国家とは何なのか?中国の電子マネーと国家
(市民社会の形成から国民国家へそして大衆国家へ)
実際、規制は徐々に強化され、AliPayなどの特権的地位は、徐々に制限されてきた。その最終的手段が、中央銀行デジタル通貨であるデジタル人民元だ。これによって電子マネーの場合と同じように詳細な取引データが、中国人民銀行(および中国共産党)の手に入る。これは国民支配のための極めて貴重なデータだ。
自由な経済活動によってこそ経済が発展するというのであれば、それは国家が経済活動をコントロールするという共産党の基本的な理念に矛盾してしまう。現在の状況が続けば、共産党は市場経済の中に融解してしまう。
市民とは何かを考察した、市民社会は領主の国王の土地を基盤として税をとる封建制に反するものである、それは自由な貨幣経済になり税金を貨幣で納めることからはじまって
封建制支配が崩れていった
日本でも米で納められていて米が実質の貨幣であり物納として税金があった
石高でその領主の財力が計られていた、米が基本でありそれが封建制を作ったのである
でも都市が発達して商業が盛んになると土地に縛られる封建制を打破して領主からの支配を脱した、都市は国王の支配する土地から離れて独自の自治体を形成した
そこは王すら自由にできない、支配できない領域ともなった
だから城壁で囲まれて入り口には市の門があり扉がありその鍵は市長が持っていたのである、市民とはその城壁の中に住む人たちである、それがブルジュアの起源である
そして商業は遠くに物を運ぶことであり交通が発達しないと栄えない、でもヨ−ロッパでも中国でも大陸だと川が運河のようになっていて物を運ぶことができた
川を通じて都市は結ばれる、ハンザ同盟とか商人の同盟が成立したのもそのためである
何かこの歴史がやはり形は変わっても同じことが行われる
歴史は繰り返すとなる、つまり中国で起きていることは国家と自由に商売してもうけたいという商人との対立だからである
それはヨ−ロッパで起きた領主と市民との対立と似ているからだ
国家は土地に縛り付けて農民から農奴から税として食料とかを物納させていた
でも貨幣経済がそれを打破するものになった、貨幣を得るには市場が必要であり市場では自由に物が売買されて栄える、そこには自由がないと市場も機能しないのである
中国でITが発達してアリババ集団傘下の金融会社アントグループの上場停止事件だった。アントは、電子マネーAliPayの発行主体。中国最大のeコマースアリババの子会社だ
その利益が6千億とかなりそれが笠下の銀行に蓄積される
それで共産党の国家の銀行は脅威になる、その金は民間のものだから国家で動かせないからである、金融の国家支配ができなくなると国家の力が弱まるからである
だから国立銀行で金を管理して人民を治めようとする
つまりこの国立銀行は国家に統制された銀行である
それは共産主義国家は自由主義社会とは違う、国家が統制する経済になるからである
そこで対立が起きている
だから国家とは何かというときその国家に対立するものを対照的に見ればわかるとなる
国家が人民を支配するには軍事力でありまた税金をとらねばありえない、それで民間が勝手に巨額の金を自由にするとなると国家の脅威にもなる
それが国家と民間ということで起きている、アメリカでもITの巨大企業がプラットホームとして莫大な富を得るというとき国家にとっては好ましくないともなる
それは国家を越えた国家にもなるからである、それだけの巨大企業となりそれは世界をも支配するとなる、アマゾンなどがその象徴である
アマゾンにとって国家は規制をかけて税金をとるようになるから国家はない方がいいともなるからだ、実際に莫大なの富を得るのだから国家としては税金を払いとなっている
それは多国籍企業にもいえる、国家を越えた巨大なものとして世界を市場としているから国家の規制のない自由を求めるのである
つまり自由とは…からの自由なのである、中世の封建制だったら領主の支配からの自由であり都市は自由にするというのはそのためである
国家とは必ず規制するものであり民間は自由な経済を望むからである
つまり国家を経済の側面からみれば自由を規制するから国家に対抗するとなる
またヨ−ロッパのように国家が自由な交通でも規制するから対抗する
ただライン河には関所がありそこで封建領主が通行税をとっていたのである
