2020年12月31日

時代の大きな変化が来るー2020年も終わる (柘榴坂の仇討-浅田次郎を見て)


時代の大きな変化が来るー2020年も終わる

(柘榴坂の仇討-浅田次郎を見て)

『柘榴坂の仇討』(ざくろざかのあだうち)ー浅田次郎

昨日のテレビ放送でこれを見た、仇討ちがテーマだったが明治になっても主君を殺した
井伊直弼を殺した人物を探していた、10年くらい追い続けていた
その人物を探し当てたがその仇討の相手も身を隠すようにして生きていた
両親も死んだとか苦しい生活を続けていた、それは仇討する方も妻に苦労をかけていた
その仇討される方も苦労していた
そして仇討をあきらめた、時代が変わったからである
井伊直弼を殺そうとした人たちも実は国を思っての行動だった
同じように国を思っていたのだか行き違いがあったというだけであるとした
それで仇討の相手を許した
それから仇討廃止令が出たのである

このことは何を物語っているのか?
時代が変わるとそれまでの武士として生きたことが否定される、通用しなくなる
モラルでもそうである、武士道があったとしても第一城とか主君がいなくなったら
誰に忠義になるのかとなる、もう城も主君もいないからである
武士道とは主君に忠義を尽くすことでありその肝心の主君がいないのだから武士道も通用しなくなる、その変化が余りにも大きいものだった
これだけの時代の変化は明治維新と太平洋戦争の敗戦とかしかなかった

それから日本がアメリカとの戦争に負けた時も大きな変化だった、焼野原になり日本は最悪の状態だった、その時も大きな変化であり時代が変わった
それで小野田少尉とかが密林で戦争状態のままになりジャングルで戦闘していたのには驚いた、時代が変わったのを知らなかったのである
それでやはり侍が侍でなくなった明治と同じようなことになった
戦争中の時代から別な世界に来てしまったとなる
国家最優先の時代から日本がまるで外国のようにもなっていたのである

時代が変わるということは価値観が変わる、武士道が通用したのはそういう主君に仕えるとか城とかがあり通用していたのである
それが主君も城もないのだから一体誰に忠義なのとかなる
その代りとなったのだ天皇だったともなる、天皇への忠義が国家への忠義ともなったとのである
戦後は確かに天皇は存在して天皇に忠義を尽くすとかない、天皇はもう神でもなくなったからである、それも戦後の変わった大きなことだった

とにかく時代が変わるとき職業でも変わる、侍は侍として禄をもらっていたがもらえないすると何らかの職業につく必要になった、それで北海道に開拓に入り農民として暮らすようになった人たちがいる、伊達藩の亘理がそうである、伊達藩の家臣でありその人たちが伊達市を作ったからである
他にも八沢浦辺りでも明治に浦が開拓されて侍が農業をはじめたとかある
なんらかの新しい職業につくことになり「武士の商法」とかにもなったのである

時代が変わる時、職業も変わる、その変化も大きいのである
戦後は高度成長になったのは電器製品が世界に売れたからである
それは農業から工業への変換でありそれが時代を築いた
なぜなら戦後の引揚者が開墾に入ったのは仕事がなかったからである
それで土地の悪い所を開墾して農業をはじめた場所がいたるところにある
でも半分は過酷であり棲むことできず撤退したのである
その人たちは工場などに勤めるようになったともみる
東京が急成長して中小企業がを増大したからである
そこで人手不足となり地方の中卒が金の卵として働いたのである

こうして時代が変わる、これから日本がどうなるのか?
それは高度成長時代からバブルになり30年成長がなく経済は停滞した
30年で改善されなかったのである、そして今日本は貧困化している
非正規とかアンダークラスが一千万以上とか貧困化しているのである
今度はコロナウィルスでさらに窮地にたたされる
だから会社員の時代が終わったとかAIで仕事が奪われるとか銀行員はいらないとかなる
時代が変わる時、職業も変わる、ベースとしてエッセンシャルなものは農業などは変わらない、その他は変わってゆく、
だから会社員とか公務員とか銀行員とかでもそうである
終身雇用などなくなる、会社が存続できなくなるからだ
それは侍が仕事を失ったと同じなのである

そしてAIとか機械化ロボット化で仕事がなくなる、それでみんなアーティストになれとかいうのは時代の変化でそうなったのである
団塊の世代は猛烈会社員として企業戦士として働いた、でも今になってそんなことを言うのは何なのだろうとなる
遊びが仕事なか馬鹿言うなともなる、でも時代が変わるということは価値観が変わることなのである
それは明治で侍が仕事を失い侍がいなくなったのとにている
侍中心の社会がなくなったからである

そういう変化に今見舞われている、すると奇妙なことはそんな遊びのようなことが仕事になるのか?ふざけんなとか古い人にはなるのである
それは明治で侍が庶民となったりアメリカとの戦争に負けて国家が第一であった社会とまるで違ったものとなったのとにている
現代では国家というのは常に否定されてきた、日本では戦争に負けて特にそうなったのである、だから国家が一体となり一つの目的に向かって何かを成し遂げようとかはない
みんな個々人が金のために働いているだけなのである
それでコロナウィルスとかの危機になると対処できなくなっているのだ
国家の危機になれば戦争中のようにまた社会を変えねばならなくなるからである

今年も今日で終わりだけど来年は本当に大きな変化の年となる
戦後70年でありそれは明治から70年で太平洋戦争になったように時代が大きく変わる
だから今まで恵まれていた銀行員とか会社員とか公務員すらわからない
安泰とはならないのである、それは明治に侍が失業したようなことが起きて来る
またコロナウィルスでも時代が変わる、グロ−バル化とにも歯止めがかけられたし
必ずしも世界をヒト、モノが自由に行き来することがいい面だけはなかったことを知らしめられたからである

経済的に世界が結ばれるというより必ず争いも生じるのが人間社会である
経済封鎖とういのもそうである、アメリカに経済封鎖されて日本は戦争に突入したとかあり経済の自由なグロ−バル化はそうした政治的なものから逃れられない
国家の枠を越えることはできない、第二次世界大戦のようにもなる
グロ−バル化の負の部分が増大したのである、それにコロナウィルスが歯止をかけたとなる一年だったともなる
posted by 天華 at 17:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

abstract mountain


abstract mountain

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mountain way

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Strata record

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power of mountain





なぜこれほど大量に抽象画できるのか?
それは自分自身でイメージしたものを作るのではないからである
インタ−ネットであれ雑誌であれいたるところにあふれる写真とか絵とかありそれを変形させるだけだからである
それはAIで作るのとにている

そしてその作業の行程はだいたい決まっている、三つくらいのソフトの一部を使い作る
それが川になり森になり山になりトンネルになる
その過程は決まっている、つまりこれは機械的に作り出している
何か頭の中でイメージして作っているのではない
第一私には全く絵の才能がないからである

それでもそれなりにアートになっているのはアートとはもともと技術の意味でありそれを理解した、だから絵の才能がなくても創作できるとなる
それも大量に作れるのはただ原画を写真を変形させているだけだからである   

Why can we make so many abstract paintings?
Because you don't make what you imagine yourself
This is because there are photographs and pictures that are everywhere on the Internet and in magazines, and they only transform them.
It's supposed to be made with AI

And the process of the work is roughly decided, using a part of about three software
It becomes a river, a forest, a mountain, and a tunnel.
The process is fixed, that is, it is created mechanically
I'm not making something in my head
First, because I have no talent for painting

Even so, the fact that it is art in its own way is that art originally meant technology and I understood it, so I can create it even if I do not have a talent for painting.
It is possible to make a large amount because it is just transforming the original picture into a photo.


2020年12月30日

駅の“無人化”全国で広がる 利用者多い首都圏でも (無人駅のボランティアしたことをふりかえる)


駅の“無人化”全国で広がる 利用者多い首都圏でも 

(無人駅のボランティアしたことをふりかえる)

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人口減少に加え、新型コロナウイルスの影響で鉄道会社の業績が悪化する中、駅の“無人化”は全国でさらに進む可能性があります。

国土交通省によりますと、一日中、駅員がいない「無人駅」はことし3月末の時点で、全国に9465ある鉄道の駅のうち、48.2%にあたる4564駅にのぼります。

原告の1人で大分市に住む五反田法行さんは「無人駅だと万が一、ホームから転落しても誰がすぐに助けてくれるのかわからない。今回は裁判という形になってしまったが、可能なかぎり互いが話し合っていける場をつくっていきたい」と話しています。

無人駅にかかわって思ったことは無人駅になるとそれは誰も管理するものがいないから
勝手にされる、ちょうど空家のようにそこに勝手に利用したり荒らされたりする
それが日立木駅で起きた、あそこは本当に駅前でも店もなにもなく閑散としている
乗り降りするのは二人くらいなのである
そこで待合室の一部が壊されたり落書きされたりした
普通は待合室まであれほどひどいことはしない、そうなったのは駅前に人の気配も感じられないともなるからだ
つまり無人化するということは人目がないということになるからだ

それで私がボランティアになったのは最初どうして電車に乗るのかわからない人が地元でもいたからである、それで昼間の買い物帰りに寄っていたので教えたのである
他にも電光掲示板とかでもわからない人がいたのである
今でも外から来た人はわからない、地元でも一度も電車を利用しない人がいてわからない人がいたのである
それだけ鉄道は利用しなくなったのである

とにかく無人だということはこうして奇妙だけど勝手にされる、それをとがめる人もいないからである、例えば無人の荒野ではそうなる、そこに家を建てても何も言われないともなる、誰が所有者だかもわからない、すると誰の許可もなしに家を建て住むこともできるそして占有権というのがあり誰かわからない土地は最初に住んだ人が権利があるとなる
そして誰も利用しない荒れた土地はそれを利用しないとなるといつまでも所有権だけがあるのは理に合わない、誰かが利用して土地も活きるからだ
つまり利用しない土地の所有者は権利がないとなる、それで戦後は地主が土地を小作に貸していたが戦後は実際に土地を利用して耕作する人に与えられたのである

無人駅にも何かそうしたことと似ている面があると思った
誰も管理していない、すると何か勝手にする人もでてくる、それが自分だったのである
でも実際は無人駅でも勝手にしてはならないものだったのである
それで結局常に駅長とかににらまれてそんなことするなとなった
ゴミを投げる場所がホーム内にあり聞かれたので教えた、時々それでホームの中に勝手に入っていた
ところが監視カメラがありそれで監視して入るなと言われたのである

それから駅関係者だけではない、駅を利用する人にも言われた
お前は何をしているんだ、そんなことする必要はないと怒ってきた女性がいたのである
それは電車が風で遅れた時、困った人がいたので案内していたからだ
つまり無人駅で自分は何一つ認められたことは内、でも乗客は案内したときありがとうと言っていたのである
特に遠くから来た人はそう言っていたのである

そして誰かが検察に通告したのである、そして丁度イベントがあり人が集まる時
みんなの前で職務質問されたのである、あやしい奴だとしてそうされたのである
結局無人駅の問題はそこに案内するにしても勝手にできないものだった
JRの許可が必要でありまた乗客でもそうである、その人たちが認めないとしたらただの怪しい人になるだけである
ただ自分の場合は駅でいろいろな人と会い情報を仕入れことでもあった、そして意外と駅が外との情報を知る場所であることを知った

在る時、中学生が来てその人は間違って来た、それで腹減ったということで前の菓子屋から菓子を飼って与えた、まずこういうことはAIになってはできない
人情とか機械にはないからである、機械の限界は情がロボットでももてない、愛など持ち得ようがないことである、だから機械とロボットだけの社会になったら索漠としたものとなる、人間の情が通わない社会になるからだ

何か鉄道が交通の要になっていたときは駅は人情がある人間的な場所だった
今でもそうである、それは人を送ったり迎えたりするからである
そこに出会いと別れがあり自ずと人情がしみこんだものとして駅があった
電車とかは何か人間的なものがある、それは車とかバスとかは違っている
それは高速道路のSAがあるがそこに行っても鉄道の駅とはまるで違ったものである
そこに出会いとか別れというものを感じないのである
ただみんいな一時的に寄って食事したりトイレを利用したり買い物をするが何か鉄道の駅のようなものを感じない、利便的なものしか感じないのである 

上野駅「ふるさとの訛りなつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにいく」石川啄木

鉄道には何か人間的なものがしみこんでいた、そういう場所だったのである

こういうふうに上野駅ですら明治では訛りを聞けるとして行っていたのである
そこには人間的なものがかもしだす場だったのである
そういう雰囲気は今やなくなった、利便性だけが追及される場になる
そして鉄道を利用する人が減るばかりである、だから本当に電車に乗る方法すら知らない人が普通にいたのである
それだけ車社会になっているからもう北海道だと鉄道はなくなるとまでなる
道東になるとそうである、まるで歯がぬけるうに路線が廃止されているからだ
将来はもう北海道から鉄道のほとんどが消えるとなる

無人駅で人情もなくなるというとき障害者などは無視されるのもそうである
盲人の人が通っていたがその人はわざわざ隣の駅に連絡して来てもらったりしていた
盲人は危険にもなるから無人化に反対している
でも障害者のために存続もできない、コストの面でそうなる、そこで人情もなにもない
索漠とした風景になるのが現代なのである

ただ模擬駅員として一時的にもできたのは良い経験だった
なぜならまず職業は簡単に経験できない、それで社会のことがわからないのである
いくら本を読んでも知識があっても本当に経験しないと実際はわからないことが多すぎるからだ、でも何か経験することは本当にできない、だいたい学校を卒業していくつかの職業を経験してもそれは極限られたものなのである
でも社会は実際は職業を経験した時実感してわかることが多い
でもそれができないのである、だから社会をでも他人でも理解できなとなっているのが現代である、現代は余りにも多様な職業に従事ている社会だからである

だからいろいろあったが経験したということでは良かったのである
結局人生とは何を経験したかなのである、経験からしか人生を語ることはできない
だからアメリカで十五年も仕事したとかの経験となると外国を肌で知っているから違っているのである
自分は鉄道の旅が長いし鉄道好きである、だから一時的であれ駅員のまねごとしたのは良かったのである、まずそういうことができないからだ
人生とは経験したことでありそれを語るのが人生だとなるからだ
その人の一生とは何かを経験したことなのである
だから引きこもりも実は経験なのである、引きこもりもマイナスとだけ働くとは限らないのである、私は30年間引きこもりだったけどそこで修行僧のようになり禅僧のようになり自然と同一化することをしてきた、木や石とかと一体化かすることをしてきたのである
それはなかなか社会で勤めていたりしたらできないことなのである
それは家族に恵まれてそうすることができたとなっていたのである

ただ正直駅にこんなにいろいろなことがあるとは思わなったのである
そのことでわかるように駅でも駅員になればそれがわかるのである
それは経験しない限りわからない、ただ乗客となっているだけではわからないのである
医者と患者がいるが医者のことをその気持ちでも医者になってみないとわからない
また医者でも患者になってみないと患者のことがわからないともなる
先生でも先生になってみないとわからない、だから教育実習とか大事になる
なぜならその時子供と直接に接するからである
その体験が大事なのである、それも自分にはできなかった
確かに一時期したことがあるがそれも失敗だった、つまり経験を積むことができなかったのである
どう子供に教えるとかは実際に子供と接しているなかで上達するからである

とにかく今年も終わりである、結局確かに満月だったのだがその満月に暗雲が流れていたそして晴れなかった、まさにそういう感覚で今年は終わる、コロナウィルスが晴れないのである

満月に暗雲流れ年終わる





posted by 天華 at 21:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

私的なものか優先されて公的なもの働かない社会 (コロナウィルスでも社会は利権化して分断される)


私的なものか優先されて公的なもの働かない社会

(コロナウィルスでも社会は利権化して分断される)

コロナウィルスでも私的なものと公的なものでもめている、日本の病院が民間が8割とか多いから統制が効かない、それでコロナウィルスでも民間がそれだけ多いのだから
政府の命令で統一できない、現実にコロナウィルスで開業医とかは暇になり看護師も暇になんている、一方で感染症に向ける人材の不足とか施設の整備とかはできていない
用意されていなかったのである
つまり感染症対策は政府の強力な指導がないと防げないものだった
そこで民間が主な医療体制では対処できなかったとなる

例えば戦時中なら従軍看護婦は赤紙一枚で過酷な戦場に送られた、でもそうしたことを現代ではできない、看護師自体が50万月給を払うとしても嫌だとしてやらない
感染するのが嫌だとなる、戦時中ならもうみんな命がけでありそんなことを言えない
強制なのである、現代の自由社会はとにかく何かを強制することがしにくいのである
あくまでも自由意志であり強制できないシステムになっている
だから医者でも看護師でも私はそんな危険な仕事はしたくないとなればしないのである
それが許される社会である

でも警官でも自衛隊でも消防士でも危険な場所に働かざるを得ない、緊急事態があれば命の危険があっても行かざるをえない、それが仕事だからである
仕事という時大工さんとかでも高い所で仕事するから危険なのである
でも別にそういう仕事だとしてしている、特別高く給料をもらうということでもなくそうしている、自衛隊でも一旦戦争になったら戦地に行きそこで死んでもしかたないとなる
そういう契約で税金をもらっているからである
私は戦争になったら死ぬのは嫌だから行きませんとは言えないのである
ではなぜこれまで税金を国民が払っていたのかとなるからだ

これは医者とか看護師にも言えるかもしれない、保険料をもらうことは税金にもなる
そして医者とかは現代社会で唯一尊敬されている特別の職業なのである
医者だけはお医者様となり高給取りだけではない尊敬されていることである
今は先生でも尊敬されない、僧侶とかでも尊敬されない、それだけの社会的に特別の存在になっているのは医者だけである、他に…様などという職業はないのである
国会議員ですら尊敬されない、選挙の時はどんな人にも頭を下げねばならない
そして議員自体が何か胡散臭いものとして見られている

おそらく看護師などは医者と比べると給料も安い、三倍くらい違う、そうなると看護師の場合はしたくないとなる、金より危険だからしたくないとなる
それは自由意志で決まるからである、それで使命感だけではできないとなる
日本が戦争の時は命がけであり死ぬのが当たり前でもありまた上の命令に逆らうことはできなかった、特攻隊などでもそうである
それで20代となれば実際は死にたくないとなっていたのである
その無念を短歌に残して死んだ若者がいる、ただその時は国家の方が優先課題だから私的なものは無視されたのである

何か自由意志の社会になると何か危険があっても対応できないともなる
私はそな危険な仕事がしたくないとかなればやめるのも自由だとなるからだ
それで看護師はやめているのである、要するになぜそんな危険な仕事をしなければならないのか?その動機がないとなるからだ
そして医者は完全防備していて治療にあたっているが看護師はより患者により直接に接するから危険だとしている、それで余計したくないとなる
看護師が感染して死んでも国家のために死んだ貢献したとかにもならない、戦争で死んだ人は英霊として祀られたとなるがそうもならないからだ
つまりそれだけ危険を犯す動機がないからしたくないのである

自由意志社会は誰も強制できない

でもは実際は金を得たくて危険な場所でも働いている、その働く目的が金になっている
だから金をもらえれば働くということがある、でも看護師もそんな危険な場所で働きたくないなら働かなくてもいいとなる
つまり強制できないのである、そうなるともう感染症の患者を診る人もいなくなるともなる、なぜなら自由意志社会ならそうなるのである

でもそうして自由社会なになるとみんな危険だからしたくないとなると社会はどうなるのだろうか?
戦争の時死ぬのは嫌だからみんな戦線離脱したら敵が攻めてきて国は崩壊する
その敵とは今コロナウィルスにもなっている
ただこれは戦争の様な危機感がもてない、たいしたことない、死ぬべき老人が死んでいるだけだともみている、老人が多いんだから死んでもいいとかもみている
つまり国民でも危機感をもてないのである
ただそうして医療崩壊するとコロナウィルスの患者だけではない、他の病気も治療できなくなり死ぬ人が増えてくる

また一方でコロナウィルスにばかり労力をさくと経済活動が停滞してそれで自殺者が増えるのも問題だとなる、その方が深刻だとなるからコロナウィルスはただの風邪だから二類感染症からはずすべきだというのもわかる
要するにコロナウィルスの正体がわからない、それで対策もたてられない
わかっているのは基礎疾患を持つ人は50代の議員が死んだように死ぬことがある
あとは60歳以上が死ぬ確立が多くなる、80になるとさらに多くなる、それは別に死ぬ時期だから騒ぐほどのことではないとなる

