2020年04月30日

八重桜(桜散る後にほのぼのと咲く)


八重桜(桜散る後にほのぼのと咲く)


赤々と内よりあたたか八重桜

八重桜母のごとしかほのぼのと

八重桜咲きつづく道走り行く

八重桜に菜の花映えて田舎かな
                                                    

山桜あらかた散りぬなお風の荒しも今日もやまざりしかも


桜は散った、その後に必ず八重桜が咲く、それが季節の変化になる
桜と八重桜は相当違っている、桜は咲いたらすでに散ることを予感する
でも八重桜は散るという花ではない、何か桜があわただしく散った後に落ち着いて咲く
八重桜はなにか内からあたたかさを感じる
また母と言うだけではなく女性的な母性的な何かを感じる
だから桜と八重桜はまるで違ったものである
田舎だと菜の花に似合う花だとなる
だから八重桜も好きなのである、とにかくこれからはいろいろな花の咲く季節である

花でも自然に融合するには自然を見るにはじかに人間に接することが必要になる
自転車だと例えば山を見るにしても徐々に山に近づき大きく見えて来るとか見え方が違うのである、車だとなにか景色でも見え方が違う、だから自然にふれるには歩くか自転車がいいとなる
八重桜をが咲きつづいているところを車で走るのと歩くのと自転車で行くのでは感じ方が違うのである
それで車とういのは人間から本来の感性を奪ったともなる
それは電車とかでも言えるのである、それに気づいたのは常磐線でどれだけ仙台に通ったか?でも山元町の海岸線を自転車で行って蔵王を見たとき全然違っていた
電車で見るのとは全然違っていた、徐々に大きく迫るように見えたからである
電車の中だらぼつんとしか見えなかったのである

人間は車が走っていることに感じない、ただ物体が過ぎ去るという感じになる
ところが不思議に一人の少年が走っていた、赤いつつじが咲いて少年が走っている
芽吹きの季節でもあり何か少年が未来に向かって走っているという感じになる
車だったら第一その人が見えないからそういうことを感じないのである
車社会はだから便利にしても人間的なものを奪ったのである

それで変なのだけど自転車を乗っている人とは誰でも気軽に話し合う、でも車に乗る人とはほとんど話しないのである、車に乗っている人は車の中に閉ざされている
自転車だと姿が見えるから話し合いやすいのである
ただ自分自身は車をもっていないのだから車がどういうものかわからないのである
でも正直私は車が嫌いなのである、だからコロナウィルスで車が道路から極端に減少した時、交通事故もなくなり空気もきれいになったということがあり何か車の無い社会を見直すことにもなった

結局なにかと自分は現代社会に適応できないかった、学校からして適応できなかった
もちろん会社とか社会にも適応できなかった
それを一番象徴していたのは車に乗らないということだったのである
まず自分は車を運転できない、常によそ見しているから自然を見ているから事故になるからだ
ただこういう生活ができたのも別に生活に追われることがなかったからだ
だから常に自分は親に感謝しているのである
今の社会に適応できなくても引きこもりでも自由に旅しても何もとがめられることがなかったからだ、それも60までそうだったのである
何か普通の家族ではなかったにしろ自分にとっていい家族であり楽できたのである
それで人間は育つ家族の影響が大きいと思った
人間は育つ家族の環境でその人生が左右されることが多いのである

山桜もあらかたは散った、でも風が今日も荒いのである、何か今になって風が毎日吹いている、東風が吹いている、普通の桜が咲いてから風が吹いてまだ風が吹いて山桜に吹きつけている
それで落ち着かないともなる、それはコロナウィルス騒ぎが収まらないということで余計にそれを感じてしまうのである

2020年04月29日

なぜコロナウィルスでも判断を誤るのか? (一つのことに頭が占領されるて他のことが考えられない)


なぜコロナウィルスでも判断を誤るのか?

(一つのことに頭が占領されるて他のことが考えられない)

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今回のコロナウィルスでなぜ阿部首相とか日本の政府関係者が判断を誤ったのか?

●緊急事態に対応できない

●コロナウィルスが未知だったから

●頭が一つのことオリッピックのことに占領されていた

こういうことになる、人間は緊急事態とか未知なものに弱いのである
ここですでに判断を誤る、つまりまず緊急事態に冷静でありえない、また未知なものを恐れる、未知なる故にどう対処していいかわからない

そういうことを自分自身が経験して来た
家族が認知症になったときそれが何なのかわからないから怖かった
一瞬狂気になったのかとなり怖かった
それは全く認知症というのが何かわからなかったからである
少しでも認知症について知っていれば対処の仕方があった
でもわからないからただ戸惑うばかりだったとなる

でも相手の目をみて冷静にさせろとかインタ−ネットで書いてあってそれをすぐに実行した、水やお茶を飲ませて落ち着かせろとか書いてあったからである
その後認知症がどういう病気なのかかなり理解するようになり恐れなくなった
これは必ずしも狂気というのではなく正気の面がかなりある病気だと思うようになった
意思疎通はできる、これまでの長い時間を共にしたことで理解し合っている
そういうことがわかり安心したとはなった
つまり最初突然未知のものとして襲われる、次にだんだん理解して既知のものとなるとき恐れることも狼狽することもなくなる

コロナウィルスも同じなのである、他のこれまでの伝染病でもそうである
最初は何かわからないから怖がるのである
でもそれが科学的にわかってくると病気について理解すると恐れなくなる
そしてワクチンとかができるともう何も恐れる必要がなくなる
人間の歴史とは伝染病でもそうだが常に未知との戦いであった
何か未知なものがありそれに対処できない、でもだんだんその正体が判明すると既知となり恐れる必要がなくなる
コロナウィルスが今恐怖なのは未知だからである
いろいろ専門家が言うにしても本当の正体がわからないしワクチンもできないからである
またなぜ人間は判断が誤るのか?

それはコロナウィルスというとき突然襲いかかってくる、その時阿部首相の頭にあったのはオリンピックのことである、これに頭が占領されていたのである
だからオリッピックの成功のみが優先的になり頭がそのことに占領されていた
するとコロナウィルスがでてきても即座に対応できない
なぜならオリッピックが頭を占領しているからコロナウィルスのことは後回しになる
その時時遅しともなっていたのである
中国人とか外国人の入国を早く止める決断をしなければならなかったができなかった
それは中国人の習近平の日本訪問とかもしり中国に忖度したからである
つまり人間は簡単に頭を切り替えられないのである

人間が判断を誤るという時必ず頭が一つのことに目前のことに占領されて別なことに対応できなくなる、それが人間の弱点である
ある人は事業で失敗したから頭が借金のことしかない
するとそこに苦しみ困っている人がいてもその人の頭は借金を返すことしかない
するといくら苦しみ困っている人がいても無関心になる
実はその苦しみ困っている人は金をもっていたからもし世話したらそれなりのお礼が金銭的にもあったとなる
でも今金が欲しい、借金を返さねばならないとしてその人のしていたことはバチンコ屋の掃除の仕事をすることだった
苦しんでいる困っている人のことなどに頭が回らなかったのである
その苦しんでいる困っている人とは自分のことだったのである
つまり頭が借金を返すことに占領されて他人の苦しみも何も関心がないのである
でもふりかえれば実はパチンコ屋で働いてもそれほど金にはならなかったのである
むしろ金をもっている人を助ける工夫をした方があとで金になったともなる
ただ頭が今借金を返さねばならないと一杯になっいいるからそんな先のことは判断できない、要するに人間は今のことにとらわれる、でも先のことも考慮しなければならないのだができないのである、すべてが今に集中されるからである

コロナウィルスは危機であるパチンコ屋のことを述べたがなぜ原発事故で避難した人たちがパチンコ屋に入りびたりになっていたのか?
何もすることがなくそうなった、でも他の人たちはボランティアでも働いていたのであるでも避難した人たちは何もせずギャンブルに興じていんたのである
これも何か判断を誤ったとなる、何かすべきことがっあってもしなかった
それが最初はしょうがいなにしても5年とかつづいたのである
しかしそのことで責められることはなかった、なぜなら被害者だということで責められなかった、NHKでもマスコミでもかわいそうな被害者として常に応援してきたからである
マスコミは現代では判断を誤らせる

マスコミの力が大きすぎるからである、NHKが言っていることがまるで法律のようにもなっているからだ

ただ正直人間は必ずこうして頭が一つのことに占領されたら他のことに頭が回らなくなるそれはみんな経験していることだからなかなか責められない
そういうことは個々人でもり会社とか組織とか団体とか大きくは国家とかでも常にある
だから国家的にも必ず判断が誤るのである
日本の戦争でも真珠湾を攻撃したら奇襲したらアメリカも日本を恐れて攻めてこないとかとなり判断した
でも戦争は実際は長くつづき圧倒的に力の差があったアメリカに反撃されたのである

ただどうしてそういう判断になったのか? 

結局経済封鎖とかで追い詰められたからイチカバチカの賭けに出たのかもしれない
だから経済封鎖とかで追い詰められると判断をやはり誤る
人間は追い詰められるとみんな判断を誤る、もう冷静に考えることもできなくなっているからだ、だから借金した人は判断を誤り安いとなる

いづれにしろ人間は必ず個々人でも集団でも判断を迫れる
その判断が誤るのは最初にあげた三つのことで誤り安いのである

オリンピックだ、習近平の日本訪問だ

それが頭を占領しているとき突然コロナウィルスが襲いかかってくる
そのために水際作戦も遅れた、今解明されつつあるのが実は中国からではない
ヨ−ロッパ型に変異したコロナウィルスが日本に蔓延しているという
だからこれもいかにグロ−バル化してこうなっているかわかる
普通は武漢型のコロナウィルスだと思うが実はヨ−ロッパで変異したものが日本で流行しているウィルスだというのである
その時ヨ−ロッパからも日本人が帰ってきていてそれが広がったとなる
このようにグロ−バル社会になると複雑に世界が関係してくる

それは国際関係でもなんでもそうである、交通が発達すると昔のように時間差もなくなる世界同時にウィルスでも伝染するしとめられないのである
また情報でもフィクニュースでも世界中にたちまち拡散するのである
それでマクルハーンが世界は村となったというとき情報ではそうなる
世界は村でありその情報は村人に伝わるようにたちまち伝染するともなる
それでアメリカとイラクの戦争で油まみれの海鳥がテレビに写されたときイラクはひどい国だとして世界中の人にすりこまれたのである
テレビではそういう効果がある、映像の力で世界が支配されるともなる
そこに時間差がないから情報の力が極大化したのである


posted by 天華 at 17:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

東京との関係は戦前から深かった (福島原発もその延長上に作られた―地理が歴史を作る)


東京との関係は戦前から深かった

(福島原発もその延長上に作られた―地理が歴史を作る) 

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浪江葛尾村森林鉄道

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歴史をみるときいろいろな視点がある、人間の活動は多様だからである
グローバルな視点でみれば世界史を見なければわからない、これも容易ではない
でも現代をみるとき欠かせない、自分の国を見るには他国と比較しないとわからないからだ
では世界史をどう理解するかとなると難題になる
ただ項目的に一つの視点から見ることがわかりやすい

●交通の発達、移動の視点

交通の発達という時、常にそれが世界を変えたということである
それは交通するのが徒歩から牛から馬から馬車から鉄道から車から飛行機へと変わったことでわかりやすい、つまり徒歩社会から馬社会から鉄道社会から車社会へと変化したということになる、つまり交通の手段が発達が社会を変えたということである

江戸時代は確かに馬が利用されていても実質は徒歩社会である
歩いて異動しているのが主だった、だから今でも理解できないのはどうして歩いて荷物を運んでいたのかとなる、天秤棒で担いで歩いていたとなるが長距離でそんなことができるのか?
何か近くの人が川俣まで鰻売りに天秤棒担いで行ったという
川俣は絹織物で有名で金持ちがいたとなる
でも今でも八木沢峠をみればわかる、あの峠を天秤棒担いで越えられるのかとなる
そこからして移動すること自体がいかに難儀なものか知る
だから今になるとイメージするのがむずかしくなっているのだ

ただ近くの人が鹿島の横手辺りから相馬市まで梨売りにリヤカーで行ったというのを聞いた、それだって15キロくらいあるとして大変な労働となっていた
馬車があったからそれも利用していたことは確かである
それにしても馬車だって相当に時間を労力がかかるのである
つまり明治時代でも移動して運ぶことはいかに容易なことではなかったかを示している

移動できないことから何か起きていたか?飯館村とか何か不便な地域だとどうなったのか医者に行くにも距離があり行けない、そこで何か危急の病気にかかれば救急車も呼べないだから死ぬほかなかったということである
何か北海道の雄冬という地域で赤ん坊が病気になり医者に行こうとしておんぶして運んでいる途中に死んだとかあった
それはその時用意に移動できないからである

移動するということから社会をみれば社会が歴史が見える
福島県でも意外と東京との関係が深いのである、それは戦前からそうである
それは鉄道が深く関係していたのである
常磐炭田の石炭は最初船で東京に運ばれていた、その港が小名浜だった
次に鉄道ができて平駅が機関区となり石炭が東京に運ばれた
それから木材とか石材も運ばれた、鉄道は人間を客を運ぶために使われたのではない
最初は物資を運ぶためである、それで森林鉄道が日本に隈なく発達した

驚くのは浪江の高瀬川とかの岩盤を掘って線路が作られていた、葛尾村まで森林鉄道ができていた、森林鉄道は日本を毛細血管のように網の目のように作られてたいのであるそれは木材を運ぶためだったのである
だから山村というとき今は活気がないが昔はあった
昔は山持ちが金持ちになっていた、木材資源をもつことは金持ちになることだった
それで大倉のばあさんが私は相馬の女学校に行っていた、それは鹿島の親戚の家から鉄道で相馬市へ前の中村市へ通っていた
相馬女学校というという本当に極わずかの金持ちの家しか入れなかったのである
それで私の姉は頭が良かったので女学校に入れないことを悔しがっていたのである
つまり相馬女学校に入れたというだけで女性では別格になっていたのである

ただ不思議なのは戦前でも東京との行き来が結構あった、私の姉は看護婦の免許をとるために新宿辺りに一時行っていた、つまり東京まで行かないと免許がとれないとなっていた看護婦になるにもその当時は近くでなれないともなっていた
それから私の母の実家の姉は家が破産して東京に横浜に出て行った
それから私の母も東京に出て女中になり東京の人と結婚したのである
それから近くの人に聞いた話では私は東条英機を見たことがある、車に乗ったのを見たという人がいた、その人も東京の工場で働いていた
つまり戦前というと東京まででも蒸気機関車であり東京まで8時間とかかかった時代がある、そうなると東京に行くということは一大事になる
遠い世界に行くことになっていた、でも東京とのかかわりその当時でも深かったのである家族でも明治生まれの父だけが葛尾村から双葉町の新山で酒屋の丁稚になり東京とは関係していないだけである

その後も戦後も東京との関係が深い、なぜなら全国的にも出稼ぎ時代があり東京に出稼ぎに出る人が多かったからだ、また中卒の集団就職時代であり東京に労働力が吸収されたのである
だから私の家族では父親しか東京と関係していないだけだった
私自身も東京の大学に行ったのだから東京と関係していた、兄は集団就職で東京ではないが静岡の方に行ったからだ
出稼ぎというとき双葉とか大熊は原町市とか相馬市から離れている
そこで働く場所がなく出稼ぎ地帯だった、それで地元で働きたいとして東電の原発を積極的に誘致したのである、それか事故で裏目になった
原町機関区はそもそも東京に物資を運ぶためのものであった、木材とか石材を運ぶものとして作られた、平駅は石炭であるが全国的には木材を運ぶものだった
北海道の鉄道は小樽があるとしてそれも石炭を運ぶものでありほとんど石炭を運ぶものとして北海道の鉄道が作られたのである
日本の燃料はその時石炭が主だったからである、第一鉄道自体が蒸気機関車だからその燃料は石炭だったからである

要するになぜこの歴史をふりかえるかというと原発がどうして双葉とか大熊地域に作れたのか?
それは東京と福島県が特に浜通りでもその関係が実は戦前からも鉄道で物資を運ぶことで関係が深かったのである
またいろいろな面で東京がやはり中心で福島県はそれほど遠いともならないから意外と密接な関係があった                              

だから歴史をふりかえるとなぜ原発ができたのか?

それが東京都と遠からず近からずという地理にあったのである
人間はいかに地理に左右されるかである,地の利に左右されるのである
それは宿命までになる、だから歴史は地歴になる、地理と歴史になるのである
身近な所から歴史を見てもそうなるのである
だから家族の歴史は一番身近でありそれが歴史のベースになる
何か家族が死んでからいろいろかえってふりかえる、その残した物を深く考えるようになった
だから今の時代をなかなか家族でも生きているときは家族のことでも理解しにくい
死んでからいろいろふりかえりその残した物の意味を深く理解するのである

コロナウィルスにしても東京のライブハウスに行った人が感染したのである
それもすぐ近くの人だった、その人はただ遊びに行ったのだから昔とは違う
昔は切実な生活に強いられて行ったのであり遊びで行くなどないからである
第一鉄道で観光できた人はわずかである、家族から聞いた話で鉄道を利用したとしても
運賃が高いから意外と利用していない、それは贅沢だったのである
それで姉が親戚の葛尾村まで行ったことを何回もしたのである
何か途中に森林鉄道があったことを行っていたことでもわかる
いたるところに森林鉄道があったのである

いづれにしろ自分自身が人生を旅にを費やされたという時、交通に興味をもつ、地理に興味をもつ、その地理が実は学問の基礎になり地理がわからないとあらゆるものが理解できないのである
原発がなぜ誘致されたかとなるとやはり地理が関係していた
東京から遠からず近からずという距離にあったことなのである
それだけ東京の影響は関係ないようで戦前から関係が深かったのである
それは自分の家族からの歴史でもわかる、それは自分だけではない他の家族でも同じようなことがある


原発事故の原因も東京と地方の問題 (戦後の東京一極集中などの国土のアンバランスによる)


浜通りは東京の影響が大きかった (戦後の歴史をふりかえる原町-津島から葛尾村まで)
posted by 天華 at 10:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2020年04月28日

コロナウィルスでは経済活動とめる被害が大きくなる (すでに失業者が犯罪者になり治安が悪化する)


コロナウィルスでは経済活動とめる被害が大きくなる

(すでに失業者が犯罪者になり治安が悪化する)



容疑の男「コロナで失職、路上で生活」 横浜の女性刺傷

西山容疑者は昨年末ごろから今年3月末ごろまで、大阪府内の風俗店で勤務していたが、感染拡大の影響で働けなくなったと説明。横浜市内のインターネットカフェで寝泊まりし、金がなくなった後は路上で過ごしていたという。「約20万円の借金があった」と話し、逮捕時の所持金はほとんどなかった。

仙台でホームレス増加 若年層の相談が相次ぐ

「新型コロナのせいで、ようやく見つけた仕事がなくなってしまった」。列に並んだ男性(46)は肩を落とした。今月上旬から市中心部で路上生活を続けているという。

 男性は昨秋、職を求めて南相馬市から仙台市に移った。冬に東京都内で建設業の仕事を見つけて寮生活を始めた。

 今年3月になると一気に仕事がなくなった。貯金は早々に底を突き、歩いて6日かけて仙台に戻った。支援団体にもらったマスクを着け、感染におびえながら路上で暮らす。

 仙台でホームレス増加 若年層の相談が相次ぐ
 河北新報社 2020/04/27 06:05
 
コロナウィルスで失業者が増えることの方が怖い、水商売関係でも失業者が増える
そういうところは暴力団とかのように社会からあぶれたとういうかまともな職につけない人のセーフティネットともなる
それは建設工事とかもそうである、だからこの記事でも水商売と建築土木の人だった
南相馬市とあるがもともと南相馬市に住んでいるというよ工事現場を渡り歩く人なのだろう、この辺は原発事故とかまだ工事がつづいている場があるからである

