2019年08月29日

今日午後から虹が出る(約束の虹に実り)


今日午後から虹が出る(約束の虹に実り)

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約束の地に実りや虹かかる

「あなたたちならびにあなたたちと共にいるすべての生き物と、 代々とこしえにわたしが立てる契約のしるしはこれである。 13すなわち、わたしは雲の中にわたしの虹を置く。 これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。 14わたしが地の上に雲を湧き起こらせ、雲の中に虹が現れると、 15わたしは、わたしとあなたたちならびにすべての生き物、すべての肉なるものとの間に立てた契約に心を留める。 水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない。 16雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべての肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める。」  17神はノアに言われた。
 「これが、わたしと地上のすべての肉なるものとの間に立てた契約のしるしである。」(創世記9章12節‐17節)

約束ではなく契約の虹だった、契約というのが日本だとなじめない、約束と訳すとなじめる
そこに言葉の問題がある


今日午後から虹が出た、大きな虹ではない、半分くらいの虹だった
でもはっきりとした虹だった、この頃あまり虹は出ていなかったからめずらしかった
それを見たのはいつも行っている畑の道だった 
虹は夏の季語だけど今日は暑いから夏だともなる、秋の虹だったら秋の虹としなければならないからだ、まだ残暑であり夏だとなる

そこにはいろいろな問題がありそれを語れどきりがない、実りがあるとしても余りにも
様々な問題がありすぎたのである
ただキュウリだけは太いのがとれた、それは柔らかく売っているのよりうまいのである
でもそのキュウリは売れない、もらう人さえいないのである

ただ自分はそこで畑で野菜を作る人の話を聞くことで金を払っているとなる
農業をじかにしるために金を払っている
何かそれが情報社会なのかもしれない、農業を知ることはなかなか田舎でも直接かかわらないものはわからないからである
田舎だと確かに農業は田畑があり身近だけど実際に農業している人としない人の差はこれも大きいのである
そして今では農家でも農業しているわけではない、たいがい農地を貸しているだけだとなる、だから農家の人でも会社員であり農業をしていないのである

虹は聖書では約束を示している、契約の虹なのである
その天国には本当の実りがある、ただこの世ではその実りは本当の実りとならない
ともかくそこで野菜を作る人の苦労を考えると嫌になるからだ
田舎の嫌な面が延々と出てくるのである

つまり畑でもそれは孤立してはできない、隣がありその隣もまたうるさいのである
だからいつも隣の畑の人が嫌だと言って最近死んだが喜んでいたのである
そして近くに団地がありその四階からいつも見て何やかやいう人がいると嫌がるのである田舎では見ていないようでも誰かが見ていて監視しているのである

田舎の問題はこうして人なのである、この人にうんざりしているのである
それは自分だけではない、みんなそうなのである
そうはいっても田舎で人と関わらないでぱ生きていけないのである
私は家族がいたとき田舎に住んでも人と関わらずに生きていたのである
それも不思議だったとなる、家族がみんな死んだ結果田舎の人とかかわって生きざるを得なくなったのである
そこで田舎の人のまた今の人間の金しか求めない醜悪さに直接触れるようになったのである

ともかく自分の生活は普通ではありえない生活だった、そこで変な方向にも行って失敗したのである、こんなふうになったのもいいにしろ悪いにしろ家族がそうさせたともなる
ともかくどんなにしてもこの世に本当の実りは実現しない
この辺が津波や原発事故でがたがたになって混乱したようにもう原発事故で放射能汚染で住めなくなったように本当に地獄化したのである
結局この世は災いの地だったのである、この世が天国になることは絶対にない
この世は滅ぶべき場所であることは間違いない
ただ約束の虹があるよう本当の実りはこの世にはなく天国にある
神の備えし天国にある、それが希望なのであ

人間何のために働くのか? (金を払う方でもなぜ金を払うのかと考える)


人間何のために働くのか?

