2021年01月11日

ワンルームで在宅勤務、もう限界! 一人暮らしの若者たちの悲鳴 (アフターコロナの暮らし)


ワンルームで在宅勤務、もう限界! 一人暮らしの若者たちの悲鳴
(アフターコロナの暮らし)

spacehouse1.jpg



これは同情する、テレワークとなると家が仕事場になる、でも日本では借りる部屋でも狭すぎるのである
知的仕事をするには家が仕事場にするには広い家が必要である
広い家だと仕事場としての部屋、台所、食事する場、居間とかと分れて必要なのである
それから寝室も別に必要である
知的仕事にはさらに書庫とか私設図書館があるといい、ネットで調べものができるが専門的になると良質なものは本で貯えられているからである

私は今まで家族三人で暮らしていた、今は一人である、だから大きな家に一人住んでいるから部屋も七つくらいありそれが全部自分一人で使っている
それで感じたことは家というのは部屋ごとに役割りと機能があると思った
台所は食事を用意するためにありまた居間はくつろぐ場所としてある
そして部屋が変わると気分が変わるのである
ワンルームではそれができない、狭い部屋に閉じ込められて牢獄に入ったような気分になる、すると仕事もはかどらないとなる

今私は今は八畳間があり寝室も八畳間でありか広い、仕事しているパソコンがある部屋は狭いがそれはそれなりに機能している
つまりそれぞれの部屋の用途が違っていて機能している
居間にいるときは何かくつろぐ時である、寝室は眠る場所であり広いからゆったりとして眠りに入れる
そして眠る前に必ず本を読んだり書き物したりもする、その空間が何か本を読むことに適していた、そこで何度も同じ本を読んでいると頭に記憶されやすいことが分かった
それは広い部屋がそういうふう雰囲気を作りイメージが湧きやすいようになっていたのである

そして書庫もありそこでアトランダムに本をとりだして読むと前読んだ本でも引用して今では活用している、つまり仕事場になるとこうして部屋の機能がありそに応じて雰囲気も違っていて気分転換になる
気分が自ずとその部屋によって変わるのである、だから今になると自分はつくづく贅沢していると思った、前は家族三人だったからこういうことがなかったのである
割と狭い部屋にいたからである、家族がみんな死んだ結果大きな家を一人で利用するようになりこうなったのである

家で仕事するとなると家にいる時間が長くなるどうしても家の中で暮らすのだから家が大事になる、また老人はあまり外出しないから家に長くいるから家が大事になると思った
今や旅行でも十年以上していないからである
ずっと家にいてこうして書き物したり創作しているからである
画家だったらアトリエが必要なように仕事するにしても仕事場がないとそういう部屋がないと仕事もすすまないのである
だからこれは大きな問題である、東京のような賃貸の部屋ではそうした大きな家とを借りたり部屋をもてないからだ

ただ田舎だと空家とか多く家一軒を安く借りられる、広い庭つきでも借りられる
隣では二階建てで広い庭があり四万で借りている
その庭は特別広いのである、そういう空家となっているのが田舎では多いのである
だから田舎だとテレワークでもできる家に住むことができる
ただ東京から遠くなるから問題が生まれる、簡単に東京に出ることはできないからだ
それでも郡山市辺りだと新幹線で一時間だともなる
すると私が仙台市に行くより近いともなるのである

とにかくアフターコロナではこうして家で仕事するとなると大きな家が必要になる
もし家族がいたら妻や子供の部屋も必要になる、そうすると大きな家で部屋も七つくらい必要になる、そうなると東京辺りだとそんな家に住むのはむずかしくなる
でも田舎だとそういう家に住むことができる
でも実際は東京周辺に移り住む人が多いというのもわかる、やはり余り東京から会社から離れると仕事しにくいことがあるからとなる

アフターコロナで暮らしが生活形態が変わる、コロナウィルスが終息しても変わりないという時家が大事になる
家が高価だからローンで買うことは馬鹿げている、家は消費すべきものだと言うのもわかる、それは高すぎるからそうなっていたのである
むしろ地方だと田舎だと安くなる、ますます空家でも増える、それでリホームして住める東京から離れて住んでも仕事ができるとなると地方の活性化にもなる
少子高齢化で地方は衰退してゆくからである、東京から分散して住むことは地方を活性化するとなる

ただそれでも地方といっても地方都市に人が集まる、東北だったら仙台市とかである
そういう都会に人が集中することは止められない、震災以後、原発事故以後、仙台市に人が移り集まったようになる
どうしても現代はそうなりやすい、便利な場所に住みたいとなる
でも都会で広い家をもつことはむずかしいのである
地方分散移住にしてもやはり東京から千葉とか神奈川とか埼玉になっている
そこはすでに東京圏だからである、通勤圏内だからである

コロナウィルスがこうして生活形態まで変えてしまうのは驚きである
それも世界的に変わる、それがすべて悪いとはならない、かえって人が分散して住みよい社会ともなる、東京一極集中が止まるともなるからだ
会社に通わずに家で仕事できることは大きな変化になる
ただその用意ができていてなから戸惑うとなっている


読書の方法はまず記憶させること
(場所を変えて何度も読むーページを飛ばして読んでもいい)
posted by 天華 at 19:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

商業の歴史をふりかえる (商業は政治力となる軍事力があって成り立つ―グロ−バル経済も同じ)


商業の歴史をふりかえる

(商業は政治力となる軍事力があって成り立つ―グロ−バル経済も同じ)


経済という時、例えば商業の歴史も牧畜とか農業があるとするとそれと同じように古い
人間の歴史がはじまって以来商業は貿易ははじまっていた
なぜならある地域だけであらゆるものがあるわけでもない、また生産もできない
だから自ずと貿易が起こり物々交換も起こる、貿易は何かと交換することである
それで物々交換となるとめんどうだから必然的に貨幣が生まれたのが人間の歴史である
宝貝というのは珍しいから貨幣になった歴史があり漢字で貨幣とか財とかに貝の字が使われたのはそのためである、つまりそれだけ貨幣の歴史が古いのである
それはどうしても人間は一地域だけだと限られた物しか得られないからそうなった
縄文時代ですら貿易があった
ヒスイが発見されているからだ、それは日本海側の糸魚川からとれたものであり
青森の三内遺跡から発見された、つまりそういう遠くからも運ばれていたのである
すでに貿易があったという証拠になる

第一聖書にも記されている神との契約というとき商業がなければその言葉もありえない、商業には契約が欠かせないからである、するとそれだけ商業の歴史が古いということである、契約の虹というのもそうである
そして商業は交通と密接に関係している、遠くに行くとなると交通が発達しなければできないからだ、それで砂漠とか平原とか草原とか川とか海が交通路になり商業が発達した
そこは自然の交通路になっていたからである
日本では山が多いからそれが障害となり交通が妨げられて商業が盛んにならなかったともなる
そしてそういう草原と砂漠とかは遊牧民がいて移動して暮らしていたのである
すると遊牧民は自ずと商業民族となるというのもわかる
それで遊牧民が航海民になった、地中海のフィニキア人は遊牧民だったというのもイメージしやすいのである

歴史家ヘロドトスは、その著書「歴史」の序文で「ペルシア側の学者の説では、争いの因をなしたのはフェニキア人であったという。それによれは、フェニキア人は、いわゆる紅海からこちらの海に渡って来て、現在も彼らの住んでいる場所に定住するや、たちまち遠洋航海にのりだして、エジプトやアッシリアの貨物を運んでは各地を回ったがアルゴスにも来たという。」

紀元前11世紀にはテュロスはイスラエル王のダビデと友好関係を結び、紀元前10世紀にテュロス王のヒラムはイスラエル王のソロモンと共同で紅海の貿易に進出する[7]。紀元前9世紀にはテュロスを中心にフェニキアの貿易網が栄え、その様子は旧約聖書のエゼキエル書に記されている

finicia1.jpg




これだけ古いのである、ソロモンの栄華というときまさに貿易があった商業が盛んになっていたからだとなる、、テュロスは今のシリアでありイスラエルの隣なのである
誤解しているのはイスラエルは半分は砂漠であり商業の国でもあった
だからラクダとともに泊まる宿がある、交易の国でもあった
イスラエルは遊牧民の国であり農業の国ではない、農業はイスラエルが建国して砂漠を畑とか果樹園に変えたのである
そもそも砂漠は遊牧民の世界であり自ずと商業が発達する
その延長として海が交通路になるのは自然だとなる、この辺が地理的に理解しにくいのである、私は実地にイスラエルに行って理解したのである
地理は実地にその場所に立たないとわからない、そのイスラエルからギリシャに船で渡った、それはまさにフェニキア人と同じだったとなる
途中船はキプロスに寄り6時間くらい停泊したのでそこで買ったのがイギリスのコインだったというのもそこはイギリス領に一時なっていたからである

いづれにしろ商業は人間の歴史がはじまるとともにあった、日本の縄文時代でもあった
ヒスイが青森の三内遺跡に日本海から運ばれた、日本海は冬をのぞいて穏やかだから交通路になったためである、太平洋洋側は海が荒いから交通路になりにくくかった

斉明天皇4年(658年)4月に船軍180隻を率いて蝦夷を討ち、飽田・渟代二郡の蝦夷を降伏させる。降伏した蝦夷の酋長・恩荷に小乙上の冠位を与えるとともに、渟代・津軽二郡の郡領に定めた。

飽田・渟代(秋田、能代)となっている、つまり日本海側の歴史はそれだけ古いということになる

ともかく経済を理解する時、商業とか貿易でもこれだけ古い、そこで必然的に交換の道具として貨幣も生れた、聖書でもキリストが神殿で商いの場所にするなと起こった時、神聖な場所が商売で汚されていたからだとなりまたそれだけ商売が盛んになっていたからである
その商業か貿易が盛んになることは必ず経済戦争に発展する
川が交通路になるとその通行のために税金をとるとかなったりする
それで戦争になったりもする、それは現代のグロ−バル経済になってもそうである
米中の覇権争いとなるのはそのためである、商業には政治と軍隊がからんでくるのである商業から戦争が起こり安いのである

商業でも貿易でも本来悪いことではない、貿易して富が増大することである
互いに利益を得ることである、でもそれも全面的にいいものとはならないのが人間の歴史だったのである、それは富の奪い合いとかなり戦争の原因になったからである
まさにグロ−バル経済というのもそうである
それが一見いいように見えても実際は必ず争いになる、富をめぐる争いになる
それが米中の対立となる、政治がからんできて政治とはまた軍事力となりその力で商業の利益を得るとなるからだ

すべての道がローマに通じるというときすべての富がローマに集まるという意味にもなる今ならすべての富がアメリカに集まるともなる、だからドルが世界で通用する
そのドルが世界の基軸通貨共通貨幣になっているのはアメリカが覇権国であるからである第一ドルでなければ石油も買えないのである
それに中国とかが反発するものわかる、そこで対立して戦争までになる

商業の発展には交通が基本にある、だから常に移動して暮らしていた遊牧民は自ずから商業民族にもなる、そして商業は貿易は必ず他国を通る時、盗賊に襲われる
それから守るために軍事力が必要になる、安全が保証されないとできないのである
それで政治力と軍事力が必要になる、また関税が生まれるのもそのためである
それは安全を保証するのものでありやむをえないとなる
だからローマ帝国でもすべての道はローマに通じるというときその帝国内では安全に商業もできるとなった、そして富がローマに集まったのである
モンゴル帝国でもそうである、あれだけ広い地域を治めたと安全に商業を貿易ができるようになり貿易が発展したとなる

第5代皇帝クビライによって元が成立すると、1260年(中統元年)に諸路通行中統元宝交鈔(中統鈔)が7万3千錠(365万貫)発行されて通貨が統一された

中統鈔の材料は桑の樹皮であり、繊維状にした内皮にニカワを混ぜて薄くのばして縦長に裁断し、銅版画で印刷して皇帝の御璽を押印した。中統鈔には皇帝の権威を表す龍や銅貨の図柄、額面金額、発行所、発行所の役人の名前、製造所、そして偽造者を惨殺刑とする文言が印刷された

貨幣が紙幣ともなり統一されたのはモンゴル帝国が成立したからである
それはアメリカ帝国が成立したと同じである、こうみると歴史は繰り返されている
ドルが世界の基軸通貨となったのはアメリカ帝国が成立しているからである
でもその覇権が奪われると中国が新しい通貨を発行して世界を支配するとなる
つまり経済の上に政治力があり軍事力が関係している、それは変わらないのである
つまり民主主義だとか自由経済だとか言っても結局その上に現実的な力として政治力があり政治の力の背後には軍事力があるとなる、だから人間の歴史は本質的に変わりがなく
同じようなことをカルマとして繰り返しているとなる
グロ−バル経済は一見自由であり公平にみえてもそうではない、やはり政治力とその背後に軍事力があって成り立っているのである

posted by 天華 at 10:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2021年01月10日

何に本当の価値があるのか? (紙幣は紙きれになり価値がなくなる)


何に本当の価値があるのか?

