2020年09月16日

貨幣の謎を解明するには狭い社会で考える (グロ−バル化経済の通貨は巨大な詐欺の経済)


貨幣の謎を解明するには狭い社会で考える

(グロ−バル化経済の通貨は巨大な詐欺の経済)

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貨幣が何なのか?これか本当にいろいろ考えてみてもわからない
今の社会がどういう仕組みなのかもわからない、それがわからないのはあまにも巨大なグロ−バルな世界経済だから知りえようがないのである
もうとても人間的なスケールからはるかに越えたものとしてある
株でも為替でもそれを知りうるものはない、だからプロの機関投資家ももうけていなというのでわかった、誰も知りえないものであり株式市場とは博打場なのである

カナダ国債が石油とれるからいいと買った

アメリカのリートがいいと買った

為替変動があるら今度は日本のJ-reitを買った

その時リーマンショックで上がった株を勝手に売った

それで地銀の営業マンを信じられなくなりJ-reitを一月に売った

そしたらコロナウィルスで半分くらいまでJ-reitが下がった

次にコロナウィルウィルスで一旦落ちた時、買うことを奨めてきた

本当にコロナウィルスで株が上がった


これだけの変化があり結局何がなんだかわからないとなってしまう
別に損しなかったけどもうついていけないとなる
株は機関投資家のプロでも儲けられないとしたら普通の人はもうけられいとみるのが普通である、つまりプロすらわからないのが株の世界なのである
まさに博打であり何か世界情勢とかなんとかいろいろ考えても勉強しても無駄だとなる
そんなことよりただイチカバチカ賭ける、何も考えることなく運まかせでもいいとなる
また銀行がすすめるものなどもその営業の人をあてにしても無駄である
それよりAIの方がもうける確率が高くなる
とても株では世界情勢とかいろいろ分析してもわからないからだ
要するに運だとなってしまうのである
これはなぜそうなるのかとういうと人間が未来を予測できないということからきている
その一番いい例がコロナウィルスだった、2020年は大きな変化が起きるとはみんな言っていた、でもコロナウィルスで世界がパニックになるとか予想した人は一人もいないのである
有名な大投資家も航空会社に莫大な金を投資して大損したのもそのためである

ともかく資本主義であれ共産主義であれ民主主義も崩壊したというのは本当である
何かそこには理想がありそれを目指して世界が動かされた
資本主義とはもともと修道院からはじまったキリスト教から起きたとウェバーは説いた
他人を助けるための経済である、東洋だと経世済民になる
共産主義でも世界を席巻したのはそこに理想があり平等社会が実現するということがあった、それらはことごとく失敗した
共産主義はどれだけの人間を虐殺したか?これも空恐ろしいとなる
権力争いとなり反対派を暴力で殺す、結局暴力主義だったのである
ヤクザの抗争とたいして変わらなかったのである、ただ理論だけは理想があってもマルキシズムでもそれはあくまでも理想であり結果は惨憺たるものだったのである
どっちにしろ格差社会となり富は極一部の人が一人占めする、資本主義でも他人の労働を食い物にするものとなった、それはキリスト教の精神と全く反する世界となってしまったのである

結局この世に理想社会は絶対に生まれない、その理由は人間の欲が消えないからである
共産主義にも資本主義に理想がありはじまったが結果的には強欲主義となり格差社会となった、一部のものが莫大な富を得て階級社会にもなった
自由主義とか民主主義がいいようでもそれももう機能していない
選挙にしても暴力で決めるよりはいいにしてももう一票投じたところで何も変わらないとなる、百万票の一しかの影響力がない、数によって決まるからシルバー民主主義とかカルト宗教団体民主主義とかなりみんな無力感をもち投票率は50パーセントとかいうときすでに民主主義も成り立たなくなっているのだ

