お盆でも祭りは共同体があって継続される
(現代は村とか共同体は喪失したので機能しない)
仏教用語の「盂蘭盆会」の省略形として「盆」(一般に「お盆」)と呼ばれる。盆とは文字どおり、本来は霊に対する供物を置く容器を意味するため、供物を供え祀られる精霊の呼称となり、盂蘭盆と混同されて習合したともいう説もある。現在でも精霊を「ボンサマ」と呼ぶ地域がある。
盆の明確な起源は分かっていない。1年に2度、初春と初秋の満月の日に祖先の霊が子孫のもとを訪れて交流する行事があった(1年が前半年と後半年の2年になっていた名残との説がある)が、初春のものが祖霊の年神として神格を強調されて正月の祭となり、初秋のものが盂蘭盆と習合して、仏教の行事として行なわれるようになったと言われている。日本では8世紀頃には、夏に祖先供養を行う風習が確立されたと考えられている。。
祭とはナ何なのか?それは共同体があって日本だったら村があってその村の共同体を維持するためにあった、それでたいかい豊作を祈る行事が多いのはそのためである
つまり村の生活の基本は稲を米を主食としていたからそうなる
それは切実なものである、だから各地に豊作を祈る祭りがある、その豊作を祈ることが
お盆とか祖先崇拝まで一体化する
なぜなら春には御先祖様が山から下りて来るというのはその時期に田植えなどが行われるつまり稲作と深く関係して御先祖様ありえたのである
飯館村では作見の井戸がありその井戸でその歳が豊作になるのかならないのか占うのである
だからその行事は真剣なものになる、もし豊作にならないとしたら飢饉にもなるからだ
そしてお盆はもともと新年に歳神を迎えるということで行われていたものが8月になったとも言われる
豊作を祈るとしたら正月が向いているのである、正月に餅の花とかの飾りを売るのはこれも今年の豊作を祈るためである
年神様は、新しい年の幸福や恵みとともに、私たちに「魂」を分けてくださると考えられてきました。「魂ってなに?」と思うかもしれませんが、「魂」とは、私たちの生きる力、気力のようなものです。
では、どうやって年神様から「魂」を分けていただくのでしょうか。年神様の「御魂」(みたま)は、年神様が依りつく鏡餅に宿るとされ、この鏡餅の餅玉を分けていただくことで「魂」をいただいたのです。
その年の魂となる「年魂」をあらわす餅玉は、家長が家族に「御年魂」「御年玉」として分け与えました。これがお年玉のルーツで、玉には「魂」という意味があります。
そして、いただいた「魂」を体内に取り込むための料理が「雑煮」です。ですから、お雑煮には必ず餅が入っており、お雑煮を食べないと正月を迎えた気がしないというのも当然なのです
お盆より正月の行事の方が農家にとっては大事だったのである
だから必ず神社に奉納される碑は正月と記されているのである
正月に奉納したからである
そして盆踊りとは死者と踊ることなのである、死者が家に故郷に帰ってきて生きている人と一緒になって踊ることなのである、そういう意義があったのである
でもその村とかの共同体が喪失すればその意味もなくなるのである
第一江戸時代の村では個々人の墓がない、わずかにある農民の墓は江戸末期に豊かになった農民が建てたものである
たいがいはホトケッポとか仏方とかに葬られた、そこには墓はない共同墓地なのである
今なら樹木葬とかに似ている、だからお盆では墓参りはしていないともなる
なぜなら墓がないからである、ただ盆踊りなどして先祖を迎えたとういことである
その先祖とは村の先祖であり必ずしも個々人ではないし家の先祖でもないとなる
要するに村という強固な共同体があり稲作を中心として生活してきた結果として祭りが生れた、それがなくなると祭りは失われる、ただ形式的なものとなる
その由来さえわからなくなる、お盆といっても今は生活が離れ離れであり一つの村にずっと長く定住して生活する人は少ない、たいがい嫁ぐにしても全国であり世界にもなる
今は本当にインドでも日本人女性がインド人と結婚したとか他でも外国人と結婚しているそうなると村を基本にしてアイディンティティを築いてきた歴史も祭りの意義も失われるそれでこの辺で「田母神」とかの社が田んぼにあった、その田んぼがなくりそこにダイユーとかのホームセンターができる
他にも小池の鷺内の社があってそこに障害者の学校ができた、そこは駐車場にもなっている、こうして社だったところが街にもなる、だからそもそも神田とかあれば東京でも田んぼだったのである、そうなるともう信じられないとなる
そこで確かに神輿をみんなで担ぐ祭りがあったとしてもそこに住んでいる人は別に農業など無縁だし何か共同するというのも希薄である、みんな会社員だからである
そして田舎でも一万の町でも本当に近くでも何をして生活しているのかわからない人が多いのである、それだけ多様化している