(紙幣は紙きれになり価値がなくなる)


何に価値があるのか?土地があるとする、その土地を活かすことは容易ではない
土地そのものに価値がある訳ではない、ただ住宅地になったり道路ができたりとかで土地を利用されるとき高く売れる
それで近くにスーパーができて田んぼだったところを貸した人には定期的に金が入る
金持ちになったとかある
でも土地を活かすことは農業するなら土地があってもそこに労働力とかノウハウが必要になる、土地から価値を生み出すのはその労働力とノウハウだとなる
それが簡単にできないから膨大な耕作放棄地が生れている
機械で労働力省くにしてもその機械のために金がかかり機械貧乏になってやめた人もいる都会の人が農業をしようとして500万かけたが実りがなくやめたとかなる

本当に農業は労働力とノウハウである、それで近くで農業していた人が一人は病気でやめて一人は高齢化でやめたとかなる
そこは草ぼうぼうの耕作放棄地となっている、それが全国で膨大に増えている
だから農業というのは実りをもたらすことがいかに大変かわかる
そして紙幣とかは価値を生み出すとはならない、紙幣は紙切れだから紙切れになってしまう、それで預金封鎖とかが騒がれる、それはもともと紙切れだからである、小判だったから違う、その金自体に価値がある、紙幣は紙切れにすぎないのである
だからいくら紙切れ所有していても本当に紙切れになるという不安をぬぐいきれないのである

今膨大な耕作放棄地がある、また原発事故でこの辺は田畑をする人がいないから草ぼうぼうの荒地となっている、でもそれを活かしようかないのである
それを活かすには労働力とノウハウが必要だからである
うまい梨を作るのに十年かかったとかあり簡単に実りをもたらすことができないからである
何か今年は梨は不作であり馬鹿高く食べたことがなかった、農業はこのように天候とかにも左右されて実りをもたらすことが容易ではないのである
それで原発事故前から農業をしたくないとなり原発が誘致された経緯がある
原発の方が金になるからそうなったのである
実際親に農業はやるなと殴られた人もいる、それだけ農業で苦労しているからそうなる

ただ本当の価値は紙幣にはない、だから預金封鎖で紙幣は紙切れになるとされる
例えば金があってもつくづく年取ると消費すること自体が容易でなくなる
パソコンを買う金がある、でもそれを使うのノウハウを覚えるのが何倍も大変なのであるそれで老人はスマホでも利用できないとなる
何か今の時代は消費することは生産することに通じている
30万以上で荷台のついた電動自転車がでた、それはユニットエンジンが優れていることを経験して知っている、若いならそれを買って旅に出たいとなる
それも体力がなくなりできない、海外旅行をしたい、ヒマラヤにもう一度行きたいとなっても金はあっても体力がなくなりできないとなる
だからそもそも老人は消費ができなくなるのである、その老人が金をもっていることで社会に金が回らないという問題も生れている

おそらく何かコロナウィルスでもエッセンシャルなものが見直された、飲食とか観光とか娯楽関係の仕事が大打撃になった、それは別にエッセンシャルなものではない、なくても困るということもない、それも人間に必要だということはわかる
でもそれがなくても社会は回ってゆく、でも食べるものがないとか食料がないとかなると社会が成り立たなくなる
それで銀行が窮地にたたされるのは銀行に貯金してもそれが預金封鎖されるとか紙切れになるというときその金を活かせないからそうなる
銀行から金を借りてそれでビジネスでも何かを企業してもうけてくれる人がいないからそうなる
つまりいくら金があってもそれが活かせないのである

紙幣自体には価値がない、紙切れに過ぎない、銀行にいくら紙幣を貯えても紙切れを貯えているだけだとなる、、だから飢饉とかがあったら紙切れは役立たない
もし米でも貯えていたら役立つ、戦後は焼野原になり預金封鎖があり本当に紙幣は紙きれになった、それで私の母は前の夫が事故でなくなり一生困らない金をもらった
でも預金封鎖で残ったのはわずかの買った土地だけだったのである
だから本当に紙幣は今や危険なものになっているのだ
ただ何かを貯えるにしても現物だと限界がある
だからこういう時代は次の時代は本当に価値あるものを持っている人が有利になる
若い人は金がなくても働ける体力があるから有利になる
何もなくても働ける体力があるからである
老人はそれがないからいくら金が紙幣があっても価値がないとなってしまう恐怖である
それで銀行員が農業するようになったのも理解できる
銀行はいらないとなってきたからである

とにかく年金頼りの老人とかはこういう時代に不利になる、年金は自分でも国民年金が一か月で一万も減額されている、何か保険にも回されている
そもそも年金は下の世代が働いて税金として納めてくれないと成り立たない
ただもらうだけの老人ばかり増えたら成り立たないのである
ただもう老人には労働する体力もないから価値がないとなる
ただ精神的なものなら老人でも経験があり産みだすことができる
どんな人でも老人になると人生はこんなものだったのかとかふりかえりわかるからである老人はそういうことで価値があるとなるが現実生活では価値を生みだしにくい
でも農業でもこういう肥料をやるといいとか指導はできなる、自ら労働するのではなく
ノウハウを教えることはてきる、だから老人も何も価値がないとはならないのである
ただ現実社会では老人は無用化されるのが多い、それが高齢化社会の問題なのである

posted by 天華 at 11:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2021年01月09日

何でも代替えできる社会の脆弱性 (自粛とステイホームがもはや「正義」ではないこれだけの理由)


何でも代替えできる社会の脆弱性

(自粛とステイホームがもはや「正義」ではないこれだけの理由)

「この店で」食事をしたい、お酒を飲みたい、家族や友人と笑いあいたいと思える場所を持っている人なら、流行が収束してもそれらの場所がなくなっていては意味がないので、多少なりとも問題意識をもつだろう。そして、世論に流されたり、政府や専門家を盲信したりするのではなく、自分で情報を集めて考えようとするだろう。

 逆に、暮らしの中で意味なんか求めない、目の前に「存在するもの」ならひとしなみに等価で、その範囲からランダムに選ぶだけだという投げやりな姿勢で生きていれば、どうせすべてが代替可能なのだから、どうなってもいいものに見えてくる

この見方は参考になる、原発事故でもこのことを私は指摘した
故郷となればその場所の重みはこれとはまるで違って重いものである
それが確かに放射線が怖いというのはわかるしそんな所に住めないというのもわかる
その恐怖もわかるから外から批判しにくい、でも故郷となればそこに江戸時代から家を継いで住んでいる人がいる、それで野馬追い祭りにもでる
そういうふうにその場所には何か金では替えられないものがある、価値がある

でも現代ではそうしてある場所の価値を意識しない、どこでも変わりないとなる
故郷でも便利な場所に一億円もらったら移りたいとか若い人が事故前にも言っていた
都会になると家は買う必要がない、一時的に滞在するものであり消費するものにそんな金を使う必要がないとなる、その人は土地とか家のもっている価値がわからないのである
都会ではそうなりやすい、一つの土地に縛られると商売は成功しないというのもそうである、それが地方と田舎の相違だともなる

この世に代替えできないものがある

家族とかでもは代替えできない、故郷とか土地とかでも代替え可能なのかとなる
人間の一生は短い、一生の経験は限られている、そんなに簡単に家族を変えたり住む場所を替えたりできないのである
何代にもわたってその土地に住みそこがアイディンティティの場所になっている
それを簡単に替えられるだろうか?
ただ便利さを追求すれば便利に住めさえすればいいとなれば替えられる
そうなると一億円もらったら便利な都会に住めばいいとなる

ただ正直現代社会はヒト、モノが自由に世界的にグローバルに往き来する
そういう社会になっているとき、ある一か所に住むということは時代に合わないともなるヒトすら外国人労働者のように金を求めて移動する
ただその人たちは一時的に金のために移動しているのである
移民とは違う、移民となればずっと一生その国に住むのだから違ってくる
ただ一時的に金のために来て帰ってゆくとなるとその国と深くかかわることはない
ある程度稼いだら故国に帰るとなる
つまりそこが生き死にの場所になっていないのである

現代社会は何かただ部品のように継ぎ合わせしている社会である
何でも代替えできるとなる、故郷自体が代替えできるともなる、別な場所に移ればいいとかなる、地方でも田舎でも人と人のつながりも消失している
そもそも広域化とかグロ−バル化ということはモノでも自由に入ってくる、木材でも外国から入ってくるとかなると地域の経済自体がグロ−バル化の中に組みこまれているからだということは地域で生きているという感覚も消失する
地域にあるものは大事に思えないのである
米が不作だとなっても他からいくらでも入ってくるとか外国から入ってくるとかなる
国自体でもそうなってしまう、でも昔だっから近くで米がとれていとか物が不足したら飢饉になっていた、外から入ってこないからである
すると地域のつながりも強固なものになる、外部に頼れないからである
限られた小さな地域でまかなうほかないからである

別に広域化でもグロ−バル化でもいい方面にも作用するから否定はできない
でもそれが日常になり当たり前になったとき何かを失っていたのである

暮らしの中で意味なんか求めない、目の前に「存在するもの」ならひとしなみに等価で、その範囲からランダムに選ぶだけだという投げやりな姿勢で生きていれば、どうせすべてが代替可能なのだから、どうなってもいいものに見えてくる  

暮らしの中で意味なんか求めない

まさにこれである、意味より金だとなっている、便利さだとなっている
そこにあるものは代替え可能でありあってもなくてもいいものである
それだけの価値しかない、故郷さえそうなのである
だから突然故郷でも消失してゴーストタウンになった、それは事情がまた違うにしろそういうことで共通した面があることを考察した

そんな簡単に町や村が壊れて消失するのか?

