2020年08月28日

無責任民主主義 (一票には百万分の一の責任しかない―誰も責任はない)


無責任民主主義

(一票には百万分の一の責任しかない―誰も責任はない)

民主主義がなぜ機能しなくなっているのか?
選挙だって投票しても何もかわらないとかなる
それは結局一票の価値とか責任は百万分の一に過ぎないからだ
要するに百万分の一の責任しかないのである
それでも一人が十票分を投票できるとなれば10人分でありそれなりに力をもち責任を持つようになる
だから選挙の時は一票など当てにしていない、団体票を組織票を当てにしている
カルト教団であろうが何であろうがまとまった票を得ることが政治活動なのである
投票する方でも何か一票だからと何の影響もないとなり責任も生じない
要するに投票しても投票しなくても同じだとなっているのだ
だから有名な影響力ある武田邦彦氏などでも棄権している
その人が言論で影響力があるからそっちの方に熱が入る、言論の方が責任があるし影響力があるからそうなる

民主主義の発祥の地のギリシャにしても一万くらいのボリスであり一人一人が見えるような社会で起きた、それが巨大化すると民主主義が機能しなくなる
ただ民主主義は必ずしも選挙だけではない,社会システムとしての制度である
でもその最大の中核となる選挙がもう一票が百万分の一とかなると責任もなにもない
また選ばれる人も一人など相手にしない、マスを相手にする
それは様々な利権団体なのである、それで二階堂氏が観光業者の団体と関係していて
go to キャンペーンを政策にして実行した
そしてその団体から献金を受けるとしている

こういうふうに民主主義は利権団体と必ず結びつきまとまった票を得て当選する
民主主義というとき民が主だとしているけど実際はこうした利権団体が主となっている
そして利権団体化するとただ利権だけを得ようとする
それが民主主義では権利民主主義なのである
権利はもともと権理と明治に訳していた、それがただ権利となった
そこには正義もなにもないのである、利権を得ればいいしかなくなったのである

再三取り上げているけど船主とか漁業団体が漁業権を東電に売り多額の補償金を原発事故前も補償されて原発御殿とか建てていたということが事故後にわかった
だからここだけではない、民主主義とは利権団体の民利主義とかなる
つまりプライベートの意味が奪うという意味でありまさに自分たちの利権のために公の財産を私的に奪う権利なのである
それで公共的なものがそうして利権団体に奪われるものになったのである

例えば入会権でもそうである、それは村の共有地でありそこで山菜でも木を燃料とするにも家の材料にするにも共有であり誰かの土地ということはなかったのである
一個人の土地ではない、今でも観光客が勝手に山菜をとるなというとき資源保護とか村の財産を守るためにそうしている
それは漁業権でも本来はそういうものだったのである
それが明治以降に資本主義となり民主主義となったとき個々人の所有に分割された
そのために今になると無数にそうして個人の土地があり山全体を利用しようとしても
できない、もう誰の土地なのかわからないものにもなっている
つまりここでも公共の共有の土地がプライベートされ奪われてそうなったのである
こうしてかえって山は昔のように入会権があり共有であったのが私的所有にプライベートされて何もできなくなったという事情がある

民主主義が機能しないないというとき自治体でも機能してない
この辺で原発が作られるとしてもそのことについて市町村で議論されない
それがわかったのは小高町にすでに東北電力の原発が作ることが予定されていて事故が起きた年に工事が始まろうとしていたのである
でも小高に原発が作られることすら私自身も知らなかったのである
つまり広く知らされることも議論することもなかったのである
事故を起こした原発でも土地所有者と県の許可くらいで決められたのである
そこには何の議論もない、一方的にただ地元の人たちに「安全神話」を吹き込み一切の批判を許さなかったのである
ここにも民主主義など全然なかった

福島県の報道機関はマスコミとなるが何も機能していない、第一福島民報は出資比率で県が半分であるとしたら県の言うままになり国のいいなりになるだけである
これは日本全体でも報道はマスコミは民主主義が機能していない
何かマスコミはまた巨大な装置をもつ六局が独占していた報道の利権団体だったのであるNHK自体がそうだった、報道するということで巨大な権力、第三の権力となっていたのである、それで宣伝費とかで収入が入る、すると金をくれるところに忖度するとなる
それがわかったのはインタ−ネットとか特にyoutubeの影響が大きかった
なぜならこんな簡単に名もない個人がテレビ局のように放送できるのかと不思議だった
でもマスコミとたいして変わらないしかえって説明など新鮮だったとなる
そういうことはある程度の知識があれば誰でも一個人でもできるということだったのである

今までのテレビ局はマスコミが権力をもったのは莫大な資本がないとできない、それで権力をもったのである
民主主義が機能するにはやはり報道が大事になる、知らされなければそもそも何もわからないし判断しようがないからだ
だから知らないままに20キロ圏内に東北電力の原発ができるようになっていた
そしたら事故になったら住めなくなったのである
これも怖いことだった、でもなんら知らされないし議論もないままに建設が始まるところだった、小高の人でも誰も反対しない、ただ金になるからいいとしかないのである

