2020年04月14日

コロナウィルスの感染者は人口密度に比例? (人の交流度合いに比例している)


コロナウィルスの感染者は人口密度に比例?

(人の交流度合いに比例している)

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これまでの感染者の数の全国の分布を見ると何か人口密度に比例している
埼玉、千葉、東京、神奈川は当然人口密集地域だからここが中核になって拡散する
群馬県より東京に近く栃木県はそうでないから群馬県の半分になっている
予想したのは仙台市は東北の中核都市だからここから拡散した
秋田の感染者最初仙台市の英会話教師とかが感染させた
そして福島県は宮城県の次に多いということも何か東北の地理とか人口密度を見ると比例している 

東北では宮城県と福島県は東京に近い、福島県はより近いからである
また仙台市と近いから仙台からの人の流れでも感染しやすいのである
青森県が22名でありこれも妥当だと見る
秋田県は14名にとどまり増えていない、山形県は三番目に増えている
山形県は宮城県と仙台市と仙山線を通じて交流があることが関係しているかもしれない
何かこの数字は東北を見ると人口密度でも人の密集度合いでも妥当だと見る
何か数字として数式のように感染者が現れていて分析できる不思議がある
これは科学的統計学として感染者を分析できるものなのかとなる

最初の時期ではなぜ茨城県が感染者が出ないのかと不思議だったが今になると101名だから多い、茨城県は明らかに関東圏だからである

ただ数字でみると静岡県とか39で少ない、岐阜県が多いのは名古屋市に近接しているからである
関西を見ると滋賀県が38で奈良が39である、京都、大阪、兵庫が人口密集地でありそこから多少離れているからそうなっているのか?
ただこの辺は交通でも一体化しているからどうなのかわかりにくい。

中国地方だと広島が56人と多いのはわかる、一番大きな都市であり人口密集している地域だからである
九州になると大分県42名で多いとなる、でも何か人口密度と比例して感染者が出ている
この傾向はこれからもつづく、つまり人口密度が低く、地域的に東京圏とか関西圏の大阪とかから離れていると感染者は少なくなる
それが何か正確であり数式のように割り出せるということは中核都市を閉鎖して交流させないことが感染を防ぐことだともなる
どうしても中核都市から東京から大阪から東北だと仙台市からとか拡散してくるからである、それで中国ではいち早く武漢を閉鎖したのである
                                                      

ただここでなぜ石川県と福井県とか辺鄙な場所が104名とか86名と多いのか?

滋賀県と岐阜県に隣接しているがここが多い、それは何らか外部から感染者が入ったのかもしれない、ここは数字的には地理と関係していない

それからなぜ岩手県は感染者が唯一出ていないのか?

これは仙台市から新幹線で50分で盛岡市になるのだから出ないのが不思議である
検査しないのか何か謎である、ただ人口密度は低い県である
例えば今回は福島県では会津が感染者をまだ出していない
ここでも交通は東京から乗り継ぐ会津鉄道がある、ただここはかなり不便な鉄道である
でも東京と通じているから東京からの感染者が来てうつすことがありうる
ただ福島県では辺鄙な地域となり感染者が出していないのか?

江戸時代のコレラの流行でぱ会津若松市が陸路の街道と新潟県から海路と阿賀野川とか通じて会津若松市に人の物の流れがありまた猪苗代湖の方の陸路から街道からヒト、モノの流れがあり集中して田島の方に伝染した
海路では日本海側に伝染して増えた、その時北前船とかが通っていたからである
でも桧枝岐(ひのえまた)は交通が隔絶していたから感染者は出さなかったのである

とにかくウィルスは人口密度とか交通と密接に関係していたのである
だから分散して住み交通が発達しないと防ぎやすいとなっていた
だから江戸時代だったら関所を閉ざせばウィルスの侵入を防げる
そして江戸時代は村々で自給自足だから閉ざしても村だけでも生活できた
今ならグロ−バル経済であり世界と結びついているからもうウィルスも防ぎようもないとなっていたのである

それでコロナウィルスではいろいろ今の社会を見直す結果となる
生態系に復讐されているとか日本はもともと自給自足できる国内需要型経済だとか言われる、つまり必ずしもすべて外国に頼る経済ではない、韓国は外国に輸出に頼るからコロナウィルスには弱いという時そのためである 

