2020年07月20日

見逃せない戦後の引揚者の歴史 (大量の失業者が開拓に入ったーコロナで同じ変化が起きている)


見逃せない戦後の引揚者の歴史

(大量の失業者が開拓に入ったーコロナで同じ変化が起きている)

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戦後の引揚者

搬送に負けるということは大きな変化をもたらした、百からゼロになるような大変化だった、戦後の焼け野原であり都市は壊滅して故郷に帰っても働く場所もなくなった
その人たちは戦争の時は兵士であり食べていけたのである、それで

お前たちは外地散々贅沢な暮らしをしたのだから少々苦しい目をみてもあたりまえだ

これも理解できない、戦争で命がけで戦った人たちが贅沢な暮らしをしていたのか?
食うや食わずで戦っていたともあるからだ
ただ戦地には食料でも優先的に送られていたからである
ただ戦争に負けた時、従軍看護婦としてシンガポールの向かい側のマレーシアのジョホールバルに四年間働いた姉は戦争に負けたときジャングルに逃げて地獄の苦しみを受けた
食べ物がないからである                                  
でもそれでも戦争中でも本土から食料が優先的に送られていたのである
それでは本土の人は戦争中どうして食糧を確保していのか?
その困窮はどうであったのか察しられる
本土には働き手がいなくなったからだ、すると残された妻とか女性が働いたことになる
また工場では学生でも若い人も総動員で働いたとなる
だからこの辺の事情がもう一つわかりにくい

ただ引揚者と自分は現実に接している、それは子供の時、小池にいたのである
小池というと近いのである、飯館村とかなると遠い、小池は街から近いのである
そこに一人引揚者の一人がいたのである
私の家で店を始めたとき私の父親が今の双葉の新山で酒屋の丁稚をしていてその時その人と一緒に働いていて知り合った
私は子供の頃、店がはじまったときその人の所に卵買いに行かされていた
自転車の荷台にぬかの入った卵を入れて運んだのである
その頃ニワトリは放し飼いでありまさに庭の鳥だったのである  
その時今の真野川の鹿島区役所のあるところの橋は土橋だった
それでゆれるから怖かった、そして必ず卵を一つは壊していたのである

子供の頃気づかなかったがその人は相当に貧しかった、結婚もしていない
ずっと一人だった、それだけの余裕がなかったのだろう
ただ不思議にその頃そうして開拓に入る土地があったということである
聞いてみると当時は農家の方が豊かだった、なぜなら食料を時給していたからである
農家では味噌を作っていたり納豆でも作っていた、そして何より卵が食べられたことが贅沢だったのである
それで戦後は大鵬、巨人、卵焼きとなっていたのである
卵焼きは食べられる時代になったということである                  

とにかく引揚者は戦後の大きな問題だった、兵士あったものが失業したからである
数も多いし就職先もなかったからだ、戦後は何か就職先がない、故郷の田舎に帰ってもないのである、するとなんとか食べるものだけを確保しなければならない
それで開拓に入った、そこて食料だけはなんとか確保しようとしたのである
だからそれは苦しいし貧しいものだった、でもそれしか生きる手段がなかったのである
結果的には半数が撤退した、でもその後幸運に高度成長時代に入り工場とかに就職できたでもその時中卒が集団就職の金の卵として東京とかの中小企業に就職した
その下町の工場は小さいから今のような寮とかはなく劣悪であった
自分自身がそういう工場で学生の時アルバイトしていた
一日中ドリルで穴明ける作業だった、何か自分は学生時代からそうしたロボットのような流れ作業のようなことしか仕事としていない  
大学卒業してもフリーターであり依然として流れ作業しかしていない
それで仕事に異常に嫌悪感を覚えてひきこもりなり旅ばかりしていたとなる
それは仕事がそうしたロボットと同じにされたからであった
その反動からそうなったのである