なんらか規制して税金をとろうとするのが領主とか国家なのである
アメリカでも民間と国家の対立がある、ラストベルトかの製造業が衰退したときそこで働く人は苦しいからなんとかしてくれとなる、そこでトランプ大統領の支持者になったのである、バイデンはITを推進する会社側にたっている、国内の対立が大統領選挙にも反映したのである
それはまた技術革新がもたらした対立だともなる、IT技術は世界を支配するものともなり中国はいち早くそれを取り入れた、そこにイノベーションがあった
でもそれは国家とは対立するものともなった、アメリカでもそれが起きていたのである
ここで国家とは何かとかいうことである、国家を成り立たせるものが税金である
税をとらなければ国家は成り立たなくなる、また金融も国家が支配する
日本なら日銀だとなる、今不景気なのに株が上がっているのは日銀が民間の会社の株を買っているからである、その額が大きいのである、国家がもともと自由社会なら自由に市場にまかせるのを国家が関与して株を上げているのである
それはいづれ実体と離れたものだから破綻するとされている
もともと生き残ることができない会社を支えていてもそういう会社は破産してゆく
資本主義経済とは自由競争が基本にあるからだ、ただ国家はそれに対立するものとしてある
国家は何かを全面的自由を認めない、規制するものとしてある、安全管理もあり規制する共産主義国家は上からの統制規制の国家体制なのである、だから資本主義とか民主主義とは対立する
国家を経済的側面からみればこうなるがでも国家とはまた別な顔がある
経済だけでは計れないものが国家にある、そしてなぜ国家と国家が対立するのか?
例えば中国だとチベットでもモンゴルでも言葉とか字でも禁止する文化破壊が行われる
それは中国という巨大国家にとって統制するのに邪魔になるからである
日本でも明治維新で東京中心の中央集権国家を作ったときそうだった
方言が国の訛りがいろいろありそれだと意志疎通の生涯になるから東京を中心として標準語を普及させたのである、でも江戸には江戸っ子の言葉があった、その江戸っ子の言葉は方言でもあった、それと標準語は違ったものなのである
国家は自由経済にとっては妨げとなるものである、でも国家を無くすことはできない
なぜなら国家でも人間でも経済だけに生きていないし経済の一単位でもないからである
経済的のみみれば国家がない方がいい、でもそうすると文化でも国の歴史でも破壊されるそして人間の基本的なアイディンティティも失われるのである
そこに経済と文化の問題があり経済だけで国家とか世界を見ることはできない
自由な経済を追及するとその国の文化が破壊される、基本的な食文化でも破壊される
それで食生活が変わって欧米化した結果、ある臓器のガンが増えたとか言われる
それはその国の風土に合わないからそうなったのである
国は長い歴史と風土の中で培われ形成されてきたからである
国体などというときも国と体は一体ともなっているからである
人間は経済ですべてを計ることはできない、ただ国家と民間の対立がある
国家が規制して統制を強めると自由な経済とイノベーションは妨げられて結果的に国家の衰退になる、ただITが発達して国家から巨大化してそれが世界を支配するとまでなる
それで共産党であれアメリカであれ国家側からみれば危機を感じる
またそれに反発するものが生れても当然だとなる
この対立はすでにヨ−ロッパの中世にあったのである
だからこそcivilization(文明)はcivilは市民なのである
でも中国でも日本でも市民とはいうのは存在しなかった、だから文明がないともみれる
いづれにしろ歴史は継続している、中世時代のことでも今と関係して起きているのであるそれで歴史を学ぶことが重要だとなる
ブル ジ ョア ジー と は、 元 来 中世 以 来 の都 市 の 市 民 層 を意 味 して お り、 の ち に商工 業 を発展 させ、封建 的 支 配 に対 抗 しな が ら資 本 主 義 社 会を志 向す る人 々を さす よ うにな り、 さ らに資本主義 の発 展 とと もに、 資 本 主 義 社 会の富 と権 力 の排他 的 な所持 者 と して労 働者階級(プ ロ レタ リア ー ト)と 対 立 す る資本 家 階級 を意 味 す るよ うにな った。そ う した観 点 か ら考 え ると、 確 か に中 世 都 市 の「市民 」 と近 代社 会 の 「市民 」 の間 に連 続性 が存在 し、類 似点 が ない訳 で はな い 。 しか し、そ こに は大 きな転換点 が存 在 して い るよ うに思 わ れ る。
