2021年01月31日

すべて金で計算してもうまくいかない (旅でも親切にされたことで後で効果がでてくる―安宿旅行の回想)


すべて金で計算してもうまくいかない

(旅でも親切にされたことで後で効果がでてくる―安宿旅行の回想)
この世の中すべて金で計算している、金をどれだけとれるかを計算して仕事する
すると一番優遇するのは金持ちだとなる
それで旅館でもホテルでも金持ちは優遇する、特等の部屋に案内して泊まらせる
そこで収入が増えれば商売として成功したとなる
それは当たり前のことである、貧乏人はそもそも金がないのだから宿にとまるなともなる自転車で来るような奴は野宿しろとなる、それが似合っているとなる

それもそうなのだけど本当にそうなのだろうか?

すべて金で計算して商売になるのだろうか?

そこが疑問なのである、私は旅をしてもいかに安上りにするかが問題だった
それで安宿を探すのにいつも困っていた、最低でも5000円はかかっていたからだ
それで3000円の宿があったときはうれしかった

春の月安宿見つけうれしかな

こんなふうになっていたのである、私は金はいつもなかった、働きもしないからなかったでも旅はしていたのである、だから安宿を探していたのである
それが外国まで行って安宿を探すとは思わなかった
でも貧乏旅行者は安宿を探し回っていたから自分と同じだと思った
それはパリだったのである、そして東駅の方でも安宿探していた
そこには安宿があった、でも満員だった

東駅安宿探し落葉かな

意外とヨ−ロッパはホテルが多く安く泊まれる、高級なホテルもあるが安宿も多いから旅行しやすいと思った
そしてユースホステルが多い、そこでは千円とかで泊まれる
そこは別に老人でも泊まっていたのである
だからヨ−ロッパは旅行しやすい、ただ高級ホテルとなると馬鹿高くなるから泊まれないただヨ−ロッパなら城のホテルとか高級ホテルでも泊まる価値がある
つまりヨ−ロッパでは何でも歴史があるから違っているのである
そのホテルにしてもそうである、日本のホテルは新しいがヨ−ロッパは古いからである
ただそういうホテルとかに泊まったことはなかった
私はバックパッカーだったからである

でも旅となると別に貧乏旅行でもバックパッカーでもそれも旅であり価値がある
高級ホテルに泊まりグルメとなるのもいいが別に貧乏旅行でも安宿でもユースホステルでも旅の経験の価値としては平等に思える
本当は高級ホテルに泊まりまた貧乏旅行するのもいいとなる、その価値は別々であり経験の価値としては違った価値であり金持ちだから特別の経験するということはない
おそらく人生でもそうかもしれない、人間が経験することは限られている
だから貧乏の経験でも貴重だとなる、もちろん金持ちとしての経験も貴重である
でもどちららにも経験として価値がある

人間は経験するにしても結局時間が限られているから何か経験することでは平等に思えたただ金持ちだと留学とか習いものとかいろいろ金をかけてやれるので違っている
でも人間が生きる時間は限られている、金持ちでも時間だけは多く持つことができない
だから経験することでは平等の感じもした
バックパッカーでも海外旅行すれば安かったからである
ただ日本が貧乏になると海外旅行はぜいたくだとなる

私が旅で親切にされたのは覚えているのは二三回だけである
一番親切にされたのは鮫川辺りでまだ山の中に万(よろず)屋がありそこでご飯と味噌汁を御馳走になったことである、今時そんなことをどこでもしない
されたこともなかった、そういうことが今はしにくい時代である、便利だからコンビニで買いとかなるからである
もう一回は山形県の田麦俣から入った湯殿山ホテルだったと思う、そこはそれなりの大きなホテルだった
なぜそんな山の中にホテルがあるのが不思議だった、湯殿山の参拝のために利用するホテルなのか?
団体旅行用のホテルでありそれが自転車で行ったら泊めてくれたのである
それも確か無料でいいともいってきた、女将がそう言ったのである
そういう小部屋がありそこにとまっていいと言ったのである
そんなことをしてくれるホテルがあるのかとなる
それは全く例外的でありありえないことだったのである


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でも旅をするときそういうことが心に残る、そういう親切はあとでも忘れないのである
するとどうなるかというと全体に影響する、あそこの市町村は親切な人がいるなと
その市町村自体の評価が高まるのである
そういう親切を人は忘れないからである
ただ現実は貧乏な人は来るな、そんなもの来ても商売にならないというのが普通である
でもそこに何か問題がある、金持ちしか優遇されないのだとなり悪い印象をもつともなるでもそういう親切は覚えていてあそこちいい人がいるとなるとき観光でも影響するかもしれない、そういう親切を覚えているからである
あそこは冷たい場所だった、人は親切ではない、道をまともに教える人もいなかったとかなんとかなる、現代はすべて金で計算する時どうしてもそうなりやすいのである

貧乏人だけ相手にしていると豊かになれない、でもそういう親切は長く心にととまりいつかその土地に恩恵があるかもしれない、ここで親切にされたからまた行ってみようとかなるかもしれない、それはわからないにしても金だけ計算して商売してもうまくいかないことがある
実際に私が介護で苦しんでいたときでも事業をはじめた人は借金して荷物一つもつもの嫌がっていた、金にならないことは一切したくなかったのである
でも百万をやったし金がないわけではなかった
ただその人はその時金にならないことはしたくなかったのである
そういう人がはたして事業とかなると成功するものだろうか?
それで損して得しろという諺が生まれたのである

ただそういう自分も事業のようなことをして同じ失敗しているから責められないとはなるやはり利益をまず得たいとなるからどうしようもないとはなる
それで事業はじめるなら資金的にも余裕がないとうまくいかない気がする
また長い目で見ないとうまくいかない、、だから資金的にも余裕がないとうまくいかないすぐに見返りが入ると限らないからである、でもそうなるとなかなか事業でもやれないとなる、それで自分自身も駄目だったからである
現代は変化が激しいし目先のことに追われる、長い目で仕事でも事業でもできないのである、競争も激しいから追われるように仕事をしなければならない
それで現代は国家百年の計などができない、変化のスピードが早すぎるからだ
中国の変化をみればわかる、十数年であんなに発展したのは驚いたからである

いづれにしろコロナウィルスで観光業は打撃になった、するとこれから観光業はどうなるのか、どうするのかが問題になる、近間を大事にして近間の人にサービスする
近間の人のくつろぎの場とするとかなる
でも金で計算するとどうしても東京とかの大都会の人を呼ばないかぎり経営は成り立たない、だから東京からの観光客が来ないことは大打撃になったのである
ただこれも時代の変化でそれに対応しないと生き残れないともなる
観光もオーバーツーリズムになっていた、京都などもう外国人とかで混んで異常だった
それがぱったり来なくななっというのも驚きだったのである
京都のような所は貧乏な人は相手にしない、粗末に扱われる
それは観光客があふれていて来ないことがないからである
でもそうなると人を粗末にする、それで観光客来ないとなり新しい手をうたねばならなくなる、人を呼ぶために観光客に貧乏な人でも親切にするとか変わる
それは希望だがそういうふうに観光も変わることは悪いことではないのである

もともとホテルはホステルとか旅人をねぎらう病院とも関係していた、ホステルとかかがホスピタルになったからである、そういう起源があるということはそこに本来の役割を感じて商売するということにもなる、そこが原点だからである
金持ちのためにだけ優遇してサービスするのとは違っていたからである
なんでもただ金だけを計算してしていると本来の役目とかも見えなくなる
それがかえって人も離れてゆくともなりかねない、ただまず利益だとなるから本当にむずかしいのである


親鸞の千人殺せの意味 (凶悪犯罪者でも罪の意識がないー受刑者のリアル)


親鸞の千人殺せの意味

(凶悪犯罪者でも罪の意識がないー受刑者のリアル)


刑務所で無期懲役とかなった人を取材していた、それで意外だったのは残酷な犯罪でも
その本人は罪の意識がない、たまたま運が悪かったとその場に居合わせたのが悪かったとか言っている、そして30年の刑務所に入っていても出所することを願っている
それだけの犯罪を犯したのだから何か罪の意識をもち反省しているのかと思うとしていない
でも犯罪者でもみんな罪の意識をもっていない、自分が悪いと思っていない
むしろ相手が他者が悪いと思っている

つかまったのが失敗だった!

それが余りにも残酷な犯罪を犯してもそうだったのかと意外だったのである
人間は人を殺しても罪の意識を持たない、罪の意識を持てないのである
ほとんどの人もみんな善人だと思っている、何か自分等もそうである
悪人と思っている人はほとんどいないのである
それが残酷な犯罪を犯していた人でもそうだったとすると軽犯罪になると全然罪の意識はない、盗みでも強盗犯罪でも罪の意識がないことに驚いたからである
そしたら軽犯罪で罪の意識を持っている人はいない、たまたま捕まったのが運が悪かったと思うだけである

ただそれにしても30年も刑務所に入っていたら反省するのかとみるがしない、それが理不尽だとも思っている、だから人間は必ずしも刑罰を与えても罪の意識を持たない
だから宗教で不思議なのは全然罪も犯していないのに私は罪の頭だとかいう宗教者であるパウロなどがそうだし優れた宗教者はそうである

親鸞が千人殺せ!

こういったのは人間はそれほど残酷な犯罪を犯しても罪の意識をもたないからだとなる
なぜなら一人殺してももたない、ては千人殺してみろということでとはないか?
そうすればその残酷さで罪の意識を持つともなるからそう言ったとなる

ただ人間は最後に俺は悪いことしてないと言って死ぬ人が多い
何かそういうのは後ろめたいことが誰でもあるから最後に罪の意識がでてきてまた何か悔いてそういうとなる

継母で子供を残酷にいじめた人が最後に「悪かったな」とその子供に言って死んだ
それはもうずいぶん年になってからである、でもそうなったのは眼が悪くなったりひどい状態になり助けもなくてそう言ったともなる
でもなにか人間は最後に悪いことをしたことを恐れるということはある
でも終身刑になるような人が罪の意識をもたない、むしろ運が悪かったとかなり自分の責任にしていないのである

こういうのを見ると人間で自分が悪人だと自覚している人はすでに罪の意識があり優れた人だとなる、自分が善人だとしている人は実は悪人だとなってしまう
でもほとんどの人は善人だと思っている
でも世の中で地位をもっていたり金持ちだったりする人は何か悪人であるかもしれない
でもそれだって悪人だと思わない、弁護士も意外ともめごとにかかわっているから
法外な金を得たりする、相談しただけで百万もとった弁護士がいた
これも悪人なのだけど責められない本人も罪の意識もないのである

だからなんであれ罪の意識をもっている人は人間として優れているともなる
俺は善人だとか言う人は実は悪人でありそういう人がほとんどなのである
それは自分にも言える、とにかく罪の意識をもつ人はまれなのである
だからそれだけでその人は救われているともなる
それで親鸞が千人殺せといったともなる
ただこれを理解することはむずかしい、それだけ人間は罪の意識だとか自分は悪人だと思わないのである

人間は何か苦しむ時なぜ苦しむのだろうと考える、でも苦しまないと全然考えない
何か苦しむ時、罰だとか何に原因があるのかと考える
それはカルマだと認識する、苦しむ時カルマを意識する
それは自分自身が家族の介護の苦しみで意識したからである

家には必ずなにかしらのカルマをどこの家でも背負っている、それが苦しみとなって現れると思ったのである、なぜこんな苦しみにあうのかとなる家でもカルマがありそのために苦しみを背負わされたとなる
ただ刑務所に入っている人が終身刑の人でもそうした罪の意識がない、カルマを感じないというのもわからないのである
刑務所の生活は不自由でもそんなに苦しみを感じないからなのかともみる
ただ30年刑務所に入っていてもいつか出たいというのが希望なのである
でも別に罪の意識はもっていないとなる

人間の逆説として(俺は悪人なんだ)と思っている人は実際は善人だということになる
ボランティアなどでも何か経験してみると俺は善人なんだ、だからほめられるべきだとなる、そういう意識が前面に出やすいのである,ボランティアしているから善人として認めろということである
でも人間がもし悪人だとすると俺は悪いやつなんだ、だからいいことは何もできない
ただ罪を悔いるだけだとなる
でもたいがい人間は俺は善人なんだとしかないのである
何か団体で行動するにしてもそうである、カルト教団で何か俺は悪人なんだなどと懺悔する人なと一人もいない、ただ御利益御利益しかないのである
それで何か苦しいこと損することがあると罰当たるとかしかないのである
その教祖も大善人であり悪人だなとと思いもしないのである
だからこの世の大善人は実際は大悪人であり悪人と思っている人は実は善人だという逆説になるのである

2021年01月30日

地理から見る世界‐河の文明ーライン河からオランダ、イギリスへ


地理から見る世界‐河の文明ーライン河からオランダ、イギリスへ

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地理がすべての学問でも基礎になる、地理が分らなければ世界のこともわからない
でも世界の地理となると広大であり理解不可能になる
中国でもアメリカでもその広大な土地を日本からは理解しにくい
例えば土地の利用でも中国とかアメリカでは違うし建物でも違う
中国では建築は巨大なものを目指す、雄大な志向になる
ただ細部が貧弱であり虚ろだともなる
日本は狭い土地だから細部にこだわる文化が発達したのである

ともかち四大文明がナイル河から生まれ、エジプト文明はナイルの賜物とされた
それは河岸からピラミッドへ通じていた、船は運搬にもナイルを利用していた
またナイル河が氾濫してその泥が肥料として栄養となり麦とかの広大な畑を作ったからである
大陸の河は長大であり運河のようになっている、すると物を運ぶのに適している
また河はリバーがライバルというように境界線になる、国境になる
ローマ帝国でも河によってゲルマンへの進出が止められたからだ
でも橋を作る技術がありそれでゲルマンの地へ進出した

ヨ−ロッパとか大陸では中国でも河は運河であり人と人を結ぶ役割りがあった
河があったから交通路となり広大な地域が結ばれて大帝国が文明が生まれたともなる
この大陸の河のことを日本人は理解できないのである
すると文明も理解できないとなる、また砂漠とか平原とかもないので遊牧民のことを理解できない、そこで世界史でも世界でも理解できないのが日本人なのである
だからなぜライン河が父なる河となるのかわからないのである
そういう発想から日本からは生まれないからである、そうした長大な河がないからである
例えばハンザ同盟とかができたのはヨ−ロッパが河が交通路になり船で物が運ばれ商業をが発達したから封建領主と対抗できたのである、それか市民社会をうながしたのである
その市民連合が文明の起源だともなる、civilzationとはcivilは市民のことだからである市民共同体の起源は河があって作られたともなるのである
ローマが道で作られたようにヨ−ロッパ文明は河で作られたともなる
だから河に対する想いは深いのである

だからまずヨ−ロッパでも地理からみる、ライン河がイギリスの方向に流れそこにオランダがある、そしてオランダが世界を相手にする商業でまず栄えた
ライン河からオランダが船の技術が発達して世界に進出した
デンマークでもクロンボーグ城がありそこで関税をとって国力が増大したというのもそうである船の貿易が盛んになりそうなった、
そしてオランダからイギリスを見ると何かライン河がイギリスとつながっているようにも見えるのである、現実にゲルマン人が移住してイギリスが生まれた、それでドイツ語と英語は共通している
一見イギリスは島国で孤立しているようでもドーバー海峡は狭いからつながっている
それでフランスのノルマンディーにイギリス領となったそれは韓国と日本との関係とも多少似ている
なぜなら韓半島と九州の福岡辺りの地域は密接な関係があったからだ
韓国からの移住した伽耶国があったともなり万葉集にも残っている
それはイギリスとフランスの関係とも似ているのである

でもイギリスが島国でも日本と違っていたのは海に進出して七つの海を支配したことなのである、オランダとかスペインとかイギリスが世界へ進出したのは海を交通路として船で世界を結んだのである、つまり河がハンザ同盟として結んだが今度を海を交通路として世界を支配したのがイギリスだったのである
そういうことは地理から見えて来る、ケルンの大聖堂の塔からイギリスの方向が見えた
ライン河はオランダの方に流れてイギリスがそこから見える
すると地理的につながったものとして見えたのである
地理的に俯瞰するとこうして歴史でも見えて来るものがある、地形から見えてくるものがある、だから地理を知ることは世界史を知る基礎になるのである

そして日本の地理はアジアと大陸と西洋のヨ−ロッパからアメリカへの進出があり最初はヨ−ロッパがアジアを植民地化したが日本はならなかった
明治維新があり日本だけがアジアでは植民地にならず西欧化したとなる
ただアメリカがヨ−ロッパ文明の延長として日本を征服したとなる
西へ西へと西部開拓がありそれがアジアの日本へ向かったのである
日本の世界地理の位置はヨ−ロッパからアメリカから日本ときて日本はアジア、東洋文明の境目にありここで綱引きがなされる
政治的にも中国が巨大化した結果として今や日本がその綱引きの国となる

ただアメリカが衰退してゆくことは間違えない、今起きている混乱はその前兆である
中国の台頭は抑えられない、中国はロシアとは違う、日本は明治維新で西欧圏とアメリカとも対決した、でもアメリカに敗れて西欧圏に入った
でもアメリカは衰退してゆく、その時日本がの立場はどうなるのか?
それが問われている、日本が中国とアメリカの綱引きの場所になる
くにこ、くにこと古代日本が韓国を綱引きしけ引き寄せたようにである
そこで日本が分断されるということもありうる、そういう地理にあるからだ
でもまた逆に日本が指導権を発揮して新たな世界の要ともなりうる
そういう地理にあることをまず知るべきだとなる


ドイツのライン河の詩 (河の文明−ヘルダーリンの詩を読む)

2021年01月29日

記憶に残る旅ー機械に頼ると記憶に残らないからあとで損になる


記憶に残る旅ー機械に頼ると記憶に残らないからあとで損になる

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週間新潮ー2月4日号

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これには共感した、現代から旅がなくなったということを書いた
それはあまりにも便利になりかえって旅か喪失した
GPSで案内されてもその土地の実感は地理は自ら手探りのようにして進むことで得られる
道とは未知のことであり未知なるがゆえに魅力がある
この道を行けば何があるかわからないということで道に魅力がある

それで私は気ままに自転車で近くでも行くとそうなる
坂を上ったり細い一日一人も行かないような道がありとか近くでも発見されない道があるそこが魅力ある場所だと感じる
そして道が分かれている時、どっちに行こうかなというとき旅になる
電車とかなるとレールが決まっているから自らその方向を選択することができない
決められたルートを行くだけになるから最初は電車の旅をしていたが飽きた自転車の旅にしたのである

