2020年07月31日

紫陽花、合歓の花、鬼百合・・・(夏の花の短歌- 亡き人を偲ぶ歌) 紫陽花、合歓の花、鬼百合・・・(夏の花の短歌- 亡き人を偲ぶ歌-猫の写真)


紫陽花、合歓の花、鬼百合・・・(夏の花の短歌-  亡き人を偲ぶ歌-猫の写真)

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この猫は人になれない、さわらせない、近くにはよる
猫を飼う人はその猫に似るというのも本当かもしれない
自分の性格がこの猫ともにているからだ
なれなれしくなく何か人となじまないからだ
この猫は一か月くらいいなくなって尻尾を焼かれて悲惨だった
そこから血が流れていたのである、それもとまったので助かった
そのために余計に人になれなくなったのかもしれない
ただもともと人になれない猫だったのである

いつでもつんとしている、これがいつもの表情なのである
だからまさにこの写真がこの猫にふさわしいとなる

写真の不思議は絵に近くになる、絵の才能が全くなくともパソコンで絵にできる
ここで気づいたのは葉っぱに雫が見えた
するとここを目立たすようにもできる
ここに雨粒を大きく見せたりして加工するのである
また絵だと銀色にして雨粒を描く
つまり猫そのものがシルバーなのである、何か明るい感じがしない
猫は梅雨の日にあっているともなるからだ



雨しととこの道今日も合歓の花

鬼百合の競い咲きにし十数輪 

(京都―八坂神社)

古木なる枝垂桜や京の夕

京の日や枝垂桜によりそいぬ


山鳩の野に飛びにつつ働ける人のありしも実りのあらむ

我が庭の石のぬれにしその上に猫の座りて家にいつきぬ

めずらしき蝶のとまりし街の辻我のみ見るや心にとめぬ

交われ近くの女(ヒト)や草深く藪甘草咲き我が家のあり

紫陽花のことしもやさしく庭に咲き亡きにし女を我が偲ぶかな

我が身とて消えゆくものを今しばし花のそばにしよりそいあらむ

花とてもよりそう見れるその人のありしを思ふその場なるかな


梅雨がつづいた、そろそろあけるかもしれない、今日午後三時空を見たら晴れて来た
何か山鳩は鳩は平和の象徴である、田舎では山鳩は常に見かける鳥である
その鳥にしてももし原発事故のように荒地になって野に働く人もいなかったら
その鳩も活きていないとなる、もし全く人の住んでいない原始の自然だったら別にそこに活きていた

でも人が住むようになったとき違ったものとなった
人が野に働き平和な時、鳩もその人里に来て調和する、人の生活と調和する
そこに暮らしがなくなったらそうは感じないのである
それを象徴しているのが飯館村とか原発避難区域になった所である
人が住んでいない、暮らしもない、それげ生業を返せと裁判も起こした
今あるのはソーラーパネルと今度風力発電とかの工場ともなる

それは確かに利益を出すものだから仕方がないともなる
でもそこに山鳩とかが飛んできて調和するだろうか?
ただ別に田んぼで働いていた人は草刈機で草を刈っていた
するとやはり機械の騒音とかがそこにある
意外とこの草刈の騒音が嫌だいう人がいたのもわかる
毎日どこかで草刈しているからその音がするからだ
だから機械から離れて人はもはやありえないのである

庭の石に猫が座っている、雨に濡れた石に座っている
それを見ていると石と猫は一体化して調和する
猫が石になり感じである、自然は動物でも自然と調和する
なぜ人間だけが調和しないのかとなる

庭に紫陽花がやっと咲いた、今回は切ったので遅く咲いた
その時ここに姉が立っている感じになる
ただやさしいというとき自分にはやさしかったが優しいという女性ではなかったのである人間は死ぬと理想化するのである、悪い面が見えなくなるからである
となるとやさしいと偲ぶのは何か理想化してやさしい観音様のような女性がそこにあるように見たともなるのだ
人が死ぬとどうしても理想化されやすいのである

花の不思議は花を見ている人がいる、やがてその花を見ている人も消える
その時花もまたその人を偲んでいるとなる
これは別に恋とかの歌ではない、万葉集の歌は死んだ人を偲ぶ歌だとされている
恋とは乞うだったとしている、もう一度死んだ人と会いたいという歌だったとされているからだ

ともかく花とともに季節は変わる、今は合歓の花が咲き山百合が咲き鬼百合が咲いた
花ともに季節は変わってゆく、お盆になればもう秋だとなる




京都の八坂神社について書いた、あそこは30年前とかに行った記憶がある
何か本当に遠い日のことになった、でも京都は春夏秋と四回くらい行っている
それで八坂神社の枝垂桜は大きく見物である
京都に咲く桜でも何か違ってい見えるのが不思議である
それは千年の都だから自ずと何か歴史がそうさせているのである
でも正直インパウンドで外国人であふれたときは行きたくなくなった
情緒もなにもなくなるからだ、修学旅行生でもうるさかったのだから古の京都の情緒はなくなったのである
今なら本当に京都に行くのにはいい、閑散とした京都はありえなかったからである
でもコロナウィルスでまた行けないとなっているのだ
とにかくこれだけ旅行したがそれも今は記憶としてたどるだけだとなる

日本で起きたことが中国でも起きている (三峡ダム崩壊の危機の被害の予想-原発も危機 )


日本で起きたことが中国でも起きている

(三峡ダム崩壊の危機の被害の予想-原発も危機 ) 

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神王TV

三峡ダム決壊で、原発9基が超ヤバい裏話

ダムというのも巨大化すると自然を改造することだからそれだけで自然から復讐されるときがある、最近起きていることは世界的にも日本でもそうである
ダムの放流で日本でも危険なことになった
それからはよう湖は広大だけどそこも相当埋め立てて住宅地にとかしたという
それでそういうもともと湖だった場所がまた湖となり被害を受けやすいのである
水があふれやすいからである、それも自然の改造だから自然から復讐を受ける
それも日本と同じだった

なぜ津波でこれほどの被害を受けたのか?それは仙台の若林区の被害が大きかったというときそこは不動産屋が開発した地域だった
それで学者がそこは津波で危険だと警告したら不動産屋からとがめられたという
そして津波が来た結果大被害になったのである
何か常に利益優先になりそうなる

それから中国の原発9基が長江の洪水で危険にさらされているという、これも怖いと思った、つまり長江洪水の危機は日本の津波と似ていたのである
もし洪水になり原発が崩壊したらそれは中国一国ではすまなくなる被害になる

そしてまた共産党の政府の幹部が500年間は三峡ダムは崩壊しない

と言っていたのもそうである、必ず御用学者がそう言うのである

福島原発でも100万年事故は起こらない!

御用数学者がそう計算していたのである

この構図は世界共通である、政府が御用学者を使い安全でないものを安全だと言わせる
民間は民間で利益第一主義であり不動産屋が無理して開発して津波で被害にあった
はよう湖でも同じ構図である、湖を埋め立てて住宅地とか田畑にして被害になった
だから本当に政府を信用する、政府になんでも任せるということが危険になる

でも政府とか共産党は権力をもっているからその圧力で押し通すことができる
そこに権力の怖さがある、権力さえもてば危険なことでも押し通すことができる
それに抵抗することはできない、共産党一党支配だと反対する者は逮捕されるからだ
日本が民主主義で自由主義だからそんなことがないとしている
でも実際は原子力村が形成されたようにその体制は共産党一党独裁と似たものだったのである、原発に反対することは封じられていたからである

政府は権力で押し通す

民間は利益になればいい

科学技術者は権力に従う

マスコミも時の権力に従い利益を得る

この構図は世界共通しているのである、だからこの逆にならなければ国民の平和は守れないとなる

政府は信用するな

民間は国民は利益だけを考えるな

科学技術は御用学者になるな

マスコミは利益だけを求めるな

太平洋戦争でもこういうことがあった、戦争をあおったのは朝日新聞だとしている
政府を信用しすぎたこともある、それは天皇現人神ということで政教一致になることで加速されたし絶対化された、つまり不敗神話は作られたのである
戦争には負けない、神の国だから負けない、原発は安全だという安全神話は一体化して作られた、それはあまりに強力なものだった
だから誰も反対できないものになっていたのである
宗教でも政治権力と一体化すると危険なものになるのである

政府は信用するな、常に監視せよ!

これが民主主義なのである、中国では共産党一党独裁だからこれができない
日本が自由でも原発に関しては同じだったのである
検察官僚でも東電に天下りして利益を得ていた
だから未だに原発の責任は誰も問われないのである、無罪なのである
ただ必ず責任は誰かかがとらされる、戦争では国民が3百万人死んだし原発では故郷に住めなくなった、その責任は甚大なものだったのである
だから民間でも利益ばかり求めると危険になる、責任をとらされるのである
そこに目覚めなければならない、その責任を必ずとらされるからだ
だから故郷に住めないとか戦争では3百万人死んだとかその責任の結果を常に考えるべきだとなる
権力に唯々諾々と従っていると危険なことになり故郷に住めなくなったり死ぬことにもなる、そういう危機感をもてばいいのだが何か利益になればいいしか国民でも民間でもないのである  

結局民主主義といっても国民がこうして自ら自覚しないかぎり何の効果も発しない
そういう制度があっても活かされないのである、立派な建物があってもそれを活かす人間がいないかぎり無用の長物になる、魂が入らないのである
そうするのは国民の自覚が必要になる
そして党派があるがその党派もまた利益優先主義である
どんな組合でも団体でも組織でも利益優先である、カルト宗教団体でも何でもそうであるそこで漁業組合が東電に漁業権を売りわたしたのもそうである
もともとそんな権利もないのに私的なものとして利用して利益を得ていたとなる
こうして組合とかも必ず正当な権利を追及しているのではない
利益を優先して求めているだけだとなる
原発でも容認されるのは電事連とかがありそれで生活している人がいるのだからそこから莫大な宣伝費がマスコミに流れていた
つまり共犯者だったとなる、結局人間利益から逃れることができない、でも利益だけを求めていると危険なことになる、このジレンマをどうして解決するのか?
それが世界で共通した問題なのである  

マスコミに対してyoutubeというのができたのはいいことだった
テレビばかり見てたら政府の言う通りにもなる、それは原発の報道でもわかる
マスコミ全員が朝日新聞でも幹部が原発が爆発した時、中国に招待されて歓待されていたからである
それでyoutubeで放送されることでバランスがとれるとなる、ただyoutubeはチャンネルが多すぎるので選ぶのが大変だとなる
情報が錯綜してしまうのである、でもマスコミの六局支配は異常だったのである
それが情報を一方的にしたのである、youtubeの不思議は簡単にテレビ局など個人でもできることであった
またインタ−ネットだと一個人でも新聞でも雑誌でも発行できるメデアだと思った
だから民主主義の発展の強力なツールになるとも見た
自分自身でもこうしてとにかく自分の力で書いて報道するとき自らが力を得たとも感じるからである、でも確かに読む人とか見る人の数に左右される
その数を得ることがインタ−ネットの世界ではむずかしいのである
だからどうしても選ばれた者は読んだり見たりするがそれが意外は全く読まれない見ない無視されるとなる、これも問題だと思った




posted by 天華 at 09:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2020年07月30日

疫神社(八坂神社がなぜ多いの?) (渡来神と疫病除けの神の謎ー災難が連続するのはなぜなのか)


疫神社(八坂神社がなぜ多いの?)

(渡来神と疫病除けの神の謎ー災難が連続するのはなぜなのか)



私たちの郷里の疫神社にはこういう由緒が書かれています。

「明暦二年(一六五九年)多田村及近邑に疾疫流行し、人民なやみ苦しめり其年十月祠官有光時安十七日間身を浄め、神道を以て妙見大明神に其の事を伺い奉るに、祇園三社を勧請し祈祷をなすべしとの霊告によりて那珂郡博多の津祇園の神を祀り、病邪たちどころに退き邑村の悦ぶところとなる。」

かんながらの道


神道を以て妙見大明神に其の事を伺い奉るに、祇園三社を勧請し祈祷をなすべしとの霊告によりて那珂郡博多の津祇園の神を祀り

八坂神社の境内の三社を巡って御朱印をいただける「三社詣」です。

朱印を頂く宝船の絵が入った用紙をとり、八坂神社の主祭神である素戔嗚尊の六世孫にあたる大国主社からスタートし、続いて八坂神社、つまり御本社へ、そして最後に大国主命の御子神でもある蛭子社(北向蛭子社)


元慶元年(877)疫病が流行したので占ったところ、東南の神の祟りとされた。そのため各社に祈り奉幣が行われたが、一向に治まらなかった。さらに占ったところ、東山の小祠の祟りとわかり勅使を発遣、祈ったところ疫病の流行が止んだ。これが祇園社の発展の契機となり

ここに祀られている蘇民将来は、牛頭天王(ごずてんのう=素戔嗚尊)から疫病を免れる茅(ち)の輪を授けられたという伝承があります。蘇民将来に縁のあるものは疫病にかからないとされ、有名な祇園祭では、粽(ちまき)などに疫病退散を願って「蘇民将来之子孫也」と書かれた札が付けられます。

平家物語の冒頭の部分、「祇園精舎の鐘の音」とあるように、江戸時代までは、仏教寺院にある鐘もあったわけです


この辺で多い神社は綿津見神社と山津見神社と八坂神社とかである
これは本当に多い、ただ八坂神社は全国的に多いのである
綿津見神社と山津見神社も渡来系の安曇氏などの祀る神だから渡来系である

ここで不思議なのは津祇園神社とある、この津なのである、これはこの辺に津神社がいくつかあることで考察した、これは津とあってもツノ神社と読んでいる
それがまぎらわしいのである、ツノとはツノガノアラシトのことのである
伽耶(かや)国の王子のことであり渡来系であり鉄を生産する技術をもった人たちでありこの地に来て鉄作りをしたのである
その跡が今の東北電力の火力発電所のある場所である
津神社は原町に二カ所とかあり相馬市の松川浦に津神社があるがその呼び名はツノミツ神社なのである、これは津波の神様だとかしたが違っていた
また妙見神社は相馬氏の祀る神でありそれは北斗七星でありこれも中国からもたらされた神なのである

神社というとき渡来系が多い、それは何を意味しているのか?
神社は祖先を祭ることが多い、とするとそれだけ渡来系の神社があるということは渡来人が日本に相当数きてその人たちが日本の国造りをしたとなる
ただ謎は逆に縄文時代から韓国の釜山辺りとか伽耶国のあった場所は韓半島でも別な地域であり文化も違っていた、それで縄文人が渡って行っていたともある、その証拠も発掘されている、つまり伽耶国とは必ずしも外国というのではなく日本と一体化した国だったことは確かである
そしてそこが照葉樹林文化帯に属している、そこは気候的にもそうなのである
南相馬市の原町区の原町区江井字西山のスダシイ神社はスダシイの北限の地としている
そして同じく鹿島区海老村のマルハシャリンバイも奄美大島から種が流れて来て根付いた北限の地とされているのである
そういうふうに気候的に温帯地域と寒帯地域の境界線としてあった地域である
その気候風土の境界線が国の境界線にもなるのが歴史ではある

陸奥の真野の草原遠けども面影にして見ゆといふものを (笠女郎)

この万葉集の歌はその境界線だからこそ歌われたのである、ここまでは奈良時代にも知られた地域であり大和王権の領域ともなっていたのである

ではなぜこの渡来神が疫病を防ぐ神ともなったのか?
蘇民将来なども中国系の渡来神である、何かもともといた縄文人なのかその人たちが技術をもった渡来系の人たちに頼ったのかもしれない、技術をもっているということは医学の知識もあったのかもしれない、漢方薬などがそうである
それで他の病気でも直したことがありそれで頼ったのかもしれない、信仰といっても科学技術がないときは神に頼るほかないのである
それで会津であれだけ800年とか寺院が建てられたのは加持祈祷のためだったのであるだから疫病にしても加持祈祷になる、それしか方法がないからである

ともかくなぜこれほど災害がつづくのか?
それを確かに科学で解明するのが現代である、でも解明できない、対処する方法もない
ワクチンの開発をしているがコロナウィルスの正体は不明である
一度できた抗体も消えたとかある、こうして不可解なものがあると神に頼るほかないのである

津浪にしてもなぜこんな恐ろしいことが起きるのか、それも確かに科学的に解明することが現代である、でも不可解なものが残る、科学だけですべてが解明できるのかという疑問にもなる、なぜなら科学がすべてを解明していないからである
それで私は津波が起きたのは原発事故でも神からの罰だったと発言してきた
伝承でも一匹の魚を粗末に扱った結果として津波が来たということが伝えられている
漁師でも東電に漁業権を売り渡して原発御殿を建てていたとかある
それは原発前から多額の補償金をもらっていたからである
何かそうして魚をとれることよりまた米をとれることとか天地の恵みを軽視したことがあったことから原発事故が起きた
科学万能の時代だからそういうことは軽視されてきた
でもすべて科学で解明できないからこそそうもみる

第一自分自身の一身上でも家族の認知症にしてもこれも不可解な病気だったのである
そして回りで津波ー原発事故ーコロナウィルスと次々に災難が襲ってきた
これは何なのだろうとなる、それを科学で合理的に解明できるのか?
その災いのもとになっているのは何なのかとなる
それでカルマだともした、東京が一番今度は災いの地となったからだ

それで東京から来るな!

こうなったのもカルマだとなる、なぜなら福島から東京に逃れた人たちが放射能がうつるとして子供がいじめられたからである
そもそも原発は東京に作るのが危険だから福島に作ったのである
これこそ東京がやましいのである、危険を知っているからこそそうしたのである
別に東京に作って良かったのである、その方がコスト的には安上りだった
送電線でも安上りだったし東電の幹部は東京に住んでいるのだから管理しやすかったし東京都民が監視することになるから安全に目を光らせるからかえって安全が守られたとなるからだ

そして本当は津波が来ない高台に原発が作る予定だったのにコストがかかるとしてわざわざ土地を削って低くしたのである、それで津波に襲われたのである
女川の東北電力の原発も10メートルの高さにするところを副社長の提言でこの辺は津波が来るとして15メートルの高さにしてぎりぎりて難を逃れたのである

ともかくなぜこうして次々に災いが生れのか?
それが時代の大事件でも戦争でもそうである、それは偶然が重なり人智を越えたものが働いているのかとなる、戦争にしても結果はどうなるのかわからない、いくら計算しても
結果はふってみないとわからない、どう展開するかわからない、意外な結果にもなる
そこに神が関与しているのかともなる、偶然でもそれは偶然ではなく神が関与したとなると神の意志が働いたことになるからだ

聖書でも様々な災いがありその災いから逃れ守るのが神だったとなる
そこに確実に神の関与がありその奇跡を記したのが聖書である
とても科学的には説明できない、だからそんなことは作り事でありなかったともする
でも神が関与することは確かにある、ただわからないことはアメリカがなぜ日本に原爆をおとしたのか、そんなことをなぜ神が見過ごしていたのか?
神がいるのかいないのかともなる、つまり神の力が働いて原爆を落とす飛行機を墜落させても良かったとなるからだ
そんな悲惨なことを神がとめないのか?、そして津波でもそうである、なぜそんな悲惨なことを止めてくれないのかともなる
そもそもこの世にいるかぎり様々な災いから逃れようがないのである
この世はまさに火宅の世であり災いの世だということを実感した

いづれにしろカルマは必ずある、それは苦しみとなって現れるのである
本当に東京から来るなというとき東京が災いの地にもなったからだ
それは福島が災いの地となったされたと同じである
カルマは必ずいつかめぐってくる、でも何か早すぎた感じもする、カルマは何百年後かにもめぐって苦しみとなって現れるからである

次の災いは何なの?

もう米中戦争とかになる、これもカルマなのかもしれない、なぜなら日本は欧米と戦い
3百万人も死んだからである、その時中国は被害をそれほど出していない
その前に欧米に屈して植民地化されていたのである
その復讐として今中国が欧米を攻めてきているというのもカルマである
そして日本人に対してもそうだとなるがやはり欧米と対立して日本のようにつぶされるともなる
日本にされたことを今度は中国にされるのである、これもカルマなのである
この時日本が受けた苦しみを中国が受けることにもなる
ただその時また日本が戦争に巻き込まれるかもしれない、それはどう展開するかわからないのである
ただなぜこんなに災いが起きて来るのか、それが不可解でありそこにカルマが関係していることは間違えないのである

とにかくかんながらの道という神道による農業の実践には共感する
その思想に共感する、神道というとき明治以降は国家神道になったがもともとそういうものではなかった、神道というのはわかりにくいにしてもここでは農業として自然と一体化するものとして追求している、そして場を重視するというとき私が追求して来たものと同じであり不思議になった
外国でもそうして場の現象学とかに共感した、だから同じようなことを感じて同じことを追及している人はいるものだと思った、徳は孤ならず必ず隣あり・・・となる
思想的に共感するものがある、それは結局少数者である
大衆が共感するのは別なのである、それで現代ではアウトサイダー化するのである

かんながらの道 野見山広明

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posted by 天華 at 09:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2020年07月29日

大航海時代からグロ−バル資本主義の終わり (江戸時代的価値観や東洋の思想の復活した社会へ)


大航海時代からグロ−バル資本主義の終わり

(江戸時代的価値観や東洋の思想の復活した社会へ)


遠くへ遠くへ

早く早く

より多く多く

効率的に無駄をなく


これまでの時代は西欧的価値観がグロ−バルに支配した、遠くへ遠くへというとき
交通が飛躍的に発展した、現代文明はグロ−バル化は交通の発達がなければありえなかった
歴史で見れば大陸だと騎馬民族がいてモンゴル帝国のように拡大する
それは馬があってできたことなのである
それから産業革命になって鉄道ができて車社会になり航空機が生れ飛躍的に交通が発達した
ただ馬の前に大航海時代がありこれは船の時代だった、船の技術がなければだ大航海時代はありえなかったからだ
大陸ではどうしても陸つづきなのだから遠くへ遠くへと実際に行ける
だから大帝国が生れやすいのである
つまり空間に生きるとなる、日本は島国であり時間に生きていたというとき季語が無数にあり季節の変化に敏感でありそれがあいさつにもなっている
日本の空間は狭いのである、そして日本人のアイディンティティが狭い村でありそこでの人間関係とかになり窮屈になる

日本人がなぜ景観に無関心でありかえって自然を大事にするということが欠けている
おそらく日本人は景観といってもそうした大きなものをとらえる感覚がない
狭い地域で村で生きていたとき森全体とかを見ない、木を見て森を見ないとなる
森となると大きなものだから意識しにくいのである
大陸では天を意識するが日本人にはそういう感覚はないのである 
日本人には戦略がないというとき戦術のみにとらわれるというときもそうである
戦争でも大陸になると広大であり兵士をどう編成するとか戦略的になる
日本人だとそうした大編成部隊を作ることが苦手である、そういう広い土地がないからである、たから大東亜戦争ではそういう大きな戦略がない、ただ拡大してゆくだけだった
だから西安の方まで日本兵が行ったのには驚いた
その時、鉄道でも発達していない、どうしてそんなに遠くへ行ったのかとなる
ただ馬で行軍していた、馬を利用して遠くへ行っていた
だから第二次大戦までは馬が重要な役割りを果たしていた、南京に日本軍が入場したとき騎馬隊だった、
第二次世界大戦でも馬が活躍していたのである
それで死んだ馬を供養する寺があった、それは馬頭観世音と同じである、戦前までは馬が今の車と同じように荷物を運ぶものであり大事にされたからである、それでいたるところに馬頭観世音がある
馬を供養していたのである

とにかく大航海時代から20世紀までは交通の発達が共通の文明をグロ−バルに形成したのである、それが西欧文明の普及となり世界が西欧化したともなる
それでアジア的停滞とかヨ−ロッパから見ればそうなった
つまりアジアは東洋が遅れたものとして認識されたのである
そして資本主義が世界を席巻してグロ−バル経済になった
資本主義も常に遠くへ遠くへと志向する、空間の拡大である
資本主義は常にフロンティアを求め投資してゆく、それが時代を作った

でも今なぜ資本主義がゆきづまっているのか?

