2020年12月18日

権利と責任 (権利を得るものには責任が課せられる)


権利と責任

(権利を得るものには責任が課せられる)

権利というとき利を得るものとしての権利である、でも明治時代に翻訳したとき権理となっていたのである、なんらかのリーズンがあって権利を得るとなっていた
これの方が正しい訳だったともなる、権利はrightでもある、正しさである
でも現実はただ権利となった、利を得るためのものでありその利を得て独占するための権利となる
民主主義でも権利を主張するのは正しいことであり推奨された
とにかくあらゆる人が団体が組織が権利を社会に向かって主張する
それが庶民でもそうなのである、生活保護者でも執拗に権利を主張する、生活保護者でも権利者だからである、もちろんそれを全部は否定できない、でも何か権利ばかりを主張する社会になったのである

原発事故でもそうだった、船主のことを再三追求して来たがこれがわかりやすいからそうなった、漁業権といんう権利を漁師は漁業組合は持っていた
それが権利であり主張できる、それで事故前でも東電から多額の補償金をもらっていたのである、、漁業権を東電に売ったともなるからである
でも漁業権の権利は魚の資源保護とかが目的であり理由なのである
それならもともと原発は海を汚染することがあるから慎重になるべきだったということがある、でも権利となり利が優先されて東電に漁業権を売りわたして金を得ることになったその補償金は事故前でも大きなものだったのである、それで原発御殿が建ったとか周りからうらやましがられていたのである

ところが原発事故で責められることになった、なんで東電などに漁業権を売ったのだ許可したのだとなる、その責任はどうするのだとなった
ただそのことをあからさまに言う人はいない、地元でもいない
ただここでは確かに権利の利を得るためにそうなった、でも今になってその責任が追及された、つまり権利には責任がつきまとっていた
もし権理となっていたらその利を得るにしてもそこに理由があるとなる
その理由は魚とか海産物資源の保護だったのである
もしそうなら簡単に金になる利になるからと漁業権を売りわたすとか許可することはなかったとなる
ただその責任をまねがれるには漁業権でも漁師とかだけのものではない、自治体全体のものとして協議していればそうはならなかった、責任が分散されたのである
でもそうなるとどうしても漁師だけの権利ではなくなり利益を得られなくなるからそうしなかったのである

ただこれこはあくまでも一例でありこういうことは本当に多いのである
どんな人でもとにかく利益を得ればいいとなる、その理由を必ずしも考えない
そんな例はこの世でいくらでもある、利を得るためには不正をしているのが普通だからである
ただ何かの権利を得ることは必ず責任が課せられることになる
この責任の部分が権利からぬけおちているのである、民主主義だととにかく組織でも団体でも権利を主張する、また自由社会だととにかく自由だとなり権利を主張する
だから極端になれば暴力団でも権利があるとして団体で主張したりする
それが今の社会であり漁業権とかはその一つの例なのである

例えば自分の一身上のことだが親戚の人が母の実家の墓を300万円もらって墓を守ってくれとその家系の長男が遺言して死んだ
そうなるとどうなるのか?確かに3百万円もらったからいいと普通なら考える
だからこそ3百万もらったのである
その親戚はもう人間でもなくなっていた、情もなにもない非情な人間になっていた
だから育ての親が病気のときも放っておきその母親は「ひどい娘だわ」と私に電話をして死んだのである、私の家とは疎遠であり付き合いもなかったが自分に余程悔しかったのか電話して死んだのである

そういう人がどうして墓を守ることができるのか?
恨んで死んだ人の墓参りとかでもできるだろうか?
確かに権利として金を得た、でもそこには大きな責任があった
墓など墓参りしなくてもいいということはある、何もしなくてもいいとはなる
でも何か墓参りして供養しないと気味悪いということもある
別に墓を捨ててもいい、現実にそうなる、でも金を得たとしてもそこには責任がつきまとう、それはあらゆることでそうなのである
金を得ることはすべて無条件でいいともならないのである
金には責任が課せられているのだ、それずドラマで金をもらったからと殺人に加担したとなる、その理由は金をもらったからだとしている
金は具体的な責任なのである、だから金さえもらえればいいとはならないのである
でも現実社会では金をもらえばいい、そのためには権利を主張しろというのが民主主義になったのである

こういう例など山ほどあり日常茶判事である、弁護士すらそうだった
交通事故のことで相談に行ったら何もしないのに相談だけで百万払いとなった
それを自分の家で親戚に頼んだ、その人が弁護士を知っているから頼んだとなる
でも相談料だけで百万とることはありえない、でもその人は世間のことがわからず
私の家で払うことになったのである、でもそれは交通事故の賠償金から払ったとなる
そこに自分の家の手落ちもあったとなる
ただ相談するだけで百万をとることはありえないのである
まずそんな権利がありえない、弁護士ならそういうことがわかっていても金を得るためにそうしたのである、たから弁護士自体が利のみで動いているともなる
それがこの世だと言えばそうなる