この驚きだったのである、津波でそうなったのはしょうがないとなるが原発事故でそうなったことの驚きである、何代にもわたって歴史的に築かれた街や村が消失する
そんなことがありうるのかということだった
そして確かに補償金で他に家を建てて住んだから被害もなかったともなる
でも何かそこで失われたものを意識する、それは金に替えられない代替えできないものである、その価値は日常的には意識できないものである
金に替えられないものだからである、家族と暮らした思い出とか人とのつながりとかその土地で生きた記憶とかである、だから老人は残って住み続けている                
そこで生きたということが人生にもなっているからである
ただ若い人だと故郷にこだわらない、かえって便利な場所に移りたいということがあり出で行ったのである、そして瀬う帰ってこないのである
そこに世代の分断が生まれたのである

つまりその場所がかけがいの無い場所として意識することがない、そういう場所がない
だからどこにでも移り住めばいいとなる
その飲食店でもなくなっても何も感じない、そもそもそこなくてはならないものがないのである、常に代替えできるものとしてあるとしたらそうなる
一種のモノのようになっている、モノは代替えできる、でも人間はそもそも代替えできない、家族が代替えできないように人間そのものは代替えできない
でも今の社会は常に労働者でも代替えできるものとして時給いくらとか雇われてまた首にして部品のように人間を使っていたのである

何かコロナウィルスがそういうこと今まで見えなかったことを考えるようになったというのも不思議である、何か今までの便利な暮らしでも見直すようになった
それは何かヒト、モノが自由に行き来することに疑問をもたせたのである
コロナウィルスで自由に行き来するのを止められたからである
するとそれに対応する社会が求められる、それは今までは違った社会である
何でも代替え可能となる、人間の商品化とか部品化とかではない、何か精神的なつながりもある社会である

ただそれが江戸時代とか昔に戻るということではないしできない、ただ何かあまりにもグロ−バル化でも行き過ぎた結果として社会の紐帯も失われたとなる
もちろんそれらをすべて悪いものとして否定はできない
それが行きすぎた結果としてなったのだともみる
ともかく世界がグロ−バルに交わるということはすべていいものとして働かなかったのである、戦争で何千万人も死んだのもそうである
経済のグロ−バル化は経済の対立を必ず生み経済封鎖が行われる
そこで戦争になるからだ、日本の戦争もそうだったのである

商業とか貿易はいいものであっても必ず利益を得るための争そいとなりそれが戦争にもなってきたのが人間社会だったのである
イギリスが七つの海を支配したという時、その起こりは海賊だったというのもそうである軍事と商業は結びつくのである、自国の利益が優先されるから戦争にもなる
それで老子の小国寡民の思想が生まれたのである
広く人が交わるといい面があったとしても必ず争いになるからである
それで江戸時代は別に朝鮮とか中国と友好的であり争いもなかったのである
日本がの戦争でも実際はグロ−バル化して必然的に起きたことである
第二次世界大戦がまさにそうである、世界が広くグロ−バルに交わるとそこに衝突して戦争が起きたからである 

いづれにしろこのコロナウィルスはいろいろと社会まで見直すことになったという不思議がある、だからこれは天からの神からの戒めとして起きてきたのかともみる
そもそも入ってはならない、聖域にもづかづか開発して入っていった結果としてウィルスが防衛反応として攻撃してきたのかともみるからである



何かインタ−ネットとは対話的メデアである、それが今までのメデアとは違う
それは誰でも答えることができるからだとなる
新聞とかテレビとかで誰かが一方的に意見をいいそれを聞いているだけだったからであるでもインタ−ネットだと誰かの意見でもそれに答えることができる
対話的メデアなのである、だからただ読んでいるのではなく答える作業をするとより深く記事を読めるのである、そういう作業が必要なのである






posted by 天華 at 09:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2021年01月08日

中立なメデアはない (アメリカも日本も左右に分かれるートランプ大統領を攻撃するメデア)


中立なメデアはない

(アメリカも日本も左右に分かれるートランプ大統領を攻撃するメデア)

メデアは媒介するものとか中立とかの意味がある
でもメデアは中立ではない、明らかに意志をもった存在である
そのメデアの意志を通すために放送する
まずトップで会議を開くどういうふうに放送するか決める
意志決定するのである
それで原発事故でもまず原発避難者側についた発言をすることを決めていたのである
津波被害者もいたが原発避難者が注目されていたのでそうした
それで何か相馬市のトマト業者が飯館村の人を雇わないのは冷たいと言わせたのである
それはNHKの意図をもってそう放送したのである
いわき市の団地でも津波被害者が原発避難者を冷たく扱い仲間はずれにしていると暗に非難させていた
それは原発避難者が多額の補償金をもらっていたからである
津波被害者はもらっていないかったのである
ただそこを無視した、最初から津波被害者側につくことをNHKは決めていたのである
ただ後から両者が和解する方向に放送した

このようにまずNHKはメデアをもっている、放送することができる、そのことで第三の権力ともなった、放送は必ず偏るのである、でもNHKとか他でも何か中立のように見えるのである
だからたいだいは気づかない、ただ私が気づいたのは地元だったからその背景がわかっていたからである
原発避難者は多額の補償金をもらっていた、だから生活に困らない、でも津波被害者は相馬市でもいわき市でも何ももらっていなかったからだ
その差が大きかったのである
もちろん原発避難者にも言い分があり当然だともなり批判したらお前は地元なのに情がないのかとまでなる、NHKでもそう言っているのになぜそうなのだとなる
つまりNHKがお墨付きを与える力をもっていたのである
NHKに取り上げられればそれで知れ渡りそれが正しいとまでなるし人物でも社会が容認するとなる

そしてトランプ大統領でも選挙の時、メデアから聞こえるのはとんでもない奴だとかメデアでは報道しなかった、マスコミはメデアはトランプを常に批判していたのである
だから日本でもNHKでも全部がトランプを批判する立場になったのである
あんな人が大統領になるわけがないとなっていたのである
それはメデアによってそう見せられていたのである
なぜならメデアは民主党側についていたからである、つまりメデアによって常に報道は歪曲されるのである

日本のマスコミでもメデアでも偏っている、左派系がマスコミを支配している
それでインタ−ネットとかyoutubeが生れてそこで放送しているのは右系統が多いのである,マスコミはテレビは右系統を排除することが多いからである
それはネットを見ていたらそのことが明確に対照化されたのでわかった
つまり赤ばかり見ていると赤に染まる、黒ばかり見ていると黒に染まる
マスコミは特にテレビ系統は赤であり左派系統なのである
そこては在日団体系統の支配とか中国寄りにもなる
それはアメリカでも同じである、共和党はナショナリストであり右系統であり民主党はリベラルとかである、また中国よりでもある
この辺は日本と似ているのである

右系統はマスコミから常に排除されて無視される傾向があった、右系統はマスコミではテレビでは発言できないのである
それでyoutubeで発言しているのはつくづく右系統だなと見たのである
この傾向は何かアメリカとも似ている、共和党は右系統だからマスコミから排除される
そしてなぜトランプ大統領が選挙は不正だとして抗議していた
そしてトランプ派の過激派が暴徒化した、死者まで出た
その経緯は良くわからない、でもテレビだと暴徒化させたのはトランプでありトランプは悪い奴だという選挙前と同じようになっている
一斉に攻撃されてまた日本でも同じである、トランプは悪い奴だということしかなくなったのである

そして暴徒がなぜ国会議事堂に侵入できたのか?

そき疑問をyoutubeで説明しているのを見た、アメリカ在住の人である
簡単には侵入できない、それを侵入させたのが警官だったとしている
それはわざわざ侵入させた、それは意図があってそうさせた
何かそれで悪者とさせるために侵入させたとしている
これは日本の戦争でも真珠湾攻撃はアメリカによって日本がそうさせられたとしているのとにている
つまりアメリカは真珠湾攻撃を知っていたけどわざわざ止めなかったのである
それは日本を悪者にして戦争へ突入させるためだったとかの陰謀だったとも言われる
イラクでもそうだった、油まみれの海鳥の写真を世界中が見てイラクは悪い奴だとなってしまったからである
一枚の写真がそれだけの影響を世界に与えたのである

いづれにしろ報道は必ずかたよる、それはメデアが中立ではないからだ
それでトランプがフェスブックでツイッターで別に暴力はやめろと言うことに対しても
その発言をさせなかった、アカントをはく奪までしたのである
つまりメデアをもっている社長がそういうことができたのである
これは大きなも問題だった、IT関係は民主党よりだからそうなったのである

アメリカで何が起きているのか?

それは日本とも似ていたのである、日本でも起こっていることでありメデアは中立ではないから起きて来る問題だったのである
メデアは赤一色にもできる、黒一色にもできるということである
それで偏るのである、だからインタ−ネットで相対化できる?うになったことはいいことである、なぜなら赤一色になることは全体主義になることだからである
相対的に見れなくなるからである、私は右でも左でもない、中立である
どんな団体にも属していないからである
何かの利権団体に属していたら中立ではなくなる、でもメデアはマスコミ自体が巨大な利権団体なのである
宣伝費をもらい利権を得る団体でありそこに公平さはありえないのである
それは報道するのに莫大な金がかかっていたからである
そうなるとどうしても宣伝費に頼らざるを得ないからさ金を出す会社に忖度するようになる
インタ−ネットだと報道するにしてもほとんど無料なのである
ただ手間は省けない、手間がかかるので前はホームページば出していたがまたワードプレスでもしようとしたができないのである
手間がかかりすぎるのである、技術的にもおいつけなくなっいたのである
そこにどうしても非力さを感じてしまうのである

【ワシントン速報G】世界中のワニがどんどん沼から浮かび上がっている。
タイガーもリン木もまだ諦めてはいない!!

冬の鴨(写生俳句のことなどー新年短歌)


冬の鴨(写生俳句のことなどー新年短歌)


lilynewyear11.jpg
今は仲良く姉と母が映っている


                                                  
新年や雲間に光る星を見る

冬の鴨数羽寄り合う今日も見ゆ

一時に散る木の葉二枚や風荒れぬ


玄関に出でて立ちにき新年を迎えて一人家を背負いて

去年咲きし薔薇の花かな年明けて散りしもその花我は思ふも

我が家や黄と紫の菊映えてその間に咲きぬ白百合の花

ふるさとに老いてあわれも枯芒鴨の寄り合い陽は落ちにけり

河原の芒は枯れて陽は落ちぬ今日も数羽の鴨の寄り合ふ

陽は落ちて夕映え残る河原かな芒は枯れて鴨の寄り合う

fuyuyuyake1111.jpg


今年を象徴していたのが雲間に光る星だった、その星は雲に隠れて消えやすいのである
つまり何か今の世相と呼応している、つまり何か文芸とかでも時代を反映する
その時代を読むことが最高にむずかしいのである
その時代をどういう感覚で生きていたかは一時代が過ぎると理解ができなくなる
例えば戦争から70年過ぎた、その時生きた人でないとその時代の雰囲気がわからない
そしてなぜ戦争になったのかということも未だにわからないし不可解なのである
それだけのことがあったのだから70年もすぎたら明確にわかっていいはずだがなぜ戦争したのかも明確ではないしわからないというのも解せないのである
確かにいろいろなこという人がいるが何か明確ではないのが解せないのである

それで私は原発事故のことを地元だから否応なく追及して来た、それは複雑でもその原因が明らかになってきた、それは地元でその事故を経験したからである
これも複雑にしてもやはり地元であり見えるものがあった
でも戦争となるとわからないのである
だから私が原発事故でプログで書いてきたことは地元から見た証人の役割りを果たしていたのである、ただ地元でもマスコミでも真実を語らない、取材もしない
それで地元について悪いことも書いた、するとそれは受け入れられないともなった

ともかく新しい年がはじまった、玄関に一人立つときもう私には家族はいない、でもは一人家を背負うようになったのである、家というとき建物だけではなく死んだ家族も背後にいるのである
去年あったことは今年もある、継続している
500円で買った花は良かった、フラワーアレンジメントでも金と時間がかかる
何か一人ではいろいろなことができない、家事に追われてできない

俳句でも短歌でも自分は写生を基にしている、これは別に才能がなくても作れる
見たままに本当に真実があるからだ、ただ写生俳句は平凡になりやすい、だかか鑑賞するのがむずかしい、その背後の意味をくみ取らねばならないからである
「一時に散る木の葉二枚や風荒れぬ」というときどういうことかとなると死んだ人をイメージする、この年になると同じ年代でも死ぬ人がいる、一時に二人死んだということもある、するとそのことをイメージするのである
写生俳句はこうしてその背後を読み取ることで深く鑑賞できる
俳句は短いから鑑賞する方がむずかしいのである、ただ見たままだとそれで何か特別なものがあるかとなるからだ

