2020年11月11日

晩菊、冬薊、芒(冬の写真三枚)


晩菊、冬薊、芒(冬の写真三枚)

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晩菊やふるさとの小径飾り暮る

晩菊のここに落ち着き咲きて暮る

残菊のあまたや暮れむ田舎かな

十数輪ここに暮れむや冬薊

夕日さし芒なびくや電車行く



写真とるようになってから何でもないものをカメラを通してみる、すると見えないものが見える、またカメラで肉眼では見えないものを見ようとしたりする
だから意外とカメラの効用は大きい、今まではただ撮り記録するだけだった
今は一シーンでもより効果的に美的に画家のように残そうとする

その一つの例が冬薊の写真である、最初薊だけを撮っていた、でもそれだと季節がいつかわからない、それで枯れた葉を映し背景に枯野があり冬の没する陽がさして明るくなっていた、これで季節がわかるともなる

もともと自分は正岡子規の写生俳句から俳句をはじめたし短歌もアララギ派とか写生を基本にしてはじめた
だから写俳という分野が生まれたことは新しい芸術の分野が生まれたのである
それはデジタル化されたカメラが生まれた時生まれた
なぜならいちいち現像していたらとても表現できないからである

デジタル化するとインタ−ネットとつながり即座に発表もできるからだ
インスタグラムなどでもそうであるし他のSNSでもそうである、ただ自分はしていないいちいち答えるのがめんどうになるからだ
毎日こうしてプログに出すだけで時間が撮られるからできない
家事を全部していると何かかにか仕事がありできない

何か晩菊とか残菊というとき淋しい感じになるが実際は多く咲いているとそういう感じでもない、ただ晩菊とあれば淋しいという感じになる
やはり年取ると晩菊であり残菊をイメージする、何かここに落ち着きたいとなる
でも経済的に毎月電気水道ガスを払えない貧乏になると落ち着けないともなる
それが田舎の問題でもある、ある程度の資産があり貯金でもあり余裕がないと田舎でも落ち着いて暮らせないのである

どうしていい写真を撮るかというとき今回芒の写真をとった、これは鉄道のレールの近くでありこれを電車と一緒にとるといいと見た
だから次はそれを試してみよう、写真はある場所を選び構図を選らびとる
だから旅して移動していると写真はとりにくいと思った
地元なら構図を何度も同じ場所に行くから設定できるからいいのである
写真をとることは結構な労働なのを知った


2020年11月10日

資本主義社会で商品化されて切り売りされる人間 (全人間を生きるにはアウトサイダーになるほかない)


資本主義社会で商品化されて切り売りされる人間

(全人間を生きるにはアウトサイダーになるほかない)

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材料として人間は商品化され切り売りされる

このサイトは引用もできないのか?人間が派遣されるのではなく、人材が派遣されるという、資本主義社会の冷酷な現実をこの人はいつも書いている
確かに人材というとき材は材木であり木のことなのである、木は一つの生命体であり
森の中で生きている時は全体として森の命として存在していたのである
でも一本の木が切られて材料となるとき森の全体の命から切り離された材料になったのである、商品となったのである
それで森に生活していたソーローはその森の木をただ商品として見ている商人に怒ったのである、ソーローは森の住人であり森全体の中で生きていたからである

資本主義の矛盾を冷酷さはマルクスが人間の商品化を人間疎外として指摘していた
だからめずらしいことではない、人間はみんな商品にされているのが資本主義だとなる
だからそれは社会全般でそうなっている、婚活とかも人間を商品化しているという感覚になる
商品として価値あるものが男女とも選ぶ市場を形成しているからである
それは遊郭の遊女でも商品として並べられて選ばれて金で買われていたのと同じである
一見婚活は現代的合理的なものとして見られるがやはり資本主義的現代社会の一端として現れたものである
そこでなかなかうまく選ぶことができないというのはどうしても男女とも商品化するとき商品価値が高いものを選ぼうとする、すると互いに望みが大きくなり選ぶことがむずかしくなる、そして選ばれる最高の商品はみんなが欲しい商品なのだから簡単に手に入らない競争も激化して手に入らない、でもいつまでも相応の人がいいとはならず高望みして決まらないとなる、つまり人間が商品として陳列させていることなのである
婚活を主催する人は昔なら仲人なのだがその商品をすすめる商売人となっているのだ

何かこのことに興味をもったのは私は森を詩で追求して来た
木の詩も書いてきた、それでその見方が面白いと思ったのである
このサイトではもともとユニークな見方をしていたのである
なぜ現代社会ではこうして人間が商品として能力にしても一部が切り売りされるのか?
それは資本主義社会だからというのでもない、現代文明がたどりついた結果なのである
文明そのものが非人間的なものである

人間が派遣するのではない、人材を派遣する

このことがまさに非人間的なことなのである、人間というとき森のように全体のことであり人材とはその森から切り離された木という材料にすることである
その時森という全体の命から切り離されたものとなり生命としては死んだものともなる
第一森全体を派遣したりできない、森は全体でありそれは一つの命として存在しているからである

また人間を派遣するいうとき、人間とは全体のことである、部分のことではない、なぜなら人間一人は様々な要素があるからだ、家族の一員であれば妻であったり母であったり
家族の中の一人として機能している存在である
その家族という全体から抽出して一部の能力を人材として採用するのが会社なのである
そもそも社会の仕事は人間的なものを切り離してある一部分の能力だけを見て採用する
人間全体を見る人はいない、そんなことしたら会社が成り立たない
ただ高度成長期はそういうことがあった、家族全体の福祉とかを担っていたのである
だから運動会とか社員旅行とか様々なことで家族のようにもなっていたのである
それは会社が高度成長で終身雇用ができてそうなっていたのである
人を雇うとその人の頼みとか聞いているときりなくなるのである
何で困ったとか助けてくれとか病気だから休ませてくれとかな本当に切りなくなる
でも資本主義社会では冷酷である、もう働けないからやめてくれと首にされるだけなのである、そして代わりはいくらでもいる、いないなら外国から連れて安く働かせればいいとなる

とにかく人間は資本主義社会だけではない、社会主義社会でもどんな社会でもこのようなことが起きている、奴隷がいたこともそうである、現代社会はあからさまな奴隷ではないにしろ商品化されて奴隷化されているのである
だから社畜だとか自ら言っていることでもわかる、それがわかっているからそう言っている
では資本主義社会の人間商品化から脱するにはどうすればいいのか?
それは皮肉にも株でもなんでもいい、一億円くらい稼いでこの社会から離脱してアウトサイダーになることだともなる 

なぜ引きこもりとかがこれだけ多くなるかと言えば人間の商品化とか奴隷化が嫌だからともなる、親でも援助してくれれば働かなくてもいいとなるからだ
それは問題あるにしろ商品化とか人材派遣とかそういうことからまねがれない
そうならないためには金があればできるとなるからだ
親に援助されていてもそれができればその方がいいとなる
そうなったのが自分自身だったのである、20代では底辺労働者だったけど30以降は働かず旅ばかりしていたし会社にこきつかわれこともなかった
その間は人材とされることもなく自然とアイディンティティ化する詩を書いてきたとなる森全体を生きようとしてきたのが自分だったとなる

ただこういうことはすでに2000年前から指摘されていたのである
老子とか荘子の思想がそうである      


「樗と呼ばれる大木があって、その太い根元は節くれ立って墨縄の当てようがなく、
小枝はかがまって定規にかからない。
道ばたに立っているのだが、通りかかる大工は振り向きもしない」というのです。

要するに無用の木なのです。

『荘子』では、「そんな木は無用なるが故に、用材として伐採されることがない。だから大木になる


人材にするも人材になりえない、材料になりえない人間を無用の木に例えたのである
無用の木こそ本来の木の命を生きるものであった、木という全体を生きるものだった
でもそれを人間社会から見ると無用になるのである
そうなるためには引きこもりになりアウトサイダーになるのである
そして最もあるものには値段がつけられないしまた無料なのである
景観は最も素晴らしいものでも金で計れないしそれに直接金を払う人はいない
景観のいい場所のホテルとか旅館とか温泉はその景観によって価値がでる
でもそもそも景観自体は無料なのである、最も価値があるものがこの世では実は無料なのである、富士山が見えるからといって富士山に金を払う必要はないのである

いづれにしろこの世に適合すること自体働くこと自体、人間の人材化であり部品化であるそれはどんなに優秀な人でもそうである、医者にしても人間の体を全部知る人はいない
体の一部分の専門家であり全部のことはわからないのである
これだけ複雑な文明で人間はみんな機械の部品のようになっているのである
だから職業につくこと自体部品化をまねがれない、人間存在の卑小化なのである
働くかないものは生きる価値がないとかされるが全人間的価値を志向すると社会の一員となることは社会の部品化なのである
宗教でも会員一人となるとき認められるが一人だと誰も認めないのである
それで天才的人間はアウトサイダー化したのである

一般的には天才でなくても老後は会社人間を離脱して全人間として生きるべきだともなるいろいろなしがらみを脱して大自然に融合する、それが可能になる
老後も働くというのは問題である、経済的な問題がなければそれが可能になるのである
社会のためにとかボランティアするにしても利益なしでするべきでありただそこに生きがいを見出すのである、ただボランティアには様々な問題があり簡単にはできないのであるだから荘子の無用の木になれとなる、社会の用なきところに自然の大いなる用があるとなるからだ、社会の用とは人材として一部を切り取られた用だからである
全人間としての用は社会には決して与えられない、それだけ複雑でありもう社会というのは怪物であり全体は知ることは不可能だからである

山津見神⇒羽山津見神(羽山戸神)の関係 (なぜ羽山神社が多いのか?)


山津見神⇒羽山津見神(羽山戸神)の関係

(なぜ羽山神社が多いのか?)