つまり言われていることだが世界的にでもそうである、貧困層にコロナウィルスは襲い掛かり苦しめる、フランスでもアメリカでも移民と貧困層がいてその人たちはその国の中でも別な集団として暮らしている、そこはウィルスにも弱いし生活も底辺層であり失業しやすいし困窮する度合いが強い、生活が安定していないのである

第一驚くのは貯金がない人たちが本当に多いことである
たいがい貯金があって一年くらい暮らせるとか思う、でも実際は年齢が低下するほど驚くほど貯金がないのである、それが60代以上でも意外と貯金がないのである
それだけ貧困化しているのが日本である
やはり貯金がないといざというときは困ると思った、ただ若い人はなんとか職につける
でもこういう緊急事態になると失業して路上生活者にもなる

これを原発事故と比べると違うのは原発避難者には手厚い補償がされたことである
30キロ内となるとその補償は本当に手厚かった、今でも補償はつづいている
医療費がすでに十年にもなるのに無料なのである        

30キロから外になると半年で医療費の無料は打ち切られた

この差は本当に大きかった、そしてたとえ仮設暮らしになっても生活は十分に補償されたしそれで思わぬ金が入って喜んでいた人もかなりいたのである
それから仮設には毎日のようにボランティアが来て援助していたのである
だから仮設暮らしがひどいように見えてもそうでもなかったのである
もちろんそこに住んだ人は必ずしもそうとは思っていないことがある
でも今回のコロナウィルスはそうはいかない、かえって補償にしても十万くらいもらってもどうにもならないともなる
失業するということは収入がなくなることだからである
原発避難者は失業しても5年とかすでに8年とかでも十分な補償がされているからだ
その相違も大きい、ただ原発事故の被害が小さいとかではない
経済的にはコロナウィルスの方が全国的であり世界的であり厳しいと見ている

こうして犯罪が増えたり治安が悪くなることが怖いのである
ともかく追い詰められた人間ほど怖いものがないからだ
なぜそんなことまでするのと言っても追い詰められた人間は今食べるものがないとなれば野獣のように相手のことなどかまわず襲ってくるということである
自分も一身上でそういうことを経験してきたので追い詰められた人間と出会うことは怖い借金している人も怖い、常にそういう人は追い詰められているからである
犯罪予備軍になる

だから本当にこのコロナウィルスで経済を無視してコロナウィルスの対策だけを重視するとその結果の方が被害が大きくなりとりかえしのつかないことになる
それは原発事故でも避難区域にした所はゴーストタウンになって回復しないことでもわかる、放射線が怖いこともわかるがでも自治体自体が崩壊するということも問題だった
ただそこまでできたのは手厚い補償金が与えられたから別にそこに住まなくても生活できるということで他に移り住んだのである

ただこの選択はむずかしい、人命重視してコロナウィルスのために自粛する、経済生活を止めるということも否定できない、でも一方で経済活動を止めることで失業者が増えることも社会を不安定にして治安を悪化させることが怖い
つまり経済活動を止めることの方が悪い結果ともなりうる

その判断をどうするのか?

それは原発事故の判断とにている、放射線被害というのも素人には良くわからなかった
だから専門家に従わざるをえなかった、それは原発があるときから「安全神話」を作られて強制されていたのである
その過度な安全意識があり事故になり何の対策もできなかったのである

今回はどこまで安全を人命尊重を強調できるのか?

これも未知である、若い世代からすると老人が死ぬだけではないかとかまた危機をあおる専門家は何十万死ぬとか言う、これも放射線の被害を誇大化したときと同じである
それは専門家もどういうふうに被害になってゆくのか先が見えないからそうなる

だからすべて専門家だけに頼るのが科学者に頼るのがいいのだろうか? 

ここにも理系と文系の対立が生れている、第二次世界大戦で頭角を現した政治家は果断に実行した人だったというのもそうである
平時と緊急事態ではやはり強力な指導者がでて果断に実行しないと解決できないのである官僚主導型は平時では通用するがこのような緊急事態には通用しないのである
だから阿部首相は幸運で長くつづいたが緊急事態では対処できないとなった

まず長期戦であると専門家がいうときもう経済が崩壊した方が怖い、その例がすでに出ている、結局緊急事態で自粛をしてもまたゆるめると感染者が増えるとなるとめんどうである、そうしても援助もできない、全国民に援助しつづけられるのか?
それもできないとなるとどこかでいづれ経済活動を平常にもどすことになる
そうしなければ失業者であふれ治安が悪化して外国では暴動にもなった
社会自体が混乱して治めることもできなくなる
その時、危険が及ぶのは安定して生活している人たちもそうである
膨大な失業者がうろうろしてホームレスが街の中に増えたりしてその人たちにいつ襲われるかもしれないと戦々恐々として暮らすほかなくなる
そっちの方が悪夢だとなる

昨日自転車の電源がきれて真っ暗な中を帰ってきた
ライトがつかなくて真っ暗の中を走って側溝に落ちた、その時は危険だった
今でもその傷が消えない、そして一時はライトがついていたが弱くなっていた
でも前は多少照らしていた、でも遠くが見えないのである
ただ目前をわずかに照らしていた、こういうとき遠くが見えると安心する
車のライトで照らされたとき遠くが見通しがつくと安心する
つまり何か遠くを照らされて道が見える時安心する

コロナウィルスが不安なのは放射線でもそうだが先が見えないから不安になる
安全ですよということが確信できない
それは専門家でもそういうことを保証できない、この先どういうふうに展開するか闇なのである、ワクチンができるというとき放射線被害よりは対処する方法がある
でもそれがどれくらい先になるかわからない、だから闇はつづくのである
つまり真っ暗な道を行くとなると不安である
でも今回は前もそうだったが暗くても知った道だから安全に帰ることができた
事故になった場所も知っていたからさけたし慎重にゆっくりと帰ってきたからである
でも全く知らない真っ暗な道を行ったら恐怖である、事故になる度合いが大きいのである要するにコロナウィルスが未知だということが不安にさせて怖がらせる
放射線でも被害がどうなるのか次世代の子供に影響してし奇形になるとかいわれこ恐怖したと同じである、現実は何もないかもしれないが未知になると恐怖になる
その恐怖が何かと未知だから増幅されるのである

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posted by 天華 at 09:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2020年04月27日

(春の日)蔵王が八沢浦の奥から大きく見えた


(春の日)蔵王が八沢浦の奥から大きく見えた

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ここはもう一回行って写真をとる
ただ今日のように快晴でないときれいにとれない
大きなカメラをもってまた行ってみよう
ここは蔵王を見る穴場である


喫茶店隠さる山陰シャガの花

少年の走るやつつじ赤く映ゆ

春の山見えてなじみぬレストラン



田起こしのトラクターの音ひびきつつタンポポ畦に咲き満ちるかも
                                                
タンポポのいたるところに咲きだして燕飛び交い休みなしかな

大きくも蔵王の迫り山桜ここに咲くかな夕日さし暮る        

相馬の城跡たずね残る花一人二人や歩み去りにき 
                                                                  

八沢浦の行ったことのない道を行くと蔵王が大きく見えて鹿狼山も見えた
山が見える場所は不思議である、山は場所によって見え方が違う
山が大きく高く見える場所がある、ビューポイントがある
ヒマラヤでも3000メートルまで上らないと高く見えない、
また富士山でも同じである、何か小さく低くしか見えないことがある
だから山は見る場所によって相当違って見えるのである

北海老の山陰の喫茶店は本当に隠された場所にある、ただ二回ばかり行っただけだった
でもあそこはいつも通っている、今も開いているのかどうかわらなくなった
何か喫茶店が好きである、それも場所がいい所にあるのがいいのである
今度は宇多川の岸にある喫茶店を見つけた、そこも場所がいいと思った
そこにも今度入って見よう
どうしてか原町にいい喫茶店がないのである
いい場所はあるが喫茶店はないのである
喫茶店を回って楽しむのもいい、それにはやはり場所が良くないとだめである
何か食べるとなるとまた別である 

レストランといってもまるまつである、時々入る、相馬市と原町だといろいろある
あそけでカレーの弁当を400円で特別に出していた
この近くでは650円であり800円もして出している
これは高いと思った、ただまるまつのは特別である
期間限定である、ともかく料理がめんどうなので原町と相馬市は一人暮らしだと楽になる定食とかも手ごろなものがあるからだ、とにかく料理はいろいろそろえたり皿まで洗ったりとめんどうなのである
そこに時間がとられると他のことができなくなるのである

とにかく桜は散った、余花の季節で在りつつじとか山吹も咲きだした
田起こしとかあり暮らしがあると活気がでてくる、だからいつまでも放射性物質の廃棄場があるのかとなる、目障りなのである
小高とか浪江とかなるとこうして当たり前にあった田起こして田植えして畑で野菜を作るとかない、そこに暮らしがないと何か活気でない、飯館村では特にそうである
空家があり何か幽霊でも棲んでいる感じだった
別荘のようなこじんまりした家をみんな建てたがそこに人が住んでいないから村全体が活きていない、死んだようになっているのである

新聞とかの構成はばらばらで理解しにくい (それはネットのようにリンク〈関連)づけがされないから)


新聞とかの構成はばらばらで理解しにくい

(それはネットのようにリンク〈関連)づけがされないから)

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ばらばらになりリンクして連関させて読めない

だから記憶にも残らない

ただシリーズものだと連関して継続して読める

でもそれは本で読んだ方がいいとなる


新聞とか本とか雑誌とかテレビでもメデアによって伝え方が違う
それはインタ−ネットができてから見直すようになった
人間は常に何かを知る時比較しないとわからないのだ
白い石があったとしてもみんな白い石だとしたら白い石だと自覚しない
そこに黒い石とか茶色の石とか交じっていて比較してわかる
人間でも自分を知るには他人と比べる時なのである
またなぜ日本にばかりいるとかえって日本のことがわからない
それで外国暮らし人は外国と比べて日本を見るからかえって見えるのである

メデアでも本でも新聞でもテレビでも長い間親しんできた
だからそのメデアが当然だと見ていた
でも何かおかしいなと新聞を見て気づいた
日刊新聞だが日刊現代とかだがその内容ではなく新聞が配置するものである
大きな見出しで分けられて見るのだがでも一社の新聞が編集して作る
でもそれが読みにくいというか理解しにくいというか記憶もしにくい
何かばらばらに記事が書かれていて統一性がない
その中にエロとか広告も混じりさらに統一性がなくなる

かえってインタ−ネットの記事が読みやすい、ヤホーでもmsnのニュースでもあらゆる所から記事を引用して解説を読むとわかりやすい
今はどうしてもコロナウィルスの記事が多くそれについて関連しているからわかりやすい
つまり関連させることリンクさせるとわかりやすい

人間の関心は多様である、でも新聞とかテレビとかでもそうした多様な関心は無視して
発行する会社の方針で編集している
だから様々なものがばらばらに新聞にのせる
その記事同士はつながりがない、リンクだと関連して読めるから内容を深めて読むことができる
そして知識を深めるということはそうして関連したものをつなぎあわせてより深い知識にすることである
それが新聞とかテレビとかではできない、一方的に作る方で編集されるからである

だからどうしてインタ−ネットの記事の解説を私は引用してその記事の内容をより深く考察している、それは引用でも自分が主体となっているから著作権違反にはならなん
何かこうしてインタ−ネットでは引用することが容易なのである
新聞とかでも雑誌とかでもめんどうになる、でも時々は引用している
インタ−ネットで読める雑誌を切り取り引用している

インタ−ネットの特徴はもともとパソコン通信から始まったからレスがレスポンスが大事だった、だから対話的メデアという特徴をもっていたのが今までのメデアとは違っていたのである
自分なりに理解を深めるには必ず本を読んだとしても自分なりの解釈が必要になる
それで必ず何かコメンとする習慣をつける、それがインタ−ネットではしやすいのである
とにかくリンクするというときA⇒AB⇒AAB⇒AAC⇒・・・・とかなる
何かAというエレメントから連環してリンクして理解を深める
それでその場限りのばらばらの新聞の記事が特に日刊現代とか夕刊フジとかだと頭が混乱して理解できないし脳が整理できないのである

インタ−ネットでもやはり何かを一貫して追求している時理解しやすい
私のプログでは津波とか原発事故のことで一貫して追求してきた
次にコロナウィルスでも一貫して追求してきた、それは原発事故と比べて追及して来た
その他自分の場合はテーマが多すぎることがあった
それで読む方にすると読みにくいということがあったかもしれない
ただ何か相手に読まれるというより自分の日々の記録として書いているということもあった
ただ最近は家事とか忙しくて対話はほとんどしていない、対話となると人間は簡単にできないように思う、すぐにコメンとされても相手のことがわからないからである
だから何か自分の場合一方的になってしまったのである

人間はただ「習うより慣れろ」である、機械でも使いこなすには結局なれるほかないのである、それが能力というよりは慣れることの方が大事になる
それで若い人は最先端の技術に機械や道具にふれて慣れるから有利になる
それで50くらいから人間は新しいものを受けづらくなる
それでどうしても若い人の方が時代に適応するのである
私がパソコンをしているのはワープロをしていてワープロで通信までしていたのである
だから早い時期からしていた、それは富士通のオワシスで親指シフトで日本語の文章を打つことができて今もやれているのだ
このパソコンでも基本はテキストであり文章を書くことにあるからだ
これがないととてもローマ字入力ではスムーズに文章が書けいないから挫折していたとなる

とにかく現代はメデアの変化も激しい、youtubeなどでもそうである
そこにはテレビには出せない人たちが自ら放送している
今までのマスコミには出せない人たちがいて編集している、すると真実が見えなくなる
ただあまりにも多様になると情報を追いかけるだけで時間が消えてゆく
ただ今やインタ−ネットでスマホなしでありえない世界となった
コロナウィルスでテレワークとか通信で学習とかなるのも時代なのである
むしろ通信で才能を伸ばす子供が若い人たちが出て来ることは確かである
通信の世界から天才が生まれることがありえる
学校では生まれないITデジタル天才が生まれる可能性がある、一部は生まれている
ただアナログがすたれることはない、人間はやはり対面的に全人間としてのコミ二ケーションが必要だからである
ただ正直旅したからといって親切に道すら教える人はいない、だからみんなスマホを見ているのである
人は意外と道を教えるのでもそれが強制でなければ金でももらえなければまともに対応しないからである、つまりいい加減になるのである

いづれにしろ新聞でもテレビでも何か伝えられないものがある
それは作る方の一方的メデアだからである、それを摂取する方の立場に立っていない
そして営利事業だからどうしても万人向きに作るから芸能とかスポーツとかあらゆるものを混交させることが何か理解しにくいものとなっていたのである

2020年04月26日

なぜ新潟県が江戸時代から明治へと人口が多かったのか? (コレラでも北前船とかの交流があり会津の方に広がったー) コロナウィルスと人口問題)

なぜ新潟県が江戸時代から明治へと人口が多かったのか?

(コレラでも北前船とかの交流があり会津の方に広がったー)
コロナウィルスと人口問題)



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福島県が宮城県より多く島根県でも上位になっている、秋田県でもそうである

につい

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新潟県がこれほど人口が常に多かった
江戸時代の継続としてあれば日本全体では人口は均等に分散されていたとなる
今はかたよりすぎているのだ
戦後で東京が400万になり一千万都市と成長した
東京も400万くらいだったら住みやすい場所だったのである

昭和30年県内総生産 単位:百万円
東京都 1,529,161(125,800円)
神奈川 *,319,290(*88,100円)
新潟県 *,203,771(*77,800円)
埼玉県 *,155,338(*75,500円)
福島県 *,152,646(*62,200円)
千葉県 *,152,093(*71,200円)
茨城県 *,148,911(*63,500円)
長野県 *,139,021(*73,900円)
栃木県 *,138,685(*69,000円)
宮城県 *,134,946(*67,100円)
群馬県 *,118,779(*66,800円)
秋田県 *,109,016(*70,300円)
富山県 *,*98,789(*80,800円)
岩手県 *,*94,061(*54,500円)
山形県 *,*92,047(*63,300円)
青森県 *,*91,267(*59,600円)
石川県 *,*88,360(*77,000円)
福井県 *,*69,410(*73,600円)
山梨県 *,*52,542(*56,900円)

()内はひとりあたり

新潟県と福島県が上位にある、農業中心だとこうなっていた
東北の生産量は高かった

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会津で感染者が出ていない

南相馬市は多いのはなぜなのか?


