南朝亡ぶー霊山城を逃れる落武者―短歌十首
野馬追いにでる南朝の天皇の菊の紋
一時の雄姿にあれや顕家の南朝亡ぶ朝散る桜かな
霊山の巌黒々と夕暮れや桜のここに散るもあわれかな
霊山の滅びてその裔野馬追に出でて翻る旗印かな
南朝の裔の只野家かたわらに歴史を語り秋の蝉鳴く
古霊山の巌黒々と我が入りて落葉の深く踏みて帰りぬ
霊山に人の入らぬ所あれ落葉の深く午後の陽さしぬ
南朝の滅びし跡を尋ぬれば何か残らむ草の花かな
風に舞う木の葉のあわれ霊山城逃れ落ちのぶ道をたどりぬ
一時に紅葉陽に映え美しき渓流の音下よりひびきぬ
雪厚く我が踏み上る山頂や学問岩のここに埋もれぬ
今回は霊山まで行けなかった、大倉から通行止めになっていたからである
でも霊山には何度も行ったので回想して短歌を作った
古霊山というのが奥にある、そこはあまり人が入らない場所である
だから何か神秘的なのである、霊山城は十年で炎上して終わった
でもその前に天台宗の僧侶が多くこもっていたとかその歴史が良くわからない
南朝の城の前に寺があったとなる、それで学問岩とあるのはそこで僧侶が学問していたからだとなる
でもそれだけの人数を養える場所なのかとなるとありえないとなる
霊山は阿武隈高地北部に位置する玄武岩の溶岩台地。伝えによれば、山寺は貞観年間に慈覚大師円仁が開山したという。天竺の霊鷲山に擬して霊山と名付け、山王の社を勧請した。
霊山は自然の要害をなし、山道と海道を扼する要衝の地。しかも顕家が入った頃、霊山寺には大規模な僧坊が組織されていた。延暦寺の末寺として僧兵も抱えており、顕家はその軍事力を頼みにたのじゃろう。
何か寺というと今の感覚では武力とは関係ないと見ているが僧兵もいてそこは一つの城として自立した自治をしていたのである、だから僧侶が武士になったという説がありそれもここでもあったのかとなる、とにかく要害の地だから城にするには適していたのである
そしてその前に寺があり城とするのにはさらに適していた
何もないところから城を作るのは容易ではないからだ
霊山城が滅びる時逃れてきたのが鹿島区の只野氏だったのである、その人は同級生であった、そして鹿島区には只野姓が五十人くらいいるのである
只野一族の町だともなる、その基は郡山の多田野村から発していたのである
ただ相馬市の方にも落ち延びた、そして野馬追に菊の旗が出るのは南朝の旗なのである
菊は天皇の旗印だからである
この霊山城が炎上して滅びたとき落ち延びたときに敵にわからないように扮装したのが
宝財踊りの起源なのである、それはこの辺では広く伝えられている
北海道に移住した人でも宝財踊りをその土地で伝えていたのである