2019年12月31日

大晦日(風が一日荒く吹いて唸った)


大晦日(風が一日荒く吹いて唸った)


大晦日風荒れ吹きて来年の予兆なるかな外に出られじ

風荒く家に吹きつけ唸りける何か不気味や大晦日かな

大晦日なお風荒れて吹きつけぬ街灯部屋にゆれて光りぬ


何か風は荒れて家にうなり吹きつける、その時いつも思い出すのが姉が認知症になったときである、その時も風が激しく吹いて唸っていて
それ以来プログに書いたように災難つづきになったのである
自分も病気になったし家に来た人はみんなろくでもない金目当ての人だけで被害にもあった   

まず家が乱れると外からもおかしな人たちが入ってくる
いい人は来ないのである、そして家がかえって荒されるのである
それも自分のカルマだった、30年間くらい実に自分は楽だったからである
だから楽は長くはつづかない、必ずいつか苦しい時が誰でも来る
それは母が死ぬまで今度はつづいたのである

今年は台風の被害が現実に自分の家でもあった、床上浸水ではないにしろ浸水したのである、でもその他は今年は大きなことがなっかた
ただ自転車で夜転んだのは危険だった
というのはまだ転んで打ったところがあざになって消えないからだ

とにかく経済でも何でも来年いいこと言っている人はいない
実際に経済でも何かいい兆候がないからである
株でも官製の見せかけの株高でありそのメッキも来年ははがれる


日本における大晦日という慣習は、日本文化に古くからある「歳神様」(としがみさま)、または「歳徳様」(としとくさま)への信仰に基づく儀礼から生じており、これらは歳徳神などとも呼ばれるその年一年間を司る神様である。年の初めから来られるため、「正月様」(しょうがつさま)とも呼ばれ、各年によって来られる方向が異なり、その方角は「恵方」と呼ばれる。この神様は神社のような宗教施設ではなく各家々に訪れると昔から信じられていたため、神様をお迎えし食事を共にしたりするために大晦日から「年籠り」(としごもり)をして(元旦に恵方にある近所の神社へ参拝する恵方詣りをすることもあるが)元旦も家で過ごすことが一般的であった

こういう民俗は何かやはり意味があったのである
信仰とも違う一つの何か神様がいてそれが人間に影響する
というのはつくづく家に来る人間は何か影響が大きいのである
親の介護とかなり自らも病気になったとき自分の家に来た人たちは異常な人たちだった
だから余計苦しんだのである、実際に泥棒も来たしガタガタに家がなった
それは家に来た人が悪かったためだともなる

家に来る人、家に入る人は気をつけねばならない
例えばセールスマンとか何かそういう人も悪い影響をもたらす、今は銀行などの営業の人も危険になった、ゆうちょ銀行でも不正があったりと何か経済が衰退して金融でも悪化しているからそうなる

歳神とかなると何なのかと今ならなるが福をもたらすものを家に迎えることである
この家に迎えることが大事なのである
それは家に入る人の影響が大きいからである、つまり変なのを引き入れるとその家が汚される、その家族すら破壊される恐怖がある
だからそういうことを家々で感じていたからこういうことが信じられたとなる
家の中に悪しきものが入ることを畏れたのである

必ず村の神社などの古い石碑を見ていると必ず正月と刻まれている
正月に奉納したから正月が刻まれている、何かそういう慣習が祭りがあったともなる
そういうものが消えたのは農業ではなく工業化したからだともなる
農業はどうしても自然と結びつき人間の技ではない、神を意識するものとなるからである豊作になるかどうかとも天候に左右されるからそうなる

第一冬というのがふえるーふゆなのである
農作物はかえって冬に育ちやすい、増えるのである
これは意外かもしれないが実地に畑で野菜を作る女性がそのことを言った、そういうものかと知識では知っていてもそれが本当にそうだったとういことを知ったのである
農業でも漁業でも林業でも自然と直接的に結びつく仕事は神を意識しやすいのである
人間を越えたものを畏れるのである
でもこれが野菜工場のようになるともうそこも工場になり自然に存在する神というものから離れるのである、ハウスは一つの工場と化しているからである

今年は台風が一番の被害であり最後にまた風が荒れてうなり吹いた
それも今年の天候を示していたとはなる

では今年もこれで終わりです

何かいちいち対話はしていない、一方的に書いている
対話するにしても何かその人となりを知らないと対話できない
突然コメントされてもその人なりを知らないから対話できない
ただyoutubeのようにその人となりわかるとき対話できる
その人が何を求めているのかも良くわからないから対話できないのである

過去の人でも対話することが相手を理解することである
自分なりに相手の書いたものを対話して消化するのである
ただそのまま引用ばかりしていては読んだことにはならない
だから過去の偉人の言を応用して理解することはむずかしいのである
その力量に差があると余計に応用できないのである
ただ今になって理解力がついた、だから自分の文脈の中で活かすことが可能になる
だから今まで買った本を読み直して理解を深めているのである

では良いお年を・・・・

人間と金の問題 (金は万能ではない、時間の方が大事だった)


人間と金の問題

(金は万能ではない、時間の方が大事だった)

今年も終わりだけどどうしても現代は金の問題が一番話題になる
たいがいyoutubeでも経済の問題が一番見られている
日本の貧困化も深刻だし金ももっていれもっているで銀行がなくなるとか預金封鎖があるとか心配になる
貧困化と同時に一億以上ある人は300万人も日本にいることの驚きである
これも格差社会になったからだともなる
株をもってれば株価が気になる
私は株とかしたけど何もしないでもっていたら上がっていた
それはリーマンショックのとき持っていた株だったのである
それを銀行員が来た別な投資信託に回したから損しないまでももうかることもなかった

というのは株とか投資というのはそれで自分自身だけでもうけるとすると
そこに時間をかけないとできない、デイトレだ―などはいつもパソコンを見ていなければならない、そうすると他のことはできなくなる
それで一億円もらったとして何か実りがあるのか?
金に換算するとあってもではその人を豊かにしただろうか?
何か銀行員とか証券会社で辞めた人はそうして金ばかり追ってそれが何か実際は実りがないということで新しく店を現物を扱う仕事をはじめたとかいうのもわかる
農業は苦しいにしろ収穫する時の喜びは格別だろう
それを金に換算するだけのものだったら喜びがないだろう

金があたかも万能のようになった社会がグロ−バル経済社会である
でも金が万能とはならない、例えば今どこでも耕作放棄地が増えている
その土地は一年数千円で借りられるとしてもそこで農業することは労働が必要なのであるその労働についてプログで書いた
小さな畑で毎日草刈りであり害虫から鳥からネズミとかに野菜が食われる
天候の影響が常にあり実りを得るのが容易ではない、するとその話を聞いただけでもう苦労が並大抵でないとなるかしたくなくなる

一億円やるから耕作放棄地を実りある畑にしてくれといってもそこにそうした苦しい労働がないとできないのである、もし機械とかで楽にできればいいが機械を使ってもまたそれも労働が必要なのである
それで一億円もらったらどうするのか?みんなそれで家を建てたり車を買ったりして農業という労働はしない、そのことは原発事故で誰も田畑での労働をしない、放置されて補償金をもらった若い世代は帰ってこないことでもわかる
もともと農業でも漁業でも跡継ぎがないのはその労働がきついからである
金にならないことがあるとしても労働自体が楽ではないからである

金でなんでもできるというのは消費はできる、でも生産するとなるとなんらかの労働が必要になるのだ
それで武田邦彦氏のような科学技術者の研究者が政府から官僚から研究して成果を出せ、その成果は金を出した方が得るのは理であるというのに反発したのもわかる
研究の成果にも労働が智慧や知識や実験とかが必要になりそうして苦労して出すのが研究者なのである
ただ金を出す人が何かを作り出すのではないのである
なぜ今地銀とか銀行がだめなっているのか?
それは金が余っていても銀行自体では何も作りだせないからである、金を貸すから何か利益を出してくれと頼むだけである
でも今はそうして金を貸してもうける人がいないから株とか投資信託とか外貨の保険とか何かアメリカの国際金融資本家にだまされて金を奪われる
それはゆうちょ銀行でも農林中金でも同じである
今は金が金を産みだしているが何か本当の実りを生み出していないのである
それは金融資本主義では金が金を産みだしても本当の価値は産みだしていない
それでアメリカも衰退してドルの価値はなくなるという人がいるのもわかる

人生でもすべて金で計られるとしたら間違いである
この人は一億円残したから一億円の価値があり金がない人は価値がないとはならない
価値は多様でありその人の価値は金があることだけにない
価値は金だけでは作りだせない、確かに金は必要なのである
それよりも老人になればわかる、いかに時間の方が貴重だったかわかる
だから老人はみんなあの時何かをししていれば良かった、旅行していればよかったとか
勉強していれば良かったとか何かしらみんな後悔しているのは金がないからではない
時間がなくなった、その時すべきことをしないで後悔しているのである
そういう時は時間が消えてしまうからである
そしてその時には青春時代などあっという間に過ぎて老人になっているのである

自分の人生をふりかえると何かお前の人生は遊びだったとかなる、でも電車であれ自転車であれ旅行したことが貯えとなっていた、学問であれ芸術であれ知識であれまずその場を踏まない限りわからない、実感できないからである
まず芭蕉でも「奥の細道」は旅しない限り空想では書けないものだった
外国でもそうである、いくらテレビを見ても本を読んでも外国のことはその地を踏んだ人と踏まない人の差が大きい、百聞一見にしかずになる        
だから外国で暮らした人は日本を外国と対照して見れるからかえって日本のことをわかるのである
それで50歳からバックパッカーで外国旅行したのが本当に大失敗したにしろ良かったとなる、なぜならその後介護とか体力の衰えでできなくなったからである

そうした経験が貯えとなって後で何か書くにしても活きてくる
人間はとにかく何かしら日々貯えているのである
花の名前を覚えるのにも一日ではできない、花を知るには相当な時間が必要である
なぜなら種類も多いし季節で違っているから花に通じることは時間がかかる
それは何でもそうである、この世にある無数の事に詳しくなれないのはそのためである
だから雑学でも後で役にたつのである
ただくだらないことに時間を費やしていると後で何も残らない、知識でも経験でも金を貯金すると同じように蓄えることである
人間は何かを日々貯えている、それは金だけでないのである

もちろん金は必要である、でも時間がそれ以上に大事なのである
旅するにしても自分は金がなかった、だからいつも安い宿を探すのに苦労していた
食事は最低限でおさえてグルメなどしなかった
でもありあまる時間があったからできたのである、会社勤めだったらできないからである外国旅行でも金を使わなかった、それは意外だった、外国は安い宿が多いのである
だからヨ−ロッパなど金がかかるようで基本的に宿代が安いから旅行しやすいのである
ゲストハウスなどが多いのである、日本はホテルでもビジネスホテルでも5000円となると高いと思うからだ
外国旅行はしたとしてもやはり自分は一年くらい外国に住むべきだったと後悔する
自分の時代はあまり外国旅行をしない、また留学もしない時代だった
今はそういう点では留学も安くできる時代である、だからそういう経験が後で活きるのである

とにかく人生で一番後悔するのはその時々に成すべきことをしないことであり時間を無駄にしたことなのである
才能があるなしにしろその一人が成せることはわずかである
楽器でも一つはできてもいくつもはできない、いくら天才でもできない
天才を見ても意外と業績を残していないのはやはりあらゆることに通じることができないのである

いづれにしろ人間は最後はみんな時間切れで終わる
今日は大晦日だけで何かもう時間かない、もう人生も終わりだとなる
今日は生きていたけど明日という時間がないとなる
いかに時間が貴重だったかを最後に知らしめられるのである
青春などあっというまに過ぎる、そして40くらいになってみんなおっさんだよとか白髪でてきたとか語っているのである
それだけ時間が過ぎるのが早いのである
(少年老い易く学成りがたし)である
一つの学を成り立たせるには相当な時間が必要である、雑学でさえそうである
何か一つのことに詳しくなるにはそれだけの時間が必要なのである
でも結局学問でも何か無駄が多い、それは勉強の仕方が悪いとかなる
それでもともとあった才能でも活かせないのである

今年も終わったけどももう人生も終わるとなる、老人になったら先がない
それは生きる時間がなくなることなのである

2019年12月30日

万葉集にみる国意識 (場所とのアイディンティティが人間の存在意義を作る)


万葉集にみる国意識

(場所とのアイディンティティが人間の存在意義を作る)

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会津嶺の歌」『万葉集』巻十四、3426番、東歌に会津の歌が収められています。

「会津嶺の 国をさ遠み 逢わなはば 偲びにせもと 紐結ばさね」


この歌が何か国を象徴している、会津嶺という山があり「紐結ばさね」と妻との強い絆を歌う、それは妻だけではない家族でもはあり人との絆でありつながりを歌っている
ただ国となるとそれなり大きいのである
第一会津となると面積では福島県の半分にもなるから広い
ところが故郷ととなると古里であり里は極めて小さな地域なのである
だから国と故郷はまた違ったものにもなる
古里意識と国意識は違う、だから会津となるとどうしてそれだけの広い国意識をもったのかともなる、どのくらいが国の範囲かわからない
それより国意識は外部との関係で持つことが多い、あなたはどこから来ましたとなるとき・・・の国ですとなるからだ
日本でも日本国内では国意識をもてない、外国に出ると国意識をもつ
日本という国を意識するのは外国に出たとき最も意識するからである
故郷は別に対外的には関係ない、何か家族くらいの狭い範囲なのである

忘れがたき故郷 如何にいます父母恙なしや友がき

これは父母であり故郷の人との絆を歌っている、これと国意識は違っている
国となると会津のように広いのであり家族とかでもない広い共同意識である
それは地形とか地勢とか風土とともに作られたアイディンティティである
だから会津にはそうした風土と歴史があり国意識が作られた
それで明治維新で薩摩長州が攻めてきて踏みにじられたとき特別の憤慨があった
そこに生きてきた人たちのアイディンティティが踏みにじられたということがあったためである、それはベトナム戦争の時もあった
なぜ強大なアメリカに抵抗できたのか?それは根底にこうしたその国に生きる根強い国意識があって抵抗できたとなる
ある土地を知ることはその国の全体を知ることであり一部分を知ることではない
料理でもそれは一部分である、全体は風土であり歴史でありそこから醸し出されるものである、会津にはそういうものを感じやすいのである
福島県では他に感じにくいのである

ただ国と言ってもそれが日本となるとその国意識は違ってくる、国家となるとそれは風土があっても広すぎるから国意識から離れる
最初の大和国家でもそれは奈良中心の狭い範囲なのである
大和とは一地域名だったからである

やまとはくにの まほろば たたなづく 青がき 山ごもれる 大和しうるはし

この歌は奈良盆地のことであり広いにしてやはり日本全土にすれば一地域なのである
多多国意識は山と関係して日本では生まれている、これだけ山が多ければそうなる
外国でぱ国意識は父なる川のラインとか長大な川がありそれがアイディンティティ化して国意識になっているのだ
だからここが日本人にとっては理解するのがむずかしいのである
いかに川に対する思いが深いかわからないのである
ケルンの塔に上りライン河を見たときそれがオランダの方まで流れるのが見えた
そして平坦だからさえぎるものがなくイギリスまで望まれる感覚になる
そのライン河の河口にオランダという国が生まれたのか?
これも何か地形的な要素がありそうなったのか?
とにかく川はドイツの大地を貫きまたフランスの境界となっている
それはまたローマが支配できない場所とゲルマン民族の国としてライン川はあった
世界でぱガンジス河でも中国の川でもエジプトのナイル川でも長大だから四大文明もその川の側にできたのである

日本の国は比較的その範囲が狭いものとしてあった 

天皇の、香具山に登りて望国(くにみ)したまひし時の御製歌

  大和には 群山(むらやま)あれど 
  とりよろふ 天(あめ)の香具山

  登り立ち 国見をすれば 
  国原は けぶり立ち立つ 
  海原(うなはら)は かまめ立ち立つ

  うまし国ぞ 蜻蛉島(あきづ しま) 大和の国は 」 

          巻1−2 舒明天皇

天香具山は低い山である、そこから見える範囲はかなり狭いのである
各地にある国見山でもあんなに低くはないのである
南相馬市を一望できる原町の国見山でも高いと思う、天香具山は小高い丘なのである
そこから国見するとしたらその範囲は狭い
でもここに歌われているのは海原とかまた国原とか広い感覚なのである
それが謎になる、そんなに広い空間を天香具山に上っても見えないのである 
鴎というときどうしても海をイメージするからである
現実になぜ琵琶湖に鴎の群れがいたのか、それは川を通じて海から鴎が飛んできて琵琶湖に来たとなる、だから大昔は飛鳥の近くは海になっていたしもともと奈良盆地は湖だったということもある、ただそんな昔までさかのぼれるのか今になると不可解になる

南相馬市の国見山から見る景色は広い、太平洋も一望できるしまた片倉のフラワ―ランドからは金華山と牡鹿半島が見えたからそれだけ広い範囲が見える
そしてその石巻の沖が震源地になり大津波がここにもおしよせてきたのである
そういう海を通じて一体化したのが相馬とかでありまた浜通りだったことを地理的に意識したのである

相馬藩内だと飯館までが国意識をもてるかもしれない、なぜなら飯館村は阿武隈高原としていつも南相馬市側から見ているし川でも真野川だと南相馬市内に流れてくるからである原町の新田川でもその上流は飯館村に通じているからである
それで飯館村は実際に鎌倉時代から鹿島の屋形に住んでこの地を支配した岩松氏がいて飯館村も支配していたことでもわかる
だから行政的にも相馬藩内にあった歴史があり古いのである

飯館に久しく行かじ冬の雲山にたれこめ今年の暮れぬ

飯館村はこのように山の向こう側であり山にさえぎられても地理的には一体感をもつのである、でも標高が高いから飯館村は飢饉があった地域である
米の被害が大きかったのである
それで南相馬市の合併を計られたことはそういう地理にあったからである
だから放射能被害でも放射性物質は真野ダムから真野川を通じして流れて来る
それを飯館村だけを隔離して見れない、土地はつながっているからである
飯館村を南相馬市とは別な地域として関係ないとできないのである

うまし国ぞ 蜻蛉島(あきづ しま) 大和の国は

このうましというのは大和言葉としていい言葉である
ただ今になるとうましとは食べ物がうまいということだがそれだけではない、食べ物もうまいがその土地自体がうましなのである
それが放射能汚染でだいなしにされたのである

posted by 老鶯 at 10:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 万葉集

2019年12月29日

年の暮の俳句(家事に追われる自分に変わりがない)


年の暮の俳句(家事に追われる自分に変わりがない)

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まじかにて花見て遺影年暮れぬ


ひよどりのけたたまく飛ぶ寒椿

荒浪の轟きよすや寒椿    

山鳩に烏に雀年暮れぬ

山茶花のここに咲きしや目をとめぬ

まじかにて花見て遺影年暮れぬ

買物や一人忙し年の暮

野良猫に食われしオカズ年の暮

金なしと嘆く老女や年の暮

死ぬまでの金勘定や年の暮

原町へ今日も行き来や年の暮


今日は原町の道の駅まで行った、そこで正月の飾りなどを見た
花も買った、正月の飾りつけはできた
でも花は活けた花はいつもそばで見ている
そこに遺影がある、食事する場所のすぐ近くなのである
何かそれだけでも花をいつも見て遺影を見ているとなる
離れた所には別に花を飾る場所を作った
生け花はいつも身近に見る所にあるのがいい、家の中でも離れるといつも見るとならないからである
でも床の間だと今はいつもいるとはならない、やはりいつも食事する間がいいとなる
仏壇でもそれは別な部屋にあったりする、花はいつもまじかに見る所に飾るのがいい
ただ生け花はフラワーレンジメントは別にして写真をとるのである

金がないということは苦しい、それでどうにもならなくなり借金する人もいる
そもそも金が基本的にたりないのだから必ず月末に金がなくなり電気水道がとめられたりするのである、そのことが変えられないのである

買物に行っている間に野良猫が入ってきてオカズを食べられたというより口つけられたかもしれないとなりバイキンがついたのかと恐れた
野良猫にすれば食べるものがないのだからなんとか食料を確保しようとする
その親子二代でこの辺にいるのである
もう7年前とかだったかその子猫を生んだ親を知っている
その兄弟がいて子供を産んだから孫になるのである
それだけの歳月がすぎた、隣で餌をやっているから集まる
でも自分の家にも隙を見て餌をねらってくる
これが困ったことなのである
時々留守の時荒らされるからである

猫が危険なのはバイキンである、また人間が危険なのは盗まれることである
これはみんな困っている、人を見たら泥棒と思へどこでもそうである
そうして自ら盗んだり盗まれたりしない人はいないのである
まさに現実に人間の泥棒猫が入ってきて荒らされた
それも近くの人だったのである
野良猫にしてみれば生きねばならない、だから隙をみて飼いネコの餌を狙って家に入ってくる、でも留守の時荒らされてそこにバイキンがつくことを恐れる

ともかく今年も終わりである、相馬市までは今年中には行けない、原町は8キロくらいであり行ける、どうしても買い物があり行くことになる

山鳩に烏に雀もそれぞれに年が暮れた、人もそれぞれである
ただこの一年は台風被害をのぞいてそれほどのことはなかった
ただ何か自分の場合忙しすぎる、全部家事を一人でしてさらにプログに書いているから
ほとんど食事してもすぐインタ−ネットを読んだり見たりしてプログを書く
だからそこに暇がなくなっているのだ
本当は家事を少しでも手伝う人が必要なのだけどそれがうまくいかない
家の中に人をいれることやどういう人が来るかわからない
何か相性もある、今は一人だけ以前として同じ人が来ているがその人はただ話するだけであり何もしない、だから結局介護になってから全部家事はしていることには変わりなかったのである

ただこの年になると時間が貴重になる、生きる時間がなくなってきたからである
本当にいつ死んでもいい年になっている
だから時間を無駄にしたくない、作品を完成するべく整理している
それも手間なのである、写真の撮り方もいい写真をとる方法があってもそれを簡単には会得できないのである
とにかく今年も終わりである










会津の舘岩村への旅-短歌十首(NHK―小さな旅を見て)


会津の舘岩村への旅-短歌十首(NHK―小さな旅を見て)  

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栃餅の味かみしめよ奥会津

蕎麦の花霜ふり会津の暮らしかな
                                                
清水飲み舘岩に入る夏の暮                          

合歓の花山々閉ざし村一つ                                                      


舘岩の奥の流れの清らかに夏の日に来ぬ山の奥かな

一すじの奥の流れの清きかな隠されありぬ舘岩の村

萱刈りて肥やしとするや舘岩に暮らして長く老いにけるかな

夏の日や舘岩に来て栃木の山のそそり迫りぬ村は隠さる

萱ととも暮らしの長く舘岩の集落あわれ冬に入るかな

しんしんと雪にうもれて舘岩の村は閉ざさる冬の長しも

茅葺の家や村人の身を寄せあい暮らしあわれも雪にうもれぬ          

舘岩に暮らして老いぬその月日ここを離れじ刻みし時かな

冬長く囲炉裏を囲み閉ざされぬ薪をくべて外は雪なり

舘岩を去りて栃木やトンネルの長きを覚ゆ那須の原にそ我がい出にけり   
            

会津という時、

伊佐須美神社の社伝では、紀元前88年(崇神天皇10年)、四道将軍大毘古命と建沼河別命の親子が蝦夷を平定するため北陸道と東海道に派遣された折、出会った土地を「会津」と名付けた

大塚山古墳からは三角縁神獣鏡が発見された、これは東北ではここからしか発見されていない、これは吉備系統のものであり大和王権が確立するまでは吉備系統の支配があった
みちのくの真野の草原(かやはら)も笠女郎(かさのいらつめ)も吉備出身だったとも推測される
吉備は大和王権が成立する前大きな国でありそれで会津とか東北にもその跡を残している

