2020年07月11日

荘厳に蘇る春の森(詩) (飯館村の森の復興ー失われたその価値)

                                        
荘厳に蘇る春の森(詩)

(飯館村の森の復興ー失われたその価値)


荘厳なるいつかしの森に春の風がそよぎなる
一すじ清らかな流れのひびき
山の奥から蝶が喜々と舞い飛び来たりぬ
樅の木は神殿の柱のように堅固に立つ
そこに種は落ちて春の日がさしして若木が育つ
老木はここに歳月を重ね朽ちて土となる
森に循環する命の営みはつづく
しきりにさえづる鳥の声が森の奥処にひびきわたる
我々はここに力強く生きる
この木のように強く心は折れない
不壊のごとくに木は立ちここに深く根付く
我々は森とともにあり生きる
ここが我らの生きる場所なり
かけがえのない生き死にの場所なり
その命は森に還りまたよみがえる
春の日が再びこの森に回帰してくる
重々しく大石はここに座をしめ
かたえにキクザキイチゲが雪のように純白に咲く
この大石に神は座してとどまる
その石は厳粛にして口をつつしむ
そこは聖なる地なればなり
時にこぶしの花が天に向き咲き散ってくる
まるで天国の花園から散ってきたように
再び人は還ってくるだろう
いつの日か森は村は再び蘇える
その日は遠くも神は見捨てはしないだろう
荘厳な森は人の心をも作る
我が生も終わりとなりただそれを願うほかなし
そして再びここに生きることを望むなりしも
先祖となりてここを見守る者となりにけらしも


聖なる森の国

清らかに細い流れ
その深き山間より流れ
その岸辺に春の日はさしぬ
キクザキイチゲやカタクリの花
紋鮮やかに山の蝶の舞い来たり
樹々はもの寂びたギリシャの神殿の
列柱のように立つ
樅の木はゴシック聖堂の柱のように
重厚に風雪を帯びて立つ
かつて森につつまれし道
人の踏み入らぬ道
そこに隠された大石
そは聖なる石にもあれ
深く沈黙して不動なり
夏の日に深い木陰に
揚羽はその羽根を休みて 
花を探して花の夢を見る
その村は高原の森に隠されてあり 
森厳な森に囲まれて
春の日のさして新しく木は生えたちぬ
木はすくすくと真すぐに伸びて風にゆれ
流れは心地よくひびきぬ
この地に幸いのあれ
しかしその幸いの日は失われぬ
ただ樹々はなお厳粛に立っている
縄文時代よりの深い森の村
そこはカムイコタンにありしも

飯館村に育つ若木

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こころはここのこと

ここに生きたから
ここにこころがある
ここに生きたから
ここにこころがある
ここにあなたと生きたから
ここに心がある
ここを離れてこころはない
こころはここに結ばれる
ここに心と心は通いあふ
いつか人はここからいなくなる
でもその人のこころはここにある
いつまでもいつまでもここにある
ここがあるかぎりその人はここに生きている
人の心はここがありて通じ合う
ここを離れて心はない
ここを離れると回りの景色も消える
ここは回りの景色とともにある場
部分として切り取られた場ではない
ここはいとおしい場所
いつかはみな人はここを離れる
そしてここがあるかぎりここを思い出す
それが故郷かもしれない
そういう場をもつこと
ここに心は永遠に生きつづける
ここがあるかぎり・・・・・   

故郷は何かと原発事故以降問うてきた、相馬地域でも海から山と広い、そこでまだ知られざる地域がある、それもすぐ近くにあった
要するに本当に人間は灯台下暗しなのである、故郷に住んでいるから故郷を知っているとは限らないのである
かえって今の時代外国に詳しい人がいる、でも肝心の日本を知らないともなっているのだ
飯館は70パーセントが森である、森につつまれている、ただ川とかはない、それがものたりない所でも小川のようなものはある
そして何回も言うように飯館村は広いのである、その広さが特徴なのである
例えば丸森も字の通り森の国でもそれほど広さを感じない、飯館村は平地でも結構広いのである、だからまだ未踏の地がある

そして特徴は森の国であり木の国だとなる、その木でも樅の木がふさわしいとなる
それがドイツの森の樅の木の森に似ている、寒い国だからにている
ただ樅の木の林というのはない、数本の樅の木があるだけである
でもやはりその樅の木がいかにもふさわしいとなる
それはあの荘重なゴシックの大聖堂なのである、樅の木はその石の柱なのである

ただ今回の放射性物質の汚染で森も汚染された、それで生育に影響したという報告もあるでも表だってはそういうことはない、種が落ちてまた新しい芽がでて成長していた
その時森は復興してゆくのだと見た
でも村は復興しない、第一人が住んでいないからだ
別荘として元あった家をこじんまりした新しい家にしても住んでいないからだ
50億円かけた学校でも福島市とかからスクールバスを用意して通わせている
そして5人しかないというからショックである、5人に50億の学校を建てたというのも驚きである、それだけ金あ与えられたからそうできた
でもそれで村が復興はしなかったのである
だから金だけで何でもできるということはなかった

むしろ金が補償金が人の心を分断して村も二つに分かれて争うことにもなった
それで村に住めという村長はやめた、病気でもあったからだ
これは水俣病闘争でも補償金で分断されてだめになったというのと同じである
もう補償金をもらうことは復興の闘争になった
村全体をどうしようなどなくなったのである、そして個々人でも家族でもばらばらになったのである、それは南相馬市でも同じことが起きたからである
遺産相続のようになり兄弟でも争うようになる、それは伊達市でも親族が補償金で争ったというからどこでも起きたのである

天の時、地の利、人の和が勝敗を決めるその人の和が乱れたとき戦いに敗れる
奈良の十津川村では全員心が一致して北海道に移住した
それは補償金を政府からもらってもそれは全員公平に村のために使ったからである
村人が争うことは何もなかったからである
人の和があり成し得たことである
そして放射性物質に汚染されたことも致命的だった
なぜなら森でも放射性物質は消えない、空気になっても循環するから消えない
セシウムが半減するのは30年後としているからだ、ただ放射線量は思ったより減ったことは確かである
だからもう飯館村の復興は30年後でありさらに50年後であり100年後にもなる
天の時をまつほかない、時間が解決するほかなくなっている
それほどの被害でありまるでギリシャ神話の火を盗んでプロメテウスのが過酷な罰を与えられているのとにている

そして人が住まないということはそれがどうなるのか?
そのままにはならない、土地を持っている人は金にしようとしてソーラーパネルにしたり風力発電の工場のようにしたり他にもすでに放射性廃棄物の処理場は作られている
森でもすでに外材にたより森を手入れするものがなくり荒廃したようになる
つまりなんらか人の手が入りそこが生活の場になっていた時に森も活きていたのである
人が住まないからといって元の自然にもどるわけではない、もし人が住んでいれば
ソーラーパネルでも風力発電でも嫌だ反対する人がでてくる
放射性物質の廃棄場でもそうである、でも人が住まないということはその場所と関係なくなるのである

そのことは南相馬市にも影響してくる、一時放射性物質のフレコンバックが破れてもれだした、そういう放射性物質は水とともに流れてくる
真野川にも流れて来る、新田川にも流れて来る、土地はつながっているからである
だから人が住まなくなることは元の自然にもどるわけではない、誰も関心がなくなり
外から来た企業にその土地でも何でも買われて勝手にされても誰も文句が言えなくなる土地をもっていた人は金になればどうなってもいいとなるからだ

つまり心のこころの詩のようになる、そこに心が離れてこころがなくなるのである
人間のアイディンティティはその土地と場所と一体化しているからだ
その場から離れると関心もなくなりその場の持っている意味も喪失する
場とはそれだけ重要な意味をもっていたのである
その土地とが場は生産としても重要だが精神的なものとして重要な意味をもっていた
それは意外とそこに住んでいる人も自覚されにくいものだったのである
だからこそ補償金をもらってみんな一挙に外にでてしまった
でも老人はその場で生きた記憶がありそれが精神に安定をもたらすしまた老人は最後は記憶に生きるからその場を失うことは生きた意味すら失うことなに
東京の高層ビルに住むようになってそれをひしひしと感じともなる

そうした場とは生き死にの場でありそういう場を失った時、人間はアイディンティティを失い漂流者となる、それが現代文明人なのである、都会はまさにそうした場をもたない人たちが過剰に密集して住んでいるからである
そこで自己同一化するものを持たないのである、高層ビルを見上げて人間はただの点となりおしつぶされるようになり死んだら団地のような狭い空間にやはり押し込められる
墓でも森の中とか見晴しのいい土地にあるのがいいとなるからだ
そこは墓参りするにも気持いい場所になるからだ、そこで先祖とのつながりを確認して
一体感を持つのである

場とは先祖とも関係して時間の中で意味をもつものなのである
それで御先祖様が春になると山からおりてくる、その時は田植えの時期であり営々とつづけられた生の営みの中に死んだ人も生き続けるともなる
何かそういうことは工業社会とか商業社会になるとなくなったのである
それで生態系も維持できなくなった、コロナウィルスがその生態系からの逆襲だったという見解もそうである、人間は経済成長一辺倒になりグロ−バル経済で貴重な自然を破壊してずかずかと神聖なる自然の神秘な奥地までも入って動物からウィルスが伝染したとなるからだ
その罰としてコロナウィルスによって復讐されているということも納得するのである

人間は誰も多様な「根元」を必要としている、人間にはその一部を形成している環境を通してその道徳的、知的、精神的生活のすべてを引き出す必要があるのだ

人間が必要とするのは土地の切れ端ではなく、「場所」なのである
それは人間としてのびのび発展し、自分自身になるための背景なのである
この意味で場所はお金で買うことはできない
それは長い時間をかけて人々の平凡な営みによって作らねばならない
彼らの愛情によってスケールや意味を与えられなければならない
そしてそれを保護されなければならない
「場の現象学」エドワードレルフ

この本だけは一番感心した本である、人間にとって場がどれほど価値があり意味があるものかを語る、それは日常的に意識されないのである
だから物とか食料のように意識されない、ただ精神的価値はもともと意識されない
金とならない、それが最も現しているのが景観なのである
景観自体は金にならないからだ、だから人間はそうした景観でもそこに住んでいる人でも価値ないとみて壊されてゆく
それでソーラーパネルになったり風力発電になったりする
今や飯館村は人が住んでいないのだから景観など関係ないとして土地を金にするために
土地を貸して売って金にした方がいいとなりそうなった
そもそもなぜそれまで飯館村が何か他と違うように見えていた感じたのだろうか?
それが不思議だった、それはそこ独自の場があったということである
村全体にあったことである、別に海側でもそういう場所はある
ただおそらくそうた盆地的な場所は日本の原風景だったのである、国のまほろばだったのである

人間は金になるものは意識する、でも金にならないものは意識しないのである
でもそこに精神的価値がありかけがえのないものがあった
それを原発事故で住めなくなって普通の人でも意識したとなる
そして飯館村がいいと見えたのは私は別に飯館村の人と誰ともつきあっていないし知らないのである
だから木戸木があってそこに十軒くらい開拓部落があったことも最近気づいたのである
そこに二三軒しかないと思ったが一部落を形成していたのである

森に隠された村

七曲の坂を上りようやくその村に入った
そこに人の気配もない
森の中にその暮らしは隠されていた
人がでてくるとき何か醜いものを感じる
それはどこでも同じである
人は見ないけど草深く花がうなだれ咲いていた
何か人に見られるのは恥じらうように・・・
人の顔は見ないが広い前の庭に畑に
様々な花が咲いて飾られていた
それを天から神が見ているだけのように
人の暮らしは隠されて平和な村があった
夏の蝶が森深くから舞い出てきてまた去る
そこに人の顔は見ない
ただ森の中に家はつつまれて静まっている
我が心に映るはその花々だけだった
そして私はまたその村を後にしたのである

こんなふうだった、神が人の暮らしをか隠したという時、そこに美だけが映えたともなるそれを証明したのが原発事故だったのである
人間の醜悪さが金をめぐって露骨になり村は二分されて争う
ソーラーパネルが覆い、次に森に風力発電の巨大風車がその景観を壊す
そして放射性廃棄物の処理場ができる
それは村人のしたことではないにしろ醜いものが露骨にむきだしになったからである
ただ人間は貧しいことに耐えられない、ただやむなく貧しくてかえってそのことが
森に隠される村がありえたのである

ともかくかつての隠された飯館村は消失した、村人は金の亡者とも化して二分して争う醜さが露骨になる、そうなると純粋な花すら映えないとなる
ただそもそもそこには人は住んでいない、住まなくなる
老人だけでありやがて消滅する村ともなる、そしてそこが元の森におおわれというのではなく、ソーラーパネルとか風力発電とか放射性廃棄物の処理場とかそんなものしか残されない、かつての村はない、人もいない、何か50億かけた立派な五人しかいない生徒のために建てた学校もむなしいとなる
つまり金だけでは復興できない、金で何でもできるとはならない
精神的価値を形成していたものが失われたのである
場が失われたのである、ただそれは金にならないから意識されなかったのである

ただなぜ人間はこれほど場とか景観を破壊して何も感じないのか?