何かこの問題でも私的なものと公的なものがあり私的な自由意志社会になったとき公的なものが喪失する、そこに問題の根があるともなる
私的なものとしては金を得るためであり医療崩壊が起きると騒いでいるのは医師会であれ何か政府から金を出させるためだというときそれは利権になる
現代は様々な利権団体がありそれも私的な利権団体でありそれが何であれ圧力をかける
例えば原発で800億円の宣伝費を出していたのは電事連なのである
マスコミはそれで利益を得る、そもそもマスコミ自体が利権団体であり利権と結びつく
だから原発に反対することもないし危険を言わなかったのである
「安全神話」に加担していた利権団体なのである
現代社会はあらゆるものが利権団体化している、カルト教団でも利権団体に過ぎない
だから宗派が違っても税金をとられことでは団結するのである
利害が一致すれば団結するのが現代の民主主義社会だとなる

こうして団体組織でも利権団体化してその組織団体の利益を追及すると時社会が硬直化して何もできなくなる、まずは金をよこせ、それなら働くとかなりまた危険なことはさせるなともなる、危険なことはしたくないからやめるともなる
そうするときコロナウィルスという敵に対処できなくなる
つまりみんな危険なことはしたくないとなるとき戦争ならみんなが戦線離脱したら敵が攻め入ってきて国が亡びるともなる
ただそれもそれだけの危機感がもていなからだともなる
コロナウィルスに全国民が過度に畏れ騒ぐ必要がないということでもある 

その判断をどうするかということになる、それは専門家でも決められないのである
第一専門家もコロナウィルスについてわかっていないからである
わかっていることは基礎疾患を持つ人は50代でも死ぬ、あとは年齢があがれば老人は感染して死ぬ確立が増大するということである
だからそれは自然なことであり寿命だからそれほど危険なものではない、そういうふうに判断すれば二類からはずすべきだともなる
そうしてインフレインザの対策で十分だとなる、ただコロナウィルスの正体がわからないので混乱している、それで恐れる人は過剰に恐れるし恐れない人は恐れない、普通の生活を止めるなとなっている

マスコミは数字でおそれさせる、でもその内容はわからない、コロナウィルスが5つあっても感染者だとかなる、それは陽性者になる、感染者の症状がとうなっているかわからないのである、それで判断しようがないと科学者が言っている
要するに政府でどう判断するのか?その方向がわからないから混乱している
方向を決めないとますます混乱するだけになる


posted by 天華 at 12:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2020年12月29日

2020年も終わりふりかえる(満月で終わる今年)


2020年も終わりふりかえる(満月で終わる今年)

満月に終わる今年やわざわいのなきしを祈り来年に期す

今年一年振り返ると自分自身では自転車で二回転んだ、一回は相当危険だった
堀に落ちたので膝を打った、打ちどころが悪いと死ぬということもあった
実際に堀に落ちて死ぬ人がそれなりにいる、自転車の危険は意外と堀なのである
それと暗い時は自転車は危険である、それで夜に二回転んだ

ただ一番危険だったのは頭を打って前の三本の歯が折れたことである
それはずいぶん前のことだがそれは危険な場所ではない、ありふれた場所で起きた
その自転車が車輪27インチで大きいものだったのが悪かったのである
ロードでも転んだ時は危険だった、自転車は結構危険なのである
車に衝突することもありうる、こうふりかえる現代の危険の度合いの一番大きいのは交通事故なのである、まず鉄道を利用して事故になることはないからだ

それから病気にもならずにすんだ、必ず胃腸が弱いので悪くする、夏になりやすい、でも今年はならなかった、体の調子はそれてりに良かった
ただどうしてか11月頃双葉の方に行き久ノ浜で歩いた時、両方の足がはれた
そして二週間くらい痛くて苦しかった、それが苦しいのは一人であり食事と家事の用意をしなければならないからだった
足が悪くなると結構きついと思った

これからは健康が一番大事になる、老後はいかに健康でいられるかが勝負になる
病気になったら老後は地獄になってしまう、いくら金があっても寝たきりになったりしたら何もできない、その差が大きいのである
健康であればなんとか一人でも生き抜くことができるが病気になったらもうどうにもならない

ともかく一年の内でも災いがある、どこで災いがあるかもわからない
いくら気をつけても災いが起きる、別にコロナウィルスは大きな災いでも自分には何もなかった、これはみんな災いにはなっていない、株が上がってもうけた人たちもいるからだただ観光飲食関係、交通関係は打撃だった、立ち直れないほどの打撃になった

とにかく満月を見て今年も災いがあったが切り抜けたと感じる
満月だということが縁起がいいとなる
年末は何か一人だから家事にまた追われる、最近は灯油を3日に一回自転車で買いに行くから手間になる、掃除するのも大変である
だから暇なく何かをしているのである、その合間にプログを毎日書いている
これも手軽に送信できるから表現できるから一人でもできる

これは何かを発表する方には便利なものである、でも情報が増えすぎた、すると情報を選別することになる、そんなに読めないからである
情報を消化するには限度がある、現代はもう莫大なの情報でありもう選別すらできない
情報にふりまわされる、コロナウィルスでも様々な情報にふりまわされ真実がわからなくなる、それは原発事故でもそうだった
情報過多になるのもつくづく問題だと思った、コロナウィルスでも過度に恐れるのはマスコミとかテレビの影響なのである、恐れ過ぎているのだ

毎日何人感染者が出たとか放送されるとまるでその数字が心に影響する
それでテレビに釘づけになりテレビ局では視聴率をあげる、すると宣伝費でもうけられるとなる
毎日放送される感染者数というのはどういう感染者かわからない、例えば熱が75度以上の人が感染者としているのかどうかもわからない
武田邦彦氏によるとコロナウィルスが5つつ見出されても感染者だとしている
症状が出ないのにそれを感染者としているという

また国会議員が突如コロナウィルスで急死したというのも恐怖を与える
でもこの人には基礎疾患があり感染しやすかったのである
基礎疾患がある人はコロナで重症化しやすい、これは明確にわかってきた
必ずしも高齢者でとなくても基礎疾患がある人は危険である
重症化しやすい、議員の人は糖尿病であり高血圧だったのである
芸能人でも基礎疾患あった人が死んだのである
だからこの因果関係は明確である、その他はわからないし重症化しないのである
だから恐れ過ぎるのも問題だと思った

ただ津波と原発事故は最悪に備えないことで大惨事になった
そもそも最悪でないにしろ日本では感染症に対して備えすらなかったのである
だからこれも相当な手落ちだった、原発でも危険に備えることは一切なかった
「安全神話」になり口に出すこともできなかった
感染症でも国レベルで備えをしていなかったのである
最悪に備えよというのではなくそもそも備えをしていなかったのである
だから医療崩壊になっているのであり備えは十分にできたのにしていなかったのである
それで津波や原発事故と似ているところがあったなとみたのである

モズの写真?


モズの写真?

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これはモズだろう、ノビタキに似ているとしてもノビタキは夏鳥であり渡り鳥であり秋までいなくなるというとなるとそうなる
モズは結構見かける、でもこれはわかりにくかった
望遠レンズが倍率が低いものだったのである、7倍とかあったがはっきりしない
これはすぐ近くの空き地に来ていた
首の回りが白いとなるとそれが何になるのか? 

どう考えてもモズになるだろう、そもそもノビタキなど見たことがないからである
ジョウビタキは羽根に白い斑点がある、それで見分けやすい
これは見分けにくい、ただモズと似た写真がありそう推測した

鳥を撮るのはむずかしい、なぜなら鳥はすぐ飛び去るからである、写真を撮ろうとするときいなくなっている、そしてどこに来るかもわからない、狙いを定めることができないからである
これは成鳥ではなく幼鳥なのかもしれない、だから特徴が良くまだ出ていないのかもしれない、ともかく写真をとることはかなり熟練がいる
ただ倍率の高い望遠レンズがないと撮れない、むしろ小型のデジタルカメラの方がいい
倍率の高いのがあるからだ、それでも鳥は長く一か所にいないから鳥を撮るのはむずかしい



2020年12月28日

子が親を捨てる時代 (老人は病人でも捨てられる、その覚悟も必要な時代?)


子が親を捨てる時代

(老人は病人でも捨てられる、その覚悟も必要な時代?)

団塊の世代は、定年後に10年以上も親の面倒を見なければならない、最初の世代となるでしょう。だからこそ何を選び、何を捨てていくかを真剣に考えなければならない。我々は今、まったく新しい問題に直面しているのです」

定年が60だとするとそれから十年ある、また65だとすると75になる
この時間は長い、つまり十年の時間が親の介護に奪われるということになる
それがなぜ問題なのか?それを自分自身の介護で理解した

会社員として働いた人と自分のように気ままに旅ばかりしていた人の相違だったのである会社員として60まででも長く働いた人は会社を退職したということは一つの大きな人生の区切りなのである、そして何か今までしていなかったことをしたい
自由な時間を得てしたいとなる
それを親の介護でその時間を奪われることが苦痛になる
その時間は貴重な最後の人生の時間ともなるからだ   

ただ事情はそれぞれ違っている、私の場合は親は自由にさせてくれた、もともと集団生活とか規則とかになじめなかった、だから自分は会社員としても勤めることができない
でも親に恵まれて引きこもりであれ束縛がない状態で引きこもりでも30年過ごしていたのである、普通だったら働けとか言われ親に殺された人までいる
自分に関してはそういうことはなかったのである

だから親の介護になったとき自然と懸命にした、それは当然のことだったのである
もちろん嫌でもあったがしたくないということもあったがそれは自分をこれほど自由に生きさせてくれたのだから恩返しと自ずとなったのである
でも会社員とか夫婦とかなると妻に親の介護させるとかなると簡単にできない
姑としていじめられたとかなれば余計にそうである
やはり介護となると本根が必ずでる、隠せないのである
人間は絶対に本根を隠せない、どこかで現れる
その時、人間の本性に本当に驚く、そこに愛がない人は露骨に行為として現れる
子でも親は介護となったとき苦しいから捨てる

いづれにしろ高齢化社会では本当にもう子が親を捨てるなど当たり前になる
それが非情でもなんでもない、もう老親のめんどうを金銭的にもまた労力がかかるから見れない、医療でももう延命治療などしない、病院では老人を生かさない、死なせるのが普通になっているという、もう老人に労力を注げないのである
数も多いし経済的負担ももう増えるばかりで今までのような治療はできない
つまり子は親を捨てる、それが非情でもない、世間でもそれを責めない社会になる
その苦労が並大抵でないことを知るようになったからである

ただそれぞれ家族には事情がありそれで違ってくる
近くの夫婦の妻は最近突然死んだ、78才であった、夫は83才くらいである
でも心臓病であり機械を入れていたり脚も悪いという
これまでは妻がなんでもしてくれた、今はしてくれないからゴミなげをしたり買い物するのも大変だと言っていた
そもそもその妻は看護師だったのである、すると夫の病気の世話もできていたのである
でも息子夫婦と一緒に生活していても食事でも何でも別々にしていた
だからまともな体でないのに家事を一人でするのは大変になったのである
つまり家族と一緒に生活していてもみんな一緒ともならない、孤立している場合がある
同じ屋根の下にいてもそうなのである

ただこうしてそういう老人が本当に増えてゆく、家族があっても同じ屋根の下にいても孤立する老人でありやがて子供に捨てられる老人ともなる
また社会的にも老人がふえすぎる、そして何かしら病気をもつのが老人である
仙台市に行きそれも市内からさらに一時間とか離れた場所に行くとかいうのも贅沢である腰が悪いとしてもそうである、金もないのに行こうとしている
その女性は医者通いが仕事のようになっている、こういう人も老人には本当に多いのである、ある人は病気の治療に毎月3万かかっているとかいう
回りをみても脳卒中で足を悪くなったとか一人暮らしの同年代の人もいる
何かしら病気をもつようになる、これから団塊の世代が2025年に介護が増えて来る
これももう増えすぎて限界になるからもう介護したり病院でも診ないととなるかもしれない、それでコロナウィルスで老人は病院に行かないという時相当に国では保険料など財政負担が減ったのである
つまり病院に医者に行きすぎたということがあった、サロンのように利用しているとかの批判もあったからだ

もしかしたらこれから老人のサバイバルゲームになくかもしれない、金だけでなく、病気になったらもうめんどうをみない、死んでくださいとまでなるかもしれない
介護できなくなっているからだ、その負担を子供でも社会でも負いきれないとなる
だから子が親を捨ててもそれで親不孝とか責められない社会にもなる
それだけ老人が増えすぎてもうめんどうみきれないということになる
そうはいっても自分自身が病気になったら手厚い介護をしてくれとか病気を治してくれとかなる、でも一方で捨てられても恨まず死んでゆくという覚悟も必要になっているのかもしれない、ただサバイバルゲームであり健康であれば百才でも生きてくださいとなる
でも病気になって介護状態になったらめんどうみきれないから死んでくださいとまでなるかもれない、金のない人も死んでくださいとなるかもしれない
ただ最低限自分のことはできて健康であれば生きることが許されるとなる時代になるかもしれない、それは非情のようでもやはり社会がそうなってしまったらどうにもならないのである  

社会全体が老人の病気とか介護に費やされたらどうなるのか?

そういう社会が維持できるのか?

人間が生きることが病人の世話と介護になっていいのか?

こういうことにもなる    

それは世界的な問題であり孝行を説く中国でも老人が増えすぎると子供にも捨てられるとなっている、これまでの大家族とか一緒に暮らすとかでなくなっている
そういう社会でもう老人のめんどうはみれないとなる 
愛情は大切である、でもその愛情にしても老人が病人がこれだけ増えるともうその愛情のために疲労して介護する方が倒れてしまう状態になってゆく
つまり老人に病人に生き血を吸われるとまでなる、そういう社会はやはり理に合わない
そうなると社会自体が老化して死滅ししてゆくともなるからだ
これはやはりバランスの問題だった、若い人が多く子供が多い社会が健全だったのであるそれは戦後焼野原になり子供が大量に生まれ団塊の世代が生まれた
その時は社会に希望があり健全な社会だったのである、今は逆になっている
団塊の世代がみな老いて病気になったり介護状態になる、その数が問題なのである
それが社会を歪めてしまうのである
日本自体が衰亡してゆくのもそのためだとなるからである





年の瀬(仙台まで行く)


年の瀬(仙台まで行く)


枯芒二人ほどのる田舎駅  

なお待つや電車の来ぬや冬の雲

年の瀬や買い物あれや仙台に

年の瀬や月の満ちつつ電車行く

年の瀬やいのしし電車に当たるかな

仙台を離れ冬の灯ともしかな

相馬駅枯木一本とまりけり

冬の夜の闇の深しも日立木駅  

二人ほどおりしや見届け冬の夜


レンズを中古のレンズをキタムラで買い仙台市の駅前の店に行った
そこはちいさなビルの一室である、でもレンズがCAMERAに合わないで失敗したからアマゾンでなくてキタムラから買っている、そこに店があるしカメラのことを聞けるからいい
ソニーのアルファ6000はシリーズの最初のものだけどそれが基準になっていると言った
つまりそれが基準だということはいいものだったのである
それできれいに映るなと感心していたのである、その時は8万くらいだった
その後介護とかあり忙しくて使っていなかったのである 

今回はこの用事で行っただけでありすぐに帰ってきた
そしたらイノシシが新地と坂本の間で電車に当たり遅れた、ただ十分くらいなので助かった
電車の窓から月が見えた、それが月が満ちて満月になってゆくものである
大晦日辺りに満月になるのも不思議である
そういうこともなかなかないかもしれない

仙台を離れると冬の灯がともしくなり淋しくなる、仙台は大都会でも枯野の風景にすぐなる、だから東京とは違う、ここから仙台までは一時間十五分である
近くも遠くもないという距離である

日立木駅当りにくると相当に淋しくなる、闇が深くなる、日立木駅で二人ほどおりた
あそこは本当に無人駅である
ともかくやはり年の瀬は追われる感じになる、家事を一人でしていると追われる

電車が好きだという時やはり必ず駅で待つ時間があり車窓からのながめがいいのである
バスとかだと何かそういうことがないから好きでない
電車からの眺めがいいし駅で待つことが人間的な時間を作っている
だから北海道辺りでも鉄道が本当になくなるというとき観光的な魅力は相当になくなる
ただ観光路線として維持するのはむずかしい、常磐線でも震災以後は原町からいわき市間は相当に乗客も少なくなった、でも双葉駅にスーパーヒタチがとまるのはうらやましいとなる











2020年12月27日

コロナウィルスは過度に恐れ過ぎているのか? (武田邦彦氏の意見の方が正しいのか?)


コロナウィルスは過度に恐れ過ぎているのか?

(武田邦彦氏の意見の方が正しいのか?)


武田邦彦】奴らにブチギレた!これはもう医療崩壊というか日本が崩壊している!

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この図ではインフレインザが今年は極端に減っている、でもこの図をテレビでは出さない
確かにこの図を比較してテレビでは出さない



コロナウィルスのことがなぜわかりにくいのか?
それは原発事故でもそうだった、放射線とか核とかわからないからである
すると意見が二に分かれた、微量の放射線はかえって体にいいとかいう科学者もいた
その人は御用学者だった、また危険を過度に言う人もいた
それで地元でも混乱させられた
浪江の人たちは何の政府の支持もなく最も放射線が高い山の方の津島に逃げたのである
ところがその中に東電の社員がいて街の方に逃げた方がいいとしてそれに従った人たちがいたのである、街の方が海側の方が安全だったのである

安全な方向へ誘導した人がいた!

