2020年11月02日

権威と権力(明治天皇は偽物?) (権力だけでは治められない、権威になる天皇とかが必要になる)


権威と権力(明治天皇は偽物?)

(権力だけでは治められない、権威になる天皇とかが必要になる)

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人間を治める時、権力だけでは力だけでは治められない、武力でもって従いといっても権力だけでは従わない、権力は必要でも何か権威が必要なのである
それが天皇であったり教祖であったりする、宗教的なものがそこにかかわり治める
そこに神とか仏を権力を得たいものは利用するとなる
神の力が働く仏の力が働く、日本がでは神国となれば神の国なのだから負けないとなる
そういうことは創価でも行われている、選挙は仏法の戦いであり信仰のための戦いになっている、だから常に勝利、勝利としつこく言うのである
つまり負けを認めないのである、神仏に負けはないからである

天皇とは何か、天皇は武力をもっているわけではない、でも天皇の歴史は日本がでは長いそれで皇国史観が生まれた、日本の歴史は天皇の歴史だともなっている
天皇は神輿として利用されたとなる、それで確かに明治維新の時、長州藩で天皇のすりかえがありそこに田布施町がかかわっていた、はすり替えられた天皇だったという説である、明治維新は天皇が極端に持ち上げられたのはどうしても権威が必要だったのである
天皇の効用としては日本がでは権威と権力を分けた支配構造を作ったことで統一して治めることができたとされる、権力だけでぱ力だけでは治められない、そこに宗教とかも利用される
神聖ローマ帝国とかキリスト教もカトリックを通じて権威として利用したという歴史がある、神の国だという思想である、それは日本でもあったのだから共通している

不思議なのは共産主義でもソビエト連邦で書記がまるで神のようにして葬られた
神格化されて葬られた、つまり人間社会を治める時、武力だけでは暴力だけは治められない、必ずすると反発があり暴力で争うことになる
でももしその上に権威があればそれに従うとなる
それで創価だと池田大作になりそのミイラ化して神格化して治めるということをその幹部たちはたくらむ、おそらく何かそうした権威が必要でそうなっている、その人間がどうでもいい、馬鹿な民衆は偽りの権威に従うとなからだ
つまり幹部にしてもそうした方が治めやすい、それで神格化する
おそらく王が神格化されるのせそういうこととして人間の歴史でつづけられてきた
エジプトの王はファラオであり神像ともなっていたからである
神の様な力をもつというときそれは武力とか暴力だけで治められないからそうういものを作りだしたともなる

預言者なら神から認められ本当に力をもったのである、それは政治とか現実の人間社会とは違った権威である、この世でいくら力をもっても本当の力をもっているのは神しかない本当の力は神から授かるのである、でも政治になるとそうしたまがい物でも権威を作りだす、聖なる権威を作り出す、それが天皇にもなる
共産主義でも唯物論でもやはりそうした聖なる権威が必要になり書記が神のようにして葬られたのである、それは中国でも起きている、毛沢東の権威は神のようにもなっていた
そして習近平もそうした権威をもちたいができない、いくら権力があっても従わせることがむずかしいからそうなる

だから天皇は血統が大事でもすりかえても不思議ではない、大村寅次郎がすり替え天皇説はそこから生まれて来る、天皇とは政治的権威であり宗教的権威とも違うのである
権力を維持するためには権威が必要でありそれはその人がどういう人とか関係なく作られることもある、池田大作でもカルト教団では何百万人の人を支配する時、そういう権威が必要になる、それがないと治められない、それでなぜ池田大作を神のようにして持ち上げるのとかなると何百万人を支配して納得させるために権威を幹部など作りあげたとなる
それは共産主義でも同じだったのである
全体主義になると選挙に勝つことが権威となることはない、何か権威が必要でありそれでそうしした権威がまがいものでも持ち上げて神輿とする

図のように権威そのものが権威を作るのではなく、強大な権力が権威作り出す、権力の上に権威が作りだされ
る、それが政治である、権力は民主主義なら一票であり数だから創価では数を集めることが仏法の戦いともなる、政教一致ならなる、とにかく権力を持ち権威を作りだして支配する
天皇の場合はまた違ってい天皇という権威が建国以来作られていて権威があってそれにのっかって権力が作れるいという構図になる、ただ権力があて権威を作れないことは確かである
だから権力の上に権威を作るのは政教一致であり危険なのである