だからこの写生俳句と相性がいいのが写真なのである、写真はとにかく見たままを映すからである、そこに嘘偽りがないのである、でも写真でもまた本当に目で見たものをそのまま映すとはならない、なぜならその辺りの雰囲気をすべて感じくことは不可能だからである、だから写真をみて俳句でも短歌でも作れないのである
そこに機械の限界がある、その場に立たない限り人間は感じられないのである
なぜならその場の雰囲気は一部を切り取った写真でもビデオでも感じられないからである
鴨というと秋の季語である、冬となると冬の鴨になる、その鴨を毎日見ている
買物に行くとき河原にいるから毎日見ている、ただそれだけのことだが心にしみる
それはふるさとに老いてゆく姿にも見えるのである
つまり写生からそういうものがイメージされるのである
なんか老人がよりあっている、あまり語ることもなく静かに寄り合っている
そういう風景がイメージされるのである









緊急事態ではまず金だけでは対処できない (原発事故もあらゆる利権団体の利を優先して起きた)


緊急事態ではまず金だけでは対処できない

(原発事故もあらゆる利権団体の利を優先して起きた)


安倍前首相は繰り返し、PCR検査体制を強化すると公言してきた。厚労省は一体、何をしてきたのだろうか。厚労省は、今こそ、民間主導の検査体制の確立を支援すべきだが、実態は反対だ。


本当に大変ならば、パンデミックの影響で患者が減っている医師が応援に駆け付けるべきである。感染専門医でなくても、基本的な医療知識のある医師や看護師の方が、一般ボランティアよりもはるかに役に立つはずである。

  それすらを行わないというのは、「医療関係者の傲慢・怠惰」でなければ、「実はウイルスの影響は大したことはない」のに、医療関連費用の利権獲得のために「恐怖を植え付けようとしている」からと考えざるを得ない。


 
 原発事故のことでも追及したけどあらゆるものが利権団体化してそれが歪める
民主主義とは利権団体民主主義なのである、個々人はまとまった票にならないから無視される、それで個々人は選挙に行かない、現実は5割の投票率しかない
でも利権団体に入っていれば必ず行く、それが創価などでもカルト宗教団体など宗教すら利権団体でありまとまった票をとれると手を組む
宗教は大きな利権団体なのである、御利益を与えるのではなく御利益をもらうのである
賽銭を入れて何か御利益をくださいと祈る、その御利益は神社側にゆく、肝心の御利益を願う人にはいかないのである、現実に神主がその賽銭を盗んだというのもそうである
何かここに日本人の信仰のおかしさがある
創価などでもそうである、24時間年中選挙態勢である、一票とることが信心なのである池田先生のためだとして会合して祈る、それは明らかに政教一致なのだけど許されている結局ここでも幹部とかに金が回る仕組みになっている
別にそれは共産党とかでも同じである、幹部に金がまわり贅沢しているとかなる
それは中国を見ればわかる

原発事故の原因がなんであったのか?

それが10年間地元のことだから追求して来た、合理的に追及してきて見えたきたのは
様々な利権団体が巨額の金のなる原発に群がり利益を得ようとしていたことである
本当にそれは検察とか警察とか自衛隊とか官僚でもあらゆる公的なものでも利権化して天下りしていたとかなる
地元でも漁業組合は利権団体化して事故前も多額の補償金をもらっていたのである
事故があっても金に困ることはない、補償金が他よりもらえるからである
それで立派な家を豪邸でも建てたのは船主だったのである
また原発からは町長とか議員とかにも金が回っていたともなる
なぜなら富岡町長の五億円入っている金庫が津波で流されたから探してくれというのもそうである、そんな金がどこから来たのかともなるからだ

利権団体というとき電事連は大きな資金が豊富な団体である、ここから800億円とかがマスコミの宣伝費として出ていたのである
だからマスコミは原発の危険性を追求しなかったのである、原発の利権は本当に国家予算なみの巨額なものだったのである
国家予算並みにもなる、すると官僚でもその利権を得ようとして危険性は無視されたのである、もちろん地元でも原発で働くと普通の三倍の賃金になるとか働いていた人が多かったのである、だから事故後も東電を批判しにくいと言っていたのである

このことはコロナウィルスでも同じように働いている

なぜ最初から大がかりに陽性なのか検査をしなかったのか?
それはできないということではなかった、民間で千円くらいで今できているからである
検査できないのではなく検査させなかったのである
それは厚労省の省益とか関係してしなかった、それも利権だったとなる

でも緊急事態には利権のことを言っていられなくなる、コロナウィルスでもバタバタ死んだりしているときまずは金を出せ利権だと言っていられない、そうすると国民が死んでゆくからである
そのことは自分自身が経験した、自分が介護で一人苦しんでいる時、苦しんでいる自分のことなど関係なく金を要求して来る、まず金をだせそしたら助けてやるとなる
その人は事業に失敗して借金していたからそうなったのである
私には金はあった、それは後で親が死んでわかったことである
だから助けてくれれば後で払うということがあった
また盗まれもしたがそれも助けてくれたら後で感謝して金でも払うことがあった
でもまず金をだせ、そしたら助けてやるとなっていたのである
それは脅迫だったのである

それと同じようなことが今起きているのかもしれない
医師会ではまず金をだせそしたら何とか対策を考える、まずは金だとなる
もちろん金は必要だし払う、でも緊急の時はそれより目の前の苦しんでいる人を助けることが先決なのであてる
まず金だ、それから考えるとなっていたら助かる人も助けられないのである
それはあらゆる利権団体でそうなっている
そうしてまず金を出せとなるとき身動きとれなくなる
緊急事態でも対応できない、金を出さなければ動かないとしたらそうなる

緊急事態ではまず目の前の人を助ける、それで金のことを後にするとならなければ助けられないのである
戦争中が赤紙一枚で招集されて戦地に送られた、従軍看護婦も突然赤紙一枚きて地獄の戦地に送られた、それに文句も言えなかったのである
それは戦争という緊急事態であり国の存亡がかかわっていたからである
そんなとき金だ利権だと言っていられなかったのである

今コロナウィルスで起きていることは戦時中にもなっている
学生も看護しろとかなるとき何か学徒動員を思いだした、兵士になるものがいなくなりそうなった、でも学生でも自由意志であり強制できないから行かないのである
強制できないからそうなっている、でも何か強制しなければならないときもある
自由社会とかの弱点もででいる、なぜなら中国では強制できるから日本より対処できたとしている、徹底的に最初からPCR検査して陽性者をあぶりだしたのもそうである
それは強制できるか社会だからそうできたのである

パンデミックの影響で患者が減っている医師が応援に駆け付けるべきである。感染専門医でなくても、基本的な医療知識のある医師や看護師の方が、一般ボランティアよりもはるかに役に立つはずである。

これは賛成である、医師や看護師が不足していないからである


ともかく緊急事態と平時の対応は違ったものとなる、平時だったら自由意志でいいのである、でも緊急事態になると自由意志を言っていたらバタバタと人が死んでも医者でも看護師でもかまわない、危険だからかかわりたくないとか金をもらわないと動かないとなったらどうなるのか?国自体が崩壊してゆくともなる
ただ緊急事態といってもそうした危機感もない、戦争とも違うからである
たいしたことがないとかなっているしそうかもしれない
これは医療体制の問題だというとき医療を一致して対処する、民間の病院でも緊急なのだからコロナウィルス対策として回すとかすることが言われる
それが医師会とか何か厚労省の省益とかでできないことが問題なことは確かなのである

まず医療体制をしっかりしたものとする

そこが医師会とかの利権とか厚労省の省益とかなにか利権でできないとすることが最大の問題なのである

なぜ原発事故が起きたのか?

それを追求してきたがこうした利権団体が国家予算並みの巨額の利権に群がったからである、そのために原子力村が形成されて強力な安全神話は作られた
それはあらゆる利権団体が作り上げたものだったのである
それと同じようなことがコロナウィルスでも起きているのである
つまり危機に対応するにはまず利権だとか金だとか言っていられないのである
そんなことをばかり考えていたら目の前で人が死んでゆくからである
ただそこまでの危機感を国民が感じていない、そこまで危機感をあおるのはやめるべきだということもわかる 

外国とは違うからだとなる、でも医療体制が日本ではウィルスには脆弱だったのである
民間主導でかえってできないものになっていた
その医療体制を見直して備えるべきだというのは確かである
でもそれは遅かったともなっている、緊急事態には速攻が必要になる
じたばたしている内に被害が拡大する、急襲されて全滅するとかまでなる
人間は急激に起きることに弱いのである、そこが弱点なのである
だから民主主義とかみんなの合意とかを計っていたら対応できないのである

それでかえって中国では対応が早かったともなったのである
上からの強制できる社会だからである、それがいいとはならないにしても緊急事態には強力に上からの統制と命令ができるからコロナウィルスには対応できたとなる 
武漢でコロナウィルス対応のプレハブの病床を大量に一挙に作ったのには驚いたからである、日本ではそういうことがしにくいのである、強制できないからそうなる
特措法の法律を決めるとか手続きも必要になるとかめんどうになる
そうしているうちに被害が拡大して手遅れともなる
特に現代社会は複雑に分化しているから統制して命令することがむずかいしからそうなるそれぞれの利権を言っていたら緊急事態に対応できないのである



posted by 天華 at 10:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2021年01月06日

観光に頼ることの危険(コロナウィルスで判明‐グロ−バル化の弊害)


観光に頼ることの危険(コロナウィルスで判明‐グロ−バル化の弊害)


日本から一番近い楽園」グアムが崩壊寸前 新型コロナ禍

referral&utm_campaign=link_back_edit_vb

現代は観光の時代である、グロ−バル化したら世界が観光になった
特に日本は経済が停滞して観光で立て直そうとした
日本が今まで外国人が観光に来なかったのは物価が高いためだった
今は日本は物価が世界と比べて割安になっているのだ
それはヨ−ロッパでもアメリカでも賃金は上がっている、日本だけが上がらないのである日本は韓国より経済が停滞しているのである

でも観光がコロナウィルスで大打撃になった、例えばグアム島は観光で成り立つから
コロナウィルスが蔓延するともう観光が成り立たなくなり危機になる
スペインでも観光業のしめる割合が高いから苦しいと報告している
ギリシャなどはもう観光が頼りである、コロナウィルス前から国が破産するとして騒いでいたから苦しくなる
ギリシャで不思議だったの一面が菜の花であり遺跡も菜の花で埋まっていたことである
そこに羊とかロバがいる、そこは過去の国であり遺跡の国であり産業はないのである
そういう観光頼りの国は苦しくなる

私は人生が旅ともなっていたから旅とか観光に興味がある
ただ旅と観光は違っていると指摘した、旅は今はできないし旅人はいない
観光とは保養でもありギリシャはヨ−ロッパの保養地となっていた
何ら産業がないからそうなっていたのである

このコロナウィルスの影響は世界的であり何を問うたのか?