会津嶺の歌」『万葉集』巻十四、3426番、東歌に会津の歌が収められています。

「会津嶺の 国をさ遠み 逢わなはば 偲びにせもと 紐結ばさね」

ここでまず会津嶺とでている、この嶺は複数なのである、会津は山国である、千メートル以上の山が密集しているのだ、ひしめいている、だからどうしても地理がわからなくなる、これだけ山があると方角もわからなくなる
それで舘岩から太田原に出てきたのだけどその辺の地理がわからなくなった
何か長いトンネルを出て太田原に出たことは覚えているのである

会津嶺とはこのように千メートルから二千メートルまで山がひしめきあっている嶺のことである、一つの山のことではない
そして唯一東北で国と出ているのは会津だけである、その国の古さは古代から始まっていたのである
なぜならみちのくの真野の草原(かやはら)はみちのくの境界線のことでありここが国とはなっていなかったのである
ここに東北での会津の古さがあり会津こそ東北で国として意識された場所だとなる
それは明治まで継続されていた地域なのである、このことは会津を知る場合は重要である
その国への思いが今日まで続いているからである
例えば相馬藩とかになるとそれが成立したのは江戸時代でありその前の国となると明確なものがないからである

会津の特徴はこうして古代からすでに国として意識された場所でありそれが明治維新まで継続されていたのである
会津とは風土と一体化して継続されてアイディンティティの場所だったのである
その風土と歴史の重みが一体化した場所なのである
福島県の地図をみると半分が会津なのである、だから福島県がハマ、ナカ、アイヅとなっているけど実際は会津は別の大きな一地域としてある、国としてあったから福島県として一つにしたことが無理だったのである、それは廃藩置県で全国的に起きたことである
廃藩置県は風土とか地理と歴史から生まれたのではない、行政的区割りとして人為的に生まれたのである、政治的なものであり風土歴史を無視しているから不自然なのである

ただ私は会津に自転車で二回くらいまわっている、夏と秋だった
その時昭和村の方まで行ったが一面に萱の原だったのである
いかに萱が多い地域なのかわかる、だからこそ昔は茅葺の家が曲がり屋が作られた
それには大量の萱が必要だったのである
それでNHKの小さな旅でその屋根裏に大量の萱をためていたのである
そして萱はまた畑の肥やしにしていたのである、それだけ萱が多いからそれをなんとか利用しようとする、とにかく農業は肥料が最大の問題だからである
だから貝殻まで肥料にしている

今日後半だけ見たNHKの小さな旅で舘岩の曲がり屋集落の前沢部落を写していた
そこにおばあちゃがいて萱を刈ったりしていた、ただ息子とは市に出て行っていないという、息子は世話するから市に移れというが嫌だとして残っている
これも今や日本全国で過疎化する村の姿である

ただ老人はわかるけどそれが簡単に移住できないのはそこで生きたことが人生そのものでありそこがアイディンティティの場所であり深い愛着のある場所というより
自分の人生の証しがその土地と家と暮らしにあったからである
それをつくづく自分の家のことについて延々として語ったが同じである
家はただの物ではない、その家族のまたは代々の歴史を刻んだものであり単なる家という箱ではないからである
その家はまた周りの自然と風土と歴史と一体化して形成されたものでありそこに価値がある
飯館村でも原発事故で若い人が帰ってこない、そこに山菜をとり山村の独特の暮らしがあった、それが消失したら飯館村に生きる意味がないというのもわかるのである
放射能汚染で山菜がとれないということはだから飯館村で致命的だったのである
そこに暮らしがなくなったとき何が残るのか?
森とかその自然は残っても人々の暮らしは失われてただ元の自然に戻ったともなる

でもそこに失われたものはそうしたそこで継続した暮らしでありそこに価値があった
それは金で換えられない価値だった、人間の価値は必ずしも金だけからは作りだせない
だから一旦失われた暮らしはもう戻らない、再現できないことにその価値の重みがある
芸術にしてもなぜ芭蕉の「奥の細道」が廃れないのか?
価値が継続してまたこその価値が衰えないのか?価値がさらに増しているともなる
その不思議はやはりその時代がありもうその時代を再現できないということにあった
それが故にその価値が長く時間がたっても廃れないし価値を継続してさらに価値を増している、それはそういう時代が再現できないからだったのである

何か茅葺の家でも城でも新しく再現しても博物館とかになると見世物になりかつてあった暮らしもなくなると価値がなくなるのである、でも時代の流れでそういう暮らしが成り立たなくなる
例えば栃餅はこれはいつも食べていたものではない、非常食として作られていた
第一栃餅は簡単に作れないのである、栃の実を拾いそれを餅にするまで相当な手間なのである、だからこそ貴重である
ただそういう暮らしがなくなるときもし栃餅が簡単に機械で造れるとかなるとありがたみがなくなってくる
つまりそういうものは風土と歴史と一体化して生まれたものでありそこに暮らしがなくなると価値がなくなるのである  

だからそうした価値は一旦失われたら再現できくななる
ただ茅葺の家があったとしてもそこに暮らしがなくなれば茅葺の家は博物館のようになるのである、日本の城でもそうである、再現されても新しくてそれが実際に博物館になっているからだ、会津の鶴ヶ城でも新しいからそれが博物館のように見えるしそうなる
かえって廃墟となって石垣だけが残っているかえって歴史を偲べるともなる
それで荒城の月の歌ができたとなる、それは廃墟化した城を見て作られたからである

とにかく会津の地理はわかりにくい、それは山国であり山に入ると方角もわからなくなるそれは近くの飯館村でもそうだったのである、方角がわからなくなり太平洋側の相馬の
方に帰るのに逆の方向に行っていたのである 
浜通りだと海が見えれば東だとしてわかる、山国になるとまわりが山だらけなのだから方角がわからなくなるのである

いづれにしろ思い出す旅をしている、それは冬ごもりの季節に向いている
ただ思い出す旅は記憶がとぎれとぎれになるしいかに再現するかが問題になる
だからいかに記憶させる旅をするかが問題なのである
それでた車とか便利だかいいとはならない、帰って苦労して峠を越えた記憶とかは残るのである、なぜか舘岩村から栃木の方に太田原の方に那須の方に行くとき長いトンネルがあったことを記憶していたのである
そういう記憶がなかなか車だと残らないかもしれない、自転車だと苦労してやっとトンネルをぬけたという記憶が体に残る、そして広々とした那須野に出たいうことが記憶に残っていたのである

ただ何かその記憶もとぎれとぎれになりあいまいとなり思い出すのもむずかしくなる
でも今日のNHKの小さな旅で後半だけ見て思い出したのである
舘岩村は本当に奥地であり秘境の感じがする場所だった
桧枝岐もそうだがあそこは尾瀬観光の拠点の村となってしまった
だから秘境という感覚がイマイチなくなったのである
観光化というのは本当の価値を失うのである、そこに暮らしがあってこそ価値がある
ただ現代ではどうしてもそこに暮らしていくには金が必要であり観光化はさけられないのである、現実に何で暮らすちとなれば昔のような暮らしができない
薪をくべて囲炉裏で暮らせない、そうしたとても電気を使わずに暮らせないのである

会津はこれからますます雪に埋もれてゆく、雪の時会津を訪ねれば会津に理解が深まる
それは山形でもそうである、でも実際にそこに生活するとなると楽ではない
ただそうして雪に埋もれて春が来て夏が来て秋が来てと暮らしてこそその土地と一体化するのである
舘岩村は本当に山々に閉ざされた奥地の村だった、だからまだ秘境の名残りがある場所だったとことを記憶の旅でたどったのである

舘岩村の情報

ここで紹介している

2019年12月28日

大東銀行の収支決算をみる (危険度は103行で83位)


大東銀行の収支決算をみる

(危険度は103行で83位)

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収益率がROAで順番を決めている
0.12ということは1億円から0.12パーセントの収益は120万となる
10億だと1200万になる
この比率は総資産額が多くその金の大きさ比例して大きくなる
だから総資産額が大きいと有利になる

それは株でも投資でも金が大きければ大きいほど世うける率も大きくなる
一億で一パーセントでも百万になり百万の収益ともなる
だから金の量に比例して例えもうける比率が低くても大きな収益になる
ただ損も大きくなる、でも株式だとそうして大きな金をもっていないとまずそもそも大きくはもうけることはできない、だからその元金が多くためないと株でもなんでも金融では大きくもうけられないのである
大東銀行の総資産は少ない、東邦銀行から比べると一けたも少ない
総資産が少ない銀行は危険度が高くなる、それで福島銀行と島根銀行がSBIに外資に買収されたのである

そして収益を見る場合、そこに勤めている社員の頭数をみる
つまり収益に対して勤めている人の頭数で割ると一人当たりの収益もわかる
それでその収益に対して人が多すぎると負担になりスリム化したり人を減らさざるを得ないのである

従業員数515名 
※従業者数は就業人員数であり、出向受を含み嘱託および臨時従業員を含んでおりません。
店舗数58

515人の従業員がいる、515÷58=8・8人である
この人数だとすると鹿島区の従業員はそのくらいかもしれない、ただ臨時従業員とかもいるからその内訳はわからない、臨時従業員はスーパーとかコンビニのように銀行では雇いないと思う、なぜなら金を扱うから信用が第一になるからだ

福島県の市町村の数は

13市 31町 15村 / 計 59市町村 

南相馬市だと原町区は人口が多い、鹿島区は一万くらいである、南相馬市内に二つ店舗がある、だから市となると広いから二つあるのも普通である
また町となると一つくらいがあるのか?村となるとないようにも思う
つまり13×2=26であり一つの町に一行あれば26+15=41になる
会津市とか郡山市とかになると三つくらい天保がるのかもしれない
そんな店舗の数がある
そしてこの店舗の負担が今になると大きいのである
その維持費が負担になるのである

そして大事になるのが収益があったとしてもそこで大事なのは一人一人でその収益を割ることだと説明している
なぜなら従業員に給料を払うにしても収益に左右される、収益率が下がれば従業員の数が多ければ負担になるからだ

10億の収入があるとして収益があるとして従業員の数で割れば
1000000000÷515=194174になる

つまり約20万は一人頭の給料として払えるとなる、ただそこに店舗の維持費などを計算するとそれだけではすまないから今では店舗を維持することが問題になる
インタ−ネットだと店舗がないから費用を節約して手数料とかを安くできるのである
ただこれは高齢者になると通信だと苦手になるから問題がある
なぜなら今金をもっているのは60以上だからである
私もインタ−ネット預金したが何かアクセスするのに暗証番号とか複雑でできなくなってやめたからである
だから対面であり店舗があると安心であり信用につながっているのだ
それは高齢者にはいいのであるがこれからそうでなくなるら店舗営業を減らさざるをえなくなるのである

何か自分は大東銀行には投資信託とかで一番かかわった
だから地銀の経営が苦しくて倒産するとかいろいろ言われると不安になったのである
そして銀行の社会的役割というのも良くわからなかったのである
社会では銀行は一番わかりにくいのである
それでこれがグロ−バル経済の金融資本主義になったとき本当にわかりにくくなる
その仕組みの複雑さで投資関係は人をだましやすいのである
だかち農林中金が6兆円もの金をアメリカの国際資本家にだまされて投資したと警告されている、それはゆうちょ銀行でもそうであり地銀でもそうである

投資とか株とか何かそれがだまされやすいのはそもそも複雑で理解しにくいからなのである、それは原発ともにていたのである、原子力のことを説明されても理解できないからである、あなたは核のことがわかるのですかと言われれば何も言えなくなるからである
私は文系だから科学のこと技術のことはわからないからである

ただ文系でも銀行となると数字が大事になるから理系でもありまた文系的要素もある
何か政治とかそれぞれの国の事情とかいろいろもものが関係しているからである
株が上がったり下がったりするのはいろいろな要素がある
その要素を見るということは国際政治とかいろいろなものが関係してくる
そういうものは文系なのかとみたのである
ただ銀行は数字を扱う会社だから数字に強くないと仕事はできない、もう金は数字になっているからだ

そして金が数字になったとき良く数字を見ていないので自分の金を把握できなかったのである、いろいろ利率とか関係して数字で混乱したのである
それは投資信託などは毎月分配型となるとそれは元金から引かれていたから収入にはていなかったのである、投資信託などはまず素人には理解できない
農林中金でもゆうちょでも地銀でもアメリカの国際資本家にだまされてCLOとかの危険な商品を大量に買って警告されている、農林中金では6兆円も買った
その金が吹っ飛んでしまうというのも怖いことである
それはら預金者に返ってこないともなる、他にも投資で失敗すれば巨額の金が返ってこなくなるということがある、それは日本の年金でもそうなのである

そして何百兆の金がアメリカに日本でつぎ込んでいて為替差益でドルの価値が低下してゼロになるということを言っている
アメリカの経済は落ちてゆくだけでありドルの基軸通貨の時代は終わったとしている
そうなると外貨建ての保険なども危険なのかとなる
そしてなぜ日本ではゆうちょでも小泉首相の時民営化したりしたのか?

それは国際資本家にまたアメリカの圧力でそのゆうちょの金を国際金融資本家にまたはアメリカにさしだすためだったとなる
つまり日本は独立国ではない、アメリカの疑似植民地であるからアメリカの意向に従わざるをえないのだ                                                
だから中国に朝貢したように貢がねばならないのである
結果としてアメリカによって日本が汗水たらした働いた金が百兆円がゼロになったというのも悔しいとなる
ただ額が大きいから実感できないのである

なぜ自分がこんな大東銀行が気になったのかというと自分の金がそこでゼロにもなるという恐怖を感じたからである、自分の利害と密接に結びついたからなのである
科学技術となる理解できないがなんとか銀行だと文系でも理解できる範囲にあるのかと思った、ただ細かい数字になると理系の分野なのである
銀行と数字は切り離せないし今の社会は数字化した社会だから数字に強くないと生きてもいけないとなっているのである 

とにかく最下位の島根銀行が外資のSBIに合併吸収されたとか福島銀行もそうなった
つまり大東銀行もそうなるのかという不安である
総資産額が低いのはどうしても危険になる、福島県では東邦銀行が安定しているからこの一行しか残らないとされているからだ


週刊ダイヤモンド】全国地銀 余命ランキングから見る 銀行・企業の見方

youtubeはわかりやすい、そしていいものがヒットしやすいのである
テキストの検索だと数が多すぎで目当てものものに当たるのが大変なのである

預金封鎖その2 欧州初の預金封鎖の凄まじい事実、ドイツ、フランス、そしてロシアの裏にあのIMFの圧力があった!

スペインに住んでいる人も金融について預金封鎖について語っていた
スペインに若い時からずっと長く住んでいたので詳しい
実感で語っている、個人的ボランティアの特派員になっている
こういう人は見る人も多くなる、まず外国は旅行したくらいではわからない
住んだ人しか深いところがわからないのである 

youtubeは相当に情報世界を変えている、テレビとなっているから見る
テキストだと検索で読まれるのは少ないがyoutubeだといいものに当たり安いのである
そしてわかりやすいから要点を理解できるのである
第一一つのテーマで一万人も見ればすごいと思うからだ

ただこの世界も子供が見ている、何百万の登録者がいることに驚く
それは軽い娯楽としての子供向けのyoutubeなのである
でもこういう人達が大人になればもうテレビは見ない、だから大人になったらユウチュバーになりたいというのもこの数字からわかるのである






posted by 老鶯 at 20:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

金融資本主義の限界を語るyoutube (2020は確実に経済でも大きく変化する年)


金融資本主義の限界を語るyoutube  

(2020は確実に経済でも大きく変化する年)

「金融資本主義支配と搾取の構造」

経済の仕組みがわかりにくいのは貨幣とか紙幣とかの問題が基本にある
貨幣が生まれたことで便利になったのだがその貨幣によって人間の社会が変質してしまった
それはギリシャのボリス時代からすでにそうなっていたのである
つまりすべての価値が貨幣で計られる、貨幣が生まれたことのマイナス面がすでに紀元前から始まっていたのである
だから貨幣のない社会と貨幣のある社会を対比で考える必要がある
でも貨幣の歴史そのものがそれだけ古いのだからもう貨幣のない社会がわからなくなっている、エジプト文明には貨幣がなかった?、マヤ文明とかにもなかった
中国で始皇帝の時代に貨幣は統一されていた

何か金融資本主義と本来の資本主義が違う、そのことをわかりやすく説明するyoutubeがあった
これも何か理解を深めたがそれでもむずかしいと思った
このサイトでは金融資本主義だと必然的に極一部の人に金が集中する
世界で六人の人たちが金をにぎる、それはそういう仕組みでありその仕組みをかえなければ格差はなくならないというのもわかる

金とは銀行が作り出す借金でありその借金は幾何数級のように増えてゆくという
そして返せなくなりその借金は次代にもちこまれる、子供たちがその借金を払うことになる
つまり借金は消えないのか?それはやはりカルマとなってゆくのか?
親の因果が子に報えてゆくという
でもまた不思議なのは政府通貨を百兆円だすと借金は消えるとかもいう
これも不思議だとなる
まるで手品ではないか?そんな簡単に借金とは消えるものなのか?
個人で借金すると借金を返せないために自殺する人が普通にいる
その負担はそれだけ大きいのである

政府通貨を百兆円だせば国の借金は消える?

これもなんなのだろうとなる
国レベルになると金というのもを理解することが不可解になる

金はもともとない、金は数字としてはゼロだというのはわかる
金自体には何の価値もないからだ
金の力を実感するのはそれで買ったもの得たものによってである
家一軒でも建てればその力を実感する
でもその他で金の力を実感できるのものがあるのか?
いろいろ遊ぶということもある、旅行もある
そういうものはしてきたから今はしたくない、本当は山でも上りたいが体力がなくなりできなくなった、年取ると金だけではできなくなる

金融資本主義が国際資本家によって富が強奪される仕組みだという
それは日本の銀行でゆうちょから地銀でも特に農林中金が6兆円の金をあやしげな投資先に金をつぎこんだから破産の危険があると警告されている
これも投資先がないためである、それは国際資本にだまされて買ったという
するとそうして農林中金に貯金した日本人の金が奪われるとなる

それはもう金を投資して利益をあげる会社もないからだ

そこで資本主義がゆきづまっていると学者も言う
そんな変な危険な場所にアメリカの国際資本にだまされて金をつぎ込んでいるからである
金が行く先がない、投資する先がないというとき米余りともにているのか?
米をいくら作っても売れない、米が余るから値段も安くなる
そしてかえって減反して補助金を出していたのである
なにか今も金余りでそれと似ているのかもしれない、ただ最近はブレンド米は結構高いからそれが売れれば農家も成り立つとなる

米をいくら作っても価値がない

金がいくらあっても増やせない

そういう社会になっている、米は実体経済でありブランド米とか酒に利用したりして外国に売ったりもしている
でも金はどうなるのか?それはあくまでも紙に過ぎないのである
いくら貯えても紙でありそれが紙くずになる危険性が常にある
だから今数パーセントの大金持ちがいろいろな権利を買っているという
土地とか水と水道経営の権利とかいろいろな特許とかもそうである
必ず生活に欠かせないものを資源でも買っている
金でもっていても紙幣は紙きれにすぎないからである
それは本当に紙切れになるがこうした実体経済の権利を取得していれば他者を支配できるという、そして国際資本家は国より政府より力をもっているのが現代の金融資本主義だという、それがグロ−バル化の金融資本主義なのである
このyoutubeを理解するのはむずかしい

今の格差を作る金融資本主義、国際資本家による富の強奪をふせぐには政府通貨の発行とかベーシックインカムとかを政策として提示している
とにかく世界でなんらかでこうした極端な格差を止めようとする運動が活発化してきたのである、それも当然なのである
そんなわずかの人に世界の富が集中して支配されることを誰も望んでいないからである
ただその仕組みがわかりにくい、戦前だと地主が大きな力をもって小作は苦しめられた
その時地主は憎悪の対象になった、それは誰が苦しめているから近くで目に見えていたからである

グロ−バル経済になるとその苦しめているものがアメリカだったりイギリスだったり見えないのである
グロ−バル経済を理解できる人はいないと思う
それだけ世界の市場になると巨大でありとても理解できない、すると本当は憎むべきもの地主のような人が見えないから必ず陰謀論になるのである

国際資本家とかを世界で攻撃すべきだとなる、その六人の名前はあがっている
そういう人たちは犯罪者と同じである、もしかしたら本当は死刑に値するような人かもしれない、そんな莫大の富をもってどうするのだとなるからだ
それには借金だらけの国も勝てないとしているからだ、そこに世界的な革命さえ必要にもなる、でもそれが共産主義ではない
結局と共産主義も一部の幹部が富を強奪したのであり同じだったからである
「世界のプロレタリアー斗、団結せよ」それは通じなかったのである

ともかく2020年は激動の年になるのか?

何かのけじめの年である、だから何かわからないが自然災害なのか政治なのか経済変動が起きる、その規模も大きく世界が変わる、日本だけではない世界が変わる年になる
そういうふうに変わる時大きな痛みがともなうのである
その後に戦後復興のように新たな世界が生まれる
ただ未来は予測はできない、経済活動が社会のすべてではない
文化的な価値もあり物質的豊かさの後にはどうしても文化的な価値を追求するようになる文化的な価値となるとそれは精神性を追求するものであり物質的な価値をもたらさない
でも物質的な価値から文化的精神的価値の追求の時代になる
インパウンドでも最初は爆買いだけで次は事の消費だとか日本の文化をするものへと変わる

ただこの文化的精神的価値は物質的な価値とはなりにくい、金を産むものとはなりにくい要するに減反してその土地を何に活かそうかとなる時、どうするのか?
そこを花畑にしようかとかなる、でもそれが金になるとは限らないのである
花畑にして菊畑にして花を売れるとなればそれが金を産んだとはなる
でもただその花を観賞して楽しむということもある
金にならないとしてもそこに価値を作りだしたのである
もしかしたらそんなふうにして金を使うようになるのかもしれない
オランダのチューリップバブルがそうだったのである
その後にヒヤシンスバブルがあったからくりかえしていたのである
ただ花に価値がないというものではない、花には価値がある
それは美として文化的価値がある、一時は絵画がゴッホの絵とかが100億円とか値段がついたことがあった、それとにている
何に価値があるか、明らかなことは紙幣には価値がそのものにはない
だから金は仮想であり仮想通貨が生まれても不思議ではないのである

価値はいろいろありただそれがもう金を産む利益を産むということにならない
だから銀行は利益にならないのだから投資先がないのだから消失するとなる
要するに資本主義が金融資本主義になりグロ−バル化して極端な格差社会になり
人々は苦しめられる、そういう世界の終わりが来ている

ただ次なる世界は何になるのか?