近代 社 会 の 「市 民」(資 本 家階級)の 特 徴 を明 らか にす るため に、彼 らは い っ た い何 を守 ろ うと した のかを明 示 して お く必 要 があ ろ う。 お そ ら く彼 らが 守 ろ うと したの は、国 家 や都市 で はな く、個人 の 「自由」で あ り、 個 人 の 財産 で あ り、 個 人 の 信仰 であ ったの で はな いだ ろ うか。
file:///C:/Users/yuichi/Downloads/BKSF060005.pdf
資本主義社会民主主義社会がこうなるとすると封建領主とかに反発して商業の発達で自治体都市を作った市民社会が形成された、その後も絶対王政とかに反対して市民革命がありフランスで博愛、平等、自由のフランス革命が起きた
それは個人の自由とか権利とかに基づいたものであり個人の自由を守るものとして起きたつまり歴史的にヨ−ロッパでは継続したものとして起きている
権力に支配されるものに反発する、支配する者は税金をとるから反発する
そういう個人の市民の権利を重んじる、だからこそプライバシーを重んじる
国に管理されることを嫌うのである、それで戸籍もない、それはプライバシーの権利だからである、国民を管理するというとき中国ではITを利用してすでに管理している
インタ−ネットでも政府に反抗するものは発言できないのである
政府が検閲しているしそれで逮捕されたものもいる
ともかく歴史的継続としてのヨ−ロッパがありその中心に市民が存在する
それでcivilzationとなっているのだ、中国には共産主義には個人の自由はない、だから
civilzation(文明)はないともなる
ただ現代にも市民というのが存在するのか?
大衆とか国民とかそれも違ったものである、中国だと人民とかなる
そもそも市民とは小都市の市壁に囲まれた中に住む人たちだからである
国民とかなると市民ではない、それは近代になって生まれた概念なのである
社会の変化とともにその言葉の意味も変わるのである
市民というときその概念は日本にはない、領主は藩主は君主は殿様は存在した
その下に農民もいたし町民がいた、ただ町民は市民ではない、それは領主から独立した自治体を形成しなかったからである、ただ農民でも一揆があった
だから領主に反抗することはあった、税金で苦しめられて反抗した
でも市民社会は形成されなかったのである
明治維新でも革命をしたのは侍であり多少町民とかが便乗しても主体は侍だった
日本では市民は存在せず明治維新で天皇の臣民とか国民国家になったのである
ヨ−ロッパだと市民から国民になった、日本にはそういう市民がいないから国民になったのである、ただこの国民は西南戦争で武士の軍と西軍と戦い国民軍が勝利したことで国民となったのである、だから国民を形成するにも戦いがあったとなる
何か新しい時代を作るにはこうして常に戦いがあり変化するとなる
それは権力を持つもの支配者への反抗がありそうなった
そもそも自由は与えられない、こうして歴史的に勝ち取ったものである
そこには犠牲の血も流されたのである
こうした歴史が日本がにはない、それで自由とは何かもわからないのである
民主主義とかもわからないのである、ただ個々の利益を得ることが権利を主張することが民主主義となったのである
だから何か言葉でもその背景に歴史があり歴史的に獲得したものとして言葉がある
だからそもそもcivilzation(文明)が何か日本人は理解しないとなる
日本人は自由のために戦ったという歴史がないからである
だから天皇の臣民とか国民になったのである、ただ国民になる家庭で侍階級と戦ったという歴史はあった、ても国は天皇が頂点にあって国民は臣民だというとき純粋の国民とも違っている、国民というのは近代的概念でありこれまでなかったものである
それで国家とは何かというとき国民が生れて国家が生まれたとなる
国民が生まれたのはここ百年とかくらいであり国民はもともと存在しなかったのである
そうなると国民とは何かとなり国家は何かとなる
例えば国民国家というときなぜ20世紀に国家同士の熾烈な戦争が起きたのか?
