2020年02月10日

城の俳句十句(城が意味するものー時代を知らないと見えない)


城の俳句十句(城が意味するものー時代を知らないと見えない)


白壁に栄し城や春日影

天主閣人ににぎわう花の城

(二本松)

落椿井戸の深くも霞城
                    
(白石城)

山吹や流れ清らか武家屋敷

(青葉城)

石垣の反りに清流燕来る        
          
(相馬藩中村城)

落葉踏み六万石や城の跡

侍の忠義の城や冬の松

松の映え侍参ず冬の城     

侍や忠義に死にぬ冬の城

(盛岡城)

池氷り松数本の城の跡

晩秋や古木に映えぬ熊本城

(弘前城)

門古りて古木の梅や堀凍る


城を見る時、その時代背景を知らない限り城を見ることができない
つまりただの建物にすぎないとなるからだ
建築でもその時代精神が凝縮されたものとしてあり人間精神が表象されたものとして意味がある
それはエジプトのピラミッドでもそうでありそれは王の墓ではないというときただ民衆が圧制のために奴隷とされて作られた物とは違っていた
これもその時代を知らないからそうなるのである
時代とは全体のことであり時代が過ぎると一つの物から一つの建物でも残した遺物から見る、時代全体を見ることができなくなる
そこに誤解が生まれる
またその時代に生きるものはその時代がいかなるものかわからないことがある

それで城とは何なのかという時、城を中心に社会が形成されていた
武士を中心にして当時の社会があった、確かに町人がいて職人がいて住む場所が分かれていた、でも武士がモラルを示す模範を示すものとしてあった
それで丁稚奉公とかも武士のモラルに習って主従関係を築いていた
それが今になると近代化すると何か丁稚はただ働きさせられていたとかなる
でも当時の社会はそういう社会でありその社会がわからなくなったからそういうのである
江戸時代でも武士道があれば町人道があり職人道があり農民道があった
農民道となると百姓道となると二宮尊徳が唱えた道なのである
現代の索漠とした状態はなぜ起きているのか?
いかなる道もない、あるのは金銭道しかないのである
人は人ではない、人としても見られない、金で使われる道具と化している
時給いくらというのがまさにそうである、人間が金によって切り売りされる
人間を人間として見ないのである
だから今こそ人間は奴隷労働されていたと後の時代の人は見るかもしれないのだ

とにかく武士道には主従関係があり鎌倉の東国武士が強かったのは主従関係だとしているそれは金銭抜きの生死をともにする強固な主従関係があったから強かったとしている
ゲルマン民族にもそうした強固な人的結合がありそれで退廃したローマに対抗できたとしている

いづれにしろ江戸時代が明治になってその社会のことがわからなくなった
でも150年過ぎて城は残っているから城をみる
でもその背景となる社会がわからないから実は城もその社会背景から社会の一部としてあったのだからその全体から見ることができないのである
ただ城は当時も一番目立っているから社会の中枢機関としてモラルを象徴するものとしてあった
キリスト教会の大聖堂があったと同じである

自然でも歴史的遺物でもそれを美的な観点から見るだけではない、それを人間の徳とかモラルの反映として見る、侍だったら城が教会のようなものであり一つの焦点としてあったそれは単なる建物ではない、だからこそ会津の白虎隊が城が燃えたと見て自刀したのである、それほど城が精神的物質的でも象徴的存在だったからそうなった
物質的なものより精神的象徴だったのである
今の時代にそうした精神的象徴となる建築物がない、会社のビルはただ金儲けのビジネスだけの建物だともなる、そこに精神的象徴するものはない
それがどこにも本当にない、世界でもニューヨークの株式市場が世界の中心だとして
何かそこに精神的象徴ではない、ただ金が右から左に流れる博打場なのかともなるからだカジノのようにもなっているからだ

城と松がにあうというとき松は忠義を示しているとかなる、自然でも岩とか石は誠実とか正直とかを示している、江戸時代の三百年間はそうして精神的象徴として城と松があり
忠義として立ち続けていたのである
ただ美的には大阪城とか姫路城とか西は栄えたから春にはそれを特別感じるのは歴史があるためである、東北では感じにくいからである
それだけの栄がなかったからである
大阪城に夕日が映えて散る桜の光景は忘れられない、それだけ歴史を反映しているから
自然が歴史によって色づけられているから違って見えたのである
それは京都の桜でも千年の都に咲く桜だから違って見えたのである

今はこうして旅したことをふりかえり思い出して深化して俳句でも短歌でも詩でも作る
それが冬にふさわしいのである
ただ京都となると冬には行っていない、春と夏と秋には行っている
城でもまだ見てない城がある、それだけ日本には城が多いのである