日永きやいづこへ行かむ分かれ道

阿武隈高原は特別変わった風景もなかったが気ままに道を自転車でどこまでも行くのにいい、そんな記憶が残っている

にわか雨お堂に休む一人旅

なんかこの時お堂の役割りを知った、お堂は雨をよけたり旅した人ても休む場所としてもあったのだ、それは時代劇で見る光景である
その役割りがわからなくなったのは車の旅とかなったからである
歩いていた旅だったら今でもこういうふうににわか雨で雨宿りする場所が必要になる
現代では旅が便利になりすぎて経験できないのも皮肉である
近くでも自転車で行けば旅になるのだ
それで最近トラック運転手だった人が仕事をやめて自転車で近くを回っているので良く合うのである、何か足も悪くしたらしく自転車で近くでも回ることが仕事になっていたのである、他の同級生も脳卒中になったけど軽くすんで自転車に乗るようになった
ただ近くしか行かない、運転手だった人はかなり遠くまで行っている

ともかく旅をふりかえると何か最初は電車の旅だった、だから本当に全線を乗ったという感覚にもなる、だいたい十年費やして乗った、だから自分は恵まれていたのだ
要するに遊びが人生だったのである、遊戯三昧だったのである
それで鉄道に思い入れができてたまたま無人駅で車掌のような真似をしたのである
私は鉄道が好きだからそうなったのである
その後は船で旅した、日本の航路ならたいがい乗ったのである
東京から沖縄まで貨物船のようなもので一週間くらいかけて行ったことがある
その時船ならそういうものしか沖縄に出ていなかったのである

旅のことで大事なのは記憶に残る旅をしろということを書いた
でも記憶をするということは便利な機械とか利用すると記憶されないのである
だから電車でも車でも記憶する旅になりにくいのである
そして旅したなという実感も残らないのである
私は船で名古屋まで行きそれから自転車で奈良まで行ったのである
その時は本当に長い旅であり一週間以上かかっていた
その時は秋だったのである、途中で秋燕がたくさん飛んでいた

秋燕あまた飛べるや奈良へ行く

それから奈良について飛鳥に行きそこから二上山に夕日が没るのを見た
それは本当にはるばると来て見たから何とも言えないものとして心に残ったのである
その行程は遠かったからである、ただ体力がないのでこの時が一番長い旅だったかもしれない
それでも苫小牧から稚内までも自転車で行ったらこれも長かった

稚内6月に咲く桜かな

雨しとと稚内に着き桜かな

6月になっても稚内に桜が咲いていた、それだけ桜前前線はあった
そこまで行く行程も長かった

郭公のひびく北の地旅つづく

ともかく旅で意外なのは記憶に残る旅をしているかどうかなのである
機械に頼ると意外と忘れている、だから江戸時代のように歩いて旅した人は旅を記憶している

一歩一歩かみしめ歩む旅なれやいづれは死なむ人の身なれば

何か人生の最期にはみんないとおしいものとなる、なぜならもう旅もできないともなるからだ、現実に私はここ十年は介護とかに追われ旅していない、できなかった
でもこれだけ旅したのだから贅沢すぎたともなっていた
ただこんな旅をするのは普通はできない、そういう時期は普通は学生時代だけだったとかなる、会社員になるとできない、そういうことをしたら自分のように社会からはずれた人間になってしまうからだ

ともかく地理を知ることは本当に難しい、それは坂を上ったり下りたり手探りのようにして前に進む、車で飛ばして過ぎ去るのではない、歩むことは体に記憶されることなのである、その時辺りの景色とも人間は一体化するのである

草臥れて宿かるころや藤の花 芭蕉

こういうことも歩いて旅しないとできない句なのである、ただ私は歩く旅はしたことがないのである、歩くと相当に疲れるからである
だから歩く旅は新鮮な経験になるけどその労力が大変なのものになる
だから昔の旅を経験することはその時代により便利な時代になっても労苦になる
つまり演出して作りだすことになるからだ

会津にそ城は遠しも街道に虫の音聴きて夕暮るるかな

白河街道は人も車もあまり通らないから記憶に残っている、そこは旧街道になって寂れていたから余計にそう感じた
鉄道の通る表の通りだとそうは感じないのである
ただ街道というのは何か今では裏道ともなり人もあまり通らない淋しい道になっている
それがまたいいのである

旅人の昔も行くや芒かな

何かこんなふうに道でも街道には今でも魅力を感じる、それで相馬なら陸前浜街道の日立木からの松並木の道が旧街道でありここを歩いて行くべきだとなる
でも実際は六号線の国道を行っている、そこはまるでベルトコンベアーのようにトラックなどが行き来する道であり情緒がないのである
でも便利だからどうしてもその道を行くことになる、遠くなるとやはり早く行ける道を選ぶからである
そして後でふりかえると何か記憶として残らないのである
そうなるとこうしてふりかえり記憶したものを書けないともなるのである
どこを行ったかも記憶しないことは行ったことににもならないとなる

それは意外と人生にとって損失だったことを知る
なぜなら老人になると記憶に生きることになるからだ
それは旅だけではない、自分はこういうことを経験したと常に老人は語るからである
仕事のことでも語る、するとそうして記憶して語ることが人生だったとなるからだ
この老人の人生はどういうものだったかというときそれはその人の語ることによってわかるのである
だから戦争の経験をした人などはその経験があまりにも強烈であり忘れられないものだから語る、私の姉は従軍看護婦だったので死ぬ直前までシンガポールのジョホールバルのことを語りつづけて死んだのである
認知症でもそうして若い時の記憶に刻まれたことは忘れないのである
それで千回も聞かされたのでうんざりしたのである

とにかく老人になるともう何も行動ができなくなる、体力的にもそうだし精神的にもそうである、するとこれまでししてきたことを語ることになる
だから老人が意外とプログとかyoutubeですら向いていることもある
若い世代はまだ人生を語ることができない、でも40代くらいになると結構語ることができる、それで面白いとなる
そういう場としてもインタ−ネットは有益なのである、ただそれもまだ一部であり利用されていないがこれからはネットの世代になるから老人になり語ることになる
そこで大事なのは記憶されたことなのである
もし記憶されないなら語ることもできないからである、旅のことでもそうである
記憶されなかったら語ることもできないのである
だから記憶される旅をしろとなるのである、それにはあまりに便利な旅は機械を頼った旅は記憶されないということである、そうなると老後は行動できなくなるから豊かなものにならないともなるのである
なぜなら自分自身が今でも旅したことをたどっている、それは自転車で旅したことが記憶に残っている
でも電車となると記憶に残っていない、それは電車でも景色が流れて行くだけで記憶に残らなかったからである
第一A地点からB地点へ電車で行ってもその風景が記憶しにくいのである
それは早すぎるから脳に記憶されず消えてしまうからだともなる
でも電車でも駅のことを覚えているのはそこで停止しているから記憶に残る

逢隈(おおくま)に電車止まりて蝉の声

ここは阿武隈川を渡る手前の駅である、新しい駅である、でもここで三分くらい電車が交換で待つからその三分間が記憶に残る
それは前の新地駅でもそうである、ここで六分くらん交換のために待つから記憶に残っていた

新地駅六分待ちて虫の声

新地駅は津波の後は高架橋の高い場所になり虫の声は聞こえなくなったのである
新幹線とかなるとまず自然とから遊離するし早すぎで途中の景色すら記憶に残らないのであるそれで何も残らなかったとなってしまう

タンポポや新幹線に次の駅

途中が過ぎて次の駅にしても遠いのである、途中はとばされてまっていたのである

インタ−ネットになるとあらゆる記事でもその感想を書くことができる
これまでは一方的に読まされるだけだった、こうして感想とか答えることができる
それがメデアとして変わったことである
メデアを自ら持ったということなのである
ただインタ−ネットだと数が多すぎて読まれないのが多いのである
津波とか原発事故では相当に読まれた、でもそれも十年も過ぎると関心がなくなり読まれなくなったのである
その時々読まれるもの関心が変わるからである
でもこうしてあらゆる記事でもその感想を書くことができる
対話的になる、様々な記事でも意見でも知識でも相互に深化できるからいいことである
ただ著作権の問題が出て来ることも確かである






山中伸弥が「人類は滅ぶ可能性がある」とつぶやいた「本当のワケ」 チームのほうが誘惑に弱くなる―大衆民主主義は全体主義になる


山中伸弥が「人類は滅ぶ可能性がある」とつぶやいた「本当のワケ」

チームのほうが誘惑に弱くなる―大衆民主主義は全体主義になる

ところがチームになって、責任が分散されると、慎重な姿勢は弱まって、大胆になってしまう。たとえルールがあっても、そのルールを拡大解釈してしまう。気がついたらとんでもないことをしていたというのは、実際、科学の歴史だけでなく、人類の歴史上、何度も起きたし、これからも起こりえます。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/67554?page=6

チーム化することは団体化することである、人間は団体化すると個人の責任感とか希薄になる、そして団体組織化することは力を持つことであり権力を持つことである

なぜ民主主義が危機になっているのか?

要するに議員を選ぶにしても何にするにしてもすべて数で決まるからである
その数を集めることがすべてでありそこに正義も不正義もなくなる
数が多い方が正義なのであり何であれ数が多いことで決まる

カルト教団であれ選挙の時は利権団体の票が優先されるにはまとまった票が得られるからである、個人の一票など意味ないしあらゆることで個人は無視されるのが民主主義だともなり危機になる、アメリカの大統領でももう選挙に不正があったとして暴力になる
数の多さで決めることにみんな疑問を持つようになったからである

そしてナチスは民主主義の選挙から生まれたのである、とにかく数を集めれば票を集めればその正当性が得られるからだ、そして全体主義になった
もう全員がハイルーヒットラーになったら誰も逆らえない、止めることもできなくなったのである
そこに民主主義とか選挙でも決して正しい判断をするものではないことがわかる

赤信号みんなで渡れば怖くない

まさにこれである、巨大な数となり集団となるのが大衆民主主義なのである
それはギリシアのボリスの一万とかの民主制とはまるで違ったものになる
それでまたナチスはラジオから生まれたという説がある
人間が集まるとなると限度がある、でもラジオだと何百万人にも向かって訴えることができる、それが今ならテレビであり戦前は新聞で朝日新聞が戦争をあおったとなる

現代の大衆民主主義がそうした危険がつきまとっている
数がすべてになりその真意など関係ない、善悪も関係ない、数が多いことがすべてであり正義なのである、要するに数が権力化するということである
それが創価でも他のカルト教団でも宗教がからんでくると余計にそうなる
逆らう者は罰当たるとか地獄に落ちるとか何百万人の人の念がそうなるから怖いのであるそれはカトリックなどでも異端者が火あぶりにしたのと似ている
宗教の歴史の暗黒が見主主義で再現されるのである
そういう歴史があるから政教分離の法律が生まれたのである

数が多いことが正しいのではない、数が権力である、こうなっていることが怖いのであるでも民主主義はすべて数で決まる票の数で決まるとしたらそうなるのである
確かに暴力で決めるのではないからいいとなる、民主主義とは完全な制度でもないのだから暴力で決めるよりはいいとなる
でも数の多さで決める時、それは全体主義になる、そしてナチスのようになり最悪となるのである、それは歴史が証明している
共産主義もまた全体主義であり反対者は粛清されて何千万が殺されたとしている
共産主義はあからさまに反対する者は許さない、死刑にされる
民主主義は反対する者があってもまた数がすべてなのだからいづれは全体主義になる
それがナチスであった、それは数がすべてだということによっていたのである

数が多いということは責任が分担される、一票の責任は選挙では十万分の一くらになるから誰に投票しようが責任などないのである
もし一人十票とかなれば責任が生じる、でも実際は投票するのに責任を感じる人はほとんどいないのである
一万くらいのボリスだったら直接選挙であり一人一人が責任を感じていた、でも大衆民主主義では誰を選ぶにしろ責任など感じないのである

責任が分散されると、慎重な姿勢は弱まって、大胆になってしまう。たとえルールがあっても、そのルールを拡大解釈してしまう。気がついたらとんでもないことをしていた

こんなことが科学の分野でも起きていた、でも科学の分野なら科学こそ真理なのだから科学の真理に反することはいくらチームになってもできないはずである
それでもチームになると責任感が薄れてしまう、チーム化する団体化する組織化することはすでに権力化することである
すると正しいか正しくないかより権力が力を優先されて決められるのである
それによって大きな過ちが生まれる、チームでみんなでしていることが決めたことが正しいとなるからだ

原発事故でもそういうことがあった、地域の住民は金になればいいとしかない、すると危険だからやめた方がいいという人は一人もいなかったとなる
なぜならみんな金が欲しいからそれに逆らうことはできなかったからだ
反対したらその地域に住むことすらできなくなっていたのである
でも事故が起きて逆に住民が故郷に住めなくなったのである
この教訓は大事である、ナチスでも国を逃れた人がかなりいたからである
反対したらその国にすら住めなくなった、回りが一時創価の会員だらけになったらこれも全体主義になりそれに逆らう者は住めなくなる
そういうことが起こることがありえたのである、他でも数があらゆることで優先される
マスコミでも視聴率を稼ぐことが最大の目的である
それで宣伝費で稼ぐ、みんなが見ないことには宣伝できないからである

民主主義とは何かとなればもう大衆民主主義であり数がすべてであり数ですべてが決められる、そうなると理由などない、数さえ集めればなんでもできる正しいとなり逆にナチスになり全体主義になる、少数者は完全に無視される
それはインタ−ネットでも起きている、いかに視聴率をとるかがyoutubeなどでも最大の問題になる、とにかく見る人が多ければ影響力も大きくなりやはりテレビのように宣伝費が入るからだ
だからインタ−ネットでも営利が入ってきて視聴率優先になったのである
つまりマスコミ化してきたのである

田中首相が数と金が政治だと言ったのもそうである、選挙は数で決まりまた金をばらまいて票を得るからそうなっていたのである
現実民主主義でもそうなのである、政治とは数と金なのである
それは大衆民主主義ではそうならざるをえない、膨大な数によって決まるからである
そこで正しいとか正しくないとかは追求されないのである
そこでマスコミがテレビが馬鹿な大衆相手に導く、大衆にはむずかしい理屈など言っても無駄だとなりハイルヒットラーになった
つまりいかに大衆を操作するかがマスコミの問題でありそれで視聴率をとり宣伝費をもらうということだけが目的となる
大衆民主主義は容易に全体主義になる、それは数がすべての世界だからそうなる

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2021年01月28日

福島県のコロナウィルスの感染経路 (交通と密接に関係)


福島県のコロナウィルスの感染経路

(交通と密接に関係)


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コロナウィルスは交通と密接に関係して拡散する
東京のような大都市から拡散することは明確である
東京周辺が茨城県でも栃木県でも群馬県でも関東圏であり関八州の地域でもあり感染者が多い、何か栃木県が東京から離れて辺鄙な山の奥に見えても
那須高原とか平地もありそれで感染者が増えた
それは東京圏の中にあり増えた

ただなぜ南会津町とか下郷が増えたのか?

その感染経路はどうなっていたのか?

それは前に江戸時代のコレラの流行は会津若松市中心に拡散した、でも田島とかあるがそこに栃木県に出る街道があり大内村の宿場が有名である
でも今回南会津町の田島の病院でクラスターがありここが増加した
その感染経路は不明である、問題は栃木県が関東圏にありその栃木県から入ってきたのかどうかである
江戸時代のコレラでは北前船とかで新潟から阿賀野川の交通があり増えた
また白河街道などもあり会津若松中心に拡散したのである
ただ桧枝岐とかは交通がまれであり秘境であり感染しなかった
この時は会津若松中心になって栃木県の田島の方に拡散したのである

つまりウィルスは交通と密接に関係している
人口とも密接に関係している、人から人にうつるのが基本だから人と人の交流が多い所から拡散する
東京圏は関八州地域であり茨城県とか栃木県とか群馬県でもありそこは増えたからである現代は交通が止められない、密になるなと言っても東京とかはもうできない
そうしたら仕事もなにもできなくなる
だから現代文明は便利なのだけどウィルスには弱かったのである
江戸時代の様な交通が不便な時代でもウィルスを拡散することが止められなかった
ましてやその何百倍なのか何千倍なのか何万倍のか、これだけ人口が増えて密になる社会はウィルスの拡散を止めることができない社会である

ただ明らかに人口密集地帯の大都会から拡散してゆく、福島県でも南会津町とか昭和村は会津若松市より離れた僻地なのである、昭和村にも感染者が出たのは福島市で会合があったということで感染した
福島県の中通りは新幹線も通っているから福島県と宮城県が感染者が増える
特に仙台市からは増える、秋田県とか青森県でも仙台市で感染した人が移動して感染したのである、でも岩手県とか秋田県とか青森県は少ないのである

何かこのように交通の便利さに比例して感染者が増えるし不便なところはそうでもない
奈良とかみると大坂に近いから増えていると見るがそうでもない
でも滋賀県となると増えているのは交通の便がいいからである
意外と奈良は大坂とか京都とから離れた地域になっている
だから奈良は遅れた地域だとされた、中心地が大阪や京都に移ったからである
それで奈良は田舎だとか言われていたのである

相馬地域になると仙台との交通が鉄道を通じてもあるし仙台市から拡散してくると見たが意外とそうでもない、むしろ南相馬市では東京のライブハウスに行った人から移ったのである、その人がすぐ近くの人だったのである、その人は今住んでいないという
ガラス窓を壊されたとか言われた
今でも東京から仕事に来た人から感染している、東京から来る人が危険なのである
大都会から来る人が危険になる、人口密集地帯から来る人が危険になる

いづれにしろ何事でも地理が基本になる、地理を知らないとこうしたウィルスでもどういうふうになっているのかわからない、特に交通と密接に関係しているから地理を知ることが基本になる
私は福島県なら隈なく行っている、それも自転車で行っている
昭和村とかにも行ったし舘岩村から栃木県の方の那須野にも行った
だから地理的にわかる、でも群馬県となるとわかりにくい、日本がの地理が地形がわかりにくいのは山が多すぎるからである、山に閉ざされてわからなくなる
だから日本の地理を知ることは容易ではない、福島県でもわかりくいのである
特に会津はわかりにくい、山国だからわかりにくいのである

