2020年12月22日

原町の道の駅の冬の公園(写真と俳句10句) (写生俳句と写真と俳句(写俳)は新しい芸術)

         
原町の道の駅の冬の公園(写真と俳句10句)

(写生俳句と写真と俳句(写俳)は新しい芸術)

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ここになお十年すぎても津波の痕跡を残している
後ろに家が残っている山の陰になっていて海がすぐ近くでも
この山に直接津波が来ないために残ったと見る
津浪に直撃された所は全滅したからである
この家は津波の前からあったのか?
もしあったとしたらこの山に遮られて助かったとなる

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この木がなんともいのである
写真にとっていい木だと見るようになったのである


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原町の道の駅の公園-クリック拡大

偶然子供連れの親子が写っていた
何かこれも写生でありそこに意味が生れている
根っこがあり親子がある、この根っこは祖父母とかにもなる
写生俳句は写真と相性がいいのだ
それでよりリアルに感じるのである

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新田川

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クリック拡大-真野川


寒雲の長く棚引き田舎町                      

枯芒津波に残る木の二本

原町の郊外広く冬野かな

五六本根付き支え合う冬樹かな

冬の樹々ゴシック聖堂の柱に見ゆ

冬日さし二つの根っこ親子行く

冬日さし石いくつかや動かざる

soma stons
stillness
sunny light
in winter

枯草に石いくつかやもの言わじ

鴨一羽寒雲映す川面かな  

枯菊を見ずして去りぬ車かな  

冬日さし濯物干し庭に石    



今日はそれほど寒くないから原町の方に行った、道の駅をまわり隣の公園を回った
原町の道の駅は相馬市の道の駅とは相当に違う、街の中にあるからだ
相馬市は回りがみんな田んぼになっている、そこは大きな相違である

原町の道の駅だと回りが街だから買い物もできるとかいろいろ用事もたせる
便利な場所にある、そして公園が隣にありあそこも憩いの場所となっている
それから近くに大きな公園がありそこにテニスコートなどがあり新田川がある
そして桜井古墳がある、何か道の駅中心にして歴史的なものもありまた現代の街もある
あそこは鹿島からも近いのでいいのである

道の駅には見るものもないが石がいくつかある
そこに冬の日がさしていた、何もないのだけどそれが禅寺の庭なのである
石は冬日さしてあたためられている感じになる
そして動かない、それは老人にも似ている、老人はじっとしていることが多くなるからだただ庭としてものたりないのである
何かいい庭を見ることはこの辺ではできない
ともかく自分は石に惹かれるのである

俳句を外国人が理解するのは相当にむずかしい、あまりにも短いからである
英訳したとしてそれが詩なのかとなってしまうからである
英語とか外国語にすると長くして説明したようにしないと理解されないだろう
だから外国人で俳句を作っても違ったものになっている
そして季語というのがわかりにくいから余計に作ることがむずかしくなる

とにかく俳句は写生である

冬日さし濯物干し庭に石  

これも見たままである、隣の家の庭の写真である、良く見えないが平たい大きな石があるこれはただ日常の風景である、でも何かその風景でも写生となり何かを現している
それを原発事故の避難区域の街の空家の庭を見た時、そこに人が住んでいないから庭の石まで死んだよう感じたからである、そこに生活があって庭の石も活きているとなるからだ
写真はやはり芸術なのである、あまり写真はとっても記録として撮っていた

今は写真を絵のように芸術的に見ようとしている
写真に芸術を追及している、公園の木が五六本ありカメラに撮ったらそれが違ったように見えた、ゴシック聖堂の柱のようにも見えた、そして互いに支え合うようにも見えた
それは写真を見て感じたのである、実際の木を肉眼で見た時は感じなかったのである
だから写真は芸術である、ただ記録写真のようなものもありそれは芸術とはならないだろう、でも記録写真でも貴重なものがある、ただ記録と芸術の相違が何かなのかともなる









冬の鴨、年の暮(今年も終わりとなる)


冬の鴨、年の暮(今年も終わりとなる)

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冬の鴨寄り合い三羽橋の下

塵つかず石により咲く冬薔薇

寒鳥の今日も叫びて餌求む

何かあれ根っこ一つや冬の暮

親残す家あり幸い冬籠もる

我が家や遺影に向かい年の暮


俳句は本当に写生だと思う、冬の鴨がいつも通る橋の下にいた、それも三羽である
それがなんとも心にしみた、買い物に行くだけで風が吹いたし寒いからである
この句は何も飾るものがない、見たままである
だから普通だとこんなものが俳句になるのかと見る
でもそこに写生の奥深さがある、奇をてらうことではない、平凡でもありのままに心打つものがある、事実は小説より奇なりともある
歴史は事実であり事実の重みがある、それは偽ることができない
ただドラマになると脚色されるから事実が見えなくなる
それでドラマと歴史の真実は分けるべきだとなる

寒鳥とは金のない人でもある、金をせびりにくる、また三羽の冬の鴨とはまた人間なのである、何かそこに寄り合う鴨がいる、それが心にしみる
今は何か豊かであり貧乏がわからなくなった、でも日本は貧困化している
だから水道,ガス、電気がとめられる、それも毎月なのである
ただ今の貧困は豊かさを経験した豊かさの中の貧困である
物はありあまるほどある、貧しい時は物もないのである
そうなるとこれだけ物があふれていても買えないという苦しさがかえってあるとなる
また今は貧困は見えないのである
現実に老人でもゲートボールを毎日している人は貧乏ではない、余裕があるからしている貧乏な人が今は見えにくいのである、だからわからないともなる

ともかく今年も終わりである、今年はコロナウィルスで明け暮れた、ヤクルトの女性が二週間くらい配達できないときがあるかもしれないと連絡した
それは福島市に工場があるからだ、福島市は医療崩壊になるとか放送しているからだ
福島市でクラスターがあり増えたからである
これも困ったことである、とにかく外出がしにくい、ただ私は本当に遠くに行かない
ここ十年介護になってから旅もしない、近間を回るだけである
それで写真にこるようになった、近間でも絵になる写真になる場所があると思った
要するに人間は近間でも良く見ていないのである
近間でも発見していないのである、だからいい写真を撮ろうとするとき近間でも見直すことになる,カメラは人間の眼で見えないものを映すからである