それを東京とか都会にみる、そここそ全く場所でも景観でも破壊されたむきだしの醜悪さを示した場所だからである
そこまで人間は景観とか場所に無感覚なのである
そうして場所を失い空虚な場で腹は満たしても心は満たされず死んでゆくのである
その墓も団地の様な狭い一室に葬れるだけである
そんなところで死ぬほかないのである、だから死ぬにしてもそんな場所に葬られるのは嫌だとなる、田舎なら一応は墓所は景観のいい場所にあるからである

いづれにしろ飯館村は原発事故で象徴的な場所になった、何かギリシャ神話のような場所にすらなった、それほど悲劇な場所になったのである
そして原発事故の被害はプルトニウムが消えるのは二万年後というようにそのカルマが甚大なものだったのである
それほどの過酷な罰が与えられたとなるのだ、でも依然として日本に原発がありまた事故になり悲劇が繰り返されるかもしれない、それは結局東京をみればわかる
あのような非人間的、自然もない場所でロボットのように生きられるのを見ればわかる
そういねう人たちが非人間化した人たちが金にならないものはいらないと無造作に破壊してゆく、それはグロ−バル経済でも世界の森を破壊したりしたからである
その一つの象徴が飯館村だったともなる、他にもそうした村があり日本がから消失してゆくのである
posted by 天華 at 15:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2020年07月10日

飯館村村長の菅野典夫氏が村長をやめる (立派な箱ものだけでは飯館村も復興はできない)


飯館村村長の菅野典夫氏が村長をやめる

(立派な箱ものだけでは飯館村も復興はできない)



福島県飯舘村 “子ども5人に57億円”の仰天施設に村民の怒り

女性自身  

2016年10月15日 06:00 


 村広報誌に毎年掲載されている一般会計の決算状況によると、2009(平成21)年度歳出は約44億円だったが、2017(平成29)年度歳出は約177億円で、約4倍に膨れ上がっている。2017年度の歳入は約202億円で、そのうち国庫支出金が約72億円、地方交付税が約52億円、県支出金が約16億円。もともと自主財源比率が3割程度の自治体だが、国・県の補助事業増加に伴い、その傾向が強まっている。

 さまざまな事業の中でも特に目立つのは、公共施設整備と教育・子育て環境の充実だ。
スクールバスは児童・生徒や家族への負担を考慮して移動時間30分程度に設定されているが、福島市から飯舘村までは約1時間かかる。しかも、こども園、小学校、中学校でそれぞれ帰宅時間が異なるため、集団下校させるわけにもいかず、帰りも複数の便を出さなければならない。そのため、多くの費用がかかる

【原発】【福島】菅野飯舘村長「帰還政策」の欺瞞 

生業再生後回しでハコモノ整備

月刊 政経東北
2019/08/26

菅野村長の悪行はこれだけではない。2013年1月、蕨平(わらびだいら)地区住民が、帰還困難区域である長泥地区と同じ財物賠償(土地・家屋などに対する賠償)を求めてADR(裁判外紛争解決手続き)に申立てを行った。蕨平は長泥地区に隣接、場所によっては長泥と変わらない高い線量が計測されており、ADRは訴えを認めた。居住制限区域にも帰還困難区域と同様の賠償を認める画期的な内容だった。

 だが、菅野村長はあろうことか、数土文夫・東電会長に対し、この和解案を受け入れないよう求める要求書を村民に隠れて提出していた。「東電がこの要求を受け入れた場合、住民が帰還しなくなる恐れがある」というのだ。

蕨平の人にあったが不満を言っていたのはこのことだったのか・


一般の人の年間被曝(ひばく)限度量は年間1千マイクロシーベルトを超えかね
ないと報じられる。同じ記事で公表された、他の自治体の線量を見ると、福島市10.50μSV、南会津町 0.09μSV、南相馬市 3.33μSV、いわき市 1.01μSV となっており、飯舘村 24.60μSVという数字が異常に高いことが見て取れる。村民が不安に思うのは自然なことである。

「地域があるから人があるの?」「県があるから地域があるの?」「国があるから県がある
の?」違う。逆でしょうって。人がいるから地域が生まれ、地域の仕事がたくさんあるから村になり町になり、そして県や国が成り立っているということなんじゃないの。過疎地だって、結局潰れないのは人がいてふるさとを支えているからでしょう?」

「地域があるから人があるの?」「県があるから地域があるの?」「国があるから県があるの?」違う。逆でしょうって。人がいるから地域が生まれ、地域の仕事がたくさんあるから村になり町になり、そして県や国が成り立っているということなんじゃないの。過疎地だって、結局潰れないのは人がいてふるさとを支えているからでしょう?」27    



菅野村長の飯館村の出身地は中心部の草野ではない、佐須だった、佐須とは焼畑の意味である、飯館村は相当に古い、何か縄文中期の遺物が出て来たとかあった
そこに山津見神社が有名だが綿津見神社も対になしてある
これは相馬地域の歴史で考察した、とにかくこの辺では綿津見神社と山津見神社が多いのである
それはなぜかとなると安曇氏などが最初に広い範囲で開墾した土地だからだとなる
だから佐須とか他にも焼畑地名があるとするとその焼畑の技術はそうした安曇氏とかの海洋民族が技術としてもたらした
その人たちは照葉樹林帯の文化の伝播者だったのである
だから飯館村は縄文時代は今でも山菜を食べていたように山の幸が豊富だった
また狩猟でもイノシシとか鹿をかなりいて食べていた、そういう場所に渡来人系の海洋民族の安曇氏などが入ってきた

私自身が飯館村にかかわったというとき大倉からあの七曲の坂を上って自転車でしょっちゅう行っていたことである、前は本当に七曲がりの道が大倉からありさらに木戸木にでるそこは戦後引揚者が開墾した新しい村である
10数軒の村である、その時私はその村があることに注目していなかった
それより今道に舗装されている所が森になっていて小川が森につつまれるように流れていた、そこは道もないような所であり神秘的な場所だったのである
私はそういう場所が好きだった、今でも近くにそういう場所がありそこに心安らぐのである、自然の中に様々な地形がありその場所は神秘的なのである

人間は意外と近くにそうした神秘的な場所があることに気づかないのである
最近でもそういう場所を私は発見したからである
木戸木は大倉の七曲の坂を越えてまた七曲の坂を越える閉ざされた地形にある
だからこそそこにはもともと人が住んでいないから戦争の引揚者が開墾するために入ってきた、でもそこはわずかの田畑があるだけでありそれだけでは生活できない
林業とかあり何か別の仕事がありそこで生活していた
つまり山には木材とか石材とか資源があり山持ちだとかえって裕福な人がいた
炭を売って生活するとなるとかえって豊かになっていたのである
木材という資源が豊かだったからである

でもそこも舗装されるまっすぐな道ができて神秘的な小川の流れる場所は喪失したのである、ただ飯館村の不思議は高原であり一段と高くなっているからそこは何か別世界に来た感覚になる、森に囲まもているし一軒一軒が森につつまれてあり贅沢だとなと見ていた
そこで大家族で住んでいたとなると確かに貧乏ではあったが空間的には贅沢である
東京の様なごちゃごちゃした場所に大金持ちで豪邸に住んでも環境が良くない場所が悪いのである、それでそうした豪邸でもうらやましいとはならないのである

飯館村は実際広いから地理的に今だにわからないのである
森におおわれた森につつまれた場所である、そこに太い樅の木がありそれが神殿の柱のように見えた、そして若木が生えて春に光を浴びて育とうとしていた
しかしそれを見たとき残念だったのはそこに住んでいるのは老人であり子供は住んでいない、依然として放射線量が高いからである
なぜ放射性物質が減らないかとなるといくら除染しても森に放射性物質は循環しているからである、だから森自体を除染できないからそうなっている
それで子供は50億とかかけた学校に遠くから通っている
他にも箱ものは立派でも肝心の子供とか若い人は住んでいないのである
村のスクールバスで通っている、それにも国から金をもらっているから金をかけている
金をかけていても金があっても金だけでは復興できないものがあった
箱ものは立派でありる、でも肝心の人間が住んでいないとしたらその立派な箱ものを活かせないのである
そういう矛盾は原発避難区域であった、

人がいるから地域が生まれ、地域の仕事がたくさんあるから村になり町になり、そして県や国が成り立っているということなんじゃないの

その肝心の人が住んでいないから村に立派な箱ものを建てても活きていないのである
むしろ貧しい建物でも例えばそこに学びたいという熱い心の人が集まれば活きてくる
その肝心の人がいないのである
ただ佐須で放射線量を計った時、泥が20マイクロシーベルトあったことに驚いた
そこがホットスポットでそうなったと思っていたが実は飯館村は最初の時期にそのくらいあった、全体的にそのくらいあったから驚きである
南相馬市でも二三日20マイクロシーベルとった
樋の下は近くで7マイクロシーベルトとあった、そして南相馬市より福島市の方が放射線量が高かったのである

菅野町長は何かそうして飯館村への帰還を徹底してすすめることで批判された
それで実際は心臓の病気であり交通事故も二回起こしていた
それだけ体に負担がかかっていた、その政策は村民から支持されたとはなっていなかったただ菅野村長派もいるからわからない、外部の人でもフリーのジャ―ナリストが応援している 
菅野村長を批判しているのは政経東北である
私自身も菅野町長は飯館村に住んでいない、孫も住んでいない、飯館村の外から通わせている、それなのに飯館村に住めというのは矛盾していとも思っていた
ただ正直この飯館村の人たちがどう対処するのかわからない面がある 

多額の補償金をもらって喜んでいた人も実際にいたし福島市とかに移り住んでかえって良かったという人もいることは確かなのである
それで新しいこじんまりとした家が古い家の代わりに建っていた
それはどこでも建っているから帰っているのかと見たのである
でもそれは別荘だというのである、確かに大家族で住むのには小さすぎるからだ
時々畑じ野菜つくりして見にきているとか言う
それも不思議なの感覚になる、別荘となればぜいたくだなとも見る
本家は別に福島市にとか建てたとなるからだ

でもそんな別荘地として飯館村がありえるのか?
軽井沢ならわかるがここでそんなことが成り立つのか?
ただ飯館村をどうするのかとなると本当にむずかしい、他の避難区域になったところでもそうである、第一住民自体がどうしたいのかわからない、熱意がない
何かあきらめている感じになる、それを外部からとやかく言うとまためんどうになる
ただ南相馬市では小高は一体なので私は嫌なことでも言った
それで反発された、でも南相馬市なのだから負担にもなるから復興してもらわないと困るから言った

おそらく菅野村長は国よりになり国の方針に従うということで反発されたのかもしれない国としては早く避難区域を解除して補償金を払いたくないからである
それでもう放射性物質の被害はないとしていたのである
ただ放射線量は飯館村ではもともと高かったから減らないのである
それでけモニタリングボスとでも低くなっているがそれは大成建設などがその下の土を掘って低くみせていたことで村民が抗議した
つまり政府では放射線の被害はないから村に住めという方針である
それは菅野町長の態度と一致するのである
私自身は外部であっても土地のつながりで相馬地域として一体だから人が住んでもらいたいのである

フレコンバックの山とか今度はソーラーパネルとか風力発電の風車の風景が嫌なのであるでも人が住まないと何か土地を活かすために金にするために必ずソーラーパネルとか風力発電の風車も景観を乱すから嫌なのである
それらが本当に自然エネルギ―なのかとなると違うということは述べてきた
風車の風は自然の風ではないから植物でも正常には育たなくなる
またソーラーパネルも純粋の自然エネルギーではない、そして税金をとるからかえって高くつくのである、ただこの世に純粋の自然エネルギーは人間には作りだせないとなる
山が荒れたの木材が外材に代わり利益を産まなくなったからである
それと同じように利益を産まないと現実問題としてソーラーパネルでも金になればいいとなるのである、そしてもう飯館村に住んでいないとしたら別に気にするも必要もないとなる、時々昔をなつかしみ別荘に帰ってくるだけの場所になる
軽井沢のようになってしまうのも不思議だとなる

ただコロナウィルス騒ぎで東京のことを書いたけど東京に本当にこれからコロナウィルスだけではない大地震がきて東京に住めなくなる
東京脱出が起こり飯館村とか浪江町とかは空地空家だらけなのだからそこに住めとなる
もしかしたら住ませてください、何でもいいから住ませてくださいとかなるかもしれないそれで東京の人たちは原発事故の罪の償いをする    
それで重いカルマから解放されるとなる、カルマはどこかで苦しみとなって現れるからである、苦しいから嫌だとしてもここで住みここを復興させろともなる
今は復興をあきらめていても時代が代わり意外なことで復興しているかもしれない

とにかくそうしてそんなことに期待するのももう住民は帰らないからである
あきらめているからそんなことでも妄想するとなる
小高でも飯館村でも帰ったのは老人でありやがて介護状態になる
その介護する家族もいないし誰が介護するのか?
結局家族がひきとることになる、そして無人化してゆくともなる
実際に神社でも誰もお参りするものもいない、神様も捨てられたのである
そして人間も捨てられるのである、それは荒寥としたものになる
草ぼうぼうのゴーストタウンならぬゴーストビレッジ、幽霊村になってしまうのである
だから原発事故の無惨さは飯館村に一番被害としてもたらされたのである

何か古い家があった、そこに住んだ人の重さがあった、年輪を重ねた古い木のようにそこにあった、そこはやはり兜屋根であり養蚕をしていた
そして古い碑があり枯れた萱に隠されていた、なんともわびしい風景だった
そのようにわびしいのは人が住んだ所が人がすまなくなるとどこでもそうなる
何かかえって淋しくなるのである
そして幽霊がかつてあった町とか村を本当にさまようようになるのである
幽霊がそうして廃墟と化した町でも村でもさまようようになるのである

いづれにしろ復興といってもそこに住んでいる人たちがもう帰還することをあきらめている、近くでも何するでもなくギャンブルしていたり釣りしていたり何かすることはない
何か仕事をしないということも心が退廃してくる
金があったとしてもその移り住んだ地域でも何もすることがなく役割もない
すると地域から浮いた存在になる、またいつまでも補償金で暮らせない
ではみんなで復興するのかとなるともうばらばらになっている
親も子も祖父母でもばらばらに住んでいる人も多い、家族すらばらばらになっている
そこで復興といっても10年過ぎても明るいものがないのである
未来への芽がないのである

ただ飯館村の森に入った時、樅の木が新たに根付き伸びようとしていた
春の光りをあびて伸びようとしていた、自然は復興している
ただ放射線量は減らない、でもその樅の木が森に根付いて育とうとしていた
そこに未来を感じたのである、飯館村は森の国であり木が豊富だからそうなる
放射線に汚染されても木はと生き続けている、枯れてはいないのである
ただその森も汚染されているから除染もできない、でも森が死ぬことはない、いつか放射線もなくなり元の森に還る、それは相当に長い年月が必要になる
それだけの神話的な深刻な被害として飯館村は記録されるものとなったのである