よく似た名前の神…ハヤマツミ(麓山祇・羽山津見神)

死んだカグツチの体から生まれた神の1柱が「ハヤマツミ神」です。ハヤマは「山の端」という意味で、山の麓、山の入り口という意味です。「ハヤマツミ神」と「ハヤマト神」はほぼ性質が同じがかなり近い神と考えていいでしょう。

日本では山に穀物神が住んでいて、その神が里の畑に下りて、畑に宿って穀物を育てると考えていました。だから山は異世界の入り口であり、良い穀物神を宿す山は特別視したわけです。それが「ハヤマト神」だと思います。

『古事記』だけに出てくるマイナーな神に羽山戸神という神がいる。系譜は大年神(オオトシ。『古事記』において須佐之男命と神大市比売(かむおおいちひめ・大山津見神の娘)の間に生まれた)と天知迦流美豆比売(アメチカルミズヒメ)の間に生まれた神と言う。

羽山戸と羽山津見(麓山祇)は「羽山」の部分を同じくし、『日本書紀』訓注に「麓、山足を麓と曰ふ。此に簸耶磨(はやま)と云ふ」とある。よって、「羽山津見」のハヤマは端山の意で、山の麓に解され、奥山津見に対応する、と言う。地名には、羽山、葉山、早馬等があり、「は(端)、やま(山)で、平地に接する山のこと」とか、「山の端」の意



相馬地域に多いのは綿津見神社である、それと対となった山津見神社がある
それは飯館村までつづいている、飯館村の佐須にある山津見神社は有名である
また綿津見神社も対なしてあり小社ではない、なぜこの神社がこの辺で特別多いのか?
それがこの辺の古代の特徴である

そして次にわかったことは羽山神社というのがまた多いのである
これは山津見の神から生まれたものとしての系統である
山津見と羽山は一体である、なぜなら羽山津見神というのもあるからだ
山津見のの前に羽を置けばそうなる
それで「本邦小祠の研究ー岩崎敏夫」があるのもそのためである
それだけ羽山神社が多い、また地名としても多いから研究の対象となった

それは山津見神と一体のものであり元来は山津見神から派生した神であった
この羽山神が多いのは稲作と深く関係していたからである
山が水の供給源であり稲作には水が欠かせないから信仰の対象になった
それが奥山ではない里山となっていたのはそこが生活の拠点となっていたからだろう

ただ水の不思議は奥山だと平地で水がないときも水が流れている、山には水が絶えることがないのである、その水が里に流れて来て春には田植えがある、それで先祖が春には山からおりてきて実りをもたらすという信仰が生まれた

とにかく日本の神社の淵源をたどると古いのである、古事記まで連なる古いものなのである、そしてこれらの神が出雲系だというのも不思議である
神々の由来をかずねると出雲にある、そして蝦夷と呼ばれた人たちは出雲系だとしている大和より先に出雲があったとなる  
丸森町にも山津見神社があり羽山神社があり祭りが行われるている
これは全国的にも多い神社なのである、一地域のものではない、その系統をたどってゆくと古事記の記述にたどりつく、

羽山戸(端谷間門)は羽山(端谷間)か山戸(谷間門)に分けられてもおかしくはない。おそらく後世になり、山と谷間(やま)が混同するようになり、ヤマは「山」に一本化され、谷間(たにま)は苗字が多少残っているようだ。

Tomのスペース

このサイトの説明が的を得ているのか?
山(やま)とあるがこれは当て字である、日本人がヤマと言った時、山を発見したのは谷間のことだったのである、谷間からは水が流れて来る、それは稲作に欠かせないものだったからである、高い山を意識したのではない、生活に密接なものとして谷間(やま)を発見したとなる、そこから羽山信仰が生まれた、奥山は別なな世界だった
南相馬市の鹿島区の栃窪村にも羽山神社がある、それは奥山ではない、村の入り口であるただ奥山から水が平地に流れて来る地点でもある

なぜこの神に注目するというと第一大和(やまと)というとき山戸であり山の入り口なのである、そして大和と言ってもそれが生まれたのは小さな一地域のことでありそれが日本を意味するようになった、つまり日本にとって山の入り口とか羽山の地域が重要な地域だったのはそこから水が流れてきて稲作に欠かせないものだったからである

いづれにしろなぜ綿津見神社と山津見神社とそれに連なる羽山神社が多いのか?
これは日本がの成り立ちと深く関係しているのだ、綿津見神社とは海の神であり海を離れて日本はありえないし、また山津見神社があるとして山を離れて日本はありえないのである、海彦山彦の神話もそこから生まれて来た

その生業(なりわい)を 雨降らず 日の重(かさ)なれば 植ゑし田も 蒔(ま)きし畑も 朝ごとに 凋(しぼ)み枯れ行く そを見れば 心を痛み みどり子(こ)の 乳(ち)乞(こ)ふがごとく 天(あま)つ水 仰ぎてそ待つ あしひきの 山のたをりに この見ゆる 天(あま)の白雲 わたつみの 沖つ宮辺(みやへ)に 立ち渡り との曇(ぐも)りあひて 雨も賜(たま)はね

ここでは山だけでない海にも祈っている、それは綿津見神なのでる、山だけでは、海に向かっても祈っていたのである

2020年11月08日

小菊の群生写真 (新しいレンズを買ってとった)


小菊の群生写真

(新しいレンズを買ってとった)

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下は一部をきりとった、それでま違った見方ができる


新しい中古のレンズを買った、それで試し撮りした、一万六千くらいだけどこれは前よりいいレンズかもしれない、レンズは多すぎてわからない、レンズごとに撮った感じが違っくるとなるとカメラ本体もそうだがレンズが大事になる
ただ自分は本当に簡単なカメラしか使っていなかったからわからなかったのである

これは陽が雲に隠れ落ちてゆくころを撮った写真である、太陽はすぐに雲に隠れた
田た撮った時は陽がさしていた、写真はこうして陽の挿し具合とかで微妙に変わるのである、だから変化するから刻々変わるからそのチャンスを逃さないようにすることだとなる

本体はソニーのα6000でありそんなにいいものではない、でもきれいにとれるのはレンズも関係している
背景がぼけているのがいいのである、私が撮るのは花が多いから背景がぼけるのがいいのである
今回は5、6枚とって一枚が成功したとようである

ただ季節的には晩菊である、でもそんな感じはしない、にぎやかである
だから晩秋とは感じない、菊はにぎやかに咲いているというだけである

でも不思議なのは身近な所でも写真になるところがある
身近だと何かありふれて新鮮さがないからである
でも写真にとるものがある、写真を撮ることによって美を見出してゆく作用があると思った、だから写真の趣味が一番多いことが理解できた

ここは街の通りなのだけど店もない、畑がありそこにこれたけ小菊が咲いていた
菊だけ咲いてにぎわっているとなる、ここでは人がたりないある
ただここだをとれば美があるなる
タグ:小菊の写真

日蓮の立正安国論の時代と似ている現在 (家が乱れるのと国が乱れることは似ている)


日蓮の立正安国論の時代と似ている現在

(家が乱れるのと国が乱れることは似ている)



立正安国論にある「国を失い、家が滅んでしまえば、どこへ逃げることができるだろうか。あなたは自身の安全を願うならば、まず四表の静謐(=社会全体の安穏)を祈ることが必要ではないか」

たとえその国に、正しい教えがあったとしても、国王がそれを広めず、僧侶をはじめ、信者たちがそれを敬わず、供養もしなければ、神仏はその国を捨て去るであろう。その代わり、多くの災難が起こり、天変地異や疫病が流行り、飢餓が続いて、多くの他国の兵士が国を侵略し、人々は多くの苦しみを受けるであろう』と書いてあります。

『仁王経』には『国が乱れる時は、鬼神が騒ぐ。鬼神が騒ぐために、多くの民が乱れる。さらに外国が侵略して来る。天変地異も起こり、国の中も悪い賊が人々を苦しめる』とあり、また『この世の王は、過去世に仏に従った功徳によって、現世で王となったのである。そのため、その王が正しい教えに従わないならば、神仏や善神もその国を捨て去ってしまうのである』とあり、起こるべき災難について、『太陽と月の運行が狂うこと、星の運行が狂うこと、さまざまな大規模火災が起こること、異常気象が起こること、暴風が起こること、干ばつが起こること、他国が国を侵略し国内でも内乱が起こること』の七つの災難をあげています。



国が乱れるという前に家が乱れることを私自身が経験した、介護のためにまた自分の病気のために崩壊寸前になったのである
その時自分の家に来たのは悪鬼だったのである、家が乱れ弱体化したとき襲ってきたのである、それは金を求めてそうなった、家がそのために荒らされるだけだった
そのことを延々とプログに書いてきた

なぜそうなったのか?

それは家が乱れたからである、一人は認知症になったり自分自身が病気になったりつづいて家族の一人が介護になったり災難がつづいたからである
こういう時はとにかく連続して悪いことが起きてくるのだ
そして人は同情したりしない、その弱さをついて攻めてくるのである
それが人間の実体なのである、なぜそうなったのかというとみんな金に苦しんでいたからである、事業に失敗した人は借金で苦しんでいる、するとこの際金を得ようと脅迫のようなことをしてくる、また引き入れた人が泥棒だったりある者は金にめんどうみてもらへと言って狂気のようにして去って行った
それくらいの関係しかないこともあったがこのように家が乱れる時、悪鬼が侵入してくるのである                                      

これは家のことだが国家レベルでもそうなのである、国が乱れる時悪鬼が侵入してくる
無法地帯のようになり盗賊でも跋扈するような状態になる
その時、聖人とか善神は去るとなる、国はただ悪鬼の住処のようになってしまうのであるその具体例がシリアである、シリアでは国を失い住む所もなくなくなり悲惨の難民へと追いやられた、まさに亡国の民となったのである
国を失うということはそれだけ恐ろしいことなのである
それは家が乱れると似ているのである、ただ個々の家が乱れても国家があればシリアのようにはならない、国が乱れて国を失えばもう家族も維持できないのである
原発事故でも故郷を失い廃墟と化して修復できなくなった、ただ逃れる場所がありそこに新築の家を建てて別な生活ができた、だからシリア難民と格段の差がある
それで裕福になった人たちも結構多いからである
だから原発事故でも得したとも言われるのである

