物の消費から語りの文化の時代
(多様化個性化地域化の価値の追求)
技術から情報へ、経済から文化へ、ハードからソフトへの比重が移ります
こうして二十一世紀のわが国では経済のあらゆる分野で「意味」や「文化」、つまり「コトバ」や「デキゴト」の「コト」のしめる比重が急増していくことです
(日本はなぜ縮んでゆくのかー吉田隆彦)
明治以降は西欧列強に対抗するために強力な中央主権国家が必要だった
それで標準語が作られた、方言でぱ通じにくいからそうなった
その時、国の訛りとかは消える、でも方言にはあったかさがある
情的なものがある、だからこそ国の訛りなのである
明治以降は中央主権国家手あり富国強兵を国是とした、日本人が一眼となって欧米列強と対峙しなければならなかったからである
それは太平洋戦争までつづいたのである
戦後また日本は今度は規格品の大量生産時代でありそれで高度成長があった
日本は別に技術的に特別優れていたのではない、ただ誰でもできることを先んじて
世界でしただけである
何かアメリカのように発明したわけではないのである
日本には発明することがない国である
ただ大量にいいものを規格品を作るに向いていたのである
そもそも日本というのは人間自体大量規格品であり同一化同質化しやすい国だから
大量にいいものを作るのは向いていたのである
でもそうした大量規格品を売る時代が終わった
そういうものは今でもテレビでもパソコンでも韓国中国で造れるしかえって日本はスマートホンとか通信分野で後進国になっていたのである
日本ITでは後れをとった、そしてこの情報化社会というのは何なのか?
それが今具体的にいろいろ問われる
新規農業者が語る農業の講義が面白い、今でも野菜は大量に規格品を出している
でもニンジンにしても多様なニンジンがある、他でも野菜でも多様な野菜がある
それはスーパーには売っていない
そこが小規模農業の狙いだとしている、それもやはり多様化ということがキーワードになり未来を示しているからだ
実際は農業でも8割は大規模農家で生産しているものが市場に出ているから同じ規格品しか出てこないのである
だからこのyoutubeで何が変わったのか?農業を語るということである
農業が実際にしている人が語ることができる、その語りでもやはり経験していないとできないのである
youtubeになると個々人がいかに語りえるかである
その人の経験が売りになる、それは底辺労働者でも非正規でもその労働現場を語ることでなるほどと思った、そういう情報はマスコミからは今まで出てこなかったのである
マスコミは中央集権的情報装置であり個々人を相手にしていないからだ
そしてマスを大衆を相手にして視聴率を稼ぐことだからである
それは県単位の新聞でも雑誌でもそうである
むしろ市町村単位の情報もありそれが放送されない、一部されても市町村単位放送局はないからだ
ただyoutubeだと個人単位でも放送局になれるということである
だから個々人の語りの時代になったのである
その語る人は特別な人ではない、マスコミによって選ばれた人ではない
マスコミではマスコミに適応する人しか選ばないからだ
それで武田邦彦氏が科学者だから個人放送局として見る人が多い
そこでも自分を語る場となっている
人間は何かしら語ることをもっている、特にある程度の年になると何かしら経験しているから語ることがある
だから平凡な人でも私が話を聞く、するとそういうこともあったのかと新鮮なのである
東北電力の建物はいつも見ている、それは高いのである
それでその中で働いていた人が階段を上り下りして荷物を運ぶのがつらくてやめたと聞いた、その階段が外から見ても高いのだから相当に高いとなるからそうなのかと納得した
たこうして人の話をいろいろ聞くことは知見を広めることになる
特に私は郷土史をプログで発信しているので郷土のことをトータルに知りたいから余計にそうなる
現代は語りがなくなった、人と直接語ることが少ない、スーパーでも語らずに物だけを買う、でもこの辺でも小さな地域の市場がありそこだと必ずその物について語られる
こうして育てたとかこれはこうだからいいものだよとかなる
ただ地域の市場はかえって高くつく、トマト一個でも400円したとかなる
それは特別なトマトだからである、安く大量に販売するものとは違うからである
ただ市場とは物をやりとりするだけではない、人間が交わるところでありそこで情報を交換するとか結婚相手を見つけるとか楽しむ場でもあった
特に遊牧民だと暮らしている範囲が広いから集まることができないから市がたつことは年に何回とかにもなるとしたら貴重な出会いの場だったのである
ねんごろに故郷の女(ひと)と話しけり我が家のありて秋となりしも
この女性とは話するためにだけあるようなものである
話がうまいということもある、ただ老人になるとやはり話すことが一つの仕事になる
昔を語ることが仕事になる、それで戦争のことを姉から認知症になっても千回語りつづけて効いていたが嫌になった
それは語りが同じことのくりかえしだからである
もし同じことでも語るとき何かまた知らないことを語れば違っていたのである
語るにしてもいろいろ語ることがありそれによってまた新たな発見がある
ふるさとを語るというときこれほど私がプログで書いているかというと津波や原発事故でその語ることが膨大に増えたからである
この辺ではみんなその苦労話を語ることになるからだ
それは十年過ぎてもその語ることはまた新たにある、津浪や原発のことはそれだけ広範囲であり重大なものだったから歴史的事件だったからそうなる