いづれにしろ人口が集中するとか密集する地域はウィルスに弱いし危険な地域だと判明した
東京は一番ウィルスに弱い危険な場所だったのである、それで東京から脱出する人もいたが地方から拒否された
そうなるともし流通が絶えるともう東京とか大都市は籠城できない、食料もなくなるからだ
コロナウィルスそういう東京とかの大都市の危険性を示したのである
      

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posted by 老鶯 at 20:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

春の夜に死んだ人を思ふ短歌十首 (忘れられるのは人の世の常)


春の夜に死んだ人を思ふ短歌十首

(忘れられるのは人の世の常)


隣なる女(ひと)の思ほえず死ににけり忘れ難くもただずみてあり

死ぬ人の心に残るそは何やなお見つめあれ我が庭の花

隣なる人も老いにき病なり妻も死にしを誰かいたわる

ただしばし逢いにし女のあわれかな嵐に花の散らさる夜かな

亡き人の面影浮かびあわれかな嵐に打たれ花は散らさる

年老いて死ぬ人多しかの人のなお生きにしや春の夜思ふ

友見えぬ何かと思ふ春の夜近くにありて心にかかる

人死してなほ残りしは家なりき思いの深く我は継ぎ住む

この家の五〇年はすぐ春の夜や嵐に打たれ痛み建ちにき

この土地に乳と姉住み母の住み我は受け継ぎ春の夜ふけぬ

去る人の日々に疎しと新たにそ来る人ここになじみけるかな

亡き人の遠くなりゆく十年は一昔かなたちまち過ぎぬ

それぞれの家にそ深き思いあれ人住まずして荒るるは悲し

人はみな忘れられしも悲しかも常なき世かな人は変わりぬ


昨日は嵐であり今日は風が強い、桜も散り始める、何か近くの死んだ老人が言っていたことを思い出す、次々に死んだ人が夢に現れて消えたという

これは何を語っているのか?

おそらくそれだけ近しい人が親しい人が死んだからそうなる、最近経験した一番不思議なことは隣の女性が突然死んでいなくなったことである
その女性とは別に親しくもない、ただ庭に来て花を見て話したことがあったというだけである、ただそれも何回かであり何の親しいということもなかった

でもなぜその女性が死んでしまったことで感じるものが生まれる
それは親しいとかではなく隣に住んでいて隣だから否応なく接することがあってそうなった、ただ隣に住んでいたというだけで死んだ時その人がやはり隣に立っている感じになった、そして自分を見つめている感じにもなったのである
人間はやはり今住んでいて人間的感情をもつのは近しい人である
遠くなったらだんだん去る人は日々に疎しとなる、これはさけられない
ただ隣にいるというだけでそれが最後に身近な人として死んでも思うようになる
遠い人はもう思い浮かべることもできないからだ
だから別に親しくなくても近くに住んで日々顔合わせていればその人の方が大事にもなる
特に晩年はそうなってゆく、なぜならそこが死ぬ場所になってしまうからである
最後に逢っているのは近しい人ともなるからだ

ただ本当にこの年になると死ぬ人が増えて来る、家族もみんな死んだ
それも姉の場合でも10年とかすぎてしまっている、これも早いなとつくづく思う
すると何かその記憶もあいまいなものになってゆく
去る者は日々に疎しとなるのが人間である
いくら親しくしてもそうなる、今現実にここにいる人間が親しいものとなる
そして死んだ人は忘れられてゆくのが人間である

死んだ人は忘れられるが家は残っている、家というのは何かその人の思いの残ったものしてかえって存在感があることになる
人間は死んだら骨となり灰となり塵となり消えるからだ
でも何か残した物は何千年も残ったりする
それでその物を通じて昔を偲ぶとなるのである
とにかく家にはそうして何か故人の思いが残った場所なのである
その土地でもそうである、何か思いが残った場所だとなる
その家にはそれぞれの歴史が必ずあるからである

それで原発事故の避難区域は廃屋となり幽霊屋敷のようになった
それがなんとも淋しいのである、それは人が住んでいたから余計にそうなったのである

春の嵐の夜にこんなことを感じて短歌を作った
今日も風が荒れて桜に吹いているから何か今年はコロナウィルスもあり荒れ模様である