2019年09月24日

南相馬市の古代の歴史ー鹿島区の新旧 (新旧と場所を知ることが歴史を知る基本)


南相馬市の古代の歴史ー鹿島区の新旧

(新旧と場所を知ることが歴史を知る基本)

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歴史をみるとき大事なのは新旧をみることである、村でも新しいのか古いのかが問題になる、だから村でもこの家は古いのか新しいのか問題になる
田舎でも飯館村とかでも古い家と新しい家がある
戦後は開墾に入った人たちが多い、20パーセントくらいいたとかなり相馬地方では特に多かったという、小池にまで開墾に入った人がいた
戦後の引揚者だったのである、あんなところに土地があったのかとなる
その人はかなりの貧乏だったのである

飯館村の大倉から坂を越えた木戸木となると閉鎖された土地である
草野に行くのにも七曲の坂を上らねばならない、あんな不便な土地だから開墾に入った
でも一見するとここは古い部落なのかとも思うのである
つまり村でも新旧を見ることが大事なのである

例えば鹿島区だと烏ア村とか海老村は古い、でも右田村は江戸時代にあったとしても海老村とか烏崎村からすれば新しいのである
そこは後から開拓された土地だったからである
海老村は最近その突端に古墳が発見されたから古いことがわかる
それだけ古い時代から人が住んでいたのである
そうなるとそこで大きな津波を経験していたかもしれない、でもそれはわからない
弥生時代の住居跡も発見されている

古墳があるということはそこが古い場所である目印になる
それで韓半島に前方後円墳が発見されている、それが最近の研究では日本より古いから韓国から日本に前方後円墳が伝わったという、何でも韓国起源にするのが韓国である
でもその古墳が日本より新しいものだったのである
ここでもいかに新旧が大事になるか証明している
それが古いのか新しいのかが決め手になっているからだ

それで鹿島区だと塩崎の船着近くに前方後円墳があった、鹿島区で前方後円墳があるのは金銅双魚佩の発見された寺内と二つだけである
それで問題になるのがどっち古いのか新しいのかなのである
なぜならそれが鹿島区の歴史をみるとき重要になるからだ

塩崎には船着と市庭という地名があり古い、船が通っていたことは書いた
それも今の火力発電所があるところから鉄などを運んでいた
そして大内には800年に奉納された薬師堂が残っていた、それは坂上田村麻呂が奉納したものとされる、大内村はそれだけ古いということである
でも古墳時代になるとさらに古いのである
でもいつそこに前方後円墳が作られたのか?
それが問題になる、なぜならそれがわからないと鹿島区の歴史を解き明かせないからである

私の見解では塩崎の前方後円墳が古いのだろと思う
それは鹿島区の歴史の形成がどうして行われたか?
古代になるとまず東北電力の火力発電所がある場所で大規模に鉄の生産が行われた
その時この地が奈良の朝廷に知られるようになった
鉄の生産のために韓(から)から特に伽耶から技術者が入ってきた
それが津神社でありツノガノアラシトである、、浪江の苕野(くさの)神社もそうである
津神社とはツノ神社でありまぎらわしい、ツ神社とはいわない
ツノ神社である、松川浦の津浪をまねがれたツノミツ神社もそうである
感じは当て字であるから注意する必要がある
ツノガノアラシトのツノがつく神社や地名があるから注意すべきである

ではこの辺にある神社でも新旧が大事になる、綿津見神社は相馬地域とか浜通りでは多いツノガノアラシト系は点であり韓半島の技術者が入ってきた
綿津見神社は安曇系の海洋民が大勢移民として入ってきた
それを物語っているのは飯館村まで綿津見神社と山祇(山津見)神社が多い
それも面としての広がりがある、飯館村の山津見神社を終点としてその前に栃窪村にも山津見神社がある、他に相馬の松川浦にも海岸に山津見と和田という地名があり和田は綿津見のことである
そこから川をさかのぼってゆくと途中に隠されたように山津見神社がある
このことは綿津見神社と山津見神社を神として奉じる人たちが移動した跡なのである
ではこの人たちはいつここに来たのか?
これが大きな問題になるのである
古墳にしてもそれが一体古いのか新しいのか問題になる

ツノガノアラシト系とかの鉄の生産技術者は点としてその後神社とか地名に残した
綿津見神社系はこの地に大勢来て面として移民として住んだのである
ではこの人たちはその鉄の生産の技術者より古いのか新しいのか?
これが大きな問題になるのである

これがツノガノアラシト系より古いとなると最初にこの地に来た人たちは綿津見(山津見)系だとなるからである
その後に鉄の生産技術者が韓半島から来た、そこに大和王権系が指導権をにぎってゆくことになる
真野の草原はそういう事情で大和王権系がかかわり奈良に知られたとなる
そしてでは原町の桜井古墳が鹿島区の古墳と比べて古いのか新しいのかが問題になる
あれだけ大きいのだから古いとみる
そこにすでに統一された大きな勢力がある集団が存在したとなる
それは物部氏系とされる

位置関係を見ればたどれば鹿島区の歴史はわかりやすい
蝦夷が存在したという時、それは物部系とかツノガノアラシトとかが関係していた
そこに大和王権系がかかわり真野郷として中央の大和王権から認定されたとなる
それで小池の前方後円墳が作られ金銅双魚佩とともに埋葬された地元の有力者がいたとなる、それは中央政権の大和王権からもたらされたものだとなる

そして桜田山に古代の城がありそこの丘を越える所で先住民と争いがあった
そこから石の武器が数多く発見されたとあるからだ
そこで先住民と大和王権側が衝突して桜田山下の大六天の祠のあるところで争いがあったそこからは縄文人が生活していた跡が発見されている
魚とか鹿の骨が発見されている、つまりそこで蝦夷と戦った人たちがいた
そこで蝦夷は大和王権側に殺されたともみる
そこから大和王権側が進撃して鹿島神社に至ったのである
そこに鹿島神社が今でもある、その祭神はタケミカヅチの神である
これは武の神であり出雲でもこの神が現れて征服している

つまり神社は場所が大事なのである、なぜその場所にあるかが歴史を語っているのであるそれから右田の御刀神社がありなせそこにあるのかが問題になる
それは海老というのはエヒであり蝦夷のことだったのである
そこはもともと古墳が発見されたように古い場所だったのである
右田に御刀神社があるのは刀はまさにこれも武の神であることがわかる
刀を使って蝦夷を切ったり殺したり征服した場所になるからだ
古代では御刀神社の前は海だった、それは津波で証明された

歴史で大事なのはこうして新旧を知ることと場所を知ることなのである
この二つから歴史をみることが大事になる、つまり何でも空間軸と時間軸で見ることなのである、空間軸はその場が今でも残っているからわかりやすいが時間軸はわかりにくいのである、江戸時代でも年号があったとしてもその新旧がわからないのである
時代をみるときどうして見るのか?
例えば戦前だと戦争があったとか、戦後だと高度成長時代があったとかなる
そして戦後十年くらいは街中の生活でも水道がないし燃料は炭だったということを知ることが大事である、それは江戸時代の続きだったからである

基本的にそういう生活を知らないければ過去を知り得ないのである
それは石器時代から鉄器時代へ移行したときそれが歴史の大きな転換点だったということでも同じである、戦後の電気の生活変革もそうである
その延長として原発事故があったからである