それはヒト、モノが自由に行き来する、グロ−バル化でも行き来する世界が止められたことである
でももともとこんなに世界を行き来する社会は今までなかったのである
グアム島でももともとそこで観光業などないのである、その島で獲れるもので生活していたのである、それは貧しくてもそうである
それはみんなそうだった、日本だったら江戸時代なら村ごとに自給自足の生活だった
燃料は炭であり回りにあるもので間に合わせていたのである
それしか生活の方法がないからである
外から何かを仕入れるということはまれだったのである

それで不思議なのは山の生活が貧しいというけど飢饉の時は山に逃げるとかあり山に食料があったとなる、また山では稲作だけに頼らないから稗とか粟とか食料になるものがあった、山菜などもありそれでしのいだとなる
米だけを作ると米が不作になると飢饉になった、外国でも後進国ではコーヒーだけに頼るとコーヒーが安くなると生活が苦しくなり餓えるということもある
畑で他の食料を作っていないからそうなる
つまりある地域でバランス良く食料を作っていればそうならないのである
でも商品作物としてコーヒーばかり作っていることは危険なのである
東北でも米が商品作物となり江戸に船で運びそれで飢饉になったとしている
つまり地域でもバランス良く食料を自給していることが必要なのである
何かにかたよると危険になる
第一日本だって工業製品ばかりに頼っているとそれが売れなくなると日本国内に食料を用意していないと外国から買えなくなる

とにかくウィルスは江戸時代でもコレラでも長崎から入り会津まで流行した
交通が不便な時代でも流行したのだからその百倍なのか人が行き来すればもう感染を防げないのである、つまりグロ−バル化とか広域化とかはウィルスには一番弱かったのである福島県では桧枝岐が秘境でありそこがコレラに感染しなかった
そこは米を食べられず蕎麦が主食だった、そしてヤモリの燻製とかを食べていたのであるそういう自給自足経済で隔絶された所はウィルスに感染しないとなっていた
でも現代はどんな場所でも秘境でももうヒトが行くし物流もさけられない、するとどうしても感染してゆくのである
だから人間社会ではいいと思うものが悪いものと作用する、それは常にそうである
石器でも道具でも鉄でも核兵器でも便利なものを作っても大量殺戮兵器となったようにいいものも悪いものとして利用されるのである

ともかくコロナウィルスで見直されるのはグロ−バル経済とか広域経済が必ずしもいいものとはならないことだったのである
もちろん江戸時代にもどれとかにはなれない、でも何か経済でも国内とかでもバランスがいいものとして国土を利用するとかある、自給度を高めるとかある
外国からの輸入にばかり頼ることは危険なのである
外国と交流もできなくなるということがあることを知ったからである
そして中国が発生源であり今でも中国は危険なのである
別なウィルスが発見されたともしているからである

そもそもこのウィルスは何なのか?

これは自然の防衛作用でないか?つまり人間が踏み入ってはならない聖域のような場所でもずかずか入ってゆく、機械で開発してゆく、その暴力的な自然の侵入に対してそのサンクチャリーで防衛反応としてウィルスを出して入らないように防衛する
だからこそウィルスは風土病とされたのである、その土地土地から生まれるのであり
もし交通が発達しなければ拡散されないのである
でもコレラにしても長崎から江戸時代に入ってきて拡散した
そんな時代でもそうなのだから現代はその何万倍なのかわからないけど交流がありもう防ぎようがないのである

要するに人間はタブーを破ってきた歴史がある、もともと神が智慧の実のリンゴを食べるなとか警告していたのに食べた、それでアダムは楽園を追放されたのである
何かタブーを犯すことで災いが生まれた、他にもプロメテウスが火を盗んだという時もそうである、それでゼウスに過酷な罰が与えられた
その人とは原子力でもあったのだ、核を破壊するということはタブーだかそれも破られてこの辺は大惨事になったのである

そしてグロ−バル化の結果として国と国は熾烈な戦争になり何千万も死んだ
だからグロ−バル化はみんないいものとして作用しないのである
江戸時代なら別に韓国とも中国とも争うこともなかったのである
でも今は経済で交流しても敵対する、中国の侵略に怯えるようになったのである
そしてグロ−バル化がいいようでも必ず敵対化して覇権争いになり「経済封鎖」をする
そこから戦争にもなる、日本でもアメリカから経済封鎖されて戦争になったとかある
経済のグロ−バル化がすべていいものとして働かないのである

だから二千年前に老子が説いた小国寡民とか文明否定の思想が実は平和の思想だったともなる,鍬とかまで否定したからである、つまり一見世界的に交わることはいいことだとなる、それが極端に推し進められたの現代である
それがコロナウィルスで止められた、それはもしかしたら神からの作用であり戒めのためだったのかとまでなる
世界を変えねばならないとまでなってしまったからである
posted by 天華 at 11:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2021年01月05日

地理で基本になるのは方角である (地図でで方角を知る方法)


newyearsss1.jpg

地理で基本になるのは方角である

(地図でで方角を知る方法)

directionjp1.jpg

northkyoto1.jpg
地図上で方角がわかる

●東と西の方向

日の沈む国。日本の西にある国の意で、中国をさす。推古天皇15年(607)遣隋使小野妹子の携えた国書にある「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや」による

「東北」という方角の表し方は東洋風(漢字圏)の表し方で、「北東」という方角の表し方は西洋風の表し方です。

そもそも東北というとき北東のことである、北海道は北である
韓国から見て日本海は東海である、東であり日本海から太陽が昇る
日本だと日本海であり太陽は日本海に沈む、この差は本当に大きい
そこで韓国では東海だとして争うことになる
日本と対抗しているから余計にそうなる、日本の海だというのが気にくわないのである
だからこの方角は地理にとって基本である
旅をして一番感じるのが太陽が昇り太陽が沈む方向なのである
それは海を航海するときも太陽が昇り沈む方向で方角を知る

それで旅をして一番不思議に思ったのは太陽が沈む方向だった
それを感じたのは琵琶湖の湖西という地域である、そこは西であり太陽が沈む方向であるでも太陽が昇る方向が東になりそれが関ケ原でありそこを境に東西に分かれるのが日本である
それは歴史的にもそうである、壬申の乱でも東西が分れて争った
その境目が関ケ原にもなる、それで東(あづま)というときそこから東の地域に入るということになる、琵琶湖の滋賀県までは西であり関ケ原を越えると東である
戦国時代だと信長の名古屋城がある、そして琵琶湖の岸に安土城を築いた
それは東(あづま)から西へと京都へとし支配するためである

世界史でも世界の地理でも肝心なのは方角である、なぜなら東西文明に分かれるからである、西洋文明と東洋文明というときそうである、それは基本に方角があり世界史でも分かれる
「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや」とか小野妹子が国書に記したのはまず方角でもって世界の地理を意識して示したのである
それだけ方角が地理の基本だからそうなった、方角でその国の位置を確認していたのである

玉骨はたとえ南山の苔に埋るとも、魂魄は常に北闕の天を望んと思ふ (後醍醐天皇)

太平記の世界から、後醍醐天皇の遺言です。南北朝の戦いで足利尊氏に敗れ、京都から奈良県の吉野へ撤退した後醍醐天皇は、吉野で失意のうちに崩御します。その時の遺言がこれです。「私の身体は南の吉野で白骨になるけど、魂は常に北の京都奪還の執念を持ち続ける」といった大意です

それで南北朝の争いでも方角が意識される、北闕に北に京都があり御所があるからであるそしてイスラム教ではメッカのある地点に向かって礼拝する、方角が大事なのである
偶像を否定しても方角は否定していない、世界のどこにいてもメッカの方角に向かって礼拝している、方角が大事なのは砂漠とか草原の民の遊牧民である
そこでは方向は星で決める、だから三日月と星の旗になる
北斗七星が信仰にもなる、北極星が目印となるからだ
相馬氏の妙見信仰はこの北斗七星なのである、だからこの信仰は大陸から伝わったものである 

●太陽の沈む方向の地名

ともかくこの方角から地理を知ることである、それは実際にその場に立って太陽が昇る方向とまた沈む方向を知ることである、実感することである
それを知るにはいつも住んでいる同じ場所では実感できないのである
だから大坂でも不思議なのは日下とあるとき太陽の沈む方向だとしている
大坂に太陽が沈むというとき普通は山に沈むからイメージできない
でもそこは太陽の沈む方向になっていた  

「長谷(ながたに)の泊瀬(はつせ)」……「春日(はるひ)の滓鹿(かすが)」……「飛鳥(とぶとり)の明日香(あすか)」……の如く、枕詞的に用ひられた修辞句……「日下(ひのした)の草香(くさか)」……があつて、それが地名の訓を獲得してしまったと見るのである。……当地からすれば太陽の出を山麓から仰ぐのであり、大和からすれば……太陽の下る所に当るのである
大坂の日下は大和から見て太陽の沈む方向にあったからその地名がついた
どこを基点にしているかが重要なのである、それで方角が変わってくるからである
だから韓国から見た時、日本海は東海なのである
東の海であり太陽の昇る方向なのである、それで争いにもなる
日本海だと日本の海なのかとなってしまうからである
でもこれは歴史的に日本海なのでありその呼称を変えることはできないのである
ただ世界を知ることでも方角が重要なのである  

明石城があるところに春の太陽が沈み城を赤く染めたのは忘れられない光景であった

明石城夕日に染まり行き来する船の絶えじも難波の栄ゆ(自作)

天離る 鄙の長道ゆ 恋ひ来れば 明石の門より 大和島見ゆ 柿本人麻呂

あそこから淡路島も見えるから淡路島が古事記の神話の国造りの中心になったのも地理的に感じる 

二上山に秋の夕日の映えつ没る姉と弟の山と並びぬ

これもやはり方角が太陽の没る方向に映えた、それは飛鳥の方向から見えたのである

●相馬市の日下石(にっけし)の地名の不思議   

nikkeshi1111.jpg

nikkeshisea1.jpg


地理と歴史は一体化している、それで地歴となった、この地理を知ることは容易ではない地図を見てもたとえ旅しても電車とか車だと必ずしもわからない、坂があっても簡単に越えるしただ早く早く通り過ぎることが多いから印象に残らないのである
本当は歩けば地理を実感できる、でも歩くとなると労力がかかりすぎる
だから私自身は歩く旅はしていない、自転車の旅だったのである

太陽(日)が昇る方向だからということだそうです。
沖縄のほうはもっとダイレクトですよね。太陽が上がる方向だから「アガリ」

日向かしが東(ひがし)の由来だとすれば、
同じ字の地名「日向(ひゅうが)」も同様ですよね。 

日本語のニシは、「去方」(イニシ)の約であろうという。イニが去(イ)
ヌという動詞の名詞形で、シは方向を示すので「日没の方向」の意で西を捉え
た語というわけである。

そして津波で判明したことは日下石が西の方向のことだった
なぜならそれは海から見た時西になっていたのである
私は津浪になったとき海になった所を見た、確かに日下石は海から見れば西なのである
それは海洋民族の感覚である、どうしてもそこが西にはならないからである
船で海を渡ってきた渡来人が名付けた地名だともなる
なぜなら相馬地域に綿津見神社が本当に多いからである、飯館村の山中にもある
それが主な社でありそれは先住民が入ってきた証拠なのである
それは安曇族などの海洋民族なのである、それがこの辺の基礎にある

でも海から見れば海の岸に太陽が沈んでいたから不思議だった
東とは確かに日に向かうということから来ている、でも日の岸ともなり海の岸辺に太陽が昇るともなる、ただそれは今度は山側とか西から見た時そうなる
だから方角地名はどこを基点にするか問題になる
北京から見て南だから南京となり南京から見れば北京なのかとなる
東京は東の京だからである  






大衆は誰かの言っていることを言っているだけ (自分で判断できないーマスコミ、専門家、武田邦彦氏に従うとかなる)


大衆は誰かの言っていることを言っているだけ

(自分で判断できないーマスコミ、専門家、武田邦彦氏に従うとかなる)

小池百合子東京都知事らから再発令の検討を要請された2日後に表明する展開となったことに対し、自民党幹部は「小池氏のパフォーマンスに押し切られたように見える」と指摘

日本人はなぜ野蛮になったのか?──警察権力と女帝・小池都知事の政治【武田邦彦】

このことは武田邦彦氏が盛んに小池百合子氏を批判していた、小池氏の政治はパフォーマンスの政治だとして批判している、常に独断的に禁煙しろとか服装まで口をだしてクールビズだとか恰好いいことを言って命令して実施する
コロナウィルスでも新宿の歓楽街を標的にしたのもそうだという
そこを嫌っているからそうしたとしている
このパフォーマンスは大衆にわかりやすいから受けた、それで知事にもなったし一時緑の党を作り国政を左右しようともした
それは小泉首相もそうだったのである、大衆にわかりやすいように何かフレーズを短いコメントをテレビの前で言い受ける
その内容を深く考える大衆はいないのである
大衆の支持をどうしたら受けるかを常に考えてそうしている