それは当分模索中となるがただ確実にそういう大変化が起こり強いられて戦後のような状態になる
それで銀行の無用論とか倒産とか預金封鎖とか言われるようになったのである
そういう傾向は何かで変わりえようがないと思う
下降トレンドから何かの調子で上昇トレンドになるとは思えないのである
それは日本の株で官製のものであり実体経済を反映していないからである
だからどうしても悲観的な見方が大きいのである 

時代が変わる時、江戸時代から明治になった時、江戸時代にあった仕事がなくなった
大井川の渡しの仕事はなくなり茶畑を作るようになった、それで静岡は茶で有名になった職種転換が起きて来る、産業の変化が起きて来る
戦前は養蚕農家がどこにでもありそれが兜屋根として残っている
絹織物が主用産業であり石炭産業がエネルギー産業になり蒸気機関車の時代だった
それは戦後十年くらいまでつづいたのである

時代が変わる時職種が変わる、だから銀行が半分なくなるとかいらなくなるとなる
何か地銀でも一万くらいの人口なのに店舗を構えて十人以上も働いているとなると多いと思った、そこにかかる費用を想像するとかなりのものになると思ったからだ
つまりそれだけの費用維持できなくなる
そして投資先がなくなり銀行員が農業を実地にして投資していることをテレビで写していた、youtubeでは銀行員がやめて実際に農業をしていた
ここで紹介した証券会社で金だけを扱っている仕事がいやになり実際に店を開いたりした何か金ばかり扱っていて生きがいを見いだせないとなった
そして金はもともとないとかゼロなのだということを言うのもわかる
金は実際に引き出して使う時金の力を発揮する
特に紙幣になれば金本位制でないということはもう実質金の価値はゼロなのである
それは数字だとなりゼロになる

いづれにしろ来年は2020は大きな変化の年になる
特に経済の変化がもうさけられない、それはほとんどの人が言っている、良く言っている人はないからだ、要するに経済が良くなる要素がないからそう言っている
ただ時代の変化に老人は対応できないのである
技術に関しては非常に不利なのである、新しい技術に対応できないからである




posted by 老鶯 at 08:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2019年12月27日

年の暮(家の整理に追われる)


年の暮(家の整理に追われる)


年の暮家の整理の月かな

年の暮金の計算に追われけり

冬紅葉雨にぬれけり家の前

我が一人時雨ぼつりと年終えぬ

夕空に鳩十羽ほど年暮れぬ

寒雲や風車はとまり年終えぬ

十数本寒木動かじ風唸る

星増えて星座となるや冬木立


我が庭に今日も数枚の木の葉散る心にとどめ日は暮れにけり

死者なおも家のまわりにいるものや一人守りて今年も暮れぬ  

家の整理と掃除とか金の計算とか料理とか生け花とかして疲れた
なにかずっと介護になってから家族が死んでも家との格闘がつづいている
家は何か物というのではない、そこに生きたものがまだ生き続けているという感じになるだから家を生きるとまでなる、自力で家を花を飾るように作った
何か一つの仕事場にした

今日は夕暮れが迫りぼつりと頬(ほほ)を時雨がぬらした
時雨でも雨と間違えやすい、ぽつりとか濡らす時は時雨である
でも雨が少しでも全体にふれば時雨ではない
せいぜいぽつりと頭でも頬(ほほ)でも濡らすくらいのが時雨である
時雨は何か死をにおわすということがある

夕空に鳩が十羽ほど飛んで旋回した、これはただ写生である
写生が俳句の基本である、いちいち説明するのではない
だからこれは今年も十羽ほど鳩が飛んだということで平和に終わったとみたりする
その解釈はいろいろになる

風力発電の風車は四つあるが海岸でとまったままである
これも長いと思った、もし電気でもこうして発電できなかったら大変なことになる
だからあまり風力発電とかソーラーパネルは頼りになるものではないのだ

銀行員が昨日も来たし今日も近くの地銀に行った
何かこの銀行は何なのかわかりにくいのだ
どういう社会的役目があるのかわかりにくい
でもそこには十数人くらい働いている、するとそれなりの人が社会のために働いているとなるのか、でも今の仕事は投資信託とか今度は保険とかすすめる
つまり地銀は今や証券会社の支店のようになっているのだ
だから何か本来の仕事から離れてもう地域に必要なのかとまでなる

そして地銀でも銀行でも半分がつぶれるとかなると不安になる
地域に尽くすものとして地銀の仕事ではなくなっているのだ
でも利益を出さないといけないからわかりにくい外貨だけの保険とかをすすめる
でも投資信託では損しなかったから助かった
本当は株をもっていればもうかっていた
やはり資本主義を批判してもそのシステムでもうけるには資本が元金がものいうのである

どうも銀行を調べるともともと地元に住んでいた人ではない
銀行は転勤が多いのである、その転勤が多いことには事情がある
銀行特有の事情がある、一地域に長くいられない事情がある
つまり寒木が近くの公園に十数本あり根付いている
そういうふうに地域に根ざすものとも違っている
一応福島県だから大銀行とは違っていても転勤が多いか地域に根付かないのである
土建業などは地域に根付いている、でも土建業も遠くに仕事があると移動するのである
移動社会になっているからそうなる、土建業でもいつも地元に仕事があるとは限らないからである

今日は銀行で記帳してもらい、次に布団を丸洗いした、それで失敗した
丸洗いできない羽布団だった、たいがい布団は今は洗えると思った
それは通販で買ったもので軽いからいいものだった
汚くなって洗えないとなると失敗だったのでまた別なものを注文した
その後に食器を拭く付近を近くの100均で買った、蓋の無い醤油瓶を使っていたらそこに
蠅が入っていてその醤油を使ったのは失敗だった
何か台所仕事は必ず何かある、第一冷蔵庫に何が入っているのか忘れるのである
こうして毎日自分は家事に追われるしプログも書いているから追われるのである
ただ介護が終わったのでその点は楽である
ただこんなに家事に追われると思わなかった
家事には何か細かいことに気を使うのである、料理自体いろいろなものを使いすぎるのである

とにかく今年も終わる、やはり今年は自転車が危険だった、車も危険だが自転車も危険なのである  




鹿島駅に来た外国人を回想する


鹿島駅に来た外国人を回想する


●母親がフィリンピン人でここに住んでいてカナダのトロントに青年が来た

フィリンピン人は結構いる、前は風俗関係とかダンスとかで来ていた

ネパール人が駅の向かい側のホンダの車会社にいて日本に5年とかいる
奥さんをつれてくるという、4000メートルのヒマラヤに住んでいる

ネパール人とは原町のユッサであった、第一福装に勤めている女性がいる
その女性はいつも見かけるからである

●ベトナム人が結構見かける、原町に鹿島にもいる

 ベトナム人は一番多いことは確かである
 次に見かけるのは今はネパール人である
 中国人は少なくなった、ただやはり福相に勤めているからいる
 前の満州地域から來る人か多い
 この土地の人と結婚していた女性もいた

●タイの放浪画家が来た
  
原町の高倉の知人をたずねてきた、その高倉の人は外部から来て住んでいた人だった
その後はわからなくなった

●フランス人の教師が野馬追いに来た、平泉にも行くと言っていた

野馬追いには必ず外人がくる、でもなかなかちょっとの時間だから話ができなかった

●ドイツ人の技術者が来た

風力発電の関係で来ていた、東北電力の原町火力発電所にも来た


駅は外部の人が入る玄関にもなる、だから外国人も来ていた
これだけ見ていてもいかに地方の田舎でも国際化しているかわかる
やはりベトナム人ネパール人が目立つようになった
田舎でも一万くらいでもまた原町となると人口が5万とかなるから多い
原発関係で働いている人もいるのでこの辺には来る


来年は常磐線もいわきとつながるから乗客も増える
ただ実際は双葉とか大熊が避難解除されても人はもどらない
浪江でもそうだし小高でもそうである、老人だけ帰ってどうなるのとなっているからだ
だからそこに金をつぎこんでも人が帰らないから無駄だともされる

とにかく駅にどんな人が来るかを知れば人の流れもわかるし世の中の動きも多少はわかる普通はどういう人かなどわからないからだ
それで関所を通る時、この人はどういう人かとわかる、どこの出身だとかわかる
どんな職業かもわかる、今の時代はどこから来たのかどういう人なのかもわからない
車だったら通りすぎるだけだとなる

何か駅は関所とにているのである、それで防犯カメラに犯罪者が映っていたとかあった
つまりどういう人が出入りしたかチェックされているのである
たたこんなことを知り得たのは無人駅であり駅に待っている人はが数人単位であり一人だったりしたからである
ただ今は無人駅とは言えない、高校生の見守り役が朝と二時半からいるからだ
ただ半分は無人駅となっている

誰が来るや無人駅も年の暮

2019年12月26日

貨幣と証券とか債権とは先物相場とは何なのか? (キプロスの預金封鎖をふりかえる-警告のyoutube)


貨幣と証券とか債権とは先物相場とは何なのか?

(キプロスの預金封鎖をふりかえる-警告のyoutube)

貨幣がまずあった、キクチスーパーのカードは通用するのはキクチスーパーだけである
でもキクチスーパーは原町にもあるし相馬市にもあるし山元町の駅前にもあるから結構広くある、そこでは通用しているのである
ただキクチスーパー専用のカードなのである
それはキクチスーパーが発行する貨幣であり紙幣になる
ただこれは落としたり無くした場合無効になる
誰かが拾っても返してくれれば別である
でもその誰かがキクチスーパーで買い物してもわからないのである

これは他のカードでも同じなのでがゆうちょカードでもビザカードでも無くした時点で連絡すると誰も使えなくなるシステムになっているのだ

貨幣の謎は貨幣自体に価値がある、貨幣が金だったり銀だったり銅だったりする
それで貨幣にするために金が貴重になる、銀でも日本なら石見銀山とかが世界へ貨幣にするために供給された
金本位制が基本なのである、ただ中国では貨幣といように貝が貨幣となった経過がある
子安貝が貨幣になったので貝の漢字になった

金本位制から紙幣になるとその変化が大きい、なぜなら紙幣には何の価値もないからだ
紙にすぎない、そんなものをいくら保存しても何の価値があるのかとなる
それで江戸時代は蔵に千両箱を置いて厳重に鍵をして泥棒が入れないようにしていた
その貨幣は金だから貨幣そのものに価値があったからである   

1914年にはじまった第一次世界大戦により各国政府とも金本位制を中断し、管理通貨制度に移行する。これは、戦争によって増大した対外支払のために金貨の政府への集中が必要となり、金の輸出を禁止、通貨の金兌換を停止せざるをえなくなったからである。また戦局の進展により世界最大の為替決済市場であったロンドン(シティ)が戦火に晒され活動を停止したこと、各国間での為替手形の輸送が途絶したことなども影響した。

例えば日本は1913年12月末の時点で日銀正貨準備は1億3千万円、在外正貨2億4,600万円であり、在外正貨はすべてロンドンにあった。また外貨決済の809割をロンドンで行っていたが、1914年の8月に手形輸送が途絶した(当時はシベリア鉄道で輸送していた)。 

ここで興味深いのはイギリスが金本位制が始まり金融の中心になった 

在外正貨はすべてロンドンにあった。また外貨決済の809割をロンドンで行っていたが、1914年の8月に手形輸送が途絶した(当時はシベリア鉄道で輸送していた)。 

これは金の貨幣を運んだというのではない、手形輸送していたとなるとそんな紙切れまで輸送していたのかとなる
通信が発達しないからこうなっていた、、シベリア鉄道で輸送するとなるとその距離も大変だとなる、シベリア鉄道には乗ったことがあった
そんなして書類まで運んでいた時代があったのかとなる、その後はモールス信号とか電話とか無線とか通信の時代になっていることを見れば隔世の感がする

大阪の蔵屋敷に送られてきた米は、入札の資格を持つ米仲買商人に売却され、こ
れを正米取引と称した。
また、米仲買は米の代わりに米切手という証書を受け取り、
この証書を堂島の米市場で米問屋に売り渡し、これを帳合取引と呼んでいた。
前者現物取引、後者は先物取引である。

積むだけで、差金決済による先物取引が可能であり、現代の基本的な先物市場の仕
組みを備え、世界初の整備された先物取引市場であった。堂島米会所で決められた
米相場は、大阪の商品の値段相場の基本となった。
 明治になって堂島米会所は、幕府崩壊とともに廃止 

 先物取引とはどのような取引ですか?

 米切手なども手形とか証券とか紙幣の代わりのものだとなる
 米切手は米しか買えないものに限定された紙幣だともなる
 こういうのも貨幣とか紙幣の代わりに進化したものなのである
  
 こういうこは現代でも行われているから江戸時代から始まっていたのである 
米相場であり今なら石油とになっている、石油が先物取引になっているからだ
また北前船ではよる港で商品の値段が違っていたのでその差益でもうけていた

明治以降に日本では金本位制から紙幣になり資本主義社会となり株式市場化した
紙幣というのは証券とか債権の証文ににているのである
でも紙幣は誰の者か権利が特定されない、誰が持っていてもそれは使える、盗んでも使える、それでめれを所持している者を特定できない
だから紛失してもどらなっかたらその金は返ってこないのである

スーパキクチのカードは一種の紙幣である
スーパーキクチがある所だけで使える
一万円の紙幣でありそれで買い物ができる
でもなくした時点で無効になるから普通に使う金と同じなのである
でも違っているのはスーパーキクチでコンピュターに記録されている
ある特定の人がカードを購入しているからそのカードの持ち主を特定している
それで残金が8000円あったらそれは記録されているのである
普通に使う紙幣にはそういうことはない、落としたりなくしたら記録もされないのである

記録されることと記録されないことの相違は大きい!

記録されることは証拠となる、記録されなかったら証拠もないのだから誰のものと特定できないのである

通貨には金にはいろいろな形態がある、証券とか債権にも種類が多いように一つではないのである、だから貨幣自体紙幣自体でも複雑な要素がある
地域通貨とかあるとしてそれもある地域でしか通用しないものである
それがどういう意味をもつのか?地域がそれで活性化するのかわからない
仙台銭とかあったから地域通貨は江戸時代にあった
何か関所で今の時代のように為替の交換することもあった
地域経済が主流だと地域通貨もありうる、
江戸時代にも金融があり頼もし講などがあった、それは狭い範囲の金融組織であり銀行の代わりでもある、地銀を小さな藩よりも小さな地域の金融組織であり相互扶助的なものだったのである
でも明治以降は全国の行き来が自由になると共通の紙幣が利用される
それで小判とか金本位制は終了したのである

とにかく貨幣の機能には実際いろいろある
貨幣の歴史を調べるとそれが政治であり経済であれ世界史であることがわかる
だから貨幣に興味をもつのである

キプロスのことを書いたがそこは様々な国が交差するアラベスクのような国だった
古くはギリシャが支配して十字軍でイギリスが支配したりやがて大英帝国が支配したり
次にオスマントルコが支配したりと大国に分割されて支配された
そこにロシアが入ってきたのもロシアの金持ちが避暑地として選んだからである
またギリシャ正教がロシアに布教されることも影響していた
ギリシャ文字からロシアの文字も作られていたからである
イコンの信仰とロシア正教でもあり共通しているのである

そこでスペインに住んでいる女性がキプロスで起きた預金封鎖のことを報告していた
いかにここに国際情勢が金をめぐって反映されたかを知った
ロシアのブラックマネーが没収されたとかユーロ―に金を奪われたとかIMFがかかわり操作したとかなんとここがヨ−ロッパと中東とトルコやロシアの交差点になっていたから
そんなことが起きていたのである
シリア紛争の原因もロシアが深くかかわっていた、ロシアでもアメリカ中心とかヨ−ロッパに対して対抗心がありIMFとかで管理されることを拒絶していたからである
シリアの紛争にしてもこうしてヨ−ロッパとかトルコとかロシアとかアメリカの思惑がかかわりあれだけ複雑化していたのである
そういう国際情勢が反映されてあれだけの紛争になったのである

いづれにしろ貨幣とか紙幣とか証券とか債権には共通したものがある
貨幣はそれ自体に価値があるものとして発明されたが紙幣と証券とか債権はそういうものではない、その価値は常に経済の変化で価値変動する
つまりいくら紙幣でも千円がいつまでも千円の価値はない、物価があがれば価値がなくなる、またそれは株の有価証券でも同じなのである
常に毎日でもその価値は変動している、それは株と同じなのである

資本主義はいろいろな見方があっても基本的には資本を貯える→投資→利益を得る

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現在は金があっても資本があっても投資先がないのである
貯蓄とか交換とか消費があっても投資先がないのである
つまり資本主義が成り立たなくなっているのだ

このサイクルがあって成り立つ、でもそれが今成り立たないから危機なのである
銀行でもゆうちょ銀行でも地銀でも農林中金でも投資先がないから危ない投資をアメリカからもちこまれて損したらリーマンショック級の世界的混乱が来るとしている
それは専門家がみんなそう言っている、youtubeで見ているとそうなのかと納得する
第一日本経済をみて見ればカジノがどうだインパウンドをもっと増やせとかそんなことしか経済を上向きにするものがないのである
これを見るだけでいかに日本がすでに後進国になっている
つまりグロ−バル競争に敗れると実質的に他国の奴隷化するのである   

女性も安く売られたりする、カンボジアでは5ドルだとか驚く、十数年前はそんなに差があったのである
そこに訳のわからない年配の日本人がたむろしていたのである
そしてアンコールワットでは中国人が現地人に日本のホンダのバイクを貸して観光に使っていたのである
今はもう中国人がカンボジアを経済的に支配している 
そもそもカンボジアが一つの独立した国なのかどうかもわからないのである
こうして日本も今度は経済戦争に負ければおもてなしとかカジノとかで外国人の富裕層に奴隷のように使われるのである、それが過酷なグロ−バル経済なのである
それは殺し合う戦争ではないにしろやはり形を変えた戦争なのである  

良く理解できなかったがキプロスでは預金封鎖があり金持ちの外国人の金が没収されたとしている、ただそれも複雑だからその金がどこにもちさられたのか
EUにもちさられたとか奇奇怪怪になっている
その金が闇になりどこに流れたのか、もちされたのかもわかりにくくなっているのであるだから日本でも預金封鎖があるとIMFとかがかかわり金を奪われたりするから気をつけろとこのサイトでは警告しているのである

預金封鎖その2

欧州初の預金封鎖の凄まじい事実、
ドイツ、フランス、そしてロシアの裏にあのIMFの圧力があった!

証券、株、債券はどう違う?基本知識からネット証券までわかりやすく解説






Ways of the earth


Ways of the earth

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2019年12月25日

スーパーキクチのカード紛失(続) (貨幣と紙幣とカードがありカードは有価証券なのか?)


スーパーキクチのカード紛失(続)

(貨幣と紙幣とカードがありカードは有価証券なのか?)

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 有価証券の所持人
原則として権利者として推定される   

 現金の所持人
券面の所持人は権利行使の際に権利の立証を要しない


<紙幣・コイン管理のリスク・コスト>
 従業員等の労務管理
内部・外部の盗難・強盗発生のリスクがある

物理的な紙幣・コインの管理

釣銭の確保・維持が必要となる
盗難防止のための措置が必要となる

経理上の金銭管理

データ化,集計に手間がかかる


キャッシュレス社会はさけられないことを書いた、貨幣は貨幣自体に価値があった
金銀の貨幣だとそれ自体価値があり小判だと金なのだからそれ自体に価値がある
ただ紙幣になると紙になるのだからそれ自体には価値がないのである
それは証券とか債権とにているのである
銀行に貯金しているのは銀行が顧客から借金したというとき債権化した
借りた金だから本当は必ず利子をつけねばならないのが理屈である
金貸し時代はそうだったろう、金を貸して利子をとるのである
実際にもし銀行にあづけて利子をもらえなかったら銀行は何になるのか?
ただ金を安全に保管している貸金庫のようになる
それは誰でもできるし銀行というものではないだろう
巨大な絶対に入れない金庫を作ればいいのである
そこには暗証番号とか鍵とかで入れないようにしておく、貸金庫と同じである

今回のスーパーキクチのカードが紛失したのはそのカードが実は紙幣と同じだったのである

有価証券の所持人

原則として権利者として推定される   

現金の所持人

券面の所持人は権利行使の際に権利の立証を要しない 

もしカードがこのように有価証券の所持者となっていれば原則として権利者として推定される
でも現金の所持人だったらカード(券面の所持人は権利行使の立証を要しない)
これは権利者として認められないということなのか?
現金を落としてもその現金を落とした次点でもう誰の者かわからない
その金を使ってもその所持人は別な人に完全に移行したのである
権利が移行したのである
本当だったら盗んだものとなるのだがもう誰の者か特定できないから権利を消失したのである

だからかえってタンス預金とかが危険になるのは盗まれた時点で何らか消失した時点で
その権利は消失しているのである
その金が誰の者か立証できないからである
銀行だと誰があづけたかわかるしその金を所持者を特定できる、つまり権利者を特定できるのである
だから安全なのはタンス預金ではないし現金を持つことでないとなる
今回のスーパーキクチのカードは現金と同じだったのである
一万チャージして8000円残っていてもそのカードを落として返ってこなかった
すると取り戻すことが不可能になる
でももしそれが証券とか債権であればそうはならない

有価証券の所持人

原則として権利者として推定される

権利者が特定できるからカードをなくした時点で連絡すれば使えないようにできる
使ったとしても実はその拾ったカードを使うとわかる場合があるかもしれない
いづれにしろ落としたことを連絡した時点で使えなくなる

ただスーパーキクチのカードは一万とか5000円とか限定してチャージして使えるのであるだからそれ以上は使えないカードなのである
ところが他のカードだと無制限に使える場合があるから危険なのである
大きな買い物もできるとなると危険である
だからなくした時点ですぐに連絡する必要がある

何かここでわかったことは金を持っていてもタンス預金だと盗まれたり消失した時点で
何の権利もなくなることである
でも銀行に預けるということは第三者が保証していることなのである

江戸時代だとそういう仕組みとにたものがあったにしろ現代のようにあらゆるものが数字化して証券債権化する社会ではなかった
貨幣でも小判とか銀を使用してその貨幣自体に価値があった
紙幣はなかったからだ、紙幣は証券債券になるまえのものとして生まれていたのである
それ自体には何の価値もないが金として認定されたものだからである

いづれにしろ私自身が大学の経済学部を出たしても何にも勉強していないのである
ただそれは名前だけなのである
おそらく経済を勉強するなら百万くらい与えて株とかいろいろ投資を学ぶことである
ただもう老人には推奨できないのである、その仕組みでも複雑で理解できないからであるただ現代の資本主義社会とかグロ−バル経済を理解するには銀行のことを知らねばならない、それで銀行とかかわりそれを理解しようとしたのである

とにかくキャッシュレス社会はさけられない、するとそういう社会は理解する必要があるそれはコンピュター社会の発展したものとして必然的にそうなったのである
なぜならコンピュター化しなければありえないことだった
IT化社会というのもそうである、コンピュターは記録することが人間より格段に優れているからである
あらゆるものを記録するのである、買い物でもすべて記録される
するとそこからその人の買い物をみてその人の性向までどういう人なのかまである程度わかるのである
それでアマゾンではその人の欲しいものを提示するのである
だからコンピュター社会とはいろいろあるのだが何でも記録する社会だということであるそれで犯罪者の名前が前科となりコンピュターから消えないと訴えるものもわかる

コンピュターは記憶装置であり膨大なものを記録できる
個人の記録でもそうである、いくら書いても負担にならない、それが記録される
だから自分の書いたものでも忘れているのが人間である
本当に自分の書いたものでも文章でも詩でもこんなことを書いていたのか読み直しているのも不思議なのである
人間ほど忘れやすいものはいないのである
だから過去になると膨大なものが忘れられてしまった、記録に残らなかったのである
すると歴史でも過去でも探ることがむずかしくなるのである

例えば相馬藩とかで相馬藩政史に慶長津波の二行だけ生波(いくなみ)で700百人溺死したと記されていたのである
それがいかに貴重なものだったかわかる、それ以外の記録が皆無だったからである
記録はこのように大事なものであり記録がないと証拠にもならないから悪いことした人でも裁判になれば負ける
裁判で必要なものは証拠だからである、証拠がないと有罪にされないのである
だから何らかの証拠を探すことが必要になる、メモでも何でも必要になる
ただこのコンピュターの記録する能力は無限である
でもまた反面一瞬にしし電子記録が消失する危険がある
これもまた常に恐怖していないとならないのである
本でも冊子でもなんでも紙に書いていた方が残る場合がある
だから記録の保存という点では必ずしも万全ではないのである
そうなると後世に残すにはやはり石碑のようにして記すほかないともなるのである


冬の俳句十句(家に生きる-家の重み)


冬の俳句十句(家に生きる-家の重み)