そして結局復興は先が長いと見なければならない、セシウムが半減するのが30年後と言われた、現実的には10年後でも相当に減った、でも住めるようになるには時間がかかる
おそらく30年後とか50年後とか百年後とかなる、それだけの時間かかかる
つまり時間でしか解決しなくなったのである 
でもまた飯館村に誰かが住んでいるかもしれない、それは元の住民でないかもしれない
何かコロナウィルスのような異変があって都会の人が移り住むかもしれないからだ
そういうことは予測できない、そしてもはや我々老人はその未来を見ることはできない
菅野村長もやはり病気であり引退したのはそのためだった
浪江町長もやはり死んだ、未来を担うものは子供は住んでいないのである
ただ未来は誰もわからない、30年後でも50年後でも百年後でも人が住んでいるかもしれないその時間に期待するほかない、人間ではもう解決できなくなくなったのである

いづれにしろ箱ものだけを立派にしてもそれを活かせない、そもそも住民がそこに住まないからである、そしてなぜそうなったのかというと心が一つになれなくなったのである
それは多額の補償金をもらったことにもあった
それによってみんなで市町村の復興を考えるより個人とか家族単位の復興になったのである
だから現実として子供は別な地域に行きそこの学校に通う、大人も別な地域で仕事をするそれも十年もすぎたらそれが既成事実となりもう飯館村には帰らないのである
それで菅野村長が村に帰り住むということに固執した
実際はそうあるべきであり自分自身もそうあってほしいとなる
でも現実はもうそういうことはなくなった
するとそこに固執することは反発を受けるようになった
いくら村長がそう思っても住民がそう思わないとしたらもう心はばらばらである
すでに心がばらばらでありただ個々人の家族の復興しか考えなくなったのである
それは南相馬市でも同じだったのである
そして家族もばらばらになり老人だけが取り残されたのである

これは奈良の十津川部落とはあまりにも違っていた
心が強固に一つとなり団結して奈良から北海道に移住したのである
国から補償金もらったとしてもあくまでも村全体で使うものためであり個々人家族ではなかった
とにかく村人の心が一つになっていた、だから移住先でも団結して暮らすことができた
補償金は村のために使われただけであり個々人とか家族には使われなかったのである

人間はやはり建物とか物とか金が必要でも心が大事だとなる
第一菅野村長が飯館村に住んでくれといっても本人は福島市のマンションを真っ先に買って住んだと言われる
そして孫がいてもその立派な学校に通わせているのである
つまり本人が住まないのに住めというのは成り立たない
それは浪江町長でも大玉村とかに家を建てた、そして浪江町には住まなくなっていたのである、ただまもなく死んでしまったということである
菅野村長も病気だということになれば強いことは言えない
結局過労になり病気でもあり引退したとなる

こういうことで飯館村は何か建物が立派になってももう住民は帰って住まないのである
そういう規制事実ができあがっているのだから元に戻すことは不可能である
だから森は除染してもできない、すると30年待ってセシウムが半減するとか放射線量が減ることを待つほかないのである
それが50年とか百年にもなるかもしれないがその先は予測できない
意外なことが必ず人間には起こる、コロナウィルスを予測した人は一人もいなかったからである、地震とかはいろいろ言ってもコロナウィルスのことを当てた人は一人もいなかったからである、だから30年後でも50年後でも百年後に何が起きてくるのか予測できないのである、意外と飯館村に東京の人が来て住んでいたとかなるかもしれないのである
そういう変化がコロナウィルスで起きたからである
こうなると立派な建物を50億で建てたということでも無駄になる
第一それを活用する肝心の人が住んでいないからである
また何兆円もかけて除染してもそれが復興になったともいえない
つまり金をそんなにかけても効果的にならなかったのである
だから金があればなんでもできるとなる時代だがここではそうはならなかった

建物があって人があるの、人があって建物が家でも公共の建物でもある
人がいて子供がいて学校という建物がある、それが逆になったともなる

小高でも老人施設があってもそこに働く人、介護士とかがいないから青森に送られている建物が立派でも働く人がいなくなったのである
人が住まないからそうした建物も宝の持ち腐れとなる
5人くらいしかいない学校に50億円も建物に金を費やしても復興していないのである
それは菅野村長のせいというだけではなく住民がそもそも帰らないと決めたのだからどうにもならないとなる、それが現実だったがそれを無視したから反発されたとなる
本当は村長だけが浮いた存在にてっていたのかもしれない、ただ私には複雑な事情はわからない、でも新しいこじんまりした家が建っていたので人が住んでいると思った
それが別荘であり人は住んでいないというのが不思議だったのである


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枯芒に車が埋もれている、ここで時がとまったままなのである
まずいい飯館村では車がないと生活できない
買物もまともにできないからだ

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ここは道に向いて古い碑がある
ここは塩の道だったのか?
ここを上るとこの兜屋根の養蚕農家がある、これは相当に古い
壁は土壁であり古い、こうした廃墟が飯館村にはある
壊された家も多い、その跡地には何も残っていない

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道の駅のまでい館に建った子供館

次々に立派な建物は建った




posted by 天華 at 15:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2020年07月09日

コロナウィルスで観光業の打撃 (旅館やホテルを歴史から見直す)


コロナウィルスで観光業の打撃

(旅館やホテルを歴史から見直す)

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会津の観光収入は相当に大きかった


観光時代でもあった、インパウンド観光で京都などはオーバーツーリズムになり日常の生活すらままならなくなった
それはがコロナウィルス騒ぎでぱったりと人が来なくなった驚きである
こんなに急激に変わることの驚きである
つまり観光業というのはもともと水商売のようなところがあり当てになるものではなかった
でも交通が発達するとそれが過剰化していたのである
そして交通が止められると急激に人の行き来が途絶えたのである
それこそ不要不急だったからこそ一挙に途絶えた
観光しなくてもそれで死ぬわけでもない、食料がなくなるのとは違っているからだ
観光とは生きぬきであり贅沢なものだったのである
それが豊かな時代から起きたことなのである

江戸時代にも確かに観光ブームがお伊勢参りとなって旅する人がふえた
平和な時代になり豊かになると遠くへ旅したいとなるからだ
ただそれにしても観光のようなものではなく一生に一度の旅だったのである
歩いてする旅では遠くになるととても行けないからだ
今の観光はいくらでも交通が発達しているから行ける
遠くが近くなり近くが遠くなるとまでなっていた
常に内部より外に向かってヒトもモノも動く、だからこそこれだけひっきりなしに車が走っているのだ

何か人間は正常と異常の見分けがつないのである、正常とは何かわからない
正常と見えたものは実は異常だった、異常と見えたものは正常にもなっている
戦争時代は戦争することが人を殺すことでも正常でありそれが奨励される
でもそれは異常なことである、人間は本当に何が正常なのか、異常なのかわからない
異常も正常だとなるのが普通である

そもそも東京にあれだけの人口が密集しているのは異常なのことである
満員電車に詰め込まれて家畜のように会社に行くのも異常である
でもそれが習慣化すると異常でもなくなる
それがコロナウィルスでテレワークとかなり別に通勤しなくてもいいとなったとき
別な生活が志向できると気づいたのである
その方が正常だともなり満員電車に詰め込まれる生活は異常だったと気づいた
そして地方で暮らす方がいいともなったのである

観光業も歴史をたどると今の観光のようなことはなかった
お伊勢参りとか神社仏閣をまわるときそれは信仰でありそこで門前町が栄えた
それは観光とにていても観光になったのは最近のことである
高度成長時代の会社の団体旅行は観光の始まりでありそれに答えた大きなホテルができたそれまでは日本は貧乏で観光はなかったろう
汽車で電車で旅行していたのは一部の恵まれた人にすぎない
そもそも鉄道の歴史をみればわかる、ほとんどが物資の輸送であり北海道とかなると石炭の輸送のために鉄道があった
この辺だと常磐炭鉱があり東京に石炭が運ばれた
また日本全国に森林鉄道があり網の目のようにあり木材や石材が運ばれた
それは東京に運ぶものとしてもあった
でも旅行を楽しむ人は一部の恵まれた人だけだったのである

なぜなら私の母親とかに聞いても汽車に乗るのは特別なことであり汽車賃が高いから乗っていないからである、その時貧しいから汽車に乗れなかったのである
だから鉄道を利用して観光旅行などすることは普通の人はなかったのである
だから観光は高度成長時代から豊かになりはじまったものである
ということは日本では観光の歴史は浅いとなる

街道を旅したとしても宿は相宿でありそこで食べて寝て休めればいいとかしかないのである、そして街道を旅していた人はやはりただ遊びで観光で旅するというより何か用事があり商売のためとかであり観光で旅する人はいなかった
だからただ旅する人は特殊な人である、それは僧だったり芸能を売りにするものだったり何か普通の人ではなかった、山頭火などは乞食だったからそういう社会からはずれた人たちだったのである、ただお伊勢参りは農民が主役だったからそれは一生に一度のものとして許されていたのである

だから現代の観光業はそういう時代とは違ったものとして生まれた
第一街道を行くように歩く旅でもない、目的にすぐ着く旅である
となると目的地でグルメするとかが目当てであり旅とも違ってくる
旅とは宿場を点々として泊まりその行程を楽しむまたは苦しんで旅することだからであるその行程がぬけおちたのが現代の旅なのである
だから現代には保養者はいるとしても旅人はいなくなったのである
だから芭蕉のような旅自体を生きてそれは人生ともなり宗教のようなものとして昇華することはなくなったのである
要するに浅薄な旅であり観光は何かもう一つ人生に深みと意味を与えるものとなっていないのである

そして農民にとって旅館とかは湯治のように日ごろの労働をいやす場としてあった
それは観光ではない、また今のグルメ旅とかとも違う、ただ癒すということでは共通しているかもしれない、そもそもホテルがホステルであり病院の役割があった
そこに接待が生れた、湯治もそうだった、温泉はもともと病気の治療の場ともなっていたからである、それで傷ついた鹿が温泉につかっていたとかの伝説が生まれる 

「Hotel」という言葉は中性ロマンス語(フランス語)の「Hostal」から転じたものです元々はラテン語の「Hospitale(旅人や客人を暖かくもてなす)」という意味の言葉です。つまり、「Hospital(ホスピタル)」とは主人が客を持て成す意味であり、親切に「もてなすというホテル業界の根本理念とも言える言葉なのです。

明治以降外国人を受け入れるためにホテルができたということでももともと日本では外国人をもてなすものとして生まれのでありその由来が違っている

とにかく東北では湯殿の碑が多い、それはそこで農民が湯治として滞在したからである
湯殿信仰があったためである

それで芭蕉の句にある

 語られぬ 湯殿にぬらす 袂(たもと)かな

これは何か深く東北の民に同情していたから不思議である、芭蕉の不思議は「奥の細道」が何か東北という地域と深く一体化したことなのである
心情的にも一体化したからそういう句が生れたのである、現代だと東北を旅してもそういうことにならない、ただ癒されるということはある
でも湯治とは違う、贅沢な旅でありそういう人は東京の人が多く金をもっていて贅沢するというだけである
現代はただ金持ちだけが優遇される時代なのである、農民が湯治で日ごろの疲れをいやすというのとは違う、要するには今の仕事はただ金持ちのために使われるのである
一泊三万とか四万とかの旅館もありそこは金持ち専用になっているからだ
たいがい東京の金持ちが利用することになる、地方ではそんな金持ちは少ないからである
そういうことで何か私は旅に明け暮れたけど常に安宿を探し歩いていた
でも日本にはそうした安宿がない、かえってヨ−ロッパには安宿があった
だからヨ−ロッパは貧乏人でも旅しやいと思ったのである
それでホテルとか旅館でも自分にはいいと見なかった
まず温泉宿にとまったこともないからである、あとは自転車旅行になったら余計に泊まりにくくなりテンと泊まりになったのである

現代はすべて金で価値が決まる、金のないものは相手にされない社会である
でも江戸時代とは何か違っていた、みんな貧乏だからとういことがあったろう
貧乏で平等だったから差別もなかったともなる
何か現代ではあらゆることで金で差別される時代なのである
またそうせざるをえない時代なのである、だからそれでホテルとか旅館を批判しても仕方がない
でも本当の旅人をもてなさない、ただ金持ちの保養にくる人をもてなすのが旅館でありホテルなのである、時代が変わりそうなったのである

だから旅を追及してきたものとして現代は旅人はいない、すると旅から生まれる文化も生れない、芭蕉のような句も生れない、ただ金持ちの保養所のようになっている
旅する人などいらない、金を落とす人しか来るなとなっていたのである
このことを言ってもしかたがない、それは当然だとなるからだ
でもコロナウィルスで観光業がこれほど打撃を受けてこれからをとするのかというとき
旅館でもホテルでもその原点は何だったのか見直すことも必要になる
旅館は旅人もてなす館なのである、金持ちの保養所ではないのである
これも交通の発達とかいろいろなことが重なって変化したのである

でもコロナウィルスで近間の人を呼び込むことになったようにそれは温泉宿がもともと湯治の場であり近間の人の農民をいやすものとしてあったことに帰ったともなるのである
近間の人を客として大事にするということである  
それで5000割引を政府で援助したらすぐに予約で埋まったとういう、つまり近隣の人は泊まりたかったが料金が高くて泊まれなかったということがあるかもしれない、東京や外国人の方が金を落とすとして優遇されたとなるからだ
それは全国的にそうである、京都など特にそうである

何か金だけを優先する資本主義の論理というのが成り立たなくなってきたのかもしれないすべて金で価値を計り人間もそうであり
金のないものは排除されてる社会である,コロナウィルスはこうして今の社会を見直す契機になっている、弱肉強食の資本主義とか金融資本主義とかグロ−バル経済とかが見直される、それがいいものとてし働いた時があったが今は悪い方に働くようになった
そこには人間が生きるのに何か大きなものが欠如しているのだ
人間にとって最も大事なものすらふみにじるのである
原発事故だってそういうふうに金だけですべてを見た結果として生態系が汚染されて住めなくなった、それも同じ根だったとなる

そこで不思議なのは近隣の人が利用できなくて遠くの人や外国人のためとなり5千円割引したら近隣の人が利用した
観光立国というときギリシャがそうである、ギリシャで生産されるものはほとんどない
観光が売り物でありそれで成り立っていた国である
そういう国はもろいということである
ばったりと観光客が来なくなると経済が干上がってしまうのである
5000円割引が大きかったとなるが大きくなるともう無理である、それは東京であれ遠くであれ外国であれ受け入れないと経営できない、一日ホテル維持するだけで何百万かかるとかなるとそうである、するともう維持できないとなり倒産する
やはりこれもホテルとか旅館とか観光を見直すことになる
ただそれにしても極端な変化だったのである、あれだけ中国人であふれていた京都でもぱったり外国人が消えたからである、その変化があまりにも急激だったのである 



posted by 天華 at 16:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2020年07月08日

自然災害は神の意志が働き起きるのか? (あと残されたのは飢饉と戦争だ!)