第一民主主義が成り立つのはギリシャのポリスのような一万くらいの直接投票の場で成り立つものだったのである、それが百万とかの単位となるともう成り立たないのである
社会というのは狭い範囲で生活して見るとわかりやすいのである
だから貨幣のことを考える時狭い範囲で考える
地域通貨のようなものを考える
すると例えばベーシックインカムとかMMT理論とか狭い地域で考えるとわかりやすくなる

貨幣でも紙幣でも特に紙幣なら紙なのだからいくらでも作れる
地域に銀行があり日銀のようなものがあって紙幣を刷って分配したら裕福になるのかとなる
決してならないことは確かである、なぜならそれは狭い地域でしか通用しないからである何か買いたいものがあっても狭い地域でしか買えない、すると狭い地域では足りないものがあり外から買うにはその地域通貨を紙幣を広い世界で通用する紙幣と交換する必要がある、するとそのレートがいくらになるのか問題になる
それはその地域での価値なのである、その地域で何か売れるものがあればそのレートは高くなる、つまりその地域通貨は紙幣は高くなるのである
でもその地域で何か価値あるものが作れない、資源でもないとしたら技術もないとしたら高くならないのである

これはグロ−バル化経済でそうなっている、石油がとれるとか車が作れるとか技術があるとかでその国の価値がありその国の貨幣や紙幣が高くなるのである
資源もない、技術もない、あるのは労働力だけだとなるとその労働力を外国人労働者のように他国に売る他ないのである
そしてベーシックインカムとMMT理論だと金は紙幣はいくらでも作れるから配分すればいいとなる、でもそんなことが可能なのか?
それは狭い地域で考えるとわかる、紙幣ならいくらでも作れる
でも現物を何かを食料品でなんでも生産して作り売るとなると簡単にはできないのであるだから一地域にいくら紙幣を作りばらまいてもそれで豊かになれないのである
狭い地域げベーシックインカムも行ったらもう生活は成り立たなくなる
紙幣などいくらでも作れる、それで働かなくても紙幣で物でもなんでも買えばいいとなるからだ、もしその紙幣がその地域だけてはない、外部でも利用できるなら別である
そもそもが外部には通用しない紙幣だから価値がないのである
そし狭い地域だったらみんなが気づく

紙幣なんか紙にすぎない、こんなもの持っていても何のたしにもならない
蔵に米でも積んでいた方がいいとなる、物を貯えていた方がいいとなる
紙幣など銀行にあづけても価値がない

そういうふうになってしまう、狭い地域だと経済でも何でも見えるものとなりわかりやすくなるのである、経済の規模が国家規模なり世界規模になると見えなくなりわからなくなる、それで国家自体が政治家とか官僚が詐欺集団だということが言われるようになる
それがわからないのはあまりにも経済でも巨大化して見えないからである
その仕組みでも庶民になるともう理解することは不可能である
それは知識あるものでもそうである、だから機関投資家とかプロでも株ではもうけられないのである

そういう社会自体に問題がありだからグロ−バル経済というのは市場でも株式でも世界的カジノのようなものになっているのである
不正が見えない、そこで大儲けしているのが巨額の金を動かししている一部の人たちだとなるのである、そこで極端な格差社会になっているのはギャンブルで馬鹿勝ちしている人がいるということである
それが狭い地域なら見えるからそんなことは続けられなくなる
つまりこの博打はペテンだとなり誰も参加しなくなる、もうグロ−バル経済はそうなってゆくと思う、今一人勝ちしているドルだって信用しなくなる
なぜ一人勝ちしているのだとなり中国でも他でも反発するからである

これからの経済はブロック経済になる、そしてあらゆるも物の交換より狭い地域での人間を重んじる、人間関係を重んじる経済になる
それは江戸時代の封建制社会にあった、なぜ主従関係があり君主のために命までささでたのかということである、そこには長い年月で育成された人間関係があったからである
それは確かに俸禄もあったにしろ人間関係が優先された社会だったのである
人間関係の絆が強固に作られていた社会だったのである
なにか東北の震災以後に絆が言われたが実際の社会に絆がなくなったからこそ言われたのである
絆というとき物を得るための絆ではなく精神的絆なことでありそれが消失したから盛んに言われたのである