すると今回のことでも一体安全と危険をどう分けるのか?
何が危険で安全なのか素人にはわからない、また専門家でもいう人は同じように二つに分かれる、ただこれはただの風邪だという学者もネットにいる
週刊誌などでもそういう意見をだしている、過度に恐れ過ぎている
それで社会を混乱させて経済活動を止めるのが問題としている

このコロナウィルスも科学の問題になるから科学者でないと専門家でないとわからない
それで国民は右往左往するだけでとなる

ただ原発事故の時はどうして原発が安全神話を作ったのはそれが原発によって莫大な利益が利権が得られるからであることは明白だった
金の成る木でありあらゆる人が群がった、それがこれまでも再三指摘してきたように政治家も官僚もマスコミもまた地元でもその金に群がったのである
例えば官僚というときその中には検察官僚もいたし自衛隊とか警察も入っていたのであるその人たちが天下りしていたのである
そして全マスコミが東電の「安全神話」に加担していたのである
爆発した時、中国にその全マスコミの幹部が東電に招待されていたからである
原発では利益関係がわかりやすかったのである、みんな利権となり金になるということで安全神話に加担したのである、地元の人たちも利益になるから積極的に誘致したのである
だから何か今になるとその構図はわかりやすいのである
でもこのコロナウィルスは何なのかその構図がわかりにくい、利権とか利益からコロナウィルスが過度に危険を言うのか、何かそれでメリットがあるのか、また誰かが利権になり利益になるのか、それが良く見えないのである
利益になる利権になるというとき確かにワクチン製造会社とか薬剤関係の会社が利益になり利権になるから危険を言わせるとなる
マスコミも視聴率を稼ぐため宣伝費を出してくれるスポンサーのために危険を過度に報道する、それは利権、利益のためであるとなる

それは原発でもそうだった、電事連が宣伝費として800億円をマスコミに出していたというからその利益は莫大なものとなっていた
それもわかりやすいのである、でもなかなかコロナウィルスの過度の危険を言うのは誰がもうかるのか、利権となり利益となるのか良く見えないのである
現実は医療崩壊にしても開業医とかが患者が減りかえって損している
誰か特別利益になる人が組織が団体がいるのかとなる
政府にしても金を出すのだから出したくない、利益にはならないのである

厚労省が二類にしているのはそれを取り下げない事情は厚労省独自の省庁のエゴでそうしているという、それは何らか利権と関係しているのかとなる
でも全体的に見て誰が得するのか利益になるのか明確に見えないのである  
推理小説とかドラマだと必ず利益になる、ある人を殺して得になる人が犯人としてあげられる、その人が動機をもつからである
でもコロナウィルスで利益を得るのは誰なのか?
ワクチンを作れば薬剤会社でありマスコミは脅して恐怖を与えればみんな見るから視聴率が上がり宣伝効果もあがるとなる
それで巧妙にテレビ放送で危険を言いそこに消毒剤の宣伝が入っていた、それはみんなが怖がっているから効果的だったのである
でもその他誰が利益を得るのか?それが原発のように見えないのである

ただGAFAというインタ−ネットの大会社がさらに利益をあげた、するとこれはこの会社の人たちの陰謀なのか?それを言う人もいたね武田邦彦氏も言っていた
利益を一番あげたのは得たのはGAFAだからである
社会自体がテレワークとかになりますますGAFAに頼るようなったからである
その他で利益を得たの製薬会社だけどまだ安全性が確認さていないのでそれで大儲けするということるでにはならないだろう

ただ確かなことは危険ではないと言うことは政治家とか官僚とか上からの圧力があり言えないことは確かである、ただ別に今回は週刊誌でも言っているしネットなら言っている
結構こんなに騒ぐ必要はないととしているのだ、だから原発の「安全神話」とはまるで違ったものである、原発でと強力な権力の言論統制があり危険だと言えなかったからであるそれで地元の東電の下請け会社の人も安全だと言っていたのである
言わせられていたのである

武田邦彦氏の言うようにただいじめるだけに危険を言うというのも納得できない
そんなことして何になるのか?政府にしてもそれで利益があるのかとなればない、支持率も下がっている、なんとか危険を除きたいということでありgo to トラベルを推進したのである、経済を止めないようにしたのである
だからコロナウィルスの問題は不可解なのである、もちろんこれが未知のものだからどうなるかわからないということがある、専門家もわからない
するともし拡大したらなんで止めるようにもっと強力な政策を示さなかったのか実行しなかったのかと責められる、だから私たちは安全になるように努力しましたとしてそうしているのか?それも良くわからないのである

ただ言えることは原発事故で爆発した時、東電の社員は放射線のことを知っていた
だから一番危険な津島に浪江の人たちが逃げるとき、街の方に引き返したのである

つまり誰かが一人でも正しいことを知っていた、その人に従ったら被害にあわなかった

ではその人は誰になるのか?武田邦彦氏になるのかとなる
その人を信じて行動すればいいのかとなる、ただ別にみんなコロナウィルスを恐れてはいない、50以下の人は恐れていない、だから感染者が止められないのである
とにかくコロナウィルスの問題は感染者の数で一喜一憂して過度に恐れたり安心したりするとなる、でも実際にその数に問題がありそれですべてが決まるわけではない
ただその数に恐怖する、それは放射線量でこの辺が混乱させられたと似ているのである

posted by 天華 at 19:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

寒椿、年暮れぬ、冬の暮、冬深む(年末俳句十句) (今年も終わりに・・・・)


寒椿、年暮れぬ、冬の暮、冬深む(年末俳句十句)

(今年も終わりに・・・・)


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街中の墓地の回りや寒椿

新築の家の庭石寒椿

老いてなほ真に生きむ寒椿

貧にあれ偽らざれや寒椿

赤心を示して映えぬ寒椿

壁映る枯木の影や陽も落ちむ

この道の一人行くのみ年暮れぬ

石一つ村の重しや冬の暮

我が一人家を守るや年暮れぬ

コロナにも籠もればかからじ冬の暮

一人飲む抹茶の味や冬深む

本を読む意味くみ取りて冬深む


冬の薔薇一輪静か庭に見ゆ災いなくもここに咲くべし

我が齢(よわい)この家に生きて尽きなむや母姉なおもここにあるべし




寒椿というときかなり寒い時である、その前だと冬椿になる、つまり寒椿と冬椿ではかなり感覚的に違うのである、冬椿というときむしろあたたかいとも感じる 

邪心の無い清らかな心。大伴家持は「皇祖の 天の日嗣と 継ぎて来る 君の御代御代 隠さはぬ 赤き心を 皇辺に 極め尽くして」(20-4465

赤心とは中国由来だけど日本化したとき天皇への赤き心、偽りなき心と変化した
漢字の意味でも日本化すると違ってくる
隠さはぬ・・・というのがふさわしい、この赤さはより寒い時映えるのである

枯木の影が壁に映っている、そして陽もはや落ちようとしてその影は薄れてゆく
まさにそれは老人にも見えるのである

冬はコロナウィルスに関係なく冬籠もるとかの季節である、この季節は何か書き物するとか本読むとか本来は家に籠るのが普通だった、ただ現代は交通の便がいいとか車とかもっているのでそうならなかったのである
第一車とかなければ家に籠り遠くに行けないのである
ということはコロナウィルスで人間本来の生活を見直すということにもなった 

もともと冬は内面化するのに向いている季節である、内に籠もり内面化する
それで抹茶を飲むとか本を読み直すとか何かに対して理解を深める鑑賞を深めるのに向いているのである
だから家に私設図書館が必要になる、古典とかでも本を読み直すのに向いている
ただ読書にしても自分なりに読まなければ身につかないのである

いづれにしろ今年も終わる、家の修理とか家の中を整理するのが手間である
でも何か家というのは老人になると大事になる、なぜなら家にいる時間が長くなる
すると家で快適に過ごすことが大事になる、ただ昔風の家は寒いのである
隙間風とかも入る、風流は寒きものというのも実際は辛くなる
部屋を18度に保つと五年長生きすると書かれたものがあった
やはり温度は体に影響する、最近だから寒いと風呂に入る回数が多くなった
ユニットバスを作ったのが良かった、百万は本当に安かった

ともかく人間の心は相当に汚れるようになった、貧乏になるとどうしても心も曲がる
ただ裕福でも曲がっている人がいる、日本人の心は何か穢れて曲がってしまった
それは金しか見えなくなったからである、あらゆることに金が優先されるからである
それも今食べるものがないとかなるととうにもならない、これから貧乏になるからさらに日本人の心は悪化する

江戸時代でも忠義とかありその時代時代に何かモラルが形成されて社会があった
今は金しかないのである、「金になるか」これしかないのである
相手が苦しんでいても金を第一にする、むしろ相手が弱る時金を要求して責めてくるのである、もうかつての日本人はいない、ただ日々、金、金、金なのである
それで社会が荒廃してしまったし原発事故でもそういう背景があって起きたのである
金のために何か大事なことを売りわたして故郷に住めなくなったのである
ただそんなことでも依然として反省している人はいない

今度はいくら補償金をもらうことまた金を追及している、金まみれになっている
そしてコロナウィルスでもそうである、医師会とかで医療崩壊を言うが金を得るためであり利権のためであり金なしでは動かないというのもそうである
そうしている内に原発事故が起き日本自体が危機的状態に陥るともなる
つまり金だけでは解決しないことが起きて来る、実際に看護師でも一か月50万払うとしてもやる人がいないからである、看護師がやめているからである
だからこの問題は金では解決しないのである、金は必ずしも万能ではない
誰も命がけとなるとしたくないからである、でもそうしなければ日本が滅びるということにまでなる恐怖がある、そういう時金では解決しないのである
もちろん天皇の忠誠とかも過去のものである、天皇が維持できるのかともなっている


2020年12月26日

嫁となることの意味―天皇家の結婚問題 (家の女となり家を継ぐこと)


嫁となることの意味―天皇家の結婚問題

(家の女となり家を継ぐこと) 

「秋篠宮家の“自由を重んじる家風”が槍玉にあげられているのです。そもそも皇嗣殿下は30年ほど前、皇室で初めての“自由恋愛”で紀子さまと結ばれた。自らの経験を振り返ると、眞子さまを強く説得できなかったのかもしれません。妹の佳子さまが大学卒業の際、『姉の希望が叶う形に』と結婚を後押しする文書を出したことも火に油を注ぎました」(宮内庁担当記者)

嫁という字に意味がある、嫁と女であり女と家が一体化することである
つまり嫁となることは男女が恋愛して愛しあうということとかではない
嫁ぐとは嫁いだ先の家と一体化することである
そして家には歴史がある、建築としてモノとして作られたものがありまたその家で営まれる時間があって家がある
それぞれの家に歴史がある

それで勘違いしているのは嫁ぐということは家に嫁ぐのであり結婚相手の男性とはならない、家という歴史とまたその家族とも親戚とも縁を結びその一員になることである
そこで天皇家とかなると簡単に好きだからとかで相手を選び結婚できない
つまり家と家の結婚となるからだ、もともと日本では家と家の結婚であり…家と・・・家の結婚だったのである
その方が離婚も少なかったというのは家と家の結婚だったからである

天皇家ともなるとどうしても相手の家を選ばざるを得ないのである、自由恋愛ではできない、家と家の結婚になるからだ、そして必ず怖いのは家にはどんな家でも何らかカルマを積んでいる、いいカルマもあるし悪いカルマもある
それを必ず受けるから今の時点だけでも選べないのである、結婚は離婚とならない限り未来につづくからである
そして60以降積もり積もったカルマが苦しみとなって現れるのである
それはカルマの法則である

天皇家に嫁ぐとなればまず私的なものはエゴは許されないともなる、自由恋愛とかありえないのである、なぜなら天皇家とは国の家だからである
そこが乱れると国家が乱れるとまでなるからである
だから私的な感情が出せないともなる、天皇家とは公(おおやけ)であり公共的なものとしてあるからだ、プライベートなものが許されない存在だともなる

何か本当にカルマは怖い、何かしら家が乱れる時カルマが関係している
カルマが必ず現れて苦しむとなる、考えてみると秋篠宮自体が自由恋愛結婚だった
そしたら今になってそのカルマが現れたとなる
自らがそうして結婚したのに子供にそうするなと言えないとかなり苦悩しているのであるそれが別に庶民だったらかまわなかったのである
つまり自分たちの特別な存在を無視したことがカルマとなって現れたのである

ただその家のカルマを一身に背負うのは長男と長女である
これはもう逃れられないのである、いいにしろ悪いにしろそうなる
一見恵まれているようでもそうでもない、それだけ責任が課せられていることでもあるからだ

カルマを考える時、なぜあの人はおかしくなったのか、曲がった人になったのか?
それを考えるとその人は男性でも女性の家に婿養子に入った感覚になっていた
それでその家の家風に染まったためなのかとも見る
それぞれの家に家風がありそれに自ずと染まってしまうのである
もちろんいい家風に染まるということもある、でも悪い家風にも染まるのである
結果的に悪い家風に染まり事業にも失敗したのかともみる
事業というのは一人ではできない、家族全員が関係してくるからである
すると家風も関係してくるからである

ともかく家の謎は深い、家は一時的に消費してしまうようなものではない
家と土地はまた深く結びついている、家は高い買い物であり家は買わない方がいいというのもある、都会ではそうなりやすい、都会にはそうして土着的志向がないからである
ただ家とは一時的に飲食して寝るだけの空間になってしまう
でも家はそれだけの存在ではない、人間が生きる根源的な場所ともなる
だから死んでも嫁いだ女性が生き続けているということで母のことを思い出して書いたのである   

いづれにしろ天皇家となると日本人の始祖ともなりその歴史が考えられないほど長い
となると普通の人ではイメージもできないものとして家が継続されたのである
それより国家が天皇家に継続されたともなる
天皇家は日本がの歴史そのものでもある、そうなるとそういう家をイメージすることができなくなる、その重みは普通の家とはあまりにも違ったものだからである
だから普通の感覚では計り知れないものがあり法律的にもそうだしそこで天皇家でも日本国民の一人であり同じように扱うべきだとはならないのである 

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死んだ母のなお家にいる不思議


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枯木、冬の月、年の暮 (死んだ母のなお家にいる不思議ー詩)


枯木、冬の月、年の暮

(死んだ母のなお家にいる不思議ー詩)

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清浄の庭に月光寒夜かな

玄関に冬紅葉散り月の光

石に散る木の葉や安らぐ我が庭に

誰が訪うや玄関に散る冬紅葉

我が家に一人母想い年の暮


冬の薔薇なお一輪の咲くを見ゆ風のうなるや我が家にあり し

百才の生きにし母のここにいし玄関の戸に映る枯木見ゆかな    


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母の座っていた場所

母はそこにいつも座っていた
目立たない母だった
母はいつも寡黙にそこに座っていた
店をしていたときもその後もそこに座っていた
私はその隣にいつもいた
そうして長い歳月がすぎた
母のいることを私は心にとめなかった
いつもただ母は隣に座っていたのである
そうして死んでいなくなって
そこに私が座っていると
不思議に私が母になっていたのだ
玄関の曇りガラスに冬紅葉が写っている
そして散って枯木が写っている
私は母の座った場所に座り
その玄関を見ている
とにかく不思議は私が母の座っている場所に座り
私自身が母になっていたこと
人間の存在は死んでも消えない
誰かに受け継がれ活きてゆく
家の重みがそこにある
もしここに新しい人が住んでも
その存在は受け継がれない
70年以上も一緒にいたから一体化していた
それが家族というものである



何か家のこととか家族のことを書いてきたけどそれは家というのがただの建物ではなく
何か人間の根源的存在となっているからだともなる
そこで70年も一緒にいたことがただの建物だとなっていない
ただ親子でも家族でも離れ離れに暮らしていればそうはならない
やはり長く一緒に暮らしていたことが特別な想いになっている
それでも母の場合、生きている時は意識もしなかったのである
空気のようなものになっていた、でも一旦消えると不思議にその人を思うのである

庭という時、家庭というように庭と家は一体である、それで石がありそこに木の葉が散るそれを見守る、それはまるで家で看取るとかにも通じている
つまり家で死ぬのが幸せだとなる、ただその家でも親身になって介護する人がいればだとなる

ともかく家とはそこに住んでいた人がなおいる、長く一緒にいればそうなる
簡単に人は死んでも消えないということである、百年も生きた母であった
でも70年は自分の家で暮らしていたのである
その長さが影響している、なぜなら妻をもったり子供をもったらそうはならない
心は妻とか子供に向けられるからである
自分の場合は姉と母と長く一緒にいたことで違っていたのである
ただ母のことは生きているときは意識しなかったのである
性格的に内気であり目立たない人だったからである

いづれにしろ今年も終わる、家の修理するのも今年になるか、来年になるか、
この家の修理もこれまでも金がかかっていた、だから家を維持することは結構金がかかるでも何か家というのは物だけではない、そこで家族が暮らした歳月がありそれは簡単に消えない、そこに価値があるとなる、それは金銭的価値に換えられない
思い出とかはもう簡単に作れない、なぜなら思い出となるには時間がかかる
そしてその思い出となる時間がもう老人になると作れない
それで老人は記憶に生きるようになるからだ



2020年12月25日

コロナウィルスでなぜ医療崩壊が起きるというのか? (医者は患者を思わない、政治家は国民を思わない、ただ利権(金だけ)


コロナウィルスでなぜ医療崩壊が起きるというのか?

(医者は患者を思わない、政治家は国民を思わない、ただ利権(金だけ)

今何がコロナウィルスで混乱しているのか?   
       

医療崩壊というが医者はそもそも患者のことを思わない、金を出さなければ動かない

政治家は国民のことを思わない、票と利権である

マスコミは視聴率ええるためにあおる、やはり宣伝費をもらうためにそうなる
                                                                            
今の社会は利権と金でがんじからめにくなっている、金が出ないと動かないのでる
医者でも常に金をまず考える、金を出してくれそうしたら動く
医師会とかでもそうだろう

どういうことかというと患者が来る、金がない患者はお断り診ないとまでなる
患者より先に金のことを考える、でも医は仁術というように苦しんでいる人がいれば金の前に治療するのが優先される 、それもないのである

今の時代どうなっているかというと苦しんでいる人がいる、その苦しんでいる人を助けることはしない、その前にその苦しんでいる人からいくら金をとれるのかとか苦しんでいるから弱っているから今が金をとるチャンスだとなる
金を出したら多少助けてやるとかなる、頭の中は金しかないのである
それはみんなそうである、まず金になるのかとかしか人を見ないのである
その人が苦しんでいてもそうなのである   

いろいろ複雑なことはあるにしろ現実の社会がそうなっているのである
それは自分自身が親の介護と自分の病気で痛いほど知ったからである
自分が苦しんでいる時、自分の家に来た人は金しか考えないのである
それで大金は盗まれたとかまた借金で苦しんでいる人から脅迫もされたとかなる
人間の悪質性は何かこうして苦しむ時とか混乱してくる時起きて来る
震災でも火事場泥棒とかいたしそういうことを自分の家でも経験した
もしかしたら医者とか医師会とかは火事場泥棒にもなっているのかもしれない
それは言いすぎでも金をもらわなければ動かないということになっているのこれまでの現実だからである 

人間社会には何かもう戦争の時のように損得で考えられない事態が起きる
でもそういう時でも人間のエゴとか悪辣性はかえって表にでてくる
相手が苦しんでいる時とか弱くなったとき責めやすいからである
他人の苦しみは蜜の味とも菜、コロナウィルスで職を失ったとか倒産したとかどん底に落ちる人がいると思えば依然として株が上がって笑っている人たちがいるのもそうである
他人の苦しみなど関係ないとなっているからだ

ところが緊急事態のときは例えば水が飲みたいというとき金をだしたらやるとかにならない、とにかく水を飲ませようとするだろう、でも金を出したら水を与えてやるとかにもなっているのだ
それほど金の社会になっている、親子でも金の関係になる、そして金の切れ目が縁の切れ目となる、人間を金としか見れないのである
それがあったとしても金だけを求めて解決しないことがある
何より先にまず助けねばならないときがある、金のことは後だということがある
でも現実は緊急事態でも金が先だともなる
今は緊急事態である、だから金がどうのとか政府が金をだせとか要求できない面がある
それよりまず患者を助けるとか何か手を打つ必要がある
でも金をもらわなければ動かないというのが現実なのである

人を見たら金と思へとまでなっている、こいつからいくら金が出るのか得られるのかしかないのである、それで親でも死んだら何もしてくれない、金にならないとかなり墓参りすらしないんとなる、事情があるにしろそういうことがある
死者を供養しても一文にもならないからである
でも金ぬきで人間はやらねばならないことがある、それが現代ではできないのである
そういう社会にシステムになっているからである
過酷な資本主義社会のシステムになっているからである

だからこういう社会は意外と緊急事態に弱いのである、震災の時は絆が盛んに言われたけどそれで社会が変わった訳ではない、コロナウィルスだって本当は絆が必要になる
互いに助け合うことが求められている、それは医者だからどうだとか政治家がどうだとかではない、みんなで助け合うということが危機を乗り越えるものとなる
それが現代社会ではできなくなっている、戦争は悪いにしろ国家一眼となって命をかけて協力しあったのが戦争でもあった
私の姉でもで従軍看護婦とかでもそうである、それは命がけでも懸命に看護していた
そういうとき金がどうのこうのとかはない、ただ命がけでみんな必死になり戦っていたのである、要するにそういう緊急事態でも無私が求められていたともなる
犠牲になっても国のために戦うということが求められていたのである
戦後は全くそういうことをないし経験していないのである

ただエゴと金だけを求める社会になった、金の関係しない人間関係がないのである
別に金のやりとりが金がすべて悪いとはならない、それは人間生活に不可欠である
でも金だけではどうにもならない、無私になって尽くすことも要求される
それが医者でも誰にもできなくなっている
そういきう社会に生きるのが日常になったときまた緊急事態になってもやはり誰も金無しでは動かない、ただ看護師でもコロナウィルスに感染したくないとなり高給にしても来ない、つまり緊急事態では命がかかってくれば金でも動かないということにもなる

とにかく政府も政治家も利権である、金である、医者でも医は算術である
そうしして緊急事態に対処できない、国民のことを思へと言っても目前の利権とか金に心を奪われる、それで平気で多人数でパーティとかしているのである
政治家自体がコロナウィルスで危機感もないのである
そうしたら国民も危機感がないとなる
もちろんこれはただの風邪だから大騒ぎすること自体間違っているという科学者もいる
それならそれで何か政府でその方針を定めて国民に言うべきだとなる
でもおかしいのは厚労省は感染症を二類からはずさない、それは結核で苦しんできた経験があり厚労省の身勝手でインフレインザ並みにしないという
厚労省も官僚も自分たちのことしか考えないというなる、自分たちの属する省庁のことが国民より優先されるとなる