自然災害は神の意志が働き起きるのか?

(あと残されたのは飢饉と戦争だ)

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 モーゼの出エジプトで起きた10の禍の中に家畜が死んだのは伝染病だった

ブヨの災い

ブヨが大量発生し、人々や家畜が襲われた。アブの災い 
これは農業国だったから起きる、今でも虫の禍に悩まされているからだ
サバクバッタの大群に苦しめられているのも今起きている、それは南アフリカから発生しして中国まで迫っている
ここで伝染病があったとういことは重要である
そこに神の意図があったからだ
自然災害としてではなく神の意図がありその災害は神によって作り出された災害だった

そもそもなぜ自然災害が起きるのか?

この辺は東日本大震災では津波があり原発事故がありまた去年は水害があった
こうして連続して災害が起きるのはなんなのだろうとなる
まず津波の災害だけは今ででも信じられない空恐ろしいものだった
この世の終わりなのかとさえ思うような恐ろしいものだった
それは村ごと消失したりしからである
それで神を恨んだいうのは理解できる
この衝撃は簡単には消えることはない

ではなぜそれほどの災害が起きたのか? 

それは不可解なのだけど人間側の理由としてもともと海だった所に港を作り集落を作り
津波のことを全く考慮しないで住んでいた
第一波が打ち寄せる海岸に住んでいるとなると何か怖くないと海側に住んでいる理屈ではなくてそう思うからである
磯部は500人死んだとか被害が大きかったけどそこはもともと地形を見ると砂州だったのである、となると海だった所に陸地ができてそこを集落にした
それはもともと危険な場所だったのである
でも漁業に便利だからとして住んだのだから人間側の落ち度ともなる
でもあまりにも津浪は恐ろしいものであり何で自然はこんなに非情で残酷だとして恨んだことは理解できる

今回の九州の球磨川の洪水もそれは前にも被害があり必ず水害になる場所だった
でもそのことに対策していなかったのである、50年前とかでその被害のことを忘れていたのである、そして今回もダムが意外と危険なものとして働く
放流することで一気に水嵩が増す、この辺でも原町の高倉ダムが放流した結果新田川が氾濫したからだ、それと同じことが起きる、他でも起きていたからである
ダムは必ずしも治水にはいいとはならない、かえって逆に危険なものにもなる
それで中国では三峡ダムが決壊すると騒いでいる

ここで謎なのは神の意志が働いて自然災害が起きるのか?

ノアの洪水とか出エジプトの自然の変異は神の意志がモーゼを通じて働いた結果である
だから確実に神の意志が働き自然の変異が起きる
ただそれは無闇には起こらない、神の定めた人によりその人を通して自然の変異が起きた聖書の物語とは神に選ばれた者を通じて起きる現象を語り伝えたのである
それは科学的には説明できないのである
旧約聖書となる神の国へ導くものとして神がイスラエルの民を導いた物語なのだ
だからそれを達成させるために神の意志が働き自然現象でも奇跡でも起きた

でも地球に起きる自然災害は神の意志が働いて起きているのか?

これは不可解でありわからない、聖書ではそうだとしても他にも巨大な自然災害がありそれをどう解釈していいかわからない                  
今回のコロナウィルスでもこれは神の意志が働いた結果なのか? 

その原因はわからないにしろ結果として起きたことをみると何か不思議なのは今までのグロ−バル経済とか資本主義であれ経済のシステムとか金融とかそうしたものへの制約をかけた、つまり国々をを分断するように働いた
ウィルスは国境とか関所とか人の移動をとめるもきだったがそれが自由になったときウィルスは伝染し広がったからである
そしてもともとウィルスは動物とかサンクチュアリ―に人間はずかずかと恐れることもなく侵害したからだ
現代は何か本当は人間は入ってはいけない聖域にも関所をもうけず入りこむようになり
そこに動物が生息してそこからウィルスが人間に伝染してきた
それで自然の逆襲だと科学者が言うのも理解できる

なぜこうして不可解なことが震災以後自分の一身上でも起きた、そしてその周りでもこうして不可解な自然現象が起きる
それが何を意味しているのか謎である
ただ津波でも原発事故でも何か神からの働きかけがあり原発などはやめろという神の意志でも働いた、コロナウィルスでは大きくはグロ−バル経済を停止させる働きがあった
また国内でも人の自由な行き来を制限するものとして働いた
だから国内でも遠くより近くへの回帰と東京の大都会からの脱出移動が始まった
もしかしたらそれは次に起きる東京の大災害の予告なのかもしれない

今東京から脱出しなと危険だという警告なのか?

この辺で八沢浦の湊で高潮で震災前に被害を受けた、それも実際は自然の予兆だった
こんな被害にあうならここに住んでいられないとか判断したら津波からも助かった
なぜなら湊の部落は40軒ほどあったがみんな流されて消失した
村自体が消失したからである

磯部村では慶長津波の前にやはり高潮があり支配者の佐藤氏が今の相馬の道の駅の鬼越館に移った、そして今回の津波でその近くまでも津波が来ていたのである
そして磯部村は消失したから空恐ろしいものだったのである
このように予兆を見て逃れていたら助かったともなる

そして不思議なのは原発事故の時に東京に避難した人たちが放射能がうつるとか子供が差別されたりいじめられたのである
それが今度はコロナウィルスで東京の人は来るなとして地方から言われるのもカルマだともなる
特に福島は東電によって大被害を受けたからである
それが今度は東京にカルマとなってそうなったのかとなる

だから神意として自然災害でも起きてくることはありうる、あまりにもモラルが荒廃した結果としてソドムとゴムラは滅ぼされた、それは明らかに自然災害としても神の意志が働いてそうなったのである
今何か歌舞伎町とか水商売関係がコロナウィルスで仕事ができなくなった
そこは性の乱れた場所である
ソドム、ゴムラでも同性愛とか性の乱れがありまたそこは人間が薄情になった都市だっただから神が滅ぼしたと記録される、だからコロナウィルスでも何かそういう神の意志が働いているのかとも見たのである

そしてまた不思議なのはなぜ日本ではコロナウィルスの感染者でも死者が外国と比べてこんなに少ないのだろうかということである
そこにもまた神の意志が働いているのか?
神の意志というとき日本の八百万の神なのかとなるがそれよりやはり一段上の神になる
人間が神と認識できるのは聖書に現れた神である、エホバである、それにはただ名はないのである、名がつけられない神なのである

要するにどうしても津波でも自然災害でも不可解なのである、科学者がいくら説明しても納得できないものとして自然災害も起きるからだ
みんなこういうとき科学者を頼る、でもその科学者が専門家がすべて対応できるのかとなるとできない、それは原発事故でもそうだった
そうして今回も同じでありワクチンという対抗策があってもそれは簡単に作れない
ただこれまでのウィルスはワクチンを作って勝利はしたとなる
だから科学者に頼るほかないともなる、でもウィルス自体は変異したり新種のが出たりと科学者でもみんな対応できていないのである

そして国際情勢を見ると中国とアメリカの対立が激化して戦争になるという人がいる
それは単なる予測ではない、そういう緊迫した対立が起きているからだ
それで日蓮の時代のようなモンゴルが攻めてくるとか内憂外患の時代になっている
日本は貧困化して中高年がリストラされて失業して介護職に転落するとか他に野垂れ死にする人がでてくるとかも言われる
日蓮の時代も道に野垂れ死にした死骸が積まれていたのである
そういう危機的状態が日本に起きて来る、それはコロナウィルスで失業者が増えればそうなるのである
要するに末世であり七難八苦が起きて来る、日本でも地獄の様な状態になる
だからこれからの時代は大きな災難の時代であり変革の時代である
その時代をぬけだすときまた平和な時代がやってくる
それは戦争が終わり日本が団塊の世代を中心になった高度成長時代が来たと同じなのである 

あと残された災難は飢饉と戦争である、だから食料不足が確実にやってくる、日本に外国からの食料が入ってこなくなる、備蓄するのにも米がいいとしても米すらなくなるというなぜなら今は麦でパン食が多い、すると小麦が入らないと米に頼る
すると米が足りなくなり奪い合いになるかもしれない、米は確かに備蓄して日本ではとれる、でも不足するのである   

こうして日本でも食料の奪い合いになり地獄のような状態になるかもしれない、
その時紙幣が紙くずになる、その時また戦争が終わった時のように食料を得ることが第一になる、その時金より銀より食料が貴重になる
超インフレにもなり馬鹿高くなり紙幣の価値が極端に低下する
もう紙幣では何も買えなくなるかもしれない、その時何でも現物でもっている人が強くなるのである
都会でぱ食料でも供給できなくなる、もう水さえも供給できなくなる
つまり紙幣は信用されなくなる前兆が起きている
預金封鎖とか財産税とかそんな話ばかりだからである
つまり紙幣の価値が暴落して信用されなくなることは資本主義そのものの崩壊に向かっている、紙幣がただ紙きれとみなされるような前兆が起きている
銀行が危機だというとき資本主義の中枢が機能しなくなりつつあるともなるからだ

そして地震が来たりしてさらなる災難で混乱する
そこで「東京脱出」がはじまる、コロナウィルスもあり東京に住めなくなるのだ
それは原発事故でこの辺が住めなくなったように東京のカルマなのである
何かこうして起きてくることは大混乱の前兆なのかもしれない
こんなにつづけて災難が起きることが解せないからである
それも地球規模で起きているからである
人類の危機のようになっているからである
こんなとき国と国が争っているときではない、この機に乗じて有利になる、得しようととすることは危険である
コロナウィルスでは人類は協力することが求められているからだ  

そして中国が攻めてくるとかといっても中国自体が国内問題やコロナウィルスでも三峡ダムの崩壊の危機とかでも簡単にできるとも思えないのである
だから中国に対抗する軍事力をもてというのは危険である
日本に今やそんな経済力も力もないからである
もし中国が攻めてくるとしたらそれが第三次世界大戦の引き金になるかもしれない
そこまでリスク中国が犯すのかどうかは疑問なのである

posted by 天華 at 10:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2020年07月07日

仙台市と神戸市で感染者(7月6日) (東京からのコロナの拡散が止められない)


仙台市と神戸市で感染者(7月6日)

(東京からのコロナの拡散が止められない)


仙台市は前から感染者が増えると見ていた、だから仙台市に行くのが嫌だった
どうしても東京とかから新幹線でも仕事でも行き来が多いからである
そしてやはり感染者が四名でた
そして神戸市にもでた、ここも大阪と近いから増えることはさけられない
それで知っている人が東邦銀行に勤めている孫がお盆にも来るなと言ったのは正解だったともなる

とにかくこのウィルスは伝染病は地理と深く関係していることを述べてきた
ただ鹿児島市にクラスターが発生したのは意外だった
福岡市が中心となって感染者が増えた、鹿児島となると東北だと青森だという感覚になるからだ
でもなんらか今は交通が発達しているから拡散することはとめられない
よほど交通がない所でとないと無理である、でも現代ではそういう場所はほとんどないのである
どこにでも人が出入りして秘境の村などない、桧枝岐だって今度は尾瀬の観光が開始されたからやはり東京からでも人が入ってくるからだ

そもそも交通が止められない限りウィルスの拡散を止めることは不可能なのではないか?それほどウィルスは交通と関係して拡散されるからである
仙台市は東北でも東京からでも交通の交差するところでありそこは一番危険だと前から思っていた、それが自粛が解除されてたちまち広がった
東京でも感染者百人が四日つづいている
それも検査数を増やしたから当然でありもともと検査しないから低くおさえられていたのである

コロナウィルスを止めるには交通を止める他に方法がない

こうなるのではないだろう?いろいろ対策しても東京や他県からでも入ってくれば感染してくる
だから東京に行くことと東京から来る人を止めない限り感染をとめることはできない
だから関所が必要になる、そこで止める意外方法がない
東京と地方を考えるとき東京から出るな、東京から来るなってしまう
それで地方は安全だとなってしまう
現実に何かこの辺では感染者が何人かすぐ近くで東京かのライブハウスから行った人が感染した、福島市でも最近一人東京と関係して感染した
感染経路をたどるとこうして東京とか他県から来て感染しているからだ

でもこうなると東京から脱出したい、地方に住みたいという人がでてきているのもわかるそういう人は検査して陽性でないなら受け入れる
でも不特定多数の人が県またいで行き来するのは危険なのである
それは地方の安全を脅かすのである
地方では田舎では感染者が極めて少ないから安全だと見る
確かにみんなマスクをしてる、でもしなくてもスーパーでもそれほどこまない
だから距離がとれる、デスタンスがとれる
それで私はマスクしなくても安全だとなり他の人もマスクしなくてもそれで何か言うこともない、店の人でもそうである、ただ一応マスクをするというだけである