いづれにしろ資本主義であれ共産主義であれ民主主義であれ崩壊している
もうそこには人間のモラルもない、ただ強欲主義があるだけである
共産主義はただ権力を得るための闘争でありそれが暴力主義なのである
第一毛沢東は銃口から革命が生まれるというときもそである
暴力なくして革命はありえなかった、それで中国は欧米に暴力で軍事力で屈服されたからそれを根にもっていた、それで軍事力で負けない国を作ろとした
だから核兵器でももつしアメリカに軍事力でも対抗することを進めて来たとしている

ともかく資本主義とか民主主義とか共産主義の理想主義は崩壊しているのである
その次に来るのものは何かとなると地域的文化的ヒューマン社会だとなる
それは狭い地域で社会で成り立つ、それを基本とした社会である
そこに人間性の回復もありうるとなる
そもそもルネサンスもヨ−ロッパの都市共同体から生まれたものであり例え富がフィレンツに集中したとしてもそれが浪費されなかったのは狭い都市内での富の流通だったからだともなる

アメリカに富が集中してもそれが巨大なる故に実を結ばない、極一部の金持ちによって富が浪費されるだけとなってしまう、地域だったら等分に配分されることがありうるからだまず田舎でも突出した金持ちは住めない、そんなことしていたら住めなくなるからだ
必ず周りにもその富を配分しないと住めないからである
それはグロ−バル経済と違って近くで見えるからである
グロ−バル経済になればそんな人がどんな暮らしをしているかわからないからである
そこでそんな人が存在していてもわからないから見えないからありえる
それで太宰治の生家は田舎であり大地主でありどうっなったかというと煉瓦の高い塀を作って小作から襲われる
ことを恐れて作ったのである、相当に恐怖していたことがわかる

これからの時代はそうして共産主義とか資本主義とかグロ−バル的なものではない
狭い範囲でも足りる世界、ミニマム社会とか節制社会とかなり物欲を求める社会ではない心を大事にする、心とはココのことなのである、その住んでいる場所から発想するアイディンティティを求める社会である
もろちん昔の村ではない、やはり広域的なものになるがその範囲は狭くなる
大きくなってもせいぜい道州制のようなものになる
そうなると社会を見えるものになりその問題でもわかりやすくなり不正はできない
だれか世界市場でギャンブルで馬鹿勝ちするようなことはなくなるのである
そて封建社会のように人間関係こそ人間の絆こそ物より金より大事にされる社会である
Human scale economyとかなる 、economyの起源が家政だったとから原点に戻るともなる  

無縁化社会の生まれた原因の歴史的考察 (金の切れ目が縁の切れ目)





posted by 老鶯 at 23:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

虫の声、夏菊、コスモス、実り(ようやく秋となる)


虫の声、夏菊、コスモス、実り(ようやく秋となる)

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陽の昇り朝や実りに露光る
                                             
障害者ここに住むかな虫の鳴く

秋の蝉近くの墓地にひびくかな  

墓地ありて先祖見守る実りかな
 

行き来する落合橋や夏菊にコスモス咲きて季節移りぬ                                                  

のうぜんのあまた咲きしも遂に散り一輪残り秋となりしも

近くにそ鳴きにし虫の数匹やその声の今日も我にひびきぬ   

夜通しに虫一匹の鳴くその声を我は聞きつつ眠りけるかな

夜の更けて一匹鳴きぬ虫の声心にひびき残りけるかな   


虫の声が真夜中まで夜通し一匹鳴くのを聞いていた、何かそれは一人の人間の嘆きとか苦しみとか訴えを聞いているともなる
つまり多数ではない、一人の人間としてその虫の声を聴く、それが人間的だとなる
そもそも人間は多数になるともうその声はただ騒音になってゆく
威圧的なものとなり虫の声というものではない、だからカルト教団などは一人一人の声を聴くなどない、ただ一票になる数を集めることだけである
ただ一匹とか数匹とかだとなんとか虫の声でも聴けるとなる
集団になるともう聞けない、疲れるとなる