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ここのバス停があってもほとんどバスに乗る人がいない
一日二回か三回カラのバスが通るだけであり生活から離れている
冬菜があれば生活の匂いがするがバスに乗る人がいないのである

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ひなたぼこ家猫平和争わず

隠れ咲く枯菊ひそか隣かな

大石に冬日のさして隣かな  

玄関の曇りガラスに冬紅葉

我が家や長くも棲みて冬紅葉

我が家に母もなきしも冬紅葉

我が家や冬紅葉も散りにけり

枯蔦や我が一人残り家守る

我が庭に数枚散りぬ枯葉かな

大石に山の枯蔦太しかな

我が家を守りて一人冬の暮

広き家南天飾り幸のあれ  

なまこ壁蔵ある家や冬の暮


我が家に刻みし時の長きかな今年も暮れむ家をめぐりぬ


家というのも何か人間と一体化する、アイディンティティ化する
ただ家を深く意識するようになったのは家族がみんな死んでからである
死んでから親のことなど深く思うようになり家もまた思うようになる
家というのはただの人が寝起きしたり食べるだけのものではない
そこに人間一人の一生が刻まれて一代だけではない、何代も続く場合があり
そこで重みをもつ、だから蔵のある家は重みがある
私の家だってすでに築50年過ぎた、古くなっている
何か私の家は大きい、だから二階の八畳間に寝ていると気分がいい
家の広さは人間の心に相当に影響する、狭い家にいると圧迫されるのである
これまでは狭い部屋に寝起きしていたから圧迫されていたのである

まず田舎だと家とか土地とか恒産がないと住みにくい、市営住宅のような狭い所に住んでいると心まで圧迫されて狭くなる、いつもとなりの人のことが嫌だと言う人がいるからだ何か変な人がいてもがまんするほかない、でも離れていればそれは関係ないのである
そして家というのは長く住むとまた重みがもつようになる
農家がなぜ重みをもつのかとなると土地と一体化して何代も住んでいるからそうなる
農家は三代住まないと仲間になれないというのもそうである

でも私の家は外から来たから二代目とか三代目なのである
街に住んでいる人は比較的新しいのである
隣の家をのぞいたら枯菊が咲いていた、それを今日見つけたのである
なにかひっそりとしている、最近は隣の女性と話もしない
その女性もおとなしいのである
そしてまた左の隣のおくさんも顔すら見たことがない、同級生がおとなしい女性だったというからそうである
その庭には大石がある、ところがその家は貸家である、でも庭が広いのである
そういう家を田舎でぱ安く借りられるのである
もうすでに30年くらい住んでいるとそれは貸家ではない感じになる

何か老人になると家が大事になる、なぜならあまり遠くに行くのも億劫になるからであるすると家にいる時間が長くなる、それで家が広かったり住み心地良くないと嫌になる
また家は周りの環境も影響する、何か田舎でも車社会だから車の騒音に悩まされる
だから立地が悪いと騒音が都会のようにある
ここでも前は道路が近くで車の音がうるさかった
でもそこに家が建ったので音がさえぎられたのと下にいるようになったから車の音は聞こえないのである、だからこの家に満足している
ただ広い家だと掃除するだけで手間なのである
家事に時間をとられるのである

なんか猫が家の前でひなたぼっこている
それが平和だった、ところが野良猫がいつもいる、隣で餌をやっている
その野良猫が自分の家の中に入ってくる、それも問題なのである
地域猫として飼うとういのでもない、ただなんらか餌やる人がいてこの地域にいるのかとなる
地域猫でもネズミ駆除にはいいのかもしれない、というのは田んぼの近くの市営住宅の人は小さなカヤネズミが入ってきて米を汚されたとか言っているからだ
ここでは住宅整備地域にして改造したから堀もなくなった
一時震災後にどぶねずみなどが入ってきたが今はネズミは見ない

飼い猫は餌が与えられるので平和である、でも野良猫は平和ではない
餌が与えられないからである、平和という時これは人間でも同じである
やはり餌が与えられないと治安が悪くなる
貧乏化すると安定しないから治安が悪くなる
日本は今貧困化して犯罪が増えてくる
それは自分自身が被害者だったからである
銀行まで窮地に追い込まれて貯金してもそれが奪われるとまでなっているからである

とにかく田舎は家があり土地がありある程度の金の余裕がないと住みにくい
恒産があれば田舎の方が住みやすいのである、そしてそこで文化的なものをつちかわれるのである
だから公務員とか農協とか銀行は生活的に安定していたのである
それは田舎でぱエリートだったのである
今は貧困化するとそういう安定した職業がなくなる、そこで田舎でも犯罪が増えたり住みにくくなるのである

いづれにしろなぜ老人ホームに入った老人が家に帰りたいというとき家が一生を過ごした場所でありそこに深い思いがあり家は単なる箱ではないからである
だから原発避難者でも故郷に帰りたいというのは老人なのである
それを奪ったのだからそれが罪深いものだったとなる
人生の最後は家で死にたいとか故郷で死にたいとか田舎で死にたいとなるのはそれだけ
そこに深い思いがあるからそうなるのである
家というのはだから嫁にもなる、女と家は一体なのである

そして意外と大工さんというのが家にかかわるから大事だとなる、でも建売とかなるとあまりかかわらない
庭作りでも家でも大工さんの手作りだと家とかかわるだけではない
その家の人とも家族でも深くかかわることがある、ただ今はそういうことは少なくなった
また茅葺の家のときは地区の人がみんなかかわったのである
だから家はその村とかと一体化していのである
それが建売だと地域とは関係ない、ただ金で家を買うという感じなり重みがなくなった
ただこの辺で一つの新しい街ができるほど家が建ったがみんな建売であり一週間くらいで組み立てて建てたものである
昔の家は普請は大仕事であり地域の人がみんなかかわってできた
だから何か昔の家には重みがあるが今の家には重みを感じられないのである
また家の重みは長く住むことによって重みが生れて来る
それはその家族がその家と一体してただ物質ではないものになるからである






人を見たら泥棒と思え (国も政府も官僚も銀行も弁護士も・・・みんな泥棒?)


人を見たら泥棒と思え

(国も政府も官僚も銀行も弁護士も・・・みんな泥棒?)


銀行・証券・政府が「低リスク商品だと勧めたから」という理由で投資するなどというのはばかげている。投資先(金融商品)のリスクが高いか低いかを判断することこそ投資家の最大の仕事なのに、それを他人任せにするべきではない。

「銀行・証券等の金融機関は決して責任をとらない」と法律で明記(損失補てんの禁止)されているのだ。

「新NISA」への違和感…結局、儲かるのは「銀行」だけという真実

本当は帰れるのにダラダラと会社に残る「残業泥棒」、決められたことしかできない「マニュアル人間」…。日本企業を見渡せばそこら中にいる「非生産的」なビジネスパーソン。彼らは今後世界から必要とされなくなります

会社内でも会社で働いて有用な人でない人がいる、その人たち有用な有能な人から盗んでいるともなる
なぜなら無駄な残業しているだけだとしている、盗むということは多様なのである


人見たら泥棒と思へという格言も全く今も同じである
ただ泥棒というときそれは個々人のことではない、政府までが泥棒であり国民の金を盗むのである、国家自体が盗賊国家だったということを書いたがこの世の中官僚でも泥棒なのである
外国でも他国の金を盗む、アメリカは強い巨大な国だから日本から金をまきあげているというのも泥棒だということである
国自体が政府が自国国民の金を盗んでいるし外国では他国の富を金を盗む
これが政府と証券会社と銀行がグルになって盗む、盗賊化していたのである
ニーサとか非課税商品だとして政府がすすめた理由は投資の方に国民の金をまわしたいからである
そして利子がつかないのだからただ金を集めても増えない、地銀でも地方は衰退して金を貸してももうけくれる会社がない
すると証券会社のすすめる投資信託を売る
それは確実に手数料が入るものでありリスクをとらないから銀行にとってはいいものなのである

そもそも人間が盗むというとき安藤昌益が侍を批判したのは働かないで農民から税を搾り取って暮らしていくということで批判した
だから盗むとなっていたのである、他人の労働を得たものを何もしないで盗んでいるのが侍だとしていたのである
盗むということは小銭でも何でも金を盗むとかでもない
他人の労働を盗む、他人が工夫して苦労の上に作り上げたものを何の労苦もまた智慧も発明もないのに盗むということがある、著作権などがそうである
この盗む行為は日常的に社会でしている

弁護士でもそうである、相談料として事前に百万とるというのも盗みだった
その金は交通事故で死んだ人の金でありその遺族に入るものだけど盗まれたとなる
遺産で何か正当な理由があれば受け取れる
でもその金で盗むということがある、多分に自分自身にも盗むということを知らずにしていることがある、つまり誰でもなんらか盗むとういことをしているのである  
それが自覚できないことがある、百円から盗むとなぜかひどく自覚しているが大きな金になると自覚できないのである、ここに人間の盲点がある、何かリンゴ一つでも盗むと良心の呵責を覚える
ところが政府でも銀行でも会社でも横領する金が一億となったりする、でもその時リンゴ一つ盗むような良心の呵責も覚えないのである、それは単なる数字のように思えるからかもしれない、金はもう現代では数字だからである
良く一桁のゼロを間違えることがある、1000000を100000と見間違いることもある、その額は大きいのだけど数字では間違いやすいのである、その額を間違えたら大きなことなのだけど自覚できないことがあるのだ
それはすでに物ではないからである

人間は罪を指摘されて自覚されないとわからないことがあるのだ
だからたいがい人間はみんな善人だと思っているのだ
だからこれは悪いことだと自覚することはその人はまだいい方だとなるのである
それで人を見たら泥棒だと思へとなっていたのである
そこに格言に変わらぬ人間の真理があり人間社会が技術が進歩しても常に盗むことが起きる、ただそれが複雑な社会で見えなくなっているだけなのである
第一政府が盗むとなるともう盗むということはどこでもありうる
第一政府がそうなのだからそれに習へとなるからだ
共産党幹部でも中国国民からその労働の成果でも盗んで巨万の富を得ているとなる
共産主義革命は何なのだろうとなる

盗むというとき不思議なのはそもそも火を神からゼウスから盗んだプロメテウスのようにエネルギーはもともと神のものでありその神から人間が盗んだのである
だから科学技術でもそこに呪いが隠されていたのである
そして過酷な罰を受けたのである、それが原発事故として現代に事実として現れたのである
それで風力発電でも水力発電でも太陽光発電でも自然のエネルギーを盗んでいるものだからいいものではないというときなるほどなと思った
そういうふうに盗む行為は何か災いが隠されていたのである
だからこそ過酷な罰をプロメテウスは受けたのである
そして逆説としてシンホシスがただ転がり落ちる石をもちあげる、終わりなく持ち上げる労働を課せられた罰はこれも何か意味あることしない、働かない罰だったともなる
それはもしかしたら他人の労働を盗んだ罰だったかもしれないのである

だから社会を見る時不思議なのはみんな泥棒である

では誰が泥棒ではないのか?これを見れば何か人間を社会をみる糸口が開けるのではないか?
するとまず政府の官僚とか政治家とか士業と言われるもの、弁護士でも銀行員や証券会社はみんな胡散臭い奴らだなともなってしまうのである
それらはうまく操作して市場が公平のように装いグロ−バル経済で金を右から左に流して巨万の富を得ている、それは世界から盗んでいるのである
そのことを知ったゴールドマンサックスの会社員は自らそうした仕組みを頭いいからITとかで作ったから良心にさいなまされてやめたとしている、日本の富を奪うために仕組んだからである
ただその人はましだった、悪いと感じていたからである、もう現代では感じないからである
盗み稼業でも現代ではその人自身が気づかない
盗んでいるとなど思わないしむしろ正規の仕事をしているだけだとなる
なぜなら決してそれをとがめられることもないからである
だからそんなのいかさまのギャンブルだとして民衆がデモを起こしたら怖いことになるでもそういう人達はかエリートとしてのうのうとして公然と人も国も会社もだまして外国の富も奪っているとなる、なんかそうすると悪魔的になっている

いづれにしろ今や銀行そのものが地銀でも社会に害を及ぼすだけであり必要なのか問われている、社会の不思議は人間の不思議は社会の害になっても生きねばならい
日々の糧を得なければならない、だからきれいごとを言っていては生きられないとなる
それでマフィアは麻薬をやめられない、その栽培をアフガニスタンではやめられないとしていたのであく
何かそれがアフガニスタンだけではない、現実世界でも日本でもそういうことが日常的に行われていたのである
原発マフィア村というのもそうだったのである、原発は何兆円とかの金に鳴る木だからそこに利権がありみんな食い物にした、それは政府でも政治家でも官僚でもそうであり検察も官僚であり東電に天下りしていたからグルだったとなる
マスコミもみんな原発村の一員であり巨額の宣伝費が東電や電気連合からもらっていたのである

ではみんなそうして金で汚れてしまったのか?汚れていない人はいない

その対比から見ると貧しく社会の底辺で呻吟している人はそうした金が入らないのだから汚れてないないのかとなる
まず土建業とかになるとそこで下働きなどしている人は金は入らない
でも原発の除染の仕事では会社の幹部には何億の金が入っていた、それで奪われた盗まれたとして逮捕されたりする
でも下の方で現場で働く人にはそうした恩恵がないのである
でもその人たちは心は汚されないとなる、それも何か理解できないのである

もちろん上に立つ人がすべて盗むというのではない、重責をになって仕事している人はいる、ただ社会のためにとか政府でも官僚でもまた銀行員とかでも何か社会の害悪にもなるそれで地銀の頭取が地域のため副業するのがいいとか奨励している
野球の監督とか塾の英語の講師とかして地域に尽くせとしている
それは本業で地域に尽くすことがてきなくなった
ただ貯金を投資信託にまわして金を奪うようなことをしているからそうなる
それもだから銀行員は今何のために地域にあるのかと問われる
ただ地域住民をの金を奪うだけのものなのかとまでなる
それで老人と貸した団塊の世代がねらわれているというのもわかる
月々分配型などは貯金に利子がつくような感覚になっていたからである

でも元本も保証できない危険な商品だったのである
銀行は損しても一切責任はとらないうまみのある商品だったのである
それが政府ぐるみで奨励しているというのはグルで盗賊化していたのかとなる
ただ人間はこのように知らず盗む行為をしている
遺産とかになるとただ親の労働をその子が盗むとなる
それは自分の場合に言えたのである
最後に介護したので遺産を受け取る権利は生まれたとはなる
むしろ親族でも子供で介護が別な他人がすればその人に権利がでるのは当然なのである
それは盗むと同じになっていたのである
自分の場合は一応介護したから権利があったとなる

いづれにしろ人間社会とは何なのだろうとなる
弁護士まで猛勉強してもそれが社会のために尽くすかとなるとただだますために盗むために法律を学んだとまでなる
政府の官僚になっても国民から税金を盗むためだったとまでなる
それは何なのだろうとなる、そのために勉強してきたのか?
実際団塊の世代の受験勉強はそういうものだった
他者を蹴落としても点数をとりそれでいい暮らしをしたい、官僚になれば高い地位につけば実入りが良くなるというたげの教育である
それも私の経験から納得することはある
なぜなら底辺になると悲惨だからである、流れ作業をロボットのようにしていなければならなかったり建築現場でも危険と隣り合わせだからである
そこは汚い場所でもあり誰もそんなところで仕事したくないとなる
そのために勉強しなければならないという動機にもなる
ただそれが盗むという地位に就くということではない
設計とか事務になれば楽だとなるから勉強しないというのはわかるのである

銀行は高度成長時代とかは楽だった、ただ金を集めれば良かった
そして金を貸す会社でもいくらでもあった
だからほとんど審査する必要もなかったという、そしてそこから利子がとれて顧客にも利子が回っていたのである
つまりそれは高度成長時代でありどこでも金回りが良かったからそうなっていたのである金さえ集まれば借りてくれる人や会社はいくらでもいる、それも高度成長時代だから投資も盛んになっている成功している人も会社も多いから不良債権にならなかったのである
審査する能力すら必要なかったのである

銀行がいかに楽な商売だったかわかる
これからの時代は銀行は半分なくなるとか銀行自体必要がなくなってきたのである
ただ訳のわからない投資信託とかうりつけて手数料だけはとるとなったりもう顧客から
いかにだまして金を奪うかとかなればそうである
そのターゲットに団塊の世代がなっているというのもわかる
高度成長時期に貯えた金融資産があるからそれが奪われるとまでなったのである
月々分配型などが何かうまい仕組みである、それが利子がもらえると勘違いするものだったのである、実際は利子がとられる商品だったのである

posted by 老鶯 at 10:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2019年12月24日

スーパーキクチのカードは再発行できない (カードが返ってこないと残金は没収される)


スーパーキクチのカードは再発行できない

(カードが返ってこないと残金は没収される)

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スイカはなくしても再発行できる、なくしたら使えないようにできる
連絡するとできる これは買い物でもできる所がある
チャージして使うからビザのようなカードとも違い気楽だともなる
毎日カードを買い物で使うとなるとこうしたものが使いやすいのである
そしてカードは一つに統一されると本当は楽である
何枚も持ち歩くのがめんどうなのである
そういうカードはなくしやすいのである



スーパーキクチのカードはチャージして使う
一万ジャージして2000円くらい使ったが落とした
そのカードはもどってこない
それはもどらないにしても記録されている
スーパ―側には8000円残っていることが記録されているはずなのである
明らかに8000円分はスーパーキクチの会社側に入金されているのである

だからなぜカードをなくしてそれが返ってこなかったらスーパーに金が入ったままであり返金はされない
ただ誰か拾った人が使うことができる
これは人を特定できないカードだからそうなっている?
その拾った人が買い物してもわからない
それはちょうど紙幣を落として拾った人がその金で買い物したり使ったりしてもわからないということである

ここに何か大きな問題があった!

キャッシュレス社会にするための問題があった
suica(スイカ)といきうJRが発行する切符なしのカードがある
それはカードをかざせば切符代わりになる
それは自動的にコンピュターに記録される
そして話題になったのが改札を通るだけでカードをかざすだけでも乗れるとニュースであった
そしてこのスイカはスーパーでも連携していれば使えるのである

これは再発行できる、無くした時点で連絡すれば使えなくなり後で再発行できる
だから今回のような私の損失にはならないのである
他のカードもそうなっている
ただクレジットカードでもいろいろあり気軽に使えるのとそうでないものがある
毎日買い物にするのにビザとか使うのはしにくいのである
だからスイカのようなものがあればしやすいとなる

こういうことはスーパー側で備えるべきだとなるがそうなると資金とかがかかりめんどうになるのかもしれない
キクチスーパーのカードは一回店員に見せてそれから入金を確認させる
ここで一回手間になっている、他のカードだと一回だけなのである
だから他のカードの方が手間にならないし安全だともなる
ただビザカードとかなると使いにくいと思った
毎日買物する旅にそれを出すのが何か怖いとなる、紛失しやすいからである

でも再発行はされるべき

こうすれば紛失しても入金した分はもどるし減らないのである
こういうことはキャッシュレス社会では備えるべきだとなる
これから顔認証とかなり顔でその人を特定して入金する
そんな社会にもなるし中国ではある程度なっている

とにかくコンピュターというのは何でも記録する、それが得意なのである
今や金は数字であり数字として確実に記録される
だからスーパーキクチのカードの残金は記録されているしそれが証拠になる
人間はミスがあってもコンピュターにはミスがそういうことではないのである
ここはスーパーでも改善すべきである
ただこういうことるなると費用がかかる
自動機械で金の出し入れをするうよになったときも設備費用でかかった
でもそれで人件費とか節約できたから損したとはならないだろう

技術関係は老人に不利 (インターネットでもこれまで覚えた技術しか利用できなくなる)


  技術関係は老人に不利
  
  (インターネットでもこれまで覚えた技術しか利用できなくなる)
  
何かプログとかホームページをSSL化しろ、暗号化しろとか言われるしみんなしている
でもこれもまた良くからないし何かこれまでしていたことが御破算になるかと不安になるこういうふうに技術が変化すると対応しにくくなる
特に老人はそうなる 
何かインタ−ネットが利用されるようになったときこのITというのは何か変わり安いのである、パソコンにもそういうことがあった

私は最初は富士通のワープロを使っていた、それを始めた利用が余りにも悪筆だったからである
でも人間の不思議は中国だとなぜあれほどスマホが普及してキャッシュレスになったかというと紙幣自体が中国でぱ信用度が低すぎたからそうなったのである
偽札かが多すぎた、それで買い物してもその紙幣をいちいち調べていたのである
それから後進国でスマホが普及したのは電話を引くのがめんどうだったからなのである
携帯がまず普及したのである、今や固定電話を持っている人は本当に少なくなったのである

何か不利になり有利になるかわからないのが人間である
弱点が有利になる場合もある、不思議なのは人間の仕事がなくなりしきりにみんなクリエイターになるほかないとかもう大企業はなくなるとか会社員の時代は終わったとか言うことである
みんな猛烈社員だった企業戦士だったのになぜそんなことになったのか?
自分のようにただ旅ばかりして無職であり家にこもってパソコンをしていた引きこもりはかえってそういう方面では遊びではたけている
でもそんなことしても金にはならなかったのである
ベーシックインカムが真面目に語られるとういことも不思議である

おそらく時代によって要求されるものが変わってくるためなのである
もし肉体労働でもロボットに代われば仕事に要求されるのはロボットを操作することである、家事などでも家電がないときは洗濯でも洗濯板でごしごし洗っていたのである
それで私の家で認知症になった姉は洗濯機が利用できなくなる洗濯板で洗っていたのである
認知症になるとボタン一つ押すことができない、極端に機械に弱くなるのである
数字もわからなくなるのである
家事でも機械化自動化するとどうなるのか?
女性は何をすればいいのか、それでも女性の役割がある、それは癒しだったり話し相手だったりある
すると家事と言うだけでない何か違った能力が必要になる
家事にたけている人が望まれるわけではないのである
実際私は一人でも全部家事でも一人でしているからである
それは家事が機械化しているからできるのである
洗濯ものは洗濯機にほうりこめばいいからである

私がワープロから進化したやはり富士通の通信できる機械を買ったことがインタ−ネットになじむものとなった、その時パソコン通信の時代だったのである
そういう最初から自分はかかわっていたのである
それができたのは富士通のオワシスで親指シフトのワープロを利用していたからできた
この恩恵が大きかった、まず文章をスムーズに変換できないとなじめなかったとなる
パソコンは技術の習得のハードルが高かったのである
それも引きこもりで時間があり習得できたのである
結局何かするにも時間がかかるのである

ただインタ−ネット空間は変わり安い、それでついていけなくなる
まずスマホがないと現代では日常化しているから生活するのも不便になる
もうキャッシュレスはさけられない社会になっているからだ
それで納得できないのはキクチスーパーのカードをなくした
そこに8000円くらい残金が残っていた
でもカードを拾った人もいないし返ってこない、でも明らかにカードの残金は記録されているつしそのカードを誰か使ったら記録されるしわかるはずなのである
つまりとにかく現代は電子化社会になるとあらゆることが自動的に記録される社会なのである
だからこれは変だなと思った、普通のカードは紛失した時点で誰も使えなくされる
だから別に損することはないのである
そして新たにカードが発行される
ただ買い物のカードはしょっちゅう出したり入れたりするから無くしやすいのが難点なのである、スマホでもなくすとめんどうになる
それで何か鉄道の駅でも通るだけで乗れるとかできるようになったとなれば便利である
いちいちスマホを出したりカードを出すことが手間でありそれで紛失しやすいのである
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いづれにしろ老人の不利なのはこうして技術が進化したとき取り残されるたとである
そして車の免許を返納しろとかなる、それはかなりショックになる
なぜなら車と一体化して生活してきたからである
私の場合は自転車に乗れなくなったときそうなる
商売でも自転車でも種類が多くなったのと電動化したことなどで技術的に追いつけない
だから若い人が経営する店に行けとなる
最新の技術のことがわからなくなるのだ
それは医者でも同じである、確かに経験があっても医療技術も格段に進歩している
それが老人にはわからない、でも近くの医者は90まで現役だった
医者でも高齢化している、でも最新の医療については知識でも技術でも遅れているのである

困ったのはホームページを最初に作ったがここ十年以上更新していない
それををとするのかも問題になる
SSL化とワードプレスもしてみたいとなるがこれもまた手間なのである
これももし10年前からしていればこんなことにはならなかった
ただ SSL化は最近の技術なのである
介護とかで追われて十年の間はこうしたことまで手が回らなかった
つまり何か新しい技術を取り入れることがむずかしくなるのが老人なのである
それで社会から取り残される、これが相当に不利なのである
有利な点はどんな人でも経験しているからその経験が活きるのである
知識でも経験がないと身につかないのである
それは馬鹿げた経験でも経験なのである

なぜなら老人になるともう経験がてきないからである
結婚も経験であり結婚しない人は女性とうまくコミ二ケーションできないし人格的にも大人として形成されないのである
会社に働くのもやはり経験であり貴重である、奇妙だけど引きこもりも経験なのである
引きこもりがすべてマイナスともならないのが人間の不思議である    
結局人間は人生をふりかえれば何が不幸か幸福かもわからないのである
マイナスだと思ったのがプラスになりプラスと思っていたものがマイナスになったりするから不思議だとなる  

2019年12月23日

私の十大ニュース(2019)


私の十大ニュース(2019)

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YPJ-XC(ヤマハ)
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星自転車屋では客の対応がいい、商売できる
普通他の店で買うと修理はしない
でもここでは引き受ける
原町の自転車屋ではあからさまにお前は来るなと言われたからだ
そういう人は自転車屋の商売には向いていない
一回は買ったのだからそこまで言うのには驚いた
ただやはり自転車は後で世話になるからどうしてもそうなりやすい
ただここではロードを買うのは向いていないかもしれない
相馬市とかで若い人が買っていたからである
ただ鹿島で一軒しかないのだから貴重なのである
ただここだって病気しているからいつなくなるかわからないのである
そうすると相当に困ったことになる




●ヤマハの電動自転車のJPJ-XCを一年間乗り行動範囲が広がった

●自転車で夜にライトがなく側溝に転んで傷

●カードなくして損したと思って赤になったのに自転車で横断して危険

●台風で家の中まで水が入った(近くで台風の被害)

●丸森の台風被害が大きかった 

●大熊双葉だけではない浪江とか小高とか飯館村はもう復興できない?