とにかく権利を主張するのはいい、でもそこには責任が課せられている、でもその責任は無視するのである、それで後で痛い目にあうことになる
それは戦争でもいい、国民がみんな賛成して戦争するのもいい、でもその責任は国民に課せられる、実際に三百万人が死に地獄の苦しみを受けて死んだからだ
戦争するならただ勝つだけを言う、でも負けたら悲惨な結果になる、その責任は甚大なものになった、それで天皇まで責任をとれとなった、広島に行ったらそのことを追及されたのである
地位が高いということはまた責任も重大になる、東電でも事故になったらその責任を追及されたからである、でも実際は原発事故では責任を誰もとっていないのである

「安全神話」を作り安全だというのはいい、でもその責任をとれるのか?
責任問題がここにもあった、人間は必ず責任を課せられている、責任から逃れられないのが人間なのである、それで赤ん坊が泣いて生まれてくるのはその生れたことで責任が課せられているからだというのもわかる
責任がないような人でも何もしなくても責任が問われる、存在していること自体責任が問われる、原発事故ではそこの住民も責任を問われた
その責任は現実に故郷に住めなくなったことなのである、これは大きな責任を押し付けられたとなる、ただその前に原発を誘致した責任が住民にもあったからだ
それを拒否することもできたが誰一人としてしなかった、ただ利にあればいいとしていたからである

小高の大工さんが小高に原発ができると景気良くなるとしか言わなかった
その人は何か大工の腕が良くても利しか考えない人だった、金になるなら何でもする人だった、それはみんな同じである、そこに大きな責任があることは考えないのである
でも必ず責任をとらされるのである
誰かが責任をとらされる、戦争だと国民が三百万人死ぬことで責任をとらされたのである原発事故では故郷にすめなくなるということで責任をとらされた
その責任は飯館村などは関係なかったがやはりその責任は波及してそうなった
これほど広範囲に放射線の影響があると思わなかったからである

とにかく権利を主張するのはいい、でもその権利には責任が課せられている、権利を得ることによって責任が課せられる、その責任は重いものになる
もしその責任のことを権利を得る時自覚していたら簡単に権利を主張することもないとなる、でもそれが意識できない、権利を得て利権を得て得をすることしか考えないのであるつまり日本では民主主義とは各自が権利を追及してまた組織団体が権利を主張して利権を得ることなのである、そこに責任があるのだがそれを意識しないのである
ただその結果として必ず責任を課せられる、その責任から逃れられないのである
だからもしその責任を自覚するなら権利を主張するのもいいのである
でもそういうことがなくただ権利だけを主張するとあとで重い責任を課せられて責任をとらされる

戦争だ、アメリカをうちのめせ、その時誰も三百万人が死ぬことをイメージした人は一人もいなかった、原発事故でも故郷に住めなくなるということをイメージした人は一人もいなかった、でも必ず権利を主張しても責任を誰かがとらされる
東電の幹部は責任をとっていないが住民はと故郷に住めなくなる責任をとらされたのである、何かここに民主主義がただ権利を主張するものであり責任と表裏一体なことを意識していないのである
高い地位につくことはそれだけ大きな責任が課せられる、だからその責任をとれないから辞退する人もいるだろう、そんな重い責任を引き受けることができないともなる

権利を主張するのはいい、でも責任から逃れられない

権利と責任は一体なのである、権利だけを得ることはできない、必ず責任が問われる
そして現実に責任を誰かがとらされるのがこの世である
だから何を主張してもいい、また集団で何を主張していもいい、でも責任は確実にとらされる、集団でも個々人でもとらされる、ただ集団はみんなで赤信号渡ればいいとかなり無責任になる、集団は責任を自覚しにくい、みんながしているから正しいとなるからだ
でもその集団でもその中の人間でも確実に責任をとらされる
オウムがそうだった、死刑にされたことでもわかる、その時後悔したが時すでに遅しとなっていたのである

そういうことは他のカルト教団にもある、いづれは責任を問われる、そもそもこの世自体が罪の世でありその罪が暴かれて責任が問われる、罰せられるともなる
最後の審判があるというのもそのためである
ただそれを自覚している人はいないのである、でも確実に責任はとらされる、それが罰せられるともなる、そういうことが原発事故でもあったしこの社会全体が必ず罰せられるとなる、つまり行為がカルマでありその行為についての責任をとらされるのが人間なのである、そのカルマから責任から逃れることができないのである
だから赤ん坊が泣いて生まれるのはそのためだとなる、この世に生まれたこと自体すでに責任を課せられ責任をとらされるからそうなる
何もしなくても存在するだけで責任を課せられとらされるのが人間だとなるからだ
「俺には責任がない」こう言ってもなんらか必ず責任があり責任をとらされるのが人間なのである 