日本は今戦後70年過ぎて国難の時代になったのである、明治維新は戦争が終わる70年前であった、その時も国難だったがここは奇跡的に乗り切ることができた
そして70年後アメリカに負けて敗戦となり焼野原になった
それから70年過ぎてまた日本は国難の時代になった、国難の時代になると日蓮の時代のように次々に悪いことが起きるのである
疫病はコロナウィルスであり飢饉は経済的困窮であり外国からの日本への侵略などが起きて来る、内憂外患となる
本当にそういう危機が起こりつつある
中国が尖閣諸島をとりにきているしやがて沖縄を占領するとかなる
ロシアは北海道をとりにくるとかにもなる、アメリカは引き上げてその後にそうなる
なんといっても中国は強大でありそれに対抗できない、そして日本は分断される
そもそもなぜ津波とか原発事故とかコロナウィルスとか災難がつづくの?
これ自体が不可解なのである、それは日蓮が言うように人心の乱れがあり法華経に帰依せよと言ったのはそのためである

だから日蓮の立正安国論の時代になる、ここで仏教の教えを基にしている、正法を信じないから国難を災難が起こるとしている、それは国内自体がもう人心の乱れが頂点に達している、金だけを求めて人々は獣のようになっているからだ
金しか何も見えない、そういう時、悪鬼がそれに乗じて跋扈することになる
それがまさに自分の家に起きたことだからである
国が乱れる時も同じなのである、日本はアメリカと中国によっても分断される
自民党がいたとしてもここでもアメリカよりと中国寄りがいる
創価などは異常に中国よりである、それで二階堂氏と協力できたともなる
でもアメリカよりもいるから自民党も二つに分断される、また左は中国寄りである

日本の国内も二つに分断される、明治維新の時は一つにできてまとまることができた
太平洋戦争でも一億総火の玉とかなり挙国一致になった
でも今度は簡単にはいかない、戦前はまだ日本人として一致したものがあったからである今はそういうものがない、ただ金だけを求める日本人になったからである
国はすでに乱れているからだ、何をもって挙国一致になるのかそれがない
そこでカルト教団などが跋扈してさらに乱れる、その人たちは国のことなど関係ない
権力が欲しいだけであり、御利益が欲しいだけだから国のために犠牲になることなどしない、国から御利益を得たいだけである

こういうとき日本はたちまち中国であれ抵抗力もなく占領されるのかもしれない
そして難民になるという人もいる、それだけの危機が見えるとういこともある
そんなことありえないというが何が起こるかもしれない
日本は金を愛すが日本を愛す心を失っているからである、明治から戦前は愛国心があったからだ、それを否定する人がいたとしてもやはり日本は国土愛とか愛国心の強い民族なのである、それも喪失したときどうして国を守れるのか?だから危機なのである

posted by 天華 at 13:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2020年11月07日

エホバの証人のボランティアにかかわる勧誘に注意


エホバの証人のボランティアにかかわる勧誘に注意

何かわからなかったが女性から電話がきた、最近ずっと電話に出ていない、変な電話が多いからだ、でも用事ができて電話に出る必要がありでた
それが失敗だった、何か駅のことでボランティアのことで聞いてきた
何か私のプログでも読んでボランティアしたい人なのかと思った
それでわからないままにいろいろ経験したことを声明した
こういうことはネットとかでもあり相手のことがわからないから話さなくてもいいことを話したのである
つまり対話するには相手がまずどういう人か知らないと対話できない
私はこういうものですが・・・聞きたいとならないと対話できないのである
だから今ではプログを書いても対話していないのである

自分なり詳しく駅でのボランティアのことを話した
何かその人も駅にかかわりボランティアするようなことを言っていた
長く話したが最後に(私はエホバの証人)ですと言ったので切った
何でそんなことを聞いてきたのか?
それはボランティアを通じて布教するためだったのである
そんなこと駅でできるのか、許可されるのかできない
そもそも布教のためのボランティアは本来のボランティアとは違ったものになる

とにかくなぜエホバではそんなにしつこく勧誘するのか?
その理由がわからない、創価なども一時しつこく勧誘して顰蹙をかった、今はあまりしていない、そもそもなぜそんなに会員を増やしたいのか?
それは会員を増やして権力をもつ日本に力を行使するためなのである
それは韓国系のキリスト教でも言える、外国系のキリスト教を受け入れることは危険なのである、その背景に国家があり国家が関与して他国を支配してゆくことがあるからだ
それで秀吉からキリシタンを禁止するようになった

宗教を説くのではない、会員を増やして一票をとり政治権力を得たいとかがある,
創価などはそうである、ただ日本人だということは違っている
エホバの証人の本部はアメリカにあるからだ
するとアメリカ的なキリスト教を受け入れることになる、それが問題なのである
それで内村鑑三はアメリカでキリスト教を学んでも外国人の宣教師を拒否した
金銭崇拝のアメリカを批判していた、そして日本人のいい点を見出した
こういうことは外国生活経験している人はそうなる、実際の生活から比較できるからそうなる
アメリカが何でもいいわけではないのである
別に布教するにも会員を増やすとか権力を得ることに関係しないならいい、でも実際はそうではない、アメリカが背後にありアメリカの意向が日本人にも反映されてくるのであるそうして日本人の良さは失われる
現実に戦争に負けてから日本人の良さは失われた、もう日本人ではない、アメリカ人になったのが日本だったのである
もちろんアメリカの良さもあるがすべていいわけでもないのである

例えば日本の歴史でも奈良時代に中国文明を習ったとしても宦官制度を取り入れなかったとかすべて取り入れていない、漢字でも取り入れてもその漢字の意味が同じ漢字でも中国人が意味するものと日本人が意味するものが違うようになったのである
つまり日本人化した漢字になっていたのである
それは仏教でも日本人化した仏教でありもともとの仏教とも違ったものになり鎌倉時代に全盛時代となる、親鸞とか日蓮が日本的仏教の創始者になったからである

内村鑑三のキリスト教は日本人的キリスト教なのである、武士道キリスト教というのもそうである、それはアメリカ的キリスト教ではない、アメリカ的キリスト教は宗教を事業のように考えて慈善を強要するのである、宗教を心の内面のものとしない
それで会員がふえれば成果としてみる、一人でも改心すればいいとかないのである
宗教が内面の心の問題だとするとき集団化組織することはない、せいぜい二人三人集まる所に私がいるだろうとキリスト自身が言っているからだ
そんなに会員が集まる所にいるのはサタンだともなるのである
なぜならその人たちは実はサタンに導かれているともなるからだ

キリスト教は別に教会に行かなくても布教されなくても聖書を読まなくても神を知ることができる、私は一回も教会に行ってキリストの話とか聖書のことを聞いたことがないのである、だからある意味で奇妙だとなる
ただ私は何か迷える子羊であり変なカルト教団に入ったりまた一時は工事現場から落ちて死ぬような経験したり天才的な師を崇拝して偶像崇拝になったりしてその偶像を拒否して神を知ったともなる
だから本当にそうなったことは奇妙だとなる

ただ私が求めていたのは死の問題であった、父親が中学生で死んで以来死のことばかり考えるようなったのである
それで宗教を求めるようになったのである、自分にとって宗教とは死の解決をすることだった
その死を解決するのは聖書でありキリストが死から蘇ったことで証明している
それは永遠の命がエホバから与えられるということである
さすればその人は信仰者になるキリスト者になるのである
かえってそうした集団組織に入ると永遠の命は得られない、まず聖霊は集団には与えられない、個々に与えられる、その経過も違っているからだ
組織集団化したキリスト教でも宗教は実際は宗教ではない、何かそこで信徒として支配するとかなる、だからプロテスタントには牧師はいないのである
牧師に支配されるたのがカトリックだからである

いづれにしろ「求めよ、さらば与えられん」というときそうしたアメリカ系統とか韓国系統でもそういう組織集団に求めることは危険なのである、そこで奴隷化されるからである宗教は奴隷化するためにもあるともみるからである
教会でもそうである、何かそこでも背後にアメリカなどからの金銭的援助があって成立しているかもしれないからだ
むしろ求める時、そういう場所に行かない方がいいともなるのだ
ただ正直は自分は特殊なものとしてそうなったから模範になれない
でもみんな教会に行って信者になると思っているがそうではないのである
そういう場所に行くことはかえって本来の信仰から離れ別な目的のために使われことになる、それは日本のカルト教団でもそうだったからキリスト教でも同じなのである

ともかく何らか会員を獲得するためにボランティアにかかわる
そんなことのためにボランティアをすることは間違っている
ボランティアで社会に貢献していることを言う、それも会員を増やす手段としてそうしているのである
一番の問題は背後にアメリカがいてその影響が日本に行使されることなのである
だから内村鑑三は外国の宣教師はいらないと言ったのである

何かコロナウィルスで一軒一軒勧誘にまわりにくいとか会合もきないとかなった
これはそんな宗教でもない集団勢力を弱めた、韓国のキリスト教のカルト教団でもクラスターが生じて教祖が謝った
ソーシャㇽデタンスとうのも密を避けるというのもそうである
そもそも宗教が集団示威行動するものではない、密室で一人祈れとキリストも言っていからだ
だから現代の宗教は異常なのである、また都会に密集して人が集中しているのも異常なのである
都会自体が密だからコロナウィルスを止められないとるからだ
だからこういうとは神からの警告なのかとみるのある



posted by 天華 at 20:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

晩秋に仙台から常磐線で帰る(詩) (仙台市に人が集中しすぎる)

   
晩秋に仙台から常磐線で帰る(詩)

(仙台市に人が集中しすぎる)

