
ただ大谷村というのは大原村の隣であり狭い所なのである、人が移動するとき農村社会だったから農業するために土地を求めることがある
土地がなければ生活できない、田畑がなければできない
それで延々と開墾や開拓が日本ではすすめられてきた、そもそも相馬藩内で三分の一も飢饉で人口が減った時、なぜ越中などから移民がわざわざ来たのか?
それは土地が得られるということだったのである
三分の一の人口に減れば空家とか土地がありそこを埋めるために移住した
それは原発事故でまた人が極端に減ったときそこに新しい人が都会から移住したりしているのとにている、その時はそれだけの人が移住したというのは農民社会で土地を得られるからだったのである

只野氏の由来は明確である、他の姓は明治以降に勝手に作られたという時由緒が明確ではないのである
野馬追いに出る家は武士の家であり古い家である、その姓も古いとなる
ただ渡部とか多い、するとこれは全国的にも多いからそこから歴史を探ることは不可能になる、鈴木などもそうである、これは熊野地方に由来していることはわかる
それで熊野神社が多いこともわかる
でも全国に広がってしまった姓から歴史を探ることはむずかしくなるのである
とにかく誰しも自分の家の姓には興味があるからそこから歴史に郷土史に興味をもつことはある、それが一番身近だからである

やはり郷土史になると柳田国男が先駆者でありそれが常に一片の小説のように語るのでその語り口が独特なのでひかれるのである、つまり何らか文学的才能があり新しい民俗学を起こした人だったのである
必ず一片の物語としてその土地のことを語っているからである
つまり歴史はヒストリーでありストリーだということを知るのである
何か過去のことがわかりにくくなっているが柳田国男の残したものを読むと昔のことが小説を読むようにわかるから貴重なのである

万葉集の死者を偲ぶ歌、死者と会いたいという歌が基にある


万葉集の死者を偲ぶ歌、死者と会いたいという歌が基にある

万葉集がなぜ理解でないのか?それは現代的感覚で読んでいるである
私的恋愛というのは万葉時代にはなかったというときもそうである
なぜこんなに恋愛の歌がありそれを現代的には私的なものとして個人的なものとして理解する、でも万葉時代は原始的部族の延長のようなところがありそうした部族では個を私を主張することはタブーになる
つまり常に共同のものとして自然でも共有関係があり私という感覚は希薄なのである
共同の祭りとしてあらゆるものがあり私的なものは認められないし自覚されないのである
その理由として私(わたくし)するということは共同の利益に反することでありとがめられるものである、また英語でもプライベイトとは奪うということであり共同体からするとそれは悪だったのである

公的・儀礼的であった挽歌が、個人の私的感情を盛り込むことのできる器として整えられていることがわかる。公的な挽歌を利用して、私的な感情は表現の水路を見出したと言ってもいい。個人の意識や意思が寄せ集まって、共同体的意識が生まれてくるというのは誤りである。むしろ共同体的意識のなかで、個人の意識や意思が発見されると言ったほうが正確だろう

ここが一番万葉集で誤解しやすいのである、だから現代の感覚で読んでいるからその当時の社会がどういうものだったか理解できないから間違った解釈になる
例えば我とは割れるから来ている、共同体から割れるが我なのである
万葉集を理解するにはむしろこの共同体から割れたもの、我がない世界を知らないと誤解するのである 

明日よりは 春菜摘まむと 標し野に 昨日も今日も 雪は降りつつ(8・1427)

この歌でも個人的な歌として解釈する、でもそもそも標し野とは共同地として特定されて禁断の地だったともなる、だからすでにそこは共同体のものであり個人の土地ではないのである
すると春菜摘むというのは何か個人が摘むというものではなく共同体の中で春が来たらみんなで春菜を摘むことを暗示している、その時みんな農民の社会に生きていたのだからそうした意識が共有されている
俳句で季語が無数にあるのはそれはもともと農民が季節感覚に敏感だったからである
それが共有されて文学になったのである

君が行く 日長くなりぬ 山尋ね 迎へに行かむ 待ちにか待たむ(2・85

ありつつも 君をば待たむ うちなびく わが黒髪に 霜の置くまでに(2・87)

たとえば「待つ」という表現は、死者の魂との交感の場面で、とりわけ切実な意味をもった。死者の面影が甦り、その魂が自分に寄り添ってくれるのを「待つ」のだ

この歌も不思議というか理解しにくいし深い意味が隠されているのである
山尋ねということ自体、人が死んで山に葬られる、ということは死者を尋ねる、墓参りすることだともなるし山に葬られた死者を尋ねるともなる
君をば待たむ・・・というのは生きている人なのか?
死者を思っているのかとなる、黒髪に霜の置くまでとなればそんなに長く待つとういうことはありえないともなる
それは死んだ人と会うことを待っているのかともなる
何かこうして万葉集は今の感覚からでは想像できないものがある
そこに当時の人間の原始的感情というものがありそれが現代では理解できないのである

「待つ」という表現は、死者の魂との交感の場面で、とりわけ切実な意味をもった。

待つとは恋人を待っているのではない、死者と会うことを待っているとなる
そうすれば君が行く日長くなりぬとは死んだのだから会えないのだから当然そうなる
死者と会うことを待ちにか待たむとなる

あなたは死んでからもう久しいけど葬られた山へ私は迎えに行きます
このように長くもあなたと会うことを待っています 

これは死んだ人と会いたいとなれば切実なものとなる、それは恋の歌とも違うのである
死者と会いたいということなのである、でも会えないから切実なものとなる
恋が乞うであり死者と会うことを乞うから来ている
とにかく万葉集がなぜ理解できないのか?
それは当時の共同体とか原始的感情というべきものをイメージできないからである
現代のようにすべて個人的なものとして私的なものとして理解するからである

つまりもうそうした原始的人間の共同体そのものが現代では消失している
だから共同意識も喪失している、そこで勝手に現代的感覚で理解することになる
だからそもそもこんなに相聞歌が多いのは何なのか?
それはもともと公的なもの共同体の中で読まれたものであり祝詞とかに通じていた
それは天候とかいろいろ関係してみんな農民だった時、その共同の祈りとして歌もあったのでありそんなに私的な恋愛だけではなかったのである
その辺に何か誤解して読んでいる、つまり我(われ)がない時の時代を知るべきなのである、そこにこそ共同の世界があり共有する意識があり重要だとなる
私的なものはその後に生まれたものだからである

母と姉死したるのちも離れざれ我が身にそいてふるさとに住む

こういうふうに死者の魂が身にそうということがある、それが理屈ではなく人間の原始的感情である、それが今でもありうるのである
60年も一緒に暮らしていたからそうなったのである
自分の場合は子供の時から姉と母は一緒にいたからそうなったのである
他では妻とかでも長くいればそうなる、ただ夫と一緒の墓に入りたくないという人や
姑と一緒の墓に入りたくない人が多いのもわかる、むしろ実家の墓に入りたいという時子供の時から暮らした親元の方が親しいとなるからである
それは人によって家族の事情が違うからむずかしいのである



posted by 老鶯 at 11:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 万葉集