障害者が住んでいる住宅がある、ここに障害者が住んでいるということを知る
それだけでも何かいいのかもしれない、みんな実際はそういう人を知らない、無関心だともなるからだ
今年の夏は蝉しぐれとかひぐらしとか鳴くのを聞いていない、何か夏から秋なのか
そういう季節の変化がわからなくなっている
ただ今鳴く蝉は秋となる

落合橋という名前がいい、どこにでもあるものだがここで落ち合うというのがいい
だから地名は心にも影響するのである、何か詩的なものがないようで見慣れた風景は絵にならないようでも
実際はそうではない、ただ身近だありふれて美が発見されないのである
盛岡だと橋の街であり有名だけど名所でなくても見るべき感じるものがある、ただ発見されていないだけなのである

実りの季節であり稲田の中に墓地がある、すると先祖が見ているという感覚にもなる
だも街中の墓地にはそういうことはない、でもすぐ近くだから墓地の前を通る
そこに自分の家の墓がある、墓も身近なのである
それでときどき花をさしていないと淋しいなとな花をさしたりする
でももし墓地すら墓すら遠くにあるとそうは感じないのである
だから何でも遠く離れててしまうと死者すら遠いものとなり忘れられるのである
関心をもつのは今そこにあるものなのである

墓参りの効用はとにかくそこで死んだ人を思い出す、死んだ人が存在したことを確認するということである、それだけでも効用がある、そうしないと人間は次々に目前のことに追われて死んだ人を忘れるからである
人間ほど忘れやすいものはいない、だから人間は過去に起きたことでも記録していなと忘れる、その時何があったのかも忘れる、ましてや次代の人は過去に何が起きたのかわからなくなる、それでこの辺で400年前に津波があり溺死した人が700人と記録されていた
それで津波があったということを知ったのである   

今日はむし暑いからまだ夏でもある、ただ秋でもある、そういう季節の変わり目だけど
最近はその境目がはっきりしないのである




無縁化社会の生まれた原因の歴史的考察 (金の切れ目が縁の切れ目)


無縁化社会の生まれた原因の歴史的考察

(金の切れ目が縁の切れ目)

昔から「金の切れ目が縁の切れ目」ということがあったのだから今でも継続されているとなる、でも何かそれは現代では極端化した
具体的な例だと親戚でももともと遠く離れていたから関係が薄い
そもそも地元から遠く離れて住むようになったとき縁が薄かったし遠ざかったのである
人間はやはり地縁、血縁とかがあり日本では狭い村とかの範囲で共同で生活していたからこそ必ず姓の由来が土地の名前から発している地縁となっている
だから姓をたどるとどこどこの村とかの地名にたどりつく

その人との関係は兄でも静岡とかに行ったとき兄との関係は薄れてしまった
それだけ遠いとまず何しているかもわからなくなっていたのである
その子供にしても子供の時一回だけ接しただけだった
だから縁が薄い、というよりは住んでいた土地から離れた時、縁が薄いものとなっていたのである
まず遠く離れていると何をしているかもわからなくなる
近くだと行き来があり何かあっても事情がわかるがもう遠くなると日ごろの付き合いがないからわからなくなる

ただそうなったのは自分の家の問題もあったたから相手だけを責めるという訳にはいかない
もともと金の関係しかなくなっていたのである
だから自分にしても金をくれるものとしてか意識されていなかった
それはわかるにしても親まで金で縁が切れた
墓参りするからと相手が金がないので金をくれたが墓参りは口実であり金が欲しかっただけである、そもそも親にひどいめにあったから親を恨んでいるとかそうなっていたので
親を供養するという気持ちがなかったのだと思う
親でも日本人は特に親でも死んだ人を供養する心が篤い、でも時代が代わり親との関係ですらそうして希薄化した