江戸期から家康の力で繁栄した、愛知県が日本一(1873年)

なぜ愛知が栄えたか。それは江戸・大阪につぐ城下町として地元出身の徳川家康が「6万人の街を丸ごと移転させる」など、過剰ともいえるほどの情熱を持って城下町づくりを行い、木曽の山林(御用林)も特別に与えたから。これにより財政が安定し、現在まで続く繁栄の基盤になりました。

19世紀までは経済の中心は第一次産業であったため、作物の王様である「米」を育てるのに適した環境であった日本海側が賑わいました。

 加えて、明治の途中で陸路が発達するまで、運送の主役は長らく「海運」でした。その中でも代表的な「北前船」という運送手段が活躍したのも日本海側です。

 1880年を例に取ると、今の鳥取県を含めた島根県が103.7万人(全国12位)、対して東京府が95.9万人(同17位)と、東京を凌駕していたのです。

 
 なぜ新潟県が人口が多かったのか?明治でも東京より新潟県が多い
それが今理解できないのは交通と関係していた
つまり江戸時代から北前船がありそれで日本海側は栄えていた
新潟県でた神社の数が日本で一番多いという時、様々な神様が新潟県に人ともに移動したとなる

そして福島県は宮城県より人口が多かった、東北では一番人口が多かった
つまり今の時点で見る風景と明治に見る風景は違っていた
明治は江戸時代の連続としてあり依然として日本は農業国家でありすると米の生産に向いた新潟県に人口が集中したとなる
その新潟県から阿賀野川を通じて会津までの交通がありコレラが江戸時代に流行した時の感染経路が新潟県から会津若松市へまた陸路では白河街道を通じて会津若松市へ人の流れがあり感染したとなく
でも田島の方は逆に会津若松市から感染が広がったのである 

このウィルスは港から侵入してきていた、港で水際作戦する必要があるのはそのためである、日本だったら特にそうである、回りが海でも港から外国人でも物でも入ってくるからコレラも入ってきた、passportというととまさにport(港)を通過するためのものだった今は飛行機で入るから違っている
日本海の港からコレラも伝染して会津若松市まで伝染したのである

歴史でも地理でも人口から見るとわかりやすくなる
人口が多ければそれだけ経済的に繁栄していたとみるしそれだけの人口を養う基盤があったとパるからである
東京が100万にもなっていなかった、ということは江戸が百万都市とはならない、明治に百万になっていないことはもっと江戸時代だったら少ないとなるからだ
何か歴史が変わるとイメージが変わる、日本海側は裏日本とか言われるようになり日本海に夕日が沈むようにその風景の感覚からなにかもの淋しい土地にみる
越後獅子とかありそれも新潟県が貧乏国だからそんな物語が生まれたのかとなる
でも実際は新潟県はもともと栄えた県だった
地理的には裏日本でも実際は表日本になっていた
それでコレラが流行したとき会津若松市に新潟県から感染したということでもわかる
ウィルスは交通と密接に関係しているからだ
交通の盛んな所から拡散してゆくのである

今回のコロナウィルスは東京から拡散してゆく、一千万の都市から拡散してゆく
そして今回不思議なのは福島県だと東北本線が新幹線が走る中通りと浜通りに感染者がでている
昨日は南相馬市でクラスターが生まれたから注意とかアナウンスがあった
でも会津で感染したとニュースでは報告されていない
東京と通じている会津鉄道もある、ただ東京から不便な地域にはなっている
でも会津とか岩手県に感染者が出ないのは不思議である
岩手県には出ているとみている、ただ検査数が少ないので出ないのである
福島県でも南相馬市の人が東京のライブハウスに行って感染した
だから仙台から一関とか盛岡は50分圏内だから感染者が出ないことはありえないのである

江戸時代でも明治維新でも会津があれだけ活躍したというとき大藩だったからである
すると経済力もあった、30万石というと伊達藩に次ぐ大きさである
だから京都守護職にもなりそれで長州や薩摩に恨まれたとかある
それだけ大きな藩であり江戸幕府を支える藩だったからそうなった
福島県は歴史的に会津県のようになっていた、なぜなら万葉集時代に国(くに)として認識されていたのは会津だけだからである

会津嶺《あいづね》の 国をさ遠《どお》み 逢はなはば 偲《しの》ひにせもと 紐結ばさね
     〜作者未詳(東歌) 『万葉集』 巻14-3426 相聞歌

この歌で国として意識されたのが会津だったかでらある

コロナウィルスは東京とかから止めようがなく拡散する
異常に人口密集地帯になった日本の風土を歪めたからこそコロナウィルスには弱かった
そこがウィルスに脆弱であり拡散させたのである
名古屋市からとか大阪市でも福岡市でもそうである、大都市から拡散する
それが現代では交通が発達して止めようがないのである
北海道は中国人観光客がおしかけて感染した、これもまた中国の観光客を呼び込んだの裏目となった
飯館村では1980で8000人いて6000人に減った、その変化も大きい、戦後は戦争の引揚者などが開墾に入った人たちが人口を増やした
戦後は地方に人が多かった、それが都会に集中するようになった
東北では震災以後、原発事故でも仙台市に移り住む人が多くなった
だから逆にコロナウィルスではそうして人口密集してくる都会が感染する度合いが高くなる
仙台市から東北に拡散されてゆくのである 
    

ただ福島県と新潟県を行き来しないように警告を出した、ただ江戸時代は交流が活発でも今は福島市でも郡山市でも東京からでも感染者が移動して感染する
仙台市でもそうである、でも今のところ会津には感染者が出ていないのである
岩手県にも出ていない、それはなぞなのだが会津は浜通りとか中通りからすると交通が不便だからともなる
つまりコロナウィルスは交通と密接に関係している、また人口密集地帯から都会から伝染しやすいのである
だから東京を封鎖しなければ拡散が止められないというのはそのためなのである

錆びついた中央集権社会から、生き生きとした地方分権社会へと移行することができれば、大きな起爆剤となるだろう。中央集権を目指した明治維新とは逆方向であるが、「一新」することにより、同じような強い力を発揮できるのではないか。

 「中央集権型の工業社会」から「地方分権型の生命社会」へのパラダイムシフト。かすかにではあるが、そんな気運が見えてきたような気がする。

コロナ禍はパラダイムシフトの契機か 「中央集権型の工業社会」から「地方分権型の生命社会」へ

4/25(土) 9:00配信

これには共感する、なぜなら私のプログを読めば(相馬郷土史研究)とか(相馬学)とかは地域に根ざした有機的ミクロコスモスのアイディンティティを追求してきたからである「地方分権型の生命社会」というのはそれは東京のような自然と乖離した世界ではない
自然に根ざしたアイディンティティをベースにした世界である
このコロナウィルスの不思議はそうした今までの世界の社会の在り方を変える
過度なグロ−バル社会も批判して来た、これもやはり地域から分離して世界へ結びつくということでいいようでも地域の地元の力を活かさないものとして地域を衰退させたのである

これからは東京とか大都市圏中心の社会から人口が流動化して地方にその生活の根拠を移すことになる変化が起きるかもしれない
それが大規模になれば社会自体が変わり地方が再び活性化する
とにかく土地とか家でも安価に手に入る、足りないのがそこに住む人なのである
原発事故で避難区域になった所は人が住んでいない、ただ膨大な土地が使用されないままに残されている、だから移住するにはいいとなる
放射線が問題にしてもそれよりそれだけの土地をどう活かすのかを考えるべきだとなる

そもそも東京のエネルギーをまかなうために東京電力が福島に原発を作った
ここからして方向が間違っていた、東京のエネルギーは東京でまかなうべきだったとなるし労働力でも地方から中央に集めて来て東京が異常に巨大化したのも国土のバランスからして不自然だったのである
ただそういうことはいくら言われても首都移転もできずに終わった
でもコロナウィルスとかで東京は危険であるとなれば本当に住民の移動が起きるかもしれない、それは国策として国土の利用をどうするか真剣に考えるようになる
だからコロナウィルスがすべてマイナスのものとして働くとは限らないのである

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2020年04月25日

人命重視か、経済重視か (コロナウィルスの戦いは戦争と同じかー原発事故との比較)


人命重視か、経済重視か

(コロナウィルスの戦いは戦争と同じかー原発事故との比較)

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原発事故と比べるとコロナウィルスの危機は全国的世界的であり身に迫る恐怖がある
人が死んでゆくということで恐怖である
放射線ではすぐに人が死ぬということがなくそれで恐怖心が身に迫って感じなかった
別に爆発した時でも私は外を歩いていた、その時20マイクロシーベルトも一日であった時があり危険だった、なぜならそこで被爆して甲状腺癌になる危険があったからだ
ただそれは二三日で急激に放射線量は減った
でも飯館村とか山の方が長く放射線量が高かったのである
でも避難が遅れたのである
それは今回のコロナウィルス対策が遅れたのとにている
何か危機でも危機と感じないことがあるからだ

原発事故では経済とかは全く無視された、閉鎖命令、ロックダウンではなく避難命令が出たからだ、その時南相馬市では5万人くらいの原町区でも避難命令が30キロ内で出て避難したのである、それで一時ゴーストタウン化して自治体が崩壊するような状態になった
その後も小高とか浪江とか飯館村ではゴーストタウン化して回復しなくなっていたのである

経済を無視してゴーストタウン化した

放射線の恐怖もあったが原発事故では全く経済は無視された、自治体の維持でも無視された、それは政府の命令でそうなったのである
た強制的避難命令だったからである、そうできたのは局所的な被害であり東京のような一千万都市とは違っていたからである
だから一時的でも東京がロックダウンしたらゴーストタウンになりその経済的損害は莫大になり補償もできなくなる、それが外国で起きている
その経済的負担が原発事故とは比べ物にならないからである

つまり放射線の被害を重視するのか、それとも経済を重視するのか?

コロナウィルスの被害を重視するのか、経済を重視するのか?

こういう問いが同じように発せられる
この両方を並行して同時にするべきだという意見もある
なぜなら人命尊重といっても経済が破綻するとそれで死ぬ人もありその被害の方が大きくなるからそのバランスをどうするのかということになる
どっちに梶をとるのか?それとも両方を一緒にして解決を計る
経済活動停止しないでコロナウィルスでも防御しつつそうする
そこで確かにある程度の不具合が犠牲も生れるかもしれない
でも経済活動を止めるとそれによる被害も大きくなり人命も失われるとなる
それでアメリカでは経済活動を停止できないとして経済活動を復帰させるとしている
それでまたコロナウィルスが再び拡大するという不安がある

でも原発事故では経済活動とめて避難させて自治体を崩壊させたことの被害が甚大だったゴーストタウンになりそれが回復できなくなったからだ
若い人は流出して残されたのは老人だけにもなった
だから30キロ内でもいろいろ放射線被害の差があり一律にすべきでなかった
経済の崩壊、コミニュティの崩壊、自治体の崩壊の方が放射線被害より大きくなったからである

もしこれがコロナウィルスの戦争だとする戦争では仲間の兵士がばたばたと死んでゆく
でも戦争をやめるわけにはいかない、戦わなければならない
戦争に比べたらコロナウィルスの被害も大きいにしても戦争よりはましだともなる
つまりこうした緊急時には正常な状態のもきの考え方ができない
戦争という異常事態と同じになる
兵士が死んでゆくのが戦争では普通であり兵士の死をとめるべきだとなれば戦争を停止しして降伏するほかないのである


だから現実にアメリカではあれだけ被害があっても経済活動を再開しようとするのは
経済活動で失業したりしてその影響の方が大きくなったからである
それが一時的ならいいが長引くから暴動まで起きている
政府でも長期戦になったら援助できくなるからだ
ただ最初はコロナウィルスの戦いでは人命尊重になるのはしかたがない
それが長期戦になったとき維持できるのか?
すでに自粛は連休の後もつづくとされているからだ
だからアメリカと同じく日本でも長期戦はできないから経済活動を開始するようになる

今回は若い世代に影響がない、原発事故では放射線は若い世代に被害があるとして恐れられた、それも次世代に母親にも影響して奇形が生まれるとかされて若い世代は流出して
自治体は崩壊してゴーストタウンになったのである
だから若い世代にそれほど被害がないとしたら老人が死んでも自治体を維持して経済活動をした方がいいとなる
もちろん老人が死ねばいいとかではない、私自身も老人だから死にたくない
ただ原発事故でもそうだが戦争でも若い人が死ぬ
日本の戦争の最後の方ではもう兵士になる若い人がいなくなり妻子もちの40くらいの人まで兵士にされて戦わされたのである

とにかく危機の場合、平時の考え方が通用しないのである、人命を尊重しろといっても
経済破綻崩壊で人命が失われるのである
だからコロナウィルスと戦争しているのだという危機意識が必要になる
人命尊重でもその危機意識が徹底しないから依然として人と人の接触を減らせないのである
結局ベトナム戦争のように地下にくぐりこもり戦うとかそういう緊急事態にあるのだという意識がないとだらだらと規制も緩慢にしているとコロナウィルスの戦いに敗れるともなるとにかく人間は戦争なら否応なく人がばたばた死ぬのだから意識がまるで違ってくる
コロナウィルスでもそうだが放射線でもばたばた死ぬわけではないから危機意識がもてないのである、でもアメリカのように死ぬ人が増えると意識も変わる
それでもやはり経済活動を再開しないともう生きることもできなくなる
だからこれは世界的戦争状態ともなっている、どっちを優先することでもない
総力戦になる、どっちに梶をとっても人命が失われることになるからだ
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2020年04月24日

残る花の短歌


残る花の短歌


今しばし残れる花や病院に命いとしみ明日は散りなむ

今日もまた風吹きやまじ残る花夕べに見つつ帰りけるかな 

雨しとと余花のあわれもこの道を今日も行きつつ暮れにけるかな

みちのくの残れる花のあわれかな夕べ街の灯静にともしも

山の路去年(こぞ)の嵐に倒る木やそのままにして山桜咲く


ここの桜は散った、何か毎日のように風が吹いていた、桜前線はまだ北に進むと仙台とか盛岡では咲いているのかとなる
飯館村だと500メートルの標高の差があるから時期が遅れて桜も咲く
梅が下では散っても飯館村では盛りだったからだ
だから桜前線をたどるなら飯館村とかに行けばいいとなる
とにかく今年は遠くに出れない、だから仙台にも今年になって一回も行っていない
去年でも一回行ったのかとなる
それだけ私は旅もしないし遠くに行かなくなった
そして何か思い出す旅をしているのである

ただ桜前線だと6月のはじめまで日本では桜が咲いている、稚内市で6月でも桜が咲いていたからである、だからそれだけ日本列島は長く寒暖がある
それが日本の面白さだとなる
とにかく桜は咲いたら散るということを思う、その期間が余りにも短いのである
だから名所だけではない、いろいろな場所に桜は咲く、それが二週間しか咲かないから
限られられた桜しか見れないのである
どんなことしたって一生に見れる桜は限られている

私の場合、本当に贅沢な時間を過ごした、西の方に奈良とか京都とか何回も行っていたからだ、そしてそこは歴史の栄華の場所であり桜が散ってもみちのくに帰ると桜が咲いていたとなる

打ち暗み夕べ桜や高館(たかだち)に風吹き荒れて我がたずね暮る

高館義経堂 (たかだちぎけいどう)-義経終焉の地

何かこうしてある場所の記憶がよみがえる、それも不思議である
記憶の旅がある、平泉なら近いから何度でも行けるがここも十年くらい行っていないような気がする、介護とかあり行けなかった
ただまだ盛岡の桜は見ていない、青森の桜は弘前の桜は見た

近くの山の中に入ったら木が何カ所か倒れていた、まだ去年の嵐で川も荒れたままの所がある、あの台風の被害は思った以上大きかった
いたるところ水がでて小さな小川でも鉄砲水のようになり荒らしたのである
だからいたるところで木が未だに倒れたままなのである
その後遺症が残っているのに今度また台風が来たらどうなるのか?
これも心配だとなる、コロナウィルスも収束しないとしたら二重三重の被害となり
どうなるのだろうとなる

いづれにしろ私の場合は籠っていても別に退屈もしない、こうしていつも旅を回想したり書くことがある、それもインタ−ネットだから外に出る必要もないのである
ただ今コメンととかメールを見ていない、対話がない
それはこうして毎日プログに書くことがありそこに時間がとられるからである
家事も全部一人でしているしこれも大変なのである
だから料理は簡単にすまして食事の時間も短い、そこに時間をかけていない
そしてなんとかこれまでの書いたものを作品化しようとしている
でもこれも大変だと思う、手間がかかるのである

今回のように桜の短歌だけをまとめ桜の短歌集を作るにしてもプログとホームページからまた再編成しなければならない、それがめんどうになるのである  




2020年04月23日

コロナウィルスで政府が判断不能に (津浪、原発事故でも判断不能になった!)


コロナウィルスで政府が判断不能に

(津浪、原発事故でも判断不能になった!)

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浪江町長は自らの判断で山側の津島に避難させた

東電社員は海側の街に引き返すように指示した

こうして誰に従うかで生死を分ける場合もある


津浪とか原発事故の経験で危機に人間がどう対処するかを経験した
津浪原発事故だけではない、人間は危機にどう対処するつのか?

家族が認知症になったときも危機だった
自分にとっては最大の危機であり恐怖だった
身近な人が狂気になったと思ったからだ

それがなぜ恐怖だったのか?

認知症の正体が全くわからなかったからだ

それで対処する方法がわからずにただ狼狽して混乱するだけだった

その後認知症について勉強してある程度対処方法がわかってきて対処できるようになった

つまり得体のしれないもの、その正体がわからないからこそ混乱する
どう対処していいかわからなくなる

放射線とは何なのか?

それ自体もう素人には理解することは不可能だった、学者でも低放射線は体にいいという人もいたし御用学者もいた、そうなるとそうなのかと素人は思ってしまう

要するに判断不能になった!

コロナウィルスでもその正体がわからない
これはインフレインザでありその死者数を比べるととるにたらないと言う学者もいる
それが武田邦彦氏である、そうするとあれだけの実力ある科学者なのだからそうなのかと思う
でも不思議なのは原発事故では執拗に一年一ミリシーベルトをゆずらない科学者として有名になった、それはもう厳しい条件でありみんな住めなくなるものであった

だからなぜ今度は普通に仕事している人がコロナウィルスで自粛とか厳しくすると生活できなくなりその方が被害が大きくする、だからコロナウィルスはインフレインザより怖くないとしてむしろ普通に働かせる方をすすめている
でも原発事故のときは逆だった、一ミリシーベルトを守ったらもう30キロ内でも外でも誰も住めなくなった、だからこれはおかしいともみる

ただ危機は同じようには来ない!

だからまた対処が違ってくる

これは言えるのである、津波の危機でも原発事故の危機でも今回のコロナウィルスの危機も違ったものである、だから対処方法が違ってくるからだ
数学の数式のように社会の人間の危機には対処できないのである

でも今回も頼るのは科学者である、専門家である
つまりコロナウィルスの正体がわからないからそうなる
そして放射線と同じように大きく危険を言う学者と普通に生活してもいい、インフレインザよりコロナウィルスは怖くないとしている
むしろ自粛を強制したりする経済的被害の方が怖い、それでも人間は死ぬからである

結局人間はバベルの塔の崩壊のようにある時、危機には意思疎通ができくなるように思うバベルとは乱れという意味でありその乱れが来たとき対処できない、右往左往するだけであり遂にはばらばらになってゆく
原発事故でこの辺は家族までばらばらになったし今でもそうである

そして政府自体が判断不能になる、阿部首相はそうなった、おそらく何をしていいのかもわからなくなった、いろいろ言われてもどうしていいかわからないからのんびりと自宅にくつろいでいる姿を国民に放送して顰蹙をかった

阿部首相とか政府自体が判断不能に陥っている!

それは原発事故でもそうである、原発が爆発した時、政府では東電でも判断不能に陥ったスピーディで放射線量を適格に計ったとしてもそれを最初に連絡したのアメリカだった
アメリカに頼むのが先だったのである
アメリカに事故の処理の方法を教えてくれと頼んだのである

そうなると原発周辺の住民はどうしていいかわからない、判断不能になり浪江町長は自ら判断して山の奥の津島に避難した

そこは一番放射線が高い場所だった!

ところが避難した人たちの中に東電の社員がいて海側の街の方が安全だと引き返した人たちがいたのである、東電の社員がそういうからそれに住民も従った
それが正しい判断だった
なぜなら放射線は風に影響されたからである、風の方向を知れば山の方に逃げることはありえなかったのである
だから東電の一人の社員が放射線のことを知っていたからそれに従ったのが正しい判断だったのである

だから今回も何を信じていいのか?

誰を信じていいのか?

これが問題になる、科学者でも必ず意見が分かれるからである
つまり誰を指標にすればいいのかである
東電の社員のような人は誰なのかとなる?
その判断もまたむずかしいのである

武田邦彦氏を指標とするべきなのか?

確かにそうなのだろう・・・でもなぜこんなに自粛とか被害を誇大化しているのか?
マスコミでは危険を毎日あおる、だからテレビは見ない方がいいとしている
それもそうだとも思うが、では危険を全く無視できるのかとなるとできない

結局人間は危機にどうして対処していいのかわからない⇒判断不能になる

それは戦争でも起きたし危機では起きて来る、それが歴史をふりかえれば聖書の記述からすれば預言者が現れてイスラエル民族が危機から脱したとなる
つまりその時神の助けがあって危機から脱したのであり科学者とか専門家とか政治家とか様々な人ではない、第一危機の時民主主義など役に立たない
有識者を集めて話し合っても結論などでない、そのうち津波があっというまに来て飲み込んでしまったのである
大川小学校では前例で肯定に集めて協議して最も危険な川の側に避難した
生徒はすぐ裏山の山に逃げた方がいいとして逃げて助かった人もいた 

またテレビで放送していたが砂漠を旅した日本人の集団が水がなくなり水を求めて移動したのはそこに指導者がいた、経験者がいてその人に従い水のある場所に行って助かった
それは聖書の預言者が導いたのとにている
それは神に導かれたともなっていたからだ
ただ今回はその導いた人が経験して知っていたからである
ただここに運があったかもしれない、もし間違ったら水がなかった全員死ぬということもあったからだ          

つまり誰を信じて従うか?