ウィルスに対処する方法は

●交通をとめる、人の交流をとめる

●密になる場所をさける

●ワクチン

●みんなで抗体を作る

これくらいしか方法がないとなる、交通を止めるとか人の交流をとめるとか、密になる場所をさけるのが現代では一番苦手でありむずかしい、東京のような所では不可能になってしまう、そうしたら経済活動がとまり生活できなくなる
だからgo to トラベルとかありえない政策だったのである
ウィルスを拡散するだけだった、ただ観光関係で苦しいからともなり受け入れた
それもやはりウイルスに対処する方法を間違ったともなる

ただ若い世代で都市封鎖などしたら暴動が起きた、もう限界だとなっている
とても長くは続けられない、問題はコロナウィルスはまだ未知なのものだから対処方法がないとなる
ただ死んでゆくのは基礎疾患があり高齢者が死ぬのだから寿命がちょっと早まっただけだともみられる、それで若い世代には深刻にならないのである
これまでの感染病は若い人も容赦なく平等に死んだから怖かったのである
それが今回のコロナウィルスの特徴なのである

福島県会津へのコレラの流行 (伝染病は交通と密接に結びついていた)
posted by 天華 at 14:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

abstract painting-NEW YEAR-2021


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serching underground world

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2021年01月27日

菅政権はもう終わり「次の総理は誰か」という大問題 (ピーターの法則があてはまる)


菅政権はもう終わり「次の総理は誰か」という大問題
(ピーターの法則があてはまる)

菅は菅で「総理になると、官房長官の時より情報が入らなくなった気がする」とぼやいている。それは菅が耳に痛いことを言う人間を遠ざけているからなのだが、自覚がない。

 こうした菅の現状を象徴する事件があった。来年度予算案の折衝で、菅が諸々の判断を副総理・財務相の麻生太郎に任せきりにしたため、麻生が「総理なんだから自分で考えろ」とキレたのだ。


 ある人材はその組織内で昇進できる限界点に達する。人は昇進を続けてやがて無能になるが、必ずしも高い地位がより難しい仕事であるという意味ではない。単純に、以前優秀であった仕事と仕事内容が異なるだけである。要求される技術をその人材が持ちあわせていないだけである。

たとえば、工場勤務の優秀な職工が昇進して管理職になると、これまで得た技術が新しい仕事に役立たず無能になる。このようにして「仕事は、まだ適当な地位にまで達していない人材によってなされる」こととなる。
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 「ピーターの法則 」という本を大分前に読んだ、ただこれもその意味がわからずただ買ったというだけだった、会社員にもなっていないから理解できなかった
でもいろいろな失敗例を見て人間はそういうものだと知った
菅首相は官房長官の時は優秀だった、首相にのぼりつめたとき無能とは言えないまでも
行き詰まった、やること成すことがうまくいかない、首相の立場とか官房長官の立場が違っているからそうなる、実際はその相違は大きいのである
人間は俳優でも脇役で演技力を発揮するものがいる、でも主役に向いていないとかある
演劇の世界でもそうなのだから現実社会でもそうである
おそらく菅首相は補佐役、脇役として優秀だったのかもしれない、それが主役になったとき無能化したとなる、ただこれは時代の作用もある、こんなコロナウィルス騒動の時舵取りできる人がいるのかとなるからだ、そこは同情するとなる

私の交際範囲とかは狭いしこうして何か批判することはむずかしい
そもそも人間の直接付き合う範囲は狭い、すると視野狭窄になる
ただ実例となると私の母の実家の父親は警察署長だったのである
だから警察官としては最高位にのぼりつめた人だったのである
でも退職して機織り工場を経営して失敗して一家離散のようになった
その人は自分は警察署長までなったのだから優秀だと思って工場をはじめたのである
でもそれは畑違いであり失敗した、無能になったということである

もう一人は一級の免許をもっていて会社を立ち上げて経営者になったが失敗した
その人は技術者として優秀でありそれでみんなから周りから優秀な人とされていたのである、だから自分は優秀だということで会社経営しても成功すると思い込んだのである
でも会社経営となると本当にこれは大変なことであり並みの人間ではとてもできないものだった、だから20人に1人くらいしか会社経営は成功していないのである
死者累々としているのが経営の世界なのである
そしてその家にも問題があった、会社勤めなら家はあまり関係していない、会社に従い仕事していればいいだけである

でも一旦会社経営になると家族まで関係してくる、その家はまず会社経営に向いていない家族だったのである、それで経営者になるなら商売人の妻をもらいというのは経営は商売にもなるからそうなる、その妻は全くそういう人ではない、会社員の妻ならいいが経営者の妻には向いていなかったのである、そして家族自体も向いていなかったのである
でも強行したのは会社勤めしていたときは技術者としては優秀だから会社経営でも成功すると確信したのである

人間は結局あることについては優秀だが分野が変わったりすると無能化する
オールランドにあらゆることについて優秀な人はいないのである
それよりあることについて優秀だとか才能があるということは他のことは無能だとなっているのだ、全能な人間などいないからである
正直菅首相に同情するのはこんなコロナウィルスに対処することが誰ができるのかとなる最初からgo to トラベルは失敗だったともなるが経済優先ということでそうした
経済を優先させるべきだという人もそれなりにいたからその判断に迷うのである

確かなことは官房長官の役割りと首相の役割りは全く違ったものであり麻生氏に自分で判断しろといわれたのもそうである、首相は自分で判断する、報告するのとは違うからである、その責任も全然違ったものになる、そこでこういう緊急事態に対処できなくなる
いづれにしろ人間はあることには優秀でも他のことになるとたちまち無能になる
学者が経済でも通暁しているかとなると経営者になっても成功するかとなればしない
現実の会社の経営となれば全く違ったものであり理論通りにならないからである
理論と現実は違っている、理論は理想である、でも理想は現実社会で実現しない
マルキシズムがそうだったようにそれはあくまでも理論であり現実社会に適応できないものだったのである、理論と現実の乖離がありそれで粛清の嵐となり何千万が殺されたとかの悲劇になったのである、かえって熾烈な権力争いになってそうなった
そこに人間の業があり理論通りに理想が実現しないのである

私自身でも理論とか理想を語るけど現実社会では通用しない、学者タイプでありでも現実に会社を経営者とにはなれない、何か理論的に批評したりするのに向いているのである
ともかく一般的にはあることに優秀でもすべてに優秀な人はいないからピーターの法則があてはまる、菅首相も首相になったら無能化したともなる
ただこんなときに誰がやってもうまくいくとは思えないのである
要するにコロナウィルスが未知なものだからである、未知なものに対応することはできない、そこで世界全体が混乱しているのである
posted by 天華 at 09:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2021年01月26日

インタ−ネットで情報摂取の変化 (マスコミニケーションから専門化、個人化、地域化)


インタ−ネットで情報摂取の変化

(マスコミニケーションから専門化、個人化、地域化)

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情報は積み上げられたものがあり理解する
それは個人の経験であり地域に住んでいることであり専門化である
マスコミはこの三つを無視した情報なのである


情報の変化がインタ−ネットで変わった、情報というとき新聞とかテレビとかマスコミ中心だった、マスコミニケーションとはまさにマスを大衆を相手にして情報を与えていた
何百万人のさらに千万とかの大衆を相手にしていた
だからそこでは芸能人とかスポーツとかさまざまな個々の事件でもそれは娯楽の一つにもなっていた、別に自分に危険がふりかからなければ個々の事件でも娯楽になる
それで田舎で他人の不幸は蜜の味となる、楽しんでいるのである
ただそうなるのはかつてそうして苦しんでいる時同じことをしていたということもあるからだ、だから今度はあなたの番だと楽しむことになる

ともかくテレビの影響は本当に大きかった、テレビがでてきたときテレビがある理髪店とか電器店でも人が集まった、その時テレビがなかったからだ
テレビの影響がどれだけ大きいものだったか?
それはお茶の間にテレビがありテレビが家族の中心になっていたということでもわかる
そしてテレビとは家族みんなで見るものとしてあった、その影響が余りにも大きいものだった、だからテレビで有名になると参議院とかで選挙運動しなくても当選できた
青島なんとかという東京都知事などでもそうである
つまり政治家としての資質とかなんとか関係ない、名前が売れているから票になる
政治でもそれだけテレビの影響が大きかったのである

そもそもNHKが生まれたのはテレビを国民に普及させるためでありそれで受信料を強制的にとっていたのである、テレビ放送にはその装置のために莫大な金がかかるからである
そして娯楽もテレビ中心になったのである
テレビの影響はあらゆる面で大きかった、その影響が人間の精神まで影響して変えるものだった、それで林秀彦のテレビ批判があった、その人はテレビのドラマを作る方でありその体験からあれだけ批判した、一時は一億総白痴化とも言われたのである
新聞だとまだ考えることがあるがテレビは一方的になる
考えることをさせないのである、それは映像が中心だからである
映像のインパクトは大きいし映像は信じやすいのである

でもそのテレビの映像も真実を映して現していない、それでやらせとかでもだまされたのである、イラクの油まみれの映像で世界中がイラクに怒ったからである
テレビはエモーショナルなものになりやすい、即座に映像に反応するからである
NHKで地球温暖化で島が水没するような映像を流していたがそれはその一部分であり全体ではないのである、でもあたかも島全体が水没するような映像をとして流していた
それを見とていると本当にそう見えるのである
テレビの映像は一部分を切り取ったものであり全体を知るのはむずかしいのである
そこに錯覚が必ず生まれて誤解してしまうのである
なぜそうしてNHKが放送するかというとまず地球温暖化をしきりに言う、前提として地球温暖化ありでそれでそれにのっとって番組を編集するのである

この辺で原発推進で補償金問題で仮設住宅に入った人たちでもめていた
津波の被害者は補償金がもらえないので多額の補償金がもらえた原発避難者と争いとなった、仮設では口もきかなかったという
でもNHKではまず編集会議を開き原発避難者側につくことを決めてテレビ放送したのである、それで相馬市のトマト業者に津波被害者を優先的に採用して飯館村の人はしなかったのかと暗にテレビで批判していたのである
するとなんでそのトマト業者は飯館村の人を雇わないのかと怒りにもなる
自分自身でもなっていたのである、でも飯館村の人は補償金をかなりもらっていたから当面は困らない、でも津波被害者は補償金はなかったのである
だからそれは当然だったのである、別に飯館村の人が悪いというのではない
ほかでもいわき市でも原発避難者と津波被害者がいて争いにもなったが仲間に入れてくれないとか津波被害者を批判させる番組になっていたのである
ただそれがなかなか巧妙にできていて普通は外部の人がわからないのである
でも地元だからあれおかしいなと自分は気づいたのである

つまりテレビは別にありのままを事実を放送するとは限らない、テレビ局の意向にそって編集して放送している、まずテレビに出す人もテレビ局の意向に沿ったヒトでありそれに反する人は出さないのである、NHKはNHKの意志をもっていて民報でもそうである
メデアとは仲介するものであるとしても意志をもった存在なのである
だからトランプ大統領でも発言が永久に停止されたということでもわかる
何でも勝手に発言できるものではないのである、その影響は非常に大きい
現役大統領たるものでも発言を停止できるからである
それだけマスコミの影響はメデアは影響は大きいものだったのである
それで世論とはマスコミによって作られていた、マスコミが選挙でも左右する力をもっていた、ただテレビで名前を売った芸能人が議員になれたからである

それがインタ−ネットになり何が変わったのか?

情報が専門化、個人化、地域化したことである、テレビとか新聞でもマスコミでも専門性に欠けている、なぜなら専門化するとそんな人材がマスコミにはいない
それで専門家を呼び話させる、でもそうなるとマスコミのテレビ局の意向に沿ったことしか主張できないのである
それで武田邦彦氏などの科学者は常にテレビ局に司会者に怒っている
それは自分の主張ができないからである、司会者がそれをさえぎったり邪魔する
司会者中心になり編集されているともなるからだ、そして専門的になるとちょっと話ししてもコメントしても誤解されやすいのである
でも専門的なことはめんどうだし大衆は理解しないから適当にちょっとコメントさせるだけだとなる

何か物事というのは簡単に理解できない、事件でもそうである、何でそうなったのかその背景が複雑であり他者から簡単には理解できない、それが外国になるとさらにそうであるただ映像だとそれが誤解しやすいのである
アメリカで議会に侵入した映像は衝撃的だけどその真実はなかなかわかりにくいのであるただそれが刺激的であり暴力を起こした人が反発を受ける、それでかえってトランプ派が不利になったともなる
でもそもそも普通の人はアメリカがどうなっているのかその背景を知ることはむずかしいのである

だから人間は簡単に判断してはいけないとなる
でもテレビはマスコミは裁判官のようになっている、マスコミは何かあればまるで裁判官のように善悪を判定してこいつは悪い奴だとしてバッシングする
それで大衆はそれがわかりやすいから誤解して感情的になり責めるとなる
つまりリンチ的な機能がマスコミにありテレビにある、それが危険なのである
というのは何でもその背景が複雑でありわかりにくいからである
それで私自身がおかしいなと原発避難者と津波被害者のことで気づいたのである
それは地元に暮らしていたからわかったことであり外部からわかりにくいからである

大衆的アイディンティティは集団や個人の経験から発展したというよりも、世論を誘導する者によって与えられ、できあいのアイディンティティを人々に与え、商業広告を代表とするマスメデアを通じて広められる
それは最も表層的な場所のアイディンティティであり感情移入的内側性の余地を全く残さず場所との一体化の基礎を破壊することによって実存的内面性をむしばむ
マスメデアはその受けてが直接に経験できない場所に単純化され選択されたアイディンティティを都合よく与えて偽りの場所の偽りの世界を作り上げようとする
(場所の現象学ーエドワード・レルフ)

情報と情報の発信する場とは密接な関係がある、その場を理解しないと情報も理解できない

マスメデアはその受けてが直接に経験できない場所に単純化され選択されたアイディンティティを都合よく与えて偽りの場所の偽りの世界を作り上げようとする

この指摘は重要である、イラクの油まみれの映像とか島が水没したとかの映像にだまされていることでもわかる、その場のことはわからないからである
テレビの映像だけからその場のことは理解することは不可能だからである
偽りの場所の偽りの世界を作り上げようとするのがテレビなのである

ともかくインタ−ネットの情報はパーソナル化、個人化している
個人の経験を基に語る、個人化、地域化する、それがマスコミケーションとは相当に違っている、ただこれは大衆化しなから影響力が弱い、でもその人なりの地域とか個人の経験から語ることはマスコミケーションとはまるで違ったものなのである
でもそうして万人が情報発信すると今度は何を読んでいいのか見ていいのかわからなくなる、情報が細分化される、だから統一的なものとキー局が必要になる
それでヤホーのニュースが選ばれているから毎日読んでいる
でもこれも実はマスコミなのである、インタ−ネットでマスコミ化している
このニュースに選ぶのはやはりマスコミと同じようにヤホーで選んでいるからである
でもここに選ばれれば飛躍的にアクセスが増えることがある

私のプログは一時津波や原発事故のことでかなり読まれた、それが半分に最近になった
つまり津波や原発事故の関心が薄れためだと思う、その他の記事はあまり関心がなかったとなる
やはり大衆の大勢の関心はその時々のものであり今はコロナウィルス一色になったからである、そっちの方に関心が移ったからである
ただこうしてプログのようなものでも写真でも図でものせられるから結構な発信力があると思った、youtubeが見られるのはやはり映像でわかりやすいからである
でももっと深く考察するとなると文章だとなる
でもは長い文章はネットでは嫌われるとかでも大衆向きになると結局視聴率を上げることは無理なのである、本当に高度なものは少数者のものである

大衆向きになるとどうしても低俗化する、それがインタ−ネットでも利益中心になり芸能人とか参入してそうなってきた
百万とかの視聴者を得ているのはやはりテレビとマスコミと同じものとなっているからだただそれも一時的泡沫のように消えてゆく
本当に価値あるものは百年後にも読まれるのもである
私のプログでも何がここに起きたのか津波や原発事故を後世の人が探るとき参考になる
つまり歴史的価値あるものを残すということである
だから今だけに焦点をあてるのではなく長い目で価値をあるものを作ることである
視聴率だけに目を向けることではないのである 

問題としてプログにしてもワードプレスとかができればもっといいとなる
それが技術的についていけなくなっている、それで全体で膨大な量になるから調べにくいとかある、でも相馬地域を知るときその全体からわかるということがある
それだけのボリュームがある、自分自身でさえこんなにいろいろ書いていたのかと読み返して感心しているのも不思議なのである、自分の書いたことを忘れているからである
だから記録としての価値があるともなる






2021年01月25日

母姉亡き後に家で偲ぶ短歌十首 (死者を愛することの意味ーキケルゴールから)


母姉亡き後に家で偲ぶ短歌十首

(死者を愛することの意味ーキケルゴールから)

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母座るところに我も座りつつしのびて冬の夜ふけにけるかも

我が家を姉の守りて鬼瓦強き女かな支えけるかも

玄関に写る枯木や母座るところに座りしのびけるかな

我が余生姉と母しもしのびつつこの家に暮らし生を終えなむ

もの言わぬ死者にありしも母いぬ目に見えぬも我に映りぬ

70年我が家にあり勤めけるその長さかな死してなおあれ

我が家にともにありにしその日々のかえらざるかな一人しありぬ

人は逢い人は別れぬさにあらず死ぬ人とも行きゆくものなれ

人は死に形は消えぬさにあれど死者を想いて愛は通いぬ

死者はなほ家にありたしそれ故に家を離れず目に見えぬとも

百才を生きて死ににし我が母の想いは家にそありにけるかな 



死者を愛することは可能なのか?

