2019年11月04日

なぜ氷河期,ロスジェネ世代が生まれたのか? (国家百年の計がもてない、ただ時々刹那に生きているのが現代)


なぜ氷河期,ロスジェネ世代が生まれたのか?

(国家百年の計がもてない、ただ時々刹那に生きているのが現代)

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なぜ氷河期世代とかロスジェネ世代とか不遇な世代が生まれたのか?
これはなぜ大企業でもその世代を採用しなかったのか?
それは不景気とかコストの関係もあった、個々の企業にしてみればその時その時の経済の状態で判断する
それが自由主義社会であり資本主義社会だから自由競争社会だから企業でもっと採用しろとは言えなかった

ただそこに資本主義社会自由主義社会の欠点があったともなる
つまりその時々の情勢によってしか動かない、景気が良ければ採用するし景気が悪ければ採用しない、というよりは採用できないとなる
それは企業側の一方的判断なのである
企業というのはいくらでもある、個々の企業の判断なのである
利益が出なければ人も採用しないし給料を安くするほかないのである

資本主義の弱点は国家百年の計とかをもてないのである
企業の寿命はせいぜい20年とか30年だとかなる、技術革新が速いと十年ももたないとなればとても長期的計画をもてない、だから人を採用したくないときはしないのである
その時々に対応しているだけなのである

でも今なぜ人手不足なのか?それは一時期に人を採用しなかった、人を育てることもできなかった、結果として氷河期世代とかロスジェネ世代が生まれた
その人数も多かったから問題になった
そして今頃になって氷河期世代とかロスジェネ世代を国で応援するといってももう手遅れでありこの世代が放置されて割を食ったとなる
これだけ人手不足の時代でも正規として採用できないとなる
それは時代と言えば時代だから仕方がないとされる

つまり少子高齢化とか氷河期世代とかロスジェネ世代の問題は資本主義の欠点として現れたのかもしれない、それより現代の問題は何でも長期的展望をもって計画できないし全体を国でもみることができない
資本主義とか自由主義はその時々の熾烈な競争でありグロ−バルに争いそれに負けれは会社自体が存続できなくなるからそうなる
グロ−バル経済になると国内だけを見ているわけにはいかない
それで国家というものが弱体化して多国籍企業が国を越えたものとして力をもつことになる

でもグロ−バル経済とか資本主義とか自由主義の欠点は社会を長期的視野で展望で見れないことである
第一次産業主体になると自然を相手だから長期的にみる
第一森林でも木が育つには50年かかるとなるとすでにそのことで長期的に見ない限り維持できない、それは一代でも維持できない、だから農家では三代つづかないと仲間に入れてもらえないとういうときそうなる
その土地に根づくには農業だったら三代くらいかかるということである

もし氷河期世代とかロスジェネ世代でも国家がこれではまずいと考えて手を打てば違っていたかもしれない、
でも今国家にはそうした力をもっていない、自由主義社会だとそうなる、では共産主義国家だったら強制的にそうした不遇の世代を救うことができたのかとなるとそうもならない共産主義国家は資本主義のように古い体質の企業が残りそれが足かせとなったまま変えられないという弱点がありこれも逆にかえって全体が窮乏するとなる
現実そうなって崩壊したのである

ただ長期的展望の上に政治も経済も計画できないというときそこに問題が起きる
人間はそもそも空間軸と時間軸で何でもあるとして時間軸で長期的に観ることができないし全体として空間を俯瞰的に見ることができないのである
それで津波に関してはこの辺で400年前に700人溺死とあった記録も忘れていた
まず400年という間隔で見ることはできなくなっている
会社でもせいぜい十年くらいの先しか今ならさらに一年先すら見ないとなる
政治でも一寸先は闇だとなるのもそうである

そして現代の欲望資本主義は何か非常に短絡的になっている
目先の金だけを追っている、すぐに大金を得たいという心境にみんななっている
まずこつこつ働くということが馬鹿らしいという心境にみんななっている
だからそうして一攫千金を狙うようになる、株とかでもそうだし極端になると盗めばいいとなる、そういう心境にみんななっているのだ
長期的展望の中で生きることがないのである
刹那的快楽主義にも陥っている、それが道徳的には退廃することになる
目先の利益であり金が得られるとういことしか頭にないのである
その金になることに飛びつき消費して終わりだとなる
刹那的快楽主義となり堅実な生活が失われている

国家の政策にしても長期的、百年安心年金とか言うのもその時々の付け焼刃的なものであり適当に言っているだけなのである
国家の仕事としては防災とかなるどうしても国家百年の計なのである
本当に今は国家百年の計とかがない、国家はめまぐるしく変わる社会に適応できない
ただ国家のすべきは防災のように国家百年の計を成しうることにある
国家は千数百年とか日本だとつづいている、するとそれだけの長さがあり国が作られているのだからそういう長期的な展望をもつべきなのが国家だとなる
だから私企業の視点と国家の視点は分けるべきだとなる

国家のすべきことは何か?
それは防災だと国民の安全を計ることでありわかりやすい、これはどうしても長期的視野を展望をもって国家百年の計がないとできないからだ
氷河期世代でもロスジェネ世代の不遇もそれが少子化にもなっていた
その世代がベビーブームを生むというのも期待外れだった
その世代は一人が生活するのに精一杯で結婚できなかったからである
それも国の方で長期的に見ていればこれは将来大きな問題になると見ていればこうはならなかった、でも資本主義自由競争社会ではどうにもならない問題だったとなる
個々の企業は競争であり無駄なコストはかけたくないからである
無駄なコストをかけて長期的に政策を実行できるのは国家しかないのである