銀行でも金余りであり世界でも金余りである、一時は中国は投資先となってグロ−バル
資本主義を導引した、でもそれも飽和状態になり成長が望めなくなった
世界にはもうフロンティアがない、残されたのがインドとかアフリカだとなる
そこが中国のようになるかどうかはわからない
それよりコロナウィルスが時代を変える、これまでのグロ−バル経済とか資本主義の思想が通用しなくなる
なぜなら遠くへ遠くへとか交通の発達がウイルスを拡散するものとして止められたからである
それで大打撃だったのは観光業だったのである、ばったり100からゼロにもなったという驚きである、こうなると早く早くという技術革新でもリニアでも無駄だから停止しろともなる、その投資すら無駄だとなる、時代に合わないとなるからだ

人間は何か科学技術は無限に進歩する、科学技術にはバラ色の未来しか見ないのである
科学技術が人間のすべての夢をかなえてくれると見ている
科学技術信仰が現代の文明である、それは止まることを知らないのである
それに歯止をかけたのが福島の原発事故でもあった
その事故のために生態系が汚染されて住めなくなったからである
そこに科学技術を万能化することの夢は打ち砕かれたのである
人間には核を操作する技術はなかったのである
その被害はあまりにも甚大だったのである、未だに山菜とかの放射線量は減っていない
むしろ増えているのもあるのだ
森は汚染されて放射性物質が循環しているだけであり減らないからである

いづれにしろこれからの時代は科学技術信奉の限界でありそれがすべてバラ色の未来をもたらすわげではないことを知った、そして早く早くという限りない追及もまた資本主義の効率の追求もより多く増やすという思想も限界に達した
何かこうしたヨ−ロッパの思想には止めるとか減らす思想がないのである
ただ早く早く多く多くとか増大する思想しかないのである
そして資本主義が効率を追求する時、肝心の人間の幸福が何かを追及しない
資本主義にとって

人間が一番のコストであり人間はいらない

効率を追求するとそうなる、現実にお手伝いさんをなどを簡単な仕事でも雇うと大変なことになることを経験した、その家族とかなにやかにやと世話することまでになる
福祉的なことでも人を雇うとコストがかかるのである
だから人間一人を雇うこと自体最もコストなのである
それでいかにこの人件費を抑えるかが資本家にとっての最大の課題となる
つまり労働を人間にさせないで機械にさせることが最も効率的なのである
皿洗いなら最近いいものができた、これまではうまく洗いなかったが3万くらいでいいものができたとかなるとその方がお手伝いさんを雇うよりいいとなるのだ
人間を雇うことは資本家にとって最大のコストになるからだ
だから機械の改良がつづけられているのである
頭脳労働ですらAIで代わりにしようとしているし現実化する
なぜなら人間こそが一番非効率的な存在であり資本家にとっては無駄なものなのである
それは資本家というより資本主義体制なのである
ただ経済システムとしてはそれが社会にとっていいものだから受け入れられたとなる

でも資本主義が終わりだというとき銀行でも投資先がないとかゆきづまるときこうした思想を見直すことが必要になる
人間が最もコストだとか人間はいらないという社会がいいはずがないからである
人間自体を幸福にしない社会体制がいいはずがないからだ
江戸時代まで人間は資本主義とは無縁の世界で生きていた、では人々が不幸だったとかというとそうでもなかった、日本人はみんな幸せそうに見えたと江戸末期に来た外国人が報告しているからだ
貧乏であっても日本人は幸福に見えたというのは何かそこに人間が必ずしも今高度な文明で生活してもそこに不幸が生れている
もちろ簡単に時代を比較はできない、ただ働いている人たちが俺たちは奴隷だ社畜だとか不満があるときやはり働くこと自体に生きがいを見出していないのである

だからより早く早くとかより多く多くとかより効率的に無駄をなくすとかの思想が限界にきている、人間はそこで時間を奪われ酷使されている
遠くへ遠くへと行くのでも経済面ではかえって労力がかかっている
なるべく身近な所で自給自足的な生活をするのがいいとなる
ただ村とかの範囲では無理である、それなりの広さは必要である
でもグロ−バルな経済は不自然なのである
そうしてアフターコロナの時代はそうした時代の変化がありグロ−バル経済も後退する
第一航空機でも利用できないとか外国人でも自由に行き来できないとなればそうなる
観光業が一番打撃を受けたという時、まさにそうなった
あれだけ京都で外国人であふれていたのがぱったりと来なくなったことの驚きである
そこにかえって日常の平穏な生活がもどったともなる

コロナの前でも良く中世に戻るとか言われてきた、日本なら江戸時代にもどるともなる
もちろん同じようにはならないにしてもそういう傾向になる
江戸時代の不思議はなぜ駕籠のようなもので人を運んでいたのかということである
技術的に開発できなかったというよりそうした生活でよしとしていたのかもしれない

遠くへ遠くへ

早く早く

より多く多く

効率的に無駄をなくす

この逆だったのが江戸時代なのである、より近く近く、より遅く遅く、 少なくまた効率的でなく人間的だともなる
少ないというときそれだけの資源もないし貧乏だから当然あらゆるものを近くにあるものを活かすほかないからそうなった
だから江戸時代がすべていいというわけではない、ただそうした停滞社会というのは逆に人間的だったということがあったからみんな幸福そうな顔していたともなる
現代の人間はみんな不幸そうな顔しているというときうつ病の時代だというときもそうである、資本主義でもグロ−バル経済になっても機械で便利になっても必ずしも人間を幸福にしたとは限らないのである
あまりにもまた金がすべてとなった社会でありそれですべての優劣が判断される
そして金融はマネーゲームとなりグロ−バル経済の中でモラルも消失した
だからこうした社会をコロナウィルスが止めたということで不思議なのである
時代の変革がコロナウィルスで成されるということが不思議なのである
つまりそんなことを簡単にできないからである、いくらそういうことを言ってもできないからである

ともかく価値観の変化の時代である、思想的にもまた西欧文明の資本主義でも変化する時代である、東洋的価値観とか思想の時代にもなる
ただこれも明確ではない、でも宗教となると仏教でも老子の思想でもキリスト教ですらアジアからオリエントから生まれたものである
そこが誤解しているのである、時代的に象徴するものとして馬の時代があり船の時代がありそれは空間の拡大だった、でもこれからは牛の時代になる
牛は大地と一体化したものであり遠くへと行くものではない、土地に根ざしている
木とか石でもそうでありそれは土地に根付いている時間的存在である

posted by 天華 at 22:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2020年07月28日

南朝を受け継いだ明治維新その古代からの歴史 (菊の紋の旗が江戸城入場に出ていた―野馬追にも菊の紋の旗が出る)


南朝を受け継いだ明治維新その古代からの歴史

(菊の紋の旗が江戸城入場に出ていた―野馬追にも菊の紋の旗が出る)


官軍の江戸城入場

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これは船をつないだ船橋である
これだけの舟をを用意した、砂浜にも船を並べたのか?



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菊の紋の幕である

NHKの桜田門外の変のドラマの江戸城入場

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この赤と白の旗印と日本の線の旗印も野馬追いに出る
その由来は何なのか、天皇と関係しているのか?



野馬追に出る菊の紋の旗

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ここになぜ日の丸の旗があるのか?

その由来がまたわからない



吉田松陰が再興すべしとしている南朝は、歴代にわたって長州が匿ってきた大室天皇家であった。それに対して、藤田東湖が再興すべしとした南朝は、歴代にわたって水戸藩が匿ってきた熊沢天皇家であった。それぞれが、みずからが握る「玉」を担いで南朝革命を成立させようとしていたことになる。

吉田松陰は1850年に長崎に遊学したが、読んでいた本のリストには、さらに過激な「南朝正統論」である三宅観瀾の『中興鑑言』が入っていた。

吉田松陰や藤田東湖までが「南朝正統論」に傾いていたとすると、薩摩・長州の藩士がめざした「尊王運動」とは、すなわち徳川幕府を倒して、南朝天皇家を復興させる運動だったことになる。ここで登場するのが、「孝明天皇暗殺」説と「明治天皇替え玉」説である
「明治天皇」は暗殺されていた!!
1) 孝明天皇は、徳川14代将軍・家茂(いえもち)を信任していた。つまり孝明天皇は、徳川将軍家との協調を本位に考える「公武合体・佐幕派」であった
2) 北朝系統の孝明天皇の住む御所並びに京都市中の治安維持の総責任者・京都守護職に、会津藩主・松平容保(かたもり)が当たった。そして、この容保公も孝明天皇の信任を得ていた。つまり、維新後、「逆賊」とされてしまった徳川将軍家も会津松平家も、孝明天皇にとっては「忠臣」であった


明治維新は南朝の復活であり南朝系統の天皇を祭り上げて支配することだった
長州が南朝だということがまさにそうである、当然南朝系統を祭り上げて天皇もその替え薩摩長州によって北朝を祭る孝明天皇を守る会津は仇敵とされ賊軍とされて討伐された
それは天皇の正統性と関係なく薩摩長州の特に長州により南朝系統の天皇が作られて祭りあげられたとなる、天皇は玉といわれて結局天皇自体に力があるのではなく背後の権力を持つものにただ祭り上げられる存在だったとなる
だから天皇の神聖性とは何なのかただ権力を持つものによって玉として祭り上げられる存在だけなのかとなる
そして靖国神社とは明治維新でも賊軍となったもの、西郷隆盛の墓もない、祀られていない、西南戦争で賊軍となったからである
だから靖国神社の矛盾は日本が太平洋戦争の戦没者を慰霊する祀るとしてももともと国民としての慰霊の場所にふさわしくないのである
国民国家になったときすでに南朝とか北朝とかは関係ないものとなったからである

事実西南戦争の戦いは国民軍と化した政府軍とその政府軍に反逆する者たちの戦いだったからである、その国民軍には会津の武士も参加していたのである
そもそも国民という観念は日本になかった、それが明治維新に武士の集団である西郷隆盛の西軍と国民軍が戦った、ということは実は江戸幕府を継続しようとした勢力が西郷隆盛だったともなる、西郷隆盛は武士を残して江戸幕府の継続して侍が国を治めることを目指していたとなる、そこに国民という概念もなにもないのである
だから今度は日本では天皇の臣下として赤子としての国民となったのである
そうした日本の歴史の矛盾があり太平洋戦争で日本国民の総力戦で敗北した
いづれにしろそこで天皇という日本の支配体系が崩壊したのだが依然として天皇は国民の象徴として残されたのである、なぜなら天皇は戦争に負けて戦犯として処刑されるところだったからである

玉だったとなる、天皇でもすりかえられるのである
萬世一系でもないとなる、それを説いた本がでている
ただ自分は詳しくない、でも南北朝の争いが全国にどれだけ影響があり全国隅々までその争いの傷痕を残した、小さな村村でもそうした物語が残されていることでもわかる
日本では天皇が二人になることは国が二つに分かれることなのである

そして霊山は南朝でありその末裔が相馬地域に多い、特に南相馬市の鹿島区は霊山が炎上したとき逃れた落武者の子孫が多い、その姓が只野氏なのである
その中心的役割を果たした人が近くの同級生だった
日吉神社のお浜下りのおつづら馬を担う主要な人物の子孫だったのである
つづらとは何か宝物というか品物を運ぶつづらのことである
この祭りは13年に一回としか行われない貴重な祭りである
宝財(ほうさい)踊りは霊山城が炎上して滅びたとき身を隠すために変装した姿が祭りになった  

ただ歴史という時、結局二つの勢力が権力争いになり二分される、

二人の王の間に反目が生じ、大きな騒乱が起こるからだ―ウェルギリウスー農耕詩

これは蜂の間で起きたことであるが人間でも同じである
歴史とは日本国内でも必ず権力争いで二分される、日本でも古代でも天皇が兄弟が二つに分かれて争った、壬申の乱がそうである、この時も南北朝の争いと同じだったのである
天皇の起源はわからないにしてもおそらく国を一つにまとめるために祭り上げられた王であった、関ケ原の戦いも東西の勢力の争いだった、国は必ず二つの勢力に分かれて争うカルマがある
そのカルマは世界史でも同じである、現代史でも同じである
米ソ冷戦があり今度は米中戦争の危機になる、そしてどちらかの陣営につかざるをえない中立を維持できないのである、そこで日本でも二つの勢力に分裂させられるのである

後醍醐天皇は、既成貴族層の解体と再組織を狙っていて、旧来の「天皇対貴族」という関係を打破して、「天皇絶対」のための官僚組織を作り出すことを最大の目標としたのでした。

つまり古代の復古というか南北朝の争いの継続としてあり現実に明治維新では天皇絶対制官僚が実現したからである、それは民主主義国家とかとは違ったものである
なぜならそもそも国民という存在もていから概念もなかったからである
それはヨ−ロッパとかでも王と貴族がいても国民というのはいなかったからである
他から近代国家が現れたの20世紀とかでありそれまではなかったのである
つまりヨ−ロッパでも江戸時代のように貴族が侍であり国民はいなかったのである

そういう二分した権力争いの中で南北朝の戦いでも相馬藩地域でも小高で侍が歌を残している
そしてNHKの桜田門外の変のドラマで見たら江戸城入場がありそのときの旗印が菊の紋でありこれは天皇家の紋でありまた南朝の紋だとなる    





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南相馬市原町区高平の五輪の塔の謎 (南北朝に由来して西殿は相馬氏の館があった所)

相馬光胤(そうま・みつたね) ?〜1336

相馬氏第6代当主・相馬重胤の二男。相馬親胤の弟

南北朝の戦いで小高城陥落に残された短歌二首

光りたねをはじめ一族九七人が侍939人、その他多数のものが討ち死にした。
親胤の子の松鶴丸は当時13歳は母と共に小高の西、釘野山の麓の農家の宅にかくれ山野に辛苦をなめたものの、良くその身を全うすることができた

中秋にあたり松鶴丸が一族譜代の墓に詣でて従者に和歌二首をたむけさせた

去年の今日別れし人の墓に来てみのりを問えば涙こぼるる

我一人残るこの世の憂きづまいおもうがままに後世は問われず 

この歌は何か本当にここだけではない、世界で同じである、二つの勢力が争いそれで苦しむ、それはいたるところにある人間のカルマなのである
それを家族で自分自身が経験した、家族でも争いそしてみんな死んだ
残されたのは自分一人だった、だからこの歌に共感するのである

今年の野馬追いは強烈もなにもなく終わった、震災で一回中断したが今回も中止になった



posted by 天華 at 10:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 野馬追い関係

2020年07月27日

嘱託殺人容疑の医師へ、患者から130万円提示か (金には責任がつきまとっている)


嘱託殺人容疑の医師へ、患者から130万円提示か  

(金には責任がつきまとっている)

(ALS)の女性患者が昨年11月下旬、計130万円を50万円と80万円の2回に分け、同容疑で逮捕された医師山本直樹容疑者(43=東京都港区)の口座に振り込んでいたことも判明。

大久保容疑者は昨年5月、自身のブログに「『安楽死は500万(円)』なんてふっかけても支払えないでしょう」「リスクを背負うのに、まったくのボランティアではやってられません」と投稿していた。


金はカルマとして具体的に責任としてある、だから金のやりとりから人間のことをみるとわかりやすいのである
金を受け取ることで責任が生じていたのである
それをカルマ論で私は追求して来た

原発事故でも福島県の漁業組合は特に船主などは事故前にも多額の補償金をもらっていたそれで原発御殿が建っていたと周りの者がうらやましがっていたのである
漁業権という権利自体も海の資源保護が目的として与えられている
そうなれば東電に漁業権を売り渡せるものではない、原発が建った時、漁業権を売り
事故前に補償金をもらっていたのだ
事故後なら海を汚して魚などとれないとなって補償しろとなる
現実にそうなっている、でも事故前にももらっていたのである

それを言うのはこの辺では東電の原発のために故郷に住めなくなった大被害を受けたからである
その責任を問うときなぜ漁業権を東電に売り渡したのだとなった
それは漁業組合のものでもない、今になればこれだけ広範囲に被害があったのだから
みんなて市町村でも県でも管理するものでありまたその是非は県民であれ広範囲で決めねばならないものだった、なぜならこれだけ広い範囲で放射線の被害があったからである

それは漁業組合だけではない、船主だけではない、官僚でもそうである
警察とか検事とかが天下りしていたのである
官僚がそうでありまたマスコミでも宣伝費で莫大な利益を得ていたのである
原発は金を産むものでありその金を目当てにあらゆる人が群がったのである
それが事故になって黒い金となって責任が問われたのである
でも実際は何も問われない、東電の幹部でも罰せられなかったのである
地元の人は金をもらっても故郷に住めなくなるなるとかの罰があったから責任を果たさせられた、でもそうして東電の幹部であれ天下りした特権階級は罰せられなかったのであるそれだけの金をもらっていたのだから責任があり罰せられるべきだがなかったのである
何かその責任を厳しく問うものもない、マスコミ自体はできない
みんな莫大な金をもらっていたからできないのである

金をもらえばいい金になればいいというのが現代社会である
でもこの金には明確な責任がともなっていたのである
母の実家の墓を三百万で守ってくれと言って死んだ人がいた
私ももらう権利があったがもらわなかった、でもそれで助かったと思った
墓を捨てても墓は何も言わないとしても
「お前は三百万もらった」だから墓を守る義務があるとなるからだ
するとなかなか墓を捨てることはできなくなる
それよた何か無形のものが死んだ人を供養する無形のものの責任が課せられているともなる
別に墓がなくても愛する家族だったら心の中で愛しつづけることがあるからだ

金はもらえればもらうのがいいとしてか考えない、でも金は明確にその額だけの責任が課せられている、額が大きければ大きいほど責任が重くなっているのだ
それが何らかで後でカルマとなって苦しみとなって現れることがある
ただここでの医者の嘱託殺人の問題は金としての問題でもあったことだと気づいた
安楽死がいい悪いという前にこれは金をもらっていたということで責任が問われる

「『安楽死は500万(円)』なんてふっかけても支払えないでしょう」
「リスクを背負うのに、まったくのボランティアではやってられません」と投稿していた

これは純粋に患者が苦しんでいるから殺して楽にしてやろうというのではない
すでに金をもらって殺すということの罪が問われる
そこに罪の軽重が生れる
そこで情状酌量とはなりにくいともなる
金が欲しくて殺したのかとなるからである、もし金をもらっていなかったら医者にも同情されるものがあるともなる
純粋に相手の苦しみをとりのぞいてやりたいという動機になるからだ
でも金をもらってやることは違ってくる
金が欲しいということが動機でありそこが大問題になる

だから人間の問題は金のやりとりで具体的に現れる、その罪を問う時も金のやりとりを見て判断する、それがわかりやすいからである
金には具体的に責任が課せられているからだ
だから法外な金をもらうことはいいようで後で苦しむことにもなる
原発事故では他の人はあいつらは事故の前も金をもらっていたし事故後も補償金をもらってうはうはだ、俺もあやかりたいとか言われるようにもなる
もし東電からそうしたことが金でももらっていなかったら堂々と原発に反対できたのである

例えばコロナウィルスでもGO TO キャンペーンでも二階氏とかが観光組合から金をだしてくれたことで見返りとして多額の政治献金を受ける
するとそれは純粋に観光業者に同情したわけでもない、自分たちの利益になるからそうしただけだとなる
こういうことは政治に普通にある、それがこの世だとなればなる
でもその観光業への金も国民の税金の金であり自ら金を出すということではない
国民の税金でも使うのにも責任が課せられている
でも何か大きな金はかえってその責任がわからなくなる、10万であれ百万であれ一万でもそういう金の責任はわかりやすいからだ
だから予算でも大きな金は何兆円でも無駄に使われるともなる、でもその責任も強く問われないともなっている

ともかくこの事件の注目すべきは金をもらったということにあった

ドラマであれヤクザが金をもらったので人を殺したとういことがあった
金をもらうことで責任が生れ人を殺すことになった、金にはそうして人を殺すまでの責任が課せられていたとなる
金から人間の問題が生じるのが多い、金のやりとりからみるとわかりやすくなる
だから犯罪者は借金していたとかが常に問われるのである
借金とは責任でありその責任を果たすことが強いられて犯罪にまでなる
だから金は怖いものだということである
漁業組合の船主でもそんなことを責任を考えず事故前に多額の補償金をもらっていたのである、それが事故になってそのことが問われた
他の人は自分でも知らなかったのである
だから後でこういうことで暴かれてその責任が問われる、金をもらった責任の重さを自覚させられるから怖いのである
でも普通は金をもらえばいいとしかないのである、責任のことを考えないのである

posted by 天華 at 22:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

山火事も森を再生するために必要である? (人間社会も大きな変革には自然災害も戦争も必要だった?)


山火事も森を再生するために必要である?

(人間社会も大きな変革には自然災害も戦争も必要だった?)

そのため森林は古い巨木だけが繁った状態で固定化され、新陳代謝が停止してしまうこともよく見られる。これはまさに森林の縮退なのだが、ここでしばしば大きな山火事が皮肉にもそこからの脱出を助けることがあるのである。つまり山火事がそうした古い巨木をすべて焼き払ってしまうことで、地表に一時的に陽が戻って若い苗木が育つことができるようになるというわけである

これは興味深い、山火事は自然の摂理でありそれで新陳代謝が起きて来る
すると自然現象にはそういう作用があるのか?
津浪とかでもそうである、何かそこには自然の摂理があり津浪によって人間に甚大な被害があっても自然の作用であり自然としては海が何か蘇る、新陳代謝するということもあるのか?
人間はあくまでも人間側からしか考えない、自然の大きな作用についてはわからないからだ

それで武田邦彦氏が常に自然はでかい、人間が考えるよりごついものであり人間の活動で自然が汚されるということはない、それはあくまでもほんの一部であり自然全体を人間の作用で壊されたり汚したりできないとしている
ただ放射性物質の汚染を一ミリシーベルトにしたのかそんなに厳しくしたら住めなくなるからだ
放射性物質の汚染はまた別だったのかとなる
温暖化はないとしているのもやはり科学者でもそう見る人もいる
人間はとにかく自然といってもその一部を見ているだけなのである
自然全体を感じるとか見ることができないのである
どんなことしても人間の視野は狭い、それは人間が作り上げた歴史でも社会でも一部しか見れないから問題なのである

この原理を人間社会に適応すると

社会の新陳代謝のためには戦争とか民族移動とか動乱とかウィルスとか大きな事が必要

こうまでなる、実際にそうして社会が歴史が進行したからである
人間社会が歴史が変わる時、それで社会も大きく変わる、それがコロナウィルスでもそうだった、ウィルス自体が自然から生まれたものだからである
なぜウィルスがあるのか、これも謎だからである
そして不思議なのはコロナウィルスが若い人は感染しても軽くすみ、重症化して死ぬのは60以上だということである、これだけは明確なのである
だからこれも増えすぎた老人を減らす自然の作用なのかとまで思ってしまうのである
長生き悪いものではないにしろ全体的な生物の生存という面からみると老人ばかり増えるのは生命の維持ではいいものではないからである
そこで生命の新陳代謝のために増えすぎた老人を減らすためにコロナウィルスが生れたともなる

自然災害は常にありそれによって易姓革命が起きるという中国の思想は人間を変えるのは自然でありまたそこに神の意志もあるとなる
人間がいくら変えようとしても限度があるからだ
原発を止めようとしても止められない、でも津波が来て止められたともなるからだ
中国では今三峡ダムが崩壊するとか大洪水で苦しんでいる
大陸の洪水は水が簡単に引かないないのである、だから長期の被害になる
巨大な湖のようになって水が引かないのである

世界中に起きていること気候変動でもそうして生命の新陳代謝のためなのか?