●仙台に一回しか行かなかった

●ゆうちょや地銀や銀行への不安がつのる

●家の中を電動のこぎりを買って改造した

●駅で高校生の見守り役で案内もあまりしなくなった


結局今年は自分にとって何か大きなことはなかった、あったとすれば新しく買ってヤマハのJPJ-XCにまつわることだった
これだけ本当に乗りやすく楽に遠くへ行けるので助かった
そもそも走り自体が軽快になっているから楽なのである
車がないからどうしても遠くに行くには自転車になる
今までの自転車だと体力がなくなっているから苦しい
でもこの電動自転車は楽に走れるから老人向きだったのである
だからマウンテンバイクなのに老人向きだったことが意外だったのである
だからこれは老人にすすめられる自転車なのである
ただこの自転車の最大の問題は荷物がのせられないのである
すると買い物で困るのである、スタンドもないことも困る
この二つでは困ったのである

ともかくみんな車が常に大事なのように車無くして生活できないように自分にとって自転車なくしては暮らせないから自転車がこのように大事になる
何十年前とかに新しい自転車に乗ってブレーキがきかず頭を打ち付けた
その時前歯が二三本折れた、この事故でぱ頭を打ったから死ぬこともあった
だから車もそうだが意外と自転車は危険なのである
側溝で転んだのも頭をうつと危険になっていた
車でもそうだが自転車でも死ぬのである                              

そして年末に自転車では危険な目にあった、赤信号なのに国道を渡ろうとしてトラックが来て止まったのである、年末はいろいろあると危険にもなる
これだけ車社会なのだから自転車もその中に巻き込まれるのである
ただ一回だけ大けがしたがその後は起きていない
実は自転車では二回死ぬ目にあっている
坂を下る時ブレーキがきかなくなった
その時一瞬足をついて自転車と一緒に転んだからよかった
そのまま坂を下ると急な坂を下り塀にぶつかり死んでいたかもしれない
それから25万のヤマはの電動ロードは何の役にも立たなかった
ほとんど利用せずに終わった
そしてこれも一回ブレーキがきかず転んだ
その時そこも坂でありそのまま下ると死の危険があったとなる
だから自転車だと安全なようで危険なことが結構あった
でも自分の一生は自転車とともにあったともなる

あとはたいしたことはなかったが台風は自分の家でも被害があった
家の中に水がかなり入ってきて水浸しになった
下に置いたものが水にぬれた、膝くらいまで水につかった
私の家は街で一番低い場所にあり水が入ってくる
二回も洪水の被害があった家なのである
水に苦しむ家であり土地なのである
ただ今回はこの辺でも洪水の被害があった
相馬市でも原町区の高倉でもダムの放流で被害があった
相馬市は千軒くらい床上浸水とかあったから意外と広範囲に被害があった 

仙台に一回行かなかったということもこれまではなかった
必ず一か月に一回くらいは行っていたのである
だからこんなに仙台に行かないことはなかった
それは何で本でも古本でも通販で買えるということがあった
そこであえて仙台に本を買いに行く必要がなくなったのである
また今年は仙台にも行かない、近間しか行かなかった
これもめずらしいとなる
家に閉じこもってプログを書いたり創作の仕事をしたりするのが主になった
いろいろまとめることがあるが整理できないのである
冊子とか本にしようとしているのだがこれもなかなかうまくいかない
めんどうになるのだ、でもそれが今や仕事である
実際はインタ−ネットだと出版から放送から配布まで全部一人でできるししている
それを紙で印刷したり書店に置いてもらったりしていたら一人ではとてもできない
そもそも出版とか書店に置くことはできない
だから本当は一人でこれだけしていることは今までならありえなかったのである

ともかく家事もあるし全部一人でやっているから忙しいのである
まず忙殺されるのである、家事でもまず料理にこったら何もできなくなる
料理はそれだけ手間だし専門的な技術が必要なのである
家は自分で改造した、自分なりに今は改造できる、ただ簡単な棚を作るくらいである
助かったのはユニットバスを百万で仙台の優創建という会社で作ってもらったことだったこれだけは得だった、風呂はやはり癒しになるし体にもいいのである
ただ私はあまり風呂に入らないのである、一週間に二回くらいになる

あとは金のことで銀行のことが心配になったのである
youtubeを見てもいいことを予測している人はいない
地銀でも半分はつぶれるとか預金封鎖があるとか株は暴落するとかいいことを言っている人はいないのである
だからJ-REITを売った、損はしなかったので良かった
でもその後どうしていいかわからない、備えることもできないのである
まあ、億とかの金はないからそれを心配してもどうしようもないとなる
今金持っている人は戦々恐々としいるだろう
まず預金封鎖になったらもう国に金は没収されるからこれは怖いことである
ただ金のない人は心配しなくていいとなるが日々金に追われているのである

傷浅く危険まねがれ年終わる

まだ年終るというけどまだ一週間とかある、この間にも何かあるかもしれない
つまり人間は一寸先は闇だとなっているのだ
それは津波や原発事故や家族の認知症やら介護やら自分の病気になってからそうなったのである、こんなに災いがつづくものかと苦しんできたからである

駅でぱ高校生の見守り役が常駐するようになって案内はあまりしなかった、仕事もなくなったとなる
来年は常磐線がいわきまで開通するからそれはかなりの復興になる
あとは避難区域なにった所はもう復興しないと見る
若い人は帰ってこないし飯館村でも小高でも浪江はさらに悪い状態でありそうした老人だけいる所に金をつぎこんでも無駄だという意見に同調するようになった
最初は復興してもらいたかったけどそれも今になると無理だとなる
私の場合は飯館村があんなふうになったのがショックだった
そこは何か森に包まれた癒しの場だったからである、双葉とか大熊にあまり何かそうしたものを感じなかった
飯館村はあんなになったのはショックである
そこで失われ精神的なものは余りにも大きかったのである
そこに住んでいなくても一つの貴重なアイディンティティの場が失われたのである

posted by 老鶯 at 22:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

精神性を文化を追及すらなら田舎か地方都市 (都会は経済科学技術しかないー精神性は追求できない)


精神性を文化を追及すらなら田舎か地方都市

(都会は経済科学技術しかないー精神性は追求できない


田舎と都会の相違はただ経済とかからしか見ない、都会には多様な仕事がありそれぞれの才能が確かに発揮されることがある
田舎でぱ職業というと農業や漁業や林業とかあってもそれが衰退した
結果としてこの辺では原発を誘致した
原発の経済的効果は抜群だったのである、だから本当に原発で働いていた人が多い
飯館村でも働いていたのである
おそらく日給とかにしても三倍にもなっていたということも聞いた
それだけ原発は金のなる木だからみんな賛成したのである

その経済普及効果は地域にとってあまりにも大きすぎたのである
それで高浜町ではその斡旋するボスが助役が殿様みたいな豪邸を建て利権を得ていたのである
それは知らなかったが漁業権を売り渡した漁業組合とかで船主は原発事故前から原発御殿を建てていて周りからうらやましがられていたのである
港があってもみんな漁業をしているわけではない、船主でもないからだ

とにかく現代とは何か?電気社会なのである、電気なくして日々の生活すらできない
だから貧困者は必ず電気をとめられている、それも毎月なのである
料金をとどこおると即座に電気がとめられて生活できなくなるのである
そして原発事故のとき原発で電気工事関係者1000人も働いていたというから驚きである
それだけの雇用があるのが電気事業なのである  

私は田舎で追求してきたのはそうした仕事ではない、私は30年間ひきこもっていたのだからそうした仕事と関係せずに生きていたというのも不思議である
そういう家庭環境にあり別にとがめられることも一切なかったのである
それだけ家に生活の余裕があったからそうしていたのである
別に親から働かなくてもとがめられたこともないのである
だからこれは特殊な家庭環境でそうなったのである
親にニートが殺されたけどそんなこと絶対にありえなかったのが自分の家だったのであるだから最後は恩返しに懸命に認知症になっても親の介護をしたのである
それで多少は恩返ししたとしてつくづく良かったなと思った
それがなければ相当に後悔したことになっていたのである

田舎とは何か?それはcultivate(耕す)からcultureになったことでその言葉が明確に象徴している                                                          
言葉の生まれる背景にはその背景に生活の現実とか自然の現実があり生まれている
スレーブとはスラブでありスラブ民族から生まれている
それは奴隷の意味だったのである、それでドイツがアーリア人であり東欧からロシアはスラブ民族で劣っている民族だから優れた民族に従うべきものとしてロシアとの戦争で3000万人が死んだというのも驚きである
つまりスラブ民族が奴隷民族だという意味である
説はあるにしてもその言葉が語ることは歴史を語っているのである

田舎とは地方都市でも経済とか科学技術とかでも富を得ようとすることは変わりない
でも田舎の場合はもともと文化が耕すから生まれたのだからそのよって立つべきものが
その大地であり自然だった
実りをもたらすのは自然だったから自然にアイディンティティを求める
そこが田舎と都会の大きな相違である
ただ都会という時、地方都市は言うのではなくイメージするのは東京のような大都会なのでなしる、それはモンスター都市でありそこで追求されるものは何なのか?
もう精神性とかは関係ない、物質的なものしかない、そこにアイディンティティを求めることはできない、東京砂漠とかなってしまうのである

例えば人間は自然があるとする、確かに自然は食料を提供するし材料を木材でも何でも提供する、石でも土台になるし材料としての自然がある
でも一方で自然と一体化アイディンティティ化しようとする、精神性を追求する、
それは山でも崇高さとか厳粛さとか精神性を人間が自然に付与するのである
だから高い山がない所ではそうした精神性が育たないから偉人がでないというのも納得するのである、毎日富士山を眺めていたら何か心も必ず高められるからである
ここにはまず蔵王が見えるにしても高い山がないからそうした精神性が備わらないとなるのだ

精神性を追求する時、これまでグロ−バル経済を批判してきたがグロ−バル経済ではただ地球から物が入ってきてもそこから精神性は備わらないのである
葡萄でもそれが実っている場所にあってこそその実り何でも実感するのである
葡萄が実るに適した場所がありそれは川岸とか湖の側とか何か光でもいろいろ自然が関係しているのである、それは野菜でもその土地と土とから生まれる、そこで特産物が生まれるのである、食料の場合はその土地と一体化して生まれる
文化もまた同じなのである、その土地の風土と一体となり生まれるそれが文化なのであるだからただ物が入ってきてもそこで精神性文化は追求できないのである
だから私の偏見かもしれないがワインというのは日本に合っていない
そういう風土にもないし文化もないからである
何かいろいろな食料でもみんな外国産を輸入しているのは間違っているのかもしれない
それが食料が文化の基本にあることは確かなのである
日本料理は日本の風土とか文化から生まれたからである
ワインとパンはあっているが日本食は日本食であり合わないのである

いづれにしろグロ−バル経済はいすいろな点で限界に来ている
そこには道徳もないしただ物だけが入ってくる
そして世界的に豊かになるからいいではないかとなるが実際は世界的天文学な格差が生まれたのである、世界的共同ではない、富が奪われるシステムだったのである
国際資本家が金融を牛耳るシステムであり公平な市場での取引ではないのである
そして食料でもその国の風土にあったものがありそれも無視されるのである
世界が第二次世界大戦で破局的なものになった、何千万人も死んだというのはグロ−バル化した世界の結果だったのである
むしろ国々はその国の風土と歴史に根ざした国造りをするべきでありかえって貿易はもしかしたら必要最小限の方が良かったとまでなる
それが中国で政治で苦しんできた老子の小国寡民の思想になったのである

なぜなら貿易が盛んになると同時に摩擦が激しくなる
経済戦争になるからである、絶えず食料でも輸入していると何かもめごとがあると食料でも入らなくなる
それは国同士だと信用がない、何かあると戦争までに発展するのが国なのである
そして国が違うと食の安全など関心がなくなる、売ればいいとなるのである
アメリカでも日本の国などなくなってもいいとか中国でも小日本がなくなっても民族が滅びてもいいとなまでなる、それは第二次世界大戦でナチスがロシアに進攻したときそうだったのである
日本は島国で孤立した宇宙だから同じ民族同士だから敵味方塚として戦争しても供養している、中国だと墓を暴いても敵を罰して許さないのである
民族自体の殲滅を計る、それが大陸国家なのである

とにかく東京のような大都会からは文化は生まれない、そこは巨大な胃袋になっているだけなのである
パリの人口でも市内だと300百万くらいであり少ない、だから文化都市でありえた
ヨ−ロッパには東京なような巨大マンモス都市はない
歴史的にも地方都市が繁栄してルネサンスがあった、フィレンツェでもそうである
5,6万しかないとしたら原町とかくらいの人口だったからである
そこからあれだけのものを芸術文化都市になったのである
地方都市の充実がありそこで天才も育まれたのである
ただこれから少子化で人口が日本で減る時東京の人口もへる
すると田舎の地方都市が充実する時代になるかもしれない、江戸時代は江戸があっても
地方がそれぞれに経済でも文化でも育んできたからである
ただ地方といっても大きな地方でなければ今は成り立たない
東北だったら東北政治経済文化圏を作る構想が必要になる
東北という風土と歴史でアイディンティティ化するのである
そうすると精神性が追求できるのである、それを自分は詩とかで追求してきたのである
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ドイツの都市の人口は大きくて300百万人である
後は50万以下が多い
いかに地方都市社会になっているかわかる


いづれにしろ次の時代がどうなるか予測はできない、時代の傾向としてはグロ−バル経済の見直しがありまたもう資本主義が銀行が投資先がなくて破産するとかしきりに言われるようにゆきづまっている
そして日本に成長産業がなくなり農業が見直されているのも時代である
日本の農業は何かきめこまく技術的に優れているからである
だから耕作放棄地がこれから活かされかもしれない、またそうしなければ日本自体が生活すらてきなくなるかもしれない
戦後は引揚者が開墾にいたるところに辺鄙な場所に入った、それは働く場所がなかったからである、でも結果的に半分がつづかずやめたのである
その時高度成長時代になり仕事が増えたからそこに吸収されたのである
原発事故周辺でも街の回りが草ぼうぼうになっている
するとその土地を大規模に利用できる、それで外から農業を始めた若い人がいる
そういうチャンスもは一方で生まれているのである

東京のような大都会では精神性は文化は追求できない、どうして高層ビルとかと精神的に一体化できるのか?建築でもルネサンスのようなラファエロのアテネィの学堂のような壮大な絵巻物は作れないのである
そこにいるのは精神的に高揚された人間がいるのである
東京砂漠には人間はいないのである、ただ経済的単位の数値化した統計化した数量化した人間がいるだけである
宗教はカルト教団であり一票として数として計算されるだけである
そこに一人一人の個性を見ないのである、要するに数としてしか見ていないのである
数が民主主義では権力なるからである
それはすでにギリシャのボリスで始まっていた、世界は数であるという感覚が生まれたのも哲学が生まれたのもそうである
あのようにボリスにしても一二万の規模でもそうなのである
それは貨幣も生れて数量化の思想が生まれたのである、貨幣は人間性を奪ったのである
貨幣が万能になると人間は数量化される運命にすでにそんな古い時代からありそれがグロ−バル経済で極端化したのである

だから次の時代は高度成長とか経済の時代から文化芸術とかの時代である
奈良時代は唐風の文化が入った時代であり次に平安時代がかなを発明して国風文化になり女性が活躍した
次に鎌倉時代になりこれも宗教の分野で仏教は日本化した民衆化した時代であり東国の武士の文化の時代だった
それから戦国時代になり安土桃山時代が国際的な文化があった
そして江戸時代300年がありこれも国風文化であり明治維新でもまた外国文化が入り第二次世界大戦で日本は負けた、それで高度成長時代になり今度はアメリカの物質文化の繁栄の時代なにった
そしてやはり時代のサイクルとして文化の時代、国風文化の時代へ回帰するのが日本の歴史だとなる
明らかなことは文化が華開く時代なことは確かである
つまり高度成長とか経済が繁栄した後に宗教とか思想とか文化芸術の時代になる

みちのくで考えればここも歴史と風土で培われてみちのくになった
関東とは別なの領域なのである
それで平泉の栄があったがこれも三代で短かくして終わった
その繁栄は千年の都の京都とかにはならなかったのである
それがまたみちのく的だとなる

三代に終わる栄やみちのくの枯野のあわれ風唸るかも

旅に病んで夢は枯野をかけめぐるー芭蕉の句はみちのくの枯野だったのだろう
「奥の細道」はまさにみちのくの風土を俳句という短いものに凝縮させたのは驚きであった、そういう俳句は今ではもうできないが何か依然としてみちのくの風土がかもしだすもの歴史がかもしだすものはありつづけている
北海道とみちのくは東北は全く違ったものになっているからだ
北海道はそうした歴史とかないし風土が違っている、むしろ明治以降の開拓の歴史として新天地としてフロンティアとして意識されるのである
アイヌがいたにしても何か北海道の風土は歴史感覚は明治以降に培われたものなのであるただつくづく日本は島国なのだけど多様である
平坦な大地がつづくだけではない、多様な風土に地勢がありあきないとなる
満州のようにな地域はただどこまで言ってもトウモロコシ畑であり汚い大きな川が流れていて何か変化がないのである
だから日本という国は旅するにはいい国だと思う
常に山から海からと変化してゆくからである、だから日本を旅するだけで一生は終わるとなったのである


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2019年12月22日

2020年以降の日本の社会の恐怖 (すでに自分が経験したことだった)


2020年以降の日本の社会の恐怖

(すでに自分が経験したことだった)


2021年 団塊ジュニア世代が50歳に。介護離職が増加
2022年 団塊世代が75歳になり、超高齢化社会が加速
2025年 東京都の人口が減少に転じる。全国で介護職員が37万7千人不足
2026年ごろ 認知症患者が800万人に
2031年 18歳人口が100万人を割り込む。経営が悪化する大学が続出
2035年 日本の人口の4割が60歳以上になる
2040年 自治体の半数が消滅の危機
2040年ごろ 孤独死が年間20万人発生
2053年 日本の人口が1億人を切る
2055年 75歳以上の人口が2446万人に。4人に1人が後期高齢者になる
2056年ごろ 現役世代の社会保障負担が重くなる。海外に移住する若者も
2065年 日本の人口が約8800万人に
(取材をもとに編集部作成)

※週刊朝日  2017年8月4日号

この表で2026年ごろ 認知症患者が800万人に

これも怖い、現実に私の家では自分が重症の認知症患者を介護した、そのことをプログで書いてきた
800万人となればどうなるのか?そこらじゅう徘徊する老人であふれるのか?
認知症の介護は精神的にも相当な負担になる
そして認知症は精神的障害だかさ回りでも援助などしない、馬鹿になったと笑われるだけであり後見人制度も金をとることしか考えないとして問題になっている
つまり金のことがわからない、銀行からも金を下ろせないのだから他人だとそうなる
そして今は近隣の助けは得られない社会である
認知症だけではない精神障害者でも肉体障害者でも一千万とかいる負担も大きい
その息子をかかえた母親は毎日そのことばかりいって心配している
でもすでに50歳近くになっている障害者なのである
障害者は生涯めんどうを見なければならないのである
その負担は並大抵のものではない、最近我が町に立派な障害者用の学校ができたのであるそれも立派なのである
でもその負担も大きいなとつくづく思う

2040年 自治体の半数が消滅の危機

これも原発事故周辺では現実化したのである
避難区域になった所は田畑は草ぼうぼうであり若い世代は流出して帰らないのである
残ったのは老人である、でも小高などでは浪江でも原町が大きいからそこに住んでいる
それで不便は感じないとなる、でも若い世代が住んでいないのだからやがて老人だけになり町自体を維持できなくなる
そしてそういう場所に予算を金をつぎ込んでも無駄だともされる
官僚がジジババしかいない所に金をつぎこんでも無駄といか本音を言ったことでもわかるただいい面として耕作放棄地が全体に広がったためその土地を利用しやすくなって外から来た若者がその土地を手に入れて農業をはじめたとかある

そして農業が次の時代にかえって有望な産業として見られるようになったことである
それは日本の経済がグロ−バル競争に敗れた結果そうなったのである
ただ農業は土地だけあってもできない、人手が必要でありその苦労が並大抵ではない
だから知人の畑ではただその苦労だけを聞いて収穫はゼロだったとなる
それだけ農業は労力も大きい、だから土地だけあっても簡単にはできないのである
農業は親の後継ぐ職業としてあったことでもわかる

ともかく限界集落というとき小さな村だがここでは津波原発以後大きな村でも町でもそうなった、第一津波でぱいくつもの村が消滅したからである
そこはもう人も住んでいないからである
もうこれからは限界集落のようなのが増えてくるしもう今のレベルの生活は無理だから都市部に移れという人もいる、インフラも維持できなくなるからだ
つまり電気すら利用できなくなるかもしれないからだ
そうでも昔なら自給自足で生活していた、その昔には戻れないとなると都市部に移れとなる
そういうふうにこの辺では原町区はもともと5万以上の都市だったから小高の人はそこに住んでいる、浪江の人や双葉でも大熊でも移り住んでいる
とても原発避難区域になったところはもう回復できないようにも思う
最初は回復復興してもらいたいと思ったが今はそれよりもう維持できないとなり
かえって移り住み集約化した方がいいのかともみる
ただそこは限界集落とは違う、浪江でも二万人とか小高でも一万人とか住んでいたのだからそれが全部なくなることはどうなるのか?それが問われる
でも現実的にはすでに原町区に相当数移り住んでいるし帰らないともなっているのだ