重要なことが知らされない、議論もない

これでは民主主義も何もない、全体主義の独裁と同じだったのである
日本の報道の自由率はとても先進国とは思えない低さなのである

国際NGO「国境なき記者団」(本部・パリ)は21日、2020年の「報道の自由度ランキング」を発表した。調査対象の180カ国・地域のうち、日本は66位(前年67位)だった。

これが民主主義の自由の国かとなる、もう江戸時代との見ざる、聞かざる、言わざると同じではないか?
こうしたことから社会は歪められて悲惨な結果となった、戦後アメリカの民主主義を取れ入れてもそれは利権団体主義であり本来の民主主義ではなかった
ただ民主主義という言葉だけであり実質はともなっていなかったのである

要するに利権団体主義となるとき利権だけに金だけに目がゆく、その正当性とかrightに目がむかないのである、それが漁業権とか他の権利でもそうである
漁業資源の保護が本来の役割りとして権利が与えられている、入会権とかでもそうだった権利は権理だったのである、法律でもreasonを重んじる
ただこの理屈となるとめんどうになる、でも万人にでも納得する正当性があって成り立つ団体だからといってすべて通るとなるのも民主主義ではない
でも現実はそんな正当性は関係なく利権団体主義となり数が多いものが権力をもつ
そして一票を投じたとしても百万分の一の責任しかないから無責任になる

また選ばれた議員にしても別に責任を自覚しない、議員自体が利権を得ることを目的として政治家になる、そして何かあれば選んだ選挙民が悪いとまでなる
民主主義では選んだ人にも責任がるとなる
そうしして誰も責任をとらない無責任社会となった
それより侍だったら一心に責任を感じていたから切腹までしたのである
それで庶民は侍になりたくないというのもわかる
そんな責任をとてもとれないからである、原発事故では実際誰も責任をとっていない
官僚でも政治家でも東電の幹部でもマスコミでも御用学者でも何か月給を減らされたとかもないのである  

こうした無責任社会の弊害は大きい、大衆というものも全く責任とは関係ない匿名集団である、それで数学的にも集合にはならないという、駅とかに集まる不特定の集団は集合にならない、それは一時的に集まり離散しているからである
そういう大衆がやがてナチスのファシズムとなったのが現代である
ナチスはヒットラーはそうした無責任な大衆から生まれたとされているからだ
要するに大衆には責任がない、ただ騒ぐだけだとなる

ただデモになり死ぬこともあるからその時はやはり命がけだと責任をとっているとなる
すると投票よりそうしたデモが民主主義なのかとなる
でもそれは暴力になるから民主主義ではないとなる、それでもそうしなければもう社会は変えられないともなれば暴力にもなる
つまり投票では社会は変えられないとなるからだ
民主主義はすでに機能しなくなっている、アメリカでは数パーセントの人が半分の富を収奪しているとかありそれも変えられないとすれば民主主義は機能しない、デモで暴力で変えるほかないとなる、その時民主主義はもう成立しなくなっているのだ
だからそうしてデモが巨大化すると国自体がその暴力によって変えるとなり選挙は無駄だとなり否定されるようになる、民主主義はもう成り立たないのである

ただいくら無責任民主主義でも人間社会は必ず責任を誰かがとらされるようにできている
この辺では原発事故で故郷に住めなくなった、これが最大の被害だった
戦争でもやはり三百万人死んだとか必ず甚大な責任をとらされた
無責任民主主義でも責任から人間は逃れられないようにできている
だから最初から責任をとれるような社会にした方が間違いがないともなる
みんな無責任であっても結局誰かが大きな責任をとらされるからである
それで一人に十票の投票権を与えればそれだけ責任は自覚される
しかし結局平等主義になりそれがまた不平等になるのである
でも民主主義が機能しなくなっている、それを解決するにはどうするのか?
それが問われているのである

利権団体民主主義が社会を歪める
(GO TO キャンペーンもそうだった)

責任をとらされる人が一番真剣になる (責任をとらない人は信用できない)

夏の真野川の俳句(鮎がもどり流れが変わる)


夏の真野川の俳句(鮎がもどり流れが変わる)


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ここから水無川の水が湧いてい流れる
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水は川を流れていない



夏の朝川きらめきて流れけり

草深し川面きらめき鷺一羽

カワセミの隠れて消えぬ草深し

清流を朝百匹や上る鮎

鮎百匹川にもどるや泳ぐかな

鮎跳ねて川生き返る流れかな

行き交いぬ落合橋に雲の峰 

涼しさや流れの変わる岸に立つ

涼しさや水無川に水の湧く
                                              
のうぜんの夜咲き星の輝きぬ


沖縄や真澄の空にディゴ咲き海青々と赤さのにじむ


7月までは夏と思えなかった、それから暑くなった、朝から暑いけど夏らしい光景になった、鮎が真野川に大群となって上ってきた、それで毎日真野川に行っている
真野川は去年の台風で流れが変わった、砂利と砂場が増えたのである