自然の活動は地震でも津波でも火山の爆発でも大雨でも大きな地球的自然の活動である
それらがないのが好ましいとしても地球規模ではそれは自然の活動でありそれは生命の新陳代謝だとなる
だから山火事までそうなのかとなる、一旦焼け野原にすることで新しい森が形成される
木でも剪定するのは木を切ることでかえって木の伸びる力が出るという
木の花でも腐ったりしたら葉でも早めにとらないと栄養が他の蕾とか伸びる枝とかに回らない、自然には常にそうして新陳代謝する作用がある
それは人間社会にもあるのかとなる

なぜなら戦後の焼け野原に生まれたがなぜあの時食べるものもないのに子供が大量に生んだのか、誰もそんなとき子供など生みたくないし育てたくないとなるのが普通である
でも戦争から男たちが引き上げて大量の子供が生まれたのである
それは実際は理にかなったことだった、焼け野原になっても次の新しい時代を作るものともなったのである、戦争で既得権者が例えば地主などが一掃されたとかあり社会変革が起きた、そして高度成長時代になり人手はいくらでも必要になったのである

だから社会が変わる時、何か大きな事件などが起きる、自然災害も起きる
それは次の時代の産みの苦しみとしてあるともなる
それが今の動乱の時代になっているのかもしれない、日本では社会でも70年ごとに大きな変化に見舞われる、明治維新から70年で太平洋戦争になり次の70年が今の時代だからである、だからここ十年くらいは大きな変化の時代になる
そこで戦争のような混乱や苦難や大きな自然災害でも起きて来る
何か米中戦争になるというときもそうである、自然災害が頻発するのもそうである
コロナウィルスでもそうである、こうした災難の後に新陳代謝が起こり新しい時代が生れる、つまり森の再生には一旦山火事が起こりそれで新たな森が新生する

それが人間の歴史でも社会でも起きるということである
それは自然の作用であり神の意志が加わっているのかともなる
人間だけではとても一旦作り上げられた社会を変えられないからそうなっているのである
いづれにしろ高齢化社会は社会が停滞しやすい、新陳代謝が起きにくいのである
技術的にもそうである、高齢者がIT技術を使いこなせないことが新しい社会を作れないとかなる、その是非かあっても老人はどうしても新しいことについていけないのである
だから明治維新で活躍したのは20代とか30くらいの若者だったのである
激変する時代になると老人は既得権にしがみつくだけである
今金をもっているのが老人だけで金があっても使えないということがある
自分も何かやろうとして登山のリュックを買おうとしたがもう登山もできない
電動自転車の長距離用のいいものがでたから買おうとしたが体力的にできない
海外旅行もできる気力もない、携帯の翻訳機を使おうとしたがこれも使っていないとか
何か利用しようとしてもできないのである      

だから老人は一部でも金をもっていても消費できないという問題が生れていたのである
つまりそれは経済が停滞するということなのである
もちろん投資などもめんどうでできないのである
貯金していれば利子がついていた時代が一番良かったのである
たた人生百年時代が悪いわけではない、それだけ長ければライフワークをもてば凡人でも相当なことができる、結局何するにしても時間がかかるからである
才能がなくてもやはり根気よく勉強していれば身につくことがあるからだ
人間はやはり時間を一番無駄にしていることが老人になって気づくからである
新陳代謝できない高齢化社会はやはり大きな問題なのである
posted by 天華 at 10:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2020年07月26日

米中戦争の脅威で迫られる日本を世界史的視野での考察 (独立を維持したベトナムに習う)


米中戦争の脅威で迫られる日本を世界史的視野での考察

(独立を維持したベトナムに習う)   

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SakuraSoTV

世界覇権は中国に!?[桜R2/7/25]


今日のさくらTVで中国のことを議論していた、その中でベトナムで会社経営している人の話がリアルだった
ベトナムは常に中国の脅威と向き合ってきた、でも独立を保ってきた
だから漢字も使用した時期があったが今はしていない、そこで漢字を使っているのかと
私自身がベトナムを訪ねて親しみを覚えた
逆に中国化されないために漢字を使用しないということもあったのかと思う
ベトナムは8千万人もいる、それなりの大国である
その気質としてベトナム戦争ではアメリカに抵抗してアメリかを追い払った
それは長い歴史で中国という大国と直接戦った歴史がありそれでその気概が受け継がれて独立を保ったとのかとみる
アメリカに対抗できて降伏しなかったからだ
ただフランスの植民地になったことがあった、それはなぜだったのか?
日本軍がベトナムに入りフランスとも戦い追い払ったとなる

いづれにしろ今中国は世界の覇権国としてアメリカと戦う、戦争にもなるという恐怖がある、だからなぜベトナムはそれだけ抵抗できて独立を保つことができたのか日本も習う必要がある、これも地理が関係している
陸続きだとどうしても他国の侵入があり防げないのである
中国自体はそうした他国の侵略の歴史があり万里長城ができたからである
中国とはアメリカのように多様な人種のグロ−バルな国であった
第一モンゴルが攻めてきて支配したがそれは中国でもない、満州族が支配したこともありそれも中国ではないとなる
中華というとき別に漢人だけの国ではない、漢人の回りの多様な民族の集合体としてのグロ−バルな国のことである

東南アジアでも一時カンボジアのアンコールワットは巨大な帝国の中心地としてありその栄光の跡として遺跡を残したのである
その壁画に中国人の兵士の像が刻まれてたい、つまりその時カンボジアでともに戦った中国人がいたということである
東南アジアは中国の影響が直接的になる、陸続きだからである
中国資本が入って華僑でもその国を牛耳ることにもなり反発される
日本でも中国人が多数入ってきたがそこまでは成ったことがない、でもこれから日本が弱体化するとそうなることが懸念される

日本が今中国にどう向き合うか問われている、コロナウィルスでもそうだし米中戦争が本当に現実化しつつある、すでに冷戦に入っている
中国は経済発展しないときこうはならなかった、後進国として見ていたからである
それは十数年前に中国に行った時は鉄道でも貧弱であり地方から流民化した中国人が家畜のように車両に詰め込まれて運ばれていた、実際に車掌が鞭で打っていたから家畜だったのである、それが中国で生きる過酷さだったのである
それが今や新幹線からITから宇宙旅行からと日本の技術を凌駕しているから驚嘆する
こんなに急速に国も変わるものかとみる
(三日見ぬ間の桜かな)となる
人も変わるが国もこんなに急速に変わるものだと驚きになる
技術的に日本は後進国なのかとさえみる

こうして中国が巨大化すると世界の覇権争いになる、今度は米ソから米中の覇権争いになる、その狭間にあるのが日本なのである
米ソの冷戦のとき日本は漁夫の利を得ていた、朝鮮戦争でもかえってそれを契機に日本は浮上した、ベトナム戦争でも特需となり得をした
それで高度成長時代を築いたともなる
でも日本はバブル崩壊で失われた30年となり中国が台頭してきた
そして中国が世界の覇権国になろうとしてアメリカと深刻な対立になった
アメリカは戦争を辞さないとまでなっている

その時日本はアメリカにつくのか中国につくのか問われる
親中派が自民党にも多い、まず自公政権の公明党は創価は前々ら親中派なのである
どうしてあれだけ親中派なのかわからないが中国様様なのである
それで公明党と二階が結びつきコロナウィルスな国民に十万の給付金を決定したとされる日本がの外交でむずかしいのはアメリカにしてもアメリカ自体が混迷して衰退している
もちろん中国でも巨大であり一つではない、それで覇権国の争いで争う時、どっちつかずではいられないだが両方が倒れるということがあるという説明がある
そうなると漁夫の利を得るのが日本だとなる

ただ今回はそうはいかない、アメリカはイラク戦争の時のように血の同盟を求めて来る
実際に中国との戦争となれば血の同盟で本当に命の犠牲を求める
それでこそ同盟だとなるからだ、また中国でもアメリカと切ることを要求してくる
どっちつかずではいられないだろう、傍観もできない
戦争に成ったら飛び火してミサイルでも飛んでくる、アメリカ軍の基地があるのだから当然だとなる
背後のアメリカは強国なのときは安泰だった、でも今やそうとも言えない
中国軍はハイテク化しているし侮れないとしている、その見方はいろいろでも中国は技術力がアメリカと伍するほどになっているのだ
そうしたら簡単にアメリカが勝つと中国は分断されるとかなるのか?
それは予断を許さないのである
はっきりしていることはその火の粉が日本に飛んできて日本が戦場にもなる
また日本でも国論が二分する、アメリカにつくのか中国につくのかせまられる
それはヨ−ロッパでも同じだという、イギリスはアメリカについた
ドイツは思案中だとしている
ヨ−ロッパでも分かれている、まさに米ソ冷戦時代と同じである  

とにかく世界は動乱の時代に入った、それは日本でも自分の一身上でもそうだった
家族のことで苦しみ次に津波原発事故で回りが苦しみそして今度はコロナウィルスで苦しみ遂には戦争にもなり最悪の事態になり大きな時代の変化となる
それは明治維新と同じであり戦後の焼野原のような大変化になる
ただそれが日本にとってすべて悪く働くとは限らない、つまり中国でもアメリカでも両方が戦って国力が弱体化することもありうるからだ
ただとても朝鮮戦争とかベトナム戦争とかのようにはいかない
イラク戦争の時は日本は金だけをだして直接戦闘には参加しなかった
つまり血の同盟としてアメリカ軍と一緒に戦わなかったのである
今度は地理的にそうはいかない、すぐ隣でありミサイルでもすぐに飛んでくるからであるまた海軍がすでに尖閣諸島でも占領するからである、今でもすでに中国海軍が尖閣諸島を手中にもしている、日本は何もできないとしている

日本はもともと地理的に国力でも中国の属国になりにくい距離にあった
海で囲まれていてそれが事前の防壁となり日本は侵略されることからまねがれていた
でももう航空機とミサイルとかの時代になるとそういう自然の防壁は役にたたない
ただ確かなことは日本は西欧化するときアジアで唯一植民地化しなかった国であり
西欧文明を最初に取り入れた国である、その時いろいろな用語を新しい漢字を作り翻訳したのである、それを中国で取り入れたのである
中国にはそうした西欧文明の精神を取り入れることはできなかった
だから日本を経由してその漢字をとりいれて理解したとなる
だから中国から唐から漢字をとれいれたときのように中国を尊敬していないのである
なぜ中国人が日本に来て唐の時代の中国を尊敬して今の中国を尊敬しないのかと問われる
それは中国は独自のものを作りだしていない、みんなアメリカとかヨ−ロッパのコピーなのである、その政治にして共産党王朝であり古代から変化していないのである
ただマルキシズムを取り入れたのだがそれはヨ−ロッパの思想なのである
中国独自の思想という時老子の思想とかまた禅宗の思想なのである
そこには私でも共鳴している、でも共産主義はヨ−ロッパの思想でありアジアの思想でもないし中国の思想でもないのである

ただ言えることは何かアジアが復興するというとき新しいものが求められている
それが何なのか?それがなければいくら軍事力でも技術力でも欧米並みになっても
覇権国となっても力だけでありそれで世界をリードすることはできない
西欧文明が世界を導いたのはやはり科学技術だけてはない、総合力としての文明であり
そこには宗教もありキリスト教もありそれで世界を導いたのである
中国は王朝国家であり何ら政治的にも変わっていないである
過去の栄光の中華帝国の再興なのである、それに世界がついていゆくのかとなる

中華帝国の再興は過去の亡霊である

文明は伝播してもその同じ場所で再興していないから過去の亡霊に憑かれているともなる

科学技術でも経済力でもそれだけで世界の覇権国となり導くものとなりうるのか
だから価値観の対立だとなりその価値観を共有することで戦いとなるとされる
まず中華帝国の価値観を共有することは周辺国ではしない、それは時代錯誤なのである
そこが中国の最大の問題なのである

いづれにしろ世界史的視野から見ると文明は一旦栄ても再び栄えることはない
ギリシャ文明があれほど栄えたのに今はただ遺跡だけである
確かにギリシャ人は文明が栄えた時と同じ言葉を今も使っているのである
でも今なにも見るべきものがない、何か作り出すもの工業製品もない、ヨ−ロッパ文明の発祥の地として過去を回想するだけである
文明は移転する、伝播するの法則である、ギリシャ文明からローマ文明にまたゲルマン文明へそしてキリスト教でも南方のローマで政治と一体化したカトリックとドイツを中心としたプロテスタントと分れた
そのプロテスタントシズムが基となり資本主義が生れてアングロサクソン中心の文明がユニバーサルなものグロ−バル化したのである
アメリカはそうでありカトリック系は南米とフィリンピンとかでありそこは停滞した国になった
マックスウェバーがプロテスタントシズムを資本主義の精神だと説いた時がそうである
そういう精神の態度がエトスがアメリカへ移住した人たちによって実現された
ただその資本主義ももう銀行で投資先がないとかゆきづまった、極端な格差社会になり
資本主義の終わりが言われるようになった
                                                                              
ともかくエジプト文明は終わりギリシャ文明は終わりローマ文明も終わった
ただ西欧文明は一連のものとして継承され発展してきたのである
ただアメリカ文明はその継承というのではなく何か物質とか技術に特化したものであり
そこから精神文明は生まれていないのである
つまり科学技術文明であり精神文明ではない
文明というとき精神文明が根底にあり生まれた、エジプト文明でもそうでありキリスト教文明もめうでありイスラム文明もそうである
インドのヒンズー教が仏教になり中国に伝播して仏教文明が作られて日本にも伝播されたのである
つまり宗教があり文明が形成されたのである 
文明は常に伝播して発展してゆくのである、周辺国に必ず伝播して独自のものとして発展するのである
現代の文明は科学技術文明であり精神文明ではない、それで新しい文明は生まれないとなる

19世紀ドイツの思想家は文明と文化をはっきりと区別して、文明は機械、技術、物質的要素にかかわるものであり、文化は価値観や理想、高度に知的・芸術的・道徳的な社会の質にかかわるものだとした。この区別のしかたは、ドイツ思想界には根付いたが、それ以外の場所では受け入れられなかった。…… 

現代文明は物質の荒野と化したのである、それは東京とか密集した大都会が世界中で同じようになっている、
文化は価値観や理想、高度に知的・芸術的・道徳的な社会の質にかかわるものだとした

これがないのである、だからむしろ文明はグロ−バルに画一化したものであり文化は多様性なのである、なぜなら場所というのは無数にあり多様だからである
だから地方都市から田舎から新しい文化は生まれるのである
つまり文明の時代は終わったのである、米中の覇権争いは機械、技術、物質的要素の争いでありそこに文明の基礎となる精神文化がないのである
第一中国の老子の思想があるとして中国自体がその思想と関係ない、マルキシズムはやはり唯物論となっているごとくそうである
アメリカも物質主義であり唯物論なのである、だから資本主義であれ社会主義であれそれは唯物論なのである、文明の支えとなる宗教はないのである
そこにただ巨大な軍事力でも技術力で争う、そして最終的には核戦争で両方とも自滅するともなる

では日本はどうかというとそれは日本人自身がわかっていない、ただ日本文化として
敵味方塚)があることは世界でありえないことである
敵を殲滅することが普通である、中国では敵を許さない、死んでも許さない、墓を暴いてまで罰している、それほど民族同士でも同じ国民でも熾烈な争いになる、弱肉強食なのである
だからキリストの言う「汝の敵を愛せよ」というのはこの敵味方塚に現れているのだ
それが日本で日本で実現されていたのである
日本は高度成長時代はやはり技術面で有利になった繁栄した
しかしそれも衰退して貧困化している、では日本はどうなるのか、日本の使命は日本が自然と歴史で培った文化にある、それが普遍的なものとして世界に共有される
私自身でも田舎で自然と一体化するアイディンティティ化することを詩作することでしてきた、自然に調和があり人間はそこで安心立命を得るのである

それは東京とか大都会にはありえないのである
そこは迷路であり迷宮であり脱出できないのである
そしてその迷路からイーカロスは翼で高く高く飛んで脱出しようとしたが墜落したのである、迷宮から脱出するのも技術の力だった、でもその技術でも限界があり高みから墜落したのである
それこそ原発事故でもあったのだ、原発を操作する力が人間にはなかったのだ
また核を破壊するなどのしてはならないことをしたことにより罰せられたのである
遺伝子操作などでも思わぬことが起こる、そこに人間の限界があった
そのために過酷な罰を与えられたのである
そういう神話的場所になったのが自分の住んでいる場所になったのである  

とにかく新しい文明はもう起こらない

資本主義は終わる                  

グロ−バル化経済は終わる

そして文化の時代になる

地域に根ざした文化は多様に発展する 

こうみると何か中国とアメリカの力による科学技術力の争いは前時代的であるし中国は古代中華帝国を夢みた再興なのである
でもそれはまさに誇大妄想なのである、文明はその地で復活して再興したことがないからである、伝播して発展することはある、仏教でも韓国を経由して日本に伝播されても韓国の仏教と中国の仏教でも日本ではまた日本独自の仏教として発展したからである


posted by 天華 at 16:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2020年07月25日

資本主義社会から変わる社会は何か (役割で人を評価する、金では評価しない社会)


資本主義社会から変わる社会は何か

(役割で人を評価する、金では評価しない社会)

●資本主義が機能しなくなった

今コロナウィルスでも何かおかしいのは職をなくしたとかいろいろ困窮している人がいるのに株が上がっている、景気が悪いのに株が上がっている
それでさらに格差が広がる、人が苦しんでいるのに株主はもうけている
人々が苦しんでいるのに株主社会である資本主義では株主に影響はない
その金を国からの国債から株に流れてきた金だとしている
実態経済とは関係なく金が右から左に流れて利益を得る、それがグロ−バル社会で行われる、そこに巨額の金が流れてコロナウィルスでも巨利を得た国際資本家もいたのである
そこには道徳なき経済になり弱肉強食の経済である

こういう資本主義社会はもうこれ以上つづけるとどうなるのか?
アメリカのような暴動が起きて来る、贅沢品を売っていた宝石店が壊されてねらわれたりする、黒人だけではない、不満分子が格差社会で増大して暴動になったのだ
アメリカでのコロナウィルスの被害は大きかった、それでさらに底辺層は困窮していたからである、富裕層は別荘に逃れて優雅に暮らしていたとか言われる
またこういうときでも大儲けできるのがグロ−バル経済である

アメリカ型の資本主義がありそれは株主優先である、そこに働いている会社員や労働者は重視されない、ただ時給いくらかで働かさせられるシステムの中で奴隷化された人たちである、それはシステム機械の部品のうよなものでいつでも取り外されて補うことができるとみている
そもそも時給労働自体が人間を安く部品のように使う労働なのである
そしてアメリカ型資本主義では株主優先であり会社は労働者のものではない、株主のものなのである
だから現実を生きて得するには株主にならないと資本主義社会では裕福になれない仕組みになっているのだ


ただ資本主義社会はもう金があっても金余りであり投資先がないから行き詰まっている
中国が投資先になったがそれももう発展したので投資先にならない
日本でも高度成長時代が終わり投資先がないから銀行でもつぶれるとかなる
金を貸す先がないのである、それだけ新しい起業がないのである

銀行の役割が喪失した

これが根本的な原因なのである
それでコロナウィルスで銀行は資金がないとして融資を頼まれるで政府では奨励しているが銀行ではそういう会社に投資しても見返りがない、高度成長時代だったら金を貸しても必ず見返りがあった、利子をつけてももどってきたのである

●江戸時代は役割社会

だからこれから社会はどうなってゆくのか?
もう旧来の資本主義グロ−バル社会は継続できない、一応継続しても別なものに変わる他ないのである

What's your responsibility?「あなたのやるべきこと(役割)って何?」という使い方もできます。日本語だと「役割」と一言で済ませることはできますが、英語だと、roleやresponsibilityだけでなく、chargeも使います。In charge of A「Aの担当で」の用法です。What are you in charge of?で「あなたの役割は何?」と使うこともできます。

働くという時、最近job型になるという、日本の社会はメンバーシップ型であり仲間内で協同を共同を重視したものとなっていた
それは農耕型でもある、みんなで村人が田植えしたり稲刈りしたり草刈りをする
それは今でも草刈なとはつづいている、農業とは人手がかかり共同するものだったのである、そういう感覚で会社が生まれた、なぜなら社(やしろ)に会すが会社だからである
会社のビルの屋上に社があったりするのもそうである
それは株主優先の資本主義社会の会社ではないのである
job型は英語で調べるとわかるがworkとは違う、何か一時的に仕事するとかある部分を担当して仕事するとかある、そのニュアンスが違うのである
欧米人はjob型でありそれぞれの専門性の仕事を重視する
仕事でもある特定の仕事をできる人をjobとして雇うのである

ただjobという時、そこにも専門性があるとししてもworkとは違う、workにはいろいろな意味がある言葉である
workは働くというとき機械が働くとかなれば機械が動きワークする、作用する、機能するとかなる、つまりワークには社会の中で機能するとか作用するとかの意味になる
そして作品の意味があることが重要である
何であれ製品を作品を仕上げるとういう意味がある
つまりワークにはlifeworkとかあり一生を通じて作品に仕上げるとういことがある
それは芸術家だとわかりやすい、画家だったら自分の作品をしあげることが仕事でありその仕事は死ぬまで継続されるのである
それは途切れることはない、会社で退職して途切れることはないのである

そしてworkには社会に機能するとか作用するというとき役割があるというふうにもなる
役割とは責任のことであり社会で責任ある部署を担当することである
また役割はroleというとき人間の役割はrollする、回ってくる、同じ役割でなくて役割が回ってくるということがある、だから人間の仕事は必ずしも固定されていないのである

そして役割というときまずその共同体であれコミニュティであれ自治体であれ役割を持つことである、株主になるとか会社員とかではない、それぞれの役割を社会でもちそれで評価されることである、金を第一とする前にそうして社会で役割がありその役割で評価するそういう社会が江戸時代だったと思う
侍には侍の役割があり農民には農民の役割があり職人には職人の役割があり農民には農民の役割があった、そして限度を重んじたのはその役割を果たすことが第一であるためである、それが封建社会だとなりそんな社会は不自由だとかなる
でも古いものでもそこには何かしら参考にすべきものがある
それで歴史から学ぶというときそうである、なぜこんなに資本主義社会は乱れるのだろうか、弱肉強食であり経済とかでもその意味は経世済民なのにまるで違ってただ金あるものだけが威張る社会に疑問になる

役割というときその役割に責任がありその役割を誠実に果たす勤めるということが職業倫理になる、その人の役割があり責任がありそれを果たすことで評価される
金で評価されるわげではない、まず社会の中で役割がありその役割を果たすことでその社会の一員となれる
そこでは人は役割で評価されるのであり金で評価されるわけではない、江戸時代なら庄屋でも村人をまとめる役割があり侍がいて米を税として納める役割がある
それは階級社会で格差があるとかなり否定される
でも江戸時代はそうして役割で評価されたのであり金があるかないかではない 

●AI化と機械化で人間の仕事がなくなる社会では役割社会になる

こういうことはAIで仕事がなくなり仕事をもつ人は特権階級になるという
なぜ仕事がもてなくなるかというと仕事が機械化されAI化されてなくなるからだ
すると社会で仕事ができている人は例えば給料が高いとか金で差別化しているが仕事をもっている人と持っていない人で差別される
別に給料はベーシックインカムで仕事しなくても払われる一応食べていける
でもそういうふうにして仕事がない人は社会に役割がない人として尊敬も何もされない
あの人は仕事ができるということは社会にとって必要不可欠の人であり尊敬されるとなるそれを感じるのは退職した時、何の用もなくなるとにている
一応年金で暮らせるのだが社会にとっては用のない人になるからだ
それで妻もそういう人と長い老後を暮らすのは苦痛になる

だからそれぞれに役割があり仕事する、でもその役割を果たしていない、その責任を果たしていない、マスコミにもその役割があったが果たしていない 
そもそも男性には男性の役割があり女性には女性の役割があって社会は成り立っていた
男性と女性が能力を競うことではない、それぞれの役割りをこなすことであった
だから男女平等社会とは役割社会ではなく男女が能力を競うとなり歪なものとなったのだだから役割社会ではまず与えられた役割に忠実であることが望まれる
科学者も専門家でも役割があったが果たしていない、ただ金を政府から得ようとするだけだとか言われる、予算をとるためにだけに働くとかなる 
つまり金融資本主義になると金だけを追及する、金を得たものが勝ちだとしているからだ何か役割をもつことではない、金をまず得ることが優先される
そして金を多く持つ人が資本主義では主導権をにぎる、役割でももしそれがたいして金にならなければ評価しないのである

そうしてたいして役割もない、責任もない人が巨万の金を得て富を一人じめするようになる、それはすべて資本主義では金で評価するからである
その役割は社会で大事です、だから勤めてくださいとかならないのである
金になるかならないかで重要度を決めているからである
もし役割を重視するならそこで働く人もその役割を果たすために勤める
そこに職業倫理も生れる、なぜならその役割を果たすことが仕事になるからである
医者には医者の役割がありその役目を果たすことが先決になる
でも実際は金にならないとしてコロナウィルス患者を拒否したとなるとその役目を役割をはたしていないのである

役割が先にありその役割を果たすということで金がもらえる、金がついてくるというのがいいのである、そこで医者の役割は重要だとして評価される
でも医者が金が得られないとしてコロナウィルスの患者を拒否するのは役割を否定したのである
役割というとき先に役割があり役割が与えられて人は働く
役割とは天職かもしれない、天職を役割として与えられたのである
そこにミッションが使命が生れるのである
それでこれからAIとか機械化とかロボットが働くようになる時社会で役割をもって働いている人はエリートになり優秀なのものとして評価されるという

他の者は仕事を失いベーシックインカムで生きるとしても社会では評価される者とはならない、確かに一応基本的な生活はできてももし社会に役割がないなら生活はできても劣等民とされてもしかたがないとなる
それは差別でも格差でもない、社会にその役割を見出されない、担うことができない
だから別に格差社会からそうなったのではなく、役割をもった仕事がない人となり劣等民とされるのである
そういうふうに時代とともに働き方とか価値観が変わるのである
ただ正直どんなことしても人間の理想社会など作れない、そこに暗黒が生れ矛盾が生まれるのである、神の国でしか理想社会などありえないのである
だから神が作り与える御国でしかそうしたことは実現しないのである
ただ自然がなぜ調和しているのか、人間だけがなぜ調和しないのか?
自然は神の業(わざ)によって調和している、それもそれぞれに様々なものが生物から無生物から無機物から宇宙があって調和している、それは何かそれぞれが役割りが課せられていて調和しているとなる

地理にしてもその土地土地の役割りがある、それは恵みである、グロ−バル化とはそうした外国でもいろいろな土地の産物の含みを得たとういことである、ただそれは度を越したものになり問題になったのである
恵みとはめぐることでありそうした土地土地の恵みがめぐってきたのである
またそれぞれの土地には国にはその国が果たすべき役割がある、例えば日本だとどうしても中国という巨大国家がありアメリカに日本は征服されたがその中間にあってその仲をとりもつという地理にあり地政学になる
それは明治維新の時、アジアを代表するものが日本になりヨ−ロッパ文明とアジアを代表する国になった
そして今また中国が巨大化してアメリカと対立するとその仲をとりもつ役割を担っている
そういう地理にあるのが日本なのでありそこに役割がある
だから地政学的役割がありそれを果たすことが政治的使命だともなる
いづれにしろ人間は国でもそうだし役割を神から課せられているのだ、それがミッションともなる
とするとそのミッションを果たすことが人間の役割りだとなる

In charge of A「Aの担当で」の用法です。What are you in charge of?で「あなたの役割は何?」と使うこともできます

つまり役割りとはchargeのことでもある、それは責任でもありまたカルマだともなる
生れたときからすでにそうした役割を課せられているchargeされているのだ
長子は特別の役割りを課せられているから家での待遇も違うそれは生まれた時からそういう役割を課せられている、
責任も課せられた人なのである、長子は常にどこの国でも重んじられてきたからである

国でもその地理からchargeされたものがある、それが中国とアメリカの仲をとりもつ、ヨ−ロッパとアジアの仲介者として日本があったことでもわかる

長子は特別の役割りを課せられているから家での待遇も違う
それは生まれた時からそういう役割を課せられている、責任も課せられた人なのである
長子は常にどこの国でも重んじられてきたからである
国でもその地理からchargeされたものがある、それが中国とアメリカの仲をとりもつ、ヨ−ロッパとアジアの仲介者として日本があったことでもわかる