感染病で歴史でも村の境に藁人形を置いたりしたのは他から伝染病をもった人を入れないようにするためである
だから境とか関所とかも今になると意味あるものとして再認識された
江戸時代にもどるような感覚になる
ただ人と物の流れをとめることはできない、なぜこんなに毎日車が通っているのか?
それを見ればわかる、物を運ぶことを止めることはできない
ただ人を入るのを抑えることはできる、特に観光とかなると不要不急とかなると止めた方がいいとなってしまう
歓楽街で遊ぶのも不要不急だからやめなとなる
その他病院でも患者が来なくなったという時もともとそれほど行く必要もないのに病院がサロンのようになっていて行っていたというからそれも不要不急だったのである

何か結局現代は交通過剰でありオーバーツーリズムでもあり何か限度を越していたのである、そんなに必要なものがあるのかともなっていた
なくてもすまされるものでも買っていた、それが見直されたということもある
だからその生活が実際はアブノーマルだからニューノーマルに移行するともなった
ただ不思議なのは時代が元にもどるというか後戻りするというかそういうことがあるのだと思った
江戸時代は沈黙と闇の世界である、交通は歩くことであり後は馬があるだけだった
そういう世界にもどるような感覚になる
すると内輪が近くが大事になり生活感覚も変わる、内輪での人間関係が昔の村のように濃密になる、狭い範囲で生きてゆくほかなくなる
すると近くにあるもので資源でも活かすほかなくなる
昔の自給自足的な生活に逆戻りするともなる、そこで人間が地域が見直されるかもしれない、そこでかえってまともな精神形成が成されるともなる

要するにミニマリストとかが見直されるというよりそうならざるをえない時代になる
もう世界から物が入ってこないしそれを買うだけの経済力も日本になくなる
そうしたら自前で食料でも材料でも供給するほかなくなる
それで外国貿易がなくなるということはない、今までの形ではない別な形での貿易になるそれが何かはわからないがそういうことに否が応でも強いられるということである
それがニューノーマルなのである

原発でも東京からもたらされた、大事故になりこの辺では住めなくなった
東京でなくても東北電力が小高に建設する予定があり工事がはじまるとき事故になって中止になった、だから必ずしも東京だけのせいにすることはできない
でも東北電力と東京電力では違いがあった
東京電力の電力が東京に送るものだった、それもどうして福島に作られたかというと東京の安全を第一にしてリスクをとらないためであり東京のエゴだったのである

でもつくづく人間にはカルマが返ってゆく、そうした東京の身勝手な行為がカルマとなって返ってゆく

東京の人は地方に来るな、福島に来るな!

これこそそのカルマだったともなる
もちろん地元でも金に目がくらんで原発を誘致したのだからカルマがあった
ただそのカルマの責任は故郷に住めないということで支払わされた
東京はそのカルマを支払っていないから今度支払うことを強いられたともなる
カルマは必ず苦しみとなって現れてその時自覚するのである
東京は今はそれを自覚させられているとなる
放射能がうつるからと福島の人を差別したときもそうだった
今度は東京の人は来るな、コロナウィルスがうつるというのがまさにカルマだったのである


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2020年07月06日

SBI証券が大東銀行の株を取得 (福島銀行と同じようになるのか)


SBI証券が大東銀行の株を取得

(福島銀行と同じようになるのか)

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週刊東洋経済7月11日の記事にこれが出ていた
これは予測されたことだったかもしれない、福島銀行がSBIの笠下に入ったからである
SBI福島銀行となり福島銀行の支店がSBIとなれば証券には詳しいのだから当然SBIの証券を売りやすくなる

そもそも今地銀がしていることは証券会社と同じようになっている
そのことを私自身が大東の営業の人がきて金融商品を外国の国債とかUS-REITとかJ-REIT
などを買った経過などを報告した
何か今地銀は証券会社と変わりないのである
様々な証券を売って手数料を稼ぐことだからである
その収入が意外と大きいのである、なぜなら手数料が3パーセントということは額が大きくなると大きな収入になるし確実にもうけになる
そして地銀では絶対に損しないいい商売なのである
みずから投資すれば株を買っても損があるが客に買わせれば別に損することはないからである、損したとしても

客が悪いのであり銀行が悪いとはならない

なぜなら様々な状況で株が上がったり下がったりするからそれは銀行のせいではないとなる
でもどうしても地銀を通して営業するからその営業する人を信頼できなくなる

つまり証券とか株を知らないのだから営業の人に頼る、ところが営業の人が客にもうけさせることを考えているわけではない
また適切なアドバイスをしてくれるとは限らないからだ

結局株でも証券でも自己責任になる

地銀では一切損しないし手数料だけはもらう

だからこの商売は銀行にとってはいいものなのである

それでリーマンショックの時買っていた株が元に戻したで上がりつつあったとき売った
それ以来不信になった、J-reitにその金を回したからだ
その時分散投資と言っていたがそれを守らなかった
ただ株でも証券でも金融商品は売ったり買ったりして手数料が入るのが商売になる
その手数料が高いと客では困るのである

それで奇妙なのはこういう経過がありJ-reitを地銀の営業の人を信用できなくなり一月に売った、何か人が介在するとその人が問題になる
実際は責任は客が負うのだが地銀でもかかわればそこに責任があるとも見てしまうのである、それはもともと銀行は信用できるものとしてあったから今までの見方ではそうなっていたのである、それでゆうちょでも地銀でも経営が苦しくなって保険でも人をだますようなものまで売るようになって問題になった
また収益が得られないからアメリカのCLOとかの危ない金融商品を大量に買っている
それが失敗すると大損になる、農林中金が一番危ないとしているからだ

ただ今回のコロナウィルス騒動で地銀でも積極的に融資しているという、銀行はバブルの時期にあこぎなことをしていた、それで評判を落とした
今回は政府でも支援するから融資しているという、でもそれが不良債権になることを心配している

いづれにしろ地銀のしていることは証券会社と変わりなくなっていた
それならSBI証券の笠下に入り指導された方が証券でも売り安いとなる
なぜなら手数料が安くなるからである、そして証券の専門だから地銀より詳しいからである、地銀はそもそも支店長すら証券のことは知らないと言っていたこからである
それでどうして経営できるのかとなっていたのである

ただ何か銀行でも預金封鎖があるとか財産税があるとか貯金するなとかいろいろ言うので心配になる、それだけ日本の経済が逼迫しているからそうなる
でも何か方法があるのかとなるとなかなかないのである
それで金と銀の投資熱が高まる、それはなぜだろうとなると単純に考えれば紙幣はしょせん紙切れでしかない、金と銀は紙切れではない、貨幣でも紙きれではないから価値になるそもそも貨幣とは貨幣自体に小判のように価値があるものだった
だからそういう貨幣の原点にもどるのくかともみた

もともと金が一番貨幣として価値がありその金があってこそ担保になり銀行が生れた
でもとうして紙幣が生れたかとなるとその金自体を貨幣にするのではなく、金がただあるということでそれを信用にして金との交換証書を作る、それが紙幣になったといういきさつがある
だから金こそが一番貨幣としてふさわしいものだったのである
銀もそれとにているがこれはかなりの量になるから問題がある
でもこれも銀自体に価値があるから今人気になっている

とにかく大東銀行には貯金しているから不安になる、ただSBI証券と共同になることは予測されていた、第一実際今大東銀行のしていることは証券会社と同じになっているからだただ投資先が地元だといっても客からみれば証券会社と同じでありそれなら専門の証券会社の方がいいとなってしまうのである
結局もう地銀の役割は喪失していた、ただコロナウィルスで積極的に地元の会社に融資しているということで株が上がった、頼りにされる存在となった
でもそれでもうけがでない、不良債権化するとなるとさらに苦しくなる
だからSBI証券と共同するようになるというよりその笠下に入って当然だったとなる
それが金融庁が後押しするとなれば余計にそうなる
だからもうこれは避けられないとみる
ただ一面に大東銀行が出て来た記事には驚いたのである

posted by 天華 at 16:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

世界一孤独だが、健康で長生き…「日本人男性」という修行僧


世界一孤独だが、健康で長生き…「日本人男性」という修行僧


日本には「孤高」を美化する精神文化があります。孤独がストレスとなっていても、不規則な生活から飲み過ぎ、喫煙、運動不足、肥満などに陥ることもなく、そのストレスを少なからず改善させるほどに、日々の独り身の生活を前向きにとらえ、平穏な心身の状態で行動できている人が多くいるのではないでしょうか。

この記事で日本人が孤高を美化するという精神文化はうそだろう
日本人に言われるのは常に集団ですることき仕事でもなんでも効果を発する
個人になると弱い、一方中国でも個人主義であり個人になると強い、だから英雄が出るのは大陸国家である、アメリカでもトランプ大統領はマスクをしないというとき弱さを見せたくないからだという、日本だったらそんなこと言う人いないからである
日本はとにかく全体に同調して個で行動する人はほとんどいない、同調圧力が強いのである
だから孤高を美化するなどありえないと思う
そういう人は社会からはずれアウトサイダーになる、それをできるのは特殊な異常に個性が強い天才肌の人間だとなる、そういう人は日本人にはまれである

ただ退職したりすると会社とかの仲間もいないしどうしても孤立しやすくなる
地域などでも今はなく受け入れることができない、ボランティアでもそうだがかえって
そういう人は迷惑にされる、それで正論おじさんとか議員をやめた人が何か川をかってにして迷惑だとか訴えられたりする
つまり今は一旦会社でも退職すると用のない人間にされる
それで住宅の隣で何かわめいていて奇怪な行動をしている80くらいの老人に悩まされている人がいる
なんらかこうして迷惑老人になりやすい、現代は老人の居場所がないのである

ボランティアも簡単にできない、ボランティアも権力をもたないとできない
それは自分自身がたまたま無人駅でボランティアのまねごとをしたら駅長やら客からも拒否されたからである、勝手なことをするな、迷惑だとかしかならない
それがある程度役に立っていてもそうだった
誰も認めないから今度は怪しい人だと警察に通報されて職務質問されただけである
でももしNPOとかとして認められて権力をもてばそういうことはないのである
だから個人的にはボランティアをすることは不可能なのである
そして個人的なボランティアには何の保証もないとか言うのもそうである
こういうことが事件化したのが正論おじさんとか退職した議員が川を勝手に掃除したのかなにかで問題になった
奇妙なことは行政の許可なくしたことでそうなった
つまり議員であっても退職したら権力を失うのだからそうなる
つまりボランティアでも何らか権力がないとできないのである
だから退職してボランティアすることは簡単にできない、そして高齢化社会では無用な老人が膨大に増えるのである、そして変な老人として社会では問題にされ排斥されるだけだとなる

「真面目に自分と向き合う」ことは「コツコツと努力する」ことでもあります。こうした性格が、実は最も長生きできる可能性のあることがわかったのです。2011年に米国で発表された、性格と寿命についての80年にわたる男女1.5千人余りの追跡調査研究で明らかにされました(フリードマンHS、マーティンLR、『長寿と性格 なぜ、あの人は長生きなのか』清流出版2012年)

これは本当である、その具体的例が私の母親だった、まず暇なく家事でも何でもこまめに動き働いていたのである
それも93才とかまで家事をしていた、若い時から暇なく働いていた
働き詰めの人生だった、それがすべていいものではなかった、花にも何にも興味もない働き蟻の一生だった、それも本当にそうなると人間も異常化していたのである
ただそうして94までも家事をして用事があり働いていた結果認知症にもならなかった
ただ95以上になり認知症になったことはやむをえないことである
ただ長生きしたということはそういうふうな性格がありまた何より家でする仕事があったからである
嫁にお母さんは何にもしないでいいですよ、ゆっくりテレビでも見ていてくださいと言われる姑は認知症になるというのもわかる
つまり何の用事もなくなるから張り合いもなく脳までボケて来るから怖いのである
そして本当に何か変な恰好してわけのわからないことをわめいている老人のようになる
その人には用事がないからそうなるのである、何の用もない人になりそうなる

だから人生百年時代は何か退職してもその後が長いのだから何か社会にとっても用ある役に立つ人間になることが大事になる、でもそれを見出すことは相当に今はむずかしいのである、芸術家になれととかいっても簡単になれないだろう
では社会に役立つといっても簡単に受け入れられないのである
つまり会社という組織があって権力をもっているとき社会に役立つとなるからだ
それで不思議なのは近くの自転車屋である
病気でありそれも悪い病気でも5年より以上長く仕事をつづけている
今は一軒しか町にないから忙しいのである
また一軒しかないとなれば町にとって困る、隣の市に行ったらお前は来るなと言われたからだ、なにかそういうせこいのが田舎なのである
他の人も言われたからである、ただそこの自転車屋はそういうことはいわない
他で買った自転車の修理もしているのである、なにか商売できる人だからこの辺ではめずらしいとなる

ただなぜそんなに病気でも仕事できるのか? 