マスコミは報道ということで大きな責任がある、なぜなら政権の行方でも左右することがあるからだ、世論を作るのはマスコミだとしているからだ
それで最近NHKが批判される、その影響が余りにも大きいからである
NHK様の言うことなら正しいとまでなっているからだ、そして報道する権利というのはマスコミにしかなかったからだ、テレビなら六局した放送する権利かなかったからだ
それで権利を得たのだがそこには重い責任が課せられていたのである
つまり国家の運命さえ握っていたともなるからだ、報道によって国家の運命を左右するとなればその責任は余りにも重すぎだのである、それで戦前は朝日新聞は一番戦争をあおったのである、その頃テレビがないから新聞が大きな力をもち国民を戦争にあおったのである 

つまり報道をすることはそれだけの重い責任があったとなる
それだけの影響力があったからそうなった、でもインタ−ネットが生れてそうした六局支配のマスコミとかに反抗できるyoutubeが現れたとなる
それは個人でも放送局になっているからだ、プログだってほとんど無料でできる
写真をも出せるから意外とこんなメデアでも表現できる幅が大きいということに感心したのである、ただ読む人が少ないからその影響力はわずかだとなる
でも有名な人だとそれなりに影響力を持つようになったのである

ただすでに何でもいい発言することには今度は責任が課せられる、誹謗中傷するのもいいネットではしやすい、でも今度はネットの発言でもセキニンか課せられる
その発言でも責任をもち責任がとらされる時代になる
何であれ責任から逃れられないのが人間なのである

ivilization(文明)の意味 (封建制から市民社会へ、貨幣経済が自由を生んだ)


civilization(文明)の意味

(封建制から市民社会へ、貨幣経済が自由を生んだ)

ここでの「封土(ほうど)」は「領地」と言い換えることもできるのですが,それには「土地」だけではなく,そこに住む「農民」も含まれていたことに注目することが大切です。
言い換えれば,先に述べた「主君」も「家臣」も,領地・領民をもつ「(荘園)領主」だったわけです。「領主」は,「荘園」(農民も含む領地)を所有し,農民( =移動の自由などを持たない「農奴」)にさまざまな形での地代や税(収穫物や労働など)を強要し,それによって生活していました。

貨幣経済が浸透してくると,従来のような物々交換は敬遠され,できるだけ貨幣を使っての取引が求められるようになっていきます。多くの貨幣が必要となった領主たちは,地代(農民に土地を使わせるかわりに,農民に支払わせる代償)としても,貨幣を要求するようになります。
そうすると農民は,自分たちが作った農作物を市場に持って行って売り,その代金の一部を領主に支払うようになります。その一方,余った分の貨幣は,自分のところに貯めておくようになりました。腐ってしまう農作物と違い,貨幣ならば蓄えておくことができたのです。

封建制とは封土というように土地と農民を基盤にした支配システムである
それは日本でも江戸時代は土地から主に米を基本にした経済であり税は米で納めるし米が貨幣の役割りを果たしていた、石高が収入の基準になっていた
土地が基本ということは農業社会である、だから農業にとって土地が富を産み出すものだったのである
だからこそ農民は土地にしばりつけられて移動の自由もなかったのである
領主によって移動の自由を制限されたともなる、なぜなら土地にしばりつけてそこから税を納めさせるシステムだからである、それでヨ−ロッパでは農奴とされたのである

その封建制が崩れたのが貨幣経済の浸透だということは興味深い
貨幣経済が普及するには商業とかの発達が必然的にありそうなった
それまでは物納だったからである、日本だったら米で納税していたからである
農民が農作物を市場に出したということは農業でも商業化したことなのである
市場化が封建制を崩壊させる契機となったということは特筆すべきである
なぜなら市場がなければ貨幣経済は発展しないからである
あらゆるものが市場で取引されるとき貨幣が必要であり貨幣経済が発展するからだ

そしてなぜヨ−ロッパでは都市が形成されたのか?
今でもシテズンシップが言われる、ヨ−ロッパ文明がcivilizationというときcivilは
市民のことなのである、市民社会が形成されてcivilizationが生まれた
だからここが日本人には理解できないのである
そもそも市民がいないからである、日本は封建制があり江戸時代300年つづいた
それが明治維新でヨ−ロッパ文明に習った、でもその文明を取り入れたとはならない
なぜなら日本には肝心のcivilizationの市民がいないからである

では市民とは何なのか?それは土地に縛り付けられた封建制から脱した市民の共同体ということである
それは市民とはブルジュアともいわれ市壁によって囲まれた中に住んでいた共同体の住人だったのである、そこには封建制の土地に縛り付けられた農奴はいないのである
だから都市は自由にするというとき土地に縛り付けられた農奴とは違った自由があるということになる
日本でも江戸時代は土地に縛り付けられて関所がありその領主の支配地域から出ることができなかったからである
それで相馬藩で飢饉になったとき越中とか越後とか日本海側から土地を得られるとして来た移民がいた、でもそれは命がけの移動だった、なぜなら藩から出ることは禁止されていたからである、移動の自由がない社会だったからである