それはキケルゴールが死者を愛せというとき死者を愛することは全く無私が要求される
それで本当に愛することを知れと説いている
本当に死者を愛することはまず全く反応がないから意気消沈することである
なんの報いもないのである、本当に死者は反応ない
そして依然として生者は死者に親だったら何かしてくれることを望んでいるのである
死者にお願い事をしている、自分もしている
でもそんなことを死者は関係しない、死者は冷厳であり反応しない、そんな願いなど聞き入れない,聴きもしない、ただ沈黙しているだけである
それだけから死者を愛せといっても無力感を感じる
徒労のように思う、それで長続きせず親でも忘れてゆく、もはや何もしてくれない死者に疎遠になるのである

愛と言っても人間が必ず報いを期待している、全く無私で愛したりできないのである
ボランティアにしても全く無私ではできない、何か報いを期待しているのである
それで何か自分でも強制的に相手に対して報いを要求するのである
それが経験でわかったのである
だから無私の愛というのは現実社会ではありえないともなる
親の子供の愛でも将来的に報いを期待しているのである
子供が成長したら親のために役立つことをしてくれるということで全く無私ではない
それが成長して重荷になる、それは常に人間の愛は対価を要求しているからである
無私の愛などほとんどないのである、親子の間でもないとしたらありえないとなる
他人ならさらに報いを要求するからである

それより私でも苦しんでいる時、金をまずくれたら助けてやるとかなった
何かしてもらいたいなら金を出せとなる、相手が苦しいことをいいことに脅迫するようなことをする、それが人間の実体なのである
金をもらわないなら小さな荷物一つもたないともなる、それが現実社会である
そういう人が事業して社長になるというとき社長という地位を得たいためでありその本人は他人のために小さな荷物一つも無料では運んでもくれない人だった
そういう人が社長になれるのか、それが疑問だった

ともかく確実なことは無私の愛は人間はもてない、自分自身でももてなかった
何かを報いを期待する愛である、何かをくれないなら金をくれないなら何一つしないというのが現実社会である   
宗教だって賽銭を神様に与えてお願いする、常に人間は報いを期待している
百円賽銭を与えたら千円くれとかなっている
宗教団体でも対価があってしている、会員一人増えれば一票となり権力を得るとかなる
宗教自体が無私のものはないのである、絶えず宗教家自体でも報いを期待しているのである

ただ奇妙なのは障害者とかを世話している親は無私の愛なのかもしれない
なぜなら障害者は親に報いてくれないからである
でも50になっても世話しているのである、でも他の子どもは子供の時苦労して育てた
それでも医者になったとかなり報いちれているのである
障害者を世話する人は全く報いられていないのであ
またペットなどでもそうである、でも犬とかなれば飼い主に愛嬌をふりまくとか何か愛することで反応がある、ただ私の飼っている猫は反応がない
人に慣れない猫なのである、だからその猫を世話しても何か報いがないということで死者と似ている

私の家族が姉は死んで十年もすぎたし母も死んで四年とかすぎた、でもなぜ私は家族を思っているのか?それは生前特別良くしてもらったし60年とか70年とか一緒にいたことによっている、その長さが影響して思っている
それで私の母親が依然としてそこに座っている、それが本当にその存在を感じるのである嫁とは女に家なのである、嫁の座がありその座に依然としている
でも家のない人は何かそういう存在感を持てないのである
死者は長い間いた家に依然としている、墓にはいると思えないのである
墓は生前にいた場所ではないからである

ただ母のことは生前はほとんど思わなかった、姉の方を思っていたのである
だから死んでから母のことを想っていることが自分にとって意外であり不思議なのであるそれはやはり嫁としての座がありその影響が死後に現れたともなる
それは生前は意識されなかったのである、人間にとってやはり一つの座とか役割をもつことが大事だとなる、仕事でもそういう役割をもたされて存在感を持つのである
それでその座をもつことで死後もそこにありつづけたということがある
死んでから存在感を増すということもあるのだということに気づいたのである

わたしたちが愛において死者を想うことは最も無私な愛の行為である
もし人が愛が全く無私であるということを確信しようとするなら報いについてのあらゆる可能性を遠ざけなければならない、しかしこの可能性は死者とのかかわりにおいては完全に脱落する、にもかかわらず愛が持続するならば、その愛は真実に無私なのである
(わたしたちは愛においていかに死者を想うかーキケルゴール)

キケルゴールはむずかいけどここは理解する、ただ無私の愛は現実社会ではほとんどない何か報いを対価を要求する愛である、それは神にしかないともなる
そもそも人間の交わり自体がそういうものである、日々の経済活動でも何かを与えたから何かをしてやったらしてくれとかなって成り立っているのである
死者はもうそういうことが全く成り立たない存在なのである

ただ正直自分が死者を母をこんなに死後に想うことは意外だったのである
母のことは生前でも嫌に思うことがあった、生前には誰でも親だって嫌なことがあるからだ、だから死んでから母を想うことが自分にとって意外だったのである
それは死者を想うということもあるが70年も家にいたということが影響している
そこに母の座がありそれが死んでもそこの座にいるとなったのである

                                                                     
                                                                     




2021年01月24日

利権団体による「安全神話」の崩壊と類似 (民主主義の弱点がコロナウィルスでも現れた)


利権団体による「安全神話」の崩壊と類似

(民主主義の弱点がコロナウィルスでも現れた)

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参加国の元首や大使たちがかけひきに終始しているのを、フランスの代表タレーランが皮肉を込めて言った言葉です。(会議は踊る)

民主主義の弱点がコロナウィルスでもそうだがアメリカの大統領選挙でも現れた
多数決で決めることに限界が来た、多数決で決められない、多数決が最善のものではないでもその反対に全体主義があり独裁がある
それは共産主義にもある、それは北朝鮮のように独裁になる
トップの命令が絶対となり裁判もなく簡単に死刑にされる
法というのも通用しないのである

でも今民主主義も混乱している時、これも弱点がありその弱点が顕著になり混乱している民主主義といっても実際は利権団体民主主義なのである
実際は一票など何の力もないのである
だからまとまった票を得る組織団体が利権団体となる
その利権団体も様々である、それは原発事故で判明した
原発は巨大な利益を生むものだったからである
そこにあらゆるものがその利益を得ようとして「安全神話」を作ったのである

官僚でも検察でも警察でも海上保安庁とかでも東電に天下りしていたからである
官僚でも利権団体ともなる、例えば東電だけではない電気に関係する電事連とかなると
大きな力をもっている、ここは原発推進なのであり電器関係者がそこで働き給料を得ているから原発に反対しないのである

その電事連から莫大な800億とかの宣伝費がマスコミに出ていたのである
そのマスコミもまた利権団体である、それだけの宣伝費がマスコミに回っていたら原発の危険を指摘したりしないのである
ただ地元も利権に関係しなかったかというと漁業組合は事故前も多額の補償金をもらっていたのである、漁業組合も利権団体であり利権団体という時農協も利権団体である
民主主義とはこうして様々な利権団体がその利権を主張する
個々人の一票など実際は相手にしていない、宗教団体でもそれが利権団体となる
様々な宗教の利権団体がある、神道でも仏教でもある
創価は一番具体的に政治団体化しているからまとめて票をもっているから自民党と一体化して利権にあづかる

こうして利権団体化するとき何が起きてくるのか?

利益だけを追求する、各自の利権団体も自分たちだけの利権を追求する社会である
個人などなんの力もないのである、だから選挙に利権団体に属さない人は行かない
行っても無駄だからである、利権団体の票によって決まるからである
だから政府でも利権団体に忖度するが個々人には忖度しない
現実は50パーセントしか投票していないことでもわかる

コロナウィルスでもなぜ混乱しているのか?

医療崩壊が医師会から言われる、でも日本では十分に備えられているという人もいる
そこにも利権団体化して医師会の利益を守るために何か対応できない
医師会とは開業医の団体であり勤務医とは違う、勤務医は今現場で苦しんでいる
月給も安いとある、でも開業医が八割というときコロナウィルスに対応できなくなっている,コロナウィルスを受け入れることができないのは小規模でありまたかえって受け入れると感染すると患者が減って経営が苦しくなるとかあるからだ
ヨ−ロッパでも中国でもその点医師の八割は逆に公的機関の病院に勤めている
すると政府からの命令に従い安いから10倍も100倍もの感染者とか死者数がいても医療崩壊していないのである

ともかく民主主義が限界に来ている、確かにみんなが自由に意見を言うのはいいことである、でも何か今回の様な緊急事態であらゆる人が利権団体が自分たちの利益のみで主張していたらまとめることはできない、それで中国は独裁政治だというとき一挙に都市封鎖とかしたり強行できる
でもみんな意見をいちいち聞いていたらもう決めることもできない
そのうち何の対策もなく傷口を広げるごけだともなる

船頭多くして船山に上る

変な方向に行ってしまう、それがコロナウィルスでも起きている、あらゆる人が団体が利益のために主張する
でもみんな公平にはならないし決めらず変な方向に行ってしまうとなる

信長の桶狭間のように敵の大群が押し寄せてきている時、みんな家来が言いたいことを言ってそれを聞いていたら決められない、そんなことしているとき大群が攻め入ってくる
そこで信長が決断して敵の大群に攻め入り勝利したのである

そして民主主義はまた多数決だから多数こそ正義になる、すると数を集めることが第一になる、それがどうなるのか?民主主義⇒ファシズムになる皮肉がある
ナチスは民主主義から生まれたからである、暴力ではなく選挙で選ばれたのである
それは数を集めればそういう独裁者でも選ばれるのが民主主義だからである
だからファシズム団体が養成されやすいのもは民主主義だとなる
第一ギリシャのボリスから始まった民主制はその規模でも一万の都市とか小さいのであり直接投票だったのである、今やその規模が大きすぎるから一票の重みもない
たごまとまった利権団体の票を得ることが選挙でありそれで決まる

でもなぜ個々の利益団体が利益ばかり追求していると肝心なことが安全などが無視されて原発事故になった
コロナウィルスでも同じようなことが起きている、今回目立ったのは医師会などの利権団体でありそれが歪めている、医師会は強力な利権団体であり政府でも忖度するからであるGO TO トラベルにしても二階堂氏の背後に観光業者が利権団体化していてそれで強行されたとされるのもはそうである

つまりいろいろな利権団体に忖度して物事が決まる、するとその利権団体だけが得するが他の人はのことは国民全体からすれば不公平になる
でも政府では国民全体を考慮して決めねばならない立場にある
だからそれぞれの利権団体の主張を聞いていたら公平な判断はできなくなる
そうしてしいろいろな利権団体が自分たちの利権を追求して会議をしても
会議が踊るされどすすまず・・・になる
会社でも会議は無駄だというときもそうなのだろう、いちいちそれぞれの言い分を聞いても社長が決断しなければすすまないともなるからだ

ともかく民主主義の弱点が現れてきた、それはアメリカの大統領選挙の混乱でもそうである、民主主義が信じられなくなっている、投票とか多数決を信じなくなっている
だからアメリカは分裂して南北戦争にもなる、分断してまとめられないとなる
かえって民主主義の宿命として現代なら大衆主義となりファシズムに向かうのがナチスのように証明されている

でも緊急事態では民主主義ではそれぞれの利権団体であれいろいろ自分たちのり利益のために主張していたらまとめられない、そのうちに傷口が広がり手遅れとなってしまうのである、そこで即断しなければならない、でもそれが民主主義ではできないのである
それで致命的になる、中国では情報でも公開しているし即断して都市封鎖して抑えた
そういう体制だったからできた、共産主義がいいというのではなく民主主義にも弱点があり緊急事態になると民主主義はそれぞれの言い分とか利権を追求すれば混乱してまとめられないということである



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2021年01月23日

女性の人口が減っている―独身社会 (福島県は原発事故で一番減っている?)


女性の人口が減っている―独身社会

(福島県は原発事故で一番減っている?)

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世相のうっぷん晴らしチャンネル

女性の人口の減り方が福島県が一番多い、男性も減っている、それは原発事故とかで若い女性でも流出しからだろう、全体的に減っているとしてもなぜ福島県だけが一番減っているのか理解できないからだ

日本全国では女性でも男性でも増えているのは千葉県とか神奈川県とか埼玉県とか東京周辺である、それ意外はほとんど減っている、ただ大阪が減らないにしても増えていない
東京周辺にそれだけ人口が集中しているということなのか

ここのyoutubeでは結婚したいなら東京周辺の都市に行けというのはそのためである
若い女性がそれだけ少ないからであり男余りになっているからだ
そしてもう結婚しない人が増えて独身社会になる 

女性にとっては地方は田舎は魅力がないとなっている
ただ福島県が一番減ったのは原発事故の影響である
ただ全般的に女性が減るとさらに結婚しにくい

なぜ独身者になるのかというと結婚というのがわずらしい、そして負担が大きいとなるからである
隣に人がいるだけでストレスになるというのもそうである
だから今一人暮らしが多いのはそのためである
そして一人暮らしがしやすい社会に変わっている、別に家事は機械化して買い物でもできる、多少めんどうにしても一人でできることが大きい

昔は結婚するという時、家事が女性の仕事でありそれがないと男性は生活できない
家事をしてもらって何とか仕事ができるとなるからだ
それで普通の中産階級でも女性二人を女中に雇っていたという時代があったからだ
それだけ家事が大変だったのである、
そうなると女性でも一緒にいても男性にとって必ずしも不可欠ののでなくなる
かえっていろいろとストレスになるというのもわかる 

そういう社会に変わったのである、団塊の世代はまず子供部屋とか個室がなかった
だから子供部屋おじさんは存在しないのである
今は個室の時代であり個で過ごす時代になったからである
結婚のメリットが少なくなったのである
結婚すると子供でも負担が増大してゆく、今は日本が貧乏なるときその負担を負いきれないとなる

だから日本がから日本人がいなくなるというのも笑い事ではない
ただ世界的にも女性の人口は減っている、男性余り社会にもなっている
女性の人口が減っていることは子供を産む数が少なくなる
それで世界的に人口が減少してゆく、それが天の采配だというとき
やはりもう地球の人口は限度になった、それでコロナウィルスなどが生れて世界全体の人口を減らす作用をしているのかともなる

ただ日本の人口の減り方は極端でありその影響が大きすぎるのである
いろいろなものが継承できなくなる、膨大な耕作放棄地とか空家とかの問題もある
拡大増産する社会から縮小する社会というのは経験していない
江戸時代から明治から戦後でも人口は増えてきて成長しつづけてきたからである
そのショックは相当なものになる
posted by 天華 at 21:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

真野の草原は気候の境目 (石巻説は気候からみると無理)


真野の草原は気候の境目

(石巻説は気候からみると無理)

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陸奥の真野の草原遠けども面影にして見ゆといふものを 笠女郎

天気予報を見ていると何か必ず真野の草原と万葉集に歌われた地点が境界になっている
この図では仙台辺りにもなるかもしれないがやはり真野の草原という地点にもなる

第一石巻説だと遠すぎるというのが他の人の意見でもある
そんな遠くとなると無理なのである、どうしても歴史的にも地理的にも天候でも合わないのである
雪降るにしても東京が降ったときここも雪がふる、かえって東北の北から雪がふるようで降らない
関東の方が雪るとここもふりやすいのである
それが気候のパタ―ンとなっている、それは変わらないとなる

確かに地名からするとそれに符号したものがありそれなりのものとして証明されることはある
でもやはりみちのくの真野の草原は奈良から大和朝廷が進出したみちのくの最果ての境目になる
地理と天候と歴史的なものから南相馬市の鹿島町が有力だとなる

それでも縄文時代の天候がどうだったかとなるとまた違っている
なぜなら縄文海進の時代であり海は奥深く入っていた
それで南相馬市の鹿島区の塩崎が入江となり海となっていた
塩崎という地名自体が海だったからついた
船が入ってきたので船着という地名が残っている
そのすぐ近くまで津波が来ていたことに驚いたのである
そこは低い場所だから津波か奥まで来たのである

そこには市庭とかの地名もあり市が開かれていた
それは今東北電子力の火力発電所のある所で鉄を生産していた、砂鉄をとり生産していてそれを船で運んだようである
そのために大内村に曽我船という地名が残っている、曽我(そが)とは遡るという意味である、そこを頻繁に往き来した船があり名付けられた

そして坂上田村麻呂が建てたという薬師堂が残っている、それは800年とあり古いのである、大内村はそれだけ古い場所だったのである 

ともかくもともと海だった所が今回の津波で本当に海になったのである
ただ意外だったのは海老村は高い場所にあり避難場所にも指定されていたのに村が消滅したことである、そこには最近古墳が二つ発見されたのである
だから相当に古くから人が住んでいたのである

すると大きな津波がそこにあったとも推測できるがその証拠はない
その伝説もない、ただ八沢浦の奥の方に津波が来たという伝説は残っていた
だから津波の経験を語っていたのだがそれを注目している人はいなかった

津浪によって歴史が解明されたことがあった、地史も歴史でありその間隔が数百年とか長いから記録もなく忘れていたのである  

笠女郎の歌は錯覚しやすいのである、真野の草原はやはり萱原ではなく地名だと思う
大伴家持を慕ったとしてもそこに萱原をイメージすることはない
ただ遠い果てまで行っても慕っています、面影に見えますよという解釈になる
どうしても草原が萱原に思えないのである
現実に大伴家持は多賀城に赴任した説があり本当にみちのくに来たということがあるともなるからだ、大伴氏一族がみちのくに来て跡を残しているからである

その証拠となるがここが気候的な境目になっていることである
マルハシャリンバイの南限の地となっていたのもそうである
比較的暖かい土地だからである、今でもその気候は変わっていないからである
気候は確かに変わるが代わるにしてもその期間は数千年単位とかにもなる、万年単位にもなるし億年単位にもなる
ただ地形とかは変わらないのである、だから縄文海進状態が津波で再現されたのである



2021年01月22日

プラスがマイナスに働きマイナスがプラスに働く (コロナウィルスで引きこもりの時代になるのか?)


プラスがマイナスに働きマイナスがプラスに働く

(コロナウィルスで引きこもりの時代になるのか?)