(金を払う方でもなぜ金を払うのかと考える)

youtubeのlove and freedomの40くらいの人がなぜ自分が働いているのかわからないという
ただ毎日とにかく食べるために働いている
それも日銭稼ぎでありただ日々生きているだけだとなりなぜ生きているのかもわからないとなる
もし家族があったら家族のために働くとなりそこに生きがいもできるから結婚したいとなる
働く理由はまず最低限の衣食住の確保のために働くことが強いられている
でももし最低限の衣食住が保証されていたら働かなくなる人が多くなることは確かであるなぜなら労働自体に今生きがいを見出している人はいないからだ
文明社会は複雑化して無数のパーツになっている 

だからどういうふうに関連して働くことに意義が見出されるのかとなるとわからなくなるみんな巨大な文明社会の部品に過ぎないのである
それはどんな優秀な人でもそうなる、
何か発明でも科学者でも昔のようにニュートンとか天才が出ないというときもそねうなのだろう、何か一人ではもう複雑化した科学でもそこで傑出したものとはなりえなくなったノーベル賞でも何か昔の天才のように傑出したものではないという
確かにそれは地道な基礎研究であり何か世界観まで変えるような発明はないと科学に弱くても見る

働くという時、それは例えば雇う人がいる、働かせる上司がいる、幹部がいて資本家がいる、金を出す方がいてもらう方がいる
給料を出す方でもなぜこの人に金を出すのか?そういうふうに考える
それ相応に見合ったものが得られから給料を払うのである
それで別に効率化するには人間でなくてもいい、AI化したロボットがいいとなり無人化した店になり鉄道だと無人駅が増えてくる
それは雇う人が給料を払いたくないからコストでそうなっているのである

ところが別に人を雇う方でもその働く意義とか理由を与えない、ただ雇われる人は金が欲しいだけだとしか考えない、だから雇う方も金のことしか考えない
働く理由とか意義などは考えないのである
そもそも何か理由とか意義とか意味を考えるのは人間だけである
一体地球が何で存在しているのか?宇宙が何で存在しているのか?
そんなことを問うのは人間だけである
動物なら毎日今日の食べ物しか頭にない、植物でもなぜ自分があるのかなど考えない
木がなぜここに立っているのかなど考えないのである
つまり人間が自然でもその存在意義を考え価値を与えているのである
人間こそが宇宙であれ地球であれ自然の木であれ石であれ花であれ意味を与えるのであるすでに名前をつけること自体なにかしらの意味を与えている

なぜ現代は働くことに意味を感じないのか?ただ金の量だけで計られるのか?
そして金を使う方に重点があり金を使うことが生きがいになるのか?
それで原発避難者が補償金をもらってかえって仮設に住んでいたのに威張っていたのである、「私たちはここで消費して助けているのよね」と言っていた
これが現代人なのである、金のある者が王様であり金をもって消費する方が王様になっている、としたら働く方に価値がないとなってしまうのである
こう言った人が変わった人でもなんでもない、そういう社会に住んでいるからそう言ったしそれが常態化しているからそう言ったに過ぎないのである
つまりいくら労働しても感謝されるということは医者くらいでありほとんどないのである医者だけは命にかかわるから過剰にその労働が評価されて感謝されているのである

今私が金を払う立場にある、別に働いていもらっているからではない

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親(介護されるひと)−息子(施設に一部金を払う)−母親(私か金を払う)

青森の施設に入れても他にいろいろな介護に使うものがあり金を払っている
息子は建築現場で働いている、親は自力で生活できない、年でもある
でもなぜ私がこの人たちに金を払わねばならないのか?
でも払っているから母親のために息子のためにその親のために払うとなるとなぜその人たちに払う必要があるのか意味が価値があるのか?
それを問うことにもなる、それは金は誰しも無償で払いたくないからそうなる
なぜ金を払わねばならないのか?逆になぜ働かねばならいのかということもあるが何もしてもらわないのになぜこの人たちに金を払う意味と価値があるのかとなる

家族だったら自分の場合は特別良くしてもらったのだから介護することも当然であり意味と価値があった、今になると介護して世話して良かったとつくづく思った
恩返しができたとなり何か良心的に救われたのである
もし何もしなかったら後悔していた、なぜならそれだけ自分の場合は60まで世話してくれたからである、その特殊な事情で少しでも恩返したことで死んでから死者と話したり通じることができる、もしそれがなかったら死者とも通じ合えなくなることがあったと思うあなたは何もしてくれなかったとなると良心がいたむからである

でも赤の他人の介護のためになぜ金を払うのか、直接払っていなくても払っているとなるそれは福祉で世話になるとかでもそういうことが起きている
直接払っていなくても間接的に税金を払っているからである
その人に払う価値があるのかとなることはぬきに強制的に介護保険とかで払っているのである、でもその介護される人が介護される価値と意味があるのかとなるとわからないのである、そういうことは問わないが私的に間接的でも金を払うとなるとその価値とか意味を問うことになる