世の中は何か常なる飛鳥川昨日の淵ぞ今日は瀬になる

この飛鳥川は小川なのである、ただ真野川でもこんなに変わってしまっこというのは同じである

それで川の中に入りやすくなった、そこで見ていたら鳥がきていた、海の鳥であり千鳥かもしれない、そのさえづりが川にひびいた
それからカワセミも見た、この鳥は結構ここでなくても見かける
でも一瞬にして消える、岸の草深い場所に消えてでてこなかった
これを写真にとるのはむずかしい、つまり鳥が常に来る場所でねらっていないととれないからだ

真野川で思ったことは鮎でも大群が上る、鮎が跳ねて川を上る
その時川が活きていると見た、つまり川に魚がいて川も活きる
魚でも何か川に見かけないのである
新田川でも魚を見たことがないのである

川に魚がいて川も活きる

町や村でも人がいて活きる

自然もそうだが町や村に人が住んでいなければ活きない、それは同じだったのである
川に魚がいないとなればただ水が流れているだけだとなるからだ
それは落合橋に雲の峰が見えて人が行き来している、中学校があるから生徒も通っているそれで橋も活きている、あそこの橋は川が下に見えやすい、ところが下の大きな橋は川がにごっている、ここの川は浅く清い流れになっているからここの橋から鮎を見れるのである

それから水無し川はからからだけど堰の下にの隅から水が湧いて流れていた
水無川は流れていなくても下を流れてここから出て来ていたのである
それはなんとも涼しいものだった
近くでも意外と知らないことが多いのである、ここははじめて発見したからである
それで写真とる絵になる場所があると思った
今遠くには行けない、日射病になったことで怖くなったからである
でも近くならいい、近くにも自然があり見るべきものがある
そういう点写真の趣味はいいのである、釣りの趣味もいいがこれはじっとしているので合っていない

とにかく暑い、これは沖縄だと思った、熱帯であり熱帯夜である
それで沖縄にいる熱帯地域にいる感覚になった、夜でも暑い、するとのうぜんがまだ咲いている、星が月が輝いている、熱帯地域にいる感覚になる
星でも熱帯の星である、この辺では熱帯の感覚はない、沖縄を知るにはやはり熱帯の感覚である、だから沖縄は日本では東南アジアであり熱帯であり本州とは別な世界であり魅力あるとなる、北海道もまた別な国の感覚になる
それで日本は熱帯から寒帯まである自然の多様性に富んでいる
大陸などからすると相当に自然自体も独自なのである
ヨ−ロッパだったら熱帯となるとアフリカに行くほかない、エジプトとかもそうである
外国に行くほかないからである

熱帯というとき沖縄だと赤い花が多い、それが似合っている,ブーゲンビリアとかディゴの花とかである、その赤さが空の青と海の青に映えているのだ
ただ沖縄には二回くらいしか行っていないのである
ディゴの赤は赤でも明るい赤ではない、沈んだような赤である
これはインド産だったのである、それでなるほどと思った
インドらしい花である、ブーゲンビリアは明るい花であるがこれは赤でも違った赤である法体地域には熱帯らしい花が咲くしまた花は熱帯原産が多い
この花一つとってもつくづく地域性がありそれが文化を育んでいたのである

この赤い花とヒンズー教とかも一致するし蓮の花がお釈迦さまの花だというときもそうである、そして北海道は高山に咲く花が平地に咲く、寒帯地域だからである
文化はその風土と密接に関係している
それでベ―トベンの音楽を理解するにはドイツの大地を踏まねばならないと言うのもわかるのである、文化とはcultureはcultivateでありその土地土地の自然を耕すことで生まれたものだからである
日本でも俳句とか短歌を理解するには日本に一年最低住んでいないと四季の変化がわからないし肝心の季語がわからないとしたら理解しようがないからだ 

今日もとにかく朝から暑い、それでまた河原に行って写真をとりたい
落合橋の雲の峰は映っていなかった、こういうことがある
だから写真を撮ることはシャッターチャンスが大事になる
写俳はまさに写真と俳句を組み合わせた写生だからである
写生というとき写真と絵は違う、現実の写実が写真なのであり絵はイメージされたものだからである、だから写真を絵にしたがこれは写生ではないのである
なぜなら雲の峰は夕暮れに遠くに見えたからである
雲の峰は夕暮れに今たつ、今日も朝から晴れているから写真とるにはいい
でも遠くには行けない、近くでも夏は変化するから絵になる

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