その人は体力もあるし大工であり何でも器用でできる、やり手である、話もうまい
悪く言えば八方美人であり器用貧乏にもなる
でもなんでもそうして器用にできることは生活力もありいいことなのである
それが何かマイナスとなるとは思えないのである
でも何でもできることはやらなくてもいいことまでしている
大工で十分に稼げるのに何かしなくてもいい公にもできない仕事もしている
その人は欲のために何でもする、またできるのである

だから人間の謎はそうしていい面でも悪い面に働くこともある
そもそもやり手の人間は悪いことでもやり手になるからだ
無能な人間は悪いことすらできないのである、不器用でできないとなる
でもそれは倫理的な面から見れば悪いことでもないとなる

人間は社会では外交的な人が好かれる、私自身でも外交的でいつも笑っているような人を好む、何か陰気で内向的な人は社会では嫌われる
自分自身がそうである、内向的でありそれで一日ほとんどしゃべられない生活をつづけてきた、つまり引きこもりだったのである
ただそんな生活ができたのは家族に恵まれたからである
それで何ら叱責されることもなかったからである

ただ内向的なことがすべて悪いとはマイナスに働くとは限らないのである
自分はしゃべるのは苦手である、でも文章を書くのは好きなのである
だからこうしてプログだと文章だから書き続けている
一人内向的作業をしているとなる、それに向いているからである
それで引きこもりの時からワープロに通信機のついていたときから引きこもりはじめていた、それが今日に継続している

内向的な人間には内向的なことをする、仕事をするのが向いている、ただ社会では文系とかなると内向的な仕事は少ないのである、営業とかが多くなる
するとそれに向かいない人もでてくる、向かないことをすることはストレスになる
人間にはどうしても何でも向き不向きがある  
機械マニアのような理系の若者がいてそういう人は人との交際か苦手である
また英語など勉強しなくても機械マニアには機械マニアとして生きることで日本を導く者になるというのもそうである
人間ではなく機械相手にしている人でも社会に有益だとしているのだ
猫でも雪を嫌っていると見ていたら雪の中を押し分けて駆ける猫がいたのである
普通は雪を嫌うからである、猫でも何か内向的なものと外交的なものがいるともなる
猫の性格も一様ではないのである

ともかく人間はプラスになることとマイナスになることは表裏一体である
島国となるとそこに孤立しているとかマイナス面があるがまたプラス面がある
何か不利と見えるのがものが有利にもなる、例えば動物でも肉食の強い動物が種的には強いともならない、なぜならかえって草食の小型の哺乳類が繁栄したからである
恐竜などは滅びて小型の哺乳類が生き延びたからである
つまり強さが弱さになり弱さが強さにもなる
必ずしも大国が強いとは限らない、大国は大国の弱点がある、中国のように一つの国としてまとめることができず内紛が絶えないともなるからだ
日本は小国でもまとまりやすいからかえって強いともなっていた
何か強いと見えるものがかえって弱点となり弱いと見えるものが強いともなる

聖書でもかえって弱いと見えたものが強く勝つとかが語られている
ダビデとゴリアテとか弱者が強者に勝つ物語がある、だからどこで強くなるのか弱くなるのか定められないのである   
イスラエル自体エジプトなどと比べると小国である、でも神が選んだ国だったのである
確かに中国でもアメリカでも大国である、でも大国なりの弱点がある
その弱点の故に国がまとめられず衰退してゆくともなる

人間はそもそも何が有利に働くかわからないのである
コロナウィルスでもニューノーマルな生活が言われるがそれは三密をさけることだというのもそうである、常にこれまでは何でも集団化して集まる
でも何か不思議なのは食堂でも居酒屋でもデスタンスをとれとか黙食しろというのもそうである、しゃべらずに食べろ、密になるなデスタンスをとれというのも社会を変えてしまう、それは引きこもりして仕事しろということなのかともなる
家に引きこもり仕事しろという時代なのかとなる
そういうことは総一億引きこもりの時代になるのかともなる

時代によって価値観も変わる、グロ−バル化とは世界とも広く交わるのがいいとみていたでもコロナウィルスで内に籠もる時代になる、内向的になる
中世のような時代にもなる、明治から戦後でも高度成長時代を経て外交的な世界だった
外に向く世界だった、それが内向自体に変化する、それは江戸時代の鎖国のような時代になるのか?
鎖国だってすべてか悪いとはならない、いい面もあった、これからは何か落ち着いた内向的時代になるのかもしれない、動物的世界、激しく移動して動く世界から木や石や山のように動かないものへの移行なのかもしれない
そういう時代の変化にあり価値観も変わる、だから内向的性格がすべて悪く働くとは限らない、むしろニューノーマルの世界は内向的世界であり内向的性格の人にとっては有利に働くともなる

そしてみんなアーティストになれとかそれは内向的世界であり内向的性格の人にとってはいい時代ともなる、何か価値観が内向的なものとなる
人間の内面の追求となるのは宗教とか芸術の世界だともなる
ただカルト教団は外交的なものでありそこで全く内面的もの外交的なものは嫌われる
まず一日しゃべらず黙想しているようなことはありえない、そういうことは最も嫌われる毎日外交的に人と接して票を集めるとか会員を増やすために布教するとか常に外交的なことを強いられるのである、それが会社のノルマと同じなのである
それで会員を増やし票を獲得した人が評価される世界である
だからそれは全く本来の宗教とは違うのである、常に社会にむっかて外交的になり人と絶えず接して一票を得るために活動する、それが権力獲得に結び付くからである
だから宗教とは全く正反対の世界なのである
集団行動して大勢が集まり気勢をあげる、でもコロナウィルスでそれができないから盛り上がらないと困っている

いづれにしろ人間はマイナスとして働くように見えるのもプラスになる
プラスに働くように見えるものもマイナスに働く、だから別に引きこもりすら全部がマイナスに働くとは限らないのである
引きこもりは新時代の新しいライフスタイルだったともなりうる
ただそれが今までとはあまりにも違ったものに見えるから受け入れられないともなった
でももしかしたら引きこもりでも時代を先取りしたライフスタイルだったともなるかもしれない、コロナウィルスがそういう価値観の変化をもたらしたともなるからだ

そもそもブラック会社とかまたカルト教団であれ組織集団でも雇われて働くこと自体馬鹿らしいのである
雇う方にとってその人がどんな人でもいいのである、だからロボットの方がましだとなりAIとかロボット化する、雇う方ではその人間にどんな資質があるとか見ない
計算しているのは自分がもうけることであり雇う人間はコストでしかないのである
もう人間とも見ていない、都合よく使うロボットなのである
人間が働くことは自分の資質を活かして自分のあったことをして何かを成し遂げることである、雇う人はそんなことを考えない、自分の都合いいように働く人である

それでロボットの方がましだとなったのである
つまり人生とは何かとなればその人なりに生きることである
そしてその人なりのものもを達成すれば生きたとなる
ただ雇い主の都合でロボットのように働かせらさせるのは生きたことにはならない
人生を奪われたともなるのだ、そして最後に残るのは何もないとまでなる
多少の金が残ったとしても何かその人なりのものを達成したということがない
ただ雇い主のいいように使われて人生が終わったともなる

2021年01月21日

(寒烏、冬柳、冬の月)冬の相馬の城下町

(寒烏、冬柳、冬の月)冬の相馬の城下町

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五本松だったのが三本松になりその一本も枯れていた
松は枯れやすい、ここはもう二本松になる

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これは墨絵である

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居酒屋は常連が集う場所だろう
何か冬柳にあている

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道端に一羽死にけり寒烏 

寒烏看取られるずして一羽死ぬ


五本松三本松になり冬日没る

城跡の黒橋上り冬の月

堀凍り木の影写り月光る

居酒屋や田町通りの冬柳 

冬の暮相馬の城下墨絵かな 


寒烏というとき寒々としている、それが一羽道端に死んでいた
何か孤独死のような感じにもなる、それを何か自分を暗示しているようにも見えたからだただ俳句は写生である、烏が一羽死んでいる、それも寒烏である
それを説明すると長くなる、俳句は短いから説明できない、写生でありのままを示して
あとは想像させるのである

相馬市に午後から行った、寒いと自転車で行けなかった、だから久しぶりである
相馬市となると原町の倍の距離があるから風吹いたり寒いと行けない
最近特に寒かった、今日はあたたくなったので行った

相馬市内についたときは暗くなって月が出ていた
あの黒橋を上ると月が光っていた、氷は解けず木の影が黒々と映っていた
黒い橋と冬の月があっていた

そして田町通りの柳に月が光っていた、そこに居酒屋があった
東京の方で居酒屋がなくなるとか訴えていた、日本の文化がなくなると店の人が訴えていた、そして居酒屋は日本の文化だという、外人も観光で来て居酒屋に来ていたという
居酒屋は日本独特のものとなる

ただ日本の問題は狭いことなのである、どうしても狭いからデスタンスがとれないのである、日本に茶室の文化が生まれたのはそもそも部屋が狭いからである
江戸時代だって長屋でも狭い部屋に住んでいたからである
狭いと何か圧迫される、窮屈になる

アメリカの生活保護者が車二台持ち広い家に住んでいるといのも不思議である
アメリカは生活保護者でもそんなに裕福なのかとなる
とにかく日本の住環境が貧弱なことは確かである  

とにかく相馬市は墨絵のようになっていた、冬だから余計にそう見えた
前からも何かそういう感じだったのである
だから白黒の写真があっているとなる

今度のレンズは遠くを撮ろうとしたがそれができない、かえって近くはきれいに映る
レンズによって写りも違う、その辺がまたカメラのわからないところである









2021年01月20日

世界混乱の時代‐グロ−バル経済は終わりになる (コロナ危機で大きく衰退する「先進国の末路」)


世界混乱の時代‐グロ−バル経済は終わりになる

(コロナ危機で大きく衰退する「先進国の末路」)


●民主主義の崩壊

●資本主義の崩壊

●ヨ−ロッパ、アメリカの衰退

●東西文明の転換点


今何が起きているのか?

大きな文明の変換点に来ている、それがコロナウィルスで加速された
20世紀とかは欧米文明の西側文明の東側文明の支配であった
それはすでに大航海時代から始まっていた
アメリカ大陸とか南米へのヨ−ロッパの侵略があり世界は欧米に支配された世紀だった
アジアでも植民地化された時代だった、ベトナムはフランスであり東南アジアはイギリスであり太平洋戦争はまず昭南島といわれたシンガポールとかイギリスの赤十字病院があったマレーシアのジョホールバルを日本軍が奪い占領した
その時ヨ−ロッパの侵略が日本によって止められ逆転したのである
その時まだアメリカは参戦していなかった、ドイツでもイギリスと戦争になりアメリカが援護するようになりアメリカが世界の覇権国となった
つまりアメリカの世紀になったのが20世紀だった

そして世界史からみるとアメリカは確かに日本に戦争で勝ったが今や衰退国家となりつつある、その現象として大統領選挙とかの混乱があり民主主義も機能しなくなっている
また資本主義も行き詰まっている、資本主義は大航海時代から船に投資することではじまった、船の株主となり船が荷物を積んでも無事帰ると大儲けができた
それでオランダが栄えたのである
また広大な未開のアメリカがありそこにイギリスがまず入り支配した
そこは資源が豊かだった、石油があり資源がある、その石油でロックフェラーとかがロスチャイルドとかが莫大な富を得て陰のアメリカの支配者ともなった

石油はあらゆる経済活動の基になった、なぜなら石油がない時、

アメリカではろうそくの原料や灯火用の燃料として鯨油が用いられており、消費量は年々増加していた。その需要を満たすため、鯨油の採取を目的とする捕鯨業が栄えていたのである。

1859年8月、ペンシルバニア州で穿孔法による初の油井が掘削され、翌60年には生産量50万バレルに達する。これは当時世界一の産油国だったルーマニアの50倍の生産量であった。石油から精製される灯油は、質量ともに鯨油を上回っていた

アメリカが強国になった一つが石油だったのである、産業革命にしても機関車を作っても燃料がないと動かない、でもイギリスには豊富な石炭がありそれで機関車を動かすことができた、石油の前は石炭が大きなエネルギー源だったのである
それが石油に変わったときアメリカには石油がありそれで強国となった
そもそも石油がないと飛行機すら飛ばせない、戦争中はゼロ戦でも石油が片道しか飛ばせないくらいしかなかった、つまり燃料がなかったのである
だから戦争する前に燃料になる石油がなくて負けていたともなる
経済封鎖されたときアメリカから石油も入らなくなっていたからである
つまりエネルギー問題が今でも重要なようにその時もそうだったのである
中東が世界で重要になったのはやはり石油のためだったのである

欧米が衰退する時、それに拍車をかけるようにコロナウィルスが蔓延して欧米の被害が大きい、それはなぜなのか、つまりもともと衰退しつつあった欧米にさらに弱体化させるものとして働いた
アメリカは衰退しない、株もあがるからアメリカに投資すべきだという投資家もいる
でも世界史の流れからみればアメリカは衰退してゆく
それが今様々な現象として現れている
そういう世界史の大きな転換期に起きている現象である

その根底にある民主主義とか資本主義が崩壊しつつある、それが選挙でも機能しなくなっている、それは民主主義を標榜する他の国でも起きる、日本だって投票率が50パーセントとかなり利権団体主義であり言論の自由度も世界で二十番目とか低いのである
言論は統制されている、政府は情報を公開しない、それが原発事故に結びついた
コロナウィルスでも本当の情報は公開しないから科学者でも判断できないとしている
科学者はデーターから客観的に判断する、でも公開されない秘密にされているからできないとしている、すると何かマスコミでは過剰に恐怖をあおり視聴率を稼ぐだけとかなる
そこで誤った方向に国民を導くとなる
原発事故のように国民が犠牲にされることにもなる
何が本当なのかわからないからである

欧米が衰退してもう世界にリーダーシップも発揮できない、民主主義も資本主義も崩壊しつつある、世界金融資本とかの陰の支配者も世界を操作できない、支配できない
もうドルが世界基軸でなくなり金融システム自体も機能しなくなり崩壊するという危機にもなっている
つまりグロ−バル経済自体がもう崩壊しつつある、金融システムもこれも欧米による世界支配のシステムだったからである、その背後にはロックフェラーとかロスチャイルドがいたとなる、でもその支配もできなくなりつつある
大きな世界的なシステムの崩壊が起きつつある

ただ次なる世界がどうなるのか?

その前に世界が混乱して第三次世界大戦とかが起きることもありうる
そういう崩壊現象が起きている
確かなことは欧米支配の世界が終わりつつある、これだけは確かである
次なる世界はその混乱からやがて見えて来る
そうなると中国支配になるのかともなる、言えることは欧米支配は終わり西の時代は終わり東の時代に移行する、そういう時代の中で混乱している

日本は東西文明の橋渡し役とされる、東と西の文明を融和させる地理にあり使命をもたされていた、それが明治維新で成された、でもアメリカに戦争に負けて挫折した
そして中国が台頭してきた、では中国が指導国となるのか?
中国は社会主義国であり一党独裁でありその政治体制は世界で世界を導くことはできないでも新しい政治体制とか経済システムとかが作られるのは簡単にいかない
何かアナキーのような状態になる、それをついてまた独裁政治とかナチスのようなファシズムにもなる、世界史もカルマであり過去の悪夢が別な形で世界を席巻することもありうる
世界が混乱してアナキーになりそこで暴力が前面に出てきて民主主義は崩壊する
それが今アメリカに起きている
もう選挙で決められない、政権交代ができない、最後は暴力で決着するとなるからだ

ただ民主主義に代わるもの資本主義に代わるもの世界金融システムに代わるものは何なのか、そうした世界的改革となると新しいものを簡単に構築できない
その前にアナキーとなり世界大混乱となり第三次世界大戦にもなる
でもそういう混乱の時代であり先が見えない時代になっている



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2021年01月19日

カルマの法則 (楽した人は後で苦しむー苦しんだ人は楽になる)


カルマの法則

(楽した人は後で苦しむー苦しんだ人は楽になる)

カルマとは実例がありそれでカルマが法則ともなっていることを知る

子供を捨てた親は子供に捨てられる

これも法則の一つである、その人は5歳まで子供を育てていた、でも子供置いて嫁ぎ先から出た、それは理由がありそこは同情する
姑があまりにもきつい人でありそれで出て行ったのである
その後に来た人も出て行った、異常なほど強気の人であり耐えられないとなっていたからだ
でも子供を置いて嫁ぎ先を出たとしても本人は金持ちの家の後妻に入った
だから生活は楽であった、苦労することもなかった
でもその楽したことが何かかえってカルマになったともなる

なぜなら認知症になり頼る人がなく5歳まで育てた娘に頼ったからである
その娘のことは信じられない非情な異常化した人間になっていたことを書いた
その娘がその親をどう思っているかというと金を得るだけのものでしかない
親とか思っていないのである
ただそれが本人にわからない、認知症になっていてわからない
金があってもその金をどうにもならない、その金を目当てに後妻に入った家の跡継ぎと争っている
これも悲惨だと見た、娘と思っていても娘は親と思っていない、ただ金が欲しいだけである、施設に入れていてもそんなふうにしか思っていないのである

なぜそうなったのか?