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posted by 天華 at 15:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2020年07月24日

電車と藪甘草(写真)


電車と藪甘草(写真)

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10輪ほど藪甘草や電車行く



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みちのくへスーパーヒタチ藪甘草

クリック拡大するとマスクをした乗客が見える




藪甘草というとき何か田舎くさい感じの花である、あつぼったく農民の感じのような花である
だから普通電車が似合う、普通に利用する日常の電車である
ただ写真ではこき花が大きくとれない、前も花は遠くからだと大きくとれず映えなかった
だから大きくして加工するほかないのである
十輪ほどというときそれは人が十人くらいだともなる
ただこの列車は六両だから本当はそれなりに人が乗っているとみた
でも写真で見たら乗客が見えないのである

だから人も映ると活きた写真となった、生活感が出る
ここに人が乗っていないからただからの電車が走っているように見えた
人間はつくづく人がいなければ生活していなければいくら電車が走っていても活きない
それは原発避難区域で人がいなくなった飯館村でも感じた
空家だらけであり別荘のような新しい威を建てても人が住んでいないのである
生業もない、だから村が死んでいるのである

でもスーパーヒタチは今日は連休で相当に乗っていた、写真の車両は満員のようにも見えた
ただマスクをしているから警戒はしている
やはり東京から仙台の方の移動がある、でもまた東京から人が来るとコロナウィルスを運ぶから困るのである

沖縄の与論島では10人くらい感染者でて騒いでいる
医療体制がないから対応できないとかなる
こうした離島となると問題である
でも沖縄とか観光収入をに頼っているから来てもらいたいとなる
そういう時代は何か本来の生活ではなかったともなる
外部から来る観光が頼りの生活はうウィルスには弱かったのである

そうでなければ離島こそウィルスには一番強い場所だったのである
人から人への感染はないからである
それで江戸時代のコレラの流行では福島県の桧枝岐(ひのえまた)は感染しなかった
そこで米を食べられずソバが主食でイモリを焼いて燻製にしたものを食べていた貧しい地域だったからである
ただそういう孤立した場所はウィルスには強かったのである
人間社会はそもそも何が良く作用するかわからないのだ
いいものでも悪く作用したりする、だから辺鄙な地域は嫌だとなるがそこにもいいことはあるのがこの世なのである

離島というとき波照間島とかにも行った
そこで井戸が枯れた所がありそこに人が住んだ跡があった
シマでは水不足に苦しんでいたのである

ともかく東北にも結構連休で人の流れがある、そこでまたコロナウィルスの感染者が増える
仙台市はまたわずかでも増えたからである、それは前ら予測されていたことである


メデアの変化が現代の大きな変化 (マスメデアから個人ベースになる対話的メデアへの変化)


メデアの変化が現代の大きな変化

(マスメデアから個人ベースになる対話的メデアへの変化)


おそらく20世紀というかwin95からのパソコンの大衆化と変化とメデアの変化の時代だった、そこからインタ−ネットの情報化時代に大きく前進したからである
でもその前哨戦としてワープロがあり私自身はワープロからはじまったのである
私は悪筆であり自分自身が自分の字を見るのが嫌だった
それでワープロをはじめたのである、それはwin95がでる前でありその富士通のワープロに通信機能がついていたので偶然に通信をしていたのである
それは富士通のパソコン通信だった
でもそこに集まった人たちは草創期のパソコンマニアだった、それを操作する人は非常に少なかったのである、だから理系の技術者も多かった
それだけパソコン自体が高いし誰でも買えるものではなかった、40万くらいしたものがあった、そのパソコンでもしょっちゅうフリーズしたりしして使いにくいものだった
私はパソコンはwinの時はじめたのでありそれまではワープロの通信機能がついているものでしていた、それで富士通の親指シフトでしていた
これでテキストが打ちやすい、文章にするのにスムーズだから使っていた

なぜこうしてこういうことにはまったかというと私は機械が苦手ある、理系でもない
するとそういうものにはまるということはない

悪筆でありそれが嫌できれいな字にしたいからはじめた

これがワープロの動機であり通信というのは付随したものとしてはじめたのである
そして私は無職であり引きこもりだった、だから家に一日中いるからそこに時間をさけたからできた
何か人間は苦手なことがかえっていいように作用することがあるから不思議である
中国でスマホがあれだけ普及したのは固定電話をもつのがめんどうだったからである
それは他の後進国でも固定電話よりスマホが無線が便利で普及した
つまり何かそうして不利なものが有利なものになってゆくことが人間界にはある
中国がITの先進国になったのはスマホが電話代わりになったことが出発点だったからである

確かに引きこもりは社会的脱落者であり目の敵にされる、でも奇妙なのは引きこもりが悪く作用するとしても良く作用することもある
禅僧とかに私は同調する、なぜあのように一人沈黙するのか?
それは沈黙して瞑想することが修行だからである、沈黙することは精神の修行なのである人間はあまりにも口が軽すぎる、そして口からどれだけ悪いものがでてくるか
口は災いもとなのである、そして沈黙することは自然と同化することであり一体化することなのである
なぜなら山でも石でも木でも沈黙している、だから自然に通じるには沈黙が必定なのである、でも社会人として生活することは必ず何か営業でも嘘をつく
そういうことが強いられるのである、利益第一になるからどうしても嘘ついても相手がわからない投資信託とかいろいろな金融商品を売りつけるとなる

まずパソコン通信は文字だけで文章だけで会話する、これは今までにない会話のしかただったのである、だからこの世界を理解すること自体できないものだった
そこからメデアの変化が進行していたのである
つまりテレビは大衆を相手にしたメデアであり、6局によって独占されていた
この影響は本当に大きいものだった、なぜなら茶の間を独占していたからである
そしてマスメデアは大衆メデアだから常にどれだけ視聴率をとるかでその価値が決まる
それで硬いものは放送しない、大衆向きに作られている
だから大衆洗脳装置ともなっていたのである
テレビを見ていると知らずテレビ局に洗脳されるのである

そしてテレビ局は明らかな意図をもって放送している、ニュースでも放送するものと放送しないものがある、大事なものでも放送しないことがある
それはテレビ局でどんなニュースを放送するか決めるからである
だから6局によってマスコミが裁判官のようにもなっていたのである
それで武田邦彦氏がダイオキシンは害がなかったのにマスコミのキャンペーンでねそう思いこまされたとして怒っている
また温暖化はないとしてNHKの放送を常に批判している
それは科学的客観的なものではないのである            

マスコミには科学者の客観的態度がない、常に武田邦彦氏は科学者としてデーターを重んじて科学的事実から判断する
マスコミの報道はそうした科学的に追求するものではなく温暖化とかを作り出しているとしている、それは科学的なものではない、恣意的に作り出しているのである
マスコミは中立ということはないし報道でもない、NHKでも編集会議を開きそこでトップがその方向性を決める
だから原発事故でも原発避難者側につくとトップが決めて番組を作りをしていた
津波の被害者より原発避難者を重んじるとして番組作りしていたのである
するとそれを見る人は原発避難者側に同情するようになる
マスコミはそうして放送する権利を独占していた、そしてただ事実を放送するのではない必ずニュースでも取捨選択して解説でもNHKがその内容を決めて編集して決める
だからもともとニュースでもその見方は多様になるがマスコミは一方的になる
そしてマスコミは何か裁判官のようになり常にいい子になりマスコミの言うことは正しいとなりおしつけられる、そこに批判は許されなかったのである
マスコミには悪がないように見える、でもそこに悪があった
それは原発事故で莫大な宣伝費を東電などからもらっていた、それで事故が起きたとき朝日新聞ですら中国にマスコミの幹部が全部東電に招待されていたのである

マスコミは誰かの主張でもない、それは組織全体の主張として作られる
でも不思議なのはyoutubeとかプログとかインタ−ネットは前から個人をベースとして主張される、マスコミはマスが対象のメデアである、だから大衆受けするのものとして放送する
でもインタ−ネットでは個々のメデアであり個々人のメデアである
個人をベースにしてニュースでも解説している
つまり常に私はこう思うという主語があるIがあるメデアである
マスコミは常に我々はとかみんながとか放送する、その相違があるのでこれは何なのかとマスコミの放送に慣れた人はとまどうことになる
自分自身がyoutubeについて何かイマイチからないものがあった
テレビで個人が主張することが理解できなかった

でもyoutubeだとみんながではない、私はこういう経験してきて勉強してきてとか個人をベースにして語ることになるのが違っているのだ
武田邦彦氏は科学者としての経験が篤いから科学がわからない人には科学とはそういうものかと理解するようになった
その科学もマスコミで報道するのとは違う、なぜならその科学についての報道を常に批判しているからである
ただ有名なノーベル科学賞をもらった人まで批判できるとなるとそれだけの自信がないととてもできない、だから素人の人はそういう人が言えば何も言えなくなる

ともかくyoutubeとかプログでも個人をベースとして対話するメデアなのだ
だから対話する時その人がどういう人なのか、プログに書いているとわかりやすくなるのである、この人はこんなことに興味をもちそんな経験をしてきたのかわかるからである
ともかくそうして個人をベースにして放送しているのがインタ−ネットでありyoutubeでもそうである、一人の局など今までありえなかったからである

マスコミとは対話できない、そこには個人もいないし私がこういう経験をしてこういう場所に住んでいてとかないからである
人間はその住んでいる場所の影響も大きい、だからその見方も場所によって変わってくるのである、おそらく隣の市でも町でも違った見方になる
それが全国となると広いし世界となると広いから場所の感覚が理解できないから実感できないのである
つまりテレビの画面からはいくら旅の番組を放送してもその場所に立つとかその場所に住むという経験がないと理解できない
日本には砂漠がない、すると砂漠から生まれものを理解てきない、砂漠からなぜエホバが神が現れたのかも理解できないのである
この場所だけは本当に多様なのである、一地域でも本当に多様なのである
そこでそこに住む感覚が違ってくるのである

いづれにしろ20世紀はここ30年くらいは情報革命の時代だった、それはコンピュターと通信の世界が普及してそうなった
それは個人をベースとして対話するメデアだからそれは今までにないものだったのであるだからこれは新しい文化だからなかなかなじめないものなのである
ただ若い時から慣れ親しんでいればそれがノーマルとなる、ニューノーマルなのである
でもそれになじまないものはアブノーマルな世界になる

ともかくインタ−ネットの世界は個人をベースにした対話的メデアである
だから相手と個人として対話する態度が必要になる
でも武田邦彦氏のように科学者となると対話すること自体むずかしくなる
なぜなら文系だと科学的なことがわからないからである
ただ武田邦彦氏は文系にもわかりやすいよちうに説明しているし自らも文系の素養をもっているから対話をなんとかできるともなる
科学者とかなかなか対等に対話が文系はできないからである

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二人は同世代である、だから同じ世代として通じるものがある
でもその経験がそうとうに違っている、すると個々人の経験から語る
それで違ったものになる
ただここに欠けているのは場所性なのである、武田氏は名古屋だとしてもその場所性が
ほとんど示されていない
加治氏は北海道出身でも不思議なのはアメリカ出身となっていることなのである
アメリカ人ともなっている、北海道出身という場所性はほとんどないのである
私自身は常に自分の住んでいる場所をベースとして書いている
場所を離れて自分自身もないのである
場所をアイディンティティとして常に語っている
インタ−ネットでは地域メデアでもある、その地域地域に根ざして発信している
でも何かもう一つのその地域のことがわかるものが見つけられないのである
私のプログを読めば相馬という地域が見えるものがあると思うからだ

なぜyoutubeがもう一つなじめないのか?それは話すことが中心であり文章ではないからでもある、どうしても話すことと文章にすることは違うからである
でもボードに文を書いて説明するとわかりやすくなる
話すだけだともう一つ理解しにくいと見た
もう一つは短編になるので長い文のように一貫したものを把握にしくいことである
二人は本も出しているからそれを読めば理解は深まる
だからyoutubeであれプログであれ本であれ表現の仕方が違ってくる
そこで伝える内容も違った印象をもつのである
それはメデアが違うからそうなる
でも個人がこうしてメデアをもつことは今までなかった、個人がテレビ局になることはありえなかった、だから何かとまどうものになっている
私自身はしゃべることが苦手である、でも家に閉じこもって書くことは向いている
人に会うのも苦手である、だからひきこもりになった
何か人と会うとひどく疲れるのである、それで今つきあっているのは一人しかいないのである

2020年07月23日

The coffee shop is a viewing platform


The coffee shop is a viewing platform

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私は喫茶店が好きである、喫茶店でいいのはそこで食事するとかではない
ただコーヒーを飲むとかではない、喫茶店の価値はその場所にある
それで都会の喫茶店は自然の景色が見えないのでいやなのである
何か穴倉に閉じ込められた感じになる

いろいろな価値があるとして自然が展望できる、自然が回りにあると喫茶店でれレストランでも価値が生れる
価値を作り出すのは料理とは限らないのだ
それで相馬地域の喫茶店を四つくら紹介した、そこは自然の展望台にもなり自然があるからいいのである

やはり見晴しがいいと気持ちいいとなる
それで今回の抽象画は架空の喫茶店であり展望台なのである

とにかく映像の時代でありインタ−ネットでは写真でも絵でもいくらでもでている
するとそれらを組み合わせて別なものを作ることができる
切り張りして再構成するのである、だからこれも創作なのである
ただどうしても著作権違反が一部で生じている
それでもその本人の創作なのである、音楽だと編曲になる
これもコンピュターからまたインタ−ネットから生まれた新しい芸術である

I like coffee shops, what I like about coffee shops is not to eat there
The value of a coffee shop is not in the place where you just drink coffee
That's why I don't like the urban coffee shop because I can't see the natural scenery.
It feels like you're trapped in something

You can see nature as it has various values, and if there is nature around, you can create value in coffee shops and restaurants.
Cooking doesn't always create value
That's why I introduced four coffee shops in the Soma area, because it's a natural observatory and there is nature.

After all it feels good to have a good view
So this abstract painting is a fictional coffee shop and an observatory
and a viewing platform

Anyway, it's the age of images, and on the Internet, you can see as many photos and pictures as you like.
Then you can combine them to make another one
It is cut and reconstructed, so this is also a creation.
However, there are some copyright violations
Still, it's the creation of the person himself, it's arranged by music
This is also a new art born from the computer and the Internet

2020年07月22日

コロナで問われた観光立国の政策


コロナで問われた観光立国の政策

(桜北海道チャンネルで批判したことに同調)

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このyoutubeで北海道観光について疑問を呈している
観光立国という政策ににも反対している
これは何か今の時期に言うことはあまりない
ここでは観光立国より日本は物造りで栄えたのだからそうすべきだとしている
そして一兆二千億の金をつぎこむのは無駄だとしている
無理して行きたくない所に金まで出して行かせることはないとしている
金を出さなくても魅力が場所には行くとしている

観光で気づいたことは水ものだったとういことである
一挙に90パーセントも減る、ばったりと外国人でも来なくなる
これも信じられないことだった
北海道は外国人に人気があり外国人専用のリゾート地と化している場もあった
それで地価が上がったりした

そもそも観光立国となるようだ国も終わりだとなる、それはギリシャを見ればかわる
観光意外なにもない、産業がない、観光しかない、そしてヨ−ロッパでもそこは保養の地でしかない、誇るものは過去の栄光の遺跡しかないのである
だから経済危機になり国がつぶれるとまで一時なった
観光しか売り物がないということはそう言うことなのである
観光があったとしてもそれは付随的なものであり主要なものとはなりえないのである

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ホテルリステル猪苗代

地上18階/地下1階建 全370室

このビルを見たら凄い、こんなのあったのかとなる
千人くらいとまれるし一日の維持費だけで何百万だとかも言っていた
だからこんな大きくなると今回のように外国人でもぱったり来なくなると影響が大きすぎる、またこれだけの投資をしたということにも驚く
それだけ客を見込んでいたということである、これは別に投資したのは大手であり地元ではない、でもはずれたとなるとその損失も大きすぎるし地元の影響も大きすぎる
それはイオンとかともにている、そのために地元の商店街が廃れたとなる
ただ観光ではかえってこじんまりした割安なゲストハウスとかもありそれはそれなりに利用されるから違っている

でもこういうのを見るともはや前にも述べたが旅の宿とは関係ない、こんな巨大なホテルに泊まっても旅の情緒を味わえないだろう
団体旅行向きでもある、もうホテル自体を楽しむとなるのだろう
そこに娯楽施設があり楽しむ、景色を鑑賞するとかあってもそこですることがまるでデズニーランドのような娯楽施設なのともなる
私はこういう場所に泊まったことがない、私はただ泊まれればいいというだけだった

それで湖南町福良の蔵の宿に自転車で行って泊まった、それが情緒があったとなる
それは民宿でもあった、自転車旅行はホテルは泊まりにくい、汚れている場合もあり
受け入れにくい、だからテントに寝たりするのが多かった

いづれにしろこんな巨大なホテルの客室を埋められるのかとなる
今回のコロナウィルスはそれで観光業界が打撃になった
急激に90パーセントとか減る、そしたらもう一日電気代とか何百万かかるとした維持できないのである
それから交通関係も航空会社も鉄道もバスでも観光がとまるとその影響が大きすぎたのである、だからこんなことを予想できなかった

私は旅が人生ともなっていたから観光とか旅館とかホテルでもかかわりがあった
ただ金がないので温泉旅館にも泊まったことがない 
ただ一回くらい北海道の辺鄙な旅館に泊まって体を休めたことがあった
あとは何か泊まって楽しむことはしていない、一夜の旅の宿にすぎなかった
ただ一回だけ山形県のホテルで自転車でも泊まれた
断れると思ったがいいですよと泊めてくれたのである
その女将は親切だったのである、だからこうしてそんなホテルで自転車旅行者に気づいかいしてくれるのは例外的だろう、そもそも自転車旅行者はそんな所に行かないからだ
ふさわしくないからだ、ただここはホテルでも女将がそういう気遣いをもっていたのである、つまり前にも書いたがホスピタルから発したもの病院にもなりホテルになったからである
建物でもこれだけ巨大化するとそうしした心は失われてしまうだろう

いづれにしろ現代は交通の発達で旅はなくなったのである
旅するという時、その労力が大変なものになるしかえって金でもかかるとなる
自転車旅行がまさにそうなのである、それは少なくても一週間はかかる
すると会社員ではできないとなるからだ、二三日ではないからだ
それで歩く旅をしている人もいるがこの労力も大変なものになる
私自身は一回も歩く旅をしていないからだ
そうしたホテルに泊まることはもう旅ではない、ただリゾートで体を休めるとかうまいものを食べたいことしかない、そして旅の記憶が残らないのである
何か食べたとかは刹那的なものでありそれっきりで忘れるからである
つまり人生とは最後は思い出しか残らなくなる
でも現代の観光はそうした記憶が残りにくいのである 

何か観光というとき私は日本中ならほとんど旅したからいろいろふりかえる
北海道にはほどんど行った、最初は北海道から旅をはじめたからである
その後も電車でも自転車でも行った、苫小牧から稚内までも行った
これが長く一か月かかった、だからこうして旅ばかりしいると社会からはずれたものになった、そういうことができたのも家族に恵まれたためだったのである
それでもそこで地理を体で知ったりと本ではない知識が身についたとなる
まず地理は実地にその場を踏まなければ知ることができないからである
だから何もしなくても世界でも実地にその地を踏むことは外国を理解する第一歩なのである、ただ外国も旅したが広すぎて一部になった
それでも50歳以降旅したことは遅かったが外国を理解するには不可欠だった

そして60以降は介護になり何もできなくなったしまた旅する気力もなくなったのである
旅は何かやはり忘れやすい、でも何か印象に残った場所は忘れない、そういう場所はごちゃごちゃした都会ではない、自然が映える場所である、でも明石城が記憶に残ったのは
前が海で船が行き来して夕陽が映える光景だったからである、そういう場所か東北の太平洋岸にはないからである
もうこの年になると鳥のように飛んで歩くより牛のように一歩一歩住んでいる場所を歩き土地と一体化することに向いている
だから旅は滞在型の旅がいいとなる、一週間くらいある場所に滞在する
ヨ−ロッパだったらバカンスである、どんな土地に何か見出すものがある
その見出すものが近くでもあったが発見されなかった、灯台下暗しだったのである

北海道テレビというのも面白い、youtubeだとこうした地域のチャンネルが生れる
プログでもそうである、するとそこで地域に根ざした人が語ると違ったものになる
なぜなら人間はその生活している場所と深く関係して知らずに住んでいるからである
基本はその場所に生活している人がいて観光がある
その生業があり日常があって外から来る人の観光がある
それが観光がその地域の主体となってそこに住んでいる人が観光に頼り観光が生活そのものになると本末転倒になったともなる
だからコロナウィルスでばったり人が来なくなってもうつぶれるとなってしまった
日本でも観光立国はおかしいものだしオリンピックだって一時的なものでありそれより恒久的なものを目指すべきだというのが正論である
そういうことがマスコミでは言わない、それをこのyoutubeチャンネルで言っていたので
感心したのである

結局一兆二千億とか援助しても観光組合の利権団体にその金がながれるだけだとかその見返りにまたそうした利権団体から自民党に献金される構図になる
この辺で莫大な金が復興に使われた、除染でもゼネコンに何兆円と使われた
そしてまたゼネコンから自民党に献金される、何か政治はそういう構図になっている
でも結局そうししても福島の復興はなかったのである
だから金をいくら使っても必ずしも復興になったり効果的にもならないのである
金が万能のようでも金だけではどうにもならないものがある
ホテルリステル猪苗代でも巨大な城のようなものでもそれが無用化することもありうる
リニアでもこれだけ交通でもコロナウィルスで利用しないとなるといらないとなる
何か戦艦大和のように一戦も交えず海の藻屑と消えることもありうる


新型コロナウイルスによるホテル・旅館の倒産まとめ 

全国で41社が倒産し負債総額828億円

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posted by 天華 at 22:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

貧困化する日本で治安が悪くなる (コロナウィルスでさらに悪化するー大量失業の恐怖)


貧困化する日本で治安が悪くなる

(コロナウィルスでさらに悪化するー大量失業の恐怖)

社会が大きく変わる時、大量の失業者がでる、明治維新では侍が失業して困った
その中でその中で恵まれた人たちは教育関係に入り教師とかになった
あとは官僚とかなになったりした
でも江戸時代から明治に変わっても農業が主産業のとき、やはり農業につくことになったそれで北海道に開拓に入った、その仕事は厳しいものだった

そして戦後と一千万人とか引揚者が日本に帰ってきた
その人たちも失業者になった、それまでは兵士として職をもち食料は国から供給されていたからである

お前たちは外地散々贅沢な暮らしをしたのだから少々苦しい目をみてもあたりまえだ

こんなことがありうるのか?戦争していて贅沢な暮らしがありえたのか?
でもそれだけ日本が貧しいとなると食べることもできないとなれば戦争でもしてし兵士でも食べられるのいいともなる、御飯が食べられるのらいいともなる

そういうことがあったのかもしれない、人間は食えなくなればなんでもする
それで不況とかが深刻になり失業者が大量に増えると社会不安になる
治安が悪くなる、犯罪が増える

そして追い詰められた人間が一番怖い!

犯罪になるのは追い詰められ人間である、たいだい推理ドラマでも犯罪は借金した人が多い、それは借金に追い詰められているからだ
そういう人たちは善悪もなくなる、追い詰められるとまず人のことを考える余裕がなくなる、だから相手を襲うということになる
そういう経験を介護十年で自ら病気にもなり経験して来た
相手の苦しいことなど関係なくなる、金をとることしか頭にないからである
それで盗難にもあっているし責められるだけだった

考えてみると戦争の原因は何かとなると失業が関係している
ドイツでも第一次世界大戦で国が借金して不況になり失業者が増えた結果として社会不安になり戦争になった
戦争に踏みきるというのはその国が相当に追い詰められているからである
日本でもアメリカに経済封鎖されて石油が入ってこないとかなり追い詰められたから戦争に突入した
戦争に意義あるというのもあったとしても日本がそんな崇高な目的があったとは思えないのである、何か経済的に追い詰められて戦争に突入した
それで中国でも国内が苦境にたたされると戦争をしかけてくると言われる
対外的にかえって強硬になり国外に不満をぶつけて戦争になる
それで為政者は責任をとらない、悪いのは外国だとなるのが楽だからである

いづれにしろコロナウィルスでも大量の失業者が出る、その人たちが就職できないことが大問題になる、では侍が北海道に開拓に入ったり戦後の引揚者が近くの荒地の開拓に入ったりするようなことができるのか?
確かに耕作放棄地が膨大だから土地があるからできないことはない、でも時代が違うから無理だともなる
農業は簡単にできない、肥料やら道具代やら天候とかのせいで収穫は簡単にできない
そこに金をつぎこんでも何もとれない、農業の苦労の話を聞いただけで終わりだった

それで猪狩満直のように戦前に北海道に開拓に入って病気になり若くして死ぬようにもなる、引揚者でも半分は撤退したし北海道開拓でも厳しいから撤退する
ただ人間は追い詰められると嫌でも強いられてもそうなる他なかった
働く場所がないからである

高齢化社会でも貧困者が増えている、50パーセントがぎりぎりである
年金だけではやっていけない

そして5パーセントが水道電気をとめられる!