それは戦争とにているのである
いづれにしろ語りの文化というのは稗田阿礼からはじまり長い、庶民の文化は語りの文化である、文字にしたのではなく語ったのである、文字を作ることは相当な高度な文化である、でも語ることはしゃべることは原始時代からしていたのである
それで地名という時、音が基本でありそれに漢字をあてたのである、それで漢字を見ているとどきうしても誤解が生まれているのである
語りという時江戸時代でも語りである、落語でも講談でもその前の盲人の琵琶法師などでもそうである
第一通信が発達しなければ娯楽でも芸能でも直接芸を見せなるから直接語ることとにている
語るということはしゃべることは常に日常でしている、だからそれが芸になる、歌はとはそもそも訴える(うったえる)→歌になったからである
ヤップ島が石の貨幣として有名であるがそこで石の貨幣が運ぶ途中で海に沈んだ、その石を引き上げる苦労が語られる
するとその石の貨幣は価値が高くなる、つまりそれだけ苦労して引き上げたからだとなる
つまりストリーに価値がある、貨幣というのはただの交換する道具だとなるが実際はストリーがある
でもそのストリーが省かれている、語られることが省かれている
こういうことが何か不思議に思えるけど人生そのものを考えると人生は最後は物語になる、ヒストリーになる、ストリーが歴史なのである
すると語られことによりその物語により人生の価値がある、有意義な人生とは常に語られる人生だからである
だから英雄譚とかそうした人生で常人のできないことは神話とかとなって語り継がれてきたのである
まさに人生というのは語られるべきものがあるときその人生に価値があったとなる
あなたの人生に価値がないというとき語られるべきものがないとなる
いくら大金持ちでもそこに語られるべきものがないと価値がないとなる
死んでから百年後でも語られるものは価値がある、芸術でもそうである
それは延々と語り継がれているからだ
ともかく語ることは文章にするのとは違って全人間的行為なのかもしれない、そして語る時話す時効果的なバックグランドが自然でもあることである、自然を語る時その自然そのものがあれば具体的に言葉も活きてくるからである
本を読むにしても言葉だと文字だとイメージすることが不可欠になるが戸外で話する時はその言葉そのものが具体的にあるから話がはずむのである、どういう場面で話しているか実感するからである
語る時は必ず表情とかもみるし感情もでてくる、だから語ることはメデアを機械を通して語るのとは違う、インタ−ネットとかでもそこで語るということは直接ある場所で語ることとは違ったものになる
だから文字だけでやりとりするというパソコン通信は今までありえないことでなじめなかった
ただ語るとしても対面的になると語る人が限られるから広い知識は得られない、でも人間の基本的コミ二ケーションは語ること話すことなのである
だから本当は旅でちょっとでも土地の人とその場で話すると活きててくる、ただ私自身はしていない、旅は急いでいるから何か土地の人とも話せないのである、そして今はスマホを見ているから余計に土地の人と話しないのである
それは旅でも急いでいるからそうなるのである、土地の人に道を教えてもらうにも手間になるから土地の人も道を正確に教えないのである、適当にしか教えない、だからスマホの方がいいとなっているのだ
その点柳田国男は土地の人と語ることが上手で口碑を文字で残した物より語られたことを重視して民俗学を起こしたのである
ただ話すこと語ることは消えやすいのである、その証拠が自分自身書いたものを忘れている、プログでも十年以上していると過去に書いたものを忘れている、そしてこんなことを書いていたのかと自分で書いたものを読んで感心しているのも不思議である
だから話したりすることでもそれを文章にして残さないと消えてしまう、文章にすると長く残るのである
そして人は次から次と死んでゆくとき残るものは何か?その人が書き記したものであり本とかなる
それだけ世の中を生きることは常に忘れられてゆくことである、一つの墓が墓地に倒れていた、名前も記されていても名前だげであるその人について知りうるものはなとはなにもない、その倒れた墓石が何か人間を人生を語っている
その墓石は人間なのである、倒れてしまって死んで帰らぬ人となった人間なのである
最後になんとか名前を残しただけだとなる、ただ石に記せばそれは長く残るのである
ヤップ島が石の貨幣として有名であるがそこで石の貨幣が運ぶ途中で海に沈んだ、その石を引き上げる苦労が語られる
するとその石の貨幣は価値が高くなる、つまりそれだけ苦労して引き上げたからだとなる
つまりストリーに価値がある、貨幣というのはただの交換する道具だとなるが実際はストリーがある
でもそのストリーが省かれている、語られることが省かれている
こういうことが何か不思議に思えるけど人生そのものを考えると人生は最後は物語になる、ヒストリーになる、ストリーが歴史なのである
すると語られことによりその物語により人生の価値がある、有意義な人生とは常に語られる人生だからである
だから英雄譚とかそうした人生で常人のできないことは神話とかとなって語り継がれてきたのである
まさに人生というのは語られるべきものがあるときその人生に価値があったとなる
あなたの人生に価値がないというとき語られるべきものがないとなる
いくら大金持ちでもそこに語られるべきものがないと価値がないとなる
死んでから百年後でも語られるものは価値がある、芸術でもそうである
それは延々と語り継がれているからだ