2040年ごろ 孤独死が年間20万人発生

ロスジェネ世代も深刻である、結婚しない人が20パーセントとか独身のまま老いるのだが貯えもないから生活保護化するとかなる、でももう国では支援できないとして捨てられるその最後は捨てられて孤独死だとなる
それは自分にも身近である、結婚しない人は頼る人がいないのだから悲惨になる
ロスジェネや非正規とか未婚社会となりこれも深刻なのである
この世代は負の遺産となり社会を圧迫する
団塊の世代も高度成長時代は人口が多くても社会にとってプラスの人口増加だったのである、それが今になると負の遺産になって社会を介護とか認知症とか病人社会になり負担となる
ただ2040年となると団塊の世代でも90歳以上になれば死ぬ人が多くなる
すると団塊の世代の負担はへる、代わりにその子供時代のロスジェネ世代が大負担になってくるのだ
つまりロスジェネ世代が死ぬまで日本は負担に苦しむ社会となる

ただ長期的にみればこれらの負担が消えればどうなるのか?
そこにまた新しい未来が開けるのか?
結局未来はどうなるかわからない、戦後の焼け野原から何もなくなっても戦後は復興したそれは戦争によって負の遺産をかえって一掃して新生日本になったからだったのである
それだけの衝撃があっても復興したということは戦争は日本にとって次の時代を作るのにかえって貢献したとまで長期的にみればなる、全体的に見ればなる
だからかえってもし団塊の世代とかロスジェネ世代でも戦争で戦死するようなことになれば若い人達の負担がなく新生日本が生まれるとまでなる
だから後30年後とか40年後には日本は新生日本として蘇るとなる
ただ未来が予測できないのは必ず不測の事態が国際政治でも自然災害でも起きるから予測できないのである

人生でもみんなそれぞれの一生をふりかえると何か意外な結果だったなとなる
つまり個々人の人生も予測できない、そして結果的に人生でも幸不幸が何だったのかわからなくなる
不幸だと思ったのが実は幸福の基だったとか幸福だったのが災いの基になっていたとかある、まず一生楽な人生などないのである
いくら恵まれていても一生の間には何が起きるかわからないからだ
そして何か損だったのか得だったのかもわからない
ただ戦争時代に生まれ人は損だった、若くして死なねばならなかったからである
ロスジェネ世代も損な世代だったと今では言われる
こういう時代のめぐりあわせはどうにもならないのである
運不運でありどうにもならないのである

いづれにしろ団塊の世代も一つの歴史となってゆく
老人の強みはこうして長い一生をみて歴史をみる、それが若い世代にはできない
つまり人間はいくら本を読んでも知識を積み重ねても経験から学ぶことが一番多いからである
それで何か学問なくても経験した人は肌で知っているのである
学歴よりその人の経験が人を作るのである
それはつまらない経験でもそうなのである、経験が教えることは忘れないのである
私自身はたいした経験をしていない、結局底辺労働者と引きこもりとわずかの教育体験だったとなる、だから経験としては貧弱だったのである
それでも人間はふりかえると経験から学ぶ方が大きいのである

それで50歳でバックパッカーで大失敗したけど海外旅行して良かったとなる
その経験は確実に活きてくる
その時海外旅行しなかったら遂にできなかったともなる
団塊の世代では同世代でも海外経験した人はわずかだろう
そういう時代ではなかったからである
なんであれ経験が人間を作るのであり本だけ読んでは作れない
そこで本を読んでいてもつくづく印や線をびっしり引いてあるのだがほとんど理解していなかったのである、これでもいくら本を読んでも経験に優らないことがわかる
経験したことは体で覚えているからだ、これは外国だけではない日本でも地理をわかるには本を読む前に実地にその地を踏まない限りわからない、日本の場合は隈なく旅行しているから地理を理解したのである

ただ本を読むことが無駄だとはならない、それも後で活きてくる
雑学でもしないよりはした方がいいのである、知識でも経験と合わせて必ず役にたつようになるからである
それでも外国の旅行の本を読んでいるより海外旅行を実地にした方が外国は表面的でもわかる外国は本を読んだだけではわからない、そのことがいかに経験が大事なのか証明しているのである、百聞は一見にしかずなのである、百聞とは外国のことを百回聞いても本で読んでも理解できない、本を読まなくても一回でも外国に行った人の方が知っているのであるだから行動が先で知識や理解は後からついてくるというのが順序なのである

今年も終わりだけど今年は結構youtubeを見た、これも新しいメデアであり知識を得られた
youtubeだと短いにしろ要点がわかる、それで大勢の人に見られるのはテレビに似ている
何かこれからテレビの代わりになるのがyoutubeなのかとなる
テレビはマスコミでありそれが情報を独占したいた時代は終わった
マスコミの力は六局が動画で放送できる権利をもって権力をもったのである
それが個人レベルでもテレビのように放送できることは大きな変化だった
これからはテレビを見ない時代が来る、六局の放送局でも別に安価にyoutubeで放送できる
ただコンテンツを作るのはむずかしい、その能力があればyoutubeでも有料で放送できる
youtubeはまだそうした人材を集めたり特派員をもっていない
それはだけのい収入が得られないからである、でも放送局のように金が入ればそういうことはできるのである

2020年は時代が大きく変化する、区切りよく2020年となり元号も令和に変わったからである
その変化は日本にとっては厳しいものとなる、日本自体はこれから厳しい冬の時代になる
自分自身ももう冬を生きる老人となり過去を回想して引きこもるともなる





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2019年私が選んだサイト お金のために働く人が、「起業家」に向いていないワケ


2019年私が選んだサイト

お金のために働く人が、「起業家」に向いていないワケ

人間はどうしても目の前の利益にとらわれる、これは逃れようがない、なぜなら毎日生活する金が糧がなければ生きていけないからである
するとまずは利益だ、金だとなりブラックにでもなんでもなる
それが現実社会であり甘いことなど言っていられないとなる儲けがなければ客が来なければつぶれてしまうからである

ただこの人の言うようにただ金のためだけではない、もちろん金を得るために働くことはあるが何か仕事にはそれだけのものではないものがある
何でもできる大工さんを見ているとその人は根っからの大工なのである
また庭作りもできる、単なるハウス会社の組み立てやではてい
修理とかもできる大工なのである
だから楽しそうに仕事をしているのである、そして自分で作ったものを誇示する
それは別に奢りでもなんでもない、自分の作ったものに満足している、仕事に満足しているのである
ただその人は実際は大工ではない別なしなくてもいいブラックな仕事をしている
それは本当に金のためだけの仕事である

つまりその人を仕事でも見ている時、金を得ることが仕事ではあることはいなめない
でもその他に何かある、自転車屋ですら何かある、その仕事に誇りをもっている
ただ誇りを持ち過ぎて人との対応が悪くなる、技術屋ならいいが客と対応することで
商売ができない、それは医者だって技術があっても患者と対応することがありにている
駅前で商売しているから街を良くしようとする気持ちがある
ただ駅の見守り役はそういうことがなかった
それは同じ市内でも区域が違ってそうなった、やはりそこに住んでいる人はその住んでいる場所を良くしようとする、同じ市内でも気持ちが違ってくるのだ

経営者にはただ金だけではないものがあってできるというのもわかる
自分は技術者として優秀だから優秀な所をみせてやるとかそんな動機で会社を初めて失敗した人もいた、その動機自体がただ金になり社長として成功したいというだけだったのである
その人は雇われて技術者としてやっていれば何の問題もなかったのである
経営者となると違った動機とか経営理念とかでも必要になる
理系だとそういうことが不得意だともなる、そういう点では文系が経営者に向いているから文系が経営者になっていたのもわかるのである

塾を経営していた人も何か教育などに何の関心もない、生徒を集めて金になればいいというだけである、教育はただ金儲けの手段なのである
自分自身も教育のまねごとをしたが失敗だった
でも何か自分には能力がないにしろ教育を楽しいもの学びを楽しいものにしようする動機があった、だから経営者のように全然動機がない、金だけの動機とは違っていた
ただそれは自分も失敗だった
でも流れ作業しか仕事とししていないものにとってそういう仕事は全く違ったものだったのである、そこにはある程度創造性も発揮できる仕事だった
ただ矛盾は金にならないとかもあり挫折したともなる
自分にとって仕事は流れ作業くらいしか経験していない、だから何でもいいからそれ以外の仕事をしたかったとなるができなかったとなる
それだけの能力もなかったとなる

でも自分は依然としてホームページでもプログでも創造性を追及している
天才でもなんでもないのだけど創造性を追及していることは理解されるだろう
その一つはソフトによる抽象画だったのである
他でもいろいろなことを探求して来た
それは「郷土学」というものである
郷土を一つの全体として多角的に考察してゆく、アイディンティティ化してゆく作業である、いわば今はやりの地域創成学部とでもなる
これは地域全体の学でありまた地域を改善することである
そのささやかなものとして無人駅の案内にかかわった
これも怪しいと疑われただけだったともなるが何かふるさとの一員としてかかわるものだったのである
つまり何か成功するとか金になるとかの前にそうした気持ちが動機が必要になる
それがそこに住んでいれば自ずとそうなるのである

結局あからさまに金だけを求めて経営者になっている人はやはり経営者にふさわしくないとなる                                    

何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。

そうすれば糧は神から与えられるだろうとしている、でも現実世界はまず糧をくださいとなる、それが先だとしているのである、まず金を与えてください、さすれば与えられるとなる
人間の矛盾がここに一番現れている、それはあらゆる仕事でもそういうことで葛藤する
それは本当にみんな働いているとしてそういう問題をかかえているとなる
何を求めるのか神はその心を見ているというとき動機を重んじている
でも現実社会ではまず利益であり金だとなっている
人間はみんなその葛藤で苦しんでいるのである
そのためにこの世ではサタンのささやきが優っているからこの世は腐敗して乱れるのである

特にグロ−バル経済とか資本主義社会では修道院から生まれ動機とまるで正反対になったその求めるものは金だけであり極わずかの国際金融資本家たちに世界の富が吸い上げられる、日本の富もアメリカに吸い上げられる、それが日本貧困になった原因だという人も多いのである
つまり金が利益がまず先だ、そのためには手段を選ぶなとかいうことでサタンのささやきに従ったのが現代のグロ−バル資本主義になった
ガンジーの言う道徳無き経済となってしまったのである


人間はとにかくジキルハイドになる、善と悪との二面性がありアメリカ人がアングロサクソンがその二面性が極端だというのもそのためである
善を言うのだがその善と裏腹に本当にどす黒いものを平気で実行してくる
人をだますのも平気なのである、敵に笑顔を見せてその裏では相手を平気でだまして殺す善悪の二面性が極端なのである
そういう二面性を日本人はなかなか理解できないというとき日本は島国で平和だったからそうなる、熾烈な民族同士の争いを経て来た人たちはそうはならない
契約は正義を実行するためのものでもない、相手をだますものとして法律もある
法律もその利用する人によってどうにでも解釈できるからである

裏を見せ 表を見せて 散るもみじ 良寛

裏表を見せる人はいない、表だけを見せて装う、それが現実の社会であり人なのである
だから人間はその行動だけから判断できないのである
どうしてそういう行動をするのか?それが問題になる
経営でもあからさまに金だけを求める人も多いしそれが現実社会だともなるからだ
まず金をもらわなければ一歩も動かない、何かそういう人は金だけが目的であり仕事そのものをするにふさわしい人ではないだろう
例えばここに倒れた人がいる、その時まず金を出せば助けるでは仕事にならない
まず助ける、そういうことは医療関係者に望まれている
何か仕事というとき金をもらうことはいいとしてその前に仕事そのものに生きがいを見出すことも必要である

それでworkとなっている、仕事は作品なのである
大工が作ったものは本当に作品だった、だからその作品に満足するのである
それは芸術家なら特にそうなる、金が欲しい得るにしてもまず自分が納得いく作品を作りたいのである、その動機も目的もまず金になるのではない、その人の創造性を個性を発揮したものを作りたいとなるのである
ただ仕事でも多様だから本当に好きな仕事をできる人は限られている
でもそういう人が仕事するときいい仕事はできないし社会にとっていいものではないのである、適材適所で働いていたらその社会は活気がありいいものとなっていることは確かなのである
posted by 老鶯 at 09:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2019年12月21日

キャッシュレス社会は避けられない (スーパーのカードを落としたら残金は返ってこない)


キャッシュレス社会は避けられない

(スーパーのカードを落としたら残金は返ってこない)

スーパーのカードをなくしした、そのカードには8000円分くらい残っていたのである
でもその金は返ってこない、でも不思議なのは記録されている
チュージした分とか誰かが拾って使ったらその分が記録される
でも無くすとこのカードのチャージした分が返ってこないのである
これは何かおかしいと思った、他では記録されているからカードをなくしても残った分は使えるというのもあるからだ  

そのカードを誰も使わなかったら得したのはスーパーだとなる
何かこれもおかしいなと思った
残った分の金が記録されていればその残った分の金はまた入金させてそのまま使えれば
カードをなくしても損にはならない、そういう仕組みがないのである
これはキャッシュレス社会になるときおかしいと思った
何か人間は手間をはぶきたい、スーパーでは金を自動入金してお釣りがでるようにしたけどキャッシュレスになればその手間さえ必要なくなると思った
とにかく人間は手間を省きたいのである
コーヒーを入れる機械を買ったがこれさえ水を入れたりめんどうだと思った
そう思うのは自分の場合梶ですることが多すぎて困っていたからである
給仕という仕事があったことを知る、お茶入れが仕事の人がいた
機械化自動化しないとそこで人手が必要となる


カードだと誰々が使った分が何々でいくら払ったとか記録される
通信販売のアマゾンではそういうことでその人自身の買い物からその人の特性を知りうるそれで何かその人にふさわしいものの買い物を提供する
自転車用品を買ったならその方面の商品を提示できる
キャッシュレスの買い物はそういうふうになる
ここのスーパーのカードはそういうものではない、いちいちカードに金をチャージして使う、でもその人の使った分とかは記録されていない、実際は記録していてもカードをなくしたらゼロになりまた新たにカードを買うほかないのである

つまりカードとかネットだとあらゆることが記録されることに強みがある
だから別にカードをなくしてもそこに残った分はまたカードを再発行して使えるようにすればいいとなる、落としたり無くしたり盗まれたりしてもすぐに無効にして残った金額を使えるようにする、ゆうちょでも銀行でもすぐにカードをなくしたら使えないようしているからだ
この点はスーパーのカードは不備であり完全なキャッシュレスとは言えないとなる
ただ趨勢としてはキャッシュレス社会に否が応でも向かっている
その方が便利だからである、そして意外と安全なのである
金を持ち歩く必要もない、カードを持ち歩いても落としても盗まれてもすぐに連絡すれば他の人は使えないし金が盗まれることはなくなる
もちろんそれでも金を盗まれたり何か問題が起きるがその方が全体的に安全になる 

今や金が数字化している、紙幣とかコインは消えるのが趨勢である
それが社会にとって便利だからである、そして意外と安全でもある
老人はなれないとしてもやはりそういう社会に適応する意外生きる道がなくなる
コンピュター化社会は記録社会なのである
コンピュターはあらゆることを記録する能力が抜群なのである
人間は記録することが苦手である、すぐに忘れやすいのである
だから買い物でも何を買ったかいくら買ったとか記録しないと忘れる
でもレジでは自動的に記録されるのである
コンピュター社会は記録社会なのである
逐一買い物しても記録される、道を歩いていても監視カメラが記録している
記録されることからその人を判断できる
だからコインとか紙幣とかが消えてゆく、それが問題あるにしろそういう社会になることはさけられない、なぜなら中国ではそうなっていて世界でそうなっているからそれに通じなければ買い物すらできなくなる
現実にスマホを使えない中国の老人は買い物すらできない、子供とか孫同伴で買い物しているというからだ

例えばブロックチェーンがわからないにしろ互いに記録し合うシステムなのかもしれないコンピュターだと記録しやすいからそうなる
そしてインタ−ネット社会は膨大なものを記録する社会である
ビッグデーターの時代である、そこで知識が情報が爆発的に増える
その情報知識を活用するのが現代の情報社会である
不正があるにしても証拠が必要になる、その書類が問題になる
でも記録されていればそれが証拠になり追求できる
ただコンピュターは簡単に記録でも消されるということがある

でも誰かが別なコンピュターに記録する、他の人も記録する、するとそれが証拠になる
例えば犯罪者でも目撃者が二人いれば有力な証拠になる
でも一人だと間違いがあったするから証拠になりにくい、そういうシステムがコンピュターだと作り安い、証拠というときどうしてその証拠を手に入れるのかそれが最大の問題になる
キャッシュレス社会は情報化社会とインタ−ネットととも連動している、それが社会拡散してきて必然的にそうなったのである
たから楽天とかがキャッシュレスに参加している、スーパーキクチでも楽天のエディとかで支払いできるとかなる
それで自分も検討することになる、ただ自分はスマホをもっていないから不利なのである

いづれにしろ年末に8000円でも損失だった、何か大きな得があったが小さな損が頭に残る百万とかでも失った時、意識しないことがある
だからかえってし大きな金は国の予算などでも相当な無駄が常にある
余りにも額が大きいからその金が無駄に使っても意識できないのである
結局年忘れといっても金のことは忘れられないのが人間だった

年忘れ金のことは忘れざり

ただその金のことを考えて道路で赤信号なのに自転車で渡り危険だった
つまりその金のことよりその金にこだわることがかえって危険だったとなる
命落としたらもともこうもないからだ

元も子もない

〔「元」は元金、「子」は利息の意〕
利益ばかりか元手まで失う。何もかもすっかりなくす

こういう諺にも人間が積み重ねたものとして今も活きているのである

国際金融資本家に強奪される日本の富 (富は紙幣から生まれない、本当の富は神(自然)によってもたらされる)


国際金融資本家に強奪される日本の富

(富は紙幣から生まれない、本当の富は神(自然)によってもたらされる)

人間の価値は多様である、何が価値を生むのか?
農業だと土地が資本にしてもこの土地を活かすことがいかにむずかしいか苦労しているかそれは九州くらいの土地が耕作放棄地になっていることでもわかる
そこには人間の労働が智慧が必要なのである
それを簡単にはできない、そこでノウハウを積み重ねてできる
果樹園でもそうである、果物を作るのに相当なノウハウを積み重ねている
だから農業は家族が継承するのがいいのだがそれもできていない
何かこういう経済危機では農業がいいとしているがこれがそんな簡単なものではない

知人がわずかな畑で苦労していることが書いたがそこに投資しても数十万しても何もとれていないのが現実なのである
活かすべき土地は日本にある、でも活かすことができない、資源となる土地は今はあるがそれができない
農業は機械化しても労働力が一番の問題になる
何かパートのような仕事なら時給で雇うことができる、農業はその土地に根差して長期的にしなければ収穫がないのである
だから農家は農家の家族で継続してやるのが有利になる
ただ他から外国人でも収穫の時など労働力として働かせることはできる
でも基本的に農業は継続しなければ実りはない職業なのである

株の暴落だとかバブルの崩壊だとか預金封鎖とか騒がれる
実際にそういう銀行家が農業をしていたというから農業が見直されるのはこういう時代だからである、金より食料があれば現物が価値になる
戦後の食糧がないときは農家に食料を得るために都会の人は苦労した
高価なものでも食料と交換するほかなくなっていたのである

ただ経済というのは自然災害とは違う、ある程度見通せるものである
それは人間が行っているのであり自然ではない、株価暴落は自然災害ではない
それは国際金融資本家が意図してパブルを作り出してももうけているということがそうである
つまりそういうふうに操作できるものとして株式市場がある
それを操作できるのは国でもない、アメリカでもない、国を越えた国際金融資本家達によってそうさせられる

その国際金融資本達がグロ−バル経済を支配して富を世界から奪っているとなる
それで農林中金がゴールマンサックスとかから投資信託を買わされて破綻するというときそうした日本の金融機関がゆうちょでも地銀でもカモにされて日本人の金が奪われているという、それから年金積立機構も投資して株が下がると莫大な損失になる
日本の金の行き場がなくて投資先がなくてそうした金融資本家達にだまされて買わされて金が奪われているという
ただ人間は目の前の百円だ千円だとかに高いとか安いとか目を奪われる
それで何億とか何兆円とかになるともうその金の流れが目に見えなくなる
それで大金が奪われても庶民などは直接感じない世界なのである
これが江戸時代なら経済でもいくら日本全国になっても目に見えるからわかりやすかったのである

だから現代では常に陰謀論が語られることになる、それは目に見えないし理解できないからである、ただ外資が大量に日本の株を買ったりしてその外資が日本を売りにすると
日本経済ががたがたになる、そういうことを外資が国際金融資本家達が操作する
日本株が上げてもうけてまた株を下げて日本を売りに出す、そして日本はもうもうからないから御用済みだとして見捨てる
そもそもだからグロ−バル経済はまともな経済ではない、それで世界的なリーマンショックとかが起きて来る、今度はその百倍の規模で同じことが起きるとしている

だから一旦グロ−バル経済は破綻すべきでありその後に新たな健全な資本主義なり新たな経済制度なりルールが生まれるとなる
そういう時期に来ている、その時大きな痛みがともなうが暴利をむさぼっていた世界の支配階級がそこで破産とかして格差が解消されるというのは悪いことではない
こんな詐欺なような金融資本主義が破綻して当然だとなるからだ
本当に世界的詐欺商法なのである

いづれにしろ栄を求めることは悪いことではない、でも詐欺的商法で巨額の金を国々から奪うそうした国際金融資本のシステムが一旦破壊してこそ新たな世界が生まれる
そのためにバブルがグロ−バル経済にありそれによって世界が変わる
実質経済と金とが遊離している、実質経済活動より金の量が何倍にも増えているのである今のアベノミックスの株高は政府が日銀が株を買っているためであり操作されたものでありなんら経済が好景気ではない、給料は上がらないし物価はあがる、消費税はあげられる何にも好景気ではないのである、株高があってもそれは一部の富裕層に恩恵があるだけなのである

だから本当の栄とは何なのか?
それは原発事故のことでも書いてきた

御民 ( みたみ ) われ 生ける 験 ( しるし ) あり 天地の栄ゆる時に 遭へらく思へば
(万葉集 6-996 ).

天地が栄えて民が栄える、その天地とは何なのか?
人間の栄はもともと自然なくしてありえないからそうなった
ただあまりにも工業とか科学技術とか金融もそうだが本当の栄からは人間は離れてしまった、それで漁業者が原発に頼り漁業権を売って多額の補償金もらっていて生活していた
それが一挙に崩壊した時、その罪が問われることになった
一匹の魚を一粒の米を野菜でも軽んじると神からの罰を受ける
そういうことに20世紀は科学技術の時代であり無頓着になったのである
つまり富を与えるのは栄を与えるのは神だということにある
人間は富を作り出せない、石油にしても実際は神が人間のために貯えてくれていたものである、それも何億年とかの時間の中で蓄えられていて人間に与えられたのである

いづれにしろ金融資本主義になって金融が富を与えることはない
なぜならドルでも円でも紙幣はしょせん紙にすぎないから紙くずになる運命にある
いくら神を増刷してもそれで世界が豊かにはなれない、ただほんの一部の金融資本家たちに金が奪われているだけだとなる
それは本当の栄ではないから当然バブルになりそうした偽りの道徳無き経済は破綻する
そういうことに神も関与しているともなる
神の理にかなわないものは継続できないのである

2019年12月20日

日本の戦後経済の復興した理由 (預金封鎖が再び来る!)


日本の戦後経済の復興した理由

(預金封鎖が再び来る!)