ここに現代の貧困が一番現れている、ボロを着ている人はない、一応食べられてはいる
でも現代の生活で欠かせない水道電気代が払えなくなるのが現代の貧乏なのである
復興住宅の浪江の人が電気をつけていない、節約しているというとき補償金もらったのだからそんなことはないと見ていたが結構苦しい人もいる
つまり苦しくなるとそうなるのである

知っている人は月末に必ず電気をとめられるとか水道とめられると泣きついてくる
そういう人が5パーセントもいる、これは少ないようで多いともなる
なぜなら一万の町があるとして500人がそういう人達がいるということになる
一千万だと50万人にもるなるからだ
それで電気料金をとりたてる人が催促するのが嫌になってやめたという
取り立てる方も相手が払わないから苦労して嫌になったということである
実際老人で余裕あるのは4パーセントくらいだというときいかに悠々自適な老後を生活する人が少ないかである
それで70になっても働くほかなくケガする老人が増えているのだ
やはり肉体労働になると老人はケガしやすいからだ

これから貧困がさらに厳しくなる、コロナウィルスで拍車をかけて厳しくなる
観光業は地方では収入として大きい、それで中国人が北海道に来なくなったりしたら厳しいとなる、福島県だと会津の方は観光業のしめる割合が大きい 
近くの人は水産業で魚を旅館とか飲食業におろしていたがコロナウィルスで影響して売り上げが減ったとなる、ただこの辺では観光業でも松川浦はそうだったが震災で津波で被害になりそもそも観光に来る人はなくなっていた、それと原発事故で放射性物質の汚染で
アサリ取りとかもできないから観光客が来ていなかった
全体的に観光業はこの辺では盛んではない、第一温泉がないからである
ただ野馬追いでも中止になったからその影響もある
ただ復興事業はまだ小高とか浪江とか原発の近くでつづいているからそういう仕事の人たちが来たのでやたらとホテルが多くなったのである
その象徴が原町駅前の十階建てのホテルが建ったことである、この辺では一番高いホテルである、それもコロナウィルスで影響する
猪苗代には千人も収容するホテルがある、これも客が来ないのだから影響が大きい

ともかく地方でもコロナウィルスでももともと苦しかった経済がさらに苦しくなる
そのしわ寄せが老人にくる、まともに年金をもらっている人は少ない
せいぜい二割くらいしか余裕ある生活はできていない
生活保護でも自治体によって差がある、知っている人は5000円しかもらっていない
医療費でも半分が負担である、それより生活保護はこれから支給されなくなる
それだけの財政の余裕がないからだ
だから市町村がつぶれてゆくとかさらに集約して自治体をなんとか維持するほかないともなっている

その人は70であり息子が援助する余裕がない、青森に父親が施設に入っている
それで必ず必要なものがあり金を払っている、つまり今の親世代の息子なども余裕がないから援助できない
するとどうなるのか、もう飢え死ににもなってしまう、なぜなら自治体も生活保護でめんどうみきれないとなっているからだ
だから高齢化社会ではもう介護でも病気でもめんどうみれなくなる
つまり弱い者は捨てられる、そこでまた犯罪が増えてくる
刑務所は高齢者の介護施設のようになっているというときもそうである
そういう人たちは行く場所がないからだ、特養などには簡単に入れないからである

こうして日本が貧困化してくるとどうなるのか?

本当に治安が悪くなり犯罪者が増える、そして金持ちでも安泰ではない、犯罪にあう確率が高くなるのだ、塀を鉄条網で囲って私兵を雇い守らねばならなくなる
格差社会というのはそれだけ金持ちにとって生きずらい危険なものとなる
枕を高くして寝れなくもなる、この貧困化に追い打ちをかけたのがコロナウィルスだったのである

そしてこういうふうに窮迫している人にとっていかに十万を給付されることが助けることになるかわかる
なぜなら10万もらえるとなればそれでその十万をあてにして電気水道代でも払えるとなるからだ、この人は10万がもらえるとなればとる方もあてにする
だからベーシックインカムも考えるようになったのである
生活保護はすぐに供給できない、それで困る人たちがいるしいろいろ問題があるからだ
いづれにしろ日本は冬の時代に入っていたがそこからさらにぬけだせなくなる
地方創成も言われたが観光業が頼みの綱でもそれもたたれた
そしてどこに光明を見出してゆくのか?それがまた問い直されているのである 

コロナによる経済的ダーメージが長期化すると
高齢者の悲惨さが際立つことになる (鈴木傾城)


posted by 天華 at 10:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2020年07月21日

水害で塗炭の苦しみにある中国南部 中国メディアは「美しさ」を報道 八沢浦が元の美しい入江に戻った!(これと同じ報道)




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「中国政府がhayoulake1.jpgをを決壊させた」映像が公開され 大騒ぎに
                                            
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八陽湖は琵琶湖の6倍

湖の表面積は、季節により146km2から3,210km平方メートルまで変動し、長江の水流を調節する役目を果たす。

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岳陽樓に登る<杜甫>

昔聞く 洞庭の水
今上る 岳陽樓
呉楚 東南にさけ
乾坤 日夜浮かぶ
親朋 一字無く
老病 孤舟有り
戎馬 關山の北
軒に憑って 涕泗流る


春秋戦国時代の呉と楚 呉は今の江蘇省のうち揚子江以南の地 楚は今の湖南・湖北両省の地

7月から9月にかけて長江から大量の水が流れ込み、湖の面積が広がる。通常期の湖の面積は2,820km2(琵琶湖の約4倍)だが、長江から膨大な量の水と堆積物の流入によって増水期は20,000km2(関東平野や四国よりも広い面積)にも及ぶ広さになるという。 


中国で起きている揚子江の大洪水を中国のテレビで国営放送で美しいと報道した
これに民衆が怒っている
でも何か不思議なのは自分自身が同じようなことをしていた
八沢浦が美しい入江に戻ったと津波のことで写真で紹介した
それで顰蹙をかった、なぜならその時、入江になったところに家も浮いていたし
死んだ人もいたからである、赤ん坊が泥に埋もれて捜索して掘り出したとかあった
ただそこは家が密集していないから本当に入江のようになった
たいがい津波はどろどろの泥に埋もれたような光景になっていた
ここだけは違ってきれいな波に朝日がさしてし波がきらめいて打ち寄せていた
それが奇跡のように美しかったのである
この辺は荒い波しか打ち寄せない、入江がないからだ、松川浦だけである
それでいつもここが元の入江にもどったらどれほど美しかったろうなと見ていたが
それが津波で元の入江にもどったときほど驚いたことはなかったのである

それと同じことが今回の揚子江の長江の洪水で起きていた
八陽湖は琵琶湖の6倍、洞庭湖は4倍、太古は3倍である
こうした湖の大きさはイメージできない、ただ太古には行ったことがある
海のように水平線になる、感覚的には三倍とかいっても相当に広い
なぜなら琵琶湖三個分あるからだ、それが6個分あるとすると滋賀県全体が湖になってしまう

琵琶湖は滋賀県の面積のたった六分の一(1/6)である

びったり滋賀県が湖になる計算である
ただもともと琵琶湖広かったからそのときなら5分の1くらいになっていた
大陸とか中国となるとそのスケールが想像を越えているからそこが一番理解しにくくなる国が2つに分かれるくらいのことがこうした洪水でも現実に起きたのである
その時ただ愕然としているだけである
それがただ美しいとして報道するのは自分もしたことである
他に住む人はそんなふうにしか見ないのである
自分自身がすぐ近くでも津波の被害がないからそうだったからである
ただその光景を実際に見れば驚嘆するほかないとなる

ここでは津波の後にも湿地帯化して沼がいくつも生れた、それも結構広い沼が生れた
それも美しいと見た、日本では海岸地帯は元の自然にもどると釧路湿原のようになる
それは美しい光景だったのである
だから自然というのは想像を越えたものでありそこに美も生れていたのである

そしてここで起きたことと同じことを政府が言っていた

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一万年に一回しか洪水は起こらないから千年に一回から百年に一回に訂正した

原発でも御用学者が百万年に一回しか事故は起こらないと数学者が確率論で計算していた
でも400年前にも大津波が来ていたのだからそんなことありえなかったのである
今回のコロナウィルスでも40万人が死ぬとか学者が国民を脅した
何か専門家は場違いなことを言う
ただ政府がまた報道でこんなことを言っているのは日本ではありえない
でも人間は外国でも人間であるかぎり同じようなことが起きるとこのテレビを見た
ただ中国とかなるとそのスケールが違うので理解しにくいのである

ともかく地球大変動の時代が来ている、それはやはり神からの何からの働きがあるとしか思えないのである






posted by 天華 at 08:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波水害関係

2020年07月20日

見逃せない戦後の引揚者の歴史 (大量の失業者が開拓に入ったーコロナで同じ変化が起きている)


見逃せない戦後の引揚者の歴史

(大量の失業者が開拓に入ったーコロナで同じ変化が起きている)

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戦後の引揚者

搬送に負けるということは大きな変化をもたらした、百からゼロになるような大変化だった、戦後の焼け野原であり都市は壊滅して故郷に帰っても働く場所もなくなった
その人たちは戦争の時は兵士であり食べていけたのである、それで

お前たちは外地散々贅沢な暮らしをしたのだから少々苦しい目をみてもあたりまえだ

これも理解できない、戦争で命がけで戦った人たちが贅沢な暮らしをしていたのか?
食うや食わずで戦っていたともあるからだ
ただ戦地には食料でも優先的に送られていたからである
ただ戦争に負けた時、従軍看護婦としてシンガポールの向かい側のマレーシアのジョホールバルに四年間働いた姉は戦争に負けたときジャングルに逃げて地獄の苦しみを受けた
食べ物がないからである                                  
でもそれでも戦争中でも本土から食料が優先的に送られていたのである
それでは本土の人は戦争中どうして食糧を確保していのか?
その困窮はどうであったのか察しられる
本土には働き手がいなくなったからだ、すると残された妻とか女性が働いたことになる
また工場では学生でも若い人も総動員で働いたとなる
だからこの辺の事情がもう一つわかりにくい

ただ引揚者と自分は現実に接している、それは子供の時、小池にいたのである
小池というと近いのである、飯館村とかなると遠い、小池は街から近いのである
そこに一人引揚者の一人がいたのである
私の家で店を始めたとき私の父親が今の双葉の新山で酒屋の丁稚をしていてその時その人と一緒に働いていて知り合った
私は子供の頃、店がはじまったときその人の所に卵買いに行かされていた
自転車の荷台にぬかの入った卵を入れて運んだのである
その頃ニワトリは放し飼いでありまさに庭の鳥だったのである  
その時今の真野川の鹿島区役所のあるところの橋は土橋だった
それでゆれるから怖かった、そして必ず卵を一つは壊していたのである

子供の頃気づかなかったがその人は相当に貧しかった、結婚もしていない
ずっと一人だった、それだけの余裕がなかったのだろう
ただ不思議にその頃そうして開拓に入る土地があったということである
聞いてみると当時は農家の方が豊かだった、なぜなら食料を時給していたからである
農家では味噌を作っていたり納豆でも作っていた、そして何より卵が食べられたことが贅沢だったのである
それで戦後は大鵬、巨人、卵焼きとなっていたのである
卵焼きは食べられる時代になったということである                  

とにかく引揚者は戦後の大きな問題だった、兵士あったものが失業したからである
数も多いし就職先もなかったからだ、戦後は何か就職先がない、故郷の田舎に帰ってもないのである、するとなんとか食べるものだけを確保しなければならない
それで開拓に入った、そこて食料だけはなんとか確保しようとしたのである
だからそれは苦しいし貧しいものだった、でもそれしか生きる手段がなかったのである
結果的には半数が撤退した、でもその後幸運に高度成長時代に入り工場とかに就職できたでもその時中卒が集団就職の金の卵として東京とかの中小企業に就職した
その下町の工場は小さいから今のような寮とかはなく劣悪であった
自分自身がそういう工場で学生の時アルバイトしていた
一日中ドリルで穴明ける作業だった、何か自分は学生時代からそうしたロボットのような流れ作業のようなことしか仕事としていない  
大学卒業してもフリーターであり依然として流れ作業しかしていない
それで仕事に異常に嫌悪感を覚えてひきこもりなり旅ばかりしていたとなる
それは仕事がそうしたロボットと同じにされたからであった
その反動からそうなったのである

この引揚者のことを知るということはやはり歴史であり今を考えるのに参考になる見逃せないものがある
時代が大きく変わる時何が起こるかということである
大量の失業者が生れる、兵隊が就職先だったものがなくなると故郷の田舎に帰っても働く場所がないのである、そうしたら食べることもできないのである
だから悪条件でも開拓に入った
でも鹿島区の小池だと街から近いし平坦な土地であり生活するには貧乏でも他よりましだった

なぜなら飯館村とか山に入った開拓は交通の便が最悪だった
大倉から飯館村に入る木戸木という開拓村は十軒くらいあり半鐘がありそこに生活があったのである、私はそこに関心がなく森があり清流がありそこを通る人はいなかった
秘境だったのである、今ある道はあとから作られたのである
その時その清流が消えたことが残念だった、それは原発事故前にありその頃まだ地方は公共事業として道作りをしていたのである
ただあそこはこうつうの便が悪いというより大倉から七曲の道でありそこから草野の村の中心地に行くまでも七曲の道であり不便であるというより閉ざされていた
その頃クルマなどないからどうして草野とかまで行ったのかとなる

なぜこのことをふりかえるかというと時代の変わり目には失業者が大量にでる
兵士という職業を失った人たちが大量に生れ仕事がないのでそうした不便な場所でも食べるために開拓に入るほかなかった、そして半分は過酷であり撤退したのである
兵士というときこれはやはり職業であり戦争中は兵士が最も多い就職先になっていたのである、兵士は経済が苦しくなると貧乏になると戦争でも食べるためになるのである
それは常に歴史でも戦争の歴史でもあるからそういうことがあった

そして今コロナウィルスで失業者があふれる、大きな時代の変化では大量に失業者があふれ職を求めるようになる、だから先日まで人手不足で騒いでいたのが不思議だとなる
どこが人手不足だったのかとなる、病院ですら医者にかからず患者が来ないのでつぶれるとまでなった、つまりこの「不要不急」が今の時代の標語のようになったのである
「不要不急」というとき観光業とかも実はそうだったのである
水商売ではないにしろ水ものだったのである、だから急激に100からゼロに近くなるのも驚きである、京都ではオーバーツーリズムで外国人がふえて困っていたのにもう来ないこの変化も大きすぎたのである

でも思うに今起きていることは大きな社会の変わり目であり焼け野原から始まったような変化に見舞われているのだ
だから東京一極集中から地方へ分散する、すると地方が活性化する
それは悪いことでないのである、大きな変化の時代になるとやはり観光業でも何か大きな犠牲が生れる、明治維新では侍が北海道の開拓に入ったように過酷にもなる
侍という職業を失業したからである
ただ昔とは同じようにはならない、でも食べるものがないからと不便な場所に開拓に入るようなことはない、でも農業をが見直されることはありうる
なぜなら耕作放棄地が膨大にあるからだ、それを活かすようなことがこれから起きるかもしれない
今日聞いたのは仙台の大学に入った人が学校に行かなくてインタ−ネットで授業しているという,テレワークすると同じである、教育も相当に変わる
学校に行くというのではなく十分にインタ−ネットのyoutubeとかでも学べる環境が生れたからである

こういう大きな変革の時代にはやはりマイナスの面だけが目立ち騒ぐ
それは戦後大量の引揚者がどうしていいかわからず開拓に入ったと同じである
焼け野原をみて茫然としている、観光業とか飲食業でもそういう状態になったとき地方はそこに頼っていたから苦しい、でもそこに何か活路を見出すと新しい時代が生れる
つまり地方の再生が起きて来る、その前に戦後の焼け野原のようになってしまうことである、それが観光業にでも起きている、交通関係でも起きている
鉄道すら乗る人が激減したからである、前からローカル線は減少していたとしても新幹線までが激減したことには驚いた
こうなるとリニアなど必要ないとなりこれも大幅に予定が狂ってしまったとなる

ともかくこの辺では津波だと原発事故だとか変化が激しい、それにつづいてコロナウィルスでありそういう激変の時代に突入したとなる
だからこれほどに社会が変わるということには驚く、すると新しい時代を作る、適応するということが大事なになる、それがてかなか老人になるとできなくなる
それで飯館村の村長に立候補したのが40代の外部から来た人だということも新しい時代にはそうなる、今までの考え方ではこれだけ変わればできないからだ
他の避難区域でもとても何か復興といっても老人は何もできない
それで外部から来る若い人たちにまかせるともなる
こういうときかえって前からのしがらみのない外部の人たちが主役になれる
第一飯館村とか人が住んでいないのだから自由に使ってくださいとなる
そこに別荘の様な新しい家を建てても住まないのだからそれは外部から来た人たちにゆずるべきだともなる、そうしなければ住む人がいないのだから村が成りたたないからだ
そういう大きな変化の時代には何か信じられないようなことが起きて来る
それがまた時代が変わるということなのである



posted by 天華 at 20:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 明治維新-明治以降

6号線でホンドキツネが交通事故で死亡


6号線でホンドキツネが交通事故で死亡

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これは犬ではないだろう、口とか尻尾がキツネなのである
その体毛とか色もキツネ色と言われるものである


これはキツネである、犬とにているようでも違う
北海道では日常的にキタキツネを見る、これはホンドキツネである
本州に本土に生息するキツネとなる
生息の地図を見ると全国的に生息している
でも2003年とかか最新で今はどうなっているかわからない
キツネは震災の時、荒地と化した田んぼを一目散に走っていた
それは犬だと見えたがキツネだった 

原発事故で人が町からもいなくなったとき猿とかイノシシでも街の中にでてきた
人がいなくなると野生の動物でも植物でも元の自然にもどる
草ぼうぼうとなり放置していると木が育ち森になってゆく
チェルノブェリではヘラジカとかがもどり増えた、狼ももどってきた
だからこの辺でもそういうことがあった
猿でもイノシシでも街にでてきたり人家を荒らす
飯館村とかでは畑がイノシシに荒らされていた
浪江とか双葉とか大熊とかは田畑が荒地化したから野生の動物が住みやすいのである

ただ事故前でもキツネはいたのかもしれない
これは夜行性とかありなかなか見れない、タヌキと結構みかける
キツネは犬と間違えやすい、今回死んだのも犬かと見た
でもこれはキツネだろう
口がとがっているからだ
何か精神病をキツネ憑きとか言ったのは口がとがっていることが似ていたからだろう
キツネの昔話が多いから昔は日常的にキツネと接していたのだ
子供の頃、近くのニワトリがキツネに襲われたとか話題になった
すると街の方にも来ていたとなる

人間はなかなか自然のことを今わからない、田舎に住んでいてもわからない
農業しているのは田舎でも一割にみたないからだ
みんな会社員になっているからだ
私の父親は何か戦後仕事がないのか、イタチとりしていた
そのイタチを飼っていたことがあった
その皮をとるためであり屋根に干したりしていた
そして母はイタチは人に絶対になれないと言っていた、餌だけをとり人になつかない
そのイタチも逃げた、イタチは今でもみかける、すぐ街中の川の土手でもノウサギを見ただから野生の動物は結構いる
原発事故で農家が空になり捨てられた所にカモシカを見たのは驚きだった
それ八木沢峠に行く手前の大古とかであった
これも原発事故の影響で人家近くに来たとなる

動物でも交通事故は無惨である
口を空いて断末魔の形相だった、普通に死んだらこんなふうにならないだろう
キツネはまだ田舎にはいる、ただキツネを子供の時でも見たことがない
キツネがニワトリを食べるとか聞いてもキツネそのものを見たことがない、これは犬と間違いやすい
カモシカは橲原(じさばら)の八木沢に行く薔薇坂で見た
意外と平地におりてくるときがある
動物でもやはり注意してみているべきである、動物もやはり生態系に依存して生きている

posted by 天華 at 09:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2020年07月19日

春時雨、夏の海(梅雨の晴れ間に原町の萱浜まで)


春時雨、夏の海(梅雨の晴れ間に原町の萱浜まで)

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くさふぐ

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松二本街道に影なし夏の朝    

あふれ咲く夏菊の黄に赤映えぬ

原町の通りを来たり春時雨
                                                
浪しぶき魚つりあぐ夏の海

はねとびし魚を見るや夏の海

釣り人と魚を語る夏の海

6号線夏の雲湧き鹿狼山

玄関の戸にでで虫やこもる家


街道に太くも根付く松にあれ夏の朝行き影をなすかな    


五本松から高松を通り原町の通を来て萱浜の方を回り帰ってきた
高松は松とあるごとく確かにそこは一段と高くはなっている
そこに太い松がありあの松はいい松だと見ていた

陸前浜街道として何かにあっていた、松は人間に見える親しい木なのである
街道というと高松から坂を下り新田川の橋をわたり原町の街中に出るがそこをまっすぐ行って四つ葉通りがありあそこが宿場町になっていたのである
そういう古い絵が残っている、そこが街道だった
駅の方に行くのは明治以降の街並みだった
駅から発展した街並みだった

ただ今この駅前通りはさびれている、店を閉じているのも多い
何か活気が感じられない、シャッター通りになったのはどこでもそうである
とうしても六号線の方が便利なのである
やはりスーパーがあるとないのでは相当に違う、駅前にヨークベニマルができたので駅前の活気は多少もどった

それからスーパーキクチのある裏の小浜のいととんぼの店によった
あそこの野馬追カレーうまい、それより日替わり惣菜を売っているのがいい
それも一つ150円くらいなのである
それがなぜかというと惣菜を作る人が日ごとに違っているからだという
スーパーだと同じ人が作っているからいつも同じだとなる
とにかく一人暮らしはオカズに困る、ただ近くだったら毎日でも来れるが遠いから来れないのである

何か雨がふったと思ったら春時雨だった、久しぶりに晴れたが雲が出て雨がふったのは時雨だった、春時雨である、何かこれは街にふさわしいともなる
冬の時雨と春時雨はまるで違ったものである、何かシャボン玉のようにも感じる

それから萱浜の方に行った、そこで釣りしている人がいた
その人は相当に釣りをしている、仙台の方にも釣りに行っている
漁礁を作ってそこに小魚を集めて魚を集めていると魚ことがくわしい
釣りは遊びでも自然と一体になるから釣りの人と話したりする
なかなか釣れないと言っていた

その時海面を魚が飛んでいた   
そこの辺でそういう風景を見たことがなかった
与那国島の方に行った時はトビウオが本当に高く飛んでいたのには驚いた
今日見た魚は高くは飛ばないがやはり飛ぶ魚がいる
それを見て気持ちよかった
釣りの人はスズキだとか言っていた  

ボラがジャンプする理由は?
ボラは水面近くを群れで泳ぎ回り、水面上を体長の2〜3倍もの高さでジャンプする習性が知られています。外敵や物音に驚いたりであるとか、体についた寄生虫を落とすためであるなど、様々な説が唱えられてます

トビウオだけではない、飛ぶ魚がいたのである

そこでもう一人の人が釣ったのは草河豚(くさふぐ)だと言っていた 
これはフグだから危険である、プロでないと料理できない、何か釣り人にとっては厄介者らしい、
一時津波の後に湿地帯のようになり金沢で大量の魚が入ってきて泳いでいた
それはボラだったのだろうかフグだったのか?
大きさはほぼ同じである
一時津波の後に三年前とか魚が相当に釣れたらしい、魚を獲る人がいなくなり増えたためである
釣りというのは何か自然ととけこむからいいのである
それで時々釣り人と話ししたりする、今日はひさびさに晴れたので気持ち良かったからだ
夏はやはり海が気持ちいい、久々に晴れたから自転車で回ってきた

家に帰ったら玄関の戸に出んてん虫がついていた
何か自分にふさわしい、それで急ぐ人は来たるべからじとした





スーパーヒタチが真野川の鉄橋をわたる (約午後5時ー川面に光が反射する写真)


スーパーヒタチが真野川の鉄橋をわたる

(約午後5時ー川面に光が反射する写真)


trainsunshine111.jpg

superhitachiriver.jpg

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この写真は車の通る六号線の橋の上で撮った、ちょっと危険だった
でもそこからしかいい写真がとれないのだ
撮り鉄になると危険な場所になる場合がありとがめられた

ただいい写真は撮る場所が肝心である
それば日ごろ見ている場所だったらねらってとれる
でも遠くになるとその撮る場所がわからないのである
これは日ごろ通っている場所だから構図ができていたから撮れた
ただ午後5時だから暗い感じになり一枚は手を加えた

とにかくこのスーパーヒタチは絵になる
でもまだ一回も乗っていないのである
まだ梅雨が明けないから行く気がしない
今日は晴れたのでチャンスだと思いとった
良かったのは日曜日で六号線の橋をトラックがあまり通らなかったことである
橋の脇の狭い道から撮ったから危険になる

これは広角で連続で写真をとった、何か写真をとることも仕事である
相馬新報というときプログでも私的なものでも記者になっているからだ
何か文系は就職先がジャーナリストとか報道とか出版関係とか銀行とか何か限られている
ただ相馬新報とかで自由に自分の考えを述べるというのはやりがいがある
収入はないけどこれはブロガーとかユーチュバーとか新しい仕事になった
それで一か月百万とかの収入があるというのも驚きである