子供の時なら近くで何をしていたか見えていた、石屋があった、墓を作っていた、籠屋があった籠を竹で一日作っていた、漆屋があった、漆を塗っていた、豆腐屋もあった、また馬車屋もあった、精米屋があったとかありその仕事内容がわかっていたのである
みんな何で生活していたか見える社会だった
みんな狭い範囲で生活していたのである
指物大工がいて私の家は仏壇を作ってもらった、今は大工でもハウスメーカーが会社が遠くから来て一週間くらいで組み立てて家を次々に作ったのである
特にこの辺は外から入って来た人が多いから新しい街が三つくらいできた感じになった
だから余計に都会化したのである、もともと私はひきこもりだから人とかかわらないから知らないにしても本当にちょっと会って話してみると外から来た人たちなのである
ともかく戦後でも社会が凄まじく変化した、戦前から戦後十年くらいは依然として農業が中心的社会だったのが工業社会になった、すると農業社会と工業社会はまるで違ったものになったのである、機械化されると農家でも協同で田植えしたり稲刈りしたもしない
個々の農家でするようになるとかその変化が余りにも大きいものだった
それで共同性が失われた、つまりもう村とかいう共同体はない、一部何か全体から見れば取り残された島のようにあるともなる
ただ田舎は依然として回りが田んぼであり畑もあるから農業社会に見えるのである
でも現実は田舎も工業化して会社人間になっている
この辺でも東北電力の発電所とか双葉大熊の原発がむしろ町の中心的存在と化していたのである、だからこそその被害が余りにも大きいものとなったのである
でも農業でも漁業でもそれでは生活できないとなっていたからこそそうなったのである
農業でも漁業でも林業でももう生活できないからこそそうなったのである
もし農業中心の社会だったら米がとれないとなったらみんな死ぬ
でも別に米をとれなくても現金があれば外国からでもなんでも買えるとなる
そういう大きな社会の変化の中で原発も作られて大被害になった
なぜなら原発こそが栄をもたらすものでありそれで双葉町は原発とともにあるという横断幕を街にかかげていたのである
いづれにしろお盆でも社会が変わりその意義が失われる、ただ別に先祖を供養するとか思うことは悪いことではない、ただ今は個々の家族で先祖を供養することになったのであるだから本来の祭りとか意義が失われている
そしてもう墓も維持できないという人も増えている、跡継ぎがいないとかなったからである、墓というか死者を祭るというときそれは個々人だと維持しにくいのである
なぜなら個々人だと子供がいないとか離れてしまったとか維持しにくくなる
でも村全体で先祖を祭るとなるとみんなでするのだから維持しやすい、それで都会では共同墓地を作ったりしてそこに入りたいとなる、永代供養してもらいたいとかなる
でもそれも寺でもできない、寺自体もう維持できない、消失してゆく
常に社会が変わってゆくからそれに対応できなくなりその意義も失われてゆく
ただ現代は共同体というのはない、会社共同体になったりした
それだって変わる、そして人間は孤立化して孤独死が多くなる
つまり現代文明社会はアトム化したのである、原子のように無数に分化して共同体というのはない、それは世界的に同じである
グロ−バル社会とは共同体とか関係ない、ただ物と物を交換するだけで精神的なこととは関係ないのである、そこで人間はただ無数の経済的単位となるだけである
数と量だけで計られる世界である、それは国内でも同じなのである
カルト教団があって疑似共同体を作ったりしてもそれも一票として数えられるだけである、共同体は人工的には作れない
農業の場合は自然と密接につながり共同体が作られてきた,ヨ−ロッパの市民共同体もやはり城壁の中で生死をともにするということで作られてきたから違っている、それだってその場が深く関係していたのである
それだけ社会が多様化して分散して広域化してグロ−バル化して村という最小単位の共同体のアイディンティティ保てない、だからなぜ原発事故で簡単に村でも町でも家族でもばらばらになり離散してゴーストタウンに村になったかもそういう時代の影響なのである
確かに放射線が怖いからだというのもわかるが何かそれだけではない社会の変化の中で
失われたものがありそれが原発事故を契機に表面化した
多額の補償金をもらったことで一気に表面化して加速して町で村でもゴーストタウン化したともなる、それはここだけではない、他でもそういう危険をはらんでいる
絆、絆と言われたが内部では補償金で分断してかえって外部との絆が生れたことがそれを物語っていたのである、広域化社会とかグロ−バル化社会はそういうものだったからである
白菊黄菊