冬の城

白壁に忠節の松
武士は襟を正して登城す
主君にまみえて忠義の心
侍は下々も正して
町は一つに成りぬれ
冬の月皓皓と照らして
静まり治まる城下町かな

冬の城というのが何かいい、冬は精神がひきしまるからである
冬は春夏秋冬で違ってい見えるのである
ただなぜか江戸城というときそれが何も感じないのはなぜなのか?
東京に行っても江戸時代を感じないのである
それだけあまりにも百万都市の江戸が変わりすぎてしまったからである
この辺でも津波で松原が根こそぎ流されて失った時、その跡はソーラーパネルになりとても松原のことを思い出せないとにている
江戸城があったということは何かイメーでできないのである

科学技術にたよる権力の文明の崩壊 (中国の習近平体制も同じように崩壊してゆく)


科学技術にたよる権力の文明の崩壊

(中国の習近平体制も同じように崩壊してゆく)


チェルノブエリ原発事故→ソビエト連邦崩壊

福島原発事故→日本の安全神話崩壊

中国のコロナウィルス→中国習近平体制崩壊

これらに共通性があるとしたらやはり科学技術と関連していた
コロナウィルスでもこれも秘密裡に開発された生物兵器だともしている
それが放射能のようにもれて大惨事となった
現代が科学技術の時代だというとき密接政治でも経済でも科学技術と結びつく
そこで科学技術の問題から政治に影響して崩壊する
科学技術と一体化して権力が維持されているからそうなる

それを象徴していたのがオウムだった
オウムは仏教の信仰団体であってもカルトでありサリンとか生物兵器を作っていた
つまり科学技術と結びついて権力をもちオウム王国を作ろうとしていた
つまり現代は科学技術無しでは権力を維持できないのである
そのオウムを拡大化したのが国家になっている
現実にサリンという科学兵器を生物兵器でも開発していたからである
それを国家規模でしていたのが今の世界である
コロナウィルスが中国の武漢の生物研究所からもれたというのもそうである
そこから習きんぺい一党独裁が崩壊するという時も科学技術と結びついているから
それがつまづくと政権自体が崩壊する

そもそも科学技術がテクノクラート支配が社会にあった
鉄が発明されると鉄を得るものが武器を作りまた鉄器でも作り農業生産が飛躍的に増大する、すると国家も巨大化してゆく
夜郎自大というとき夜朗国は青銅器であり漢は鉄器の刀でありそれで技術の差で滅ぼされた
そういう技術の差で世界の国々の興亡がある、そういうことは人間の歴史が始まって以来あったことである 
他方、鎌倉時代なのか鍬でも堅い木が必要であり樫(かし)の木を柄にしてそれで生産力をあげて地主から解放されたということもある、それで樫という姓が生まれたというのは興味深い

科学技術の崩壊が国の崩壊になる、科学技術が権力を維持するには不可欠である
太陽の運行を知ることなどが歴が支配するために不可欠だというのもそのためである
元号が天皇によって定められるのはまさにそうである
天候を知ることは農業で不可欠でありそれを知ることが国を治めることだとなる
それが崩壊するとマヤ文明のようにやはり文明自体が崩壊する
何か迷信化して人類の滅びる日まで割り出していたのである
それはまさにカルト宗教のようになっていたのである
そうしてマヤ文明はジャングルに捨てられたのである

原発事故でも安全神話を作り権力が維持された
それが津波と地震で崩壊した、その後遺症は甚大だった
未だに回復できない、まるでバベルの塔の崩壊のようにそこに住んでいる人たちはばらばらになって住めなくなった
補償金でもめたし互いに意思疎通もできなくなった
言葉が通じなくなったということにも似ている
つまり科学技術はバベルの塔でもあった
人間は神に成ろうとするのが科学技術でありそれが崩壊したのである

中国はコロナウィルスで自ら製造したのか、生物兵器なのかそれで習近平体制は崩壊してゆく
何かそういう法則が歴史にある、科学技術は万能ではないからいつかそうなる
つまり文明自体が必ずいつか崩壊する
AIに頼ってもそれもまた何かで崩壊する、機能しなくなりコンピューター文明自体が崩壊してゆく
人間は科学技術もカルマでありそのカルマを背負っていてそれで文明は崩壊する
のような過酷な罰を受ける定めにある
カルマは個々人も受けるが国全体とか文明とか世界でも受けるのである
どうしてもそこに人間の力の限界があり必然的にそうなる
もし神のように万能だったらそうはならないからだ 
つまり歴史にも何らか法則性がある、法則性とはカルマのことなのである
それは繰り返して起きてくるからである、自然災害でも法則性がありそれがカルマなのである
だからこの法則性をカルマを知ることが歴史でも必要なのである

とにかく福島の原発事故の時、あれはオウムだと騒いだ
つまりオウムを大規模化したのが国家であり国家自体がオウムだったのである
それは中国でも同じでありアメリカでも現代の国家は同じである
だからつくづくオウムというのは理解できない、奇怪なものとしていたがそれを大規模化したのが現代の国家だったのである
だから別にそうみれば奇怪なもの、理解できないものではなかったとなる
そういう極端な団体が生まれたのは現代文明から生まれた必然だったともなる
なぜなら現代の国家自体がオウムになっていたからである

















posted by 老鶯 at 11:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層