それで大勢の人に見てもらうために奇抜なことをしてつかまった若者がいた
これもマスコミと同じだったのである、マスコミだって視聴率をあげるために芸能人に
そういうことをやらせているからである
テレビが個人化したテレビというのもありえないことだった

ただマスコミの番組作りは鉄道でも旅の番組でもつまらない
何か食事とかありきたりのことしか映していないのである
何かかえってマニア的に廃線の旅とか何かこったものにする
でもテレビはとにかく万人向きだからいつも食事とかばかり映しているのである
万人向きだということはかえって今はつまらないものになる

youtubeだと何かマニアックなものあることを追及する、トンネルの旅とかなにかテーマをしぼり番組作りする
そういうことをしやすいのである、自分は鉄道が好きだからそういう番組作りをしたいとなる
ただ動画となると手間が大変だからできない
それで写真には今こっている

2020年07月18日

温暖化でネッタイシマカが東北で生息する範囲 (真野の草原と真野氏の登米までの進出の地図と一致)


温暖化でネッタイシマカが東北で生息する範囲

(真野の草原と真野氏の登米までの進出の地図と一致)

nettaishimaka12.jpg

赤は関東であり温暖化が著しい
薄茶色は東北で温暖化してネッタイシマカが生息できる範囲


真野の草原は境界線である、気候的に歴史的にも



ウイルスを媒介したのは、熱帯地域に生息するネッタイシマカ。感染した人を蚊が刺すとウイルスが蚊の体内に取り込まれて増殖。その蚊がウイルスを運び、他の人に感染を広げる。これまで感染が拡大した地域は赤道付近に限られていたが、温暖化の影響でネッタイシマカが生息しない日本でも感染リスクが高まっていることが分かってきた。

ここに地図のオリジナルがでている、コピーできないので参照してください


このウィルスが温暖化で広まってゆくことを警告している
もともと熱帯産だけど東北地方でも温暖化で広まってゆくとしている
つまりウィルスは温度とか湿度とかの影響を受ける
寒い所に生息するものもいる、シベリアの凍土にもウィルスが生息していて最近発見されたのである、だから温暖化で凍土が溶けるとそのウィルスが現れて人にもうつるのかと心配しているがそれは起りえないとしている
でもなぜそんな凍土の中でもウィルスが一つの最小生命体が生きられるのか謎である

ここで注目したのは万葉集の歌が残された南相馬市の鹿島区のことである
その海老浜はシャリンバイの北限地として有名である
この辺ではいたるところにシャリンバイを植えているし見られるのである
ただ津波で海老村は消失した
このシャリンバイは奄美大島産であり熱帯性である
だから真野の草原の万葉集の歌が残された地点は気候の境界線だったことを追及して来た東北でもあたたかい場所でありそれでここが南の植物が生息できる限界地点であり境界になっていた

これはまた歴史的境界線にもなっていた、歴史をは地歴であるしまた風土とも関係している、特に気候は注意すべきである、緯度に注意すべきである
緯度が違うと暑さ寒さが違ってくる、それで文化も違ってくる
阿武隈山脈の地域が温暖化してもこの蚊が住めない地域になっているのは例えば飯館村になると400メートルの標高差が平地とあるからだ、寒いからこの蚊は生息できないとなる

とにかく照葉樹林帯というのは緯度と深く関係している、この緯度上に共通の文化をもっていたのである
そしてなぜこの辺にやたら綿津見神社と山津見神社が多いのかということである
それは飯館村まで綿津見神社と山津見神社が主要な神社なのである
それは相当に古いのである、それで佐須とは明らかに焼畑地名である、他にも飯館村には焼畑地名があるからだ、そこは森がおおっていて焼畑に適していたのである
その焼畑の技術は照葉樹林帯に住む人たちがもっていてできたのである
それが安曇族とか海洋民族でありその人たちが日本に船で渡ってきたのである

そしてもう一つの渡来人がツノガノアラシトの伽耶国の王子の名前でありそれが産鉄族であり砂鉄で鉄作りをする人たちだった
ツノとつく地名は点々とあり津神社となっているのは読み方はツノ神社である
相馬市の松川浦の津神社はツノミツ神社でありこれもツノガノアラシトである
そして大和王権がその後に鉄作りに関与してきた
それが真野氏なのである、南相馬市の鹿島区の真野郷の由来ではないかというのもそのためである

その真野氏が石巻に到達してやはり和邇山(わに)とか地名を残しているし木簡にも真野と記されたものが発見されたのである
そこに萱原という地名があり真野という地名も残っているのである
これは真野氏の移動の跡なのである
そしてこの真野氏は北上を上り登米まで行って製鉄業にたづさわっていた
なぜならそこにも真野という木簡が発見されたからである
そして不思議なのは温暖化で気温が上がりネッタイシマカが生息する場所になるとしている

そしてこの地図の不思議はその登米から平泉が近いのである
つまり平泉がみちのくの古都となったが今は岩手県内になるが何かその位置が地理がこうして古代から中世にみちのくの都になったことを暗示している
すでに古代から黄金の道があり湧谷に黄金が出て奈良の大仏の鍍金に使われた
それで

天皇(すめろき)の御代栄(みよさか)えむと東(あづま)なる
 陸奥山(みちのくやま)に金(くがね)花咲く

という歌が歌われた、鉄と黄金を求めた道があった、北上川はその道になっていたのである
でも平泉から北になると温暖化しにくい場所になる、寒い場所になりネッタイシマカ生息できないと地図ではなっている

とにかく動植物でもそうだが生物が生息できる緯度はその文化が違うのである
そして照葉樹林帯文化がその文化を共有するものとして日本にその跡を残したのである
温暖化すると関東地方は本当に熱帯化する
ただ温暖化というのはないという学者もいるからそれはわからない
ただもともと南相馬市でも栃窪とかから真野川をさかのぼってサンゴの化石が発見されたから熱帯であった、フタバスズキリュウが生息できたのも熱帯だったからである
古生代になると相当に暑かった熱帯だったのである
そうした気候の変化がありこれも歴史に影響している

ともかくこのコロナウィルスはいろいろなことを導きだした
だから不思議だとなる、私は生物学などわからなにしても何かこれも文系でも地歴と関係してくる、地理と歴史と関係してくる
私は地理に興味がある、日本でも世界でも旅したからである
それでウィルスは地理と関係が深いことを知った、つまり地理の通り感染者が増えたのである
最初は東京から感染者が増えてその隣県に広まる、そして最初から仙台市は危険だと思っていたらやはり最近になって仙台市が増えてきた
それも地方では東京と関係して感染しているのが多いのである
これも交通と深く関係して起きていることなのである
ただ北海道は例外である、あそこは中国人が大量に観光に来ていた結果なのである

ウィルスは風土と深く関係している、だからもともと一地域の風土病だったが人間が行き来すると人とともにウィルスが伝染する、それでモンゴル軍がペストをヨ−ロッパに運んだ、クリミヤの港から今度はベニスに伝染した
そしてヨ−ロッパの三分の一がペストで死んだから恐ろしいとなる
今回も中国と関係を深めたイタリアからヨ−ロッパにたちまち拡散した
だからウィルスでも歴史は繰り返すというのは本当である
津浪でも自然災害でも繰り返して起きてきたことなのである
ただ人間は忘れやすいので忘れたころに災害が来るとなる

ともかく津波がきて津波のことを関心をもつ、ウィルスでも異常なほど関心をもつ
それは結局生命にかかわるからである、何か素人でわからないにしても恐怖になりその正体を知りたいとなるのである
そういう契機になったことは確かである 


manotome222.jpg
登米市(とめ)の登米(とよま)まで製鉄集団の真野氏が移動した (奈女加多(行方)が移動している)

こうしてインタ−ネットでも情報とか研究がでていると素人でも研究に参加できる
今回はNHKだった、他でも津波の学者の論文を読めたことは参考になった
こうして素人でも学術的なことにも参加できるようになったのである

そもそも資料が読めないとしたらどうにもならない、図書館は調べることがしにくいのである
いちいちコピーしたりめんどうなのである
そして時間がかるから何年も行っていない、家事とかで忙しいし時間をとられるから行かなくなったのである


コロナウィルスが問うたもの (ヨ−ロッパの科学技術文明のの限界現象が起きている)


コロナウィルスが問うたもの

(ヨ−ロッパの科学技術文明のの限界現象が起きている)

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科学技術は何でもいいとしてそれ自体に歯止がかけられず発展してきた
ただギリシャ神話の時代にすでに科学技術の危険は神話として伝えられていた
それがゼウスから火を盗んだプロメテウスであり過酷な罰を受けた
だからその時から何か科学技術は危険なものとして認識された
それはイカロスの飛行の墜落でもそうである
どこまで高く飛行しようとして墜落した
それはロケットの墜落ともにている、科学技術の限りない挑戦でありでも人間の力では及ばず墜落した
つまり人間の能力に限界があるからそうなったのである
そして人間の技(わざ)は災い(わざわい)に通じていたのである
この言葉のように日本語ですら技術が災いをもたらすこととして残していたのである

それは福島で原発事故がありそれがまさにギリシャ神話の世界になったことである
空気から水から土から森林からあらゆるものが生態系全体が汚染されたとき人は住めなくなったのである
除染するにもプルトニウムが二万年たたないと消えないという空恐ろしい被害だった
今でも飯館村の山菜の放射線量が増えているのである
森で放射性物質が循環するから消えないからそうなっている

とにかく20世紀は科学技術の時代だった、それも原子爆弾が日本に落とされたようにそれが核戦争となり人類滅亡の危機になった
福島の原発事故もそうである、これは世界中にあるからいつ事故になったり何かあれば戦争でも核戦争となり人類は滅亡する
そしてなぜそんな恐ろしいものを科学者でも発明したのかとも問われる
アイシュタインは広島の原爆でそれを作りだしことで反省した
剣をとる者は剣で滅びるというときまさに人間は核兵器で滅びるとなる
ただ一方で平和利用はよしとされた、それで電気を作ることは奨励されたのである
でもそれも実際は危険なものだったのである

ただ人類的にみるときなぜ人間はこうした科学技術を制御できないのか?
核の様なものでなくても技術の発展は発明でもそれを止めることができないのである
技術の発展はいいものとして止めることができない、またそういう思想もないのである
車でもどこまでも早く走らせようとしたり飛行機でも音速で走らせようとしたりリニアで飛行機並みのスピードで走らせる、ただ原理としては浮上させるのは摩擦をさけるためでありそれは素人でも意外とわかりやすいのである
必ず摩擦でスピードが出なくなるからだ、重力が働いて限界が生れる
すると無重力の状態にして浮上させて走るというにしようとするのは摩擦の関係でわかるまた空気抵抗があり新幹線の車体はあのように流線形になる
何か理系でなくても原理的思考でわかる場合がある
常に風の抵抗とか摩擦とかは感じているからである

でも技術の発展がそれがすべていいものとして必ずしも働かないことは現実として20世紀で証明された、それは甚大な影響をもたらして地球環境でも破壊して汚染して人間が住めない世界を作り出すようになったのである
それで今なぜ水害でも三峡ダムとかでも崩壊が起きるとかなるのか、つまりダムでも溜まったら放流せざるをえない、すると洪水が起きる
ダムもまた不自然なものとして人間の技術で作ったものだからそうなる
常に人間の技術は自然に逆らうものだからそうなる

そしてコロナウィルスでもこれは科学技術とは関係ないにしろ科学技術がもたらした交通の発達の結果として空間が狭められたことにより人間はグロ−バルに自由に行き来することから同時間に世界中に広まったのである
それは船による大航海時代からアメリカのインディアンとか南米のアステカとかインカとかが簡単に滅んだのはウィルスが関係していたということでもわかる
人間が移動するとウィルスも同時に移動してゆく
そして移動した先でウィルスは猛毒化してゆく
ウィルスは風土病とされたときある地域内にとどまっていれば広がることはなかったからである、だからシベリアのカモにウィルスがいてもそこでは共存していた
でもそのカモが移動した先でウィルスが伝染したのである
つまり一地域の風土内でウィルスは適応して悪さをしなかったとなる

だから不思議なのはコロナウィルスが人間の文明活動を科学技術によるグロ−バルな経済活動を停止させた、そしたら交通事故もへり大気もきれいになりベネチアでは海水もきれいになり魚が泳ぐのが見えたとなる
それだけ人間の文明による活動が科学技術で拡大して限界に達していたのである
また人類の人口増加も地球で養いないような状態となっていた
それでこれから食料不足が来て飢饉が来るとなる
何か地球が人類でも限界状態になっていたのである
そういうときにコロナウィルスによりそうした活動が魔法のように止められたことが不思議なのである、それでこれは神の意志が働いたそうなったのかとも見た
小川未明の「眠い町」のような働きをコロナウィルスはしたのである

いづれにしろ人間の技術の危険性はギリシャ神話でも指摘されていた
神話とか聖書でもそうだがそれは人類普遍のものとして予言して警告していたのである
それから老子の思想でもそうである、道具を否定して小国寡民かいいというときもそうである、つまり中国で一億もいないときにそう見ていたのである
そんな時でも人口が多い見ていたのである
それかその十倍以上になっている、道具を否定してもその道具が核兵器まで発展した
それが限界に達していたのである

ただこの科学技術を制御する思想とか何か減らす思想というのは西洋にはないと思う
何か常に増やす思想であり経済でも増やして拡大してゆく思想である
それは資本主義の思想である、だから世界大航海時代をヨ−ロッパが築いたのである
そのことが植民地にしたということで黒人からも否定されてイギリスの奴隷商人の像が引き倒された
黒人にしてみればヨ−ロッパのしたことは許せないからである

今世界史的には変換の時が来ている、欧米は衰退してアジアが興隆するサイクルになる
それは500年とかの周期で起きるという時、そういう時期になる
中国がインドがまた興隆してくる、ただその先駆けとして西欧化した日本が興隆したとなる
ただそれは科学技術の面だけではない、思想的な面でも転換の時期である
西欧的資本主義とか成長拡大路線の縮小化なのである
アジアに宗教は生まれた、宗教はやはり共通したものがありキリスト教でも仏教でもイスラム教でもそれはアジアから生まれたものなのである
キリスト教がヨ−ロッパから生まれたようにみる、あれだけの教会があるのだからそうみる、でもそれはヨ−ロッパ的キリスト教でありそれはカトリックに代表される
それは極めてローマ帝国から発祥した政治的なものだったのである
本当のアジアの思想は仏教でも老子の思想でもキリスト教でも共通しているのである

アジアが人間の根源であり文明の源でありヨ−ロッパ文明ではないのである
だから人間の人類の歴史はアジアに帰る、アジアがすべての母胎だからである   
イスラエルとかエジプトでもイランでもイスラム圏でもオリンピックではアジアの代表になっている、現実に歴史でもヨ−ロッパはアジアの辺境として発展した地域だったのである,ヨ−ロッパはイスラム圏の辺境であり貧しい地域だったのである
学術的にも技術的にも遅れた地域だったのである
数学でも代数はアラビアから生まれた、ゼロの観念はインドから生まれた
ただそれらが忘れられたのはヨ−ロッパが文明の中心となったのが20世紀だったからなのである、それは主に科学技術の成果がヨ−ロッパから生まれたからである

それでアジアとは何かもわからなくなったのである、アジアは遅れた地域だというしかならなくなったのである、その象徴が中国がヨ−ロッパの植民地化したことである
あれだけの大国が衰退してヨ−ロッパに支配されアメリカにも支配されるようになったのである
それで今反撃に転じているがマルクスの思想をイデオロギーとしてもこれもヨ−ロッパの思想である、だからアジアの思想ではないのである
中国がアジアの指導者になる、一帯一路とかであるとしている
でも中国自体がヨ−ロッパのアメリカのコピーでしかないのである
科学技術でもそうだしイデオロギーにしてもそうである、それはアジアの思想ではないのである
だから中国はいくら大国でもアジアの中心となる、過去の栄光をとりもどすとしても力だけではコピー文化ではなれないのである

むしろ日本のみが西欧文明の挑戦を受けて西欧化した唯一の国だったのである
だから日本もアジアでありアジアを先導したともなる
ただ戦争に負けて今度はアメリカ主導の世界となったのである
でもアメリカはヨ−ロッパ文明の延長でありアメリカ文明というのはないのである
アメリカは成熟した文明になっていない、ただ物質的に科学技術が突出して発展した国なのである、そこに精神文化は形成されていないのである
だからアメリカには宗教でも哲学でも芸術もないのである
ただエジソンのような科学技術の発展のみがある
精神的に成熟した深い文明はないのである、だからプラグテズムの実用主義しかないとなる、それ以外は眼中にないとなる
その科学技術が世界的に環境でも破壊して限界に達したのである
アメリカ国内でも西へ西へと進んでアジアに達しても戦争とかて進み続けたのがアメリカだった
日本との戦争もその一環だった、なぜならその後にベトナム戦争がありイラク戦争があったからである
それで地球を一周してイスラエル建国がありアジアを征服したという感覚になっていた
それで今度は中国台頭してアメリカは西への侵攻からアメリカファ―ストになり世界進出を制覇をやめたともなる

何か自然には自然の法則があり理がある、天理がある、それを破る時災いが生れる
ただ科学技術には限界がないものとして科学者が神にもなろうとしたのが現代の文明だった、そこに制限はないのである、だからイカロスのように墜落するのである
ヨ−ロッパの思想には減らすとか無用の用とかインドの無の思想とかゼロの観念がないのである、確実に原子とかあり世界は物質で埋め尽くされる、用の世界しかないのである
それはギリシャからヨ−ロッパが発展したのでありアジアの聖書から発展したとはなっていないのである、根本的にヨ−ロッパのものとしてキリスト教でも解釈したとなる

ともあれこのコロナウィルスに対応するにはどうするのか?
それは不思議だけど移動しないことなのである、定められた一地域の風土に収まりそこから出ないことなのである、その地域の風土に即して生活をする、自給自足することを基本とすることなのである、だからそうして地域地域は離れて交わらず小国寡民になっているときウィルスに対応できる
小国寡民とういとき人口がまばらで少ないのだからソーシャルデスタンスがとれる
人口が多い大都会とかは密集ししてデスタンスがとれないからウィルスの感染を止めることができないのである
だから大都市そのものが自然の理にあわない、生態系を無視している
そこに自ずと災いが生れる、だから東京から脱出して分散して住むのがいいのである
そういう大変化がはじまる、それをうながしたのがコロナウィルスだとなる

グロ−バル化⇒小国寡民

資本主義⇒欲望の制限、アジアの宗教へ帰る

科学技術社会⇒環境破壊⇒核戦争の恐怖⇒制限の思想

このようになるがコロナウィルスの不思議は小国寡民というとき大都会の密集した生活の否定なのである、そこではどんなことしたってソーシャルデスタンスはとれない
つまり感染を防ぐことができないのである、もし分散して住んでいればそうはならないのである、そして世界中が交わることはいいこととなっていたが本当にそうなのか?
それが悪い面として露骨に現れたのがコロナウィルスだったのである
グロ−バル化というとき何でも食料でもあらゆるものが入ってくる
それで牛から豚からパンかはワインからあらゆるものを食べるようになった
もともと中国は大陸国家でありないものはなかった、それで動物でもあらゆるものを食べていた、何かがつがつしている、それはまた人口が増えたことにもよる
遊牧民だと家畜を飼う文化は動物を食べる、動物との接触が身近になる
それでどうしてもウィルスに感染しやすいから発生源となり世界に広まる

おそらくエジプト文明時代からウィルスはあり感染が広がっていた
ローマ帝国が衰退したのはウィルスのためだったという人もいる
現実にウェルギリウスの農耕詩に家畜がばたばたと苦しみ死んだことが記されている
そこでは一村が廃村になったりしているから今と同じことが起きた
そして日本にはもともと魏志倭人伝で牛、馬、羊がいない特殊な国として認識されていた日本人は漁労民族であり家畜を飼っていないし食べてもいなかった
ただ鹿などは狩りして食べていたのである、でも海産物主体の食生活でもあった
それが世界で見れば特殊なのである
人間はそれぞれの風土にあった生活を強いられている、それで体も作られている
日本人の腸が長いのは穀物を消化するためでありまた欧米人が肉を消化する酵素がでるというときもそういう食生活だったからである
その食生活から体が作られてきた、日本食世界でいいというとき日本人が長生きだというとき何かそうした風土とか食生活とかから体が作られてきたからである

西欧文明は科学技術文明でありアメリカはその延長の文明であり独自のものではない
確かに技術は発展して世界を導いたとしてもアメリカはヨ−ロッパの延長なのである
それでヨ−ロッパ文明が限界に来たときアメリカもその派生なのだからゆきづまるとなるただではアジアとは何か?それが西欧文明一色になったとき見失われたのである
これまでもただアジアというと中国であれインドであれやたら人口だけが多い貧しい国だけだとなっていた、中国は豊かになってもやはり半分くらいが依然として貧困なのであるいづれにしろアジアというとき何なのか、アジアに再び新しい文明の復興があるのか?
それが模索されているがとても中国がその指導国とはなりえない
依然として政治体制としては王朝国家でありそれに共産党のマルキシズムのイデオロギー国家でありそこに新しいものは起きていない
旧弊な政治体制の継続でありそこにただ欧米からコピーした科学技術があるとなる
人権なともそこにはない、強圧的に権力で周辺の少数民族を弾圧する
チベットとかウィグルとかの次はその周辺国に及び日本もその範囲に入っている
そして中華帝国の古代の先祖帰りとなる、そんな世界観を受け入れるのか
それで日本でも大きな抵抗が生れる

いづれにしろ大きな時代の曲がり角にきている、そこで大きな混乱が起きる
自然災害も起きる、三峡ダムの崩壊とか原発のような巨大事故も起きる
コロナウィルス禍でも時代の変わり目に現れた災難である
そのためにこれまでの世界まで変わる、時代の節目にそうした大きなことが起きる
そうしてミクロ的なことではなくマクロ的に世界をみる
そこで日本の立ち位置を知る、ただ人間は常に目前の事象に事件に追われる
だから大きな視点で見ることができないのである
毎日目前のことに追われる、大きな視点で未来を見るということができないのである
こういうときは大きな変革が要請されるから犠牲もともなう、でも明治維新でも侍は侍でありたいと固執した、西郷隆盛はそのために旧勢力の侍にもちあげられて西南戦争で死んだのである
世界史は結局旧勢力と新勢力の争いなのである、それは国内でも起こり世界でも起きる
ただ必ず新勢力でも国々に歴史があり復古にもなる
日本でも天皇とか神道の復古があったからである、中国も王朝の復古になっているからだそこに新勢力の課題がある、人間は全く新しい世界を作りえない
必ずその国の歴史があり文明の挑戦と応戦があり歴史は展開する 

小川未明 「眠い町」

これは何かこうしてがむしゃらに科学技術社会化したものを止めるということにある
コロナウィルスもこの童話のようにな魔法の砂で交通がとまり文明の活動が一時的にとまった、そしたら交通事故がへり水もきれいになり空気もきれいになったからだ
これは神が魔法の砂でウィルスでとめたのかとも見た
何かそうした不思議な作用が自然にはあり自然は科学者によってすべて解明されていないのだ
コロナウィルスがいろいろ変異しているというのもそうである、このウィルスは新種であり謎であり解明されないからそうなる  


神の技と人の技

(Human beings unite with the universe and become a Giant)

時に人の技を安め
その技をとめよ
大いなる無用の空間にこそ
神の真の用がある
大いなる山は沈黙して
太陽は静かに輝き移る
人の技は限りなく疲れる
決してその技は完成しない
神の技はすでに完璧に完成している
人はただそれを讃える者としてある
その広大な海、山々、宇宙
そこに自ずから神の歌が響き渡る
精妙にして雄大なる楽が鳴り響きわたる
時に人の技を休めて
大いなる神の歌に耳を傾けよ
荘厳なる沈黙にひびく神の歌を聞け
一大ハーモイのシンホ二ィーを聞け
山は今日も深く黙しつづける
その内に向かって強く堅固に不動に
神の技はすでに完成して与えられている
人よ、なぜなお人の技を付け加えて労するや
無用の用のなかで人は大きくなる
汝は神の子にあらじや
汝に糧は与えられしにあらじや
神を賛美する者なれば・・・


結局人の技には限界が生じる、文明でもそうである、でも神の技は無限である
すでに地球自体を知りえようがないしまだ詠われていないことでもわかる
依然として未知であり神秘なのである
それが田舎でもすぐ近くにそうした人の踏み入らない神秘な場所がある
それはただ発見されないだけだったのである
人生百年でもそうして発見されないことは無数にある
要するにこの世とは永遠に発見と創造の世界なのである
決して未知がなくならない、神秘もなくならない、新たな発見は創造はつづく
そして全能の神は新しいものを作り出す、新しい道を作り出す
それは人間の技ではなしえないものを新たに作りだすのである
神は確かに見ることはできない、でも神には人間のような限界はないのである
つまり創り主の神の創造は終わっていないのである
それは人間が不完全なことにも現れている、コロナウィルスのように未知の病気で死んだり社会が混乱するのもそうである、人間の技が科学技術でもイカロスのように失墜するのである、神は決して失墜することはないからである
そこに人間の技の限界があり文明もまた不完全であり何かの原因で過去の文明も滅んだのである

自由自在に空を飛べるイーカロスは自らを過信し、太陽にも到達できるという傲慢さから太陽神ヘーリオス(アポロン)に向かって飛んでいった。その結果、太陽の熱で蝋を溶かされ墜落死した。

本当にギリシャ神話のようなことが自分の住んでいる福島で起きた
だから神話のような場所になったのである
なぜなら二万年もプルトニウムの毒が消えないとかなっているからだ
まさにゼウスから火を盗んだプロメテウスの過酷な刑罰の地にもなった
だから神話が語るものは現在にも及んでいる
つまり二千年前三千年前でも神話で予告していたのである
それが現実化したのが自分の住んでいる場所だったということでショックだったのである

posted by 天華 at 09:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2020年07月16日

コロナウィルスとSARS (2003年のSARSの時と今の中国の相違)


コロナウィルスとSARS

(2003年のSARSの時と今の中国の相違)

SARSchina1.jpg

中国の湖北省武漢市で発生した新型コロナウイルス感染症(COVID-19)は、世界でその猛威をふるっている。WHOによると、2020年3月15日時点で、中国を含め144の国と地域に広がり、感染者数は15万3,517人、死者数は5,735人に上っている

蛇、亀、鶏、鳥、犬、猫、猿、狸、穴熊、ムササビ、蛙そして各種昆虫まで売っている。一瞬ドキッとしたのは、ゴキブリを並べて売っている老人を見つけたと思ったときだ。よくよく見ると、それはゲンゴロウとタガメだった。こんなもの、どのようにして、食べるのだろうか? 