それは原発事故でもそうだった、すべてそこに利権とエゴがからみ崩壊したのである
東電の天下り先として官僚があり検察でも海上保安庁でも警察でもそうだった
マスコミでも自分たちの利権として東電を原発の危険性を追及しなかった
それで原発が爆発した時、朝日新聞からマスコミの幹部が中国に招待されていたときだったのである
もちろん地元でも巨大な利権となりそれで危険は無視されたのである
ただコロナウィルスではある地域が利権になることはない、それが違っている
でも何かやはり利権第一であり金でありそれに縛られて身動きできなくなっているともみる
ただ今の時代に医者でも看護師でも犠牲になれとは言えない、お前がやれとまでなるからた、でも医者というのは特別尊敬されている唯一の職業だし金も入る地位にある
それは緊急時にも命をかけてでも働くといかことでそうなっていたともみる
実際に消防士でも火事になれば危険でも火事場に行く、そして自衛隊でも戦争になれば戦場に送られる、そういう契約である、そうしなかったらなぜ税金を払っていたのかとなるからである

いづれにしろコロナウィルスでも収支がつかないというとき現代社会そのものの問題として現れたともなる、原発事故でも収支がつかなくなった、10年過ぎてもそうである
核のデブリとかも取りだせない、避難区域には人は帰らないとか復興はしていないからだその原因も利権のみで金のみで動いた人々の結果としてそうなったともなる
それが最悪の状態になりとりかえしのつかないことになったのである
コロナウィルスでも似たものがある、なにやこうやしているうちに利権でしか金でしか動かないという時、何か致命的な最悪の結果となってしまうかもしれない
ただ実際はただの風邪だとして終わるとなれば杞憂だとはなる
てもその結果はどうなるのか誰も先がわからないのである
確かなことは日本でこんな簡単に医療崩壊するということであった
それが最も納得しがたいことであった、なんら危機には備えてなかったということにもなる、日本は危機に弱い、人間は危機に弱い、何か未知なもの急激に襲われるものに弱いのである、その時今回のように社会は混乱状態になるのである




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2020年12月24日

本の整理に追われる (読んでいても忘れていたーでも本は集めておく必要があった)


本の整理に追われる

(読んでいても忘れていたーでも本は集めておく必要があった)

本の整理していたけどありすぎると読んだことさえ忘れている
線は無数にひいてあっても読んだ記憶もなくなる
それより自分の書いた文も忘れる、最近書いたのでも忘れる
プログで読み返してこんなんことを書いていたのかは自分自身が感心しているのも不思議である、それでまた読み直して書き加えたり新たに自分の文に答えるようにして書く
するとそれは終わりなき文章ともなってゆく

本もそうだった、本は読んでも活かされない、忘れている、こんなこと書いてあったのかと新鮮になる、一度読んでいてもほとんど忘れていた
本は整理しにくい、だから本を電子化して辞書のように引くことができればいいとなる
そうすると関連したものをまとめるとそこで一つの新たな文が書けるからである
本では関連したものを探すのがめんどうなのである
でも本の一部と他の本の一部とかが関連していてそれを結び合わせるとまた別なものとなって表現できるのである

とにかく年の暮だから掃除とか整理でありまた家の修理があり大工さんを頼んだ
家も50年過ぎていたんでいたし地震でこわれた所をまだ直していなかった
家は前から何回も直している、その度に相当な金がかかっている
今は大きな家に一人だけで利用している

知的生活をするには書庫が必要である

知的生活とか知的創作とかなるとそういう場が必要になる、画家ならどうしてもアトリエが必要になるし工芸でも創作する場作りが必要になる
書庫が私設図書館が必要になるのは引用するためである、また参考にするためである
だからプロの作家になると私設図書館をもっているのである
必ず何かを参考にして引用するからである
インタ−ネットでそれがしやすくなったのだがインタ−ネットにはまだプロの情報が蓄積されているのが少ないのである
だから本を利用するとプロの情報が蓄積されているからいいものに当たる
でも本はキーワードとかで探すことができないので一冊一冊になっているので面倒なのである、インタ−ネットのように全文検索して編集したらそれは新たな創作品となっている
とにかくもうこの年になると情報すら新しいものを吸収できない
でも古いものでも読んだ本でも忘れているのである
その努力が活かせていない、それは結局アウトプットしていなったからである
それができなかった、アウトプットしない限り情報でも本を読んでも活かせない
だからプログとか記録するという点でもいいツールなのである

まずこの年になるとあらゆるものが整理するとかなる、人生を整理するとかにもなる
自分のしてきたこと吸収した知識とか経験を表現することになる
それで表現するにしてもやはり経験が基になる、外国で15年も暮らしてそれで商売までしていたとなるとその経験を語れば訴えるものがある
それだけの経験は簡単にできない、留学はしたとしてもビジネスをしていたとなると別である
その経験というのは本を読むとかのレベルではなく実感として知る、肌で知るということである

今日も一日追われて終わる、家事とかも全部していると本当に追われる、それでプログのコメントもできない状態である
まずプログに書くことで追われる、それから家事で追われる、今回は家の修理がありそれで追われる
これも年の瀬だからともなる

我が家には私設図書館くらいの本がある、大規模ではいなにしろある、でも本があるというだけでその本の内容を消化していない、自分なりに消化していなかったのである
でも本は例え読まなくてもそろえておく必要がある、なぜなら自分なりの文章を書くとき自分の文脈で他人の文を活かすためなのである
それで時々インタ−ネットだけではなく本を読み返す必要がある
また図説とか写真とか絵も参考になる、そういうものを集めることが自分なりの情報発信に役立つのである

ただ正直人間一生でできることは限られている、あっというまに人生の時間が尽きる
もう詩文に残された時間はわずかになった、つくづくたいしたこともできなかったなと思う、ただ旅したことでも財産になる
何かしら経験は財産になる、読書もその一つだけでこれも忘れやすいのである

人生百年時代になると知的な仕事する人にはいいとなる、何しろ知識とかは膨大であり本の一部しか知ることもできないし経験もわずかのことしか経験できない
時間はたちまち過ぎる、30過ぎるとまだ若いとなるのが40になるとすでに白髪がでてきたりおっさんだとかなり氷河期世代が絶望を語るようになる
40才が分かれ目になる、それ以後はもう何か新しいことができない、追いつけないともなる   

焼き捨てて日記の灰のこれだけか 山頭火

こんなものになる、膨大な記録ともなるはずだが燃やしてみればわずかの灰となっているだけである、人生はみんなそんなものだともなる
そもそも普通の人は記録さえなくかえりみられず終わるだけである
歴史となれば名前とか一行でも何か残っていればその人の生きた証となるが実際はほとんどの人の記録は失われる、その人が何を生きたのか墓を見てもわからない、戒名を見てもわからない、記録がないからである
それで文章で記録を残すことは意外と大事だとなる、なぜならそこから死者を偲ぶことができるからである、語ったことは忘れやすい、消えやすいからである
エジプトの神聖文字とか粘土板の文字とかが二千後にでも残ればそこから過去をしることができるからだ、そこに文字の貴重さがある、記録することは文字が生れてできたことなのである

短日に仕事せかされはや暮れぬ

本あまた積まれて忘る年の暮

2020年12月23日

福島市がコロナウィルスで危険状態に (ヤクルトの配達中止)


福島市がコロナウィルスで危険状態に

(ヤクルトの配達中止)

ヤクルトでコロナウィルスで二週間くらいか配達中止になるということを言った
それを連地区してきた、それは福島市にヤクルトの工場があるかららしい
福島市はクラスターが出て危険な状態になっている、医療崩壊を言っている

福島県はとうしても中通りが往来が多いから当然郡山市がまず増加した
そこは交通の要だからである、最初会津の方は感染者が出なかった
でも出るようになった、奥地の昭和村でも感染者が出た
おそらく福島市とかの会合とかに出たらしい、だから会津でも人の往来があるから感染を止められないのである

不思議なのは浜通りである、いわき市はそれなりに増えている
でも南相馬市となると増えていない、感染した人は東京から仕事に来た人であり東京から来た人がもたらしている
最初すぐ近くで感染者が出たのは東京のライブハウスに行って感染したのである
その人の家は今は住んでいないという、別に家がありそっちに移ったという
ガラスが割られたとか聞いた

ただわからないのはここは福島市より仙台市と往来が多い、でも仙台市に通っている人もいる、例えば大学生は仙台に通う、それで東北福祉大学の学生がテレワークしていると聞いた、仙台市は一番感染者が東北では多い、すると南相馬市とかにも影響するはずだが
仙台市経由で感染したというのを聞かないのである
それも良くわからない、私はまたカメラのことで仙台市に行くことになったが行きたくないのである、なんらかで感染する割合が高くなるからだ
そして70以上だと不安になる、老人は外出するなというからだ

私はここ十年は旅もしないに仙台市にすら一年に二回とかくらいしか行っていないのである、何かこういう時は外出しにくいのである、近くならいいが遠くなると不安になる
ただ南相馬市は最初感染者が出たが最近も一人とか出たが増えていないので助かる

とにかくこのコロナウィルスは人から人へ感染する、人の往来を止めない限り感染を防ぐことは不可能である、それが現代では一番むずかしいのである
なぜなら江戸時代のコレラでも感染が止められなかった、それも長崎からであり北前船が新潟に入り阿賀野川を通じて会津若松氏に入ってきたからだ
そして栃木県への街道の田島の方へ感染したからだ
会津若松中心に感染が広がったのである、だから人の往来が多い所は必然的に感染者が多くなる
今なら大都市中心に感染が広がる、幸い相馬地域は福島市とは地理的に阿武隈高原でさえぎられ交流が薄い、でも同じ福島県だからつながりがある
でもは電車が通る仙台市の方が往来が多い、だから最初から私は仙台市が増えると思い警戒していたのである
でもどういうわけか仙台市径路で相馬地域に感染してないみたいが
南相馬市は東京から来た人から感染した   

ともかくウィルスはある地域で感染者が多いと不安になる、田舎だと敏感になるからだ
でも少なければ安心だとなる、その辺の感覚が都会とは違う
東京とかなると防ぎようがない、人の往来や交わりを止めることができないからである
交通の発達とか常に遠くの人と交わる広域社会とグロ−バル化の負の面がコロナウィルスで現れたのである
何かすべてのことが良く作用しないのが人間社会である
江戸時代などは確かに貧乏でも朝鮮半島とか中国でもあまりかかわらないから争うこともなかったのである、脅威でもなかった
中国が攻めてくるなどと思った人はいなかったのである
でもグロ−バル化すると常に外国が脅威となる、交流もあっていい面があっても必ずしも友好的にならないのである、だから何でもいい面と悪い面がでてくるのが人間社会だとつくづく思う

posted by 天華 at 09:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2020年12月22日

原町の道の駅の冬の公園(写真と俳句10句) (写生俳句と写真と俳句(写俳)は新しい芸術)

         
原町の道の駅の冬の公園(写真と俳句10句)

(写生俳句と写真と俳句(写俳)は新しい芸術)

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ここになお十年すぎても津波の痕跡を残している
後ろに家が残っている山の陰になっていて海がすぐ近くでも
この山に直接津波が来ないために残ったと見る
津浪に直撃された所は全滅したからである
この家は津波の前からあったのか?
もしあったとしたらこの山に遮られて助かったとなる

haramavhipark2.jpg
クリック拡大

この木がなんともいのである
写真にとっていい木だと見るようになったのである


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原町の道の駅の公園-クリック拡大

偶然子供連れの親子が写っていた
何かこれも写生でありそこに意味が生れている
根っこがあり親子がある、この根っこは祖父母とかにもなる
写生俳句は写真と相性がいいのだ
それでよりリアルに感じるのである

awangu5.jpg

swanmany6.jpg
新田川

coldcloud7.jpg
クリック拡大-真野川


寒雲の長く棚引き田舎町                      

枯芒津波に残る木の二本

原町の郊外広く冬野かな

五六本根付き支え合う冬樹かな

冬の樹々ゴシック聖堂の柱に見ゆ

冬日さし二つの根っこ親子行く

冬日さし石いくつかや動かざる

soma stons
stillness
sunny light
in winter

枯草に石いくつかやもの言わじ

鴨一羽寒雲映す川面かな  

枯菊を見ずして去りぬ車かな  

冬日さし濯物干し庭に石    



今日はそれほど寒くないから原町の方に行った、道の駅をまわり隣の公園を回った
原町の道の駅は相馬市の道の駅とは相当に違う、街の中にあるからだ
相馬市は回りがみんな田んぼになっている、そこは大きな相違である

原町の道の駅だと回りが街だから買い物もできるとかいろいろ用事もたせる
便利な場所にある、そして公園が隣にありあそこも憩いの場所となっている
それから近くに大きな公園がありそこにテニスコートなどがあり新田川がある
そして桜井古墳がある、何か道の駅中心にして歴史的なものもありまた現代の街もある
あそこは鹿島からも近いのでいいのである

道の駅には見るものもないが石がいくつかある
そこに冬の日がさしていた、何もないのだけどそれが禅寺の庭なのである
石は冬日さしてあたためられている感じになる
そして動かない、それは老人にも似ている、老人はじっとしていることが多くなるからだただ庭としてものたりないのである
何かいい庭を見ることはこの辺ではできない
ともかく自分は石に惹かれるのである

俳句を外国人が理解するのは相当にむずかしい、あまりにも短いからである
英訳したとしてそれが詩なのかとなってしまうからである
英語とか外国語にすると長くして説明したようにしないと理解されないだろう
だから外国人で俳句を作っても違ったものになっている
そして季語というのがわかりにくいから余計に作ることがむずかしくなる

とにかく俳句は写生である

冬日さし濯物干し庭に石  

これも見たままである、隣の家の庭の写真である、良く見えないが平たい大きな石があるこれはただ日常の風景である、でも何かその風景でも写生となり何かを現している
それを原発事故の避難区域の街の空家の庭を見た時、そこに人が住んでいないから庭の石まで死んだよう感じたからである、そこに生活があって庭の石も活きているとなるからだ
写真はやはり芸術なのである、あまり写真はとっても記録として撮っていた

今は写真を絵のように芸術的に見ようとしている
写真に芸術を追及している、公園の木が五六本ありカメラに撮ったらそれが違ったように見えた、ゴシック聖堂の柱のようにも見えた、そして互いに支え合うようにも見えた
それは写真を見て感じたのである、実際の木を肉眼で見た時は感じなかったのである
だから写真は芸術である、ただ記録写真のようなものもありそれは芸術とはならないだろう、でも記録写真でも貴重なものがある、ただ記録と芸術の相違が何かなのかともなる









冬の鴨、年の暮(今年も終わりとなる)


冬の鴨、年の暮(今年も終わりとなる)

wintercamo1.jpg


冬の鴨寄り合い三羽橋の下

塵つかず石により咲く冬薔薇

寒鳥の今日も叫びて餌求む

何かあれ根っこ一つや冬の暮

親残す家あり幸い冬籠もる

我が家や遺影に向かい年の暮


俳句は本当に写生だと思う、冬の鴨がいつも通る橋の下にいた、それも三羽である
それがなんとも心にしみた、買い物に行くだけで風が吹いたし寒いからである
この句は何も飾るものがない、見たままである
だから普通だとこんなものが俳句になるのかと見る
でもそこに写生の奥深さがある、奇をてらうことではない、平凡でもありのままに心打つものがある、事実は小説より奇なりともある
歴史は事実であり事実の重みがある、それは偽ることができない
ただドラマになると脚色されるから事実が見えなくなる
それでドラマと歴史の真実は分けるべきだとなる

寒鳥とは金のない人でもある、金をせびりにくる、また三羽の冬の鴨とはまた人間なのである、何かそこに寄り合う鴨がいる、それが心にしみる
今は何か豊かであり貧乏がわからなくなった、でも日本は貧困化している
だから水道,ガス、電気がとめられる、それも毎月なのである
ただ今の貧困は豊かさを経験した豊かさの中の貧困である
物はありあまるほどある、貧しい時は物もないのである
そうなるとこれだけ物があふれていても買えないという苦しさがかえってあるとなる
また今は貧困は見えないのである
現実に老人でもゲートボールを毎日している人は貧乏ではない、余裕があるからしている貧乏な人が今は見えにくいのである、だからわからないともなる

ともかく今年も終わりである、今年はコロナウィルスで明け暮れた、ヤクルトの女性が二週間くらい配達できないときがあるかもしれないと連絡した
それは福島市に工場があるからだ、福島市は医療崩壊になるとか放送しているからだ
福島市でクラスターがあり増えたからである
これも困ったことである、とにかく外出がしにくい、ただ私は本当に遠くに行かない
ここ十年介護になってから旅もしない、近間を回るだけである
それで写真にこるようになった、近間でも絵になる写真になる場所があると思った
要するに人間は近間でも良く見ていないのである
近間でも発見していないのである、だからいい写真を撮ろうとするとき近間でも見直すことになる,カメラは人間の眼で見えないものを映すからである

2020年12月21日

国家とは何なのか?中国の電子マネーと国家 (市民社会の形成から国民国家へそして大衆国家へ)


国家とは何なのか?中国の電子マネーと国家

(市民社会の形成から国民国家へそして大衆国家へ)

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実際、規制は徐々に強化され、AliPayなどの特権的地位は、徐々に制限されてきた。その最終的手段が、中央銀行デジタル通貨であるデジタル人民元だ。これによって電子マネーの場合と同じように詳細な取引データが、中国人民銀行(および中国共産党)の手に入る。これは国民支配のための極めて貴重なデータだ。

自由な経済活動によってこそ経済が発展するというのであれば、それは国家が経済活動をコントロールするという共産党の基本的な理念に矛盾してしまう。現在の状況が続けば、共産党は市場経済の中に融解してしまう。

市民とは何かを考察した、市民社会は領主の国王の土地を基盤として税をとる封建制に反するものである、それは自由な貨幣経済になり税金を貨幣で納めることからはじまって
封建制支配が崩れていった
日本でも米で納められていて米が実質の貨幣であり物納として税金があった
石高でその領主の財力が計られていた、米が基本でありそれが封建制を作ったのである

でも都市が発達して商業が盛んになると土地に縛られる封建制を打破して領主からの支配を脱した、都市は国王の支配する土地から離れて独自の自治体を形成した
そこは王すら自由にできない、支配できない領域ともなった
だから城壁で囲まれて入り口には市の門があり扉がありその鍵は市長が持っていたのである、市民とはその城壁の中に住む人たちである、それがブルジュアの起源である

そして商業は遠くに物を運ぶことであり交通が発達しないと栄えない、でもヨ−ロッパでも中国でも大陸だと川が運河のようになっていて物を運ぶことができた
川を通じて都市は結ばれる、ハンザ同盟とか商人の同盟が成立したのもそのためである
何かこの歴史がやはり形は変わっても同じことが行われる
歴史は繰り返すとなる、つまり中国で起きていることは国家と自由に商売してもうけたいという商人との対立だからである
それはヨ−ロッパで起きた領主と市民との対立と似ているからだ
国家は土地に縛り付けて農民から農奴から税として食料とかを物納させていた
でも貨幣経済がそれを打破するものになった、貨幣を得るには市場が必要であり市場では自由に物が売買されて栄える、そこには自由がないと市場も機能しないのである

中国でITが発達してアリババ集団傘下の金融会社アントグループの上場停止事件だった。アントは、電子マネーAliPayの発行主体。中国最大のeコマースアリババの子会社だ

その利益が6千億とかなりそれが笠下の銀行に蓄積される
それで共産党の国家の銀行は脅威になる、その金は民間のものだから国家で動かせないからである、金融の国家支配ができなくなると国家の力が弱まるからである
だから国立銀行で金を管理して人民を治めようとする
つまりこの国立銀行は国家に統制された銀行である
それは共産主義国家は自由主義社会とは違う、国家が統制する経済になるからである
そこで対立が起きている

だから国家とは何かというときその国家に対立するものを対照的に見ればわかるとなる
国家が人民を支配するには軍事力でありまた税金をとらねばありえない、それで民間が勝手に巨額の金を自由にするとなると国家の脅威にもなる
それが国家と民間ということで起きている、アメリカでもITの巨大企業がプラットホームとして莫大な富を得るというとき国家にとっては好ましくないともなる
それは国家を越えた国家にもなるからである、それだけの巨大企業となりそれは世界をも支配するとなる、アマゾンなどがその象徴である
アマゾンにとって国家は規制をかけて税金をとるようになるから国家はない方がいいともなるからだ、実際に莫大なの富を得るのだから国家としては税金を払いとなっている
それは多国籍企業にもいえる、国家を越えた巨大なものとして世界を市場としているから国家の規制のない自由を求めるのである

