日本海から会津の古代の歴史(1)
(地理が歴史の基礎ー逆さ地図で見る)
人間はその住んでいる場所が中心になり支点になる、場所が変わると見方も変わってしまう、そこに地理を見ると誤解が生れる
まず日本だけではない、アジアでも世界となれば地理を理解することは神にしかできない地理は例えば実際その地を踏んだとしてもまたわからないのである
地理は俯瞰しないとまたわからない、それで山形県の小国町に行ったのだがその隣が喜多方がとはわからなかった、それは地図で俯瞰して見た時わかった
こんなに近いのだとわかった、でも小国に一時滞在してもその周りの地理のことはわからないのである、日本は特に山が多くて隣でも山に閉ざされているから山が壁となって地理がわからなくなるのだ
会津を見る時でもやはり地理が大事になる、それが歴史と一体化してし地歴となる
では会津をどういうふうにして見るのか?
それはここに示したようにアジアから逆さ地図でみる、すると会津はアジア大陸から
日本海側から会津が通じている、福島県でも会津は新潟県とか越の国と通じている
「崇神天皇は諸国平定のため4人の皇族将軍をそれぞれ北陸・東海・西道(山陽)・丹波(山陰)の4方面へ派遣した。このうち、北陸道へは大彦命、東海道へは武渟川別命(大彦命の子)が派遣され、それぞれ日本海と太平洋沿いを北進しながら諸国の豪族を征服していった。やがて2人はそれぞれ東と西に折れ、再び出会うことができた。この出会った地を「相津」(あいづ)と名付けた」
大毘古命は先の命のまにまに、高志国にまかり行きき。ここに東の方より遣はさえし建沼河別、その父大毘古命と共に相津に往き遭ひき。かれ、そこを相津と謂ふ。
ここで大毘古命(おおひこ)とは出雲の有力者である、それは蝦夷征服にも大きくかかわった人物であり天皇にも連なる族長である
出雲から高志(越国)へと大和朝廷の支配領域に組み込まれてきた、会津の名の起こりがそこから来ている、また会津とは水が会う場所だという意味もある
いくつもの川があり水に恵まれた山国である
それでもう一つ大事なことは交通から見ることである
人間の社会と交通は密接な関係がある、人が行き来することで交通があって統一国家も生れて来る、もし人間が全く交通ができないとしたら何か文明でも生まれなかったろう
なぜなら川があるとするとそれが道になりやすい、それで四大文明が必ず川の側に生まれている、つまり川の港に生まれている
エジプト文明でもピラミッドはナイル河の岸辺から港があり通じていたのである
そうなれば物資もナイル河通じて運ばれることになる
メソポタミア文明もユーフラテス川の交通があり生まれたとなる
外国の川は日本とは違い、運河のようになっている、交通には適していたのである
ローマ帝国が成立したのも「すべての道はローマに通じる」となり道を作ったことにあった
日本でも外国の玄関口になった横浜が東京より人口が明治の時多かった
つまり横浜から文明開化が始まったのである
横浜から全国の養蚕で作った絹織物が輸出されたからである
だから地理を見る時まず場所を変える支点を変えるとまるで違ったものになる
それで逆さ地図を見ると日本がどう見えるかである
まず日本海があり日本海側にそって交通が最初にあったことが見える
大平洋は見えないのである、日本海でも韓国からみれば東海なのである
日本海は日本側から見ると夕陽が沈む地域だが韓国から見れば朝日が昇る地域なのであるこの相違は大きいから地理から誤解が必ず生まれる
人間は結局自分の住んでいる場所を中心にして見ているのである
それは狭い範囲でもそうなのである
海に面した地域から相馬藩でもありでも飯館村は山に囲まれているからその場所の差は相当に大きなものとなるのだ
見えたが違っているのである
まず山に囲まれた盆地と海に面した地域ではまるで違った世界観になる
日本は海に囲まれているのだがまた山に囲まれた盆地が多い
大和は奈良だけどそこも盆地である、会津も盆地である
そして交通から見る時、韓半島から見ればアジア大陸からみれば交通としてまず日本海側が見える、現実に日本海をわたれば日本に到達するから渡来人が来れたのである
また最初は伽耶(かや)の国から福岡に渡来人が渡って来た、日本からも渡って行った
それでかや山というのが万葉集に歌われた、かやの人たちが渡ってきて住んだからであるまた綿津見神社の綿は渡るから来ている、つまり海を渡ってきた人たちのことなのである次に渡来人が来たのは国引き神話のある出雲だった、その出雲から日本海側を通って越の国へと行き阿賀野川を通じて会津に入る
つまり日本海側と交通で結びついていたのが会津なのである
阿賀野川というと日本では道になりにくいとかある、外国の川のように運河のようになっていないからである
でも古代をイメージしたとき道などないのである、鬱蒼とした森が覆っていて道がない
するとやはり川をたどって行った方が楽なのである
川はやはり道になりやすいのである、小舟でも川を行った方が鬱蒼した森を行くより楽だとなるからだ
それで日本海が比較的冬を除いておだやかだから道となり古代でも阿部氏が船で到達したのがアギタであり秋田となった
出雲から高志(高志)へと出雲勢力が広がった、そして出雲がもともと日本の最初の国でありそれが蝦夷となった、蝦夷は出雲だというのもそのためである
今でも島根県と東北弁がズーズー弁だというとき共通しているとなるからだ
ただ大和勢力が出雲に進出して国譲りがあり出雲の人たちは出雲から逃れて信州に長野県に逃れた、それで諏訪神社の祭神はタケミナカタなのである
そしてこの諏訪神社がどこにでも多いのである
それで鹿島神社はこの出雲に攻めてきて国譲りした建御雷(たけみかづち)の神である
それで島根県に鹿島とあるとき鹿島神社はこの建御雷(たけみかづち)の神なのである
だから全国に鹿島神社が多いのである
建御名方神は、大国主命と高志(越)の奴奈川姫の間の子とされ、書紀、風土記には出てこない神である。出雲の国譲りの際に、天孫側の武神、武御雷(たけみかづち)神と戦って敗れ、諏訪に逃げ込んだ、と古事記にのみ記述されている。諏訪の側の伝承によると、建御名方神は侵入者であり、先住者の洩矢(守矢)神との領有争いに勝ち諏訪を支配したとされる
とにかく地理を見る時この交通を同時に見る必要がある
例えば棚倉町の
とあるときなぜここがヤマトタケルと蝦夷軍の戦争の場所となったのか?