移動するという時商業だと物を売ったり買ったりすることで常に移動する、遠くまでも移動する、商人は自由に行き来できなければ成り立たない、また交通が発達しないと自由に移動しにくい、でもヨ−ロッパとか中国は広いとしても川が道になっていたのである
川で都市と都市は結ばれていた、ヨ−ロッパとか大陸の川は運河と同じである
日本がの様な川と違って流れが運河のように穏やかだからである

それで都市は封建領主が独立したものとなり商業で自立するようになった、そこには商工業もあり都市は土地に縛り付けられた農業から脱した世界となり都市には自由があるとなった、そこで商人のネットワークができてハンザ同盟とかが結ばれる
それは領主とかから脱した自由な商人の結合でありその範囲は広くなるのである
広域ネットワークが生まれたのである

不思議にこのことを歴史をふりかえるとグロ−バル化を批判してきたがまず貨幣経済と商業が発展することは封建制を崩壊させたのでありヒト、モノが自由に行き来する社会を作ったのである、それは現代のグロ−バル化社会に通じていた
世界的にヒト、モノが自由に往来する社会である、そして貨幣経済が発展してかえって
そうした貨幣経済が金融によって世界が支配されて弊害が生まれた、ドルが世界の金となるとき結局それはアメリカが利する世界だからである
アメリカが覇権国になっているゆえにそうなったのである

でも本来は貨幣経済が悪いというものではない、貨幣経済は封建制を破るものとしても機能したからである、商業とか工業が発展すると封建制も自ずと崩壊してゆくのである
グロ−バル化社会というのはま、た多国籍企業となり国というものまでも無視することになる、国はかつての封建制のように国土に縛り付けるものと見るからである
その国を越えて自由に貿易でも企業でも活動できることで成り立つからである
多国籍企業にとって国は必要ないのである、国の縛りがあると自由に活動できないからである

でも人間にとって国を無くすことはできない、なぜなら国のアイディンティティは歴史とか風土とかなりたち文化がありその一体感は経済だけで考えるのは間違っているからだ
グロ−バル経済でもだからアメリカでも中国と貿易とか経済に重きを置けば対立することは得策ではないとなる、でもアメリカにとっては覇権が失われるとなり対立して戦争にまで発展するとなる、だからいくら経済中心にしても国の障壁をなくすことはできない
人間は経済だけで生きるものではないからである

でも何か歴史をふりかえるとグロ−バル経済でもそれはすでに中世からはじまっていたのである、それはヨ−ロッパの一部にしても世界的に広がったのが現代だとなる
ヒト,モノが自由に移動する社会というのは人間がもともと望むことだったからである
ただその弊害が大きくなったのが現代のグロ−バル化経済だった
コロナウィルスというのもグロ−バル化の弊害として現れたともなる
これだけ人が国内であれ世界であれ行き来するときもう感染拡大は避けられないのであるヒト、モノの自由な移動を止められない、止めると経済がとまりそれで死ぬ人さえでてくる、そういうふうに社会がなってしまったからである
つまりコロナウィルスはそうしたヒト、モノの自由な移動を止めたのである
だからヒト、モノの自由な移動にはやはり限界があったとなる

ヒト、モノとか技術の自由な移動には問題があった、原発とか食料でもその風土に見合ったものが必要であった、原発は地震とか津浪がある日本には向いていなかった
食料でも欧米化して日本人に悪影響したものがある、あくにガンが増えたのは食事の欧米化にあったとされているからだ
つまり日本人は肉食民族ではなく魚と穀物中心の食生活でありそれで腸も長くなった
欧米は肉食でありそれで肉を消化する酵素がでるというのもそうである
体質が肉食に適したものとして長年の生活で作られてきたからである

いづれにしろグロ−バル化社会というのは人間が自由を求めてきて生まれたものでありそれはすでにヨ−ロッパの中世から始まっていたのである
でもそれがグロ−バル化世界化したとき問題が生まれた、全面的にヒト、モノの自由な移動が必ずしもいいものとして働かなかったことである
その弊害が世界的に現れてきたのである、貨幣経済が確かに封建制を崩壊するものとてし働いた、でも今貨幣経済は金融は実体経済とも離れ金融は国際資本家によって支配されているとかなった、金融を操作してるだけで莫大な富を得ているとかなる
アメリカでは数パーセントの人がアメリカの富の50パーセントを得ているとか格差社会になったとかいろいろ弊害が顕著になったのである
こういう時コロナウィルスが蔓延しているのも時代なのかとなる