それで国民は馬鹿と指導者は見ているとか言われる、それはマスコミでもテレビでもそうである、馬鹿な大衆を相手にして視聴率をとり自分たちが支配するのだとなる
だからNHKでもこう言ったとかテレビでこう言っているとかが大衆になる
その人は何か意見を言うのだけど主張するのだけどテレビしか見ていないからテレビでこう言っているということをしきりに言うのである
特にNHKがこう言っていることは国民がみんなそう思っているとまでなっている
世論とはマスコミが作り一番影響力があるのがNHKなのである

そもそもなぜそうなるのか?例えば原発にしても科学がわからないからである
それは専門家しかわからないものとなっているからそうなる
科学の時代になるとき科学を知らない者は発言もできない、だから常にその本人の意見などないのである、誰かがどういったとかテレビでこう言っているとかNHKでこう言っている、専門家がこう言っているというこを鵜呑みにしてオウムのように言っているだけである
要するに大衆に何らか独自に意見を言う知識も何もないからそうなる

私自身も原発事故で発言して来たのでもそうだった、科学知識がないし文系だから核についてわからないから追求できないのである
ただ地元だからもう10年間も追求してきたからそれで何か玄人並みになったなと自分自身で意識するようになった、科学の知識がなくても地元の問題だからその原因とかが見えてきたのである、ただ正直他で起きることは理解できないことが多いのである
だから実際はマスコミでテレビでこう言っているNHKでこう言っているとかをオウムのように繰り返ししているだけである、その本人の独自の見識をもって言える人はまれなのである、特にこれだけ複雑で科学の時代になるとそうなる

それでなぜ武田邦彦氏がオピニオンリーダーになっているのか?

それは科学の知識があるそれもかなりの高度な知識があるからなのである
科学全般に対して一流の知識があるから他の科学者でも医者でも対等に話せる
そういう人はなかなかいない、文系の知識もあるから総合的に判断できる

すると今度は武田邦彦氏がこう言っているからこうだとなる、科学的に無知な自分もそうである、科学的なことがわからないからである
でも専門家でも同じ意見ではない、二つに分かれることがある、コロナウィルスは危険だとそうでもない、インフレインザと比べればたいしたことがないとかなる
過度に恐れることはかえって経済を止めて自殺者が出るからやめるべきだとなる
それは放射線の被害でもそうだった、どこまで恐れていいのかわからなかったのである
ただ80才くらいの老人はどうせ死ぬんだからと飯館村でも汚染されたキノコを食べていたし海産物を食べていた人もいたのである
老人には関係ないとして食べていたのである
だからコロナウィルスでも60才以下とかなるとか重症化しない、例外的にいてもそうである、基礎疾患がなければ恐れることはないとなる
すると自粛とかするのはかえって経済を止めるからその影響の方が大きいとなるからやめるべきだとなる 

大衆は誰かがこう言っているからこうすべきだとしかない、科学の専門知識がないからである,放射線被害でもそうだったがコロナウィルスでもはそうである
いろいろ専門家が言ってもわからないし専門家自体も今はわからないものだからである
するとどうして判断するのか?
小池百合子東京都知事を危険をあおりパフォーマンス政治家で大衆を引きつける
それで経済的打撃を受けても知らないとまでなる
でも小池百合子の主導で自民党の菅首相が自粛をさせることにした
それが自民党主導でないのでまずかったと反省もしている

ただ素人でも何にもわからないのか?そこが問題になる
私自身は科学の知識もない、文系だからわからない、でも地元で原発事故が起きたことであり十年を追及して来た結果、その原因が見えてきたとなる
それは地元だからであり時間をかけて追及して来たからである
だからコロナウィルスはまた別なの問題だから違ったものとなる
確かなことはコロナウィルスでも必ず誰かが言っているからこうだとしかないのである
そして自分自身でも何を根拠にしているかとなる武田邦彦氏がこう言っているからとかしかなくなる
でもそうは言ってもいろいろな意見を見識を参考にして考えるようになると違うのであるそこに徐々に研究者のようになり独自の見解を生みそれで独自のものを出すようにもなるのである  
それで編集という作業が創造的なものがあるということにもなる
多様な見識や意見を総合的にみて編集すると何か見えてくるものがある

民主主義社会ではあらゆる人が何かを言うことができる、ところがほんどんどは誰かが言ったことを言っているだけなのである
その人独自のものはないのである、だから最終的に民主主義でもヒットラーのようにナチスとなり全体主義となりファシズムになる、要するに独自の意見見識など関係ない
数がすべてだとなる、それが大衆社会の実体なのである
そこでまともな見識意見をもっていても通じないのである
だからこそ中味のない政治家でも通用する

「小池氏のパフォーマンスに押し切られたように見える」

まさにこれである、小泉首相の時もそうだっから二三言フレーズを言い人気になったからである、それは大衆社会だからこそそうなっている
大衆は独自の見識意見などないからである
それでカルト教団でも数を集めればいいしかない、一票になればいいしかないのである
それはナチスと同じなのである、それはどうにもならないともなる
なぜなら大衆の勢力が圧倒的でありそれに従わせられる、数に従わさせられる
いくら高度な正しい意見でも通らないのである
そしてマスコミではテレビではこうした大衆を相手にして視聴率を稼ぐ、その大衆に合わせるからさらに悪い方向に向かいファシズムにもなる 
多数こそが見識も意見もなくても正義なのである
そしてまともな人間は異端児となりアウトサイダーとなり排斥されるということになる

大衆が一番理解するのは利益になること金になることである、それだったらすぐに理解する、だから原発が金になることで地元でも熱狂したのである
むずかしいことはどうでもいい、金になればいいしかなかったのである
それが大惨事になったのである
大衆は御利益を追求しているだけである、真実を追求したり真理を追求したりしないのである、そこにこそ最大の問題がある、でもそれは変えられない、それでギリシャで哲人が支配する国家を目指したのである
でも理想の社会とか国家はこの世に作れない、それは神が作るものであり天国にしかないとなっているのである
この世は常にバベルの塔の崩壊と混乱で終わっているのである
原発事故でもコロナウィルスでも同じだったのである



posted by 天華 at 11:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2021年01月04日

隣の嫁様が双葉の人だった (世間は広いようで狭いー原発事故から十年)


隣の嫁様が双葉の人だった

(世間は広いようで狭いー原発事故から十年)

私自身は引きこもりてあり交際がほとんどない、でも一人になってはじめて隣の嫁様と話しした
その人は双葉出身だったのである、「ええ、双葉なの」と思った
それで自分の父親が双葉の新山の酒屋で働き暖簾分けしてここに来たことを言った
そのことは前に書いた、葛尾村(かつろう)村から双葉の新山の酒屋に来て丁稚奉公したのである

今でも新山に富沢酒造店がある、それは大きく煉瓦作りの煙突がある
その隣辺りに父親の酒店があった、それも倒産した
何か長塚に銀行があったとか家族が語っていた
当時銀行はめずらしいものだったのである
双葉町はもともと双葉ではない、駅でも長塚駅となっていた
長塚村と新山村があり双葉というのはなかった
そして江戸時代は宿場となっていた、それも長塚村と新山村が交代で参勤交代の接待をしたのである、それは労力でも費用がかかるから分担したのである

それで双葉町が十年過ぎて立ち入りできるようになったので自分も行った
何かそこに出会い橋とかあり石の橋があり富沢酒店もあり不思議だった
ここで父親が働いていたのだなと感慨深いものがあった
父親もこの道を歩いて酒を売った代金をとりに回っていた、その手帳が残っている

その女性と話ししたのははじめてだった、すでに二十年以上とかそれ以上過ぎているのに一度も話ししたことがない、ただ隣の人を子供から知っている
その夫の妻が突然死んだのでそのことでお悔みしたりした
でもその嫁様とは語ったこともなかった
だからはじめて語って双葉の人だということに親近感を覚えたともなる
世間は広いようで狭いというのも確かである

最近向かいの家の人が私が子供の時遊んでいた人が亘理に住んでいるんですよというときも不思議だった、亘理と言えば近いからである
東京に住んでいるとばかり思っていたからである、別にその人とは一度も合っていない、でも亘理に住んでいるとなると電車で仙台に行くとときいつも通るからそこは近いのである、そして最近近くに嫁に来た人は亘理の人だったのである
だから本当にこうしてつながりがあり世間は広いようで狭いというのがわかる

何か不思議なのは私の墓には新地の女性が入っている、その女性は私の父親の前の妻なのである、その写真も遺影も家の奥の方から残っていてでてきたとき不思議だった
ただもうその女性であれ知る人はいないのである
ゆかりの人もいないのである、人間はとにかく死んだ時点で忘れられる、それが早いのである、そして新しい人が次々にでてくる、老人は過去の人となる、死んだ人はたちまち
忘れられる、そして人の縁もはかない、たいがい今なら金の切れ目が縁の切れ目で全部切れたとなる
人間の繋がりでもたちまち切れる、だから無常だとなる
常にあらゆるものが変化して常なきものとなる、この辺は津波や原発事故で余計にそうなったのである
でも昔から人間の世界は無常なのである、変化が激しいのである

ともかく隣の双葉の人の実家でもないという、双葉はもう回復不可能にも見える
また浪江とかでもそうである、みんな他に家を建てて住んで帰ってこないし帰れない
家を建ててそこで生活するとなるともう帰らないのである
もう津波と原発事故から十年過ぎたのである
これは大きな区切りである、30キロ圏内は高速とか医療が今でも無料だけでそれもなくなる、30キロからはずれた地域は半年くらいで補償も打ち切られたのである
その差も大きかったなと思った
でも今度は南相馬市でも国からの援助が十年でなくなる、すると財政的に苦しくなる
復興住宅に住んでいる浪江の人は電気を節約して夜でもつけていないとか言っていた
補償金でももらえる人ともらえない人の差が大きいためだと思う

ともかく津浪原発事故からの十年は区切りである、ただ復興はしていない
避難区域になった所でみんなが住めば復興したとなるがそれが不可能だからである
だから小高などは避難させるべきではなかったとみる
町自体が崩壊したようになったからである、それも復興できなくさせたともなるからだ
これからではこの辺はどうするのか?
それも見えないのである、小高の人や浪江の人や双葉の人でも帰ることをあきらめている人が多いからだ

そしてどうも知っている人は息子夫婦とか妻が仙台に移り仕事をはじめている
それで残された60代の夫が一人でいるらしい
でも実際は女の人がいて世話しているらしい、そこで妻は息子のいる仙台に行ったらしいその辺のことは深くわからないがどうもそうらしい
他でも夫を残して妻が東京の息子夫婦の所に行っているとかも聞いたからである
その人は原町の復興住宅に住んでいる
何かそういう人が多いのである

またフィリンピン人の女性に貢いで補償金を使ってなくなったという人もいた
要するに補償金をもらっても別に町全体の復興に使われたということもないのである
ただ個々人で自由に使ったとなる
だから特徴的なことは家族がばらばらにしたのが原発事故だったともなる
家族が一緒に住めなくなった人たちが多いということである
それが原発事故のカルマであり後遺症だともなる 
ただそれが全部東電のせいだともならない、やはり地元の人にもそうして自堕落になった責任はある、だから他者ばかり責めるのおかしいと言ってきた
それを言うと地元の人たちに嫌われるともなった