私が発見したこの中国での広州の見聞録を見れば中国には今まであのような病原菌が発生しないこと自体不思議なことだった。いや実際は発生していても隠されていたのである。今回も政府の役人が隠したことでわかる。中国は表沙汰にならないことがいくらでもあるのだ。10億人もの人間を管理などできない、奥地では何が起きているのかもわからないのだ。中国では飢饉のときは土まで食ったという過酷な世界だから何があっても不思議ではない。

北朝鮮の説、中国の南部では猫を食う習慣がありそこから発生した(5月3日)
コロナウイルス FIP(猫伝染性腹膜炎)

野生動物の売買取り締まり逃れ後絶たず…中国・広東省

大部分の新しい感染症の原因は、全く新しい病原体が出現したということではなく、微生物が宿主に入るルートが新しく生れたか、あるいは検査技術が進んだために、新たなウイルスや細菌が発見されるようになったというものだ。

(人類と細菌の戦い)


コロナウィルスはこうした旧型があり新型のコロナウィルスとして現れた
だから共通性がある、このコロナウィルスは時系列でみれば継続したものとして生まれたただコロナウィルスは中国はグロ−バル経済の主役となったときたちまち世界中に広がったのである

このことは原因不明で死んだ人はかなりの数がいるが発見されずまた今のように報道もされなかった。中国などでは特にそうである。国際化していやいやながら中国も公表し細菌の戦いを強いられるようになったのだ。こうして人の行き来が活発になると
未知の細菌もまた発見され人類を脅かすことになる。国際化ではいいものも入ってくるのだが悪いものを必ず入ってくるのだ。日本の国際化とかは歴史的にも日本人が選んでいいものだけを取り入れ日本流に根付かせたのだ。それが現代ではできないのである。

2ちゃんねるより

中国のインターネットで、
感染者5000人と書いたらつかまった人が居たらしいけど、
感染者が5000人以上居るような予感。
なんか、言論弾圧の国だね。
中国って。

中国政府はGoogleへのアクセスを遮断してる。

【北京4日時事】新型肺炎の感染が拡大する中国では、多くの医療関係者が新型肺炎の予防・治療に奮闘する一方で、地方政府幹部などが職務怠慢で処分されるケースが出ている。
中国は報道規制にでた。インタ−ネットを規制されるのだ。中国でも4千万人がインタ−ネットしているというから数としては日本より多いのだ。

この時は4千万しかいなかった、今はみんなスマホをもっているからインタ−ネットの利用は比べようもなく増えている

先月28日以降発生していなかった新型肺炎「重症急性呼吸器症候群(SARS)」の
疑いのある患者が今月4日発生し、韓国内のSARSの疑いのある患者は合わせて15人に増えた。

 コロナウイルス科ヒトコロナウイルスは一本鎖RNAウイルスで、軽症のかぜ様症状の約30%の原因となっていると考えられていたが、重症化の報告はほとんどなかった。SARSは、この科に属する新型のSARSコロナウイルス(SARS-CoV)(図)により引き起こされる、全身性の感染症である4)。


 私たちがシベリアの営巣湖沼でフィールドワークをしていた90年代でも、現在でも、湖沼には様々な型の鳥インフルエンザウイルスが存在する。冬には天然のフリーザーになるから、ウイルスはそのまま越冬する。つまりカモとウイルスは共生しているんです。

 ところが、そのカモが南に飛来して、他の鳥や動物に感染すると、それら宿主の体で増殖しやすい変異が起きてウイルス感染が拡大する


 
 SARSとコロナウィルスは似ている、同型であり症状も似ている
ただこれは世界的に拡散されなかったのは中国が17年前であり発展していない
2020年では中国がグロ−バル経済の中心になっていた
アフリカでもヨ−ロッパでも一帯一路の中に組み入れられていた
だから一早くイタリアで感染者が出てみるみる増えた
死者も増えた、そこからたちまち近辺にEUに増えた、死者も増えた、イギリスも増えた
そうしてなぜ欧米でこれほど感染して死者数が多かったのか謎である
その反面として日本では今感染者が増えているが極端に少ないし死者数も少ない
これは今にっない増えているから遅く増えてくるのかもしれないからわからない
でもなぜ欧米にあれほどたちまち感染者が増えて死者数も増えたのか?
それが疑問だったがsarsと症状もにているとすると中国とかでその時免疫が作られたのか抗体が作られたのか

そして日本でも実はSARSの被害はなかったのはなぜなのか?
何らかその時実は感染していたが抗体ができていて新型コロナウィルスにかかりにくくなって症状が出ない、死者数も極端に少ないとなったのか?
ただ日本では検査数も少ないので統計的には信用できず不明なのである
検査数をふやしたら増えてきて危機的状態の再現になったからである

何か素人でもわかることはウィルスというのは地理と関係している
人が移動してうつる、ヒトからヒトへうつる
だから基本的に人の移動を止めるほか防ぐ手段がない    

私たちがシベリアの営巣湖沼でフィールドワークをしていた90年代でも、現在でも、湖沼には様々な型の鳥インフルエンザウイルスが存在する。冬には天然のフリーザーになるから、ウイルスはそのまま越冬する。つまりカモとウイルスは共生しているんです。

動物でもカモがシベリアではウィルスが凍結されてうつらないが南に飛んでくるとウィルスをうつす、まさにこれは人間が飛行機で飛んできてうつすのと似ている
つまりウィルスをおさえるには一番効果的なのは

人の移動をおさえること

これになる、それは今まで経験したことでもそうだったのである
それがグロ−バル化してしにくい、国内でも人の移動を止めることができない
経済でも人が動くことで現代の文明は成り立っているからだ
だから人の移動がとめられて電車でもバスでも飛行機でもここが一番打撃になった

カモの事例のようにある場所からある場所へうつるときそこでウィルスがうつりそれが重症化しやすい、そういう性質がある、スペインであれメキシコのアステカとかインカとかが簡単に滅亡したのはウィルスだったとかありインディアンもそうだったというときウィルスはそれだけ怖いものだった
人がある風土で生活している、それが別な風土の所にウィルスをもちこむと大きな被害になる、それがグロ−バル経済になり同時間に世界に広まった原因なのである

とにかく人間は必ず過去でも歴史でも振り返る考えることが必須である
なぜなら10年前でも人は忘れる、私はSARSについてもプログではなくホームページの時事問題の深層で書いていた
その自分自身が書いたことでも全く忘れていたのである
人間は本当に忘れやすいのである、だから記録することが大事になる
自分自身が書いたことすら覚えていないとなる
次々に新しいことが起きるから一年前でも昨日のことすら忘れるのである

津波についてもその7年前にスマトラで大津波があって甚大な被害がでた、その時日本が津波の国なのに関心がなかった
その7年後に東日本大震災で津波が起きた、その時日本ではインドネシアでは津波に日本のように警戒していないからだとか言っていたのである、チェルノブエリの原発事故でも他人事だった
日本の技術は優秀だからあんなことにならないと言っていたのである
誰も警告もしない、安全神話の国になっていたからだ
日本は外国をグロ−バル化しても自分の国のように考えない、中国だと大陸国家だから国際性はまだある
(他山の石)とかの諺もあるし隣国でも世界でも注意している
現代はグロ−バル化の中に否応なく組み入れられているから無関心でいられない
自然災害でも地球は一つのなのだから他国で起きることでも関係ないとはならない
日本はもともと島国でそういう自覚がもていなのである

ともかくなんでも空間的なものと時間的なものとしてみる、それは一体である、歴史でも時間的なものでも空間的に見なければならないしまた空間的でも時間的な歴史からも見なければならない
それは個々人の人生でもそうであり時系列でみる、歴史となるとそれが長くなるから時系列で起きることが理解しにくくなるのだ
年号があったとしてもそれでも時系列で起きることが理解しにくいのである
だから時間的に歴史となると逆になったりしているのである
空間は今でも変わらずあるからその地を踏む気なら踏めるが時間だけは元にもどれないからその理解ができないことが大問題となる
相馬藩政期に二行だけ「生波で700人溺死」と津波で死んだと記されていたが誰も知らなかったのである
津波の後に発見されたのである、そうした重大なことでも忘れられるのが人間なのである


posted by 天華 at 20:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

abstract painting about Venice


abstract painting about Venice

Venice expressed by an abstract painting

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Crest of venice

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Haus in Deutschland  

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library in winter 

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railway in winter




ベニスは一番不思議なの都市である、ここは何か芸術都市でもある
商業都市だったのが海に浮かぶ都市としてそうなった
だからその現実の都市からイメージされる
そういうふうに現実なのか架空なのか判断がつかなくなる
それだけ世界の都市で不思議な都市なのである
それが一時は国家でありヨ−ロッパの覇権国家になっていた

黒海からクリミアの港まで貿易をしていた、そこに拠点を作っていた
それでペストもモンゴルが攻めて来てそこからトルコを経てベニスまで広がった
それは中国からイタリアに真っ先にコロナウィルスが広がったのとにている
それも何か因縁だったのかとなる   


This where it's a city that Venice is strangest is also some art cities.
It was that it was a commercial city so as the city which floats on a sea.
So it's imagined from the real city.
Thus I don't judge whether it's real or fictitious any more.
Only that's a strange city at a city of the world.
That was a state and it was a power state of Europe.

A base was being made that place where I traded from the Black Sea to the harbor in the Crimea.
Mongolia also attacked a plague with that, and they felt come and I'm wide to Venice via Turkey from there.
Coronavirus's being spread in Italy first from China for that and, in, I'm here.
Whether that was also any fate, it'll be.

コロナウィルスの謎は人間を越えた力の影響のためか? (神が怒り自然も怒っている)


コロナウィルスの謎は人間を越えた力の影響のためか?

(神が怒り自然も怒っている)

コロナウィルスは何か謎なのである、その正体もわからない、それは専門家もわからないただいろいろ検討中なだけなのである
科学者が万能でないからそうなる、ワクチンができれば解決するとしきりに言ってもそれも実際は不明である
こういうときは謎が謎を呼ぶようになり不安になる
原発事故の放射線被害より謎であり不可解でありとまどっている
それがこれたらどういうふうに影響するかわからないからだ
後遺症で苦しんでいるとかこれから爆発的に増えるとかの不安もある
だからgo to キャンペーンなどしていいのかという疑問にもなる
でも経済的に苦境にたたされて自殺者も出るとか失業者が増えることはより深刻である

本当になぜ次々に自然災害であれ原発事故であれコロナウィルスであれ地球的規模で起きて来るのか?
原発事故は局所的でもやはり世界中に原発があるのだから警告になった
明らかなことは地球規模で何か自然から復讐されているのかとなる
それでコロナウィルスも自然災害とにていて生態系から逆襲を受けているという学者もいる
そもそも原発事故で意外と生態系のことを語らないが最も大きな被害は生態系を破壊したことなのである
空気から水から土から森からあらゆるものが汚染された、するともうその地域で食べるものもなくなる、ただ交通が発達しているから外から入ってくるので生活が続けられているだけなのである
飯館村では山菜とかで放射線量が増えている、それは森に放射性物質が循環して減らないからである、そして今だに食料も生産できない、荒廃したままである

生態系というとき一地域では水とか土とか森でもベーシックファンダメンタルとしてあるそれが汚染されると人間の生物の生存を脅かして住めなくさせる
実際に原発避難区域ではそうなった、田んぼがなくり草ぼうぼうになったとき荒地となったときそこに蛙も水生生物もいなくなり鷺もいなくなった
それで田んぼが回復したとき蛙が鳴き鷺ももどってきたのである
こういうことを東京とかの大都会では感じない、田んぼも自然もないコンクリートのビルに囲まれて生活しているからだ
でも水でも空気でも汚染されれば都会でも生活できなくなるのだ

何か「地球が怒っている」というとき自然からの逆襲とかいうとき人間が地球を汚染して自ら住めなくなるような状態にまでなる
自然に対して人間の技術が度を越えたものとなり自ら崩壊してゆく
そういう現象が津波や原発事故やコロナウィルスでも起きているのかとなる
それとあまり考えないが人間のモラルの荒廃も関連している
なぜならノアの箱舟でもわかるように神は人間のモラルの荒廃に怒り大洪水を起こしたからである、自然災害に神の意志が働いたとなる
そういうことは原発事故がどうして起きたかで追求して来た
人間側勝手に権力を総動員して「安全神話」を作った、そして大事故になった
それも人間側の傲慢であり権力者の傲慢であり事故で打ち砕かれたのである

コロナウィルスは地球規模で起きているという時、グロ−バル経済にも歯止めをかけた
グロ−バル経済を批判して来たけどこれは地球環境も森林なども破壊するものとして働いた、すべていいものとして働かなかったのである
そもそもコロナウィルスは風土病だというとき一地域に限定されて世界規模に広がらなかった、それが交通の発達とグロ−バル化で同時間的に拡散したのである

自然災害とかコロナウィルスでも自然の働きであり何か人間に対しての制限として働き
戒めとしても働く、原発事故が起きたのもそんな危険なもの作るなということで津波で破壊されたともなる
そこに神の意志の働きとして津波まで起きたとかともみる、そういうことが中国の三峡ダムでも起きている
川の流れをせき止めることは自然ではない、それはやはり不自然なのである
ソーラーパネルでも風力発電も自然エネルギーではない、だから自然を歪めるのである
風力発電でも植物の生育に障害が起きるとされているからだ

でも結局何かしら仕事が必要であり金になるとしてせざるをえない
それで職業とはつくづく業(カルマ)だったのである
それが悪いとしてもキャバクラとか水商売関係が非難されるけどそれだけではない
職業自体がカルマだったのである、兵士という職業は国を守るとしてあっても一転すれば戦争になれば人を殺すことをが職業となる業となるのである
医者でもそうである、今コロナウィルスで患者が来ないというとき生活できないとなる
そうするとなんとか患者を作り出さねばならないとなる

本当は警察でも兵士でも医者でも犯罪者がいないと戦争がないとかの方がいいのである
 銀行でもまたゆうちょですらおかしな保険であれ投資信託であれ理解できないものを売るようになった
それは利益がでないからであり追い込まれてそうなったのである
つまり本来はこうした職業はないことに越したことかないのである
その時人間社会は平和だとなるからだ
職業とは何かみんな働くことが善だとしているが業(カルマ)ともなる
それで老子とかは無用の用を説いたのである
老子だと自然の作用にまかせるということで道具すら否定したからである

いづれにしろ

地球が怒っている、神が怒っている

これが現代の地球の状況である、それを鎮めるにはどうするのか?
それは様々な視点でいろいろな分野の人が語っている
ただそこに何か人間のモラルの荒廃という視点からは語られない
それも確実にある、それでも神は怒る、そして罰を与えるともなる
それが現状に起きている災難の原因になっている   

西浦教授が語る「新型コロナ」に強い街づくり


この人は過度な警告で顰蹙をかった、でもこの見解は納得する、ドイツを例にして地域が独立して生活している
他に頼らない自給自足を確立しているというのでそういう社会体制が必要だとしている
これには納得した



posted by 天華 at 09:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2020年07月15日

東海道の春の俳句20句 (東から西への春の旅)


東海道の春の俳句20句 (東から西への春の旅) 

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西伊豆や菜の花映えて富士の峰

東海道小田原城や花盛り

茶畑や新幹線に春の富士

駿河湾魚打ち上げ春の富士

春日さす岸辺の広し大井川

東海や紅梅映えて電車行く

街並みの道真っすぐに燕来る 

にぎやかに東海道や花の宿 

海の風橋をわたるや春の城

春の日や天主望みぬ名古屋城

関ケ原越えて近江や春の山

朧月大津に一夜我が泊まる

京の日や枝垂桜の水映る

京の辻鐘鳴りあわれ春の暮

大阪城夕日に映えて花の散る

明石城春の夕日に染まるかな

波静か春の細月洲本城  

西の城いくつたずねて花の宴

宴の後西の栄や城いくつたたし

花散りし栄華の跡や今日も暮る

潮流の瀬戸の島々花咲きぬ

春の日の海に反射し瀬戸田かな

島々の重なり暮れぬ瀬戸の春

釜山なる松によりにつ春の暮

春日さす福岡城跡街の中  

海近み福岡城跡春に来る

桜咲く平戸の入江外国へ

城二百日本の栄花盛り

みちのくゆ慶州までや花咲きぬ 

春の日や洛東江を沿い下る  


東海道-吉田(豊川橋)俳句短歌の紀行文

東海道というときやはりここが日本の幹線道路だった、それは今でも同じである
東海道から瀬戸内海から九州に行き韓国の慶州まで電車で行った
青春18切符で行った、その時韓国の慶州まで桜が咲いていたのである
つまり韓国まで一連のつながりがあるものとして旅したのである
洛東江を電車で沿い下ったのは醍醐味だった
大陸になると川は大きいのである

洛東江

旅をこれほどしたが今は思い出す旅である、この思い出す旅で大事なのはいかに記憶しているかである、人間はとにかく忘れやい、それでいかに思い出として残すかが問題になる今ならやはりデジタルカメラで記録するから楽である
写真はやはり記録としては一番効果的になる
その写真が今ではインタ−ネットで豊富であり見れる、するとその写真を見て思い出すのである、人間は旅してもその人によって見るものが違う、景色でも違ったものとしてそれぞれ記録されている、ここは電車と川を写しているから秀作である
外国ではなかなかいい写真を撮るのがむずかしいだろう、場所とかが問題になるからだ

韓国の桜


●明石城

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淡路島ゆききの舟の友がほにかよひなれたる浦千鳥かな(藤原定家)

明石を詠んだ歌としては. 天離(あまざか)る 鄙(ひな)の長道(ながぢ)を 恋ひ来れば. 明石の門(と)より 大和島見ゆ.

ほのぼのと明石の浦の朝霧に島隠れゆく舟をしぞ思ふ 柿本人麻呂

明石という場所がもともとこういう場所だった、船の行き来がすでに多くあった場所である、でも万葉時代の船がどんなものだったか、それを思う時、今の船の感覚とは違う
だからこそ梶でこいではるばる来て明石の戸に来たときに感懐はより深いものとなる
フェリーにのんびり乗ってくるのとはあまりにも違っていたのである

生き死にを船にたくして天離る鄙の長道を大和島につく(自作)

当時の舟だったら本当に怖い、常に死の危険を感じていた
このように別に万葉時代だけではない、大航海時代の旅は命がけだった
だから船に命をたくしたのである、そしてかなりの人が実際に死んでいる
必ずしも新天地にみんな無事についたわけではないのである
万葉集の歌は雄大である、古今集になると定家のように何か近くを親しく行き来している歌である、天離るという感覚はなくなっている

明石城が印象に残ったのはその城は夕日に映える城だったからである
そして瀬戸内海を船を行き来している、絶えず行き来している
そこが東北とは全然違っている、東北では広い海でも一日行き来するのは本当に二三艘しか見えないのである
瀬戸内海でも狭い海峡に大きな船が汽笛を鳴らして入ってきたときは驚いた
大きな船がそういう場所にまで入ってくるのに驚いた
つまり瀬戸内海は船の道になっているのだ、水道というときそうである
水の道が瀬戸内海にある、そこは船が古代から常に行き来して村上水軍とかも生れた
瀬戸内海は交通路であり潮流は早いのだが天然の港が自ずとできた所である



旅で何か印象に残る場所がある、そこは常に思い出す場所なのである
明石城はそうげある、そこは夕日が輝いて沈む、海が側だから船が絶えず行き来しているそれから淡路島も見える、そういう光景は東北には見ない、東北の海は荒寥として船は一日二三艘しか通わないのである  
船の旅は中国までも船で行ったし韓国にも二回とか行った
船は相当に乗っている、電車の旅もしたが船の旅もした
とにかくそれだけ旅をしたのが自分だった、自分はだから旅人になっていたのである
旅人となると常に旅している人であり遂には旅が人生ともなった人だとなる
そういう人は日本では西行とか芭蕉とか山頭火とかである

ただ現代は交通がこれだけ発達したのだから昔の旅とは違う、何度も行けるし旅する範囲も外国まで広がるのである、そして江戸時代までは歩く旅だったが今は船でも電車でも自転車でも車でも旅をする、ただ車で旅したことはないからここはわからない
旅と言っても何か現代は移動しているだけだともなる
昔は普通の人でも歩いて移動するから旅になっていたのである

東海道をテーマにしたがやはりここは日本の幹線道路である
街の中でも街道がまっすぐに長くつづく道があった
あのような繁華な街並が残っているのは東北にはない
東海道はやはり栄えた道である、瀬戸内海の山陽道でもそうである
瀬戸内海は交通の海でありこれも全く東北の海とは違っている
だから海と通じた城があり港にもなる、船が実際に城に入る水路があり入ってきているのもある、明石城なども相当に海に近いのである

俳句は何か今や一句としては芸術として成り立たない、こうして連作にすると一つの作品として連続したものとして鑑賞できる
奥の細道でも連続したものとして鑑賞するからそれでそれが古典にもなった
だから前にも単発的に出したのはそれをまとめてまた連作にする
それで一連のものとして鑑賞できる、今回は韓国の古都の慶州に行ったからそこでも桜が咲いていたから連続していた、韓国だと日本の歴史と連続しているから地理だけではない日本で桜が咲けば韓国でも咲くとなる、韓国も栄えるとなる
現実に韓国が技術的にも日本の模倣であり中国でも日本の技術の模倣があり発展したのである、韓国の古代の伽耶などはむしろ日本だったらしい
なぜなら縄文時代から日本人が行き来して縄文人のDNAと似ているとか研究者が発表したからである、北方系があるとして南方系は照葉樹林帯の文化圏でありその文化が似ているからだ、肉食ではなく精進料理のようだというときもそうである
肉食はモンゴルの征服でもたらされた、今でも韓国で海苔を作っているのも日本をまねたのである、まねたにしても海に面しているから同じことができたのである

いづれにしろ日本で一番いい季節は桜が咲く時である
私の場合はこれだけ旅したからコロナウィルスで旅できなくても満足である
こうして旅できたのも平和の繁栄の時代に生まれたからである
そして長生きの時代にも生まれたからこうして旅を回想したして作品にする
そういう点でいい時代に生まれたしまたそういう境遇に生まれたから幸運だったとなる
これからコロナウィルスで旅できないとか何か暗雲になり経済的にもいい未来が見えないのである、まず交通がとめられて電車さえ人が乗らないというのには驚いた
こうなると閉じこもる、地域ごとに閉鎖された江戸時代に戻るようにも思えたのである


城の俳句十句(城が意味するものー時代を知らないと見えない)

城の俳句二十句(九州中国関西東海道)

新春2017年(春の城俳句十句)

電車より見る春の城



2020年07月14日

不要不急」が問われた (過剰化社会が是正される―病院に患者も来ない)


不要不急」が問われた

(過剰化社会が是正される―病院に患者も来ない)

コロナウィルスが社会に提起した問題は様々だった
そこで浮き彫りにしたのが「不要不急」という標語だった
不要不急とは無用でいそぎでないことを表す語。不要は不必要、無くてもよいこと、またそのさまを表す語で、不急は差し迫っていないこと、またそのさまを表す語である。

現代社会はこの不要不急が多すぎたのである、無くてもいいものまた少なくてもいいものが多すぎたのである
その一つが医者とか病院で患者過剰になっていた
コロナウィルスでは感染関係の医者とか病院とか看護師とかは必要でもその他の関係ない医者ふ病院や看護師は暇だった、それより患者が来なくて収入がなくなり倒産するのがこれから増えてくるという危機になった
つまり病院に医者に行くほどでもないのに行っていたのである
そして本当はいらない薬まで飲まされて金を使っていた 

そこで医療費が膨大なものとなり国までつぶれるとかまでなっていた
病院が街の医院でも老人のサロン化していたいうのがそうである
それは日本では国民保険があり医療費が安いからそうなっていた、でもそれももう国では負担できない状態になっていた
医者がたりないと言っていたが本当は医者が過剰だったということが判明した
看護師でも過剰だったのである、人手不足が常に言われたが実は今になると失業者が増えてそれも解消してゆくというのも不思議である 