確かに家をでるというのはやむをえなかったかもしれない、でも子供と一緒に出れば良かったのかもしれない、それができなかった、そして楽な道を選んだのである
つまり楽なことが必ずしもいいとはならない、でも人間は楽な道を選ぶのである
これとはどうにもならない、でも苦しいことを選ぶ選択もある
それが後に楽になるということもある、苦しいけどその苦しさに耐えてのりきれば楽になる

楽は苦の種、苦は楽の種

これなのである、それで若いうちは望んで苦しんでおけとなる、なぜなら人間に生まれたことは苦から逃れられないからである、そもそも生まれたこと自体が苦しむためだともなる、業(カルマ)の故に生まれてそのカルマを解消するために生まれたともなる
だから人間は必ず苦しむようにできている

そして楽なことは苦しむことにもなる、楽なこともカルマを積んでいるのである
この女性の場合は楽な道を選らび老人になって苦しみを受けるようになったのである
意外と金持ちの親は施設にあづけられて子供はかまわないのである
でも子供が親が苦しんで育てとかなるとその親の背を見て育つから孝行するともなる
だから必ずしも金持ちの親がいいともかぎらないのである
つまり金持ちの人は子供を苦労して育てるということがないからである

他人のことをあれこれ言うが私自身も若い時は望んで苦しんだがその後は楽していたのである
その楽が苦に変わった、介護となり苦しむ結果となったからである
だから楽していることも必ずカルマになってくる、人間は何をするにしろカルマを積んでいる、それが自覚できない、でも60以降とかなると必ず自覚させられる
苦しみとなって現れるからである
だから苦しんだ人は後でかえって楽になる

人生も長いスパンで時間でみると違ったものになる、結果がわからないからである
苦しい道を選んでもそれが一生苦しいとはならない、後で楽になる
楽な道を選んだらそれが苦しみとなって後年現れる
だから何か選ぶ時はむずかしい、結婚するにも女性なら金持ちとかとしたとなりともかく楽に生活できる人を選ぶ、でも結果的にそれが楽になるとはかぎらない
女性もどこかで苦しむようになっている、だから苦しい道を選んでも後で楽になることがある

この辺でも農業をするなと親に殴られた人がいた、農業は金にならないとかなり苦労ばかり多いとなりそうなった、でも原発事故以後その子供は親になりその子供が故郷を捨てて帰らなくなった、何かこれもカルマだったとなる
農業を軽んじたせいだったともなる、それは漁業でもいえる
だから東電に漁業権を売り楽な暮らしをしていたのである、補償金で楽な暮らしをしていた、それが事故で故郷に住めなくなったのである

しかし人は長い目ではみない、今良ければいいとか今が楽で贅沢すればいいとしかならないのである
ただ結果的には長い目でみれば「楽は苦の種、苦は楽の種」になる
それは長い目で見てそうなるのである、人間は長い目で見るこがなかなかできない
今が良ければいいとしかならないからである
そして人生の選択でも楽な方を選ぶのである
ただそれがみんな楽になるとは限らないのである、だからカルマの法則がある
いろいな実例を人生で見てゆくとこれもカルマだなと気づくのである

息子の介護殺人が増える (男は家事ができない相談する人がいない)


息子の介護殺人が増える

(男は家事ができない相談する人がいない)

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2020年4月、福島・南相馬市で、自宅で介護をしていた70歳の母親の顔に、折りたたんだ布団をかぶせ窒息死させるという事件が起きた。

逮捕されたのは、47歳の息子。犯行後、自ら消防に通報し、事件が発覚した。

「担当弁護士によると、介護を優先してアルバイトの勤務を調整していたという。状況を聞き取りに来た市役所の職員にも支援を求めることはなく、少なくとも10年以上1人で介護を続けていたとみられる。」

2020年11月16日、判決が言い渡されると、息子は静かに前を向き、裁判長の話に耳を傾けていた。

「おむつ交換の時に泣き叫ぶ母の声を聞きたくなかった」、「母に申し訳ない気持ちでいっぱいです」と、被告人質問で反省の言葉を繰り返した息子

熊本県警宇城署は2021年19日、自宅で同居する母親(90)の首を絞め殺害したとして殺人の疑いで同県宇城市不知火町御領、長男で無職の内山正光容疑者(67)を逮捕した。容疑を認め「親に対するうっぷんがたまっていた」と話している。


2019年10月、郡山市・63歳の夫が、長年1人で介護していた25歳年上の88歳の妻の首を絞めて殺害。

2019年11月、川俣町・68歳の息子が92歳の認知症の母殺害後、自殺。

熊本県で起きた介護殺人は親が90以上で二人を介護しなければならないことで起きた
二人というのは辛い、一人でも辛いのに二人となるとさらに辛くなる
自分自身も二人の親ともなるのでそのことに恐怖していた

私の場合一人がまずひどい認知症になっていた、その介護で二年半が費やされた
二人の親がいて一緒に住めなくなり自分一人で一人の親を介護していた
認知症だから肉体的介護はしていない、認知症は精神的介護なのでそれでまいってしまうのである
そのことを延々とプログで書いてきた
もしこれが十年もつづいたら確実に自分も殺人までにもなる可能性があった
すでにうつ病にもなっていたからである
ただ救われたのは脳卒中になり入院して死んだことである
二年間は苦しかったが意外と早く死んだので助かった
次にもう一人の親の介護になった、これは主に身体的介護であり寝たきりにもなり認知症になったが精神的には楽だった

そしておむつの交換などはしていない、というのは母は入院して死ぬ一週間前までポータブルトイレに立って行っていたのである
だからおむつ交換となるのと自力でトイレに行けるのとでは相当な差がある
介護する者にとってその差は大きい
だからおむつ交換のとき騒がれて殺すまでになった
市職員の支援を求めるというが認知症の場合はない、私は最初民間の認知症の相談にのる所にいったが何の援助にもならなかった
そもそも認知症に関しては相談するにしてもその場すらない
たいがい身体的介護であり認知症の介護はその中に入ってないないのである
市役所の職員に支援を求めて対応してくれない、認知症は普通の身体的介護とは別だからである

そもそも認知症とは何かを知っている人は少ない、医者すらわからない人がいる
なぜなら直接認知症の人を介護しなかぎりわからないからである
私は介護していてこれがどういう病気か理解するようになって楽になったのである
一時は狂気になったと思い自分自身も恐怖した
でもこの病気は狂気とも違うときづくようになった
確かに物忘れでそれが狂気化するのだが人間として何かわかっていることがある
そして認知症の不思議は正気にもどることがある
だから愛情もって世話すればそれが通じる、でもそれをしないと恨まれる
最後は私が世話してきたことをわかってくれて死んだから救われた
それは自分自身は特別良くされたからできたことである
特に男は介護することが向いていない、家事とかができないし相談する人もなく孤立しやすいのである

熊本の人は二人の90を越えた親でも介護するようになったみたいだ
それで両親を殺す悲惨な結果になった
二人を一人の息子が介護することはあまりにも負担が大きすぎる、それと同じことが自分に起きるところだったし現実にそうなる寸前であった
一人が早く死んでくれて助かったのである 

いづれにしろ介護殺人はこれからも増えてくる、その加害者になるのが息子が多いのである、男は相談する人もなく孤立するからだ
女性だと相談する人がいる、そういうコミニケーションができるのが女性だからである
男性の場合はしにくい、そして孤立する結果としてどうにもならなくり親を殺す悲劇になる
私の場合は自分自身が病気になったことでも苦しかった
そして自分の所に来た人たちは金を無心しようとする人たちだけだった
自分の窮状を察してくれる人はいなかった、むしろ田舎だとそうして人が苦しんでいるのを楽しく見ているのである、それはおそらくそういう目に田舎であっているから他者が苦しんでもそれが楽しみともなっているのである
ただ傍観しているだけでありそれより楽しみともなるのである
ただこれも自分が楽したことによるカルマでもあった
カルマは必ず60以降に苦しみとなって現れるからだ 

これからこうして介護殺人が増える、90以上の親など普通であり当たり前にいる時代である、そして介護になる、だから親二人を一人の息子が介護することもある
その負担に耐えられなくなる、裁判でも情状酌量になっているのもわかる
もう限界になりやむをえずそうなったとなるからだ
だから介護で死んでくれないかなと思うのは普通のことである
自分自身もそう思っていたからである、でも私の場合は一人が早く死んでそのあともう一人介護になったから助かったのである

二人同時に介護することになったらどうにもならなくなった
そういう恐怖があった、そして最後は介護したことで感謝して死んでくれたので心やすらかだった、死んだあとも心安らかに供養できている
もしこれが苦しい介護でも恨んで死ぬようなことがあるとあとあとまで悔やむことにもなる、認知症でもそういうことがわかるからだ
いくら苦しくても恨んで死なれると後味が悪くなるし後悔になるから苦しいのである
ただ自分の場合は他の人と違って特別良くされたことでできる
みんながそうではないからそういう人は本当に介護することができなくなる
男の場合は家事にもなれていないし女性のように援助を求めににくいしと不利なのであるそれで男が介護で親を殺しているのが多いのである





2021年01月17日

みちのくに冬深む(家に死者を偲ぶ短歌十首)


みちのくに冬深む(家に死者を偲ぶ短歌十首)

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地の底に眠り入るかな冬深む

地の底に地上の音絶え冬深む

地の底に記せしものや冬深む

地の底に隠さるものや冬深む

みちのくの王の眠るや冬深む


冬長く母はありなむ我が家になほともにしも籠もりけるかな

六〇年我が家に嫁ぎこの場所に母はありにき冬深むかな

我が一人家を守るや冬深む母なほここにありしと見ゆる

我が家に今日もいつつも冬深む亡き人なほもここに偲びぬ

しんしんと冷える夜かな我が一人家にしありて亡き人しのぶ

もの言わぬ死者にありしもなほ家を離れずここに堅くあるかな

我が一人家に籠もりて冬深む姉と母なほここにありなむ

死者なほも家にありなむ冬深むストーブの火のあたたかきかな

みちのくや芒の枯れて蕭条と老いあわれ過ぎゆくときの遅かるべしかな

ふるさとに根付きし樹々の争そわず今日も通りて冬深むかな 
                          

何か家のことを書いてきた、家族のことを書いてきた、家族がみんな死んで一人家にいるするとかえって家族のことや家のことを思うようになったのである
母は私の家に嫁いできたけどあまりいいものではなかった
いい待遇はされなかった、そしてもともと目立たないからいるかいなのかわからないような存在だった

なぜ自分が今こうして死者を偲ぶようになったのか?
それは六〇年とか長い間一緒に暮らしたからである、その長さのためだったのである
結婚して外に出た娘とか息子でも一緒に暮らさないと疎遠になる
私は特殊な事情で一緒に暮らしていた、ただ姉から比べると内向的で目立たなかった
だからその存在を意識しなかったのである

でもつくづく嫁は女と家なのである、つまり死んでも依然として家にいる、家と一体化するのである、そのことは生きている時は感じなかった
死んでから感じたというのも不思議である、死んでから存在感が増すということがある
生きている時は空気の様なものとしてあるから意識しないことがある
いなくなって意識するということが人間にはある
見慣れたものでもそれを意識しない、でもそれが無くなるとあったものがないなとかえって強く意識することがある、それと似ている

別に母でも死者でも理想的な人でない、欠陥があり生きている時はいくら母でも肉親でも嫌な所がある、だから理想化はできない、でも死ぬと死者は何も語らない
何か死者は堅くなっている、石のようにも感じる
それは死者が口をつぐんで語らないからである、語るのは生きている人なのである

冬深むというとき今頃が一番季節的に合っている、ものみな静まり家に籠る
本当に私は旅にも行かないし外に出ない、冬になると自転車だと寒いと出にくい
だから家に毎日籠もっているだけだとなる
ただ雪国ではないから寒さがゆるみ風がないと出かけるのである

冬深むというときみちのくが合っている、枯野の風景がみちのくにあう、西になると東京から西なると家も多くなり人も多くなり騒がしくなるからだ
みちのくは未だ荒野の風景がある、それで心を休めるのがいいのである
みちのくは癒しの空間でもある、東京にいるだけですでに心も消耗して疲れるからである
ただみちのくと言っても広いから一つのものとしては語れない
それぞれの県でも地域でも特徴があるからだ、ただみちのくということで一つのアイディンティティの場にはなる

みちのくの王の眠るや冬深む

これは平泉の藤原氏の長(おさ)だともなる、冬深むみちのくに深く眠っているとなる
そこは京都のような都ではない、荒野の中に埋もれた小さなみちのくの都なのである
その相違が大きいとなる

ともかく冬は休みのときである、活動を停止するときである、自然もそうである
ただ冬(ふゆ)は増ゆであり増えるなのである、野菜でも冬の方が育つと言っている
それは実際に農業している人から生まれた言葉なのである
季語はたいがい実地に生活する感覚から生まれたからそうなる
風流ということではない、日々の生活の中から生まれたからである

現代は活動が過剰になっていた、それでコロナウィルスでそれを止めた、つまり冬は休む時であり英気を貯える時期でもある、それが都会にはない、活動が止まることがない
それで疲れるのである、人間も自然の産物だから自然に合わせて生きるべきなのである
ただ農業は本当に骨がおれるからしたくないとなる
でも実際は農業を知らないと実感しないと田舎というのがわからないのである








死者は家に住み続ける (家の価値は建物だけではない、精神的価値が大きい)


死者は家に住み続ける

(家の価値は建物だけではない、精神的価値が大きい)

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テレビで東京の空家問題をとりあげていた、東京でも空家が増えている、ますます空家800万軒にもなるという時代である
ある人は都会の人は家を買うべきではない、飲み食いして寝るだけのものに大きな金を払うべきではないというのもわかる
ただこの人は独身でありおそらく家で家族と過ごした時間がなかったのである

最近自分が家のことを考えるようになったのは家族がみんな死んだからである
そして一緒に暮らした時間が60年とか長かったからである
それで家族がみんな死んでから何か家を前より意識するようになった
それまでは大きな家でも一室を与えられるだけであり家のことをそれほど意識しなかったのである

でも死んでからここに母が百才まで生きて座っていたとか姉がも座っていたとか死んでから依然としている感覚になる、死者の存在は簡単に消えない、それも家の中にいる感覚になる、そこに思い出があり記憶があり暮らした歳月がある
今やそういうものは家とともに記憶として残されているだけである

建物という時、その機能とかに注目する、でも家には家族共に暮らした記憶の場所なのである、そして老人になるとその生きた記憶の方が大事になり価値あるものとなる
それは見えないものである、記憶とは心の中にあり具体的な形として見えないものにもなる、ただ家があると建物があるとそこで営まれた歴史があり歴史的建造物として残される家も小規模であるが私的なものでも歴史的建造物なのである
家々には必ず歴史があるからだ
ただ家々となると公共的なものではないから私的なものだから歴史的建造物になるのはわずかだとなる

ただ本当に不思議なのは人間が家であれ60年もそこにいれば一緒にいればその存在は簡単には消えないものだと思った
母が座った場所に自分が今座っている、するとそこに母がいる感じにもなる
それで嫁は女+家だということを実感する
そして嫁になった女性でも賃貸とか住宅に住んでいる人は嫁になっていないと見た
一人暮らしでも家に住んでいない人は賃貸だと思い入れがないのである

家の価値は最初は家という建物にある、快適に過ごせるかとかの機能にある
でも時間がたつにつれて家は一緒に暮らした記憶の場所となる
つまり建物に付加されたもの、精神的価値が大きくなる
ただまた不思議なのは家には依然として死者がいてその死者がなお家を支えているという感覚にもなる、そしてその死者とともに残された跡を継いだ人が一緒に家を支えているという感じにもなる
家を通じて死者を背負っているという感覚にもなる、だから家には遺影がどゃでも飾っていてそれで家は継続しているのである

何か人間と家は一体化する、時々家の方が大きく偉大なのかとすら思える
家があるからこそ自分が支えられているとかまで思う
家という建物の方が偉大にも感じるのも不思議である
家というのはそれだけ人間にとって単なる建物ではないのである
日本人にとっては特に家は単なる建物ではない
江戸時代でも侍でも御家中と言っていたのはそのためである、家来でも家のものとなっていたのである

ただ家の価値は外から見たら機能的なものとしか見ない、それは別にそこに家族として暮らした思い出もないからである、その思い出を歴史を受け継ぐこともないからである
都会だと田舎と違って機能的な価値が大きくなる、でも何代も住んでいる家とかなると違ったものになる
いづれちしろ家のことを間借りしているようではその価値がわからない
これまで自分自身も大きな家に間借りしていた感じだったのである
まさに間を借りていたとなる、でも家族がみんな死んだ結果家全体を受け継ぐことになりまるで違ったものになったのである

家族が死んでも家があるからそこに家族もなおいて家を支えまた生きている人とともにいるという感覚になる、墓には死者はいない、家にはなお死者が生き続ける場所だとなる
それで嫁が女に家となるなのである
つまり家を受け継がない女性には何か存在感がないのである
家にはその時々で使い捨てる消費するものではない、家は継続してゆくものである
それは二代くらいでもそうなのである、もう何でも買って消費するとなっているが家はそういうものではない、一時的にそこで食事して寝る空間ではないのである

それは間借りした部屋であり家に住むという感覚にはならない
だから家がない女性は間借りしている感じになる、存在感が薄いのである
嫁に家と一体化した女になっていないのである、その人は夫もいないから余計にそうなる
それで原発事故とかで住む場所がなくなり家に住めなくなったというときみんな家をただの建物だとみている、別に他に補償金をもらったのだから建てたからいいじゃないかとなる、現実に家を建てられない人もいるからだ

でもそこで失ったのは家という建物だけではない、そこで暮らした思い出とか記憶が奪われたのである、だから老人は帰りたいとなるし残っているのは老人なのである
親が施設に入っても家に帰りたいとういとき家で暮らした思い出の場所に帰りたいのである、施設はそういう場所ではない、機能的なものだけであり一時的に老人を世話する場所だからである、家とは性質が違っている、そこに精神的価値はないのである

人間は精神的価値を軽く見るしまた見えないのである
そもそも思い出とか記憶は何か金になるとかない、建物とか土地なら価値になる、金になる、ところがこの世には金にならない価値がありそれが逆に大きな価値となることがある老人になると確かに金の価値は依然として大きい、でも精神的価値も重要になってくる
それが老人は誰でも自覚する、なぜならもう生きる時間がないというとき時間が最も価値ある者ともなるからだ
これまで生きた記憶が思い出が何より価値あるものとして自覚されるようになるからだ

空家の問題はそれが建物として不要になったということにあるがそれだけではない
家にはモノとは違った精神的価値がありそこに思い出があり記憶かある
銭湯屋だったというときそこでくつろいだ人や何か思い出がその建物にあるともなる
それは飲み屋でもなんでもそこに人の営みがありそこに思い出が生まれ価値あるものとなる、人間はただ飲み食いして寝るというだけではない、それに付加して精神的価値が生じる、付加価値が生じる、それは金にはならないものなのである
でも人間として生きることはこの付加価値、金に替えられらないものがある
それが最後に老人になると思い出とか記憶になる
それはもう二度と作れない、経験できないからそうなっているのである
だからつくづくそこに一時でも過ごすことは貴重な時間だったと老人になり意識する
でもはその時間は永遠に帰ってこないのである

2021年01月16日

危機に政府でも備えていなかった―原発事故でも同じ (さらば厚労省ー村重直子を読む)


危機に政府でも備えていなかった―原発事故でも同じ

(さらば厚労省ー村重直子を読む) 

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さらば厚労省 それでもあなたは役人に生命を預けますか?


コロナウィルスと原発事故の共通性を追求して来た、この本を読んでわかった
インフレインザですでに経験済みだったのである
その経験から改革も成されず備えないからコロナウィルスでも対応できない状態になったその責任は厚労省の技官にあるとしている
厚労省の責任であり医師の側からの発言している

危険に備えられなかった!

備えることはできたが政府では官僚でもしなかった!