それは人間の歴史をふりかえればそういうことを古今東西でしてきたことがわかる
人間は権威をもちたい、権力を持ちたい、でも権力だけでは権力を維持できない、それで権威が必要になり天皇が作られた、その権威の下には誰でも従わなければならない
でもその権威なるものは権力を持ちたい維持したいものが作り上げて従わせるためだとなる、それですり替え天皇説の大村寅次郎が作られたとなる

いづれにしろ明治維新の時天皇を極端に持ち上げられたのは何か権威になるものが必要だったからである、つまり権威として天皇は継続されていたからである
神からの権威というか仏からの権威というかそういうものを政治的に利用したのである
それでヨ−ロッパでは政教分離が生まれた、政治と宗教は別であり一体化してはならないという法律である、宗教的権威を政治的に利用するを禁止したのである

人間を治める時、権力と暴力だけではできない、何かしらの正当性とか聖なる権威とかが必要になる、それがまた社会を歪める、また選挙で決めるにしても多数が正義でもなんでもない、多数は権力であり数の暴力となって社会をゆがめる
だから今選挙自体が日本だったら50パーセントもないのだから機能していない
選挙でも公正に決められなくなっている、多数の横暴がありそれが正しい選択ともならない、だからアメリカ大統領選挙では選挙で決着がつかない、それでアメリカ全体で3億丁の銃があり武装して戦うとまでなっている
つまりもう選挙では多数決では決められないのである 
つまり何をもって大統領でも王でも支配する者を決めるかという問題がある

王権神授説(おうけんしんじゅせつ、英: divine right of kings, divine right, God's mandate)または神授王権とは、「王権は神から付与されたものであり、王は神に対してのみ責任を負い、また王権は人民はもとよりローマ教皇や神聖ローマ皇帝も含めた神以外の何人によっても拘束されることがなく、国王のなすことに対しては人民はなんら反抗できない」とする政治思想のことである。

カトリックが力をもったのは政治の権威となったことである、不可分に結びついたのである、でもこのことは人間の歴史の政治の普遍的な問題としてあった
どうして人民を治めるのか?それは武力や暴力だけでは治められない、だから法の支配というのも生れた、法治国家である
ただこうして歴史をふりかえると歴史は繰り返すということである
政治の歴史を見ればそこにどうしても力だけでは治められないから神仏がかかわり権威として治めるためにそうしたとなる
だから創価でもそれは共産主義ともにた全体主義であり池田大作を権威として幹部が祭り上げてその下に支配しようとする、つまり誰かを神のようにして権威をもたせてそうするそこに本来の本当の権威がないにしてもそれが治めるのに都合がいいからそうする
すり替え天皇の大村寅次郎がまさにそれだったとなる

結局人間の権威は人間が作りだしてもそこには本当の権威はない、ただ神から与えられた人が権威をもつのである、でもその人は政治的権威とはなりえない、それは政治的権威とは別物だからである、政治的権力と権威はこの世の権威なのである
絶対的権威は神にしかない、つまりこの世の権威とする者は偽りであり偽預言者である
それは常に現れている
とにかくこの世の権威とは政治の権威でありこれは世俗的権威であり神の権威ではない
この世では世俗的権威であり神聖なものになりえない
ただそれを利用する、それは方便だともなる
天皇もそういう権威でありだから偽物の天皇の大村寅次郎が田布施町に作られたともなる要するにこの世を治めるのは永遠に神ではない、神が治める場所は天国しかないのであるそこでは神に治められるから永遠の繁栄と平和がありうるのである
この世の権威となっているものはみんな偽物なのである
だからいづれ化けの皮がはがれる、何百万人が崇拝するのは実はサタンでもあったのだ
偽物を拝まされていたとなる  

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隠された歴史が明かす、日本の”真実”!明治天皇の秘密、知りたい?-masakazu kaji-