だから現代は簡単に縁でも切れる、人と人の関係は金しかなくなる、常に人は金になるかしか見ていない、自分が介護とか自分の病気のときその時助けるという気持ちもない
ただ金が欲しいというだけなのである、だから盗まれもした
また困っているのを見て脅迫までしてくる、それは相手も金で困っていたからである
現代はあらゆる面で人間の関係も金銭のやりとりであり金ですべてが計られる社会であるそれで「金の切れ目が縁の切れ目」になりやすい、それも呆気なく親の縁さえきれる、ましてや他人になるとそうである

何かそれでマルクスが商品と人間の関係を説いた、人間が商品化される社会である
人間疎外である、人間は一つの物でありまた金として計られる
それがグロ−バル化社会となれば余計にそうなる、世界中の物が入ってくる
でもそこで別に人間と人間の関係が生まれるわけではない、ただ物を通して金を通して人間がいるというだけになる
第一外国となれば遠いのだから普通は関係しない、ただ物を通して金を通して関係しているだけなのである
だから本来は助け合うなどないのである、それで国同士が争い戦争にもなる
貿易戦争にもなる、それは物を通してか金を通してしか関係していないからである
互いに利益があるときは協力してもそれがなくなれば「金の切れ目が縁の切れ目」になる
でも何かこういうことは人間としてあるべき姿なのかとも思う

なぜなら江戸時代などみれば人間と人間の関係は物とか金だけでは計れないものがあったなぜそもそも強固な主従関係が結ばれたのか?
第一今なら主人のために死ぬなどありえないのである、ただ金による雇用関係になった
つまり雇う者と雇われる者は一時的な金銭関係として結ばれているだけである
それも時給いくらかとかで計られているだけである
雇う方もすぐにやめさせることもできるし雇われる方も給料が多い方があればすぐにやめるとかの関係になる
そこの人間関係は金であり人間関係でも一時的なものになる
ただ会社になると長いから何らか人間関係が生まれる、でもその関係も会社を退職すると切れる、継続しない、でも不思議なのは農村社会では先祖が山にいて春になると田植えの時期に山からおりてくるとかの信仰がある
ということは死んでも先祖はその土地に生きつづけているということなのである
現代では工業社会とか商業社会になるとそういうことない、長く継続される関係がないのである、すべては物を通した金で計られる一時的な関係なのである

結局無縁社会とか孤独死とかが現代を象徴している、現代社会は無縁化しやすいのである東京のような大都会だったら土地との縁はない、漂流者のようになる
ただ金があって人がある、人は物ののように処理されるとなる
ただ不思議なのは無縁化というときいかにそれが過去を見ればありえないことだったかを知る、なぜなら誰か外から来た人が村とか商売するとき無縁の場をもうけてそこで市を開くとなっていたからである、わざわざ無縁の場をもうける、そこが神社だったとのである神社というとき縁を結ぶ場だからそれも変だとなる
でも簡単に村によそ者が入り商売はできなかったのである
おそらくそういうよそ者は村の人間関係を壊すということがありそうなった

今はあらゆるものが自由でありむしろそういう社会は田舎でもない、何をしているのか仕事でもわからない、家を建てるにしても大きなハウス会社が遠くから来てプラモデルのように一週間くらいで組み立てるだけだとなる
その土地とは関係ない人が自由に出入りできるのである
そうなると土地との関係も希薄になる、固定しない流動化する社会になる
それはまた遊牧民的社会にもなる、常に人は移動する、定着しないからその土地で濃密な人間関係を結ぶ必要はないのである
それで欧米人は狩猟遊牧民だから自分を主張して喧嘩もじさない、議論でもする
そこでうまくゆかなけれは別な土地に移ればいいとなるからだというのもわかる
日本が和を尊ぶというときまず狭い範囲の村で生活するとなると争うことはできない
何かちょっとした争いでもいつも一緒にいるのだからきまづくなるからである
嫌な人がいても離れられないというデメリットもある
嫌な人が合わない人がいるからと離れるわけにいかないからだ

