2020年12月28日

子が親を捨てる時代 (老人は病人でも捨てられる、その覚悟も必要な時代?)


子が親を捨てる時代

(老人は病人でも捨てられる、その覚悟も必要な時代?)

団塊の世代は、定年後に10年以上も親の面倒を見なければならない、最初の世代となるでしょう。だからこそ何を選び、何を捨てていくかを真剣に考えなければならない。我々は今、まったく新しい問題に直面しているのです」

定年が60だとするとそれから十年ある、また65だとすると75になる
この時間は長い、つまり十年の時間が親の介護に奪われるということになる
それがなぜ問題なのか?それを自分自身の介護で理解した

会社員として働いた人と自分のように気ままに旅ばかりしていた人の相違だったのである会社員として60まででも長く働いた人は会社を退職したということは一つの大きな人生の区切りなのである、そして何か今までしていなかったことをしたい
自由な時間を得てしたいとなる
それを親の介護でその時間を奪われることが苦痛になる
その時間は貴重な最後の人生の時間ともなるからだ   

ただ事情はそれぞれ違っている、私の場合は親は自由にさせてくれた、もともと集団生活とか規則とかになじめなかった、だから自分は会社員としても勤めることができない
でも親に恵まれて引きこもりであれ束縛がない状態で引きこもりでも30年過ごしていたのである、普通だったら働けとか言われ親に殺された人までいる
自分に関してはそういうことはなかったのである

だから親の介護になったとき自然と懸命にした、それは当然のことだったのである
もちろん嫌でもあったがしたくないということもあったがそれは自分をこれほど自由に生きさせてくれたのだから恩返しと自ずとなったのである
でも会社員とか夫婦とかなると妻に親の介護させるとかなると簡単にできない
姑としていじめられたとかなれば余計にそうである
やはり介護となると本根が必ずでる、隠せないのである
人間は絶対に本根を隠せない、どこかで現れる
その時、人間の本性に本当に驚く、そこに愛がない人は露骨に行為として現れる
子でも親は介護となったとき苦しいから捨てる

いづれにしろ高齢化社会では本当にもう子が親を捨てるなど当たり前になる
それが非情でもなんでもない、もう老親のめんどうを金銭的にもまた労力がかかるから見れない、医療でももう延命治療などしない、病院では老人を生かさない、死なせるのが普通になっているという、もう老人に労力を注げないのである
数も多いし経済的負担ももう増えるばかりで今までのような治療はできない
つまり子は親を捨てる、それが非情でもない、世間でもそれを責めない社会になる
その苦労が並大抵でないことを知るようになったからである

ただそれぞれ家族には事情がありそれで違ってくる
近くの夫婦の妻は最近突然死んだ、78才であった、夫は83才くらいである
でも心臓病であり機械を入れていたり脚も悪いという
これまでは妻がなんでもしてくれた、今はしてくれないからゴミなげをしたり買い物するのも大変だと言っていた
そもそもその妻は看護師だったのである、すると夫の病気の世話もできていたのである
でも息子夫婦と一緒に生活していても食事でも何でも別々にしていた
だからまともな体でないのに家事を一人でするのは大変になったのである
つまり家族と一緒に生活していてもみんな一緒ともならない、孤立している場合がある
同じ屋根の下にいてもそうなのである

ただこうしてそういう老人が本当に増えてゆく、家族があっても同じ屋根の下にいても孤立する老人でありやがて子供に捨てられる老人ともなる
また社会的にも老人がふえすぎる、そして何かしら病気をもつのが老人である
仙台市に行きそれも市内からさらに一時間とか離れた場所に行くとかいうのも贅沢である腰が悪いとしてもそうである、金もないのに行こうとしている
その女性は医者通いが仕事のようになっている、こういう人も老人には本当に多いのである、ある人は病気の治療に毎月3万かかっているとかいう
回りをみても脳卒中で足を悪くなったとか一人暮らしの同年代の人もいる
何かしら病気をもつようになる、これから団塊の世代が2025年に介護が増えて来る
これももう増えすぎて限界になるからもう介護したり病院でも診ないととなるかもしれない、それでコロナウィルスで老人は病院に行かないという時相当に国では保険料など財政負担が減ったのである
つまり病院に医者に行きすぎたということがあった、サロンのように利用しているとかの批判もあったからだ