つまり自由とは…からの自由なのである、中世の封建制だったら領主の支配からの自由であり都市は自由にするというのはそのためである
国家とは必ず規制するものであり民間は自由な経済を望むからである
つまり国家を経済の側面からみれば自由を規制するから国家に対抗するとなる
またヨ−ロッパのように国家が自由な交通でも規制するから対抗する
ただライン河には関所がありそこで封建領主が通行税をとっていたのである
なんらか規制して税金をとろうとするのが領主とか国家なのである

アメリカでも民間と国家の対立がある、ラストベルトかの製造業が衰退したときそこで働く人は苦しいからなんとかしてくれとなる、そこでトランプ大統領の支持者になったのである、バイデンはITを推進する会社側にたっている、国内の対立が大統領選挙にも反映したのである
それはまた技術革新がもたらした対立だともなる、IT技術は世界を支配するものともなり中国はいち早くそれを取り入れた、そこにイノベーションがあった
でもそれは国家とは対立するものともなった、アメリカでもそれが起きていたのである

ここで国家とは何かとかいうことである、国家を成り立たせるものが税金である
税をとらなければ国家は成り立たなくなる、また金融も国家が支配する
日本なら日銀だとなる、今不景気なのに株が上がっているのは日銀が民間の会社の株を買っているからである、その額が大きいのである、国家がもともと自由社会なら自由に市場にまかせるのを国家が関与して株を上げているのである
それはいづれ実体と離れたものだから破綻するとされている
もともと生き残ることができない会社を支えていてもそういう会社は破産してゆく
資本主義経済とは自由競争が基本にあるからだ、ただ国家はそれに対立するものとしてある 
国家は何かを全面的自由を認めない、規制するものとしてある、安全管理もあり規制する共産主義国家は上からの統制規制の国家体制なのである、だから資本主義とか民主主義とは対立する

国家を経済的側面からみればこうなるがでも国家とはまた別な顔がある
経済だけでは計れないものが国家にある、そしてなぜ国家と国家が対立するのか?
例えば中国だとチベットでもモンゴルでも言葉とか字でも禁止する文化破壊が行われる
それは中国という巨大国家にとって統制するのに邪魔になるからである
日本でも明治維新で東京中心の中央集権国家を作ったときそうだった
方言が国の訛りがいろいろありそれだと意志疎通の生涯になるから東京を中心として標準語を普及させたのである、でも江戸には江戸っ子の言葉があった、その江戸っ子の言葉は方言でもあった、それと標準語は違ったものなのである  

国家は自由経済にとっては妨げとなるものである、でも国家を無くすことはできない
なぜなら国家でも人間でも経済だけに生きていないし経済の一単位でもないからである
経済的のみみれば国家がない方がいい、でもそうすると文化でも国の歴史でも破壊されるそして人間の基本的なアイディンティティも失われるのである
そこに経済と文化の問題があり経済だけで国家とか世界を見ることはできない
自由な経済を追及するとその国の文化が破壊される、基本的な食文化でも破壊される
それで食生活が変わって欧米化した結果、ある臓器のガンが増えたとか言われる
それはその国の風土に合わないからそうなったのである
国は長い歴史と風土の中で培われ形成されてきたからである
国体などというときも国と体は一体ともなっているからである  

人間は経済ですべてを計ることはできない、ただ国家と民間の対立がある
国家が規制して統制を強めると自由な経済とイノベーションは妨げられて結果的に国家の衰退になる、ただITが発達して国家から巨大化してそれが世界を支配するとまでなる
それで共産党であれアメリカであれ国家側からみれば危機を感じる
またそれに反発するものが生れても当然だとなる
この対立はすでにヨ−ロッパの中世にあったのである
だからこそcivilization(文明)はcivilは市民なのである
でも中国でも日本でも市民とはいうのは存在しなかった、だから文明がないともみれる
いづれにしろ歴史は継続している、中世時代のことでも今と関係して起きているのであるそれで歴史を学ぶことが重要だとなる 

 ブル ジ ョア ジー と は、 元 来 中世 以 来 の都 市 の 市 民 層 を意 味 して お り、 の ち に商工 業 を発展 させ、封建 的 支 配 に対 抗 しな が ら資 本 主 義 社 会を志 向す る人 々を さす よ うにな り、 さ らに資本主義 の発 展 とと もに、 資 本 主 義 社 会の富 と権 力 の排他 的 な所持 者 と して労 働者階級(プ ロ レタ リア ー ト)と 対 立 す る資本 家 階級 を意 味 す るよ うにな った。そ う した観 点 か ら考 え ると、 確 か に中 世 都 市 の「市民 」 と近 代社 会 の 「市民 」 の間 に連 続性 が存在 し、類 似点 が ない訳 で はな い 。 しか し、そ こに は大 きな転換点 が存 在 して い るよ うに思 わ れ る。
近代 社 会 の 「市 民」(資 本 家階級)の 特 徴 を明 らか にす るため に、彼 らは い っ た い何 を守 ろ うと した のかを明 示 して お く必 要 があ ろ う。 お そ ら く彼 らが 守 ろ うと したの は、国 家 や都市 で はな く、個人 の 「自由」で あ り、 個 人 の 財産 で あ り、 個 人 の 信仰 であ ったの で はな いだ ろ うか。
file:///C:/Users/yuichi/Downloads/BKSF060005.pdf

資本主義社会民主主義社会がこうなるとすると封建領主とかに反発して商業の発達で自治体都市を作った市民社会が形成された、その後も絶対王政とかに反対して市民革命がありフランスで博愛、平等、自由のフランス革命が起きた
それは個人の自由とか権利とかに基づいたものであり個人の自由を守るものとして起きたつまり歴史的にヨ−ロッパでは継続したものとして起きている
権力に支配されるものに反発する、支配する者は税金をとるから反発する
そういう個人の市民の権利を重んじる、だからこそプライバシーを重んじる
国に管理されることを嫌うのである、それで戸籍もない、それはプライバシーの権利だからである、国民を管理するというとき中国ではITを利用してすでに管理している
インタ−ネットでも政府に反抗するものは発言できないのである
政府が検閲しているしそれで逮捕されたものもいる

ともかく歴史的継続としてのヨ−ロッパがありその中心に市民が存在する
それでcivilzationとなっているのだ、中国には共産主義には個人の自由はない、だから
civilzation(文明)はないともなる
ただ現代にも市民というのが存在するのか?
大衆とか国民とかそれも違ったものである、中国だと人民とかなる
そもそも市民とは小都市の市壁に囲まれた中に住む人たちだからである
国民とかなると市民ではない、それは近代になって生まれた概念なのである
社会の変化とともにその言葉の意味も変わるのである

市民というときその概念は日本にはない、領主は藩主は君主は殿様は存在した
その下に農民もいたし町民がいた、ただ町民は市民ではない、それは領主から独立した自治体を形成しなかったからである、ただ農民でも一揆があった
だから領主に反抗することはあった、税金で苦しめられて反抗した
でも市民社会は形成されなかったのである
明治維新でも革命をしたのは侍であり多少町民とかが便乗しても主体は侍だった
日本では市民は存在せず明治維新で天皇の臣民とか国民国家になったのである
ヨ−ロッパだと市民から国民になった、日本にはそういう市民がいないから国民になったのである、ただこの国民は西南戦争で武士の軍と西軍と戦い国民軍が勝利したことで国民となったのである、だから国民を形成するにも戦いがあったとなる 

何か新しい時代を作るにはこうして常に戦いがあり変化するとなる
それは権力を持つもの支配者への反抗がありそうなった
そもそも自由は与えられない、こうして歴史的に勝ち取ったものである
そこには犠牲の血も流されたのである
こうした歴史が日本がにはない、それで自由とは何かもわからないのである
民主主義とかもわからないのである、ただ個々の利益を得ることが権利を主張することが民主主義となったのである

だから何か言葉でもその背景に歴史があり歴史的に獲得したものとして言葉がある
だからそもそもcivilzation(文明)が何か日本人は理解しないとなる
日本人は自由のために戦ったという歴史がないからである
だから天皇の臣民とか国民になったのである、ただ国民になる家庭で侍階級と戦ったという歴史はあった、ても国は天皇が頂点にあって国民は臣民だというとき純粋の国民とも違っている、国民というのは近代的概念でありこれまでなかったものである
それで国家とは何かというとき国民が生れて国家が生まれたとなる
国民が生まれたのはここ百年とかくらいであり国民はもともと存在しなかったのである
そうなると国民とは何かとなり国家は何かとなる

例えば国民国家というときなぜ20世紀に国家同士の熾烈な戦争が起きたのか?
それは国民総動員の戦争だったからである、今までは専門の軍人の戦争だった
それが国民全員の戦争となった結果何千万も死んだとなる
そして国民といってもそれは数が多いのだから今度は国民大衆ともなる
それだけ数が多ければそもそもギリシャのボリスとか中世の市民とかの感覚ではない
そこでは市民といっても市壁の中でともに生活する同士となっていた
顔と顔を見合わすような同胞という感覚である
数が多いとそういう感覚がなくなる、つまり現代になると群衆とか大衆とかな共産国家では人民とかなった                             

そこで大量虐殺が起きたのはなぜかとなると国民国家大衆国家は数が多いからである
これまでの戦争とはまるで違って数が多い、国民総動員の戦争だからである
その国民をまとめるのに力をもったのは報道機関だとなる
ナチスがラジオから生まれたと分析するときそれだけの顔を見合わせこともできない人たちをまとめる知らせるにはもう顔を見合わせるような人達ではないからである
それで宣伝を指揮したゲッベルスが活躍したとなる
現代ではそれが引き継がれている、テレビがマスコミがこれほど力をもったのは日本全国民に知らせたりするのはマスコミだからである

まさにマスを相手にしているのでありボリスの一万くらいの都市とはまるで違っている
中世の都市でもフィレンツとかでも5万くらいとかなのである
その規模の違いがありもう相手にするのは大衆でありその大衆を操作するのはテレビでありマスコミとなったのである、マスコミに出るだけで重要人物のように見られる
その中身は関係ないのである、マスコミにとって都合のいい人が選ばれマスコミにも意志があって意向があって選ばれるだけである
だからyoutubeでは個人が発言しているからここでは大衆を相手にするのとも違う
ただ依然として視聴率をとるのは大衆の娯楽向きなものなのである 

大衆というのはモラルを形成しない、中世の市民とかまではモラルを形成した
それは顔を見合わす関係だったからである、侍でも戦争してもただ相手を殺す人ではなかった、そこで武士道が生まれたのも顔を見合わすものとして戦ったからである
大衆とか機械戦争となるとただ人をいかに大量に殺すとかが戦争になる
それがガス室で殺したという時それは家畜を殺すと同じだともなる
それはユダヤ人がそうされたというより大衆というのが生れてそうなったのである
大衆というのはただ数としてあるからだ、それで民主主義もただ数が問題になる

一人一人の顔は見えないのである、カルト教団とかもそうである
そこで毎日一票として数える作業をしているだけである
その一人一人がどんな顔しているのかどんな人間かなど関係ない、数としてカウントされる存在なのである、それは社会全般でそうなっている 
数がすべてでありあとは金を集める経済力だとなる
大衆には文化とかモラルとか精神的なものは存在しない、ただ数として存在するだけだからである

政府は国民を馬鹿だと思っているというときもそうである、要するにただ数として見ているだけだからである、議員でも選挙でも一票として数として見ているだけなのである
どれだけ数が多いかですべて決まるからである、内容は必ずしも関係ないのである
大衆に受けなければならないからだ、それで政治と関係ない芸能人でも議員になりやすいということである、大衆に名前が知られているからだ、その人がどういう人かより大衆受けする人かが問題になるのである、だからそこでモラルは形成されないのである
だからこそ大量虐殺が起きて来る、それは共産主義でも同じである
対立するものが戦い大量虐殺が粛清が行われて何千万人と死んだ
人民といってもそれも数であり中国などを見ればわかる、13億人の人民をどうしてまとめるのか?そこではとても民主主義など成り立たないだろう
一万とか五万とかの市民共同体とはまるで違ったものだからである
そこにはcivilization(文明)は存在しない、civil(市民)は存在しないからである
ただマスとしての大衆や群衆や人民であり数としてあるだけなのである









2020年12月20日

最悪の事態を想定できない人間 (不安が的中する、第六感が働かない時代)


最悪の事態を想定できない人間

(不安が的中する、第六感が働かない時代)

人間は最悪を想定しない、それはしたくないとかありこのままの状態がつづく、また続いてほしいという願望がある
だから誰でもそんな最悪のことなど考えたくないのである
それで常に目前の利益だけで判断するのである
何か不安を感じるというときそのことが意外と本当に当り最悪のことが起きる

第一原発でも「安全神話」を言われても何か不安だなと住民にはあった
特にすぐ近くだったら余計にそうである、でもその不安を無視したのはそれが利益になるから無視したのである
目の前の利益が常に優先されるからである
もし不安があるならやはり科学的に検証するということが必要だった
でもそれも権力の圧力でできなかったとかある
でも地元になればその不安は解消しないということあった
それでも利益優先になり無視されたのである

社会にはなんとなく不安だなというのがある
そういう不安感とか第六感みたいなものが人間にあるし動物には本能的に働く
でも今はすべて科学で考える、すると科学の専門家が技術者が決めることになる
素人の不安感など無視される、何か科学的根拠があるのかともなる
それで石巻の日和山の前を通ったとき、すぐ前が海でありこんなに家が密集していていいのかと見た、海を前にして家がある、港があるのは普通である
でも荒い波でも直接打ち寄せるじき前に家が密集していたのである
入江とになっていればまだいいがそれもない、だからこんなに家が密集していいのかと
見たのである
そしたら津波で大被害になったのである

何となく不安だなというときそれが意外と的中する
例えば東京とか高層ビルとかに住んでいるとかになるとやはり地震が来たらどうなるのかと不安になる、技術的にそうはならないとしても不安になる
その保証はないと思う、第一東京という都市自体があれだけ密集して住んでいるのだから地震とかになったりしたら大被害になることは一応想像できる
江戸が大火の被害に度々見舞われたのは木造の家が密集していたからである
それで何度も大火で被害があり長屋ではただすぐ何も持ち出さないで逃げることであり
あと家は壊して延焼を防ぐことしかなかった
何も持っていないから身一つで逃げるようにしていたともなる
また貧乏で物は持てないからそうなっていた

ともかくそもそも人が密集する都会は人間にとって生物にとって危険なのである
それは本能的にわかる、コロナウィルスでも東京などが感染者を止められないのは人が密集して住んでいてその密集状態の日常を止めることができないからである
コロナウィルスは人の行き来を減らすしか止める方法がなかった
だから村の入り口には疫病が入らないようにと人を入ることを止めたとなる
そのために大きな藁人形とか神社を作ったのである
関所もあったから人の行き来を止める機能もあった
それでも江戸時代にコレラは長崎から入り蔓延したのである

何か不安だなというときそれが意外と的中する、それは確かに科学的根拠がない
でも人間はこの科学的根拠も無視するのである
眼の前の利益の方が大事なのである
それで科学者が学者が若林辺りが仙台市で住宅地として広がった時、津波が来たら危険だと警告したら抗議されたのである
不動産屋にしては地価が下がるとして抗議されたのである
こうしてとにかくは人間は目の前の利益が優先になる
津波など来るものかとなり無視される
最悪のことは誰も想定しない、そうなると利益にならないからである
だからそんな縁起でもないことを言うなとなる
つまり最悪なことを見たくないからそうしている

でもその最悪なことが起きた、津波と原発事故で起きた
誰も空気と水と土と森が汚染されて住めなくなるとは思ってもいなかった
もう空気も吸えない、水も飲めない、食料も作れない、木も燃やせないとかなるとは思ってもいなかった、それは「安全神話」で最悪のことを想定させなかったのである
ただ利益のみを言い地元でも利益のみを求めたのである
利益になる金になるとなれば危険も無視されるのである
地元では目の色を変えて利益を求めて危険を無視したのである

ただこれは大きなことでなくても個々人でもなんとなく不安だなというときそれが的中する、それは自分自身でもそうだったのである
何か家のことで不安だった、引きこもりであり楽をしていたがこんて楽していいのかともありまた親が病気になったら死んだらどうなるのだろうかと不安だった
その不安は最悪のものとして的中した
介護のために四苦八苦して自ら病気にもなり死ぬ思いをしたからである
その時誰も助ける者がいず自分一人でやるほかなかった
かえって来た人は弱者化したときそれをいいことに攻め立てたのである
ある程度想定していたがこのように最悪を想定していなかった
それを見たくなかったのである、でも否応なく最悪のことが起きたのである

いづれにしろ何か不安だなというときそれが的中して最悪のことが起きる
トロイの木馬でもそうである、それが何かわからなかったが引き入れた
不安であったが引き入れた、そうしたら敵がそこに隠れていたのである
原発でもそうだった、実は不安があった、敵は隠されていたのである
また故意に隠していたのである
だからなんとなく不安だということは当たる、でも最悪のことを人間は嫌だから見たくないからさけるのである
そんなことあって欲しくないとして無視する、そうして最悪のことが起こる

それはコロナウィルスにも言えるのかもしれない、最悪になることもありうるが楽観論もある、だから判定しにくい、ただの風邪だという科学者もいるしそれも論拠があり否定できない、ただわからないから最悪な事態になることもある
医療崩壊というのがそうである、それが起こりつつある
それは未知だからそうなる、だから不安をあおることは良くないともなる
マスコミは不安をあおり視聴率を稼ぐともしているからだ
だからその判断もむずかしいのである

ただなんとなく不安だというとき簡単に無視できないのである
それが的中しやすいからである、それはそうして起こる最悪のことを人間は見たくない
それで最悪に備えない、安全も無視されるのである
そうして原発でただ「安全神話」を作り科学者の専門家集団でも最悪を想定していないから備えもしない、避難させるにも支持も出さない、そして一番危険な山側の津島に浪江の人たちは逃げたのである
それは最悪を想定していないから事故になったときお手あげになりアメリカにスピーディの放射線量を報告した、アメリカ頼りになっていたのである
最悪を想定していれば事故の避難訓練をする必要があった
でもしなかったのは「安全神話」を作っていて安全、安全をしつこく言っていたからである、安全でないとは言えなかった、そうなれば原発を作れなかったからである

最悪に備えよ!