清雅典雅
正月千両
霊前奉献
積善家生
長子継富
身心正者
弥栄和楽
満月皓皓
災厄無祈
今年の祈りの詩ー霊前菊花
正月がお盆と関係していてまた満月も実りをもたらすものとされていた
ただこの詩にしても家のことを祈るのであり村とか社会に及ばないのである
そもそも社会とは社(やしろ)に会すだった、そこは共同体の要としてあった
だから村とかの狭い範囲が日本人の社会だったのである
それが余りにも社会が変化して村とかの世界とは違ったものになり祭たも維持できない、先祖も維持できない、社会自体がばらばらになったのが現代だともなる
死者は生きた地に場にいる (死者とともに生きると生も豊かになる)
死者はいづこにありや
死者はその生きた家に地に山にいる
死者の霊はその地を離れず
地とともにある
その地にその影は大きくなる
死者はその地に持続して生きる
神話となり伝説となり生きる
死者は今貶められず
汚されることなく
威厳もて生者をみつめる
その前に偽ることはできない
死者の前で人は威を正す
その霊は重く軽きにあらず
厳かにその声はひびく
死者がその地に生きて父祖の地となる
その地を受け継ぐものは誰か
正当の跡継ぎは誰か
そは父祖の地を受け継ぎぬ
神の国を御国を受け継ぐのは誰か
それは国と地にかかわらず
天なる父が決める
その契約を破ることはできぬ
天なる父はましまして決める
そのまばゆい神の国は壊すことはできない
人は地を知り天を知る
神はなきにしあらず汝の心を見
死者もまた汝の心を見る
その前に厳粛に偽ることはできない
地から神の国へと生は連続する
そは地で学び神の国へと導かれる
故人はこの地と縁を切らず、日を決めて子孫の家と往来し家の発展を見たいと思っているという心情をもっている。
柳田国男ー先祖の話
つまり先祖とのつながりは継続される、そこに死者は依然として家でもその村でも土地にでも生きつづけるというとき死者は供養されて生きているともなる
ただそれは個々人では継続しにくいのである
現実に自分自身の家族でも一人はもう死んで十年にもなる、もう一人は3年とかすぎて何かその記憶が薄れてきたのである、私は特別良くされて60年も一緒に生活していても人間は一旦死ぬとその記憶も薄れてゆき、忘れられてゆくものだと思った
家族すらそいういうものでありはかないとなる、人間は何でも継続することがむずかしいのである、だから天皇がいろいろあっても日本では継続されたことが驚きなのである
ただ天皇すらもう継続されるかどうかもわからないのである
時代の変化をまねがれないのが天皇でもそうである、ましてや他では余計に維持できない継続できないのである
ただ死者と生者を考える時、人は死者を恐れる、怨霊となることを恐れる
自分の家族でも不遇で事故で死んだ人がいるから私は墓を建て祀った
それは簡単な六万で作った碑だった、そこには骨も埋まっていなかった
だから死者は逆に立派な墓を建てる必要はなかった、なぜなら墓はもう継続できないからである、すると立派な墓でも壊すとなると大変なにるからだ
それより死者ー生者の関係は
生きている者が死者を守る、死者を維持する!
この方が強いのである、なぜなら死者は何もしてくれないからだ
生者でも供え物したり供養しないと死者はないのである、生者が死者を思わない限り死者はないのである、それがだんだん時間がすぎるとどうしてしも忘れやすいのである
そこに死者の問題があった、死者は本当に忘れやすいのである
だから死者を思いつづけることはむずかしいともなる、現実のことに追われるからであるそれで祭りでも儀式のようなことでもしていないと死者は忘れられる
戦没者慰霊祭だって地域では継続できないとなっているのもそのためなのである
300百万人死んでも忘れられてゆく、それが人間の問題だったのである
それで常に歴史というのが大事になる、津浪でもそうだった、この辺では400年前に津波で700人溺死したと記録されていたがその記録さえ知る者がなく津波は来ないという確信までになっていたからである、それだけ人間はあらゆるものを忘却してゆく存在なのである
私の二人の母親-姉と母
ほのぼのとホウヅキ赤し遺影にそ供えて祀りぬ死者も生きなむ
ホウヅキは確かに死者に供えるにあったものだった、あかあかと燈明のようでもある
そこに死者がなお生きている、死者の霊がうつってゆくともなる
死者はな何か花とかまた供え物にその霊がうつる、だかち本当は供え物に手をつけることは危険なのである、それは死者が食べるものだからである
ただ死者に許しをこうて食べるのはいいのである、なぜならそうして死者から先祖から恩恵を受けたものがあるからそうなる
正月の碑(北泉の延命地蔵神社)
(仏方の地図)
南相馬市鹿島区寺内に見いだした共同墓地(仏方ーホトケッポ)