それが謎なのだがやはりそれが生きがいとなり周りの人からも仕事してくれという要求がある、そのために死なないともなっているのかもしれない、ボランティアだとそういうことはない、もしそれが周りの人からの要求がありそれを満たしていればいらないとはならないからだ、でも現実に会社を退職したらそういう仕事につくことは相当にむずかしい
なぜなら自転車屋でも長年仕事しているからできる、技術的にもできる
だから簡単に何でも仕事ができるとはならない、自分にしてもこうしてプログで書けるのはやはりそれなりの知識の積み重ねと経験があってできることである
まず退職して一から新しいことを始めることは容易なことではないからだ
だから人生百年時代は金でもそうだがこうして何をするかということでも問題になる
それに備えられる人はまれだともなり無用老人となり迷惑老人になる人の方が多くなるのである、孤高に生きる老人はまれだろう、孤立して無用老人になる方が圧倒的に多いのである
だからこの記事は何かおかしいと思って読んだ、ただいちいち記事の解説でもこうしてすぐにコメントしたりできるのはインタ−ネットでできたことである
新聞の記事の解説でもいちいちすぐに答えることなどできなかったからである
そこが言論でもインタ−ネットで変わったことである

ただ同感することは「修行僧」のようになりやすくなる、なぜならあまりそもそも人と接する必要がなくなるからだ、会社に勤めて入たらそうはならない、会社を退職すると接触するのは妻とかしかなくなる、それで妻の後をついてゆくだけでありそれで妻からも迷惑がられているのが現状だからである
一方で会社勤めしていないから孤独にもなり人とも付き合わないとなるとそこで誰とも話さないとなり「沈黙」していられる、普通は会社などではできないからだ
自分自身は引きこもりで30年間とかそうしてきたからそれが自分にとっては普通だったからただ延長しているだけだとなる
でも退職した人はそうして環境ががらりと変わるから戸惑うとなるのである
ただ人間関係のわずらわしさがなくなり妻がいれば別にそんなに人と付き合う必要もないそれほど孤独も感じないのである、ただ一人だけになると感じる
だから今は自分も一人でありしかたないから一人の女性とは話したりしている
あとは自分自身が「修行僧」なのである、それは前からそうだったから違和感がないとなっているのだ、でも急激な環境の変化に退職すると戸惑うことは確かである

2020年07月05日

ヨ−ロッパや中国の精神形成の歴史 (城壁の内と外)

                                              
ヨ−ロッパや中国の精神形成の歴史

(城壁の内と外)

城壁の上をふみしめ歩みつつ城市に住む心知るべし

大陸というとき、まずその地形を知るべきである、そこはどこまでも平坦な地形がつづくさえぎるものがない、そういう地形に生きることは日本の様な山国に生きるのとは根本的に違ってくる
その感覚を知ることはやはりその土地とその場所と城壁を知ることである
それで長安の城壁の上を歩いた、その幅広いし重厚の城壁である
そこに門があり門の外と内とがあり外に住めば無防備になるから危険である
外的がどこまでも平坦な土地からモンゴルの様に大挙攻めてくる
その地勢は前を遮るものがないからだ
だから城の内に逃げ込めば命が助かる、命が守られるとなる
それはヨ−ロッパの都市でも同じである、都市を城壁で囲む、その内に入れば敵が攻めてきても命が守られる、そうでないと命は守れない
するとその城壁内で城と一心同体になる

日本だったら城と町とは町民とは農民でも分離して生活している
敵が攻めてきても城の中に逃げる町民とか農民はいないのである
ここが大陸と日本の歴史を知る大きな相違である
それはなかなか頭の中で理解しにくい、それで旅でもいいからその土地を踏むことにより歴史を知ることができる
つまり血肉となった歴史を知ることができる、それでなんとか50代で世界旅行をしたから十分とはならなかったが知ったことは大きいことだった

中国とヨ−ロッパはやはり大陸であり似ているのだ、城壁があり塔があるというときそれは敵から守るためのものであり塔は敵の侵入から守るための見張りの塔である
だから中国でも塔が多いのである、それも堅固な塔でありそれが仏塔にも発展したのである、日本の塔は五重塔でも見張りの塔ではない、優雅な塔なのである
どこまでも平坦な大陸に住めば何かそうした高い塔が目印にもなる
つまり遠くから塔が見えればそこが目印となりその塔を目指して来る
ともかく大陸ではそうして城壁に囲まれていればそこで安全が保証されたとなる
それが国全体を城壁で囲むとなり万里の長城が生れた
ただ万里の長城はなぜ急峻な山の尾根のような所にあるのか?
そのような山を遊牧民が上って攻めてきたというのも理解しにくい所はあった
やはり山が防壁となりその上に城壁を作ったという歴史があったとなる

civilizationというときcivilは市民である、その市民というものが日本人にはないのである、それは城壁内で作られた共同意識のことである
その城壁内で命を守るための義務と責任のことだった
日本の共同意識は小さな4、5百人の村のことだった、非常に狭い地域の村が村意識が作られてそれが日本人の共同性を作ったとなる

日本の地形がとにかく山が多くて山でさえぎられている、山が障壁となる
山に閉ざされてしまうのである、国のまほろばとなると奈良の盆地のように山に囲まれた地域なのである
また日本の城が要害となる山に作られたのも地形を利用して敵から守るということに自然となったのである
人間の精神の形成もこうして地形が影響して地理が影響して作られてきたのである

何度も言うけど福島県は地形的に一体になれない、ハマ、ナカ、アイヅと別れていてそこで天候も地形も違っている
阿武隈山脈が高原があり中通りと浜通りはさえぎられて見えないのである
福島県はその地形のために不自然な県となっている
それは日本がの国土自体が山にさえぎられてそうなっているのだ
だからこういう国が一つの国となることはむずかしいことである
八百万の神がいたということは隣の村でさえ山でさえぎられて別な世界になりそこに別な神がいたともなる
だから大和王権が海から船で支配した統一したというのもわかる
とても陸地からだと山にさえぎられて道もないときその全体を統一することはむずかしかったからである

ともかく歴史でもその国土と密接に結びついて形成される、その地形とか地勢とか地理は変わらないからだ、阿武隈山脈が高原がなくなり向こう側は見えるようにはならないからだ、もちろん日本を囲む海は依然としてなくならないからである
中国でもヨ−ロッパでも川が大きな役割を果たした、ドイツのライン河は父なる河となっていることも理解しにくいのである
中国の文明でも黄河と長江が作ったというときもそうである
エジプト文明がナイルの賜物というときもそうである
川は水が流れているというだけではない、道ともなっていて結べものだったからである
エジプトの神殿が河岸に作られたのは港の機能があったともなるからだ

日本人が大局的なものの見方ができないというのも地形からそうなる
常に山にさえぎられて遠くが見えないのである、大陸だったらどこまでも平坦な大地があり遠くが見える、ということは当然大局的な見方ができるとなる
大局的に見て戦略をたてる、日本だと戦術になる、その場その場での臨機応変な対応となる、大陸だと時間的にも空間的にも長期的であり空間でも広い範囲に生きる
だから中国の一帯一路に批判があっても中国自体が大きく一帯一路として見るからそうなる、日本ではそんな遠大な計画ができない、大東亜戦争でもそうした巨大な大陸に攻め入ってもとてもその広大さがわからずに大陸に中国に飲み込まれてしまったのである

ともかくまず世界を知るにはその地理を地形をしることである
でもそれが広すぎて知りえないのである、常にいるのは狭い日本でありそこから世界を見るから理解できない、そこに誤解も生れて来る
中国とかアメリカがどれだけ広い国がとても実感できない、そこで島国根性になり無謀な戦争になったりした、日本は海に囲まれでまた孤立しやすい風土だからである


長安春望<盧綸> 

東風雨を吹いて 青山を過ぐ
却って千門を望めば 草色閑なり
家は夢中に在って 何れの日か到らん
春は江上に來りて 幾人か還る
川原繚繞す 浮雲の外
宮闕參差たり 落照の間
誰か念わん儒と爲りて 世難に逢い
獨り衰鬢を將て 秦關に客たらんとは 


千門があり河がありそこは外界とつなぐ道でもある
いろいろ人生を経て長安の城壁内に老いたということである
その城壁内が安住の地だったとなる

長安の城壁

これだけ広いのである


2020年07月04日

投資は一貫性とルールが必要? (リスクが多く素人はついていけない金融世界)


投資は一貫性とルールが必要?

(リスクが多く素人はついていけない金融世界)


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J-REIT

jreitcc1.jpg

私は一月に売ったから損しなかった
トータルでは損しなかった


私は全く投資など素人であり知らない、ただ貯金していてもしょうがないから利子もつかないから投資したのである
だから銀行員の営業の人にまかせた、また自分にはそこにかかわる時間がないからそうなった
でも何だかわかないけど最初は分散投資すればいいと言ったしそうれはいいのかと素人でも納得した

それでカナダの国債が石油がとれるのでいいとして買った、だか石油の値段が下がり急激に評価が落ちて大損するところだった、実際は損した
ただUS-REITはトランプ大統領になったとき円安になり上がったもうけた

そして一番の失敗はリーマンショックのとき半分になった株が元にもどりあがっているとき営業の人がJ=REITにその株を売って回した
そのまま持っていれば株は上がっていたのである

それ以来営業の人を信用できなくなった                            

それでJリートを一月に売ってくれと言って売った
そしたらコロナショックで急激にJリートが下がったのである
これには助かったと思った
だからトータルでは損はしていなかった

ところが今度は営業の人が株が上がってきたからチャートを見せて買いと言われた
そしたら株が今度は上がってきたのである
こんなコロナウィルス騒動の中に株だけは上がっているのも理解できないのである
でもこれまでの経過でその営業の人が信頼できなくなり断った
なんかこのようにいろいろあってめんどうになったしリスクがありすぎる世界だと思うようになったからだ

結局この経過をみると何かここには投資のルールも一貫性もないのである
分散投資はルールにしてもそれなかった、ゆきあたりばったりで買わせているだけなのかとも見た
なぜそうなるのかとなるととにかく営業している人にはノルマがあり売ったり買ったりさせるのがいいからだともなる
営業の人が何か金融商品を買わせればその時手数料が大きいのである
だからいろいろな商品を買わせるしまた転売もさせる

でも分散投資がルールとなれば悪いということにはならないのである
でもこんなにリスクをる世界が投資だとすると普通の人は簡単にできない
そして最近もってきたのが外国のアメリカの保険だったのである、これも為替の影響が大きいとかなり批判的であり金融庁でも警告していた
だからこうしていろいろな金融商品をもってきても普通の人は素人は理解することがもうできないのだ

ただ常にリスクの恐怖だけがある!

ここにルールも一貫性もないのである、では貯金が安心なのか?
その貯金が今一番安心がないという、インフレになるとか預金封鎖とか財産税がとられて一番危険だとかいう、また国債も安全資産だと思ったらそれも一番危ないとしている
ゴールドを買いとか銀を買えとも言う
つまり紙幣は紙きれになり実物資産が価値がある、不動産も価値がある
でもその実物資産にしても食料を備蓄しろといっても限度がある
だから安全資産はない、方法がないというのが現実なのかとなる

ただ銀行とか証券会社の人に頼むにも頼めないのである
なぜならその人たちは自社の利益優先であり客の損になるものでも銀行が利益になればいいとなるからだ

一体こういう世界は何か誰も信用できない!

普通は何か物を買うにしても製品を買うにしてもその製品がいいとか壊れないとか信頼して買う、日本製品はそれでせれで世界から信用されて高度成長時代を築いたのである
何かリスクがあってその製品の価値がなくなるということはないのである
電器製品でも車でもカメラでも何でもその価値はリスクに作用されない
それより今の住宅は地震に強くなったとか価値がリスクに強くなり高くなっているのだ
だからこれほどリスクに左右される世界についていけないともなる

ただ思わぬリスクはコロナウィルスのようにあるからそれをさけることができない
津浪や洪水や原発事故や何かとリスクはある
でもこうしてめまぐるしいリスクに左右され翻弄される金融市場についていけない
ただ不安と不信と心配ばかりの世界であり精神不安を増大させるだけである

リスクというとき農業には天候に左右されるからリスクがある、何かしらリスクがある
だからリスクのない世界はないともなる
でも金融の世界は天候のようにやむをえないものでなくて人為的に作られたリスクにもなる
株価なども人為的に操作されている、グローバル株式市場は世界をの博打場だというときもそうである
株の上げ下げを操作して莫大な利益をあげている一部の国際金融資本家がいるとしてしいるからだ、そこに莫大な富が集中するシステムである

それでそもそもそういうグロ−バル経済の金融資本主義社会がそうしたリスクを作り出すのであり真面目にこつこつと働いて技術でも改良に改善をつづけているのだから景気が悪くなったり株が上がったり下がったりはしないという人もいる
つまりそうした場は偽りの場であるとみられる
そして陰謀論になって終わるのはそこは巨大すぎてそれを知ることもできないからである

ともかくもうこうした世界市場化しているグロ−バル資本主義経済はつづかない
偽りの経済であり真面目に改良改善と働いている人たちが馬鹿見る世界でもある
富を得るべき人でない人に回って行く世界である
だからやがてそうした金融の世界を信じなくなる
そういうことにかかわる人も信用できなくなる
銀行でも信じられなくなる、そして金すら紙幣すら信用できないとなりインフレになり
紙くず同然になる、そうしてグロ−バル経済は崩壊する
資本主義も終わりとなる、その次は何なのか?
それがこれから模索される、その前に大きく激変するときコロナウィルスとかがあり
その前に津波があり原発事故があった
そういう激動があり次の時代に変わる 



posted by 天華 at 17:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

コロナウィルスがグロ−バル経済をとめる (森林破壊の歴史があり黒死病で森が回復した)


コロナウィルスがグロ−バル経済をとめる

(森林破壊の歴史があり黒死病で森が回復した)

中世ヨーロッパも人口増加で森林減少で崩壊の危機に。でも、黒死病の登場で人口が急減。そして森が増えたんだそうです。古今東西、人口爆発、農地拡大によって森が無くなっていきま

 きこりのホームページ


これも不思議である、コロナウィルスでも一時空気がきれいになり水がきれいになったとかある
人間の活動が停滞すると自然が回復する、また人口が増えることはそれだけエネルギーが必要になるから燃料としたりする木が必要になる
森が消失していった原因は人間の活動と人口が増大したためである
そもそもレバノン杉が船を作るために喪失していった
そんなに船に木材が必要なのか?そんなに船を作ったのかとなる
これも人間の活動が増大して貿易でも増大したからである
それは現代のグロ−バル経済と同じである,世界的に貿易が増えればそれと同時に森林も目次材需要が高まり森の木が切られる

なぜエジプトとかヨ−ロッパとかで石の建築物が多いのか?