これは常に日本では洪水があり災害が多いからそうなる、去年の水害でもそうだった
いたる所が決壊したり堤防も破壊されてそれを修復するのには何年もかかる
それも想定外だったのである、これからも最悪のことは起きる
ただ人間は日々の生活に追われ利益に追われ見ないのである、最悪を見たくない
でもその最悪が容赦なく人間の都合とは関係なくやってくる
それが津波と原発事故の教訓だったとなる

ただコロナウィルスにどう対処していいか、ただ不安をあおるのは良くない
でも医療崩壊とか最悪のことが起きつつもある
それに備えるというのも必要である、たこれも楽観論が多いとなる
若い多世代は影響がないとしてそうなる
老人はどうせ死ぬんだとなり無視される、それが楽観論を生んでいる
不安をあおの良くない、ただ人間は最悪を想定しない、したくないのである
これは確かなのである

posted by 天華 at 10:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2020年12月19日

冬薔薇(写真で蕾から開くを撮る)


冬薔薇(写真で蕾から開くを撮る)

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よく見ると雪降っているのが写っている

snowrose4.jpg

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これせ薔薇なのである



石により薔薇一輪や霰ふる

雪の朝一輪映えぬ薔薇の色

風花に薔薇一輪や籠るかな
                                                 

蕾より徐々に開きぬ薔薇の花我が庭に見て冬の日暮れぬ

朝に雪降りにつ映えぬ我が庭の薔薇美しく一人見ゆかな

霊前に二人並びて花活けぬ我が家に映え心休まる 


この冬薔薇の色がいい、鮮やかである、白も咲いているが映えない、最初は蕾の時霰がふった、それから次の日は雪になった、そして雪が積もった
ここでは雪はほとんど降らない、三回四回積もるくらいである
だから風花になることが多い、雪景色になるのはめずらしいとなる

この一輪の薔薇は本当になかなか開かなかった、時間がかかったがようやく開いたとなるその変化を一人見ていたのである
それを写真にとった、このうよに撮れているのはレンズの効果である
レンズによって違ったようにとれるのである
このレンズは安いのに花をとるには効果的だった、だから意外だった

霊前にも花を活けた、一つはやはり薔薇の花だった、生前は争っていたが今は争わない
でも死んで日にちが過ぎるとどうしても忘れられてゆく
記憶が薄れてゆくからそうなる、これはどうにもならない
時間の作用は大きいのである、人間は時間に対抗できない、そしてただ今の時間にあるものに心は移り奪われるのである
死者を愛せといっても返事もないからなかなかむずかしいと思った





警察の職務質問の責任 (権力を持ち実行できるから責任が重くなる)


警察の職務質問の責任 

(権力を持ち実行できるから責任が重くなる)

責任問題は別に日常的にささいなことでもある
それは私が駅で無人駅になり聞かれることがあったので案内していた
そしたら誰かが怪しい奴だと警察に通報した、そして駅に丁度イベントがあり集まった時に大勢の前で職務質問されたから自分は怪しいものとされたのである
この時でも通報した人に責任がある
でも警察では一切通報した人については問わないのである
どんな人が通報しもその人のことは何も言わない、無条件に通報しただけで取り調べにくる                                            

実際はその通報した人こそまず取り調べることがあってもいいのである
悪意の人がいるかもしれないからだ、何もわからないで通報する人もいるからだ
もし通報するなら別にあなたはここで何をしているのですかと聞けばいいのである
また周りの人もそのことを知っている人がいたからである
つまり全く通報した人がその重大な責任を意識しないのである
一人の人間を怪しいとして回りから見られるようなことをあえてしたのである
でも何ら責任は問われない、ただ自分だけが警察に公衆の面前で職務質問されて公共の場に出入りを禁じられるようなことをされたのである
警察は権利もっているからその権力を施行するには慎重るなるべきだしそれだけの責任が課せられているのである、ただこれも権力を利用して横暴になるということがある

とにかく警察は権利があるとしてもそこに実際に権力を暴力でも施行することかできる
だから余計に慎重になるべきなのだがそういうこともないのである
ここに権力の恐ろしさがある、権力になんであれ従いとなる、こうして踏みにじられた人はいくらでもいる、それが世の中だとなればそうである
有無を言わさずただ従いというのが江戸時代辺りだとある、見ざる言わざる聞かざるの世界ではそうなる、ただ侍はそのために責任を自覚していた
それで切腹をした、それだけの覚悟があったということである
今は別に警察官でもそんなことはない、ただ権力をふるうというだけである
それが職務質問に現れているのである
全部はそうでないにしても権力をもつとそうなりやすいのである
権力をもつことはまた大きな責任を課せられている、でもそれを自覚しないのである

名乗りもなく理由も言わず、電話を遮ってまで他人にカバンの中身を見せろというマナーの悪さ。それに公人として勤務中に、表情もわからないようなでかいマスクをしておいて何がプライベートだ

尊厳を傷つけられてまで応じる義務なし…不当な職務質問への対策マニュアル

とにかく職務質問は有名な人でも行われる、この人は歌手だった、前の法務大臣になった人まで職務質問されていたのである
だからこれはある意味で強制なのである、なかなか職務質問されたら断れないからだ
私の場合は公衆の面前でされたが知っている人が弁護してくれたから助かったのである
つまり職務質問されるのに個人で抵抗するのはむずかしい
相手は大きな組織だからである、それで個人は大きな会社とか組織に抵抗できない
訴えられたら不利になるからだ、相手は弁護士でも雇うことができるし常時雇っていることもある

つまり世の中は弱者は損することである、だから弱者は強くなるために組織に入る、カルト教団でもそうだし党派でもそうである、ある団体に組織に所属するとそれをバックにして強くなれるからである、暴力団などでもそうである、俺は・・・・組だとかなれば恐れるからだ、背後に暴力を力としているからだ
それは警察でも似ているのである、、暴力ではないにしろ権力を強制的に実行できる力をもっているからである
ただそれは法律にのっとてとなるのが民主主義社会だけど実際はそうならないこともあるそれが職務質問なのである、この被害が大きいのだけどなぜ警察がこのことで社会から糾弾されないかも不思議である
被害者が相当に多いからである、とすると被害者が集まり抗議していいはずだがそうもならない、それは個々人の職務質問であり連帯できないからなのかともなる

いづれにしろ権力をもつことは実際は大きな責任が課せられることになる
なぜなら権力をもつと実行できる力をもつからである
例えば武器をもつ、銃を持つことが許されればその責任が大きくなる
勝手に使われて人を殺すこともあるからだ、それで侍は刀をもつことを許されたけどそこにはやはり勝手に刀を使ってはならないという責任が課せられていた
またアメリカで銃をもつことは自由だがそれには責任をともなう、でも銃をもつことで常に事件が起きているのがアメリカなのであるそれで常にに事件が起きている

何か警察とはこの銃なのである、実力行使ができる、現実に警官は銃をもっているからだ銃をもつことが許されているからだ、それでその銃を使うことで問題が起きる
銃で強制できるからである、だからそれだけ責任が重いのである
つまり銃をもつものは侍のように責任が重くなるのである
それは特権が与えられているからである、その特権には大きな責任が生じている
特権というとき官僚とかもその特権がありそれで責任が大きくなる

新潟市西蒲区津雲田の住宅で18日午後8時35分ごろ、「男が包丁を振りかざしている」と、この家に同居する親族から110番通報があった。新潟県警によると、駆けつけた西蒲署員3人に男(37)が刃渡り約20センチの包丁を振りかざしてきたため、3人は「刃物を捨てろ」などと複数回警告。刃物を振りかざしたまま約2メートルまで近づいたため、40代の男性警部補が拳銃で1発を発砲した。銃弾は男の胸に当たり、男は搬送先の病院で約2時間後に死亡が確認されたという。

この事件でも銃を使うことで問題が起きた

駆けつけた西蒲署員3人に男(37)が刃渡り約20センチの包丁を振りかざしてきたため、3人は「刃物を捨てろ」などと複数回警告。

三人の警官が来たのだから別に銃でなくても取り押さえることができた
そういう訓練を警官はしているからである、だから銃を使うことは問題があった
三人で止めることができたからである
こうして銃を使うことには問題があり警官の横暴が常に起きている




posted by 天華 at 09:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2020年12月18日

権利と責任 (権利を得るものには責任が課せられる)


権利と責任

(権利を得るものには責任が課せられる)

権利というとき利を得るものとしての権利である、でも明治時代に翻訳したとき権理となっていたのである、なんらかのリーズンがあって権利を得るとなっていた
これの方が正しい訳だったともなる、権利はrightでもある、正しさである
でも現実はただ権利となった、利を得るためのものでありその利を得て独占するための権利となる
民主主義でも権利を主張するのは正しいことであり推奨された
とにかくあらゆる人が団体が組織が権利を社会に向かって主張する
それが庶民でもそうなのである、生活保護者でも執拗に権利を主張する、生活保護者でも権利者だからである、もちろんそれを全部は否定できない、でも何か権利ばかりを主張する社会になったのである

原発事故でもそうだった、船主のことを再三追求して来たがこれがわかりやすいからそうなった、漁業権といんう権利を漁師は漁業組合は持っていた
それが権利であり主張できる、それで事故前でも東電から多額の補償金をもらっていたのである、、漁業権を東電に売ったともなるからである
でも漁業権の権利は魚の資源保護とかが目的であり理由なのである
それならもともと原発は海を汚染することがあるから慎重になるべきだったということがある、でも権利となり利が優先されて東電に漁業権を売りわたして金を得ることになったその補償金は事故前でも大きなものだったのである、それで原発御殿が建ったとか周りからうらやましがられていたのである

ところが原発事故で責められることになった、なんで東電などに漁業権を売ったのだ許可したのだとなる、その責任はどうするのだとなった
ただそのことをあからさまに言う人はいない、地元でもいない
ただここでは確かに権利の利を得るためにそうなった、でも今になってその責任が追及された、つまり権利には責任がつきまとっていた
もし権理となっていたらその利を得るにしてもそこに理由があるとなる
その理由は魚とか海産物資源の保護だったのである
もしそうなら簡単に金になる利になるからと漁業権を売りわたすとか許可することはなかったとなる
ただその責任をまねがれるには漁業権でも漁師とかだけのものではない、自治体全体のものとして協議していればそうはならなかった、責任が分散されたのである
でもそうなるとどうしても漁師だけの権利ではなくなり利益を得られなくなるからそうしなかったのである

ただこれこはあくまでも一例でありこういうことは本当に多いのである
どんな人でもとにかく利益を得ればいいとなる、その理由を必ずしも考えない
そんな例はこの世でいくらでもある、利を得るためには不正をしているのが普通だからである
ただ何かの権利を得ることは必ず責任が課せられることになる
この責任の部分が権利からぬけおちているのである、民主主義だととにかく組織でも団体でも権利を主張する、また自由社会だととにかく自由だとなり権利を主張する
だから極端になれば暴力団でも権利があるとして団体で主張したりする
それが今の社会であり漁業権とかはその一つの例なのである

例えば自分の一身上のことだが親戚の人が母の実家の墓を300万円もらって墓を守ってくれとその家系の長男が遺言して死んだ
そうなるとどうなるのか?確かに3百万円もらったからいいと普通なら考える
だからこそ3百万もらったのである
その親戚はもう人間でもなくなっていた、情もなにもない非情な人間になっていた
だから育ての親が病気のときも放っておきその母親は「ひどい娘だわ」と私に電話をして死んだのである、私の家とは疎遠であり付き合いもなかったが自分に余程悔しかったのか電話して死んだのである

そういう人がどうして墓を守ることができるのか?
恨んで死んだ人の墓参りとかでもできるだろうか?
確かに権利として金を得た、でもそこには大きな責任があった
墓など墓参りしなくてもいいということはある、何もしなくてもいいとはなる
でも何か墓参りして供養しないと気味悪いということもある
別に墓を捨ててもいい、現実にそうなる、でも金を得たとしてもそこには責任がつきまとう、それはあらゆることでそうなのである
金を得ることはすべて無条件でいいともならないのである
金には責任が課せられているのだ、それずドラマで金をもらったからと殺人に加担したとなる、その理由は金をもらったからだとしている
金は具体的な責任なのである、だから金さえもらえればいいとはならないのである
でも現実社会では金をもらえばいい、そのためには権利を主張しろというのが民主主義になったのである

こういう例など山ほどあり日常茶判事である、弁護士すらそうだった
交通事故のことで相談に行ったら何もしないのに相談だけで百万払いとなった
それを自分の家で親戚に頼んだ、その人が弁護士を知っているから頼んだとなる
でも相談料だけで百万とることはありえない、でもその人は世間のことがわからず
私の家で払うことになったのである、でもそれは交通事故の賠償金から払ったとなる
そこに自分の家の手落ちもあったとなる
ただ相談するだけで百万をとることはありえないのである
まずそんな権利がありえない、弁護士ならそういうことがわかっていても金を得るためにそうしたのである、たから弁護士自体が利のみで動いているともなる
それがこの世だと言えばそうなる

とにかく権利を主張するのはいい、でもそこには責任が課せられている、でもその責任は無視するのである、それで後で痛い目にあうことになる
それは戦争でもいい、国民がみんな賛成して戦争するのもいい、でもその責任は国民に課せられる、実際に三百万人が死に地獄の苦しみを受けて死んだからだ
戦争するならただ勝つだけを言う、でも負けたら悲惨な結果になる、その責任は甚大なものになった、それで天皇まで責任をとれとなった、広島に行ったらそのことを追及されたのである
地位が高いということはまた責任も重大になる、東電でも事故になったらその責任を追及されたからである、でも実際は原発事故では責任を誰もとっていないのである

「安全神話」を作り安全だというのはいい、でもその責任をとれるのか?
責任問題がここにもあった、人間は必ず責任を課せられている、責任から逃れられないのが人間なのである、それで赤ん坊が泣いて生まれてくるのはその生れたことで責任が課せられているからだというのもわかる
責任がないような人でも何もしなくても責任が問われる、存在していること自体責任が問われる、原発事故ではそこの住民も責任を問われた
その責任は現実に故郷に住めなくなったことなのである、これは大きな責任を押し付けられたとなる、ただその前に原発を誘致した責任が住民にもあったからだ
それを拒否することもできたが誰一人としてしなかった、ただ利にあればいいとしていたからである

小高の大工さんが小高に原発ができると景気良くなるとしか言わなかった
その人は何か大工の腕が良くても利しか考えない人だった、金になるなら何でもする人だった、それはみんな同じである、そこに大きな責任があることは考えないのである
でも必ず責任をとらされるのである
誰かが責任をとらされる、戦争だと国民が三百万人死ぬことで責任をとらされたのである原発事故では故郷にすめなくなるということで責任をとらされた
その責任は飯館村などは関係なかったがやはりその責任は波及してそうなった
これほど広範囲に放射線の影響があると思わなかったからである

とにかく権利を主張するのはいい、でもその権利には責任が課せられている、権利を得ることによって責任が課せられる、その責任は重いものになる
もしその責任のことを権利を得る時自覚していたら簡単に権利を主張することもないとなる、でもそれが意識できない、権利を得て利権を得て得をすることしか考えないのであるつまり日本では民主主義とは各自が権利を追及してまた組織団体が権利を主張して利権を得ることなのである、そこに責任があるのだがそれを意識しないのである
ただその結果として必ず責任を課せられる、その責任から逃れられないのである
だからもしその責任を自覚するなら権利を主張するのもいいのである
でもそういうことがなくただ権利だけを主張するとあとで重い責任を課せられて責任をとらされる

戦争だ、アメリカをうちのめせ、その時誰も三百万人が死ぬことをイメージした人は一人もいなかった、原発事故でも故郷に住めなくなるということをイメージした人は一人もいなかった、でも必ず権利を主張しても責任を誰かがとらされる
東電の幹部は責任をとっていないが住民はと故郷に住めなくなる責任をとらされたのである、何かここに民主主義がただ権利を主張するものであり責任と表裏一体なことを意識していないのである
高い地位につくことはそれだけ大きな責任が課せられる、だからその責任をとれないから辞退する人もいるだろう、そんな重い責任を引き受けることができないともなる

権利を主張するのはいい、でも責任から逃れられない

権利と責任は一体なのである、権利だけを得ることはできない、必ず責任が問われる
そして現実に責任を誰かがとらされるのがこの世である
だから何を主張してもいい、また集団で何を主張していもいい、でも責任は確実にとらされる、集団でも個々人でもとらされる、ただ集団はみんなで赤信号渡ればいいとかなり無責任になる、集団は責任を自覚しにくい、みんながしているから正しいとなるからだ
でもその集団でもその中の人間でも確実に責任をとらされる
オウムがそうだった、死刑にされたことでもわかる、その時後悔したが時すでに遅しとなっていたのである

そういうことは他のカルト教団にもある、いづれは責任を問われる、そもそもこの世自体が罪の世でありその罪が暴かれて責任が問われる、罰せられるともなる
最後の審判があるというのもそのためである
ただそれを自覚している人はいないのである、でも確実に責任はとらされる、それが罰せられるともなる、そういうことが原発事故でもあったしこの社会全体が必ず罰せられるとなる、つまり行為がカルマでありその行為についての責任をとらされるのが人間なのである、そのカルマから責任から逃れることができないのである
だから赤ん坊が泣いて生まれるのはそのためだとなる、この世に生まれたこと自体すでに責任を課せられ責任をとらされるからそうなる
何もしなくても存在するだけで責任を課せられとらされるのが人間だとなるからだ
「俺には責任がない」こう言ってもなんらか必ず責任があり責任をとらされるのが人間なのである 

マスコミは報道ということで大きな責任がある、なぜなら政権の行方でも左右することがあるからだ、世論を作るのはマスコミだとしているからだ
それで最近NHKが批判される、その影響が余りにも大きいからである
NHK様の言うことなら正しいとまでなっているからだ、そして報道する権利というのはマスコミにしかなかったからだ、テレビなら六局した放送する権利かなかったからだ
それで権利を得たのだがそこには重い責任が課せられていたのである
つまり国家の運命さえ握っていたともなるからだ、報道によって国家の運命を左右するとなればその責任は余りにも重すぎだのである、それで戦前は朝日新聞は一番戦争をあおったのである、その頃テレビがないから新聞が大きな力をもち国民を戦争にあおったのである 

つまり報道をすることはそれだけの重い責任があったとなる
それだけの影響力があったからそうなった、でもインタ−ネットが生れてそうした六局支配のマスコミとかに反抗できるyoutubeが現れたとなる
それは個人でも放送局になっているからだ、プログだってほとんど無料でできる
写真をも出せるから意外とこんなメデアでも表現できる幅が大きいということに感心したのである、ただ読む人が少ないからその影響力はわずかだとなる
でも有名な人だとそれなりに影響力を持つようになったのである

ただすでに何でもいい発言することには今度は責任が課せられる、誹謗中傷するのもいいネットではしやすい、でも今度はネットの発言でもセキニンか課せられる
その発言でも責任をもち責任がとらされる時代になる
何であれ責任から逃れられないのが人間なのである

ivilization(文明)の意味 (封建制から市民社会へ、貨幣経済が自由を生んだ)


civilization(文明)の意味

(封建制から市民社会へ、貨幣経済が自由を生んだ)

ここでの「封土(ほうど)」は「領地」と言い換えることもできるのですが,それには「土地」だけではなく,そこに住む「農民」も含まれていたことに注目することが大切です。
言い換えれば,先に述べた「主君」も「家臣」も,領地・領民をもつ「(荘園)領主」だったわけです。「領主」は,「荘園」(農民も含む領地)を所有し,農民( =移動の自由などを持たない「農奴」)にさまざまな形での地代や税(収穫物や労働など)を強要し,それによって生活していました。

貨幣経済が浸透してくると,従来のような物々交換は敬遠され,できるだけ貨幣を使っての取引が求められるようになっていきます。多くの貨幣が必要となった領主たちは,地代(農民に土地を使わせるかわりに,農民に支払わせる代償)としても,貨幣を要求するようになります。
そうすると農民は,自分たちが作った農作物を市場に持って行って売り,その代金の一部を領主に支払うようになります。その一方,余った分の貨幣は,自分のところに貯めておくようになりました。腐ってしまう農作物と違い,貨幣ならば蓄えておくことができたのです。

封建制とは封土というように土地と農民を基盤にした支配システムである
それは日本でも江戸時代は土地から主に米を基本にした経済であり税は米で納めるし米が貨幣の役割りを果たしていた、石高が収入の基準になっていた
土地が基本ということは農業社会である、だから農業にとって土地が富を産み出すものだったのである
だからこそ農民は土地にしばりつけられて移動の自由もなかったのである
領主によって移動の自由を制限されたともなる、なぜなら土地にしばりつけてそこから税を納めさせるシステムだからである、それでヨ−ロッパでは農奴とされたのである

その封建制が崩れたのが貨幣経済の浸透だということは興味深い
貨幣経済が普及するには商業とかの発達が必然的にありそうなった
それまでは物納だったからである、日本だったら米で納税していたからである
農民が農作物を市場に出したということは農業でも商業化したことなのである
市場化が封建制を崩壊させる契機となったということは特筆すべきである
なぜなら市場がなければ貨幣経済は発展しないからである
あらゆるものが市場で取引されるとき貨幣が必要であり貨幣経済が発展するからだ

そしてなぜヨ−ロッパでは都市が形成されたのか?
今でもシテズンシップが言われる、ヨ−ロッパ文明がcivilizationというときcivilは
市民のことなのである、市民社会が形成されてcivilizationが生まれた
だからここが日本人には理解できないのである
そもそも市民がいないからである、日本は封建制があり江戸時代300年つづいた
それが明治維新でヨ−ロッパ文明に習った、でもその文明を取り入れたとはならない
なぜなら日本には肝心のcivilizationの市民がいないからである

では市民とは何なのか?それは土地に縛り付けられた封建制から脱した市民の共同体ということである
それは市民とはブルジュアともいわれ市壁によって囲まれた中に住んでいた共同体の住人だったのである、そこには封建制の土地に縛り付けられた農奴はいないのである
だから都市は自由にするというとき土地に縛り付けられた農奴とは違った自由があるということになる
日本でも江戸時代は土地に縛り付けられて関所がありその領主の支配地域から出ることができなかったからである
それで相馬藩で飢饉になったとき越中とか越後とか日本海側から土地を得られるとして来た移民がいた、でもそれは命がけの移動だった、なぜなら藩から出ることは禁止されていたからである、移動の自由がない社会だったからである