いづれにしろ何で働くのかということもあるが何で金を払うのかということも必ずある
何かしら価値と意味を見出すから金を払っている
みんな簡単に金を払わないからである、特に情報関係では日本人は金を払わない
情報は無料だと思っているからだ、でも情報提供する方でも苦労があり手間がある
するとなんらかその情報に対して金がは払われるべきだともなる
たたインタ−ネットだとプログだと発信するにしても手間がかかってもほとんど無料だということでしているのである

人間はパンのために生きるにあらずというとき何か必ずその意味と価値とかを追求しているのである、現代では働く意味も価値を見出せないという時資本主義とかの危機となる
モラルの崩壊でありそこで資本主義も崩壊してゆく
なぜなら資本主義がキリスト教の奉仕するということで修道院から始まったというウェーバーの説がある、その時は消費することではない働くこと自体に意味と価値を宗教的なものとして追求していたからである
それがなくなったときすでに資本主義のモラルが崩壊して金融資本主義とかギャンブル資本主義のようになりもう意味も価値もない、強欲資本主義となりモラルもなにもなくなるただ金を得て消費だけすればいい、消費する者が王様だとなってしまう

それでこの辺では何かそういうことで露骨なもの極端なものとして現象化したのである
いわき市では二万人が避難して多額の補償金をもらい飲み屋で札びらを切ったとか家を次々に建てた、この辺でも新しい街が二つくらいできたように次々に家が建ったのである
それも立派な家も多いのである
それで地元の人と軋轢が生まれたこともわかる
つまり消費者が王様であり金をもっているものが上になる、周りの事情など関係ないとなる、金が横暴に力をふるったからそうなったのである
第一家は地元の大工さんなど関係ないからである
ハウス会社が二週間くらいで組み立てるだけの家だからである
地元だ自分の家でも三か月以上建てるのにかかっていたが今は即席に建てられるし地元の大工とは関係ない、外から来た人が即席に建てるからである

そして社会がグロ−バル化して広域化すると金の力がますます強くなる
広域社会でありどこにでも金があれば住める、もし金がなければ慣れ親しんだ所でも住めない、だから避難区域に若い世代は帰らないのである
一億円やるからどこに住んでもいいよとなればみんな故郷でも出ていくのが現代である
そしてどこでも金がある人が威張ることができる、消費者は王様ごとなるからである
そういうことでこの辺では人々の絆は切れた
和合できなくなった、まだ補償金をいくらもらったとかでもめていてその後遺症がありうまくいかないのである
外との絆があってもいづれもう今はない、すると残されたのは昔から住んだ人たちでありその人たちで絆を作っていかねばならないとしてもできない
後遺症があり簡単にできないのである 

そして新しく入ってきて住んでいる人たちが金をもっているから威張っているということが依然として起きているのである
そういうことはグロ−バル化広域化社会で起きたことなのである
それで復興を考えるには広域化して考えねばならないという時そうなる
現実は今や原発事故で避難した人たちが仙台辺りまで広域化して住んでいるからである
残された老人にしても南相馬市とか相馬市とかに新地でも住んでいて若い世代は仙台の方に住んでいるからである
それで老人はかえって避難区域に住まわせるより原町とかに集めた方がいいともなる
分散すると世話しにくいからである
コンパクトシティ化するということである、広域化社会だからかえって人を集中させて維持させるとなる





posted by 天華 at 16:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

抽象画の不思議 (the wonder about abstract painting)


 抽象画の不思議 (the wonder about abstract painting)

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NORTH FOREST

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GREAT RUIN

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TRAIN GO UNDER THE SEA
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この山は私がソフトで変化させても不思議だった
何か私の作っているものはただ変化させていてコピーしたように見られるかもしれない
しかし不思議なのはこの山は変化させたオリジナルのものとは違ったものでありコピーではないのだ
だから著作権違反にならない、別なものになっているしこんなふうになるとはその写真であれ撮った人でも想像もつかないからだ
ただ著作権違反として微妙なものがあることは確かである
でも私が作っている抽象画が全部著作権違反とはならないと思う
やはりそこには創造的なものがあり創作品として見せられるものがある


This mountain was strange even if I changed it softly
Something I'm making may just seem to change and copy
But what's strange is that this mountain is different from the original, changed, not a copy.
That's why it doesn't violate copyright, it's a different thing, and it's because you can't even imagine the person who took the photo.
There is no doubt that there is a subtle breach of copyright.
But I don't think all the abstract paintings I make are violating copyright
After all there is something creative that can be shown as a creative work