それは集団でもなく、合議でもなく、一人の人間に従って助かる、また助からない

この時の判断は集団ではできない、また話し合っても時間がないからできない
すると誰かの判断に従い、それで助かる場合もあるがない場合もある
一つの賭けになる、でもどっちかを選ばねばならない
その責任はだれにあるのか、

導く人のなのか?選んだ人なのか?

結局双方にあるともなる

南相馬市の鹿島区の海老村では海に面した崖の上が高いからと避難場所に指定されていたそこに逃げて30人が死んだ、そこは海に面して危険な場所だったからだ
でも10メートル歩けば助かる所がいくらでもあったのだからそんな所に逃げる必要もなかったのである
そういうことは他でもいろいろあった、例え行政で安全だと指定しても危険な場所があった、だから行政すら危機には頼りにならないとなる

だからどう判断するのか?

ペストではヨ−ロッパで三分の一が死んだ、そこでカトリックとか神に祈っても効果なかったとしてキリスト教信仰からルネサンスとか科学とか現世欲望を肯定する社会に変化したとしている、今回もイタリアなどでは牧師が感染して死んでいるからだ


結局人間は危機にバベルの塔のようになり散り散りばらばらになり収支がつかなくなり茫然としているだけのなかとなる
それが人間の宿命でどうにもならないとなるのか?
そうしてボッシュの絵のように混乱の中に入り乱れそこに死神が君臨するようになる
いくら科学や文明が発達して人間の行く着く先はバベルの塔だとなってしまう
ただ最後は神を仰ぎ見る、神の助けなくしてなにも成せなくなる
世の終わりが来るともなるのだ

バベル(混乱)→収束不可⇒give up⇒神の来臨⇒選ばれた信者の救出

結局こんなふうになる、人間の文明の行き着く先はこれなのである
いくら人間の知恵を働かせても収支つかなくなり文明はバベルの塔のように崩壊する
神が神の知恵で治めない限り永遠の平和はない
人間の社会は(バベル)に終わる



posted by 天華 at 17:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

abstract architecture 廃墟の存在感(Ruins presence)


abstract architecture

廃墟の存在感(Ruins presence)

ruinbuilding11122233.jpg


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重々しく大地に根を下ろしている
確かに強固に組み合う建物
千年の重みある建築
太い柱と煉瓦
重厚な価値ある意味のある歴史の存在感

Rooted deeply in the earth
A building that surely combines firmly
Millennium weighted architecture
Thick columns and bricks
Presence of profound and meaningful history

japaesehousered222.jpg

japanese old buiulding

forestwindowq1.jpg
forest window

riverblueeee123.jpg

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2020年04月22日

戦後の焼野原からの日本の復興 (私の家族の歴史)


戦後の焼野原からの日本の復興

(私の家族の歴史)
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戦後の焼け野原は何も失くなったが故に、そこに新たな構築物を建てたり再建することが容易であったのに対し、今度の焼け野原は、再建・再構築するために、一度存在している構造物を物理的に破壊する(完全な意味での焼け野原にする)必要性すら生じるという皮肉である。それにすら人員も資金も必要になる。ほとんど何の生産性もないことに対しての労力と対価を要するのだ。つまり、70年以上前の焼け野原の方が遥かに対応しやすい現実がある。

質(たち)の悪い新たな焼け野原

                                   
戦後十年の生活をふりかえると不思議になる、それは小学校6年くらいまでの生活だった
その時のことをふりかえると不思議である
家族でも父親は明治生まれであり母親は大正生まれであり姉も大正生まれである
ここは変なのだけど特殊な家族としてそうなった
そこが外部から見て自分の家族のことは理解しえないものとなっている
父親は酒屋に丁稚奉公して双葉町の新山の酒屋で働き暖簾分けしてここに定着した
母は原町出身であり原町紡績(はらぼう)で糸取り紡績工場で働いていた
昔の働き口はこの紡績工場であり絹織物がアメリカに輸出していたのでそれが日本の産業だった、戦後電機製品が輸出産業となったのと同じである
どこにでも兜形の屋根の家がありそこで養蚕をしていたからだ
日本の経済力は工業ではなくこの養蚕が国を支えていたのである
それから母は東京に行き女中になった、その頃女性の勤め口は紡績工場か女中くらいだったのである
そして姉は赤紙一枚が来てシンガポールの向かいのジョホールバルでマレーシアの赤十字病院で四年間従軍看護婦として辛酸をなめた

父親が明治生まれでもそこから明治時代をイメージすることがむずかしい
大正時代になると多少二人がその時代を生きたから知るとなるが大正時代は短い
それも子供の時のことである、ただ関東大震災を母は記憶していた
また今の相馬農業高校がある近くに実家があり空襲にあい、防空壕に逃げた話を聞いている、相馬農業学校は空襲で焼けたことがあった
原町は雲雀が原に飛行場があり空襲がかなりあり被害があった

戦後は焼野原が出発した、その光景は凄まじいものだったろう
そこに戦争からの引揚者が大量に帰ってきた、その人たちわずかの土地を求めて開墾に入った、例えば子供の時知っている人は鹿島区の小池に開墾に入った
それは街から近いのである、そんなところに開墾する土地があったのかとなる
なぜなら平坦な土地であり田が多いからである
飯館村の木戸木のようなもう八方塞がりのような場所ならわかる
とういことはいかに戦争からの引揚者がそんなた所まで入っていたかということである
それと不思議なのは街の近くでもまだ開墾する土地があったということである
これは意外である、飯館村のような場所ならわかるがそんなに街に近い所ではありえないからである 
そこに子供の時卵買いに行かされた、自転車に糠をつめて卵を入れる
でも道が舗装されていないから卵が必ず割れるのである
真野川の橋は木の橋でありゆれるから怖い、木の橋であり土の橋だった

何か戦後は食べるために仕事もなく農業する人が多かった、第一戦後でも6割は農家だったとかなる、農業中心の社会だったのである
その時、トイレは外の便所でありその糞尿は近くの人が肥料として運んでいた
それは江戸時代と同じである、燃料は炭だった、だから別に山の中でなくても街から近い所でも炭焼きしていたのである、トイレの紙は新聞紙だった
水は井戸水でありこれは無料だったのである
この生活は江戸時代の続きだったのである、戦前にしろ戦後十年は江戸時代の続きだったのである
だから戦後一〇年でもバナナを売っていない、父親が病気になったとき仙台市から姉が買って食べさせた
そして父親はサシミ食べれるようになったけど食べたくないと言って死んだ
サシミは相当に贅沢品であった、おそらく晴れの日とか特別な日しか一年に一回とかしか食べていなかったのかもしれない

ともかくそういう生活があったことが不思議になる
だから飯館村の木戸木は戦後開墾して入った部落である
そこの交通の便が本当に悪い、草野の方に行くには七曲の道を延々と行くほかないし、大倉に行くにもそうである、そこから出ること自体簡単にできない土地である
ではそこで何を食べてどうして生活していたのか今になるとイメージできない
確かにわずかに田んぼがあり畑があったとしても土地が狭すぎるのである
だから林業とかありそういう山の暮らしがあって生活できたとなるがそれがイメージできない、山菜ばかり食べて生活できるとイメージでないのである
新しい直線の道ができたのは10年以上前のことである
そこに小川が流れていてもそこで魚など見たことない、何か食べるものがとれる環境ではない、そこは森に覆われて人も一日誰も通らない暗い神秘的な場所だった
だから飯館村ではあそこが一番不思議なの場所なのである

戦後十年から急激に高度成長時代になり変化した、その変化のスピードが早かったのである
でも中学校のクラスで三分の一くらいが中卒であり東京に集団就職した
それは蒸気機関車で行ったのである
今になるとそれが思い出せない、イメージできないのである
その時それが当たり前だら特別なものもとして見ていなかったのだろう
でも何か記憶に残っていてもいいはずなのである
だから何が記憶に残るのか?それも半世紀とかすぎると過去はあいまいなものとなってしまう

いづれにしろ戦後焼野原になったとき既得権者も都会の金持ちでも食べるものがないから農家に着物をもって食料と交換したりした
物がないのだから物で交換するほかない、そして母は前の夫が事故で工場の事故で死んだ時、一生暮らしていける金をもらったと言っていた
でも戦後その金が紙幣が本当に紙切れになったのである
ただ実家の近くに買ったわずかの土地だけが財産として残ったのである
預金封鎖があり紙幣は紙切れになった
つまり金はまた紙切れになる恐怖に現代もなっている

こうしてふりかえると焼野原から復興した時代があった
その時また団塊の世代のように膨大な労働力が供給された、それを吸収することが電機産業などであり高度成長時代になった
そのスピードが早かった、なぜなら高校生の時東京オリンピックがあったということは
約10年くらいで急速に日本は発展した、それは中国と同じだったのである
私が十数年前に行ったときは中国は日本と似ていた、でもみるみるうちに発展して新幹線とか走りIT先進国にもなっていた、その変化に驚くのとにている

それから日本はバブルにり下り坂の経済になった
そして膨大な空家とか耕作放棄地とか何かこれまでの成長の基となったものが負の遺産としてのしかかっている
これが戦後だったら引揚者のようにてっていたらこれだけの土地があるのだからその土地を利用していたからである
でも農業は衰退して後継者もいない、平均年齢が67才とか高齢化しているのである
ただ実際は専業農家が農産物の8割を生産している
零細農家は実際はつぶれても実は食料は供給されるのである

こうして時代をふりかえるときこれから日本はどうなるのだろうか?

プラスの遺産が空家とか耕作放棄地とか負の遺産と化している
でも何かコロナウィルスでもそうだが大きな変革が戦後70年でまた起きる
何か無駄なものが多かった、そうした無駄なものが淘汰されて本当に必要なものだけが生き残る時代になる
インパウンドもバブルだったのである、何か淘汰されるものはバブルだった
中小企業でも倒産するというときすでに社会にとって淘汰されるべきものだったともなるそれが一気にコロナウィルスで淘汰され整理されるかもしれなん

つまり新しい時代には不必要なものが一挙に清算されてゆく
そこに金をつぎ込んでも投資しても無駄だとなる
ただ焼野原の方が新しくやり安いというのは言える
いろいろいな過去のものがあるとそれに縛られる、空家でもいつまでもあるよりかえって更地にして別に利用した方がいいとなる
つまり何もないということは新しいものが作り安いということである
だから原発事故で避難区域になった所では膨大な土地が放置されたのだから新しく入って来た若い人たちが自由に利用できるともなる
そこに未来のビジョンを描けるともなる、また人のしがらみもないから人間関係でもそうである
若い人たちに自由に使ってくださいともなにるからだ

ただ老人は庭に木を植えようとしてもそれが十年育つにかかるとか花咲くとかなると植えたくない、それより夏蝋梅が成長していたのに切られたことが痛かった
なぜなら成長するまで時間がかかる、老人は待ていないのである
投資でも十年先とか見れない、その時死んでいるかもしれないからだ
だから老人にとって今あるものが失うことの方が痛手なのである
今あるものこれまで育ててはぐくんだもの家族でも家でも田畑でも人間関係でもそうである
だから親であれ妻であれ失うことが痛手となる、今あるものが貴重でありそれが消失することが喪失感となる、老人はいろいろなものを失う、だからこそ今あるものこれまで築いたものが老人にとって貴重なものとなる

つまり木でも花でも成長させるのではない、成長したものを見ることが向いている
これから種をまいて植えて育ててその実りを見るということに向いていないのである
第一老人は人生の成果を実りを示すことである
それが作品であれ何であれそうである、家を建てたというときそれはその人の実りであるだから常に姉はこの家を建てたことを自慢していたのである
必ず何か成し遂げたこと作ったことを自慢するようになる
これから何かを成し遂げることではないのである
この何か成し遂げるというときかえって戦後の焼野原の方がやり安かったとはいえる
今のようにいろいろなものが作られたものが重なり身動きがとれないような状態だとかえって新しいものは作りにくいともなる
だからコロナウィルスでも何かそうした淘汰作用があり新しい時代が生まれるのかともなる

ともかく家族で死ぬとやがて歴史になる、歴史としてふりかえることになる
家族は身近だからやはり血肉のように歴史をふりかえる、ただそれが祖父母まででありその上となると見たこともないとかなり実感がないのである
私には祖父母がいなかった、母方にいたが祖母とは思えなかった
それは一緒に育たなかったからだろう、何かやはり一緒に生活をともにしないと何でも記憶に残らない、それは肉親でもそうである
人間は去る者は日々に疎しであり何か記憶が薄れて抽象的になる
だから肉親でもともに一緒に生活しないものは記憶が消えてゆく

私の場合60歳までもそれ以上に一緒に生活したから記憶として残っているのである
だからもし本当の両親でも一緒に生活しなかったら記憶にないし両親とも思えないだろう動物でも子供のとき親がいないとき誰でもついてゆく、そのついてゆき育てるものが親となる
父の違う兄とは5年間でも実際に一緒にいたので兄だったのかと記憶している
もしそれもなかったら記憶にないから兄ともならなかったのである
つまり共有する時間があり場があってこそ家族でありそれが記憶となる
その女性は実家で五年間を兄と暮らしていた、でも記憶がないという、その女性は異常に薄情な女性となっていたのだ
少なくとも5年間一緒にいれば忘れないと思うからだ
それだけ人間は変わってしまうということでもある

ともかく人間の家族は複雑なのである、子供の時でも育て方が違う
ある人は8人兄弟で粗末に扱われたことを語っている
風邪などひくと親にしかられるから隠していたとか8人もいればそうなる
私は一人だから過剰に大事にされた、かえって病気でもないのに病気を装ったりした
それは病気になると余計に大事にしてくれるからである
つまりこれだけ育った環境が人間は違うとういことである
それがのちのち影響しているのだ、自分の場合はあまりにも甘やかされ過ぎたということである、一方はあまりにも粗末にされすぎたということである
そういう人は親に対してあまり良く思わないということがわかる
家族でもその差が大きいと思った



posted by 天華 at 09:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 明治維新-明治以降

2020年04月21日

原発事故とコロナウィルスの判断基準の共通性 (科学的理由、経済的理由、政治的理由の優先順位)


原発事故とコロナウィルスの判断基準の共通性

(科学的理由、経済的理由、政治的理由の優先順位)

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どれを重んじるのか?それが問われる

●科学的理由

●経済的理由

●政治的理由 


原発事故とコロナウィルス禍は似ていると考察して来た
これをどう判断するかでも共通な面が多かった

まず原発事故になったとき「放射線の被害」のことが真っ先に取り上げられて恐怖におののいた
コロナウィルスでも同じである、このウィルスが正体不明のために恐怖した
放射線でも実際はどう影響するのかわからず恐怖になった
ただ放射線はコロナウィルスと違ってある程度科学者でも理解していた
ただどれくらいの影響があるのかわからなかった

素人でも内部被爆が怖いことを理解した

体内で放射性物質が放射線をだして細胞を破壊して癌にさせるとかなり恐怖した

そして放射線の怖さは遺伝子を破壊して女性は奇形の子が生れるとか次世代への影響があり恐怖した

コロナウィルスは老人が死ぬが次世代の人たちまで影響することはもう社会を持続できなくなる、それで避難区域からは若い世代が去り老人だけが取り残されたのである

この三つの理由がどれを優先させたかどうかの判断はむずかしい

第一原発が日本に福島に誘致されて作られた理由は政治的経済的理由である
政治的には核兵器をもつ日本として欧米の要請がありまた技術先進国として認められるためである
そもそも科学技術となるとそれ自体に善悪はない、その利用する人間が間違えば核戦争になる、一方で原発も安全利用しようとしてももともと危険なものだからその危険性を承知していなければならなかった
でも政治的、経済的理由で無視されたのである

この三つで優先する順位は変わる

最初に原発でも科学的理由で判断する、でも実際はそこで生活している人たちがいてその人たちの生活が破壊され自治体が破壊される、だから一概に科学的理由だけで判断できるのかということが後で問題になった
もう自治体は経済的に崩壊してゴーストタウンになった
その被害の方が大きくもう回復できなくなったからだ
確かに科学的には年間一ミリシーベルトを守れという意見もわかる
でもそうなると住めなくなることの被害の方が甚大になった
現実は老人は放射線のことを気にしていなかった
それで飯館村で老人はキノコでも食べていたのである
別に十年後に癌になるにしても何かしらの病気になり死ぬのだから関係なかったのであるだからすべてが科学的判断が優先されることはないのである

今回のコロナウィルスでもそうである
武田邦彦氏は今回はコロナウィルスはインフレインザと比べてみても日本では自粛することもない、普通に生活していて大丈夫だとしている
これもマスコミでは危険を言うからわからなくなる、マスコミは視聴率をとるために危険をあおっているのだという
そんなことがあるとしたらマスコミは犯罪的であり罰せねばならないともしている
危険をマスコミがあおるのは視聴率を稼ぐことがテレビとかマスコミの目的だからとしている

また武田邦彦氏はむしろこうした厳しい自粛とかの命令は経済的破壊をもたらして飲食街とかを崩壊させて生活できない人たちを大量に作り出す、その被害の方が大きい
そういう失業した人たちが巷にあふれる時、危険な状態になる
外国でぱすでに暴動が起きているからだ
それは原発事故で30キロ内を避難させて自治体を崩壊させて回復できないようにしたとにている
つまり今回は科学的理由で安全⇒経済的崩壊を防ぐという言論に終始している

ともかく政治的判断にしても必ず科学的理由と経済的理由があって判断できる
でも公明党が10万給付を阿部首相に直談判したのは政治的理由だとなる
公明党の創価の協力なしで選挙に勝てないともなるからだ
またこの10万給付は国民には人気になる、生活保護者ももらえるからである
創価とか共産党系は生活保護者は相当数かかえているからだ

原発もコロナウィルスも科学的な問題が最初にくる
でもそれだけでは判断できないのである、必ず政治的、経済的な問題がからんでくる
科学を優先するにしてもそれだけでは解決しないのである
そもそも放射線でもどれだけの被害があるのかは確定しない、コロナウィルスでもそうである
コロナウィルスはすぐに死者がでるから外国では即恐怖になった
でも日本では死者数が少ないからそれほど感じない、ただ隠されているからわからない
こういうとき原発事故でも低く放射線を政府では操作したからである

モニタリングポストの下の土をとって低くしたのである
その周りを私が計ったら倍以上あったからだ

政府⇒大成建設⇒放射線量を低く見せる

今回は

政府⇒医療従事者⇒感染者と死者数を少なく見せる

こういうことが行われるから判断できなくなる

一方で科学的理由で医療関係者と一体になり自粛を強調する、緊急事態宣言をして活動をとめる、そのことで生活の影響が大きく経済的に困窮する人たちが増える
そこでは経済的被害の方が大きくなり失業者とか自殺者とかが出ることの方が問題だとなる
これによって社会の安定はなくなり不穏な状況になる

すると経済的理由の方を優先すべきだとなる

それは原発事故で自治体の経済が破壊されてゴーストタウン化した
それと同じことが起きている
10万の給付とか国の経済的支援でも補償でも原発事故とにている
ここでも今でも問題が尾をひいているからである
どうしても不公正になるからだ
南相馬市内では30キロ内は医療費が未だに無料である、同じ南相馬市でも30キロをはずれると医療費無料は半年で打ち切られた
科学的にみても放射線量は何も変わらないのである
それは放射線量で補償を決めたら政府で莫大な金を出すことになるから30キロ内だけは補償するとしたのである
それで30万円を補償する給付するというとき差別化を計ったのと同じである
それでは不公平になるからと10万円を国民に平等に迅速に支給することに変えたのである

韓国が今回コロナウィルスの対処で成功してムン・ジェイン(文在寅)が当選した
それはまず科学的理由として検査を徹底した、感染者の数もごまかさずに徹底した
そして政治的判断をして乗り切ったとなる
ただ国によって事情が違ってくるから日本は日本なりの事情があるから同じようにはできないことはわかる
でも日本は最初から科学的理由で判断していない
検査もしていない、そこからして政治的経済的判断が優先されたとなる
ただ日本の特殊な事情で本当に感染者とか死者数が少ないとしたらその判断は正しいとなる、でもそうでなければ失敗したとなる

とにかくこの問題は原発事故でもそうだったけど理系と文系の問題としてもあった
理系だと科学的に判断する、でもその科学的判断でもすべて科学者でもわかっていないから困るのである、原発事故では御用学者がでてきて安全神話を唱えつづけたからである
放射線は被害はたいしたことがないと言っていたからである
またコロナウィルスでもそういうことが起きている
被害を大きく言うものと小さく言うものがいるからだ
今回はコロナウィルスはインフレインザから比べると被害がずっと少ないとしているからだ、ただ一方で被害を大きく言う人も科学者でもいるから判断できなくなるのは原発事故と同じなのである

私としての判断は原発事故のように経済的崩壊、破綻することの方が怖い
ゴーストタウン化した方が怖い、そうなると回復しないからだ
それはそこで培った歴史の継続もたたれる、墓すら別な場所に若い世代移り住んだ場所に移されたりするからである
自治体の歴史自体が消失するのである、するとアイディンティティも消失する
その被害の方も大きいから経済的に破綻することの方が被害が甚大である
だから老人は死んでも若い世代にはそれほど影響ないのだから経済的破綻を崩壊を食い止める方をを優先すべきだとなる
今回は老人が死ぬとしても若い世代は生き残るから生は継続されるからである
ただこの判断は本当にむずかしい、結果でもまた違ったものとなる
結果をみてこうすればよかったとこうしなければ良かったとか必ずなる
でもそれは結果論でありその前にどう判断するかは今本当にむずかしいとなる
でもその判断の結果が戦争で3百万人死んだ重大な結果をもたらすから今の判断をどうするかが大事になる
そもそも原発事故の場合は日本に原発を作ったこと自体が間違っていたのである
コロナウィルスはまた別な問題てありまた新たな判断が対処が迫られているのである



原発事故を隠蔽したソ連は崩壊、中国の命運はいかに

MSNニュース











posted by 天華 at 08:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2020年04月20日

コロナウィルスでゴーストタウン化 (原発事故周辺もゴーストタウン化したーこれもカルマなのか?)