移動するという時商業だと物を売ったり買ったりすることで常に移動する、遠くまでも移動する、商人は自由に行き来できなければ成り立たない、また交通が発達しないと自由に移動しにくい、でもヨ−ロッパとか中国は広いとしても川が道になっていたのである
川で都市と都市は結ばれていた、ヨ−ロッパとか大陸の川は運河と同じである
日本がの様な川と違って流れが運河のように穏やかだからである

それで都市は封建領主が独立したものとなり商業で自立するようになった、そこには商工業もあり都市は土地に縛り付けられた農業から脱した世界となり都市には自由があるとなった、そこで商人のネットワークができてハンザ同盟とかが結ばれる
それは領主とかから脱した自由な商人の結合でありその範囲は広くなるのである
広域ネットワークが生まれたのである

不思議にこのことを歴史をふりかえるとグロ−バル化を批判してきたがまず貨幣経済と商業が発展することは封建制を崩壊させたのでありヒト、モノが自由に行き来する社会を作ったのである、それは現代のグロ−バル化社会に通じていた
世界的にヒト、モノが自由に往来する社会である、そして貨幣経済が発展してかえって
そうした貨幣経済が金融によって世界が支配されて弊害が生まれた、ドルが世界の金となるとき結局それはアメリカが利する世界だからである
アメリカが覇権国になっているゆえにそうなったのである

でも本来は貨幣経済が悪いというものではない、貨幣経済は封建制を破るものとしても機能したからである、商業とか工業が発展すると封建制も自ずと崩壊してゆくのである
グロ−バル化社会というのはま、た多国籍企業となり国というものまでも無視することになる、国はかつての封建制のように国土に縛り付けるものと見るからである
その国を越えて自由に貿易でも企業でも活動できることで成り立つからである
多国籍企業にとって国は必要ないのである、国の縛りがあると自由に活動できないからである

でも人間にとって国を無くすことはできない、なぜなら国のアイディンティティは歴史とか風土とかなりたち文化がありその一体感は経済だけで考えるのは間違っているからだ
グロ−バル経済でもだからアメリカでも中国と貿易とか経済に重きを置けば対立することは得策ではないとなる、でもアメリカにとっては覇権が失われるとなり対立して戦争にまで発展するとなる、だからいくら経済中心にしても国の障壁をなくすことはできない
人間は経済だけで生きるものではないからである

でも何か歴史をふりかえるとグロ−バル経済でもそれはすでに中世からはじまっていたのである、それはヨ−ロッパの一部にしても世界的に広がったのが現代だとなる
ヒト,モノが自由に移動する社会というのは人間がもともと望むことだったからである
ただその弊害が大きくなったのが現代のグロ−バル化経済だった
コロナウィルスというのもグロ−バル化の弊害として現れたともなる
これだけ人が国内であれ世界であれ行き来するときもう感染拡大は避けられないのであるヒト、モノの自由な移動を止められない、止めると経済がとまりそれで死ぬ人さえでてくる、そういうふうに社会がなってしまったからである
つまりコロナウィルスはそうしたヒト、モノの自由な移動を止めたのである
だからヒト、モノの自由な移動にはやはり限界があったとなる

ヒト、モノとか技術の自由な移動には問題があった、原発とか食料でもその風土に見合ったものが必要であった、原発は地震とか津浪がある日本には向いていなかった
食料でも欧米化して日本人に悪影響したものがある、あくにガンが増えたのは食事の欧米化にあったとされているからだ
つまり日本人は肉食民族ではなく魚と穀物中心の食生活でありそれで腸も長くなった
欧米は肉食でありそれで肉を消化する酵素がでるというのもそうである
体質が肉食に適したものとして長年の生活で作られてきたからである

いづれにしろグロ−バル化社会というのは人間が自由を求めてきて生まれたものでありそれはすでにヨ−ロッパの中世から始まっていたのである
でもそれがグロ−バル化世界化したとき問題が生まれた、全面的にヒト、モノの自由な移動が必ずしもいいものとして働かなかったことである
その弊害が世界的に現れてきたのである、貨幣経済が確かに封建制を崩壊するものとてし働いた、でも今貨幣経済は金融は実体経済とも離れ金融は国際資本家によって支配されているとかなった、金融を操作してるだけで莫大な富を得ているとかなる
アメリカでは数パーセントの人がアメリカの富の50パーセントを得ているとか格差社会になったとかいろいろ弊害が顕著になったのである
こういう時コロナウィルスが蔓延しているのも時代なのかとなる




2020年12月17日

相馬藩では郷士が多いから兵農分離されなかった (伊達と戦うことができたのもそのためだった)


相馬藩では郷士が多いから兵農分離されなかった

(伊達と戦うことができたのもそのためだった)

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福島の歴史と考古-鈴木啓より引用


戦国時代の前は南北朝時代とか鎌倉時代がある
それは時代区分として中世とされる、その時の支配形態は「館」を中心として小地域の支配である、館はたてであり盾であり防御の屋敷となる
だから地名としては館とあれば中世の時代のものであり古いとなる
それで深野(ふこうの)には二つも館という地名があり古い地域なことがわかる
大原は新しい、それは相馬氏が進出した地域を見ればわかる、大原から小池と進出したのは深野には古くからの土着の勢力があり入れなかったからである

相馬地域で有力な支配者は佐藤氏である、磯部を根拠として後に鬼越城に移った
今の相馬市の道の駅の所である

源義経の家臣の「佐藤継信(つぐのぶ)、忠信(ただのぶ)」兄弟。平安末期に奥州藤原氏に仕えたのが「佐藤」氏。陸奥国信夫郡(福島県福島市飯坂)の大鳥城を本拠に奥州南部の代官を務め、一時は「刈田」「名取」「亘理」「柴田」「行方」「信夫」「伊達」「岩瀬」「白河」などに及ぶ地域を支配した。佐藤基治(もとはる)の時に最盛期をむかえたが、源頼朝の奥州攻めで戦死した。基治の子の「継信」と「忠信」は源義経に仕えたとして有名だがどちらも戦死した。福島市飯坂町の医王寺は佐藤氏の菩提寺。

そもそも佐藤氏は藤原氏から発している、藤とつくのは藤原と関係している、工藤、加藤、伊藤、後藤とかもそうである、それは鎌倉時代に平泉とも関係していたのである

郷士というとき地侍とか前々から土着していた人たちがいた、その人たちは館を城のようにして地域を支配していた、そういう所に相馬氏が進出して戦国時代を経て幕藩体制の中に組み込まれたのである
だから相馬氏が進出したとき争いになり滅ぼされたとなる
兵農分離政策はもともとそうした地侍などが武装していると治められないから分離させる武器をとりあげる、また侍を城下に住まわせるようにした
ただ相馬藩では郷士が多かったというのが特徴である
兵農分離をしないで侍が農民となり土着することになった
だから村々に兵士とか警官がいるようになり農民を監視していたから一揆は一回しか起こらなかったとなる

そうして郷士が多いことでそれが軍事力となり伊達に対抗できたともされる
郷士の数が多いということは戦争の時に兵力として活用できるとういことである
普通は兵農分離して侍は城下に住むようになったからだ
なぜ野馬追いが相馬藩だけに残されたのか、あのような華々しい行列が再現されているのか?
それは郷士が多いというためにそうなった、今でもたいがい野馬追いに出るのは農村からである、城のあった城下町の相馬市からは出ないのである
そこでは兵農分離して侍だけが住むようになったからである
戦国時代も終わった時、侍は官僚になり事務とかするようになった
馬とかも飼っていたのかどうかわからない、馬を飼えるにはやはり農家である
土地も広いし飼料も用意できるからである 

相馬藩でも文禄から検地が行われていた、だから新地の神社にある文禄の碑は伊達藩で作り残したのか、相馬藩なのか、ただ文禄時代になるとまだ新地でも中村でも伊達氏の勢力下にあったから伊達藩が建てたと推測する
相馬藩の郷士の数は農民の数の六分の一である、つまり6人に1人が郷士なのである
これは本当に多いのである、この郷士は一応侍身分であり武装もできるから兵力となる
それで伊達市との戦いでも負けなかったともなる
野馬追いとは戦いの訓練としてもありそうして戦いの訓練をしていたから伊達藩とも対抗できたとなる、また親戚関係にあるから相馬氏は伊達藩から徹底的に攻められことはなかったともししている
親戚関係を結ぶことはそういう効果が戦国時代にあったためである

いづれにしろ人口でも石高でも元禄時代がピークになりそれからは下降するだけだった
だから元禄時代は全国的にも華やかな栄えた時代だったのである
元禄文化が興隆したのもそのためである
ただそれからは宝暦でも飢饉があり天明では最悪であり江戸末期の文久でも人口は減っていたのは意外である、つまり天明の飢饉で相馬藩は餓死者が一万以上とかあり三分の一に人口は減った、この飢饉は相当に影響した、またその後も飢饉があったのである
元禄時代をピークにしてあとは下降線であり明治になって開国して急激に人口が増えたのである
新田開発でもすでに元禄の時に限界にきていたともなる




posted by 天華 at 19:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 江戸時代

Is the art of transformation by AI a creation? AIによる変化の芸術は創作なのか?

Is the art of transformation by AI a creation?

AIによる変化の芸術は創作なのか?

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私の抽象画は全く絵の才能がないのに作っている不思議である
ただ原画を変化させて作っているだけである
だから著作権違反になるものもある
でもこうした二次三次製作が創作ではないのか?
それもまたわからないのである、確かなことはこれはコンピュターが生れてソフトが製作しているものである  

つまりAIが創作したの選んでいるともなる
だからコンピュターなしではありえないものだったのである
つまりARTは技術のことだからである



It's a mystery that my abstract paintings are made even though I have no talent for painting.
It's just made by changing the original picture
So there are some that violate copyright
But isn't this kind of secondary and tertiary production a creation?
I don't know that either, surely this is what the software created when the computer was born.

In other words, it is also the choice that AI created
That's why it wouldn't have been possible without a computer.
In other words, ART is technology.

2020年12月16日

「相馬藩寛文8年百姓一揆の歴史的意義ー鈴木啓」を読む (一揆があったことも津波の被害も記録されなかった訳)


「相馬藩寛文8年百姓一揆の歴史的意義ー鈴木啓」を読む

(一揆があったことも津波の被害も記録されなかった訳)

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新地の碑
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これらの碑は検地の記念碑である
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1574天正
1592文禄
1596慶長
1603慶長徳川家康
1624寛永

1655承応4年/明暦元年
1656明暦2年
1657明暦3年
1658明暦4年
    万治元年
1659万治2年
1660万治3年
1661万治4年/寛文元年
1662寛文2年
1663寛文3年
1664寛文4年
1665寛文5年
1666寛文6年
1667寛文7年
1668寛文8年


「鈴木啓氏の福島の歴史と考古」を読んで私自身が相馬郷土史を調べていてなるほどと納得するものがあった
相馬藩にはなぜか一揆がなかった、でも一揆があった
ただ資料がないので明確にはわからない、それはこの時の藩主が名君とされたからでありそうした負の部分が資料として残されなかったからである
こういうことは歴史には良くある、為政者の都合の悪いことは資料にも残さない
相馬藩政期は一貫して相馬氏が治めたので他の人でも調べにきている
他では藩主が代わったりして一貫性がなく資料として参考にならないということがあった
このことを感じたのは津波のことである、相馬藩政記になぜ津波のことがその被害が記されなかったのか?これが大きな謎だった
ただ二行だけ生波(いくなみ)で700人溺死と記されたのを津波の後に発見されたのである
その被害の状況は全く不明なのである、それは相馬藩を支配した侍が記録しなかったからだとなる
その時相馬氏の支配はまだ行き渡らず戦国時代だったからである
それで戦争のことは事細かく記録されたのである

そのことが後々の人々には重大な過失となったのである、庶民は記録する財力もないし文字を書ける人もいないということがあった
つまり庶民は非力であり何か記録するにも財力が権力がないとできないのである
もし津波の被害状況が記されていればそれは貴重な記録となりここにもこんな被害を与えた津波があったとのだとして津波を警戒することになったからである
それがこの辺では400年も津波が来ないのだから津浪と来ないとして警戒しなかったのである、そして忘れ去られていたのである、津波の後にこの二行の記録が発見されたのである、つまり誰もこの記録に注目する人もいなかったのである

相馬藩でなぜ一揆が行われていなかったか、それは善政があったからではない
郷士が農民より多いような状態になっていたのである
それが相馬藩の特徴なのである、それだけ郷士が多いということは農民を監視することにもなるから反抗はできないのである
それは北朝鮮とにている、北朝鮮も貧乏なのに兵士が多いのである
その兵士が監視しているからあれだけ悲惨なのに反抗もできないとなる
一党独裁となり反抗できないようにしている

野馬追いを見ると相馬藩では六万石であり小藩なのになぜあれだけの馬が出て行列ができるのが不思議になる、伊達藩では60万であり会津でも30万石とかなっている
相馬藩は小藩なのである、でも野馬追の行列をもみると他ではそうした行列が成されない不思議がある、相馬藩だけになぜあれだけの野馬追い行列が残っているかとなる
それは村ごとと郷士が多くその人たちが村から出るからだとなる

封建制支配は土地に基づいてその土地から税をとる支配体制である
それで太閤検地が重要な支配体制を作ったのである、それは明歴に行われたのである
そして葛尾村の落合という辺鄙な所まで検地が行われた
その記念碑が明歴と元禄と記された碑なのである、それが葛尾村(かつろう)の落合にあった、高瀬川をさかのぼった所である、そんな所まで相馬藩では検地をして税を治めさせたとなる、その記録が残っていたというのも貴重である
なぜならこの辺で必ず墓地を見ているが元禄はあっても明歴を見たことがないからであるでも明歴に検地があったことは確かなのである
伊達藩では文禄に検地があったから相馬藩より前にあったとなる
その碑が新地に残っている、それは検地の記念なのである
それだけ伊達藩は古いとなる   

いづれにしろ明歴から検地が行われ新田開発が行われた、それで郷士が増加して土着の農民が秣(まぐさ)がたりなくなって困ったとか新たに入ってきた郷士に奪われて困ったともなったのである
郷士は馬を持つ、野馬追いに出るのにも馬を飼っておかねばならない、それで今でも相馬地方では馬を飼っている家がある、野馬追いに出るための馬を飼っているのである 

ともかく相馬藩に一揆がなかったのは善政のためではない、郷士が多く監視役になり一揆ができなかったのである、だから寛文時代という戦国時代が終わった書記には検地が行われて米で納税することが厳しくなり一揆が起きたということは納得する
その後は郷士の監視下にあり一揆は起こせないとなったとみる

とにかく記録というのは為政者の都合のいいものだけを記して残すのは今でも同じである政府の都合の悪い資料は出さない、知らせない、黒塗りだらけの資料があったというのもそのためである、それで民主主義は情報公開が基本にあるけどそれも成されていないのである、権力者の都合のいいように情報も支配されるのである
マスコミもそれに加担する、それは原発事故でもそうだった
「安全神話」などありえないのに権力によって作られたからである
津浪でも記録されなかったのは為政者にとって津浪の被害は都合の悪いものであり無視された結果なのである 

それが今になり問題視されるようになった、でも資料がないから明らかにすることはできなくなったいたのである
江戸時代は見ざる言わざる聞かざるの社会であり今とは全く違って表現の自由もない世界だった、そこで最も重要なことが記録されなかったのである
要するに権力によって都合の悪いものは抹殺されるのである
それは今でも行われている、権力でもって悪い情報は知らせない、隠される
原発事故がまさにその象徴となったのである、内部告発があってもそれも権力で握りつぶされていたしただ安全だけが言われた、それに加担していたのがマスコミだったのである地元のマスコミでも新聞でもテレビでも報道しないからである
権力をもつものから利益を得るから忖度してすりよりだけだとなっていたのである


注意

引用に問題があるかもしれない、長い文そのものを引用はできない、これはまるごと引用しているからだ
ただ内容を知るためには長い文を読まないと理解できない
そのためには本を買うほかないとなるが一部だけに興味とか調べる人がいる
それで本一冊買うに躊躇する人はいる、こうした専門の本は高いからである



posted by 天華 at 21:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 江戸時代

2020年12月15日

原発事故と似ていたドラマ (必殺仕事人ー漁師が魚より黄金を求めて殺される)


原発事故と似ていたドラマ

(必殺仕事人ー漁師が魚より黄金を求めて殺される)

必殺仕事人はBSで見ている、今日のドラマは漁師が沈没した船にあった黄金を引き上げるそれをさせたのは役人であり悪徳商人である
懸命にその黄金を引き上げたのだがそれと引き替えに殺されてしまった
その漁師は魚がとれなくて家族で苦しんだことを言っていた
それが悲惨でありどうしても金を欲しいとなり千両もらえるとしてその海に沈んだ黄金を引き上げてることを請け負ったのである

これは何か原発事故になったこの辺の状態と重複する、ダブって見えたのである
漁師は船主だと漁業権をもっていて事故前も補償金をすでにもらっていたのである
それも多額だから原発御殿を建てたとか回りからうらやましがられていたのである
別にみなん漁師でもないし船主でもない、港があってもそこに住んでいる人がみんなそうではなかったからである

漁業組合が漁業権をもっていて大きな力をもっていた
その組合の許可なしでは原発を建てられなかったともなる
そもそも原発というのは黄金だったのである、金のなる木だったのである
その金額の巨大さにはただ驚くばかりだった
原発事故後も国の税金が湯水のように使われたのである、除染だけで何兆円とかいうのも驚きだった、それは地元にではなく東京のゼネコンに流れたのである

そして地元でも富岡なのか大熊なのか町長の金庫が津波で流された、それを探してほしいとなった、そこには5億円の金が入っていたという噂だった
それは単なる噂ではない、火のないところに煙はたたない、

関西電力幹部らが福井県高浜町の元助役、森山栄治氏(故人)らから多額の金品を受け取っていた問題は会長、社長を含めた関電幹部の大量辞任という前代未聞の事態に発展した3億2000万円相当もの金品の原資は、関電高浜原発の立地に伴って地元につぎ込まれた「原発マネー」とも疑われる。舞台となった高浜町とは、どんなところなのか。町の人々は何を思っているのだろうか。

このように原発マネーは莫大なものでありそれに人々は群がる
マスコミでも電事連から800億円の宣伝費が流れたとかなりその危険性を報道することもなかったのである
それで事故が起きたとき東電にマスコミの幹部が招待されていたのである
それは朝日新聞でもそうでありマスコミ全部がそうだったのである
地元のマスコミでも報道機関でもやはり同じだった
「安全神話」に加担していたのである

だから漁業組合だけではない、その金にあらゆる人が群がっていたのである
東電に天下りした官僚もそうであり既得権者となるものがそうなっていたのである
最近既得権者を批判するyoutubeなどで報道している、加治将一氏のyoutubeではそうである
官僚とかには検察も入っている、その検察も東電に天下りしている、海上保安庁とかでもそうである、それから5億円の金庫で話題になった町長でも自治体の役所の権限をもっている人に金がまわるのである
ただ下々のものは原発の危険な場所で働く、でもそこでは普通の給料の三倍とかもらえるからみんなそこで働いていたのである、それも恩恵だったとはなる

ともかく人間は金に狂う、金しか見えなくなったのが現代社会であり資本主義社会である農業している人でも親が農業するなというときそうだった
それで子供は農業をするな殴られて原発や工事現場で働くようになったのである
農業も漁業と同じく生活的には苦しいからそうなったのである
戦前でも農業は悲惨だった、特に小作は悲惨だった、それでその時も金、金、金だと訴えていたのである
農業だけでは豊かになれないからそうなっていたのである

だから江戸時代であれ漁師でも魚がとれなかったらお手あげになる、それで餓えたとか死んだとかなりそれで海に沈んだ黄金を引き上げれば千両入るということで引き受けた
でもあえなく引き揚げたら殺されたとなる
その背後には金を扱う役人が後ろでかかわっていたのである
たいがいそういうシナリオになって必殺仕事人がその悪役を殺して終る
何か原発事故はそれとは違っていても似ていたのである
つまり漁師でも農民でもその生業では豊かになれないから原発に頼った
それは黄金に頼ったともなるのである