それはもともとそうした建築物は木材で作られていた、ストーンヘンジでももともと木材で作られていたという、というのはイギリスでも森に覆われていたからである
木材がふんだんにあったのである
エジプトのようなサバクノうな乾燥地帯でももともと森があって木材で神殿でも作られていたのである

そしてペストで黒死病でヨ−ロッパで三分の一が死んだというとき森が回復したというのも不思議である、それは一時的でも自然の力が回復して空気でも水でもきれいになって
ベネチアでも魚が見られたとかなる
だからこのコロナウィルスは世界的に経済を停滞させる、活動とめる不思議なのである
それは神意なのかとまでなってしまう
グロ−バル経済は世界的に人間の活動を無限に増大させる、資本主義というのも常に新たな投資する場所を求めるシステムである
金が金を産む、そうして世界を発展させてきたシステムである
でもそれもコロナウィルスで止められ停滞させられて交通もままならないともなった

このままグロ−バル経済を進興させれば森でも破壊され環境も汚染されるままになりアマゾンの森さえ消失してゆくとかの危機になっていた
それは中世にも人口増加でヨ−ロッパで森林が消失していた
それがペストの流行で三分の一に人口がへり森が回復したというのも不思議である
それと同時に富裕層が貴族が没落して庶民が土地を所有するようになり豊かになったということもある、その社会の変化は大きなものだったのである

このコロナウィルスは明らかにグロ−バル経済を停滞させる、止める働きがある
このサイトは文明の発展は森林破壊の歴史だとして説明している
黄河文明は今は土だけの世界になっている、人はヤオトンとか土の穴に住んでいる
でもあそこももともと森林でおおわれていたのである
それは文明が発達したところは森林がありその木材を利用して森林が喪失した
メソポタミアでもエジプトでもそうである、森林がありその木材を利用して建築物がありその木材がなくなり森林が喪失して石の建築物になった
第一石を加工するとなると木を加工するよう高度な技術が必要だからである

また森林は鉄器の発明によってもその木材で炭を作り鉄を作りだしたので喪失していったつまり今砂漠になっている所でももともとは森林が豊富な場所だったのである
鉄器が生れたということは木材を切り加工するのに有利である
斧で木を切れるからである、でも森を破壊するスピードも速くなったのである
だから中国でもそうだけどとにかく禿山が世界では多すぎるのである
韓国でも中国でも山に森がない、禿山である
日本だけは山も森に覆われているのである

いづれにしろコロナウィルスはグロ−バル経済とか世界的に人間の活動をとめる働きがあった、まずこんなことをできるのは人間の力では無理である
そして新宿の歓楽街が危険だとされる、そこに水商売で働く人たちが一万人いるという
その活動をとめろという、またそこから増えてきたからである
確かに差別的になるかもしれんがやはりそうした欲望の活動も止めたともなる
そういうものは不要不急だともなるからだ
ただそういう人たちを差別したりするのではない、そういう場所にやむなく追われる社会の状況があるからだ、それでそういう場所はなくなることはないのである
ただエイズの時も性の乱れだとか批判があったのである

ともかくコロナウィルスは世界の時代の転換をもたらしたともなる
それは簡単に元にもどらないというときそうなる
それに適した生活にする他に対処方法がないのである
つまり中世的世界への回帰、江戸時代への回帰ともなる
そして人間は内面的世界を志向する時代となる
グロ−バル経済は縮小をよぎなくされる、それはもう限界にきていたのである
このままつづけば環境破壊も止められない、危機的状態になっていた
それと同時に資本主義の限界もきていたのである
だから大幅にそうしたシステムも見直される、世界市場とか世界の株式市場化とかそういうものも見直される、そういうものこそ何か環境面からすると元凶だとも見えてしまうからである
つまりこれまでの手法が大幅に変更させられる、確かにそこで不況になるとか恐慌になるとか一時的にはなる、そこに新しい時代の産みの苦しみが起きる
でもそれは新しいニューノーマルへの産みの苦しみなのかともみる

つまり資本主義の終わりとかも良く言われるようになっている
コロナウィルスで新しい時代の模索が始まる、それほどの変化をコロナウィルスがもたらすとするとまさに神意なのかとまでなる
そんなこと簡単に人間にはできない、コロナウィルスも自然の作用でありこれ以上グロ−バル経済をつづけるなとかの警告だったともなる
もしそういこたとがなかったら世界はますます環境破壊がすすみもう原発事故でこの辺が住めなくなるような状態にもなっていた
原発でももし事故が起きなかったら日本中に原発が増えて日本自体また事故があったら滅びるとまでなっていた、それに事故で歯止がかかったのである
これも神意だったのかともなる 

紹介したサイトは一冊の本のように説明しているから参考になる



posted by 天華 at 01:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2020年07月03日

地方ではコロナウィルスで東京から来るなになった (ノーマルからアブノーマルへまたニューノーマルと変わる)


地方ではコロナウィルスで東京から来るなになった

(ノーマルからアブノーマルへまたニューノーマルと変わる)


その人は糖尿病である、だから孫が神戸にいて働いていてお盆に来るというとき来るなと強く断ったという、その人は東邦銀行の人だった
なぜ東邦銀行の人が神戸で働いているのかその辺の事情はわからない
ともかくお盆でも東京から来るなという人が多い
それだけ田舎でぱ地方では東京から来る人を警戒している
福島市で最近感染した人も東京と関係してなった
最初私の住んでいるすぐ近くで感染した人も東京のライブハウスに行って感染した
最新ではまた一人仙台市で感染した

このコロナウィルスは交通と地理と深く関係している
大都市中心に人口が密集した地帯から広がる、だから大阪の隣の神戸は危険だとして来るなとなった
なぜなら東京でまた100人越えたように潜在的に感染している人が相当数いるからだ
ただ検査しないからわからないだけなのである

一時茨城県から感染者が出ないとみていたらすぐにやっぱり出た
東京圏内だから必ず出ると見ていたからだ
そして東京を抑えなければこれは地方でも抑えられない
なぜなら東京とのヒト、モノの交流が抑えることができないからだ
そういう時代に生きてきたしそうういシステムの中で生きている
ただ本当に不思議なのはITとか通信は人と接しないからテレワークができる
それでますますITが重要になるという
それでも人との交流、物流をとめることはできない
だから交通関係の被害は大きいものとなった
せっかく3月に開通したスーパーヒタチでも人が乗っているのがわずかだからもったいないとなる、それは東京との交通が主なものとしてあるから困る

江戸時代のコレラの感染のことを前に書いた
会津若松を中心にして広がった、東は白河街道があり西は新潟県が北前船とかが入ってきて阿賀野川の交通があり会津若松に人、物が入り広がった
そして田島の方には田島からではなく会津若松から広がったのである
それは東京中心にして拡散するのとにているのだ
それで感染者を出さなかったのは桧枝岐(ひのえまた)だった
ここは交通も閉ざされた地域であり米を食べないで蕎麦が主食でありイモリなど燻製にして食べていた、だから地理的に隔離して交通もなかったから感染しなかった
つまりウィルスは密接に地理と交通と関係しているのである

だから東京の人は地方に田舎に来るな帰るな!
                                        ・       
入らせないために関所を作れ!

こうなるのもまるで江戸時代に還れということにもなる
関所など前時代の不便なものでありグロ−バル化した結果、国境すらないとか世界がなって人、物が交流したのである
それがもう極限に達していたのである、それが急激にコロナウィルスによって否定された国境も関所すら必要なものになったのである
それもかなり厳しく入国制限をするような状態になった

だからコロナウィルスが世界を変えてしまうことの驚きがある
グロ−バル経済すらとめるようになったことの驚きがある
人間の生活は本来どうあるべきかも問われている
そんな外国と人でも物でも自由に行き来する、それはいいこととして推進された
でもそこにすでに弊害が生れていたのである、観光にしてもオーバーツーリズムになり
限界になっていた、それがぱったり止まったという驚きである
今や京都でも閑散としているかえって今ならゆっくり観光できるともなる

いづれにしろ東京を封じ込めろとなってもそれはできない
一千万の人間を東京に閉じ込めることはできない、ただこれもなんらかのカルマだったのかともなる
福島の原発事故のカルマとして東京にこうした災いが生れたのかもしれない
またそもそも東京の様な大都会は不自然でありその不自然さがコロナウィルスに弱かった東京では密集せずに生活できないからである、必ず人と接触するし接触しないて生活できないからである
そして新宿で水商売の人たちからまた感染者が増えたというときもそうである
一万人くらいそういう場所で働いているという、それだけのボリュームがあると感染は防げない、そういう場所も本当は異常だったのかともなる
ただそういう歓楽街は江戸時代でも吉原とかあり人間の欲があるかぎり消えない
でもコロナウィルスでそれも危機にたたされる
自粛が解除されてもそれでまた増える、それは実際予想されたことである
では両立が可能なのかとなるとまたむずかしいのである

とにかくニューノーマルの生活形態に変化するほかないのだろう
不思議なのはこうなるとみんながデスタンスをとり座禅して沈黙する寺に籠る僧のようにもなる、しゃべると飛沫が飛び感染するからである

距離をとれ、デスタンスをとれ、マスクをしろ、大声でしゃべるなとかなると

それが禅僧のようになる生活だともなる、まさに修行僧と同じになる
でもそれもまた新しい時代のニューノーマルなのかとなる
何かこれまでの生活を見直す、これまでの生活が実際はノーマルにみえてもアブノーマルだったのかもしれない、それをコロナウィルスによって気づかされて変えたとともなる
私自身は奇妙なだけど30年間引きこもりであり禅僧のような生活をしていた
人とは接せず沈黙してしゃべることもしないで暮らしていたのである
だから変なのだけどこういう生活は向いているのである
今でも一人くらいとは接しても人と接していない、そうして誰とも接することなく通信でプログを文章を書いている、テレワークなのである
だからこういう生活に違和感がないともなる

何か時代というのは不思議である、高度成長時代があっても自分には会社勤めもしていないしバブルの狂乱も地方では関係なかった、その時株もしていないから関係しなかった
その時自分はアブノーマルな人間だったのである
そして私自身は内面の追求をしてきた、宗教とか哲学とか芸術を内面的なものを追及してきたとなる
それがまたAIで仕事がなくなりみんなアーティストになれということを言う人がいる
高度成長時代は企業戦士であり会社のために闇雲に働いているのがノーマルだったのである
だから時代が変わるとノーマルがアブノーマルになりまたニューノーマルが志向される
このように人間の社会は常に変わってきたのである




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2020年07月02日

梅雨籠り(梅雨から梅雨晴れの日)


梅雨籠り(梅雨から梅雨晴れの日)

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都草スーパーヒタチ来るかな

老鶯の家近く鳴き籠るかな

夏の日や日影に休み昼の月

煩いなく木陰に石の二つかな  


草深く雨しととふり梅雨籠る老鶯の鳴く声今日も聞くかな

草深く老鶯鳴きて雨しとと今日もこの道我が行けるかな  

長々と日影の道の涼しかな我が親しみし通ふ道かな

そちこちにでで虫道をさえぎりて田舎の道を今日も行くかな

この道の人も通らず池映る紫陽花のみそここに静まる   
                          

梅雨籠るという季語があった、これは使ったことがなかった、季語は多いからみんな使えないのである、梅雨の季語でも十くらいある、それだけ日本人は季節の変化に敏感なのである

老鶯というとき何か自分の俳号にしていた、というのは草深い田舎に住んでいるからである、草深いというとき隣の原町とか相馬市はそうはならないのである
一万くらいの町だと草深いともなる

日影に休んでいたら昼の月がでていた、何かこれが自分の生活だった
仕事もしないでどこかぶらぶしていた、そして家に帰れば食事が用意されていた
今違うのは食事の用意が大変なのである、家事も一人だから追われるのである
その間にプログを書くと毎日が何か追われる生活なのである
それは介護になってからもそうであり終わってもやはりつづいている
でも多少余裕があり日影に休んでいると昼の月がでていたのである

川子の道は人が通らない、というよりは今はどこでも人は歩くのを見ないのである
ただ車だけは実際は通っている、どんな辺鄙な場所でも通っている
でも車だと人が通っているという感覚になれないのである
車は人と接触しない、ただ通り過ぎて行くだけだからである
何か車というのは常に遠くに行く、心も常に遠くに行くという感覚になっている
それで近くにあるものを人でも風景でも見ないということがある

今日は農家がありその向かい側の池に紫陽花が写っていた
それを見る人は誰もいない、農家でも人影もみない、何かそれでかえって紫陽花が水に深く映っていた、それを見ていたのは自分だけだったとなる
田舎の道をさえぎるのはでで虫である
この辺が都会とはあまりにも違っているのである

これからまだ梅雨がつづくのか、今日は梅雨の晴れ間なのか、梅雨が今年は明けるのが早いともいうがどうなるのか、梅雨籠りの日がつづいたこの頃であった




人生百年時代の高齢化社会の暗黒 (社会に無用化された変な老人が増えるのと死ぬまで働かされる老人)


人生百年時代の高齢化社会の暗黒

(社会に無用化された変な老人が増えるのと死ぬまで働かされる老人)


その女性は来るたびにとなりに変な老人がいることを愚痴る
何か異様な恰好して笑ったり何か言うと警察を呼んだりする
そこに何か異常性を感じる、80近い年齢だろう
そして大声でわめいているときがあるという
それが狭いこの辺では住宅だから余計に気になり苦しんでいる
それで騒音でアパートで殺人まであった

何か現代は高齢化社会なのだから老人が社会で問題になる
それは経済的にもそうだしそれだけではない、老後が長くなったせいなのである
それで50歳で一区切りでそれから50年が第二の人生だという人もいる
それだけ人生が長くなるとそれに備える人は経済的にもまたそれだけではない
その長い時間を費やすものがないと変な老人になる

そういう老人は回りで相当に増えているだろう
前は正論じいさんとかがいた、法律関係の仕事をしていて法律をたてに文句を言っていたのである、他にも何か町会議員なのかやめた人が勝手に川の掃除したのかなにか市の許可なくして川を勝手に変えたことでも問題になったとかいろいろある
それは本当に一部であり社会全体では増えていることは間違えない
この人も市町村の議員なのだから議員だったらいうことを聞く人もいたのかもしれない
でも議員でなくなったらただの人となっていたから通用しない
つまり権力をもたないと実社会では何もできないともなる
だから民主主義では一人では何もできない、10人でも100人でも集めれば政治でも動くのである
だからカルト教団でも人を集めるために票するために活動している
NPOで10人集めないとできない、認められないのである
ボランティアをするのにも権力が必要であり善意だけではできないのである
議員という権力を失って何もできなくなったとも言えるのかもしれない
ただその事情はわからないがそういうことはありえる

なぜそうなるのか?