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仙台駅の東側き通り

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初冠雪ではないけど冠雪の蔵王が見えた

車窓に初冠雪の蔵王見ゆ

バス停に待つ人の列落葉かな

人に散る木の葉や街の通りかな

秋の夜や一人おりゆく日立木駅


宇多川に秋の鴎の数羽かな城下町なれ電車過ぎ行く



仙台駅の東側
新しき大通りは開けぬ
若き等の自由に行きかう
大都市は膨張して拡大する
人はここに集中する
我は常磐線に帰りぬ
都会のまぶしい夜の灯
やがて暗闇は深く
点々と灯の淋しく灯り
日立木駅で一人おりる秋の夜
我が町に帰り着く
なおかすかに残る虫の音を聴く
家族と今はなしも
猫一匹の待っている
我が家族の在りし日を想い
我が家に安らぐ
都会に人は集中しすぎる
田舎の街を歩む人はまれ
商店街はさびれている
田舎では木の葉は山に散る
木の葉は山深く散り土に還る
山の静寂につつまれ命を終えぬ
大都会の不自然な人工物
ここに本然的安らぎのなし
命は何か不自然に消耗される
我はここに老い老木のように
大地に根付いて朽ちてゆく
華やかな大都会は夢なりて消える
木の葉は山に散り土に還り
静けさにつつまれて眠る
月の光がさして明るい
ここでは電気でなくて月が主役である
天然の光で癒され深い眠りにつく  



キタムラでレンズを取りに仙台まで行った、このレンズが大問題だった
カメラと合わないレンズを買って大失敗した
キタムラだと店で受け取れば合わないと返すこともできるから便利である
レンズは中古品が多い、新品となると高くなる、だから中古品の市場が盛況なのである

仙台駅の東側が発展している、仙台市は相当に膨張し拡大している
若い人が歩いている、若い人の熱気がある
それは相馬市とか原町市とか4,5万の都市で今通りを歩いている人はほとんどいないからだ、その差が大きいと思った
仙台市には若者が集まっているのだ、東北福祉大学が東側の駅前にあった
そうなると便利である、街の中にあるのだから利便性がいい

とにかく震災以後仙台市に東北から人がさらに集まるようになった、津浪の被害地でもそうだし原発の避難民も仙台市に移り住んだ、仙台市に住みたいという人が多い
どうしても若い世代は都市に集中する
そして田舎は取り残されているようになっている
ただ常磐線沿線は電源地帯であり原発以後も相馬市と新地に火力発電所とかあり原町にある、それが経済を支えているともなる

最近は仙台市にもほとんど行かない、今年だって一年に数回しか行かない
前は一週間に一回くらい行っていた、その時は本を買うためだった
今は本は通販でいくらでも買えるから仙台に行く必要がなくなったのである

そして年取ると大都会はなじめない、人ごみも嫌である、疲れるのである
足が悪くせいもある、何か歩くと調子悪くなる、今回も歩いて足が悪くなった
歩きなれてないせいもある

仙台市は大都会でもまだ名取から岩沼辺りになると田んぼがあり阿武隈川を越えると田舎になる、だから東京辺りとは違う、自然がまだ身近にある
そして家に帰ると残る虫の音を聞いた、とても仙台では虫の音は聞けない
田舎だとまだ残る虫の音が聞こえるのだ

そして木の葉が散るという時、山に散る木の葉は都会の通に散る木の葉とは違う
木の葉は山に還り土に還るのである、それが自然なのである

大都会だけに人が集中するのはアンバランスである、もっと分散すべきである
4,5万の都市でも通りを人が歩いていないからだ
そして通りがあってもそこに店とか何か通りに花を添えるものがない
この辺の新しい通りは畑があり店は作られていないからだ

いづれにしろ大都会に人が集中しすぎる、小都市は何かさびれている
そのアンバランスは世界的なものであり大都会に人が集中している
いづれにしろ年取ると都会は嫌になる、ただ疲れるだけになる
ただ若い世代ばとうしても大都会に集まるのである
仙台市でも大学も多いし学園都市ともなっているからだ
若者があんなに歩いている光景など地方の小都市などでは見ないからだ
それだけアンバランスになっているのが現実なのである
ただ心が癒され安らぐ場所は田舎である、特に飯館村とか森に囲まれた場所は安らぐのである、都会が必要なのだが田舎も心の安定を得るために必要なのである
それがアンバランスになっていることが問題なのである




2020年11月06日

全員一致は無効である (規模が巨大化すると民主主義も全体主義になる)


全員一致は無効である

(規模が巨大化すると民主主義も全体主義になる)

その決定が正しいなら反対者がいるはずで、全員一致は偏見か興奮の結果、または外部からの圧力以外にはありえないから、その決定は無効だと考えるのです。

全員が一してしまえば、その正当性を検証する方法がない。絶対的無謬は無いのだから全員が誤っているのだろうが、それもわからない。したがって誤りでないことを証明する方法がないから、無効なのである。

全員一致の審決は無効というユダヤの考え方に学ぶ


民主主義というとき実際は歴史的にもいろいろな形態があった、そもそも話し合いで決めるというときも民主主義になる、何かを決める時とにかく話し合いそれから決める
だから民主主義というのは人間社会では原始的な社会でもあったとなる
ただギリシャのように3000年前とかに制度化されたとか現実に投票方式を採用したとかはない、その時代をみればわかる、どこの国でも専制国家である
エジプトでもそうでありペルシャでもそうだし中国でもそうである
こうした国は領土が広く平坦であり地形的に独裁国家、専制国家になりやすいのである
それだけの巨大な土地を治めるにはそうなりやすい、だからその延長として中国は共産主義となっているが現実に歴史の延長として独裁国家になっている
そうしないと治められないとなっているからだ

民主制というときなぜギリシャに生まれたのか?
それはこうした地形的なものが影響している、ギリシャは山あり海あり島ありとどこまでも平坦な平原とか平地とか砂漠の国ではない、非常に多様な地形なのである
その生活も漁業があり農業があり牧畜があり貿易がありと多様なのである
地形的には日本がと似た所がある、山が多いというのもそうである
そういう地形の中にポリスがうまれた、それも一万とか小規模なのである
だから今の民主主義とは違ったものであるが投票で決めるということは画期的なことだった、それまでは暴力で決めていたからである

それからヨ−ロッパの歴史の中で市民社会が生まれたというのが今日に継続されている
citizenと大統領選挙で争う人たちが服に記していたからである
パスポートでもどこのcitizenなのかが国籍とともに記される
citizenがアイディンティティになっている、日本だったらどこの村の出身かとなっていて市民というものはいなかった、civilizationとはcivilとは市民のことなのである
すると市民を理解しないとcivilizationは理解できないとなる
市民とは領主とかの支配から自由な自治体であり勝手に市中に入ることはできない
それで市長が門の鍵をもっている、日本にはない独立自治体なのである
そしてヨ−ロッパでもアジア的専制というのはなく小国が分立していた
都市自体が一つの国であり都市と都市が争ってもいた、戦争もしていたのである

つまり民主主義が成り立つのは小規模な自治体であり現代のように巨大化すると成りたちにくいということがある、ポリスとかcitizenとか明確な自治体の一員の自覚が消失している、国家となると規模が大きすぎるからその一員となるとそのアイディンティティも明確なものにならない、そしてもはやポリスのcitizenの一員という自覚が薄れる
ただ国民となりその規模が何百倍にもなりそこに所属するという感覚は希薄化する
そうなるとただ数だけが問題になる、数が多ければ正しい、数で決められる
それが正しくなくても別に関係ないのである
だからナチスが民主主義の投票で決められていたのである、要するに数を集めればそれで決められるとなるからだ,カルト教団でも毎日数を集めるために奔走する
その中身はどうでもいい、数が多い方が勝ちだとなるからだ

だから大規模になると民主主義は成り立たなくなる、民主主義から全体主義になりやすいのである、ポピュリズムとかファシズムになりやすいのである
そこでは今度はマスコミが力をもつ、トランプ大統領もマスコミで顔を売って大統領になったとされるからだ、マスコミはある人物を誇大化する、その人物を巨大化する
マスコミが第三の権力となったのはそのためである
何かを判断するにもマスコミに頼るとなったからである

いづれにしろ民主主義は機能しなくなっている、それは余りにも巨大化したからである
なぜ20世紀が世界大戦で何千万と死んだのかいう不可解がある
それは国民国家というのは国民全員のことでありその規模が大きすぎるのである
すると国民国家というのは全体主義になりやすい、だから熾烈な国民同士の戦争になったともなる、全員一致となり戦争になった
そこで反対する者は非国民となり排除されるしそこに住めなくもなる
そういう時代が20世紀であり何千万も死んだとなる

全員一致は無効であるということは必ず何を決めるにしても賛成するものと反対するものがある、でも全員一致は反対する者を認めない、その意見も聞かないとなる
それは原発事故でもそうだった、原発は地元でも全員一致になっていたのである
だからそれに反対する人はいない、もしいたらその地域に住めなくなっていた
そうなったのは利益が金になるということでそうなっていた
人間はまず金になること利益になることで日々活動しているから当然そうなる
庶民はそれ意外のことはあまり考えないのである
ただ利益になること金になることにはさといのである、それは一番わかりやすいからである

原発の「安全神話」は政府とか官僚とか検察とかマスコミとか様々な権力によって作られて押し付けられていたのである
第一自治体は何ら関与していない、原発を作るに際しても議論すらされていなかったのである、それは国ー県ー(自治体)とあるが自治体が省かれていたのである
これだけ重大なことでも自治体が何ら関与していない、国と県で一方的に決められたのである、そこには反対意見は許されない、全員一致となっていたのである
それは戦争でも同じである、全員一致であり反対は許されない、必ず何を決めるにしても賛成があり反対がある、でも反対が許されないことは一党独裁となり全体主義となる
共産主義はソビエト連邦でも中国でもそうだし大国に向いていたのである
本質的には反対を許さない全体主義なのである、宗教が政治にかかわる場合もそうなる
神国だから日本でも戦争に負けないというときもそうである
宗教は絶対だからそうなる、だから政教分離が必要なのである