ただ何でもいい面と悪い面が生じる、現代はもう人間関係は索漠としている、物と金でしか計れず人間関係はすぐに「金の切れ目が縁の切れ目」となることが日常的になる
それは田舎でも同じである、第一田舎でも農業とかに従事しているのは一割くらいだとなる社会だからである、あとは会社員だからである、その会社ですら一時的な関係だとなる会社は変わり安い、時代の変化を受けやすい、グロ−バル競争社会になると余計にそうなる
ところが農業中心の社会はその土地に根ざすから変わらない、だから江戸時代では農民だけでは職人でも十代くらいつづいているのである
職業自体が変わりないというときそうなりやすい、親の跡を継ぐ人が多かったからだ
そして誤解しているのは長屋でも実際はその住民は変わらなかったという
何かふいと見知らぬ人が浪人のような人が来て住むような時代劇があるがそういうことはなかったのである
今のアパートとかとは違っていたのである、こうして常に過去は歴史は誤解されるのである

江戸時代の封建制とかヨ−ロッパの中世とかでも主従関係があり人間関係は継続的であり貴族でも何代でもつづいていた、農民社会では三代つづかないと土地の人に認められないというときそういう社会だったのである
つまり人間関係は三代くらいつづかないと作れないということである
長さが関係していたのである、物とか金のやりとりはその場その場で終わるが人間関係はそうはならない、家族自体が子供の時から長い関係でありそこで人間関係結ばれる
血縁でも子供の時離れたとか一緒に暮らさないと兄弟ですら兄弟とは思えない他人になってしまうのである
例えば家にで雇う手伝いさんとかでも信用するために十年とか必要だとされる
特に家に入って働くからそうなる、今はまず十年も長く働くことは普通はない、十年も働けばその家の一員のようにすらなるだろう、だから今の雇用関係とは違っていた、つまり人間の信頼関係を結ぶには長い時間がかかるということである
それが現代でぱできないから家に入って働く人は一番危険だとなっているのである

封建制が成立したのはそういう濃密な主従関係とかが成立したのはその土地に根付き長い一代だけではない、人間関係の故である
だから現代社会を見直すとき常に歴史をふりかえり過去との比較が必要になる
つまり現代社会を理解するには江戸時代を知る必要がある
するとなぜ現代の無縁化社会と江戸時代を比較してその相違が見えて来る
もちろん江戸時代はすべていいとかではない、何が失ったのかということが見えて来る
失われたものが実は過去にあった、過去の社会にありそれが現代で失ったと見えてくるのである

ともかく今の社会は何か人間の関係が希薄である、そこで何が起きて来るのか?
簡単に市町村でもばらばらになる、一応家族の絆があっても市町村自体のつながりは希薄である
そして金さえあればどこに住んでもいいし受け入れられるし別にそうなら原発事故の復興などめんどうだと他に移った人たちがいる、それで仙台で補償金をもらった金を資本金にして成功した人もいる
つまり土地に縛られた社会とは違うからそうなる、もちろん放射線が怖いということで批判はできない
でも土地の縁でも人間の縁でも切れやすいのである
そういうものより金が優先される社会である、そういうことが無縁化社会となり孤独死となりまた継続性のない一時的な人間関係になる、だから江戸時代の封建制社会が果たしてただ遅れていた社会なのかどうかもわからない
それは物とか金とかではない、人間関係を重視した社会だともなるからだ
その人人間関係の方が人間にとっては大事なものだともなる
だから何でも進歩したとか社会はならない、ただ社会は変わっただけであり進歩したとはならない
ある面でぱ人間全般から見れば後退したともなる、無縁化社会とか孤独死とか人間は物のように捨てられるとなるからだ


posted by 老鶯 at 08:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題