でもここに大きな落とし穴があった、黄金のために眼がくらみそのために殺されるまでになった、そのことはこの辺と似た面があった
原発から出る金で目がくらみ故郷が放射線で汚染されて住めなくなった
また家族が離散してばらばらになったとかある
今原発避難区域に住んでいるのは老人がほとんどなのである
老人だけが取り残されてしまったのである

結局金に黄金に目がくらんでしまったのである、それもそもそも双葉とか大熊とか辺りは浜通りでもチベットとか言われ出稼ぎ地帯であり地元で働きたい住みたいとなり原発を誘致したのである、その地元に原発で住めなくなったのも皮肉である
でも人間貧乏から脱出しようとする、豊かな暮らしをしたいというのは責めることはできない、ただそれがなぜ間違った方向に行ったのかは考えるべきだとなる

黄金に目がくらんだ、それで他のものが見えなくなった
何か大事なのもか価値あるものか見えなくなった
それはここだけではない、今は資本主義社会では金にならないものは価値がないとされるからである
でも金にならないものの価値がこの辺では見直された
それは故郷に住めなくなったとか華族かばらばらになったとか町とか村がゴーストタウンになり歴史が失われたとか回復しないとかでそこにあった金にならないものの価値が見直されたとなる、それよりそこで金にならないものの価値を認識したとなる
つまり金にならないものは価値として認識できなくなっていたからである

漁師は魚をとることは本来の仕事である、農民は食糧を供給するのが仕事である
それが金にならないということで原発に頼ったともなる
ただ原発事故前はそういうことが見えなかったのである
事故になってそういうことが露わにされたのである
まさに悪徳役人は官僚であり商人もそうでありそういう人達にたぶらかされてまた漁師が黄金に目がくらんで一攫千金を夢みてそうなった
そうして殺されてしまったのである

ただ人間が豊かになりたいということを止めることはできない、そうはあっても何か黄金に目がくらんでしまった、現実に船主の家に招待された人が本当に黄金の間があったらしい、贅を尽くして原発御殿が事故前に作られていたのである
それも津波で流されてしまったのである、あとかたもくなったのである
それでも事故後も軽く一千万とかもするような庭を作っている
それは船主の家だということがわかったからだ
それだけ金が入っていたということである、だから漁業組合がトリチウムを海に流すなという時矛盾なのである、また交渉として補償金をとるのかとも見るからである
つまり漁師の本来の仕事は魚をとり供給することだからである

いづれにしろこの辺に起きたことは津波でも原発事故でも大きなドラマになった
その時自分の家も介護とかでさんざんな目にあった、それもドラマだった
大きな歴史に残る事件でありドラマとなったのがこの辺だったのである


posted by 天華 at 20:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

家は単なる建物ではない先祖の死者が生き続ける場 (天皇は家から発した、国家とは天皇家のことだったから)


家は単なる建物ではない先祖の死者が生き続ける場

(天皇は家から発した、国家とは天皇家のことだったから)

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野馬追いに出た御家と只野氏と天皇の菊の紋がある、これはまさに歴史の象徴としての旗なのである

家をローンで買ったり家を新しく作ることは金がかかりすぎる
もう家に不動産にも価値がないという見方もある
それは空家とか少子高齢化で家そのものが価値がなくなったからだとしている
つまり家でも消費するものであり一時的なものとしての価値がないとしてそう言っているそれは経済的にはそうである、ただ家とかには土地でも経済的価値では計れないものがある

人間はすべてを経済的価値では計れないのである、家もそうである、家は単なる箱ではない、その家で営まれる生活があり家族がいて家がある
家というのは何か家という建物だけではない、そこで家族が暮らした精神的なものも受け継がれる、家は今のように30年くらいで古くなり新しくされるから不用だというのは現代的見方である

家はそれぞれに家の家族の歴史がありそこに何か一時的に消化される、消費されるものと違っている、特に日本では家は単なる建物ではない、家にはそこで人間が長く一緒に暮らした結果として精神的なものが付与されている

そもそも家が拡大したのが一つの国なのである、公(おおやけ)とは大きな家のことだからである、大きな家とは今では公共的な建物である
そこで政治でも行われるし公共的なものに使われる共有の建物となるからである
天皇とはそうした公(おおやけ)の象徴なのである

悠紀殿と主基殿の天皇の座のすぐ近くに「寝座」があるため、「新天皇が神と寝ることにより神格を得る」など、いろいろな説が流れされてきた。

折口がこの見立てに不可欠な要素として持ち出したのが、「天皇霊」という概念だ。折口によれば、〈天子様の御身体は、魂の容れ物〉であり、天皇はその魂(「天皇霊」)を受け入れることで完全な天皇として「復活」する。すなわち折口は、天皇の権威をほかならぬ「万世一系」の「血筋」ではなく、「肉体を入れ替えて復活をとげる霊魂」という超越的存在の継承によって説明しようとしたのだ。

大嘗祭ではそうして家の中で天皇を継承する儀式が行われる、それは秘密にされている
そこには他所からせ計り知れないものがあり代々天皇を継承する儀式なのである
それは家を受け継ぐことでありその家が拡大したものがもともと国だったからである
だから選挙で大統領を選ぶとかにはなりえない、家を受け継ぐものは長男であり血縁である、それは江戸時代までつづいたのである
御家と御家中とか江戸時代に言っていたのも家が公(おおやけ)になっていてそうなっていた、家を継ぐものは血縁であり長男に定められていたのである

家を拡大したものが国家でもあったのだ、ヨ−ロッパでもハウスブルク家などが大きな国を支配したとなるのもそうである
王の座はそうした王家が代々受け継いできたとなるからである
王は多数決とかでは決められない、王の権威は代々受け継がれてきたことにある
日本では天皇になるのである

とにかく自分の家族でも全部死んだ、残ったのは自分一人である、それで遅かったが家を自分は受け継いだとなる
その座を受け継いだとなる、それで母親の座った場所に自分が座っていると不思議である母親の座がありその座に自分が座った時、母がそこにあり自分がそこに座り母を受け継ぐとなったのである、父親はすでに中学の時死んだから遠い祖(おや)になっていた
だから私の場合は家族という時、姉と母になるのである
60年から70年も一緒にいたからである

不思議なのは家は嫁である、女と家が一体化したのが嫁なのである
それは家を一緒にともにする、家と一体化するのが嫁となるのである
確かに嫁いで60年とかなれば自ずとそうなるのである
母親が死んで4年とかになるが何かその母がいた座に母がいる
自分が座った時、その母の生を受け継ぐという感覚になっていたのである
ただ複雑な家族だから一概には言えないが今になると母はこの家の嫁となった
女と家が一体化した存在となり死んでもその座にいるという感覚になる
そして家は自分に受け継がれたともなる

私の家の歴史は父から始まる、双葉の新山で酒屋に丁稚として勤めていた
それで暖簾分けしてこの町にきた、この土地はその時買ったものである
それから駄菓子屋から店をはじめた、それで繁盛したとなる
子供時代の思い出としては近くの井戸から風呂の水をバケツで運んだことがあり
それは家族総出の仕事だった、その時水道がなかったからである
その時の家はトタン屋根のヤハな家であり必ず雨漏りする家であり洗面器でその雨漏りをためていたのである

それから台風でその家は水没した、屋根まで水が来たのである、それで近くの旅館に逃げた、その時もう家は使えないほどになった、でもなんとかそれでも使えるようにした
そういうことがあり私の家では逃げるための二階を建てることが悲願になったのである
それで姉と母がこの二階の家を建てたのである、それは大きなものだったら回りで驚いたのである、うらやましがられたのである、その頃まだそうして家を建てることが簡単にできない時代だったからである
でもその後も水害にあった、床上浸水したのである、ここは街で一番低い場所であり
上から道が川のように流れてきたのである
今でも去年の大雨で水があふれて水が家に入ってきて水浸しになったのである
幸い床下で助かったのである
とにかくそれだけここが土地が低い場所だからそうなるのである

自分の家にはそういう歴史がある、それぞれの家には必ずこうした歴史がある
それが何代もつづく家だと家の歴史がある
そういう歴史があるとき家は単なる箱ではない、そこで暮らしたストリーがあり歴史がある
その歴史を受け継ぐことになる、そういう歴史があるとき家は単なる箱ではない、建物ではない、その家を通じて営まれた家族がいて歴史がある
それを受け継ぐのがその子供たちだとなる
ただその歴史もその子供たちでも受け継がない、空家化するとか他人が入ってくるとそうした歴史は受け継がれない、他人にとってはそこで暮らしたともないのだから関係ないとなるからだ
ただ他人でも嫁はその家と一体化するから受け継ぐとなる

家にはそれぞれ歴史があり単に一時的なものとして消費するものとは違うのである
都会だとまず家は一時的に消費するものとなりやすい、アパートでも転々とするとか
移動するからである、でも一旦土地を買ってそこに家を建てて住めばやはりそこは単なる箱ともならない、やはり思い出が詰まった家であり単なる箱ではないのである
だから家が失われると思い出でも失われることになる
ただその家はその家族にとっての家であり他人には関係ないとなる

ともかく津浪とか原発事故とかでは家が失われたりまた家があっても子供たちが移住して老人だけか取り残されるとかになった
老人は家に思い出があり愛着がある、それで家を離れたくないのである
だから単に家は消費するものであり一時的に建物の箱として利用しているのとは違うのである
確かに経済的には価値がなくなるとしても精神的価値はあるしそれはそもそも金に変えられないのである、すべてを金に換算することはできない
土地の価値でも一部を切り取って家を建てる土地がある
でもその土地に生きるというときその景観とか大きな自然の中で価値が生まれる
ただ経済的な価値、金にならないものは価値として認められないのである
でもそこに実際は人間として替えがたい価値があるともなる
そういう金では計れない価値が現代では無視されるのである
そこに人間として空虚なものとなり充実した生の営みが消失するのである 

住宅は所有するものではなく、「消費して、使い捨てするものだ」という感覚が当たり前になっていく

物だったらそうなる、でもこの人は(鈴木傾城)は右翼である、そしたら伝統的なものを大事にする、家にこだわることは確かに保守的な思考ではある
だから家のために一生を費やされるというのも馬鹿げていることもわかる
でもそれは単に寝起きするとか食事するとかとしての場ではなく家で営まれる生活がありそれが思い出となり家の価値が生れて来る、つまり家は人が住むことによって精神的価値が付与されるのである
だから家を受け継ぐというとき建物だけではない、何か精神的なものを受け継ぐのであるそれが自分自身が遅くなりすぎたにしろ家族が全部死んで感じたのである
家には先祖が親が生き続ける場所なのである、次の代に受け継がれ生き続けるのである
それが象徴的なのは天皇霊を受け継ぐとかに儀式化されたのである
国家とは国の家なのである、家から発したものが国家となったのが日本の国家の由来なのである、それを否定するにしろそうして国家が受けづがれてきたことを知るべきである

(人間と空間)オットーリードッヒ,ポルノウ

この本は家について深く考察している、人間の思考は家があって家から思考している
一見天皇とかなると家と関係ないようでも深く家と関係して生まれていたのである

(人間はそこで自分が空間のなかに根を下ろし、空間の中のすべての関係がそこへと関連づけらている、そのような中心を必要とするのである

体験されている空間もまた今日なお一つの中心に関連付けられて、一つの中心から構築されているそれこそ人間が住んでいる家屋である
人間の家屋は人間の世界の具体的中心になるのである

天皇が生まれた経過はこの家なのである、日本の中心となった家なのである
それは日本では江戸時代でも継続されていた、侍でも長男が家を受け継いでいた 
そういう家中心の社会がありそれは明治になっても受け継がれた
不思議なのは一家の墓が生まれたのは明治以降なのである
それまでは個人墓であり夫婦墓でもあった、一家の墓がないのである
だから強制的に一家の墓が政府の政策として強制されたともなる
それは国をまとめるものとして家を中心にして基礎にしたということである
そして天皇家が日本の家であり公(おおやけ)であり国家だとなったのである
天皇とは何なのか?家から思考するとわかりやすいのである

いづれにしろ戦後は家の重みは失った、核家族とかなりこれまでの家の感覚はなくなっただから家は一時的に消費するものだというのは戦後にそうなった感覚である
そこに家は一代で終わるということになった
そして膨大な空家が生まれたのである、これからも生れる、近くでも本当に大きな家で一人暮らしの人が多いのである、私自身もそうだがそんな大きな家に一人でいるのはもったいないとみるのである、これからも800万軒とか空家が生まれ壊されるともなる
それより原発避難区域になったところは空家だらけになり町や村自体が消失しかねないのである、それは全国でも限界集落があり村や町や市まで消滅してゆくというからその変化が大きいのである
そこで失われるものは家という建物だけではない、何か精神的なものも失われる
天皇家すらもう維持できないということにも現れている
天皇家すら維持できないということは庶民の家も維持できないのが普通だとなる
そこで失われるものも大きなものがある
歴史とは代々受け継がれるものでありそういうものが箱としての家ではない、精神的なものが失われることになるからだ

天皇の御製歌(おほみうた)一首

あをによし奈良の山なる黒木もち造れる室(やど)は座(ま)せども飽かぬかも

まさにこれなのである、これは地元の木材で作った家であり外材を使う前はみんな地元の木材で作っていたのである、それで私の家も橲原の木で柱を作ったとして自慢していたのである,グロ−バル化でそういうこともなくなったというとき故郷とかに対する意識も薄れたのである、経済的に地元より外国であれ外部と関係している時は自ずとそうなる
今は家はハウス会社が外からきて一二週間でプラモデルのように組み立てるだけである
地元の人がかかわることもないのである
だから一時的に家を建て消費するという感覚になるのである
                

2020年12月14日

コロナウィルスで変わる社会 (グロ−バル化は止まりエッセンシャルなものが見直される)


コロナウィルスで変わる社会

(グロ−バル化は止まりエッセンシャルなものが見直される)

世界史的にはグロ−バル化は大航海時代から始まっていた
その結果として起きたことが伝染病の蔓延と植民地化だった
今ではマヤとかインカ文明が滅ぼされたりインディアンが絶滅の危機にひんしたのは伝染病だとされている、それだけ伝染病は怖いものだったのである
そもそも伝染病は風土病でありある地域に発生してその地域にとどまるものだった
それが交通が発達するとある地域から外の地域に伝染して蔓延する
それで今回でも武漢ウィルスだとしたのでもわかる
武漢から生まれた伝染病であり風土病だとなる

人間の歴史をみれば交通が発達して人々が自由に行き来する、ヒト、モノが自由に行き来することがいいことだとされていた、貿易でもいいものとされてきた
そういうことはあっても20世紀とかはグロ−バル化が頂点に達したような状態になった
結果的に今度は国と国の軋轢が増して世界大戦となり何千万人も死んだのである
交通が発達して世界が交わる負の面が増大してきたのである

欧米に植民地化されるとその国の伝統とか風土から作られた文化が根こそぎ破壊される
それがアジアでは植民地化されたことによって起きた
フィリンピンがスペインに支配されて次にアメリカに支配された結果として伝統的なものが失われてその国が成り立つのは外来のものでありそこで失われたものが多くモラルでもそうである、フィリンピンは何か賄賂が横行して国民が乱れている
それはスペインに支配されてアメリカに支配された結果だとしている

その点日本だけは明治維新でアジアで唯一植民地化されない国だったのである
モラル的にも武士道とかがありそれが国の礎ともなり西欧化しても植民地にならなかったことでアジアで唯一独立国となっていたのである
その時、中国も全く欧米に屈して植民地化されていたのである
唯一日本だけが欧米に抵抗できた国だとなっていた
ただそれもアメリカに負けてからは日本も植民地化されたのである
だから戦前と戦後では本当に日本が培ってきたモラルでも伝統でも失ったのである
戦前にはまだ日本があった、戦後はアメリカ化して強制されて日本がなくなったのであるアメリカからもたらされたものがすべていいものではなかった
また明治からでもヨ−ロッパからもたらされたものがすべていいものではなかった
つまり外国の文化でも日本的に日本人のものとして涵養できなかったのである
それには時間がかかるからである、仏教でも鎌倉時代になり日蓮とか親鸞とか道元とかが生れて日本仏教になったからである


今世界で起きていることはグロ−バル化の限界でありその負の面が増大して現象化したのである、それがコロナウィルスとしても現れたのである
これだけ交通が発達すれば人の行き来を止められない、国内でも世界でも止められないシステムになったからである
本当にこういうときGO TO トラベルを政府が打ち出したのはこれまでだったらありえないのである
そもそも伝染病は人の行き来を止めない限り伝染を止められないものだった
そこで江戸時代のコレラの流行でも長崎から入り全国に伝染した
江戸時代のような閉鎖された世界でも止めることができなかったのである
ましてや今の時代には人の行き来を止められない、システム的に経済活動でもそうなっている、すると経済活動を止めることはできなくなる
そのために自殺者が出るというのはそのためである

福島県でもコレラは会津中心に広まった、それは日本海側から北前船とか入り阿賀野川を通じて物資の流通があり会津に伝染した、他に白河街道とかあり会津若松の城があるところから広がったのである
そして田島の方の街道があったがそれは栃木県の方であり逆に会津若松から広がったのである、そこはあまり人の行き来がなかったからだとなる
そして桧枝岐は秘境だから感染しなかった
でも今回のコロナウィルスでは昭和村でも二人感染したのである
そこも常に辺鄙な場所として紹介されていた、でもそういう場所でも感染をまねがれない何か郡山市とか福島市とかに出てきて感染したらしい
要するにこれだけ人の行き来がある社会だと止められないのである
江戸時代のような閉鎖された時代でも伝染病は止められなかった
ましてやその百倍なのか千倍なのか人の行き来がある社会ではもう止めることは不可能だとなる

伝染病は怖いものとして意識されてきた、だから玉野村に若木神社がありこれは疫病を防ぐものとして祀られた、そこは伊達藩と相馬藩の境となる場所だったからである
それから八坂神社が多いのはこれが疫病を防ぐものとして祀られたから多いのである
それから関所もあったのだからそこで人の出入りを止める、それは伝染病を防ぐものとしても機能したとなる

ともかく交通が発達することは人々で自由に行き来することはそれは世界的に否応なく進められてきた、それが20世紀になり頂点に達したのである
そしてその負の面が現象化してきた、それがコロナウィルスでありまた国と国の軋轢がまして戦争になり何千万人も死んだということである
それから国々の伝統とか文化とかモラルが破壊されたとういことである
つまりグロ−バル化の負の面が増大化して現象化したのである
それは前々から指摘されてきたのである

そのグロ−バル化の負の面は科学技術面でも現象化した、それが原発事故にもなった
そもそも日本の風土に原発は合わなかったのである
地震があり津浪がありと地盤も安定していないからである
だから技術でもなんでも取り入れることは問題なのである
中東の砂漠では風が吹くから風車が発明されたとか日本だと山が多いからトンネル技術が発展したとかてる
それは食生活でもそうである、何か一部のガンが増えたとか糖尿病が増えたとかも日本がの風土にあった食生活を乱したからだとなる
日本人はやはり長い間、食べていたものを食べるのがいいとなる
そうして体が作られてきたからである
肉食より魚中心の食生活でありそれが理にかなったものであり外国の物をなんでも食べるのは良くないのである

いづれにしろwithコロナの生活はこれまでの生活の見直しである、グロ−バル化の負の面が増大したからである
そして本当に必要とされるものが見直された、エッセンシャルワーカーが見直された
つまりエッセンシャルとなるものが何か見直された
観光業では打撃でもそれはあくまでも遊びとかなる、それより日々の食料とかエネルギーとか何か日々の生活に欠かせない仕事が見直される
何か現代文明は膨大な無駄なものがある、そのために費やされるエネルギーが膨大だったのである  

それで観光業とかが増大したし娯楽関係だと芸能人が破格の収入を得ていたのもそうである、それが不必要というのではなく余りにも肥大化したのである
それがコロナウィルスで打撃を受けたのである
要するにエッセンシャルなものが見直される、それで金融にも波及する
金融自体が何かバブルになりただ金を右から左に流してもうける、それがグロ−バル化すると目に見えないから陰謀論が生まれる
だからグロ−バル化は世界的に見直され次なるスタンダードがシステムが求められる
確かなことはエッセンシャルなものをベースにした社会であり世界になる
本当にそれが必要なものなのかどうかが問われるとなる

posted by 天華 at 10:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層