民主主義が限界にきているというときもう巨大化して数だけが正しい、それがすべてだとなることに拒否反応がでてきているためだともみる
だから票が工作されて不正だとかなる、どうしても数だけで決めるのが限界にきているともなる、数だけで決めることは全体主義でもある、小規模ならそれもありうるが巨大化したからもう数だけで決めるのは限界である、それで票は操作されているとかなる
民主主義が規模が小さければ成り立つけど巨大化すると成り立ちにくい
民主主義は結局全体主義となる、ナチスでも選挙で勝利してファシズムになったのである一人一人の市民とか相手にしていない、大衆を相手にしているからそうなる
大衆をどうして導くかとなるとマスコミで顔を売りそこで大衆受けするものをだしてゆく大衆民主主義になる、それは全体主義にファシズムになる

とにかく全員一致は無効である

このことは民主主義にとって肝心なことである、原則なのである、でも全員一致だとそれが正しいとされやすいのである
民主主義にもいろいろあるがこれは非常に重要なことは確かである


 あとがき

血で血を洗う武力闘争がカンザスで起きた、北部諸州と南部諸州は続々と人を送って住民投票を有利にしようとした
見つけしだい、相手を殺す、南部のプランターはお金と武器を与えて、人をカンザスに送り込んだ、奴隷解放論者のなかには何の利害もないのに自費で大きな聞けをンかえりみず
カンザスに移り住む者もいた、もちろん生命を失ったものもいた
彼らこそ、デモクラシーの殉教者であろう
(悪の民主主義ー小室直樹)

アメリカのカルマとして黒人奴隷の問題が尾をひいている、それで南北戦争がありそれが大統領選挙にも反映される、選挙を有利にしてようとしてここまでしていたのである
それがやはりカルマとして今大統領選挙で起きているのだ

posted by 天華 at 10:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2020年11月05日

1000万人が孤立状態 (孤立社会を生んだ背景)


1000万人が孤立状態

(孤立社会を生んだ背景)

「社会的孤立」の問題が横たわっている。筆者の推計では、わが国では1000万人が孤立状態にあるが、今後ますます社会的弱者が放置され、置き去りにされつつある世の中に進んでいるのは間違いない。

二週間両方の足が腫れて苦しかった、その原因はわからない、両方の足が悪いと立つにもひどいのである、立つことが一苦労になる
それで買い物とか食事の用意をしなければならない、もしこれができなかったら動けなくなったらどうなるのか
そのまま孤独死ということもありうる
だから現代社会は一千万人も単身者がいることに驚く

足が悪くなることはたいしたことではないと思っていた、でもは足が悪いと立つことが容易でなくなる、どうしても家事をするには立たなければならないし食事の用意をしなければてぱないから辛いと思った
それで近くの人が脳梗塞で足が悪くなったのを身て他人事だった
でも一旦自分がなってみると足が悪くなることは本当に動物だったら致命傷になる
なぜ足の悪い猫が別な猫に襲われ逃げ回っていたのを見たからである
つまり動物の場合こうした弱者化すると襲われて食べられてしまう
つまり生きていけなくなる、でも何らかで動物でも足を悪くすることはありうる
鹿が温泉で悪くなった足を治していたとかの由来があるのもそのためである

両方の足が腫れて悪くなったが今度はどうも足をくじいて片方が痛くなった
これも立つに容易でなくなった
今度は片方の足だから前よりは楽である、でも立つことと歩くことが苦しいのである
足が悪くなると立つことや歩くことができないことは人間の基本的動作ができなくなることである
そして車椅子にもなる、これも辛いとなるが自分がならない限り他人事である
人間は他人の苦しみに他人事なのは自ら苦しんでいないからである
もし苦しんでいれば自分自身が苦しんだからその痛みがわかるとなる

ともかく一千万人も孤立状態の人がいるということは何なのだろうとなる
なぜこうした孤立を生んだのか?そこに現代社会の問題がある
そういう状態になり安い社会なのである、無縁社会というのもそうである
人間の関係が希薄して金でしか結ばれないとかあり孤立する
助け合うということもなくなっている

自分が介護になったときもただ金を要求してくるだけだった、大金も盗まれたし事業に失敗した人はこれも借金で追われているから金を要求するだけである
お前が助けてもらいたいなら金を出せとか脅迫するまでになる
それだけあらゆる人が金に追われている、金,金、金、でありそれ意外何も見えなくなっている
金がないと人間関係もできないとかまでなっている

なぜこういう社会になったのか?日本人はもともとそういう人達ではなかったともある
貧乏でも助け合うとかあったとなる、日本人が育んだそういう社会は喪失した
結局戦後はアメリカに習いアメリカと同じになったのである
アメリカがなんでもいいとなった、それはギブミーチョコレートからはじまった
アメリカから何かをもらう、物欲社会となったのである
金になればいいとしかならなくなったのである
どんな人でも金、金、金・・・なのである
それ意外何も見えないのである

だから相手が苦しんでいても見えない、ただ金になるかどうかを見ているだけなのである
でもそんなことで事業などできるものだろうか?
他者のことを全然思わない、ただ金をとるものとして他者がある、そういうことで事業が成功するものだろうかとなる、慈善事業ではないというのはわかる
でも事業の基本として社会のために社会を豊かにするとか他者のために尽くすとかがあるとしたら相手から金をとることだけを考えていたらそういう事業が成り立つのかとなる

結局日本社会が荒廃したのはなぜなのだろうか?
それはアメリカ一辺倒になり金だけの社会になったことである、そこでもともとあった日本人の良さは失われた
そして孤立者一千万人が放置される状態になった
みんなばらばらの社会になりただただ金を求める社会になった、それは原発事故だって金になるからと目の色変えて積極的に誘致したのである
それに反対したらこの地には住めなくなっていたのである
つまりみんな金に狂ってしまったということである

本当に金のない社会で金から解放されて生きたいとなる、皮肉なのはそうなるにも金が必要だとなる、相当な金があれば金に困らないから余裕が生まれるからだ
金がなければ金を求めざるを得ないとなる、そこに矛盾がある
ただギリシャ時代から貨幣が生まれた結果、すべて金だとなっていたのである
貨幣にはそういう働きが内在していてそうなったのである                     

いづれにしろ人間がアトム化して無数に分化してそれが孤立化にもなる
共同体もない、そういうことでカルト教団などに所属したりする
人間のつながりが消失してアトム化してあとは金だけの世界になってしまったのである
金があっても今度は金のない人が金を要求してくる、日本が貧困化すると余計にそうなり犯罪も増えてくるのである、もう末世である
人心は乱れ人の情は希薄化してただただ金を求める社会である
posted by 天華 at 20:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

Ancient temple road

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2020年11月04日

全体主義と民主主義 (民主主義も全体主義になり独裁ファシズムにもなる)


全体主義と民主主義

(民主主義も全体主義になり独裁ファシズムにもなる)

全体主義というとき共産主義でも宗教がかかわるカルト教団もそうである
そこにマルキシズムとか教条主義とか言うけどそういう思想とも関係ない
全体が一致して反対する者を許さないしその意見も聞かないということである
それで共通しているのであり思想ではない、反対する者は権力でもって排除する
一党独裁である、そこに政権交代はなくなる、それで習近平が勝手にいつまでも権力の座につくことを企み自ら法律まで作ったとなる
ただ権力は安泰なものはない、権力闘争に破れると自分の身も危うくなる
これまで粛清したとか刑務所に入れた人たちから反撃をくうからである
それでトランプ大統領が落選することを恐れているのはいろいろな悪いことしてきたのでそれが暴かれることで怯えているとなる

歴史で疑問なのは特に20世紀とかでなぜこれほどの数千万単位の人間が戦争でしなねばならなかったのか?
確かにこれまでも戦争はあった、でもそんな数は死んでいないのである、それは何なのだろうとなる、戦争は日本でもプロの兵士が侍がしていた、庶民は戦争はしない、それは世界でも同じである、兵士というと戦争をするプロ集団であり国民全員がかかわるようなことはなかった、だからこんな死者は出なかった
日本がでは侍集団の西郷隆盛が率いる西南戦争がありその時、侍集団と国民軍が戦い国民軍が勝ったのである
この時から軍隊は国民軍になったのである、それは世界でもそうである
国民と国民が戦うとなれどその数が多いから死者も多くなった

でもそうして戦って死んだことに何の意味があったのか?

それがわからないのである、膨大な人間が無意味に死んだのかとなるからだ
確かに英霊として靖国に祀るとかあってもそれで死者が浮かばれるのか?
そうとは思えない、20代であればもっと生きたいとなっていたからである
親戚の墓で享年(きょうねん)25歳とかあれば今でもそこに無念を記されているとなるもっと生きたかったとかの切ない声が聞こえて来る
その人は肺結核で死んだのだが戦死した若者でも膨大にいる
ただその死は何か意味があったのかとなるとわからなくなる

つまり膨大な人間が無意味に死んでいった

それだけの人間がなぜ若くして死なねばならなかったのか不可解なのである
人間はいづれに死ぬのだから人間なんてそんなものだともなる
膨大な人間でも虚しくいづれは死ぬのだとしても何か不可解なのである
それは国と国の争いだけではない、共産主義なら内部闘争で膨大な数の人が死んでいる
カンボジアでは200万人も死んだから驚く、それは共産主義というのが全体主義であり一党独裁であり反対を許さないからである

全体主義はすべて黒なら黒、白なら白に染めなければならない、同じ色でなければならない、他の色はあることも許されないのである
それで黒であることを否定したら粛清されて追放され殺されたりする
全体主義国家となった結果として20世紀は世界戦争の時代であり膨大な死者が生まれた
では民主主義が理想かというと危機にさらされている、ただ数だけですべてが決められるのか、数が多いからとしてすべて是認されるのかとなる
民主主義とは投票とかで決めるのは暴力で殺し合いで決めるよりいいものとしてあるであり理想的なものではない、民主主義が数で決まるというとき、そこから大衆洗脳がメデアで行われたポピュリズムとかなる、第一トランプ大統領がテレビ番組にでて知名度があがり俳優のようになりカジノ王でありそういう人が大統領なのかとなる

