2020年10月03日

双葉町の放射線被害 (森が異常に高いーモニタリングポストは信用できない)

双葉町の放射線被害

(森が異常に高いーモニタリングポストは信用できない)

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ふくしまの今 2019


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4キロ離れてこの数字でありえない、0.08なのである

ただ百メートルもない森は10くらいあるのかもしれない

土台をコンクリートの足で固め、その上に鉄板を置き、そこに検出器を載せている。これでは矢ケ崎氏の言うように、地面に落ちた放射性物質から発する放射線が遮蔽され、肝心の検出器まで届かないのである。

国の放射線量デタラメ測定 文科省動かした科学者らの告発

こういうことかもしれない、コンクリートの土台がありそこからは放射線を検知することはできないからだ

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海岸の松は残っていた、多少高台にあり自然の松らしい
でもこれだけ残っていることは不思議である


双葉町で駅の通りなど0・5マイクロシーベルトで低い、でも山田地区から原発方面の森の道を行くと一番高い所で20マイクロシーベルトあるとyoutubeで報告されている
それは東電の人が計ったのではない、一般の人が機械で計っている
それは正確なのである、今や一般の人が放送局のようにして報告しているのが普通であるだからビデオカメラで撮影する人がいた、二人でしていたから放送局の人かと思ったら違っていた
何か双葉町は長く人が入れない地域になっていた、でも今はどこでも入ることができる
ただ入れない場所はアーケードしていて人が守っている
でもたいがいは入れるのである

私が海岸の方に行ったらそういう場所があった、その森の坂の道の向こう側が4キロくらいに爆発した原発がある、だからひっきりなしにトラックが来ていた、4キロとなると一時は死ぬとされた、そのくらいに危険だった

そこで疑問に思ったのが放射線のモニタリングの計測器を見たら0.05マイクロシーベルトと表示してあった、こんなことありえないと見た
それでそこのアーケードで守る人に聞いた
なぜこんなに低いのかと聞いた、その人は結構話できる人だった
何か話できない人がいるし話ししたくない人もいる
なんでもこの辺は津波がきて放射性物質も洗い流したせいだとか言っていた
すると爆発したと同時に津波が来て放射性物質も流れたのか?
これも良く科学的にわからない話である

ただモニタリングポストの値は確実に半分と見ていい、それは飯館村で村民が指摘していた、ごまかしたとしていたからだ
それで私自身も計ったらモニタリングポストの回りは確実に倍以上あった
なぜならモニタリングポストの下の土をとって計っていたからである
低く見せるためにそうしていたのである、そこで大成建設の人が働いていた
そこにごまかすことをしていたとなる

その人が言っていたことはすぐ近くの森は高いと言っていた
それはどれくらいかというとyoutubeでは20マイクロシーベルにもなっていた
それは原発に接近すればするほど高くなっていて最高でそうなっていた
だから原発との距離と比例して高くなっていたのである
近ければ近いほど高いのは当然だとなる
それから森の中の高いのは森に蓄積されやすいということがあるだろう
つた森は除染できないからいつまでも高いとなる
それで7割が森に囲まれた飯館村は森を除染できないので放射線を低くできないのである駅通りとかはやはり除染の効果があり低くなったのか、0.5はまだ低くすぎる
というのは浪江町から双葉町にバスで入った時、浪江町で0・5であり双葉町に入ると
7マイクロシーベルトになっていた、それには驚いた

なぜこうして大きな差が出たのか?

それは原発の爆発で出た放射性物質はブルームとなり雲の塊りのようにして流れたからである、平均に分散するというのではなかった
それとその時の風向きが影響した、東風が春に海から吹きそれが山の方へ向かって吹いたその時運悪く雨とか雪がふり放射性物質が雨と雪とかについて降った
それで山側は高くなったのである
海側は低いということは確かである、それで浪江の東電の人が町長が山の方が安全だからと津島に逃げた、でもそこは一番放射線が高い場所になっていたのである
でも東電の人がいて海側の方が安全だとして町民も従って街の方へ引き返した
つまり海側の方が安全だったのである、海側は低いのである
海の方に放射性物質が流れたからである

だからあそこの海の近くが低いことはわかる、でも0.05というのは納得できないのである
いづれにしろ双葉町にしろ大熊町にしろ回復不可能とも見た
住民は帰ってこない、町は放棄されたとなる、ただ廃炉事業に40年もかかるとしたら
その仕事は延々とつづく、そのための施設が必要でありそこで働く住民が必要になる
原発ができたときから原発の町と化して東電の社員のようになっていた
下請けで働くとかなんらか東電と関係していた、もう東電なしでは原発なしでは成り立たない状態になっていたのである