コロナウィルスでゴーストタウン化

(原発事故周辺もゴーストタウン化したーこれもカルマなのか?)

原発事故は地域的なものであり一番被害を受けたのは福島県であり浜通りであり
相馬藩内が主だった、相馬藩内でも城のある相馬市は平常通りだった
原発事故とコロナウィルスと比較して考察して来た
そこに共通なものがあった

一番感じたのは

原発事故以後この辺がゴーストタウンになった

コロナウィルスウィルスでゴーストタウン化した

歓楽街などが一番被害を受けた、これも何なのだろうとなる
原発によるゴーストタウン化は今でも継続しているしその深刻さは今のゴーストタウン化とは違うにしろやはりゴーストタウン化していることは確かである

おそらく原発事故でこの辺がゴーストタウン化したときテレビで写されたとき面白がっていた人がいたことは確かである、他人事として見ていた
それは原発事故は一地域で起きたことだからそうなった
深刻な被害を受けたの原発の限られた周辺だったからである
だから全国的に深刻なものとして見れなかったのである

今回のコロナウィルスは全国的であり世界的である、だから世界中の人が日本中の人が被害を受けるから関心をもつ、そこが根本的に原発事故とは違っている

人間は自ら体験しない限りわからないことが多くある、人間の経験することはあまりにも限られている、だから相手を理解をすることがむずかしいのである
だから原発事故で避難を余儀なくされた人たちが仮設に住んだり家族がばらばらになったりすることでもそれを経験しない人は理解できないとなる
それは福島県でも浜通りでも南相馬市でも全部がそうなったわけではないからだ

ゴーストタウン化したのは原発から約20キロ圏内である
小高などは一時街灯もともらず通りは真っ暗になって不気味だった
今でも浪江とかは帰っているのは一割とかゴーストタウンなのである

このゴーストタウン化は世界中で起きたことも原発事故とは違っている
都市が封鎖されてそうなった、ここは小規模であり大都市が封鎖されるのとは違っていたでも何かここと同じようにゴーストタウン化することがどういうことなのか多少は理解する、他人事ではなくなる
第一人間は世界で紛争がありシリアとかのようになってもそれが自分のこととして理解できない、そこに苦しんでいる人たちがいても自分のこととして理解できない
安全地帯からテレビで見ているだけだから刺激があっていいとかしかならないのである
つまり何でも当事者にならないと相手のことが理解できない
だから多少でもゴーストタウン化することはどういうことなのか原発事故周辺のことが理解できるようになる

だから原発事故は局所的なことではない、一つの人類の呪いとなりカルマとなったことを知るべきである、それは全世界の問題なのである
なぜならその責任は日本国民全員にありまた世界に人類の罪だともなるからだ
だからどうしても核兵器を作り広島に原爆を落としたアメリカはこの呪いからカルマから逃れることができないと思う
それが我が身にカルマとなってふりかかる、つまりアメリカは一番核の恐怖に怯えねばならない国だともなる
だから小国の北朝鮮をこれほど恐れるのも自らの核の呪いカルマからだともなる

いづれにしろ人間は必ずカルマを経験する、親が苦しんだことを子がその苦しみを経験して親を理解する、その子の親は夫が若い時大病になり生涯苦しんだ
そしてまた今夫が事業地失敗して夫で苦しんでいる
その時親の苦しみを理解するとなる
親と同じような苦しみを子供が受けることはかなりの確率で起きていることは確かなのである
私の家で店をやっていたとき母はお客さんが食事中でも来るから必ず立たねばならなかった、それが嫌だった、でもそうしたことが今自分は経験している
一人で食事するといろいろ用意することがあり必ず食事の途中でも立ったりするから
何かゆっくり食事できないのである
これもカルマだったともなる、そこで母親の苦しみを理解することになるからだ

そういうことはみんな年になれば経験しているだろう、なぜこんな苦しみを受けるのかというときそれはカルマが関係しているのである
そもそも他人に何か苦しみを与えたものは自らもその苦しみが与えられる、そうしなければ相手がどれほど苦しんだか理解できないからである
それがカルマなのである

ともかくコロナウィルスでもこれを人類は経験している、この被害を甚大なものであり人類的災禍である、でも時間がたつと忘れられるのである
でもその苦しみがカルマとなって時間がたつと再現されてウィルスの恐怖におののく
そして当時の人たちがどれだけ苦しんだか理解する
つまり同じようなことを経験していくら文明が発達してもその恐怖は同じであり同じことが再現される、カミュの小説でもそういうことがありやはり同じことがくりかえされる
津浪でもそうだった、これも日本では歴史的に何度も経験したことなのである
でも忘れていたがそれが現実化するときカルマを知る、当時の津波で苦しんだ人たちのことを知るのである
まずそうして同じ苦しみを経験しないと歴史でもそういう事実があったとさえ人間は時間の中で忘れてゆく、だから忘れさせないようにこうしてカルマが再現されるのかともなる

posted by 天華 at 11:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2020年04月19日

桜散る(今年の天気は荒れ模様)


桜散る(今年の天気は荒れ模様)

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この倉はいつも絵になる
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水無川が流れている


春の雷仕事に張り切る大工かな

隣の市燕来たれり次の町へ

大きなる桜井古墳に燕来る

看護師のやさしくあれや花の影

新田川流れひびきて花に風    

荒壁の蔵や古りにき落椿

鳥飛びて芽吹きや滝のひびきかな


水無川今日日のさして光りつつきらめ流れ竹に風そよぎぬ

山桜ここに咲くかなふるさとのまだ知らぬ道我は行くかな

あらかたは昨日(きぞ)の嵐に花は散る残れる花になお風の吹く


何か今年は荒れ模様である、また寒いのである
昨日の嵐で桜は大方は散った、そしてまだ風が吹いている
何かそこに桜の命が息づいている
桜は常に散るものとして見ている
それが桜の特徴なのである

咲いた時から静心なくとなっている、そして風が吹くともう散ってゆくのが桜である
つまり桜はこうして散ることが美しいのである
それで大阪城跡の桜が散ってゆくのが何ともいえないものとして記憶に残っている
その時夕日が輝き沈んでゆく、それが心に残るのは人間の栄華がそこにあり歴史の記憶と一体となり桜の散るのが美しく見えたのである

大阪城栄華の城や花は散る夕陽耀(かがよ)いその時惜しみぬ

何か西の方には歴史があるから違っている、歴史の栄華がありそれで感じ方が違ってくるそれが東になると城があっても感じ方が違ってくる
江戸城などでもその跡でも大阪城のようなものを感じないのである
江戸城なら栄華があったのだから何か感じるものがあってもいいのだが感じない
第一江戸城というのは何かイメージできないのも不思議なのである
いづれにしろ桜というとき西の方が美しく感じるものがある
何かそこには人間の栄華あり歴史があり違って見えるのである

南相馬市立病院に桜が咲いている、看護師だと看護婦だとやさしくしてくれとなるが実際は看護というのは厳しいのである
何かヤワな人で勤まらない、家族に看護婦がいたからわかる、従軍看護婦となってシンガポールで四年間勤めた
それはあまりにも過酷でありとてもやさしいだけでは勤まらない、強靭なものがないと勤まらない
だからやさしさでも強さがないとやさしさももてない、それがむずかしいのである
ただ看護師はいめーじり強面の体育系が多いのもそれでわかる

燕が来ると何か気持ちも新しくなる、それで相馬市から新地から山元町へと自転車で行った
ここは原町市もあり相馬市もありそれなりに都会があるともなる
ただ規模は小さい、仙台市となると規模が大きい、でも去年は一回行ったのか今年は行っていない、というよりコロナウィルスで行けないのである
スーパーヒタチでもがら空きで人が乗っていなかった
常磐高速のSAでも人が少ないという、こうして交通機関とかは客が急激に減った
第一人と接触することが危険だからどうにもならないのである
みんなマスクしているし近づくこともできないとなるからだ












JーREITを一月に売って損失をまねがれた (それは地銀の営業マンを信用できなくなったからだった)


JーREITを一月に売って損失をまねがれた

(それは地銀の営業マンを信用できなくなったからだった)

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急落から反発してあがってはいる


JーREITを一月に売って良かった、急激にコロナウィルスで下がったからだ

ではコロナウィルスを見越して売ったのか?

それは地銀の営業の人を信じられないから売った

そもそもリーマンショックの時もっていた株が上がってきたときJ-REITに回した時から
不信感をもつようになった

その営業の人はまず何か資金運用をまかせられる人ではない
そもそも今やゆうちょでも農林中金でも地銀でも大手銀行すら投資先がなくCLOとかの怪しい所に莫大な金をつぎ込んでいてそれで大損失になるとしている
ゆうちょでも今や信用できないものとなった
地域の金融機関が信用できないものとなった
それは貸す先がなくなり金がだぶついているからだ
その金がゴールドマンサックスとかを通じして奪われているとしている

小泉首相のゆうちょの民営化はそうしたアメリカの銀行に金を貢ぐためだったということはそのことだったのかとなる

ともかく地銀でも売るとき買う時に大きな金が入るから手数料が入るからそうする
何も株が上がってきていたのだからそのままにしていれば良かったのだが自分のノルマを果たすためにJ-reitに株を売って回したのである

つまり自分がJ-reitを売ったのは地銀を信用できなくなった!

地銀にまかせられないと内心思っていたから売ってくれと言ったのである

コロナウィルスを予測したわけでもなんでもない

地銀は信用できない、営業も信用できない!

ただ株でも投資信託でもリスクはある、だからそのリスクを承知の上でやるべきだとなるそのリスクがあったからとして責めることはできない

でも地銀とかの営業の人はただ頭の中がノルマを果たすことになっている
地銀でも地銀のもうけばかりを考えている
そして投資のプロではない、銀行の支店長は株のことは知らないと言っていたからであるそういう知らない人が顧客の金を勝手に投資に回して利益を得る
そのこと自体が間違っている

ただ正直投資は株でもあくまでも自己責任である、だから結局知らないものはやるなともなる
地銀であれなんであれ金融機関にまかせるしかない人はやるべきではない
私の場合はいちいち投資のことばかりに時間をさけないからまかせたのである
人間はいろいろいなことはできない、だからどうしてもその道のプロにまかせることになる、でも地銀などは全く投資とか株とは無縁の所だったのである
素人と変わりないのに商売しているのは詐欺だともなる
そして責任は顧客がとらされるのである

大工さんでも庭師でも普通の仕事はその道のプロなのである、これも素人に頼んだら花は咲かないとかまともな仕事ができなかった、そしてこれも金ばかりとられたのである
ペンキ塗るにしても素人だとやり方が間違っていた、だからすぐにはげたおちたとなる
でもプロの人に頼んだらそのやり方から違っていたのである

要するに金融の投資のプロとなるとそういう人は地方ではいないと思う
第一地銀とかゆうちょとか信用組合とかそういう所は株とは投資信託でも仕事としては関係していない、ただ投資先がないということでもうけることができないのでそういう今までしていないことに手を出すようになった
それが顧客の金もそうした投資信託とか何か訳のわからない保険とかをすすめて問題になった
これまでは地方ではゆうちょとか地銀とか農協とかでも信用されていたのである
そこは常に通うなじみのある場だったのである
それが時代が変わり崩れてしまった

でも地銀とかは転勤族が多く地元の人ではない、ゆうちょとか農協は地元の人である
そうするともし投資信託などをすすめて損したら恨まれる、すすめた人もうらまれる
それが地元に住んでいるから余計にそうなる
そこに住んで生活することと遠くから來る証券マンとかの相違である
地域だと代々住んでいるとかで信用を築いていることがある
そもそも信用はなかなか簡単に築けない、時間がかかるからだ
それで農家は三代つづけてやっと農家の仲間に入れられるというのはそのことだろう

いづれにしろ地銀を営業マンを信用しない!

それでJ-REITを売った

そのことで損を防げたとなる、それは前から信用するべきではなかったのである
また知らない人はただまかせる人は株とか投資はすべきでないともなる
ただ貯金でもこれも安全ではない、目減りしたり預金封鎖があるとか貯金自体も今や安心ではない、そうした不安の時代にどう備えるのかとなると正直わからないとなる

ただトータルでは私の場合損しなかったことが助かった
これが大きく損したりしたら地銀とかを恨んだりするし営業の人を恨んだりする
それより今やゆうちょでも地銀でも農林中金でも信用できないとなる
このことが地方で大きな問題になる
そういう場所は最も信用されていた場所だったからである

そもそもこれからは金は信用できないものとなる、金は紙切れになる恐怖がある
インフレも心配になる、実際物価は食料品は上がっている
金の価値が下がっている、だから金自体の価値が下がる
物とかスキルとか技術とかの価値の実体となるものの方が金より有効になる
食料がなくなればもう金をいくら積んでも買えない、戦後の焼野原のとき食料を得るために都会の人が貴重な着物と食料を交換するために農家に直接頼んだようになる

ただ人間社会でもそれぞれの一生でも

悪いことは長くつづかない

楽なことも長くつづかない

幸運は長くつづかない

幸運も長くつづかない、阿部首相は幸運だったのでありコロナウィルスの危機で無能だったことが判明した、ただ幸運で長くつづいていただけなのである
なぜこの辺では自分自身にしても10年間くらい苦しみの連続だったのか
それも幸運は楽なことは長くつづかないということだった
コロナウィルスにししても長くつづかない、いづれには終息する、だから実際は今が株の買い時だとなる
リーマンショックで半分になった株が元にもどして上がり続けたことでもわかる
株は下がりつづけることはない、とこかで反転して上がるようになる
ただその周期が十年くらいになるとすると老人は先がないから株には投資には向いていないとなる
それで庭の夏蝋梅の葉が大きく木陰になっているので夏は良かった
でもそれを短く切ってしまった、そしたらそれが成長するまで長い時間がかかる
つまり老人は先の時間がない、木を植えたとしても成長に時間がかかるから時間のかかるものは植えたくないとなる
だから老人は復興に向いていなかったのである
10年と20年とか時間がかかることができないからである







posted by 天華 at 11:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2020年04月18日

南相馬市のコロナウィルスの影響 (はらまちユッサは営業停止・・レストランは・・)


南相馬市のコロナウィルスの影響

(はらまちユッサは営業停止・・レストランは・・)

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はらまちユッサ

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高見ホテルのレストラン

写真で見るより広い空間である


新田川のユッサは五月の連休過ぎるまで営業停止であった
これも結構長いとなる
ここはあまり利用していないから自分にとっては影響がない

レストランでは高見ホテルのレストランは一週間に一回くらい定期的に行っている
その理由はあそこが広いのである、悠々として食事ができる
それとメニューではサシミ定食がお得である
なぜなら料金が900円でも正味材料だけでも600円はかかっている
それはサシミの内容を見ればわかるからだ、スーパーでそれくらいだとなるからだ
だからもかっていないのである

レストランというとき特に街の古い食堂となると狭い敷地で経営している
場末の飲み屋でもそうである、場所が狭いのである
となると濃厚接触しやすいからコロナウィルスでは危険だとなる
すぐ近くに高見食堂がある、これは高見ホテルとは別だった
警察署の前にある、そこは料理はいいとしても狭いのである
何か狭いと窮屈になるから嫌である、でもそこは混んでいる、料理がいいからだろう
でも濃厚接触してしまうからコロナウィルスには弱いとなる
空間に余裕がない所はコロナウィルスには弱いのである
距離がソーシャルデスタンスが保てないからである

南相馬市ではまた一人感染者が増えたとか結構危険である
すぐ近くに感染者が出たのを知って驚いた
だからみんな今はマスクしている、相当に気を使っている

ただ東京はこのコロナウィルスに対処するには辛いだろう
外に出れないことは精神的にも鬱屈する
田舎だと別に一人で誰もいない所に出ることは簡単だから家に閉じこもることはない
第一そもそも東京とか大都会になるとまず人と接しないで生活すること自体不可能なのである
だから感染者が増えている、その原因がいくら減らすにも接触者を減らすことができないようになっているからだ
8割に接触者を減らすことは至難だとなる

となると感染者を増えるのを止めることができない
とにかく人が密集することで東京でも大都会は成り立っている
それを止めることはできない、だからウィルスには大都会は弱かった
そしてウィルスには危険だった、その点田舎はウィルスにはそれほど影響されないということがあった
ただ外部からどうしても入ってくるから感染者が増えてゆく

でも問題なのは東京を中心にして拡散してゆく、東京からの人の流れを止めないと感染者が増えてゆく、それで地方でも東京で止めてくれないと困るとなる
でもそれは密集して暮らしているのだから不可能にもなってしまう
必ず拡散されてゆく、仙台市からこの辺では拡散されたことでもわかる
あれだけ人が行き来すればどうしても仙台市から東北では拡散してゆくのである

コロナウィルスでテイクアウトがレストランとか食堂ではじめたのはいいことである
その食堂なりの料理があるそれを気軽に弁当として食べられる
なかなかなじみでないと入りにくいのが田舎だからである
つまり人と接しなくても弁当だけを買って食べるとなるなら気楽だとなる
引きこもりでもそれならできるとなる

日本では食堂でもレストランでも狭いから接触しやすい、だから高見ホテルのレストランは広いから例外的だともなる
そして意外と客が入らないのである、だからあれだけ広いのにもったいないとも思う
ただ料理はどこであれ何か飽きる、自分で料理しないと栄養も十分にとれないのである
特に野菜不足になる、だから料理はしていない
とにかくコロナウィルスでは密集しているとか密閉しているとか人と人が接触するのが嫌われる
飲み屋なども狭いのである、路地裏で狭い空間で商売しているから危険だとなる
それは田舎だとある程度可能でも東京とか大都会では不可能である
そこにこのコロナウィルスの問題がありそこが解決できないのである
だから人が集中する都会自体の問題がクローズアップされたのである
posted by 天華 at 18:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

コロナウィルスと原発事故が似ているのはなぜなのか? (既得権者は悪くても罰せられない‐司法でも守られる)


コロナウィルスと原発事故が似ているのはなぜなのか?

