2019年08月14日

金のことで縁がみんな切れた (親も子に捨てられる、墓参りすらしない)


金のことで縁がみんな切れた

(親も子に捨てられる、墓参りすらしない)



物心がついた6歳のときから父親の再婚相手である義理の母のもとで育った。愛情は血の繋がっていない弟に向けられていたこともあり、17歳で高校を中退後、古川市(現大崎市)の親戚の家に転がり込んだ。実質的に親を捨てた瞬間だ。

「仮に今、父親の介護を負担していたとすれば、経済的にも精神的にもストレスは計り知れません」

昨年、連絡先を調べた姉が訪ねてきて父親が亡くなったことを知った。1回だけ墓参りに行ったがそれきりだ。自宅マンションには仏壇もない。

方法2. 冠婚葬祭のイベントにも顔を出さない
親族の付き合いは、結婚式や葬式・法事など、どうしても外せないものが多くなります。しかし縁を切りたいなら、徹底して参加しないという決意をしておきましょう。

縁を切ったつもりでも、親族のイベントに出席すれば、どうしても顔を合わせることになってしまいます。顔を合わせればトラブルが再燃しておかしくないのです。


兄のことでいろいろ事情があって私の家の墓の隣に墓標を建てた
それでその娘が墓参りするというので十万電車賃を払った
でも今回は来なかった、それがなぜなのかわからない
そもそも娘でも13歳ころまではかわいがられたが中学で両親が離婚してもめたとか経済的にゆきづまり家を出て住む所がなくなったとかさんざん親のために苦労したので
親といっても親への思いがなかったのだろう
ただ自分の家では兄の家族について離れていたので何をしているのか良くわからなかったのである
それで交通事故で死んだとき残された娘は妻の家族にひきとられた
でも高校生になっていたが卒業して東京に出て来た
金はあったのでそこで一人暮らしして結婚して一人娘をもうけた
でも夫は早い時期に離婚した

とにかく両親もこのように問題があり娘はひどいめにあった
ただではその後のことがすべてこうして両親が悪いからなのか?
それはそうではない、その娘にも問題があったのである
金使いが荒いとか性格的な問題だとかその本人にもいろいろ問題があった
母が認知症になり死ぬ一か月前に二百万やれという遺言を残したのには驚いた
その金を払ったがそれを一年も満たずに使った
兄も金使いが荒い、金があるとぱっぱっと使うのである
そういう性格なのである、それが娘も同じだったのである

だからなぜ父親の墓を作ったとから墓参りしてもらいたいというということで10万払ったが来なかった
向からお盆に来るからと言ったので払った、でも来なかった
つまり父親のことなどどうでも良かったし墓参りのことなどもをとでもよかった
したくなかった、ただ10万という金が欲しくてお盆に来ると言っていたのである
前も来るときは電車賃を払っていたからである
その娘には父親に対する思いがないのである
別に金もかかるわけでもないのだから墓参りくらいできるがしない
ただ十万欲しいというだけであり父親のことはどうでもいいのである
もちろん相手が死んでいるのだから死んだ人は金をくれない
ただ私が金を払うことを知っているからお盆に墓参りに行くと言ったのである
そうすれば金が入るからである

それで死んだ親との縁とも自分の家との縁もキレたと思う
もともと親密な関係でなかったから仕方がないしもうつづくのが限界だったともなる
このように相手が望んでいたのは金しかなかったからである

親族の付き合いは、結婚式や葬式・法事など、どうしても外せないものが多くなります

親戚の関係はこういうことでつづき断りにくいことがある
最後は墓参りとか死者を通じてもつながるからである
でもこうして簡単に10万もらったら後は用はないというのも親にとっては悲しいとならないか?死んでいるからどう感じているかはわからないけど親も死んでも捨てられたとなる、本当は無縁仏になっているのである
だから親でもいろいろあって兄弟でもかわいがられた人なら親を思うがそうでないと思わないのである
だから介護の時、お前は一番かわいがられたから親の介護をしろとなるのである

私の場合は親に対する思いが深いのである、親と言ってもここがわかりにくいのだが
二人いたとなるのだ、姉と母は年齢がさほどかわらないから母と同じだったのである
そうして60まで自分は二人が世話してくれたのである
だからこの歳月が自分にとっては忘れられないのである
その時は気分いいものであり何か殿様のようにして過ごしたともなる