いづれにしろ民主主義もゆきづまっている、民主主義では決められらない、ギリシャのポリスなどとは比べようがない数が参加するからである
ふるとそうした大衆を扇動することで数を集めることのために腐心する
それがまさに全体主義になってゆく、ナチスのようにファシズムになってゆく
そういう矛盾が民主主義にあり限界にきている
人間はそもそも何か自然でも社会でも狭い範囲でないとアイディンティティをもちにくいもう東京のような世界ではまさに人間は一千万分の一でしかないのである
そこには自治もありえない、そんな膨大な人間を統率できるのかとなるからだ

自分は狭い範囲で自然でも市町村でもアイディンティティをもつ努力をしたきたのであるつまりギリシャのポリスに生きているようにである、ギリシャの不思議は実際は大きな建築物を作る技術をもっていた、でもあえて小さな建築物を作り自然と調和するように生きていた、おそらく回りの自然を考慮して調和ふるこめにそうしたとなる
現実そういう世界でないとアイディンティティをもつことは不可能である
東京のようになったらただ数となるだけである

ともかく東京のような一局集中が限界に来ている、小都市として分散する国土計画が必要である、それだけの人口があれば電気でも膨大に必要であり離れた安全な場所に原発を作ればいいとなったりするからである
国土のバランスが歪なものになっている、だから東京一極集中から分散都市型に移行すべきだとなる

posted by 天華 at 15:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2020年11月03日

文化の日―晩菊(秋草のフラワーアレンジメント)


文化の日―晩菊(秋草のフラワーアレンジメント)
 
   
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原町の街中

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街中に七八輪あわれ秋薔薇

通りには畑のありて菊の花

我が墓に造花を挿すや文化の日

我が里の草の花摘み飾りけり

晩菊に覆われ墓地の一つかな  


今日は文化の日だった、でも原町まで自転車で行ったら北風が吹いた
やはり冬に入ってゆく、原町の道の駅で造花を買った、なかなかいい造花である
それを我が家の墓地に挿した、何か文化の日ともなる
墓も近くにあると身近になる、花がないから淋しいなとかなり造花を挿したのである

それから草の花、野菊を詰んでそれを壺にさした、フラワーアレンジメントも手間になるなにしろ家事からプログに書く記事からいろいろなことを一人でやるから暇なく何かをしているのである、介護は終わったからその分は余裕がある、でもいぜんとして全部一人でやると余裕がなくなる      

文化とはまず時間でも金でも余裕がないと生まれないのである
私の母親は働きづめで終わって花もいらないとなっていた
ただ40代くらいの農家に嫁いだ女性も花に興味ないのである
おそらく今は花嫁修業などしていない、だから華道など習わないのである
そこがものたりないのである

墓地が晩菊に覆われていた、何かこの菊は華やかである、普通晩菊となると淋しい感じになるからだ、ただ墓地でも眠る場所はこうした田舎がいい、都会の団地のような狭い墓には入りたくないとなる

通りのなかに畑があり菊が咲いている、でもその通りには店がないのである
一軒理髪店があるが他にない、それが通りとは言えない、ただ新しくできた通りなのである、だからこの通りも店ができてもう少しにぎわうといいとなるがそれも無理だとなる
それだけの人口もないしみんなスーパーで買い物をすませるからである

とにかく晩秋なのだが秋が早く終わる、冬がふぐに来る、だから晩秋と言ってもゆっくりと感じない、あわただしいのである
秋がたちまち過ぎて冬になる、こうして時間の季節の感覚が狂うのも困る
そうなると文化の日でも文化を楽しめないとなる、文化とは何か時間でも何でも余裕があって生まれるからである
ただこうして季節感が変わるのは人間のせいではない、自然が天候が変わってしまったからである

投票で決められないアメリカの大統領選挙 (ギリシャは一万くらいのポリスから始まり市民の都市はヨ−ロッパで形成された歴史)


投票で決められないアメリカの大統領選挙

(ギリシャは一万くらいのポリスから始まり市民の都市はヨ−ロッパで形成された歴史

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アメリかの大統領選挙で銃をもって武装していた人たちかいた
その膝にcitizenという字が書かれていた

citizenとは市民のことでありcivilization(文明)のcivilは市民のことである
ここのところが日本人は本当に理解していない、理解できない
なぜならそもそも市民というのが日本には存在しなかったからだ
ところがヨ−ロッパとは市民社会のことである
その市民社会が日本にはないのだから根本的に日本人はcivilization(文明)を理解できないとなる

市民という時、封建制でも領主がその土地を支配する、だから領主の城がある
でも勘違いしているのは市があって市壁がありその内部に市民共同体がありそこは独立した自治体なのである、だからそこは不可侵の領域であり領主も勝手に入れないとなっていた、その門の鍵をもっているのは市長であり勝手に市壁の門を入ることはできない

日本では城がったとしても城は侍を守るものでありそこに住んでいる町民でも農民でも別個の存在である、だから敵が攻めてきても戦うの侍であり町民とか農民は関係ないのである、だから会津でかえって税で苦しんでいた農民がヤーヤー一揆を起こしたのである
つまり侍と町民であれ農民であれ分離していたのである
ヨ−ロッパのように日本には自衛する自治体としての市民がいなのである

だからなぜパスポートにどこの市に所属しているのかを書く、市がアイディンティティとなっているからそうなる
アメリでは市民権を得ることができるが敵とは銃でもっても戦う自衛するということで
宣誓する、つまり市を守るために自衛するために銃でもっても戦うと宣言する
ボリスが警察の意味だけど実際はまさに警察は市では自警団から発していた
市は自分たちで自衛して銃で守る、それが由来なのである

それはアメリかにも受け継がれた、だからなぜ銃でもって武装して膝にcitizenと書いてあったのかそれはこうした歴史があるからだとなる
また銃はアメリカの歴史ともかかわってくる、つまり誰も守ってくれない、そこには警察もいない、それで牧場でも自力で守らなければならない、それが西部劇である
だから銃をもって自らを守るとなり銃は欠かせないとなっている

つくづく今の問題は必ず歴史と関係してくる、日本の問題でもなぜ天皇があれほどもちあげられたのかも皇国史観になったのも歴史だからである
そして歴史は必ずくりかえす、カルマとなる
宗教と政治のことで権威と権力のことを書いたが世界史でもどうしても国を治めるためには武力だけではできない、権力だけではできない、その上に権威が必要でありそれが宗教の権威を利用したとなる、カトリックの歴史は権力と宗教的権威が一体化したのである
それで神聖ローマ帝国とかなったりする、日本だと天皇が神としての権威があり神国だとなったのとにている、天皇は宗教的権威であるからだ

人間は今の問題をみるとき必ず歴史をふりかえりみる必要がある
なぜなら歴史は必ず同じ事をくりかえしているからだ、歴史もカルマなのである
それはヨ−ロッパの歴史でも同じである、何かわかりにくいが人間として同じカルマをくりかえしているのである
だから歴史を知るということは現代を知るにも欠かせないとなる
それは必ず過去からの継続として現在があるからそうなる
歴史を解読できれば現在も見えてくるのである

いづれにしろ日本には都市がないというとき江戸時代でも領主が殿様がいてお上がいてその下に庶民の自治はなかった、村はあったが村民はいたが市民はいなかった
だから自治ということが欠けているのである、お上によって作られるという意識が強い
上からの権力によってそれに従うということになる
それは原発事故でも現れた、強力な国の権力によって安全神話が作られた
そこに自治体は何ら関係していなかったのである、自分たちで市を守るという意識もなかった、そして住めなくなったのである

やはり歴史的にないものを理解できない、日本人は自分たちの市を自治体を守るという意識に欠けている、自治の精神が希薄なのである
それは歴史的にそうだったからである、第一ボリスというときギリシャの都市国家から
ポリスから始まっているからその歴史が古いのである
そこにすでに強力な市民意識が形成されていた、一人一人が国体というが市と一体化していたのである、それは一万くらいの人口だからそうなったのである

このプリエネ市の最も注目すべき建築はエレクジアステリオンすなわち全市民がそこに議席をもっていた
 都市 羽仁五郎

議員だけではない全市民の議席があった、そういう座席が建築として建てられていたのである、これが3000年前と課なのだから驚くとなる
なぜなら世界史となると大帝国の歴史であり専制君主の歴史だからである
ギリシャはこうして他の国の歴史とはまるで違っていたとなりその継続としてヨ−ロッパの歴史があるともなる
ただそういう民主主義の発生の地から今の民主主義をみると結局一万の都市と百万とか千万の都市となるとそれが国の規模になるともう民主主義も機能しなくなったとなる
こうした民主主義が成り立つのは規模が小さい時だからである
だからヨ−ロッパの歴史でもアメリカでも世界中で大衆民主主義とかファシズムとかになり
膨大な人間が戦争で死んだのである

つまりアメリカでも分裂するのは規模が大きすぎる、そして余りにも雑多な人種でも人でも交じり一体化できない、何かを決定する力はただ数だけだとなる
その数でも操作できるから郵便投票とかは信用できないとかなんとかもう投票すら機能しないのである、それは世界中で起きていることである
すべては数の問題として処理されるだけである、だからカルト宗教団体でも一票を得ることであり数の確保だけに奔走するとなる
要するに数が権力となり数によってすべてが決まる、それが限界にきた
だから数で決めるな、もう銃で決めろ、暴力が大統領を決めるのだなってしまう
投票自体が機能しなくなった、日本だって50パーセントしか投票しないとしたらもう投票という民主主義の根幹を成すものが機能していないのである
ギリシャの一万くらいのポリスとは余りにも違っている、一人一人が議員のようになりその座席も用意されていたのとは余りにも違うのである
posted by 天華 at 10:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2020年11月02日

権威と権力(明治天皇は偽物?) (権力だけでは治められない、権威になる天皇とかが必要になる)


権威と権力(明治天皇は偽物?)