それは国民総動員の戦争だったからである、今までは専門の軍人の戦争だった
それが国民全員の戦争となった結果何千万も死んだとなる
そして国民といってもそれは数が多いのだから今度は国民大衆ともなる
それだけ数が多ければそもそもギリシャのボリスとか中世の市民とかの感覚ではない
そこでは市民といっても市壁の中でともに生活する同士となっていた
顔と顔を見合わすような同胞という感覚である
数が多いとそういう感覚がなくなる、つまり現代になると群衆とか大衆とかな共産国家では人民とかなった
そこで大量虐殺が起きたのはなぜかとなると国民国家大衆国家は数が多いからである
これまでの戦争とはまるで違って数が多い、国民総動員の戦争だからである
その国民をまとめるのに力をもったのは報道機関だとなる
ナチスがラジオから生まれたと分析するときそれだけの顔を見合わせこともできない人たちをまとめる知らせるにはもう顔を見合わせるような人達ではないからである
それで宣伝を指揮したゲッベルスが活躍したとなる
現代ではそれが引き継がれている、テレビがマスコミがこれほど力をもったのは日本全国民に知らせたりするのはマスコミだからである
まさにマスを相手にしているのでありボリスの一万くらいの都市とはまるで違っている
中世の都市でもフィレンツとかでも5万くらいとかなのである
その規模の違いがありもう相手にするのは大衆でありその大衆を操作するのはテレビでありマスコミとなったのである、マスコミに出るだけで重要人物のように見られる
その中身は関係ないのである、マスコミにとって都合のいい人が選ばれマスコミにも意志があって意向があって選ばれるだけである
だからyoutubeでは個人が発言しているからここでは大衆を相手にするのとも違う
ただ依然として視聴率をとるのは大衆の娯楽向きなものなのである
大衆というのはモラルを形成しない、中世の市民とかまではモラルを形成した
それは顔を見合わす関係だったからである、侍でも戦争してもただ相手を殺す人ではなかった、そこで武士道が生まれたのも顔を見合わすものとして戦ったからである
大衆とか機械戦争となるとただ人をいかに大量に殺すとかが戦争になる
それがガス室で殺したという時それは家畜を殺すと同じだともなる
それはユダヤ人がそうされたというより大衆というのが生れてそうなったのである
大衆というのはただ数としてあるからだ、それで民主主義もただ数が問題になる
一人一人の顔は見えないのである、カルト教団とかもそうである
そこで毎日一票として数える作業をしているだけである
その一人一人がどんな顔しているのかどんな人間かなど関係ない、数としてカウントされる存在なのである、それは社会全般でそうなっている
数がすべてでありあとは金を集める経済力だとなる
大衆には文化とかモラルとか精神的なものは存在しない、ただ数として存在するだけだからである
政府は国民を馬鹿だと思っているというときもそうである、要するにただ数として見ているだけだからである、議員でも選挙でも一票として数として見ているだけなのである
どれだけ数が多いかですべて決まるからである、内容は必ずしも関係ないのである
大衆に受けなければならないからだ、それで政治と関係ない芸能人でも議員になりやすいということである、大衆に名前が知られているからだ、その人がどういう人かより大衆受けする人かが問題になるのである、だからそこでモラルは形成されないのである
だからこそ大量虐殺が起きて来る、それは共産主義でも同じである
対立するものが戦い大量虐殺が粛清が行われて何千万人と死んだ
人民といってもそれも数であり中国などを見ればわかる、13億人の人民をどうしてまとめるのか?そこではとても民主主義など成り立たないだろう
一万とか五万とかの市民共同体とはまるで違ったものだからである
そこにはcivilization(文明)は存在しない、civil(市民)は存在しないからである
ただマスとしての大衆や群衆や人民であり数としてあるだけなのである