でも津波であれだけの松が海岸に残ったのが不思議である
南相馬市では特に鹿島区の人工林だった松原は一本の松も残らず消失したからである
あそこは多少高台になっていて残ったのか不思議である
あれは人工林ではなく自然林の松のようだ   
双葉町は津波で死んだのは20名くらいである、だから被害は少なかった
海岸には港もないし人もあまり住んでいなかった
久ノ浜のようだったらもっと被害があった、だからその点で津波だけだったらこんな被害になはならなかったのである

いづれにしろこの放射線の被害は森はほとんど除染不可能であり放射線の量が減らない
森の中で放射性物質が循環する、木の葉が散って落葉になっても放射性物質は消えない
セシウムは30年消えない、プルトニウムは二万年消えないという恐ろしいものだったのである、ただ見えないから意識化することがむずかしい、でも機械があれば誰でも計測できることが違っていた
コロナウィルスとなると計測できない、だからそのことで不安が増すのである
そしてその感染者の数におびえていることは同じだったのである
とにかく数値が問題になるのである、数値に一気一憂する
でもそんなに心配しなくてもいいというのはコロナウィルスの場合であり放射線量は素人でも正確に測れるのである、それは科学に詳しくなくても素人でもわかるのである

だからわからない素人は何も言うなというのは間違っていた
私が駅のボランティアでJRの駅長でも管理している人に仙台行きといわき行の表示を跨線橋にしてくれと言ったらしてくれたからである
原発ではそういうことはありえないのである
だからそこは完全なブラックボックスになっていた、安全神話というブラックボックスになっていた、それがどれほど危険なものか、今になってわかったのである
ただ時遅しとなっていた

この世の中は権力というのは怖いものなのである、権力によって科学でもゆがめられる
社会も歪められる、そのく権力が誰が持つのか、それが大問題なのである
原発の場合は権力をもっている全部で「安全神話」を作りブラックボックス化した
政治権力、官僚の権力、科学者(御用学者)、マスコミ・・・・・
これらが一体となり安全神話を作った、こうなると誰も逆らうことができなくなっていたのである、カルト宗教団体とか創価なども一枚加わっていたし意外と宗教団体は原発に抵抗しない、推進派になっていた、創価の場合は大成建設と富士山の正本堂建設で受注して密接な関係になった、つまり権力と権力は結託して利益を計る
利益でみんな結び合うのである

そして創価の雑誌の潮とか第三文明では原発を宣伝して宣伝費をもらっていたのである
何でも御利益ならとりつくからである、そして利益を配分するということでは同じなのである、第一仏教でも神社でも御利益宗教である、集団化すればみんなそうなる
御利益を配分するには東電のような有力企業にとりつくとなる、それは暴力団ともにているとなる
官僚は天下り先が東電でありマスコミは電事連からでも800億円が宣伝費として出ていた、それでマスコミで反対することはなかったとなる
東電によって爆発したとき朝日新聞ですら幹部が中国に招待されていたからである  

民主主義でもマスコミが報道を独占したように公平な報道もなかった
ただマスコミはテレビ六局で報道を独占していただけである
なぜら他は報道はできなかったからである、なんかyoutubeが生れて双葉町をビデオカメラをもって取材していた、放送局だと思ったら違っていた
別に個人的youtubeで双葉町のことを報道している、それが参考になる
つまたテレビ六局時代の独占は終わったのである
こうしたプログなど誰でもできるしたいしたことないともみる
でも意外と文章でも写真でも主張したり報道できるのである
つまりマスメデアとメデアでありその内容よりメデアであること報道する装置をもっていたことによって権力をもったのである
だからテレビウィルスが強力なものとなったのでてある

このようにあらゆる巨大権力が合体して一体となればそれに逆らうことは不可能である
「安全神話」とか創価の選挙の不敗信仰とかも似ている、戦争中の現人神(あらひとかみ)信仰の不敗神話もそうである、それはあくまで人間が作ったものであり絶対に安全などこの世にないのである
だからこそ津波であれバベルの塔のように崩壊したのである、神によって打ち砕かれたのである、この世の権力がいかに巨大でも全能の神にかなうことはないのである
絶対安全などこの世に人間の力で作りだせないのである
原発というのは確かに事故なのだがそれは巨悪でもありそれが津波によって自然災害によって暴かれたということがあったのだ   

まずこれだけ巨大化した権力になると対抗できないからである
だからこそ神の力によって砕かれたのである、つまり神がどこにいるともなるがなんらか神が人間に作用することがある、コロナウィルスでもグロ−バル経済をとめたようになんらか神の力が働いたのかとも思うからである
第一世界的なグロ−バル経済など止めようがないからだ
そんな力もまた人間にはない、でもこのまますすむと世界中でグロ−バル経済、資本主義経済の横暴が覆い地球自体が滅びるとまでなる、生態系が破壊されるて住めなくなるとまでなる、その実例が原発事故だったのである
一時吉田所長が東北に住めてくなると恐怖したからである
そんな空恐ろしいものを作ったことが問題だったのである、だから罰当たったともなる
神からの警告として津波があり原発事故になったともみるのである 

