2020年12月26日

嫁となることの意味―天皇家の結婚問題 (家の女となり家を継ぐこと)


嫁となることの意味―天皇家の結婚問題

(家の女となり家を継ぐこと) 

「秋篠宮家の“自由を重んじる家風”が槍玉にあげられているのです。そもそも皇嗣殿下は30年ほど前、皇室で初めての“自由恋愛”で紀子さまと結ばれた。自らの経験を振り返ると、眞子さまを強く説得できなかったのかもしれません。妹の佳子さまが大学卒業の際、『姉の希望が叶う形に』と結婚を後押しする文書を出したことも火に油を注ぎました」(宮内庁担当記者)

嫁という字に意味がある、嫁と女であり女と家が一体化することである
つまり嫁となることは男女が恋愛して愛しあうということとかではない
嫁ぐとは嫁いだ先の家と一体化することである
そして家には歴史がある、建築としてモノとして作られたものがありまたその家で営まれる時間があって家がある
それぞれの家に歴史がある

それで勘違いしているのは嫁ぐということは家に嫁ぐのであり結婚相手の男性とはならない、家という歴史とまたその家族とも親戚とも縁を結びその一員になることである
そこで天皇家とかなると簡単に好きだからとかで相手を選び結婚できない
つまり家と家の結婚となるからだ、もともと日本では家と家の結婚であり…家と・・・家の結婚だったのである
その方が離婚も少なかったというのは家と家の結婚だったからである

天皇家ともなるとどうしても相手の家を選ばざるを得ないのである、自由恋愛ではできない、家と家の結婚になるからだ、そして必ず怖いのは家にはどんな家でも何らかカルマを積んでいる、いいカルマもあるし悪いカルマもある
それを必ず受けるから今の時点だけでも選べないのである、結婚は離婚とならない限り未来につづくからである
そして60以降積もり積もったカルマが苦しみとなって現れるのである
それはカルマの法則である

天皇家に嫁ぐとなればまず私的なものはエゴは許されないともなる、自由恋愛とかありえないのである、なぜなら天皇家とは国の家だからである
そこが乱れると国家が乱れるとまでなるからである
だから私的な感情が出せないともなる、天皇家とは公(おおやけ)であり公共的なものとしてあるからだ、プライベートなものが許されない存在だともなる

何か本当にカルマは怖い、何かしら家が乱れる時カルマが関係している
カルマが必ず現れて苦しむとなる、考えてみると秋篠宮自体が自由恋愛結婚だった
そしたら今になってそのカルマが現れたとなる
自らがそうして結婚したのに子供にそうするなと言えないとかなり苦悩しているのであるそれが別に庶民だったらかまわなかったのである
つまり自分たちの特別な存在を無視したことがカルマとなって現れたのである

ただその家のカルマを一身に背負うのは長男と長女である
これはもう逃れられないのである、いいにしろ悪いにしろそうなる
一見恵まれているようでもそうでもない、それだけ責任が課せられていることでもあるからだ

カルマを考える時、なぜあの人はおかしくなったのか、曲がった人になったのか?
それを考えるとその人は男性でも女性の家に婿養子に入った感覚になっていた
それでその家の家風に染まったためなのかとも見る
それぞれの家に家風がありそれに自ずと染まってしまうのである
もちろんいい家風に染まるということもある、でも悪い家風にも染まるのである
結果的に悪い家風に染まり事業にも失敗したのかともみる
事業というのは一人ではできない、家族全員が関係してくるからである
すると家風も関係してくるからである

ともかく家の謎は深い、家は一時的に消費してしまうようなものではない
家と土地はまた深く結びついている、家は高い買い物であり家は買わない方がいいというのもある、都会ではそうなりやすい、都会にはそうして土着的志向がないからである
ただ家とは一時的に飲食して寝るだけの空間になってしまう
でも家はそれだけの存在ではない、人間が生きる根源的な場所ともなる
だから死んでも嫁いだ女性が生き続けているということで母のことを思い出して書いたのである   