もしかしたらこれから老人のサバイバルゲームになくかもしれない、金だけでなく、病気になったらもうめんどうをみない、死んでくださいとまでなるかもしれない
介護できなくなっているからだ、その負担を子供でも社会でも負いきれないとなる
だから子が親を捨ててもそれで親不孝とか責められない社会にもなる
それだけ老人が増えすぎてもうめんどうみきれないということになる
そうはいっても自分自身が病気になったら手厚い介護をしてくれとか病気を治してくれとかなる、でも一方で捨てられても恨まず死んでゆくという覚悟も必要になっているのかもしれない、ただサバイバルゲームであり健康であれば百才でも生きてくださいとなる
でも病気になって介護状態になったらめんどうみきれないから死んでくださいとまでなるかもれない、金のない人も死んでくださいとなるかもしれない
ただ最低限自分のことはできて健康であれば生きることが許されるとなる時代になるかもしれない、それは非情のようでもやはり社会がそうなってしまったらどうにもならないのである  

社会全体が老人の病気とか介護に費やされたらどうなるのか?

そういう社会が維持できるのか?

人間が生きることが病人の世話と介護になっていいのか?

こういうことにもなる    

それは世界的な問題であり孝行を説く中国でも老人が増えすぎると子供にも捨てられるとなっている、これまでの大家族とか一緒に暮らすとかでなくなっている
そういう社会でもう老人のめんどうはみれないとなる 
愛情は大切である、でもその愛情にしても老人が病人がこれだけ増えるともうその愛情のために疲労して介護する方が倒れてしまう状態になってゆく
つまり老人に病人に生き血を吸われるとまでなる、そういう社会はやはり理に合わない
そうなると社会自体が老化して死滅ししてゆくともなるからだ
これはやはりバランスの問題だった、若い人が多く子供が多い社会が健全だったのであるそれは戦後焼野原になり子供が大量に生まれ団塊の世代が生まれた
その時は社会に希望があり健全な社会だったのである、今は逆になっている
団塊の世代がみな老いて病気になったり介護状態になる、その数が問題なのである
それが社会を歪めてしまうのである
日本自体が衰亡してゆくのもそのためだとなるからである





年の瀬(仙台まで行く)


年の瀬(仙台まで行く)


枯芒二人ほどのる田舎駅  

なお待つや電車の来ぬや冬の雲

年の瀬や買い物あれや仙台に

年の瀬や月の満ちつつ電車行く

年の瀬やいのしし電車に当たるかな

仙台を離れ冬の灯ともしかな

相馬駅枯木一本とまりけり

冬の夜の闇の深しも日立木駅  

二人ほどおりしや見届け冬の夜


レンズを中古のレンズをキタムラで買い仙台市の駅前の店に行った
そこはちいさなビルの一室である、でもレンズがCAMERAに合わないで失敗したからアマゾンでなくてキタムラから買っている、そこに店があるしカメラのことを聞けるからいい
ソニーのアルファ6000はシリーズの最初のものだけどそれが基準になっていると言った
つまりそれが基準だということはいいものだったのである
それできれいに映るなと感心していたのである、その時は8万くらいだった
その後介護とかあり忙しくて使っていなかったのである 

今回はこの用事で行っただけでありすぐに帰ってきた
そしたらイノシシが新地と坂本の間で電車に当たり遅れた、ただ十分くらいなので助かった
電車の窓から月が見えた、それが月が満ちて満月になってゆくものである
大晦日辺りに満月になるのも不思議である
そういうこともなかなかないかもしれない

仙台を離れると冬の灯がともしくなり淋しくなる、仙台は大都会でも枯野の風景にすぐなる、だから東京とは違う、ここから仙台までは一時間十五分である
近くも遠くもないという距離である

日立木駅当りにくると相当に淋しくなる、闇が深くなる、日立木駅で二人ほどおりた
あそこは本当に無人駅である
ともかくやはり年の瀬は追われる感じになる、家事を一人でしていると追われる

電車が好きだという時やはり必ず駅で待つ時間があり車窓からのながめがいいのである
バスとかだと何かそういうことがないから好きでない
電車からの眺めがいいし駅で待つことが人間的な時間を作っている
だから北海道辺りでも鉄道が本当になくなるというとき観光的な魅力は相当になくなる
ただ観光路線として維持するのはむずかしい、常磐線でも震災以後は原町からいわき市間は相当に乗客も少なくなった、でも双葉駅にスーパーヒタチがとまるのはうらやましいとなる