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第25話・地獄の財産税法預金封鎖と預金税【後編】

これは連載であり長いから読み応えがある
一冊の本と同じである
なぜ戦後復興できたのか?それが今の日本のヒントになる
そういう大改革が痛みがともなってもその後に復興するということを説明している

J-reitを売った、全体的には損しなかった
でも株が倍くらいにあがったからもしその株を売っていたら相当な利益になった
分散投資と言っていたのに銀行員自身がそれを守らなかったのである
自分の都合でノルマのためにJ=REITに回した
だから投資の基本は分散投資だし財産を守るのも分散させることだと思った

なぜなら2020年に預金封鎖とか株価暴落とか悪いことしか専門家が言っていないからだ
中国の経済状況も悪い、アメリカの株価もバブルだし日本でもそうである
めのために何か給料が上がらないのに景気の良さを感じないのに株だけが上がっているのは危険な兆候だとしている
グラフで分析しているから何か納得する

預金封鎖がある!

これが心配になってきたしそれも単なる憶測ではない、専門家がそう言っているからだ
経済は金融のことを知らないと理解できないという

ここのサイトでは経済はエネルギーと金融だという、日本が戦後復活したのはエネルギーとして石炭があり金融政策がうまくいったからだとしている
金は血液と同じでありこれがまわらないと経済は死ぬから金融が要になるとしている
そういうことで国際金融資本家がグロ−バル経済の要にあり富を総取りするようなことが起きていることが納得する
それで銀行はつぶれないとしている、なぜなら国の税金が投入されるからだという
それだけ金融が国家にとっても大事だから銀行を守るといっている

エネルギーが国家を支えるという時イギリスでも炭鉱があり蒸気機関車を発明して運営できた、石炭がなければできなかったからだ
日本でも福島県だと常磐炭鉱が有名である
炭鉱という時何か戦後まもなくはいたるところで炭鉱を探していたのである
私の町でも探していた、それだけ石炭を必要としていたのである
そしてたいがい鉄道は石炭を運ぶものとして開かれた
乗客ではなく石炭を運ぶために開かれたのである、小樽とかもそうである
北海道は石炭のために鉄道が開かれたのが多いのである
乗客を乗せるためのものではなくまず貨物輸送であり石炭を運ぶためだったのである
私の学校時代でも石炭を使ったストーブであり蒸気機関車を利用して学校に通っていたのである

戦後なぜ日本が復興したのか?

それはあらゆるものが焼野原になりそこから新たな再生があった
既得権者が財閥とか地主とかが力を失った、結果的にそこで新しい企業が生まれて活躍して高度成長時代を築いた
農地改革も行われて小作が土地をもてるようになったことも大きい
なぜなら地主と小作の格差が大きかったからである、だから小作の恨みがどこでも大きかったのである、農業は土地が資本だからそもそも土地がないことには豊かにはなれないからである

結局日本の戦後は幸運だったのである
一見最悪の状態だったが復活したのは既得権者が解体されたり政治的にはソ連との冷戦になり共産主義に世界が赤に染められるとしてアメリカが対抗して日本がその防衛の最前線になったためである、政治的に保護されて経済的にも有利に働いたのである
このサイトでは朝鮮戦争の特需で日本経済が復活したのではないというのもそうだったのかとなる

こういう歴史は団塊の世代の親が経験しているから身近なのである
私の母親は原町の原町紡績で10年間糸取りしていた、それから女中として東京で働いた
そこで結婚したのだがその夫は事故で死んだ
その時かなりの額の金を会社からもらった
でも戦争で預金封鎖になり残ったのはその金で故郷に買ったわずかなの土地だけだったのである、その時みんな金をもっていても本当にそれが紙切れになったからである
だから預金封鎖は金がある人にとっては恐怖である

でも預金封鎖が全部悪いというのではない、荒治療だけど効果も大きい
つまり戦後のように大改革になり結果的に格差も解消されるということにもなる
いくら格差を解消しようにも戦後のような荒治療をしなかぎりできない
ただ戦後はそもそもみんな焼野原で何もなくなったのだからそうした荒治療する前に
戦争によって荒治療された状態になっていたからやり安かったのである
反対することもできない状態だったのである

でも今は安定社会であり一億円以上もっている人は相当に不安になる
また反対するだろう、下層階級でも影響が大きい、預金封鎖の結果どうなるか誰もわからない、ただ金を持っている人は持てるがために恐怖になる
金持ちは常に金が減るという恐怖にさらされている、人間の心理として一旦金をもつと減らしたくないのである、それが億とかさらにそれ以上の金でもそういう心理が働くのだ
金はあるはあるでそれが不安の種になる、なければないでまた苦しむ
人間に何であれ完全な安心を得ることはできないのである

とにかく預金封鎖は金持ちにとっては税金が80パーセントとかかけられたりそもそも金が国によって没収されるのだから恐怖である
ただそれによって法外な金を持つ人から金は奪い平均化できる
だから貧乏な層にとっては苦しいにしろ悪いことともならい、何より格差が解消するからである

だからこういうことは世界的にして極端な格差を解消させる、国際金融資本とかから金を奪い貧乏な層に金を回すということで今の資本主義が守るともなる
ベーシックインカムより有効になるのかとも見る
何かそうした荒治療をしないかぎりもうグロ−バル経済は資本主義はもたなくなっているからだ、自由主義でも自由市場にまかせることは限界に来ているのである
もうグロ−バル経済は格差を拡大してとても公平さを保てないのである
すると強権で預金封鎖とかしない限り破綻してゆく
そういう岐路が今来ているのだと思う



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2019年12月19日

岩の具象画をソフトで変化させると原画より良く見えた


岩の具象画をソフトで変化させると原画より良く見えた

When the concrete picture of the rock was changed with software, it looked better than the original picture 

rockppp111.jpg



buidstonee1123.jpg

私は石と岩に興味がある、それでインタ−ネットで検索していたらこの絵があった
これは抽象画ではない、具象画でもソフトで変化させたら変化させた方が原画より良く見えた
これは著作権違反になるにしろソフトで変化させた方がいい絵になっている
こんなこと今までありえなかった
偽作というのはある、でもそれとも違う、かえって原画より良くなっていることはありえなかったからである
だから二次製作でも二次製作の方が優れている
それはコンピュターの技術がもたらしたものである
何か絵をコンピュターで分析する作業ができるようになったし実際にコンピュターが本物の絵からまた新しい絵を作り出しているのも見たからだ
これはただ試しに出して検討してもらいたいからあえて出したのである

I'm interested in rocks and rocks, so when I searched on the internet I found this picture
This is not an abstract picture, but even if it was a concrete picture, if it was changed with software, it would look better than the original picture
This is a picture that should be changed with software even if it violates copyright
This has never been possible
There is a counterfeit, but it is different, because it could never be better than the original.
So even in secondary production, secondary production is better
It is a result of computer technology
I can now analyze some pictures on my computer and see that the computer is actually creating a new picture from the real picture.
This was done just because I just wanted to give it a try and have it considered.

rockpsattern11.jpg


mountainblackkk1.jpg

silvermountain111.jpg

unknownmmmmt111.jpg

Unexplored mountain


東西文明の橋渡し役が日本だった-内村鑑三の言葉 (それは今も変わりない、だから米中の仲介役ともなる)


東西文明の橋渡し役が日本だった-内村鑑三の言葉

(それは今も変わりない、だから米中の仲介役ともなる)

東西両洋の間に介して西を招き、東を弁じ,両者の暴を和らげ,後者の迷を解き二者の配合を計るは日本をおいて他に国民あるを知らず余輩は信ず、泰東の六億の生民は我ら日本人の蹶起活動にうながしつつありと
日本は亜細亜の正門を守の国なり
我らの一挙一動は我らの威厳に関すること多し(内村鑑三)

日本の明治時代はまさにそういう時代だった、西洋文明の挑戦を受けて日本文明が応戦した時代である
東を弁じる、両者の暴を和らげる・・・・とかなるのは何なのか?

そもそも東洋といってもそれが一体何なのか、アジアとは何なのか?
それ自体が大きすぎて不可解になる
ただ歴史を振り返れば日本文明とは何かとなればそこに縄文時代が一万年あったとされるそこでは争いがほとんどなかったとされる

それはなぜなのか?
それは老子のいうように小国寡民が実現されていたからである

小国寡民
什伯(じゅうはく)の器有れども用ゐざらしむ。
民をして死を重んじんて遠く徙(うつ)らざらしめば、舟輿(しゅうよ)有りと雖(いへど)も、之に乗る所無く、甲兵有りと雖も、之を陳(つら)ぬる所無し。

民をして復た縄を結びて之を用ゐ、其の食を甘(うま)しとし、其の服を美とし、其の居に安んじ、其の俗を楽しましめば、隣国相望み、鶏犬の声相聞こゆるも、民老死に至るまで、相往来せざらん。

住居跡などから割り出してみると、日本の人口密度は狩猟採集社会としては、世界一高かったといわれる。ところが縄文時代も晩期に入ると、その人口が一気に減少する。それも26万人の人口が、8万人にまで落ちてしまう急激な減少だった。

その原因が自然災害とかあり食料不足などで急激に減ったのである
それにしてもそんな人口で住んでいたということ自体イメージできないのである
そこでの暮らしが本当に貧しかったのかどうかわからない
例えばそれをイメージすると私の家とか戦後何もない時代があった
その時私の父親はアユ釣りとか鰻釣りをしていてオカズにしていた
その時鰻でも鮎でも御馳走だったのである、それは天然の物でありうまかったのである
鰻釣りは不思議だった、田んぼの畦道の穴に餌をつけた棒をさしこんでとる
そんなとこに鰻がいたのかとなる、今は全くいないからである
今や鮎すらいなくなった、津波以降全くいなくなった
鮎の稚魚は放流したのだが育っていない、ただこれは放射能の影響だけではない
鮎が各地でいなくなっているのである

縄文時代の生活になるとそれを具体的にイメージするのがむずかしくなる
だから謎になる、でも日本全国に20万人くらいしか住んでいなければかえって魚でも鹿でも採集する木の実でも豊富だったとなる
おそらく狩猟採集生活だと移動もしやすい、未開の地がまだまだあったからそこで食料を得られる
人間一番の問題は食料を確保することである、それができれば人間はそんなに争わないとなる
そうして縄文時代が一万年とかつづいたのは争いがなかった
それは自然の理の中に治まっていてそうなったとなる
老子の小国寡民の世界が実現していたのである
もちろんそれが理想社会でもない、ただそんなに長く戦争がなかったということが特筆すべきだとなっていたのである、ただ意外と自然災害に弱いから半分以下に人口が減ったのである

人間が弥生時代になり稲作をはじめたとき争いが始まった
稲作とは土地が必要でありそこに定着する、そこで土地の奪いあいや土地をめぐって争いが起きる、アフガニスタンでは水をめぐって争いが起きて中村哲氏が殺害された
そういう争いが稲作では起きる
それが発展して土地を治める主君が殿様がいて封建時代がはじまったともみる

それは大陸だとなぜあれだけ絶えず戦争がくりかえされたのか?
それはまず食料の確保のためであった
モンゴルなど遊牧民は定期的に食料不足になり農耕民の中国を襲ってくるために万里の長城ができた
歴史を見る時、その生活形態の方が大事である、その生活形態が文化であり文明となる
狩猟採集と漁労と遊牧民(牧畜民)と農耕民がいてその生活形態が違うから対立が生まれた
それで聖書でもカインが野菜を神にささげてアベルは羊をささげた
でも神がよみしたのはアベルだったのである、その理由はともかくここに農耕民と牧畜民が分かれたことを示している
そして遊牧民はモンゴルのように馬を使って大陸を移動して征服する民族に自ずとなったのである

世界を見れば必ず牧畜民がいる、遊牧民がいる、ヨ−ロッパにも今でも羊を飼っている
ヨ−ロッパは最初は狩猟採集民族でも牧畜民、遊牧民が先祖だった
それでドイツ語には秋という言葉がないというとき農耕民だったら収穫するということで秋があるのにない、それは狩猟採集遊牧民であったからだとなる
それを民族にするとアーリア人だとなるが遊牧牧畜民という生活形態をもった人たちのことなのである
なぜアーリア人が野蛮で攻撃的で戦闘を好むというけどモンゴルを見ればわかる
そういう生活形態が自ずと戦争に適したものとなっていたからそうなったのである

農耕民のような特定の村落共同体の帰属意識は小さかった
しかし家畜の群れを統率するリーダーが必要になった、見知らぬ人と出会い、異なる民族と接触する機会が多い牧畜民は不測の事態に守る武器を必要としていた

この遊牧民牧畜民はヨ−ロッパでもアメリカでもその末裔である
なぜなら握手を交わすという習慣があるところは見知らぬ人でも握手することで危険ではないとうことを示すからである
握手という行為は敵ではないですよは相手納得させる儀式でもあったのだ

いずれにしろ日本の文化は歴史は世界と比べると特殊なのである
その特殊性は日本という島国で他国から攻められないとかの地理的なものである
縄文時代一万年が争いがなく、また江戸時代300年も争いがないというとき海に囲まれて守られていたためなのである
だからこういうことは本当に世界では特殊なのである

必ず大陸だと民族が混交してくる、他国から攻めてくる、インドでも原住民のドラビダ族とイスラム系の民族がアーリア人なのか混交してできた
西洋的な顔つきを見ればわかるのである、何か東南アジアは西洋的な顔つきの人がいる
だから東南アジアではいろいろ民族が混交したのである
日本でも縄文時代とかでもいろいろな民族が移動して混交した
でも日本の場合はそうした民族の混交がわからなくなったほど一つの民族化した
すでに縄文時代に縄文人は一つの日本人となっていたのである

東を弁じ,両者の暴を和らげ,後者の迷を解き二者の配合を計るは日本をおいて他に国民あるを知らず

明治維新から今でもその課題は日本にあり日本の使命ともなっている
そして中国人がきて敵の死者まで祀っている、敵味方塚があるのはありえないとししている、中国でも墓を暴いても罰しているからである、攻め立てているからである
こういうことがあるのはまさに日本の歴史と文化なのである
それは日本人同士ならそうなっていたのである
ただ日本人は異民族と熾烈な争いを経験していなかったのである
だから異民族にどう対処していいかわからなかった
そしてなぜ大東亜戦争が起きて300百万人が死んだのか?
そのことが今でも大きな問いとなっている
西洋の暴に対して暴と対処したからなのか?
ガンジーは無暴力で独立を勝ち取った、それはまさに東洋的な平和志向で勝ったとなる

東洋というときインドの仏教とかに発している、ただ宗教というときそれはアジアがオリエントが起源だとなる、イスラエルもアジアだからである
だからキリスト教でもヨ−ロッパがキリスト教国家となったときそれはローマ帝国を経て政治的なものとししての支配体制として組み入れられた
だからその宗教はまた別物だともしている

東洋という時どうしてもインドの思想が基になり中国でも老子とかの思想が東洋的だとなる、それは侵略的暴力的思想ではない、平和志向があり暴で治めるのとは違う世界であるそれを実行したのがガンジーのような人だったのかとなる
大航海時代からヨ−ロッパの暴力的進攻により世界が支配された
その暴力に暴力で対抗したのが太平洋戦争の日本だったともなる
そこでは一億総玉砕の危機にあった
つまり民族殲滅の危機にあった、そういうこと世界史では大陸では起きている
民俗と民族の熾烈な争いが聖書に記されているからである
日本もその熾烈な民族の争いの中にまきこまれたとなる

いづれにしろ内村鑑三は日露戦争は経験している、これには反対していた
これも日本人全部が熱狂していたとき覚めて反対していたのである
その日露戦争の勝利が太平洋戦争にも結びついたとなる
日露戦争もそうだが太平洋戦争で本当に世界史の舞台に登場したのだがそれで民族殲滅の危機にさらされたのである
だから太平洋戦争は世界史として日本を見るべきであり日本がだけから見えないのである世界史的に日本の戦争はどうだったのか、その意義はなんだったのかと問うことになるし世界から問われるのである

日本の歴史文化の特殊性は平和を長く継続していたことにあった
それは島国という環境で育まれた一つの文化だったのである
でも欧米の挑戦を受けて日本は応戦して敗れたのである
ただ内村鑑三が言ったことは今でもそういう立場にあるのだ
なぜなら中国とアメリカが対立するとき日本に仲介を求めるいうのもそうである
日本とはそういう立場にある、アジアでそういう立場に最初から明治からなっていたのである、つまり米中の対立を和らげるのは日本だとなる
両方の暴を治めるのは日本だともなる、それが日本の位置でありさすれば日本は重要な要の位置にある
内村鑑三が言ったことは今は通用しているのである

いづれにしろ世界史は小国寡民の全く逆に進行したのである
それが極点に達したのが第二次世界大戦だったのである、グローバル化だったのである
グローバル化は奨励されいいとされるしそれがなくては世界から取り残されるとなって
日本でも明治維新が起きて西欧化に邁進したのである
でもグローバル化はかえって熾烈な世界戦争に発展したのか?
そして老子の言うような結果になった、2000年前にそれを予言していた驚きである

西欧文明に世界史が席巻されたのが20世紀である
その暴に世界が巻き込まれたのである、日本もその暴にまきこまれて第二次世界大戦に突入した、もしヨ−ロッパ列強がアジアに進出しなかったらこういうことはなかった
アジアは蹂躙されることはなかった、
実際にヨ−ロッパ列強がアジアよ進出しなかったらどうなっていたのか?
別にアジアはアジアで戦争は起こらなかった、現実に江戸時代は中国とも韓国とも友好関係にあったというより没交渉だったからである
それで平和が保たれていたからである
だから世界史的に明治維新でもアジアの歴史でも見直すことが必要になっている

グロ−バル経済とか自由市場とか貿易がいいようにみえてもそれが世界的格差となったり衝突が激化して最終的に戦争で解決するようになる
そして民主主義国家とか国民国家とかの弊害も歴史をふりかえり反省する時代になった
なぜ内村鑑三のような人物が輩出したのか?
それは江戸時代300年で培われた日本の文化がありそれは西欧の挑戦を受けてキリスト教を受け入れた、その基に侍というエリート階級がいて成されたともなる
内村鑑三は幕臣であり明治維新というとき薩摩長州ばかり注目されるけど幕臣も明治維新を推進した人たちだったのである
要するに明治維新から国の指導者に侍はいなくなったというとき何かそれが太平洋戦争で敗北した、またはその戦争自体へ突入することを誤ったとなる
だかか内村鑑三は絶えず薩長政府を批判していたのである
そして日露戦争でも非戦論者になっていたのである





2019年12月18日

買い物でもそれを使いこなすには工夫と知恵が必要


買い物でもそれを使いこなすには工夫と知恵が必要

cyclebag11.jpg

まずヤマハのYPJ-XCk電動自転車を買ったけどこれの弱点は荷物がのせられないことだった
だから近くだといいが原町まで買い物に行くのに不便なのである
またスタンドがないので意外とこれも不便だった

だからこの自転車を利用するのに結構手間だった
なんとか前の方に荷物を入れるもの通販で買った
それでも原町まで買い物に行くと荷物を載せるには限度があった
でもこれだと楽だから行ける

今日が短いから夜になることがある、夜は自転車は相当に危険になる
それでライトがなかったので側溝に転倒した
これは実際は頭を打ったりしたら危険だった
前にも側溝に落ちたりしたから意外と自転車は側溝に落ちることがあり危険である
それも必ず夜なのである

そこでライトがあったがこれが近くの自転車屋では光が弱いのである
それでまたライトを設置するのがめんどうなことがあり
ヘッドライトを買った、1400円でいいものだった
ただ通販でも買い物でぱ失敗する
これは50グラムで軽いから気にならないので良かった、それなりに明るいので安全である、頭に光るので車からも見やすいとなる
自転車のライトというときどうしても自転車につけるものだとばかり思っていた
でもヘッドライトの方が良かったのである
何かこの自転車を利用するにはいろいろ足りないものがあり苦労した
でも楽に走れるのでこれなしでは今は生活に支障をきたすのである
これはマウテンバイクなのだが老人用だったのである
それで同級生の脳卒中になった人も買って喜んでいたことでもわかる
つまり病人にもいい自転車だったのである
老人向きの商品がないというときこれは実際は老人向きだったのである


kameradiji1.jpg

これは薄くて写真もきれいなのだけどもちにくいのとシャッターボタンが小さいから押しにくい

coolpixnikon11.jpg

これはデザインもいいし持ちやすくシャッターボタンも押しやすい
ただ乾電池だけの充電ではだめだった
一長一短はある


それからカメラではソニーのサイバーショットは薄くて軽いしいいものだが
もちにくいのとシャッターボタンが小さすぎるのである
ボタンが小さいから押しにくいのである
それて平板でありもちにくいのである

それでニコンのcoolpixを買った、それは乾電池で使えるものだった
ところがこの乾電池がしょっちゅう切れるので交換しなければならず金がかかるの弱点だった
デザインとボタンは押しやすいから良かった
そして乾電池でも家で充電できるもの両方を備えたものがあることを知った 
外に出るとどうしても電源が切れることがあるのでこれならいいと思った
ただ今回はまたcoolpixを中古で買った
楽天市場とかで安く買えるがセリになるとめんどうだからやめた
ただ7000円というの高いと思った、中古だったもっと安いはずだからである

なにかこうしてカメラにしても買うことがむずかしいし使いこなすのが苦労になる
ましてやパソコンはその物を買っても使いこなす方がむずかしくなる
それでもう金がある老人でも買うことかできても使いこなせないのである
それで中国では二割の老人がスマホ社会化した中で何もできない、IT弱者となり買い物すらできなくなっている、全部スマホで済ます社会になっていたからである
老人は何か物を買っても使いこなせない、だから金があっても買わないとなる
動画になると何かめんどうになり使いにくくなる
それで街の商店ではその使い方とか何かわからないことを教えることで高く売っても売れているというのもわかる
誰も使い方は教えてくれないからである
まずパソコンになると本当に使いこなすことがむずかしくなるからだ

いづれにしろ人間はいくら機械化してもIT化AI化してもそこでたりないものが生まれる

bamboooo11.jpg

手作りの仕事は必ず残る

家の中を棚とか自分で作り改造した、それはその家にあったように作らねばならないからできあがった家具を設置するというわけにはいかない
家具も何か自分なりに使いやすい、その部屋にあったものとなるとないのである
ただ家具などは家でもどういう構造になっているのかわかる
だからある程度日曜大工でできることがある
つまりどうしてもすべてが機械でできあがったもので完成品ではできないことがある
例えば田植えでも機械でするにしても必ず機械でできないも部分が残る
そこは手で田植えしなければならない、それは中国ではコンバインで麦刈りをする
でもコンバインの入れない土地がありそこはやはり出稼ぎの人が人海戦術でしていたのである

それから大工でも何か家のことを細かい所を直したり修理したりする人がいなくなっている
今の大工はただプラモデルのように家を組み立てるだけである
そしたらそこで大工の技はみがけないのである
それで昔は金持ちの家でそういう技術を磨いたというのもわかる
その大工の仕事は名前入りで残っていたりする、百年名家とかの番組で放送している
そういうことで金持ちの役割もあったとなる
なぜなら金持ちの家では大工を雇っていた家もあったからだ
そうなれば十分に工夫もできるとなるからだ
今は大工はもう組み立て屋になってしまって技術自体がみがけないのである

とにかく今は通販があるからいろいろな物は手に入る、でも必ずその物を使いこなすには
その人なりの工夫があって使えるのである
そういうことで必ず人間の仕事がなくなることはないのである





買い物でもそれを使いこなすには工夫と知恵が必要

cyclebag11.jpg

まずヤマハのYPJ-XCk電動自転車を買ったけどこれの弱点は荷物がのせられないことだった
だから近くだといいが原町まで買い物に行くのに不便なのである
またスタンドがないので意外とこれも不便だった