(権力だけでは治められない、権威になる天皇とかが必要になる)

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人間を治める時、権力だけでは力だけでは治められない、武力でもって従いといっても権力だけでは従わない、権力は必要でも何か権威が必要なのである
それが天皇であったり教祖であったりする、宗教的なものがそこにかかわり治める
そこに神とか仏を権力を得たいものは利用するとなる
神の力が働く仏の力が働く、日本がでは神国となれば神の国なのだから負けないとなる
そういうことは創価でも行われている、選挙は仏法の戦いであり信仰のための戦いになっている、だから常に勝利、勝利としつこく言うのである
つまり負けを認めないのである、神仏に負けはないからである

天皇とは何か、天皇は武力をもっているわけではない、でも天皇の歴史は日本がでは長いそれで皇国史観が生まれた、日本の歴史は天皇の歴史だともなっている
天皇は神輿として利用されたとなる、それで確かに明治維新の時、長州藩で天皇のすりかえがありそこに田布施町がかかわっていた、はすり替えられた天皇だったという説である、明治維新は天皇が極端に持ち上げられたのはどうしても権威が必要だったのである
天皇の効用としては日本がでは権威と権力を分けた支配構造を作ったことで統一して治めることができたとされる、権力だけでぱ力だけでは治められない、そこに宗教とかも利用される
神聖ローマ帝国とかキリスト教もカトリックを通じて権威として利用したという歴史がある、神の国だという思想である、それは日本でもあったのだから共通している

不思議なのは共産主義でもソビエト連邦で書記がまるで神のようにして葬られた
神格化されて葬られた、つまり人間社会を治める時、武力だけでは暴力だけは治められない、必ずすると反発があり暴力で争うことになる
でももしその上に権威があればそれに従うとなる
それで創価だと池田大作になりそのミイラ化して神格化して治めるということをその幹部たちはたくらむ、おそらく何かそうした権威が必要でそうなっている、その人間がどうでもいい、馬鹿な民衆は偽りの権威に従うとなからだ
つまり幹部にしてもそうした方が治めやすい、それで神格化する
おそらく王が神格化されるのせそういうこととして人間の歴史でつづけられてきた
エジプトの王はファラオであり神像ともなっていたからである
神の様な力をもつというときそれは武力とか暴力だけで治められないからそうういものを作りだしたともなる

預言者なら神から認められ本当に力をもったのである、それは政治とか現実の人間社会とは違った権威である、この世でいくら力をもっても本当の力をもっているのは神しかない本当の力は神から授かるのである、でも政治になるとそうしたまがい物でも権威を作りだす、聖なる権威を作り出す、それが天皇にもなる
共産主義でも唯物論でもやはりそうした聖なる権威が必要になり書記が神のようにして葬られたのである、それは中国でも起きている、毛沢東の権威は神のようにもなっていた
そして習近平もそうした権威をもちたいができない、いくら権力があっても従わせることがむずかしいからそうなる

だから天皇は血統が大事でもすりかえても不思議ではない、大村寅次郎がすり替え天皇説はそこから生まれて来る、天皇とは政治的権威であり宗教的権威とも違うのである
権力を維持するためには権威が必要でありそれはその人がどういう人とか関係なく作られることもある、池田大作でもカルト教団では何百万人の人を支配する時、そういう権威が必要になる、それがないと治められない、それでなぜ池田大作を神のようにして持ち上げるのとかなると何百万人を支配して納得させるために権威を幹部など作りあげたとなる
それは共産主義でも同じだったのである
全体主義になると選挙に勝つことが権威となることはない、何か権威が必要でありそれでそうしした権威がまがいものでも持ち上げて神輿とする

図のように権威そのものが権威を作るのではなく、強大な権力が権威作り出す、権力の上に権威が作りだされ
る、それが政治である、権力は民主主義なら一票であり数だから創価では数を集めることが仏法の戦いともなる、政教一致ならなる、とにかく権力を持ち権威を作りだして支配する
天皇の場合はまた違ってい天皇という権威が建国以来作られていて権威があってそれにのっかって権力が作れるいという構図になる、ただ権力があて権威を作れないことは確かである
だから権力の上に権威を作るのは政教一致であり危険なのである

それは人間の歴史をふりかえればそういうことを古今東西でしてきたことがわかる
人間は権威をもちたい、権力を持ちたい、でも権力だけでは権力を維持できない、それで権威が必要になり天皇が作られた、その権威の下には誰でも従わなければならない
でもその権威なるものは権力を持ちたい維持したいものが作り上げて従わせるためだとなる、それですり替え天皇説の大村寅次郎が作られたとなる

いづれにしろ明治維新の時天皇を極端に持ち上げられたのは何か権威になるものが必要だったからである、つまり権威として天皇は継続されていたからである
神からの権威というか仏からの権威というかそういうものを政治的に利用したのである
それでヨ−ロッパでは政教分離が生まれた、政治と宗教は別であり一体化してはならないという法律である、宗教的権威を政治的に利用するを禁止したのである

人間を治める時、権力と暴力だけではできない、何かしらの正当性とか聖なる権威とかが必要になる、それがまた社会を歪める、また選挙で決めるにしても多数が正義でもなんでもない、多数は権力であり数の暴力となって社会をゆがめる
だから今選挙自体が日本だったら50パーセントもないのだから機能していない
選挙でも公正に決められなくなっている、多数の横暴がありそれが正しい選択ともならない、だからアメリカ大統領選挙では選挙で決着がつかない、それでアメリカ全体で3億丁の銃があり武装して戦うとまでなっている
つまりもう選挙では多数決では決められないのである 
つまり何をもって大統領でも王でも支配する者を決めるかという問題がある

王権神授説(おうけんしんじゅせつ、英: divine right of kings, divine right, God's mandate)または神授王権とは、「王権は神から付与されたものであり、王は神に対してのみ責任を負い、また王権は人民はもとよりローマ教皇や神聖ローマ皇帝も含めた神以外の何人によっても拘束されることがなく、国王のなすことに対しては人民はなんら反抗できない」とする政治思想のことである。

カトリックが力をもったのは政治の権威となったことである、不可分に結びついたのである、でもこのことは人間の歴史の政治の普遍的な問題としてあった
どうして人民を治めるのか?それは武力や暴力だけでは治められない、だから法の支配というのも生れた、法治国家である
ただこうして歴史をふりかえると歴史は繰り返すということである
政治の歴史を見ればそこにどうしても力だけでは治められないから神仏がかかわり権威として治めるためにそうしたとなる
だから創価でもそれは共産主義ともにた全体主義であり池田大作を権威として幹部が祭り上げてその下に支配しようとする、つまり誰かを神のようにして権威をもたせてそうするそこに本来の本当の権威がないにしてもそれが治めるのに都合がいいからそうする
すり替え天皇の大村寅次郎がまさにそれだったとなる

結局人間の権威は人間が作りだしてもそこには本当の権威はない、ただ神から与えられた人が権威をもつのである、でもその人は政治的権威とはなりえない、それは政治的権威とは別物だからである、政治的権力と権威はこの世の権威なのである
絶対的権威は神にしかない、つまりこの世の権威とする者は偽りであり偽預言者である
それは常に現れている
とにかくこの世の権威とは政治の権威でありこれは世俗的権威であり神の権威ではない
この世では世俗的権威であり神聖なものになりえない
ただそれを利用する、それは方便だともなる
天皇もそういう権威でありだから偽物の天皇の大村寅次郎が田布施町に作られたともなる要するにこの世を治めるのは永遠に神ではない、神が治める場所は天国しかないのであるそこでは神に治められるから永遠の繁栄と平和がありうるのである
この世の権威となっているものはみんな偽物なのである
だからいづれ化けの皮がはがれる、何百万人が崇拝するのは実はサタンでもあったのだ
偽物を拝まされていたとなる  

【なぜ?山口県から8人もの総理大臣が誕生!その理由が凄すぎる!】
隠された歴史が明かす、日本の”真実”!明治天皇の秘密、知りたい?-masakazu kaji-


2020年11月01日

静的と動的なものに分けた世界観 (東洋と西洋ー動物と植物(山や木や石)に分けてみる)

                                                        
静的と動的なものに分けた世界観

(東洋と西洋ー動物と植物(山や木や石)に分けてみる)

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自然をどうみるか?それは中国だと陰陽とかヨ−ロッパだと言葉まで男女に分けて冠詞がある、自然を二つに分ける、男性的なものと女性的なものに分ける
男性と女性ではそれだけ体から心まで違っているからである
男性は動物的となり女性は植物的となる、ただ両方を兼ね備えたものもある
中性名詞とかあるのもそうである

この二つに分けて自然を観るというとき動的なものと静的なものというとき動的なものは動物であり静的なものは植物である、これは明らかに区別される
この二つ分けて自然を観ることもそうだが例えば東西文明をみる、すると一体東と西とは何なのかとなる、東洋文明と西洋文明の相違は何かとなる
歴史的にも世界史でも二つに区分して観る
つまり西洋というか西は動物的であり東洋は植物的である

東洋文明というとき何かとなると思想的文化的に見て植物的静的なものとして追求されて来た、仏教は沈思黙考だから座禅を組んで悟りを開くとなると本当に静的であり木や石のように動かないものとしてある、仏陀は動かない、静止して悟りを開く
菩提樹の下に座りつづけ瞑想して悟りを開く、東洋というときインドから発した仏教に由来ふるものだとなる
インドの思想は植物的であり静止することなのである、それから中国でも老子の思想もそうである、その思想には共通したものがある
宗教は心の内面の追求だから植物的なのである、常に動くものと動物的ではない
ただ動物でも牛は動かないから老子は牛に乗っている
そこに共通したものがある、ただ中国は戦争の歴史であり政治の国である
だから東洋と言ってもそこにインドとは異質なものがある

宗教はもともと静的なものである、キリストでも天国はその心のなかにあるというとき外にない内面を追及するから静的なものである
イスラム教は何か攻撃的であり東洋とも言えないが宗教ということでアジアに属しているそして世界史をみるとき興味深いのは生態史観から文明を見た  は納得する
イスラム圏とかアジアでも草原地帯とかは遊牧民の世界でありそこは世界史の揺籃の地帯であり遊牧民は馬で移動するから動的なのである
馬と牛を対比するとこれも赤と白のように違っている、馬は移動するものであり動的であり牛は静的なのである、農耕民はどちらかというと牛である