この引揚者のことを知るということはやはり歴史であり今を考えるのに参考になる見逃せないものがある
時代が大きく変わる時何が起こるかということである
大量の失業者が生れる、兵隊が就職先だったものがなくなると故郷の田舎に帰っても働く場所がないのである、そうしたら食べることもできないのである
だから悪条件でも開拓に入った
でも鹿島区の小池だと街から近いし平坦な土地であり生活するには貧乏でも他よりましだった

なぜなら飯館村とか山に入った開拓は交通の便が最悪だった
大倉から飯館村に入る木戸木という開拓村は十軒くらいあり半鐘がありそこに生活があったのである、私はそこに関心がなく森があり清流がありそこを通る人はいなかった
秘境だったのである、今ある道はあとから作られたのである
その時その清流が消えたことが残念だった、それは原発事故前にありその頃まだ地方は公共事業として道作りをしていたのである
ただあそこはこうつうの便が悪いというより大倉から七曲の道でありそこから草野の村の中心地に行くまでも七曲の道であり不便であるというより閉ざされていた
その頃クルマなどないからどうして草野とかまで行ったのかとなる

なぜこのことをふりかえるかというと時代の変わり目には失業者が大量にでる
兵士という職業を失った人たちが大量に生れ仕事がないのでそうした不便な場所でも食べるために開拓に入るほかなかった、そして半分は過酷であり撤退したのである
兵士というときこれはやはり職業であり戦争中は兵士が最も多い就職先になっていたのである、兵士は経済が苦しくなると貧乏になると戦争でも食べるためになるのである
それは常に歴史でも戦争の歴史でもあるからそういうことがあった

そして今コロナウィルスで失業者があふれる、大きな時代の変化では大量に失業者があふれ職を求めるようになる、だから先日まで人手不足で騒いでいたのが不思議だとなる
どこが人手不足だったのかとなる、病院ですら医者にかからず患者が来ないのでつぶれるとまでなった、つまりこの「不要不急」が今の時代の標語のようになったのである
「不要不急」というとき観光業とかも実はそうだったのである
水商売ではないにしろ水ものだったのである、だから急激に100からゼロに近くなるのも驚きである、京都ではオーバーツーリズムで外国人がふえて困っていたのにもう来ないこの変化も大きすぎたのである

でも思うに今起きていることは大きな社会の変わり目であり焼け野原から始まったような変化に見舞われているのだ
だから東京一極集中から地方へ分散する、すると地方が活性化する
それは悪いことでないのである、大きな変化の時代になるとやはり観光業でも何か大きな犠牲が生れる、明治維新では侍が北海道の開拓に入ったように過酷にもなる
侍という職業を失業したからである
ただ昔とは同じようにはならない、でも食べるものがないからと不便な場所に開拓に入るようなことはない、でも農業をが見直されることはありうる
なぜなら耕作放棄地が膨大にあるからだ、それを活かすようなことがこれから起きるかもしれない
今日聞いたのは仙台の大学に入った人が学校に行かなくてインタ−ネットで授業しているという,テレワークすると同じである、教育も相当に変わる
学校に行くというのではなく十分にインタ−ネットのyoutubeとかでも学べる環境が生れたからである

こういう大きな変革の時代にはやはりマイナスの面だけが目立ち騒ぐ
それは戦後大量の引揚者がどうしていいかわからず開拓に入ったと同じである
焼け野原をみて茫然としている、観光業とか飲食業でもそういう状態になったとき地方はそこに頼っていたから苦しい、でもそこに何か活路を見出すと新しい時代が生れる
つまり地方の再生が起きて来る、その前に戦後の焼け野原のようになってしまうことである、それが観光業にでも起きている、交通関係でも起きている
鉄道すら乗る人が激減したからである、前からローカル線は減少していたとしても新幹線までが激減したことには驚いた
こうなるとリニアなど必要ないとなりこれも大幅に予定が狂ってしまったとなる