だからこの自転車を利用するのに結構手間だった
なんとか前の方に荷物を入れるもの通販で買った
それでも原町まで買い物に行くと荷物を載せるには限度があった
でもこれだと楽だから行ける

今日が短いから夜になることがある、夜は自転車は相当に危険になる
それでライトがなかったので側溝に転倒した
これは実際は頭を打ったりしたら危険だった
前にも側溝に落ちたりしたから意外と自転車は側溝に落ちることがあり危険である
それも必ず夜なのである

そこでライトがあったがこれが近くの自転車屋では光が弱いのである
それでまたライトを設置するのがめんどうなことがあり
ヘッドライトを買った、1400円でいいものだった
ただ通販でも買い物でぱ失敗する
これは50グラムで軽いから気にならないので良かった、それなりに明るいので安全である、頭に光るので車からも見やすいとなる
自転車のライトというときどうしても自転車につけるものだとばかり思っていた
でもヘッドライトの方が良かったのである
何かこの自転車を利用するにはいろいろ足りないものがあり苦労した
でも楽に走れるのでこれなしでは今は生活に支障をきたすのである
これはマウテンバイクなのだが老人用だったのである
それで同級生の脳卒中になった人も買って喜んでいたことでもわかる
つまり病人にもいい自転車だったのである
老人向きの商品がないというときこれは実際は老人向きだったのである


kameradiji1.jpg

これは薄くて写真もきれいなのだけどもちにくいのとシャッターボタンが小さいから押しにくい

coolpixnikon11.jpg

これはデザインもいいし持ちやすくシャッターボタンも押しやすい
ただ乾電池だけの充電ではだめだった
一長一短はある


それからカメラではソニーのサイバーショットは薄くて軽いしいいものだが
もちにくいのとシャッターボタンが小さすぎるのである
ボタンが小さいから押しにくいのである
それて平板でありもちにくいのである

それでニコンのcoolpixを買った、それは乾電池で使えるものだった
ところがこの乾電池がしょっちゅう切れるので交換しなければならず金がかかるの弱点だった
デザインとボタンは押しやすいから良かった
そして乾電池でも家で充電できるもの両方を備えたものがあることを知った 
外に出るとどうしても電源が切れることがあるのでこれならいいと思った
ただ今回はまたcoolpixを中古で買った
楽天市場とかで安く買えるがセリになるとめんどうだからやめた
ただ7000円というの高いと思った、中古だったもっと安いはずだからである

なにかこうしてカメラにしても買うことがむずかしいし使いこなすのが苦労になる
ましてやパソコンはその物を買っても使いこなす方がむずかしくなる
それでもう金がある老人でも買うことかできても使いこなせないのである
それで中国では二割の老人がスマホ社会化した中で何もできない、IT弱者となり買い物すらできなくなっている、全部スマホで済ます社会になっていたからである
老人は何か物を買っても使いこなせない、だから金があっても買わないとなる
動画になると何かめんどうになり使いにくくなる
それで街の商店ではその使い方とか何かわからないことを教えることで高く売っても売れているというのもわかる
誰も使い方は教えてくれないからである
まずパソコンになると本当に使いこなすことがむずかしくなるからだ

いづれにしろ人間はいくら機械化してもIT化AI化してもそこでたりないものが生まれる

bamboooo11.jpg

手作りの仕事は必ず残る

家の中を棚とか自分で作り改造した、それはその家にあったように作らねばならないからできあがった家具を設置するというわけにはいかない
家具も何か自分なりに使いやすい、その部屋にあったものとなるとないのである
ただ家具などは家でもどういう構造になっているのかわかる
だからある程度日曜大工でできることがある
つまりどうしてもすべてが機械でできあがったもので完成品ではできないことがある
例えば田植えでも機械でするにしても必ず機械でできないも部分が残る
そこは手で田植えしなければならない、それは中国ではコンバインで麦刈りをする
でもコンバインの入れない土地がありそこはやはり出稼ぎの人が人海戦術でしていたのである

それから大工でも何か家のことを細かい所を直したり修理したりする人がいなくなっている
今の大工はただプラモデルのように家を組み立てるだけである
そしたらそこで大工の技はみがけないのである
それで昔は金持ちの家でそういう技術を磨いたというのもわかる
その大工の仕事は名前入りで残っていたりする、百年名家とかの番組で放送している
そういうことで金持ちの役割もあったとなる
なぜなら金持ちの家では大工を雇っていた家もあったからだ
そうなれば十分に工夫もできるとなるからだ
今は大工はもう組み立て屋になってしまって技術自体がみがけないのである

とにかく今は通販があるからいろいろな物は手に入る、でも必ずその物を使いこなすには
その人なりの工夫があって使えるのである
そういうことで必ず人間の仕事がなくなることはないのである




2019年12月17日

死者を愛しつづけることができるのか? [わたしたちは愛においていかに死者を憶(おも)うか(キケルゴ-ルを読む)]


死者を愛しつづけることができるのか?

[わたしたちは愛においていかに死者を憶(おも)うか(キケルゴ-ルを読む)]

●死んでみればどんな人もあっけない

人間は死んでみると実にあっけないことに驚く、生きているときは大騒ぎしても死ぬと全く信じられないほどあっけないことがわかる。灰となり煙となり終わりである。姿も形もなくなる。そしてあとは何もない、沈黙して終わりである。こんなに人間はあっけないのかとあきれるてしまうほどである。認知症になるとまわりに大変な迷惑をかけるが死んでみると全くそれも嘘のようにあっけない、死んでみればどんな人もあっけない、それは地位ある人もみんな同じである。人間の一生なんて大騒ぎしてもこんなにあっけないのかと唖然としてしまう。人生はこんなものなのかとむなしくなってしまうだろう。どんなに生きても人間は死ねばあっけない、この世で功績を残した人でもあっけないのである。そういう点で死は平等なのかもしれない、死はありふれているしどんな人も死ぬ、人間はどんなにがんばってもはかないものだとつくづく思った。そんなはかない人間がこの世でじたばたしてもはかない、むなしいと思う、何にしろしょせん、塵となり煙となるにすぎないではないか、つまり人間はどんなに生きてもどんな人の生も最後はあっけない死で終わりむなしいとなる。この世に受けた生ははかないものでしかすぎなかったのである。また一人死に自分も近い内死んでゆく、それは逃れられない人間の定めである。

だからこそ永遠の命を求める信仰が必要になる。この世限りの生はどんなに生きたってどんな人だってはかなくむなしいのである。死を見ればわかる、あまりにもあっけない、あまりにも無惨だった。人間はどんなにもがいても死ねばはかないもの、あっけないもの、死んだら何にもない、それだけのものにすぎない、あなたが求めていること焦燥していることは実際つまらないことである。最後はみんな塵となり煙になるだけではないか、何を成そうとしてあせるのか?この世にあせって成そうとするようなことはなにもない、結局人間の行き着く先は死なのだから、死の克服がない限りこの世をどう生きようがむなしいとなってしまうのだ。社会をどうのうこうのと言っても結局社会自体は死の問題を解決することはできないのだ。カルト宗教団体は社会改革を目指す、創価なんか特にそうである。宗教とは関係ない、カルトは社会改革を目指し傾向があるのだ。集団化するとそうである。宗教は政治で解決しない問題を追求してきたのである。

●生前と死後の継続

ただまだまだ死んで間もないとあっけない死でもその人を想いつづける日はつづく、新年もまた死者とともに明ける、いくら死があっけなくても死者との思い出はなおつづくのである。死んではじめてその人が自分にとってどうい人だったかわかる、生きているときは意外とわからないのである。60年一緒にいてもわからない、その人が死んだとき本当に痛切にわかることがあるのだ。だから人間の関係は死があっけないにしてもずっとつづいているのだ。死によってその人が自分にとってかけがえのない人だったことを気づくこともある。結局死の残酷さどんなに今や思ってもその人自体には会えないということにあったのだ。夫婦で喧嘩したり親子で喧嘩してもあとで反省して仲直りもできる、でも死んだ人とはできない、その人と永遠に会えないのだから和解もできなくなる。後悔しても相手は死んでいるのだからわかってもらえない、死んだ人と語っても返事がないのだ。だからわかってもらっているのかどうかわからないのだ。

あなたは私に対して介護で冷たかったね、だから呼びかけても返事しないんだよと死んだ人が思っていたら衝撃になる。そういうこともありうるのだ。生前冷たくした人がでは死後はどうなのか?やはりいくら死者に語りかけてもいい返事はかかってこないかもしれない、死者は何も言わないにしろそう語りかける人自体がそう感じてしまうだろう。やはり死者は語らない、返事がないにしろ真心で語りかける必要がある。死んでいる人に自分の心を偽ることはできない、死者は厳粛に見ている、死者に手を合わせることはやはり生きているときとは違う神仏に手を合わせるような気持ちになるからだ。あんたは生きているとき冷たかったね、あなたの心を私は知っているよ、しらじらしいとなる、そう思われたら見抜いているとしたら神仏に手を合わせることはできないだろう。死者は今や介護される必要もない、手をわずらわすこともない、では何を求めているのか?生前から継続する真心を求めているのだろう。あなたは生前良くしてくれたな、私はわかっているよ、ありがとうと感謝の気持ちが死んだ人から伝わるようだったらいい、でも自分にしてもそこまではしていなかった。家に帰りたいと言っても家庭事情でできなかったし病院での介護もそんなにしていないともいえた、ただそういう落ち度があってもわかってくれよなと願っている、認知症になったのだから直ったら事情をわかって感謝もしてくれよなともなる。
いづれにしろ老人の介護は死と結びつくものとしてある。それは介護している人が死んだ時わかるのだ。これは施設でも別に親族でなくても世話した人が死ぬことはやはり厳粛なものであり同じなのである。 山姥伝説は親を蓮台野に捨てたことが基になっているという、捨てた親が山姥となり恐れられた結果だという、これもわからないが人間の心性はそもそも変わらない、伝説も何らか人間の変わらない心性があるからこそ突飛なものでも理解できるのだ。あくまでも人間が作ったものだからである。死者への恐れは共通してあるからだ。

●キケルゴ-ルの死者の対処方法

死者のために声をひそめけ泣け、彼は安らぎに入ったのだから」

ひとは死者を想いつつ声をひそめて泣くべきであり、しかも長い間なくべきである

死者を憶(おも)うことは愛の仕事である。

死者はいかなる仕方でも報いるということをしない

死者はいかなる禍もこうむることがない、しかもこれほど容易にその人の遠ざかることのできる相手をもたない

死者の見開かれた眼をのぞきこんで嘲笑することはできない

私たちは愛において死者を想うことはもっとも信実な愛の行為である

死者を恐れよ、彼の狡猾さを恐れよ、彼の確固たる態度を恐れよ、彼の強さを恐れよ、彼の誇りを恐れよ

たとえ死が私たちの現に見ている人々をわたしたちから引き離すとしても彼らを愛するという義務はなくなりえない、なぜなら義務とは永遠であるからである。

人間が死んでしまうこと、これが何を意味しているのか、一体死者はどうなったのかなど理解することは簡単にできない、死者については霊媒者とかいろいろ語るけどわからない、キケルゴ-ルの言う死者についての話はわかりやすい、インタ-ネットで死別のことでいろいろ語っている人がいる。慰めている人もいる。そういうなかで10年とか20年とか想いつづけている人もいる。そんなに想いつづけられるのか、死者もそれなら幸せだと思ってしまう。たいがい死者とは死んだ時点でも忘れられてしまうことがある。肉親でも死んだら財産の方の話になり金にしか関心がない人も多いのだ。一方で逆にいつまでも死者を想いつづけている人もいる。それでは病気になってしまうという人もいる。確かに延々として死者を想い泣いていたら現在の生活に支障をきたす、もっと現実を生きろとなる。一般に死者を想い続けているのは若いとき死別した人なのである。老人の場合は少ない、天寿を全うしたんだからこの世に未練などないから想いつづけないことがある。これは個別にみんな違っているから外からは計りにくい問題である。死者でも障害者、知的障害者でもいつかは死ぬ、そして認知症になって死ぬ人もこれから多数になる。そういう人もやはり死者はかえって威厳あるものとして生者と向き合うようになるのだろうか?死者は区別がないのだろうか ?生前にノ-ベル賞をもらった人は優秀な人も多々いるし市井に極平凡に掃除婦などとして終った人も多数いる。そういう人も区別なく死者は威厳あり恐れるものとなるのか?死者はそうかもしれない、この死者は特別偉いというのではなくキケルゴ-ルの言っているのは一般的な死者のことである。

いづれにしろ死者はどうしたって忘れられる存在である。そのなかで死者を想いつづける人は相当に死者を愛している人だったとなる。でもそれは生前と関係してそうなっている場合が多い、生前に愛し合わないものが死んでからその人を愛すことがありうるのか、それはなかなかできない、生きているとき、生前愛さない人は死後も愛さないのである。認知症になったとき長年親しんだ人もよりつかなくなった。やはり死後もその人たちは死者を想わない、やはり生前と死後は連続している。認知症になったような人は死後はどうなるのか?回復して正気にもどりまた賢い威厳あるものに戻っているのか?やはり死者には変わりがない、死んでから馬鹿のようには扱えないものになる。死者はみんな厳粛なものになるからだ。死者を嘲笑したりできない、知的障害者でも認知症の人でもそうなる。この人は馬鹿だった、死んでからも馬鹿だとは言えない、死者とはみな平等なのである。

死者の見開かれた眼をのぞきこんで嘲笑することはできない

二カ月間意識失ったとき眼を開くのだがそれが魚の死んだような眼だった。それをみたときまともに見ていられない、気持ち悪いものだった。でも自分は眼を開けと開かせたのである。手も握っていた。手はまだ血が通いあたたかかった。そのあたたかい手をにぎり最後は手は冷たくなり死んでいった。そこまで生きていたし生きる交流はあったのだ。このとき死んでいなくてもその眼をのぞいたときこの言葉を確かに感じた。半場死んでいたのでありその眼を見て嘲笑はできない、半場死人になっていたからだ。死者を誰も笑うことはできないだろう。認知症だと生きていれば馬鹿を言うが死んでしまいば馬鹿なことも何も一切語らないことは他の死者と同じなのである。そこに死者の共通性がある。死者は一切語らない、しかし死者は何も見ていないのか?死者は見ている、まるで外観ではない、神は心を見ているというごとく生者を見ている。それゆえに死者は恐るべきものである。あなたの誠実と不誠実を見ているし知っているとなると偽ることができないとなるとそれは神がみていると同じになる。それゆえに死者を恐れよとなる。 そして生と死が連続したものであるときまた生者も軽んじることはできない、生者も死者になるからである。生者だけを重んじ死者を重んじないまた死者だけを重んじて生者を重んじないということもできないのである。いくら死んだからといって生と死は断絶したものとしてはないからだ
時事問題の深層からの転用です



前のホームページからプログに移した、まとめ作業をしている
それも膨大になるとまとめること自体がいつまでも終らないとまでなる
これが自分自身が書いたのを忘れていたのである
自分が書いても忘れているのが結構あるので読み返しているのである

理系と文系の謎 (経営者が理系が向いているのか?)


理系と文系の謎

(経営者が理系が向いているのか?)

その人は理系である、電気の一級の資格をもっていた、だから建築関係の会社をたちあげた
でもその人は経営者では失格者であった、まず経営するにしてもその動機が
「自分は優秀だから、会社経営も簡単にできる、自分の頭のいいことをみせてやろう」
そんな動機だったのである
そこからして間違っていたのではないか?
その人は別に会社で雇われて理系の技術者として働いていれば問題なかったのである
給料も良くて田舎では恵まれていたのである
とにかく今の社会は電気社会だというとき電気関係で働く人が多いのである
それで原発では事故が起きたとき1000人も電気関係者が働いていたということでもわかる
エネルギーが石炭の時は常磐炭鉱のようにそこで大勢の人が働いていたのである

最近IT社会とかAI社会になるとどうしても理系が重んじられて社長にもなっているというでも何か理系というと機械マニアとかいたりして社会にうといというか無関心になる
だからこそそういう人はそういう人で貴重だと言う人がいる
それこそ日本の製造業を支えているのだという
つまりそれはそれで容認されていいとなる

でも経営となると何か違ってくる、細部の機械の部品に異常にこだわったりしている人が経営者になれるのか?
その人は何か経営者になって人格までおかしくなったのかもしれない
経営者というと商売人でもある、その人はだから何かもう頭に金のこたとしかなくなっていた、商売人になった結果として常に・・・したらいくらだという頭になっていたのである
これが技術者として会社に働いていればそういうことにはならなかった

ただ人間を考えると経営者であり商売人であり技術者であるとか学者であるというのもむずかしいと思う
その人の性向が向き不向きが必ずあるからだ
その良い例が学者が経済学をいくら学んでも会社経営とかなると成功しない
経済学という理論を学んでも社会で実践すると全然違ったものとなるからである
学者が株を実際に投資とかしても成功していないのである
ただ理論家であり実践者ではないのである
政治家と政治理論は別物なのである

人間は本当に向き不向きがある、なぜ関西には商売人とか商売に向いている人が多いのか大阪だとそもそも江戸時代から商売の都市だからそこでそういうエトス{精神的雰囲気)が培われた、だから言葉まで「もうかりまっせか」とか挨拶になっている
それが別に不純でもない、商売自体が悪いということはない
商売はただ相手からだまして奪うというものでもないのである
そんなことしたら商売がうまくいくはずがない、一時的にはうまくいっても長続きはしないのである

だから土地によっては人間に向き不向きが作られる
まず東北人は商売に向いていない、根っからの商売人になれないのである
そしてそうして不向きなことをすると失敗する
東北人に向いているのは農業であり職人とかである、研究者とかにも向いているかもしれない、何か内にこもる仕事に向いている
ただ伊達政宗は商売人でもあったし政治家であり演技者でもあったし文と武にも優れていた、それは例外的存在だったのである
そんな多様なものを持っている人などいないのである
別に東北人でもいろいろな人がいるからそういう人は例外的にはいるのである
もし現代でもこれだけの資質がある政治家がいたら驚きだとなる
今の政治家は何かそんな素養もなにもない、政治家もまた何かそうして政治家として育まれ土壌がないと育たないとなる
今は何でもその土壌が大衆が主役なのだからそこからまともな政治家でも何でも生まれるだろうか?みんな大衆にこびているから低級化してゆくのである

なぜ今まで経営者が文系だったかわかる、理系者は経営者に向いていないのだ
経営は機械とか物だけではない、社会が人が関係してくる
理系だと機械とか物にこだわる、でも社会的役割とかその仕事が社会にどのように影響するかなどトータルに見ることも必要になる
だから本当に原発ほどそういう神のような万能の人でしか経営者になれない、社長になれない、会長にもなれないものだったのである
それが自然に地域にどう影響するかなどトータルに見る目が必要になった
それは歴史も郷土史も関係していた、津波のことなどもしらねばならなかった
ただ東電の関係者は津波が来ると計算していたから理系であって優秀な人が相当数いたのである
それは理系でも機械の一部を詳しく知る人がいたとなる、それはあくまでも一部に詳しい人だったのである
第一吉田所長が肝心の復水器のことを知らなかったのである
要するに原発とかなるともう全体を知る人などいない
するともう人間では運営できないものとなっていたのである
そして事故になり成すすべもなく解決もできなくなったのである

いづれにしろ人間は向き不向きがありあらゆることに通じる人間などいないのである
だから理系の経営者だから成功するとは限らないのである
経営という時国家を経営するということで政治家とかも経営者なのである
国家をどうするのか?国家をどう経営するのか?
それが一部の機械とか一部の物質とか一部分をいくら詳しい人でもできない
でもそんなふうにして国家でも大会社でも経営できる万能な人はいないのである
だから遂には老子のように自然にまかせろとか何もするなとかなる
人間は政治にかかわり結果的に混乱しただけだとなるからだ
中国何千年の歴史は政争の歴史でありそれで膨大な死者が犠牲者が生まれたからそうにもなった
結局国家など誰も運営できない代物だとなったのである

そのことは聖書でも言っている

わたしはわらべを立てて彼らの君とし、みどりごに彼らを治めさせる。イザヤ

なぜこんなことが記されているのか?
みどりごがなぜ治めることができるのか?
結局人間はみんな欲の塊りであり政治家でも欲で動くからそうなる
金で動くからうそうなる、これも逆説なのである
人間が優秀だと思うことは優秀ではないのである
優秀なものはある一面危険になる、人間が優秀だというときある一面に優秀なのでありそれは肯定できる
でも万能ではありえないのである
だから国家とかなると誰も経営できないのである

それで日本では天皇を王としたとき天皇が優秀とか関係ないのである
生まれた結果そうなっているだけである、何かしらの優秀さはあっても神のような人でもなんでもないのである
皇室など見てもあの人どんな優秀さがあるのと見る
ただ天皇家に生まれただけなのである、でもそういう人でも国家運営するとなると有効だとなる

天皇は命令してはならない

天皇は権力をもってはならない

天皇象徴制とはこういうことなのである、天皇に権力がないからこそ治められる
それはみどりこに治めさせよとにているのである
それは実質権力をもって命令できるものとは違うのである
生殺与奪の権利を持つ王とは違っている

つまり天皇は国の中心であり国が乱れる時天皇も二人になった
それが南北朝の熾烈な争いとなり日本が全国が二つに分断されたからである
つまり無能であれ国でも家族でも治める人は必ずしも関係ないとなる
一人の天皇をたてるということが大事になる、二人いると分断されたからである
結局人間は人間を治めることができないのである
それで人間社会は結局破綻する運命にある、日本国内であれ世界であれ誰が治めるのか?
誰も治めることがてきないのである、経営できないのである

2019年12月16日

冬の俳句十句(近辺を回る)

冬の俳句十句(近辺を回る)

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葉牡丹の畑に蔵や陽の没りぬ

誰が眠る桜井古墳や冬深む

冬の日に老人植える桜かな

古社一つ参る人無く木守神

奥の方冬田わずかに籠るかな

冬たんぽぽ我は恵まれ生きるかな

故郷に墓守り我や年暮れむ

墓地近く母の命日冬椿    

街の墓地日々通りて冬椿

冬の菊母の命日墓に挿す

我が一人家を守るや冬紅葉  


新田川に白鳥が二十羽くらい来ていた、そこで土手は広く桜の木を植えていた
市の方で植えた、でもそれが成長する日は死んでいるとなる
この辺では白鳥は今年は見かけない、前は真野川で餌やたしていたから来ていた
今はしていないから来ない、やはり餌やるのがめんどうになる
猫一匹でも餌やるのが手間になる

近くの墓地はいつ、もの通り道である、
そこの脇に公園があり椿が咲いている、冬椿というとき寒椿とは違う
でも今日は寒かった、寒椿は最も寒い時の椿となる
近くにあるということは何かそこに死者もいつもいるという感じになる、墓ですら離れると日々に疎しとなってしまうのである  

母の命日は12日だった、師走に死んだのがふさわしいとなる
なぜなら暇なく働いた人だったからである、93歳頃まで家事もしていたからである
それで認知症にならなかったともなる

人間はだからつくづく皮肉である、そんなに働かせられるのは嫌だと普通はなるが
全然働かない人がぼけやすいのである
それは笑いごとではなく怖いことなのである
奇妙だけど主人がいて召使がいて主人がもし何もしないで召使になんでもさはていると
主人がぼけて召使はボケないとなる
このように人間は召使が不幸だと思っても必ずしもそうともならないのが不思議である

昨日は冬タンポポが二三輪咲いていた、だからあたたかいと思った
浜通りでぱ冬でもあたたかいときがある、今年は暖冬気味だから咲いていたと見ていた
でも今日は寒いのである
家族で自分だけが一人残ったが自分は恵まれていたとなる、それで最後に残ったのが自分だったとはなる