いづれにしろ天皇家となると日本人の始祖ともなりその歴史が考えられないほど長い
となると普通の人ではイメージもできないものとして家が継続されたのである
それより国家が天皇家に継続されたともなる
天皇家は日本がの歴史そのものでもある、そうなるとそういう家をイメージすることができなくなる、その重みは普通の家とはあまりにも違ったものだからである
だから普通の感覚では計り知れないものがあり法律的にもそうだしそこで天皇家でも日本国民の一人であり同じように扱うべきだとはならないのである 

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死んだ母のなお家にいる不思議


posted by 老鶯 at 18:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

枯木、冬の月、年の暮 (死んだ母のなお家にいる不思議ー詩)


枯木、冬の月、年の暮

(死んだ母のなお家にいる不思議ー詩)

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清浄の庭に月光寒夜かな

玄関に冬紅葉散り月の光

石に散る木の葉や安らぐ我が庭に

誰が訪うや玄関に散る冬紅葉

我が家に一人母想い年の暮


冬の薔薇なお一輪の咲くを見ゆ風のうなるや我が家にあり し

百才の生きにし母のここにいし玄関の戸に映る枯木見ゆかな    


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母の座っていた場所

母はそこにいつも座っていた
目立たない母だった
母はいつも寡黙にそこに座っていた
店をしていたときもその後もそこに座っていた
私はその隣にいつもいた
そうして長い歳月がすぎた
母のいることを私は心にとめなかった
いつもただ母は隣に座っていたのである
そうして死んでいなくなって
そこに私が座っていると
不思議に私が母になっていたのだ
玄関の曇りガラスに冬紅葉が写っている
そして散って枯木が写っている
私は母の座った場所に座り
その玄関を見ている
とにかく不思議は私が母の座っている場所に座り
私自身が母になっていたこと
人間の存在は死んでも消えない
誰かに受け継がれ活きてゆく
家の重みがそこにある
もしここに新しい人が住んでも
その存在は受け継がれない
70年以上も一緒にいたから一体化していた
それが家族というものである



何か家のこととか家族のことを書いてきたけどそれは家というのがただの建物ではなく
何か人間の根源的存在となっているからだともなる
そこで70年も一緒にいたことがただの建物だとなっていない
ただ親子でも家族でも離れ離れに暮らしていればそうはならない
やはり長く一緒に暮らしていたことが特別な想いになっている
それでも母の場合、生きている時は意識もしなかったのである
空気のようなものになっていた、でも一旦消えると不思議にその人を思うのである

庭という時、家庭というように庭と家は一体である、それで石がありそこに木の葉が散るそれを見守る、それはまるで家で看取るとかにも通じている
つまり家で死ぬのが幸せだとなる、ただその家でも親身になって介護する人がいればだとなる

ともかく家とはそこに住んでいた人がなおいる、長く一緒にいればそうなる
簡単に人は死んでも消えないということである、百年も生きた母であった
でも70年は自分の家で暮らしていたのである
その長さが影響している、なぜなら妻をもったり子供をもったらそうはならない
心は妻とか子供に向けられるからである
自分の場合は姉と母と長く一緒にいたことで違っていたのである
ただ母のことは生きているときは意識しなかったのである
性格的に内気であり目立たない人だったからである

いづれにしろ今年も終わる、家の修理するのも今年になるか、来年になるか、
この家の修理もこれまでも金がかかっていた、だから家を維持することは結構金がかかるでも何か家というのは物だけではない、そこで家族が暮らした歳月がありそれは簡単に消えない、そこに価値があるとなる、それは金銭的価値に換えられない
思い出とかはもう簡単に作れない、なぜなら思い出となるには時間がかかる
そしてその思い出となる時間がもう老人になると作れない
それで老人は記憶に生きるようになるからだ