それは老後が長くなってもすることがない、会社を退職するとすることがなくなる
地域でもそうした老人を受け入れることもない、また若い人が老人に頼ったり尊敬したりもしない、ただ若い人が税金を払って生かしている邪魔者、ごくつぶし、無用のものと見ている、だから早く死んでくれという気持ちになっている
そういうふうに老人に対する風当りが強いのである
それは口に出さないにしてもそういう気持はいつか現実に出て来る
日頃からそう思っているのだからそうした念が必ず表に現れる

例えばボランティアでも自分が駅でたまたま無人駅化したので案内などしていた
そしたらそんなことするな、必要ないと地元の女性がどなりつけてきたのである
でもその時、風で遅れたから案内していた                        

でも結局無人駅のボランティアで経験したことは余計なことをするな!

これはJRからも駅長からも常にとがめられた、でも自分のしたことは多少は駅の改善になったのである、でも誰も認めるものはいなかった
それで今度はあいつは怪しい奴だと警察に地元の人が通報したのである
それでみんなの前で職務質問された、ただそれだけだったのである

だからいかにボランティアというのは個人的にはできない、前の正論おじさんでもそうだし議員をやめた人も個人で勝手に許可なくしたから問題になったのである
別にNPOのように集団化してやればそういうことはなかった
何か現代の社会は個人で何かすることを認めないのである
集団化すれば数を集めれば認める、民主主義は多数決だからである
多数がすべてなのである、集団化すれば容認される、宗教でもそうである
何百万人いるんだということで誰も何も言わなくなる、ただ恐怖になるだけである
それがいい悪いなど関係ないのである
そうしてナチスのようにファシズムになるのが現代なのである

とにかく老後が長いという時会社を退職してでは何か地域のために尽くすとかなにか役にたつことをしようとしてもできない、そういうコミニュティもなくなっているからだ
昔だったら村の長老としてその経験と知識で尊重されていた
でも今はかえって機械頼りの社会になる時、若い人に教えてもらう方にてっているからだまた知識が膨大になり教えることも不可能である、それでむしろインタ−ネットで知識を得るという社会になっている

つまり老人の出番がない!

また一方で老人が金がなくて70までも働かざる得なくなっているのも現実である
それで老人がケガする人が増えている、それで老人にとって過酷な社会だともなる
悠々自適の生活などしている老人は少ないのである
人間は金も必要だが生きがいも必要である、人間は死ぬまで仕事を持つべきなのである
それで90過ぎても医者で現役でそのまま一週間くらいで死んだ
そういう人はいい死に方だったとなる

ともかく変な老人が増えるという時これからますます増える、そういう老人を受け入れる社会ではなくなったからである
だからやたら何の役にもたたない老人がいるなと邪魔者扱いしかないのである
でも社会のために地域のために何か役たとうとしても拒否される
犯罪者扱いにされるのである
それが現代の社会であり老人にとっては高齢化社会でも過酷な現実が待っている

その老人は確かに特殊な異様なものであり肯定はできないし同情はできない、ただそういう老人が増えてくることは確かなのである、それが高齢化社会の暗黒面なのである

金のない老人は死ぬまで働け!

暇な老人は社会に用はない、早く邪魔だから死んでくれ!

これが高齢化社会の過酷な現実なのである、そのことは今の40代以上、氷河期世代になるとさらに過酷になる、年金ももらえない、生活保護も雀の涙くらいしかもらえない
現実生活保護は今は厳しい、5千円しかもらっていなとか現実にある
医療費もただではない、わずかでも年金もらうとそうなるのである
つまり老人はもう死んでくれとなっているのだ、それだけの国に余裕はないのである
ますますそれは日本が衰退してそうなる
もし日本が経済的に余裕があればそうはならないけど日本は衰退するばかりであり三等国になり貧困化しているからだ
何か貧困層ではもう十円二十円を節約する戦後まもなくの貧困にも戻っているからだ

人生百年時代は暗黒である

そのことがこれから現実化して表面化してくる、その兆候として変な老人とか死ぬまで働かねばならない老人とか毎日の食もままならない老人が現実に増えている
その対策を日本の経済自体がここ20年賃金があがらないとかで衰退しているのだから何もできないとなる、政府はもう増えるばかりの老人は見捨てる

(社会の負担となり圧迫するから問題)

abstract mountain


abstract mountains


Why I can make a lot of abstract paintings

rough mountain1.jpg

onetreerock1.jpg

この木があると著作権違反になるかもしれない

なぜならこれだか目立つからである

This tree could be a copyright violation

Because this is noticeable

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ketugo111.jpg
強固に結合された岩

firmly combined rocks

waterfallhigh1.jpg

forestshiberia111.jpg

catedoraru111.jpg


私が原画を基に作りだしている抽象画が不思議になる
山の抽象画とかなると何か地球を変形している感じになる
地球の形を変えている感覚になる
地球を改造しているか感じになる

ただもともとの絵や写真は私のものではない
だから一部著作権違反にもなる

でも明らかにそこに自分自身の創作がある
それはパソコンのソフトであれやはり第二次創作でも創作だとも見る
完全に著作権違反と思う
音楽だったら編曲となる、それで問題になったことはある

ただ私の抽象画がこれだけ大量にできるのはパソコンのソフトで機械的にしているからである、何か自分自身でイメージしたものではない
だからこそ大量に作れるとなる


The abstract painting that I create based on the original picture is a mystery
When it comes to mountain abstraction, it feels like the Earth is deformed.
It feels like the shape of the earth is changing
I feel like I am modifying the earth

But the original pictures and photos are not mine
That's part of the copyright violation

But obviously there is my own creation
Even if it is the software of the personal computer, I see it as a creation evenin the secondary creation.
I think it's completely a violation of copyright
If it's music, it's an arrangement, and that has been a problem
The reason why I can make such a large amount of abstract pictures is because I use a computer software to make them mechanical, not something I imagined myselfThat's why you can make a large amount







2020年07月01日

東京都知事選挙で山本太郎の創価批判の演説 (創価会員が公明党に反対して除名された)


東京都知事選挙で山本太郎の創価批判の演説

(創価会員が公明党に反対して除名された)

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東京都知事の演説で創価会員が公明党に反対して除名されたとか訴えている
公明党がカジノに賛成するとか国土交通大臣がその法案を通すために奔走していたとか
ある
公明党が宗教政党がギャンブルを積極的に誘致するとかなるとありえないことだとなる
なぜなら創価会員は特に婦人部は夫がギャンブルで苦しんでいる人が多いからである
そういうことを批判して除名される、仲間からもコミニュティからも除外されて孤立させられる
山本太郎の説明でコミュニティから除外されることが辛いということを言ったのは的を得ている
なぜなら創価は団地の宗教とも言われ戦後に東京に地方から就職した人が団地などに入りコミニュティとしてつながりを持ち精神的に安定をもった
だから日々の生活でもそうしたコミニュティの中で暮らしているとそこから除外されたら孤立するとなる

宗教というのはもともとそういうものではなかった、その始祖をみれば釈迦は洞窟で悟りを開いたとかそうした集団化しない、それは後に集団化したのである
集団化することによってそれは強大な組織となり寺は治外法権の不可侵の場となり僧兵によって武装までされた、そこは武士の城と同じだったのである
だからそうした寺院から僧兵が生れ武士になったというのもうなづける
それはヨ−ロッパでも同じだった、十字軍とか武装した信者が騎士団を形成したからである

何か宗教というとそうした武力とか権力とか関係ないとみている
ところが歴史をみればわかる、一向宗でも日蓮宗でも強力な組織集団になり政治集団化したのである、だから信長はあれだけ強烈に戦争で皆殺しするようもなった
それは寺院は武装集団であり権力と対抗するものとして認識されていたからである
信長以降は寺は武士集団の下に所属する管理するものとなったのである

創価はそういう武装集団とにているのである、ただ民主主義になったから平和革命だとか無血革命だとやたらにいう、でも一票とることは至上命令でありその一票をとるために池田先生のためだとなり拠点に集まり祈る、これは明らかに政教一致であり憲法違反なのである
だから一票を得れば成仏して得なければ地獄に落ちると脅すのである
完全に政教一致の団体だからである、それは戦争で天皇が神であり現人神(あらひとかみ)として導いたのと同じである
でも創価の創始者の牧口常三郎は戦争に反対して獄死したのである
そういう歴史があっても今と選挙に勝つことが信仰の最大の戦いとなる
権力を争奪することが目的の団体なのである

それでやっかいなのはそれに反対する者はここでも会員がカジノでも何か公明党の政策に反対して除名されたとかいうのもそうである
その人は地獄に落ちるとか烙印おされ除外される、するとコミニュティからはずされて孤立するとなると訴えている
ともかく宗教と政治が一体化すると何かというと地獄に落ちるとか罰当たると云うになるのが宗教の危険性である、それは個人的にもそうなりやすいのである
本当は私怨でも宗教になると神でも仏をもちだして罰が当たるというのは普通にあるからだ、そんなことに神仏がかかわることはないのである
そこに宗教の危険性がある、それが集団化すると余計にそうなる
てぜなら選挙でもそうだが何であれ逆らうものは仏敵となるからである
そうして集団組織で祈る、それはやがてファシズムとなる
宗教は議論とか反対を許さないものだからである            

創価とは本当に前は武装集団であり僧兵であり権力争奪を辞さないともなっていたのである、何か洞窟にこもって修行するとかはない、極めて政治的団体である
だからすべての目標は選挙に勝つことであり一票をとり政治権力でも手中にして日本を支配することである
日蓮の思想自体がそれを容認している、王仏冥合とは王とは権力であり仏は信仰である
それが容認しているのだから政教一致でも教義的に矛盾しないのである

そして東京がその最前線であり東京で勝つことは日本全国でも勝つとなり東京都の都議会選挙でも最大の戦いの場となる
それは宗教団体を認可するのが東京都になっていることもある
ともかく創価があのように増えたのはやはり地方から東京に就職した人達が拠り所を失いそのコミニュティに所属したということが大きい、組織化集団化して座談会とかなにか
家族的なものを形成して仲間意識を作ったのである、団地の宗教と言われたのはそのためである
その成り立ちが本来の宗教より組合とかの感覚になる
でも宗教だからそれがファナティックになりやすい、狂信的になりファシズムとなる
実際は本来の宗教とは何の関係もない、権力争奪を目指す政治的団体である
だからこそ創価会員が公明党の政策でも反対すれば除名され地獄に落ちるとか仲間からも除外されるのである                        
でもカジノに反対するというのは宗教政党だったら当然だとなる
それもできない宗教集団とは何なのだろうとなる

結局民主主義とは数であり数が権力である、だから選挙でも数でありどれだたけ数を集めるかで勝敗が決するとなれば何であれ数を集めることが日々の戦いになる
だから創価では毎日会員を増やすために運動している
幽霊会員が膨大なのである、その人たちは何の活動もしていない、座談会にも来ない
ただ名前だけの会員である、その人たちに一票をいれてもらうことが戦いなのである

やはり宗教というのは弊害の方が歴史的にも大きかった、どうしても明治維新に天皇を神のようにして日本をまとめたことが後の禍ともなった
それを強く感じるのはどんな神社にも小さな社にも武運長久とか鳥居でも狛犬の台座でも刻まれているのである、だからどれだけ小さな神社でも国家神道の中に組み入れられていた、そこで村人は出征して行ったのである
そして神社団体が江戸時代に寺が優遇されていたとなり廃仏毀釈運動になり仏像が破壊された、これも利権争いだったのである
神社でも寺でも利権団体であり権力機構に組み入れられる、寺は本当に江戸時代は役所のようになり優遇されていた、というのは武士の菩提寺ともなるからそうなる
だからその反動として寺に対して明治維新になり天皇を国家神道化して排撃したのである要するに戦争の原因はそうした政教分離ができないということにもあったのだ
天皇は象徴天皇で権力はないにしてもそれをもちあげて権威を利用してきた歴史がある

だから不思議なのは今の天皇は明治天皇から南朝の楠正成を祭りあげている
南朝の復活であり南朝の系統が今の天皇だというのも歴史の継続だとなる
この辺も霊山は南朝の城でありそこから落ち延びた子孫がこの地域には多いのである
ただそうした歴史を今にも尾をひいているのも歴史である
そして明治天皇は替え玉だったというのも万世一系が天皇ではないのである
明治維新の過ちがあったとすればやはり政教分離が成されていなかったことなのである
靖国神社には朝敵となった武士は祀られていないのである
西郷隆盛でも最後は朝敵となり祀られていないのである
日本の国が天皇の臣下であり臣民であり国民ともなっていなかったのである
ただ国民国家というのはフランスでも他でもみんなそうなった
国家はヨ−ロッパてもハウスブルグ家とか貴族のものだったのである
でも国民国家となったとき国民が今度は全員兵士にもなり国同士の熾烈な戦いになった
そして世界大戦で大量の人間が死んだのである

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国威宣揚 武運長久

これは戦争の時に刻まれた文字である、これはどこの神社にも刻まれている
これは大倉の山津見神社とかのものである、
とにかく小さな村の社にも刻まれている戦争の歴史なのである


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