(既得権者は悪くても罰せられない‐司法でも守られる)
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colonavirus222.jpg

医師会とかどういうふうに今回関係しているのかわかりにくい
ここは強力な団体だから誰もあからさまに言えないのだろう
特にマスコミでは言えない、医師会がどうだとかマスコミでは指摘しないからである



何かコロナウィルスと原発事故に共通性があるのはなぜなのか?
それを解説していたのが加治将一氏のyoutubeである
日本の根幹に既得権者がいてその人たちを守るためにすべてが機能するようになっているそれで原発事故でもなぜ東電の幹部とか政府でも明らかに過失があったのに罰せられなかったのである
重大な過失があったのに誰も罰せられていないのである
それは司法でも官僚でもマスコミでも既得権者の仲間だから罰しないとしている
司法関係者も東電に天下りしていたからである
東電に天下りした人々を見ればそこが既得権者として上級国民として利権を構成した人たちだということがわかる
だからその人たちは守られる
そういう構図がもともと日本にあるからコロナウィルスでも同じことが起きている

今回のコロナウィルスでもどうしても不可解なことがある

●なぜ日本では検査しないのか?

●なぜ病院で医療を拒否して医療崩壊を言っているのか?

まず検査しないかというより病院で検査させないのである
だから熱がでて病院に行って断られて50もの病院を回っても診てもらえなかったとなる門前払いされているのである
政府では検査したくない、コロナウィルス患者の数を増やしたくない、医師会でもコロナウィルスはもうからないし病院にとっても利益にならない、医師会でも利益にならないから検査しない、でも上級国民は検査するという、それでアナウンサーはマスコミは既得権者の仲間だから検査されて入院して治療できたとしている
一般庶民は診てもらうことさえできなかった

武田邦彦氏もインフレインザと比べて解説していたが十二分に診れる余裕が病院にはあるというインフレインザと比べるとコロナウィルスの数は比べものにならないほど少ないとしている
インフレインザと比べたときこんなに騒ぐ必要はないとしている
つまり医療崩壊など起きていないというのだ
ではどうして医療崩壊のことを盛んにマスコミで言っているのだろうか?
これもテレビばかり見ていたらわからなくなる

今回の謎は原発事故の時は東電という大企業と政府と官僚と司法とマスコミが既得権者でありそれで重大な過失があっても司法でも誰も罰することがなかった
第一司法関係者の天下り先が東電だったとしたらそこに忖度するからできない
この忖度とは既得権への上級国民への忖度だったとなる
これも極めて日本人的な用語でありその言葉が生まれる背景が日本社会にあった
常に忖度するという時、権力をもつものくとか上級国民の利益を守るということで忖度するのである
そこで庶民に忖度することはないのである

なぜ今回のコロナウィルス禍で理解しにくいことが起きているのか?
それはやはり原発事故では強力な原子力村が既得権者となっていてそれに庶民は立ち入ることができなかった
今回でも同じで今度は医師会という日頃お医者様として崇められている人たちの利権がかかわり何かそこで黒い霧がかかり見えなくなっている
医師会というのを庶民でも病気になれば世話になるのだから意外と最も身近なである
だからお医者様に逆らうことはできないとなる
でもお医者様も高額な給料をもらっていてももっと金が欲しいという医は算術にもなっている
ただ別にお医者様が悪人というのではない、そういうシステムとして既得権者の中に入っているから個々の医者も従わざるを得ないとなる

ともかくマスコミの報道からは真実が見えないのである
なぜならマスコミは既得権者の仲間であり利益を得るものだからである
東電でもまた電事連で莫大な800億とかの宣伝費をマスコミに払っていたのである
その時マスコミの幹部は東電によって中国に招待されて歓待されていたとき原発事故が起きたのである
このことがマスコミが既得権者の仲間であり原発の危険性を指摘できない、報道もできないことを示していたのである

だからテレビばかり見ていると真実がわからなくなる、ネットというメデアが生れて対照的に見るにしてもなかなか時間が普通はとれない、するとテレビだけを見て要点を知ろうとする、それだと真実を知ることはできないのである

どうして日本では検査しないのだろうか

どうして病院で熱が出たりしてもコロナウィルスの検査とかしてくれないのだろうか?

そしてなぜ医療崩壊をしきりに言うののだろうだろうか

このことがテレビばかりみていたらわからないのである
それで科学者の武田邦彦氏の言っていることで理解する
それにしても今回もまずウィルス自体がわかりにくいのは放射線がわかりにくいのと似ていた、ただ違っていたのは放射線は一応素人でも計ることができた
放射線を計る機械を買えばできた、そしてその数字を偽ることはできない
それでモニタリングポストの下の土を大成建設の社員が掘って捨てて放射線量を低くしていたのである
私がそのモニタリングポストから離れた所を計ったら倍以上の放射線量があった
つまりモニタリングポストの放射線量は実は半分くらいに抑えられている

このことでわかるのは

政府⇒大成建設⇒放射線を低く抑える

こういう構図があったとなる、政府と大企業とかゼネコンはやはり既得権者の仲間だとなるからそうなる
ただ原発事故とコロナウィルスの相違はその既得権者の仲間に入り利益を得ようとしたのが地元の人たちである、その人たちも利得を得たのである
地域でも自治体でも原発マネーで潤ったのである
コロナウィルスでは何か庶民では利得を得るという人たちはいない
緊急事態宣言で店を閉じたとういことでその損失分をもらえるだけなのかとなる
それすら全国民となると10万くらいだとするととても足りないとなる
このコロナウィルスで地域的に得した所はないのである 

どこかが特別利益を得るようにもなっていない、医師会でも得するわけではない、ただ損したくないとして診療拒否とか何かそういうことが行われているだけである
原発マネーだと地域でも利益を得た人たちがいたのである
だから既得権者の原子力村だけではない、その原発を積極的に誘致した地元の人たちも批判されたのである、原発乞食とか補償金にたかるものとして批判された
でもコロナウィルスではそういうことはない、みんな損する立場になっている
それで全国民に差別なく10万円を与えるとなったのである

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加治将一

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武田邦彦

新型コロナ悲報 この“黒すぎる闇”(2020.2.29)

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テレビでは医療崩壊を言うがyoutubeでは武田邦彦氏はないという

原発事故では「安全神話」がマスコミと結託して作られた
「安全」という報道しかないとにている




posted by 天華 at 12:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2020年04月17日

阿部首相に危機の時のリーダーシップはなかった (今危機に求められるのは強力なリーダーシップ)


阿部首相に危機の時のリーダーシップはなかった

(今危機に求められるのは強力なリーダーシップ)

 自立心のない安全保障観は、アメリカと組んでさえいれば大丈夫という誤った信念を生む。つまり北朝鮮のミサイル対応や尖閣沖の中国船に強く出られるのも、「いざとなったらアメリカがやってくれる」と思うからで、その状態を保つこと、アメリカの要請に応えられる状態を保つことが日本における危機管理の柱になってしまったのである。


 コロナで露呈「危機に強い安倍晋三」神話はなぜ崩壊したのか
4/17(金) 11:16配信プレジデントオンライン

日本はアメリカに負けてから政府も国民も自立心がなくなっていた
アメリカ頼りでありアメリカがなんとかしてくれるというマインドになっていた
日本は独立国ではなくアメリカの従属国でありアメリカの一つの州だという人もいた
結局そのくらい日本は自立心がなくなり独立国でもなくなっていたのである
ソ連との冷戦の時とか高度成長時代はそれでけ良かったのである
それまで大きな危機が来なかったからである

それが津浪とか原発事故とかコロナウィルスで大きな危機が来たとき対処できなくなっていた                                            

日本は原発事故の時、最初に連絡したのがアメリカだった!

スピーディで計測したのを最初に連絡したのはアメリカだった、日本政府ではなかった
こんなことありえるだろうか?

アメリカさん、助けてください!

これしかなかったのである、日本自体で成す術もなかったのである

日本は戦争に負けてからそういう体質になった、危機に対処できないものとなっていた
ただそれが表面化しなかったのは大きな危機が来なかったからである
つまり幸運だったのである

阿部首相にもそうした危機が来なかった

つまり阿部首相の政権が長く続いたのは実力ではない、幸運だったのである
でもそうして幸運が長くつづかない、こうして危機が来て実力が試されることになった
その時阿部首相は対応できなくなっていたのだ

阿部首相が優秀だから長く政権がつづいたというのではない、それも幸運で錯覚していたのである
阿部首相は保守の強権派でもない、たまたまその血筋なのか何なのか実力なくても天皇のような地位に上げられたのかもしれない、それが危機に瀕して対処できなくなった
危機の時本当の人間の実力がわかる、そこで日ごろ隠された能力を発揮する人もでてくるまた全く無能をさらけ出す人もでてくる
おそらく阿部首相は危機に直面ししていないから右の硬派のように見られていたか実際は人格からして優しく見える、また苦労人でもない、血筋で上がってきたから危機に対処できないともなった

ただそれは阿部首相だけではない、日本人そのものが独立心を戦争に負けてから失ったのである
だから国自体が独立心がないのだから個々人も独立心がないと言われたのである
何か独立心を主張すると戦争のことがあり否定されてきた
ナショナリズムとかも否定されてきた、でも国の独立が今や危機的状態になったら必要とされる
現実にアメリカは後退して今度は中国が日本に侵略するような状態になっている
でもアメリカにもう頼れなくなるのである
そしたら否応なく日本は独立心がないと対抗できなくなる
それが右寄りであり戦争になるとか言っても現実問題としてアメリカに頼れなくなるのだからどうするのかとなる

いづれにしろ戦後70年となり時代が変わる波乱の時代になった
この時代の変化に対処することを日本全体が迫られている
まず阿部首相はとてもリーダーシップを発揮できる人ではなかったことは国民は知った
実力がなかったのだか幸運の結果そのことが隠されていたのである
ただそうなると強面のリーダーが軍人のような人がでてきてまた戦前に逆戻りするともなる

つまり日本は依然として戦後なのであり戦争を清算してもいないし総括もしていないし
ただ戦争をのことをあいまいにしてきたのである
だから危機になると戦争のことを見直して日本はアメリカ頼りから脱する
でもそれは大きな決断でありその舵取りするリーダーは強力でないとできない
そうなると戦前のようにファシズムのようなものとして国民の自由を拘束するようになる
でもそもそも危機になったら何か今回のように右往左往しているとますます傷口を広げてどうにもならなくなる
強いリーダーを望んでいることは確かである

日本という国は戦後独立心が消失したこと戦争のトラウマから70年過ぎても逃れられないのである
コロナウィルスでもそうだが日本は国際情勢でも大きな危機にたたされているという
中国とロシアが日本の海で活動を活発化しているというからだ
それはアメリカがコロナウィルスで混乱して衰退してゆく、太平洋から艦隊でも引いてゆく、そこにつけいっているという
日本は戦後70年で危機に直面している
でも日本国民でも独立心はないし政府でも阿部首相にもリーダーシップがないことは判明したのである

こういうとき新たなリーダーになるものが出て来ることが望まれているのだろう
それがまだ形とならない、でも本当に危機になったら中国でも攻めてきたら誰かが強力なリーダーシップをとって国民を導かないと日本は滅びるとなる
中国の属国になるとかロシアに占領されるとかなる
ただ日本は70年間平和でありこうした危機を経験していない、だからどうして独立心をもって国民自体が対処していいのかわからないのである

こういうときは40代とかでも首相になれるかもしれない、どうしても60代以上になるとできない、ただアメリカでは70代でも大統領候補になっているしトランプ大統領は70代だから時代も変わっている
だから現代だと60代以上でも政治でも戦力となる時代である
66歳の大工さん見たら全く体力が衰えていないことに驚いた
50代にしか見えないし体力仕事も高い所での作業をできている、だから今は年齢だけではその人を見れない時代となっているともなる
なかなか歳だけでは判断できない時代になっている
でもITとかなるとどうしても苦手でありテレワークについていけないというのもわかる
ITはいろいろなものがありyoutubeの動画とかなるとめんどうになる
それで老人は不利になっているのである


posted by 天華 at 19:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

コロナウィルスで起きた社会の変化 (それがすべて悪いともならない―神の働きでもあるのか?)


コロナウィルスで起きた社会の変化

(それがすべて悪いともならない―神の働きでもあるのか?)

大気が浄化された

交通事故が減った

交通機関の利用が激減

(飛行機、船、電車、バス、車など)

歓楽街の灯が消えた

テレビの芸人の自粛

俳優や芸能人の収入減

密集化する祭りとかイベントの禁止

エネルギーの消費が減った

人が密集する場が激減

宗教の集団で祈ることの禁止

集団化する組織団体の働き方の見直し

直接人と人が接しない社会  


コロナウィルスで起きた社会の変化は何を語っているのか?
それが必ずしも全部悪いとはならない、もちろん世界の景気が経済が悪くなり恐慌とかなることは世界動乱になりいいものではない
ただ大気が浄化されたというのは人間の活動が止まった結果として二酸化炭素が減ってそうなったのである
これは悪いことではない、また交通事故が減ったのは車社会であり車がもともと多すぎたからである
そして交通機関の打撃も大きかった、鉄道でも乗りにくい、密閉空間だからである
そして駅は人が集まる所だからである

でも何か現代は移動過剰社会になっていた、インパウンドでも膨大な人間が移動する社会である、仕事でも過剰に移動する社会である
それが高速道路とか新幹線とか飛行機とかで加速された 
それが別に悪いということではない、でも過剰移動社会になったときグロ−バル経済になった時問題が起きた
移動が容易な社会だからグロ−バル経済が可能になったからだ
そこで自ら住む場所が軽視されるとか問題が起きた  

金があればどこにずも住めるということは金が第一となる社会でありそれは移動社会を加速させる
だから原発事故で多額の補償金をもらった人はもっと便利な仙台市に移り住んで人が結構いた、つまりどうしても大都市が便利だからそこに移り住みたいとなった
東北には仙台市に住みたいという人がもともと多かったからである
つまりなぜ故郷でも確かに放射線が怖いというのはわかる
でも一挙に若い人たちが脱出して帰らなくなったのか?
それは現代の金が唯一の価値となりどこにでも簡単に移動して住めるという社会のせいもあった
まず江戸時代のようだったら移動することすら簡単にできない、まして移住することはできない、この辺に越中とかから移住して住んだ人は命の危険があって移住してきたからである、それは世界の難民とにている
移住することは国内でも簡単にできなかったのである

とにかくコロナウィルスは人を移動さこせないように強制した、また人が密集しないように人と人が直接接しないように濃厚接触しないように強制した
現代はあまりにも人が密集しすぎたことがある
東京のように満員電車で詰め込まれるて出勤しているのは異様な光景だった
でもそれが日常化していた、今なら適度にすいているからそれが正常だとなる
テレワークになると会社に一週間に一回とか行く、すると自宅とかで過ごしてその住んでいる場所を快適にするようになる
それから東京一極集中しすぎたのである
東京圏に集中しすぎたことが自然の理にかなわないものとなっていた
そのことが日本全体でも世界で歪めるものとなっていた
原発でもそもそも東京の膨大なエネルギーを供給するために福島に作られたのである
福島県は東京から遠くもなく近くもないという場所にあった
それが不幸を生んだのである

このコロナウィルスの不思議は宗教でも集団で祈ることを禁止した
イスラム教などは常に大集団で祈る、メッカでは人が押しかけて将棋倒しで死んだりするそれが宗教なのだろうか?
宗教はそもそもそんなに集団化するものだろうか、そのことはずっと自分の課題として問うてきた
神が現れるのは絶対に東京のような人が密集する騒々しい場所には現れない
なぜなら何もない砂漠にまず神は住んだからである
そこには人はいないし雑多な建物もないのである
そこで一人の人間が予言者から神から啓示を受けたのである
集団はそこにいないのである、釈迦だって洞窟で一人悟りを開いたのである
イスラム教でもマホメットが洞窟で一人啓示を受けたのである
まず集団で神からの啓示を受けることは絶対にないのである

現代の宗教は全部集団化組織化したのもでありそれは政治化経済化したものである
だから本来の宗教は皆無なのである
つまり集団化した示威行為をして政治勢力として働きかけて利益を得ることも目的としているだけである、それは現代の宗教というのはほとんどみんなそうである
利権化権益化した宗教である
だからこそ集団化して密集化して数で示威行動をしているのである
それがコロナウィルスで禁止されたのはなぜなのかとなる
私は何か禅宗に惹かれるのはそれが集団化しないためである
日蓮宗とか真宗の念仏とかがただ題目を唱えて集団化して祈る、それはイスラム教とにている集団化することは権力化することなのである

サムエル記下」の24章で、イスラエルの王になったダビデが人口調査をした話です。

主の怒りが再びイスラエルに対して燃え上がった。主は「イスラエルとユダの人口を数えよ」とダビデを誘われた。

民を数えたことはダビデの心に呵責となった。ダビデは主に言った。「私は重い罪を犯しました。主よ、どうか僕(しもべ)の悪をお見逃しください。大変愚かなことをしました。」

 現代の「人口調査」の意味ではなく、勢力を広げ権威や権力を持つ体勢の拡大を望み数えてしまうこと、それを戒めているのだろうと心に残ったのでした 

こういうことをカルト宗教団体がしている、毎日会員の数を数えている、数が増えればそれだけ勢力が増したとなるからだ
それが神から見ればどうなるのかをここで諭していた
神の見方と人間の見方は違うのである、だから神の見方は今の人間社会を見てどうみるのかとなる、宗教でもどこも数を誇る数で計算される
数を競い合うだけでありその中身は関係ないとなる、それが神にとってどうみられているのか?
神は砂漠に住んでいたように騒々しい場所は嫌う、そんなに数ばかり数えている集団を嫌うのである、それは神の意にそうことにはならないのである

自分自身は東京とかに学生時代いてもなじめなかった
もともと性格的に騒々しい所や人と交わることが苦手であり遂に家庭に恵まれていて60歳まで引きこもりだったのである
何か自然の中で黙想していたのである、自然と一体化するために沈黙の行をつづけていたのである
だから現代社会とは何か合わない性格だった、それでアウトサイダー化したとなる
それで秘境を求めていたのは自分だった、人のいない自然の秘境を求めていたのである
だから現代文明社会とは逆のことを志向していたのである
石と樹とか山とか自然と一体化することアイディンティティ化することを求めてきたのである
だからコロナウィルスで生じたことが不思議なのである
これは自分にとって必ずしも悪いことではないとも見たからだ
ただこれで困窮する人が増えることは必ず影響する、治安が悪くなるのである
すると平穏に暮らせないともなる

でもコロナウィルスとは何なのか?