つまりこうして特別良くされたからこそ介護も必死でしたし死んでも供養するし楽した日々が思い出となっているのである
二人がいたから安住したとなる、その後は介護となり死んでいいことがなかった、そのことをプログで書いてきた
外からはわかりにくいにしても

親に良くされた人は親を大切にする、死後も篤く供養する

兄弟でも親に良くされない人はやはり良くしない、介護もしたくないとか墓参りすらしないのである
それは生前からそうなっていたのである、墓参りでも死後でも生前に良くされない人はやはり墓参りすら親でもしないとなるのである
親でも別に血がつながっていなくても養子とかなっていても親が愛して良くしてくれれば子も親を思い良くするのである
それもカルマだとなる、カルマがどこかで返ってくる

何か60年も一緒にいると死んだ人でも依然として家にいるようにな気がするのである
その長い歳月がやはりそうさせている、例えば子供が家から育って遠くに行ったりすると肉親でそうした親密な感情が失われてゆく
それで認知症になったとき遠くに行った子供は忘れても近くで一緒に生活していれば忘れないと思う
私のことは名前でも憶えていたからである、遠くに行った人はいくら血縁でも肉親でも忘れやすいのが人間なのである
それが人間というものである

去る者は日日に疎し

死んだりしたら本当にそもそも本人が影も形もなくなるのだから日々に疎しとなる
どうしても忘れられるのである、それは死んだ時点でその人が消えるのだからすでにそうなる
だからもうこの世にいない死んだ人を延々と思っている人はその人に対しての思いが深いということなのである
だからこそ忘れるからこそ義務的にでもお盆でも一年に一回でも墓参りすることに意義があるとなる、死んだ人を振り返る意義があるとなる
記念日をもうけて何かを振り返ることに意義がある、そうしないと人間は忘れるのである

人間とは本当に忘れやすいのである
プログでも詩でも自分で書いていたものを忘れている、そして自分の作った書いたものを読んで感心しているというのも不思議なのである
それだけ人間とは忘れやすいものだから何か書いておくとかがどうしても必要なのである写真でも残しておくとか何か思い出すもの記憶になるものを記しておく必要がある
墓はそうして死者を忘れないものとしてあるものとして意味があるともなっている
具体的に物としてあるからそれを通じて過去を忘れないようにしているともなる
ただ立派な墓はいらない、なぜなら後継ぐ人がいないと後で邪魔になるからである
墓標のようなものでも十分だとなる、つまり代々墓を維持できなくなっているからだ
墓標のようなものだったら片付けるものも簡単だからである
墓が捨てられ墓の墓場になるのも無常である
結局この世は無常であり誰しも無常から逃れられないのである



人間の縁の不思議(親戚の縁はみんな切れたー遠くの親類より近くの他人)


人間の縁の不思議(親戚の縁はみんな切れたー遠くの親類より近くの他人)


縁というのは何か離れて住むとキレやすい、例えば兄の場合、静岡の方に住んだ
それだ頼りもあまりないと何が起きたかもわからなくなる
ところが何かあると急なことがあり連絡来たりする
するとなぜそうなったのか?
その事情がのみこめなくなりそこで困惑する

交通事故になりそれが離婚して電気水道をとめられて家を出た、それから運送会社に運転手として入った、そこで保険金のことでもめた
子供もいたので混乱した、一時は子供を連れて運転していたらしい
それから児童相談所に行きあづかってもらった
もしこのとき近ければ事情がわかり子供でも一時あづかることができた
ところが静岡となるともう行くだけで容易ではない
兄は静岡の方に行ったときこっちに帰らないとしていたがそれはいいとしてこうして問題が起きたとき困るのである

そのためにこっちに死んだとき連絡が来ても静岡まで行くだけで大変である
そしてその運送会社で何日かいて責められたのである
それは保険金の代理人に運送会社の社長がなりたいということだったと思う
なぜなら骨をここに置いていけとか墓を作ってやるとかいろいろ言っていたからである
ところが私の家ではまず車をもっていなかったから自賠責とか保険のことがわからなかったのである、それでその事情をのみこむことがむずかしかった
その間に連絡していてもたまにしかしていないし何しているのかもわからなくなっていたからだ 

ただ不思議なのは交通事故になる前に運送会社の人と家に寄ったのである
それも不思議な現象だった、死ぬ前に何か親戚でも知己でも友達でも回ってゆくというのは本当である
その時機嫌が良かったのである、その運送会社が悪いというのではなかった
ただ保険金が下りるとなり変わったのだと思う
なんか児童相談所とかその運送会社とか自分の家でもめた
自分の家は母親がいたからそうなった