もう元の状態にもどることは不可能に見える、それで双葉町に新しく建った原子力災害伝承館というのには被害者の立場で何も陳列するものがないし語るものがないのである
そこには生々しい被害者の声がないのである
だからつまらないなと見てきた
それなら自分が書いてきた追求して来た原発事故のことの方が資料としても自分で言うのもなんだが有益である、それは地元の立場でもいい面と悪い面でも追及して来たからである
それでどうして事故になったのかを地元の立場でも公正に追求して来た
それは今でも追及している、今になり何か見えて来るものもある
それだけこれだけの大事故だと本当に理解するまでに時間がかかるということである
ただ感情的にではなく合理的に解明できる時間が過ぎたことは確かである
冷静に判断できる、それは後世のためになる 

でも原子力伝承館は後世に残すものが希薄なのである
つまり本当の歴史が伝えられていないのである
またマスコミでも伝えない、だからインタ−ネットで個人でも発信できることで私はしてきた、それは歴史的にも真実を伝えるものである
それは地元の人の悪い点も言っている、そこで反発されたとしても真実を追求してきたのである
つまり何が原因だったのかという真実を追及して来たから後世のためになる
推理小説でも真実を知りたいから追及するというのが理由になる
原発事故は世界的にも影響があり真実を伝えるべきなのである
それは世界の問題にもなったからである   

iwakikoku1.jpg

磐城国新山となっている、磐城とつくのが葛尾村のバス停にもあった、磐城落合とあった磐城太田駅でもそうである、ここは古代には磐城国だったからそうなっている
相馬になったのは戦国時代から相馬氏が千葉の方からきて支配するようになったからである

posted by 天華 at 14:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2021年01月03日

日本なのに「餓死」が増えている? データが語る「ヤバすぎる未来」 (生活保護もセーフティネットにならない)


日本なのに「餓死」が増えている? データが語る「ヤバすぎる未来」

(生活保護もセーフティネットにならない)

saftynet111.jpg

失業者が増えても生活保護が受ける人が増えない


 大阪府高石市では、9月に高齢女性が餓死し、同居の息子も衰弱して入院したことが明らかになった。大阪市港区ではマンションの一室で女性2人の遺体が見つかり、司法解剖したところ、2人とも餓死したとみられることが判明した。

 厚生労働省の人口動態調査には、さまざまな死因による死者数が報告されているが、その中で餓死の理由に相当する死因として考えられそうなのが、“栄養失調”と“食糧の不足”である。

こういうことがなぜ起きるのか?食料自体が余っている、ただ金がないから買えないとなり飢え死にまでする
その前に助けを求められないのかというとその頼りとなるのが生活保護である
でも実際は生活保護は簡単に受けられないし最低限の保証もされていないのである
年金4万もらってあとは医療費が無料くらいしか受けられない人もいる
つまりそうなると最低限の生活の保証はされないとなる
もう生活保護も最後のセーフティネットにもなっていない
するとどうなるのか、食べ物を買えない、まともに栄養がとれない、そして衰弱してゆく最悪は餓死してゆくともなる

そして今はもう隣近所でも助け合わない、日常的に貧乏な時はオカズでもやりとりしていたが今はない、するとおにぎり食べたいと言って死んだ人がいたがその人は隣近所に腹減ったから食べ物下さいとは言えないのである
もちろん乞食もいない、物乞いもできない、すると生活保護でも最後のセーフティネットにならないとしたら餓死するのである
それが日本が貧困化すると政府でも自治体でも生活保護を受けさせない、受けさせても最低限の生活を保証しないとなる

おそらく生活保護はこれからもっと厳しくなる、そして国民年金でも6万くらいでありそれでは食費をまかなうのがやっとだとなる、その前に必ず電気、ガス、水道代を払わざるを得ない、そこで毎月必ず止められるのである
そのためにその代金をとりにくる人が委託されたものでありやめたということがある
嫌になってやめたのである、取り立てるのが嫌でやめたというときそういう人が相当数いるからそうなる

生活保護といってももう憲法で保証されたものはもらえないとなる
これからはそういう人が増えてゆく、だから安易に生活保護になればいいやということにはならない、それは期待できない時代になっている
福祉でも高度成長のような時代の時は成り立っていた
私の母親は年金を全く払っていなかった、でも60才から3万くらいもらっていたのである、それであと5年延ばすともっともらえたと悔しがっていたのである
そうして百才まで生きたからである、40年間でも3万はもらっていると大きな金になった、それも全然年金として払っていなかったからである

そういうことができたのは日本が豊かになっていたからである
その差が大きいのである、高度成長時代は貯金でも利子が7パーセントとかであり貯金をしていると倍にすらなったともなる
それが今は全く利子もつかない、それより預金封鎖だとかなんとか金をもっていても紙切れになるとかという不安がある、それは日本の経済がますます落ち目になっているからである、だから老人ばかりふえて福祉にばかり金をかけられなくなったのである

生活保護でも年金でも医療でもそれが成り立っていたのは豊かな時代があったからである第一福祉というときみんなが貧乏になったらできない
だから貧乏な時代は福祉はないのである、乞食になったり餓死したりした人もいた
要するに生活保護ない時代があったのはそれだけの金を出す余裕がない社会だったからである
それと同じようなことがこれから起きて来る、国でも自治体でも金を出さないのである
無い袖はふれないとなるからだ

袖の無い着物では、どうしたって袖を振ることはできないということから、持ち合わせの無いものはどうすることもできないということ。
着物の袖は財布を入れておくところなので、袖が無いのは金が無いということで、金銭的な援助を申し込まれたときや、返済を迫られた場合などに使う。

まさにこうなる、今やなっている

新年から暗い話になるがこれも現実である、生活保護になればいいということをしきりに言うがもうそれもできない、最低限の保証すらない時代になるしなっている
ではどうするのかとなると昔の様な隣近所がオカズでも出し合うとか助け合うしかないとなるかもしれない、それも今はなくなったのだからむずかしいとなるがそうしないと悲惨な人が餓死者が止められなくなるかもしれない、こんなに食料があるのに餓死者が増えて来る、これもおかしいが社会がそういう仕組みになったとき生活保護地なればいいとなっていたときそれがなくなったときそうなるということである

私の年金でも一万くら月に減ったとか厚生年金の人も減らされている、これからも減らされる、年金頼りの人は苦しくなる、年金の仕組みは下の世代が税金をおさめてもらえる仕組みになっている、すると少子高齢化で老人ばかり増えたらその負担が大きくなりどうしても減らすようになる、医療費もすでに減らしている
福祉でも崩壊しかねないのである
ともかく電気、ガス、水道をとめられると生活できなくなる、だから食料を減らしてもそこに金を払わざる得ないのである 

団塊の世代の子供の時は電気代でも裸電球くらいであり水道もない、近くの井戸の水をもらっていた、風呂焚きは仕事だったけど木材屋のあまったいらなくなった木の切れ端、バタなどを新聞紙で燃やしていたのである
洗濯は裏に堀がありそこでしていた、そうしていると確かに金はかからなかった
だから自給自足の農家の方が豊かだったのである、農家では卵も食べられたし納豆でも自家生産していたとか食料があったからである
でも今は電気、ガス、水道がないと生活できない、それで必ず払えなくなり苦しくなるのである 

昔は燃料は薪とか炭であった、だから囲炉裏があった、電気、ガスはなかったのである
その生活は江戸時代のつづきだったのである、江戸時代とほとんど変わらなかったのである、御飯は良く麦御飯だったりした、その時自転車すらまともなものがなかった
それで一台の旧式の自転車をていねいに掃除して使っていたのである
なんでももの大事にしていたのである、家には本は一冊もなかった、勉強する場は学校しかなっかのである
家にあったのは本当に飯台一つだったのである、それは戦後は焼野原になりみんなそうだったのである、物がないのだから農家は自給自足していたから一番豊かだったとなっていたのである

その時金で食料と交換したのではない、金には価値がなかった、着物とかなにか物と交換して農家から食料を得ていたのである
つまりこれからそうなるかもしれない、金は紙切れになる、もともとの価値は物にあるからそうなる、それで金銀でも価値があるとなる、紙幣は紙切れだから価値がなくなる
だから物で貯えていた方がいいともなる、ただ物だと限度がある、でもそういう時代になるかもしれない、物に価値があり一番価値があるのは食料だともなる
いくら金があってもそれは紙切れになるとか言われる、それで都会の金持ちは心配している
そこで農業するのがいいと言っているのである

私の母は戦前に前の夫が事故でなくなり一生食べていける金をもらった
でも戦争になり戦後預金封鎖があり紙切れになった
でも土地を買ったものだけ残ったのである、預金封鎖になれば土地であれ物であれ実物が価値になる、紙幣は本当に紙切れなるだけである

ともかく今になるとそういう経験したのは団塊の世代の上くらいまででありあとは豊かな生活を経験した人たちである、その世代の差も大きい、本当の貧乏を知らない
実は私でも知らない、子供の時は別に食べることはできたから苦しいとも思わなかったからである、それはみんなが貧乏だったから誰かうらやましがるということもないとなる
ただ農家に食料があるからとうらやましがられていたのである
その農家の人を今貧乏である、でもまた逆転するかもしれない、ただ正直農業は簡単にできない、だからこそ耕作放棄地が膨大なのである

今年は経済的にはどうなるのか?コロナウィルスは解消しないだろう
ただすべてが悪くなるとはならない、何でも悪い面といい面が起きてくる
コロナウィルスでも全部が悪く作用していないからである
東京一極集中が終わるいうのもそうである、何かいい方向に変わるのもある
ただどうしてもいい予測はできない、ただ自分自身のバイオリズムとしてはいいようである、最後の人生のまとめとして創作に励む、それが膨大になっているのだ
整理するだけで大変なのである

では良いお年を・・・・


2021年01月02日

新年の短歌ー寒雀の時代?(ヒマラヤの花ーラリグラス)


新年の短歌ー寒雀の時代?(ヒマラヤの花ーラリグラス)

flowerarrenge2021ーnew.jpg
これは500円で安かった

kaenhana123.jpg



寒雀あまた集まり年暮れぬ

我が一人家守りて寒さかな 


霊前にともに映えにき花の色この家栄えむ年の始まる

新年や白菊清楚松の葉にそえて映えにき大和心かな

新しき芽の出でるとめでたきや未来に伸びむ命にあらむ

健やかに今年もあれや松の葉に菊の添えさし我が願うかな

年明くも変わらぬ貧やいかにせむ今年はことに冷えにけるかな

妻亡くし老いも悲しきまた一人なおも生きなむ何を支えに




今年は本当に年の暮も寒かった、寒雀が群れていた、大きな家を守っているのは自分一人である、だからも寒いとなる、家が栄えるとしたら一人では栄えないともなる
この花は束でスーパーで売っていた、500円である、それにしてはいいものだった
なかなか花は買えない、だから一軒花屋が倒産してなくなった
一軒しか花屋がない、フラワーアレンジメントするにも手間なのである
家事をしてまたその他にいろいろすることがむずかしい
ただ今はカメラにこっている、カメラで撮ると何か見えないものが見えてくる
だから今年も写真を撮る訓練する、写真は撮り方によって相当違ったものになる
またこりすぎるとレンズを買うようになると金ががかかるから問題である

日本の心となると何なのか?文化的にはいろいろある、生け花とか庭とかいろいろある
俳句とたか短歌もそうである、これは日本語があって日本がの風土があって作られてきたものだからである
だからおめでとうとは芽が出ることだったのである
新しい芽がでる、それでおめでとうとなる、この感覚は農耕民族だから生まれたのである植物が育ち稲でも米が主食となるからそうなる
遊牧民ではそうならないし麦を主食としていると文化が相当に違ったものになる
大和心と大和魂は違う、本居信長が言っていたのは大和心であり大和魂は吉田松陰が残した辞世の歌で有名になった
でも吉田松陰はアジア征服を目指していた、だからこれは何か戦闘的なのである
もともとは大和心でありそういうものではなかったのである