とにかく人間は人生百年時代というけどこれも長期になると見れない
そもそも人間は未来を自分の未来を見れない
まず若い時は年取ることをイメージできないのである
それでたいがい若い人は60くらい生きればいいやとかしか考えないのである
それくらいしか生きないと考えている
また老人になることがどういうことなのかイメージできないのである
それは老人になることはあまりにも遠い先だと見ているからである
まるず老人にならないようにも見ているのである
ところが青春はあっというまに過ぎ去る、そして老人になっている
玉手箱を開くと白髪の老人になっているのだ
40ですでにおっさんだとかなっている
その速さに驚くのである

人間の弱点は時間軸になると長期的に見れない、長期的展望をもって生きられない
ただその時々に懸命に対応して生きているだけだとなる
そしてみんな意外な結果として人生をふりかえり後悔して終わっているのである
個々人ならいいが全体社会になると国家百年の計をもたないと国家そのものが崩壊してゆくともなる、少子高齢化というのがそうである
国家自体がもう維持できなくなるとも言われるからだ
ただ国家が関与しにくいから手をこまねいてそうなってしまうのである
氷河期世代のでもロスジェネ問題でもそうだったのである

ただ教育とかに国家百年の計というとき何か自由が束縛される、そもそも学校が果たして国家百年の計でそのままでいいのか?
そういう疑問がある、今の学校はもう行き詰まっている、IT化がすべてではないにしろもう学校という旧弊なままの組織化は
国家百年の計にふさわしくないともなる
そこでモラルとかなんとういうと国家の強制だと見られるのもそうである
教育というときこれは教育するから伸びるのではない、かえって教育過剰になっているから才能が伸ばせないのである
自分のように会社に行かず30年間自由なことを追及できればその人の才能は伸ばせるのである
モラルでも教育しようとするとカルト教団のように強制された集団化されてかえって自由な精神は失われて奴隷化されるのである
つまり上の人の支配者のいいなりにするのが教育だともなるからこれも注意が必要なのである
posted by 老鶯 at 15:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

馬を飼う、鮭上る、千鳥(水無川の朝)


馬を飼う、鮭上る、千鳥(水無川の朝)

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本流がまだ濁っているから水無川の方に鮭が上ってきた

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これは千鳥である

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こんな木がどこから流れてきたのだろう、これを流す力には驚く




馬を飼う昔郷士や柿なりぬ

我が里を耕す女(ひと)や朝の菊

出水に変わる流れを鮭上る

清流に卵を産みて鮭の死す

出水や流木一本跡残す


秋の朝千鳥来たりてすみやかにとびさり消えぬ跡もなしかも


野馬追いがあるからこの辺では馬を飼っている家がそちこちにある、それがこの辺の特徴でもある、郷士というとき農業して侍だった家である
野馬追にはそういう人たちが出る、もともと農家だった家から出る
相馬市内とか原町市内とか街内からはほとんど出ないのである
城勤めではなく郷士に受け継がれてきたのが野馬追いなのである

なぜ鮭が水無川に上ってきたのか?
それはまだ台風でふった雨が流れて濁っていたからである
卵を産むとき鮭は清い川で水を求めてそこで子を産む
それで水無川は清い川だから上ってきたのである

それにしてもあのような大木がどうして流れて来たのか?
とてもあの川からこんなものが流れて来るとは思いもよらなかった
自然の力には驚く、そこは水無川でありいつも水がほとんど流れていないからである

出水(いでみず)は秋の季語であり台風のために出る水である
でも温暖化で10月末頃これほどの台風が来る
それで季節的になにかおかしいとなる
そして今年は虫の声が聞こえないのである
これも異変である、川原の草むらには虫が鳴いていた
でも川原の草叢が台風の出水で流出した、それで虫の声が聞こえないから
季節感がなくなるのが淋しいとなる

我が里に・・・というときこの里(さと)というのは日本独特の言葉だと思う
村(むら)は群れるからきているからだ
それは比との集団である、でも里の不思議はそういう村とも違うのである
国は英語でもcountryでありこの意味は田舎という意味もある
村はvilligeであり一応対応する言葉がある、でも里にはないのである、里山というのもそうである、だから里とは日本独特の生活空間の意味になる
自然と融合した空間なのである、ふるさととは里のことなのである

そこに田畑があり耕す人がいて菊が映える、そこに暮らしがあり花でも映えるのである
だから暮らしがなかったら里とはならない
それが原発事故で一時失われたし今でも避難区域では里が回復していないのである
田畑は草ぼうぼうになっているからだ、ただこの辺では荒地が多い
それは日本全体でもそうである、つまり日本の故郷(ふるさと)が里が消失しているのである、日本の原郷のようなものが失われてしまっているのである

カメラに映っていたのはチドリである、チドリの好む場所は草地ではない
砂地とか砂利とか石だらけの所である、すると今回の台風の出水で流れが変わって砂地と砂利と石ごろごろの河原になったからこういう場所を好み来たともなる
チドリはなかなか見れない鳥である、というのは海でも砂浜自体消えているからである
でもこれは河原にも来るとあるがなかなかみれない、ただ時々田んぼとかに飛んできているかもしれない、でも鳥はとらえにくい、すぐ飛び去ってしまうからである

小型チドリ類が繁殖できる場所は、ただの空き地だったり河原の中州だったり砂浜だったり、人間にとっては何の利用価値もない空き地で、他の動植物もあまり多くはない環境です。川が氾濫を繰りかえす中で中州や広い河原ができ、そして河口部には砂州ができます。そういう場所に、まず最初に移り住んでくるのがチドリの仲間たちです。
https://www.bioweather.net/column/ikimono/manyo/m0609_2.htm

こういう習性がある、写真にとらえられたことはラッキーだったとなる