この砂漠地帯と草原地帯が遊牧民の世界であり絶えず移動する、それで移動するということは攻撃的なのである、だからジンギスカンのモンゴル帝国が生まれ世界を席巻したのである、そこでは大帝国の興亡がありその周辺は攻撃にさらされていた
中国は万里長城を作るとかその攻撃から守るためにそれを作ったのである
そうして遊牧民は動的であり攻撃的でありそこに安定した社会を築くことができず消耗されて文明が衰退した
でもその両端のヨ−ロッパと日本は海に囲まれてそうした遊牧民の攻撃にさらされることなく地力を貯えて資本主義が生まれたというのもわかる
ヨ−ロッパに封建制があり日本にも封建制があったからだ

砂漠地帯と草原地帯は交通が便利になる、ところが中国になると平原もあるが山も多くなる、するとどうしても交通には不便になる、交通が発達する地帯は動的になる
動的になることは攻撃的になる、外に向かう拡散する力が強くなる
それでモンゴル帝国が生まれたのである、また大帝国の興亡が激しいのである
それで力を消耗して近代化する力を貯えることができなかったという説に納得する

世界を二つに分けると分りやすくなる、陸の世界と海の世界に分けるのもそうである
大航海時代があり陸の世界から海の世界に移り世界は変わった
その延長としてアメリカが生まれた、そして海の興亡に戦争も変化した、太平洋戦争というとき海をめぐる興亡だったからである
その二つに分ける思想はコンピュターでもそうである、Tかゼロの二つに分けているからだ、それで作られているというのもその基に世界を二つに分けるということから始まっている

とにかく人間でも二つの世界に生きる、動的なものと静的なものである
じっとしているときもあれば動くときもあるからだ
現代はどちらかというと動的な世界だった、それは交通が発達したからである
鉄道であれ車であれ飛行機であれ動くものでありそれがグロ−バルになり世界が一つのようになった世界である、だから大航海時代から特に20世紀などは動的な世界である
世界を結ぶには交通が発達しなければできないからだ
ただコロナウィルスでそれが阻害されてその世界も変わる、社会は静的な方向に向かう
それは中世の世界にもなる、内にこもる閉ざされた世界になる
ただその時、東洋的な静的なものが復活するとなる
宗教とは静的なものであり内面の追求だからである
つまり宗教の時代とか思想哲学の時代というとき静的なものの追求なのである

私が追求したのは確かに旅ばかりしていたとなる動的なものである
でもまたどちらかというと一か所にとどまり引きこもりとして自然と一体化するアイディンティティ化してきた、だから詩の対象となるのは山や木や石と岩とか動かない静的なものなのである
何かその動かないものに平和があり心の安らぎ得る
それは木は神殿の柱であり建築は静的なものだから建築に興味をもつのである
木を知ることは静的なものを知るには欠かせないのである
木は本当に不思議である、木だけではない、植物には攻撃性がないことである
絶対に他のものを傷つけることがないのである
ある意味で無暴力であり攻撃をしない絶対的平和の象徴だともなる
山でも木でも石でもそれが相手を攻撃して傷つけることないのである
それは当たり前のように見るがそれは感動的なことでもある
人間には他者でも絶えず攻撃してくる性質があるからだ
木とはだから聖者にも見えるのである、他者を絶対に傷つけないものとしていつも静かに大地に根をはり動かないからである、それはまさに仏陀なのである

木と木の間には何か見えないが愛のようなものが流れている、気脈を通じてしいる
互いに触れもしないが目に見えないもので深くつながれている
木と木には通じ合うものがある、それは神殿の柱でありまた聖堂の柱でもある
植物的なものは建築である、山も建築だからである、それは動かないものなのである
ただ水は静止して鏡のようになることもあるが水は流動的であり恐ろしく水は流動的になり常に洪水とか津浪とかなる怖いものである
だから水は安定しない、海は安定しないのである、水は揺れ動いている動的なものだとなる

いづれにしろ動的なものと静的なものとに分けて世界を観る、すると世界を観ると分りやすくなる、それで陰陽の世界観とかが生まれた
東西文明を分けるのも動的なものと静的なもの動物的なものと植物的なものとして分けるとにかく動物でもそうだが肉食動物は攻撃的である、最も攻撃的なものは恐竜だったが滅びた、植物は攻撃しない、全く防御であり他のものを傷つけないのである
それが何でもないようで不思議なのである
なぜなら人間なら他者を傷つけないものはいないからである
そして世界でも攻撃的なる故に戦争が絶えなかったとなる
植物的非攻撃の世界なら戦争もなかったのである、インドはわかりにくいにしろあまり戦争がなかったようだし日本でも縄文時代は戦争がなかったというのも植物的に生きていたからだともなる、ただ狩猟とかもあり完全に植物的に生きることは不可能である

東洋と西洋というとき、植物的なものが東洋であり動物的攻撃的なものが西洋としても分けられる、その思想もそうだからである、だから宗教は非攻撃的な植物的なのである
それとは仏陀でもキリストでも老子でもそうである、相手を攻撃しないということで共通しているからである
キリストになると十字架で無惨に殺されても他者を攻撃しなかったからである
つまりガンジーのように非暴力に終始して終わったのである

とにかくこれまでは動的な世界でありグロ−バル化したがコロナウィルスで世界は静的な世界に向かうとみる、ヨ−ロッパでも大航海時代があり海を通じて動的なものになっていた、アメリカでも広大な土地がありそこで移動する、西へ西へと大移動があった
アメリカは静的な世界ではない、極めて動的な世界でありそれが世界を席巻したのである飛行機や車を発明したことがそうである、それがグロ−バル化を推進したからである
アメリカはまだ文明として成熟したものが作られていないのである
それは植物的静的な文化が文明が作れていないということなのである
だから攻撃的であり世界を力で征服するようになったのである 

結局これからの時代の変化はグロ−バル化による経済至上主義から拡大する増産する経済成長の世界から何か内にこもる宗教とか哲学とかの時代になる
この世界をみると余りにも無駄なもの無益なものに費やされ過ぎたのである
人命でもそうだし労力でもそうだし物でも自然資源でもその浪費は膨大なのである
それがただ浪費となるだけではない、公害ともなった、原発事故だって実際は本当に必要なものかどうかわからない、必要でないものでも膨大なものが作られて来た
それが資本主義だともなるがそれがコロナウィルスを契機に変わるともなる
無益なもの無駄なものというけどそれが害になることが問題なのである 
政治でも本当に膨大な人命が浪費された、何千万の人間が死んだのが20世紀だった
それも無益なことだったともなる
原発にしてもすまされるとしても作る、リニアが本当に必要なのかどうかもわからないのに作る、ただ技術は自然と社会を無視して技術は進んでゆく
それに歯止めをかけられない、そういうことを2000年前にすでに老子が警告していたのである

だからこれからそうして無駄を省く、禅宗とかがいいとなる、ミニマリストとかは禅宗の思想と同じである、そういうことが若者の間ですすめているのは時代の変化である
高度成長時代はただただ物欲の充足であり企業戦士として働くことしかない
そういう時代はすでに30年前とか終わっている
経済成長を望むのもわかるが世界全体にやはり物でも飽和状態になり暮らしそのものもを変えざるをえなくなっているのだ

それと同時に思想的にも変化してくる、つまり無駄を省いた社会になる
木をとりあげてきたが木とかには一切無駄がないのである
自然には無駄がないのである、人間だけが膨大な浪費をしている
それが経済成長としてすすめられたがこれからはそれはそもそもできない
だからこそ世界的に好景気になることは限界になった、日本は一番経済的に停滞した
でも世界的にも停滞してくる、そもそも自然は地球はもう文明の負荷を背負いきれない
縮小せざるをえないのである、世界的にこれ以上を物を増やすことはできない
もう限界なのである、だから物質から精神面の移行の時代になる



木の神殿

木は大地に深く根を張り
木は内に籠もり沈思する
木は他者を傷つけない
傷つけられても傷つけない
木は大地に深く根を張り
木と木は触れずして通じ合う
木は攻撃しない絶対守勢の力
木は攻撃できないもの
木と木の間に目に見えないもの
愛が流れて気脈を通じ合う
本当の力は静けさの中に宿る
一本の木は聖者である
木と木は連結して
神殿の大聖堂の柱となり
その屋台骨となり支え合う
それをこぼつことはできない
それは非攻撃的であり平和の主である
木は仏陀であり老子である
老子は牛に乗ってくる
牛は歩む大地を踏みしめて
人よ、木に習へ平和を知れ
平和は心の内にあり自然との融合にある
平和は攻撃することではなく
行動することでもなく平穏な状態にあり
武器を捨てよ、暴力をやめよ
我らは大地の上に平和の神殿を形成する
大聖堂を盤石の大地の上に建てる
それは神のとこしえの宮である
そこに豊かな実りを神から与えられる
神の祝福がそこに注がれる 

Temple of trees

Trees are deeply rooted in the earth
The tree is trapped inside and ponders
Trees do not hurt others
Even if it gets hurt, it won't hurt
Trees are deeply rooted in the earth
Trees communicate without touching
Absolute defensive power that trees do not attack
Trees cannot attack
Invisible things between trees
Love flows and communicates with each other
The true power dwells in the tranquility
One tree is a saint
Trees are connected
Become a pillar of the temple cathedral
Support each other as the backbone
Can't spill it
It is non-aggressive and the Lord of Peace
The tree is a Buddha and Laozi rides on a cow
The cow tramples on the walking ground
People, let the tree know peace
Peace is in the heart and in fusion with nature
Peace is not about attacking
In a state of calm, not acting
Throw away your weapons, stop violence
We form a temple of peace on the earth
Build a cathedral on rocky ground
It is the eternal temple of God
God gives a rich fruit there
God's blessing is poured there  

詩でもグーグルとかの翻訳で基本的に訳せている、だからここではAIの力を本当に感じるつまり人間よりAIが優れているのだ
ただ韻をを踏むとかもっと洗練された詩にするにはこの英訳に手を加えねばならない
そうなるとまためんどうになる
ただこれが英語を使う国でも詩人なら理解できるとなるだろう

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