新しくできた原発伝承館を見た、600円の入場料をとられた、映像がほとんどであり見るべきものがなかった
そういう映像は前に見ていたからである、ただここも建物だけは立派だった
中味はなかった、何か建物とかは立派になった、駅でもエレベーターがあるのでうらやましく思った
それは避難区域になったところは建物だけは立派なのである
でもそこに住む住民がいないのである、そのアンバランスが何か原発事故の復興を象徴していたのである

posted by 老鶯 at 21:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

双葉町を十年ぶりにたずねるーその歴史から(1) (私の父親が酒屋で働いていた)


双葉町を十年ぶりにたずねるーその歴史から(1) 

(私の父親が酒屋で働いていた)

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明治4年7月14日(新暦 : 1871年8月29日) - 廃藩置県により中村県が成立する。
明治4年11月29日(新暦 : 1872年1月9日) - 中村県と平県が合併されて磐前県が成立し、現在の双葉町域は同県に属する。
1876年(明治9年)8月21日 - 磐前県・福島県・若松県が合併し、現在の福島県が成立し、現在の双葉町域は同県に属する。
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行にともない、標葉郡新山村(しんざんむら)と長塚村が発足する。
1896年(明治29年)4月1日 - 標葉郡が楢葉郡と合併し、双葉郡となる。
1898年(明治31年)8月23日 - 常磐線長塚駅(現在の双葉駅)が開業する。
1913年(大正2年)2月1日 - 新山村が町制施行して新山町(し

双葉町は、標葉(しねはorしぬは)と楢葉(ならは)の二つの葉がある。
この周辺には古墳が非常に多く、夫沢横穴古墳の長者原の地名、
標葉郷夫沢村は相馬中村藩領。


地名としての「広野」は天正10年(1582年)の藩主 岩城常隆の時「北迫村に広野立つ」とあるのが初見とされていますが、江戸時代の初期ここに相馬路(南方の岩城平から北方の相馬中村までの浜街道)の宿駅「広野宿」が設けられ、「広野」の名称が使われております。

「浜街道」の名称はすでに8世紀初頭「道(陸)の奥」の国府 多賀城に通じる官道「海道」として敷かれていたことに始まります。

「続日本紀」の養老3年(719年)の条には「石城国始めて駅家一十処を置く」とあり、その一処がこの地に置かれた可能性も考えられます。

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双葉町の歴史は相馬藩からみると夜の森がある、夜の森とは夜は余のことだった
相馬藩の殿様が余の森と言ったからである
この辺は森で覆われていて磐城藩との境目であった
それで領地争いがあり、小良ヶ浜(おらがはま)というのも俺の浜だという意味であり境目だから起きたことである

双葉町は古代からの歴史があり末続(すえつぐ)が須恵、陶(すえ)から由来していて
島根県の出雲に末次(末継)の元があり渡来人が来た道でもある
前にも考察したように韓国の伽耶国のツノガノアラシトが鉄を求めて砂鉄を求めて来た道でもある、だから必ず諏訪神社が東北に多い、蝦夷といわれたとき出雲のことだったということでもそうである、そして島根県とかの方言のズーズー弁が東北のズーズー弁とにているというときそこに深い関係があった、つまり蝦夷というとき出雲と深く関係していたのである、だから出雲と古代は関係ずけられる

そのあと戦国時代になると相馬藩(中村藩)と磐城藩で争いがあった
その境目になっていたのが双葉郡になる、争っていても磐城藩内から相馬藩に移る人もいた、不思議なのは久ノ浜の大久川という地名である
南相馬市に大久氏とか大悲山(だいひさ)という姓がありこれの由来はここから来ているのだろうか?
なぜなら姓の発祥地は地名であり村に由来しているからである
末続(すえづき)は墓地の八割が新妻の姓だった、新妻氏の子孫だとなる、それは磐城藩から移り住んだともなる
要するにここは江戸時代に境界でありそれを知る必要がある

それと双葉郡はもともと新山村と長塚村がありそこが宿場となっていた
なぜ二つの村が宿場となったかというとそれは村で中村藩の人を迎えるのに負担になったから分担したのである、宿場とは村の人にとって負担になっていたのである
常磐線が通った時、双葉駅はなかった、長塚駅だったのである