これは神が現代文明社会を戒めるために送り出したのか?

何かそうも感じるのは現代文明社会は神から見たとき何か異常であり神にとっても好ましいものではないと見ていた
神の前には静粛たれというのがどこの宗教でも同じである、神道でも同じである
ただ日蓮宗とか真宗の念仏は騒々しいのである、イスラム教も集団化してアラーとか念仏を唱えるのとにている、何か騒々しいので嫌いなのである

また本来歓楽街とか芸能人かがもうけて話題になっていることがいいものなのか
それは社会を歪めるている、そんな窮屈なことを言うなとかそれも経済活動であり社会にとって必要である、そんな硬いこと言っていたら生きることもできないとかもわかる
でも問題はあらゆものが限度を越えて過剰になっていたのではないか
あらゆるものがオーバーになりそれが地球的規模になりグロ−バル経済になり大気まで汚染していたのである
物には限度がありそれを鎮静化したのがコロナウィルスの働きがありこれは神から送りだされたのかとまで思った
もちろんこう言えば不謹慎だとかなる、職を失ったりして自殺する人までいる
そういう窮地にあることをお前は無関心なのかとしかられる

でも何かコロナウィルスでもそれは自然の作用なのだろうか?

津浪でも悲惨だったがこれも自然の作用である

自然に逆らった結果として被害があったともなる、なぜなら海岸沿いに住むことは危険なのにあえて住んだとかある、自然の作用として起きるものは人間の力ではどうにもならない、自然に逆らわない生き方が必要だとなる
ウィルスでも結局人間が生態系を無視して汚した、または動物を家畜化することは文明化でありそれで動物からウィルスが必然的に伝播したともなる
動物の家畜化自体が不自然だったともなるからだ
ただ人間には文明化することは不自然なことなのである
だからそこから災いが生れて来る、技(わざ)わいなのである
そういうことは神話でも語られているしそういきう業をもったのが人間だったとなる
だからウィルスでも自然から生まれたものだからそれは自然の作用であり全部悪く働くものとは限らないともなる
コロナウィルスの結果を見れば確かにそういう面があるのかと見たのである




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2020年04月16日

海の都市の抽象画 Sea city abstract painting like venice


海の都市の抽象画

Sea city abstract painting like venice

脳内の抽象画から港の抽象画に変化

Change from an abstract painting in the brain
to an abstract paintingin the port

braininside1111.jpg

 青は理性でありまた冷静である
赤は感情である

これが変化したのが下の抽象画である
これは港の抽象画である

Blue is rational and calm
Red is emotion

This has changed in the abstract picture below
This is an abstract painting of the port

portship2.jpg

change below

seammm11.jpg


arabeskcity2.jpg

arabeskcity7.jpg

arabeskcity11.jpg

arabeskcity12.jpg

arabeskcity13.jpg

arabeskcity9.jpg

arabeskcity8.jpg

arabeskcity10.jpg

パンデミックが発生した時に有利な国ランキング (日本は第五位でウィルスには有利な国?)


パンデミックが発生した時に有利な国ランキング

(日本は第五位でウィルスには有利な国?)

liveworldmap1.jpg
 パンデミックが発生した時に有利な国ランキング」が発表、日本は5位という結果に
2019年10月3日

この世界地理から感染症を分析しているのが興味深い
どういう地域が感染しにくいか、それは文明地帯から大陸から隔離された地帯である
日本でも島根とか鳥取がなかなか感染者が出なかった、未だに岩手県は出ていない
そこは秘境だからともなる

ヨ−ロッパ大陸とかユーラシア大陸とか中国大陸とかロシアとかそこは陸つづきだからどうしてもヒトやモノの流れをとめることができない
だからウィルスには弱いのである、陸続きでどうしても感染が広がり安いのである

ただこの地図で見れば最も歴史が古く島国でも大きな領土であり文明が古いとなると日本がである、日本文明として分類されるくらい五大文明の一つとなるくらいの国だからである、他の国はオーストラリアを除いて小国である
その国が生き残るとしても世界文明に匹敵するものを作りだしえないのである

すると希望的観測として日本がウィルスからも生き残り荒廃した大陸に日本が進出して日本が指導権を握るのかともなる
この20か国では日本が一番その国にふさわしいとなるからだ
つまりコロナウィルスから生き残り日本が指導的立場になり新たな文明を再構築するのかとなる

とにかくこういうことを予想するのもコロナウィルスの影響の大きさ故なのである
それだけ世界的にグローバルに変化をもたらすとなるからだ
日本は大陸から孤立した地理にはなかった、大陸と交流があったが海を隔てていて江戸時代のように鎖国できる国だったのである
それが日本の強みである、他の国は小さいから新たな文明を作る基盤がないのである

ただこれはあくまでも希望的観測であり悲観的見方が多い中でこういう見方をすると日本がコロナウィルスでも有利な立場に立てるのかともなる
それだけの世界的変動がコロナウィルスがもたらすとなるとするとこれは何なのかとなる
コロナウィルス以後の世界はどうなるのか、その予測の一つがこの地図にあるのかとなる

この記事はコロナウィルスが流行する前の記事だったのである
でも今になれば世界的に流行しているからこの地図で現したものは意味がある
コロナウィルスに有利なのはこうした隔離された地域である
ただ台湾が入っていないのは納得できない、台湾も海で囲まれていて中国大陸から感染源から離れていてそれなりの文化もありコロナウィルスの対策で成功した国だからである
つまりコロナウィルスに強いのはこうして大陸から離れて海に囲まれていて閉鎖された地域なのである
こういう地域は閉ざすことがすでに海で閉ざされているからしやすいとなるからだ

これを誇大妄想的になると日本がコロナウィルス以後の覇権国家となるのかとまでになるコロナウィルス以後はヨ−ロッパで三分の一が死んだペストのような状態が再現されるのかとなる
そこでは貧乏人でも生き残った人たちは土地か富を手に入れてかえって豪勢な生活をするようになったとある、なぜなら三分の一が死ねばその人たちの財産が労せずして手に入ることになったからである
その変化はあまりにも大きく想像を絶するものともなっていた
革命が起きたと同じような状態になっていたのである

ただこの逆もありえる、日本は衰退国家になり中国の属国になっているとかにもなる
今はそういう見方が多い、コロナウィルスでアメリカが衰退して中国が覇権国家になり日本は属国になる、普通はそうみる、予測する
ただ中国はウィルスが発生しやすく弱いことは確かである、それは何度も起きるから中国が衰退すると言われるのである
結局未来はわからない、人間では個人でも地域でも不利となるものが有利になる
有利と思えるのが不利となる、そういうことが常にあり地理が世界史にどういうふうに作用するかわからない、大国だからそれがいつまでも栄えるということもないのである
大国がすべて有利になるとは限らないのである
そこに人間には計れない神の意志が働くということがある
地理には神の意志が働いているとなるのだ 

とにかく何でも学問の基礎は地理にある、日本は隈なく旅行したからわかるけど世界となるともう広すぎてわからないのである
ただコロナウィルスで有利だったのは最初は島根県と鳥取県であり今も感染者が出ていないのは岩手県だとかなっている、そういう辺鄙な場所がウィルスには強いのである
そこにヒト、モノの流れが希薄であるからだ
だから江戸時代のコレラでも感染が全国的でも福島県では会津若松市中心に感染しても
桧枝岐(ひのえまた)は隔絶していたから感染者が一人も出なかったのである
ただアマゾンの部族にも感染して危機だとされているのと意外と人が今は入って来ている宣教師とかも入ってきたためだとかともされる、そういう部族が大被害にあったことがある、免疫がないので被害が大きくなった歴史がある

つまりウィルスから防ぐにいいのは外界との交流を閉ざせる場所だとなる
でも日本で鎖国していても江戸時代にコレラが広がったのである
これをみるとウィルスを防ぐことがいかに困難なのかわかる
特に現代ではこれだけ交通が発達しているのだからほとんどウィルスを防ぐことは不可能になっている、最もウィルスに弱い社会になっていたのである




posted by 天華 at 09:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2020年04月15日

コロナウィルスと原発事故の比較 (医療崩壊で問われる医者の使命)


コロナウィルスと原発事故の比較

(医療崩壊で問われる医者の使命)


原発事故で起きたこととコロナウィルスで起きていることが似ている
大きく違っていることもある

コロナウィルス⇒老人が死ぬ

原発事故⇒若い世代へ次世代への被害


基本的にここが違う、より深刻なのは生物学的には若い世代とか次世代に影響するのが深刻である、種も保存できなくなる
だから高齢化社会は社会全体からみれば生物学的には生態学的には全体から生命の未来から見ればいいものではない
老人に膨大なエネルギーが費やされいるのが現代だからである
そこで未来のためのエネルギーが消失してしまうことが種の保存とかから見ればいいものではない
むしろコロナウィルスは老人キラーウィルスでありかえって種の保存のために生まれたのかとさえみる
老人が多すぎるからその老人を減らすために人口調節のために生まれたのかとも見る
だから原発事故の放射線被害の方がより深刻だったともみる
ただそれは局所的なものだからそういう認識が日本全国でも生まれにくかったし世界的な危機感をもてなかったのである

コロナウィルスと原発事故を比較すると共通点が多い

最初に問題になったのが感染症の専門家がマスコミの全面に立った

これは原発事故の時もそうであり放射線の専門家が全面に立った

つまり現代では専門家支配社会だという時必ずそうなる
放射線でも感染症でも専門家しかわからないとかなる                

すると素人は除外される

あなたにウィルスのことがわかるのですか?

あなたに放射線のことが核のことがわかるのですか?

これと同じことが起きている、そこに素人が立ち入ることができなくなる

そして何がまた問題になるかと言うと様々な団体組織の利権である
政府とか官僚とか学者の団体でも検察でも利権がからんでいてその利権を守ることが優先される
東電というのは検察でも警察でも海上保安庁でも有力な天下り先になっていたからであるだからこそ強固な「安全神話」がそうした利権化した団体によって作られていた
そこにはマスコミも宣伝費をもらって大きな利権を得ていたから批判できない
何ら危険性を報告すらしなかったのである

今度も利権というとき医師会がなんらか強固な利権団体として検査をさせなかったとかある、何か不都合なことがあり医師会の利権が壊されることを恐れて検査しないとか指摘する人がいた
だから千人でもいいから無作為に検査をしてどれくらい実際は感染しているから知らせるべきだというのは正論である
でもそれをさせないのは医師会の利権が関係してそうなっているとか言われる
つまり医師会という組織は自民党を左右する強力な団体だからである
第一医者というとき地域の有力者となりお医者様として庶民も頭が上がらないのである
だからとても医師会などにたてつくことがこれもできないのである
それは「安全神話」を作った利権化した団体に何も言えないのと同じなのである
何か今回の自粛のことで理髪店が省かれたのはここは自民党の支持団体だからと言う人がいた、そういうことで理髪店は省かれたのかと知った
でもそれを言うマスコミはほとんどなかった、どういうわけか舛添前東京都知事がそれをちらっと言ったのである

いづれにしろ今回のコロナウィルスの最前線に立つのは医者とか看護師である
ここでの院内感染で危険にさらされているから応援しようというのはわかる
原発事故とかでは最底辺の人たちが放射線の高い所での処理をさせられた
それは前からである、でもコロナウィルスでは最も地位が高い医者とかが最前線で犠牲にもなるということになった
そこで医者とか医師会でも問われたとなる

まず医師の利権を守れ!

こんなことを言っていたらとてもコロナウィルスと戦いないのである
戦争だとしたらそこで犠牲的精神が必要になる
コロナウィルスから国民を守り最前線で戦うのだともなるからだ
でもそんな犠牲的精神より利権であり一般人からみれば高額な収入でありそれでもたりないと医師会では医療の報酬を上げるようにと医師会が求めていたのである
果たしてそういう人たちが犠牲となることなどできるのだろうか?
今医者とか看護師が一番危険な状態にさらされている
そこで医療崩壊が起きる危険があり院内感染で医者がないて訴えていたからである

でも医者は高給取りだ、だからその給料によって責任の過多がある

何かそんなことにもなるのか?つまりそういう緊急時に自衛隊のように犠牲になることもある、だからこそ国民が税金で高額な金を払っているのだとされるかもしれない
ただ医者自体にそういう自覚をもっている人はまれだろう
医者はたいがい高給取りだし一番尊敬される職業だからなるというのが多いからである

ただ医者だけではない、危険な仕事をしている人は結構いる

その大工さんは常に高い所で仕事しているので命がけでやっている、だから金を多くもらって当然だとしている、絶えずそのことを自分に言うのである
それもそうだと思うから払う、実際大工でも建築関係でも土木でも危険なことがあるからだ

とにかく仕事には危険がある、特に危険な仕事がある、だから医者だけが危険ではない
ただコロナウィルスで高給取りなのだからその務めを果たせ、犠牲も仕方ないとされるのか?
そういう場に今まで直面しなかったから戸惑うともなる
つまり自衛隊が戦争になったら死んでも仕方がない、そのために税金を払っているからだともなる
医者は今その使命を果たすべきだとなるのか?
そのことを医者が受け入れられないというとき医者とは何か問われている

黄熱病と戦い死んだ野口英世とかいたり医者にもそうして犠牲になった医者がいる
でも医者に日頃感じているのはそうしたことより高給取りであり尊敬されることである
まず今の社会で尊敬されるのは先生などにはもうない、医者だけが特別尊敬されるものとしてある                                        

ではなぜそれだけ尊敬されて地位が高く高給取りなのだろうか?

それはそれだけ今回のようにコロナウィルスとかに命がけで戦い犠牲にまでなるということにあったのかとなる
ただそういう自覚がなかったが今回のことで問われたことは確かである

ともかく仕事はミッションがあって命がけになることがある、それは医者だけではない
あらゆる仕事にそういうミッションがあり命がけになることがある
ただそういうことを日頃は自覚していない、でも何かこういう危機の時自覚されるということがある
だから医師会とかでも医者でもただ利権を求めより高額な給料を要求するだけのものとなるときとてもこんなはずじゃない、医者にそんな犠牲が強いられのかと疑問にもなる
でも否応なく今そういうことが強いられているのかともなる
posted by 天華 at 11:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2020年04月14日

コロナウィルスの感染者は人口密度に比例? (人の交流度合いに比例している)


コロナウィルスの感染者は人口密度に比例?

(人の交流度合いに比例している)

colonamap111.jpg

これまでの感染者の数の全国の分布を見ると何か人口密度に比例している
埼玉、千葉、東京、神奈川は当然人口密集地域だからここが中核になって拡散する
群馬県より東京に近く栃木県はそうでないから群馬県の半分になっている
予想したのは仙台市は東北の中核都市だからここから拡散した
秋田の感染者最初仙台市の英会話教師とかが感染させた
そして福島県は宮城県の次に多いということも何か東北の地理とか人口密度を見ると比例している 

東北では宮城県と福島県は東京に近い、福島県はより近いからである
また仙台市と近いから仙台からの人の流れでも感染しやすいのである
青森県が22名でありこれも妥当だと見る
秋田県は14名にとどまり増えていない、山形県は三番目に増えている
山形県は宮城県と仙台市と仙山線を通じて交流があることが関係しているかもしれない
何かこの数字は東北を見ると人口密度でも人の密集度合いでも妥当だと見る
何か数字として数式のように感染者が現れていて分析できる不思議がある
これは科学的統計学として感染者を分析できるものなのかとなる

最初の時期ではなぜ茨城県が感染者が出ないのかと不思議だったが今になると101名だから多い、茨城県は明らかに関東圏だからである

ただ数字でみると静岡県とか39で少ない、岐阜県が多いのは名古屋市に近接しているからである
関西を見ると滋賀県が38で奈良が39である、京都、大阪、兵庫が人口密集地でありそこから多少離れているからそうなっているのか?
ただこの辺は交通でも一体化しているからどうなのかわかりにくい。

中国地方だと広島が56人と多いのはわかる、一番大きな都市であり人口密集している地域だからである
九州になると大分県42名で多いとなる、でも何か人口密度と比例して感染者が出ている
この傾向はこれからもつづく、つまり人口密度が低く、地域的に東京圏とか関西圏の大阪とかから離れていると感染者は少なくなる
それが何か正確であり数式のように割り出せるということは中核都市を閉鎖して交流させないことが感染を防ぐことだともなる
どうしても中核都市から東京から大阪から東北だと仙台市からとか拡散してくるからである、それで中国ではいち早く武漢を閉鎖したのである
                                                      

ただここでなぜ石川県と福井県とか辺鄙な場所が104名とか86名と多いのか?

滋賀県と岐阜県に隣接しているがここが多い、それは何らか外部から感染者が入ったのかもしれない、ここは数字的には地理と関係していない

それからなぜ岩手県は感染者が唯一出ていないのか?

これは仙台市から新幹線で50分で盛岡市になるのだから出ないのが不思議である
検査しないのか何か謎である、ただ人口密度は低い県である
例えば今回は福島県では会津が感染者をまだ出していない
ここでも交通は東京から乗り継ぐ会津鉄道がある、ただここはかなり不便な鉄道である
でも東京と通じているから東京からの感染者が来てうつすことがありうる
ただ福島県では辺鄙な地域となり感染者が出していないのか?

江戸時代のコレラの流行でぱ会津若松市が陸路の街道と新潟県から海路と阿賀野川とか通じて会津若松市に人の物の流れがありまた猪苗代湖の方の陸路から街道からヒト、モノの流れがあり集中して田島の方に伝染した
海路では日本海側に伝染して増えた、その時北前船とかが通っていたからである
でも桧枝岐(ひのえまた)は交通が隔絶していたから感染者は出さなかったのである

とにかくウィルスは人口密度とか交通と密接に関係していたのである
だから分散して住み交通が発達しないと防ぎやすいとなっていた
だから江戸時代だったら関所を閉ざせばウィルスの侵入を防げる
そして江戸時代は村々で自給自足だから閉ざしても村だけでも生活できた
今ならグロ−バル経済であり世界と結びついているからもうウィルスも防ぎようもないとなっていたのである

それでコロナウィルスではいろいろ今の社会を見直す結果となる
生態系に復讐されているとか日本はもともと自給自足できる国内需要型経済だとか言われる、つまり必ずしもすべて外国に頼る経済ではない、韓国は外国に輸出に頼るからコロナウィルスには弱いという時そのためである 

いづれにしろ人口が集中するとか密集する地域はウィルスに弱いし危険な地域だと判明した
東京は一番ウィルスに弱い危険な場所だったのである、それで東京から脱出する人もいたが地方から拒否された
そうなるともし流通が絶えるともう東京とか大都市は籠城できない、食料もなくなるからだ
コロナウィルスそういう東京とかの大都市の危険性を示したのである
      

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posted by 天華 at 20:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

春の夜に死んだ人を思ふ短歌十首 (忘れられるのは人の世の常)


春の夜に死んだ人を思ふ短歌十首

(忘れられるのは人の世の常)


隣なる女(ひと)の思ほえず死ににけり忘れ難くもただずみてあり

死ぬ人の心に残るそは何やなお見つめあれ我が庭の花

隣なる人も老いにき病なり妻も死にしを誰かいたわる

ただしばし逢いにし女のあわれかな嵐に花の散らさる夜かな

亡き人の面影浮かびあわれかな嵐に打たれ花は散らさる

年老いて死ぬ人多しかの人のなお生きにしや春の夜思ふ

友見えぬ何かと思ふ春の夜近くにありて心にかかる

人死してなほ残りしは家なりき思いの深く我は継ぎ住む

この家の五〇年はすぐ春の夜や嵐に打たれ痛み建ちにき

この土地に乳と姉住み母の住み我は受け継ぎ春の夜ふけぬ

去る人の日々に疎しと新たにそ来る人ここになじみけるかな

亡き人の遠くなりゆく十年は一昔かなたちまち過ぎぬ

それぞれの家にそ深き思いあれ人住まずして荒るるは悲し

人はみな忘れられしも悲しかも常なき世かな人は変わりぬ


昨日は嵐であり今日は風が強い、桜も散り始める、何か近くの死んだ老人が言っていたことを思い出す、次々に死んだ人が夢に現れて消えたという

これは何を語っているのか?