それも交通と関係していた、
久慈川は幸(さけ)くあり待て潮船(しほぶね)に真楫繁貫(まかぢしじぬ)き吾(わ)は帰り来(こ)む」[丸子部佐壮(まるこべのすけを)
この久慈川から潮船で海に出たとなる、日本海でもそうでありそれは江戸時代の北前船となり継続していた、ただここでどういう航路をたどったのか不明である
このように川は交通の道としてあることを古代なら見るべきである
「穴に住み人をおびやかす土賊の佐伯を滅ぼすために、イバラを穴に仕掛け、追い込んでイバラに身をかけさせた」とある。
ここで佐伯(さえき)とあるが
佐伯部は日本武尊が東征で捕虜にした蝦夷を伊勢神宮に献上したが無礼を働いたりするので播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波の5ヶ国に送られたのがその祖とされています。
佐伯部は平安時代以来、「叫ぶ」に由来するとされてきたみたいでが、『常陸国風土記』に、土着民である「山の佐伯、野の佐伯」が王権に反抗したことが記されているので、「障(さへ)ぎる者(き)」で、朝廷の命に反抗する者の意味の説もあるみたいです。
又、外敵からの攻撃を「遮(さへ)ぎる者」という意味で「さへき」と呼ばれるようになったとの説があるみたいです。
こういう伝説でもいかにも当時の自然状態を示している、茨(いばら)に覆われていて道をさえぎるような状態が多かった、まず道があるいうことはめったにないのである
ところどころ日常の短い道はあっても遠くから長く通うじている道はない
常に遮られる状態だったのである
それて飯館村に行く八木沢峠に薔薇坂とかあるがこの薔薇は茨のことである
これは棘があるからまた遮るにはいいのである
一時薔薇坂に牛を飼う家があったがそこが原発事故で捨てられて原野化した
そこに茨が生えるようになった、茨があることはこれも通りにくい、茨にひっかかり通りにくくなる、そういう原初的な風景があり当時を物語るのである
会津の謎は大塚山古墳に東北で唯一の三角縁神獣鏡が発見された、それは吉備のものと同はんなのである、ここに吉備が関係していたという時吉備は大きな国であり大和朝廷が生まれる前は日本を分割して支配するほどの力をもっていたのである
だからこそ鬼退治伝説が生まれた、大和朝廷によって手ごわい相手だったから鬼とされて征伐されたのである、蝦夷でもアテルイとか大和朝廷に逆らうものは鬼とされたのである会津はすでに吉備国とかと関係して交流があり日本海から阿賀野川を通じてそうした物品ももたらされた、吉備国の支配の標として鏡が授与されたともなる
吉備が力をもったのは伽耶(かや)から来た渡来人が集中して住んだ場所だった
そこで技術を取り入れたりして大きな国となった
それは瀬戸内海が交通路となりそれで港となり強力な国となった
その後も村上一族とか水軍が生れて力をもったから歴史は継続している
いづれにしろ歴史を見る場合、地理が先にあり地歴となる
会津は福島県では最初に国として認識された場所である、会津は山国として大きいのである、だからまずこの地理を知ることが容易ではないのだ
それで必ず会津に行くと方角がわからなくなるのである
会津嶺の 国をさ遠み 逢わなはば 偲びにせもと 紐結ばさね
会津はすでに奈良時代以前から国として存在していた唯一の場所なのである
ということはそれだけ古いのであり国がすでに成り立っていたのである
浜通りのみちのくの真野の草原(かやはら)は奈良から蝦夷の境界として認識されていた700年頃まではそうである、でもそこに会津のような独自な国は存在しなかったのである
また高志の国も出雲に治水のために移り住んだというとき地名としても出雲に高志というのが三つくらいあり高志も独自の国を作ったいた証拠である
継体天皇も越から生まれていることでも大きな国であり古い国であることがわかる
そして会津には気多神社とか高志国の神社があるから古代は日本海を通じて交流があったまたなぜ山形県に高志神社が多いのか?
それは大和朝廷が古紙を服属させてそれから山形県に移った
その時山形県の方に高志の人たちが移住したのかもしれない、神社はその土地の人が移住してもたらされることが多いからである
確かなことは福島県でも会津を浜通りからまたは中通りからでも見る見方が違ってくる、磐梯山は浜通りからは全く見えない、吾妻山も全く見えない
阿武隈山脈、高原に遮られて見えないのである
この影響は物心に相当に影響する、だから福島市でも阿武隈高原遮られてた見えないから一体感が生れにくいのである
むしろ宮城県の仙台の方に地理的には一体感を感じる、交通でも電車が通っているから余計にそうなるのである
紀行・聖地巡歴・古道・古社を歩く
ここは実際にその地を踏んで神社から古代史を見ているから参考になる
一つの本のようになっているから読みごたえがある