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この双葉町と私の父親と深い縁があった、なぜなら私の父親は葛尾村(かつろう)から新山の酒屋で丁稚として働いていたのである
今の富沢酒屋店との隣にあった酒屋だったのである
富沢酒屋店には古い煉瓦の煙突があり相当に古いことがわかる
明治時代からもあったのかもしれない、酒屋はたいがい古い、酒屋で働く人が多かったからである

そこで私の姉が良く銀行のことを言っていた、子供の時、父親の酒屋に行き銀行がありそこで遊んだとか言っていた、その当時銀行があることはめずらしいことだったのである
だからそういう話を聞いたから人間はそれで思い入れが生まれる
とにかく私の父親は葛尾村から出て双葉の新山で働き暖簾分けして鹿島町に来たとなる
また母親は原町で警察署長していたが警察だから転勤していた
それで名前はトミ子なのだがそのトミは富岡と関係あるらしい、つまり富岡で生まれたからだとか言っていた、姉はハマ子と名付けられた、浜は磐城か小名浜で生まれたからだという、その土地に生まれたのでそう名付けられた
これも昔となり私の家族はみんな死んでしまった
こうして双葉町とは縁がある、やはり相馬藩内縁戚関係がある
葛尾村でも双葉町でも浪江町でもそうである、新地町とも関係がある
なぜなら私の父親の前の妻は新地の人だったからである、今も私の墓に眠っているからだだから相馬藩内に関係していたのである
昔は近くの人と結婚することが多いから縁戚関係になっているのが多かったのである

ともかく町がゴーストタウンになるとこうした歴史とか思い出が消失してしまう
それは古い歴史だけではない、何かそこで培われた思い出が消失する
そして老人になるとわかるがみんな親でも死んでしまう、すると後に残るのは思い出だけなのである
それで私は一人になり延々と家族のこと家のことを思い出して短歌とかにしている
家に愛着がある、それはどこでも同じなのである
家の愛着はみんなある、そこで暮らした思い出がありその思い出はその土地と深く結びついているのである、だから家がなくなるとまた街全体がゴーストタウンになるとそうした思い出が失われる、それが大きな損失となっていたのである
老人は思い出に生きる、それで老人は帰りたいとなるのである
要するに思い出がしみこんだ町が故郷になるからである

とにかくまるでそこは映画のロケのセットのようになった場所だった、それで写真をとりに来る人が多い、つまり前も小高などでそうだったがそういうことが継続している
興味半分で廃墟の街を見に来ているのである

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新山橋

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昭和22年に作られた、戦争が終わり私の生まれた年だった

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この橋の近くの富沢酒店の隣に私の父親が働いた酒屋があった
でも戦前に倒産してなくなった


それで不思議だったのは出会い橋という石の橋だった、作られた年代も書いてあり
水が流れてひびいていた、でももうここには出会いがなくなった
なんともわびしいとなる、ただ興味本位で見に来る人は多い、こういう街全体が廃墟化したのはなかなかないからである
でも現実は貴重な歴史でも思い出でも失われたことを知るべきである 

石の橋出会い橋かな流る水ひびくも逢わじ秋の日暮れぬ

ここで出会ったが今や逢わない、鹿島の落合橋のことをプログで書いたが何か橋というのは人が出会う場所なのである、ここで人が出会っていたのである
石の橋は新山橋であり出会い橋と名付けた橋は元からあったのではなく何か勝手に出会うからと名付けた
ただ川としては小さい、でも水が結構流れていた、雨が降ったからだろう
自然でも人間が住まないと活きてこないことがある、つまり人間化した自然としてあるからそうなる

我が父の新山働く酒屋あり故ある地や秋の日暮れぬ     

我が父の酒屋に働く双葉町姉は語りぬ虫のなくかな 

私は姉と母と60年住んでいたから忘れられないのである、だから延々と書いているのである、その思い出に連なるものとして双葉町があった
でも双葉町という名前ではない、長塚と新山という名前に親しみかある
何か地名というのは思い出として記憶として心にすりこまれる
双葉町となったときそういう記憶が失われるのである、ここに合併とかで失われた地名の問題があった
人間の記憶が長い年月で作られる、そういう人が生きた記憶が歴史でもある
それで老人は故郷に帰りたいとなるのである
その喪失は思った以上に大きなものなのである
つまりそうした記憶が貴重なのはそれこそ生きたことの証だからである
そういう記憶がもう作れない、あとは死ぬだけになってしまったからである
記憶こそが生きた証(あかし)になっているから姉は認知症になっても昔のことを語りつづけたのである

私の家族が死んだとき本当に悲しかった、でも今になるとだんだん記憶がうすれ歴史と化してゆく、その自分の家の歴史に連なるものとして双葉町があった
やはり親までは深く継続した歴史というのではなく生々しい記憶として残っている

posted by 老鶯 at 08:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連