金のことで縁がみんな切れた
(親も子に捨てられる、墓参りすらしない)
物心がついた6歳のときから父親の再婚相手である義理の母のもとで育った。愛情は血の繋がっていない弟に向けられていたこともあり、17歳で高校を中退後、古川市(現大崎市)の親戚の家に転がり込んだ。実質的に親を捨てた瞬間だ。
「仮に今、父親の介護を負担していたとすれば、経済的にも精神的にもストレスは計り知れません」
昨年、連絡先を調べた姉が訪ねてきて父親が亡くなったことを知った。1回だけ墓参りに行ったがそれきりだ。自宅マンションには仏壇もない。
方法2. 冠婚葬祭のイベントにも顔を出さない
親族の付き合いは、結婚式や葬式・法事など、どうしても外せないものが多くなります。しかし縁を切りたいなら、徹底して参加しないという決意をしておきましょう。
縁を切ったつもりでも、親族のイベントに出席すれば、どうしても顔を合わせることになってしまいます。顔を合わせればトラブルが再燃しておかしくないのです。
兄のことでいろいろ事情があって私の家の墓の隣に墓標を建てた
それでその娘が墓参りするというので十万電車賃を払った
でも今回は来なかった、それがなぜなのかわからない
そもそも娘でも13歳ころまではかわいがられたが中学で両親が離婚してもめたとか経済的にゆきづまり家を出て住む所がなくなったとかさんざん親のために苦労したので
親といっても親への思いがなかったのだろう
ただ自分の家では兄の家族について離れていたので何をしているのか良くわからなかったのである
それで交通事故で死んだとき残された娘は妻の家族にひきとられた
でも高校生になっていたが卒業して東京に出て来た
金はあったのでそこで一人暮らしして結婚して一人娘をもうけた
でも夫は早い時期に離婚した
とにかく両親もこのように問題があり娘はひどいめにあった
ただではその後のことがすべてこうして両親が悪いからなのか?
それはそうではない、その娘にも問題があったのである
金使いが荒いとか性格的な問題だとかその本人にもいろいろ問題があった
母が認知症になり死ぬ一か月前に二百万やれという遺言を残したのには驚いた
その金を払ったがそれを一年も満たずに使った
兄も金使いが荒い、金があるとぱっぱっと使うのである
そういう性格なのである、それが娘も同じだったのである
だからなぜ父親の墓を作ったとから墓参りしてもらいたいというということで10万払ったが来なかった
向からお盆に来るからと言ったので払った、でも来なかった
つまり父親のことなどどうでも良かったし墓参りのことなどもをとでもよかった
したくなかった、ただ10万という金が欲しくてお盆に来ると言っていたのである
前も来るときは電車賃を払っていたからである
その娘には父親に対する思いがないのである
別に金もかかるわけでもないのだから墓参りくらいできるがしない
ただ十万欲しいというだけであり父親のことはどうでもいいのである
もちろん相手が死んでいるのだから死んだ人は金をくれない
ただ私が金を払うことを知っているからお盆に墓参りに行くと言ったのである
そうすれば金が入るからである
それで死んだ親との縁とも自分の家との縁もキレたと思う
もともと親密な関係でなかったから仕方がないしもうつづくのが限界だったともなる
このように相手が望んでいたのは金しかなかったからである
親族の付き合いは、結婚式や葬式・法事など、どうしても外せないものが多くなります
親戚の関係はこういうことでつづき断りにくいことがある
最後は墓参りとか死者を通じてもつながるからである
でもこうして簡単に10万もらったら後は用はないというのも親にとっては悲しいとならないか?死んでいるからどう感じているかはわからないけど親も死んでも捨てられたとなる、本当は無縁仏になっているのである
だから親でもいろいろあって兄弟でもかわいがられた人なら親を思うがそうでないと思わないのである
だから介護の時、お前は一番かわいがられたから親の介護をしろとなるのである
私の場合は親に対する思いが深いのである、親と言ってもここがわかりにくいのだが
二人いたとなるのだ、姉と母は年齢がさほどかわらないから母と同じだったのである
そうして60まで自分は二人が世話してくれたのである
だからこの歳月が自分にとっては忘れられないのである
その時は気分いいものであり何か殿様のようにして過ごしたともなる
つまりこうして特別良くされたからこそ介護も必死でしたし死んでも供養するし楽した日々が思い出となっているのである
二人がいたから安住したとなる、その後は介護となり死んでいいことがなかった、そのことをプログで書いてきた
外からはわかりにくいにしても
親に良くされた人は親を大切にする、死後も篤く供養する
兄弟でも親に良くされない人はやはり良くしない、介護もしたくないとか墓参りすらしないのである
それは生前からそうなっていたのである、墓参りでも死後でも生前に良くされない人はやはり墓参りすら親でもしないとなるのである
親でも別に血がつながっていなくても養子とかなっていても親が愛して良くしてくれれば子も親を思い良くするのである
それもカルマだとなる、カルマがどこかで返ってくる
何か60年も一緒にいると死んだ人でも依然として家にいるようにな気がするのである
その長い歳月がやはりそうさせている、例えば子供が家から育って遠くに行ったりすると肉親でそうした親密な感情が失われてゆく
それで認知症になったとき遠くに行った子供は忘れても近くで一緒に生活していれば忘れないと思う
私のことは名前でも憶えていたからである、遠くに行った人はいくら血縁でも肉親でも忘れやすいのが人間なのである
それが人間というものである
去る者は日日に疎し
死んだりしたら本当にそもそも本人が影も形もなくなるのだから日々に疎しとなる
どうしても忘れられるのである、それは死んだ時点でその人が消えるのだからすでにそうなる
だからもうこの世にいない死んだ人を延々と思っている人はその人に対しての思いが深いということなのである
だからこそ忘れるからこそ義務的にでもお盆でも一年に一回でも墓参りすることに意義があるとなる、死んだ人を振り返る意義があるとなる
記念日をもうけて何かを振り返ることに意義がある、そうしないと人間は忘れるのである
人間とは本当に忘れやすいのである
プログでも詩でも自分で書いていたものを忘れている、そして自分の作った書いたものを読んで感心しているというのも不思議なのである
それだけ人間とは忘れやすいものだから何か書いておくとかがどうしても必要なのである写真でも残しておくとか何か思い出すもの記憶になるものを記しておく必要がある
墓はそうして死者を忘れないものとしてあるものとして意味があるともなっている
具体的に物としてあるからそれを通じて過去を忘れないようにしているともなる
ただ立派な墓はいらない、なぜなら後継ぐ人がいないと後で邪魔になるからである
墓標のようなものでも十分だとなる、つまり代々墓を維持できなくなっているからだ
墓標のようなものだったら片付けるものも簡単だからである
墓が捨てられ墓の墓場になるのも無常である
結局この世は無常であり誰しも無常から逃れられないのである