おそらくそれだけ近しい人が親しい人が死んだからそうなる、最近経験した一番不思議なことは隣の女性が突然死んでいなくなったことである
その女性とは別に親しくもない、ただ庭に来て花を見て話したことがあったというだけである、ただそれも何回かであり何の親しいということもなかった

でもなぜその女性が死んでしまったことで感じるものが生まれる
それは親しいとかではなく隣に住んでいて隣だから否応なく接することがあってそうなった、ただ隣に住んでいたというだけで死んだ時その人がやはり隣に立っている感じになった、そして自分を見つめている感じにもなったのである
人間はやはり今住んでいて人間的感情をもつのは近しい人である
遠くなったらだんだん去る人は日々に疎しとなる、これはさけられない
ただ隣にいるというだけでそれが最後に身近な人として死んでも思うようになる
遠い人はもう思い浮かべることもできないからだ
だから別に親しくなくても近くに住んで日々顔合わせていればその人の方が大事にもなる
特に晩年はそうなってゆく、なぜならそこが死ぬ場所になってしまうからである
最後に逢っているのは近しい人ともなるからだ

ただ本当にこの年になると死ぬ人が増えて来る、家族もみんな死んだ
それも姉の場合でも10年とかすぎてしまっている、これも早いなとつくづく思う
すると何かその記憶もあいまいなものになってゆく
去る者は日々に疎しとなるのが人間である
いくら親しくしてもそうなる、今現実にここにいる人間が親しいものとなる
そして死んだ人は忘れられてゆくのが人間である

死んだ人は忘れられるが家は残っている、家というのは何かその人の思いの残ったものしてかえって存在感があることになる
人間は死んだら骨となり灰となり塵となり消えるからだ
でも何か残した物は何千年も残ったりする
それでその物を通じて昔を偲ぶとなるのである
とにかく家にはそうして何か故人の思いが残った場所なのである
その土地でもそうである、何か思いが残った場所だとなる
その家にはそれぞれの歴史が必ずあるからである

それで原発事故の避難区域は廃屋となり幽霊屋敷のようになった
それがなんとも淋しいのである、それは人が住んでいたから余計にそうなったのである

春の嵐の夜にこんなことを感じて短歌を作った
今日も風が荒れて桜に吹いているから何か今年はコロナウィルスもあり荒れ模様である

2020年04月13日

新地の海の公園から山元町まで自転車で行く (桜咲く六号線を行く)

  
  新地の海の公園から山元町まで自転車で行く
  
  (桜咲く六号線を行く)

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八幡神社の池の錦鯉
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新地の新しい公園
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  山元町へ入る-ここにまだ津波の被害があった小学校が残ってる

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山元町(6号線)

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春の雷仕事張り切る大工かな 

(八幡神社)

錦鯉異なる色や花盛り

朝日さし桜を写して錦鯉

農家あれ桜菜の花紫木蓮

遠くへと海の展けて朝雲雀

六号線桜咲きつづき山元町
                                          

新地町装い新た公園に朝鳴く雲雀海にひびきぬ

太白山海より望み目印や春の日遠く見えにけるかな

山元町六号線をすすみきて夕暮れあわれ桜の色濃し

山元町夕べ桜の咲きにつつ海を望みて金華山見ゆ


津浪で海の村は消失した、その後に広々とした海の公園が生まれた
松が植えられていた、あそこには風力発電の風車がなく広々としていた
だから前より気持ちいい場所になった
蔵王から太白山が見え牡鹿半島と金華山が見える
ここではまだ大きくは見えないが山元町から大きく迫って見えた
新地町は津波の前より駅で都会並みの駅であり良くなった
津浪は悲惨だったけど復興したと感じる
あの新しい公園は広々として見晴らしが良く気持ちいい場所になったからだ

仙台市や名取市の沖合いからも太白山を確認することができ、江戸時代には千石船がこの山を航海における目印の一つとして見ていたと伝わる。また、閖上周辺の漁業では太白山を基準の一つとして漁場の確認を行っていたという

新地から山元町に入ると蔵王と太白山が見える、この景観が電車からだと見えない
だから電車では百回以上行き来してもその景色がわからなかったのである
だからつくづく電車でも旅したことにならないのである
その地勢とか地理でもわからなかったのである
近くですらわからなかった、交通の便が良くなりすぎて近くがかえってわからなくなっていたのである
太白山は300メートルくらいでも海から見えるから目印になった
ここから見ても平坦な地にぼつんと小高い山となって三角形で見えたのである
だから海からも見える山だったのである 

地理からみれば南相馬市とか相馬市とか新地から山元町から亘理町から仙台から石巻と海岸沿いは一体感を感じる、津波の被害にあった所が一体として感じる
でも阿武隈山脈(高原)にさえぎられるから福島県の福島市とか中通りは一体化を感じないのである

なぜ伊達政宗がヨ−ロッパまで太平洋を渡り船で使節を送り出したのか?
そんな発想自体東北から生まれたのが不思議である
ただ地理から見ると宮城県は海と密接に結びついて港があるから入江もあるから海に展ける地の利があった、だからこそそれだけの発想が生まれた

正宗雄想
春望千里
太平洋哉
欧州渡船

こういう展望がひらける、新地から山元町は伊達藩の領域であったといとき、やはり金華山とか牡鹿半島が近づいて大きく見えるのである
蔵王を大きく見えるから山形県ともそこで一体化するということがある

とにかくこうして地理を知るには電車でも車でもわからない、そこが現代の盲点なのである、自転車で徐々に山が迫り大きく見えたり海が陸地から展望する
地理を知るには車でもわからない、早すぎることもある
徐々に見える時、心にまさに迫って印象深くなる、記憶されるのである
ただヤマハのYPJ-XCは何度も言うけど走り安いから行けるのである
体力なくても行ける、ただ疲れるようになり腰が痛くなる、だから遠くまで行くとなると限界になったのである



山元町を走るスーパーヒタチ (春の夕暮れ金華山と牡鹿半島が見える)

                        
山元町を走るスーパーヒタチ

(春の夕暮れ金華山と牡鹿半島が見える)

superhitachi11.jpg
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この場所は撮影ポイントである、金華山と牡鹿半島が山元町に来ると大きく見えた
新地からも見えたがここでより迫って見えた
これは午後4時半頃であり下りが先で上りが10分後くらいに来る
だから撮影する時間としてもいい、ただ夕暮れになっていたのではっきりしない
でも金華山がかなり大きく見えている
良く見ないとわからないかもしれない
このスーパーヒタチにはこの辺の復興を感じた

ただコロナウィルスを人が運んでくるということでこれまた時期が悪いとなった
電車は密閉された空間で喚起が悪いからだ
だからどうして満員電車とかでも東京ではうつると思う
それをとめることができないことはやはり感染者が増えてゆくように思う
とにかくこのスーパーヒタチが走ったことは見ていても気持ちがいい
普通電車だと絵にならないがスーパーヒタチは絵になる
これにまだ乗っていない、何か家の工事とかコロナウィルスとかで忙しくなったのであるここまでは新地から自転車で行った

原発の安全神話とコロナウィルス (日本人の同調圧力によって隠蔽される)


原発の安全神話とコロナウィルス

(日本人の同調圧力によって隠蔽される)

日本人には日本人の特質がある、それで原発でも強固な「安全神話」が作られた
政府、東電、科学者、学者、マスコミが一体となり安全神話が作られた
それに逆らうことはできなかった、地元民には金が与えられて金で操作された

今回のコロナウィルス騒動でも同じようなことが起きている

日本では極端に死者数が少ない、100人とかである

するとどうしして日本ではそんなに死者数が感染者が少ないのかとなる
でも感染者は確実に増えている、だから検査しないというわけではない
ただ死者数は少なすぎるのである、そこで隠蔽しているのではないかとなる

その隠蔽の工作が日本では巧妙に行われていると加治将一氏のyoutubeで指摘している
死者数は葬儀社関係でも隠されているという、コロナウィルスで死んだ人も他の死因にされているという、その辺のからくりが謎である

でも原発事故がなぜ起きたのかを追及する時、やはり危険を隠蔽されたことから起きた
原発はブラックボックスであり素人は普通の人は立ち入れなかったからである
そしてマスコミは危険を知らせることがなかった
なぜなら東電ではその内部で十数メートルの津波が来ると試算していた
それでその対策をとるべきだったと事故の後に裁判にもなったからである
東電ではコストがかかるから津波対策をしなかったのである
そういうことをマスコミでも大々的に報道していない
この辺では津波が来ないとして危機感がなかった

でも400年前に700人溺死と相馬藩政記に記録されていた、でもそれは二行だけであり誰も知らなかったのである
要するにその時相馬藩を治めていた政治家はその被害の状況を記録にのせたとしてもほとんど無視していたのである
700人も死ぬことは今なら大災害でありその詳細な報告が記録されてもいいからである
でも二行しか記録されなかったのである
でも家督相続とか戦争のことを詳細に記録されている
また国玉神社が祀られているがこれは国の魂として相馬氏の殿様の子息が子供の時死んだから祀ったのである
でも700人が津波で溺死したということで一つの碑も立っていないのも不思議なのである
今なら津浪の被害者の名前を記した碑がいたる所にあるからだ
だから昔から為政者は為政者の特権が最優先されたという意見には賛成する

それで日本がコロナウィルスで感染者でも死者数でも少ないのはなぜなのか?

それがまさに謎なのだけどやはり隠蔽されているのかとなる
いくらコロナウィルスに感染するからと自粛とか非常事態宣言しても欧米のように完全な封鎖ではない、普通に依然として行き来できる、街に人がいなくなったとしても依然として開いている店はあるし飲食店でも何か歓楽街の店でも開いている所があるという
つまり自粛には強制力がないからそうなっている
東京からも地方に出れないということではない、交通機関は閉鎖されていないからだ
そしたらコロナウィルスをもった人が広がるのを止めることはできない

ともかく隠蔽するということが今問題なのはそれが今度は世界的なものとして責められるからだ
それは中国でも言えた、中国の統計は何でも信用できないとされているからだ

そして日本の統計をも信用できない!

それが問われている、そう言われるのはこのコロナウィルスが世界的な問題だからである世界的にその数とか原因を追究しなければならない問題だからである
その点で中国も隠蔽するから不明になり世界的不安になる
また中国から拡散されるのかとなるからだ
それは日本でも同じなのである

なぜ日本はこんなに数は少ないのだ

その原因は何なのだ

それは中国と同じで隠蔽しているからだ

こうなれば日本は世界的に信用できない国だとなり中国と同じだとなる
別に数が少ないのは日本独自の原因がありそれが証明されれば世界的に日本を参考できるでも隠蔽していたらそれも参考にならないのである

いづれにしろ原発事故でもそうだったように隠蔽されるとその災いが巨大化してとりかえしつかないことになる
原発事故では放射性物質に汚染されて故郷に住めなくなったからである
二万年プルトニウムが消えないとかなったからだ
それでコロナウィルスでも隠蔽されるとあとでその隠蔽が明るみに出されても時遅しとなる、日本からコロナウィルスが広がるとか日本は信用できない国だとされる
コロナウィルスは世界的な問題だから余計にそうなる
おそらく政府は原発事故と同じように危険だというとき日本人がパニックになるから隠蔽し続けた、結果的に取り返しつかない大惨事となった
コロナウィルスもまた隠蔽した結果、実際は死者数は万人とかいて感染者の数も報告されているより多くて手遅れだったともなる
つまり対策が手ぬるいから手遅れとなっていたともなる

なぜ情報が隠蔽されると問題なのか、それは事実と向き合うことができない、事実と向き合い対策がとれないからである、それは原発事故でもそうである
隠蔽が先にあり事実は隠される、その危険に対して真剣に対策できないのである
だからそういう事実はないとされればそうならざるをえない
そして過去の事実も相馬藩のようにわずか二行だけ記されていて誰も知らなかったとなる
つまり津波の被害の事実はなかった

そうされるのである、それは後世の者にとっても非常に危険なことになる
もし津波の被害のことをもっと記されていたらみんな危機感をもつからである
だからここでは津波は来ないとされていたのである
それで逃げないで死んだ人もいたのである
だから事実を隠蔽することは後世のためにもならないのである

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加治将一

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2020年04月12日

コロナウィルスで変わる社会 (グローバル広域社会と密集都会の危険)


コロナウィルスで変わる社会

(グローバル広域社会と密集都会の危険)


コロナウィルスで打撃を受けたのは何か?

●グロ−バル広域経済

●交通機関

●インパウンド観光

●歓楽街とか芸能スポーツ関係

●イベントなど人が密集すること

●人が密集する都会

●東京都と地方の分断

・・・・・・・・・・・

いろいろあるが基本的にグロ−バル経済は縮小せざるをえない、なぜなら中国発のウィルスが世界中に広まったからである
中国はグロ−バル経済の恩恵で発展してアメリカと伍する力をもつようになった
それで一帯一路政策で世界支配を目指したのである
それに歯止めがかけたのがコロナウィルスだった、これは欧米も打撃であり衰退をまねがれえないともなった

それとともに交通機関が発達したから世界との人でも物流でも盛んになったからグロ−バル経済が可能になった、飛行機でも鉄道でも車でもその目を見張るような技術の発達でグロ−バル化が可能になった
でも今回のコロナウィルスではこの交通機関が大打撃になった
人と接触することが一番危険だとなるからだ
そもそもイタリアが被害が大きかったのは中国人が労働者としてかなり入ってきて感染したのである
何かグロ−バル経済はいいものとしてばかり見て推進された
世界で交流が拡大すればするほどいいものとして推進された
でもすでにそれが限界状態になっていたし問題が生じていたのである
そのことはいろいろある、それを指摘してきた

それから密集する場がコロナウィルスで拒否された、その密集する場とはどこなのか?
その最大の問題は都会が最も人が密集する場なのである
そのこと自体が問われた、都会で人と接することなく生活することは不可能である
常に密集空間の中に置かれている、そのことはもう解消できない
だから首都移転とかが必要になる、密集を解決するには分散して生活する他ない

それで岩手県最後まで感染者がでないのか?                                

それは広い地域に分散して生活しているからだという、つまり現代社会は密集する生活だった、それで東京圏内に人が密集したのである
東北だと仙台市に密集するようになった
その密集することがウィルスにとって最大の問題であり危険地帯となった

それから歓楽街とか飲食業が打撃だったのはそこも濃厚接触とか人と人が接触する場だからである、ただ歓楽街と芸能エンタメ関係がなくてもいいとか言われる
これまでもうけすぎたとかも言われる、それより農業やれとか言われる
食料が外国から入らないからである
こういうとき農業は強くなる、戦後は食料がなく都会の人が農家に着物などもって食料と交換したとか農家に頭を下げて食料をゆずってもらったのである
そういうことが再現されるのかとなる
ただ農業の仕事はきついから芸能人ができるのかとなる
でも背に腹は返られずとかなるとやらざるをえなくなるかもしれない

グロ−バル広域社会は何かいいようで問題があった、一体地球の裏側から食料を買って生活することが人間にとって正常なのか?
そんな遠くから物を運んでもらって生活することが正常なのかとなる
そんな遠くからもう何か今回のようなことがあったら食料はただちに入らなくなる

何でも金があっても買えるけではない

金は万能ではない、ただの紙切れなのである、物がなくなったら何でも金で買うことはできない、特に地球の裏側となればもう金では買えない、運べなくなる
そして食料は自国優先になるから外国では輸出しなくなったからだ
それは予想されていたことだが東京では日本の食料は高くつくとして外国産に頼っていたでも外国から入らなくなったらもう生きてゆくこともできなくなる
食料は最優先でいくら高くても買わざるを得なくなるのである
その時金すら通用しなくなる、金で買えなくなるということもある
戦後の食糧難では金で食料は買えないから物で着物などで交換したとなるからだ

つまり金万能の社会は何か理不尽だというときそれはグロ−バル社会でも広域社会でも金があればなんでも可能だとなったことである
だからなぜこの辺で原発事故で人が住まなくなった、故郷から離散した
それは補償金の額が大きかったこともある、もちろん放射線から逃れるためだということもある
でも何か現代社会はグロ−バル化とか広域社会であり金さえあればどこにでも移動して住めばいい、金さえあれば歓迎されるし通用する
だからこそ多額の補償金をもらったから移動した場所でみんな家を建てて金があると遊んでいて地元の人にひんしゅくを買ったのである
そういう社会は実際は何か歪(いびつ)なものをもたらしたのである

何か親戚でもないが東京に住んでいる人は金だけをくれと要求してくる
その人は金だけが欲しいのである、それは自分自身の家にもそうしたことがあり責められることは確かである
でもその人はこっちが病気になろうが何になろうが関係ないのである
金だけをくれとなる人なのである、そういう人間関係がそもそも成り立つのかとなる
そんなら遠くの親戚より近くの他人が頼りになるとなる
金だけの関係で人間関係が成り立たないのである、それが異常なほど金だけの価値が増大したのである、その人は何ら病気になっても何もしない、ただ金をくれというだけであるそれは他人にすぎないとなってしまうのである
だから人間は金だけ人間関係が作れのかとなる
ただ地元に住んでいるとどうしても身近だから何かあったらすぐに来れるし金がなくても助けられることはあるのが違っている

グロ−バル経済とか広域社会とかを全部否定することはできない、いいものとしても作用するからだ、ただそれが行きすぎていたのである
人間の生活の基本はやはり自給自足が基本である、江戸時代のようにはできないにしても地域と言ってもそれは現代だと関東地域とか東北地域とか広い範囲での自給自足ともなるでもその範囲が広くなりすぎたのである
それを可能にしたのは技術であり交通機関だったのである
そして実際に物を運ぶとなるとそのコストもかかっていたのである
たた通信とかなるとあまりコストはかからない、情報の流通はだからテレワークなどで一層推進されるとなる

いづれにしろ東京の人が地方に来るな、コロナウィルスをうつすなというのも何なのだろうと思う
東京があれだけの人口が密集していてそこが閉鎖されたらどうなるのか?

食料が入ってこなくなったらどうなるのか?

これは恐怖である、武漢のように何とか脱出しようとするのは当然である
地方で来るなといっても食べることがてきなくなればそんなことできないのである
だからこれも何なのだろうとなる、東京のような超密集空間で生活することそれがいかに危険なことなのかを具体的にコロナウィルスで理解させたともなる
人間は分散して生活するのがまさに自然なのである
それで岩手県が未だに感染していない地域なのが不思議だとなる
岩手県でも宮城県と隣接しているし仙台市から盛岡まで50分なのである
そんなところでなぜ感染者が出ないのか?
いくら広い地域に分散していても都市があるのだから感染してもいいはずなのである

ともかくコロナウィルスはこうして今までの文明生活自体を問うものとなったことは確かである、それだけの変化を世界にもたらすことが不思議だとなるのだ


posted by 天華 at 14:39| Comment(2) | TrackBack(0) | 時事問題の深層