これが共通した原因になる、専門家がいる、原発でも十数メートルの津浪が来ると科学者が専門家集団が警告したがそれに備えることを東電でも政府でもしなかった
保安院は何の役割も果たさなかった、不安院とされた
この本でも医師としての経験がありアメリカでの経験もある人がそのことを指摘しているいろいろ提案してもそれが実行されなかった
そのことが今の危機に対応できない原因を作りだしていたのである
インフレインザで今の事態が予測できていた、そしてその通りになったのである

●医師不足

●看護師不足

●ウィルス専門病棟の必要

●勤務医と開業医の分化の問題

本当に今そのことが問われている、でもすでに専門家は現場で働く医師はそのことがわかっていた
それは原発事故になる前に配管が老朽化して危険だとか現場の人が指摘していた
でもそのことに危機感をもって対処しなかったのである
だからこれも人災の面があった、確かに津波とか地震が原因であり不可抗力だったというがそもそもその危機にほとんど備えてないなかったのである
だから爆発した時、浪江町民は一番危険な山の奥の津島に町長の命令で避難したのである
この本ではすでに今起きていることを予測している、専門家で現場で働いていた人が厚労省の技官によって官僚によって制約されてやりたいことがやれなかったと言っている
それは厚労省の官僚が技官が現場の医者より上にあり命令する人だからそうなったとしている、その権限が大きいからそうなったとしている
それで心ある医者は国民のために患者のために尽くそうとしているかるが適わなかったとしている

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今の現状をすでに予測していた、それはわかっていたことなのである
でもその危機に対して備えていないだけだった、それを怠ったのは誰なのか?
それは政府であり厚労省である、この本ではどういうわけか舛添氏が厚労省の大臣の時に改革が行われたとか評価している、でもなぜあれほどバッシングされてやめさせられたのか?それも一方的だったのかともなるがその辺は私にはわからない

とにかく原発事故でも政府の責任が重かった、危機に対して対策をしなかった
政府の仕事は国民の安全を計ることである、だから軍事でも原発でも医療でも危機に備えることがその主な仕事なのである
ただそれが成されていなかった、その理由は利権とか省益とか官僚の無策でありそれが国民に甚大な被害をもたらしたのである

原発事故だって危機に備える予行演習はできたのである、それをしなかった、ただ「安全神話」を作りあとは何もしなかったのである
本当にずさんだったのである、官僚は利権になればいいとしかなかった
それはコロナウィルスでも似たようなことだったのである
ただウィルスとかはインフレインザでも経験ずみであり対策できた
それをコロナウィルスが蔓延しはじめた去年からわかっていたのにしなかった
そして今になって陽性者が増えて混乱しているのである

何か現代の問題は複雑になり誰も統一的に指導できない、それはアメリカの大統領選挙でもわかる、民主主義が壊れてしまったということでもそうである
ナチスでも正式な選挙でナチスが力をもった、暴力ではなかった
民主主義はまたファシズムになりやすいのである、創価の様なカルト教団に影響されているのもそうである       
なぜファシズムになるのか?

統一して治めることができなくなる、そこで強力なヘッドが望まれて一党独裁とかファシズムになる
ただまた強力なヘッドがいないことで混乱して治めることができない
コロナウィルスを抑えるのに成功したのはニュージランドとか台湾とか小国で島国でありそこはガバナンスが行き届くからできたのである
イギリスは海峡があってもヨ−ロッパと陸続きのようになっているから抑えることができなかった

船頭多くして船山に上る

民主主義の弱点はここにあった、みんな船頭なのである、言いたいことを言う、でもそんなことをしているうち変な方向に行ってしまうのである
だから強力なヘッドがいなと導けないとなる、でも民主主義ではできない、それで民主主義もアメリカで崩壊しているとなる

ともかく現代社会は科学社会であり科学のことで混乱して来る、専門家でも実際はコロナウィルスについてわからない、インフレインザでもわからないとしている
わかっているのは天然痘とか結核くらいだとしている
だから専門家でも様々な意見がありまた厚労省ではデーターを出さないから専門家でも判断できないとしている  

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武田邦彦氏もそのことを言っている、データーが見れないので判断しようがないとしている、つまり秘密主義でありデーターを隠している
それは原発でも内部のことを知ることはできなかったと同じである
そしてマスコミはそもそも情報を得るために政府機関に忖度するだけで本当のことを知らせないのである、利権を得るためにそうしている
そのことで原発事故でもそうだったしコロナウィルスでもただ危険をあおるだけであり
視聴率をかせぎ宣伝する会社から金をもらうだけだとしている

つまり本当にコロナウィルスという敵にみんなで協力して立ち向かうということができない、個々の団体が利権を優先して肝心の安全とか無視される、安全より利権が先だとなるそうなるとコロナウィルスでも統一して一致協力して立ち向かうことができない
そして大惨事にもなる、ただこの対処方法は普通の風邪であり二類からはずす、それで十分だという意見もある
ある程度感染することは防げない、だから恐れ過ぎることは良くない
ただコロナウィルスを受け入れる専門病棟とか医師とか看護師を用意しておく、それは必要だとしている
その医師でも看護師でも用意できていなかった、減らしていたし看護師でも免許もっている人でも半分が看護師になっていないという,アメリカではその医師や看護師は十分にいる、備えられている、そこが違っていた
だから医療崩壊があれだけ感染者と死者が多くても医療崩壊していないのである
いかに日本が脆弱な医療体制だったか、感染症には備えていなかったか見せつけられたのである

posted by 天華 at 19:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

私の母の実家の近くは相馬農業学校がある (そこは空襲で爆撃された)


私の母の実家の近くは相馬農業学校がある

(そこは空襲で爆撃された)

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1908年 - 相馬郡立相馬農業学校に校名改称。
1921年 - 福島県立相馬農蚕学校に校名改称。

なぜ農業学校から養蚕学校に変わったのか?
おそらくそれだけ養蚕が盛んであり養蚕を学ぶために名称を変えた
そしてこの養蚕学校の夜の森公園の近くに私の母親の実家があった
今は何もない、墓は残っている、母もまた原町紡績で糸取りとして働いていた
原町紡績もそうだがアメリカに絹織物を絹を輸出するために日本全国で養蚕が盛んだったのである、そのために今でも養蚕するために兜作りの家をみかける
それでどれだけ養蚕が盛んだった今でもわかる

私の母は大正生まれであり百歳まで生きて死んだ
その労働はきついものでも女性が働く場ができて現金収入になったからかえっていいものだったのである、それまで女性の働く場所は少なかったからだ
その後は東京に出て女中になった、女中が当時の働き場所だったことが多かった
なぜなら電器製品がないのだから洗濯でも手で洗っていたからその手間が大変だったのである
それで普通の中産階級の家でも二人の女中を雇っていた、それだけ家事が大変だったのである,今だって家事は大変である、でも一人暮らしでも電器製品があるから家事ができる

その相馬相馬農蚕学校が戦争でアメリカ軍に爆撃された、それで燃えた
私の母は防空壕に逃げた、でも飛行機がすれすれに飛んできて蓋がもち上がって怖かったという、原町には飛行場もありねらわれた、また駅もかなりり爆撃された
大きな建物が爆撃された、相馬農蚕学校は大きな建物だから爆撃された
また仙台市も爆撃されてここからも空が赤くなるのが見えたという
それだけ燃えたともなる
無線塔にも飛行機から銃で撃たれた、その痕が残っていた

もう今になると戦争のことは忘れられてゆく、第一もう戦争を体験した人が死んでゆきわからなくなってゆく、私の世代はまだ戦争体験した親がいてそのことを聞いている
私の姉は従軍看護婦でありシンガポールの向かい側のジョホールバルの赤十字病院で四年間地獄の苦しみを受けて働いた
でもみんな死んでしまった、でも直接体験したことを聞いている、次の世代になると戦争のことは余計にわからなくなる
戦争のことはわかりにくい、それは日常からイメージしにくいからだ
人間は実際に経験しないと理解できないことが多いからである
第一戦場で人を殺すということは日常生活からイメージできないからだ
でも何か18歳で志願兵になった人は人を殺したらしい、そのことを言えなかったと見た口をつぐんだからである  

昭和15年以降、国民服として一般の成年男子にも戦闘帽様式の帽子の着用が推奨された。国民服は生徒の通学服としても指定されたため、帽体正面に校章を取り付けて学校制帽としても使用された。戦中から戦後間もなくを舞台にした映像作品の多くで、民間人や復員兵などが着用している姿を多く目にすることができる。

また、戦時中当時のプロ野球においても、試合用ユニフォームとして従来の野球帽に代わり戦闘帽が採用されていた時期がある。

この戦闘帽をかぶり子供の時戦争ごっこしていた記憶がある、その頃戦争は生々しいものとしてあったためである  

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夜森公園の名称は双葉辺りの夜森公園と同じてある、ということは夜(よ)は余であり
余の森であり相馬の殿様の森だとなる、双葉大熊辺りは森でありそこが相馬藩と磐城との境目になり余の森ということで名付けられた
小良ヶ浜(おらがはま)というのも俺らの浜ということになり相馬藩の領域の浜として名付けられたのかとなる

ともかく私的なこととしては母の実家は不和分裂の家だったのである
それが尾をひいたのか私にもそのカルマが及び苦しんだとなる
親戚関係でも不和分裂したともなる



posted by 天華 at 10:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 明治維新-明治以降

2021年01月15日

原町の夜の森公園を回る (その近くに母の実家があったーそして昔をふりかえる)


原町の夜の森公園を回る

(その近くに母の実家があったーそして昔をふりかえる)

夜の森の公園の松古りにしを冬あたたかく昔を語る

夜の森の公園で老人と語った、その人は腰が痛いとか杖ついて歩く
あそこは山も見えいい場所である
何か電柱に上る仕事をしていた、その時安全を計ることなく上らせていた
今は必ず安全を計ることが定められている
何か昔はそうして安全を計ることなく仕事をさせられていたのが多いみたいだ
そういう安全が無視されていたとなる

高い場所での仕事は危険である、でも大工さんとかは普通にしているし電器屋でもアンテナを取り付ける人は屋根に上ってしている
でも怖くないという、機敏であり高い所を怖がっては仕事はできない
老人というときその人がどういう仕事をしたか興味がある、そういう体験を老人は話したいのである、なぜならそれが人生だったとなるからだ
ただ話を合わせるに話を聞く方でもある程度そうした同じような体験をしていないと通じないのである、そこがむずかしいのである

私自身がアルバイトでビルの建築現場の四階で足場をもちあげる組む仕事をした
そんなことをアルバイトでさせるべきものではなかった
現実にアンテナだったか屋根に取り付けるアルバイト落てで死んだ人がいる
その時は本当に死ぬところだったのである 
そうなると労災にも入っていないから保証もないとなる
だからそとういう場所で簡単に働くの問題となる
働く方も悪いとなる、ブラックな会社では働くなとなる
ただ若い人は無謀だからあまりそんなことを考えないのである

今日はあたたかかった、だから自転車でも行けた、自転車は風に弱いし寒さにも弱い
それでぐるっと原町の方をまわってきた
夜の森公園の近くに母親の実家があった、でも子供の時一回くらい行ったが記憶から消えた
母親の実家は何か家族が常にもめていた、それでおばさんにあたる人は横浜の方に出て行ってしまった、その女性は母の姉だった、後妻が入ってきて嫌になり出て行った
その後に母も東京に女中に出たのである
そのことをか語ればまた長くなる、その母も百才生きて死んだ
いづれそういう人が生きていたことも誰もわからなくなる

残されたのは私一人にもなる、母の実家の話をできるのは自分だけだというもなる
一人は確かにいるとしてもその実家の話を聞いていない、その女性は母の実家を継ぐものだったが何か異常化していた
あんなに人間が変わるものかと恐怖した、だから実家の墓参りにも行かないのである

ただ育ての親が「ひどい娘だわ」と私に電話で言って死んだのである
幸い介護されることもなく急に死んだから良かったのである
まずその娘は介護などできないからである,非情な人になっていたからである
私の家とは仲良くないし付き合っていなかった、だからその母と娘のことはわからなかった
でも私の家にきて母が介護状態に寝ていたとき「金でめんどうみろ」と言って血相変えて去って行った、それからすでに十年は過ぎた

今振り返るとなぜそんなことになったのか?

おそらくそのことで私自身もその娘のことが忘れらず思い出すと怒りを覚える
つまりその育ての親が私自身に最後に恨みを残して死んでいったのである
誰も言う人もいないので私に悔しいから訴えて死んだとなる
人間はこうして死ぬことは怖いことにもなる
恨み残して死ぬ、その恨みが自分に託されたともなる
それがわかったのはその娘が私の家にきて信じられない暴言を吐いて去って行ったことである    

それは私がその娘を恨めということでその育ての親が私に最後に電話してきたのである
自分もそうしてその娘がいかにひどい娘かを知らしめられたのである
誰かの恨みとか憎しみが伝播される、それで直接関係ない人でも誰かを恨み憎み殺したいとまでなるとそれが全然関係ない人にもその怨念がうつることがあるとインドの哲学者が言っていた、そういうことが自分にも起きたとなる
そして人間は最後の言葉が最後は大事である
私は家族を二人介護してそれがわかってくれた、それで感謝してくれた
それで心安らかなのである、供養もできる、それは特別自分は良くされたからそうなったのである

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原町の夜の森公園を回る (その近くに母の実家があったーそして昔をふりかえる)


原町の夜の森公園を回る

(その近くに母の実家があったーそして昔をふりかえる)

夜の森の公園の松古りにしを冬あたたかく昔を語る

夜の森の公園で老人と語った、その人は腰が痛いとか杖ついて歩く
あそこは山も見えいい場所である
何か電柱に上る仕事をしていた、その時安全を計ることなく上らせていた
今は必ず安全を計ることが定められている
何か昔はそうして安全を計ることなく仕事をさせられていたのが多いみたいだ
そういう安全が無視されていたとなる

高い場所での仕事は危険である、でも大工さんとかは普通にしているし電器屋でもアンテナを取り付ける人は屋根に上ってしている
でも怖くないという、機敏であり高い所を怖がっては仕事はできない
老人というときその人がどういう仕事をしたか興味がある、そういう体験を老人は話したいのである、なぜならそれが人生だったとなるからだ
ただ話を合わせるに話を聞く方でもある程度そうした同じような体験をしていないと通じないのである、そこがむずかしいのである

私自身がアルバイトでビルの建築現場の四階で足場をもちあげる組む仕事をした
そんなことをアルバイトでさせるべきものではなかった
現実にアンテナだったか屋根に取り付けるアルバイト落てで死んだ人がいる
その時は本当に死ぬところだったのである 
そうなると労災にも入っていないから保証もないとなる
だからそとういう場所で簡単に働くの問題となる
働く方も悪いとなる、ブラックな会社では働くなとなる
ただ若い人は無謀だからあまりそんなことを考えないのである

今日はあたたかかった、だから自転車でも行けた、自転車は風に弱いし寒さにも弱い
それでぐるっと原町の方をまわってきた
夜の森公園の近くに母親の実家があった、でも子供の時一回くらい行ったが記憶から消えた
母親の実家は何か家族が常にもめていた、それでおばさんにあたる人は横浜の方に出て行ってしまった、その女性は母の姉だった、後妻が入ってきて嫌になり出て行った
その後に母も東京に女中に出たのである
そのことをか語ればまた長くなる、その母も百才生きて死んだ
いづれそういう人が生きていたことも誰もわからなくなる

残されたのは私一人にもなる、母の実家の話をできるのは自分だけだというもなる
一人は確かにいるとしてもその実家の話を聞いていない、その女性は母の実家を継ぐものだったが何か異常化していた
あんなに人間が変わるものかと恐怖した、だから実家の墓参りにも行かないのである

ただ育ての親が「ひどい娘だわ」と私に電話で言って死んだのである
幸い介護されることもなく急に死んだから良かったのである
まずその娘は介護などできないからである,非情な人になっていたからである
私の家とは仲良くないし付き合っていなかった、だからその母と娘のことはわからなかった
でも私の家にきて母が介護状態に寝ていたとき「金でめんどうみろ」と言って血相変えて去って行った、それからすでに十年は過ぎた

今振り返るとなぜそんなことになったのか?

おそらくそのことで私自身もその娘のことが忘れらず思い出すと怒りを覚える
つまりその育ての親が私自身に最後に恨みを残して死んでいったのである
誰も言う人もいないので私に悔しいから訴えて死んだとなる
人間はこうして死ぬことは怖いことにもなる
恨み残して死ぬ、その恨みが自分に託されたともなる
それがわかったのはその娘が私の家にきて信じられない暴言を吐いて去って行ったことである    

それは私がその娘を恨めということでその育ての親が私に最後に電話してきたのである
自分もそうしてその娘がいかにひどい娘かを知らしめられたのである
誰かの恨みとか憎しみが伝播される、それで直接関係ない人でも誰かを恨み憎み殺したいとまでなるとそれが全然関係ない人にもその怨念がうつることがあるとインドの哲学者が言っていた、そういうことが自分にも起きたとなる
そして人間は最後の言葉が最後は大事である
私は家族を二人介護してそれがわかってくれた、それで感謝してくれた
それで心安らかなのである、供養もできる、それは特別自分は良くされたからそうなったのである


コロナウィルスを防ぐ方法がない (交通が止められない社会だから)


コロナウィルスを防ぐ方法がない

(交通が止められない社会だから)

長崎大学熱帯医学研究所  森田公一 所長 

「こういうふうにばらばらに違ったところに出てきていますね。こういうデータからは患者はその都度、東京あるいは大阪あたり。そのときに流行していたところからウイルスを長崎に持ち込んで感染した、持ち込まれて感染したという状況を示している」

県内では、2020年10月まではウイルスの系統が感染者ごとに異なっていました。

つまり、第2波のときは「市中感染」や「地域内での流行」はなかったことを意味しています


東京あるいは大阪あたり。そのときに流行していたところからウイルスを長崎に持ち込んで感染した

ウィルスは人から人へうつるのが基本である、だから人の流れを止めない限り伝染を止めることができない
南相馬市でも最初東京のライブハウスに行った人からうつった
それは自分の家から500メートルくらいのところだったのである
他にも東京から仕事に来た人が入ってきて伝染したとかある
なぜ昭和村とかの辺鄙な所で感染者が出たのか?
それは福島市辺りで会合とかあり飲み食いがあり感染した
第一もし昭和村とか辺鄙な村を出ずに生活していたから感染しようがないのである
これだけ人が自由に往き来している時代にどんな辺鄙な所でもその行き来を止めることは不可能な時代なのである

第2波のときは「市中感染」や「地域内での流行」はなかった

一地域で感染するのではなく遠くからもちこまれるのがウィルスだということを示している、だから人の行き来を止めることが最大のウィルスに対しての防衛だとなる
それで中国の村では村に入れないようにしたというのもわかる
それしか方法かないのである、あとはワクチンになるがこれもすぐにはできない

でも現代で交通を止めることは不可能になっている、江戸時代の何千倍なのか何万倍なのかもう人の流れを止められないのである
そうして経済活動を止めると今度は生活がなりたたなくなる、そのために犠牲になる人もててくる 

例え一千万の東京をロックダウン、閉鎖しても物流は止められない、そうしたら死ぬことにもなる、その物を運ぶの機械ではない、人間が運ぶ、するとその人間から伝染するのである,ヤクルトですら配達を停止するというのはそのためである
この辺ではドローンで配達する実験が行われている、それは震災以後ロボット工場ができたからである、それなら安全だとなる