ともかくこの辺では津波だと原発事故だとか変化が激しい、それにつづいてコロナウィルスでありそういう激変の時代に突入したとなる
だからこれほどに社会が変わるということには驚く、すると新しい時代を作る、適応するということが大事なになる、それがてかなか老人になるとできなくなる
それで飯館村の村長に立候補したのが40代の外部から来た人だということも新しい時代にはそうなる、今までの考え方ではこれだけ変わればできないからだ
他の避難区域でもとても何か復興といっても老人は何もできない
それで外部から来る若い人たちにまかせるともなる
こういうときかえって前からのしがらみのない外部の人たちが主役になれる
第一飯館村とか人が住んでいないのだから自由に使ってくださいとなる
そこに別荘の様な新しい家を建てても住まないのだからそれは外部から来た人たちにゆずるべきだともなる、そうしなければ住む人がいないのだから村が成りたたないからだ
そういう大きな変化の時代には何か信じられないようなことが起きて来る
それがまた時代が変わるということなのである



posted by 老鶯 at 20:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 明治維新-明治以降

6号線でホンドキツネが交通事故で死亡


6号線でホンドキツネが交通事故で死亡

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これは犬ではないだろう、口とか尻尾がキツネなのである
その体毛とか色もキツネ色と言われるものである


これはキツネである、犬とにているようでも違う
北海道では日常的にキタキツネを見る、これはホンドキツネである
本州に本土に生息するキツネとなる
生息の地図を見ると全国的に生息している
でも2003年とかか最新で今はどうなっているかわからない
キツネは震災の時、荒地と化した田んぼを一目散に走っていた
それは犬だと見えたがキツネだった 

原発事故で人が町からもいなくなったとき猿とかイノシシでも街の中にでてきた
人がいなくなると野生の動物でも植物でも元の自然にもどる
草ぼうぼうとなり放置していると木が育ち森になってゆく
チェルノブェリではヘラジカとかがもどり増えた、狼ももどってきた
だからこの辺でもそういうことがあった
猿でもイノシシでも街にでてきたり人家を荒らす
飯館村とかでは畑がイノシシに荒らされていた
浪江とか双葉とか大熊とかは田畑が荒地化したから野生の動物が住みやすいのである

ただ事故前でもキツネはいたのかもしれない
これは夜行性とかありなかなか見れない、タヌキと結構みかける
キツネは犬と間違えやすい、今回死んだのも犬かと見た
でもこれはキツネだろう
口がとがっているからだ
何か精神病をキツネ憑きとか言ったのは口がとがっていることが似ていたからだろう
キツネの昔話が多いから昔は日常的にキツネと接していたのだ
子供の頃、近くのニワトリがキツネに襲われたとか話題になった
すると街の方にも来ていたとなる

人間はなかなか自然のことを今わからない、田舎に住んでいてもわからない
農業しているのは田舎でも一割にみたないからだ
みんな会社員になっているからだ
私の父親は何か戦後仕事がないのか、イタチとりしていた
そのイタチを飼っていたことがあった
その皮をとるためであり屋根に干したりしていた
そして母はイタチは人に絶対になれないと言っていた、餌だけをとり人になつかない
そのイタチも逃げた、イタチは今でもみかける、すぐ街中の川の土手でもノウサギを見ただから野生の動物は結構いる
原発事故で農家が空になり捨てられた所にカモシカを見たのは驚きだった
それ八木沢峠に行く手前の大古とかであった
これも原発事故の影響で人家近くに来たとなる

動物でも交通事故は無惨である
口を空いて断末魔の形相だった、普通に死んだらこんなふうにならないだろう
キツネはまだ田舎にはいる、ただキツネを子供の時でも見たことがない
キツネがニワトリを食べるとか聞いてもキツネそのものを見たことがない、これは犬と間違いやすい
カモシカは橲原(じさばら)の八木沢に行く薔薇坂で見た
意外と平地におりてくるときがある
動物でもやはり注意してみているべきである、動物もやはり生態系に依存して生きている

posted by 老鶯 at 09:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層