医者とか病院の怖さはこのように患者がいなくなると病気になって病院に来てくれ、病院がつぶれるからと切実なものになる
するとどうなるのか?何か故意に病気の不安をあおりいらない薬を飲ませたりいらない治療をする、さらに医者がありもしない病気まで作りだして治療もいらないのに治療して金を稼ぐとまでなるから怖いのである

そういうことは職業にある、消防士が仕事がなくてわざと火をつけて火事にしたことがあった、暇だから火事にした
警察だと犯罪者がいないから犯罪起こしてくれとかともなる
軍隊だと戦争がないと生活にならないとして戦争を起こしてくれとなる
アメリカの軍産複合体では武器を大量生産しているからその武器を売り消化するには大規模な戦争が必要になる、そのために定期的にアメリカでは戦争を起こしていると言われていたのである、極端になるとそうなるから怖いのである

現代文明社会はあらゆることが過剰化したのである、不要不急なものにあふれるようになったのである
新宿の歌舞伎町の夜の街が批判されたけどそれも不要不急であり必要なものとも言えないでも世の中は誰も修行僧のように暮らせない、だからそうした場を否定できない
要するにこの世には特に文明社会になると無駄なものが膨大に増えてくるのである
もしかしたら本当に必要なものはわずかである
それでも人間は生きることができる、それは動物をみればわかる
最低限のもので自然の中で生きているからである

とにかく文明社会はあらゆるものが過剰化したのである、報道でも過剰化した
ニュースはきりなく毎日報道される、そして忘れられる
そこで一貫して連続して追求されるものはなくなる
次々に新しいもの新しいものを求めて報道される、まさにニュースなのである
またあらゆる人が意見を言う、コメンとする

意見は積み重ねがなく、変動し流動する

知識は積み重なってゆく、意見というものは他の意見に必ずしも積み重なってゆくのではない、知識は成長するが意見は変貌する
「過剰化社会」−D・J ブーアスティン

知識と意見は違う、意見は誰でも言うことができる、いいとか悪いとか言うことができるでも知識は体系的であったりまた専門化してくるから簡単に言えないのである
あることに言うについてもその知識の積み重ねがないと言えないのである
いろいろな歴史についてもそうである、知識の積み重ねがないと言えないのである
だから私は何かいちいちコメントするのがめんどうになりしていない
一方的に書いているだけである
対話するということは二三行コメントするのとは違う、深いコミニケーションが必要になる
それは何かネットではしにくいのである
今はこうして毎日プログに書くことに時間をとられて他のことができないのである

過剰というときあらゆるものが情報でも報道でも日々過剰化している
もうインタ−ネットでyoutubeを見たりしているとテレビは見れなくなる
実際私も見る時間がかなり減った、youtubeの方が有益だとしったからである
今は情報に追われる、でも知識は積み重ねでありまた物事を知るには過去から歴史からみることで深く知ることできる、今のことに追われていると深く知ることはできないのである
だから今はある程度情報を遮断することも必要になってくる
情報の洪水にのまれてしまい、かえって真相が見えなくなる
「沈黙」もまた必要なのである、瞑想も必要なのである
ただ現代文明は沈黙とか瞑想を嫌うのであく、それは空白であり真空を嫌うからである
何かで空白を埋めようとするのである
だからなにかかにかある、広告で埋められたり絶えずそこには音があり何もない空間とか沈黙の空間とかは拒否されるのである
それが具現化したのが大都会である、東京とかになると家とビルで埋め尽くされている
仏教とかでも無を説いたときその無の空間が老子なら無用の用の空間がないのである

教育だって過剰化していた、学校が休校になったけど今ならITで学ぶことができる
youtubeとかは教育の道具として優れている
すると自主学習になり能力をかえって伸ばせるかもしれない、なぜならそこでは教えるのがうまい、特別優れた人が教えているからである
つまり並みの先生はいらないとなるからだ
学校という校舎に建物に集める必要もなくなる、ただコミ二ケーションとかは問題になるでも何か学校だけが教育の場所とするのはふさわくしなくなっていたのである
それは明治の時に教える場所が学校しかなかった、その後もそうだったのである
私の家には戦後のことであり貧乏だから一冊の本もなかったのである
戦前はそれよりびどかった、学校に通いなかった人がいたのである
子守りとかあってそうなっていた、今なら後進国ではまだそういう場所がある
ネパールとかだとボールペンもないのである、だからくれと言われた
そういう社会なら学校は不可欠である、でも文明社会ではもう学校に行くことをこだわる時代ではない、学ぶ環境が整っているからである
つくづく知的仕事には大きな家が必要である、書斎でも必要である
テレワークでもそうである、環境が人を作るのである

人間とはまたこれほど仕事をしなければならないのか?
それも疑問なのである、みんながこれほど働いていることも異常なのである
本当はそんなに働かなくてもいいのかもしれない、でも働くことは強制される
それで無職とかニーとは罰せられるべきだとまでなる
俺たちは働いているのにあついらはのうのうと働かないで過ごしているとかなる
自分自身は30年間引きこもりでありで沈黙の行をしていたからまた異常だった
ただ社会もまた異常なのである

いづれにしろ過剰化社会をコロナウィルスが浮き彫りにした、不要不急のことはするなというのはそうだった
つまり現代社会はあらゆるものが過剰だったのである
その過剰が問題を引き起こしていたし無駄な労苦さえ生んでいたのである
そんなに外国からあらゆるもの食料まで輸入することがあったのかとかこんなに交通が必要だったのかとが問われた
交通も過剰だった、もうリニアなど必要なくなった、急激にコロナウィルスで鉄道すら利用しないことに驚いたからである
コロナウィルスが過剰なオーバーツーリズムとか交通を止めた
車だって過剰化していた、道路でも作りすぎたとかある
いらないもの不要不急なものはいらないというときどうしても必要なものには力をそそぐとなるから悪いことではない、食料は自給が必要だとなればそこに人員を集中させるとかなる、すると農家の人手不足も解消するとかなるからだ

コロナウィルスは謎であるがこれほど社会自体を変えることに驚いた
社会は簡単に変えられないからである、コロナ前と以後の世界は変わってくる
津浪と原発事故もこの辺でまるで違ったものとなった
そのうようにコロナウィルスでも社会は変わり時代が変わる
何かあらゆることが過剰化していた、物でも情報でもあらゆるものが過剰化していた
ただそこに足りないものが常にあった、それから物があふれていても今度はその物が変えない貧困化した日本になっていた
あらゆるものが目の前にあるのに買えない貧困である
過剰に物があっても買えないとなるとかえって苦しいとなる
なければないで暮らすほかないがこれだけ物があってもそれが買えない食べることもできないとなる貧困である、これまた矛盾なのである
過剰に物があっても貧困化すればますます不満がつのるだけになる

そういうアンバランスがどうして起きたかというとグロ−バル経済というのにもある
世界から食料まで材木でも何でも輸入する、しかし日本が電器製品でも売れないとか
貧困化してくれば買えないなのである
確かに世界中に物がある、でも買えないとなるのである
そういう時代にどういう社会にするのか生活にするのか考えねばならなくなった
エネルギーでも電気でも過剰に使っていた、でも使えなくる、貧乏がわかるのは人口の
5%が毎月の電気水道料が払えない、それで取り立てする人が嫌になってやめたとかあるそこに一番の貧乏が具体化しているのである
そこが節約できないからである
いづれにしろ過剰化社会はつづけられない、コロナウィルスでそれが明らかになったのである
posted by 天華 at 10:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2020年07月13日

コロナウィルスに東アジアがすでに抗体をもっていた (日本人のルーツとも関係していたコロナウィルス?)

コロナウィルスに東アジアがすでに抗体をもっていた

(日本人のルーツとも関係していたコロナウィルス?)

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神王TVでここがリスクで注意すべきだとしていた
でも逆にここの民族が感染者が少なく死者数も少なかったのである
欧米人と比べるとその差が大きかった

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人種は大きくこの三つである、イスラム系はアーリアン人(白人)系がまじっている
ペルシャ人は古い民族である、アラブ人は新しい人種である
エジプト人は謎でありアフリカ人の黒人の血とヨ−ロッパ人の混血だとしている



最初神王TVで漢民族とベトナムとかがコロナウィルスのリスクが大きく感染しやすいとしていた、それは受容体が同型でありそれで重症化しやいし感染しやいと警告していた

それははずれていた、ただ何か系統としてこのグループは逆に感染者が少なかった
ただ遺伝子系統として同族グロープを形成したということは確かだった

それから時間が経てこのグループがかえって感染しにくいことが判明した

なぜ日本人は感染者が少ないのか、また死亡者がすくないのか?

それがヨ−ロッパとかに急速に広がり死者数も増えたからなぜだろうと疑問になった
アメリカも白人でありヨ−ロッパ系統である
そしてニューヨークでは白人とアジア系を比べるとやはりアジア系統は半分くらいだという、ただアジア系が感染者が少ないのはすでにコロナウィルスに抗体をもっていたからだという、それは十年くらいの間に渡米した人たちでありその前の人は抗体をもっていないという、そこを調べると人種間でなぜ差があるのかわかるという

推測しているのはなぜ東アジアの人種が東南アジアでも少ないし死者数も少ないのはなぜなのかということである
なぜヨ−ロッパでもアメリカでもあんなに増えて死んでいるのか?
それはなんらかここ十年くらいでコロナウィルスに対しての抗体が作られていた
そのために感染者でもこんなに少ないしまた死者数も少ないとしている

これに興味をもったのは日本人のルーツがどこにあるのか?

古代史とかに興味をもっていたから人種的なものとして同系なのが東アジアから東南アジアである、そこは稲作地帯の文化を共有しているのである
照葉樹林帯の文化がありそれが日本列島とつながり一つの共有した文化圏を形成していた

日本人の起源がわかりにくいのはとにかく縄文人の歴史が古いからである
一万年とかあるとその間に混血をくりかえしてきたともなる
縄文人がどこからきたのかわからていにしろ東南アジアとか中国の漢族が住んだ東アジアとかに連なる地域は人種的にDNAでも共通している
それで今回のコロナウィルスでも抗体をもち感染者が広がらないし軽くすんでいるのかとなる、ただ今後の展開はわからない、重症化して死者も増えるかもしれないからだ

コロナウィルスに関しては様々な情報がすでに出ている、ただ私は理系ではないし遺伝子となるとほとんどわからない、でもインタ−ネットで素人なりに推測できるものがありしているだけである

もともと縄文人と渡来人が結合して日本人になったということは通説である
ただこれも単純ではなく複雑な交差をしている、その中で韓国が実は縄文人の後継者であるとういのもそうかもしれない、つまり日本の縄文人が韓国の祖先の一つだともなる
韓国はそうした地理に位置していたからである、ただこれを言うと相当な反発が起きる

ウィルスは風土病だったというときその独自な風土から生まれた
その独特の風土を共有していたのが東アジアであり東南アジアとなるが気候的には東南アジアは熱帯である、中国などは漢族の地域は温帯なのである
気候的には日本は温帯である、だから風土的には東南アジアより漢族の地域が共通している

とにかくなぜ相馬地域に綿津見神社と山津見神社がやたら多いのかということである
これは海洋民族の安曇氏とかが移住してきたからだとなる
これは明らかに縄文人ではなく渡来人の大きな一団が入ってきた
鉄生産の渡来人は点であるが照葉樹林文化圏に連なる焼畑などの技術でももたらしたからその土地に土着した人たちだったのである

いづれにしろコロナウィルスはいろいろな問題を提起した、人種論にもなる
人種はやはりアフリカ人と白人のヨ−ロッパ人とアジア人になるだろう
アジア人も一つではない、でも人種には類型がある
ただ人種でもその生活形態が違うと全然共通性もなくなる
遊牧民と稲作民は根本的に共有しないからである
でも中国は始皇帝が生れたのは遊牧民の地域でありそれで始皇帝陵兵馬俑からあれだけの馬の陶が現れたのである
そこに砂漠から西アジア系統の人たちが来ていた、だから中国は最初は遊牧民が国家を作ったともなる

ただ日本人の系統は東アジアと東南アジアでありそれに稲作と焼畑の技術をもった人たちが移り住み混血したのである
だからこそコロナウィルスに抵抗する抗体をもっていたともなる
ただ私にはDNAとなるとむずかしくなり理解不可能である

ただどうしても欧米にあれほど蔓延して死者数も多い、その差の説明は人種的なものがあると科学者でなくても推測すると納得する

インタ−ネットを調べればこのコロナウィルスの情報は大量に出るようになった
ただ推測でありまだ謎なのである

2020年07月12日

この世に生まれたこと自体、カルマだった (カルマとは業(罪)であり責任でありあらゆることに責任がつきまとっている)


この世に生まれたこと自体、カルマだった

(カルマとは業(罪)であり責任でありあらゆることに責任がつきまとっている)

なんか技術者でもそうである、車の事故を起こしてエアバッグの不具合でタカタとかの会社が倒産したとかある
技術的問題があり死者もでたのでそうなった、アメリカに訴えられたからその補償金でつぶれるともなった
今回のヤマハの電動自転車は何度もすすめた、ただそれの弱点はスタンドがないことと荷台がつけられないことだった
それで近くの自転車屋がスタンドをつけてくれた、それは結構技術的にむずかしいものだったのである、だから最初はどこに置いても倒れていて困った
意外とスタンドがないことは困るのである
でもちょっと直したら倒れなくなった、これは助かった、もしスタンドでも倒れるだけならつけても無駄だった、それを進めるべきものではなかったとなる
何の役にもたたないからである、すると金を損しただけだとなる
そして責任をとれとか言う人もでてくる
でも直ったのでそこの自転車屋はそれなりに技術力があるとして評価する           

地銀のことをいろいろ言ったがこれもまた責任問題になる
投資信託のことをまかせてくださいというから営業の人にまかした
でもそれはいろいろな事情で株とにている、だから損してもその責任は営業の人でも
地銀でも一切とらない、理由はいろいろ言えるからである

結局あなたの責任です!

こうなるだけである、地銀では営業の人でも手数料はがっちりとるが損したとしても一切責任はとらない、損させたのはそれを買った客であり地銀でも営業の人でもないのである株があがると言われて買ったのだから下がったらどうしますか、何もしません
株はいろいろな事情で上がったり下がったりするものですとなるだけである
つまり地銀であれ営業であれ責任一切とらないのである

すると知識のないものはやるな!

株でも投資信託でも知っている人、自分で決められる人がやるべきだとなる
すると営業の人がすすめたとしてもその商品に対して責任をとるのは客である
だからその見極めをできないものは買うなとなる
私自身は株でも投資信託でも知らなかったけどまかせた
でも何も知らなくてまかせても責任は客にあり地銀とか営業にはないのである 

ただトータルでは運よくというか損しなかったので営業の人にでも何も言わない
でも怖かったのはJ-REITがコロナウィルスで暴落したことである
半分になったことである
私はどうして一月に売ったかというとどうしても営業の人を信じられなくなって売ってくれとなったのである
それが功を奏して損せずに済んだのである

何か営業というとき人を媒介するからその人を責めることになる
営業の人が責任をあるようになり責めるとなる
それで裁判になり営業の人が銀行が訴えられたりしたことがあった
それはどうしてもそこに人が介在するから媒介するからその人が責任を課せられる
例えば人を紹介して雇ってもらったりしても紹介した人が責められるということがある
つまり媒介した人が責任があるし紹介してもらった人はその人に責任が課せられるから
下手なことはできないともなる
連帯証人とかなったらその重い責任から逃れられなくなる

だから何か人間はあらゆるところで責任がつきまとっている、だから契約では常に責任を明確にして責任はとりませんと記しておくのである
それだけ必ず人間は責任問題になるからそれに備えるためにそうなる
だから銀行では損したのはあなたのせいであり私たちのせいではありませんとなっているこれは本当なのである、別に銀行に全部責任があるわけではない
そういうものとして売っているからである
それをふまえて客は買うのでありその責任をとれないものは買った方が悪いとなる

ただ投資信託でも保険でもなんでも説明責任はある
医者が手術するにも命にかかわるから説明する、でも患者も良くわからないから医者に従うだけだとなる、そしてそこでミスがあっても医者は責任をとらない
余程のことでないかぎり責任はとらない、その責任を重くすると手術すらできなくなるからである、それでシステム的に責任はとらない、手術してガーゼを残していたとか時々ある、でもその責任を全くとらなかったこと知人で知っている
ただ苦しめられ損になっただけだとなる

原発事故でもあれだけ安全神話まで作り安全だと言ったのに安全ではなかった
そして故郷に住めないまでになったが東電の幹部でも国でも責任はとらない
でも必ず人間社会は責任をとらされるのである
国家の指導部の過ちの責任は国民がとらされる、戦争で3百万人死んだのは国民が責任をとらされたからである、原発事故で莫大な補償金とか事故処理の除染でも何兆円の金は税金として国民にはねかえってゆく
ただそうした大きなことは何か責任として意識しにくいのである

何か買い物でもクレマーがいる、十円二十円のことで文句言うのはその人がそれだけ貧乏だからである、そういう小さいことだと責任が追及されやすいのである
小悪は罰せられやすいが大悪は罰せられずかえって称賛されるのである

(我々は小盗を捕らえるが、大盗には脱帽する)

世の中というものは、自分よりも弱い者に対しては圧迫したり高圧的な態度をとったりするが、強い者に対しては見て見ぬふりをしたり、追従したりするものだということ。
日本で似た意味をもつことわざに、「長い物には巻かれろ」があります。

これは外国の諺だった、この大盗は官僚とか政治家とか何かしらこの世で権力をもったものである、こういう人は税金を盗んでも別にとがめられることないのである
それで自分自身でも家族が公務員だったから知っている
何かこうした地位にあるものは得するのである
それで自分自身も得していたともなるからなかなか責められない
でもなぜ自分自身が介護とかなり苦しんだのはそうしたことがカルマとなっていたのかもしれない、何か金でもそこにカルマがついてまわっているのである  
家族には親族でも必ずカルマがあり親の因果が子に報えるのである
高い地位についたりまた株などでも金融でも世界の富を一人じめするような人がいること自体それが巨大なカルマとなっている、だから大金持ちとかはいい死に方をしないともなる、もの凄い業をカルマをもつようになり最後は家族でも不和となりその報いを受ける
金がないのもカルマであり金がありすぎるのもカルマになっているのだ
だからどこかでそのカルマを払うことが必要でありそうでないと必ず清算を迫られるのである、なぜなら金は具体的なカルマであり責任としてわかりやすいからである

それで夫の借金に苦しめられている女性がプログに書いている
その重圧はいくら支払っても支払い切れないのである
そもそも収入も少ないから払いきれないのである、その借金のカルマはわかりやすい
払っても払っても払いきれない、その借金はシシュポスの神話の岩のようである
もちあげても持ち上げても終わりなく持ちあげる業である
それはまさに借金を返し続けるカルマともにている、借金という重圧から解放されないのである

ともかく人間は常に責任をカルマを負わされている存在である
これから逃れようがないのである、どんな仕事でも必ず責任が課せられている
もう何もしなくても存在するだけで責任が課せられている
住むこと自体が責任を課せられている、原発事故でもそうである
そんなの関係ないよとはならなかった、その地域の責任でありみんなに課せられていたのである、ただそういう自覚がなかっただけだったのである

人間は死んでもカルマから責任から逃れられない

死後裁きにあう


「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定められている」

この世は公平ではない、地位高きものも大盗でありでもこの世では裁かれない
裁くことは人間にはできない、裁く権能があるのは神だけだとなる

たいがい死んだら罪も何もなくなる、無となると思う
でも無にならずに裁かれる、あなたがこの世でしたことでも裁かれる
そして怖いことはあなたの知らないことで裁かれることである
隠された罪が暴かれる、それを見逃すことは神がはないからである
死んでもカルマから業から罪から逃れられないのである

そして集団とかは権力のことでありその集団に属していたことでも裁かれる
宗教の集団に属することでカルマから罪から逃れられない、かえってそこで悪は隠されているのである
カルト教団などでは絶対に人の罪のことなど問わないからである
そこにはどんな人間でもいいのである、一票になるとか会員が増えればいいだけなのである

だから神は人の心をみるというときどうして集団だったら見れるのか?

集団に魂があるのか?個々人にしか魂はないし見ることもできない
まず集団が絶対にその心が清いなどということはないからである
その証拠にみんな集団化したものはこの世の利権と利益を求めているたとで一致しているからである、それはあらゆる集団でそうなのである
政教分離に反対するのは神道派でも仏教派でもあらゆる宗教集団で反対だからである
税金をとられることだから一致して反対するのである

カルマとは前世の行為の結果をこの世で支払うことである、生まれた時にすでにカルマを業をもって生れカルマを支払わされる
つまり生まれたこと自体すでに借金を負わされているのだ
だから延々と借金を払い続けねばならいカルマをもっているとなる
そして死んでもやはりカルマは清算できない、一見死ねばこの世から消えるのだから責任もカルマもなくなると思う
でも現実はこの世からあの世は連続している、あの世でカルマは罪は明確になりかえって逃れることはできなくなる、この世ではいろいろな罪であれまやかしであれ何でもあれ隠すことができるがあの世では隠せないのである
太陽より強烈な霊の光に照射されからである、そこで闇がなく逃れられないのである


多重債務の夫と見つめ合う私

延々と借金返済のために苦しんでいる、それも夫の借金である、このようにカルマから脱することはできない、払っても払っても借金が消えないのである
人間はこれとにている、カルマを消すことができないのである

梅雨の日-薔薇(写真5枚)−rose photos


梅雨の日-薔薇(写真5枚)−rose photos


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アイスバーグに蟻がついていた

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アイスバーグ白さの映えて浮かぶかな

一輪のアイスバーグの隠れ咲く

ノウゼンの散り重なりて雷鳴りぬ

大らかに薔薇一輪や壺に映ゆ


三色の薔薇を飾りて壺に挿す外はなお梅雨の雨ししとふる

壺に挿す三色の薔薇我が家に色を深めて外は雨なり

しっとりと雨に濡れたる薔薇三輪庭に咲きにつ我が見ゆるかも

薔薇は一番種類が多いから花として鑑賞するにはいい
アイスバーグという薔薇を庭に植えた、ただ何か枯れるのが多い、土が悪いからだろう
名前があっている、アイスのように白いからだ、本当にアイスクリームの色である

この薔薇は原町のイオンに売っていた、それも三百円もしない安いものである
近くでは一輪でも700円とかだった、花は高くつくがイオンでは安い花が売っている
ただ自転車だと遠いのである、まずフラワーアレンジメントは金がかかる
だから金持ちしかやれないともなる
ただどうしてか私の姉は生け花を習っていた、今は花嫁修業として生け花を習う人は少ないだろう
それを教える家も見かけないからだ、前は近くにあったがその人はずいぶん前に死んだ

三色の薔薇を買った、これは安いから得だった
れで写真にとった、写真も最近こっているにしろむずかしい
でも偶然何か色が違ったようにとれた、これは偶然だった、絞りとかを調整していたらこんな色になった

何かフラワーアレンジメントは壺と関係している、その背景も写真をとるのに工夫が必要である
そういう場を一応作ったがまだ工夫がしかけがたりないのである
いろいろやることができないのだ、家事だけで追われているからだ
暇なく文を書いたり調べたり写真をとったりしている、その間に家事をしていると暇がないのである
介護しているときよりは暇ができたがやはり暇なく追われている

今日も雨であり庭の石が雨にぬれている、まだまだ梅雨はつづく
ただ籠っていても忙しい、結局私は家でもともと何でもしていたからテレワークなのである
こうしてすぐに写真でも文でももインタ−ネットでアップできる
だから実際は一人でこれだけしているのは相当な仕事量なのである
これもインタ−ネットだからできたとなる
ただプログでも簡単のようで時間がかかる、最低でも三時間かかる、他の人は最初は8時間がかったというのもわかる
いろいろ練って出すにはそうなる

それで試しにフェスブックをしよとしただ一回も見ていない、書き込みもしていないし見ていない
時間がなくて見れないのである
プログに出すだけで時間がとられるからだ、他にも文にするのに必ず参照するものがあり時間がかかりできない
私の文は長いからそれだけ労力を必要となっているのだ
だからコメントされても答えることをしていない、プログに書く方を優先しているから答える余裕がないのである

とにかく今日のテーマは薔薇だった、アイスバーグは前に撮った写真だがあとは今日撮った写真である
名前は「三姉妹」とかなるだろう、それぞれに色が違っていたからである
自分のプログで失敗したのは二つのプログに毎日アップすることだった
それが手間になったのである、意外とインタ−ネットの問題は手間がかかることである
だから時間がかかる、それで他のことができなくなるのである
それ必ず校正が必要なのだがそれが完全になされない、直したつもりでも直せない所が必ずあり二つのプログを直すのが手間になるのだ

読んでいる人は感じないかもしれない、でも売っているものでも相当な手間がかっている
でも金をだして買うだけなのである、その労力を考える人はいないのである
youtubeでもそうである、これも編集するとなると相当な手間だとしている
いくら便利になっても何かこうして手間は省けないのである

昨日は神鳴りが何回も鳴った、玄関のノウゼンカズラの花が重なり散った
これは毎日咲いて散っている、これは野馬追が近づくと咲く花なのである