確かなことは市中感染」や「地域内での流行」はなかった、外からウィルスはもたらされる、江戸時代のコレラは長崎から入ってきて全国に広がった
今回は長崎は逆に辺鄙な地域となり外からウィルスがもたらされたのである

ともかく江戸時代のコレラでも会津若松から拡散した、伝染しなかったのは桧枝岐だけだったとなる、それだけウィルスの伝染を止めることはむずかしかったのである
それで対策として老人は危険だから家に籠っていろというのもわかる
それを徹底すれば被害が少なくなる、でもそうなると認知症が悪化するとか運動不足になるとかで心配する
でも江戸時代とか戦前ですら村から出ないで一生を終わった人がいたのである
村自体が自給自足を基本としていてそういう生活ができた
今はそういう生活は不可能である、すると対策はワクチンだけなのかとなる
ただある程度感染者が増えて抗体ができるとおさまる、それを実行した国はスエーデンとかでありそれも失敗したとしている

いづれにしろ経済活動を止めることはできない、すると伝染も抑えられない
何かいい方法があるのか?・・・・・ないとなってしまうのである
だから科学者でも伝染は防げない、これは普通の風邪でありみんながかかり抗体をもったとき収まると言っている、それしか方法がないのかとなる
だからといってそんいなふうにはできないから何らか対策をしようとする
でも自粛させても一時的でありまた感染者が増えてくる 

結局厚生省の技官が言っているように

●老人は60歳以上とかは家に籠って外に出ない

●医療を体制を整えて防衛する

それくらいしか方法がないとなる、あとはワクチンだとなる
つまりなんらか効果的な方法がないのである

それで科学者は個々人が免疫もつことだとなる、栄養をとり休養をとり免疫力を高めておくべきだとなる、それくらいしか方法がないからである



posted by 天華 at 09:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2021年01月14日

東京がロックダウンできない理由 (原発事故とコロナウィルスの共通点)


東京がロックダウンできない理由

(原発事故とコロナウィルスの共通点)


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この意見は的を得ているかもしれない、なぜ東京がロックダウンができないのか?
それ自体の是非はあるししなくてもいいというのもわかる
でもできない理由は確かに東京に住んでいる人が賛成しないからである
つまり人間はその住んでいる場所から発想する、住んでいれば環境でも経済でも何でも直接影響する
もし住んでいないければ他人ごとになる
つまりそこに住んでいる人と住んでいな人の大きいのである
別に住んでいなければ旅人であればそこに住んでいるのとは違う
いい景色を見て醜いものを見ないでも通り過ぎるだけだからいいとなる
でも一旦そこに住むとなるとまるで変ったものになる
田舎の醜悪さが人でも嫌というほど感じるようになる
でも一旦住んだら逃れられないのである
毎日変な隣人がいてもそこから逃れなれなくなる

原発事故でもそこに住んでいる人と住んでいない人の差が大きい、それは福島県内でもそうだった、自分自身でも30キロ離れているから原発に関心がなかったのである
でも浪江とかだと原発の煙突とか見えた、だから危機感を感じる
あそでで事故起きたらどうなるのかと理屈ではなく直感的に感じる
でも30キロ以上とか離れていると関心がないということがあった
だから放射性物質が東風に流されて飯館村と福島市まで流れて被害が結構大きいことに驚いたのである

そもそも原発は東京の人が危険だと東京に作れないから福島の浜通りに作ったのである
それでもともと東京に作るのがいいと本を出した人もすでにいたか無視された
それが正論だったのである、それは東京に住んでいればその人たちが直接恐怖を感じるからである
東京には知識人でも技術者でも科学者でも一級の人もいる
また今は左関係者は原発に反対する、そうなるととても東京には作れないのである
それで福島県でも双葉とか大熊の地域は経済的にも遅れているからと狙いを定めて作ったのである
これが今の南相馬市とかなると原町は5万くらいの都市だから作りにくいということもあった、ただ東北電力で小高に原発を作るところだった
それはすでに工事が開始されるところだったのである
でも事故が起きて中止されたのである、その小高だと前の原町市でも隣の鹿島でもまた相馬市ですら30キロ圏内にも入ることになったのである

このコロナウィルスは大都市から拡散する、名古屋市でも大阪でも福岡でもそうである
それで一番影響の大きいのが東京なのである
だから東京の問題だけではない、大都市だけの問題だけではない、その周辺も影響する
東京にその周辺に人口が一千万以上密集するからそこを止めないと拡散する

つまり東京が大都市が元凶だとなる

それで東京に原発事故で避難した人たちが放射能がうつるから来るなとか子供がいじめられたりした
それと同じことが起きている

コロナウィルスをうつるから東京から来るな!

これも本当にカルマなのかと思う、カルマは必ず人間にある
東京は東京だけが良ければいいとなる、だから原発は東京に作るのが正論だった
また津波でも入江があり大きなものが来ないというとき安全だったともなる
ただ地震があり危険なことは危険である
でも津波はそれほど危険なものとはならない地形なのである

いづれにしろ東京をロックダウンして一度徹底的に検査して外に伝染させないようにする東京内でその周辺で収める、それが全国的にもウィルスを拡散させない方法だという
ただそれが東京に住んでいる人たちの反対でできない
結果として周辺に拡散が止められないとなる
そこに巨大化して東京とか大都市の問題があった、人間が密集しすぎたのである
そのこと自体が不自然となりコロナウィルスを抑えることができなくなった
首都移転なども騒がれたがそれも消えた

そもそも大都市そのものが災いだということもある
東京を見たらとてもそこが正常な世界に見えない、そこから災いが生まれ拡散される運命にあったとなる
密集すると火事でも延焼して止められないから大被害になる、そもそも密集することは
地震でも火事でも災害には弱いとなる、ただ便利さを求めると人は密集する
結局津波の被害にあった港は危険だったけどまた便利だからそこに集まり住むようになった、本来は村のように一軒一軒分散して住むのが自然だったともなる

東京がロックダウンできないというときその規模が大きいから経済的影響は全国に及ぶ
東京だけではない、周辺地域とも結びついているからそうなる
それはグロ−バル経済でもそうでありまた広域社会でも影響が拡散する
人の流れでも物流でも止められないのである
ただ東京に住んでいる人はやはり東京から発想する、それはみんなそうである
でも東京は巨大だから東京の影響をその周辺で受ける
それが原発事故となりコロナウィルスが止められない理由にもなる

最初南相馬市でもコロナウィルスを伝染させたのは東京のライブハウスに行った人でありその後も東京から働きに来ていたとかの人だった
東京からコロナウィルスは拡散したのである、そして郡山市とか福島市とか人口の多い都市から拡散してゆく、ウィルスはそういうふうに人から人へ伝染するのだから人の流れをとめないと止められないのである
でもそれが最もしにくいのが現代社会なのである、それは人が密集して住んでいる
密集して仕事しているとか人が集まることが危険になる
だから社会そのものを見直すものとなった

そうは言ってもも江戸時代すらコレラの流行を止めることができなかった
福島県では会津若松市から拡散した、そして伝染しなかったのは桧枝岐だったのである
そこは秘境であり交流がほとんどない地域だった
その代りソバが主食でありヤモリの燻製などを食べていたのである
そうして人の交流がなければウィルスは伝染しないのである
それが江戸時代でも不可能であったということは現代では防ぎようがないとなる

つまり交通が発達して世界の人々が自由に交わるということがマイナスに働いたものとなった
これも何か神からの戒めとして作用しているのかとなる
そもそもウィルスは風土病であり交通でも発達しなければ一地域にしか流行しないものだったからである
それは生態系の防衛であり生態系を維持するためにウィルスが出てきて伝染したのかとなる、生態系を壊すということでは原発事故でも同じだった
空気とか水と土を汚染されたら住めなくなったからである



posted by 天華 at 18:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2021年01月13日

医者(医師会)はコロナから逃げるな! (厚生省元技官がテレビで言う)


医者(医師会)はコロナから逃げるな!

(厚生省元技官がテレビで言う)

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現状について木村医師は「これは戦争のような、いわば国家の危機だ。政府がバッと動いて抑えなければならない
“緊急事態”であるにも関わらず、結局は全ての対応、対策が地方自治体任せになっている。
木村医師(厚労省元技官)


テレビで医師会会長が医療崩壊がすでに起きている、また次は医療壊滅になると会見で言った、医療崩壊とはまだ余裕があるが医療壊滅となるとコロナウィルス意外の人も救急でも診れなくなるという
それに対して医者は逃げるなとか看護師も逃げるなと言った
ここには金の問題とか日本では民間が多いとか医療システムの問題がある
日本では民間病院が8割であり外国では逆に8割が公営の病院である
だから日本の感染者の何十倍がでても医療崩壊していなのである

だから民間の病院の開業医でもコロナウィルスにつぎこめという、金の問題があるがそれは国で支援する、その予算はあるとしている
でもここで起きている問題は何なのか?

医者でも看護師でもコロナウィルスを嫌がっている

感染したくない、だからやらない

いくら金をもらってもやらない

それを強制することはできない、現実に月50万払うとしても看護師はやめたとか集まらないのである
すると金だけでも解決しない問題がここにある
ただ医者は看護師と比べるとコロナウィルスに対して防護している
でも直接接する看護師の方が危険だとしている、それで不満になった

今起きている問題は金の問題があってもシステムの問題があっても心の問題が問われているのかもしれない、自由社会ではやりたくないことはやらないと言えるししなくてもいいとなるからだ

でも警官でも消防士でも自衛隊でも危険だからやらないとは言えないなのである
それが仕事てありそれで税金をもらっているからである
医者とか看護師とか警官とか消防士とか自衛隊とか何かこの人たちの仕事は緊急な事態に対処する仕事である
つまり市民の安全を守る仕事である、それは医療従事者も医者とか看護師もそういう仕事でもあった

ただそれが自覚されていなかった、国全体として国の安全を守る、公益的な仕事だった
それが自覚されなかったのはそういう事態に直面したことがなかったからである
個々の病院で開業医で働いていればそういうことが自覚されない
個々人に対応して働くという感覚にしかならない
でもコロナウィルスに対応するには国家的な防衛ともなる
だから個々の対応とは違ったものになる
消防士が火事になって危険だからと断ることはできない、でも医者の場合は救急車で患者が運ばれれば対応する、何かやはり市民の安全を守るものとして機能している面はあった医者とか看護師は国家公務員のような公益的仕事の機能があった
それで外国では病院でも医者でも公務員のようになっていて政府が支持できたのである
民間だと政府で公務員出もないのだから指示しにくいから対応できない

でも国家的危機になるとそれですまされなくなった、私の姉は従軍看護婦として赤紙一枚で戦地に送られて地獄のような所で働かされた
赤痢になったとかあり相当に苦しんだ、それで死ぬ間際までうなされたようにその戦争のことを話しして死んだのである
その苦しみのことを忘れることができなかったのである、人間は楽しいことは何か忘れるが苦しんだこと苦しめられたことは忘れない、それでいつまでも根にもつ人がいる

日本は戦後何か平和であり平和ボケして国家的危機を経験していない
それが津浪や原発事故でもたて続けに危機を経験したのである
国家総動員のようなことを経験した、コロナウィルスもまた国家的危機であり国家総動員のようにしないと対応できないともなる
ただコロナウィルスはただの風邪でありそんなに騒ぐ必要はないという意見もある
そんな大げさなのではない、それより経済を優先させる、その方が国家崩壊までになるというのもそうなのかともみる

ただまず医療体制を整えるというのは確かだろう、最悪に備えるということも必要だろう経済を優先するにしても医療体制を整えて備える、それは厚生省の女性の技官も言っていた、そこが肝心だとしている
自粛とかの前にまず医療体制を整える、備えるそれが先だとしている
それをしないで自粛とかしても感染者の増加を防げないこともあるから備えろと言っている

それは原発事故でも10数メートルの津浪が来ると専門家が警告したのに備えなかったことで大惨事になったのと似ている
安全に備えるのは無駄に見える、金と労力の無駄に見える
でも一旦事故になったりすると今回のように莫大な損失が生まれる
その安全を計るのが国家の政府の役目だとなる
そういう視点が戦後の平和のために失われていたのである
国家が一丸になって対処するということがなくなった結果として緊急事態に対応できないともなったのである
国家は常に戦後否定されるものとしてあったからである




posted by 天華 at 17:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2021年01月12日

コロナウィルスが宗教団体にも影響した不思議 (会合ができない、集団的示威行動ができない)


コロナウィルスが宗教団体にも影響した不思議

(会合ができない、集団的示威行動ができない) 

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コロナウィルスの影響がこれほど広範囲になったことは驚きである
意外と宗教関係にも影響した、とにかく人が集まることが感染するということでさけられる、すると初詣とかもしにくい、人が密集するからである
最初韓国でキリスト教系のカルト団体が合同結婚式で感染してその教祖が謝った
そもそも結婚式と宗教はもともと関係していない、なぜなら本当は宗教は結婚を否定しているからである、妻帯を仏教でもキリスト教でも否定しているからである

そもそも宗教は集団で示威行動するということはない、修道院にこもるとか洞窟にこもるとかで修行していたのでありそんな数を集めて社会にデモストレーションしたりしない
また金集めとかももともとしていない、シャカはお布施で何とか生きて修行していた
キリストになれば枕するところなしであり家もなにもない、実際は浮浪者のようでもあった、そこに金が集まるとかもない、そもそも集団で示威行動したり金を集めることはしない、それがカトリックになったときローマ帝国に公認されたときカトリックが社会を支配するようにてった時、キリスト教は別なものに変化した
教皇権が王権より上にありその公認がないと力をもてないとなる
それは天皇とも似ている、武士が実際の権力をもっていてもその上に権威として天皇がいて天皇の公認がないと力をもてないとなる

でもカトリックになると実質的に土地を所有したり権威だけではない強大な権力をもつようになった、そこで政教一致であり二重の権力をもつことになった
一般民衆は宗教により恐れさせられる、恐怖心を与えられる、地獄に落ちるとか罰当たるとかを恐れる、それで免罪符が売られたのである
それは日本でも仏教もそうだった、比叡山に僧兵がいして守っていた
琵琶湖の水運でも税を比叡山の僧侶がとっていた
仏教団体が世俗の生活に入り込み支配して税金をとっていたのである
それで信長が反発して焼き討ちして僧侶を殺戮した、それだけそこは宗教というより一つの強大な利権をもつ城と同じだったのである
大坂の真宗の団体でも城であり武士に対抗したのである

だから何か宗教の歴史はわかりにくいが日本でも似たような歴史があったとなる
つまり宗教が世俗化して権力化することがありそれはカトリックの歴史でもあった
それに反発したのがプロテスタントとなったのである
そしてカトリックのバチカンは独立した国となった経緯はもともとイタリア全土がカトリックの土地でありそれで困るとして一部を国として独立させたとある
それだけカトリックが土地をもち権力をもっていたとなる
それで今バチカンの闇が言われる、銀行ももっていてそこで闇の金が流れているとかなるそもそもそうなるのは巨額の金が集まるからそこからしておかしくなっている
宗教に金が集まるとなるとその金を利用したい人が寄ってくる
権力を得たいという人が寄ってくる
第一シャカとかは乞食でありキリストにも何の所有もない、枕する所もない浮浪者と同じだった、そんな人にそもそも金目当てで寄ってくる人はいないのである

ともかく宗教でも金があるとか権力あるとそれを目当てに人は寄ってくる
だから宗教では金を持つとか権力をもつことはかえって危険になる
家族でも遺産争いになり骨肉の争いとなる、人は金には権力には寄ってくる
毎日金にならないかなるものがないかと思っているからである
それ意外人間は関心がないのである、だから宗教でも同じである、欲があり欲を満たしてくれるものに寄ってくるのである
だから普通だったら宗教は欲を否定するのだから寄ってこない、さける、それが何百万と集められるのは宗教とは全く別な目的で集まっているからである

だから宗教の歴史も人間の歴史だから世界で共通したものがある
宗教でも必ず俗化して社会化してそこで普通の世間と同じものとなる
創価がその典型である、現実に信濃町がバチカンになっている、その辺の土地が買収されて不可侵の領域にされているというのもわかる
強大な権力を有しているからである、そして宗教に帰依するというより権力に帰依するのである、それはカトリックと同じである、莫大な金が入る、それで権力を強化して民衆を支配して社会に数で示威行動を示して恐れさせる
そこに入る人も世俗的野心家とか様々な人が入り乱れる
その目的は権力を得るためである、世俗的な権力を得て地位でも金をでも得たいということでそうなる
だから24時間毎日毎年選挙活動に明け暮れている、座談会とは票を集める場であり信仰の場ではない、すべての目的は選挙に勝つためにある
第一そんな何百万の数になればいちいち個々人の事情に答えられないのである
だから目的は一つ選挙に勝つことが仏法の勝利だとなる、あとのことはどうでもいいのである

それが座談会でも開けないということは票も得られないとなる、これは痛手だとなる
また金も集まらないとなるとこれも痛手である、つまり権力を維持する拡大することができくなるからだ、だから致命的にもなる
本来の宗教だったら別に金が集まらなくても数が集まらなくても宗教は信仰はありえる
せいぜい二三人集まるところにキリストはいるとかなっていたからである
宗教はそもそも示威行動はしない、だからイスラム教となるとあれだけの人が集まるというのも解せないとなる、それもコロナウィルスで禁じられたのである

コロナウィルスの不思議はヨ−ロッパでペストが流行した時、カトリックとかの神父とかも相当死んだ、今回でも死んでいる、それでキリスト教が衰退してルネサンスが起こる起因となったということもある
また宗教一辺倒だったことから科学的に合理的にウィルスに対処することが生まれた
つまり科学が発達してきた一因になったという、そういう変化を起こしたのもウィルスだったのである、つまり社会を変えてしまったのである
そもそも津波でもそうだが原発を砕いた、それも自然の作用であり神の力だったともなる人間の力を越えたものによって打ち砕かれたのである
そこで人間が作った「安全神話」は崩壊した、なぜならそれはあくまでも人間が作ったものでありそれで破壊されたのである

つまりこのコロナウィルスは何なのか未知である、でもペストでもそうだったように大きく時代を変える作用がある、それだけの影響があるということである
だから宗教とかまで広範囲にその影響があり驚くのである  


マザー・テレサと人身売買を結ぶバチカン銀行の闇”とは?

【カトリックの隠したい闇】ローマ教皇も認めたペドフィリア問題


posted by 天華 at 11:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層