でもこのことが何なのかのみこめなかった、ただ保険金が金がからんでおかしくなっていた
死体は運送会社に一時もちこまれそこで通夜みたくなっていた
さらに複雑なのはちょうど離婚した後であり妻がかかわってきた
何か金がないということで困っていた、子供はまだ中学生だから子供は母に頼ろうとしていたのである、母はその後病気になったり入院したりした
金がもらえると思い自分の家に来たのである
ここでも金でもめていたのである
人間のもめる一番の原因は金である、もし金が入らなかったらもめなかった
原発事故でももめたの補償金であり金だった、それで兄弟が仲たがいしたとか聞いた
「金の切れ目が縁の切れ目」というのは痛いほど経験した

今回は兄の墓標を隣に作った、でも肝心の娘は来ると言ったが来ない
十万を電車賃として送ったが来ない、だからこれもキレたのだと思う
これも何か離れて連絡をとっていないから事情がわからなくなる
そして突然何かあると連絡されるから困るのである
つまり離れていると相手のことがわからなくなる
また疎遠になって連絡しないとわからなくなる
そこで誤解が生まれたり信じられなくなる
つまり離れていることはこうして互いに疎遠にして不信にもなる
ただ離れているだけでそうなるのである

こちらから連絡しようとしたが携帯の電話番号を書いていたのだがそれが間違ってのか通じない、今自分は携帯をもっていないからだ
すると連絡しようもなくなった、相手も連絡してこないでのキレたのかとなる
ただ父親の墓を作ったので今回は墓の魂入れとかなるので来て欲しかった
でもこうして実際は前からうまくいっていないからキレたのだと思う
こちらにしてもかかわることがめんどうになるのである
それなら一層キレた方がいいともなる
とにかく親戚とかもともと自分にはない、兄弟もいないからキレてもしょうがいなとなっていたのである

でもどうして連絡が来ないのか?それが謎である、10万という金が欲しいだけで連絡して来たのか?何か謎であるのも相手の事情がわからないからである
もともとキレてもいい関係だったから意外でもないとはなる
親戚でも兄弟まででありそれ以上はあまりつづがないだろう
ただ近くの人が甥だった人が叔母を介護するために引き取りにきた人もいた
だから家族でもいろいろありそういう家族もいる
家族の事情はいろいろでありそれを理解できないのである
自分の家族も複雑でありまた親戚関係もうまくいかなっかたからこうなったともなる

それでも兄の墓を作ったしそれで供養する他ない、母の実家の墓には行かない
何かもともともめていて分裂不和の家族であり親戚だったからこうなったともなる
それもしょうがいないとなる
人間は何かこうして協力すること自体むずかしい、だからもう協力できないとしたら関係を断つということした方がいいとなる、問題が起きたとき事情もわからないのに呼ばれたりすると困るからである

いづれにしろ日ごろから協力しない関係では何かあったときも協力し合えない
原発事故の避難区域になったところでもそうである
そこでは内部的にも協力し得ないともなった、そこで外部から入った人たちがいて復興に尽くしている、すると内部で協力しえない人たちより外部の人たちが頼みになるともなるつまりどういうふうにして協力関係を築くかが問題になる
そして協力できないとなったときもうかえって関係しない方がいいとなる
それでも地域だとどうしてもそこで生活しているから関係を切ることはできない
もし切るとしたら他に移るほかないのである
でも協力できないとこうした事態でみんな困っている時はそういう人は迷惑になる
親子でも兄弟でも原発事故ではばらばらになり地域でもばらばらになった
それはなぜなのか?
かえって金をもらった結果ばらばらになった、そして金をもらったら外に出て暮らした方がいいとなり若い世代でも出て行って帰ってこないとなったのである

とにかくお盆は死者のことを先祖のことを思う時である
ただ最後は墓が残るがそれも捨てられる、親子の縁もキレる
ただ無常があるのみだとなる 

とにかく

遠くの親類より近くの他人

この諺はこんなに交通が発達しても変わりないのである、遠くになると事情がわからなくなるのである
それで原発事故でも東電と地元の福島で意思疎通ができなくなっていたのである
それはいくら電話であれインタ−ネットであれ通信でも連絡できたとしてもそうなのである、その現場の事情が伝えられなかったのである
それで吉田所長が独断で決めたとなる、そうせざるをえなかったともなる