2020年12月13日

冬紅葉忌(母の命日) (人間は死んでも以前として何かが残りつづける)


冬紅葉忌(母の命日)

(人間は死んでも以前として何かが残りつづける)

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冬紅葉の一枚一枚が違っている




我が家や曇りガラスに冬紅葉

師走かな母の命日また忘る


冬紅葉散りてあわれや雨にぬれ墓地の道行く母の命日

我が母の座れる所我が座りその長き歳月偲びけるかも 


母の命日をまた忘れていた、十二日だった、何か母が座っていた場所に今座っている
炬燵がありそこに座っている、その母もここに40年くらい座っていた
その前は古い家であり20年とか座っていた
考えて見れば長い、それで今日曇りガラスに冬紅葉が写っていた
その冬紅葉が母を象徴していた、それで死んだ日を冬紅葉忌としたのである
まさに冬紅葉のようにな一生だったからである

そして師走に死ぬのにふさわしかった、なぜなら一生働き詰めだったからである
大正生まれであり貧乏であり働かざるを得なかった
そして我が家に嫁いでも働き詰めだった、店をしていたからどうしても食事中でも立たざるを得なかった、それが嫌だった
ところが今度は母のしていたことが自分もせざるを得なくなった
食事中に必ず立っている、それが何かたりないものがあったりかたずけたりするものがあり立たざるを得ないのである
意外とだから一人というのはゆっくり食事ができない、これまでは食事は何もしなくても与えられていたからである

何か母は不運だった、実家が事業で失敗して一家離散のようになったとかありその後後妻がきて継母にいじめられたとか不運であり不遇だったのである
自分の家にきても女中のように使われるだけだったのである
ただ母は何か世間にうとく一人で生きられる人間ではなかった
その母の性質を自分は受け継いでいる
だから曇りガラスに冬紅葉が写っているのがなんとも似合わっている

それぞれの家のことはわかりにくい、でも家はやはり物ではない、箱でもない
何かが物としてではなく人間が生きたという何かが残っている
そこに家の重みがある、単なる物ではないのである
60年とかいればそうなる、そこを離れずに何かが残っている
そして自分にそれが受け継がれたのである
自分の性質は母に似ているからそうなったのである
これは墓には感じないのである、ただ家もいつかなくなる、墓は残るという相違はある
ただ依然として母が座って所に母がいるという感覚になる
そこに自分が座っていて感じたのである

俳句は写生である、写生には深い意味がある、ただその意味をくみとることがむずかしいたからこうしてその意味を説明しているのである
俳句は鑑賞する方が相当にその意味をくみ取らないと鑑賞できない芸術なのである
なんか平凡なものに感じてしまうからである

それにしても人間は死んでもすぐ全く何にも残らなくなるとはならない
何かが残っている、特に家には長くいるから何かが残る
ともかくまた母の命日を忘れたのは自分自身が家事に追われているからである
今日も命日だからと花を買ってきたり墓参りしたりした
そして食事の用意をすることが手間なのである、その合間にプログを書く、これは結構忙しいのである、そのために命日を忘れていたのである

ただ師走に母が死んだのはふさわしいとなる、暇なく働いていたからである
それは94才くらいまで働いていたのである
それで花にも興味がなく趣味もなく人間としては無味乾燥にもなったのである
それも時代でありそういう一生を強いられたととなる
ただその母がなお依然としてここにあると感じるのはその歳月が長かったからなのである








金の貸し借りの不思議 (借りた方が優位になる、借りたものは自分のものとも思う)


金の貸し借りの不思議

(借りた方が優位になる、借りたものは自分のものとも思う)

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金を貸したり返したりすることの不思議がある
ここでAがCに金を貸したのだが実際はBが仲介者であり
Aの貸した金はBに一端払われてAに返ってくる構図になっている  

実際はBが金がない、Cは返す能力がある、だからBはCを通じてAから金を借りた
AもBなら金を返してくれると貸したのである
つまりCの信用を通じてBはAから金をCへ借りさせたのである

その借りた金は今度はC⇒B⇒Aと回って返ってくる
これはAとCとの貸し借りなのだがそこに仲介者が入りややこくしなった
何もAとCとのやりとりだけで良かったのである
でもCはBを通じてAから金を借りた結果ややこしくなった

つまりCは金を返す能力がある、Bはない、だからCに頼んで借りたとなる
もしBが直接Aに金を貸してくれと頼んでも貸せない、Bはもともと支払い能力がないからである

もともとはCがAに金を直接借りてBに与えればいいものだった、それがBが仲介者になったことでややこしくなった
ただ金を貸すということは信用がない相手には貸さない
Cは信用があるから貸した、Bは信用がないから貸せないのである
返すあてもないからである

となると金の貸し借りでも信用が大事になる、信用がないものには貸せない
返すあてがないものにも貸せない、金をくれるならいいけど返すことを前提にしていたらそうなる

何か不思議なのはここでBは金を返す信用もない、でもCは信用がある
それでCを通じて借りたとなる
それで不思議なのはCが金を返すからとしてまたAから金を借りる
もともとその金はAのものだった
でも金を貸した結果、AからCへそしてBへと回りややこしくなった

何か金を貸すことは損なのである、金を貸すことはくれるともなる
金は他者に一端与えられるとそれがその人の金のような感覚になる
借りた金でもそうである、物でも借りるとそれが自分のもののような錯覚にもなる

つまり金を借りるのでもまた物を借りるでも借りた方が優位になる
貸す行為は何か貸す方が損になることがある
だから借りた方は金でもそれが自分のもののような錯覚になる
借りたことで所有権が移動した感覚にもなる
それは理屈ではなくそうなるのである
だから金でも借りた方が優位になり貸した方が低姿勢になりなんとか返してくださいと頼むことになる、それができないときは強制するために暴力にまでなる
金を貸すことはそれだけリスクがあるとなる

例えば銀行にあづけた金でもそれが銀行のもののようになる感覚になる
もしタンス預金が危険でも自分で金を所有していればそういうことはないのである
一端他者に金を保管してもらうだけで金が他人のもののようにもなる
実際に借りた金を返さないというのはそういう人間の心理が働いているからだとなる
金を貸したらかえって不利な立場になる、一端借りた金は人は返したくなくなる
借りた金は自分のもののように思うからである

ところが銀行は金を貸すことが商売である、でも金を貸して利子をつけるが金を借りて何か事業でも商売でもしてもうけてれる人がいなければ金は活きてこないのである
それは銀行に貯金しても利子が今はつかないのは金を借りてでももうけくれる人がいないからである

そもそも資本主義は常に投資して利益をだすということを前提にしている
ただ銀行に金があっても何もならない、利益を出さないからだ
今銀行に金をあずけても利子もつかない、するとただ金の安全な保管場所になっている
そうならそうした貸金庫のようなものに銀行はなるだけであり誰でもできるとなる
そこで安全保証すればできる、盗まれた場合などは保険をかけるとかになる

ともかく金を貸すことが優位になるようでそうではない、なぜなら貸した金を返さない人がいると取り立てるためにものすごく苦労する
遂には暴力でとりたてるほかなくなる、それが犯罪人にされてしまうのである
だから一概にサラ金とか消費者金融とかが悪者にされるが貸した方にすれば貸した金を利子をつけて返してほしいとなるだけである、それは約束だからである
まず親しい仲とか友達同士だと金の貸し借りがあるともう返してもらうことはできなくなる、法的な縛りもないし裁判にするのもめんどうになるからである
金をくれるならいいが金の貸し借りはしない方がいいというのはそのためである

posted by 老鶯 at 11:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題