それでネパールの奥地の村を訪ねた番組は興味深かった、まさにもヒマラヤの奥地に取り残された秘境の村だった、私もトレッキングで3000メートル級のところを歩いて8000メートルの山を見たときは驚嘆した、ただその時曇っていたので良く見えなかったのが残念だった、とにかくもう一度行くしたらヒマラヤを見たいとなる 
この辺でもネパールの女性が働いている、福相で働いている
その女性はどこから来たのだろうとなる

そのヒマラヤの奥地の村では何を食べていたのか?それが自分も行って謎だった
何か食べるものがあるのかと見たからである、そしたら栽培していたのは麦だったのである、米は作っていなかった、寒冷だから作れないとなっていたのだろう
ジャガイモなどは作っていた、それにしてもそういう場所で良く生きれると思った
日本だと江戸時代であり福島県だと桧枝岐のような隔絶した村である
そこでも主食はソバであり米は食べていなかったのである
そもそも米というのはみんなが食べていたわけではない、山では日枝と粟とかを食べていたのである、ただそれが必ずしも貧しい食とはなっていなかった
かえって白米だけを食べていた人が脚気になったのである 

ラリグラス雪おおう高きに咲きて散る雪を踏みつつネパールを知る

ラリグラスとはシャクナゲのことである、ネパールのは赤いシャクナゲであり300メートル級の場所に一面に咲いていた、そこは雪に覆われていた
その雪を踏みしめたときネパールを知るとなる
つまり真っ赤なラリグラスと真っ白な雪のコントラストが美しいとなる
だから外国でもその土地を踏まないと実感できないのである

日本の風土もまたそうである、大和心とはなにか?日本の風土を知らないと理解できない俳句がまさにそうである、季語を理解するには地本の風土を知らなければならないからだだから一年くらい住んでみないとわからないのである
それで外国は一回くらい旅行してもわからないとなる

とにかくこれだけ旅したから思い出すのである、冬は特に冬ごもりであり過去の経験を思い出すことに向いている、ただその時どれだけ記憶しているかが問題になるのだ
時間がたつと全く忘れてしまうからである 

今年はどうなるのか、いいこと言う人はいない、それで去年も寒雀を見た、あまた群れて年も終わった、何か日本はみんいな貧乏になって寒雀になるのか?
コロナウィルスでもそうだが何かもう日本が経済成長することはありえない
それは世界全体でもそうである、資本主義自体が限界にきて行き詰まっているからだ
日本が豊かだったのは過去のことになる、貧乏人が増えている
ぎりぎりで生活している人が増えている、そういう人は必ず電気、ガス、水道代が払えないのである、それでもめているのである
東京辺りだと家賃が払えないとなる

ただそういうなかでも希望はある、コロナウィルスでも全部悪く働くとはならない
いい方面に働くことある、貧乏になっても今度は助け合いが必要になる時代になるというのもそうである、そうしないと暮らしていけなくなるからである
何かわずかのものでもオカズでも互いに隣近所でたしあって助け合うような時代になるともなる
ただ未来はわからない、結局意外なことが起きるから予測できないのである
この辺で起きた津波とか原発事故を見ればわかる、予想した人は一人もいなかったからである、ただ悪いことばかり起きるとも限らない、あれ時代が変わって自分にとっては良かったなともなるかもしれない、それは全部ではない、ある人にとってはいい時代になったともなるからである

団塊の世代はいい時代を生きたのである、別に苦労しなくても才能がなくても時代が高度成長だから成功する人が多かったからである、今はまず成功する人はよほどの才能がないとできないからだ、ただやはりこういうときは才能ある人は有能な人はやはり成功しやすい、高度成長の時代に才能がなくても成功することはないが実力の時代になり有能な人はかえって成功しやすいとなる

何か今私は今までの経験とか創作したことがありそれが膨大なものとなっている
それをまとめる発表することがある、その作業に追われているのである
だから家事があり暇なく何かをしている
自分のしてきたことはライフワークであり継続しているからそうなる
会社員だとライフワークになっていないから退職するとやることがなくなっている
だから若い時カラライフワークをもつべきだとなる、なぜなら人生百年としたら会社をやめても30年から四十年人生があるからだ
これが長寿社会で大きく変わったことなのである  

新年生け花ーこれは見ごたえがある






                        

2021 abstract painting in new year 新年 抽象画


2021 abstract painting in new year

新年 抽象画

omedetou22.jpg

新年おめでとうございます

日本ではおめでとうは芽が出るという意味です
新しい年になり芽がでることでおめでとうになったのです
何か新しい芽がでるのが新年です
新しい時代の芽だ出るということです

Happy New Year

Congratulations in Japan means sprout
Congratulations on the new year and the sprout.
The new year is when something new comes out
It ’s a new era.

cubeearth11.jpg
direction111.jpg


Everyone unites and heads in one direction, that is the power
Even each cell becomes one force and becomes active when heading in one direction.
If that one direction is not decided, the whole power will not come out.
brige2021.jpg


flowerarrenge2021.jpg



kaenhana123.jpg

kyotomonyou11.jpg

kyotomonyou1234.jpg

seadown11.jpg


今年は世界から抽象画にアクセスがあった、20か国くらいからあった
その中で定期的にアクセスがあるのも増えた
このプログはやはり定期的アクセスされることが大事である
一回限りでは認知されていないとなるからだ 
音楽と絵とか写真とか抽象画でもそれは世界的に認められやすいのである
言葉となるとむずかしい、だから詩は翻訳できないのである
そこに言葉の障害があるためである

とにかく抽象画はインタ−ネットでも原画となるのものが膨大だから大量に生産できる
それは絵の才能がなくてもできる、私は全く絵の才能がないからである
それで自分自身でも不思議になるのである

This year, there was access to abstract paintings from around the world, from about 20 countries.
Among them, the number of regular access has increased.
It is important that this program is accessed regularly.
Because it will not be recognized once.
Even music, paintings, photographs, and abstract paintings are easily recognized worldwide.
When it comes to words, it's difficult, so poetry can't be translated.
Because there is a language obstacle there

Anyway, abstract paintings can be mass-produced because there are a huge number of original paintings on the Internet.
It can be done without a talent for painting, because I have no talent for painting at all
That makes me wonder myself.







2021年01月01日

2021新年−丑の年(俳句連作) (水牛の歩みー詩)


2021新年−丑の年(俳句連作)

(水牛の歩みー詩)

newyearbull11.jpg

bullphoto1.jpg

kinga2021.jpg

中国で買ったハンコ

bullyear111.jpg

haikubull1.jpg



あきらめず一すじ貫く丑の年

何事も成果急がず丑の年

丑の年動かぬ石の悟りかな

丑の年年を重ねて実りかな

内よりの力に充ちむ丑の年

丑の年大器晩成事成りぬ

70半ば生きる力や丑の年 

大木の根付き動かず丑の年

老いてなおともに生き丑の年

母の愛なおも深きや丑の年

子を思うなほ母あわれ丑の年

丑の年一歩一歩の歩みかな

何事も短気は損や丑の年

交わりは長くもあらむ丑の年

あせらずに時を待たなむ丑の年

災いも耐えれば過ぎむ丑の年  



水牛の歩み

水牛は重荷追うても
そのことは言わぬ
ただ黙々と歩む
その蹄は大地に食い入り
一歩一歩歩む
暑い日ざしの中を
白砂の眩しい珊瑚の石垣の道
沖縄の屋根低い家
水牛はただ黙々と歩む
そのずっしりとした体に
重荷を受けとめ黙々と歩む
人は騒ぎすぎる
人は解決を急ぎすぎる
人は不満が多すぎる
人はすぐに争いすぎる
人は性急に判断しすぎる
人は待つことを好まぬ
人は早い成功を求めすぎる
人は結果を求めすぎる
人は小さいことにこだわる
人は・・・・・・・
人は・・・・・・・・
水牛の重い体躯は無言の内にたしなめる
一歩一歩水牛は己の道を歩む
そこに惑いはない
地球という悠久の時のなかに
水牛はあせることなく一歩一歩歩む
その力はその角にみなぎり
その瞳は優しく童がその背にのる
水牛は悠々たる大いなるガンジスの流れに
その重い体躯を洗い川にとけこむ
水牛は地球の歳月の長きがごとく
ただ黙々と一歩一歩歩みつづける



丑の年でアクセスがあった、牛の詩では高村光太郎の牛の詩が秀逸でありみんな読んでいる、牛と大地と一体化している、牛の性質に学ぶのは忍耐である
牛の歩みはのろいけど着実に進み成果をもたらす
何か牛年はそういう年になるのかもしれない、牛の年ということは牛はまた反芻する動物である、咀嚼して反芻する、それは良書を何回も読んで深く鑑賞することなどに通じているそこに必ず新たに発見するものがある、古典になればそうである 
この自作の詩を高村光太郎が作ったと誤解していた人がいた
インタ−ネットだと何かそういうことがある

今年は牛にふさわしい年になるかもしれない、これまでは馬の年とかであった、またネズミの年のようでもあった、とにかく外へ外へグロ−バルに移動する
それがコロナウィルスで止められたからである
つまり牛の年は外へ外へグロ−バルに広がるのではなく内面化する世界になる
時代的にもそうなる、コロナウィルスで外に出れないから巣ごもりだとか家で快適に過ごすとかでもライフスタイルが変わるのでもそうである

とにかく戦後70年で時代も大きく変わる、牛の特徴は寡黙であり着実に進むということである、また牛は老年にふさわしいともなる、なぜなら若い時は馬だからである
遠くへ遠くへと疾走する、でも牛はそうではない、その住んでいる場所に定着して深耕する、木のように深く大地に根を張る、牛はまた動かない石でもある
定着して深く掘り下げる、そして反芻するのである
それは老人に向いているのだ、世界はグロ−バル化して交わったがコロナウィルスでそれが止められた、それも時代の変化である
中世のように内面化する時代になったのである

そして経済でもグロ−バル化というのは行き詰まっているし金融資本主義とかで国際資本家に富が吸い上げられているとかなる、グロ−バル化の負の面が暗黒の面が増大してもう正当な活動ができなくなっている    
それは物質の世界と精神の世界の乖離である、これは大都会でも起きている
精神の物質の融合というとき物質に精神性を付与するのが人間である
木でも石でも山でもそこに人間の心と精神と一体化するのである
そういう作業を自分は引きこもりなり故郷でしてきたのである
その詩をまとめて発表したいとなる

それから本当に小川未明の童話の牛女というのも不思議である
そういう女性が本当にいたのである、その女性は50歳の障害者をかかえていても心配しているのである、体つきもまさに牛なのである
体が太っているし頑丈に見えるからである
だから牛女という童話は小川未明が実際にそういう女性がいて作られたのである

今年はコロナウィルス騒ぎがつづくのか、落ち着くのか?

やはり時代が大きく変わり丑年がその契機になるのかもしれない、外へ外へ向かう力が内へ向かうものとして内面化する時代である、それは中世時代への回帰だともなる
日本なら国風文化の再生ともなる、日本は西洋文明でも技術的な面で取り入れても精神的に内面化していないからである
つまり科学技術と物質の世界を取り入れても精神的に内面的には取り入れて成熟させていないからである
だから牛の年はそういう内面化する精神の世界を熟成させるはじまりの時代だともなる
熟成させるというときそれは老人に向いているのである
今まで蓄積したものを深く理解して表現するということである

  深耕易耨     
.
  雨讀頻枕書,天霽出門口。流汗努深耕,易耨。
  
  雨讀 頻りに書を枕にし,
  天霽れれば門口を出づ。
  汗流し努めん深く耕やし,
  易耨(草を刈る)に。  

  
この漢詩は何か本を読む、本を深く理解することに通じている
本の内容を深く理解しなかった、深く耕さなかったともなる、深く耕さないと理解も深まらないのである

今年もプログでさらに励みますのでよろしくお願いします

課題としてこれまで創作したもの、詩などをまとめること、本にしたいと思っています 


高村光太郎の牛の詩について

牛女―小川未明